2007年08月
2007年08月31日
ノラ猫
先日、ラポールの勉強会の帰り道でした。
近くのコンビニに寄ろうと歩いていたところ、
路地裏から白い、痩せ細った猫が飛び出してきました。
以前にも書いたあの猫です。
相変わらずガリガリに痩せていて、目の周りは赤く腫れています。
何度か食べ物をあげていたうちに覚えられたのでしょうか?
それとも食べ物の匂いに敏感なのでしょうか?
その日は走って寄ってきたんです。
以前は随分と遠くから見ているだけだったんですが、
今回はかなり近くにまで寄ってきました。
そして、かわいくも何ともない声で、か細く鳴いていました。
で、たまたま持ち歩いていて食べなかったパンがあったので、それを少しあげたんです。
僕がパンを持っていたことが分かったんでしょうかね?
ノラ猫を増やすことになるとか、衛生面とか、近所迷惑とか、色々と考えるんですが、
やっぱりその痩せ細った姿を見ると「ちょっとぐらいは・・・」と思ってしまいます。
本当は無責任なのかもしれません。
見捨てるのが怖いだけかもしれません。
「良いことをした」という気分がないのは確実です。
食べている姿が可愛らしいというのはあります。
何が大きな要因なのかは自分でも分からない感じですね。
ただ、その猫が仮に丸々と太って健康的だったとしたら
僕は何も食べ物をあげなかったかもしれないと思います。
それは同情なんでしょうか。
憐れみなんでしょうか。
1つ言えるのは、その猫が頑張って生きているということです。
相変わらずガリガリに痩せたままで、何とかして生きているように見えます。
自分の力で生きようとしている。
そして同時に、助けを求めることにも抵抗がないように見えます。
自力で必死で頑張ろうとしているように見える猫が
生きるための1つの手段として食べ物をねだりに来る。
きっと、貰えないことも多いんだろうと思います。
でも、諦めることもなく、貰えないことを非難することもなく、
猫は頑張って生きているようです。
その痩せていながらも、目がギラギラした白い猫からは
何かそういった必死に生きようとする姿勢が感じられるのかもしれません。
そんなとき、僕は何かをしたくなるんだろうと思います。
近くのコンビニに寄ろうと歩いていたところ、
路地裏から白い、痩せ細った猫が飛び出してきました。
以前にも書いたあの猫です。
相変わらずガリガリに痩せていて、目の周りは赤く腫れています。
何度か食べ物をあげていたうちに覚えられたのでしょうか?
それとも食べ物の匂いに敏感なのでしょうか?
その日は走って寄ってきたんです。
以前は随分と遠くから見ているだけだったんですが、
今回はかなり近くにまで寄ってきました。
そして、かわいくも何ともない声で、か細く鳴いていました。
で、たまたま持ち歩いていて食べなかったパンがあったので、それを少しあげたんです。
僕がパンを持っていたことが分かったんでしょうかね?
ノラ猫を増やすことになるとか、衛生面とか、近所迷惑とか、色々と考えるんですが、
やっぱりその痩せ細った姿を見ると「ちょっとぐらいは・・・」と思ってしまいます。
本当は無責任なのかもしれません。
見捨てるのが怖いだけかもしれません。
「良いことをした」という気分がないのは確実です。
食べている姿が可愛らしいというのはあります。
何が大きな要因なのかは自分でも分からない感じですね。
ただ、その猫が仮に丸々と太って健康的だったとしたら
僕は何も食べ物をあげなかったかもしれないと思います。
それは同情なんでしょうか。
憐れみなんでしょうか。
1つ言えるのは、その猫が頑張って生きているということです。
相変わらずガリガリに痩せたままで、何とかして生きているように見えます。
自分の力で生きようとしている。
そして同時に、助けを求めることにも抵抗がないように見えます。
自力で必死で頑張ろうとしているように見える猫が
生きるための1つの手段として食べ物をねだりに来る。
きっと、貰えないことも多いんだろうと思います。
でも、諦めることもなく、貰えないことを非難することもなく、
猫は頑張って生きているようです。
その痩せていながらも、目がギラギラした白い猫からは
何かそういった必死に生きようとする姿勢が感じられるのかもしれません。
そんなとき、僕は何かをしたくなるんだろうと思います。
2007年08月29日
芸術
夏目漱石『草枕』の有名な冒頭部分。
「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。
やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
あれば人でなしの国へ行くばかりだ。
人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」
実に言いえて妙だと思いました。
人は必ずどこかに片寄りを持っているものだと思います。
それが個性なんだろうと。
だからこそ、片寄り方の会わない人というのが出てくる。
自分の片寄り方にこだわっていくと、住みにくい世の中になってしまうのかもしれません。
ただ、それが人の世なんだ、と。
それをどのように受け入れるかということが
過去から色々と考えられてきたように思います。
・・・
「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、
ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。
あるは音楽と彫刻である。
こまかに云えば写さないでもよい。
ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。」
・・・
「世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。
二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。
三十の今日はこう思うている。
――喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。
これを切り放そうとすると身が持てぬ。
片づけようとすれば世が立たぬ。
金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。
恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。
閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。
うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。
……」
このあたりがNLPで言われるリフレーミングだと感じます。
リフレーミングというと悪い出来事を良いように解釈する
ポジティブシンキングのように理解されがちですが、
その本質は少し違うように僕は思います。
物事のポジティブな部分と、ネガティブな部分、そしてニュートラルな部分、
全てを見ることができる視点に立つこと。
高い抽象度から見下ろすという風にも言い換えられますね。
良いことも悪いこともある。裏表のようだ。そう書かれています。
そしてそのことを受け入れられる視点を持つ主人公は画工のようです。
詩であり、画であり、音楽であり、彫刻であるような芸術というのは
多くの場合、現実的な側面から離れ、抽象的な視点に立っていると言えます。
同時に、芸術活動は無意識的な要素が強いとも言えます。
神が降りてくるとか、天から降ってくるとか、自然と手が動くとか、
芸術家のそういった感覚は無意識が強く前面に出て働いている状態と推測できます。
そんな風に無意識と繋がった状態というか、トランスとも言える状態では
現実的な世界、つまり人の世のしがらみからは解き放たれた状態だと思えます。
高い視点に立てていて、現実世界の抽象度から離れている。
それは自分自身としえ安定した状態を感じられる、
とても良い状態だと言えます。
絵画療法や音楽療法の良さの1つはこのあたりにもあるかもしれません。
芸術に触れて世の中から離れた違った視点に立ってみる。
そんなリフレーミングはとても自然で良いものだと思います。
もしかしたら、芸術家というのは現実的な世界に生きづらさを感じる
感受性の鋭さを持っているのかもしれません。
たまには芸術に触れるのも良いものでしょうね。
「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。
やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
あれば人でなしの国へ行くばかりだ。
人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」
実に言いえて妙だと思いました。
人は必ずどこかに片寄りを持っているものだと思います。
それが個性なんだろうと。
だからこそ、片寄り方の会わない人というのが出てくる。
自分の片寄り方にこだわっていくと、住みにくい世の中になってしまうのかもしれません。
ただ、それが人の世なんだ、と。
それをどのように受け入れるかということが
過去から色々と考えられてきたように思います。
・・・
「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、
ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。
あるは音楽と彫刻である。
こまかに云えば写さないでもよい。
ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。」
・・・
「世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。
二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。
三十の今日はこう思うている。
――喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。
これを切り放そうとすると身が持てぬ。
片づけようとすれば世が立たぬ。
金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。
恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。
閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。
うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。
……」
このあたりがNLPで言われるリフレーミングだと感じます。
リフレーミングというと悪い出来事を良いように解釈する
ポジティブシンキングのように理解されがちですが、
その本質は少し違うように僕は思います。
物事のポジティブな部分と、ネガティブな部分、そしてニュートラルな部分、
全てを見ることができる視点に立つこと。
高い抽象度から見下ろすという風にも言い換えられますね。
良いことも悪いこともある。裏表のようだ。そう書かれています。
そしてそのことを受け入れられる視点を持つ主人公は画工のようです。
詩であり、画であり、音楽であり、彫刻であるような芸術というのは
多くの場合、現実的な側面から離れ、抽象的な視点に立っていると言えます。
同時に、芸術活動は無意識的な要素が強いとも言えます。
神が降りてくるとか、天から降ってくるとか、自然と手が動くとか、
芸術家のそういった感覚は無意識が強く前面に出て働いている状態と推測できます。
そんな風に無意識と繋がった状態というか、トランスとも言える状態では
現実的な世界、つまり人の世のしがらみからは解き放たれた状態だと思えます。
高い視点に立てていて、現実世界の抽象度から離れている。
それは自分自身としえ安定した状態を感じられる、
とても良い状態だと言えます。
絵画療法や音楽療法の良さの1つはこのあたりにもあるかもしれません。
芸術に触れて世の中から離れた違った視点に立ってみる。
そんなリフレーミングはとても自然で良いものだと思います。
もしかしたら、芸術家というのは現実的な世界に生きづらさを感じる
感受性の鋭さを持っているのかもしれません。
たまには芸術に触れるのも良いものでしょうね。
2007年08月27日
9月の勉強会
9月の勉強会のお知らせ
勉強会はその時にご参加いただいたメンバーによって
出来上がってくるものが全く違う印象がありますね。
皆さんの相互作用があるのだろうなぁと思います。
まぁ、僕自身も柔軟なスタイルで取り組んでいますが。
8月の勉強会でも6月に引き続き「ラポール」をテーマとして取り上げました。
その場で「もう少し同じテーマで深めてみたい」
というご意見も頂きましたので9月にも取り入れたいと考えています。
内容的にラポールに関して深めることも可能ですし、
それをより実践的なトレーニングとして体験学習することも考えたいと思います。
今回はラポールのスキルトレーニングに加えて、
それと密接な関係にある催眠的な要素も取り入れていきます。
催眠というと怪しい印象があるかもしれませんが、
効果的に人の心に印象付ける文章というのは
少なからず催眠的な要素を含んでいるものです。
今回のテーマでは、そういった相手の心を掴むようなニュアンスを含みます。
ということで9月のテーマは「ラポールと催眠的コミュニケーション」とします。
土曜日の開催ですので、時間は午前9:30〜16:30までの長丁場となります。
「丸一日はちょっと・・・」という方は、午前・午後いずれかのご参加も可能です。
勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
日時: 9月22日(土) 午前の部 9:30〜12:30
午後の部 13:30〜16:30
場所: 四谷地域センター 第2集会室
(東京メトロ丸の内線 新宿御苑前駅 下車徒歩5分 【地図はこちら】)
参加費:当日、会場にてお支払いください。
初めてのご参加の方は、お試し割引きとなります。(ほんのチョットですけど)
【通常のご参加の方】
午前・午後一方のご参加の場合・・・ 5,000円
午前〜午後両方のご参加の場合・・・ 8,000円
【初回のご参加の方】(お試し割引が適用されます)
午前・午後一方のご参加の場合・・・ 4,000円
午前〜午後両方のご参加の場合・・・ 6,500円
テーマ:ラポールと催眠的コミュニケーション
(※催眠術の技術は取り扱いません)
*学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
ラポールという言葉はもともと催眠で使われた言葉です。
その意味において、ラポールに対するより深い部分からの学びとして
催眠の要素を取り入れてみようと考えました。
悪用厳禁ということをご了承の上でご参加いただければと思います。
是非、参加費の元を取る以上の学びをお持ち帰りください。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「備考」欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
また、質問の関しましては、お気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています。
勉強会はその時にご参加いただいたメンバーによって
出来上がってくるものが全く違う印象がありますね。
皆さんの相互作用があるのだろうなぁと思います。
まぁ、僕自身も柔軟なスタイルで取り組んでいますが。
8月の勉強会でも6月に引き続き「ラポール」をテーマとして取り上げました。
その場で「もう少し同じテーマで深めてみたい」
というご意見も頂きましたので9月にも取り入れたいと考えています。
内容的にラポールに関して深めることも可能ですし、
それをより実践的なトレーニングとして体験学習することも考えたいと思います。
今回はラポールのスキルトレーニングに加えて、
それと密接な関係にある催眠的な要素も取り入れていきます。
催眠というと怪しい印象があるかもしれませんが、
効果的に人の心に印象付ける文章というのは
少なからず催眠的な要素を含んでいるものです。
今回のテーマでは、そういった相手の心を掴むようなニュアンスを含みます。
ということで9月のテーマは「ラポールと催眠的コミュニケーション」とします。
土曜日の開催ですので、時間は午前9:30〜16:30までの長丁場となります。
「丸一日はちょっと・・・」という方は、午前・午後いずれかのご参加も可能です。
勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
日時: 9月22日(土) 午前の部 9:30〜12:30
午後の部 13:30〜16:30
場所: 四谷地域センター 第2集会室
(東京メトロ丸の内線 新宿御苑前駅 下車徒歩5分 【地図はこちら】)
参加費:当日、会場にてお支払いください。
初めてのご参加の方は、お試し割引きとなります。(ほんのチョットですけど)
【通常のご参加の方】
午前・午後一方のご参加の場合・・・ 5,000円
午前〜午後両方のご参加の場合・・・ 8,000円
【初回のご参加の方】(お試し割引が適用されます)
午前・午後一方のご参加の場合・・・ 4,000円
午前〜午後両方のご参加の場合・・・ 6,500円
テーマ:ラポールと催眠的コミュニケーション
(※催眠術の技術は取り扱いません)
*学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
ラポールという言葉はもともと催眠で使われた言葉です。
その意味において、ラポールに対するより深い部分からの学びとして
催眠の要素を取り入れてみようと考えました。
悪用厳禁ということをご了承の上でご参加いただければと思います。
是非、参加費の元を取る以上の学びをお持ち帰りください。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「備考」欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
また、質問の関しましては、お気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています。
2007年08月25日
ゆるし
愛とは許すことだと言われます。
過去のトラウマを解消する有効な手段の1つも許すことです。
過去の苦い経験。
そこにまつわる人や巡り合わせを許せるようになったとき
安定した状態になれるということです。
何か嫌なことがあったとき、不快な感情がわいてきます。
それは怒りであったり、悲しみであったり。
おそらく両方がわいてくるようですが、
怒りの対処法というのが非常に大事だと思います。
僕もなかなか怒りを蓄えているようなので、
それを感情のレベルで発散させるのがとても有効だということを実感しています。
体の中から怒りを出してしまうこと。
それによって気持ちを落ち着かせることができるんでしょうね。
その上で自分の頭に残っている残念なことを解決したければ、
冷静に言葉で伝えることになります。
ただ、怒りを解消できると不思議と余裕が出てくるものなんですね。
状況を冷静に見れる。
すると嫌なことに対して寛容な気持ちになれるわけです。
相手のことも考えられるし、自分のことも考えられる。
また周りの環境にも目が行くようになります。
自然とこう思えてくるんです。
「仕方ないな」
それは極めて自然に許せている状態です。
「許す」のではなく「許せる」んです。
この違いは非常に大きいと思います。
「許す」という時点で、それまで許せていない状況が続いていたわけです。
そこから何とか意志の力や思考を使って合理化しようとする行為です。
「まぁ、こんだけやってるんだから許しましょう」と。
「許しましょう」と言いながら不満は解消されていないんです。
スッキリはしていない。
「許そう」とするのは無意識的にわだかまりを抱えながら
意識の力でなかったことに戻そうと努力をしていると言えるんじゃないでしょうか。
要するに無意識的には「まだ許せていない」から「許そう」とするということです。
一方、怒りや不満の感情を感情として発散させることができると
体の中から自然と安定してきて、なぜか無意識的に「許せる」ようになるんです。
例えば、こんな感じです。。
お弁当を買おうとしてレジに並んでいるとしましょう。
2つのレジに対して1列に並んで、空いた方に先頭の人が行く、そんなルール。
自分がちょうど列の先頭になって、どちらかのレジが空くのを待っていたとき
後ろのオジサンが「前、行かないんならオレ行っちゃうよ」と話しかけてきます。
「荷物が多くて大変だから」と言いながら先にレジの後ろに並んじゃったんです。
荷物が多いって、キャスター付の大きなキャリーバックを
持ち上げて抱えていないで地面に置けばいいじゃないかと思ったんですが、
変な顔をしながらこっちをにらんでいたので諦めました。
メンドクサイ。
こんな場所で大声をあげるのも大人げない。
どうせ一人だけだ。
君子危うきに近寄らず、だな。
ムカつくけど仕方ない。
そんな風に合理化するかもしれません。
でもそのまま自分の部屋に帰ってもイライラした感じが残っているわけです。
なんなんだ!あのオッサンは!って、少し落ち着かない感じがある。
自分の中では落ち着きを取り戻して歩いて帰ったつもりでしたが、
やっぱり体の中には何か不満が残っている感じ。
で、怒りを怒りとして感情レベルで発散させる取り組みをします。
そしたらこう思えてくると。
「ま、訳の分からんオジサンだから仕方ない。何かあったんでしょう」って。
周りに振り回されるのは自由な状態ではありません。
ただ、出てきてしまった感情にも立場があるように思います。
それをなかったことにしようとしては少し可哀想なじゃいかと思うんです。
そしてなぜか、その感情を認めて表現させてあげると許せてしまうようなんです。
振り回されなくなるんですね。
面白いもんだなぁと思います。
過去のトラウマを解消する有効な手段の1つも許すことです。
過去の苦い経験。
そこにまつわる人や巡り合わせを許せるようになったとき
安定した状態になれるということです。
何か嫌なことがあったとき、不快な感情がわいてきます。
それは怒りであったり、悲しみであったり。
おそらく両方がわいてくるようですが、
怒りの対処法というのが非常に大事だと思います。
僕もなかなか怒りを蓄えているようなので、
それを感情のレベルで発散させるのがとても有効だということを実感しています。
体の中から怒りを出してしまうこと。
それによって気持ちを落ち着かせることができるんでしょうね。
その上で自分の頭に残っている残念なことを解決したければ、
冷静に言葉で伝えることになります。
ただ、怒りを解消できると不思議と余裕が出てくるものなんですね。
状況を冷静に見れる。
すると嫌なことに対して寛容な気持ちになれるわけです。
相手のことも考えられるし、自分のことも考えられる。
また周りの環境にも目が行くようになります。
自然とこう思えてくるんです。
「仕方ないな」
それは極めて自然に許せている状態です。
「許す」のではなく「許せる」んです。
この違いは非常に大きいと思います。
「許す」という時点で、それまで許せていない状況が続いていたわけです。
そこから何とか意志の力や思考を使って合理化しようとする行為です。
「まぁ、こんだけやってるんだから許しましょう」と。
「許しましょう」と言いながら不満は解消されていないんです。
スッキリはしていない。
「許そう」とするのは無意識的にわだかまりを抱えながら
意識の力でなかったことに戻そうと努力をしていると言えるんじゃないでしょうか。
要するに無意識的には「まだ許せていない」から「許そう」とするということです。
一方、怒りや不満の感情を感情として発散させることができると
体の中から自然と安定してきて、なぜか無意識的に「許せる」ようになるんです。
例えば、こんな感じです。。
お弁当を買おうとしてレジに並んでいるとしましょう。
2つのレジに対して1列に並んで、空いた方に先頭の人が行く、そんなルール。
自分がちょうど列の先頭になって、どちらかのレジが空くのを待っていたとき
後ろのオジサンが「前、行かないんならオレ行っちゃうよ」と話しかけてきます。
「荷物が多くて大変だから」と言いながら先にレジの後ろに並んじゃったんです。
荷物が多いって、キャスター付の大きなキャリーバックを
持ち上げて抱えていないで地面に置けばいいじゃないかと思ったんですが、
変な顔をしながらこっちをにらんでいたので諦めました。
メンドクサイ。
こんな場所で大声をあげるのも大人げない。
どうせ一人だけだ。
君子危うきに近寄らず、だな。
ムカつくけど仕方ない。
そんな風に合理化するかもしれません。
でもそのまま自分の部屋に帰ってもイライラした感じが残っているわけです。
なんなんだ!あのオッサンは!って、少し落ち着かない感じがある。
自分の中では落ち着きを取り戻して歩いて帰ったつもりでしたが、
やっぱり体の中には何か不満が残っている感じ。
で、怒りを怒りとして感情レベルで発散させる取り組みをします。
そしたらこう思えてくると。
「ま、訳の分からんオジサンだから仕方ない。何かあったんでしょう」って。
周りに振り回されるのは自由な状態ではありません。
ただ、出てきてしまった感情にも立場があるように思います。
それをなかったことにしようとしては少し可哀想なじゃいかと思うんです。
そしてなぜか、その感情を認めて表現させてあげると許せてしまうようなんです。
振り回されなくなるんですね。
面白いもんだなぁと思います。
2007年08月23日
気持ちを込めて伝える
新宿の紀伊国屋に行くと、目の前の信号のところで良く献血の募集をしています。
一生懸命に大きな声で呼びかけをしている姿を見かけますが、
その呼びかけの仕方は人それぞれで随分と違いますね。
つい先日見かけた若い男性は、なんだか携帯電話の販売や
インターネット接続サービスの勧誘で耳にするような呼びかけの仕方でした。
全く気持ちが込められていないんです。
「困っていまーす」なんて言いながら、本人は全く困っていないわけです。
彼が一番困っているのは炎天下の暑さだっただろうと思います。
こういう言い方をすると携帯の販売員やネットの勧誘の人達が
気持ちを込めずに話しているように聞こえるかもしれませんが、
まぁ多くの場合、アルバイトでやっている呼びかけの内容に
気持ちを込めて話ができるということはほとんど無いように思います。
居酒屋の呼び込みであれば元気があることが優先されるのでしょうが、
そういう声を聞くと、元気があって活発な店内の様子も想像するかもしれません。
携帯の販売員などであれば、その主要な目的は
呼びかけの内容を聞かせることですら無いのではないかと思います。
ただ、『何かのキャンペーンをやっているのかな?』と興味を引かせること。
携帯もインターネットの接続サービスも、
求めている人がやってくるという前提がありますから、
呼びかけの内容を聞いて欲しい気にさせるところまでは要求されないのでしょうね。
決まったセリフをテープのように繰り返していてもバイトの役割は十分だと思うんです。
ところが、献血となると事情が少し違います。
『あぁ、献血やってるんだな』って知ってもらうだけで良いのなら
どんな呼びかけであれ声を出しながら看板を持って立っていればいいでしょうが、
呼びかけによって来てもらいたいのだとすると伝えるものが異なるわけです。
『最近ずーっと献血したかったんだ、丁度いい!』って人は滅多にいないでしょうから
献血のことは頭の中にほとんど無かった人達に対して
『時間もあるし、困っているんだったら献血するか』
という風に思ってもらうことが目的じゃないかと想像します。
すると決まったセリフを販売員のように、明るい言い方で繰り返していたのでは
あまり印象が良くないだろうと思います。
感情が載っていない言葉は、すぐには人の心に届きませんね。
気持ちを載せて伝えるというのはプレゼンやスピーチで非常に重要な要素ですが、
それ以外にも、自分の意見を伝えるという場面ではとても大切だと思うんです。
コールドリーディングでもそうだと思います。
街角の占い師が本を調べながら情報を読み聞かせてくれるだけよりも、
水晶玉を見ながら自信満々で伝えてくれたほうが説得力があるんじゃないでしょうか。
守護霊がいるとか、見えるとか、そういった話は置いておくとして
メッセージの伝え方が優しい雰囲気に満ちあふれていれば、
言われた方としてはきっと嬉しいだろうと思うんです。
自信を込めて伝える。
相手を大切に思う気持ちを込めながら伝える。
「これから良くなりますよ」ということでも、
『良かったですね、安心して下さい』という気持ちで伝える。
そういうことで信頼感は随分と違ってくると思います。
占い師は自分のことを主役にしてくれるから心を開き、
信頼して自分の話を勝手にし始めるという要素が大きいわけです。
お客様が主役になれるように気持ちを込めて伝えてくれる占い師は
きっと人気があるんじゃないでしょうか。
一生懸命に大きな声で呼びかけをしている姿を見かけますが、
その呼びかけの仕方は人それぞれで随分と違いますね。
つい先日見かけた若い男性は、なんだか携帯電話の販売や
インターネット接続サービスの勧誘で耳にするような呼びかけの仕方でした。
全く気持ちが込められていないんです。
「困っていまーす」なんて言いながら、本人は全く困っていないわけです。
彼が一番困っているのは炎天下の暑さだっただろうと思います。
こういう言い方をすると携帯の販売員やネットの勧誘の人達が
気持ちを込めずに話しているように聞こえるかもしれませんが、
まぁ多くの場合、アルバイトでやっている呼びかけの内容に
気持ちを込めて話ができるということはほとんど無いように思います。
居酒屋の呼び込みであれば元気があることが優先されるのでしょうが、
そういう声を聞くと、元気があって活発な店内の様子も想像するかもしれません。
携帯の販売員などであれば、その主要な目的は
呼びかけの内容を聞かせることですら無いのではないかと思います。
ただ、『何かのキャンペーンをやっているのかな?』と興味を引かせること。
携帯もインターネットの接続サービスも、
求めている人がやってくるという前提がありますから、
呼びかけの内容を聞いて欲しい気にさせるところまでは要求されないのでしょうね。
決まったセリフをテープのように繰り返していてもバイトの役割は十分だと思うんです。
ところが、献血となると事情が少し違います。
『あぁ、献血やってるんだな』って知ってもらうだけで良いのなら
どんな呼びかけであれ声を出しながら看板を持って立っていればいいでしょうが、
呼びかけによって来てもらいたいのだとすると伝えるものが異なるわけです。
『最近ずーっと献血したかったんだ、丁度いい!』って人は滅多にいないでしょうから
献血のことは頭の中にほとんど無かった人達に対して
『時間もあるし、困っているんだったら献血するか』
という風に思ってもらうことが目的じゃないかと想像します。
すると決まったセリフを販売員のように、明るい言い方で繰り返していたのでは
あまり印象が良くないだろうと思います。
感情が載っていない言葉は、すぐには人の心に届きませんね。
気持ちを載せて伝えるというのはプレゼンやスピーチで非常に重要な要素ですが、
それ以外にも、自分の意見を伝えるという場面ではとても大切だと思うんです。
コールドリーディングでもそうだと思います。
街角の占い師が本を調べながら情報を読み聞かせてくれるだけよりも、
水晶玉を見ながら自信満々で伝えてくれたほうが説得力があるんじゃないでしょうか。
守護霊がいるとか、見えるとか、そういった話は置いておくとして
メッセージの伝え方が優しい雰囲気に満ちあふれていれば、
言われた方としてはきっと嬉しいだろうと思うんです。
自信を込めて伝える。
相手を大切に思う気持ちを込めながら伝える。
「これから良くなりますよ」ということでも、
『良かったですね、安心して下さい』という気持ちで伝える。
そういうことで信頼感は随分と違ってくると思います。
占い師は自分のことを主役にしてくれるから心を開き、
信頼して自分の話を勝手にし始めるという要素が大きいわけです。
お客様が主役になれるように気持ちを込めて伝えてくれる占い師は
きっと人気があるんじゃないでしょうか。
2007年08月22日
おすすめビデオ教材
亀田ブックサービスというところが心理療法分野のビデオ教材を販売していますが
その中にNLPのシリーズがあります。
一部はマーケティングトルネードのホームページからも
気軽に購入できるようになっているようですね。
で、そのNLPのビデオシリーズは1995年に日本で開催された
NLPのワークショップの模様や、実際のセッションの模様を収録し、
それに講師が解説を加えるスタイルになっているんですが、
このシリーズに一本、他とはレベルの違う教材があります。
全体的になかなか古い内容ですけど、NLPを学んでいる方にも
NLPって何だ?っていう方にも参考になるシリーズだと思います。
ワークショップが畳の部屋で座布団を敷いて行われていたり、
登場するクライアントやワークショップ参加者の服装が
『東京ラブストーリー』みたいな感じだったり、
講師がダルダルのTシャツで無精ヒゲだったり、
ツッコミどころ満載のビデオだって所も楽しめるポイントかもしれません。
デモは外国人のトレーナーと日本人の先生によって行われます。
日本語の解説を入れる先生は大学の先生ですから、専門用語が多く、
いかにも大学の講義のように小難しい話し方ではありますが
色々な説明の仕方を聞くというのは勉強になるものですね。
シリーズの大半は、その日本語で解説を入れる講師が中心になって進められますが、
そのオススメの一本では、収録されたセッションで違うセラピストが出てくるんです。
解説は例の大学の先生ですが、見所はそのセラピストです。
そのビデオは『ビジュアル・スクウァッシュ−NLPシリーズ第二巻−』。
どこを探しても、そのセラピストが誰なのか、一体どこで何をしている人なのか、
そんなことは全く分からないわけですが、腕の良いセラピストのように見えます。
おそらく米国あたりでトレーニングを積んで、
クライアントとの実践的な関わりを多く持たれた方だろうと推測しています。
相づちに英語が混ざってしまうのがチョット面白いです。
「OK!」ぐらいならともかく、「Rihgt!」は日本人には違和感ありますね。
そういったところを気にしないと、相当に素晴らしい関わり方をしているんです。
素晴らしいタイミングで的確な言葉がけをしていて参考になります。
講師は処方の内容を説明するばかりですが、
僕の目からするとそのセラピストのクライアントへの関わり方が素晴らしいです。
で、ビックリしてしまったというか、気持ち悪くすらもあったんですが、
その言葉の使い方が僕に似ているんですね。
だからこそ、僕にとって参考になる要素も大きいんですが、
それ以上に言葉の選び方が似すぎていて気持ち悪いんです。
自分のビデオなら自分だって分かっているので慣れていますが、
自分じゃない人が自分と同じような言葉を使うのは違和感があるものですね。
もしかすると、教わっている先生を辿っていった時に
どこかでぶつかるのかもしれない、と思いました。
それぐらいに、僕が意識的にやろうとしていることを
その人は自然としていましたし、また僕が無意識的に使っている言葉がけを
その人もまた自然とやっていたってことです。
とても勉強になったんですが、なんだか不思議な気分でした。
10年以上前のビデオですから、僕が知らないだけで
今では有名な心理療法家になられているのかもしれません。
大先輩に対して失礼な意見になっていないことを祈っています。
その中にNLPのシリーズがあります。
一部はマーケティングトルネードのホームページからも
気軽に購入できるようになっているようですね。
で、そのNLPのビデオシリーズは1995年に日本で開催された
NLPのワークショップの模様や、実際のセッションの模様を収録し、
それに講師が解説を加えるスタイルになっているんですが、
このシリーズに一本、他とはレベルの違う教材があります。
全体的になかなか古い内容ですけど、NLPを学んでいる方にも
NLPって何だ?っていう方にも参考になるシリーズだと思います。
ワークショップが畳の部屋で座布団を敷いて行われていたり、
登場するクライアントやワークショップ参加者の服装が
『東京ラブストーリー』みたいな感じだったり、
講師がダルダルのTシャツで無精ヒゲだったり、
ツッコミどころ満載のビデオだって所も楽しめるポイントかもしれません。
デモは外国人のトレーナーと日本人の先生によって行われます。
日本語の解説を入れる先生は大学の先生ですから、専門用語が多く、
いかにも大学の講義のように小難しい話し方ではありますが
色々な説明の仕方を聞くというのは勉強になるものですね。
シリーズの大半は、その日本語で解説を入れる講師が中心になって進められますが、
そのオススメの一本では、収録されたセッションで違うセラピストが出てくるんです。
解説は例の大学の先生ですが、見所はそのセラピストです。
そのビデオは『ビジュアル・スクウァッシュ−NLPシリーズ第二巻−』。
どこを探しても、そのセラピストが誰なのか、一体どこで何をしている人なのか、
そんなことは全く分からないわけですが、腕の良いセラピストのように見えます。
おそらく米国あたりでトレーニングを積んで、
クライアントとの実践的な関わりを多く持たれた方だろうと推測しています。
相づちに英語が混ざってしまうのがチョット面白いです。
「OK!」ぐらいならともかく、「Rihgt!」は日本人には違和感ありますね。
そういったところを気にしないと、相当に素晴らしい関わり方をしているんです。
素晴らしいタイミングで的確な言葉がけをしていて参考になります。
講師は処方の内容を説明するばかりですが、
僕の目からするとそのセラピストのクライアントへの関わり方が素晴らしいです。
で、ビックリしてしまったというか、気持ち悪くすらもあったんですが、
その言葉の使い方が僕に似ているんですね。
だからこそ、僕にとって参考になる要素も大きいんですが、
それ以上に言葉の選び方が似すぎていて気持ち悪いんです。
自分のビデオなら自分だって分かっているので慣れていますが、
自分じゃない人が自分と同じような言葉を使うのは違和感があるものですね。
もしかすると、教わっている先生を辿っていった時に
どこかでぶつかるのかもしれない、と思いました。
それぐらいに、僕が意識的にやろうとしていることを
その人は自然としていましたし、また僕が無意識的に使っている言葉がけを
その人もまた自然とやっていたってことです。
とても勉強になったんですが、なんだか不思議な気分でした。
10年以上前のビデオですから、僕が知らないだけで
今では有名な心理療法家になられているのかもしれません。
大先輩に対して失礼な意見になっていないことを祈っています。
2007年08月21日
実感できること
ラポール形成のためのテクニックとして有名なミラーリング。
相手の動きや仕草をそっくり鏡に写したように真似をする、というヤツですね。
個人的な意見としては、ミラーリングにはもっと効果的な使い方があると思いますが、
実際にラポール形成の目的でやってみても十分な効果が得られるようです。
面と向かって相手の真似をしていたら、さすがに気づかれて
相手が不愉快な思いをすることもあるでしょうけど、
少し離れた相手に対してやってみると効果的だと言われます。
コールドリーディングでは直接にミラーリングを扱うことはないかもしれませんが
サブリミナルテクニックとしての意味合いでは
対角線上の席(はす向かい)に座っている相手に対して行うと
非常に有効だと考えられます。
それは真正面じゃない席ということで、視野の中心から離れ
周辺視野で捉えられることによるものと考えられます。
周辺視野の情報は無意識的に処理されることが大半だからです。
無意識的にミラーリングの効果が伝わりやすいということですね。
そのように無意識に働きかけるテクニックというのは
通常、無意識によって起こっている現象を意識的にやってやるという
逆転の発想によるものなわけです。
ある状況では自然とやってしまう行動を
逆に意識的にやってやることによって、その状況になりやすくする、ということです。
その視点で考えると、ミラーリングというのは本当に有効なんだろうと思います。
セミナーをやっていると、ラポールが形成されてくるにつれて
受講生同士で自然と同じ形をとってくるようになるんです。
これは講師として冷静な立場で見ていると面白いぐらいに起こってきます。
喫茶店のカップルが同じ姿勢で向き合ってる程度とはワケが違います。
もう見事なくらい鏡写しです。
しかも本人達はそのことに全く気づいていないんです。
見てて思わず笑ってしまうほどです。
これだけ無意識的にとってしまう行動であれば
上手く使いこなせれば有効なのだろうと思います。
ただ、セミナーをやる側としては、受講生同士のラポールを判断する基準として
皆さんがどんな姿勢をとっているかっていうのも興味津々です。
一体感が出てくれたら嬉しいですから。
日常生活でも、様々な場面でラポールができているかどうかの判断に
ミラーリングを意識してみると面白いかなと思います。
ちなみに、僕の実家の犬は僕と同じ格好で寝ていたりします。
犬とも無意識では繋がってるんでしょうかね。
相手の動きや仕草をそっくり鏡に写したように真似をする、というヤツですね。
個人的な意見としては、ミラーリングにはもっと効果的な使い方があると思いますが、
実際にラポール形成の目的でやってみても十分な効果が得られるようです。
面と向かって相手の真似をしていたら、さすがに気づかれて
相手が不愉快な思いをすることもあるでしょうけど、
少し離れた相手に対してやってみると効果的だと言われます。
コールドリーディングでは直接にミラーリングを扱うことはないかもしれませんが
サブリミナルテクニックとしての意味合いでは
対角線上の席(はす向かい)に座っている相手に対して行うと
非常に有効だと考えられます。
それは真正面じゃない席ということで、視野の中心から離れ
周辺視野で捉えられることによるものと考えられます。
周辺視野の情報は無意識的に処理されることが大半だからです。
無意識的にミラーリングの効果が伝わりやすいということですね。
そのように無意識に働きかけるテクニックというのは
通常、無意識によって起こっている現象を意識的にやってやるという
逆転の発想によるものなわけです。
ある状況では自然とやってしまう行動を
逆に意識的にやってやることによって、その状況になりやすくする、ということです。
その視点で考えると、ミラーリングというのは本当に有効なんだろうと思います。
セミナーをやっていると、ラポールが形成されてくるにつれて
受講生同士で自然と同じ形をとってくるようになるんです。
これは講師として冷静な立場で見ていると面白いぐらいに起こってきます。
喫茶店のカップルが同じ姿勢で向き合ってる程度とはワケが違います。
もう見事なくらい鏡写しです。
しかも本人達はそのことに全く気づいていないんです。
見てて思わず笑ってしまうほどです。
これだけ無意識的にとってしまう行動であれば
上手く使いこなせれば有効なのだろうと思います。
ただ、セミナーをやる側としては、受講生同士のラポールを判断する基準として
皆さんがどんな姿勢をとっているかっていうのも興味津々です。
一体感が出てくれたら嬉しいですから。
日常生活でも、様々な場面でラポールができているかどうかの判断に
ミラーリングを意識してみると面白いかなと思います。
ちなみに、僕の実家の犬は僕と同じ格好で寝ていたりします。
犬とも無意識では繋がってるんでしょうかね。
2007年08月19日
喜怒哀楽
感情を表す言葉として「喜怒哀楽」という表現が良く使われます。
それぞれを表現しようとすると、怒りと悲しみと喜びの違いは分かりやすいものの、
喜んでいる状態と楽しんでいる状態の違いが分かりにくいということが良くあります。
2つは似ていると思われるようですね。
ところが、よく感覚として吟味してみると、
体の中に起こっている反応の感じ方としては、
怒りと悲しみにも共通点があると僕は思うんです。
もちろん激しい怒りと大きな悲しみでは全く違うと感じられるから
「怒りと悲しみの違いは分かりやすい」と言われるわけですけど。
ただ、感覚として注意を向けてみると意外と似ている部分もあるかな、と思います。
静かな怒りが自分に向かっている状態。
「なぜ自分はこうなんだろう・・・?」と自分を責めるような。
それは悲しみでもあるのかもしれません。
怒りと悲しみは表裏一体なのではないかと思います。
怒りで悲しみにフタをする人。
悲しみで怒りにフタをする人。
・・・一般には怒りが先に出ることが多いようですが。
喜怒哀楽ということを凄くシンプルに考えると、
望ましい感情と望ましくない感情、あるいは快の感情と不快の感情、
ポジティブとネガティブ、そんな2種類に分類できるのかもしれません。
脳内の神経伝達物質の関連で、快の状態と、逆に不快の状態で
似た刺激が出されるということもあると考えられます。
快ではない刺激ということになる怒りと悲しみは
どちらかに片寄って処理されてしまったりすることもあるのかもしれませんね。
怒りも悲しみもネガティブな感情と思われますが、
ネガティブがあるからポジティブがあるわけですから
どちがも大切に扱える必要がありそうです。
ちなみに『北斗の拳』の主人公・ケンシロウは、
怒りをパワーに換えて敵と戦い、悲しみを背負っているタイプですね。
それぞれを表現しようとすると、怒りと悲しみと喜びの違いは分かりやすいものの、
喜んでいる状態と楽しんでいる状態の違いが分かりにくいということが良くあります。
2つは似ていると思われるようですね。
ところが、よく感覚として吟味してみると、
体の中に起こっている反応の感じ方としては、
怒りと悲しみにも共通点があると僕は思うんです。
もちろん激しい怒りと大きな悲しみでは全く違うと感じられるから
「怒りと悲しみの違いは分かりやすい」と言われるわけですけど。
ただ、感覚として注意を向けてみると意外と似ている部分もあるかな、と思います。
静かな怒りが自分に向かっている状態。
「なぜ自分はこうなんだろう・・・?」と自分を責めるような。
それは悲しみでもあるのかもしれません。
怒りと悲しみは表裏一体なのではないかと思います。
怒りで悲しみにフタをする人。
悲しみで怒りにフタをする人。
・・・一般には怒りが先に出ることが多いようですが。
喜怒哀楽ということを凄くシンプルに考えると、
望ましい感情と望ましくない感情、あるいは快の感情と不快の感情、
ポジティブとネガティブ、そんな2種類に分類できるのかもしれません。
脳内の神経伝達物質の関連で、快の状態と、逆に不快の状態で
似た刺激が出されるということもあると考えられます。
快ではない刺激ということになる怒りと悲しみは
どちらかに片寄って処理されてしまったりすることもあるのかもしれませんね。
怒りも悲しみもネガティブな感情と思われますが、
ネガティブがあるからポジティブがあるわけですから
どちがも大切に扱える必要がありそうです。
ちなみに『北斗の拳』の主人公・ケンシロウは、
怒りをパワーに換えて敵と戦い、悲しみを背負っているタイプですね。
2007年08月18日
どうして好きだったのか
パチンコやパチスロの影響もあるのかもしれませんが、近年
一昔前のヒーローが復活していますね。
特に『北斗の拳』は大人気のようで。
個人的な話ですが、僕は『北斗の拳』ではトキが好きです。
主人公ケンシロウの(義理の)兄にあたるトキ。
優しくて強いのに自己犠牲的なところが。
最近は悲しみを背負いながら、なお生きることを選び続けた
主人公のケンシロウのカッコ良さが分かるようになってきたわけですが。
で、僕がいつからトキが好きだったかなと思い返すと、
それほど昔ではないかもしれないんですね、どうやら。
意外とマンガ好きでしたから、単行本で集めていたりもしてたんですが
『北斗の拳』はいつの間にか、途中で集めるのをやめていたんです。
それで、ある程度たってから残りを買い揃えた時期があります。
その時に初めて、しっかりと『北斗の拳』を読んだと思うので
トキをカッコイイと思ったのも、もしかするとその時なのかもしれません。
もちろん、ジャンプで読んでいた頃も好きだったとは思いますけど。
そういったことを考えると、明らかに僕がずっと好きだったと自覚できるのは
なんと言ってもやっぱり『キン肉マン』なんです。
好きなのも主人公のキン肉マン。
確かに当時はキン肉マンのブームでしたし、
キン肉マン消しゴム、略してキン消しも大ブームでした。
鉛筆の字は全く消えないので単なるゴム人形なんですが、
「キン消し」と呼ばれてましたね。
僕も持っていました。
懐かしいです。
テレビアニメでもやっていましたし、映画もやっていて
今の『ポケモン』とか、一昔前の『ドラゴンボール』くらいの人気でしょうか。
・・・そういえばキン肉マンもケンシロウも同じ声でしたね。
どちらも大人気だったと思います。
少し話が逸れましたが、そんな大人気のマンガですから
きっと当時の小・中学生には色々と影響があったと思うんです。
誰もがキン肉マンが好きで、ケンシロウが好き。
そういう一面もあったと思います。
ただ、今現在、自分の過去を振り返ったときに
自分が一番好きだったマンガやテレビ番組の登場人物は誰かと考えると、
それは必ずしもケンシロウやキン肉マンではないんじゃないでしょうか?
やっぱり自分の心に深く残っているマンガやテレビの登場人物というのは
その人の個性と密接に関わっていると思えるわけです。
その人の信念や価値観を作り上げるのにも関わるほどに。
人によっては主人公よりも脇役が好きだった方もいるでしょう。
あまり人気がなく、有名ではないマンガが好きな方もいるでしょう。
どういった登場人物(人物じゃない方もいるかもしれませんが)が
好きだったかということは、もしかすると自分と重ねあわせるように見ていたか、
ということと関わる部分があるのかもしれません。
逆に自分には無いものに、あこがれていたこともあるかもしれません。
いずれにせよ、自分の個性と密接に関わっているとは思います。
なんとなく好きだったマンガを読んでいて、いつのまにか
その登場人物のキャラクターから信念や価値観を身につける、
という可能性も考えられます。
でも僕自身の解釈としては、生まれながらにもったものか、
それとも生育過程で身につけたものか、どちらかは分かりませんが、
その人が個性として持っている信念や価値観に響くキャラクターと出会ったときに
その登場人物を好きになるケースの方が多いんじゃないかと考えています。
なんとなくその登場人物にひかれるという時点で、
少なくとも感情移入するだけの何かがそこにあったと思えるわけです。
自分に無いものにあこがれる心理と、自分の個性と結びつけるという心理は
対極にあるようですが、対極にある心理作用は意外と近いものを持っているものです。
そんなことを考えると、僕の中でキン肉マンを好きだった部分、
それが自分の価値観と密接に絡んでいると思えてきますね。
僕がキン肉マンを好きだったのは、
・絶対に、あきらめないところ
・お人よしなぐらいに優しいところ
・人を楽しませようとしているところ
・「心に愛がなければスーパーヒーローじゃないのさ」
というところ。
意外と納得です。
一昔前のヒーローが復活していますね。
特に『北斗の拳』は大人気のようで。
個人的な話ですが、僕は『北斗の拳』ではトキが好きです。
主人公ケンシロウの(義理の)兄にあたるトキ。
優しくて強いのに自己犠牲的なところが。
最近は悲しみを背負いながら、なお生きることを選び続けた
主人公のケンシロウのカッコ良さが分かるようになってきたわけですが。
で、僕がいつからトキが好きだったかなと思い返すと、
それほど昔ではないかもしれないんですね、どうやら。
意外とマンガ好きでしたから、単行本で集めていたりもしてたんですが
『北斗の拳』はいつの間にか、途中で集めるのをやめていたんです。
それで、ある程度たってから残りを買い揃えた時期があります。
その時に初めて、しっかりと『北斗の拳』を読んだと思うので
トキをカッコイイと思ったのも、もしかするとその時なのかもしれません。
もちろん、ジャンプで読んでいた頃も好きだったとは思いますけど。
そういったことを考えると、明らかに僕がずっと好きだったと自覚できるのは
なんと言ってもやっぱり『キン肉マン』なんです。
好きなのも主人公のキン肉マン。
確かに当時はキン肉マンのブームでしたし、
キン肉マン消しゴム、略してキン消しも大ブームでした。
鉛筆の字は全く消えないので単なるゴム人形なんですが、
「キン消し」と呼ばれてましたね。
僕も持っていました。
懐かしいです。
テレビアニメでもやっていましたし、映画もやっていて
今の『ポケモン』とか、一昔前の『ドラゴンボール』くらいの人気でしょうか。
・・・そういえばキン肉マンもケンシロウも同じ声でしたね。
どちらも大人気だったと思います。
少し話が逸れましたが、そんな大人気のマンガですから
きっと当時の小・中学生には色々と影響があったと思うんです。
誰もがキン肉マンが好きで、ケンシロウが好き。
そういう一面もあったと思います。
ただ、今現在、自分の過去を振り返ったときに
自分が一番好きだったマンガやテレビ番組の登場人物は誰かと考えると、
それは必ずしもケンシロウやキン肉マンではないんじゃないでしょうか?
やっぱり自分の心に深く残っているマンガやテレビの登場人物というのは
その人の個性と密接に関わっていると思えるわけです。
その人の信念や価値観を作り上げるのにも関わるほどに。
人によっては主人公よりも脇役が好きだった方もいるでしょう。
あまり人気がなく、有名ではないマンガが好きな方もいるでしょう。
どういった登場人物(人物じゃない方もいるかもしれませんが)が
好きだったかということは、もしかすると自分と重ねあわせるように見ていたか、
ということと関わる部分があるのかもしれません。
逆に自分には無いものに、あこがれていたこともあるかもしれません。
いずれにせよ、自分の個性と密接に関わっているとは思います。
なんとなく好きだったマンガを読んでいて、いつのまにか
その登場人物のキャラクターから信念や価値観を身につける、
という可能性も考えられます。
でも僕自身の解釈としては、生まれながらにもったものか、
それとも生育過程で身につけたものか、どちらかは分かりませんが、
その人が個性として持っている信念や価値観に響くキャラクターと出会ったときに
その登場人物を好きになるケースの方が多いんじゃないかと考えています。
なんとなくその登場人物にひかれるという時点で、
少なくとも感情移入するだけの何かがそこにあったと思えるわけです。
自分に無いものにあこがれる心理と、自分の個性と結びつけるという心理は
対極にあるようですが、対極にある心理作用は意外と近いものを持っているものです。
そんなことを考えると、僕の中でキン肉マンを好きだった部分、
それが自分の価値観と密接に絡んでいると思えてきますね。
僕がキン肉マンを好きだったのは、
・絶対に、あきらめないところ
・お人よしなぐらいに優しいところ
・人を楽しませようとしているところ
・「心に愛がなければスーパーヒーローじゃないのさ」
というところ。
意外と納得です。
2007年08月16日
我慢しない
歴史に残る天才催眠療法家、ミルトン・エリクソンはセラピーの際に
必ずしも催眠の技法を使ったわけではないと言われています。
エリクソンの催眠の手法はエリクソン催眠、現代催眠などと呼ばれながら
広まっていきましたし、NLPもその一派として扱われたりします。
一方で、エリクソンの催眠ではない部分のセラピーの処方は
ブリーフセラピーと呼ばれる手法として広まっていきました。
ブリーフセラピーにも色々と派閥がありますが、
エリクソンは指示的なアプローチを良く使ったと言われていて、
ブリーフセラピーでもクライアントに色々と指示を出していくことをするんです。
要するに、クライアントの話を聞いて、問題の焦点を絞り、
それをもとに見立てをして、処方としての宿題を出していくわけです。
で、そのときの処方となる指示の中で特徴的なのが
逆説的アプローチと呼ばれるものです。
エリクソンの逸話なんかを読むと、一見「なんでこんな変なことさせるの?」
と思えてしまうような話が載っているんですが、
そういうのの多くは逆説的アプローチなんです。
心理的症状の多くは、それを避けようとするほどに強調されるものがあるわけです。
止めようと意識するから逆に強調されてしまう。
その悪循環を断ち切るために、
ともすると逆と思えるような指示を出す、ということなんです。
実はこの逆説的アプローチ、日常でも凄く役に立ちます。
意識と無意識の葛藤の悪循環を止めるということです。
無意識のメッセージを意識で止めようとする時に余計苦しくなります。
緊張しているときに緊張しないように意識するから、余計に緊張するんです。
誰しも経験はありますよね?
落ち着こうとして落ち着けるものなら、最初から緊張なんてしていないわけです。
そんなときに有効なの1つの方法が、緊張していると認めてしまうこと。
緊張している自分を冷静に見れたとき、緊張感は解け始めるということですね。
そして、一番のオススメがこれ。
トイレを我慢するときです。
汚い話でごめんなさい。
でも、夏休み、車や電車でどこかに出かけることはあると思います。
そんなとき、なかなかトイレに行けないのは苦痛ですよね。
そして、トイレに行きたくなってくると、もう大変です。
必死で我慢するじゃないですか。
我慢しているとドンドン苦しくなってくるじゃないですか。
トイレに行きたい感覚というのは、無意識が教えてくれているわけです。
それを我慢しようとすると反発が起きて、余計に苦しくなってくるんです。
誰かに話しかけたのに反応が無かったら、もっと大きな声で話しかけますよね?
それと同じことだと思います。
無視されたら、もっと大きな声で呼んでくるんです。
それも無視しようとしたら、さらにもっと大きな声で呼ばれるんです。
トイレに行きたい感覚というのはメッセージですから。
自分に呼びかけているわけです。
それを無視しようとするから余計に苦しくなってくるという一面もあるんです。
だまされたと思ってやってみてください。
トイレに行きたい感覚に向かって、心の中で話しかけるんです。
それがお腹なのかお尻なのかは分かりませんが、
「トイレ行ってくれよー」って伝えている場所があると思って話しかけて下さい。
「ごめんね。大丈夫だよ。そこにいるのは分かっているからね。
もう少ししたらトイレに行けるから、待っててね。
いつも教えてくれて、ありがとう」
そんな風に心の中でつぶやいてみて下さい。
不思議なほど、苦しさが減っていきます。
スーッと、やわらいでいくんです。
これはフォーカシングの手法にも通じるものですが、
我慢しようとしないという意味では逆説的なアプローチとも言えますね。
これ、本当に助かりますよ。
必ずしも催眠の技法を使ったわけではないと言われています。
エリクソンの催眠の手法はエリクソン催眠、現代催眠などと呼ばれながら
広まっていきましたし、NLPもその一派として扱われたりします。
一方で、エリクソンの催眠ではない部分のセラピーの処方は
ブリーフセラピーと呼ばれる手法として広まっていきました。
ブリーフセラピーにも色々と派閥がありますが、
エリクソンは指示的なアプローチを良く使ったと言われていて、
ブリーフセラピーでもクライアントに色々と指示を出していくことをするんです。
要するに、クライアントの話を聞いて、問題の焦点を絞り、
それをもとに見立てをして、処方としての宿題を出していくわけです。
で、そのときの処方となる指示の中で特徴的なのが
逆説的アプローチと呼ばれるものです。
エリクソンの逸話なんかを読むと、一見「なんでこんな変なことさせるの?」
と思えてしまうような話が載っているんですが、
そういうのの多くは逆説的アプローチなんです。
心理的症状の多くは、それを避けようとするほどに強調されるものがあるわけです。
止めようと意識するから逆に強調されてしまう。
その悪循環を断ち切るために、
ともすると逆と思えるような指示を出す、ということなんです。
実はこの逆説的アプローチ、日常でも凄く役に立ちます。
意識と無意識の葛藤の悪循環を止めるということです。
無意識のメッセージを意識で止めようとする時に余計苦しくなります。
緊張しているときに緊張しないように意識するから、余計に緊張するんです。
誰しも経験はありますよね?
落ち着こうとして落ち着けるものなら、最初から緊張なんてしていないわけです。
そんなときに有効なの1つの方法が、緊張していると認めてしまうこと。
緊張している自分を冷静に見れたとき、緊張感は解け始めるということですね。
そして、一番のオススメがこれ。
トイレを我慢するときです。
汚い話でごめんなさい。
でも、夏休み、車や電車でどこかに出かけることはあると思います。
そんなとき、なかなかトイレに行けないのは苦痛ですよね。
そして、トイレに行きたくなってくると、もう大変です。
必死で我慢するじゃないですか。
我慢しているとドンドン苦しくなってくるじゃないですか。
トイレに行きたい感覚というのは、無意識が教えてくれているわけです。
それを我慢しようとすると反発が起きて、余計に苦しくなってくるんです。
誰かに話しかけたのに反応が無かったら、もっと大きな声で話しかけますよね?
それと同じことだと思います。
無視されたら、もっと大きな声で呼んでくるんです。
それも無視しようとしたら、さらにもっと大きな声で呼ばれるんです。
トイレに行きたい感覚というのはメッセージですから。
自分に呼びかけているわけです。
それを無視しようとするから余計に苦しくなってくるという一面もあるんです。
だまされたと思ってやってみてください。
トイレに行きたい感覚に向かって、心の中で話しかけるんです。
それがお腹なのかお尻なのかは分かりませんが、
「トイレ行ってくれよー」って伝えている場所があると思って話しかけて下さい。
「ごめんね。大丈夫だよ。そこにいるのは分かっているからね。
もう少ししたらトイレに行けるから、待っててね。
いつも教えてくれて、ありがとう」
そんな風に心の中でつぶやいてみて下さい。
不思議なほど、苦しさが減っていきます。
スーッと、やわらいでいくんです。
これはフォーカシングの手法にも通じるものですが、
我慢しようとしないという意味では逆説的なアプローチとも言えますね。
これ、本当に助かりますよ。