2008年07月
2008年07月30日
便利なBGM
耳に残るBGMってありますね。
CMとしては耳に残るというのが大切なんだろうと思います。
最近、僕はコンビニのCMを見なくなっている気がするんですが、
それは単純にテレビを見る時間の問題かもしれません。
朝や昼間の時間帯だと放映しているんでしょうか?
以前は頻繁にセブンイレブンの新山千春や
ローソンの高島店長を見ていたように思います。
随分と前の話になりますね。
最近では、コンビニがCMを放送する理由として
何かのキャンペーンと重ねるケースが多くなっているようです。
10年以上前であれば新作のおにぎりが登場とかいう程度のCMや、
場合によってはコンビニそのもののイメージCMのようなものもあったようですが、
最近ではキャンペーンものが中心だということです。
それはCMに期待する役割が変わってきているということだと思われます。
10年以上前であれば、コンビニに足を運んでもらうこと自体が目的だった、
あるいは同業他社との差別化が目的だったのかもしれません。
でも、今ではコンビニの認知度は非常に高く、
誰もが気軽に足を運ぶ存在になってきているものと考えられます。
新商品開発も次々と行われているようですが、
その裏にはPOSシステムによって把握される売れ筋商品を中心とした仕入れがあって、
CMによる新商品のアピール自体が全ての店舗において
共通の効果を持たなくなってきているのかもしれません。
僕自身の印象として、コンビニの種類に選択肢があったとき
どこを選ぶかというのは、その時によって随分と違う気がするんです。
急いでいれば近いところ、欲しいものがあれば特定のコンビニ、
ATM目的であれば多少遠くても利用可能なコンビニに行くわけです。
それだけコンビニが気軽に入れる存在になってきているのだと思います。
そういったことを考えると、CMでキャンペーン情報を流すのは
同業他社ではなく特定のコンビニに足を運んでもらうキッカケ作りとして
有効な戦略なのでしょう。
すると、コンビニに足を運ぶという行為は、何かの目的を伴うことが中心のはずです。
これは小売店に足を運ぶわけですから当然と言えます。
何かを買いに行く。
そういう目的があるわけです。
それは小売業であれば共通することでしょう。
スーパーでも、家電量販店でも、ディスカウントストアでも。
ただ、コンビニの特殊なところは、非常に気軽に入れるというところだと思うんです。
「少し時間があるからコンビニでも行くか」
「5分だけコンビニで涼んでから行こうかな」
「帰り道だから少しコンビニでも寄って行こうかな」
そういう足の運び方があるわけです。
本を立ち読みしたくてコンビニに行く人もいるでしょう。
同時に、立ち読みをしたついでにジュースを買って帰る人もいるはずです。
このあたりがコンビニの特徴だと思うんです。
買う必要のあるものがなくても足を運ぶことがある。
だからこそ、そういった立ち寄り時に買ってもらうことも大切だろうと思うんです。
特に買うつもりは無かったのに、なんとなく目にとまったから買っていく。
なんとなく小腹が空いていることに気づいたから、パンを1つ買っていく。
たまたま新商品が目についたから買ってみよう。
そういうことも重要だろうということです。
そこで心理的な作用が期待できるのがBGMなんです。
聴覚的に音楽を使ってアンカリングするわけです。
コンビニに足を運ぶ大半は、何かを買うつもりで入ってくるときでしょう。
そして実際に何かを買って帰ることが多いはずです。
その購買意欲という心理状態がBGMでアンカリングされることが考えられます。
セブンイレブンであれば「ナナコでカオカオ、セブン、セブン」、
ローソンなら「ローソン、CSホットステーション」、
というような頻繁にかかっているメロディー。
人によっては、その音楽でコンビニにいるときの心境が
アンカリングされている可能性があります。
それが購買意欲とアンカリングされる人もいるでしょうし、
なんとなくウロウロと店内を眺めたい気持ちになる人もいるでしょう。
無性に立ち読みしたくなる人もいるかもしれません。
どの心境とアンカリングされるかは人それぞれですが、
コンビニに行くと、ついしてしまうことがあるという人は
コンビニの何かの要素にアンカリングされている可能性があります。
商品陳列や店内のデザインも視覚的なアンカーとなり得ます。
しかし、店内を『見て』まわるという行為の最中には、
意識から外れやすい聴覚情報のほうがアンカーとしては残りやすいように思われます。
コンビニに立ち寄ると、必要のないものを買ってしまうという人は
店内に張り巡らされたアンカーを探してみるのも面白いかもしれませんね。
CMとしては耳に残るというのが大切なんだろうと思います。
最近、僕はコンビニのCMを見なくなっている気がするんですが、
それは単純にテレビを見る時間の問題かもしれません。
朝や昼間の時間帯だと放映しているんでしょうか?
以前は頻繁にセブンイレブンの新山千春や
ローソンの高島店長を見ていたように思います。
随分と前の話になりますね。
最近では、コンビニがCMを放送する理由として
何かのキャンペーンと重ねるケースが多くなっているようです。
10年以上前であれば新作のおにぎりが登場とかいう程度のCMや、
場合によってはコンビニそのもののイメージCMのようなものもあったようですが、
最近ではキャンペーンものが中心だということです。
それはCMに期待する役割が変わってきているということだと思われます。
10年以上前であれば、コンビニに足を運んでもらうこと自体が目的だった、
あるいは同業他社との差別化が目的だったのかもしれません。
でも、今ではコンビニの認知度は非常に高く、
誰もが気軽に足を運ぶ存在になってきているものと考えられます。
新商品開発も次々と行われているようですが、
その裏にはPOSシステムによって把握される売れ筋商品を中心とした仕入れがあって、
CMによる新商品のアピール自体が全ての店舗において
共通の効果を持たなくなってきているのかもしれません。
僕自身の印象として、コンビニの種類に選択肢があったとき
どこを選ぶかというのは、その時によって随分と違う気がするんです。
急いでいれば近いところ、欲しいものがあれば特定のコンビニ、
ATM目的であれば多少遠くても利用可能なコンビニに行くわけです。
それだけコンビニが気軽に入れる存在になってきているのだと思います。
そういったことを考えると、CMでキャンペーン情報を流すのは
同業他社ではなく特定のコンビニに足を運んでもらうキッカケ作りとして
有効な戦略なのでしょう。
すると、コンビニに足を運ぶという行為は、何かの目的を伴うことが中心のはずです。
これは小売店に足を運ぶわけですから当然と言えます。
何かを買いに行く。
そういう目的があるわけです。
それは小売業であれば共通することでしょう。
スーパーでも、家電量販店でも、ディスカウントストアでも。
ただ、コンビニの特殊なところは、非常に気軽に入れるというところだと思うんです。
「少し時間があるからコンビニでも行くか」
「5分だけコンビニで涼んでから行こうかな」
「帰り道だから少しコンビニでも寄って行こうかな」
そういう足の運び方があるわけです。
本を立ち読みしたくてコンビニに行く人もいるでしょう。
同時に、立ち読みをしたついでにジュースを買って帰る人もいるはずです。
このあたりがコンビニの特徴だと思うんです。
買う必要のあるものがなくても足を運ぶことがある。
だからこそ、そういった立ち寄り時に買ってもらうことも大切だろうと思うんです。
特に買うつもりは無かったのに、なんとなく目にとまったから買っていく。
なんとなく小腹が空いていることに気づいたから、パンを1つ買っていく。
たまたま新商品が目についたから買ってみよう。
そういうことも重要だろうということです。
そこで心理的な作用が期待できるのがBGMなんです。
聴覚的に音楽を使ってアンカリングするわけです。
コンビニに足を運ぶ大半は、何かを買うつもりで入ってくるときでしょう。
そして実際に何かを買って帰ることが多いはずです。
その購買意欲という心理状態がBGMでアンカリングされることが考えられます。
セブンイレブンであれば「ナナコでカオカオ、セブン、セブン」、
ローソンなら「ローソン、CSホットステーション」、
というような頻繁にかかっているメロディー。
人によっては、その音楽でコンビニにいるときの心境が
アンカリングされている可能性があります。
それが購買意欲とアンカリングされる人もいるでしょうし、
なんとなくウロウロと店内を眺めたい気持ちになる人もいるでしょう。
無性に立ち読みしたくなる人もいるかもしれません。
どの心境とアンカリングされるかは人それぞれですが、
コンビニに行くと、ついしてしまうことがあるという人は
コンビニの何かの要素にアンカリングされている可能性があります。
商品陳列や店内のデザインも視覚的なアンカーとなり得ます。
しかし、店内を『見て』まわるという行為の最中には、
意識から外れやすい聴覚情報のほうがアンカーとしては残りやすいように思われます。
コンビニに立ち寄ると、必要のないものを買ってしまうという人は
店内に張り巡らされたアンカーを探してみるのも面白いかもしれませんね。
2008年07月28日
おかえり
箱根に行ってきました。
年に一度参加するワークショップ。
修行のようでもあり、娯楽のようでもある。
日常を離れた不思議な場です。
今回は不思議と『命』が全体的なテーマとして見えてくるような印象でした。
もちろん様々な気づきがあったわけですが、
僕自身が持って行ったテーマを含め、大切なことを感じられました。
抽象的なことです。
人によっては意味が分からないことだと思います。
読まないほうがいい人もいるかもしれません。
ただ、「読まなきゃよかった」と感じた人は、
その人なりの答えを納得する形で必ず見つけるはずだと僕は思います。
僕が感じた大切なことは…。
人は皆、孤独。
人は一人では生きられないものの、最終的に自分の人生は自分だけのもの。
人も宇宙の一部。
しかし、一人の生き方が宇宙に与える影響は限りなく小さい。
その意味において、宇宙の一部を実感できるかどうかは知らない。
人は地球の一部。
自然の一部。
地球上の物質は循環し、人もまたその一部を担っている。
人は自然の一部であって、自然そのものではない。
自然そのものから切り離されて、人は地球上に生まれてくる。
自然と一体であった状態から、自然の一部になること。
それが『生』ということ。
自然の一部になるから、自然の中で自由になれる。
自分で活動できる。
孤独な存在だから、自分の自由に生きられる。
『死』とは自然と一体になること。
自然の一部としての命を終え、自然そのものに還ること。
自然と再び一体となること。
もう一人じゃない。
自然と一体だから、孤独を味わう心配はない。
そこにあるのは安心感。
死ぬ時は一人だという見方があるが、それは正確ではない。
生まれたときから、人は一人。
生きているということが、一人。
死んだあとは全てと一体になる。
人は生まれるとき、孤独と引き換えに自由を手に入れる。
寂しいのも無理はない。
不安なのも無理はない。
安心を求めたくなるだろう。
それは死んだときに手に入る。
生きているうちから自然と一体になる必要なんてない。
生まれてきたのは安心感を得るためではない。
生まれてきたのは自由になるため。
一時的な孤独と引き換えに、自由を手に入れた。
自由にすればいい。
死ぬのが怖いのは、まだまだ自由でいたいからだ。
年に一度参加するワークショップ。
修行のようでもあり、娯楽のようでもある。
日常を離れた不思議な場です。
今回は不思議と『命』が全体的なテーマとして見えてくるような印象でした。
もちろん様々な気づきがあったわけですが、
僕自身が持って行ったテーマを含め、大切なことを感じられました。
抽象的なことです。
人によっては意味が分からないことだと思います。
読まないほうがいい人もいるかもしれません。
ただ、「読まなきゃよかった」と感じた人は、
その人なりの答えを納得する形で必ず見つけるはずだと僕は思います。
僕が感じた大切なことは…。
人は皆、孤独。
人は一人では生きられないものの、最終的に自分の人生は自分だけのもの。
人も宇宙の一部。
しかし、一人の生き方が宇宙に与える影響は限りなく小さい。
その意味において、宇宙の一部を実感できるかどうかは知らない。
人は地球の一部。
自然の一部。
地球上の物質は循環し、人もまたその一部を担っている。
人は自然の一部であって、自然そのものではない。
自然そのものから切り離されて、人は地球上に生まれてくる。
自然と一体であった状態から、自然の一部になること。
それが『生』ということ。
自然の一部になるから、自然の中で自由になれる。
自分で活動できる。
孤独な存在だから、自分の自由に生きられる。
『死』とは自然と一体になること。
自然の一部としての命を終え、自然そのものに還ること。
自然と再び一体となること。
もう一人じゃない。
自然と一体だから、孤独を味わう心配はない。
そこにあるのは安心感。
死ぬ時は一人だという見方があるが、それは正確ではない。
生まれたときから、人は一人。
生きているということが、一人。
死んだあとは全てと一体になる。
人は生まれるとき、孤独と引き換えに自由を手に入れる。
寂しいのも無理はない。
不安なのも無理はない。
安心を求めたくなるだろう。
それは死んだときに手に入る。
生きているうちから自然と一体になる必要なんてない。
生まれてきたのは安心感を得るためではない。
生まれてきたのは自由になるため。
一時的な孤独と引き換えに、自由を手に入れた。
自由にすればいい。
死ぬのが怖いのは、まだまだ自由でいたいからだ。
2008年07月24日
8月の勉強会
8月の勉強会のお知らせ
最近の勉強会には初めてお越し下さる方も増えてきましたが、
多くの方が継続的にご参加下さっています。
ありがとうございます。
とはいえ、皆様お忙しい中をお越しいただいているので
予定が合わずに参加できなかったというお声も耳にします。
また、身につけるために実習の時間をより多く取りたいというご意見も頂きます。
たしかに、コミュニケーションのトレーニングは継続的に行うことが重要だと実感します。
日常で意識しながら関わることも十分に可能ですから
実践でスキルを磨く方法もあるわけですが、自分一人で出来ることにも限界があるものです。
その意味では他人の目にさらすという行為が非常に効果的です。
お互いのフィードバックや他の方のやり方を見ることが学びにつながるわけです。
ということで、8月の勉強会はこれまでの復習をしてみたいと思います。
参加した回の内容で疑問が残っているところ、
もっとトレーニングをしてみたいところ、
参加できなかった回で興味のあるところ、
などがあれば、ご参加ください。
この勉強会の中心テーマ『心とコミュニケーション』に通じる
◆ ラポール
◆ メタファー
◆ 分かりやすい伝え方・「上手い!」と言われる伝え方
◆ 気づき
◆ 人を見抜く技術
◆ インクルーシブ・コミュニケーション
◆ リフレーミング
◆ ねぎらい
といった内容を振り返っていきます。
必然的に相互に関連するところが出てきます。
関連付けた理解に興味をお持ちの方にもお勧めします。
特に扱いたいテーマをお持ちの方は、
下記の申込みフォームの[ご意見など]の欄にご記入ください。
定員も設けさせていただきますが、場合によっては
時間内でご希望の全てのテーマを扱えない可能性もあります。
その点はご了承ください。
申し込み時点でご希望頂いたテーマへ優先的に取り組みます。
お盆休みの日曜日の開催ですが、ご都合のつく方は是非ご参加ください。
午前・午後いずれかのご参加も可能です。
詳細は以下のとおりです。
※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
【日時】 8月17日(日)
午前の部 9:30〜12:30
午後の部 13:30〜16:30
【場所】 滝野川会館 304集会室
(JR京浜東北線・上中里駅より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
午前・午後両方ご参加の場合に割引きとなります。(ほんのチョットですけど)
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午後の部 ・・・4,000円
《午前・午後両方へご参加の方》 ・・・ 7,000円
テーマ: (午前・午後ともに)《復習とトレーニング》
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
お盆の時期ですから様々なご事情がおありだろうと思います。
日頃の疲れを癒すのにご利用されるのも賢い選択でしょう。
いつもと違う頭の疲労感を味わうのも、なかなか爽快なものと感じます。
夏の暑い時期、体の汗とは別に、頭に汗をかいてみませんか?
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています。
最近の勉強会には初めてお越し下さる方も増えてきましたが、
多くの方が継続的にご参加下さっています。
ありがとうございます。
とはいえ、皆様お忙しい中をお越しいただいているので
予定が合わずに参加できなかったというお声も耳にします。
また、身につけるために実習の時間をより多く取りたいというご意見も頂きます。
たしかに、コミュニケーションのトレーニングは継続的に行うことが重要だと実感します。
日常で意識しながら関わることも十分に可能ですから
実践でスキルを磨く方法もあるわけですが、自分一人で出来ることにも限界があるものです。
その意味では他人の目にさらすという行為が非常に効果的です。
お互いのフィードバックや他の方のやり方を見ることが学びにつながるわけです。
ということで、8月の勉強会はこれまでの復習をしてみたいと思います。
参加した回の内容で疑問が残っているところ、
もっとトレーニングをしてみたいところ、
参加できなかった回で興味のあるところ、
などがあれば、ご参加ください。
この勉強会の中心テーマ『心とコミュニケーション』に通じる
◆ ラポール
◆ メタファー
◆ 分かりやすい伝え方・「上手い!」と言われる伝え方
◆ 気づき
◆ 人を見抜く技術
◆ インクルーシブ・コミュニケーション
◆ リフレーミング
◆ ねぎらい
といった内容を振り返っていきます。
必然的に相互に関連するところが出てきます。
関連付けた理解に興味をお持ちの方にもお勧めします。
特に扱いたいテーマをお持ちの方は、
下記の申込みフォームの[ご意見など]の欄にご記入ください。
定員も設けさせていただきますが、場合によっては
時間内でご希望の全てのテーマを扱えない可能性もあります。
その点はご了承ください。
申し込み時点でご希望頂いたテーマへ優先的に取り組みます。
お盆休みの日曜日の開催ですが、ご都合のつく方は是非ご参加ください。
午前・午後いずれかのご参加も可能です。
詳細は以下のとおりです。
※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
【日時】 8月17日(日)
午前の部 9:30〜12:30
午後の部 13:30〜16:30
【場所】 滝野川会館 304集会室
(JR京浜東北線・上中里駅より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
午前・午後両方ご参加の場合に割引きとなります。(ほんのチョットですけど)
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午後の部 ・・・4,000円
《午前・午後両方へご参加の方》 ・・・ 7,000円
テーマ: (午前・午後ともに)《復習とトレーニング》
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
お盆の時期ですから様々なご事情がおありだろうと思います。
日頃の疲れを癒すのにご利用されるのも賢い選択でしょう。
いつもと違う頭の疲労感を味わうのも、なかなか爽快なものと感じます。
夏の暑い時期、体の汗とは別に、頭に汗をかいてみませんか?
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています。
2008年07月22日
納得感をもてるか
何かの情報を理解するとき、自分にとって重要なことがあります。
『納得感』です。
これは感覚的な部分もありますが、同時に論理的でもあります。
内的な順番としては、「なんとなく」の納得感が先にあって、
それを言葉で説明しようとした時に論理が出てくる、というところでしょうか。
僕の中では全ての情報に辻褄があっていることを強く希望しているフシがあるんです。
何かを学ぶ時には当然、情報の取捨選択をするわけですが、
どうやら、残っていくものは、この納得感に裏付けされているようです。
それは必ずしも科学的な説明ができるかどうか、ではありません。
筋が通っているかどうか、です。
例えば、植物に音楽を聞かせたり、話しかけたりすると成長が促進される、
というような話に関しても、信じてみようと思える部分と、そうでない部分があるわけです。
植物に毎日、「おはよう」とか、心を込めて話しかけているときと、
「馬鹿」とかの罵詈雑言を浴びせるときで比較するような実験を耳にします。
科学的に言えば、それは「実験」と呼んでいいものではありません。
でも、僕の判断基準は「科学的かどうか」だけではないんです。
「そういうのもあるかもしれない」と思う話と
「それは、あり得ない」と思う話が両方あるんです。
それに対して、僕の考えを聞きかじった人は、
僕が科学的に判断しようとしているように受け取ることが多いみたいですが、
断じて、そうではありません。
植物に話しかけるときに優しい気持ちを向けたほうが成長が良い、
それはなんとなく「あるかもしれない」と思える話です。
ところが、そこから派生してきた話として、
植物に文字を見せる、あるいは文字を書く、という内容まで出てくるんです。
例えば、果物などに「ありがとう」って文字を書くと
「馬鹿」って書いたものよりも長持ちする、というような話です。
これは全く納得できません。
筋が通っていないんです。
「ありがとう」という気持ちを向けた植物の成長が良いことと、
「ありがとう」という文字を書いた植物の生長が良いことでは意味が違いすぎます。
「ありがとう」という文字には本来、意味がないわけです。
英語であれば「Thank you」ですが、これは皮肉にも使われるものです。
誰かがぶつかって、手に持っていたコーヒーをこぼしてしまった。
その人は急いでいて、その場を走り去った。
その状況で出てくる言葉も「Thank you」なんです。
「ありがとう」と口では言いながらも、全然感謝していない状況だってあるはずです。
文字情報だけには意味がないんです。
それはコミュニケーションを考えれば当然のことです。
そのこととの辻褄を考えれば、「ありがとう」と書いたものに
何らかの効果があるという推測すら筋が通っていないことに気づけるはずです。
仮に、水の瓶に「ありがとう」って書いたものと、「馬鹿」って書いたもので
植物に水をやって、成長を見比べるような実験をしたとします。
何度も実験を繰り返して再現性を確認できたとします。
その結果、「ありがとう」の瓶の水のほうが成長が良いということになったとして、
僕の解釈は「ありがとう」という言葉の大切さには結び付きません。
そんな話には納得しません。
僕の解釈は、
「ありがとう」って書いた瓶だと認識して植物に水を与える人の気持ちと
「馬鹿」って書いた瓶だと認識して植物に水を与える人の気持ちに差があるはず、
というところへポイントが向きます。
その実験をする人が「『ありがとう』のほうが成長するはず」と思い込んでいれば、
その結果には差が出るかもしれません。
でも、水を与える人と実験の提唱者を別の人にして、
「こんな実験には意味がない」と思っている人に水を与える役目をしてもらったら、
その結果には差が出ないような気がします。
「植物にも気持ちが伝わる」と「植物にも『ありがとう』が分かる」のは別問題です。
僕がそんな実験をするのであれば、「ありがとう」の瓶と「馬鹿」の瓶を
もう一度上から紙を貼って実験者に見えない状態にして、
そして水を与える人もボランティアで実験の意図を伝えずに集めた人たちを選び、
毎日違う人に水を与えてもらうことをします。
こういう実験のやり方をダブルブラインドと言いますが、
影響しそうな要素は極力省かなくては論理的な力がないわけです。
「植物にも気持ちが伝わる」ということは
僕にとって「あるかもしれない」と思える内容です。
でも「『ありがとう』と書いた水や植物にポジティブな効果がある」という内容は
全く「納得がいかない」内容です。
受け入れられない理由は科学的じゃないからではありません。
筋が通っていないからです。
僕がやるとしたら、全く逆の実験をして反論をするかもしれません。
植物に「ありがとう」という文字を書く。
一方のグループには「ありがとう」という気持ちを込めて丁寧に文字を書く。
もう一方には「馬鹿じゃないの?」という気持ちを込めて雑に文字を書く。
文字情報はどちらも「ありがとう」ですが、向ける気持ちを変えるわけです。
この結果に差が出たとしたら、それは「納得がいく」タイプのものかもしれません。
「信じる」のと「鵜呑みにする」のは違うと思います。
「信じられる」と言いながら、「自分で考える」を放棄するのは
僕の信念では絶対にできないことです。
『納得感』です。
これは感覚的な部分もありますが、同時に論理的でもあります。
内的な順番としては、「なんとなく」の納得感が先にあって、
それを言葉で説明しようとした時に論理が出てくる、というところでしょうか。
僕の中では全ての情報に辻褄があっていることを強く希望しているフシがあるんです。
何かを学ぶ時には当然、情報の取捨選択をするわけですが、
どうやら、残っていくものは、この納得感に裏付けされているようです。
それは必ずしも科学的な説明ができるかどうか、ではありません。
筋が通っているかどうか、です。
例えば、植物に音楽を聞かせたり、話しかけたりすると成長が促進される、
というような話に関しても、信じてみようと思える部分と、そうでない部分があるわけです。
植物に毎日、「おはよう」とか、心を込めて話しかけているときと、
「馬鹿」とかの罵詈雑言を浴びせるときで比較するような実験を耳にします。
科学的に言えば、それは「実験」と呼んでいいものではありません。
でも、僕の判断基準は「科学的かどうか」だけではないんです。
「そういうのもあるかもしれない」と思う話と
「それは、あり得ない」と思う話が両方あるんです。
それに対して、僕の考えを聞きかじった人は、
僕が科学的に判断しようとしているように受け取ることが多いみたいですが、
断じて、そうではありません。
植物に話しかけるときに優しい気持ちを向けたほうが成長が良い、
それはなんとなく「あるかもしれない」と思える話です。
ところが、そこから派生してきた話として、
植物に文字を見せる、あるいは文字を書く、という内容まで出てくるんです。
例えば、果物などに「ありがとう」って文字を書くと
「馬鹿」って書いたものよりも長持ちする、というような話です。
これは全く納得できません。
筋が通っていないんです。
「ありがとう」という気持ちを向けた植物の成長が良いことと、
「ありがとう」という文字を書いた植物の生長が良いことでは意味が違いすぎます。
「ありがとう」という文字には本来、意味がないわけです。
英語であれば「Thank you」ですが、これは皮肉にも使われるものです。
誰かがぶつかって、手に持っていたコーヒーをこぼしてしまった。
その人は急いでいて、その場を走り去った。
その状況で出てくる言葉も「Thank you」なんです。
「ありがとう」と口では言いながらも、全然感謝していない状況だってあるはずです。
文字情報だけには意味がないんです。
それはコミュニケーションを考えれば当然のことです。
そのこととの辻褄を考えれば、「ありがとう」と書いたものに
何らかの効果があるという推測すら筋が通っていないことに気づけるはずです。
仮に、水の瓶に「ありがとう」って書いたものと、「馬鹿」って書いたもので
植物に水をやって、成長を見比べるような実験をしたとします。
何度も実験を繰り返して再現性を確認できたとします。
その結果、「ありがとう」の瓶の水のほうが成長が良いということになったとして、
僕の解釈は「ありがとう」という言葉の大切さには結び付きません。
そんな話には納得しません。
僕の解釈は、
「ありがとう」って書いた瓶だと認識して植物に水を与える人の気持ちと
「馬鹿」って書いた瓶だと認識して植物に水を与える人の気持ちに差があるはず、
というところへポイントが向きます。
その実験をする人が「『ありがとう』のほうが成長するはず」と思い込んでいれば、
その結果には差が出るかもしれません。
でも、水を与える人と実験の提唱者を別の人にして、
「こんな実験には意味がない」と思っている人に水を与える役目をしてもらったら、
その結果には差が出ないような気がします。
「植物にも気持ちが伝わる」と「植物にも『ありがとう』が分かる」のは別問題です。
僕がそんな実験をするのであれば、「ありがとう」の瓶と「馬鹿」の瓶を
もう一度上から紙を貼って実験者に見えない状態にして、
そして水を与える人もボランティアで実験の意図を伝えずに集めた人たちを選び、
毎日違う人に水を与えてもらうことをします。
こういう実験のやり方をダブルブラインドと言いますが、
影響しそうな要素は極力省かなくては論理的な力がないわけです。
「植物にも気持ちが伝わる」ということは
僕にとって「あるかもしれない」と思える内容です。
でも「『ありがとう』と書いた水や植物にポジティブな効果がある」という内容は
全く「納得がいかない」内容です。
受け入れられない理由は科学的じゃないからではありません。
筋が通っていないからです。
僕がやるとしたら、全く逆の実験をして反論をするかもしれません。
植物に「ありがとう」という文字を書く。
一方のグループには「ありがとう」という気持ちを込めて丁寧に文字を書く。
もう一方には「馬鹿じゃないの?」という気持ちを込めて雑に文字を書く。
文字情報はどちらも「ありがとう」ですが、向ける気持ちを変えるわけです。
この結果に差が出たとしたら、それは「納得がいく」タイプのものかもしれません。
「信じる」のと「鵜呑みにする」のは違うと思います。
「信じられる」と言いながら、「自分で考える」を放棄するのは
僕の信念では絶対にできないことです。
2008年07月20日
『パート』という言葉
自分の中には色々な自分がいるものです。
一人でノンビリとテレビを見ている自分、
いつもの職場の自分、
仕事の場面で初対面の人と接している自分、
尊敬する人物と話すことができたときの自分、
家族と一緒に話しているときの自分、
中学時代の友人と話しているときの自分、
車を運転しているときの自分、
通勤ラッシュで揉みくちゃにされている自分、
趣味の世界に没頭している自分…。
どれも自分ですが、それぞれの自分には違いがあることに気づけるはずです。
誰かとの関係であれば、それは役割を演じているとも言えるでしょう。
八方美人という言葉もあるように、
相手によってコロコロ態度を変えることを良しとしない見方もあるようですが、
逆に全ての人に対して完全に同じ接し方をしていては社会性に問題も出てくるはずです。
相手に合わせて振り回されすぎるのも自分にとってストレスとなるでしょうし、
いつでも自分を一定に保っていくのもコミュニケーションという観点では
困る状況が出てくるでしょうから、バランスが大事なことは言うまでもありません。
相手によって態度が変わるというのは相手に合わせることが自然とできる、
つまりペーシングが上手いという見方もできるわけです。
ただ、注意したほうが良いのは、相手との関係が膠着していないかということです。
ある程度、相手との関係が継続していくと、お互いに一定のパターンで
コミュニケーションをとるようになっていく傾向があります。
相手に合わせるところから出来上がってきた関係であったとしても
自分のペースで関わってきた中で出来上がった関係であったとしても
ある程度の時間が経過すると関係性が硬直しやすいわけです。
自分の中にいる沢山の自分の中から、
「その人と一緒にいるときの自分」というのが決まってくるんです。
で、そういう色々な自分には、それぞれ個性があるようです。
自分の中に様々な人格があると思ってもいいかもしれません。
それをサイコシンセシスでは『サブパーソナリティ』と呼びます。
日本語に訳して『副人格』というケースもあるようですが、
多重人格のような印象を感じる言葉のようにも感じます。
違いは、それぞれの人格のときの記憶が残っているか、です。
NLPではサブパーソナリティと同じような考え方として
『パート』というものを扱います。
自分の中の一部分を色々な形でイメージしたりするんです。
そこには身体感覚を視覚的にイメージする形でトランスを深めていく種類の、
フォーカシングと似た手法も混ざっているように考えられます。
エリクソンは、もっと無意識を全体的に信頼しながら関わっていたようですから
身体的に表れる反応を無意識のメッセージとして
コミュニケーションをとっていたのではないかと思います。
自分の中には色々な自分がいる。
その自分は時に、自分自身が望んでいないような行動をしてしまう。
自分の中の一部の人格が勝手に困ったことをしてしまう、という感じです。
もちろん大半の人はその時の記憶があるので、後で思い返して後悔するわけですね。
困ったことの多くは、「つい、やってしまった…」という後悔を伴います。
つまり、自分の中の「ある自分」がやってしまう行動。
それは無意識の行動とも言えるわけです。
だからこそ、その「ある自分」という無意識の部分に対して
コミュニケーションをしていく手法が生まれるのでしょう。
NLPでは、その「ある自分」のことを『パート』と呼ぶことにしましょう、と。
そのこと自体は非常に重要な内容だと思います。
パートという考え方の起源がどこにあるのかは知りませんが、
家族療法家のヴァージニア・サティアはセラピー中の語りかけとして
「それは、あなたの中の〜というパートがしてくれてるのね」
というような表現をしていたそうです。
これは日本語に訳すときの問題も含むように思います。
サティアの文脈を推測すると、それは素直に「部分」と訳して良いんじゃないでしょうか?
「その行動をするのは、あなたの一部分なのね」というニュアンス。
サティアの言っていた『パート(part)』という表現は
「それは、あなたという人間全体が生み出している問題ではなくて
あなたのホンの一部分だけが生み出している問題なのね」
と、部分化しながら受け止めていた、
彼女の優しさの表れだったんじゃないかと思うんです。
一人の人には色々な部分がある。
自分勝手に振る舞うときもあれば、他人に優しく接するときもある。
でも、それだって全て、その人の一部分なんです。
色々な部分を持っているけど、その人という存在は素晴らしい。
色々なところがあって、その人なんだ。
そんな前提のもと、その人全部を受け入れるような姿勢が
『パート』という言葉の裏側にあるような気がします。
一人でノンビリとテレビを見ている自分、
いつもの職場の自分、
仕事の場面で初対面の人と接している自分、
尊敬する人物と話すことができたときの自分、
家族と一緒に話しているときの自分、
中学時代の友人と話しているときの自分、
車を運転しているときの自分、
通勤ラッシュで揉みくちゃにされている自分、
趣味の世界に没頭している自分…。
どれも自分ですが、それぞれの自分には違いがあることに気づけるはずです。
誰かとの関係であれば、それは役割を演じているとも言えるでしょう。
八方美人という言葉もあるように、
相手によってコロコロ態度を変えることを良しとしない見方もあるようですが、
逆に全ての人に対して完全に同じ接し方をしていては社会性に問題も出てくるはずです。
相手に合わせて振り回されすぎるのも自分にとってストレスとなるでしょうし、
いつでも自分を一定に保っていくのもコミュニケーションという観点では
困る状況が出てくるでしょうから、バランスが大事なことは言うまでもありません。
相手によって態度が変わるというのは相手に合わせることが自然とできる、
つまりペーシングが上手いという見方もできるわけです。
ただ、注意したほうが良いのは、相手との関係が膠着していないかということです。
ある程度、相手との関係が継続していくと、お互いに一定のパターンで
コミュニケーションをとるようになっていく傾向があります。
相手に合わせるところから出来上がってきた関係であったとしても
自分のペースで関わってきた中で出来上がった関係であったとしても
ある程度の時間が経過すると関係性が硬直しやすいわけです。
自分の中にいる沢山の自分の中から、
「その人と一緒にいるときの自分」というのが決まってくるんです。
で、そういう色々な自分には、それぞれ個性があるようです。
自分の中に様々な人格があると思ってもいいかもしれません。
それをサイコシンセシスでは『サブパーソナリティ』と呼びます。
日本語に訳して『副人格』というケースもあるようですが、
多重人格のような印象を感じる言葉のようにも感じます。
違いは、それぞれの人格のときの記憶が残っているか、です。
NLPではサブパーソナリティと同じような考え方として
『パート』というものを扱います。
自分の中の一部分を色々な形でイメージしたりするんです。
そこには身体感覚を視覚的にイメージする形でトランスを深めていく種類の、
フォーカシングと似た手法も混ざっているように考えられます。
エリクソンは、もっと無意識を全体的に信頼しながら関わっていたようですから
身体的に表れる反応を無意識のメッセージとして
コミュニケーションをとっていたのではないかと思います。
自分の中には色々な自分がいる。
その自分は時に、自分自身が望んでいないような行動をしてしまう。
自分の中の一部の人格が勝手に困ったことをしてしまう、という感じです。
もちろん大半の人はその時の記憶があるので、後で思い返して後悔するわけですね。
困ったことの多くは、「つい、やってしまった…」という後悔を伴います。
つまり、自分の中の「ある自分」がやってしまう行動。
それは無意識の行動とも言えるわけです。
だからこそ、その「ある自分」という無意識の部分に対して
コミュニケーションをしていく手法が生まれるのでしょう。
NLPでは、その「ある自分」のことを『パート』と呼ぶことにしましょう、と。
そのこと自体は非常に重要な内容だと思います。
パートという考え方の起源がどこにあるのかは知りませんが、
家族療法家のヴァージニア・サティアはセラピー中の語りかけとして
「それは、あなたの中の〜というパートがしてくれてるのね」
というような表現をしていたそうです。
これは日本語に訳すときの問題も含むように思います。
サティアの文脈を推測すると、それは素直に「部分」と訳して良いんじゃないでしょうか?
「その行動をするのは、あなたの一部分なのね」というニュアンス。
サティアの言っていた『パート(part)』という表現は
「それは、あなたという人間全体が生み出している問題ではなくて
あなたのホンの一部分だけが生み出している問題なのね」
と、部分化しながら受け止めていた、
彼女の優しさの表れだったんじゃないかと思うんです。
一人の人には色々な部分がある。
自分勝手に振る舞うときもあれば、他人に優しく接するときもある。
でも、それだって全て、その人の一部分なんです。
色々な部分を持っているけど、その人という存在は素晴らしい。
色々なところがあって、その人なんだ。
そんな前提のもと、その人全部を受け入れるような姿勢が
『パート』という言葉の裏側にあるような気がします。
2008年07月17日
心の交流を視覚化してみる
僕には福祉関連の方々と出会う機会もありますが、
全体的な印象として大柄な人が少ないような気がします。
僕の勝手なイメージかもしれませんが、職種や立場ごとに
体格のデータを平均値として取ってみると意外と差があるんじゃないかと思うんです。
もちろん個人差はあるはずです。
ただ、全体的な印象として福祉の方々には大柄な方が少ないように感じるんです。
それは誰かが言っていることではなく、僕がそう思っただけですから
「福祉系=小柄」という思い込みの目で見た歪んだ解釈ではないつもりです。
福祉の方が集まる勉強の場に集まる人々であったり、
「こういう人が援助職をすると援助を受ける側は幸せだろうなぁ」と思うような
気配りの素晴らしい人を見てきた印象を総合した結果、
そんな気がしてきたという話です。
これは男性、女性を問わないようです。
男性だと背の高い方にもお会いしますが、そんな方はスラッとしています。
理学療法士などでは大柄な方も見た記憶があります。
それも体を扱うという意味で、納得できる要素だと感じます。
ただ、大柄なのに圧迫感がない感じがするんですね。
福祉の方々は大抵、体が角ばってないんです。
なんというか、人の懐に入り込むのが得意な方々というイメージを受けるわけです。
小柄な方は人の気持ちの下側にスッと入り込むイメージ。
ワンダウンポジションを地で行くことができるのかもしれません。
背は高めでもスラッとした人は、人ゴミをすり抜けるような感じで
人の心のガードの内側へ入っていけるイメージを受けます。
プールの中を、体を横にしながらスーッと進むような。
とにかく相手に近づきやすい印象が外見から受け取れる気がするんです。
まぁ、これは僕個人の勝手な印象ですから、曖昧なものでしょうし
同意してもらうことは難しいだろうと予測しています。
人の気持ちを静かにかき分けながら中に入り込んでいく。
それ以外にも、心の交流の仕方に対して様々なイメージを持っています。
人によって特徴があるように思うんです。
自分は動かずに人の気持ちを受け止める。
人の気持ちの正面に立たず、ヒョイヒョイとかわす。
自分の気持ちを強烈に発して相手を巻き込む。
人の気持ちの中にあっても自分は動かず、人の気持ちを受け流す。
人の気持ちを浸透させるように受け入れてから別のところへ流す。
それぞれに向いている立場や職業があるように感じます。
言葉に限らず、コミュニケーションというものを心の交流と捉えたとき、
僕にはそんなイメージが視覚的に浮かんできます。
絵に描いてみると面白いかもしれませんね。
そんな風に、人の発している様々なメッセージを
何らかの形で表現してみると、今までと違った整理の仕方ができるように思います。
全体的な印象として大柄な人が少ないような気がします。
僕の勝手なイメージかもしれませんが、職種や立場ごとに
体格のデータを平均値として取ってみると意外と差があるんじゃないかと思うんです。
もちろん個人差はあるはずです。
ただ、全体的な印象として福祉の方々には大柄な方が少ないように感じるんです。
それは誰かが言っていることではなく、僕がそう思っただけですから
「福祉系=小柄」という思い込みの目で見た歪んだ解釈ではないつもりです。
福祉の方が集まる勉強の場に集まる人々であったり、
「こういう人が援助職をすると援助を受ける側は幸せだろうなぁ」と思うような
気配りの素晴らしい人を見てきた印象を総合した結果、
そんな気がしてきたという話です。
これは男性、女性を問わないようです。
男性だと背の高い方にもお会いしますが、そんな方はスラッとしています。
理学療法士などでは大柄な方も見た記憶があります。
それも体を扱うという意味で、納得できる要素だと感じます。
ただ、大柄なのに圧迫感がない感じがするんですね。
福祉の方々は大抵、体が角ばってないんです。
なんというか、人の懐に入り込むのが得意な方々というイメージを受けるわけです。
小柄な方は人の気持ちの下側にスッと入り込むイメージ。
ワンダウンポジションを地で行くことができるのかもしれません。
背は高めでもスラッとした人は、人ゴミをすり抜けるような感じで
人の心のガードの内側へ入っていけるイメージを受けます。
プールの中を、体を横にしながらスーッと進むような。
とにかく相手に近づきやすい印象が外見から受け取れる気がするんです。
まぁ、これは僕個人の勝手な印象ですから、曖昧なものでしょうし
同意してもらうことは難しいだろうと予測しています。
人の気持ちを静かにかき分けながら中に入り込んでいく。
それ以外にも、心の交流の仕方に対して様々なイメージを持っています。
人によって特徴があるように思うんです。
自分は動かずに人の気持ちを受け止める。
人の気持ちの正面に立たず、ヒョイヒョイとかわす。
自分の気持ちを強烈に発して相手を巻き込む。
人の気持ちの中にあっても自分は動かず、人の気持ちを受け流す。
人の気持ちを浸透させるように受け入れてから別のところへ流す。
それぞれに向いている立場や職業があるように感じます。
言葉に限らず、コミュニケーションというものを心の交流と捉えたとき、
僕にはそんなイメージが視覚的に浮かんできます。
絵に描いてみると面白いかもしれませんね。
そんな風に、人の発している様々なメッセージを
何らかの形で表現してみると、今までと違った整理の仕方ができるように思います。
2008年07月15日
鵜呑みにしない
前回に引き続き、マナーに関して思うところを書いてみます。
デリケートな問題だとは思いますが、マナーに関して
考えてみるほうが良い部分があるとも思うんです。
例えば、小学校のときには「食べ物を残してはいけません」と習った人も多いと思います。
人によっては、お茶碗のご飯粒を1粒も残さないように気をつけることもあるでしょう。
ところが、中国や韓国では出された料理を残すほうがマナーなのだそうです。
食べきれないほどの食事を出すことが、もてなしの心だということです。
文化が違うわけですね。
それは伝統的に長い年月をかけて積み重ねられてきた習慣であって、
長い年月の間に暗黙の了解として、多くの人に受け入れられた考え方だと言えます。
そうした習慣がマナーとして定着し、それを守ることが美徳だとされるようになると
人は自らの判断や思考を失います。
「マナーだから守る」ということに疑いが無くなるわけです。
だからといって、一つ一つのマナーを「なんで?」と考えていると
他の人からは「面倒臭い奴」として扱われるようになってしまう。
僕はこの、「なんで?」という根本思考は大切なことだと考えます。
その答えを他人に求めるから反感を買うんです。
それは手抜きです。
疑問を持ったら、自ら考えてみればいい。
分からなければ、一生かけてでも考え続ければいいと思います。
それだけ大切なテーマになるはずです。
しかしながら、実際には大半の人がマナーや常識、文化という言葉で説明されるような
暗黙のルールに関して、自らの頭で考えることをしません。
誰かから言われたことだから、という理由で信じるわけです。
ゲシュタルト療法のフレデリック・パールズは、
そのように他人から言われた内容をそのまま受け入れてしまうパターンのことを
『イントロジェクション(鵜呑み)』と呼び、神経症的メカニズムの1つと考えました。
食事に限らず、マナーとか礼儀作法と呼ばれるものには様々なものがありますが、
それはNLPで言えば、信念ということになります。
ビリーフです。
思い込みとさえ言えるんです。
現代社会で通用するマナーは誰かから与えられたものですから、
知識として与えられた経験がなければ、それを知ることは難しいものでしょう。
そのマナーを知らなければ、偶然以外ではマナーを守れませんし、
マナーを守っていなくても罪悪感を覚えることもないはずです。
マナーを知っている人が、他人のマナー違反に対して不満を持つ。
これが重要なポイントです。
マナーに詳しく、マナーを守る人ほど、社会生活において他人への不満が大きくなる。
不思議なことが起きているわけです。
だから、マナーについて鵜呑みにせずに考えてみたほうが良いような気がするんです。
たぶん、僕の実家はマナーにうるさい部類だったのではないかと思います。
祖母はテレビで芸能人が食事をする場面を見ると、たいてい文句を言っていました。
「アラアラ、左手で箸を持って」ということもありました。
他の人からしたら気にならないことでしょうが、
そういう文化の中で育ってきたのでしょうね。
父は実際、左利きですが、ほとんどの作業を右手でこなします。
強制されたようです。
でも、僕はそういう発想が好きじゃなかったんです。
だから僕のマナーは結構いい加減です。
祖母のように、誰かのマナーが気になるというのは
知識が信念になっているからだと思われます。
「こうするのが普通だ」と思い込んでいるわけです。
しかし、相手にしてみたら知らない情報ですから、認識すらできません。
いたって普通の行為なんです。
例えば、トーストやお餅を食べる時。
普通にかぶりつくと、歯型が残りますね。
当たり前だと思います。
でも、この歯型を残さずに食べる人がいます。
一回かじった後、すぐにその横をもう一回噛み切る。
すると一直線に近い形に跡が残るわけです。
これも1つのマナーだそうです。
僕がテレビを見ていて、歯型を残さずに食べること気づいたのは、
小泉孝太郎さんと藤井隆さんぐらいです。
どちらも品のある人だと思います。
ただ、多くの人がそのようなマナーを知らないような気がします。
多くの人は歯型が残っても気にならないでしょう。
自分の食べたトーストでも、他人のトーストでも。
僕も気にしません。
知識として聞いたことはありますが、絶対にそうすべきだとは思っていないからです。
マナーの多くは、『そうするほうが良い』という類のものではないかと思います。
このことが、僕がマナーに対して考え直してみたほうがいいと思う部分です。
なぜなら、マナーや礼儀作法というのは、
人を思う気持ちから生まれてきたものだと思うからです。
一緒に同じ時間を過ごす相手に対する心配り。
その心配りを合理的に形にしたものがマナーだと思います。
小笠原流の礼法も、茶道の作法も無駄がありません。
無駄のない動きは美しい。
そういう観点もあるように感じます。
西洋のマナーがどうかは分かりませんが、
例えば「スープを飲んで残り少なくなったとき、皿を傾けるのは手前から奥」
というのも皿の裏側を相手に見せないようにという配慮が元だとは聞きます。
フランス式のマナーではスプーンは奥から手前に動かしますが、
これも誤って向いの相手へスープを飛ばさないようにという配慮だそうです。
そして、茶道の作法の根底には相手への心遣いが満ちているように感じます。
ふすまの開け閉め一つとっても、季節によって作法が違うわけです。
それは冬の寒さを考えた心配りを反映したものです。
作法という型の中に込められた心。
そのことを知っている人の作法は洗練されているように見えます。
絶対に手を抜きません。
相手が作法のことを知っていようが、知っていまいが関係なく、
自分ができる最大限に心をこめて振舞います。
そのことが作法を知る人には分かるわけです。
知っている程度によって、受け取れる量も違います。
だからこそ、分かる人同士は作法という型を徹底することを通じて、
お互いに相手が込めている心の度合いを知ることができるわけです。
言葉を使わずに、気持ちの交流をしているということです。
そうしたマナーや作法に込められた心を知る人は、
相手にマナーを押し付けないように感じます。
相手が快適にその場を過ごせるようにするための心配り。
マナーや作法の裏にあるその心を知る人は、相手のマナーがどうかよりも
相手にその場を快適に過ごしてもらうほうを大切にするはずです。
とはいえ、いつでも相手が快適に過ごすことが優先かといえば、そうではありません。
相手をもてなす場、相手と一緒に快適な時間を過ごす場であるなら
相手に作法やマナーを押し付けることはないでしょうが、
人には当然、自分の時間というものもあるわけです。
公共の場というのは、そこにいる全員と快適に過ごすことを目的にはしていません。
自分は自分として確保しながら、全員と折り合いをつける場です。
公共の場で、全員がそれぞれの個人的な希望を優先していたら
その場はメチャクチャになってしまいます。
トラブルが絶えません。
公共の場では、自分の個人的な要望をある程度抑え、
不特定多数の他人への迷惑を考えるべきところです。
それが社会性であって、人間が人間として成立しうる要素です。
人間は意識で社会性をコントロールするわけです。
自分の本来の欲求をコントロールするから、社会は成り立っているんです。
そこでは、ある程度の我慢と他人への配慮が必要なわけです。
それも礼儀作法やマナーとして考えることもできますが、
マナーを守ること以上に本質的な部分があります。
それは誰もが我慢しているということです。
我慢しているから、他人のワガママに不快感を抱くわけです。
「自分は我慢しているのに、あの人ったら…」ということです。
自分は公共の場だから静かにしている。
皆も暗黙の了解として静かにしている。
だから、自分のスペースと自分の時間をある程度確保できるわけです。
公共の場の中で、自分の空間と時間を維持するために
自分も他の人の空間と時間は邪魔しませんよ、という交換条件が働いているとも言えます。
電車の中で、誰かが携帯電話で話していたり、イヤホンから音漏れしていたり、
大きな声で会話をしていたりすると腹が立つのは、
自分は他人を邪魔しないことで自分のプライバシーを維持しようとしているのに
他の誰かが自分のプライベートを優先して声や音で侵害してくるからです。
それに対して不満が沸くのは当然でしょう。
ただ、それは相手がマナー違反だから不満を感じるわけではないんです。
ここを区別する必要があると思います。
自分が努力して維持している公共性をないがしろにして
公共性の代わりに得られるはずのプライバシーを侵害する相手の
公共性のなさが不満の対象なんです。
「自分は気を遣っているんだから、お前も気を遣えよ」という交換条件です。
食事やビジネスなど、個人的な人間関係におけるマナーと
公共の場でのマナーでは意味が違うんです。
個人的な人間関係では、相手との関係の構築が目的になります。
だから相手への心配りが前提になるわけです。
マナーを通じて相手への気持ちを示すということです。
その意味では、相手と良い関係を作りたいと思うのであれば、
相手のマナーは問題ではないはずです。
それでも個人的な人間関係で相手のマナーが気になってしまうのは、
そのマナーという信念に自分自身が凝り固まっているからです。
「マナーは守るべきだ」という信念が固まっている可能性があります。
自分が知らないマナーは守っていないかもしれないのに、
他人のマナーが気になるのは、そのマナーに対して思い込みが強いのかもしれません。
そういう時には、相手との関係と自分のマナーに対する思い入れと
どちらが大切かを考えた上で、責任ある行動をとればいいはずです。
どうしても自分にとって大切なマナーであれば、相手へ正直に言う選択もあります。
相手のマナーが気になる場には同席しないという選択もあります。
もし正直に言うなら、本当に自分の気持ちを正確に伝える必要があります。
「それはマナー違反だからやめて欲しい」というのは自分の気持ちに嘘をついています。
「マナー違反だから」ではありません。
「自分がそのマナーを守ることを大切だと思っているから、
それに反した振る舞いを見ていると不愉快な気持ちになってしまう。
あなたとは良い関係を築きたいのに、それができなくて残念だ。
その原因は自分の思い込みにあるのだけど、それを変えるのは難しいから
出来れば、その振る舞いを変えてもらえないだろうか?」
という提案が正確でしょう。
一方、公共性の高い場で、他人のマナーに不満が沸いてきたら
それは自分の領域を侵害されたように感じている可能性が高いでしょう。
電車の中で誰かが居眠りしていても不愉快にはならないと思います。
それは自分を邪魔されていないからです。
でも、居眠りをしている人がイビキをかいていたら不満を感じるでしょうし、
自分の隣で居眠りをしている人が寄りかかってきたら不満だろうと思います。
公共の場で感じる不満には「自分が邪魔された」という気持ちの
関わっている部分が大きいということです。
それは当然のことでしょう。
そこで考えることは「あの人はマナーが悪い」と
ルールを振りかざすことではないように思います。
本来は「あの人は私を邪魔するから不愉快だ」という考えのはずです。
どちらも不快な気持ちは変わりません。
ですが、自分の気持ちに気づけているかという点では違いがあります。
ルールやマナーを振りかざすことを続けていると
裏にある自分の正当なワガママの気持ちを無視することになります。
すると「マナーだから守るべき」という信念が強固になっていってしまいます。
マナーを守っていないから不愉快なのか、
自分の時間と空間を邪魔されているから不愉快なのか。
誰のためのマナーなのかを考えてみる必要があるように思います。
デリケートな問題だとは思いますが、マナーに関して
考えてみるほうが良い部分があるとも思うんです。
例えば、小学校のときには「食べ物を残してはいけません」と習った人も多いと思います。
人によっては、お茶碗のご飯粒を1粒も残さないように気をつけることもあるでしょう。
ところが、中国や韓国では出された料理を残すほうがマナーなのだそうです。
食べきれないほどの食事を出すことが、もてなしの心だということです。
文化が違うわけですね。
それは伝統的に長い年月をかけて積み重ねられてきた習慣であって、
長い年月の間に暗黙の了解として、多くの人に受け入れられた考え方だと言えます。
そうした習慣がマナーとして定着し、それを守ることが美徳だとされるようになると
人は自らの判断や思考を失います。
「マナーだから守る」ということに疑いが無くなるわけです。
だからといって、一つ一つのマナーを「なんで?」と考えていると
他の人からは「面倒臭い奴」として扱われるようになってしまう。
僕はこの、「なんで?」という根本思考は大切なことだと考えます。
その答えを他人に求めるから反感を買うんです。
それは手抜きです。
疑問を持ったら、自ら考えてみればいい。
分からなければ、一生かけてでも考え続ければいいと思います。
それだけ大切なテーマになるはずです。
しかしながら、実際には大半の人がマナーや常識、文化という言葉で説明されるような
暗黙のルールに関して、自らの頭で考えることをしません。
誰かから言われたことだから、という理由で信じるわけです。
ゲシュタルト療法のフレデリック・パールズは、
そのように他人から言われた内容をそのまま受け入れてしまうパターンのことを
『イントロジェクション(鵜呑み)』と呼び、神経症的メカニズムの1つと考えました。
食事に限らず、マナーとか礼儀作法と呼ばれるものには様々なものがありますが、
それはNLPで言えば、信念ということになります。
ビリーフです。
思い込みとさえ言えるんです。
現代社会で通用するマナーは誰かから与えられたものですから、
知識として与えられた経験がなければ、それを知ることは難しいものでしょう。
そのマナーを知らなければ、偶然以外ではマナーを守れませんし、
マナーを守っていなくても罪悪感を覚えることもないはずです。
マナーを知っている人が、他人のマナー違反に対して不満を持つ。
これが重要なポイントです。
マナーに詳しく、マナーを守る人ほど、社会生活において他人への不満が大きくなる。
不思議なことが起きているわけです。
だから、マナーについて鵜呑みにせずに考えてみたほうが良いような気がするんです。
たぶん、僕の実家はマナーにうるさい部類だったのではないかと思います。
祖母はテレビで芸能人が食事をする場面を見ると、たいてい文句を言っていました。
「アラアラ、左手で箸を持って」ということもありました。
他の人からしたら気にならないことでしょうが、
そういう文化の中で育ってきたのでしょうね。
父は実際、左利きですが、ほとんどの作業を右手でこなします。
強制されたようです。
でも、僕はそういう発想が好きじゃなかったんです。
だから僕のマナーは結構いい加減です。
祖母のように、誰かのマナーが気になるというのは
知識が信念になっているからだと思われます。
「こうするのが普通だ」と思い込んでいるわけです。
しかし、相手にしてみたら知らない情報ですから、認識すらできません。
いたって普通の行為なんです。
例えば、トーストやお餅を食べる時。
普通にかぶりつくと、歯型が残りますね。
当たり前だと思います。
でも、この歯型を残さずに食べる人がいます。
一回かじった後、すぐにその横をもう一回噛み切る。
すると一直線に近い形に跡が残るわけです。
これも1つのマナーだそうです。
僕がテレビを見ていて、歯型を残さずに食べること気づいたのは、
小泉孝太郎さんと藤井隆さんぐらいです。
どちらも品のある人だと思います。
ただ、多くの人がそのようなマナーを知らないような気がします。
多くの人は歯型が残っても気にならないでしょう。
自分の食べたトーストでも、他人のトーストでも。
僕も気にしません。
知識として聞いたことはありますが、絶対にそうすべきだとは思っていないからです。
マナーの多くは、『そうするほうが良い』という類のものではないかと思います。
このことが、僕がマナーに対して考え直してみたほうがいいと思う部分です。
なぜなら、マナーや礼儀作法というのは、
人を思う気持ちから生まれてきたものだと思うからです。
一緒に同じ時間を過ごす相手に対する心配り。
その心配りを合理的に形にしたものがマナーだと思います。
小笠原流の礼法も、茶道の作法も無駄がありません。
無駄のない動きは美しい。
そういう観点もあるように感じます。
西洋のマナーがどうかは分かりませんが、
例えば「スープを飲んで残り少なくなったとき、皿を傾けるのは手前から奥」
というのも皿の裏側を相手に見せないようにという配慮が元だとは聞きます。
フランス式のマナーではスプーンは奥から手前に動かしますが、
これも誤って向いの相手へスープを飛ばさないようにという配慮だそうです。
そして、茶道の作法の根底には相手への心遣いが満ちているように感じます。
ふすまの開け閉め一つとっても、季節によって作法が違うわけです。
それは冬の寒さを考えた心配りを反映したものです。
作法という型の中に込められた心。
そのことを知っている人の作法は洗練されているように見えます。
絶対に手を抜きません。
相手が作法のことを知っていようが、知っていまいが関係なく、
自分ができる最大限に心をこめて振舞います。
そのことが作法を知る人には分かるわけです。
知っている程度によって、受け取れる量も違います。
だからこそ、分かる人同士は作法という型を徹底することを通じて、
お互いに相手が込めている心の度合いを知ることができるわけです。
言葉を使わずに、気持ちの交流をしているということです。
そうしたマナーや作法に込められた心を知る人は、
相手にマナーを押し付けないように感じます。
相手が快適にその場を過ごせるようにするための心配り。
マナーや作法の裏にあるその心を知る人は、相手のマナーがどうかよりも
相手にその場を快適に過ごしてもらうほうを大切にするはずです。
とはいえ、いつでも相手が快適に過ごすことが優先かといえば、そうではありません。
相手をもてなす場、相手と一緒に快適な時間を過ごす場であるなら
相手に作法やマナーを押し付けることはないでしょうが、
人には当然、自分の時間というものもあるわけです。
公共の場というのは、そこにいる全員と快適に過ごすことを目的にはしていません。
自分は自分として確保しながら、全員と折り合いをつける場です。
公共の場で、全員がそれぞれの個人的な希望を優先していたら
その場はメチャクチャになってしまいます。
トラブルが絶えません。
公共の場では、自分の個人的な要望をある程度抑え、
不特定多数の他人への迷惑を考えるべきところです。
それが社会性であって、人間が人間として成立しうる要素です。
人間は意識で社会性をコントロールするわけです。
自分の本来の欲求をコントロールするから、社会は成り立っているんです。
そこでは、ある程度の我慢と他人への配慮が必要なわけです。
それも礼儀作法やマナーとして考えることもできますが、
マナーを守ること以上に本質的な部分があります。
それは誰もが我慢しているということです。
我慢しているから、他人のワガママに不快感を抱くわけです。
「自分は我慢しているのに、あの人ったら…」ということです。
自分は公共の場だから静かにしている。
皆も暗黙の了解として静かにしている。
だから、自分のスペースと自分の時間をある程度確保できるわけです。
公共の場の中で、自分の空間と時間を維持するために
自分も他の人の空間と時間は邪魔しませんよ、という交換条件が働いているとも言えます。
電車の中で、誰かが携帯電話で話していたり、イヤホンから音漏れしていたり、
大きな声で会話をしていたりすると腹が立つのは、
自分は他人を邪魔しないことで自分のプライバシーを維持しようとしているのに
他の誰かが自分のプライベートを優先して声や音で侵害してくるからです。
それに対して不満が沸くのは当然でしょう。
ただ、それは相手がマナー違反だから不満を感じるわけではないんです。
ここを区別する必要があると思います。
自分が努力して維持している公共性をないがしろにして
公共性の代わりに得られるはずのプライバシーを侵害する相手の
公共性のなさが不満の対象なんです。
「自分は気を遣っているんだから、お前も気を遣えよ」という交換条件です。
食事やビジネスなど、個人的な人間関係におけるマナーと
公共の場でのマナーでは意味が違うんです。
個人的な人間関係では、相手との関係の構築が目的になります。
だから相手への心配りが前提になるわけです。
マナーを通じて相手への気持ちを示すということです。
その意味では、相手と良い関係を作りたいと思うのであれば、
相手のマナーは問題ではないはずです。
それでも個人的な人間関係で相手のマナーが気になってしまうのは、
そのマナーという信念に自分自身が凝り固まっているからです。
「マナーは守るべきだ」という信念が固まっている可能性があります。
自分が知らないマナーは守っていないかもしれないのに、
他人のマナーが気になるのは、そのマナーに対して思い込みが強いのかもしれません。
そういう時には、相手との関係と自分のマナーに対する思い入れと
どちらが大切かを考えた上で、責任ある行動をとればいいはずです。
どうしても自分にとって大切なマナーであれば、相手へ正直に言う選択もあります。
相手のマナーが気になる場には同席しないという選択もあります。
もし正直に言うなら、本当に自分の気持ちを正確に伝える必要があります。
「それはマナー違反だからやめて欲しい」というのは自分の気持ちに嘘をついています。
「マナー違反だから」ではありません。
「自分がそのマナーを守ることを大切だと思っているから、
それに反した振る舞いを見ていると不愉快な気持ちになってしまう。
あなたとは良い関係を築きたいのに、それができなくて残念だ。
その原因は自分の思い込みにあるのだけど、それを変えるのは難しいから
出来れば、その振る舞いを変えてもらえないだろうか?」
という提案が正確でしょう。
一方、公共性の高い場で、他人のマナーに不満が沸いてきたら
それは自分の領域を侵害されたように感じている可能性が高いでしょう。
電車の中で誰かが居眠りしていても不愉快にはならないと思います。
それは自分を邪魔されていないからです。
でも、居眠りをしている人がイビキをかいていたら不満を感じるでしょうし、
自分の隣で居眠りをしている人が寄りかかってきたら不満だろうと思います。
公共の場で感じる不満には「自分が邪魔された」という気持ちの
関わっている部分が大きいということです。
それは当然のことでしょう。
そこで考えることは「あの人はマナーが悪い」と
ルールを振りかざすことではないように思います。
本来は「あの人は私を邪魔するから不愉快だ」という考えのはずです。
どちらも不快な気持ちは変わりません。
ですが、自分の気持ちに気づけているかという点では違いがあります。
ルールやマナーを振りかざすことを続けていると
裏にある自分の正当なワガママの気持ちを無視することになります。
すると「マナーだから守るべき」という信念が強固になっていってしまいます。
マナーを守っていないから不愉快なのか、
自分の時間と空間を邪魔されているから不愉快なのか。
誰のためのマナーなのかを考えてみる必要があるように思います。
2008年07月13日
予想外の行動
先日、食事に出かけた時のことです。
ファミレスのような気軽な店でした。
一人のキャリアウーマン風の女性が颯爽と店に入ってきました。
服装も歩き方も、気品がある感じでした。
席に着く時も、注文するときも、料理が運ばれてくるのを待つ間も、
まるで高級フランス料理店にいるかのように振る舞っていたんです。
きっと色々と気を遣って自分の見せ方を考えているんでしょう。
一人だけ別世界というほど。
しばらくして料理が運ばれてきました。
店員さんは普通のバイトでしょう。
ごくごく一般的なマニュアル通りの対応です。
料理をテーブルの上に置かれると、その女性はまたもや品のある仕草で
店員さんのほうへ小さくお辞儀をしました。
そして、料理に正対して再び小さくお辞儀。
それから割り箸に手を伸ばしました。
おもむろに割り箸を割ると、なんと…。
その女性は体を右へねじり、席の横で割り箸の断面同士を擦り合わせました。
シャッ、シャッ、シャッ…。
僕はビックリしました。
そして何事もなかったかのように女性は正面へ向きなおり、食事を始めました。
その仕草は当然のように気を遣ったものでした。
姿勢もよく、食器を持つ仕草も、口に食べ物を運ぶ量すらも色々と気を配って
自分がいかに品良く見えるかということを心がけているようでした。
なのに、唯一。
割り箸を割ったときだけ。
きっとナイフとフォークであれば、隙のない作法で食事をされる方なんでしょう。
別に、割り箸を擦り合わせる行為がダメだと言っているわけではありません。
その女性の他の行動があまりにも頑張っている様子だったため
他とのギャップが大き過ぎたということです。
マナーに対する僕の考えは後日書こうと思っていますが、
僕がその時に感じたのは、自分のことは意外と気づかないものなんだ、ということです。
その人にとっては、当たり前の行為だったんでしょうね。
立ち方、歩き方、座り方…、そういったことは一生懸命に磨いてきたのかもしれません。
美しく見えるための行動を追求してきたのかもしれません。
割り箸を擦り合わせてケバだったところを取る行為がマナーとしてどうかは、
僕にとってはあまり気にならないことなんですが、
単純に美しい所作には見えなかったという話です。
それだけ美しく見える振る舞いを追求してきたような方なのに
気づくことのできないほど、当たり前の行為だったのでしょうね。
当たり前だと思っていると気づくことができません。
知らないことも気づくことができません。
自分の行動を客観的に振り返ってみると意外なことにも気づけるでしょうが、
それ以上に他人に指摘してもらうのは重要な気づきにつながりそうです。
厳しい指摘は苦しいものですけど。
ファミレスのような気軽な店でした。
一人のキャリアウーマン風の女性が颯爽と店に入ってきました。
服装も歩き方も、気品がある感じでした。
席に着く時も、注文するときも、料理が運ばれてくるのを待つ間も、
まるで高級フランス料理店にいるかのように振る舞っていたんです。
きっと色々と気を遣って自分の見せ方を考えているんでしょう。
一人だけ別世界というほど。
しばらくして料理が運ばれてきました。
店員さんは普通のバイトでしょう。
ごくごく一般的なマニュアル通りの対応です。
料理をテーブルの上に置かれると、その女性はまたもや品のある仕草で
店員さんのほうへ小さくお辞儀をしました。
そして、料理に正対して再び小さくお辞儀。
それから割り箸に手を伸ばしました。
おもむろに割り箸を割ると、なんと…。
その女性は体を右へねじり、席の横で割り箸の断面同士を擦り合わせました。
シャッ、シャッ、シャッ…。
僕はビックリしました。
そして何事もなかったかのように女性は正面へ向きなおり、食事を始めました。
その仕草は当然のように気を遣ったものでした。
姿勢もよく、食器を持つ仕草も、口に食べ物を運ぶ量すらも色々と気を配って
自分がいかに品良く見えるかということを心がけているようでした。
なのに、唯一。
割り箸を割ったときだけ。
きっとナイフとフォークであれば、隙のない作法で食事をされる方なんでしょう。
別に、割り箸を擦り合わせる行為がダメだと言っているわけではありません。
その女性の他の行動があまりにも頑張っている様子だったため
他とのギャップが大き過ぎたということです。
マナーに対する僕の考えは後日書こうと思っていますが、
僕がその時に感じたのは、自分のことは意外と気づかないものなんだ、ということです。
その人にとっては、当たり前の行為だったんでしょうね。
立ち方、歩き方、座り方…、そういったことは一生懸命に磨いてきたのかもしれません。
美しく見えるための行動を追求してきたのかもしれません。
割り箸を擦り合わせてケバだったところを取る行為がマナーとしてどうかは、
僕にとってはあまり気にならないことなんですが、
単純に美しい所作には見えなかったという話です。
それだけ美しく見える振る舞いを追求してきたような方なのに
気づくことのできないほど、当たり前の行為だったのでしょうね。
当たり前だと思っていると気づくことができません。
知らないことも気づくことができません。
自分の行動を客観的に振り返ってみると意外なことにも気づけるでしょうが、
それ以上に他人に指摘してもらうのは重要な気づきにつながりそうです。
厳しい指摘は苦しいものですけど。
2008年07月09日
特別なお客様として
以前にもブログに書きましたが、近所の飲食店に非常に接客の素晴らしい方がいます。
僕の見立ては、接客業というよりも対人援助職向けの気配りを持つ人、という印象。
先日などは、その店員さんがいなかったときに、
わざわざ1人のお客さん(70〜80歳位)が他の店員さんに質問をするほどでした。
「今日は、あの娘はいないの?」
「ええ、今日は3時までの日なんです」
案の定、お年寄りにモテるんですね。
で、しばらくしたら、その店員さんが私服で店に入ってきました。
聞こえてきた会話の内容からすると、早く仕事を終えて休憩した後、
事務所で雑用をこなしに戻ってきていたのだとか。
それでもう一度、店に入ってくるというのが凄いと思いました。
わざわざ一人のお客さんのために、仕事時間外なのに
会話のためだけにやってきたわけです。
そうすることで、お得意様になるかとか、そんな算段はきっと無かったことでしょう。
単価の安い店です。
何より、そうやって会いたがっているお客さんは、
既にその店員さんのファンになっているわけですから。
ますますファンになったかもしれませんね。
そうやって、そのお客さんと話した後、店員さんは私服のままで
別のお客さんのところへ近寄って行きました。
今度はお婆さんです。
またまた聞こえてきた会話によると、そのお婆さんは、たまにしか来店しない方のよう。
でも、しっかりと覚えていて会話を始めるわけです。
私服のままメニューを持って行き、近くで話を続けていました。
お婆さんが注文を考えている間、その相談相手にもなっていたんです。
色々と事情を聴いた上で、2人で注文を決める。
そんな感じでした。
その作業はニーズの把握から自己決定までのプロセスを踏んでいたと言えます。
もちろん対人援助に求められるレベルの内容ではありませんが、
自然とその流れをやってのけるのはセンスの現れだろうと思います。
素晴らしいコミュニケーションは、見ていても心地いいものですね。
空いている時間だからこそ可能な場面だったのでしょうが、
それでもなかなか出来ることじゃないように感じます。
後日、僕の隣の席に、一人の初老の女性が座りました。
念のため言っておきますが、決してその店がお年寄りばかりということではありません。
色々な方がお客さんとして入っていますが、
お年寄りが1人で入れる店だということが重要なポイントだと思うんです。
で、僕の隣にその初老の女性が座ったところ、
いつもの店員さんが、他のどの店員さんよりも早くやってきました。
そしてメニューを差し出しながら、口を大きく動かしました。
普通は何かしら声をかける場面です。
「いらっしゃいませ」とか「お決まりになりましたらお呼びください」とか、
何らかのマニュアルがあるものでしょう。
その店員さんも普段なら言葉をかけます。
でも、その時は声を出しませんでした。
その代わり、大きく口を動かしていたんです。
たぶん、その形は「どうぞ」だったように見えました。
その表情には暖かい笑顔が溢れていました。
しばらくして、その店員さんが再び席に寄ってくると
隣の席の女性は手荷物から何かのカードのようなものを取り出し、
それを店員さんに見せました。
店員さんはニッコリとほほ笑みながら大きくうなずき、
メニューを下げて去って行きました。
後ほど食事が運ばれてきたわけですから、おそらくそのカードで注文したのでしょう。
推測ですが、その女性は耳の不自由な方だったのではないかと思います。
その方が何度、その店に来ているのかは分かりません。
頻繁に来る方だから、そういう暗黙の了解が出来ていたのかもしれません。
仮にそうだったとしても、その方への心配りは素晴らしいものでした。
1人の人として個別に見ているわけです。
かといって、過剰な特別視があるのでもないんです。
混雑時に相応しい、適格な対応だと感じました。
そして、そうした暗黙の了解ができるまでのプロセスにも関心がわいてきます。
当然のように、その女性の事情に合わせた対応をとっているんです。
その方も安心して食事をしていかれるのでしょう。
少なくとも数回は来店している方だからこそ、
可能なコミュニケーションだと考えられます。
その方が何度も店に来るに至るまでに、その店員さんが
どれだけ安心感をもたらしていたのかという部分が素晴らしいと思うんです。
その飲食店はチェーン店です。
特別なサービスが売りの店ではありません。
ただ、その店舗の個性を生み出しているのは、その店員さんじゃないかと僕は思います。
凄い人がいるものです。
ちなみに、最近その店が改装工事中で、僕は残念な思いをしています。
誰よりも僕自身が、その店員さんに引きつけられて店に行っているのかもしれませんね。
僕の見立ては、接客業というよりも対人援助職向けの気配りを持つ人、という印象。
先日などは、その店員さんがいなかったときに、
わざわざ1人のお客さん(70〜80歳位)が他の店員さんに質問をするほどでした。
「今日は、あの娘はいないの?」
「ええ、今日は3時までの日なんです」
案の定、お年寄りにモテるんですね。
で、しばらくしたら、その店員さんが私服で店に入ってきました。
聞こえてきた会話の内容からすると、早く仕事を終えて休憩した後、
事務所で雑用をこなしに戻ってきていたのだとか。
それでもう一度、店に入ってくるというのが凄いと思いました。
わざわざ一人のお客さんのために、仕事時間外なのに
会話のためだけにやってきたわけです。
そうすることで、お得意様になるかとか、そんな算段はきっと無かったことでしょう。
単価の安い店です。
何より、そうやって会いたがっているお客さんは、
既にその店員さんのファンになっているわけですから。
ますますファンになったかもしれませんね。
そうやって、そのお客さんと話した後、店員さんは私服のままで
別のお客さんのところへ近寄って行きました。
今度はお婆さんです。
またまた聞こえてきた会話によると、そのお婆さんは、たまにしか来店しない方のよう。
でも、しっかりと覚えていて会話を始めるわけです。
私服のままメニューを持って行き、近くで話を続けていました。
お婆さんが注文を考えている間、その相談相手にもなっていたんです。
色々と事情を聴いた上で、2人で注文を決める。
そんな感じでした。
その作業はニーズの把握から自己決定までのプロセスを踏んでいたと言えます。
もちろん対人援助に求められるレベルの内容ではありませんが、
自然とその流れをやってのけるのはセンスの現れだろうと思います。
素晴らしいコミュニケーションは、見ていても心地いいものですね。
空いている時間だからこそ可能な場面だったのでしょうが、
それでもなかなか出来ることじゃないように感じます。
後日、僕の隣の席に、一人の初老の女性が座りました。
念のため言っておきますが、決してその店がお年寄りばかりということではありません。
色々な方がお客さんとして入っていますが、
お年寄りが1人で入れる店だということが重要なポイントだと思うんです。
で、僕の隣にその初老の女性が座ったところ、
いつもの店員さんが、他のどの店員さんよりも早くやってきました。
そしてメニューを差し出しながら、口を大きく動かしました。
普通は何かしら声をかける場面です。
「いらっしゃいませ」とか「お決まりになりましたらお呼びください」とか、
何らかのマニュアルがあるものでしょう。
その店員さんも普段なら言葉をかけます。
でも、その時は声を出しませんでした。
その代わり、大きく口を動かしていたんです。
たぶん、その形は「どうぞ」だったように見えました。
その表情には暖かい笑顔が溢れていました。
しばらくして、その店員さんが再び席に寄ってくると
隣の席の女性は手荷物から何かのカードのようなものを取り出し、
それを店員さんに見せました。
店員さんはニッコリとほほ笑みながら大きくうなずき、
メニューを下げて去って行きました。
後ほど食事が運ばれてきたわけですから、おそらくそのカードで注文したのでしょう。
推測ですが、その女性は耳の不自由な方だったのではないかと思います。
その方が何度、その店に来ているのかは分かりません。
頻繁に来る方だから、そういう暗黙の了解が出来ていたのかもしれません。
仮にそうだったとしても、その方への心配りは素晴らしいものでした。
1人の人として個別に見ているわけです。
かといって、過剰な特別視があるのでもないんです。
混雑時に相応しい、適格な対応だと感じました。
そして、そうした暗黙の了解ができるまでのプロセスにも関心がわいてきます。
当然のように、その女性の事情に合わせた対応をとっているんです。
その方も安心して食事をしていかれるのでしょう。
少なくとも数回は来店している方だからこそ、
可能なコミュニケーションだと考えられます。
その方が何度も店に来るに至るまでに、その店員さんが
どれだけ安心感をもたらしていたのかという部分が素晴らしいと思うんです。
その飲食店はチェーン店です。
特別なサービスが売りの店ではありません。
ただ、その店舗の個性を生み出しているのは、その店員さんじゃないかと僕は思います。
凄い人がいるものです。
ちなみに、最近その店が改装工事中で、僕は残念な思いをしています。
誰よりも僕自身が、その店員さんに引きつけられて店に行っているのかもしれませんね。
2008年07月07日
『コールドリーディング』
久しぶりに『コールドリーディング』の新刊が出ました。
今回もキャンペーンを交え、力を入れているようです。
コールドリーディング~ニセ占い師に学ぶ! 信頼させる「話し方」の技術 (FOREST MINI BOOK)
石井裕之さんの『一瞬で信じこませる話術コールドリーディング』が出版されて
もう3年にもなるんですね。
早いものです。
僕にとって占い師の話術というのは非常に面白く、
単なる好奇心や、遊びとしてやってみたい程度の気持ちで石井道場に申し込み、
自分で実践を重ねていきました。
楽しかったんですね。
それまでとは人の見方が変わってきたわけですから。
それは話術としてのコールドリーディングの部分ではなく
観察から読み取るという部分での効果でした。
コールドリーディングにおいては、今回の本にも書かれていますが
ストックスピールという、誰にでも当てはまる内容の言葉が大きな意味合いを持ち、
海外では「コールドリーディングを学ぶ=ストックスピールを覚える」というほどに
中心部分を占めているのだそうです。
ストックスピール集のような本もあるんだとか。
ストックスピールはネタとして一生懸命考えたり、集めたりするのもいいと思いますが、
そういった誰にでも当てはまる内容に説得力を持たせる言い回しそのものが
経験的に蓄えていくべきコミュニケーションの技術だと思うんです。
ポイントは言葉の抽象度。
フェラーリよりもスポーツカー、スポーツカーよりも自動車、自動車よりも乗り物、
といったほうが抽象的な言葉と言えます。
抽象度を上げた言葉を使うことで聞き手が勝手に、
自分の具体的体験と結び付けてくれる効果があるわけです。
抽象度が高い言葉でリーディングすれば外れにくいわけです。
「最近、何か乗り物で失敗しませんでしたか?」
と聞けば、電車の乗り過ごしかもしれないし、自転車で転んだかもしれないし、
車をぶつけてしまったかもしれないし、幅が広いわけです。
内面的な記述は基本的に、抽象度が高い言葉でされますので
外れにくい特性があるようにも考えられます。
自分の内面ですから言われたほうも当てはめようとするでしょうし、
人間の無意識のバランスを考えれば全く当てはまらない特性も少ないでしょう。
ただ、抽象度が高過ぎると当たり前になってしまう側面もあるわけです。
具体的なほどリアリティが高まるんです。
そのバランスを取りながら、言葉を選ぶ。
この技術が役に立ちます。
相手を完全に理解することは絶対にできないわけです。
相手を理解しようとするほどに、膨大な量の情報を話してもらう必要が出てきます。
時には過去の苦しい体験も聞いてしまうことになるかもしれません。
それは負担をかける行為です。
大切なのは、自分が相手を理解することよりも
相手が理解されていると感じてくれること。
いかに負担をかけずに必要な信頼関係を築いていくかと考えると
コールドリーディングの話術における抽象度のコントロールは
非常に役立つと思うんです。
…石井裕之さんは、そういう説明の仕方ではありませんが。
ちなみに、今回の新刊はコールドリーディングが実践しやすい形に
まとめられているように感じますので、初めてでも読みやすそうです。
僕個人としては、コールドリーディングの話術としての凄さは
以前の作品のほうが充実していると思います。
リーディングにはミスがつきものですから、
そこをどのように利用していくかという発想が重要だと考えます。
その意味でも、以前の本は高度なんです。
でも、それだと「凄い話術なのは分かったけど、実際にできそうな気がしない」
ということになってしまう場合があったのかもしれません。
その点、新刊はコールドリーディングを実践してみるのに
とても使い勝手がいい形になっているように思います。
NLPのミルトンモデルは不特定さや曖昧さで相手に考えさせる部分がありますが、
コールドリーディングは特定していきます。
特定するから「当たっている」と感じるわけです。
特定しながら外さないための話術。
それさえあればコミュニケーションが上手くいくとは言い切れませんが、
ある場面では非常に役立つ技術じゃないでしょうか。
今回もキャンペーンを交え、力を入れているようです。
コールドリーディング~ニセ占い師に学ぶ! 信頼させる「話し方」の技術 (FOREST MINI BOOK)
石井裕之さんの『一瞬で信じこませる話術コールドリーディング』が出版されて
もう3年にもなるんですね。
早いものです。
僕にとって占い師の話術というのは非常に面白く、
単なる好奇心や、遊びとしてやってみたい程度の気持ちで石井道場に申し込み、
自分で実践を重ねていきました。
楽しかったんですね。
それまでとは人の見方が変わってきたわけですから。
それは話術としてのコールドリーディングの部分ではなく
観察から読み取るという部分での効果でした。
コールドリーディングにおいては、今回の本にも書かれていますが
ストックスピールという、誰にでも当てはまる内容の言葉が大きな意味合いを持ち、
海外では「コールドリーディングを学ぶ=ストックスピールを覚える」というほどに
中心部分を占めているのだそうです。
ストックスピール集のような本もあるんだとか。
ストックスピールはネタとして一生懸命考えたり、集めたりするのもいいと思いますが、
そういった誰にでも当てはまる内容に説得力を持たせる言い回しそのものが
経験的に蓄えていくべきコミュニケーションの技術だと思うんです。
ポイントは言葉の抽象度。
フェラーリよりもスポーツカー、スポーツカーよりも自動車、自動車よりも乗り物、
といったほうが抽象的な言葉と言えます。
抽象度を上げた言葉を使うことで聞き手が勝手に、
自分の具体的体験と結び付けてくれる効果があるわけです。
抽象度が高い言葉でリーディングすれば外れにくいわけです。
「最近、何か乗り物で失敗しませんでしたか?」
と聞けば、電車の乗り過ごしかもしれないし、自転車で転んだかもしれないし、
車をぶつけてしまったかもしれないし、幅が広いわけです。
内面的な記述は基本的に、抽象度が高い言葉でされますので
外れにくい特性があるようにも考えられます。
自分の内面ですから言われたほうも当てはめようとするでしょうし、
人間の無意識のバランスを考えれば全く当てはまらない特性も少ないでしょう。
ただ、抽象度が高過ぎると当たり前になってしまう側面もあるわけです。
具体的なほどリアリティが高まるんです。
そのバランスを取りながら、言葉を選ぶ。
この技術が役に立ちます。
相手を完全に理解することは絶対にできないわけです。
相手を理解しようとするほどに、膨大な量の情報を話してもらう必要が出てきます。
時には過去の苦しい体験も聞いてしまうことになるかもしれません。
それは負担をかける行為です。
大切なのは、自分が相手を理解することよりも
相手が理解されていると感じてくれること。
いかに負担をかけずに必要な信頼関係を築いていくかと考えると
コールドリーディングの話術における抽象度のコントロールは
非常に役立つと思うんです。
…石井裕之さんは、そういう説明の仕方ではありませんが。
ちなみに、今回の新刊はコールドリーディングが実践しやすい形に
まとめられているように感じますので、初めてでも読みやすそうです。
僕個人としては、コールドリーディングの話術としての凄さは
以前の作品のほうが充実していると思います。
リーディングにはミスがつきものですから、
そこをどのように利用していくかという発想が重要だと考えます。
その意味でも、以前の本は高度なんです。
でも、それだと「凄い話術なのは分かったけど、実際にできそうな気がしない」
ということになってしまう場合があったのかもしれません。
その点、新刊はコールドリーディングを実践してみるのに
とても使い勝手がいい形になっているように思います。
NLPのミルトンモデルは不特定さや曖昧さで相手に考えさせる部分がありますが、
コールドリーディングは特定していきます。
特定するから「当たっている」と感じるわけです。
特定しながら外さないための話術。
それさえあればコミュニケーションが上手くいくとは言い切れませんが、
ある場面では非常に役立つ技術じゃないでしょうか。