2007年11月
2007年11月30日
「もうひとりの自分」とうまく付き合う方法
石井裕之さんの新刊『「もうひとりの自分」とうまく付き合う方法』が大好評のようです。
「もうひとりの自分」とうまく付き合う方法~思い通りに自分を動かす4つの法則~(CD付)
『「心のブレーキ」の外し方』、『「心のDNA」の育て方』と
シリーズになった本ということですが、潜在意識ということについて
また違った説明がされているので、印象はかなり違いますね。
石井裕之さんの本や教材は、色々な視点で大切な考え方を伝えてくれていますが、
今回の『「もうひとりの自分」とうまく付き合う方法』は
具体的に潜在意識を活用する方法とかいうよりも、
潜在意識というものがどういう性質のものかを教えてくれているようです。
潜在意識の仕組みを踏まえて、どういう考え方で、どういう行動をすれば良いか
という部分に関しては『ダイナマイト・モチベーション』などが適しているようですが、
この本では、色々な説明の中心になる性質が書かれているように思います。
本質的な話だと感じました。
そもそも潜在意識というのが何であるか、と問われれば、
僕はそれをメタファーだと思っていますが、非常に有効なメタファーだと思うんです。
すごく沢山の情報を理解した上でも説明しきれないような複雑なものを
うまく表現して納得しやすくするのが「潜在意識」というメタファーだろう、と。
その意味でいうと、僕の中では「潜在意識」と「無意識」ではニュアンスが違います。
メタファーとして表現するものが違うような印象があるんです。
どっちが良いとかいうことではなく、僕の中では関わり方が違います。
無意識は信頼する対象です。
潜在意識はうまく関わっていく相手です。
シンプルで分かりやすいのは潜在意識との関わり方を意識することだと感じます。
特に多くの人に共通して理解しやすいという意味では。
そして何かの課題や問題、目標ということを考えた場合、
意識的な努力と、それとは別に感じられるもう1つの働きがあります。
それが無意識のストッパーや、潜在意識のメカニズムとして見られますが、
「意識でやろうとしても、なかなか出来ない」という部分に葛藤があるわけです。
この葛藤にどのようにアプローチしていくか、という話です。
おそらく石井裕之さんも、ご自分でセラピーをやっていたときには
目の前の一人のクライアントさんに合わせて具体的なアプローチを変えていたと
僕は推測していますが、そこから抜き出した本質は多くの人に利用可能なんでしょうね。
問題解決や目標達成に向けて出来る努力を続けていくこと。
それが本質だと書かれているように思います。
こう書いてしまえばシンプルです。
でも実際は非常に奥深い意味が込められているように思います。
なぜなら、努力の方向自体が間違っていることもあるからです。
いや、むしろ悩みを抱えた人は努力の方向が間違っていることのほうが多いでしょう。
短期に問題解決を目指すならば、努力の方向そのものもアプローチの対象です。
ただクライアントさんの人生に本気で関わる覚悟を持って接したとき、
その間違っている方向への努力まで信じることも有効な方法だと思うんです。
確かに努力の方向が間違っていれば、なかなかすぐには結果が出ないかもしれません。
しかし、それでもクライアントさんを信じて応援する。
そのうちにクライアントさん自身で努力の方向性の間違いに気づく時が来るかもない。
もしかしたら何年かかっても努力の仕方が変わらないかもしれない。
それでもいいじゃないか、と信じて応援する。
そんな姿勢が潜在意識との上手い付き合い方の中にあるような気がします。
努力の方向が間違ってたっていい。
目標達成・問題解決に向けて努力する姿勢そのものに意味があると捉える。
そんな印象を受けます。
僕は個人的な好みとして、目の前の一人との関わりを大切にしたいので
その人の無意識が頑張っている方向を見ようとする傾向があります。
ただ、それは大勢の人に伝えられるものではありません。
一人一人違っているものだからです。
多くの人が自分の進みたい方向へ進むためには
この『「もうひとりの自分」とうまく付き合う方法』が効果的だろうと思います。
そして、多くの人に向けられたこの本を書いた石井裕之さんには
あらゆる人の夢や目標を丸ごと応援するような意気込みが感じられました。
色々と刺激を受ける本です。
考えさせられます。
「もうひとりの自分」とうまく付き合う方法~思い通りに自分を動かす4つの法則~(CD付)
『「心のブレーキ」の外し方』、『「心のDNA」の育て方』と
シリーズになった本ということですが、潜在意識ということについて
また違った説明がされているので、印象はかなり違いますね。
石井裕之さんの本や教材は、色々な視点で大切な考え方を伝えてくれていますが、
今回の『「もうひとりの自分」とうまく付き合う方法』は
具体的に潜在意識を活用する方法とかいうよりも、
潜在意識というものがどういう性質のものかを教えてくれているようです。
潜在意識の仕組みを踏まえて、どういう考え方で、どういう行動をすれば良いか
という部分に関しては『ダイナマイト・モチベーション』などが適しているようですが、
この本では、色々な説明の中心になる性質が書かれているように思います。
本質的な話だと感じました。
そもそも潜在意識というのが何であるか、と問われれば、
僕はそれをメタファーだと思っていますが、非常に有効なメタファーだと思うんです。
すごく沢山の情報を理解した上でも説明しきれないような複雑なものを
うまく表現して納得しやすくするのが「潜在意識」というメタファーだろう、と。
その意味でいうと、僕の中では「潜在意識」と「無意識」ではニュアンスが違います。
メタファーとして表現するものが違うような印象があるんです。
どっちが良いとかいうことではなく、僕の中では関わり方が違います。
無意識は信頼する対象です。
潜在意識はうまく関わっていく相手です。
シンプルで分かりやすいのは潜在意識との関わり方を意識することだと感じます。
特に多くの人に共通して理解しやすいという意味では。
そして何かの課題や問題、目標ということを考えた場合、
意識的な努力と、それとは別に感じられるもう1つの働きがあります。
それが無意識のストッパーや、潜在意識のメカニズムとして見られますが、
「意識でやろうとしても、なかなか出来ない」という部分に葛藤があるわけです。
この葛藤にどのようにアプローチしていくか、という話です。
おそらく石井裕之さんも、ご自分でセラピーをやっていたときには
目の前の一人のクライアントさんに合わせて具体的なアプローチを変えていたと
僕は推測していますが、そこから抜き出した本質は多くの人に利用可能なんでしょうね。
問題解決や目標達成に向けて出来る努力を続けていくこと。
それが本質だと書かれているように思います。
こう書いてしまえばシンプルです。
でも実際は非常に奥深い意味が込められているように思います。
なぜなら、努力の方向自体が間違っていることもあるからです。
いや、むしろ悩みを抱えた人は努力の方向が間違っていることのほうが多いでしょう。
短期に問題解決を目指すならば、努力の方向そのものもアプローチの対象です。
ただクライアントさんの人生に本気で関わる覚悟を持って接したとき、
その間違っている方向への努力まで信じることも有効な方法だと思うんです。
確かに努力の方向が間違っていれば、なかなかすぐには結果が出ないかもしれません。
しかし、それでもクライアントさんを信じて応援する。
そのうちにクライアントさん自身で努力の方向性の間違いに気づく時が来るかもない。
もしかしたら何年かかっても努力の仕方が変わらないかもしれない。
それでもいいじゃないか、と信じて応援する。
そんな姿勢が潜在意識との上手い付き合い方の中にあるような気がします。
努力の方向が間違ってたっていい。
目標達成・問題解決に向けて努力する姿勢そのものに意味があると捉える。
そんな印象を受けます。
僕は個人的な好みとして、目の前の一人との関わりを大切にしたいので
その人の無意識が頑張っている方向を見ようとする傾向があります。
ただ、それは大勢の人に伝えられるものではありません。
一人一人違っているものだからです。
多くの人が自分の進みたい方向へ進むためには
この『「もうひとりの自分」とうまく付き合う方法』が効果的だろうと思います。
そして、多くの人に向けられたこの本を書いた石井裕之さんには
あらゆる人の夢や目標を丸ごと応援するような意気込みが感じられました。
色々と刺激を受ける本です。
考えさせられます。
2007年11月28日
誰が言うか
物事の見方を拡げる、というのは非常に重要なことです。
視点を変えられるということですから、柔軟性が問われるわけです。
NLPではリフレーミングと呼んでいますが、あらゆる心理療法において
そのような呼び方がされていなくても、目指される1つの到達点と言えます。
自分自身で見方を拡げられると、それが一番良いと思われますが、
他人から言われた一言で見方が随分と変わるということもあります。
おそらく大抵のNLPの団体はリフレーミングを扱うときに
相手のネガティブな発言をポジティブな表現に言い換えるようにして
リフレーミングという考え方を伝えているようです。
そういった場合、誰かから言われたリフレーミングの言葉、
とりわけ自分がネガティブにしか考えたくないときに言われた
内容をポジティブに受け止め返したリフレーミングの言葉は
なかなか受け入れがたいこともあります。
仕事の忙しさに追われているときに
「最近、仕事が忙しくて寝る暇もなくてさ・・・」
「いいじゃないか。仕事がないほうがずっと苦しいもんだよ」
というような。
「仕事が忙しくて寝る暇もない」と言っている人の気持ちはどのようなものでしょうか。
忙しい仕事でも不満のない人もいるわけですから、仕事の質が嫌なのかもしれません。
あるいは、本当に仕事を変えようか悩んでいるのかもしれません。
もしかすると、単なる忙しさ自慢かもしれません。
状況やその人の気持ちが分からなければ、相手に合ったリフレーミングは出来ないわけです。
ところが、そんなリフレーミングの言葉が
スンナリと受け入れられてしまうこともあるんです。
それは言う人によって違っています。
誰が言うか、ということです。
尊敬する人から言われたら、受け入れやすいようにも思います。
人柄の良い、ほがらかな人から言われたら「まぁ、そうかな」なんて
気楽に受け止められるかもしれません。
沖縄のオバァなんかは、ある意味で、リフレーミングの達人だそうです。
「オバァ、このソバ、髪の毛入ってるよ」
「大丈夫。シャンプーしてきた」
それが許されてしまうのが何よりですね。
何を言うかも大事ですが、どのように言うかも大事です。
そして、誰が言うかも、とても大事だと思います。
視点を変えられるということですから、柔軟性が問われるわけです。
NLPではリフレーミングと呼んでいますが、あらゆる心理療法において
そのような呼び方がされていなくても、目指される1つの到達点と言えます。
自分自身で見方を拡げられると、それが一番良いと思われますが、
他人から言われた一言で見方が随分と変わるということもあります。
おそらく大抵のNLPの団体はリフレーミングを扱うときに
相手のネガティブな発言をポジティブな表現に言い換えるようにして
リフレーミングという考え方を伝えているようです。
そういった場合、誰かから言われたリフレーミングの言葉、
とりわけ自分がネガティブにしか考えたくないときに言われた
内容をポジティブに受け止め返したリフレーミングの言葉は
なかなか受け入れがたいこともあります。
仕事の忙しさに追われているときに
「最近、仕事が忙しくて寝る暇もなくてさ・・・」
「いいじゃないか。仕事がないほうがずっと苦しいもんだよ」
というような。
「仕事が忙しくて寝る暇もない」と言っている人の気持ちはどのようなものでしょうか。
忙しい仕事でも不満のない人もいるわけですから、仕事の質が嫌なのかもしれません。
あるいは、本当に仕事を変えようか悩んでいるのかもしれません。
もしかすると、単なる忙しさ自慢かもしれません。
状況やその人の気持ちが分からなければ、相手に合ったリフレーミングは出来ないわけです。
ところが、そんなリフレーミングの言葉が
スンナリと受け入れられてしまうこともあるんです。
それは言う人によって違っています。
誰が言うか、ということです。
尊敬する人から言われたら、受け入れやすいようにも思います。
人柄の良い、ほがらかな人から言われたら「まぁ、そうかな」なんて
気楽に受け止められるかもしれません。
沖縄のオバァなんかは、ある意味で、リフレーミングの達人だそうです。
「オバァ、このソバ、髪の毛入ってるよ」
「大丈夫。シャンプーしてきた」
それが許されてしまうのが何よりですね。
何を言うかも大事ですが、どのように言うかも大事です。
そして、誰が言うかも、とても大事だと思います。
2007年11月26日
できないこと
皆さんのお好きな食べ物は何ですか?
自分の作ったものとか、奥さんの手料理とか、お袋の味とか、
外食よりも家で食べる食事のほうが好きだという方もいると思います。
が、まぁ仮に、ここでは何か食べたいものがあって外食に行ったことにして下さい。
例えば中華料理店に行ったとします。
ちょっと豪華な食事も期待しているかもしれません。
しばらく前からレバニラ炒めが食べたかったことも思い出しています。
お腹を空かせて店に入り、メニューを眺めます。
でも、その店のメニューには食べたかったレバニラ炒めがありません。
残念。
仕方がないので、他のものを頼むことにしました。
色々と運ばれてくる料理。
どれも結局、好みの味付けではありませんでした。
あーあ、外れだったなぁ・・・、
そんな気持ちで店を後にします。
さて、そのような状況で、あなただったらどうするでしょうか?
店に対してレバニラ炒めが無いという不満を言うでしょうか?
味付けが合わないことに文句を言うでしょうか?
全部食べ終わってから不満だけを表現する方もいるかもしれません。
最初の一口を食べた時点で味付けに要望を出す方もいるかもしれません。
レバニラが無いとわかった時点で店を出る選択をする方もいるかもしれません。
いずれにしても、不満があったとき、何を選択するかはその人の自由です。
不満を抱きながら我慢するのも自由な対応です。
二度とその店に行かなければいいわけですから。
不満があった時点で要望を出すのも自分の気持ちに正直で自由な対応です。
その要望が叶うかどうかは分かりません。
店にも方針があるでしょうから、どのような対応になるかは分かりません。
対応が気に食わなかったら、そこにも選択の機会が訪れます。
その時に店を出てもいいでしょうし、仕方ないと諦めてもいいでしょう。
ただ、不満がありながら何もしないことを選択したのなら
不満だけを感情的に表現するのは自由ではありません。
他の方に迷惑だと思います。
自分一人に不満があるのは結構ですが、
他の人を不愉快にするのは困りものですね。
セミナーでも同じようなことがあります。
例えば、コミュニケーションのセミナーだと言っているのに
そこで投資によってお金を増やす方法を期待してくる方はいないでしょう。
それは中華料理店で電動ノコギリを買おうをするぐらいのことです。
セミナーの内容に不満が残るのも当然のことです。
誰か一人の要望に合わせて内容を選んでいる訳ではありません。
どうしても知りたいことがあったら、それはコンサルタントや専門家に尋ねるべきです。
レバニラ炒めが食べたくてもレバニラ炒めがないこともあります。
どうしても食べたければレバニラ炒めを作ってくれる店を探せばいいんです。
ましてセミナーの進め方に不満が起きない方が珍しいんです。
セミナーは学ぶところです。
学び方には人それぞれ好みがあります。
大学の講義のように受身で学ぶセミナーもあれば
体験型のワークショップのように自分で学び取るものもあるわけです。
そのスタイルは受講する側の好みによってバラバラです。
それは仕方の無いことだと思います。
料理の味付けの好みの問題と似ています。
料理を一人前ずつ作っていれば、好みにも対応できるでしょう。
それには当然、好みの味付けを伝える必要があります。
伝えていないのに「マズイ」と言われても困ってしまいます。
ところが料理を何人分もまとめて作るときには個人の好みには対応できません。
作る側が「多くの人に喜んでもらえる」と信じている味付けを選ぶわけです。
味付けが好みに合わなければ、自分で調味料を使ってアレンジするか
諦めて我慢して食べるか、食べないかぐらいしかないと思います。
セミナーは受講生全員に対して大皿で料理を出すようなものです。
多くの人の学びを考えてスタイルを選ぶわけです。
合わなかったら諦めるか、帰るか、自分で質問して好みに合わせていくか、
そんな選択肢があると思います。
少なくともセミナーでは質問することができるんです。
質問は自分の好みの味付けに変えるチャンスです。
今までは質問するのが嫌で、好みじゃないスタイルに不満を持ちながら学んでいたのなら、
質問して好みに合うように工夫していくこと自体も重要な学びだと思います。
セミナーを全員に合わせることはできません。
セミナーを自分に合わせられる人は多くのことを学べるのでしょうね。
自分の作ったものとか、奥さんの手料理とか、お袋の味とか、
外食よりも家で食べる食事のほうが好きだという方もいると思います。
が、まぁ仮に、ここでは何か食べたいものがあって外食に行ったことにして下さい。
例えば中華料理店に行ったとします。
ちょっと豪華な食事も期待しているかもしれません。
しばらく前からレバニラ炒めが食べたかったことも思い出しています。
お腹を空かせて店に入り、メニューを眺めます。
でも、その店のメニューには食べたかったレバニラ炒めがありません。
残念。
仕方がないので、他のものを頼むことにしました。
色々と運ばれてくる料理。
どれも結局、好みの味付けではありませんでした。
あーあ、外れだったなぁ・・・、
そんな気持ちで店を後にします。
さて、そのような状況で、あなただったらどうするでしょうか?
店に対してレバニラ炒めが無いという不満を言うでしょうか?
味付けが合わないことに文句を言うでしょうか?
全部食べ終わってから不満だけを表現する方もいるかもしれません。
最初の一口を食べた時点で味付けに要望を出す方もいるかもしれません。
レバニラが無いとわかった時点で店を出る選択をする方もいるかもしれません。
いずれにしても、不満があったとき、何を選択するかはその人の自由です。
不満を抱きながら我慢するのも自由な対応です。
二度とその店に行かなければいいわけですから。
不満があった時点で要望を出すのも自分の気持ちに正直で自由な対応です。
その要望が叶うかどうかは分かりません。
店にも方針があるでしょうから、どのような対応になるかは分かりません。
対応が気に食わなかったら、そこにも選択の機会が訪れます。
その時に店を出てもいいでしょうし、仕方ないと諦めてもいいでしょう。
ただ、不満がありながら何もしないことを選択したのなら
不満だけを感情的に表現するのは自由ではありません。
他の方に迷惑だと思います。
自分一人に不満があるのは結構ですが、
他の人を不愉快にするのは困りものですね。
セミナーでも同じようなことがあります。
例えば、コミュニケーションのセミナーだと言っているのに
そこで投資によってお金を増やす方法を期待してくる方はいないでしょう。
それは中華料理店で電動ノコギリを買おうをするぐらいのことです。
セミナーの内容に不満が残るのも当然のことです。
誰か一人の要望に合わせて内容を選んでいる訳ではありません。
どうしても知りたいことがあったら、それはコンサルタントや専門家に尋ねるべきです。
レバニラ炒めが食べたくてもレバニラ炒めがないこともあります。
どうしても食べたければレバニラ炒めを作ってくれる店を探せばいいんです。
ましてセミナーの進め方に不満が起きない方が珍しいんです。
セミナーは学ぶところです。
学び方には人それぞれ好みがあります。
大学の講義のように受身で学ぶセミナーもあれば
体験型のワークショップのように自分で学び取るものもあるわけです。
そのスタイルは受講する側の好みによってバラバラです。
それは仕方の無いことだと思います。
料理の味付けの好みの問題と似ています。
料理を一人前ずつ作っていれば、好みにも対応できるでしょう。
それには当然、好みの味付けを伝える必要があります。
伝えていないのに「マズイ」と言われても困ってしまいます。
ところが料理を何人分もまとめて作るときには個人の好みには対応できません。
作る側が「多くの人に喜んでもらえる」と信じている味付けを選ぶわけです。
味付けが好みに合わなければ、自分で調味料を使ってアレンジするか
諦めて我慢して食べるか、食べないかぐらいしかないと思います。
セミナーは受講生全員に対して大皿で料理を出すようなものです。
多くの人の学びを考えてスタイルを選ぶわけです。
合わなかったら諦めるか、帰るか、自分で質問して好みに合わせていくか、
そんな選択肢があると思います。
少なくともセミナーでは質問することができるんです。
質問は自分の好みの味付けに変えるチャンスです。
今までは質問するのが嫌で、好みじゃないスタイルに不満を持ちながら学んでいたのなら、
質問して好みに合うように工夫していくこと自体も重要な学びだと思います。
セミナーを全員に合わせることはできません。
セミナーを自分に合わせられる人は多くのことを学べるのでしょうね。
2007年11月23日
持ち味を活かす
色々な心理的アプローチにせよ、日常的な課題にせよ、
何かに取り組むときに個人の持ち味を活かすというのは非常に重要だと感じます。
当たり前のことだと思われるかもしれませんが、
非常に実用的な意味においても、その人の持ち味を発揮できるかどうかは
その取り組みの成果に大きく結びついていると思うんです。
上手くいかないとき、それはもしかすると持ち味を活かせていないのかもしれません。
そのような持ち味のことを、NLPや心理療法ではリソースと言ったりしますが
リソースを活用できていないことは日常では良くあることです。
仕事が上手くいかないとき。
そのやり方は、もしかすると誰かに指導された方法かもしれません。
それは自分の持ち味を活かしたやり方でしょうか?
誰か個人の持ち味に合っていたものを、皆にも勧めているだけじゃないでしょうか?
その人の持ち味に合ったやり方でやるのが成果に結びつきやすいと言われれば
誰しも納得していただける部分があるのではないかと思いますが、
自分に合ったやり方を見つけるのが難しいということもあると思います。
そんな時、とても役立つのが趣味・特技です。
履歴書みたいですけど、その中に素養が詰まっています。
どうして、それが好きなのか、という価値観。
それをするときに、使っている能力。
そんなところに、その人の持ち味があるんじゃないでしょうか。
何かに取り組むときに個人の持ち味を活かすというのは非常に重要だと感じます。
当たり前のことだと思われるかもしれませんが、
非常に実用的な意味においても、その人の持ち味を発揮できるかどうかは
その取り組みの成果に大きく結びついていると思うんです。
上手くいかないとき、それはもしかすると持ち味を活かせていないのかもしれません。
そのような持ち味のことを、NLPや心理療法ではリソースと言ったりしますが
リソースを活用できていないことは日常では良くあることです。
仕事が上手くいかないとき。
そのやり方は、もしかすると誰かに指導された方法かもしれません。
それは自分の持ち味を活かしたやり方でしょうか?
誰か個人の持ち味に合っていたものを、皆にも勧めているだけじゃないでしょうか?
その人の持ち味に合ったやり方でやるのが成果に結びつきやすいと言われれば
誰しも納得していただける部分があるのではないかと思いますが、
自分に合ったやり方を見つけるのが難しいということもあると思います。
そんな時、とても役立つのが趣味・特技です。
履歴書みたいですけど、その中に素養が詰まっています。
どうして、それが好きなのか、という価値観。
それをするときに、使っている能力。
そんなところに、その人の持ち味があるんじゃないでしょうか。
2007年11月21日
インストール
NLPの創始者リチャード・バンドラーはセミナーの中で
「インストール」という言葉をよく使っていました。
講師・トレーナー・プレゼンターと呼ばれる立場の者は
自分自身から発せられる無意識のメッセージを通して
受講生や聴衆に対して言葉を介さず、直接的に影響を与えるということのようです。
僕がバンドラーのトレーニングを受けていた時には良く分からなかったことですが、
最近ようやくインストールということが体験を通じて納得できてきました。
僕自身に起きた変化として言えば、バンドラーのトレーニングを受けた直後では
まったく身についていなかった話すときのリズムというものが
最近少しずつ自然と身についてきているように感じるというのがあります。
もちろんそれには自分がどのように話しているかを客観的に聞きながら
話せるようになってきたということも関与していますが、
それ以上にバンドラーからの直接的なインストールが僕の無意識に影響を与えていて、
それが自然と現れるようになってきたというようにも感じられるんです。
そんな風な言い方をするとリチャード・バンドラーは何か特別な方法で
受講生の無意識に対して働きかけをできる人のようにも聞こえるかもしれませんが、
必ずしもそういったことではないようにも思います。
例えば、誰かと仲良くなってくると、知らないうちにその人の口癖とか
その人の話すときの癖とかが、うつってきてしまうということがあると思います。
あるいは、誰かの音声教材を聞き続けていたら、
いつのまにか似た話し方がうつってしまうということもあるでしょう。
そのように話し手が自分自身の行動そのものを通して影響を与えて
自然と受講生や聞き手がそれに似てくるというのもインストールの1つだと考えられます。
実際に、僕がNLPのトレーナーとして関わってきた中でも
そのようなインストールは起きていたように感じるんです。
それはトレーナーとしての僕自身からのインストールもあれば、
受講生同士の間での無意識的交流による影響からインストールされたものもあるようです。
多くは非言語のメッセージによって伝えられた情報だと思います。
受け取る側が話の内容など、ある一部分に意識を集めたとき、
それ以外の非言語のメッセージがサブリミナルに影響を与えると解釈できます。
あとは、その非言語的メッセージに込める情報の効果を高めるために
細かいスキルが色々あって、それがインストール能力の差になるのでしょうね。
バンドラーぐらいになると、それが非常に高い、と。
身振り手振りとか声のトーンといった、良く言われる非言語のメッセージ以外にも
様々な非言語のメッセージはありますから、それらが無意識的交流過程の影響力
ということになってくると考えると、自分自身の内面を磨き高めていくことが
トレーナーとして最も望まれることなのかもしれません。
そのように受け取り手の行動レベルに影響を及ぼすことがインストールだと思いますが、
一方で行動を通じて価値観を伝えていくこともあるようです。
例えば僕の中学校のときの理科の先生はユーモアが大好きで、
定期テストの4択の問題では、必ず4番目にボケが入っていました。
「水は液体。水蒸気は気体。では煙は?
ア.気体、 イ.液体、 ウ.固体、 エ.煙たい 」
という感じ。
授業も面白く、色々な工夫がありました。
僕はその先生のおかげで理科が大好きだった部分もあります。
その先生から口癖や身振り手振りの影響を受けたかと言われると分かりませんが、
少なくとも僕は「理科は楽しいから好きだ」という価値観を貰った気はします。
自分自身の行動に反映される自分自身の在り方。
Beingレベルの内容も交流の中で自然とインストールされるようです。
Beingレベルの内容をそのまま言葉で伝えていくと
人生訓とか宗教とか、ありがたいお話になっていくと思います。
ただ、それでは伝わる人と伝わらない人がいる。
むしろ、それで伝わる人は既にそのBeingレベルの内容を持っている人だと思います。
もしくは、話を聞いた後に、体験を通じて納得できる人も出てくる、
ということを期待するぐらいしかできないと思うんです。
価値観など、伝えたい大事な部分は自分自身の存在そのものから生まれる行動を通じて
インストールしていくこともできるはずです。
と同時に、体験を重ねることによって本人の中に生まれてくることもあるでしょう。
インストールとトレーニング内容の両方を満たしていくことが大切なんでしょうね。
「インストール」という言葉をよく使っていました。
講師・トレーナー・プレゼンターと呼ばれる立場の者は
自分自身から発せられる無意識のメッセージを通して
受講生や聴衆に対して言葉を介さず、直接的に影響を与えるということのようです。
僕がバンドラーのトレーニングを受けていた時には良く分からなかったことですが、
最近ようやくインストールということが体験を通じて納得できてきました。
僕自身に起きた変化として言えば、バンドラーのトレーニングを受けた直後では
まったく身についていなかった話すときのリズムというものが
最近少しずつ自然と身についてきているように感じるというのがあります。
もちろんそれには自分がどのように話しているかを客観的に聞きながら
話せるようになってきたということも関与していますが、
それ以上にバンドラーからの直接的なインストールが僕の無意識に影響を与えていて、
それが自然と現れるようになってきたというようにも感じられるんです。
そんな風な言い方をするとリチャード・バンドラーは何か特別な方法で
受講生の無意識に対して働きかけをできる人のようにも聞こえるかもしれませんが、
必ずしもそういったことではないようにも思います。
例えば、誰かと仲良くなってくると、知らないうちにその人の口癖とか
その人の話すときの癖とかが、うつってきてしまうということがあると思います。
あるいは、誰かの音声教材を聞き続けていたら、
いつのまにか似た話し方がうつってしまうということもあるでしょう。
そのように話し手が自分自身の行動そのものを通して影響を与えて
自然と受講生や聞き手がそれに似てくるというのもインストールの1つだと考えられます。
実際に、僕がNLPのトレーナーとして関わってきた中でも
そのようなインストールは起きていたように感じるんです。
それはトレーナーとしての僕自身からのインストールもあれば、
受講生同士の間での無意識的交流による影響からインストールされたものもあるようです。
多くは非言語のメッセージによって伝えられた情報だと思います。
受け取る側が話の内容など、ある一部分に意識を集めたとき、
それ以外の非言語のメッセージがサブリミナルに影響を与えると解釈できます。
あとは、その非言語的メッセージに込める情報の効果を高めるために
細かいスキルが色々あって、それがインストール能力の差になるのでしょうね。
バンドラーぐらいになると、それが非常に高い、と。
身振り手振りとか声のトーンといった、良く言われる非言語のメッセージ以外にも
様々な非言語のメッセージはありますから、それらが無意識的交流過程の影響力
ということになってくると考えると、自分自身の内面を磨き高めていくことが
トレーナーとして最も望まれることなのかもしれません。
そのように受け取り手の行動レベルに影響を及ぼすことがインストールだと思いますが、
一方で行動を通じて価値観を伝えていくこともあるようです。
例えば僕の中学校のときの理科の先生はユーモアが大好きで、
定期テストの4択の問題では、必ず4番目にボケが入っていました。
「水は液体。水蒸気は気体。では煙は?
ア.気体、 イ.液体、 ウ.固体、 エ.煙たい 」
という感じ。
授業も面白く、色々な工夫がありました。
僕はその先生のおかげで理科が大好きだった部分もあります。
その先生から口癖や身振り手振りの影響を受けたかと言われると分かりませんが、
少なくとも僕は「理科は楽しいから好きだ」という価値観を貰った気はします。
自分自身の行動に反映される自分自身の在り方。
Beingレベルの内容も交流の中で自然とインストールされるようです。
Beingレベルの内容をそのまま言葉で伝えていくと
人生訓とか宗教とか、ありがたいお話になっていくと思います。
ただ、それでは伝わる人と伝わらない人がいる。
むしろ、それで伝わる人は既にそのBeingレベルの内容を持っている人だと思います。
もしくは、話を聞いた後に、体験を通じて納得できる人も出てくる、
ということを期待するぐらいしかできないと思うんです。
価値観など、伝えたい大事な部分は自分自身の存在そのものから生まれる行動を通じて
インストールしていくこともできるはずです。
と同時に、体験を重ねることによって本人の中に生まれてくることもあるでしょう。
インストールとトレーニング内容の両方を満たしていくことが大切なんでしょうね。
2007年11月19日
歯医者に行ってみた
NLPの受講生の中には歯科医の方が結構いらっしゃいます。
また催眠関係の本などには歯科医で催眠を活用している方も紹介されます。
体質的に麻酔を受け付けない方や、口の中に何かを入れられるのが耐えられない方に
催眠的なアプローチを活用するらしいです。
先日までNLPを学びに来られていた素敵な歯科医の先生の影響でしょうか、
ふと昨日に思い立って、今日、歯医者に行ってみたんです。
別にどこかが痛かったわけじゃないのですが、歯の健康って大事かなと思いまして。
10年近く歯医者に行っていなかったので、ものすごく久しぶりでした。
最近の科学技術の進展のおかげで、歯科医の治療技術も随分と変わっていたようですね。
ただ、あの音だけは相変わらず。
苦手だという意識は特にないのですが、体は小さい頃のことを記憶していますね。
自然と体に力が入っていたことに気づきました。
僕が虫歯の治療で歯医者に行っていたのは小学校の頃。
近所の古臭くて薄暗い歯医者でした。
診察時間の終了に近づくと、冬でも電灯と暖房を切ってしまうような所。
そこしか知らなかったのですが、良い歯医者ではなかったのでしょうね、きっと。
それからずっと経って、今から10年近く前に別の綺麗な歯医者に行ったんです。
それは確か、親知らずを抜くためでした。
そのとき行った所はかなり新しい設備を揃えていて
親知らずを抜くときにはレーザーメスなどを使っていたのを覚えています。
で、そこの設備の良い歯医者で言われたんです。
酷い治療をされていますね、と。
詰め物が悪いらしく、その周りから虫歯になっていたのだとか。
その時に許容範囲として置いておいた歯に案の定、今回も虫歯が見つかりました。
歯医者は良い所に行くべきですね。
勉強になりました。
今日行ってきた歯医者は、どうやらコミュニケーションを大切にしているらしく
治療の方針だけでなく色々な会話に気を遣っていました。
これから何をするのか。
これからすることでどうなるのか。
そういったことは事前に説明してくれます。
最近は痛いのを嫌がる患者さんが多いらしく、割りと簡単に麻酔を使うようなのですが
今回は麻酔を使わないという理由まで説明してくれました。
こういうのは安心材料なんでしょうね。
そして歯を削るときも違いました。
「痛かったら教えてくださいねー」なんて言いませんでした。
「痛いと思いますけど、少しだけ頑張ってください」でした。
作業のときには助手が一人ついていたのですが、
その歯科助手の人が横から表情を伺っているんですね。
僕が痛みで顔を歪めると「痛いですよね。もう少し頑張ってくださいね」と。
Yesセットのコミュニケーションでした。
素晴らしいですね。
「少しだけ」っていうのは時間がどれくらいなのか分からない不安を与えますから
嘘でもいいので、より限定的に「15秒だけ頑張ってくださいね」とかに
工夫をされるともっと良いと思われます。
15秒で終わらなければ、「すみません、あと10秒」とか言えば済むわけですから。
・・・まぁ、そんなフィードバックはしませんでしたが、
すごく患者の気持ちを考えている歯医者さんでした。
歯科医の方がNLPを学びに来る理由を体感できたわけですね。
ちなみに、歯を削られているとき、知らないうちに肩に力が入っているのに気づいたんです。
小さい頃の不安がよみがえるのか、痛みを予想して力を入れてしまうのか、
分かりませんが体を強張らせていたようです。
で、そのことに気づいたとき、僕は意識的にリラックスを心がけました。
すると、その部分に意識が集中しなくなるからでしょうか、
随分と痛みが気にならなくなったんです。
催眠的援助の場面では体からリラックスさせて催眠状態へ誘導する方法がありますが
そのときにも痛みを少しだけ与えて、それを指標にリラックスさせる技法があります。
それに近い効果で痛みが気にならなくなったのかもしれません。
リラックスで痛みが落ち着くのなら、安心できる歯医者さんに通うのが一番でしょうね。
まぁ、そういう歯医者さんは混んでいるので時間がかかるのだけがデメリットですが。
また催眠関係の本などには歯科医で催眠を活用している方も紹介されます。
体質的に麻酔を受け付けない方や、口の中に何かを入れられるのが耐えられない方に
催眠的なアプローチを活用するらしいです。
先日までNLPを学びに来られていた素敵な歯科医の先生の影響でしょうか、
ふと昨日に思い立って、今日、歯医者に行ってみたんです。
別にどこかが痛かったわけじゃないのですが、歯の健康って大事かなと思いまして。
10年近く歯医者に行っていなかったので、ものすごく久しぶりでした。
最近の科学技術の進展のおかげで、歯科医の治療技術も随分と変わっていたようですね。
ただ、あの音だけは相変わらず。
苦手だという意識は特にないのですが、体は小さい頃のことを記憶していますね。
自然と体に力が入っていたことに気づきました。
僕が虫歯の治療で歯医者に行っていたのは小学校の頃。
近所の古臭くて薄暗い歯医者でした。
診察時間の終了に近づくと、冬でも電灯と暖房を切ってしまうような所。
そこしか知らなかったのですが、良い歯医者ではなかったのでしょうね、きっと。
それからずっと経って、今から10年近く前に別の綺麗な歯医者に行ったんです。
それは確か、親知らずを抜くためでした。
そのとき行った所はかなり新しい設備を揃えていて
親知らずを抜くときにはレーザーメスなどを使っていたのを覚えています。
で、そこの設備の良い歯医者で言われたんです。
酷い治療をされていますね、と。
詰め物が悪いらしく、その周りから虫歯になっていたのだとか。
その時に許容範囲として置いておいた歯に案の定、今回も虫歯が見つかりました。
歯医者は良い所に行くべきですね。
勉強になりました。
今日行ってきた歯医者は、どうやらコミュニケーションを大切にしているらしく
治療の方針だけでなく色々な会話に気を遣っていました。
これから何をするのか。
これからすることでどうなるのか。
そういったことは事前に説明してくれます。
最近は痛いのを嫌がる患者さんが多いらしく、割りと簡単に麻酔を使うようなのですが
今回は麻酔を使わないという理由まで説明してくれました。
こういうのは安心材料なんでしょうね。
そして歯を削るときも違いました。
「痛かったら教えてくださいねー」なんて言いませんでした。
「痛いと思いますけど、少しだけ頑張ってください」でした。
作業のときには助手が一人ついていたのですが、
その歯科助手の人が横から表情を伺っているんですね。
僕が痛みで顔を歪めると「痛いですよね。もう少し頑張ってくださいね」と。
Yesセットのコミュニケーションでした。
素晴らしいですね。
「少しだけ」っていうのは時間がどれくらいなのか分からない不安を与えますから
嘘でもいいので、より限定的に「15秒だけ頑張ってくださいね」とかに
工夫をされるともっと良いと思われます。
15秒で終わらなければ、「すみません、あと10秒」とか言えば済むわけですから。
・・・まぁ、そんなフィードバックはしませんでしたが、
すごく患者の気持ちを考えている歯医者さんでした。
歯科医の方がNLPを学びに来る理由を体感できたわけですね。
ちなみに、歯を削られているとき、知らないうちに肩に力が入っているのに気づいたんです。
小さい頃の不安がよみがえるのか、痛みを予想して力を入れてしまうのか、
分かりませんが体を強張らせていたようです。
で、そのことに気づいたとき、僕は意識的にリラックスを心がけました。
すると、その部分に意識が集中しなくなるからでしょうか、
随分と痛みが気にならなくなったんです。
催眠的援助の場面では体からリラックスさせて催眠状態へ誘導する方法がありますが
そのときにも痛みを少しだけ与えて、それを指標にリラックスさせる技法があります。
それに近い効果で痛みが気にならなくなったのかもしれません。
リラックスで痛みが落ち着くのなら、安心できる歯医者さんに通うのが一番でしょうね。
まぁ、そういう歯医者さんは混んでいるので時間がかかるのだけがデメリットですが。
2007年11月17日
悩みはなくならない
NLPなどのセミナーをやっていると受講生の多くは
「最近悩みがなくなってきちゃって、ワークがやりにくい」
というようなことをおっしゃいます。
僕もそうでした。
でも悩みは無くならないものですね。
周りの人や環境への悩みは確かに減っていきましたが
自分の内側にある課題に気づくと、それらは沢山あるように感じます。
そのせいでしょうか。
僕がセミナーやワークショップへ勉強に行くときは
必ず自分なりの個人的な課題を持っていくようにしています。
そういったセミナーの中では個人的な話をするようなワークが結構あります。
自分でも個人的な事情を話すわけです。
それをやるから悩みや夢を語る人の気持ちが分かる。
その人の悩みや夢そのものが分かるわけじゃありません。
同じことは全く感じられるはずがありません。
でも、悩みや夢を語るときに、どういう気持ちなのかというのは分かると思います。
それが分からなければ話を聞くことができないんじゃないでしょうか。
僕がセミナーやワークショップに個人的な課題を持って参加する理由はここにもあります。
コミュニケーションとか心のこととか、そういうセミナーに来る方の多くは
どこかしら自分の中に課題や問題、目標をお持ちの方が多いと思うんです。
そういう気持ちでセミナーに参加するプロセスを自分が感じていなければ
何かを伝えることはできないと思っているんです。
自分でも課題を持ってセミナーに行くから、他の受講生の方と交流ができる。
そしてそこから学ぶことができるんじゃないか。
そんな気持ちで僕はセミナーに行っています。
「最近悩みがなくなってきちゃって、ワークがやりにくい」
というようなことをおっしゃいます。
僕もそうでした。
でも悩みは無くならないものですね。
周りの人や環境への悩みは確かに減っていきましたが
自分の内側にある課題に気づくと、それらは沢山あるように感じます。
そのせいでしょうか。
僕がセミナーやワークショップへ勉強に行くときは
必ず自分なりの個人的な課題を持っていくようにしています。
そういったセミナーの中では個人的な話をするようなワークが結構あります。
自分でも個人的な事情を話すわけです。
それをやるから悩みや夢を語る人の気持ちが分かる。
その人の悩みや夢そのものが分かるわけじゃありません。
同じことは全く感じられるはずがありません。
でも、悩みや夢を語るときに、どういう気持ちなのかというのは分かると思います。
それが分からなければ話を聞くことができないんじゃないでしょうか。
僕がセミナーやワークショップに個人的な課題を持って参加する理由はここにもあります。
コミュニケーションとか心のこととか、そういうセミナーに来る方の多くは
どこかしら自分の中に課題や問題、目標をお持ちの方が多いと思うんです。
そういう気持ちでセミナーに参加するプロセスを自分が感じていなければ
何かを伝えることはできないと思っているんです。
自分でも課題を持ってセミナーに行くから、他の受講生の方と交流ができる。
そしてそこから学ぶことができるんじゃないか。
そんな気持ちで僕はセミナーに行っています。
2007年11月15日
新春ワークショップのお知らせ
〜何が自分の可能性を制限しているのか?〜
成功法則の本を読んで成功できる人と成功できない人がいる。
目標を紙に書いて達成できる人と達成できない人がいる。
努力するほど成果が上がる人と、努力しても成果が上がらない人がいる。
目標に到達できる人と、そうでない人の違いは一体何なのでしょうか?
その鍵は無意識にあります。
無意識に沿った目標設定をすれば、その目標を達成できる可能性は高いと言えるでしょう。
しかし無意識の意図に沿った目標設定というのが難しいのです。
意識的に立てた目標は無意識の反発を買うことがあります。
例えばダイエットをすることを考えた場合。
意識ではダイエットを望んでいるわけです。
しかし無意識にはダイエットが成功してはいけない理由があるかもしれません。
そのようなとき、ダイエットに成功する可能性は低くなってしまうでしょう。
どのような目標も努力を続けていけば近づくことができます。
努力を続けている限り、目標に近づくことができます。
そして目標へ向けて努力をすることそのものが素晴らしいことだと思います。
目標へ近づく喜び、達成したときの満足感。
それは間違いなく素晴らしいものです。
ところが無意識の意図に逆らった目標を意識的に達成すると
新たに別の課題が生まれてくることがあるのです。
転移というものです。
ダイエットには成功したけど、タバコがやめられなくなってしまった・・・、のように。
逆に意識的に頑張ることが逆効果になることもあります。
例えば、人前で緊張せずに話せるようになりたい、ということで
緊張したときの声の震えを止めようと努力をしたとします。
多くの場合、震えを止めようとするほどに、震えが強くなるものです。
努力の方向が間違っているのです。
このように、目標の設定の仕方が重要であるということです。
また、自分自身で自分の可能性に制限をかけていることもあります。
勝手に自分自身の限界を決めてしまっているのです。
それはセルフイメージとも関連しています。
「自分とは、こういう人間だ」という認識。
知らず知らずのうちに作られてきた思い込み。
それらが自分の可能性に枠を作ってしまっているのです。
こうした枠組みやストッパーが、成功する人と、しない人の差なのかもしれません。
このワークショップではゲシュタルト療法やNLPを応用した手法を用いて
個人の内的な制限を外し、可能性を拡げるための取り組みをしていきます。
主なテーマは以下の通りです。
◆無意識との葛藤を解消し、無意識に沿った目標設定をする。
◆自分自身を制限しているストッパーを外して自由な未来に近づく。
◆自分の枠を拡げ、自己成長につなげる。
新年のこの時期に、これからの1年間に向き合ってみませんか?
ところで、数多くのワークショップを経験していると感じることがあります。
それは、場を共有した者同士の無意識的交流です。
そのことが大きな価値を持っているように思えるのです。
根拠はありません。
実感があるだけです。
目標設定は自分でも出来るという方もいらっしゃると思いますが、
目標達成には他の参加者の取り組みが大きな手助けとなるものと期待しています。
開催は成人の日、1月14日(月・祝)です。
※2007年中(12月28日まで)に、お申し込みいただいた方には
早期割引が適用されます。
ご自身の1年間の成長に関心がおありの方は、是非ご参加下さい。
そして2008年の年末に1年間のご報告を頂けたら、この上ない喜びです。
開催要項は以下の通りです。
【日時】 2008年 1月14日(月・祝)
10:00〜19:00 (30分程度、前後する場合があります)
【場所】 都内会場(お申し込みの方に後日ご連絡いたします)
【参加費】〈通常〉 18,000円
〈早期割引〉 15,000円
(2007年12月28日までにお申し込みの場合)
【お支払い】お申し込み後にご連絡いたします
グループの効果を活用するため少人数制で行いますので
定員になり次第、受付を締め切らせていただきます。
お早目のお申し込みをお薦めいたします。
お申し込みフォーム
好評のうちに終了いたしました。
2007年11月13日
便利な言葉
言葉というのは曖昧ですね。
曖昧だからこその良さもあるわけですが。
しかし、その曖昧さが便利だからといって、そこに頼りすぎると弊害もあります。
誤解が生じるわけです。
「よく分からない」ということが起きてくるわけです。
例えば、NLPでは感覚が大切だというようなことが良く言われます。
頭で考えないで感覚で理解するとか、伝わってきた感覚を言語化するとか、
そんなような言葉の使われ方もします。
そもそも言葉というのは個人の体験に基づいて作られた概念ですから
同じ単語であっても人によって意味が少しずつ違っているわけです。
愛が大切だという人がいたとしても、
その愛が特定の個人に向けられた愛の人もいれば、
家族愛の人、人類愛の人、自分を愛する人もいます。
愛を与えることを好む人も、愛を貰いたい人もいます。
そんなにも言葉には曖昧な要素があるにもかかわらず
日常のコミュニケーションは自然と流れていってしまっているんです。
それは言葉の曖昧さが柔軟性を生み出すというメリットだと思います。
ところが本当に伝えたいことがある場合には、
言葉の意味をキチンと伝える必要が出てくると思うんです。
お互いの間で共通した言葉の理解が必要だろうということです。
「感覚」という言葉は、日常の日本語では特に
曖昧に使われやすい言葉の1つじゃないかと思います。
辞書で調べると
1、目・耳・鼻・皮膚・舌などが身体の内外から受けた刺激を感じ取る働き。
また、感じ取った色・音・におい・温度など。
2、(美醜・善悪など物事について)感じとること。また、感じとる心の働き。
感受性。感じ方。
となります。
1のほうは五感による働きであって、2のほうはセンスとかに近い感じですね。
最も通常の意味で「NLPでは感覚が大切です」ということを解釈すると
「五感を通じて情報を感じ取ることがNLPでは大切だ」ということだと思います。
同時に「コミュニケーションの過程で感じ取る感受性が大切だ」
という風にも解釈できるわけです。
確かにどちらも大切なことですが、どの場面でそれを言うかによって意味が違います。
その判断を受け取る側に任せるような言い方になりがちですが
それがまた誤解を与えやすいので注意が必要だなと思うんです。
他にも、「感覚的に理解する」なんていう言い方もしますね。
それは「なんとなく分かった」という感じでしょうか。
「頭じゃなくて体で理解する」という言い方にも近いようです。
でも「体で覚える」というのとは全く違います。
体で覚えるのは運動のパターンです。
ある動きが意識せずに自然とできるようになるのが「体で覚えた」状態です。
こうやってキーボードをブラインドタッチすることや、
車の運転、自転車に乗るとき、スポーツをするときなどです。
意識的に考えて動かさなくていいように、小脳に運動のモデルを作ると言われます。
この小脳モデルを作ることを「体で覚える」というわけです。
一方、「感覚的に理解する」というのは、
「言葉ではうまく言えないけど、なんとなく分かった感じ」だと思います。
それは完全に大脳の処理です。前頭前野の働きです。
紛れもなく頭で理解しているんです。
言葉で理解していないけど、頭で理解した状態です。
言語は個人の体験に基づいた概念ネットワークによって生み出されますが
体験から概念を作り出す能力が人間には備わっているんです。
ゲシュタルト能力なんて言われます。
例えば、「美しい」という単語を言葉で説明するのは難しいと思います。
でも「美しい」という単語の意味はなんとなく分かっているはずです。
そんな感じがゲシュタルトが出来上がっている状態です。
「感覚的に理解する」というときは、言葉と結びついていないけど
体験から概念のネットワークを作り出すことはできたから理解している、
という状態になっていると言えます。
要するに、「体験を通じて頭で理解したけれども言語化はできない」わけです。
厳しい言い方をすれば、感覚とはあまり関係ないわけです。
世間一般では論理的じゃない考え方をする人を「感覚的」と言ったりします。
フィーリングとか感覚とかで物事を決める、と。
直感的な決め方とも言えるかもしれません。
「論理的」の対義語として「感覚的」という表現が浸透しているんですかね。
それは「気分」で決めているという言い方のほうが正確じゃないかと思いますが。
つまり、「感覚を大切にして」と言うと、
「言葉ではなくて体験を通じて理解して」という意味も出てくるということです。
また「感覚」が「感情」や「気持ち」という意味で使われることもあります。
これは英語でいえば「Feeling」です。
例えば、泣いている人を見ていたら自分まで悲しい気持ちになってきた、という場合。
悲しみの「感情」がわいてきていると言えます。
もしかすると「気の毒に・・・」という「気持ち」が出てくることもあるでしょう。
それらも全て「感覚がわいてくる」という言い方になることがあるんです。
特に混乱しやすいのが、NLPで良く使われる「体感覚」という言葉です。
専門的には触運動覚のことですが、視覚と聴覚を除いた全てぐらいの理解で良いと思います。
「感覚」という言葉が「体感覚」を意味する場合もあるようです。
「感覚がわいてくる」と言ったとき、それが「体感覚」を意味するのであれば
例えば、胸の中心辺りがキューッと縮こまる感じを「感覚」と言うわけです。
これは本来の意味に近いですが、「感覚」と「体感覚」という似た単語なので
区別をハッキリさせる必要がありそうですね。
感覚、五感、体験的、感情、気分(気持ち)、体感覚・・・。
誤解を生みやすい表現だと思ったので少し説明してみましたが、
何よりも自分が話すときに誤解を少なくするのが大事でしょうね。
言葉の使い方にも気をつけようと思います。
曖昧だからこその良さもあるわけですが。
しかし、その曖昧さが便利だからといって、そこに頼りすぎると弊害もあります。
誤解が生じるわけです。
「よく分からない」ということが起きてくるわけです。
例えば、NLPでは感覚が大切だというようなことが良く言われます。
頭で考えないで感覚で理解するとか、伝わってきた感覚を言語化するとか、
そんなような言葉の使われ方もします。
そもそも言葉というのは個人の体験に基づいて作られた概念ですから
同じ単語であっても人によって意味が少しずつ違っているわけです。
愛が大切だという人がいたとしても、
その愛が特定の個人に向けられた愛の人もいれば、
家族愛の人、人類愛の人、自分を愛する人もいます。
愛を与えることを好む人も、愛を貰いたい人もいます。
そんなにも言葉には曖昧な要素があるにもかかわらず
日常のコミュニケーションは自然と流れていってしまっているんです。
それは言葉の曖昧さが柔軟性を生み出すというメリットだと思います。
ところが本当に伝えたいことがある場合には、
言葉の意味をキチンと伝える必要が出てくると思うんです。
お互いの間で共通した言葉の理解が必要だろうということです。
「感覚」という言葉は、日常の日本語では特に
曖昧に使われやすい言葉の1つじゃないかと思います。
辞書で調べると
1、目・耳・鼻・皮膚・舌などが身体の内外から受けた刺激を感じ取る働き。
また、感じ取った色・音・におい・温度など。
2、(美醜・善悪など物事について)感じとること。また、感じとる心の働き。
感受性。感じ方。
となります。
1のほうは五感による働きであって、2のほうはセンスとかに近い感じですね。
最も通常の意味で「NLPでは感覚が大切です」ということを解釈すると
「五感を通じて情報を感じ取ることがNLPでは大切だ」ということだと思います。
同時に「コミュニケーションの過程で感じ取る感受性が大切だ」
という風にも解釈できるわけです。
確かにどちらも大切なことですが、どの場面でそれを言うかによって意味が違います。
その判断を受け取る側に任せるような言い方になりがちですが
それがまた誤解を与えやすいので注意が必要だなと思うんです。
他にも、「感覚的に理解する」なんていう言い方もしますね。
それは「なんとなく分かった」という感じでしょうか。
「頭じゃなくて体で理解する」という言い方にも近いようです。
でも「体で覚える」というのとは全く違います。
体で覚えるのは運動のパターンです。
ある動きが意識せずに自然とできるようになるのが「体で覚えた」状態です。
こうやってキーボードをブラインドタッチすることや、
車の運転、自転車に乗るとき、スポーツをするときなどです。
意識的に考えて動かさなくていいように、小脳に運動のモデルを作ると言われます。
この小脳モデルを作ることを「体で覚える」というわけです。
一方、「感覚的に理解する」というのは、
「言葉ではうまく言えないけど、なんとなく分かった感じ」だと思います。
それは完全に大脳の処理です。前頭前野の働きです。
紛れもなく頭で理解しているんです。
言葉で理解していないけど、頭で理解した状態です。
言語は個人の体験に基づいた概念ネットワークによって生み出されますが
体験から概念を作り出す能力が人間には備わっているんです。
ゲシュタルト能力なんて言われます。
例えば、「美しい」という単語を言葉で説明するのは難しいと思います。
でも「美しい」という単語の意味はなんとなく分かっているはずです。
そんな感じがゲシュタルトが出来上がっている状態です。
「感覚的に理解する」というときは、言葉と結びついていないけど
体験から概念のネットワークを作り出すことはできたから理解している、
という状態になっていると言えます。
要するに、「体験を通じて頭で理解したけれども言語化はできない」わけです。
厳しい言い方をすれば、感覚とはあまり関係ないわけです。
世間一般では論理的じゃない考え方をする人を「感覚的」と言ったりします。
フィーリングとか感覚とかで物事を決める、と。
直感的な決め方とも言えるかもしれません。
「論理的」の対義語として「感覚的」という表現が浸透しているんですかね。
それは「気分」で決めているという言い方のほうが正確じゃないかと思いますが。
つまり、「感覚を大切にして」と言うと、
「言葉ではなくて体験を通じて理解して」という意味も出てくるということです。
また「感覚」が「感情」や「気持ち」という意味で使われることもあります。
これは英語でいえば「Feeling」です。
例えば、泣いている人を見ていたら自分まで悲しい気持ちになってきた、という場合。
悲しみの「感情」がわいてきていると言えます。
もしかすると「気の毒に・・・」という「気持ち」が出てくることもあるでしょう。
それらも全て「感覚がわいてくる」という言い方になることがあるんです。
特に混乱しやすいのが、NLPで良く使われる「体感覚」という言葉です。
専門的には触運動覚のことですが、視覚と聴覚を除いた全てぐらいの理解で良いと思います。
「感覚」という言葉が「体感覚」を意味する場合もあるようです。
「感覚がわいてくる」と言ったとき、それが「体感覚」を意味するのであれば
例えば、胸の中心辺りがキューッと縮こまる感じを「感覚」と言うわけです。
これは本来の意味に近いですが、「感覚」と「体感覚」という似た単語なので
区別をハッキリさせる必要がありそうですね。
感覚、五感、体験的、感情、気分(気持ち)、体感覚・・・。
誤解を生みやすい表現だと思ったので少し説明してみましたが、
何よりも自分が話すときに誤解を少なくするのが大事でしょうね。
言葉の使い方にも気をつけようと思います。
2007年11月12日
コミュニケーションということ
今日は非常に深い話です。
本質的です。
こんなことをブログで書いて良いのかというぐらいの話です。
一般的には、最初に期待値を下げるようなことをした方が
期待外れにならないので有効だと言われますが、
あえて大袈裟な表現をしてみます。
それぐらい本質的な話だと思うからです。
「そうじゃないだろう」と反論されても、
「なんだ、そんなことか」とガッカリされて構いません。
僕はそう思う。
それだけのことですが、とても大切だと思うんです。
コミュニケーションということについて、です。
コミュニケーションという言葉は非常に曖昧です。
情報伝達とか意思伝達という意味合いで使われることが多いようですが
何かが伝わり、受け取られるときにコミュニケーションという言葉が使われる気がします。
インターネットでコミュニケーションに関して調べると
IT系や通信網などの情報・信号の伝達としての意味合いと
人間関係における意思伝達としての意味合いが多いようです。
言うまでもなく、僕が日頃から意識をしているコミュニケーションは
人間関係におけるコミュニケーションですが、その意味に限定すると
言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションに分類されることがあります。
非言語コミュニケーションは動物同士でも行われていると考えて良さそうですね。
で、僕がここで言いたいのは自分とのコミュニケーションについてです。
NLPはコミュニケーション・スキルとして知られていますが、
「コミュニケーションには、他人とのコミュニケーションと
自分とのコミュニケーションがある」
というようなことが良く言われます。
確かにNLPでは自分の内側に意識を向け、自分自身と会話をするようなスキルもあります。
それはあたかも自分とコミュニケーションをとっているかのようです。
形として「自分とのコミュニケーション」と言っても良いかもしれません。
ただ、それは少し表面的な気もします。
例えば、ある人が無人島で他の人から完全に隔離されて
自分一人で自給自足の生活を送っていたとします。
文明的な要素は全て排除して、完全に自然の中で一人だけ暮らしている。
その目的が何かは分かりませんが、生き延びることが目標の大部分でしょう。
そうなったとき、コミュニケーションは自然との間でとられることになります。
独り言をつぶやくかもしれませんが、それは思考を言語化しただけと考えられます。
自分と向き合ったり、自分探しをしたりするでしょうか?
人の心が複雑に働くのは、他の人と関わっているからだと思うんです。
他人との関わりがあるから、自分という存在が意識できると思うんです。
他人がいなければ自分とのコミュニケーションなど、あり得ないわけです。
そうして考えると自分とのコミュニケーションというものがあったとして、
それは他人とのコミュニケーションを前提としたものだということになります。
人が人間関係に悩むとき、それは自分自身の無意識と意識の葛藤によるものです。
全ての他人と上手くいかないと感じている人は滅多にいないでしょう。
苦手な人間関係があるんです。
気にならない人間関係もあるんです。
苦手な人間関係は、その人の無意識に蓄えられた経験によるものと言えます。
過去の経験が生み出した上手くいかないパターンがあると考えられています。
対人コミュニケーション・スキルとして話し方や聞き方、
コーチングなどを学んで、他人との関係を意識的に改善することもできるでしょう。
しかし、本当に人間関係で問題が起きるときは
そういったスキルを意識的にやろうとしても出来ないときです。
分かってても上手くいかないときです。
そのような状況を生み出している無意識的な課題。
それを扱っていくためのスキルは心理療法として利用されてきました。
NLPには、それらのエッセンスが詰まっています。
自分の無意識を扱っていくため、これが「自分とのコミュニケーション」
と呼ばれる部分ではないかと思います。
上手くいかないときの自分の無意識的課題を乗り越える。
そして他人とのコミュニケーションを楽にしていく。
他人との関係に本気で向き合っていけば、自分自身と向き合う必要性が出てくるわけです。
「他人とのコミュニケーション」の行き着く先は「自分とのコミュニケーション」であり
「自分とのコミュニケーション」は「他人とのコミュニケーション」のためにある、
ということです。
他人との関係に問題を感じるとき、それは自分の内側にある問題に出会っているときです。
他人の欠点や他人への不満は、自分が許せていない自分の中の一部です。
他人とのコミュニケーションで生じる問題は自分の問題なわけです。
自分の中に欠点を感じるのも他人と比較しているからではないでしょうか。
他人との関わりがなければ自分の欠点に気づくこともないと思うんです。
問題は自分の中にあるということです。
また、自分探しや、やりたいことを探すような意味合いで
「自分とのコミュニケーション」を求めることもあるようです。
本当の自分。
自分のやりたいこと。
それは自分と向き合うだけで見つかるものでしょうか?
自分を超えた誰かのために何をするのか、ということは考えなくて良いでしょうか?
自分が生かされていると思えたとき、自分の命の使い方を考えられる。
それが文字通り「使命感」であり、ミッションと呼ばれるものだと思うんです。
他人との関わりの中で自分がどのようにありたいか、
ということが自分という存在を意識するための視点じゃないかと思います。
自分とは他人との関係の中に探しにいくものかもしれません。
自分探しのために「自分とのコミュニケーション」をするのではなく
「他人とのコミュニケーション」の中で自分を見出していく。
それは不思議なほど何かに導かれる感覚のようです。
コミュニケーションは他人がいるから成り立つものです。
自分という存在もまた他人がいるから意味をもつものだと思うんです。
「自分とのコミュニケーション」は他人との関係が前提なんです。
その言葉自体には、あまり意味を感じません。
他人との関係で問題を感じたら、その解決策は自分の内側に求める。
自分の存在を確かめたくなったら、他人との関係に答えを求める。
そういうものじゃないでしょうか。
コミュニケーションは他人の存在無しには、あり得ないものだと思います。
そして、人は他人との関わりの中で生きているものだと思います。
だからコミュニケーションが大事なんだと思います。
そこに「自分とのコミュニケーション」と「他人とのコミュニケーション」を
分ける意味はあまり無いように感じるんです。
コミュニケーションは我々に、
「人が自分だけで生きてはいない」
ということを教えてくれている気がします。
本質的です。
こんなことをブログで書いて良いのかというぐらいの話です。
一般的には、最初に期待値を下げるようなことをした方が
期待外れにならないので有効だと言われますが、
あえて大袈裟な表現をしてみます。
それぐらい本質的な話だと思うからです。
「そうじゃないだろう」と反論されても、
「なんだ、そんなことか」とガッカリされて構いません。
僕はそう思う。
それだけのことですが、とても大切だと思うんです。
コミュニケーションということについて、です。
コミュニケーションという言葉は非常に曖昧です。
情報伝達とか意思伝達という意味合いで使われることが多いようですが
何かが伝わり、受け取られるときにコミュニケーションという言葉が使われる気がします。
インターネットでコミュニケーションに関して調べると
IT系や通信網などの情報・信号の伝達としての意味合いと
人間関係における意思伝達としての意味合いが多いようです。
言うまでもなく、僕が日頃から意識をしているコミュニケーションは
人間関係におけるコミュニケーションですが、その意味に限定すると
言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションに分類されることがあります。
非言語コミュニケーションは動物同士でも行われていると考えて良さそうですね。
で、僕がここで言いたいのは自分とのコミュニケーションについてです。
NLPはコミュニケーション・スキルとして知られていますが、
「コミュニケーションには、他人とのコミュニケーションと
自分とのコミュニケーションがある」
というようなことが良く言われます。
確かにNLPでは自分の内側に意識を向け、自分自身と会話をするようなスキルもあります。
それはあたかも自分とコミュニケーションをとっているかのようです。
形として「自分とのコミュニケーション」と言っても良いかもしれません。
ただ、それは少し表面的な気もします。
例えば、ある人が無人島で他の人から完全に隔離されて
自分一人で自給自足の生活を送っていたとします。
文明的な要素は全て排除して、完全に自然の中で一人だけ暮らしている。
その目的が何かは分かりませんが、生き延びることが目標の大部分でしょう。
そうなったとき、コミュニケーションは自然との間でとられることになります。
独り言をつぶやくかもしれませんが、それは思考を言語化しただけと考えられます。
自分と向き合ったり、自分探しをしたりするでしょうか?
人の心が複雑に働くのは、他の人と関わっているからだと思うんです。
他人との関わりがあるから、自分という存在が意識できると思うんです。
他人がいなければ自分とのコミュニケーションなど、あり得ないわけです。
そうして考えると自分とのコミュニケーションというものがあったとして、
それは他人とのコミュニケーションを前提としたものだということになります。
人が人間関係に悩むとき、それは自分自身の無意識と意識の葛藤によるものです。
全ての他人と上手くいかないと感じている人は滅多にいないでしょう。
苦手な人間関係があるんです。
気にならない人間関係もあるんです。
苦手な人間関係は、その人の無意識に蓄えられた経験によるものと言えます。
過去の経験が生み出した上手くいかないパターンがあると考えられています。
対人コミュニケーション・スキルとして話し方や聞き方、
コーチングなどを学んで、他人との関係を意識的に改善することもできるでしょう。
しかし、本当に人間関係で問題が起きるときは
そういったスキルを意識的にやろうとしても出来ないときです。
分かってても上手くいかないときです。
そのような状況を生み出している無意識的な課題。
それを扱っていくためのスキルは心理療法として利用されてきました。
NLPには、それらのエッセンスが詰まっています。
自分の無意識を扱っていくため、これが「自分とのコミュニケーション」
と呼ばれる部分ではないかと思います。
上手くいかないときの自分の無意識的課題を乗り越える。
そして他人とのコミュニケーションを楽にしていく。
他人との関係に本気で向き合っていけば、自分自身と向き合う必要性が出てくるわけです。
「他人とのコミュニケーション」の行き着く先は「自分とのコミュニケーション」であり
「自分とのコミュニケーション」は「他人とのコミュニケーション」のためにある、
ということです。
他人との関係に問題を感じるとき、それは自分の内側にある問題に出会っているときです。
他人の欠点や他人への不満は、自分が許せていない自分の中の一部です。
他人とのコミュニケーションで生じる問題は自分の問題なわけです。
自分の中に欠点を感じるのも他人と比較しているからではないでしょうか。
他人との関わりがなければ自分の欠点に気づくこともないと思うんです。
問題は自分の中にあるということです。
また、自分探しや、やりたいことを探すような意味合いで
「自分とのコミュニケーション」を求めることもあるようです。
本当の自分。
自分のやりたいこと。
それは自分と向き合うだけで見つかるものでしょうか?
自分を超えた誰かのために何をするのか、ということは考えなくて良いでしょうか?
自分が生かされていると思えたとき、自分の命の使い方を考えられる。
それが文字通り「使命感」であり、ミッションと呼ばれるものだと思うんです。
他人との関わりの中で自分がどのようにありたいか、
ということが自分という存在を意識するための視点じゃないかと思います。
自分とは他人との関係の中に探しにいくものかもしれません。
自分探しのために「自分とのコミュニケーション」をするのではなく
「他人とのコミュニケーション」の中で自分を見出していく。
それは不思議なほど何かに導かれる感覚のようです。
コミュニケーションは他人がいるから成り立つものです。
自分という存在もまた他人がいるから意味をもつものだと思うんです。
「自分とのコミュニケーション」は他人との関係が前提なんです。
その言葉自体には、あまり意味を感じません。
他人との関係で問題を感じたら、その解決策は自分の内側に求める。
自分の存在を確かめたくなったら、他人との関係に答えを求める。
そういうものじゃないでしょうか。
コミュニケーションは他人の存在無しには、あり得ないものだと思います。
そして、人は他人との関わりの中で生きているものだと思います。
だからコミュニケーションが大事なんだと思います。
そこに「自分とのコミュニケーション」と「他人とのコミュニケーション」を
分ける意味はあまり無いように感じるんです。
コミュニケーションは我々に、
「人が自分だけで生きてはいない」
ということを教えてくれている気がします。