2008年08月
2008年08月30日
趣味のパート
「趣味はなんですか?」
そういう風に言われると、最近は少し困ってしまいます。
あまり特定の趣味がないようです。
本を読むのは好きですが、勉強でもあり、仕事の一部でもあるような気もしますから
読書が趣味というのはチョット違うように思います。
運動も最近は離れてしまいましたし、毎日続けている習慣もありません。
会社にいたころは色々と習慣があったんですが。
会社で山口県にいたころは、土日にゴルフの練習に行くのと
本屋に行くのが決まった行動パターンでした。
釣り、ゴルフ、パチンコのどれかが主要なレジャーと言われていましたが
僕はゴルフをしていたんです。
といっても僕の決まった行動はゴルフの練習であって、
ゴルフ場に行く機会は決して多くなかったんです。
土日とはいえ休日出勤はザラでしたから、時間を作って練習していたわけです。
学生のころは、なぜか毎晩、バットを振り続けていました。
野球のマスコットバットを振っていたんです。
当時は軽い運動のつもりだったように思います。
そんなこともあって、会社で東京へ転勤になったころは
しばらくの間、バッティングセンターが休日の気分転換になっていました。
その後、色々とセミナーに行くようになってからは土日が忙しくなってしまって
バットを振ることも、ゴルフクラブを振ることも減ってしまったんです。
その代わり、セミナーが楽しくて、色々なことを勉強していました。
その頃はセミナーにせよ、本を読むにせよ、会社以外の勉強が趣味だったようです。
で、そんな風に勉強するうちに、勧められた瞑想をするようになってきました。
会社を辞めるまでは勉強と瞑想とセミナーが習慣になっていたわけです。
そして最近は、バットもゴルフクラブも振ることなく、
セミナーも受けるよりも伝える側になり、勉強は楽しいものの仕事に結びつき、
瞑想する時間もとらなくなってきたんです。
そうした流れとの関係は不明瞭ですが、
趣味らしい趣味も、ブログ以外の習慣も持たない最近の僕は
肩コリや腰痛といった身体症状を体験することが増えました。
子供のころから片頭痛持ちでしたが、肩コリや腰痛が悪化したのは最近です。
様々な要因が絡んでいるのは感じられるようですが、
悪化要因の増加だけでなく、改善要因が減ったことも影響している気がするんです。
学生時代も会社員時代も、研究をやっていましたから
作業の大半は立ち仕事で、机に向って同じ姿勢を取り続けることも多かったわけです。
一般的に言えば肩コリや腰痛の原因になりそうなことばかり。
でも、当時は症状を感じなかったんです。
となると多くの人は、バットを振るとか、ゴルフの練習とか、
そういった運動をしなくなったから、決まった姿勢を取り続ける悪影響が出るんだ、
というような解釈をするようです。
身体ケアの専門家や医者の言うことがテレビなどで情報として入手できますから
運動不足が身体症状の原因だと考えるのも無理はないでしょう。
ただ僕は、それも改善要因の1つなんだろうと思います。
体を動かさないのが原因とは言い切れないだろう、と。
実際、体を動かす習慣をやめてからも肩コリや腰痛のない時期もありました。
その頃に何をしていたか?
それが瞑想だったわけです。
寝る前の瞑想。昼休みにはバンドラーの催眠CDを聞きながらボンヤリ。
そういうことをしていました。
それすらもしなくなって、でも催眠を勉強しに行っていた時期は大丈夫だったんです。
週に1度の深いトランス体験が効果的だったように感じます。
運動もトランスも、決して原因と直接的に結び付かないでしょうが、
無意識的な意味合いで見ると、改善のために効果がある方法だったと想像できます。
肩コリや腰痛といったものの肯定的意図を代替する行為として
バットを振る、ゴルフの練習をする、瞑想をする、催眠を受ける、
などがあったんだろうということです。
こうした発想もパートの考え方に通じます。
趣味や習慣というのは無意識的には非常に大きな意味を持っているケースが良くあります。
ある時期までやっていた趣味や習慣をやめたあたりから
何か望ましくないことが起き始めたり。
ある習慣をやめたら、別の習慣ができていたり。
特定のパートの役割は、行動内容を変えても続くことがあるわけです。
趣味や習慣に関して振り返ってみると、何かの気付きがあるかもしれません。
そういう風に言われると、最近は少し困ってしまいます。
あまり特定の趣味がないようです。
本を読むのは好きですが、勉強でもあり、仕事の一部でもあるような気もしますから
読書が趣味というのはチョット違うように思います。
運動も最近は離れてしまいましたし、毎日続けている習慣もありません。
会社にいたころは色々と習慣があったんですが。
会社で山口県にいたころは、土日にゴルフの練習に行くのと
本屋に行くのが決まった行動パターンでした。
釣り、ゴルフ、パチンコのどれかが主要なレジャーと言われていましたが
僕はゴルフをしていたんです。
といっても僕の決まった行動はゴルフの練習であって、
ゴルフ場に行く機会は決して多くなかったんです。
土日とはいえ休日出勤はザラでしたから、時間を作って練習していたわけです。
学生のころは、なぜか毎晩、バットを振り続けていました。
野球のマスコットバットを振っていたんです。
当時は軽い運動のつもりだったように思います。
そんなこともあって、会社で東京へ転勤になったころは
しばらくの間、バッティングセンターが休日の気分転換になっていました。
その後、色々とセミナーに行くようになってからは土日が忙しくなってしまって
バットを振ることも、ゴルフクラブを振ることも減ってしまったんです。
その代わり、セミナーが楽しくて、色々なことを勉強していました。
その頃はセミナーにせよ、本を読むにせよ、会社以外の勉強が趣味だったようです。
で、そんな風に勉強するうちに、勧められた瞑想をするようになってきました。
会社を辞めるまでは勉強と瞑想とセミナーが習慣になっていたわけです。
そして最近は、バットもゴルフクラブも振ることなく、
セミナーも受けるよりも伝える側になり、勉強は楽しいものの仕事に結びつき、
瞑想する時間もとらなくなってきたんです。
そうした流れとの関係は不明瞭ですが、
趣味らしい趣味も、ブログ以外の習慣も持たない最近の僕は
肩コリや腰痛といった身体症状を体験することが増えました。
子供のころから片頭痛持ちでしたが、肩コリや腰痛が悪化したのは最近です。
様々な要因が絡んでいるのは感じられるようですが、
悪化要因の増加だけでなく、改善要因が減ったことも影響している気がするんです。
学生時代も会社員時代も、研究をやっていましたから
作業の大半は立ち仕事で、机に向って同じ姿勢を取り続けることも多かったわけです。
一般的に言えば肩コリや腰痛の原因になりそうなことばかり。
でも、当時は症状を感じなかったんです。
となると多くの人は、バットを振るとか、ゴルフの練習とか、
そういった運動をしなくなったから、決まった姿勢を取り続ける悪影響が出るんだ、
というような解釈をするようです。
身体ケアの専門家や医者の言うことがテレビなどで情報として入手できますから
運動不足が身体症状の原因だと考えるのも無理はないでしょう。
ただ僕は、それも改善要因の1つなんだろうと思います。
体を動かさないのが原因とは言い切れないだろう、と。
実際、体を動かす習慣をやめてからも肩コリや腰痛のない時期もありました。
その頃に何をしていたか?
それが瞑想だったわけです。
寝る前の瞑想。昼休みにはバンドラーの催眠CDを聞きながらボンヤリ。
そういうことをしていました。
それすらもしなくなって、でも催眠を勉強しに行っていた時期は大丈夫だったんです。
週に1度の深いトランス体験が効果的だったように感じます。
運動もトランスも、決して原因と直接的に結び付かないでしょうが、
無意識的な意味合いで見ると、改善のために効果がある方法だったと想像できます。
肩コリや腰痛といったものの肯定的意図を代替する行為として
バットを振る、ゴルフの練習をする、瞑想をする、催眠を受ける、
などがあったんだろうということです。
こうした発想もパートの考え方に通じます。
趣味や習慣というのは無意識的には非常に大きな意味を持っているケースが良くあります。
ある時期までやっていた趣味や習慣をやめたあたりから
何か望ましくないことが起き始めたり。
ある習慣をやめたら、別の習慣ができていたり。
特定のパートの役割は、行動内容を変えても続くことがあるわけです。
趣味や習慣に関して振り返ってみると、何かの気付きがあるかもしれません。
2008年08月27日
整理するタイミング
相談を受けながらメモをとるケースというのがあります。
警察の調書、病院のカルテ、その他にも必要な情報を取るために
紙面を見ながら話を聞くケースというのは世の中に多く見受けられます。
僕は余程のことがない限りメモは取りませんが、
メモを取る人の中にはメモ書きの形式で理解を深める人もいます。
一般的に、人が自分の内面的なことを話し始めるとき、
その内容はあまり整理されていないので情報の関連性に脈絡がハッキリしずらいものです。
話の脈絡がハッキリしていて、滔々と話す内容が論理的になっていれば
それは話し手の中で情報が相当に整理されている状態です。
整理しきれていないから困っているというのが大半なわけですから
整理された情報を期待するのは無理というものでしょう。
だから話の順番通りに記録するのではなく、
情報の関連性を図に示しながらメモをとる。
そうすることで理解を深めようという人もいるようです。
それは非常に効果的なやり方でしょう。
状況を整理するための1つの方法と言えます。
誰もが無意識的には情報の関連性を掴みながら整理するわけですが
その頭の中の整理の方法が映像的に見える人がいるんです。
そうした人は、その整理の仕方を書いてしまったほうが上手くいくということです。
しかしながら、メモをとるというのはリスクが大きいものです。
相手からすると、メモを取っている瞬間、視線が外されますし、
何をメモしているのか不安になることもあるでしょう。
しっかり聞いてくれているという風にとる人もいますが、
嫌な気持ちになる人もいるはずです。
そのリスクを避けるために、効果的な方法があります。
それは相手にも見せるということです。
2人で共同作業として整理するように、話し手と聞き手の双方が
1つの紙面やメモ書きを見ながら進めていけば安全です。
2人の意識が共通したところへ向きますから、一体感も得られるでしょう。
話し手も、書かれたものを目にすることで新たな気づきが得られることもあります。
とはいえ、メモを取っている間に相手の反応を見られなくなる、
という非常に重要な要素が抜け落ちるデメリットは避けられません。
言葉以外のメッセージを大切にするのであれば、
紙よりも相手を見たほうが良いと思うわけです。
困っていることは紙の上ではなく、相手の中にあるわけですから。
ところで、問題や課題について自分なりに整理をしてから相談する人もいます。
その場合には、十分に状況が明確になった上で自分で対処できないことを相談する、
という行動を取っていることになります。
そのように整理された相談内容に対しては、関係性を明確にした上で対処が変わります。
問題を十分に整理できるだけの力があって、自分の力を問題解決のために使える人と
相互に信頼関係が成立していて、その人が自分の選択に対して責任をとれる、
そういう前提では、本人が整理した内容に対して
取り組むべき内容を決めていくことになります。
もしかすると本人の整理の仕方に偏りがあって、本当の問題解決のためには
その取り組み内容では適切でない可能性も残ります。
しかし、本人が自分で整理した内容に取り組む選択をしたことに責任が取れるのであれば、
結果として納得のいくものが得られなかったとしても
自分の整理の仕方に新たな課題を見つけることで納得できるはずです。
ただし、自分で問題を整理してから話す場合、必ずそこに思い込みや判断が含まれます。
弁護士などが対立する双方の意見を聞いたら、内容に食い違いがあるのはザラでしょう。
必ず思い込みが含まれるということは、自分なりに整理してから問題を話す時に
決して解決できない形で整理されることもあるわけです。
それは逆に言えば、本人が解決を心から望んでいない可能性を示していると考えられます。
「どうだ?私の悩みは、こんなにも大変なんだ。お前に解決できるか?」
極端な言い方をすれば、そういう意図もあるかもしれません。
何を尋ねても、上手くいかないことを証明するような言葉が返ってくるでしょう。
必死で勉強した質問法を駆使しても、例外を探そうとしても、
困ってしまうような答えしか返ってこないわけです。
それもそうでしょう。
その時点では解決を望んでいないのですから。
整理した時に決めつけた考えや思い込みを解くことが必要です。
そのためには、整理される前の情報を聞き出すことが大切だと言えます。
ただ、それよりも優先されるのは信頼関係を築くことだろうと思われます。
本当の意味で解決を望んでいない可能性を含んでいるのであれば、
そこで重要視されるべきは、ねぎらいです。
「お話を伺っていると、もう手も足も出ないような状況に聞こえます。
それは苦しいですよね。
そんな苦しい状況でも逃げ出さずに頑張っている、
そこで大切にしているものは、本当に大切なことなんでしょうね」
例えば、そういった言葉が求められているのかもしれません。
情報を整理すれば、必ずそこに意味が生まれます。
整理する情報は、整理する時点からすると過去の出来事と未来への推測です。
未来への推測には、推測に至る根拠があって、その根拠すらも思い込みです。
具体的な情報そのものは膨大にあるわけです。
それは時間的な順序こそあれ、相互の関連性は不明瞭なものです。
「〜があったから…になった」
そういう因果関係は、個人の判断結果以外の何物でもありません。
もしかすると他にも要因があったかもしれないのに、そう判断してしまうわけです。
その意味では、あらゆる因果関係は仮説に過ぎないんです。
その仮説も他の情報が加わることで大いに変わってくるはずです。
だからこそメモを取りながら話を聞くのは危険だという部分もあるんです。
メモを取るという行為は、相手の話や状況を整理することです。
逐語録を取るのとは違います。
自分が重要だと思ったことを記録するわけですから、
メモをとった時点で情報は既に整理され始めているわけです。
そして、相手の話をメモに取ったら相手が話している順序に沿って
整理の仕方が決まってきます。
前に聞いた情報に上乗せされて行きながら整理するわけですから。
整理されていない話の順序に沿って記録をとるよりは
整理しながら話を聞くことには意味があります。
しかし、そうした情報の整理は話し手本人がすべきことです。
とはいえ、整理しきれていないから困っている場合もあるわけなので
話を聞きながら2人で整理していく姿勢が重要だと考えられます。
聞き手が常に整理しながら話を進めてしまうと、
話し手はその整理された流れに引き込まれる可能性があるわけです。
話した内容を絶えずメモに取りながら話を聞いていくことを想定すると、
場合によっては同じ話を違う順序で話してもらった時、
展開が大きく変わってしまう可能性すら考えられるんです。
相手の話を整理するのは、ある程度の情報が集まってからのほうが無難です。
聞き手は判断をいれずに情報を集め、その情報を並列的に取り入れ、
全ての情報を使って理解する。
そんなプロセスができれば理想的なのかもしれません。
なかなか出来ることではありませんが。
その意味で現実的に大切なのは、自分が理解している情報に対しても、
客観的に眺めて自分の判断が入ったものを区別できるようになる視点と、
いつでも情報の関連性を崩せる柔軟なモノの見方なのでしょう。
そういうトレーニングもやってみたいですね。
警察の調書、病院のカルテ、その他にも必要な情報を取るために
紙面を見ながら話を聞くケースというのは世の中に多く見受けられます。
僕は余程のことがない限りメモは取りませんが、
メモを取る人の中にはメモ書きの形式で理解を深める人もいます。
一般的に、人が自分の内面的なことを話し始めるとき、
その内容はあまり整理されていないので情報の関連性に脈絡がハッキリしずらいものです。
話の脈絡がハッキリしていて、滔々と話す内容が論理的になっていれば
それは話し手の中で情報が相当に整理されている状態です。
整理しきれていないから困っているというのが大半なわけですから
整理された情報を期待するのは無理というものでしょう。
だから話の順番通りに記録するのではなく、
情報の関連性を図に示しながらメモをとる。
そうすることで理解を深めようという人もいるようです。
それは非常に効果的なやり方でしょう。
状況を整理するための1つの方法と言えます。
誰もが無意識的には情報の関連性を掴みながら整理するわけですが
その頭の中の整理の方法が映像的に見える人がいるんです。
そうした人は、その整理の仕方を書いてしまったほうが上手くいくということです。
しかしながら、メモをとるというのはリスクが大きいものです。
相手からすると、メモを取っている瞬間、視線が外されますし、
何をメモしているのか不安になることもあるでしょう。
しっかり聞いてくれているという風にとる人もいますが、
嫌な気持ちになる人もいるはずです。
そのリスクを避けるために、効果的な方法があります。
それは相手にも見せるということです。
2人で共同作業として整理するように、話し手と聞き手の双方が
1つの紙面やメモ書きを見ながら進めていけば安全です。
2人の意識が共通したところへ向きますから、一体感も得られるでしょう。
話し手も、書かれたものを目にすることで新たな気づきが得られることもあります。
とはいえ、メモを取っている間に相手の反応を見られなくなる、
という非常に重要な要素が抜け落ちるデメリットは避けられません。
言葉以外のメッセージを大切にするのであれば、
紙よりも相手を見たほうが良いと思うわけです。
困っていることは紙の上ではなく、相手の中にあるわけですから。
ところで、問題や課題について自分なりに整理をしてから相談する人もいます。
その場合には、十分に状況が明確になった上で自分で対処できないことを相談する、
という行動を取っていることになります。
そのように整理された相談内容に対しては、関係性を明確にした上で対処が変わります。
問題を十分に整理できるだけの力があって、自分の力を問題解決のために使える人と
相互に信頼関係が成立していて、その人が自分の選択に対して責任をとれる、
そういう前提では、本人が整理した内容に対して
取り組むべき内容を決めていくことになります。
もしかすると本人の整理の仕方に偏りがあって、本当の問題解決のためには
その取り組み内容では適切でない可能性も残ります。
しかし、本人が自分で整理した内容に取り組む選択をしたことに責任が取れるのであれば、
結果として納得のいくものが得られなかったとしても
自分の整理の仕方に新たな課題を見つけることで納得できるはずです。
ただし、自分で問題を整理してから話す場合、必ずそこに思い込みや判断が含まれます。
弁護士などが対立する双方の意見を聞いたら、内容に食い違いがあるのはザラでしょう。
必ず思い込みが含まれるということは、自分なりに整理してから問題を話す時に
決して解決できない形で整理されることもあるわけです。
それは逆に言えば、本人が解決を心から望んでいない可能性を示していると考えられます。
「どうだ?私の悩みは、こんなにも大変なんだ。お前に解決できるか?」
極端な言い方をすれば、そういう意図もあるかもしれません。
何を尋ねても、上手くいかないことを証明するような言葉が返ってくるでしょう。
必死で勉強した質問法を駆使しても、例外を探そうとしても、
困ってしまうような答えしか返ってこないわけです。
それもそうでしょう。
その時点では解決を望んでいないのですから。
整理した時に決めつけた考えや思い込みを解くことが必要です。
そのためには、整理される前の情報を聞き出すことが大切だと言えます。
ただ、それよりも優先されるのは信頼関係を築くことだろうと思われます。
本当の意味で解決を望んでいない可能性を含んでいるのであれば、
そこで重要視されるべきは、ねぎらいです。
「お話を伺っていると、もう手も足も出ないような状況に聞こえます。
それは苦しいですよね。
そんな苦しい状況でも逃げ出さずに頑張っている、
そこで大切にしているものは、本当に大切なことなんでしょうね」
例えば、そういった言葉が求められているのかもしれません。
情報を整理すれば、必ずそこに意味が生まれます。
整理する情報は、整理する時点からすると過去の出来事と未来への推測です。
未来への推測には、推測に至る根拠があって、その根拠すらも思い込みです。
具体的な情報そのものは膨大にあるわけです。
それは時間的な順序こそあれ、相互の関連性は不明瞭なものです。
「〜があったから…になった」
そういう因果関係は、個人の判断結果以外の何物でもありません。
もしかすると他にも要因があったかもしれないのに、そう判断してしまうわけです。
その意味では、あらゆる因果関係は仮説に過ぎないんです。
その仮説も他の情報が加わることで大いに変わってくるはずです。
だからこそメモを取りながら話を聞くのは危険だという部分もあるんです。
メモを取るという行為は、相手の話や状況を整理することです。
逐語録を取るのとは違います。
自分が重要だと思ったことを記録するわけですから、
メモをとった時点で情報は既に整理され始めているわけです。
そして、相手の話をメモに取ったら相手が話している順序に沿って
整理の仕方が決まってきます。
前に聞いた情報に上乗せされて行きながら整理するわけですから。
整理されていない話の順序に沿って記録をとるよりは
整理しながら話を聞くことには意味があります。
しかし、そうした情報の整理は話し手本人がすべきことです。
とはいえ、整理しきれていないから困っている場合もあるわけなので
話を聞きながら2人で整理していく姿勢が重要だと考えられます。
聞き手が常に整理しながら話を進めてしまうと、
話し手はその整理された流れに引き込まれる可能性があるわけです。
話した内容を絶えずメモに取りながら話を聞いていくことを想定すると、
場合によっては同じ話を違う順序で話してもらった時、
展開が大きく変わってしまう可能性すら考えられるんです。
相手の話を整理するのは、ある程度の情報が集まってからのほうが無難です。
聞き手は判断をいれずに情報を集め、その情報を並列的に取り入れ、
全ての情報を使って理解する。
そんなプロセスができれば理想的なのかもしれません。
なかなか出来ることではありませんが。
その意味で現実的に大切なのは、自分が理解している情報に対しても、
客観的に眺めて自分の判断が入ったものを区別できるようになる視点と、
いつでも情報の関連性を崩せる柔軟なモノの見方なのでしょう。
そういうトレーニングもやってみたいですね。
2008年08月24日
9月の勉強会
9月の勉強会のお知らせ
8月の勉強会は、これまでの復習ということで総括的な内容になりました。
大まかな内容を流していくというよりは、これまでにお伝えしてきた内容を
相互の関係性の中で整理していくような部分も含めたつもりです。
その中で、いわゆる「無意識」というものに関してフォーカスされる時間がありました。
世間一般に広まっている心理学的な解釈での無意識は、
氷山の絵を描いて、水面より上に出ている部分を「意識」、
水面下の部分を「無意識」と言うんですよ、というような説明をするわけです。
それはあくまでも説明のためのモデルであって、
「そうやったイメージすると、なんとなく分かる気がしませんか」
という程度のものだと考えられます。
それに対して、心を説明するモデルは他にも様々な形で表現されます。
しかしながら、その中のどれが正しいということもないわけです。
どれも仮説にすぎないのですから。
で、僕が以前の勉強会で「サブパーソナリティ」の概念を扱った時、
(インクルーシブ・コミュニケーションの回ですが)
1つの説明のモデルを提案したんです。
意識と無意識を氷山のモデルとは別の角度から説明するものです。
確かに氷山のモデルは、長年広く使われてきただけあって
なんとなく、意識と無意識を理解できるような印象があります。
その内容を詳しく見てみると、大枠で言えば
「自分の心の中には、自分で気づいていない部分が沢山ある」
ということだろうと思います。
さらに、そこから転じて
「自分の心の大部分を占める無意識が、自分を勝手に動かしている」
というニュアンスも含まれるように思います。
この「自分の意識が及ばない範囲で、勝手に自分が動いている」というような考えは
誰もが実感するところだろうと思いますが、
その部分に関しても違った見方がなされる実情があります。
ここが今回の1つのテーマとして重要な関わりをしてきます。
例えば、
「人間には無意識とか潜在意識とか呼ばれるものがあって、
それが人間の90%以上を占めている。
だから、潜在意識のメッセージと反することをしようとしても
意識では太刀打ちできない。」
というような話を目にしたことはないでしょうか?
セミナーや書籍でも、このような説から、
無意識や潜在意識と上手く付き合う方法を教えていたりします。
「催眠は、この潜在意識の部分に対して直接的にメッセージを伝えられるから
自然と望ましい方向に変化することができる」
とかいうような話もあるようです。
そういった話に共通する考え方には
「無意識(潜在意識)は自分の意識よりも遥かに大きな力を持っている。
だから、その力を味方にする方法をやればいい。」
という主張があるように感じます。
細かい部分で違いがあるにせよ、ある種の成功法則は
こういった意味合いを含んでいるように思うわけです。
無意識(潜在意識)は意識では扱いきれないものという前提があり、
思い通りの人生を送るには無意識(潜在意識)が
自分の意識の思い通りに活動してくれるようにコントロールしよう、
という発想のもとで説明がなされるものが良くあるんです。
そもそも、思い通りの人生というのが、本当に「自分の」思い通りなのか?
世間一般で「良い」とされている価値観に流されていないか?
この点を考えることは重要だと思いますが。
僕からすると、どことなく無意識を1つの「物」のように扱い、
それを自分勝手にコントロールしてやれ、という雰囲気を感じてしまいます。
一方、催眠療法の大家であったミルトン・エリクソンのスタンスは違います。
彼は無意識を徹底的に信頼していたと言われます。
むしろ、意識なんてどうでもいい、というほどに。
無意識という大いなる存在と誠実に関わり、
無意識の意思を大切に扱っていたわけです。
尊重していたわけです。
無意識という存在を、一人の大切な人間のように関わり、
その存在が必ず自分自身を守り、役に立っていると考えたということです。
無意識(潜在意識)をコントロールしようなどという雰囲気は一切感じません。
無意識に協力してもらえるように相談し、伺いを立てるような印象でしょうか。
なお、NLPはエリクソンの考えに大きな影響を受けていますから
無意識という存在をとても大切なものとして尊重するスタンスを取ります。
そして無意識を部分化し、自分の中の一部分として擬人化した関わり方をします。
そうすることで無意識が具体的にどのように役に立っているかを理解しやすいんです。
こうした無意識の扱い方を「パート」と呼びます。
自分の中の一部分を「パート」と呼ぶわけです。
それは臨床心理の中で生まれてきたサイコシンセシスというものにおいては
「サブパーソナリティ」という言い方で表現されるものと似ているようです。
ただ、概念的にも実用的にも、「パート」と「サブパーソナリティ」では
違う部分もあるような印象を受けますので整理することが役立つはずです。
以上のようなことを踏まえ、9月の勉強会では、
無意識がもたらす振る舞いに対して、「パート」という概念をもとに関わり
コミュニケーションに活用していくことを予定しています。
他人との関わりにおいて、相手の中から無意識のパートを感じ取り、
相手のそのパートに対して、相手がする以上に大切に関わりながら
かつ上手にコミュニケーションが取れれば、
意識で考える以上の深い関係性を築くことも可能になるでしょう。
そのためには自分自身のパートとのコミュニケーションを実感し、
パートという概念を理解しておくことが何よりも重要になります。
それは形式的な取り組みでは実感しずらいものですので、
日々の生活の中で体験しているような種類のコミュニケーションに近づけ、
体験的に納得しておく必要があるわけです。
そうすることで、あたかも自分が他人とコミュニケーションを取っているかのように
無意識のパートという抽象的なものと関われるようになります。
そして、もう一つの重要なポイントがあります。
それは、こうした無意識のパートとのコミュニケーションを数多く体験することで
多くの人が共通して無意識的に求めているものを実感できるようになるということです。
つまり、他人との関わりにおいて、相手のパートを感じ取ることができ、
同時に相手のパートが求めているものも予測できるようになってくるわけです。
相手が意識の上で困っていることであっても、
無意識のレベルでは、パートという形で必要なものをもたらしてくれている。
そういう風に実感を伴って考えられた時、相手と関わる自分自身の中で
相手の困っていることが常にリフレーミングできるようになります。
このことは関わる側の自分として、非常に役立つポイントです。
相手を全面的に受け止められるようになるからです。
困っている気持ちには寄り添いながら、
一緒に困ってしまうことがなくなります。
自分を保てるようになるわけです。
何よりも大切なのは、相手が「困っている」「問題だ」と判断している事柄に対して
それをニュートラルな立場で受け取れるようになる点です。
相手が「問題だ」と思っていることに対して、
関わる側も「問題だ」「解決しよう」という観点で見ていたら、
相手の持っている「問題だ」という判断を強化することになります。
問題として受け止めた状態から発せられる言葉が、
自然と、相手の問題認識を強固なものにしてしまうのです。
より困難な状況にしてしまうわけです。
こうしたことを考えると、パートの概念を実感を伴って理解しておくことは
日常生活において自分の心を安定させておくことにも有効だと言えますし、
相手との関わり方も受容的・許容的ななものにしてくれると言えるはずです。
そして「分かっちゃいるんだけど出来ない」という事態に対して
一般論的で理想論的な、ありきたりのアドバイスが役立たないことも理解させてくれます。
にも関わらず、僕自身の印象として言わせてもらえば、
NLPはパートの概念を伝える数少ない手法であるにも関わらず
一般的な内容として大いに不足しているところを感じるんです。
NLPの特長は高度に抽象化した手法によって、
誰がどのような問題に対して扱っても効果が発揮されるように工夫されている点です。
パートに関しても、パートそのものを理解するのに適したやり方ではなく、
パートを利用した手法を最大限に一般化したものになっているわけです。
一般化されていて、抽象的なので、コミュニケーションとしての実感が得られにくいんです。
技術的な方法論ではなく、パートとのコミュニケーションを実感する。
そして他人とコミュニケーションをとる時と同じように、
自然にパートとコミュニケーションできるようになる。
これが今回の勉強会における主要な目的の1つだろうと考えます。
以上、長くなりましたが、今回の勉強会は「無意識のパート」を中心に扱います。
なるべく実感を伴っていただきたいと考えていますので、
体験的な取り組みを重要視する予定です。
時間は普段と異なる形で、午後と夜間の2回に分けました。
どちらも体験的な取り組みを中心にしますが、
取り組みのバリエーションには違いを出します。
場所を途中で変更しますが、それも広く場所を使いたいものがあるからです。
いずれか一方のご参加も可能です。
祝日の開催ですが、ご都合に応じてお越しください。
詳細は以下のとおりです。
※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
【日時】 9月23日(火・祝)
午後の部 13:30〜16:30
夜間の部 18:30〜21:30
【場所】 北とぴあ
午後の部 804会議室
夜間の部 802会議室
(JR京浜東北線・王子駅北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)
※午後と夜間で会場が変わります。
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
午後・夜間両方ご参加の場合に割引きとなります。(ほんのチョットですけど)
◆午後の部 ・・・4,000円
◆夜間の部 ・・・4,000円
《午後・夜間両方へご参加の方》 ・・・ 7,000円
テーマ: 『パートとのコミュニケーション』
(午後・夜間ともに)
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
無意識という言葉は多くの方に浸透し、受け入れられているようです。
ですが、その無意識に対する印象は決して肯定的なものとは言えない印象をうけます。
知らず知らず、気づかないうちに、ついつい、…。
それは不思議なことかもしれません。
意識したつもりはないのに、自然としている。
そのことは人間の持つ素晴らしい能力です。
そう実感できると、単純に、「楽」になれます。
気持ちが楽になれるんです。
頑張っている人ほど、ストレスも抱えやすいものです。
自分の心の声を聞くことが、ストレスケアの重要な要素です。
パートを通じて心の声を聞く。
そういう時間を持つことも大切なことではないかと思いますが、いかがでしょうか?
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています。
8月の勉強会は、これまでの復習ということで総括的な内容になりました。
大まかな内容を流していくというよりは、これまでにお伝えしてきた内容を
相互の関係性の中で整理していくような部分も含めたつもりです。
その中で、いわゆる「無意識」というものに関してフォーカスされる時間がありました。
世間一般に広まっている心理学的な解釈での無意識は、
氷山の絵を描いて、水面より上に出ている部分を「意識」、
水面下の部分を「無意識」と言うんですよ、というような説明をするわけです。
それはあくまでも説明のためのモデルであって、
「そうやったイメージすると、なんとなく分かる気がしませんか」
という程度のものだと考えられます。
それに対して、心を説明するモデルは他にも様々な形で表現されます。
しかしながら、その中のどれが正しいということもないわけです。
どれも仮説にすぎないのですから。
で、僕が以前の勉強会で「サブパーソナリティ」の概念を扱った時、
(インクルーシブ・コミュニケーションの回ですが)
1つの説明のモデルを提案したんです。
意識と無意識を氷山のモデルとは別の角度から説明するものです。
確かに氷山のモデルは、長年広く使われてきただけあって
なんとなく、意識と無意識を理解できるような印象があります。
その内容を詳しく見てみると、大枠で言えば
「自分の心の中には、自分で気づいていない部分が沢山ある」
ということだろうと思います。
さらに、そこから転じて
「自分の心の大部分を占める無意識が、自分を勝手に動かしている」
というニュアンスも含まれるように思います。
この「自分の意識が及ばない範囲で、勝手に自分が動いている」というような考えは
誰もが実感するところだろうと思いますが、
その部分に関しても違った見方がなされる実情があります。
ここが今回の1つのテーマとして重要な関わりをしてきます。
例えば、
「人間には無意識とか潜在意識とか呼ばれるものがあって、
それが人間の90%以上を占めている。
だから、潜在意識のメッセージと反することをしようとしても
意識では太刀打ちできない。」
というような話を目にしたことはないでしょうか?
セミナーや書籍でも、このような説から、
無意識や潜在意識と上手く付き合う方法を教えていたりします。
「催眠は、この潜在意識の部分に対して直接的にメッセージを伝えられるから
自然と望ましい方向に変化することができる」
とかいうような話もあるようです。
そういった話に共通する考え方には
「無意識(潜在意識)は自分の意識よりも遥かに大きな力を持っている。
だから、その力を味方にする方法をやればいい。」
という主張があるように感じます。
細かい部分で違いがあるにせよ、ある種の成功法則は
こういった意味合いを含んでいるように思うわけです。
無意識(潜在意識)は意識では扱いきれないものという前提があり、
思い通りの人生を送るには無意識(潜在意識)が
自分の意識の思い通りに活動してくれるようにコントロールしよう、
という発想のもとで説明がなされるものが良くあるんです。
そもそも、思い通りの人生というのが、本当に「自分の」思い通りなのか?
世間一般で「良い」とされている価値観に流されていないか?
この点を考えることは重要だと思いますが。
僕からすると、どことなく無意識を1つの「物」のように扱い、
それを自分勝手にコントロールしてやれ、という雰囲気を感じてしまいます。
一方、催眠療法の大家であったミルトン・エリクソンのスタンスは違います。
彼は無意識を徹底的に信頼していたと言われます。
むしろ、意識なんてどうでもいい、というほどに。
無意識という大いなる存在と誠実に関わり、
無意識の意思を大切に扱っていたわけです。
尊重していたわけです。
無意識という存在を、一人の大切な人間のように関わり、
その存在が必ず自分自身を守り、役に立っていると考えたということです。
無意識(潜在意識)をコントロールしようなどという雰囲気は一切感じません。
無意識に協力してもらえるように相談し、伺いを立てるような印象でしょうか。
なお、NLPはエリクソンの考えに大きな影響を受けていますから
無意識という存在をとても大切なものとして尊重するスタンスを取ります。
そして無意識を部分化し、自分の中の一部分として擬人化した関わり方をします。
そうすることで無意識が具体的にどのように役に立っているかを理解しやすいんです。
こうした無意識の扱い方を「パート」と呼びます。
自分の中の一部分を「パート」と呼ぶわけです。
それは臨床心理の中で生まれてきたサイコシンセシスというものにおいては
「サブパーソナリティ」という言い方で表現されるものと似ているようです。
ただ、概念的にも実用的にも、「パート」と「サブパーソナリティ」では
違う部分もあるような印象を受けますので整理することが役立つはずです。
以上のようなことを踏まえ、9月の勉強会では、
無意識がもたらす振る舞いに対して、「パート」という概念をもとに関わり
コミュニケーションに活用していくことを予定しています。
他人との関わりにおいて、相手の中から無意識のパートを感じ取り、
相手のそのパートに対して、相手がする以上に大切に関わりながら
かつ上手にコミュニケーションが取れれば、
意識で考える以上の深い関係性を築くことも可能になるでしょう。
そのためには自分自身のパートとのコミュニケーションを実感し、
パートという概念を理解しておくことが何よりも重要になります。
それは形式的な取り組みでは実感しずらいものですので、
日々の生活の中で体験しているような種類のコミュニケーションに近づけ、
体験的に納得しておく必要があるわけです。
そうすることで、あたかも自分が他人とコミュニケーションを取っているかのように
無意識のパートという抽象的なものと関われるようになります。
そして、もう一つの重要なポイントがあります。
それは、こうした無意識のパートとのコミュニケーションを数多く体験することで
多くの人が共通して無意識的に求めているものを実感できるようになるということです。
つまり、他人との関わりにおいて、相手のパートを感じ取ることができ、
同時に相手のパートが求めているものも予測できるようになってくるわけです。
相手が意識の上で困っていることであっても、
無意識のレベルでは、パートという形で必要なものをもたらしてくれている。
そういう風に実感を伴って考えられた時、相手と関わる自分自身の中で
相手の困っていることが常にリフレーミングできるようになります。
このことは関わる側の自分として、非常に役立つポイントです。
相手を全面的に受け止められるようになるからです。
困っている気持ちには寄り添いながら、
一緒に困ってしまうことがなくなります。
自分を保てるようになるわけです。
何よりも大切なのは、相手が「困っている」「問題だ」と判断している事柄に対して
それをニュートラルな立場で受け取れるようになる点です。
相手が「問題だ」と思っていることに対して、
関わる側も「問題だ」「解決しよう」という観点で見ていたら、
相手の持っている「問題だ」という判断を強化することになります。
問題として受け止めた状態から発せられる言葉が、
自然と、相手の問題認識を強固なものにしてしまうのです。
より困難な状況にしてしまうわけです。
こうしたことを考えると、パートの概念を実感を伴って理解しておくことは
日常生活において自分の心を安定させておくことにも有効だと言えますし、
相手との関わり方も受容的・許容的ななものにしてくれると言えるはずです。
そして「分かっちゃいるんだけど出来ない」という事態に対して
一般論的で理想論的な、ありきたりのアドバイスが役立たないことも理解させてくれます。
にも関わらず、僕自身の印象として言わせてもらえば、
NLPはパートの概念を伝える数少ない手法であるにも関わらず
一般的な内容として大いに不足しているところを感じるんです。
NLPの特長は高度に抽象化した手法によって、
誰がどのような問題に対して扱っても効果が発揮されるように工夫されている点です。
パートに関しても、パートそのものを理解するのに適したやり方ではなく、
パートを利用した手法を最大限に一般化したものになっているわけです。
一般化されていて、抽象的なので、コミュニケーションとしての実感が得られにくいんです。
技術的な方法論ではなく、パートとのコミュニケーションを実感する。
そして他人とコミュニケーションをとる時と同じように、
自然にパートとコミュニケーションできるようになる。
これが今回の勉強会における主要な目的の1つだろうと考えます。
以上、長くなりましたが、今回の勉強会は「無意識のパート」を中心に扱います。
なるべく実感を伴っていただきたいと考えていますので、
体験的な取り組みを重要視する予定です。
時間は普段と異なる形で、午後と夜間の2回に分けました。
どちらも体験的な取り組みを中心にしますが、
取り組みのバリエーションには違いを出します。
場所を途中で変更しますが、それも広く場所を使いたいものがあるからです。
いずれか一方のご参加も可能です。
祝日の開催ですが、ご都合に応じてお越しください。
詳細は以下のとおりです。
※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
【日時】 9月23日(火・祝)
午後の部 13:30〜16:30
夜間の部 18:30〜21:30
【場所】 北とぴあ
午後の部 804会議室
夜間の部 802会議室
(JR京浜東北線・王子駅北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)
※午後と夜間で会場が変わります。
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
午後・夜間両方ご参加の場合に割引きとなります。(ほんのチョットですけど)
◆午後の部 ・・・4,000円
◆夜間の部 ・・・4,000円
《午後・夜間両方へご参加の方》 ・・・ 7,000円
テーマ: 『パートとのコミュニケーション』
(午後・夜間ともに)
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
無意識という言葉は多くの方に浸透し、受け入れられているようです。
ですが、その無意識に対する印象は決して肯定的なものとは言えない印象をうけます。
知らず知らず、気づかないうちに、ついつい、…。
それは不思議なことかもしれません。
意識したつもりはないのに、自然としている。
そのことは人間の持つ素晴らしい能力です。
そう実感できると、単純に、「楽」になれます。
気持ちが楽になれるんです。
頑張っている人ほど、ストレスも抱えやすいものです。
自分の心の声を聞くことが、ストレスケアの重要な要素です。
パートを通じて心の声を聞く。
そういう時間を持つことも大切なことではないかと思いますが、いかがでしょうか?
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています。
2008年08月22日
オリジナルの学び
本を読むスピードというのは、その本によって違いますね。
僕の場合、1500円程度のビジネス書の大半は、
表現方法だとか、書式だとかに慣れていることに加え
内容にも前提知識があることも多いので楽に読めます。
出版社によって使ってあるフォントや1行当たりの文字数、
行間や改行の仕方などが違いますが、
多くの本が読みやすさを重視してくれている印象も受けます。
自分なりに振り返ってみると、読みなれた縦書きの書式では
パッと見た瞬間におおよそ縦の20文字が黙読の声のように浮かんでくるようです。
で、それを早く読もうとした場合、縦40文字×3行ぐらいを視野にいれ
おおよその内容を先行して掴みながら、20文字ずつ目で追うようになるみたいです。
ところが、それが洋書の訳本であったり、1行当たりの文字数が40文字を超えると
大幅に読むスピードが落ちてくる印象を受けます。
もちろん、理解しようとする内容によるところも大きいですが。
一般的に、専門的な内容の本になるほど読むのに時間がかかりますね。
単純に言えば難しいわけです。
でも、同時にそれは既存の情報ネットワークに組み込まれるのに時間がかかるほど
新しく価値のある情報だという風にも解釈できます。
つまり、読むのに時間がかかるということは、読み流すのではなく
知らない情報を理解しようとする行為をしているためだというわけです。
そうやって自分の持っている情報ネットワークと関連させて理解するというのは、
例えば、抽象的な表現であれば自分の持っている具体的な体験から
当てはまるものを探して関連付けるようなことになりますが、
こうした自分の体験の記憶を含む内的世界との関連付けが大切です。
そうして自分の内的世界と関連付けられた内容は自分の言葉になるんです。
同じ内容を誰かに説明しようとした時、自分の言葉で説明できるわけです。
時間をかけて読み、自分のものとして理解できたものは
説明した時にも自分の内的世界を活用しながら話せるようになります。
本に書いてあったのとは違う角度で説明できたり、違う例で話せたりするということです。
そして、さらに重要なのは、そもそも本に書かれた内容も
同じように筆者の内的世界を言語と結びつけながら生まれたものであるという点です。
本には筆者の世界が反映されている。
我々はその世界を、本を通じてさえ、文脈や微妙な言葉使いから感じ取れるんです。
それが声を通じた会話による説明になれば、感じ取れるものは更に増えるでしょう。
同じ内容を話しているのを聞いても、話す人によって納得感が違うことがあるのは
多分にこういった話し手の内的世界の反映が関係しているように思います。
本人が整理しきれていない話、納得しきれていない話は
聞いているほうも理解しにくいということです。
そういう意味では、オリジナルの話を、オリジナルの人が話しているのを聞くのが
最も効果的だと言えるはずです。
オリジナルの話には、オリジナルの人がその話を生み出すまでに経験してきた全てが
密接に結びつけられていますから、1つの内容に対する関連情報が多いわけです。
その濃密な関連情報を生で感じ取れるのが理想的な学び方でしょうから、
学問や理論の創始者から直接学べる場に行くのは素晴らしいことだと思います。
とはいえ、いつまでもオリジナルの学びが可能なわけでもありません。
伝えられた学びは進んでいくものなのかもしれません。
フロイトの弟子であったアドラーは、フロイトの弟子として有名なのではありません。
アドラー心理学と呼ばれるまでにオリジナルを作り上げたわけです。
「青は藍より出でて藍より青し」ですね。
伝聞だけなら薄くなる。
進めていけば深くなる。
そんな気がするんです。
僕の場合、1500円程度のビジネス書の大半は、
表現方法だとか、書式だとかに慣れていることに加え
内容にも前提知識があることも多いので楽に読めます。
出版社によって使ってあるフォントや1行当たりの文字数、
行間や改行の仕方などが違いますが、
多くの本が読みやすさを重視してくれている印象も受けます。
自分なりに振り返ってみると、読みなれた縦書きの書式では
パッと見た瞬間におおよそ縦の20文字が黙読の声のように浮かんでくるようです。
で、それを早く読もうとした場合、縦40文字×3行ぐらいを視野にいれ
おおよその内容を先行して掴みながら、20文字ずつ目で追うようになるみたいです。
ところが、それが洋書の訳本であったり、1行当たりの文字数が40文字を超えると
大幅に読むスピードが落ちてくる印象を受けます。
もちろん、理解しようとする内容によるところも大きいですが。
一般的に、専門的な内容の本になるほど読むのに時間がかかりますね。
単純に言えば難しいわけです。
でも、同時にそれは既存の情報ネットワークに組み込まれるのに時間がかかるほど
新しく価値のある情報だという風にも解釈できます。
つまり、読むのに時間がかかるということは、読み流すのではなく
知らない情報を理解しようとする行為をしているためだというわけです。
そうやって自分の持っている情報ネットワークと関連させて理解するというのは、
例えば、抽象的な表現であれば自分の持っている具体的な体験から
当てはまるものを探して関連付けるようなことになりますが、
こうした自分の体験の記憶を含む内的世界との関連付けが大切です。
そうして自分の内的世界と関連付けられた内容は自分の言葉になるんです。
同じ内容を誰かに説明しようとした時、自分の言葉で説明できるわけです。
時間をかけて読み、自分のものとして理解できたものは
説明した時にも自分の内的世界を活用しながら話せるようになります。
本に書いてあったのとは違う角度で説明できたり、違う例で話せたりするということです。
そして、さらに重要なのは、そもそも本に書かれた内容も
同じように筆者の内的世界を言語と結びつけながら生まれたものであるという点です。
本には筆者の世界が反映されている。
我々はその世界を、本を通じてさえ、文脈や微妙な言葉使いから感じ取れるんです。
それが声を通じた会話による説明になれば、感じ取れるものは更に増えるでしょう。
同じ内容を話しているのを聞いても、話す人によって納得感が違うことがあるのは
多分にこういった話し手の内的世界の反映が関係しているように思います。
本人が整理しきれていない話、納得しきれていない話は
聞いているほうも理解しにくいということです。
そういう意味では、オリジナルの話を、オリジナルの人が話しているのを聞くのが
最も効果的だと言えるはずです。
オリジナルの話には、オリジナルの人がその話を生み出すまでに経験してきた全てが
密接に結びつけられていますから、1つの内容に対する関連情報が多いわけです。
その濃密な関連情報を生で感じ取れるのが理想的な学び方でしょうから、
学問や理論の創始者から直接学べる場に行くのは素晴らしいことだと思います。
とはいえ、いつまでもオリジナルの学びが可能なわけでもありません。
伝えられた学びは進んでいくものなのかもしれません。
フロイトの弟子であったアドラーは、フロイトの弟子として有名なのではありません。
アドラー心理学と呼ばれるまでにオリジナルを作り上げたわけです。
「青は藍より出でて藍より青し」ですね。
伝聞だけなら薄くなる。
進めていけば深くなる。
そんな気がするんです。
2008年08月20日
今後の勉強会について
定期的に開催している勉強会ですが、ご参加下さる皆さんはとても意欲的で
自ら工夫して学び取ろうとする方々がお揃いなので、
こちらとしては一部の試験的な取り組みまで行うことができて楽しいんです。
とはいえ、時間的な制約や初めて耳にするような概念を扱う場合もあり、
一般的なセミナーから言えば情報量が溢れるほどになっているはずです。
僕が他でセミナーをやるときには受講生の方の理解度と体験的な納得度を
絶えず意識しながら、内容を考えるようにしていますが、
この勉強会は遠慮することなく情報をお伝えしているつもりです。
実を言うと、自分でまとめた資料を見ながら、
「この勉強会と同じ内容を学べるセミナーをもっと早い時期に受けられていたら
1日10万円でも満足して通っていたのに…」
と毎回のように思っていたりするんです。
僕自身、多くのセミナーに出て、50万円以上の価値を実感したものもあれば
20万円と丸2日間の時間をドブに捨てたと感じたこともあります。
10万円ぐらい払ったのに内容に我慢ができず、見ていることさえ心苦しくて
途中で出てきたこともあります。
「高いお金と時間を無駄にした。人生とはそういうものだ。」
それが最大の学びだったりもしたものです。
有名な○○先生に学んだ内容を伝えてくれるんなら
その○○先生に直接学びたいと僕は思ってしまいますし、
伝える側が自分のものにできている内容かどうかは
聞いていれば自然と分かってくるものでしょう。
僕がお伝えすることは、寄せ集めや有名な先生の真似、
本に書いてあることそのままであるようなことは絶対にない自信があります。
心理学の理論や○○の原理などという情報を鵜呑みにした内容でも、
自分の経験だけを基にしたような一般化できない内容でもないはずです。
そもそも心理学に限らず、多くの理論は仮説に過ぎません。
数学や理論物理などは概念的で論理的なので、その記述のルールに基づいて
証明をすることができますから、この理論は極めて整合性が取れているわけです。
しかし多くの自然科学の理論を含め、大半の理論は仮説なのです。
そうやって説明すると全ての理論と現象とに整合性が取れるというのが基準なわけです。
心理学が科学扱いしてもらえない理由の1つに実験の精度がありますが、
人の心が関係するものにおいては実証するのが非常に難しいので
心理学にせよ心理療法にせよ、その理論は1つのモデルに過ぎません。
そのモデルで説明すると上手く扱えますよ、というだけの話です。
つまり理論を学んだり、理論を作ったりして終わるのではなく、
その理論に基づいて人の心と関わると望ましい結果が出せる必要があるということです。
そういう意味では、僕が提案しているのは1つのモデルなんです。
このモデルに沿って人と関わるといいんじゃないですか、というモデルです。
説明のための説明になるようなモデルは提示していないつもりです。
そのモデルは汎用的で、扱う本人の個性やスキルと組み合わせて利用でき、
他のモデルや理論体系との関係の中で最も整合性が取れている形である。
その部分への思いが僕の中で非常に強いんです。
統合的で実用的という特徴だと分析しています。
ところがその特徴は、体験によって実感できた後、
身につけて自然とできるようになるまでに地道なトレーニングを必要とする
という側面も持っているわけです。
定期的なトレーニングを行っていくことが効果的なわけですが、
現状の勉強会ではトレーニングの時間を増やすのも難しそうな印象があります。
この前のように復習の回を設けるのも効果的だったように思いますが、
やはりトレーニング重視というわけにはいかないようです。
そこで、来年ぐらいから勉強会のスタンスを少し変えていくつもりです。
これまでのような新しいテーマに沿った内容を扱う場にくわえ、
実践的なトレーニングを中心とした場を設ける予定です。
また、ご参加いただける人数も増えてきて、
それに伴って定員の都合でお断りする場合もありますので
会員制も導入させていただこうと考えております。
お知り合いの方をご紹介いただいく場合や、初めてお越しになる場合には
年内に一度機会を設けていただくことをお勧めします。
僕の中にある、既存の理論や説明モデルを疑い、吟味するスタンスは
自分自身が納得したいという強い思いを持っているからだろうと思っています。
僕はNLPのトレーナーですが、おそらく
誰よりもNLPを疑っているトレーナーだろうと思います。
その僕がNLPの中で納得している部分は、本当に大切なことだと信じています。
同時に、最近のNLPや、NLPそのものを研究している人たちの内容には
疑問がわき上がる部分があるのも実際のところです。
NLPを含めた変化と学習の統合的な理論を自分なりにまとめたものも
近いうちにお伝えできればと考えています。
タネ明かしのようなことに興味がおありの方はご期待下さい。
自ら工夫して学び取ろうとする方々がお揃いなので、
こちらとしては一部の試験的な取り組みまで行うことができて楽しいんです。
とはいえ、時間的な制約や初めて耳にするような概念を扱う場合もあり、
一般的なセミナーから言えば情報量が溢れるほどになっているはずです。
僕が他でセミナーをやるときには受講生の方の理解度と体験的な納得度を
絶えず意識しながら、内容を考えるようにしていますが、
この勉強会は遠慮することなく情報をお伝えしているつもりです。
実を言うと、自分でまとめた資料を見ながら、
「この勉強会と同じ内容を学べるセミナーをもっと早い時期に受けられていたら
1日10万円でも満足して通っていたのに…」
と毎回のように思っていたりするんです。
僕自身、多くのセミナーに出て、50万円以上の価値を実感したものもあれば
20万円と丸2日間の時間をドブに捨てたと感じたこともあります。
10万円ぐらい払ったのに内容に我慢ができず、見ていることさえ心苦しくて
途中で出てきたこともあります。
「高いお金と時間を無駄にした。人生とはそういうものだ。」
それが最大の学びだったりもしたものです。
有名な○○先生に学んだ内容を伝えてくれるんなら
その○○先生に直接学びたいと僕は思ってしまいますし、
伝える側が自分のものにできている内容かどうかは
聞いていれば自然と分かってくるものでしょう。
僕がお伝えすることは、寄せ集めや有名な先生の真似、
本に書いてあることそのままであるようなことは絶対にない自信があります。
心理学の理論や○○の原理などという情報を鵜呑みにした内容でも、
自分の経験だけを基にしたような一般化できない内容でもないはずです。
そもそも心理学に限らず、多くの理論は仮説に過ぎません。
数学や理論物理などは概念的で論理的なので、その記述のルールに基づいて
証明をすることができますから、この理論は極めて整合性が取れているわけです。
しかし多くの自然科学の理論を含め、大半の理論は仮説なのです。
そうやって説明すると全ての理論と現象とに整合性が取れるというのが基準なわけです。
心理学が科学扱いしてもらえない理由の1つに実験の精度がありますが、
人の心が関係するものにおいては実証するのが非常に難しいので
心理学にせよ心理療法にせよ、その理論は1つのモデルに過ぎません。
そのモデルで説明すると上手く扱えますよ、というだけの話です。
つまり理論を学んだり、理論を作ったりして終わるのではなく、
その理論に基づいて人の心と関わると望ましい結果が出せる必要があるということです。
そういう意味では、僕が提案しているのは1つのモデルなんです。
このモデルに沿って人と関わるといいんじゃないですか、というモデルです。
説明のための説明になるようなモデルは提示していないつもりです。
そのモデルは汎用的で、扱う本人の個性やスキルと組み合わせて利用でき、
他のモデルや理論体系との関係の中で最も整合性が取れている形である。
その部分への思いが僕の中で非常に強いんです。
統合的で実用的という特徴だと分析しています。
ところがその特徴は、体験によって実感できた後、
身につけて自然とできるようになるまでに地道なトレーニングを必要とする
という側面も持っているわけです。
定期的なトレーニングを行っていくことが効果的なわけですが、
現状の勉強会ではトレーニングの時間を増やすのも難しそうな印象があります。
この前のように復習の回を設けるのも効果的だったように思いますが、
やはりトレーニング重視というわけにはいかないようです。
そこで、来年ぐらいから勉強会のスタンスを少し変えていくつもりです。
これまでのような新しいテーマに沿った内容を扱う場にくわえ、
実践的なトレーニングを中心とした場を設ける予定です。
また、ご参加いただける人数も増えてきて、
それに伴って定員の都合でお断りする場合もありますので
会員制も導入させていただこうと考えております。
お知り合いの方をご紹介いただいく場合や、初めてお越しになる場合には
年内に一度機会を設けていただくことをお勧めします。
僕の中にある、既存の理論や説明モデルを疑い、吟味するスタンスは
自分自身が納得したいという強い思いを持っているからだろうと思っています。
僕はNLPのトレーナーですが、おそらく
誰よりもNLPを疑っているトレーナーだろうと思います。
その僕がNLPの中で納得している部分は、本当に大切なことだと信じています。
同時に、最近のNLPや、NLPそのものを研究している人たちの内容には
疑問がわき上がる部分があるのも実際のところです。
NLPを含めた変化と学習の統合的な理論を自分なりにまとめたものも
近いうちにお伝えできればと考えています。
タネ明かしのようなことに興味がおありの方はご期待下さい。
2008年08月18日
褒めないで
先日、テレビを見ていたらプロ野球「東北楽天ゴールデンイーグルス」の
野村克也監督が選手育成の方法を語っていました。
野村監督は叱ることはできても、褒めるのが苦手だそうです。
叱って伸ばす、褒めて伸ばす、などの人材育成術が言われることも多いですし、
中には管理職向けの「叱り方」セミナーや「褒め方」セミナーもあるようです。
野村監督にせよ、セミナーに参加する叱れない上司、褒められない上司にせよ、
自分がされてきた経験の範疇を出られないと言っていました。
自分が褒めらることなく、厳しく育てられてきた野村監督。
親からも上司からも叱られることなく育ってきた上司。
褒められなかったのも、叱られなかったのも、自分がされてきていないことは
自分がそうしようと思っても難しいというわけです。
なるほど、それはもっともな話だと思います。
困難状況での反応の仕方には生育過程が大きく影響します。
感情的に怒鳴られることを続けて受けてきた人は、
同様な状況に出くわしたとき自然と怒鳴ってしまうようです。
または、それを過度に抑圧し、反対におとなしくなってしまう。
だからこそ、そうした状況で柔軟な対応ができるようになることが大切なわけですが、
そのためには具体的な方法を学ぶ必要もあるはずです。
叱り方セミナーも褒め方セミナーも大切なスタンスだと思います。
ただ、もう一歩進めて考えてみると、そもそも褒める必要も叱る必要もない、
という考え方もあるわけです。
褒めず、叱らず、その人が伸びてくれれば良いわけですから。
褒めるも叱るも、上下関係を社会性に含む日本人特有の発想だと言われます。
褒めるのも、叱るのも、どちらも親が子供にすることなわけです。
親が子供を育てるときに、「よくできたね」「うまいね」と褒め、
社会的に問題のある(と親が思い込んでいる)行動を「それはダメだ」と叱る。
社会人としての褒めるも叱るも、その延長線上にあるんです。
上司や尊敬する人から褒められて嬉しいと感じること自体、
子供の受け取り方だということになります。
褒められたいと考えるのは、子供として扱われたいということを意味するんです。
褒めるのも、叱るのも、相手を大人として見ていないわけです。
大人同士のコミュニケーションでは、褒める・叱るは適切ではない。
まして部下だからと相手を呼び捨てにしたり、
「ちゃん」づけで呼んだりするのは相手を大人として扱っていないと言えます。
社会生活をしている上では、基本的に
相手を成熟した大人として関わるほうが望ましいでしょう。
交流分析で言うA(アダルト)の要素は社会生活のためにあると考えられますし、
P(親)とC(子)の交流がゲームを生み出しやすいことも関係すると思います。
だから、社会的な場においては親子関係を呼び起こすコミュニケーションとして
褒めるのも叱るのも望ましくないだろうと考えられるわけです。
ただし、コーチングなど欧米から輸入されたコミュニケーションスキルを
日本文化に取り入れようとした時に、これまで日本に存在していた単語を使ったために
最近では「褒める」という単語の中に様々な意味が含まれてしまいました。
本来は親が子供の行動に対してする「褒める」というコミュニケーションを指す単語が
社会的に対等な大人同士の関係で効果的な言葉がけも含んでしまっている様子があります。
日本に導入した人が分かりやすさ目的で意図的に混ぜてしまったのか、
それとも区別が曖昧なままに混ざってしまったのかは分かりませんが、
スキルとしてコミュニケーションを学ぶ時には名称と内容は明確なほうが好都合です。
親子関係のような褒め方で嬉しかったのか、対等な関係からの言葉が嬉しかったのか、
その違いを自分が明確に区別せずに「褒められて嬉しかった」と受け取ってしまうと
別の人に対して自分がする言葉がけが、親子関係的なのか対等なのかを把握できません。
それを理解できて初めて、スキルとして
大人同士の関係における言葉がけを身に付けられるはずです。
場合によっては、親が子供にするような「褒め方」は
相手の自立を妨げることすらありますから、
「褒める」ではなく「フィードバック」のほうが望ましいと考えられます。
効果的なフィードバックは精神的報酬になりえますし、
叱られるよりも受け入れられやすい形で行動変容につなげることも可能です。
成熟した大人同士の対等な関係から生まれるコミュニケーション。
このあたり、技術的な部分と含めて明確な形で扱ってみたいところです。
野村克也監督が選手育成の方法を語っていました。
野村監督は叱ることはできても、褒めるのが苦手だそうです。
叱って伸ばす、褒めて伸ばす、などの人材育成術が言われることも多いですし、
中には管理職向けの「叱り方」セミナーや「褒め方」セミナーもあるようです。
野村監督にせよ、セミナーに参加する叱れない上司、褒められない上司にせよ、
自分がされてきた経験の範疇を出られないと言っていました。
自分が褒めらることなく、厳しく育てられてきた野村監督。
親からも上司からも叱られることなく育ってきた上司。
褒められなかったのも、叱られなかったのも、自分がされてきていないことは
自分がそうしようと思っても難しいというわけです。
なるほど、それはもっともな話だと思います。
困難状況での反応の仕方には生育過程が大きく影響します。
感情的に怒鳴られることを続けて受けてきた人は、
同様な状況に出くわしたとき自然と怒鳴ってしまうようです。
または、それを過度に抑圧し、反対におとなしくなってしまう。
だからこそ、そうした状況で柔軟な対応ができるようになることが大切なわけですが、
そのためには具体的な方法を学ぶ必要もあるはずです。
叱り方セミナーも褒め方セミナーも大切なスタンスだと思います。
ただ、もう一歩進めて考えてみると、そもそも褒める必要も叱る必要もない、
という考え方もあるわけです。
褒めず、叱らず、その人が伸びてくれれば良いわけですから。
褒めるも叱るも、上下関係を社会性に含む日本人特有の発想だと言われます。
褒めるのも、叱るのも、どちらも親が子供にすることなわけです。
親が子供を育てるときに、「よくできたね」「うまいね」と褒め、
社会的に問題のある(と親が思い込んでいる)行動を「それはダメだ」と叱る。
社会人としての褒めるも叱るも、その延長線上にあるんです。
上司や尊敬する人から褒められて嬉しいと感じること自体、
子供の受け取り方だということになります。
褒められたいと考えるのは、子供として扱われたいということを意味するんです。
褒めるのも、叱るのも、相手を大人として見ていないわけです。
大人同士のコミュニケーションでは、褒める・叱るは適切ではない。
まして部下だからと相手を呼び捨てにしたり、
「ちゃん」づけで呼んだりするのは相手を大人として扱っていないと言えます。
社会生活をしている上では、基本的に
相手を成熟した大人として関わるほうが望ましいでしょう。
交流分析で言うA(アダルト)の要素は社会生活のためにあると考えられますし、
P(親)とC(子)の交流がゲームを生み出しやすいことも関係すると思います。
だから、社会的な場においては親子関係を呼び起こすコミュニケーションとして
褒めるのも叱るのも望ましくないだろうと考えられるわけです。
ただし、コーチングなど欧米から輸入されたコミュニケーションスキルを
日本文化に取り入れようとした時に、これまで日本に存在していた単語を使ったために
最近では「褒める」という単語の中に様々な意味が含まれてしまいました。
本来は親が子供の行動に対してする「褒める」というコミュニケーションを指す単語が
社会的に対等な大人同士の関係で効果的な言葉がけも含んでしまっている様子があります。
日本に導入した人が分かりやすさ目的で意図的に混ぜてしまったのか、
それとも区別が曖昧なままに混ざってしまったのかは分かりませんが、
スキルとしてコミュニケーションを学ぶ時には名称と内容は明確なほうが好都合です。
親子関係のような褒め方で嬉しかったのか、対等な関係からの言葉が嬉しかったのか、
その違いを自分が明確に区別せずに「褒められて嬉しかった」と受け取ってしまうと
別の人に対して自分がする言葉がけが、親子関係的なのか対等なのかを把握できません。
それを理解できて初めて、スキルとして
大人同士の関係における言葉がけを身に付けられるはずです。
場合によっては、親が子供にするような「褒め方」は
相手の自立を妨げることすらありますから、
「褒める」ではなく「フィードバック」のほうが望ましいと考えられます。
効果的なフィードバックは精神的報酬になりえますし、
叱られるよりも受け入れられやすい形で行動変容につなげることも可能です。
成熟した大人同士の対等な関係から生まれるコミュニケーション。
このあたり、技術的な部分と含めて明確な形で扱ってみたいところです。
2008年08月15日
自由が全て
NLPの創始者リチャード・バンドラーが
NLPのマスタートレーナーのオーウェン・フィッツパトリックと共著で書いた本に
「Conversation」というタイトルのものがあります。
この副題が
「Freedom is everything and Love is all the rest」。
日本語に訳すと
「自由が全てであり、愛が残りの全てである」
というところでしょうか。
バンドラーのコメントには決めゼリフのように、この副題の言葉が出てきますが
実に深い言葉だろうと感じます。
ところが、これをバンドラー以外の誰かが言ったとしたら
「カッコイイ言葉ですね」ぐらいの印象にしかならないのかもしれません。
まして愛だの自由だのを声高に掲げるほど
何かの歌の歌詞だとか、ありがたい御言葉のような印象になってしまうこともあります。
イイ言葉というのは、誰が言うかが非常に重要なわけです。
ただ、この言葉に関して言うと、その独特の言い回しが深みを感じさせてもくれます。
これが実にバンドラーらしい部分だろうと思うわけです。
例えば、同じような内容であっても「自由と愛が全てである」であったら
随分と陳腐な印象が出てきてしまいます。
ありきたりなわけです。
愛とか自由とかいう言葉は非常に抽象的で、
人それぞれ意味の受け取り方も違うものでしょう。
それでいて人の心に訴えかける力をも持っている。
便利な単語なんです。
愛とか自由とか、そういう便利なキーワードで文章を作ると
なんだか良いことを言っているように感じられてしまうわけです。
読んだ人が勝手に解釈をしながら、素晴らしい意味を作り上げるんです。
だから、愛や自由が含まれた短い文章であれば、
ある程度の説得力やイイ話のような印象は自然と出てくるものなんです。
しかし、同時に誰でも言える言葉にもなってしまう。
そこでバンドラーの言葉に目をやると、ヒネリが利いていることに気付きます。
まず「自由が全て」だと言ってしまっている。
全てだって言ってしまった後に、「残りの全ては愛だ」と言う。
じゃあ、自由は全てじゃないじゃないか!と考えてしまいそうにもなるわけです。
この辺のストレート過ぎない言い回しがバンドラーらしいなぁと思えます。
リチャード・バンドラーはゲシュタルト療法の創始者フレデリック・パールズのやり方を
見事なまでに独習し、大学のゲシュタルト療法のクラスをパールズの代わりにするほどに
ゲシュタルト療法を身につけたそうです。
ゲシュタルト療法では人が他人との関わりの中でしてしまいがちな
望ましくないコミュニケーションをパターンとして分類していますが、
いずれも自分の本当の気持ちを自分でコントロールできていない状態と言えます。
自分の気持ちを他人にコントロールされている。
他人の振る舞いによって自分の気持ちが変わってしまうということです。
それは自由ではありません。
自分の気持ちを自分の自由にできていないんです。
その意味においてはNLPは確かに自由になるための方法だろうと考えられます。
バンドラーが「自由が全て」というのは実に納得できる部分です。
ここでいう自由はワガママとは全く違うものです。
自由とワガママを勘違いするケースはよくあるようですが、
ワガママは非常に不自由な状態です。
誰しも自分なりの欲求を持っているわけです。
一般的にワガママだと言われる人は、その欲求を素直に表現する、
つまり我慢をしない人だと考えられがちですが、それは正確ではありません。
欲求を素直に表現するのは自分の気持ちに正直なことです。
欲求を表現した後に、他人がその欲求を満たしてくれなかったとき
不満を感じるのが厄介なワガママなんです。
それはとても不自由なことです。
自分の気持ちが自分の自由になっていません。
相手の振る舞いによって自分の気持ちが決められてしまう、
つまり他人によって自分の気持ちをコントロールされているわけです。
例えば他人の言動が気に入らなかったとします。
冗談のつもりで言ったような内容が受け入れがたかった。
それは他人の行動が自分の価値観に合わなかったわけです。
そこで、「なんで、そんな言い方するんだ!」と言って怒ってしまったら
自分の感情が自分の自由になっていません。不自由です。
一方、カーッとなって怒ることもできるけど、冷静さを保ち
「そういう言い方は私には受け入れられません。やめて下さい」
と言うことを選択したら、それは自分の自由になっています。
もちろん、冷静に言うこともできるけど、ここは怒りを表現しようと思って
「なんで、そんな言い方するんだ!」と怒鳴ることを選択することもできます。
重要なのは、自分の行動に選択肢の幅があり、それを自分の意思で選択することです。
そして選択した結果に責任を取れることです。
怒鳴ることを選択するにせよ、冷静に言うことを選択するにせよ、
相手の対応は自分にはコントロールできません。
その結果、相手の対応が、逆ギレして帰ってしまうことだったとしましょう。
相手が選択をせずに逆ギレしていたら、それも不自由なことです。
不自由な逆ギレをされようが、誠意を持って謝ってくれようが、
相手の対応を受け入れられることが、その前の自分の行動に責任を持つということです。
逆ギレされて不愉快になったり、謝ってもらって良い気持ちになったりしたら、
それもまた自由ではないわけです。
相手の振る舞いによって自分の気持ちがコントロールされているわけですから。
自分が何かをすることで相手に与える影響を考え、
その結果として起きてくる全てのことを受け入れる。
何が起きても自分の気持ちをコントロールされない。
自分の気持ちを手放さないことが、
自分の行動に責任をとる、ということではないでしょうか。
であれば、そもそもの自分の行動を我慢するというのも1つの選択なわけです。
もちろん、我慢して不満が沸いてきたら、それも不自由です。
自由であるためには自分の行動に責任をとる必要があるということです。
これは並大抵のことではありません。
自分の意志で選択をし、自分で責任を取れれば、自由になれるんです。
考えてみれば当然です。
他人に依存しないわけですから。
ただ、当然だけれども大変なわけです。
多くの場合、人は他人からの承認を求めています。
「自分の存在を認めてもらうことなしに生きられない」という見方もあるほどです。
愛を求めているんです。
他人からの愛を求めている限り、それは自由ではありません。
他人との関わりを通じて安心を得ようとしていては、自由ではないんです。
つまり、選択に責任をとって自由になろうとした場合、
他人からの愛や他人を通じた安心を求めることが、一切できなくなるわけです。
他人に期待をすることができないわけです。
愛を求めずに自由に生きるのは大変なはずです。
自由に生きられない部分が出てくるのも当然なんです。
自由に生きようともしない人がいるのも当然なんです。
ましてや、「自由に生きなければならない」と言ってしまったら、
その考え方自体が凝り固まっていて自由ではないわけです。
「自由になれない部分もある、自由になれない人もいる。
でも、それだっていいじゃないか」
そのように許すスタンスこそ、自分から他人への愛だと思うんです。
人は自由になることを目的に生きているのかもしれません。
他者からの愛を求めたくなることが、それを妨げるように感じます。
自由になるには、愛を求めることを手放す必要があるということです。
バンドラーの言う「自由が全て」を僕はそのように受け取ります。
「愛こそ全て」ではなく、「自由こそ全て」だろうと思います。
本当は「自由が全て」だけど、それはとても難しい。
だから自由になれない部分は「残り全て、愛」で受け止めましょう。
自由になれない人もいる、でも、それだっていいじゃないか。
そういう風に受け入れる愛。
自由に生きたくても自由になれない部分がある。
でも、それはそれで受け入れる愛。
「自由が全てであり、愛が残りの全てである」、
そこからは、そんな意味を感じます。
NLPのマスタートレーナーのオーウェン・フィッツパトリックと共著で書いた本に
「Conversation」というタイトルのものがあります。
この副題が
「Freedom is everything and Love is all the rest」。
日本語に訳すと
「自由が全てであり、愛が残りの全てである」
というところでしょうか。
バンドラーのコメントには決めゼリフのように、この副題の言葉が出てきますが
実に深い言葉だろうと感じます。
ところが、これをバンドラー以外の誰かが言ったとしたら
「カッコイイ言葉ですね」ぐらいの印象にしかならないのかもしれません。
まして愛だの自由だのを声高に掲げるほど
何かの歌の歌詞だとか、ありがたい御言葉のような印象になってしまうこともあります。
イイ言葉というのは、誰が言うかが非常に重要なわけです。
ただ、この言葉に関して言うと、その独特の言い回しが深みを感じさせてもくれます。
これが実にバンドラーらしい部分だろうと思うわけです。
例えば、同じような内容であっても「自由と愛が全てである」であったら
随分と陳腐な印象が出てきてしまいます。
ありきたりなわけです。
愛とか自由とかいう言葉は非常に抽象的で、
人それぞれ意味の受け取り方も違うものでしょう。
それでいて人の心に訴えかける力をも持っている。
便利な単語なんです。
愛とか自由とか、そういう便利なキーワードで文章を作ると
なんだか良いことを言っているように感じられてしまうわけです。
読んだ人が勝手に解釈をしながら、素晴らしい意味を作り上げるんです。
だから、愛や自由が含まれた短い文章であれば、
ある程度の説得力やイイ話のような印象は自然と出てくるものなんです。
しかし、同時に誰でも言える言葉にもなってしまう。
そこでバンドラーの言葉に目をやると、ヒネリが利いていることに気付きます。
まず「自由が全て」だと言ってしまっている。
全てだって言ってしまった後に、「残りの全ては愛だ」と言う。
じゃあ、自由は全てじゃないじゃないか!と考えてしまいそうにもなるわけです。
この辺のストレート過ぎない言い回しがバンドラーらしいなぁと思えます。
リチャード・バンドラーはゲシュタルト療法の創始者フレデリック・パールズのやり方を
見事なまでに独習し、大学のゲシュタルト療法のクラスをパールズの代わりにするほどに
ゲシュタルト療法を身につけたそうです。
ゲシュタルト療法では人が他人との関わりの中でしてしまいがちな
望ましくないコミュニケーションをパターンとして分類していますが、
いずれも自分の本当の気持ちを自分でコントロールできていない状態と言えます。
自分の気持ちを他人にコントロールされている。
他人の振る舞いによって自分の気持ちが変わってしまうということです。
それは自由ではありません。
自分の気持ちを自分の自由にできていないんです。
その意味においてはNLPは確かに自由になるための方法だろうと考えられます。
バンドラーが「自由が全て」というのは実に納得できる部分です。
ここでいう自由はワガママとは全く違うものです。
自由とワガママを勘違いするケースはよくあるようですが、
ワガママは非常に不自由な状態です。
誰しも自分なりの欲求を持っているわけです。
一般的にワガママだと言われる人は、その欲求を素直に表現する、
つまり我慢をしない人だと考えられがちですが、それは正確ではありません。
欲求を素直に表現するのは自分の気持ちに正直なことです。
欲求を表現した後に、他人がその欲求を満たしてくれなかったとき
不満を感じるのが厄介なワガママなんです。
それはとても不自由なことです。
自分の気持ちが自分の自由になっていません。
相手の振る舞いによって自分の気持ちが決められてしまう、
つまり他人によって自分の気持ちをコントロールされているわけです。
例えば他人の言動が気に入らなかったとします。
冗談のつもりで言ったような内容が受け入れがたかった。
それは他人の行動が自分の価値観に合わなかったわけです。
そこで、「なんで、そんな言い方するんだ!」と言って怒ってしまったら
自分の感情が自分の自由になっていません。不自由です。
一方、カーッとなって怒ることもできるけど、冷静さを保ち
「そういう言い方は私には受け入れられません。やめて下さい」
と言うことを選択したら、それは自分の自由になっています。
もちろん、冷静に言うこともできるけど、ここは怒りを表現しようと思って
「なんで、そんな言い方するんだ!」と怒鳴ることを選択することもできます。
重要なのは、自分の行動に選択肢の幅があり、それを自分の意思で選択することです。
そして選択した結果に責任を取れることです。
怒鳴ることを選択するにせよ、冷静に言うことを選択するにせよ、
相手の対応は自分にはコントロールできません。
その結果、相手の対応が、逆ギレして帰ってしまうことだったとしましょう。
相手が選択をせずに逆ギレしていたら、それも不自由なことです。
不自由な逆ギレをされようが、誠意を持って謝ってくれようが、
相手の対応を受け入れられることが、その前の自分の行動に責任を持つということです。
逆ギレされて不愉快になったり、謝ってもらって良い気持ちになったりしたら、
それもまた自由ではないわけです。
相手の振る舞いによって自分の気持ちがコントロールされているわけですから。
自分が何かをすることで相手に与える影響を考え、
その結果として起きてくる全てのことを受け入れる。
何が起きても自分の気持ちをコントロールされない。
自分の気持ちを手放さないことが、
自分の行動に責任をとる、ということではないでしょうか。
であれば、そもそもの自分の行動を我慢するというのも1つの選択なわけです。
もちろん、我慢して不満が沸いてきたら、それも不自由です。
自由であるためには自分の行動に責任をとる必要があるということです。
これは並大抵のことではありません。
自分の意志で選択をし、自分で責任を取れれば、自由になれるんです。
考えてみれば当然です。
他人に依存しないわけですから。
ただ、当然だけれども大変なわけです。
多くの場合、人は他人からの承認を求めています。
「自分の存在を認めてもらうことなしに生きられない」という見方もあるほどです。
愛を求めているんです。
他人からの愛を求めている限り、それは自由ではありません。
他人との関わりを通じて安心を得ようとしていては、自由ではないんです。
つまり、選択に責任をとって自由になろうとした場合、
他人からの愛や他人を通じた安心を求めることが、一切できなくなるわけです。
他人に期待をすることができないわけです。
愛を求めずに自由に生きるのは大変なはずです。
自由に生きられない部分が出てくるのも当然なんです。
自由に生きようともしない人がいるのも当然なんです。
ましてや、「自由に生きなければならない」と言ってしまったら、
その考え方自体が凝り固まっていて自由ではないわけです。
「自由になれない部分もある、自由になれない人もいる。
でも、それだっていいじゃないか」
そのように許すスタンスこそ、自分から他人への愛だと思うんです。
人は自由になることを目的に生きているのかもしれません。
他者からの愛を求めたくなることが、それを妨げるように感じます。
自由になるには、愛を求めることを手放す必要があるということです。
バンドラーの言う「自由が全て」を僕はそのように受け取ります。
「愛こそ全て」ではなく、「自由こそ全て」だろうと思います。
本当は「自由が全て」だけど、それはとても難しい。
だから自由になれない部分は「残り全て、愛」で受け止めましょう。
自由になれない人もいる、でも、それだっていいじゃないか。
そういう風に受け入れる愛。
自由に生きたくても自由になれない部分がある。
でも、それはそれで受け入れる愛。
「自由が全てであり、愛が残りの全てである」、
そこからは、そんな意味を感じます。
2008年08月13日
茶葉の味わい
今日はお盆休み気分で、どうでもいい話。
先日、自動販売機でこんな商品を見かけました。
そして、買ってみました。
いやはや、これがなかなかの美味。
僕は普通のミルクティーよりも、こっちのほうが好きかもしれません。
黒糖の野趣あふれる風味ともマッチしています。
紅茶のような飲み口でありながら、ほうじ茶特有の香ばしさがあり、
後味として残るのは、ほうじ茶の味わい。
紅茶のほうが華やかであるような気はするけれども
落ち着くための飲み物としては、ほうじ茶ラテも捨てがたい感じです。
どことなく童心を思い返される印象を受けます。
蜂蜜入りの緑茶も美味しいですから、お茶の味わいは甘味と合うのかもしれません。
といってもTeaと呼ばれる茶葉の話でしょうから、
○○茶として親しまれる他の種類のものが上手くいくかは分かりませんが。
麦茶ラテは厳しいような気がします。
先日、自動販売機でこんな商品を見かけました。
そして、買ってみました。
いやはや、これがなかなかの美味。
僕は普通のミルクティーよりも、こっちのほうが好きかもしれません。
黒糖の野趣あふれる風味ともマッチしています。
紅茶のような飲み口でありながら、ほうじ茶特有の香ばしさがあり、
後味として残るのは、ほうじ茶の味わい。
紅茶のほうが華やかであるような気はするけれども
落ち着くための飲み物としては、ほうじ茶ラテも捨てがたい感じです。
どことなく童心を思い返される印象を受けます。
蜂蜜入りの緑茶も美味しいですから、お茶の味わいは甘味と合うのかもしれません。
といってもTeaと呼ばれる茶葉の話でしょうから、
○○茶として親しまれる他の種類のものが上手くいくかは分かりませんが。
麦茶ラテは厳しいような気がします。
2008年08月11日
これでいいのだ
赤塚不二夫氏が亡くなり、その葬儀の模様が至る所で放送されました。
中でも、タモリこと森田一義氏の弔辞は人々の心を打つものでした。
ニュースでも取り上げられたように、森田氏の弔辞は
手に持った白紙を読んでいたように見受けられました。
確かに映像を見ても手に持ったものは白紙に見えます。
だとすると更に感動的なものに思えてきます。
僕はどういうわけか、誰かが読み上げた文章というのは
ほとんどの場合、耳を素通りしていく感じを受けるんです。
内容が全くと言っていいほど残りません。
これは小さい頃からずっとそうでした。
小学校の頃の国語の授業など、教科書を音読する時間があったように思いますが
僕はあの時間には無関心でした。
ボーッと時間が過ぎていくだけ。
今でもセミナーなどでテキストを読まれると全く内容が理解できません。
プレゼンでもスライドに書かれた内容を読まれると不愉快になります。
文字を読み上げる速さよりも、目で読む速さのほうが遥かに速いわけです。
自分で音読しても理解できません。
読んでいるときは「ただ発音しているだけ」という印象で
内容は全く頭に入っていかないんです。
テープレコーダーになった気分です。
僕にとって話すというのは完全にアウトプットの作業なのかもしれません。
読みながら声に出すと、目から入ったものが頭を通らずに口から出ていくような
奇妙な感覚を味わうわけです。
逆にインプットは文字を読むことに専念したほうが効率的なようです。
どうやら、読みながら自分の中にある他の情報との結びつけをしている気がします。
音読すると声に出す作業が、その結びつけを邪魔するような感じです。
音読された内容が入ってこないのは不思議ですね。
アナウンサーだと大丈夫なこともあるんですが、人による気がします。
読み手の状態が重要なのかもしれません。
内面が文字と一致していると内容が入ってくるように思えます。
その人の中から出てくる言葉だと内容が入ってくる、ということでしょうか。
セミナーの講師によってはテキストを音読させたりする人もいますが、
そんな僕にとって、テキストの読み合わせという行為は相当な迷惑なんです。
他の人が読み上げるのを聴いている時間は無駄に感じられてしまう。
自分の番になれば読んだ部分は理解できない。
読み上げを無視しながら自分で黙読して理解を進めているときに
自分に当てられたりしたら、どの部分なのかも分からなくなってしまいます。
チョット困りものです。
話が逸れましたが、僕には読み上げたものが伝わってこない癖があるようなので、
結婚式の新婦からの手紙なども、感動できないときがあるわけです。
気持ちの乗り方が重要なんです。
そういう意味で、森田一義氏の弔辞は気持ちが込もっていました。
白紙だっただろうと思います。
仮に白紙ではなかったとしても、そこには文字内容と一致した気持ちがあったはずです。
弔辞の中に
「あなたは今この会場のどこか片隅で、ちょっと高い所から、あぐらをかいて、
ひじを付き、ニコニコと眺めていることでしょう。
そして私に『おまえもお笑いやってるなら弔辞で笑わしてみろ』と
言ってるに違いありません。」
という部分がありました。
白紙の弔辞を読み上げるという行為が、その応えなのかもしれませんね。
素晴らしい関係性を感じます。
僕は学生の頃、赤塚不二夫氏のトークショーを見に行ったことがあります。
上野の美術館で「赤塚不二夫展」をやっていたとき、
記念のトークショーが開催されたんです。
僕はかなり早い時間から友人と並んで、トークショーを見に行きました。
最前列で赤塚先生を見ました。
赤い顔をしていました。
そのトークショーには対談のゲストとして、
タモリこと森田一義氏と所ジョージ氏が来ていました。
本当に面白かったです。
3人の掛け合いは見事でした。
武勇伝のような昔話は、とてもテレビで放送できるものではなく、
ブログに書くのも抵抗があるような内容でもありました。
そうしたハチャメチャな行動も赤塚先生の魅力でしょうが、
また見事だったのがゲスト2人の話の拾い方でした。
呼吸が合っているというのは、こういう会話のことを言うんだろうと思いました。
3人が揃って顔を合わせたのも久しぶりだと言っていましたが、
そのような雰囲気は全く感じなかったのを覚えています。
バカボンのパパを地でいくような赤塚先生の自由な言動を、
2人が時にはバカボンのように、時にはママのように、時にはハジメちゃんのように、
見事なコミュニケーションでフォローしていました。
ある意味で完成された人間関係だったのかもしれません。
一見すると破天荒な場でしたが、誰もがそれを受け入れているようでした。
赤塚先生だけでなく、会場の全員が「これでいいのだ」と思えているようでした。
その光景を思い出すほどに、森田氏の弔辞は感動的です。
深い愛に満ちたものだと強く感じられます。
素直にカッコイイと思えます。
中でも、タモリこと森田一義氏の弔辞は人々の心を打つものでした。
ニュースでも取り上げられたように、森田氏の弔辞は
手に持った白紙を読んでいたように見受けられました。
確かに映像を見ても手に持ったものは白紙に見えます。
だとすると更に感動的なものに思えてきます。
僕はどういうわけか、誰かが読み上げた文章というのは
ほとんどの場合、耳を素通りしていく感じを受けるんです。
内容が全くと言っていいほど残りません。
これは小さい頃からずっとそうでした。
小学校の頃の国語の授業など、教科書を音読する時間があったように思いますが
僕はあの時間には無関心でした。
ボーッと時間が過ぎていくだけ。
今でもセミナーなどでテキストを読まれると全く内容が理解できません。
プレゼンでもスライドに書かれた内容を読まれると不愉快になります。
文字を読み上げる速さよりも、目で読む速さのほうが遥かに速いわけです。
自分で音読しても理解できません。
読んでいるときは「ただ発音しているだけ」という印象で
内容は全く頭に入っていかないんです。
テープレコーダーになった気分です。
僕にとって話すというのは完全にアウトプットの作業なのかもしれません。
読みながら声に出すと、目から入ったものが頭を通らずに口から出ていくような
奇妙な感覚を味わうわけです。
逆にインプットは文字を読むことに専念したほうが効率的なようです。
どうやら、読みながら自分の中にある他の情報との結びつけをしている気がします。
音読すると声に出す作業が、その結びつけを邪魔するような感じです。
音読された内容が入ってこないのは不思議ですね。
アナウンサーだと大丈夫なこともあるんですが、人による気がします。
読み手の状態が重要なのかもしれません。
内面が文字と一致していると内容が入ってくるように思えます。
その人の中から出てくる言葉だと内容が入ってくる、ということでしょうか。
セミナーの講師によってはテキストを音読させたりする人もいますが、
そんな僕にとって、テキストの読み合わせという行為は相当な迷惑なんです。
他の人が読み上げるのを聴いている時間は無駄に感じられてしまう。
自分の番になれば読んだ部分は理解できない。
読み上げを無視しながら自分で黙読して理解を進めているときに
自分に当てられたりしたら、どの部分なのかも分からなくなってしまいます。
チョット困りものです。
話が逸れましたが、僕には読み上げたものが伝わってこない癖があるようなので、
結婚式の新婦からの手紙なども、感動できないときがあるわけです。
気持ちの乗り方が重要なんです。
そういう意味で、森田一義氏の弔辞は気持ちが込もっていました。
白紙だっただろうと思います。
仮に白紙ではなかったとしても、そこには文字内容と一致した気持ちがあったはずです。
弔辞の中に
「あなたは今この会場のどこか片隅で、ちょっと高い所から、あぐらをかいて、
ひじを付き、ニコニコと眺めていることでしょう。
そして私に『おまえもお笑いやってるなら弔辞で笑わしてみろ』と
言ってるに違いありません。」
という部分がありました。
白紙の弔辞を読み上げるという行為が、その応えなのかもしれませんね。
素晴らしい関係性を感じます。
僕は学生の頃、赤塚不二夫氏のトークショーを見に行ったことがあります。
上野の美術館で「赤塚不二夫展」をやっていたとき、
記念のトークショーが開催されたんです。
僕はかなり早い時間から友人と並んで、トークショーを見に行きました。
最前列で赤塚先生を見ました。
赤い顔をしていました。
そのトークショーには対談のゲストとして、
タモリこと森田一義氏と所ジョージ氏が来ていました。
本当に面白かったです。
3人の掛け合いは見事でした。
武勇伝のような昔話は、とてもテレビで放送できるものではなく、
ブログに書くのも抵抗があるような内容でもありました。
そうしたハチャメチャな行動も赤塚先生の魅力でしょうが、
また見事だったのがゲスト2人の話の拾い方でした。
呼吸が合っているというのは、こういう会話のことを言うんだろうと思いました。
3人が揃って顔を合わせたのも久しぶりだと言っていましたが、
そのような雰囲気は全く感じなかったのを覚えています。
バカボンのパパを地でいくような赤塚先生の自由な言動を、
2人が時にはバカボンのように、時にはママのように、時にはハジメちゃんのように、
見事なコミュニケーションでフォローしていました。
ある意味で完成された人間関係だったのかもしれません。
一見すると破天荒な場でしたが、誰もがそれを受け入れているようでした。
赤塚先生だけでなく、会場の全員が「これでいいのだ」と思えているようでした。
その光景を思い出すほどに、森田氏の弔辞は感動的です。
深い愛に満ちたものだと強く感じられます。
素直にカッコイイと思えます。
2008年08月09日
目に見えて
久しぶりに会うと変わっている人たちがいます。
そういう人は見た瞬間に分かるものです。
特に楽になったように見えるときは。
顔が変わります。
表情から緊張感が落ちてきます。
姿勢が変わります。
内面の安定が体に出てきます。
行動が変わります。
余裕が出ます。
以前とは違う振る舞いを当たり前のようにします。
意識的な努力を続けられるのも素晴らしいことですが、
自然な変化が無意識のメッセージとして表れるのを見られると
そのプロセスの一部に関わっていた立場としては喜びが感じられるんです。
それを目にしたとき、客観的に眺めているときに、
「あぁ、良かったなぁ」と思います。
人によってはホンの数時間のうちにコツをつかみ、
表面的なテクニックのレベルを超えた大きな変容を体験されることもあるようです。
それにはご本人のセンスと気づきのタイミングが必要なのは言うまでもありません。
そんな瞬間に立ち会うとき、僕の感想は不思議なものになるんです。
そのタイミングを越え、数時間のセミナーを終えて流れを振り返ったとき、
「なんとなく」やっていた思いつきの流れが意味のあるように見えてきます。
途中まで説明していたのに、急に話を止めて別の内容に変える。
その場の思いつきや直感を重視した選択が結果に繋がるように思えるわけです。
数時間のプロセスで行ってきたことに無駄がなく、
それぞれをやってきたから気づきに至ることができたような、
そんな最上級の結果オーライを感じるんです。
人それぞれ変化の時期というのがあるのでしょう。
そのタイミングにあれば、些細な関わりすらも大きな意味を持つようです。
例えば、他人との握手だけで大きな気づきを得て、自然と楽になっていく方もいるんです。
そうした変化を見てとれる。
外から見て変化に気づくことができる。
それは不思議と嬉しいものです。
日本語には「まるで自分のことのように嬉しい」という表現がありますが、
それとは全く逆なんだろうと思います。
オリンピックで日本人が金メダルを取ったときの喜びは自分を通じた喜びでしょう。
誰かの活躍を仲間という位置づけで自分と関連付けて喜ぶわけです。
それとは違います。
他人事が他人の事として嬉しいんです。
それが「あぁ、良かったなぁ」という感じなんです。
そう思いながら見ているのが好きなんでしょうね、どうやら。
そういう人は見た瞬間に分かるものです。
特に楽になったように見えるときは。
顔が変わります。
表情から緊張感が落ちてきます。
姿勢が変わります。
内面の安定が体に出てきます。
行動が変わります。
余裕が出ます。
以前とは違う振る舞いを当たり前のようにします。
意識的な努力を続けられるのも素晴らしいことですが、
自然な変化が無意識のメッセージとして表れるのを見られると
そのプロセスの一部に関わっていた立場としては喜びが感じられるんです。
それを目にしたとき、客観的に眺めているときに、
「あぁ、良かったなぁ」と思います。
人によってはホンの数時間のうちにコツをつかみ、
表面的なテクニックのレベルを超えた大きな変容を体験されることもあるようです。
それにはご本人のセンスと気づきのタイミングが必要なのは言うまでもありません。
そんな瞬間に立ち会うとき、僕の感想は不思議なものになるんです。
そのタイミングを越え、数時間のセミナーを終えて流れを振り返ったとき、
「なんとなく」やっていた思いつきの流れが意味のあるように見えてきます。
途中まで説明していたのに、急に話を止めて別の内容に変える。
その場の思いつきや直感を重視した選択が結果に繋がるように思えるわけです。
数時間のプロセスで行ってきたことに無駄がなく、
それぞれをやってきたから気づきに至ることができたような、
そんな最上級の結果オーライを感じるんです。
人それぞれ変化の時期というのがあるのでしょう。
そのタイミングにあれば、些細な関わりすらも大きな意味を持つようです。
例えば、他人との握手だけで大きな気づきを得て、自然と楽になっていく方もいるんです。
そうした変化を見てとれる。
外から見て変化に気づくことができる。
それは不思議と嬉しいものです。
日本語には「まるで自分のことのように嬉しい」という表現がありますが、
それとは全く逆なんだろうと思います。
オリンピックで日本人が金メダルを取ったときの喜びは自分を通じた喜びでしょう。
誰かの活躍を仲間という位置づけで自分と関連付けて喜ぶわけです。
それとは違います。
他人事が他人の事として嬉しいんです。
それが「あぁ、良かったなぁ」という感じなんです。
そう思いながら見ているのが好きなんでしょうね、どうやら。