2007年12月
2007年12月31日
何で一年を振り返りますか?
2007年も終わりですね。
年末というのは不思議な気分になります。
いつもとは違う。
そこに大切なことがあるのかもしれません。
テレビを見ていても普段とは違います。
そして、その光景にこそ、その年の傾向が集約されるようです。
ところで、地上デジタル放送が始まっていますね。
ワンセグとかいって携帯端末でデジタル放送のテレビを見ることもできるとか。
で、この地上デジタル放送というのはアナログ放送に比べて遅れるみたいです。
ケーブルテレビを使っているとアナログ放送とデジタル放送が両方見られるんですが
同じチャンネルをアナログからデジタルに切り替えると、
1フレーズくらいの遅れを感じられます。
ということは・・・。
きっと2008年のカウントダウンも若干のズレがあるんでしょうね。
アナログ放送で「あけましておめでとうございます!」と言った瞬間に
デジタルに切り替えると、「――めでとうございます!」なんてなったり。
どっちの時間が正しいんだろう?なんて考えてしまいますね。
というように僕は年末になると急にテレビを見るようになるんです。
自分自身が一番、時間の使い方を変えているわけですね。
年末のテレビは再放送なども多いようです。
僕は再放送まで知らなかったのですが、この暮れに見て印象に残ったのがあります。
『ライアーゲーム』というドラマ。
心理戦や駆け引き、人の心の弱さなどを感じられる物語でした。
一言でいえば多額の金を奪い合うゲームを描いた話です。
そこには人の性善説と性悪説を考えさせる展開がありました。
人を信じるということ。
人を疑うということ。
ドラマでは結局、人を信じることでハッピーエンドとなっていました。
人に勝とうとする気持ち。
誰かを蹴落とそうとする気持ち。
自分を守るために他者をないがしろにする気持ち。
それは誰にでもある仕方の無いことなのかもしれません。
特に極限状態であれば。
そんな状況でも人を信じ続けた主人公の想いが最終的に伝わる場面は印象的でした。
僕が人を全面的に信じるかどうかと言えば、それは状況によります。
ただ僕が信じることもあります。
それは「無意識は素晴らしい」ということ。
無意識は必ず本人を守り、助けているということは信じています。
もしかしたら誰かを裏切る人にも、そうしなければならなかった理由があるかもしれません。
そうすることで無意識に守っている何かがあるのかもしれません。
もちろん、だからといって僕にとって大切な誰かに犯罪をしたような人を
許せるかと言われれば、それは違うこともあるでしょう。
ただ、それが原因で無意識を信頼しなくなるということはないと思います。
今年一年を振り返ると、非常に色々なことがありました。
僕にとって、とても印象深い一年です。
その中でも大きいのは「無意識を信頼する」ということを
実感を持って受け入れられるようになったことだと思います。
他人に対しても、自分に対しても、です。
さて、2008年にはどんなことがやってくるのでしょうね。
年末というのは不思議な気分になります。
いつもとは違う。
そこに大切なことがあるのかもしれません。
テレビを見ていても普段とは違います。
そして、その光景にこそ、その年の傾向が集約されるようです。
ところで、地上デジタル放送が始まっていますね。
ワンセグとかいって携帯端末でデジタル放送のテレビを見ることもできるとか。
で、この地上デジタル放送というのはアナログ放送に比べて遅れるみたいです。
ケーブルテレビを使っているとアナログ放送とデジタル放送が両方見られるんですが
同じチャンネルをアナログからデジタルに切り替えると、
1フレーズくらいの遅れを感じられます。
ということは・・・。
きっと2008年のカウントダウンも若干のズレがあるんでしょうね。
アナログ放送で「あけましておめでとうございます!」と言った瞬間に
デジタルに切り替えると、「――めでとうございます!」なんてなったり。
どっちの時間が正しいんだろう?なんて考えてしまいますね。
というように僕は年末になると急にテレビを見るようになるんです。
自分自身が一番、時間の使い方を変えているわけですね。
年末のテレビは再放送なども多いようです。
僕は再放送まで知らなかったのですが、この暮れに見て印象に残ったのがあります。
『ライアーゲーム』というドラマ。
心理戦や駆け引き、人の心の弱さなどを感じられる物語でした。
一言でいえば多額の金を奪い合うゲームを描いた話です。
そこには人の性善説と性悪説を考えさせる展開がありました。
人を信じるということ。
人を疑うということ。
ドラマでは結局、人を信じることでハッピーエンドとなっていました。
人に勝とうとする気持ち。
誰かを蹴落とそうとする気持ち。
自分を守るために他者をないがしろにする気持ち。
それは誰にでもある仕方の無いことなのかもしれません。
特に極限状態であれば。
そんな状況でも人を信じ続けた主人公の想いが最終的に伝わる場面は印象的でした。
僕が人を全面的に信じるかどうかと言えば、それは状況によります。
ただ僕が信じることもあります。
それは「無意識は素晴らしい」ということ。
無意識は必ず本人を守り、助けているということは信じています。
もしかしたら誰かを裏切る人にも、そうしなければならなかった理由があるかもしれません。
そうすることで無意識に守っている何かがあるのかもしれません。
もちろん、だからといって僕にとって大切な誰かに犯罪をしたような人を
許せるかと言われれば、それは違うこともあるでしょう。
ただ、それが原因で無意識を信頼しなくなるということはないと思います。
今年一年を振り返ると、非常に色々なことがありました。
僕にとって、とても印象深い一年です。
その中でも大きいのは「無意識を信頼する」ということを
実感を持って受け入れられるようになったことだと思います。
他人に対しても、自分に対しても、です。
さて、2008年にはどんなことがやってくるのでしょうね。
2007年12月27日
映画を見てみる
年末になるとテレビ番組が変わってきますね。
1年間の振り返りが多くなるようです。
そして振り返っているニュースを見ると、意外と知らないことが多いんです。
僕はあまりニュースを見ていないんだなぁ、と気づきます。
来年は少し社会情勢にも注目してみようかと思いました。
ニュースを見ないのは時間がないからというわけではありません。
会社にいたときは時間がなかったのもあって、あまり見ていませんでした。
見ても通販番組ばかりでしたから。
そのときの癖なんでしょうかね。
今もあまり見ていなかったようです。
テレビよりも本を読んだり、ビデオや映画を見るほうが好きだったのかもしれません。
最近は「4分間のピアニスト」という映画を見ました。
なかなか象徴的で興味深い映画でした。
自由とか個性とか、そういったことを考えさせられる映画でした。
音楽にせよ、文学にせよ、芸術で自分を表現できる人というのは素晴らしいですね。
何か特別な才能のように思う方がほとんどではないかと思います。
表現だけなら誰でもできるわけです。
それが認められるというのが少ないことなのでしょうね。
もしかすると彼らは認められることを目指して表現していないのかもしれませんが。
街中で、路上ミュージシャンや、絵や詩などを売っている人を見かけます。
ただ、それが好きなのか、
それを通じて表現した自分を誰かから認めてもらいたいのか。
それは分かりませんが、そこには誰かへの期待があるように思います。
おそらく、彼らの表現している音楽や絵や詩よりも
その場でそういう行動をしている全てにこそ、その人が現れているのでしょうね。
意識的に表現しようとしなくても、
人は多くのことを表現しているものだと思うんです。
何を表現するかよりも、どう表現するかが重要だと言われます。
そして、それよりも何のために表現するのかが重要なのではないかと思いました。
1年間の振り返りが多くなるようです。
そして振り返っているニュースを見ると、意外と知らないことが多いんです。
僕はあまりニュースを見ていないんだなぁ、と気づきます。
来年は少し社会情勢にも注目してみようかと思いました。
ニュースを見ないのは時間がないからというわけではありません。
会社にいたときは時間がなかったのもあって、あまり見ていませんでした。
見ても通販番組ばかりでしたから。
そのときの癖なんでしょうかね。
今もあまり見ていなかったようです。
テレビよりも本を読んだり、ビデオや映画を見るほうが好きだったのかもしれません。
最近は「4分間のピアニスト」という映画を見ました。
なかなか象徴的で興味深い映画でした。
自由とか個性とか、そういったことを考えさせられる映画でした。
音楽にせよ、文学にせよ、芸術で自分を表現できる人というのは素晴らしいですね。
何か特別な才能のように思う方がほとんどではないかと思います。
表現だけなら誰でもできるわけです。
それが認められるというのが少ないことなのでしょうね。
もしかすると彼らは認められることを目指して表現していないのかもしれませんが。
街中で、路上ミュージシャンや、絵や詩などを売っている人を見かけます。
ただ、それが好きなのか、
それを通じて表現した自分を誰かから認めてもらいたいのか。
それは分かりませんが、そこには誰かへの期待があるように思います。
おそらく、彼らの表現している音楽や絵や詩よりも
その場でそういう行動をしている全てにこそ、その人が現れているのでしょうね。
意識的に表現しようとしなくても、
人は多くのことを表現しているものだと思うんです。
何を表現するかよりも、どう表現するかが重要だと言われます。
そして、それよりも何のために表現するのかが重要なのではないかと思いました。
2007年12月25日
大人になると
物事には必ず良い面と悪い面がある。
その両方を自由に見られるような視点を持てると悩みは減ってくるでしょうね。
NLPではリフレーミングという言い方で伝えています。
物事のある一面のみに注目するのではなく、様々な見方が出来るようになる。
見方を拡げるということです。
ネガティブなものをポジティブに見れるようになるだけで
随分と世の中の見え方が変わってくるのは確かですが、
一方でリフレーミングを学んだばかりに苦しくなる人もいるのが事実です。
NLPの考え方には素晴らしいものが沢山あります。
ただ、NLPは誰にでも使いやすく作られているため
どういった状況で誰が使うのかという部分が抜けているのです。
抜けているというと悪い印象を与えがちかもしれませんが
それはNLPの最大の長所でもあるのです。
そこにも良い面と悪い面があるわけです。
誰にでも仕えるように作られたために、
具体的な状況に関して伝えるものが少なくなってしまっているんですね。
本質的な部分だけを抽象的に抜き出したからこそ、具体的な部分がないんです。
コミュニケーションを円滑にしたり、目標達成に向けて利用したり、
悩みを解消したりするスキルは沢山つまっていますが、
実際にどういう場面で、どうやって使ったらいいかというのは含まれないということです。
だからこそ、実際に自分が使ってみて判断するということが求められると思うんです。
やってみて上手くいかなかったら、違う方法にすればいいんです。
使う人が状況に合わせて色々と試してみる。
そして上手くいかなそうなら、やめるのも重要なことだと思います。
リフレーミングというのは柔軟にものの見方を変えることを言うはずです。
なのにリフレーミングの考え方に固まってしまっては本末転倒です。
悩みや苦しみがある。
それをリフレーミングして受け入れようとする。
「このことは何を教えようとしてくれているんだろうか?」
それで受け入れられるかどうかは意識だけの問題ではありません。
分かっていてもできないことだって沢山あるんです。
今まで自分を支えてくれたものが受け入れられなくなることもあります。
それを受け入れようとするのは非常に苦しいことです。
悩みや苦しみの意味を探してリフレーミングしようとする。
それに凝り固まったとき、それは再び別のリフレーミングが求められる時かもしれません。
『悩み・苦しみはリフレーミングすると楽になれる』
から
『悩み・苦しみは、すぐにリフレーミングしないほうが良いこともある』
へ。
岡本吏郎さんの『稼ぐ超思考法』という本に素敵な言葉が載っていました。
子供の頃の苦痛など、たかがしれている。
大人から見たら、子供の悩みなど悩みではない。
もう少し大人になったら、今の悩みなど悩みではなくなる。
でも、その悩みがなかったら大人にはなれない。
成長するほど悩みのレベルも上がっていくということでしょう。
今の苦しみは成長したから現れた苦しみ。
今の苦しみは成長するための苦しみ。
苦しみを苦しみとして受け入のも強さなのかもしれません。
・・・クリスマスに書く内容じゃありませんね。
その両方を自由に見られるような視点を持てると悩みは減ってくるでしょうね。
NLPではリフレーミングという言い方で伝えています。
物事のある一面のみに注目するのではなく、様々な見方が出来るようになる。
見方を拡げるということです。
ネガティブなものをポジティブに見れるようになるだけで
随分と世の中の見え方が変わってくるのは確かですが、
一方でリフレーミングを学んだばかりに苦しくなる人もいるのが事実です。
NLPの考え方には素晴らしいものが沢山あります。
ただ、NLPは誰にでも使いやすく作られているため
どういった状況で誰が使うのかという部分が抜けているのです。
抜けているというと悪い印象を与えがちかもしれませんが
それはNLPの最大の長所でもあるのです。
そこにも良い面と悪い面があるわけです。
誰にでも仕えるように作られたために、
具体的な状況に関して伝えるものが少なくなってしまっているんですね。
本質的な部分だけを抽象的に抜き出したからこそ、具体的な部分がないんです。
コミュニケーションを円滑にしたり、目標達成に向けて利用したり、
悩みを解消したりするスキルは沢山つまっていますが、
実際にどういう場面で、どうやって使ったらいいかというのは含まれないということです。
だからこそ、実際に自分が使ってみて判断するということが求められると思うんです。
やってみて上手くいかなかったら、違う方法にすればいいんです。
使う人が状況に合わせて色々と試してみる。
そして上手くいかなそうなら、やめるのも重要なことだと思います。
リフレーミングというのは柔軟にものの見方を変えることを言うはずです。
なのにリフレーミングの考え方に固まってしまっては本末転倒です。
悩みや苦しみがある。
それをリフレーミングして受け入れようとする。
「このことは何を教えようとしてくれているんだろうか?」
それで受け入れられるかどうかは意識だけの問題ではありません。
分かっていてもできないことだって沢山あるんです。
今まで自分を支えてくれたものが受け入れられなくなることもあります。
それを受け入れようとするのは非常に苦しいことです。
悩みや苦しみの意味を探してリフレーミングしようとする。
それに凝り固まったとき、それは再び別のリフレーミングが求められる時かもしれません。
『悩み・苦しみはリフレーミングすると楽になれる』
から
『悩み・苦しみは、すぐにリフレーミングしないほうが良いこともある』
へ。
岡本吏郎さんの『稼ぐ超思考法』という本に素敵な言葉が載っていました。
子供の頃の苦痛など、たかがしれている。
大人から見たら、子供の悩みなど悩みではない。
もう少し大人になったら、今の悩みなど悩みではなくなる。
でも、その悩みがなかったら大人にはなれない。
成長するほど悩みのレベルも上がっていくということでしょう。
今の苦しみは成長したから現れた苦しみ。
今の苦しみは成長するための苦しみ。
苦しみを苦しみとして受け入のも強さなのかもしれません。
・・・クリスマスに書く内容じゃありませんね。
2007年12月22日
美しい非言語
コミュニケーションは言語によるものと言語以外のものとあります。
なんていう説明をすると厳密に区別できるような印象を受ける方もいるかもしれませんが、
元々とても曖昧な「コミュニケーション」というものを分類しているわけですから
できあがった区別もまた非常にいい加減です。
現実的な側面で言えば、役に立ちさえすればいいとも考えられます。
どんな事でも例外はあるわけです。
数学は自ら、その不完全性を証明しています。
矛盾があるわけです。
ただ、そうやって考えたほうが理解しやすい、覚えやすい、意識しやすい・・・、
そんな理由で分類をしてみるということだと思うんです。
ところで、昨日ある機会で手話を見ることができました。
手話は言語でしょうか、非言語でしょうか?
手話はジェスチャーとは違います。
一つ一つの動きに意味があります。
つまり、ある動作が単語を作り出しているわけです。
その単語が意味するものは原則的に日本語に置き換えられていました。
というよりも日本語を手話で表していたのですから、
手話で表現していたものは明らかに日本語です。
日本語の文法にのっとって表現されていたように感じます。
僕は手話にまったく詳しくないですから分かりませんが、
英語や中国語など、言語が変われば手話も変わるのではないかと思います。
そういった意味で考えると、手話は言語です。
声を使っていませんが、ルールは言語にのっとっていますから
手話は言語コミュニケーションだと言えます。
ちなみに数学も数学のルールによって進みますので、あれも一種の言語ですね。
ただ、手話は言語でありながら非常に豊かな非言語性を持っています。
その動きが単語のイメージそのものを表現しているんです。
もちろん日本語が分かるから見えてくるんだとは思います。
でも本物の手話を目の前で見てみると、その表現力に驚かされます。
まったく手話が分からない僕が見ても、なんとなく意味が伝わってくるような気がします。
美しい情景描写をしているようです。
ある意味では詩に近い雰囲気を感じました。
それは手話の動きによって表現された非言語のメッセージです。
手話は言語でありながら、同時に非言語でもあるようです。
もしかすると、その方の手話が非言語のメッセージを多く含んでいたのかもしれません。
声のトーンが非言語のメッセージであるように、
手話のトーンのような表現力が非言語のメッセージだったのかもしれません。
それを差し引いてもなお、手話には美しい非言語的な表現があった。
そう感じます。
なんていう説明をすると厳密に区別できるような印象を受ける方もいるかもしれませんが、
元々とても曖昧な「コミュニケーション」というものを分類しているわけですから
できあがった区別もまた非常にいい加減です。
現実的な側面で言えば、役に立ちさえすればいいとも考えられます。
どんな事でも例外はあるわけです。
数学は自ら、その不完全性を証明しています。
矛盾があるわけです。
ただ、そうやって考えたほうが理解しやすい、覚えやすい、意識しやすい・・・、
そんな理由で分類をしてみるということだと思うんです。
ところで、昨日ある機会で手話を見ることができました。
手話は言語でしょうか、非言語でしょうか?
手話はジェスチャーとは違います。
一つ一つの動きに意味があります。
つまり、ある動作が単語を作り出しているわけです。
その単語が意味するものは原則的に日本語に置き換えられていました。
というよりも日本語を手話で表していたのですから、
手話で表現していたものは明らかに日本語です。
日本語の文法にのっとって表現されていたように感じます。
僕は手話にまったく詳しくないですから分かりませんが、
英語や中国語など、言語が変われば手話も変わるのではないかと思います。
そういった意味で考えると、手話は言語です。
声を使っていませんが、ルールは言語にのっとっていますから
手話は言語コミュニケーションだと言えます。
ちなみに数学も数学のルールによって進みますので、あれも一種の言語ですね。
ただ、手話は言語でありながら非常に豊かな非言語性を持っています。
その動きが単語のイメージそのものを表現しているんです。
もちろん日本語が分かるから見えてくるんだとは思います。
でも本物の手話を目の前で見てみると、その表現力に驚かされます。
まったく手話が分からない僕が見ても、なんとなく意味が伝わってくるような気がします。
美しい情景描写をしているようです。
ある意味では詩に近い雰囲気を感じました。
それは手話の動きによって表現された非言語のメッセージです。
手話は言語でありながら、同時に非言語でもあるようです。
もしかすると、その方の手話が非言語のメッセージを多く含んでいたのかもしれません。
声のトーンが非言語のメッセージであるように、
手話のトーンのような表現力が非言語のメッセージだったのかもしれません。
それを差し引いてもなお、手話には美しい非言語的な表現があった。
そう感じます。
2007年12月20日
催眠マンガ
先週発売された週間少年サンデーに新連載されたマンガ、「LOST+BRAIN」。
タイトルも意味を考えると凄いですが、その内容がまた凄いんです。
テーマは催眠。
催眠療法ではなく催眠術です。
「催眠術で世界征服してやる!」というような話なわけです。
その意味では「LOST+BRAIN」というタイトルはかなり印象的。
原作者か編集者の催眠に対するイメージが出ていますね。
内容もかなり偏った印象を受けました。
現実的ではないなぁ、というのが正直な感想でしょうか。
かなりの発行部数でしょうし、読者層の世代を考えても
どういう影響を及ぼすかが多少心配でもあったりします。
原作者が気になって調べてみましたが、どうやら無名の人のようで。
で、調べていると「DEATH NOTE」に似ているという評価が多かったんですね。
「DEATH NOTE」は死神とかなんとか完全に架空の話でしょうが
「LOST+BRAIN」というマンガでは催眠というテーマなので少し心配です。
マンガの影響力はバカにならないと思いますし。
ただでさえ、テレビのショー催眠やら催眠ハーレム男やらの影響で
催眠という言葉に対して怖い印象を持つ方も少なくないのに
小中学生ぐらいから催眠に対して偏見を持たれると残念な気持ちになります。
催眠という現象は決して特別なものじゃないですし、
様々な場面で自然に応用可能な柔軟性も持っているものです。
とりわけ、個性や自分探しということが意識されがちな現代にあっては
エリクソン的な「無意識を信頼する」という催眠における考え方が
多くの人にとって大きな力づけとなると思うんです。
そういう意味で催眠を偏った見方で広められてしまうのは心苦しいですね。
・・・なんだかネガティブな感想になってしまったので、
そのマンガに知人が関わっていないことを祈ります。
タイトルも意味を考えると凄いですが、その内容がまた凄いんです。
テーマは催眠。
催眠療法ではなく催眠術です。
「催眠術で世界征服してやる!」というような話なわけです。
その意味では「LOST+BRAIN」というタイトルはかなり印象的。
原作者か編集者の催眠に対するイメージが出ていますね。
内容もかなり偏った印象を受けました。
現実的ではないなぁ、というのが正直な感想でしょうか。
かなりの発行部数でしょうし、読者層の世代を考えても
どういう影響を及ぼすかが多少心配でもあったりします。
原作者が気になって調べてみましたが、どうやら無名の人のようで。
で、調べていると「DEATH NOTE」に似ているという評価が多かったんですね。
「DEATH NOTE」は死神とかなんとか完全に架空の話でしょうが
「LOST+BRAIN」というマンガでは催眠というテーマなので少し心配です。
マンガの影響力はバカにならないと思いますし。
ただでさえ、テレビのショー催眠やら催眠ハーレム男やらの影響で
催眠という言葉に対して怖い印象を持つ方も少なくないのに
小中学生ぐらいから催眠に対して偏見を持たれると残念な気持ちになります。
催眠という現象は決して特別なものじゃないですし、
様々な場面で自然に応用可能な柔軟性も持っているものです。
とりわけ、個性や自分探しということが意識されがちな現代にあっては
エリクソン的な「無意識を信頼する」という催眠における考え方が
多くの人にとって大きな力づけとなると思うんです。
そういう意味で催眠を偏った見方で広められてしまうのは心苦しいですね。
・・・なんだかネガティブな感想になってしまったので、
そのマンガに知人が関わっていないことを祈ります。
2007年12月17日
安心感の与え方
まだ歯医者に通っています。
何年も行っていなかったので自覚できないような箇所でも
治療したほうが良いところが結構あるらしいんです。
なぜか一度に一本ずつの歯しか治療してくれない上に
人気のある歯医者らしく予約を取るのが大変で、時間がかかってしまいます。
決して最新の器具があるわけでもないのに人気があるのは
きっと丁寧だからだろうと推測しています。
腕が良いかと言われると、それほどでも無い気がするんですね。
削り方などは治療をされながらも、もっと工夫できそうな印象を受けますから。
ただ、丁寧にやってくれます。
時間はあまりかけられないらしいので、細やかな作業という意味ではなく
念入りに作業をしているという感じです。
だから痛いこともよくあります。
きっとそれは治療したところに虫歯が再発するのを嫌っているからでしょう。
僕が小学校の頃に行っていた歯医者で治療したところは
アマルガムという素材で塞いでいたのですが、その下は全部虫歯になっているんだとか。
そこは全て治療すると言っていました。
銀色の詰め物だと危ないですよ。
歯を磨いていても、その下の部分で虫歯が進むらしいです。
丁寧な仕事は、治療したほうが良いところをシッカリと治してくれる、
という部分だけではなく、その方針を教えてくれるところにもあるようです。
そこもまた人気の秘訣でしょうね。
治療の後に教えてくれることが多いのですが、
それを前もって教えてくれればもっと良いんですけど・・・。
歯医者に対しては多くの人が嫌悪感を持っているのではないかと思います。
その意味で安心させてくれる歯医者は人気が出ますよね。
そして、最近気づいたことがありました。
その歯医者が安心感を患者に与える秘密です。
これは本人も意識していないはずです。
それが何かというと、身体的な接触です。
実はその歯医者さん、結構太っているんです。
背も高いので柔道とか相撲とか、そんな印象。
で、その人が治療をするとき、口を覗き込むじゃないですか。
そうすると顔の近くに寄ってくるので、大きなお腹が頭に当たるんですよ。
変な話ですが、頭に感じられる感触が柔らかいんです。
不思議な感じですよ、これは。
なんというか、温かみがある。
自然と力が抜ける感じです。
「となりのトトロ」で女の子がトトロのお腹に寝ているシーンがありましたが
なんだか気持ちが分かる気がします。
これは患者を安心させると思いました。
治療者と患者という関係の中では、こういう方法でもラポールが取れますね。
ラポールを築く方法として、相手の肩に触れているようなイメージをする
というのがありますが、文字通り触れているわけですから。
頭とお腹が。
お腹で触るかどうかは別にして、身体的接触というのは
効果的に使えばラポールを築くのに良いですね。
工夫してみる価値ありです。
何年も行っていなかったので自覚できないような箇所でも
治療したほうが良いところが結構あるらしいんです。
なぜか一度に一本ずつの歯しか治療してくれない上に
人気のある歯医者らしく予約を取るのが大変で、時間がかかってしまいます。
決して最新の器具があるわけでもないのに人気があるのは
きっと丁寧だからだろうと推測しています。
腕が良いかと言われると、それほどでも無い気がするんですね。
削り方などは治療をされながらも、もっと工夫できそうな印象を受けますから。
ただ、丁寧にやってくれます。
時間はあまりかけられないらしいので、細やかな作業という意味ではなく
念入りに作業をしているという感じです。
だから痛いこともよくあります。
きっとそれは治療したところに虫歯が再発するのを嫌っているからでしょう。
僕が小学校の頃に行っていた歯医者で治療したところは
アマルガムという素材で塞いでいたのですが、その下は全部虫歯になっているんだとか。
そこは全て治療すると言っていました。
銀色の詰め物だと危ないですよ。
歯を磨いていても、その下の部分で虫歯が進むらしいです。
丁寧な仕事は、治療したほうが良いところをシッカリと治してくれる、
という部分だけではなく、その方針を教えてくれるところにもあるようです。
そこもまた人気の秘訣でしょうね。
治療の後に教えてくれることが多いのですが、
それを前もって教えてくれればもっと良いんですけど・・・。
歯医者に対しては多くの人が嫌悪感を持っているのではないかと思います。
その意味で安心させてくれる歯医者は人気が出ますよね。
そして、最近気づいたことがありました。
その歯医者が安心感を患者に与える秘密です。
これは本人も意識していないはずです。
それが何かというと、身体的な接触です。
実はその歯医者さん、結構太っているんです。
背も高いので柔道とか相撲とか、そんな印象。
で、その人が治療をするとき、口を覗き込むじゃないですか。
そうすると顔の近くに寄ってくるので、大きなお腹が頭に当たるんですよ。
変な話ですが、頭に感じられる感触が柔らかいんです。
不思議な感じですよ、これは。
なんというか、温かみがある。
自然と力が抜ける感じです。
「となりのトトロ」で女の子がトトロのお腹に寝ているシーンがありましたが
なんだか気持ちが分かる気がします。
これは患者を安心させると思いました。
治療者と患者という関係の中では、こういう方法でもラポールが取れますね。
ラポールを築く方法として、相手の肩に触れているようなイメージをする
というのがありますが、文字通り触れているわけですから。
頭とお腹が。
お腹で触るかどうかは別にして、身体的接触というのは
効果的に使えばラポールを築くのに良いですね。
工夫してみる価値ありです。
2007年12月15日
傾向
カウンセリングでもコーチングでも、クライアントの持ち味が重要です。
その人の持ち味が発揮されると本人の中で問題解決力が高まるからです。
僕が人と関わるときには、その人の持ち味というのを意識します。
リソースという言い方をしてもいいですね。
ただ、NLPはスキルとして万人向けに作られているので
個人の持ち味という要素は削除されているんです。
キャリブレーションという言葉で相手を感じ取ることの重要性を説きながらも
持ち味を活かすという要素は含まれていないようです。
それはそれでメリットでもありますが、目の前の人ということを考えた場合には
エリクソンを見習って観察力を活用したら更に効果的だと思うわけです。
その意味では僕の中でコールドリーディングが大いに役立ちます。
コールドリーディングといっても色々な要素がありますが
僕が特に重要視しているのは目の前の人から情報を読み取るという部分。
言葉の使い方ももちろん生きていると思います。
ただ、持ち味を活かすという点においても、コールドリーディングは役立ちます。
目の前の人から読み取れる情報を徹底的に洗っていくという作業ですね。
で、実践的な視点から活用したい持ち味というのは、
その人のクリエイティブな側面なんです。
それこそが問題解決に有効だからです。
そういう視点で人を見ているわけですが、最近僕の中で自身がついてきたのは
アーティスティックな素養を見抜く方法。
僕が師とあおぐ人の中には直観的にそこを感じ取れる方もいますし、
まったく遠慮なく会話の中で聞き出していく方もいます。
後者のほうが現実的ですから僕も直接聞きますが、
課題への取り組み方によっては、こちらで推測するのも必要なようです。
そういった直観的な見立てにも根拠があるだろう、ということで
僕なりにポイントを探していった結果、ある程度の自信がうまれたという訳ですね。
そのポイントがどういうものかと聞かれても困りますが
歌の上手い人はなかなか分かりやすいものですよ。
その人の持ち味が発揮されると本人の中で問題解決力が高まるからです。
僕が人と関わるときには、その人の持ち味というのを意識します。
リソースという言い方をしてもいいですね。
ただ、NLPはスキルとして万人向けに作られているので
個人の持ち味という要素は削除されているんです。
キャリブレーションという言葉で相手を感じ取ることの重要性を説きながらも
持ち味を活かすという要素は含まれていないようです。
それはそれでメリットでもありますが、目の前の人ということを考えた場合には
エリクソンを見習って観察力を活用したら更に効果的だと思うわけです。
その意味では僕の中でコールドリーディングが大いに役立ちます。
コールドリーディングといっても色々な要素がありますが
僕が特に重要視しているのは目の前の人から情報を読み取るという部分。
言葉の使い方ももちろん生きていると思います。
ただ、持ち味を活かすという点においても、コールドリーディングは役立ちます。
目の前の人から読み取れる情報を徹底的に洗っていくという作業ですね。
で、実践的な視点から活用したい持ち味というのは、
その人のクリエイティブな側面なんです。
それこそが問題解決に有効だからです。
そういう視点で人を見ているわけですが、最近僕の中で自身がついてきたのは
アーティスティックな素養を見抜く方法。
僕が師とあおぐ人の中には直観的にそこを感じ取れる方もいますし、
まったく遠慮なく会話の中で聞き出していく方もいます。
後者のほうが現実的ですから僕も直接聞きますが、
課題への取り組み方によっては、こちらで推測するのも必要なようです。
そういった直観的な見立てにも根拠があるだろう、ということで
僕なりにポイントを探していった結果、ある程度の自信がうまれたという訳ですね。
そのポイントがどういうものかと聞かれても困りますが
歌の上手い人はなかなか分かりやすいものですよ。
2007年12月13日
白いクロクマ
つい先日に知ったのですが、カナダのある地方には白いクロクマがいるそうです。
通称でシロクマと呼ばれるホッキョクグマとは完全な別物です。
素人が見ても区別がつくぐらいに見た目から違います。
アメリカグマという種類だそうですが、体毛の色が真っ白なんですね。
ヒグマよりも小さいそうですが、その地方にはヒグマがいないらしく
クロクマがノンビリと暮らしていけるんだとか。
どんな動物にも突然変異で色素がなくなって全身が白くなる
アルピノと呼ばれるケースがありますが、白いクロクマはアルピノではありません。
白い鳩のように、体毛が白いだけのようです。
ちなみにアルピノっていうのは、金色のカエルが見つかったとか
白いヘビが見つかったとかいってニュースになるときのケースですね。
色が抜けたような印象が特徴的です。
で、その白いクロクマ。
ジャングル大帝みたいでなかなかカッコイイんですが、
当然、自然にあっては目立つ存在です。
森にいても川辺で鮭を取っていても、やっぱり目立ちます。
自然界では白い色というのは雪に覆われた地域で多く見られますが、
それは保護色として白い色が身を守るために効果的だからだと考えられます。
カナダのその地域は決して雪深くはなく、雪の時期はクマも冬眠するため
体毛が白いことに保護色としての効果はないようなんです。
となると目立ちますから、当然、敵に狙われやすくなります。
都会にも白い鳩は少ないですね。
狙われやすいんです。
幸い、その地方ではクロクマが一番強い動物のようなので
天敵から身を守る必要はなく、白くても問題はないそうなんですが・・・。
それにしても白いクロクマの割合が高いという特徴があったんだとか。
遺伝的に見ると、クロクマの体毛の色を決めるのは、ある1つの遺伝子です。
黒になる型と白になる型とがあって、黒のほうが優性遺伝子です。
つまり両親から黒型をもらえば、子供の体毛は黒くなり、
両親から白型をもらえば、子供の体毛は白くなります。
そして白型と黒型をそれぞれ受け継ぐと、黒が優性遺伝なので黒くなるんです。
普通に考えれば黒になりやすいわけです。
天敵からの狙われやすさを考慮しなくても黒が多いはずなんです。
なのに、その地域では予想以上に”白いクロクマ”が多い、と。
で、それを研究している動物学者が仮説を検証していました。
それは決して証明ではないんです。
仮説を聞けば「なるほど」と納得できますが、やっぱり仮説なんです。
その仮説はこんな感じ。
白いクロクマと黒いクロクマでは白いほうが大きい傾向がある。
そこで体毛から両者の栄養状態を比較した。
その結果、秋の時期には白いほうが栄養をよく取っている結果が見られた。
秋のクロクマの栄養と言えば、鮭。
それを前提に両者の鮭の取り方を調べてみた。
すると、黒いクロクマは川の中を暴れ回って鮭を取るのに対して
白いクロクマは川の中で待ち伏せして鮭を取るという違いが見えた。
実際の鮭漁の成功率も白いクロクマのほうが高い傾向。
これが栄養状態の違いを生み出すと考えた。
そして体毛の違いと鮭漁の方法の違いを調査したところ、
原因は鮭の目の良さにあるものと推測された。
川の中から見ると、白いほうが川面の光の反射で見にくいようで、
実際に計測しても、黒いクマの模型に近づく鮭の数は、
白い模型に近づく鮭の数よりもずっと少ないことが分かった。
黒いクロクマは鮭が近づいてこないために川の中を追いかけ回す必要があり、
それが鮭漁の成功率を下げ、その結果が栄養状態の差になると考察。
確かに納得できる説明だと思います。
だから白いクロクマが元気に生き延びているんだなぁと感じました。
この説明はなかなか説得力がありますが、不十分なところだってあるはずです。
例えば、秋の栄養状態の違いから鮭が原因と推測するところ。
本当に鮭だけを調べれば良いでしょうか?
何かを説明するというとき、それには実証するだけのデータが必要です。
日常会話では実際の事例であったり、体験談であったり、
色々と具体的な話を通して説明をしていくことになると思います。
そして、その説明の筋道が通っているように感じると
なぜか、それ以外の可能性に関しては頭に浮かばなくなることも多いようです。
そういった論点のズレや飛躍、不足部分などを責めていくとディベートになるのでしょうが、
まぁ、日常でそこまで細かく話を考える人は滅多にいないですよね。
ただ、人によってその論理展開や実証の内容に疑問を持つ度合いが違うようです。
これが分かりやすく話をする人と分かりにくい人の違いの1つの要素かと思います。
話している本人の中で納得できる展開でも、相手にはそうじゃないわけです。
「え、なんでそうなるの?」と思っても、話している本人は納得しているわけです。
相手の文脈を認めるのも大事だろうと思います。
「なるほど、そういう話もあるかもしれないね」と。
でも、相手のその主張に賛同できるかと言われたら別問題です。
「そう思うんだ」と受け止めることはできても、共感するかどうかは分かりません。
共感するには、その文脈に納得する必要があります。
認めることは意識的にできても、納得できるかどうかは人それぞれでしょう。
だからこそ、話のうまい人は納得させることが上手なんだろうと思います。
ちなみに、僕は心霊写真だとか言われても納得しません。
心霊写真だと主張するからには納得させるだけの根拠を示す責任があります。
それを実証責任と言います。
例えば、幽霊がいると主張する人の中には
「幽霊がいないっていうんなら証明してみせろ」と言う人がいますが
それは論理的に間違っているんです。
先に「幽霊がいる」と主張したほうに実証責任があるからです。
僕が別に幽霊がいるとか、いないとかを信じるという問題ではなく、
心霊写真だと言われたときには、その根拠を示してもらいたいんです。
別に幽霊を信じたくないからじゃありません。
幽霊を信じることと、心霊写真に幽霊が写っていることとは別問題です。
何か不思議な写真が撮れた。
それが面白い。
そこまではOKです。
それが幽霊だと言われると僕はどうしても納得できません。
他の可能性だってあるでしょう、ということだけなんです。
心霊写真だという人は強力な前提を持っています。
幽霊がいて、それが写真に写る、ということです。
どうして霊能者のなかには、まったく何も写っていない普通の写真をみて
「この写真の場には幽霊がいる」と主張する人がいないんでしょうか?
どうして誰も「幽霊はいるけど写真に写るようなものではないんだ」と
主張しないんでしょうか?
僕は別に幽霊を信じないわけでも、心霊写真は嘘だと言っているわけでもありません。
中には本当に幽霊の写った写真もあるかもしれません。
でも、せっかく本物があっても、不十分な説明ばかりが蔓延していると
本物が台無しになってしまうんじゃないか?
そういうことを言いたいんです。
ある決まった見方、ひとつの可能性への執着。
そういったことが思い込みを作るんじゃないかと思います。
僕が何か特定のことを信じたがらないのは、可能性を探しているからかもしれません。
当然、僕の考え方も1つの可能性に過ぎないんです。
通称でシロクマと呼ばれるホッキョクグマとは完全な別物です。
素人が見ても区別がつくぐらいに見た目から違います。
アメリカグマという種類だそうですが、体毛の色が真っ白なんですね。
ヒグマよりも小さいそうですが、その地方にはヒグマがいないらしく
クロクマがノンビリと暮らしていけるんだとか。
どんな動物にも突然変異で色素がなくなって全身が白くなる
アルピノと呼ばれるケースがありますが、白いクロクマはアルピノではありません。
白い鳩のように、体毛が白いだけのようです。
ちなみにアルピノっていうのは、金色のカエルが見つかったとか
白いヘビが見つかったとかいってニュースになるときのケースですね。
色が抜けたような印象が特徴的です。
で、その白いクロクマ。
ジャングル大帝みたいでなかなかカッコイイんですが、
当然、自然にあっては目立つ存在です。
森にいても川辺で鮭を取っていても、やっぱり目立ちます。
自然界では白い色というのは雪に覆われた地域で多く見られますが、
それは保護色として白い色が身を守るために効果的だからだと考えられます。
カナダのその地域は決して雪深くはなく、雪の時期はクマも冬眠するため
体毛が白いことに保護色としての効果はないようなんです。
となると目立ちますから、当然、敵に狙われやすくなります。
都会にも白い鳩は少ないですね。
狙われやすいんです。
幸い、その地方ではクロクマが一番強い動物のようなので
天敵から身を守る必要はなく、白くても問題はないそうなんですが・・・。
それにしても白いクロクマの割合が高いという特徴があったんだとか。
遺伝的に見ると、クロクマの体毛の色を決めるのは、ある1つの遺伝子です。
黒になる型と白になる型とがあって、黒のほうが優性遺伝子です。
つまり両親から黒型をもらえば、子供の体毛は黒くなり、
両親から白型をもらえば、子供の体毛は白くなります。
そして白型と黒型をそれぞれ受け継ぐと、黒が優性遺伝なので黒くなるんです。
普通に考えれば黒になりやすいわけです。
天敵からの狙われやすさを考慮しなくても黒が多いはずなんです。
なのに、その地域では予想以上に”白いクロクマ”が多い、と。
で、それを研究している動物学者が仮説を検証していました。
それは決して証明ではないんです。
仮説を聞けば「なるほど」と納得できますが、やっぱり仮説なんです。
その仮説はこんな感じ。
白いクロクマと黒いクロクマでは白いほうが大きい傾向がある。
そこで体毛から両者の栄養状態を比較した。
その結果、秋の時期には白いほうが栄養をよく取っている結果が見られた。
秋のクロクマの栄養と言えば、鮭。
それを前提に両者の鮭の取り方を調べてみた。
すると、黒いクロクマは川の中を暴れ回って鮭を取るのに対して
白いクロクマは川の中で待ち伏せして鮭を取るという違いが見えた。
実際の鮭漁の成功率も白いクロクマのほうが高い傾向。
これが栄養状態の違いを生み出すと考えた。
そして体毛の違いと鮭漁の方法の違いを調査したところ、
原因は鮭の目の良さにあるものと推測された。
川の中から見ると、白いほうが川面の光の反射で見にくいようで、
実際に計測しても、黒いクマの模型に近づく鮭の数は、
白い模型に近づく鮭の数よりもずっと少ないことが分かった。
黒いクロクマは鮭が近づいてこないために川の中を追いかけ回す必要があり、
それが鮭漁の成功率を下げ、その結果が栄養状態の差になると考察。
確かに納得できる説明だと思います。
だから白いクロクマが元気に生き延びているんだなぁと感じました。
この説明はなかなか説得力がありますが、不十分なところだってあるはずです。
例えば、秋の栄養状態の違いから鮭が原因と推測するところ。
本当に鮭だけを調べれば良いでしょうか?
何かを説明するというとき、それには実証するだけのデータが必要です。
日常会話では実際の事例であったり、体験談であったり、
色々と具体的な話を通して説明をしていくことになると思います。
そして、その説明の筋道が通っているように感じると
なぜか、それ以外の可能性に関しては頭に浮かばなくなることも多いようです。
そういった論点のズレや飛躍、不足部分などを責めていくとディベートになるのでしょうが、
まぁ、日常でそこまで細かく話を考える人は滅多にいないですよね。
ただ、人によってその論理展開や実証の内容に疑問を持つ度合いが違うようです。
これが分かりやすく話をする人と分かりにくい人の違いの1つの要素かと思います。
話している本人の中で納得できる展開でも、相手にはそうじゃないわけです。
「え、なんでそうなるの?」と思っても、話している本人は納得しているわけです。
相手の文脈を認めるのも大事だろうと思います。
「なるほど、そういう話もあるかもしれないね」と。
でも、相手のその主張に賛同できるかと言われたら別問題です。
「そう思うんだ」と受け止めることはできても、共感するかどうかは分かりません。
共感するには、その文脈に納得する必要があります。
認めることは意識的にできても、納得できるかどうかは人それぞれでしょう。
だからこそ、話のうまい人は納得させることが上手なんだろうと思います。
ちなみに、僕は心霊写真だとか言われても納得しません。
心霊写真だと主張するからには納得させるだけの根拠を示す責任があります。
それを実証責任と言います。
例えば、幽霊がいると主張する人の中には
「幽霊がいないっていうんなら証明してみせろ」と言う人がいますが
それは論理的に間違っているんです。
先に「幽霊がいる」と主張したほうに実証責任があるからです。
僕が別に幽霊がいるとか、いないとかを信じるという問題ではなく、
心霊写真だと言われたときには、その根拠を示してもらいたいんです。
別に幽霊を信じたくないからじゃありません。
幽霊を信じることと、心霊写真に幽霊が写っていることとは別問題です。
何か不思議な写真が撮れた。
それが面白い。
そこまではOKです。
それが幽霊だと言われると僕はどうしても納得できません。
他の可能性だってあるでしょう、ということだけなんです。
心霊写真だという人は強力な前提を持っています。
幽霊がいて、それが写真に写る、ということです。
どうして霊能者のなかには、まったく何も写っていない普通の写真をみて
「この写真の場には幽霊がいる」と主張する人がいないんでしょうか?
どうして誰も「幽霊はいるけど写真に写るようなものではないんだ」と
主張しないんでしょうか?
僕は別に幽霊を信じないわけでも、心霊写真は嘘だと言っているわけでもありません。
中には本当に幽霊の写った写真もあるかもしれません。
でも、せっかく本物があっても、不十分な説明ばかりが蔓延していると
本物が台無しになってしまうんじゃないか?
そういうことを言いたいんです。
ある決まった見方、ひとつの可能性への執着。
そういったことが思い込みを作るんじゃないかと思います。
僕が何か特定のことを信じたがらないのは、可能性を探しているからかもしれません。
当然、僕の考え方も1つの可能性に過ぎないんです。
2007年12月11日
反対に
人の心と関わる仕事をしていると、様々なところで似たような立場の人に出会います。
専門的なことを学びに行くような場所では特にそうです。
カウンセラーやコーチ、セミナー講師やNLPをやっている人と出会うんです。
そんなとき、ちょっと面白いことが起きる気がします。
NLPのトレーナーやセミナー講師をしている人が
カウンセラーやコーチの人の話を聞く役にまわる場面です。
逆じゃないですよ。
普段は人に対して話をすることが多い立場のトレーナーやセミナー講師が、
通常の仕事では人の話を聞くことを主体にしているカウンセラーやコーチの話を聞くんです。
もちろん必ずそうなるというわけではありませんよ。
コーチの人はコーチングの会話が習慣になっていて
日常会話や雑談の場面でもコーチング的な質問をする人も多いようですし。
話し役にまわることが多いのは職業でカウンセラーをやっている人のように感じます。
普段の仕事でクライアントさんの話を親身に聞くことを中心にしている人が
雑談の場面では物凄く饒舌になったりしているという話です。
悩みを聞くことを中心にするカウンセラーの場合には
自分自身の個人的な悩みを話し始めると長くなるケースも多く見てきました。
仕事で聞き役に徹していると、日常では反動で話したくなってしまうんでしょうかね。
逆に仕事で話をする講師のような立場が、日常では口数少なかったり。
お笑い芸人も日常生活では暗いことがあるなんて聞きますが、
仕事と日常のように場面が変わると、スタンスも変わってくるのかもしれません。
仕事で金銭的な成功を収めている一方で家庭が上手くいかない、というのも
そういったことに関わっているのかもしれません。
人は何かとバランスを取りたがるものなんでしょうか。
僕の場合、日常では聞き役に回るほうが楽なように感じます。
一方、セミナーなどでは当然、話す側にまわっていますね。
カウンセリングで聞き役にまわると話したい気持ちが強まるのかもしれませんが
講師という立場で話ができることともバランスが取りやすいように思います。
講師で話をすると言いながらも、僕のスタンスは受身が中心です。
どうしても伝えたいということを自分から発信するというニュアンスよりは
相手が知りたいことに答えるという感じが強いんです。
それは自分がセミナーを受けに行くと、逆転して現れるみたいです。
僕はよく質問します。
自分から欲しいものを集めにいくわけです。
受講生の立場では自分から能動的に欲しいものを取りにいくから、
講師の立場としては必要とされたものを受動的に応対する。
そんなところにも逆転した面が見えそうですね。
対極的な場面で自分のスタンスが逆転するということは結構あるような気がします。
考えてみるのも面白いかもしれません。
専門的なことを学びに行くような場所では特にそうです。
カウンセラーやコーチ、セミナー講師やNLPをやっている人と出会うんです。
そんなとき、ちょっと面白いことが起きる気がします。
NLPのトレーナーやセミナー講師をしている人が
カウンセラーやコーチの人の話を聞く役にまわる場面です。
逆じゃないですよ。
普段は人に対して話をすることが多い立場のトレーナーやセミナー講師が、
通常の仕事では人の話を聞くことを主体にしているカウンセラーやコーチの話を聞くんです。
もちろん必ずそうなるというわけではありませんよ。
コーチの人はコーチングの会話が習慣になっていて
日常会話や雑談の場面でもコーチング的な質問をする人も多いようですし。
話し役にまわることが多いのは職業でカウンセラーをやっている人のように感じます。
普段の仕事でクライアントさんの話を親身に聞くことを中心にしている人が
雑談の場面では物凄く饒舌になったりしているという話です。
悩みを聞くことを中心にするカウンセラーの場合には
自分自身の個人的な悩みを話し始めると長くなるケースも多く見てきました。
仕事で聞き役に徹していると、日常では反動で話したくなってしまうんでしょうかね。
逆に仕事で話をする講師のような立場が、日常では口数少なかったり。
お笑い芸人も日常生活では暗いことがあるなんて聞きますが、
仕事と日常のように場面が変わると、スタンスも変わってくるのかもしれません。
仕事で金銭的な成功を収めている一方で家庭が上手くいかない、というのも
そういったことに関わっているのかもしれません。
人は何かとバランスを取りたがるものなんでしょうか。
僕の場合、日常では聞き役に回るほうが楽なように感じます。
一方、セミナーなどでは当然、話す側にまわっていますね。
カウンセリングで聞き役にまわると話したい気持ちが強まるのかもしれませんが
講師という立場で話ができることともバランスが取りやすいように思います。
講師で話をすると言いながらも、僕のスタンスは受身が中心です。
どうしても伝えたいということを自分から発信するというニュアンスよりは
相手が知りたいことに答えるという感じが強いんです。
それは自分がセミナーを受けに行くと、逆転して現れるみたいです。
僕はよく質問します。
自分から欲しいものを集めにいくわけです。
受講生の立場では自分から能動的に欲しいものを取りにいくから、
講師の立場としては必要とされたものを受動的に応対する。
そんなところにも逆転した面が見えそうですね。
対極的な場面で自分のスタンスが逆転するということは結構あるような気がします。
考えてみるのも面白いかもしれません。
2007年12月08日
黒烏龍茶
最近、電車の吊り広告にサントリーの黒烏龍茶のものを見かけます。
この吊り広告がなかなか面白いんです。
詳しい文面は覚えていませんが、何かの文章が書いてあります。
その文章が少し暗示的なんですね。
サントリーの黒烏龍茶は特定保健用食品に認定されていますが、
脂肪の吸収を抑制するという効能がうたわれています。
あくまでも効果を期待することができる、というのがポイントですが、
実験的なデータとして脂肪吸収を抑える効果が認められるということだそうです。
ただ、医薬品ではないので、おそらく機能を明言はできないんでしょうね。
とくに「中性脂肪を下げる」という一番のウリと思われる部分は
薬と同じように受け取られる可能性のある表現ができないんでしょう。
だからだと思います。
吊り広告は面白い表現なんです。
確か、大体こんな感じだったはずです。
「中性脂肪に聞いた」
そんな書き出し。
内容の多くは黒烏龍茶と中性脂肪を擬人化して、
黒烏龍茶が中性脂肪にアンケートをとるような流れです。
黒烏龍茶が中性脂肪に”聞く”わけです。
で、色々と話が進んだ後に、黒烏龍茶が中性脂肪に訊ねます。
「どうしてそんなに嫌がるんだ?」みたいに。
すると中性脂肪が答えるんです。
「そうやって聞くのが嫌なんだ」と。
どういうことかというと、です。
中性脂肪は黒烏龍茶が聞くのを嫌がっている。
「聞く」を「効く」とかけていると思われるんです。
つまり中性脂肪は黒烏龍茶が効くから嫌がっている、と。
中性脂肪には黒烏龍茶が効くということです。
冒頭の「中性脂肪に聞いた」もそうです。
「中性脂肪に効いた」と思わせたいだろうという思われます。
全体を通じて「黒烏龍茶が中性脂肪に”効いた”」と受け取らせたい気配が見えるんです。
NLPでは天才催眠療法家のミルトン・エリクソンの言語パターンを分析し
ミルトンモデルという形でまとめ上げています。
そのなかに『アンビギュイティ』と呼ばれるものがあるんです。
言葉の曖昧さを利用して複数の意味を感じ取らせるという手法です。
その曖昧さこそが、同音異義語にあるわけです。
元々は英語で使われていたものですが、
日本語に当てはめても効果があるということでしょう。
”聞く”と”効く”。
文字に書いてしまうよりも、CMとして音で伝えたほうが効果は高いと予想されます。
文字で書くなら平仮名のほうがいいはずです。
・・・まぁ、あまり露骨にできないという事情もあるのでしょうが。
直接的に表現するわけにはいかない効能だからこそ、
そうやって暗示的に効果を表現しているような印象を受けました。
そこまで考えて作られたものかどうか分かりませんが、
何か意図的なものが感じられます。
目にしたらチョット読んでみてはいかがでしょうか?
印象的な吊り広告ですよ。
この吊り広告がなかなか面白いんです。
詳しい文面は覚えていませんが、何かの文章が書いてあります。
その文章が少し暗示的なんですね。
サントリーの黒烏龍茶は特定保健用食品に認定されていますが、
脂肪の吸収を抑制するという効能がうたわれています。
あくまでも効果を期待することができる、というのがポイントですが、
実験的なデータとして脂肪吸収を抑える効果が認められるということだそうです。
ただ、医薬品ではないので、おそらく機能を明言はできないんでしょうね。
とくに「中性脂肪を下げる」という一番のウリと思われる部分は
薬と同じように受け取られる可能性のある表現ができないんでしょう。
だからだと思います。
吊り広告は面白い表現なんです。
確か、大体こんな感じだったはずです。
「中性脂肪に聞いた」
そんな書き出し。
内容の多くは黒烏龍茶と中性脂肪を擬人化して、
黒烏龍茶が中性脂肪にアンケートをとるような流れです。
黒烏龍茶が中性脂肪に”聞く”わけです。
で、色々と話が進んだ後に、黒烏龍茶が中性脂肪に訊ねます。
「どうしてそんなに嫌がるんだ?」みたいに。
すると中性脂肪が答えるんです。
「そうやって聞くのが嫌なんだ」と。
どういうことかというと、です。
中性脂肪は黒烏龍茶が聞くのを嫌がっている。
「聞く」を「効く」とかけていると思われるんです。
つまり中性脂肪は黒烏龍茶が効くから嫌がっている、と。
中性脂肪には黒烏龍茶が効くということです。
冒頭の「中性脂肪に聞いた」もそうです。
「中性脂肪に効いた」と思わせたいだろうという思われます。
全体を通じて「黒烏龍茶が中性脂肪に”効いた”」と受け取らせたい気配が見えるんです。
NLPでは天才催眠療法家のミルトン・エリクソンの言語パターンを分析し
ミルトンモデルという形でまとめ上げています。
そのなかに『アンビギュイティ』と呼ばれるものがあるんです。
言葉の曖昧さを利用して複数の意味を感じ取らせるという手法です。
その曖昧さこそが、同音異義語にあるわけです。
元々は英語で使われていたものですが、
日本語に当てはめても効果があるということでしょう。
”聞く”と”効く”。
文字に書いてしまうよりも、CMとして音で伝えたほうが効果は高いと予想されます。
文字で書くなら平仮名のほうがいいはずです。
・・・まぁ、あまり露骨にできないという事情もあるのでしょうが。
直接的に表現するわけにはいかない効能だからこそ、
そうやって暗示的に効果を表現しているような印象を受けました。
そこまで考えて作られたものかどうか分かりませんが、
何か意図的なものが感じられます。
目にしたらチョット読んでみてはいかがでしょうか?
印象的な吊り広告ですよ。