2008年05月
2008年05月30日
色々な伝え方
コミュニケーションということで考えると、
人と人との関わりがあれば全てがコミュニケーションと言えますから、
なかなか簡単には語れない部分があります。
ただ、コミュニケーションの中で「相手に何かを伝える」という点を考えると
少しは整理して説明できそうなところがあります。
1つは「言葉で伝える」というもの。
結論や主張だけを言葉にして伝えることもできれば、
具体例やメタファーを使って伝えることもできますが、
いずれにしても伝えたい内容を言葉に乗せて表現するわけです。
本で読むイイ話というのは完全に言葉で伝える内容ということになります。
テレビや映画で表現された場合には複雑な要素が絡んできますが、
内容の理解を促進するための映像や音声の表現は、意味的には言葉に近いと思います。
つまり「内容」そのものを伝えようとする行為だということです。
もう1つは「言葉以外で伝える」というもの。
非言語コミュニケーションと言ってしまうと意味が広すぎますが、
全身から発せられるメッセージで伝わってくる部分のことです。
内容を体全体で表現しているということです。
これはメタレベルのコミュニケーションだと言えるはずです。
「内容」ではなく「プロセス」から感じ取れる部分です。
話の内容以外の行動には、その人の内面的特性が色濃く反映されます。
それは、なんとなく伝わるものですね。
例えば、「気が利く」と言われる人であれば、
誰かが少し困ったような素振りをしているのを見ただけで何かの要望を察し、
それに沿った行動を取るわけです。
荷物を沢山抱えている人がドアを開けようとして、
片手側の荷物を下に降ろしかける…。
その瞬間を見て、スッとドアを開ける配慮は「気が利く」行為ですね。
そういうのを見ると「あぁ、この人は気配りの出来る人だなぁ」と感じるわけです。
プロセスから伝わってくる部分ですね。
自分の振る舞いでもって、何かを伝えるということです。
人前では気さくに誰とでも仲良くなるように振舞っていながら
影で誰かをけなすようなことを言っていたとしたら「裏表がある人」として伝わる。
研修中と名札をつけた家電量販店の店員が気軽な要望へ迅速に対応してくれたら
「熱心に仕事に取り組む時期なんだなぁ」と伝わるかもしれません。
内面は人のあらゆる所に溢れ出ているわけです。
それは、なんとなく伝わっているわけです。
伝えたいことがあるとき、自分の発しているメッセージを通じて
何かを表現していくことも可能だということです。
見本を示すとか、背中で語るとか、そういう類のものでしょう。
これが伝わるかどうかは難しい部分がありますね。
まして、話をしながら内容以上にプロセスに注目できる人というのは少ないですから。
更に言えば、相手から話の内容以外の行動を通じて何かを受け取ることができても、
それを自分自身が実践できるようになるかどうかは別問題です。
非常に難度が高い。
イイ話を聞いて感動するのは簡単です。
人の行動に心を打たれることもあります。
そのことの素晴らしさは感じ取れるわけです。
でも、そこから自分が何かを身につけるというのは難しいんです。
「分かる」と「出来る」は大違いだからです。
だからこそ、もう1つの伝え方が重要だと僕は考えます。
それは「相手自身が見つけ出す」という方法です。
体験をしてもらうわけです。
自分自身の体験の中で、自分自身が大切だと気づいた内容。
それは人生に大きな影響を与えます。
例えば、「人の心の大切さ」を伝えるとしましょう。
言葉を駆使して、「人の心の大切さ」を伝えることもできます。
「人の心は大切ですね」と言ってもいい。
メタファーや事例を交えながら説明してもいいです。
また、自分自身が「人の心を大切にしている」姿を見せることで伝わる部分もあります。
そして、実体験を通じて理解できるところもあるわけです。
自分の気付いていなかった心の深い部分に気づく。
それを誰かと共有する。
それを誰かに大切にしてもらう。
自分が相手の心の深い部分に触れたときの相手の反応を目の当たりにする。
それによって「人の心って、こんなにも奥が深いんだ…」と感じる。
もしかすると、人の心を傷つけてしまうことで気づくこともあるかしれません。
「人の心は大切なんだ…」と。
それは体験を通じて自らが見出したものです。
誰かから直接的に言われたり、訴えかけられたものではありません。
自分の中で見つけた、自分の思いです。
もちろん、時間や環境の変化によって、その思いを忘れてしまう場合も否定できません。
でも、身につきやすさが違う。
「身につく」という表現そのものが適切でないくらいに、自然と刻まれるものです。
そうして体験を通じて得られるものは、人によって違っています。
伝えたいことを意図して体験してもらおうとしても、
相手が体験から何を学び取るかは人それぞれなわけです。
そうであったとしても、本人が気づいたことは素晴らしいと思います。
それが自分の意図したことと違っても、
本人が大事なことに気づいたら素晴らしいと思います。
自分が大事にしていることを相手に伝えるのも結構なことですが、
相手が新たに大事なことに気づけたら、それも価値のあることだと思うんです。
自分が考える「幸せになるための方法」を伝えることよりも
相手が幸せになるかどうかという結果のほうが大事な気がします。
場合によっては、今のままが幸せなこともあるわけですから。
人と人との関わりがあれば全てがコミュニケーションと言えますから、
なかなか簡単には語れない部分があります。
ただ、コミュニケーションの中で「相手に何かを伝える」という点を考えると
少しは整理して説明できそうなところがあります。
1つは「言葉で伝える」というもの。
結論や主張だけを言葉にして伝えることもできれば、
具体例やメタファーを使って伝えることもできますが、
いずれにしても伝えたい内容を言葉に乗せて表現するわけです。
本で読むイイ話というのは完全に言葉で伝える内容ということになります。
テレビや映画で表現された場合には複雑な要素が絡んできますが、
内容の理解を促進するための映像や音声の表現は、意味的には言葉に近いと思います。
つまり「内容」そのものを伝えようとする行為だということです。
もう1つは「言葉以外で伝える」というもの。
非言語コミュニケーションと言ってしまうと意味が広すぎますが、
全身から発せられるメッセージで伝わってくる部分のことです。
内容を体全体で表現しているということです。
これはメタレベルのコミュニケーションだと言えるはずです。
「内容」ではなく「プロセス」から感じ取れる部分です。
話の内容以外の行動には、その人の内面的特性が色濃く反映されます。
それは、なんとなく伝わるものですね。
例えば、「気が利く」と言われる人であれば、
誰かが少し困ったような素振りをしているのを見ただけで何かの要望を察し、
それに沿った行動を取るわけです。
荷物を沢山抱えている人がドアを開けようとして、
片手側の荷物を下に降ろしかける…。
その瞬間を見て、スッとドアを開ける配慮は「気が利く」行為ですね。
そういうのを見ると「あぁ、この人は気配りの出来る人だなぁ」と感じるわけです。
プロセスから伝わってくる部分ですね。
自分の振る舞いでもって、何かを伝えるということです。
人前では気さくに誰とでも仲良くなるように振舞っていながら
影で誰かをけなすようなことを言っていたとしたら「裏表がある人」として伝わる。
研修中と名札をつけた家電量販店の店員が気軽な要望へ迅速に対応してくれたら
「熱心に仕事に取り組む時期なんだなぁ」と伝わるかもしれません。
内面は人のあらゆる所に溢れ出ているわけです。
それは、なんとなく伝わっているわけです。
伝えたいことがあるとき、自分の発しているメッセージを通じて
何かを表現していくことも可能だということです。
見本を示すとか、背中で語るとか、そういう類のものでしょう。
これが伝わるかどうかは難しい部分がありますね。
まして、話をしながら内容以上にプロセスに注目できる人というのは少ないですから。
更に言えば、相手から話の内容以外の行動を通じて何かを受け取ることができても、
それを自分自身が実践できるようになるかどうかは別問題です。
非常に難度が高い。
イイ話を聞いて感動するのは簡単です。
人の行動に心を打たれることもあります。
そのことの素晴らしさは感じ取れるわけです。
でも、そこから自分が何かを身につけるというのは難しいんです。
「分かる」と「出来る」は大違いだからです。
だからこそ、もう1つの伝え方が重要だと僕は考えます。
それは「相手自身が見つけ出す」という方法です。
体験をしてもらうわけです。
自分自身の体験の中で、自分自身が大切だと気づいた内容。
それは人生に大きな影響を与えます。
例えば、「人の心の大切さ」を伝えるとしましょう。
言葉を駆使して、「人の心の大切さ」を伝えることもできます。
「人の心は大切ですね」と言ってもいい。
メタファーや事例を交えながら説明してもいいです。
また、自分自身が「人の心を大切にしている」姿を見せることで伝わる部分もあります。
そして、実体験を通じて理解できるところもあるわけです。
自分の気付いていなかった心の深い部分に気づく。
それを誰かと共有する。
それを誰かに大切にしてもらう。
自分が相手の心の深い部分に触れたときの相手の反応を目の当たりにする。
それによって「人の心って、こんなにも奥が深いんだ…」と感じる。
もしかすると、人の心を傷つけてしまうことで気づくこともあるかしれません。
「人の心は大切なんだ…」と。
それは体験を通じて自らが見出したものです。
誰かから直接的に言われたり、訴えかけられたものではありません。
自分の中で見つけた、自分の思いです。
もちろん、時間や環境の変化によって、その思いを忘れてしまう場合も否定できません。
でも、身につきやすさが違う。
「身につく」という表現そのものが適切でないくらいに、自然と刻まれるものです。
そうして体験を通じて得られるものは、人によって違っています。
伝えたいことを意図して体験してもらおうとしても、
相手が体験から何を学び取るかは人それぞれなわけです。
そうであったとしても、本人が気づいたことは素晴らしいと思います。
それが自分の意図したことと違っても、
本人が大事なことに気づいたら素晴らしいと思います。
自分が大事にしていることを相手に伝えるのも結構なことですが、
相手が新たに大事なことに気づけたら、それも価値のあることだと思うんです。
自分が考える「幸せになるための方法」を伝えることよりも
相手が幸せになるかどうかという結果のほうが大事な気がします。
場合によっては、今のままが幸せなこともあるわけですから。
2008年05月29日
アピールする人
皆、何かの願望や欲求を持っていますね。
それが自分1人でどうにかなることなら、全て自分のこととして受け止めやすいはずです。
叶わなければ「自分はまだまだだなぁ…」と思って反省してみたり、
「運が悪かった。また今度、頑張ろう」と気持ちを切り替えたり。
ところが、それが他人に対する願望や欲求だと、不明瞭になりやすいようです。
「自分のことを〜して欲しい」
「〜のように扱ってもらいたい」
多くの場合、そこでは承認や愛情を求めているわけです。
でも、そのことには気づきにくい。
自分が本心で求めていることに気づかないで要望を表現するやり方は歪んでいます。
正しいか間違っているかではなく、歪んでいるんです。
日本文化には、ストレートに表現せず曖昧に気持ちを伝えることがあるようですが、
それを意識的にするのと、気づかずに無意識でやるのでは意味が違うわけです。
「本当は相手にこうしてもらいたい」という気持ちがあっても
それを直接伝えるのは言いにくい雰囲気がある、
だから少し違った言い方をしてみよう。
…というのは自分で意識的に選択をしているわけです。
だから、その結果として上手く伝わらなかったときに別の対応ができます。
「じゃあ、もっと率直に言うか」と考えて言い方を変えることもできるし、
「まぁ、この人では仕方ないか」と諦めることもできるということです。
そうではなくて、歪んだやり方というのは1つに固執しやすいわけです。
自分の本当の要望を正直に表現しないで、相手の出方を待つ。
その結果、相手がどういう対応をするかで、自分の気持ちが変わってくる。
相手が自分の望んだ対応をしてくれたら、「あの人は分かってくれる」と喜び、
自分が予想した対応じゃないときには嫌な気持ちになる。
相手に期待しているんです。
多くの場合、自分の要望にすら気づけていませんから、
自分が相手に何かを期待しているとは思っていません。
例えば、自分が仕事で上手くいかなかったとき、
八つ当たりをしたり、皆の前で過度に落ち込みを表現したり、泣いたり、すねたり、
上手くいかなかったことを多くの人に話したり、不満を歩き方などの態度で表したり…。
それは周りの人に慰めてもらいたいのかもしれませんし、
「お前はよくやっていたよ」と、ねぎらってもらいたいのかもしれません。
一緒に仕事をしていた仲間のミスが原因のときに、そんな行動を取っていたとしたら
それはミスをした人に謝ってもらいたいとか、
自分の努力が無駄になってしまったことを慰めてもらいたいとか、
そういった期待があるかもしれません。
僕が会社にいたときにも、忙しさ自慢をする人がいました。
「オレが若いころは寝る間も惜しんで仕事をしていたものだけどなぁ」
「いやぁ、昨日も2時間しか寝てないよ」
とか。
どういう言い方をしているかが重要です。
寝てないことを苦しそうに言うのであれば、それは心配してもらいたいのでしょう。
得意気に言うのであれば、それは「スゴイですね!」と言われたいのでしょう。
いずれにしてもアピールなわけです。
大人のすることではありません。
小さい頃に身につけた、歪んだ気持ちの伝え方を今も引きずっているんです。
欲しいオモチャがあったけど、お母さんが買ってくれない。
そこで駄々をこねるか、泣くか、すねて口をきかなくなるか。
それによってお母さんの対応も変わってきます。
お母さんがオモチャを買ってくれたら、上手くいったその方法を学習してしまいます。
逆にお母さんが「そんな子は知りません!置いて行くわよ」と言ったら
ワガママを言わずに我慢する方法を学習してしまうでしょう。
いい子に過ごしていたら、ある日にオモチャを買ってくれたとしたら
「いい子にしてれば欲しいものが手に入る」ということを学ぶと予想されます。
そういった体験の繰り返しの中で、歪んだやり方を身につけていくわけです。
パターンが出来てしまうんです。
それが仕方の無いことです。
だから親の責任が重要だというのではありません。
親自身も、その両親によって植え付けられてきたパターンを使っているんですから。
自分がその歪んだパターンに気づき、それを止めるように努力する。
それが大人としての成長だということです。
自分で自分の要望に気づけていれば、自分の行動に責任が持てます。
意図的に曖昧な表現をして、それが伝わらなくても自分の責任なわけです。
嫌な気持ちは沸きません。
相手の対応に対して嫌な気持ちが沸いてきたら、
それは相手に期待をしていて、自分で責任をとっていないということです。
ただ、自分の隠れた要望に気づくのは難しいことだと思います。
ついつい、気づかずにやってしまいがちなんです。
そして、これが酷くなってくると、状況は悪くなってきます。
分かってくれないと感じたときには、さらに歪んだやり方が続きます。
相手を非難しながら、自分の要望を暗に表現し続けるわけです。
通常、そんなことをされたら相手のほうも不快になるものです。
その不快さを解消するために、相手も反発し始めます。
そうやって悪循環が起きていくんです。
こういう悪循環が起きているコミュニケーションのことを
交流分析では『ゲーム』と呼びます。
周りを巻き込んでいく不快なパターンです。
そうした自分の歪んだ表現で伝えたことでも、分かってくれる人というのがいます。
それは、その人が本当にコミュニケーション能力が高いという可能性もあります。
しかし、普通に育ってきたら必ず歪んだパターンを身につけてしまうものですから
多くの場合、分かってくれる人というのは
偶然にそのパターンを持っているのだろうと思われます。
家族の中にそのパターンで要望を表現する人がいて、
それを受け取って満足させることが関係を成立させる方法だったと想像できます。
当然、その歪んだパターンを満足させる方法も歪んでいます。
例えば、上手くいかないと泣いて許してもらうパターンの人からすれば、
「いいよ、いいよ。大丈夫だから。仕方ないよ。泣かないでね」と
慰めてくれる人に対して、「分かってくれた」と受け取るわけですが、
それも相手のパターンに巻き込まれた歪んだ状態です。
大人ではない要望の表現に対して、大人として扱っていないわけです。
本人は嬉しいかもしれませんが、それではずっとそのパターンが続くだけです。
一方、泣いて逃げようとする方法を認めずに、気持ちだけケアする方法もあります。
「泣くほどの想いで取り組んできたんですね。
その努力は素晴らしいことですから、次に活かしましょうね。」
といったところでしょうか。
要望を歪んで表現してしまうことは多々あるはずです。
それをどう対応していくかは難しいテーマだと思います。
自分の要望に気づいたとき、それをストレートに伝えてみるのは1つの方法でしょう。
ただ、なかなか「仕事に失敗して落ち込んでいるから慰めて」とは言いいにくい気もします。
それで慰めてもらっても嬉しくないかもしれません。
であれば、あえて曖昧な表現や、落ち込みを態度でアピールするもの手かもしれません。
ただ、そういう受け取りにくい方法を意識してするのと、
自分で気づかずにするのとでは全く別物です。
伝わらなかったときの不満の度合いが違うんです。
どうやっても他人からは満たされなければ仕方ありません。
それは自分の責任です。
その気持ちをケアできるのは自分だけです。
その気持ちを分かっているのが自分だけだからです。
結局、誰も自分のことは分かってくれないでしょう。
相手に求めずに、自分で自分を満たせるようになること。
突き詰めると、そこに行き着いてしまうものかもしれません。
それが自分1人でどうにかなることなら、全て自分のこととして受け止めやすいはずです。
叶わなければ「自分はまだまだだなぁ…」と思って反省してみたり、
「運が悪かった。また今度、頑張ろう」と気持ちを切り替えたり。
ところが、それが他人に対する願望や欲求だと、不明瞭になりやすいようです。
「自分のことを〜して欲しい」
「〜のように扱ってもらいたい」
多くの場合、そこでは承認や愛情を求めているわけです。
でも、そのことには気づきにくい。
自分が本心で求めていることに気づかないで要望を表現するやり方は歪んでいます。
正しいか間違っているかではなく、歪んでいるんです。
日本文化には、ストレートに表現せず曖昧に気持ちを伝えることがあるようですが、
それを意識的にするのと、気づかずに無意識でやるのでは意味が違うわけです。
「本当は相手にこうしてもらいたい」という気持ちがあっても
それを直接伝えるのは言いにくい雰囲気がある、
だから少し違った言い方をしてみよう。
…というのは自分で意識的に選択をしているわけです。
だから、その結果として上手く伝わらなかったときに別の対応ができます。
「じゃあ、もっと率直に言うか」と考えて言い方を変えることもできるし、
「まぁ、この人では仕方ないか」と諦めることもできるということです。
そうではなくて、歪んだやり方というのは1つに固執しやすいわけです。
自分の本当の要望を正直に表現しないで、相手の出方を待つ。
その結果、相手がどういう対応をするかで、自分の気持ちが変わってくる。
相手が自分の望んだ対応をしてくれたら、「あの人は分かってくれる」と喜び、
自分が予想した対応じゃないときには嫌な気持ちになる。
相手に期待しているんです。
多くの場合、自分の要望にすら気づけていませんから、
自分が相手に何かを期待しているとは思っていません。
例えば、自分が仕事で上手くいかなかったとき、
八つ当たりをしたり、皆の前で過度に落ち込みを表現したり、泣いたり、すねたり、
上手くいかなかったことを多くの人に話したり、不満を歩き方などの態度で表したり…。
それは周りの人に慰めてもらいたいのかもしれませんし、
「お前はよくやっていたよ」と、ねぎらってもらいたいのかもしれません。
一緒に仕事をしていた仲間のミスが原因のときに、そんな行動を取っていたとしたら
それはミスをした人に謝ってもらいたいとか、
自分の努力が無駄になってしまったことを慰めてもらいたいとか、
そういった期待があるかもしれません。
僕が会社にいたときにも、忙しさ自慢をする人がいました。
「オレが若いころは寝る間も惜しんで仕事をしていたものだけどなぁ」
「いやぁ、昨日も2時間しか寝てないよ」
とか。
どういう言い方をしているかが重要です。
寝てないことを苦しそうに言うのであれば、それは心配してもらいたいのでしょう。
得意気に言うのであれば、それは「スゴイですね!」と言われたいのでしょう。
いずれにしてもアピールなわけです。
大人のすることではありません。
小さい頃に身につけた、歪んだ気持ちの伝え方を今も引きずっているんです。
欲しいオモチャがあったけど、お母さんが買ってくれない。
そこで駄々をこねるか、泣くか、すねて口をきかなくなるか。
それによってお母さんの対応も変わってきます。
お母さんがオモチャを買ってくれたら、上手くいったその方法を学習してしまいます。
逆にお母さんが「そんな子は知りません!置いて行くわよ」と言ったら
ワガママを言わずに我慢する方法を学習してしまうでしょう。
いい子に過ごしていたら、ある日にオモチャを買ってくれたとしたら
「いい子にしてれば欲しいものが手に入る」ということを学ぶと予想されます。
そういった体験の繰り返しの中で、歪んだやり方を身につけていくわけです。
パターンが出来てしまうんです。
それが仕方の無いことです。
だから親の責任が重要だというのではありません。
親自身も、その両親によって植え付けられてきたパターンを使っているんですから。
自分がその歪んだパターンに気づき、それを止めるように努力する。
それが大人としての成長だということです。
自分で自分の要望に気づけていれば、自分の行動に責任が持てます。
意図的に曖昧な表現をして、それが伝わらなくても自分の責任なわけです。
嫌な気持ちは沸きません。
相手の対応に対して嫌な気持ちが沸いてきたら、
それは相手に期待をしていて、自分で責任をとっていないということです。
ただ、自分の隠れた要望に気づくのは難しいことだと思います。
ついつい、気づかずにやってしまいがちなんです。
そして、これが酷くなってくると、状況は悪くなってきます。
分かってくれないと感じたときには、さらに歪んだやり方が続きます。
相手を非難しながら、自分の要望を暗に表現し続けるわけです。
通常、そんなことをされたら相手のほうも不快になるものです。
その不快さを解消するために、相手も反発し始めます。
そうやって悪循環が起きていくんです。
こういう悪循環が起きているコミュニケーションのことを
交流分析では『ゲーム』と呼びます。
周りを巻き込んでいく不快なパターンです。
そうした自分の歪んだ表現で伝えたことでも、分かってくれる人というのがいます。
それは、その人が本当にコミュニケーション能力が高いという可能性もあります。
しかし、普通に育ってきたら必ず歪んだパターンを身につけてしまうものですから
多くの場合、分かってくれる人というのは
偶然にそのパターンを持っているのだろうと思われます。
家族の中にそのパターンで要望を表現する人がいて、
それを受け取って満足させることが関係を成立させる方法だったと想像できます。
当然、その歪んだパターンを満足させる方法も歪んでいます。
例えば、上手くいかないと泣いて許してもらうパターンの人からすれば、
「いいよ、いいよ。大丈夫だから。仕方ないよ。泣かないでね」と
慰めてくれる人に対して、「分かってくれた」と受け取るわけですが、
それも相手のパターンに巻き込まれた歪んだ状態です。
大人ではない要望の表現に対して、大人として扱っていないわけです。
本人は嬉しいかもしれませんが、それではずっとそのパターンが続くだけです。
一方、泣いて逃げようとする方法を認めずに、気持ちだけケアする方法もあります。
「泣くほどの想いで取り組んできたんですね。
その努力は素晴らしいことですから、次に活かしましょうね。」
といったところでしょうか。
要望を歪んで表現してしまうことは多々あるはずです。
それをどう対応していくかは難しいテーマだと思います。
自分の要望に気づいたとき、それをストレートに伝えてみるのは1つの方法でしょう。
ただ、なかなか「仕事に失敗して落ち込んでいるから慰めて」とは言いいにくい気もします。
それで慰めてもらっても嬉しくないかもしれません。
であれば、あえて曖昧な表現や、落ち込みを態度でアピールするもの手かもしれません。
ただ、そういう受け取りにくい方法を意識してするのと、
自分で気づかずにするのとでは全く別物です。
伝わらなかったときの不満の度合いが違うんです。
どうやっても他人からは満たされなければ仕方ありません。
それは自分の責任です。
その気持ちをケアできるのは自分だけです。
その気持ちを分かっているのが自分だけだからです。
結局、誰も自分のことは分かってくれないでしょう。
相手に求めずに、自分で自分を満たせるようになること。
突き詰めると、そこに行き着いてしまうものかもしれません。
2008年05月26日
懐かしい気持ち
「過去を振り返る」という言葉がありますね。
日本語にも英語にも、慣用句として使われる表現の中に
身体感覚を伴ったものが多く見受けられます。
「肩の荷がおりた」とか、「はらわたが煮えくり返る」とか。
「過去を振り返る」のも、多くの人に共通する時間感覚なんでしょう。
身体感覚的に、未来は前方にあって、過去が後ろにある印象を受けるということです。
NLPではタイムラインと言って、人の持つ時間感覚を利用したスキルを扱いますが、
未来を前方の設定するケースが多いです。
で、今この瞬間に充実感を感じてるのが好きだったり、
未来への目標に向かって進んでいくのが好きだったりすると、
「過去を振り返る」ことは少ないものかもしれません。
僕は意図的に過去を振り返ることもしますし、
何か気になることから記憶を遡っていくこともしますが、
ふとしたキッカケで当時の記憶が鮮明に蘇ってくることもあります。
NLP的に言えば、アンカリングされていたものが出てきたとも解釈できますね。
最近、久しぶりの人に出会う機会が多いんです。
立て続けという感じです。
それも何年ぶりとか何十年ぶりとかではなく、
1年ぶりとか1年半ぶりとか、ちょっとご無沙汰ぐらいの人達。
なのに意外と懐かしさも感じます。
そして、最近は意識していなかった当時の出来事を思い出します。
懐かしさというのは、「あの頃はこうだったよなぁ」という
変化に対する思いなのかもしれません。
久しぶりの出会いによって、自分自身の変化に気づけるんです。
1年とか1年半とか、短い期間のようであるけれど、随分変わったものだと実感します。
周りで見ているぶんには分からないかもしれませんが、
自分の中には色々と変わってきたことが沢山あるんです。
相手の方を通じて、あの頃の自分というのを振り返ることができるのでしょう。
自分を振り返る時間そのものは一瞬で、もちろん
久しぶりのコミュニケーションを楽しむわけですが、
1人に戻ったときに色々な記憶があふれて来ることもあるんです。
1年前にブログを始めた当時の記事を自分で読み返してみたり、
本屋で以前に好きだった著者の新作が目に留まったり、
最近は少し前のことを思い返すキッカケが続いている気がします。
今の僕に至るまでに、重要な影響を与えた本が中村文昭さんのものです。
最近その新作を読み、数年前を思い返したわけです。
本を読み、感動して涙を浮かべた最初の経験をしたのが中村文昭さんの著書でした。
初めて足を運んだ講演会が中村文昭さんのものでした。
初めて人の話に感動したのも、中村文昭さんでした。
それからセミナーや講演会に抵抗無く足を運ぶようになり、
石井裕之さんやNLPと出会うことができたんです。
講演の楽しさを知らなかったら、その本で影響を受けた考え方がなかったら、
僕はセミナーに参加することすらしなかったかもしれません。
そうしたら当然、今の自分はあり得ないわけです。
そして、中村文昭さんの本を読むことになったのは、速読をしていた時です。
速読を習っていた頃、多くの本を買っては読んでいました。
速読は、研究者として英語の論文を速く読みたかったから始めたものです。
それも何かに関わっていた気がします。
「あのとき、こうしていなければ…」という仮定をしたいわけではなく、
運命的な話をしたいわけでもなく、少し過去を振り返ると
様々なターニングポイントがあったことに気づけたということです。
…まぁ、実感として、導かれたような、不思議な感じというのもあるんですけど。
意識的に振り返らなくても、あるキッカケで振り返りたくなる時があるように思いますが、
そんな時は自分の人生を見つめなおす良いタイミングなのかもしれませんね。
ちなみに、ブログの初めの頃を見直したら、少し恥ずかしいところもありました。
今、読み返しても、実感を伴っている部分も沢山ありますが、
「今はそんな風には思わないなぁ」というようなところもあるものですね。
そんな多少の気恥ずかしさもまた、変化を感じるポイントなんでしょう。
日本語にも英語にも、慣用句として使われる表現の中に
身体感覚を伴ったものが多く見受けられます。
「肩の荷がおりた」とか、「はらわたが煮えくり返る」とか。
「過去を振り返る」のも、多くの人に共通する時間感覚なんでしょう。
身体感覚的に、未来は前方にあって、過去が後ろにある印象を受けるということです。
NLPではタイムラインと言って、人の持つ時間感覚を利用したスキルを扱いますが、
未来を前方の設定するケースが多いです。
で、今この瞬間に充実感を感じてるのが好きだったり、
未来への目標に向かって進んでいくのが好きだったりすると、
「過去を振り返る」ことは少ないものかもしれません。
僕は意図的に過去を振り返ることもしますし、
何か気になることから記憶を遡っていくこともしますが、
ふとしたキッカケで当時の記憶が鮮明に蘇ってくることもあります。
NLP的に言えば、アンカリングされていたものが出てきたとも解釈できますね。
最近、久しぶりの人に出会う機会が多いんです。
立て続けという感じです。
それも何年ぶりとか何十年ぶりとかではなく、
1年ぶりとか1年半ぶりとか、ちょっとご無沙汰ぐらいの人達。
なのに意外と懐かしさも感じます。
そして、最近は意識していなかった当時の出来事を思い出します。
懐かしさというのは、「あの頃はこうだったよなぁ」という
変化に対する思いなのかもしれません。
久しぶりの出会いによって、自分自身の変化に気づけるんです。
1年とか1年半とか、短い期間のようであるけれど、随分変わったものだと実感します。
周りで見ているぶんには分からないかもしれませんが、
自分の中には色々と変わってきたことが沢山あるんです。
相手の方を通じて、あの頃の自分というのを振り返ることができるのでしょう。
自分を振り返る時間そのものは一瞬で、もちろん
久しぶりのコミュニケーションを楽しむわけですが、
1人に戻ったときに色々な記憶があふれて来ることもあるんです。
1年前にブログを始めた当時の記事を自分で読み返してみたり、
本屋で以前に好きだった著者の新作が目に留まったり、
最近は少し前のことを思い返すキッカケが続いている気がします。
今の僕に至るまでに、重要な影響を与えた本が中村文昭さんのものです。
最近その新作を読み、数年前を思い返したわけです。
本を読み、感動して涙を浮かべた最初の経験をしたのが中村文昭さんの著書でした。
初めて足を運んだ講演会が中村文昭さんのものでした。
初めて人の話に感動したのも、中村文昭さんでした。
それからセミナーや講演会に抵抗無く足を運ぶようになり、
石井裕之さんやNLPと出会うことができたんです。
講演の楽しさを知らなかったら、その本で影響を受けた考え方がなかったら、
僕はセミナーに参加することすらしなかったかもしれません。
そうしたら当然、今の自分はあり得ないわけです。
そして、中村文昭さんの本を読むことになったのは、速読をしていた時です。
速読を習っていた頃、多くの本を買っては読んでいました。
速読は、研究者として英語の論文を速く読みたかったから始めたものです。
それも何かに関わっていた気がします。
「あのとき、こうしていなければ…」という仮定をしたいわけではなく、
運命的な話をしたいわけでもなく、少し過去を振り返ると
様々なターニングポイントがあったことに気づけたということです。
…まぁ、実感として、導かれたような、不思議な感じというのもあるんですけど。
意識的に振り返らなくても、あるキッカケで振り返りたくなる時があるように思いますが、
そんな時は自分の人生を見つめなおす良いタイミングなのかもしれませんね。
ちなみに、ブログの初めの頃を見直したら、少し恥ずかしいところもありました。
今、読み返しても、実感を伴っている部分も沢山ありますが、
「今はそんな風には思わないなぁ」というようなところもあるものですね。
そんな多少の気恥ずかしさもまた、変化を感じるポイントなんでしょう。
2008年05月24日
「役に立ちたい」というワガママ
「誰かのために…」
「役に立ちたい」
そういう想いは素晴らしいと思います。
自分を超えた何か。
それが家族でも、他人でも、世界でも、地球でも、
自分以外の存在のために何かをするというのは素晴らしいことでしょう。
そして、そういう想いで何かをするとき、
人は個人を超えた力を発揮するようでもあります。
個人という枠組みを超えたリソースを活用できるようです。
それは時に自分の幅を大きく飛び出しすぎて危険になることもありますが、
そのことを分かった上で「誰かのために」頑張るのは立派なことだと思います。
ただ、『自分以外の存在のために』という視点は、
「自分は生かされている」という実感を伴ってこそ意味を成すのではないでしょうか。
無理矢理に引っ張り出して、「誰かのために」というのは危険をはらむ気がします。
「生かされている」という実感こそが『使命感』なわけです。
自分の命の使い方。
文字通り『使命』感です。
それはなかなか実感できるものではないかもしれません。
死線を乗り越えた人の生き方には使命感が現れることが多いようですが、
その域に達する人は多くはないように思います。
『使命』というのは『ミッション』と訳されます。
それを掲げておくことは、自分のスタイルをブラさないために効果的なようです。
しかし、「使命をいつも心がけておく」というのは本末転倒のようにも感じます。
方法論としては効果的でしょうが、本質的ではないように思えてしまいます。
個人的な印象ですが、使命感を持っているように感じられる人は、
やりたいことをやっているように見えるんです。
『使命』というと、与えられた役割のような印象がありますが、
「やらされている」感じとは全く別物のように思えるんです。
「自分は生かされている。だから、こうしなくてはならない!」という想い。
「自分は生かされている。だから生きているうちに、こうしたい!」という想い。
僕は後者に使命感を受け取ります。
単純に、やりたいことをやっているだけなんです。
ただ、やりたいことが統一されているわけです。
好き勝手にやっているのに、言動がブレないんです。
そこが使命感のある人の特徴ではないかと思います。
生活していれば、色々な願望が沸きあがってきます。
ダイエットしてモテたい願いもあれば、焼肉の食べ放題に行きたい願いもあるでしょう。
沸き上がってくる数々の願望が別の方向を向きやすいわけです。
だからミッションを決めて、それに合っているかを照らし合わせて
自分の行動をブレないものとして制御していく方法が有効なわけです。
でも、本当に使命感があれば違います。
「やりたい」という願望の方向が一致してくるようです。
ただ単純に、自分のやりたいことをして、やりたくないことをしない。
そこを徹底しているだけ。
いや、徹底しているつもりすらないかもしれません。
自分が一番満足感を感じられる生き方をしているだけ。
その意味では「誰かのために」でも「役に立ちたい」でもないはずなんです。
自分のために、自分がしたいからする。
自分だと思うんです。
「役に立ちたい」、「人を救いたい」、「誰かを喜ばせたい」、「皆を幸せにしたい」…
そういった思いは素晴らしいには違いないでしょうが、
本当に相手のためにやっているか、ということは吟味すべきだと思います。
役に立とうとしたのに嫌がられたら、自分がどう感じるのか。
人助けをして感謝されなかったときに、自分がどう感じるのか。
相手を喜ばせようと思って何かをしたとき相手が喜ばなかったら、自分はどう感じるのか。
見返りを求めているかどうか、ということです。
「人のために」と言いながら、人から感謝されたがっていないか。
「相手のために」何かをしたはずが、相手の反応が期待外れだとガッカリしてはいないか。
本当の意味で、他人のために何かをするというのは大変なことだと思います。
自分が何を求めているのか、自分は何をしたいのか、何が自分の喜びなのか、
そういうことを感じながら自分の行動を振り返るほうが先ではないでしょうか。
自分が自分の満足のためにやっていることだと思えれば、
上手くいかなかったときには悔しさや残念な気持ちが残るでしょう。
上手くいかなかったときに、相手に対して怒りや不満が沸いてきたら
それは、相手に自分を満足させるよう期待していたからでしょう。
他人を、自分の満足の道具にしていないか。
自分は自分の満足のために、自分のしたいことをする。
それで相手が喜んでくれたら素晴らしいと思います。
誰からも感謝されなくなるのが究極かもしれません。
「役に立ちたい」
そういう想いは素晴らしいと思います。
自分を超えた何か。
それが家族でも、他人でも、世界でも、地球でも、
自分以外の存在のために何かをするというのは素晴らしいことでしょう。
そして、そういう想いで何かをするとき、
人は個人を超えた力を発揮するようでもあります。
個人という枠組みを超えたリソースを活用できるようです。
それは時に自分の幅を大きく飛び出しすぎて危険になることもありますが、
そのことを分かった上で「誰かのために」頑張るのは立派なことだと思います。
ただ、『自分以外の存在のために』という視点は、
「自分は生かされている」という実感を伴ってこそ意味を成すのではないでしょうか。
無理矢理に引っ張り出して、「誰かのために」というのは危険をはらむ気がします。
「生かされている」という実感こそが『使命感』なわけです。
自分の命の使い方。
文字通り『使命』感です。
それはなかなか実感できるものではないかもしれません。
死線を乗り越えた人の生き方には使命感が現れることが多いようですが、
その域に達する人は多くはないように思います。
『使命』というのは『ミッション』と訳されます。
それを掲げておくことは、自分のスタイルをブラさないために効果的なようです。
しかし、「使命をいつも心がけておく」というのは本末転倒のようにも感じます。
方法論としては効果的でしょうが、本質的ではないように思えてしまいます。
個人的な印象ですが、使命感を持っているように感じられる人は、
やりたいことをやっているように見えるんです。
『使命』というと、与えられた役割のような印象がありますが、
「やらされている」感じとは全く別物のように思えるんです。
「自分は生かされている。だから、こうしなくてはならない!」という想い。
「自分は生かされている。だから生きているうちに、こうしたい!」という想い。
僕は後者に使命感を受け取ります。
単純に、やりたいことをやっているだけなんです。
ただ、やりたいことが統一されているわけです。
好き勝手にやっているのに、言動がブレないんです。
そこが使命感のある人の特徴ではないかと思います。
生活していれば、色々な願望が沸きあがってきます。
ダイエットしてモテたい願いもあれば、焼肉の食べ放題に行きたい願いもあるでしょう。
沸き上がってくる数々の願望が別の方向を向きやすいわけです。
だからミッションを決めて、それに合っているかを照らし合わせて
自分の行動をブレないものとして制御していく方法が有効なわけです。
でも、本当に使命感があれば違います。
「やりたい」という願望の方向が一致してくるようです。
ただ単純に、自分のやりたいことをして、やりたくないことをしない。
そこを徹底しているだけ。
いや、徹底しているつもりすらないかもしれません。
自分が一番満足感を感じられる生き方をしているだけ。
その意味では「誰かのために」でも「役に立ちたい」でもないはずなんです。
自分のために、自分がしたいからする。
自分だと思うんです。
「役に立ちたい」、「人を救いたい」、「誰かを喜ばせたい」、「皆を幸せにしたい」…
そういった思いは素晴らしいには違いないでしょうが、
本当に相手のためにやっているか、ということは吟味すべきだと思います。
役に立とうとしたのに嫌がられたら、自分がどう感じるのか。
人助けをして感謝されなかったときに、自分がどう感じるのか。
相手を喜ばせようと思って何かをしたとき相手が喜ばなかったら、自分はどう感じるのか。
見返りを求めているかどうか、ということです。
「人のために」と言いながら、人から感謝されたがっていないか。
「相手のために」何かをしたはずが、相手の反応が期待外れだとガッカリしてはいないか。
本当の意味で、他人のために何かをするというのは大変なことだと思います。
自分が何を求めているのか、自分は何をしたいのか、何が自分の喜びなのか、
そういうことを感じながら自分の行動を振り返るほうが先ではないでしょうか。
自分が自分の満足のためにやっていることだと思えれば、
上手くいかなかったときには悔しさや残念な気持ちが残るでしょう。
上手くいかなかったときに、相手に対して怒りや不満が沸いてきたら
それは、相手に自分を満足させるよう期待していたからでしょう。
他人を、自分の満足の道具にしていないか。
自分は自分の満足のために、自分のしたいことをする。
それで相手が喜んでくれたら素晴らしいと思います。
誰からも感謝されなくなるのが究極かもしれません。
2008年05月22日
書くことの効果
毎月、NLPのほうでニュースレターを書いていますが
色々と気を遣いながら内容を考えていくので書くのに時間がかかります。
ブログであれば思いつくままに好き勝手なことを書いても構わないだろうと思っていますが
NLPのニュースレターではそうもいきません。
NLPという範囲を出ないように気をつけたり、
NLPを学ばれた方にも、そうでない方にも納得してもらえるように意識したり、
NLPを体験する前に先入観を与えないように注意したり、
まぁ、色々と気を配っているわけです。
読んで下さっている方がどれだけいるかは分かりませんが、
かなりの力を向けながら書いていますので
一人でも多くの方に読んでいただけると嬉しいです。
場合によっては、郵送物を開封すらしないということも多々あるでしょうから。
…これは僕自身にそういう傾向があるから余計に思うのかもしれませんね。
一方、ブログは僕にとって様々な意味があるようです。
ある程度の頻度は意識していますから
その日の状態によっては書くのが大変なこともありますが、
書くこと自体に大きな意味があるようです。
多くの場合、ブログを書き始めると途中で書く内容が動いてくるからです。
引きずられるように文章が出てくる感じがあるんですね。
その意味では、何かのテーマを持って書き始めると
自分の頭の中が改めて整理されることもあるわけです。
概念というのは必ずしも言語と一致していませんから
頭の中にあるだけで実感として納得できているものでも
言葉にして説明するというのは別問題なものです。
「分かってるつもりなのに、うまく説明できないなぁ」という思いは
多くの方が感じたことのあるものではないかと推測します。
ところが、これを意識的に文字として表現してみると、
それを客観的に『見る』ことができるようになってくるわけです。
すると自分の中を見ることができ、新たな気づきに繋がりやすくなるんです。
『書く』という行為自体が気づきを促すわけですね。
心理療法の中でも紙に書いてもらうことは多々ありますが、
それも客観的に見られることが大きな意味を持っているわけです。
そういうわけで、僕のブログも書く行為自体に意味があるようです。
ただ、僕が書いているときは、読みながら聞いている感覚もあるので、
どちらかというと「紙に書いて整理してみる」という状態よりは
「思いつくままに話して、録音したものを文字に起こしている」ような状態に近い気がします。
ちなみに『話す』という行為も、同時に自分の耳で聞くことができますし、
相手のリアクションを見ながらフィードバックを無意識に受け取るので
視点を変えて気づきを促すのに大切なことと言えます。
ワークショップなどで、取り組んだ内容の振り返りを話すのも同じ意図です。
ロジャース派のカウンセリングで傾聴を薦めるのも、
『話す』という行為自体が持つ効果を期待しているからだろうと思います。
で、僕にとっては、思うことを書くのがブログの主要な使い方になっていますが、
一方では、出来事を書く人もいるようです。
日記を公開するようなものなんでしょうね。
そういう点で言うと、ブログを書いていて予想外に反響が大きかったのが
「ムーミン」と相席した、という内容でした。
ムーミンは人気があるようですね。
スナフキンが好きだという人も多いようですが。
ということで、同じ店にいたスナフキン(?)の写真です。
他にスナフキンらしきものは見えなかったので、多分そうじゃないかと思います。
「ムーミンベーカリー&カフェ」という店に行くと会えます。
僕は「そば粉と塩豆のパン」が好きです。
色々と気を遣いながら内容を考えていくので書くのに時間がかかります。
ブログであれば思いつくままに好き勝手なことを書いても構わないだろうと思っていますが
NLPのニュースレターではそうもいきません。
NLPという範囲を出ないように気をつけたり、
NLPを学ばれた方にも、そうでない方にも納得してもらえるように意識したり、
NLPを体験する前に先入観を与えないように注意したり、
まぁ、色々と気を配っているわけです。
読んで下さっている方がどれだけいるかは分かりませんが、
かなりの力を向けながら書いていますので
一人でも多くの方に読んでいただけると嬉しいです。
場合によっては、郵送物を開封すらしないということも多々あるでしょうから。
…これは僕自身にそういう傾向があるから余計に思うのかもしれませんね。
一方、ブログは僕にとって様々な意味があるようです。
ある程度の頻度は意識していますから
その日の状態によっては書くのが大変なこともありますが、
書くこと自体に大きな意味があるようです。
多くの場合、ブログを書き始めると途中で書く内容が動いてくるからです。
引きずられるように文章が出てくる感じがあるんですね。
その意味では、何かのテーマを持って書き始めると
自分の頭の中が改めて整理されることもあるわけです。
概念というのは必ずしも言語と一致していませんから
頭の中にあるだけで実感として納得できているものでも
言葉にして説明するというのは別問題なものです。
「分かってるつもりなのに、うまく説明できないなぁ」という思いは
多くの方が感じたことのあるものではないかと推測します。
ところが、これを意識的に文字として表現してみると、
それを客観的に『見る』ことができるようになってくるわけです。
すると自分の中を見ることができ、新たな気づきに繋がりやすくなるんです。
『書く』という行為自体が気づきを促すわけですね。
心理療法の中でも紙に書いてもらうことは多々ありますが、
それも客観的に見られることが大きな意味を持っているわけです。
そういうわけで、僕のブログも書く行為自体に意味があるようです。
ただ、僕が書いているときは、読みながら聞いている感覚もあるので、
どちらかというと「紙に書いて整理してみる」という状態よりは
「思いつくままに話して、録音したものを文字に起こしている」ような状態に近い気がします。
ちなみに『話す』という行為も、同時に自分の耳で聞くことができますし、
相手のリアクションを見ながらフィードバックを無意識に受け取るので
視点を変えて気づきを促すのに大切なことと言えます。
ワークショップなどで、取り組んだ内容の振り返りを話すのも同じ意図です。
ロジャース派のカウンセリングで傾聴を薦めるのも、
『話す』という行為自体が持つ効果を期待しているからだろうと思います。
で、僕にとっては、思うことを書くのがブログの主要な使い方になっていますが、
一方では、出来事を書く人もいるようです。
日記を公開するようなものなんでしょうね。
そういう点で言うと、ブログを書いていて予想外に反響が大きかったのが
「ムーミン」と相席した、という内容でした。
ムーミンは人気があるようですね。
スナフキンが好きだという人も多いようですが。
ということで、同じ店にいたスナフキン(?)の写真です。
他にスナフキンらしきものは見えなかったので、多分そうじゃないかと思います。
「ムーミンベーカリー&カフェ」という店に行くと会えます。
僕は「そば粉と塩豆のパン」が好きです。
2008年05月20日
「ストレングス・ファインダー」
「さあ、才能に目覚めよう」という本があります。
この本を買って読むと、付属のIDを使ってインターネット上で1回だけ
ストレングス・ファインダーというのをやることができます。
この本では人の強みを34項目に分類していて、
ストレングス・ファインダーでは個人の強み上位5項目を分析してくれます。
本にはテストの質問にも工夫があるようなことが書いてありますが
僕がやってみた感想としては、非常に答えにくい質問ばかりに感じました。
どういう採点や仕組みで進んでいくのかも分かりません。
本を買って、読む前にやってみるほうが面白いかもしれません。
僕は本の中で34項目の強みの解説を読んでいた結果、
テスト後の分析結果が「そうだろうな」という印象でしたから。
もちろん、自分自身を様々な形で吟味しているつもりですから
そういった意味では、ストレングス・ファインダーが良く出来ているとも思えます。
自分自身のことについて深く知りたいと思っていたり、
就職や転職の前に自己分析をしてみたいと考えていたり、
占いや心理テストのようなものが好きだったりしたら、
本を買ってでもやってみるのは面白いと思います。
強みの34項目は英語の原著を日本語訳しているせいもあるかもしれませんが、
単語から感じ取れる概念と、強みの内容説明とがシックリきません。
その単語でそういう意味を言いたいのか、と感じるときもあるほど。
なので、やってみた後には個別の項目の解説をしっかりと読むほうが良さそうです。
文章にはコールドリーディングでいうストックスピール的な印象もあるので
差し引いて読む必要はあると思います。
まぁ、僕がこれをやってみるオススメするわけではありませんが…。
ちなみに僕の強み上位5項目は上から、
着想
内省
親密性
学習欲
個別化
でした。
順番は入れ替わるほうが良さそうな部分も感じますが、
5項目としては、まぁまぁ当てはまっている気がします。
(親密性はもう少し下だと思います)
原点思考、分析思考という項目もあって、日本語として捉えると
こちらのほうが当てはまりそうに思えますが、着想の解説を読むと
そっちのほうが適切なように思えます。
着想についてだけ引用してみます。
「あなたは着想に魅力を感じます。では、着想とは何でしょうか?
着想とは、ほとんどの出来事を最もうまく説明できる考え方です。
あなたは複雑に見える表面の下に、なぜ物事はそうなっているかを説明する、
的確で簡潔な考え方を発見すると嬉しくなります。
着想とは結びつきです。
あなたのような考え方を持つ人は、いつも結びつきを探しています。
見た目には共通点のない現象が、何となく繋がりがありそうだと、
あなたは好奇心をかき立てられるのです。
着想とは、皆がなかなか解決できずにいる日常的な問題に対して、新しい見方をすることです。
あなたは誰でも知っている世の中の事柄を取り上げ、
それをひっくり返すことに非常に喜びを感じます。
それによって人々は、その事柄を、変わっているけれど意外な角度から眺めることができます。
あなたはこのような着想すべてが大好きです。
なぜなら、それらは深い意味があるからです。
なぜなら、それらは目新しいからです。
それらは明瞭であり、逆説的であり、奇抜だからです。
これらすべての理由で、あなたは新しい着想が生まれるたびに、
エネルギーが電流のように走ります。
他の人たちはあなたのことを、創造的とか独創的とか、
あるいは概念的とか、知的とさえ名付けるかもしれません。
おそらく、どれもあてはまるかもしれません。
どれもあてはまらないかもしれません。
確実なのは、着想はあなたにとってスリルがあるということです。
そしてほとんど毎日そうであれば、あなたは幸せなのです。 」
NLPで言うならば、ミルトン・モデルのオンパレードですね。
なんとなく当てはまっているように感じる文章です。
が、内容をしっかり理解しようとしたときにも、納得がいきます。
僕の分析的な見方は原点を辿るというよりも、
全ての根底にあるものを探す感じがあります。
そういう意味では「結びつき」というのはキーワードなわけです。
僕の勉強会に出たことのある方は、納得していただけるかもしれませんね。
「学習欲」は単語の意味そのままですが、僕が好きなことだと感じますし、
「個別化」は人は全て違うという意味において
コミュニケーションや心理を扱う上での重要な基盤です。
「親密性」というのは「誰とでも仲良く」ではなく、
「特定の人と仲良く」ということのようです。
これも、確かに…、という印象でしょうか。
僕は顔と名前が一致しなくなる人数のセミナーをやりたいと思いません。
1000人、2000人の前で話すというような目標は一切無いんです。
しっかりと交流が持てる人数を好むというのは「親密性」ということなのかもしれません。
で、僕には「内省」というものもあるようです。
要するに、1人の時間をとって、自分の頭の中を巡らせる。
内に篭もって何かをするのが大事だということですね。
これは僕にとって非常に大切です。
セミナーの無い日は、誰とも会わないようにすることもあります。
無意識で、内に篭もる時間を作っているようです。
ということは、毎日人と接する仕事というのは
きっとストレスが多くなってしまうんだろうと予測できますね。
ちょっと考えないといけないことがありそうです。
この本を買って読むと、付属のIDを使ってインターネット上で1回だけ
ストレングス・ファインダーというのをやることができます。
この本では人の強みを34項目に分類していて、
ストレングス・ファインダーでは個人の強み上位5項目を分析してくれます。
本にはテストの質問にも工夫があるようなことが書いてありますが
僕がやってみた感想としては、非常に答えにくい質問ばかりに感じました。
どういう採点や仕組みで進んでいくのかも分かりません。
本を買って、読む前にやってみるほうが面白いかもしれません。
僕は本の中で34項目の強みの解説を読んでいた結果、
テスト後の分析結果が「そうだろうな」という印象でしたから。
もちろん、自分自身を様々な形で吟味しているつもりですから
そういった意味では、ストレングス・ファインダーが良く出来ているとも思えます。
自分自身のことについて深く知りたいと思っていたり、
就職や転職の前に自己分析をしてみたいと考えていたり、
占いや心理テストのようなものが好きだったりしたら、
本を買ってでもやってみるのは面白いと思います。
強みの34項目は英語の原著を日本語訳しているせいもあるかもしれませんが、
単語から感じ取れる概念と、強みの内容説明とがシックリきません。
その単語でそういう意味を言いたいのか、と感じるときもあるほど。
なので、やってみた後には個別の項目の解説をしっかりと読むほうが良さそうです。
文章にはコールドリーディングでいうストックスピール的な印象もあるので
差し引いて読む必要はあると思います。
まぁ、僕がこれをやってみるオススメするわけではありませんが…。
ちなみに僕の強み上位5項目は上から、
着想
内省
親密性
学習欲
個別化
でした。
順番は入れ替わるほうが良さそうな部分も感じますが、
5項目としては、まぁまぁ当てはまっている気がします。
(親密性はもう少し下だと思います)
原点思考、分析思考という項目もあって、日本語として捉えると
こちらのほうが当てはまりそうに思えますが、着想の解説を読むと
そっちのほうが適切なように思えます。
着想についてだけ引用してみます。
「あなたは着想に魅力を感じます。では、着想とは何でしょうか?
着想とは、ほとんどの出来事を最もうまく説明できる考え方です。
あなたは複雑に見える表面の下に、なぜ物事はそうなっているかを説明する、
的確で簡潔な考え方を発見すると嬉しくなります。
着想とは結びつきです。
あなたのような考え方を持つ人は、いつも結びつきを探しています。
見た目には共通点のない現象が、何となく繋がりがありそうだと、
あなたは好奇心をかき立てられるのです。
着想とは、皆がなかなか解決できずにいる日常的な問題に対して、新しい見方をすることです。
あなたは誰でも知っている世の中の事柄を取り上げ、
それをひっくり返すことに非常に喜びを感じます。
それによって人々は、その事柄を、変わっているけれど意外な角度から眺めることができます。
あなたはこのような着想すべてが大好きです。
なぜなら、それらは深い意味があるからです。
なぜなら、それらは目新しいからです。
それらは明瞭であり、逆説的であり、奇抜だからです。
これらすべての理由で、あなたは新しい着想が生まれるたびに、
エネルギーが電流のように走ります。
他の人たちはあなたのことを、創造的とか独創的とか、
あるいは概念的とか、知的とさえ名付けるかもしれません。
おそらく、どれもあてはまるかもしれません。
どれもあてはまらないかもしれません。
確実なのは、着想はあなたにとってスリルがあるということです。
そしてほとんど毎日そうであれば、あなたは幸せなのです。 」
NLPで言うならば、ミルトン・モデルのオンパレードですね。
なんとなく当てはまっているように感じる文章です。
が、内容をしっかり理解しようとしたときにも、納得がいきます。
僕の分析的な見方は原点を辿るというよりも、
全ての根底にあるものを探す感じがあります。
そういう意味では「結びつき」というのはキーワードなわけです。
僕の勉強会に出たことのある方は、納得していただけるかもしれませんね。
「学習欲」は単語の意味そのままですが、僕が好きなことだと感じますし、
「個別化」は人は全て違うという意味において
コミュニケーションや心理を扱う上での重要な基盤です。
「親密性」というのは「誰とでも仲良く」ではなく、
「特定の人と仲良く」ということのようです。
これも、確かに…、という印象でしょうか。
僕は顔と名前が一致しなくなる人数のセミナーをやりたいと思いません。
1000人、2000人の前で話すというような目標は一切無いんです。
しっかりと交流が持てる人数を好むというのは「親密性」ということなのかもしれません。
で、僕には「内省」というものもあるようです。
要するに、1人の時間をとって、自分の頭の中を巡らせる。
内に篭もって何かをするのが大事だということですね。
これは僕にとって非常に大切です。
セミナーの無い日は、誰とも会わないようにすることもあります。
無意識で、内に篭もる時間を作っているようです。
ということは、毎日人と接する仕事というのは
きっとストレスが多くなってしまうんだろうと予測できますね。
ちょっと考えないといけないことがありそうです。
2008年05月17日
型稽古
日本の伝統芸能や武道には「型」があることが多いようです。
日本以外でも、格闘技の場合には様々な型を身につけると考えられそうです。
例えば、ボクシングでフックやアッパーの練習をするのも型ですし、
ディフェンスの仕方などは典型的な型の練習と言えるでしょう。
空手では昇段試験のような場面で型を評価する演舞も行うようですから
それだけ型の重要性を意識しているのではないかと思います。
では、実際に空手の試合でどれだけ型が使われるかというと
テレビで放送される試合などを見る限り、演舞とは随分違う印象を受けますから
試合中に型がそのまま使われることは少ないのかもしれません。
極真空手は素手で防具もつけずに殴ったり蹴ったりする流派ですから
素人の僕から見ると試合の様子は、痛みを我慢しながら相手を殴ったり蹴ったりを
ずっと繰り返しているようにすら受け取れてしまいます。
しかし、そこにはおそらく、空手の型が影響を及ぼしているのでしょう。
エレガントな受けや攻撃が見られる場面が少ないだけで、
選手たちの動きには繰り返し蓄積されてきた型が反映されていると思えるんです。
空手であれば、目的は強くなることであったり、試合に勝つことであったりするでしょう。
その目的のために、徹底的な型稽古を行う。
直接的には目的に沿わないように感じられる型稽古が
これだけ伝統的に続けられてきたということは、重要な役割があるんだろうと思うわけです。
試合などの実践の場面でどれだけ型通りの動きをするかと言われれば、
それは型を外れたものが多いのでしょうが、
無意識に蓄積された型の動きが自然と効果を発揮している可能性が考えられます。
型は無意識に蓄積され、自然と出てくるようになるまで
繰り返し稽古していくことが大切なのかもしれません。
落語も能も狂言も歌舞伎も、師匠から型稽古をつけられると聞きます。
徹底的に型を身につけることに専念するということです。
ところが、いくら頑張って型どおりにやろうとしても
どうしても現れてしまうその人の個性というのがあるものです。
その型には、はまりきらない部分を個性と呼ぶのでしょう。
個性を活かした教育というような言い方もされますが
それは「ゆとり」とは対極の型稽古を徹底したときに
型に収まらない部分として現れてくるものと考えることもできるんじゃないでしょうか。
「型破り」という言葉がありますが、歌舞伎の市川猿之介氏は
「型があるから『型破り』」だと説明していると言います。
まずは型を身につけることが大事だという話でしょう。
そして、NLPというのは、まさにこの「型」そのものだと思えるんです。
エリクソンのやり方、パールズのやり方、サティアのやり方。
これらは具体的な手法です。
彼ら独自の個性的なものです。
その個性的なやり方から抜き出された型がNLPだということです。
空手で言えば、戦闘スタイルも筋力も違う3人から
やり方を「型」として学び取った感じ。
3人の具体的なやり方。個性。
そういったものから「型」だけを抽出したのがNLPであると見たとき、
NLPには具体的な利用法というのが存在しないと考えることもできます。
例えば、会社の部下に対してヤル気を引き出したいとしましょう。
そのときに効果的な言葉がけを具体的に学んだとしたら、
それは誰かが使って有効だった実績のある言葉を真似してみることになります。
同じ言葉が別の人に対して効果を発揮するかどうかは分からないわけです。
多くの場合、自分の上司だった人とか、近くの人とか、尊敬する人とか、
そういった別の人達のやり方を真似して取り入れてみて、
それを自分なりに試していく過程を通るはずです。
そのプロセスで自分なりのやり方を身につけるんです。
つまり、自分の「型」を自分で作るということです。
でもNLPは違います。
それ自体が型なんです。
だから型稽古をして、自分なりに実践すればいいわけです。
NLPに限ったことではありませんが、何かを学び、
「どうやって使えばいいんだろう?」という疑問が湧いてくるとしたら、
それは実際に使っていきたいという気持ちの表れと捉えて良いはずです。
意欲的だということです。
その意欲を結果に向けなければ、状況は随分と変わるのではないかと思います。
まずは型稽古として数をこなすことに意欲を向けるということです。
日常の中で型を使えそうな場面を探し、少しでも型を練習してみる。
そうしているうちに型が身についていきます。
型は無意識に刻まれていきます。
これが型稽古のメリットです。
型が無意識に刻まれていくと、具体的な状況に応じて
自然と型が使えるようになっていくんです。
映画「ベストキッド」で主人公が空手のトレーニングをするシーンが象徴的です。
車のワックスがけを徹底的に繰り返すことで、
ワックスがけの時の動きが型として無意識に刻まれていきます。
主人公の実践場面、彼はそのワックスがけの動きを思い出すだけで
勝手に相手の攻撃を受け流すことができるようになっていました。
相手がこう打ち込んできたら、こうやって受ける…という風に
一つ一つの状況を学んでいくとバリエーションが多すぎるんです。
型を身につけると対応の幅が広がるわけです。
ワックスがけの型だけで、多くの攻撃をさばけたように。
もちろん実戦経験も重要です。
組み手とか乱取りとか言われる練習も大事です。
日常で実戦として、成果まで出そうとするのは
空手の型を習ってすぐにケンカで勝とうとするようなものでしょう。
コミュニケーションのトレーニングの面白いのは
人と人が関わったときには必ずコミュニケーションが生まれるという特性とも関係します。
型稽古のつもりで練習をするだけで、そこにコミュニケーションが生まれるため
実践的な意味合いも含まれてくるからです。
練習の過程で、同時に実践的な側面も学べているんです。
「型」を学んでいる過程で、「どうやって使ったらいいか分からない」と感じるのは
当然のように起きてくる状態かもしれません。
それはもしかすると「型稽古を続けよう」というメッセージかもしれません。
型を繰り返し、型が自分自身の実感として感じられるまでに身についてくると
型の持つ意味が体感できるようになってくるものです。
型の持つ意味、型の効果が実感できてくれば、
自然と型を使うべきタイミングも分かってきます。
それは型と体の反応を結び付けていくからです。
型と状況を結びつけるのは型の効果を下げてしまいます。
『体の反応…型』という結びつきを作るのが優先。
『状況…体の反応』は日常、無意識に起こっていることです。
だから、『体の反応…型』という結びつきを作れば
何かの状況で、『状況…体の反応…型』という具合に、
勝手に体が適切な型を選び出してくれるわけです。
どんな状況でも、体の反応として適切な場面であれば型が生きてきます。
初めての状況でも体の反応が教えてくれるということです。
それを、型が身につく前にすぐに実践して活用しようと焦ってしまうと
『状況…型』という具合に体の反応を省略した結びつきが出来てしまいます。
すると、特定の状況でしか型が利用できない羽目になってしまうんです。
型は型として練習をして、それが実感として、
体の反応に結びつくまで練習を続けるのが大事なように思います。
型の意味が納得できて、体の反応と結びついてくれば
「この型はどういう場面で使えばいいんだろう?」という疑問が出なくなるはずです。
納得できるまで型稽古。
地味なようですが、型という先人の知恵を活用するには
成果を焦り過ぎないで先人達を信じぬく謙虚さも大事なのかもしれません。
日本以外でも、格闘技の場合には様々な型を身につけると考えられそうです。
例えば、ボクシングでフックやアッパーの練習をするのも型ですし、
ディフェンスの仕方などは典型的な型の練習と言えるでしょう。
空手では昇段試験のような場面で型を評価する演舞も行うようですから
それだけ型の重要性を意識しているのではないかと思います。
では、実際に空手の試合でどれだけ型が使われるかというと
テレビで放送される試合などを見る限り、演舞とは随分違う印象を受けますから
試合中に型がそのまま使われることは少ないのかもしれません。
極真空手は素手で防具もつけずに殴ったり蹴ったりする流派ですから
素人の僕から見ると試合の様子は、痛みを我慢しながら相手を殴ったり蹴ったりを
ずっと繰り返しているようにすら受け取れてしまいます。
しかし、そこにはおそらく、空手の型が影響を及ぼしているのでしょう。
エレガントな受けや攻撃が見られる場面が少ないだけで、
選手たちの動きには繰り返し蓄積されてきた型が反映されていると思えるんです。
空手であれば、目的は強くなることであったり、試合に勝つことであったりするでしょう。
その目的のために、徹底的な型稽古を行う。
直接的には目的に沿わないように感じられる型稽古が
これだけ伝統的に続けられてきたということは、重要な役割があるんだろうと思うわけです。
試合などの実践の場面でどれだけ型通りの動きをするかと言われれば、
それは型を外れたものが多いのでしょうが、
無意識に蓄積された型の動きが自然と効果を発揮している可能性が考えられます。
型は無意識に蓄積され、自然と出てくるようになるまで
繰り返し稽古していくことが大切なのかもしれません。
落語も能も狂言も歌舞伎も、師匠から型稽古をつけられると聞きます。
徹底的に型を身につけることに専念するということです。
ところが、いくら頑張って型どおりにやろうとしても
どうしても現れてしまうその人の個性というのがあるものです。
その型には、はまりきらない部分を個性と呼ぶのでしょう。
個性を活かした教育というような言い方もされますが
それは「ゆとり」とは対極の型稽古を徹底したときに
型に収まらない部分として現れてくるものと考えることもできるんじゃないでしょうか。
「型破り」という言葉がありますが、歌舞伎の市川猿之介氏は
「型があるから『型破り』」だと説明していると言います。
まずは型を身につけることが大事だという話でしょう。
そして、NLPというのは、まさにこの「型」そのものだと思えるんです。
エリクソンのやり方、パールズのやり方、サティアのやり方。
これらは具体的な手法です。
彼ら独自の個性的なものです。
その個性的なやり方から抜き出された型がNLPだということです。
空手で言えば、戦闘スタイルも筋力も違う3人から
やり方を「型」として学び取った感じ。
3人の具体的なやり方。個性。
そういったものから「型」だけを抽出したのがNLPであると見たとき、
NLPには具体的な利用法というのが存在しないと考えることもできます。
例えば、会社の部下に対してヤル気を引き出したいとしましょう。
そのときに効果的な言葉がけを具体的に学んだとしたら、
それは誰かが使って有効だった実績のある言葉を真似してみることになります。
同じ言葉が別の人に対して効果を発揮するかどうかは分からないわけです。
多くの場合、自分の上司だった人とか、近くの人とか、尊敬する人とか、
そういった別の人達のやり方を真似して取り入れてみて、
それを自分なりに試していく過程を通るはずです。
そのプロセスで自分なりのやり方を身につけるんです。
つまり、自分の「型」を自分で作るということです。
でもNLPは違います。
それ自体が型なんです。
だから型稽古をして、自分なりに実践すればいいわけです。
NLPに限ったことではありませんが、何かを学び、
「どうやって使えばいいんだろう?」という疑問が湧いてくるとしたら、
それは実際に使っていきたいという気持ちの表れと捉えて良いはずです。
意欲的だということです。
その意欲を結果に向けなければ、状況は随分と変わるのではないかと思います。
まずは型稽古として数をこなすことに意欲を向けるということです。
日常の中で型を使えそうな場面を探し、少しでも型を練習してみる。
そうしているうちに型が身についていきます。
型は無意識に刻まれていきます。
これが型稽古のメリットです。
型が無意識に刻まれていくと、具体的な状況に応じて
自然と型が使えるようになっていくんです。
映画「ベストキッド」で主人公が空手のトレーニングをするシーンが象徴的です。
車のワックスがけを徹底的に繰り返すことで、
ワックスがけの時の動きが型として無意識に刻まれていきます。
主人公の実践場面、彼はそのワックスがけの動きを思い出すだけで
勝手に相手の攻撃を受け流すことができるようになっていました。
相手がこう打ち込んできたら、こうやって受ける…という風に
一つ一つの状況を学んでいくとバリエーションが多すぎるんです。
型を身につけると対応の幅が広がるわけです。
ワックスがけの型だけで、多くの攻撃をさばけたように。
もちろん実戦経験も重要です。
組み手とか乱取りとか言われる練習も大事です。
日常で実戦として、成果まで出そうとするのは
空手の型を習ってすぐにケンカで勝とうとするようなものでしょう。
コミュニケーションのトレーニングの面白いのは
人と人が関わったときには必ずコミュニケーションが生まれるという特性とも関係します。
型稽古のつもりで練習をするだけで、そこにコミュニケーションが生まれるため
実践的な意味合いも含まれてくるからです。
練習の過程で、同時に実践的な側面も学べているんです。
「型」を学んでいる過程で、「どうやって使ったらいいか分からない」と感じるのは
当然のように起きてくる状態かもしれません。
それはもしかすると「型稽古を続けよう」というメッセージかもしれません。
型を繰り返し、型が自分自身の実感として感じられるまでに身についてくると
型の持つ意味が体感できるようになってくるものです。
型の持つ意味、型の効果が実感できてくれば、
自然と型を使うべきタイミングも分かってきます。
それは型と体の反応を結び付けていくからです。
型と状況を結びつけるのは型の効果を下げてしまいます。
『体の反応…型』という結びつきを作るのが優先。
『状況…体の反応』は日常、無意識に起こっていることです。
だから、『体の反応…型』という結びつきを作れば
何かの状況で、『状況…体の反応…型』という具合に、
勝手に体が適切な型を選び出してくれるわけです。
どんな状況でも、体の反応として適切な場面であれば型が生きてきます。
初めての状況でも体の反応が教えてくれるということです。
それを、型が身につく前にすぐに実践して活用しようと焦ってしまうと
『状況…型』という具合に体の反応を省略した結びつきが出来てしまいます。
すると、特定の状況でしか型が利用できない羽目になってしまうんです。
型は型として練習をして、それが実感として、
体の反応に結びつくまで練習を続けるのが大事なように思います。
型の意味が納得できて、体の反応と結びついてくれば
「この型はどういう場面で使えばいいんだろう?」という疑問が出なくなるはずです。
納得できるまで型稽古。
地味なようですが、型という先人の知恵を活用するには
成果を焦り過ぎないで先人達を信じぬく謙虚さも大事なのかもしれません。
2008年05月14日
「クレイジー☆エンジニア」
リクナビがやっているTech総研というサイトがあります。
そこが編集した本に「我らクレイジー☆エンジニア主義」という本があるんです。
我らクレイジー☆エンジニア主義 (講談社BIZ)
「クレイジー」というフレーズをつけられている方々は
全員その世界では有名な超一流のエンジニア。
天才ゆえの風変わりな行動を捉えての言葉かもしれませんが
オリジナリティを追究しなければならない彼らにとっては
ある意味で誉め言葉にもなるものかもしれません。
内容も非常に興味深いところが多いのですが、
イイ話として捉えていくのは普通の読み方だと思いますので
これから気が向いたときに、心理的な側面から分析してみたいと考えています。
まずはMITの教授、"石井裕"氏。
この方は30代のMITの教授になり、テニュアを獲得されている
工学の世界ではとてつもなく凄い評価を受けている人です。
「テニュア」というのは終身在職権のことで、
アメリカの大学では教授であっても数年で契約が切れてしまうため
1つの大学に籍を置き続けるためには大変な審査に通らなければならないのです。
そしてテニュアを獲得していても業績は常に求められるそうです。
常に新しいことへ挑戦する。
これは最先端にいるものの努めなのかもしれません。
僕はこの「新しいこと」というのが今になって興味深いんです。
研究をしていた当時、実はそれほど興味が無かったこと。
僕の関心は新しさよりも、全体を知ることに向いていました。
新しいことよりも根源を知ろうとするような。
実は、その過程には必ず未知の領域があるので
自動的に新しいことをやらなければならないわけなんですね。
「新しい」とは「今までに無い」ということですから
「新しいこと」をするためには「今までのこと」を知らないとできないんです。
研究者の中には「他人の論文は読まない」というような人もいるようですが、
世の中に何があるか、これまでに何が分かっているのかを知らないと
自分がやろうとしていることが新しいことなのかどうかを知るすべも無いわけです。
そして、新しいことを生み出す上で重要なことがあります。
それは視点の高さです。
「新しいこと」というのは概念的なものであって、
実際に世の中にあるものではないわけです。
エンジニアとは、まさにそれを世の中にある形にしていく仕事でしょう。
概念としては誰にでも想像がつくけれども世の中に無いものを生み出す。
これも「新しいこと」です。
しかしもっと斬新なのは、誰も考えたことのない「新しい」概念を生み出すことです。
前者は『発明』で、後者は『発見』と言ってもいいかもしれません。
発見とは大きな気づきであって、ヒラメキと関係することのように思います。
それがどういった経緯で起きるかと言えば、そこには複数の情報が必要になります。
複数の情報から本質的な意味合いを見出す能力が人間には備わっているんです。
もちろん、程度問題はあります。
抽象的な意味を感じ取り、実感できる能力。
いわゆる頭の良さかもしれませんが、それも意識の仕方でトレーニングできるものです。
多くの人は関連性の近いものであれば、意味を見出しやすいわけです。
一見すると全く関係しそうにないものから本質に気づけたとき、
「新しい」概念と、それを埋めるために必要な要素が見えてきます。
石井氏は学生時代から宮沢賢治が好きだったそうです。
ある日、その肉筆原稿を見る機会があって、その時に大きな衝撃を受けたと言います。
肉筆原稿には活字には無い『プロセス』があふれていた。
修正し、インクがこすれ、汚れた原稿からは、著者の苦悩のプロセスが見えた、と。
まずはこの感受性だけでも凄いことですし、理系の学生でありながら
宮沢賢治が好きだという興味の広さも重要なポイントです。
その上で更に偉大な点は、その肉筆原稿を見たときの感動を
自分の研究分野と結びつけて、概念として作り上げたことだと感じます。
宮沢賢治から、「デジタルの世界は乾いている」という発想が生まれているんです。
この高い抽象度の概念を実感した石井氏は、そこからデジタルの世界に
「人間的なぬくもりや感動」をもたらす技術の開発に進み始めたそうです。
この部分が、新しい概念から見た『不足した要素』であって
「新しい」技術を生み出す原動力となる発想と言えます。
こうした「新しい」概念に気づくためには、前提となる情報も必要です。
その分野の専門知識もそうですし、全く関係のない情報もそうです。
石井氏が宮沢賢治を読んでいたような、幅広い情報収集が前提になります。
そして、視点を変える癖をつけておくことも鍵になるでしょう。
いつも自分の専門分野を狭い視野で見ていると、
出てくる発想も近いところに限られてきます。
宮沢賢治の肉筆原稿から自分の専門分野に結び付けられるような広い視野。
それは言い換えると視点の高さとも考えられます。
高い視点から広く見下ろす感覚です。
自分の専門分野の内容と、全く関係のない分野の内容を
関連付けるように理解する癖をつけておくと、視点を変えるトレーニングになります。
何度も書いていますが、対人援助職トレーナーの奥川幸子先生も視点が高い人です。
著書を読むと、仕事において感銘を受けた人物として
F1レーサーのアイルトン・セナの名前が挙がってきます。
F1と援助面接という一見すると全く違う仕事の中に共通点があると言うわけです。
これを感じ取れるように心がけると、視点を高くする癖がついてきます。
そして、視点を高くすることの重要性は石井氏も語るところです。
エンジニアも哲学を持っていなくてはならないと言います。
「なぜ」という発想。
「なぜ」という視点は本質的なところへ向かわせ、
その過程で必ず個人の価値観も引き出します。
さらに「なぜ」を繰り返すと、個人の価値観を超えてくるものです。
そうなったときに辿り着くのが、世の中への影響です。
世の中のために、という視点。
これは高い視点ですね。
MITの学生は皆、世の中のためにどのように役立つかということを考えると
とても目を輝かせるそうです。
社会への貢献を考えることで、高い視点を持たせることに繋がるわけです。
ともすると専門分野ばかりに目が行きがちな状況で、石井氏は
社会という広い視野を持たせ、視点を高くするように指導しているようです。
これも「新しい」成果を生み出すために有効な方法になっていそうに思います。
石井氏はこう語っています。
MITを通して、社会からもらった力をお返ししていかないといけない。
この使命感です。
それは人並みはずれた努力をするはずです。
自分のためにやっていないわけですから。
そこが編集した本に「我らクレイジー☆エンジニア主義」という本があるんです。
我らクレイジー☆エンジニア主義 (講談社BIZ)
「クレイジー」というフレーズをつけられている方々は
全員その世界では有名な超一流のエンジニア。
天才ゆえの風変わりな行動を捉えての言葉かもしれませんが
オリジナリティを追究しなければならない彼らにとっては
ある意味で誉め言葉にもなるものかもしれません。
内容も非常に興味深いところが多いのですが、
イイ話として捉えていくのは普通の読み方だと思いますので
これから気が向いたときに、心理的な側面から分析してみたいと考えています。
まずはMITの教授、"石井裕"氏。
この方は30代のMITの教授になり、テニュアを獲得されている
工学の世界ではとてつもなく凄い評価を受けている人です。
「テニュア」というのは終身在職権のことで、
アメリカの大学では教授であっても数年で契約が切れてしまうため
1つの大学に籍を置き続けるためには大変な審査に通らなければならないのです。
そしてテニュアを獲得していても業績は常に求められるそうです。
常に新しいことへ挑戦する。
これは最先端にいるものの努めなのかもしれません。
僕はこの「新しいこと」というのが今になって興味深いんです。
研究をしていた当時、実はそれほど興味が無かったこと。
僕の関心は新しさよりも、全体を知ることに向いていました。
新しいことよりも根源を知ろうとするような。
実は、その過程には必ず未知の領域があるので
自動的に新しいことをやらなければならないわけなんですね。
「新しい」とは「今までに無い」ということですから
「新しいこと」をするためには「今までのこと」を知らないとできないんです。
研究者の中には「他人の論文は読まない」というような人もいるようですが、
世の中に何があるか、これまでに何が分かっているのかを知らないと
自分がやろうとしていることが新しいことなのかどうかを知るすべも無いわけです。
そして、新しいことを生み出す上で重要なことがあります。
それは視点の高さです。
「新しいこと」というのは概念的なものであって、
実際に世の中にあるものではないわけです。
エンジニアとは、まさにそれを世の中にある形にしていく仕事でしょう。
概念としては誰にでも想像がつくけれども世の中に無いものを生み出す。
これも「新しいこと」です。
しかしもっと斬新なのは、誰も考えたことのない「新しい」概念を生み出すことです。
前者は『発明』で、後者は『発見』と言ってもいいかもしれません。
発見とは大きな気づきであって、ヒラメキと関係することのように思います。
それがどういった経緯で起きるかと言えば、そこには複数の情報が必要になります。
複数の情報から本質的な意味合いを見出す能力が人間には備わっているんです。
もちろん、程度問題はあります。
抽象的な意味を感じ取り、実感できる能力。
いわゆる頭の良さかもしれませんが、それも意識の仕方でトレーニングできるものです。
多くの人は関連性の近いものであれば、意味を見出しやすいわけです。
一見すると全く関係しそうにないものから本質に気づけたとき、
「新しい」概念と、それを埋めるために必要な要素が見えてきます。
石井氏は学生時代から宮沢賢治が好きだったそうです。
ある日、その肉筆原稿を見る機会があって、その時に大きな衝撃を受けたと言います。
肉筆原稿には活字には無い『プロセス』があふれていた。
修正し、インクがこすれ、汚れた原稿からは、著者の苦悩のプロセスが見えた、と。
まずはこの感受性だけでも凄いことですし、理系の学生でありながら
宮沢賢治が好きだという興味の広さも重要なポイントです。
その上で更に偉大な点は、その肉筆原稿を見たときの感動を
自分の研究分野と結びつけて、概念として作り上げたことだと感じます。
宮沢賢治から、「デジタルの世界は乾いている」という発想が生まれているんです。
この高い抽象度の概念を実感した石井氏は、そこからデジタルの世界に
「人間的なぬくもりや感動」をもたらす技術の開発に進み始めたそうです。
この部分が、新しい概念から見た『不足した要素』であって
「新しい」技術を生み出す原動力となる発想と言えます。
こうした「新しい」概念に気づくためには、前提となる情報も必要です。
その分野の専門知識もそうですし、全く関係のない情報もそうです。
石井氏が宮沢賢治を読んでいたような、幅広い情報収集が前提になります。
そして、視点を変える癖をつけておくことも鍵になるでしょう。
いつも自分の専門分野を狭い視野で見ていると、
出てくる発想も近いところに限られてきます。
宮沢賢治の肉筆原稿から自分の専門分野に結び付けられるような広い視野。
それは言い換えると視点の高さとも考えられます。
高い視点から広く見下ろす感覚です。
自分の専門分野の内容と、全く関係のない分野の内容を
関連付けるように理解する癖をつけておくと、視点を変えるトレーニングになります。
何度も書いていますが、対人援助職トレーナーの奥川幸子先生も視点が高い人です。
著書を読むと、仕事において感銘を受けた人物として
F1レーサーのアイルトン・セナの名前が挙がってきます。
F1と援助面接という一見すると全く違う仕事の中に共通点があると言うわけです。
これを感じ取れるように心がけると、視点を高くする癖がついてきます。
そして、視点を高くすることの重要性は石井氏も語るところです。
エンジニアも哲学を持っていなくてはならないと言います。
「なぜ」という発想。
「なぜ」という視点は本質的なところへ向かわせ、
その過程で必ず個人の価値観も引き出します。
さらに「なぜ」を繰り返すと、個人の価値観を超えてくるものです。
そうなったときに辿り着くのが、世の中への影響です。
世の中のために、という視点。
これは高い視点ですね。
MITの学生は皆、世の中のためにどのように役立つかということを考えると
とても目を輝かせるそうです。
社会への貢献を考えることで、高い視点を持たせることに繋がるわけです。
ともすると専門分野ばかりに目が行きがちな状況で、石井氏は
社会という広い視野を持たせ、視点を高くするように指導しているようです。
これも「新しい」成果を生み出すために有効な方法になっていそうに思います。
石井氏はこう語っています。
MITを通して、社会からもらった力をお返ししていかないといけない。
この使命感です。
それは人並みはずれた努力をするはずです。
自分のためにやっていないわけですから。
2008年05月12日
職人の世界
NHKの番組で「プロフェッショナル 仕事の流儀」というのがありますね。
脳科学者の茂木健一郎氏が司会を務めている番組です。
その道で一流と呼ばれる人達にインタビューをしたり、
VTRにまとめた日頃の仕事ぶりを見たりする内容ですが、
僕はこういった系統が好きなんです。
一流とか達人とか呼ばれる人達から学ぶという姿勢はNLPにも共通しますが、
そういったことは抜きにしても僕はプロフェッショナルを感じる生き方に
憧れや尊敬の念を抱くんです。
とりわけ、職人気質な「こだわり」や
飽くなき探究心などには共感するところが大きいんでしょうね。
どの世界においても、トップクラスの仕事をするようになると
その評価は他人から大きく認められることになるはずです。
でも、「プロフェッショナル」な人達は他人からの評価で仕事をしないようです。
その道を極めていくと、その仕事を必要としている側からは
求めるクオリティをいつでも十二分に満たしてもらえることになるでしょう。
にもかかわらず、彼らの仕事はそこで満足しないわけです。
評価基準が自分の内側にある。
周りからしたら超一流の仕事であっても、
自分の中で納得できない部分があれば満足できない。
仕事の質が高すぎて、その仕事の素晴らしさを評価できる人が
いなくなってしまうということです。
だからこそ、ごく稀に出会える「分かる人」というのが大切になるのでしょうね。
以前、同番組では寿司職人の小野二郎氏を特集していました。
先日発売されたミシュラン・ガイドで三ツ星を獲得した方です。
82歳になる現在も握り続ける、まさしく職人です。
その仕事ぶりには年齢を感じる余地はありません。
厳しい表情をしています。
実際、お弟子さんには厳しく接しているようでした。
でも、その表情筋の豊かさは、彼自身が仕事へ気持ちを向けてきた証拠にも見えます。
三ツ星シェフでありながら、彼は自分のことを「不器用」だと言います。
不器用だから人の2倍、3倍も握ってきた、と。
本当に不器用だったかは分かりません。
しかし、自分を不器用だと思っていたから、誰よりも努力をしてきたのでしょう。
その部分は変わりません。
プロ野球で、名手と呼ばれる選手にも2通りいると言います。
「自分は世界で一番上手い!」と思いながらプレーする選手と
「自分はまだまだヘタクソだ」と思いながら努力に励む選手。
一見すると、真逆のようですが、僕には同じ心境が見えてきます。
どちらも追究しているわけです。
そして、どちらも自分の技術には自信がある。
でも、完璧だとは思っていない。
まだまだ上があると思っているし、同時に自分の技術にも自信がある。
能力を求める人に共通する2つの気持ちかもしれません。
微妙なところで自分がどちらに転びやすいかで、
心がけるところが違うんだろうと思います。
「世界で一番上手い」と思う裏には、自分への厳しさがあるかもしれません。
そう意識しないと不安がよぎってしまうような。
逆に「自分はヘタだ」と思うのは慢心しないように心がける
自信の表れでもあるかもしれないと考えられます。
寿司職人として「不器用だ」と自分を思うのは
慢心を避け、高みを追究する徹底した向上心でもあるように感じます。
不器用かどうかよりも重要なのは、自分自身を不器用だと思い、
自分の仕事の結果を厳しく見続けてきた探究心ではないでしょうか。
今もなお、より旨い寿司を握ろうと努力を続ける姿勢。
その厳しさを正確に評価できる人がどれだけいるかは分かりません。
ひたすら自分に厳しく。
番組では、同じく三ツ星シェフのフランス人が店を訪れる様子が描かれていました。
フランス料理では第一人者とされる人だそうです。
一生懸命に味わっていました。
職人はいつも通りに仕事をしていたようです。
そして、フランス人シェフから賛辞をもらったとき。
彼は、満面の笑みを浮かべていました。
「あの人は物凄く味に敏感なの」と職人は語っていました。
勝負だと。
自分自身の徹底した「こだわり」を分かってくれる人がいる。
それは勝負でもあり、よき理解者との交流でもあるのかもしれません。
求道者はカッコイイですね。
僕の中の大きな価値観です。
脳科学者の茂木健一郎氏が司会を務めている番組です。
その道で一流と呼ばれる人達にインタビューをしたり、
VTRにまとめた日頃の仕事ぶりを見たりする内容ですが、
僕はこういった系統が好きなんです。
一流とか達人とか呼ばれる人達から学ぶという姿勢はNLPにも共通しますが、
そういったことは抜きにしても僕はプロフェッショナルを感じる生き方に
憧れや尊敬の念を抱くんです。
とりわけ、職人気質な「こだわり」や
飽くなき探究心などには共感するところが大きいんでしょうね。
どの世界においても、トップクラスの仕事をするようになると
その評価は他人から大きく認められることになるはずです。
でも、「プロフェッショナル」な人達は他人からの評価で仕事をしないようです。
その道を極めていくと、その仕事を必要としている側からは
求めるクオリティをいつでも十二分に満たしてもらえることになるでしょう。
にもかかわらず、彼らの仕事はそこで満足しないわけです。
評価基準が自分の内側にある。
周りからしたら超一流の仕事であっても、
自分の中で納得できない部分があれば満足できない。
仕事の質が高すぎて、その仕事の素晴らしさを評価できる人が
いなくなってしまうということです。
だからこそ、ごく稀に出会える「分かる人」というのが大切になるのでしょうね。
以前、同番組では寿司職人の小野二郎氏を特集していました。
先日発売されたミシュラン・ガイドで三ツ星を獲得した方です。
82歳になる現在も握り続ける、まさしく職人です。
その仕事ぶりには年齢を感じる余地はありません。
厳しい表情をしています。
実際、お弟子さんには厳しく接しているようでした。
でも、その表情筋の豊かさは、彼自身が仕事へ気持ちを向けてきた証拠にも見えます。
三ツ星シェフでありながら、彼は自分のことを「不器用」だと言います。
不器用だから人の2倍、3倍も握ってきた、と。
本当に不器用だったかは分かりません。
しかし、自分を不器用だと思っていたから、誰よりも努力をしてきたのでしょう。
その部分は変わりません。
プロ野球で、名手と呼ばれる選手にも2通りいると言います。
「自分は世界で一番上手い!」と思いながらプレーする選手と
「自分はまだまだヘタクソだ」と思いながら努力に励む選手。
一見すると、真逆のようですが、僕には同じ心境が見えてきます。
どちらも追究しているわけです。
そして、どちらも自分の技術には自信がある。
でも、完璧だとは思っていない。
まだまだ上があると思っているし、同時に自分の技術にも自信がある。
能力を求める人に共通する2つの気持ちかもしれません。
微妙なところで自分がどちらに転びやすいかで、
心がけるところが違うんだろうと思います。
「世界で一番上手い」と思う裏には、自分への厳しさがあるかもしれません。
そう意識しないと不安がよぎってしまうような。
逆に「自分はヘタだ」と思うのは慢心しないように心がける
自信の表れでもあるかもしれないと考えられます。
寿司職人として「不器用だ」と自分を思うのは
慢心を避け、高みを追究する徹底した向上心でもあるように感じます。
不器用かどうかよりも重要なのは、自分自身を不器用だと思い、
自分の仕事の結果を厳しく見続けてきた探究心ではないでしょうか。
今もなお、より旨い寿司を握ろうと努力を続ける姿勢。
その厳しさを正確に評価できる人がどれだけいるかは分かりません。
ひたすら自分に厳しく。
番組では、同じく三ツ星シェフのフランス人が店を訪れる様子が描かれていました。
フランス料理では第一人者とされる人だそうです。
一生懸命に味わっていました。
職人はいつも通りに仕事をしていたようです。
そして、フランス人シェフから賛辞をもらったとき。
彼は、満面の笑みを浮かべていました。
「あの人は物凄く味に敏感なの」と職人は語っていました。
勝負だと。
自分自身の徹底した「こだわり」を分かってくれる人がいる。
それは勝負でもあり、よき理解者との交流でもあるのかもしれません。
求道者はカッコイイですね。
僕の中の大きな価値観です。
2008年05月10日
5月の勉強会
5月の勉強会のお知らせ
今月は勉強会の告知が遅くなってしまいました。
最近の勉強会は多くの方にご参加いただいていますが、
皆さん熱心に学ばれる方なので様々な視点からの気づきが刺激的です。
先月の勉強会の後、何人かの方から感想を聞かせていただいたところ、
前回の内容を再度トレーニングしたいとのご意見が共通していました。
『インクルーシブ・コミュニケーション』と題して行った先月の内容は、
人の心の内側を探っていったときに必ず現れてくる部分を理解することに始まり
相手の複雑な心境に共感を示すスタイルです。
概念的な理解以上に、実践していく段階での難しさを感じられたようですが、
その前にこのコミュニケーション技法の効果と重要性を感じ取っていただけたのは
学びに来られる方々のコミュニケーションスキルの高さと
世の中に潜むニーズへの感受性の鋭さによるものと感じます。
特にその中でも、実技的なトレーニングの部分へのご希望を感じ取りましたので、
5月の勉強会では『インクルーシブ・コミュニケーション』に関して
トレーニングを中心に学んでいきたいと思います。
もちろん概念的理解への復習も行いますから、
先月にご参加いただけなかった方も一緒に学んでいただけるはずです。
トレーニングに関しましては技法レベルの細かい要素から
実践的なものまで行いたいと考えています。
その中ではサブパーソナリティへの体験的理解が重要だと感じています。
相手のサブパーソナリティを感じ取るためにも、
まず自分自身がサブパーソナリティとセルフをで実感しておくことが効果的でしょう。
ということで、今月の勉強会のテーマは
「インクルーシブ・コミュニケーション(2)〜セルフとサブパーソナリティ〜」
とさせていただきます。
先月にご参加されなかった方にもご参加いただける内容です。
リフレーミングのスキルを磨きたい方にも効果的だと考えます。
※今月は平日開催になります。
月末の仕事終わりですから、お忙しいことと思いますが
ご都合のつく方は是非ご参加ください。
※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
【日時】 5月30日(金)
18:30〜21:30
【場所】 北とぴあ 805会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
初めてのご参加の方は、お試し割引きとなります。(ほんのチョットですけど)
《通常のご参加の方》 ・・・ 5,000円
《初回のご参加の方》 ・・・ 4,000円(お試し割引が適用されます)
テーマ:『インクルーシブ・コミュニケーション(2)
〜セルフとサブパーソナリティ〜』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたが、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
人と関わる上でのスキルは数多くあります。
流派という表現でも様々でしょう。
例えば、交流分析では自我状態を意識しながら人と関わることを勧めています。
コーチングのプロと催眠療法家では話し方も聞き方も違うことだと思います。
多くのことを学ぶほど、選択肢は増えてきます。
それは混乱を生むこともあるかもしれませんが、幅の広さでもあるはずです。
実際には、何かの技法を特別に意識しながら人と関わることはしないかもしれません。
むしろ、ある場面で学んできたことが頭をよぎり、
そのスキルを利用して対応してみるということが実用的にも思えます。
そのためには、一度あるスキルのみに特化して学んでおくプロセスが効果的です。
テーマを決めてみるということです。
今日はリフレーミングを意識して人と関わろう、などと心がけるということです。
その意味で言うと、今月はサブパーソナリティを意識してみようという提案になります。
そして、様々なスキルを使い分ける視点にはセルフを実感することが役に立つと考えます。
体験学習を通じて、人の心の内側を細かく感じてみる時間を作ってみませんか?
当日に、ご一緒に学べることを楽しみにしております。
是非、参加費の元を取る以上の学びをお持ち帰りください。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「備考」欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
また、質問の関しましては、お気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています。
今月は勉強会の告知が遅くなってしまいました。
最近の勉強会は多くの方にご参加いただいていますが、
皆さん熱心に学ばれる方なので様々な視点からの気づきが刺激的です。
先月の勉強会の後、何人かの方から感想を聞かせていただいたところ、
前回の内容を再度トレーニングしたいとのご意見が共通していました。
『インクルーシブ・コミュニケーション』と題して行った先月の内容は、
人の心の内側を探っていったときに必ず現れてくる部分を理解することに始まり
相手の複雑な心境に共感を示すスタイルです。
概念的な理解以上に、実践していく段階での難しさを感じられたようですが、
その前にこのコミュニケーション技法の効果と重要性を感じ取っていただけたのは
学びに来られる方々のコミュニケーションスキルの高さと
世の中に潜むニーズへの感受性の鋭さによるものと感じます。
特にその中でも、実技的なトレーニングの部分へのご希望を感じ取りましたので、
5月の勉強会では『インクルーシブ・コミュニケーション』に関して
トレーニングを中心に学んでいきたいと思います。
もちろん概念的理解への復習も行いますから、
先月にご参加いただけなかった方も一緒に学んでいただけるはずです。
トレーニングに関しましては技法レベルの細かい要素から
実践的なものまで行いたいと考えています。
その中ではサブパーソナリティへの体験的理解が重要だと感じています。
相手のサブパーソナリティを感じ取るためにも、
まず自分自身がサブパーソナリティとセルフをで実感しておくことが効果的でしょう。
ということで、今月の勉強会のテーマは
「インクルーシブ・コミュニケーション(2)〜セルフとサブパーソナリティ〜」
とさせていただきます。
先月にご参加されなかった方にもご参加いただける内容です。
リフレーミングのスキルを磨きたい方にも効果的だと考えます。
※今月は平日開催になります。
月末の仕事終わりですから、お忙しいことと思いますが
ご都合のつく方は是非ご参加ください。
※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
【日時】 5月30日(金)
18:30〜21:30
【場所】 北とぴあ 805会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
初めてのご参加の方は、お試し割引きとなります。(ほんのチョットですけど)
《通常のご参加の方》 ・・・ 5,000円
《初回のご参加の方》 ・・・ 4,000円(お試し割引が適用されます)
テーマ:『インクルーシブ・コミュニケーション(2)
〜セルフとサブパーソナリティ〜』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたが、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
人と関わる上でのスキルは数多くあります。
流派という表現でも様々でしょう。
例えば、交流分析では自我状態を意識しながら人と関わることを勧めています。
コーチングのプロと催眠療法家では話し方も聞き方も違うことだと思います。
多くのことを学ぶほど、選択肢は増えてきます。
それは混乱を生むこともあるかもしれませんが、幅の広さでもあるはずです。
実際には、何かの技法を特別に意識しながら人と関わることはしないかもしれません。
むしろ、ある場面で学んできたことが頭をよぎり、
そのスキルを利用して対応してみるということが実用的にも思えます。
そのためには、一度あるスキルのみに特化して学んでおくプロセスが効果的です。
テーマを決めてみるということです。
今日はリフレーミングを意識して人と関わろう、などと心がけるということです。
その意味で言うと、今月はサブパーソナリティを意識してみようという提案になります。
そして、様々なスキルを使い分ける視点にはセルフを実感することが役に立つと考えます。
体験学習を通じて、人の心の内側を細かく感じてみる時間を作ってみませんか?
当日に、ご一緒に学べることを楽しみにしております。
是非、参加費の元を取る以上の学びをお持ち帰りください。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「備考」欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
また、質問の関しましては、お気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています。