2008年09月
2008年09月28日
10月の勉強会
10月の勉強会のお知らせ
直前になってしまいましたが、10月の勉強会のご案内です。
先月のテーマとして取り上げた「パート」という概念は
無意識の役割を考えたときに中心的な位置を占める重要な要素だと思われます。
我々が常日頃、何気なく行動していることが無意識に支えられていて、
意識せずに自然とできることが、まさに無意識の行動だと言えます。
無意識の行動というのは、例えば今現在、この文章を普通に理解できることもそうですし、
僕がこの文章をブラインドタッチで打つことができるのもそうです。
歩くことができるのも、自転車に乗ることができるのも無意識のおかげです。
無意識の行動というのは、基本的に本人にとって役に立っているわけですが、
一見すると望ましくない無意識の行動というのもあるわけです。
やめたいと思っていても禁煙できないとか、
高圧的な態度の上司と接すると言いたいことが言えなくなるとか、
いつも約束の時間のギリギリになってしまうとか、
そんな本人にとって望ましくないと思える行動パターンも無意識のなせるわざと言えます。
それは本人の意識の範囲では困ったことであっても、
本人の人生全体を考えたときには必ず役に立っている。
そこにエリクソン的な無意識への信頼があるんです。
つまり、本人が役に立っていると意識できる無意識の行動であっても、
本人が意識の上では望ましくないと判断する行動パターンであっても、
どちらも無意識が役立つこととして行動させてくれているということです。
そうした無意識の行動の役割をを担っているのが「パート」ということになります。
無意識の中では様々な役割を担当しているパートがあって、
時にはそのパート同士が連携し合って何かの行動を自然にしてくれるわけです。
NLPで「パート」を扱う時には、この望ましくない行動を生み出している自分の一部を
「パート」という言葉で説明するような傾向があるように感じますが、
「パート」ということを掘り下げて考えてみると、望ましいかどうかは関係なく
無意識の役割分担という意味で「パート」を考えたほうが本質的なはずです。
なぜなら「パート」には、それが生まれる時というのがあるからです。
パートは作られるものなんです。
パートは特定の状況に対する対処を自動的に行ってくれる担当であって、
その対処法を決めるときが、パートの生まれる時と言えます。
言いかえると、パートは学習の結果として生まれる、ということになります。
繰り返し、同じような行動をした結果として無意識的にできるようになるものもあれば、
一回の経験で無意識の反応パターンが決まってしまうものもあります。
犬に噛まれてから犬が恐くなるというケースは、一回で学習が成立する典型です。
意識しないで何かをするようになるのは無意識レベルの学習の成果であって、
その意味においては望ましい行動も、悪習慣も同じなわけです。
重要なのは、ある状況に対して自然と何かの行動をする、ということです。
それが「パート」の担っている役割です。
「パート」というと、望ましくない行動をさせていることに対して
それを改善するような方向で扱うケースが多いですが、
パートが学習の結果として生まれるということを考えると
パートへの理解を深めることは学習を効果的にするのにも役立つはずなんです。
セラピーも、技術向上も、勉強も、趣味やスポーツも、
学習という枠組みの中で考えることが可能です。
そこにはパートが関わっているわけです。
新しく何かの行動を身につけていく、という学習は
無意識にその行動をしてくれる新たなパートを生み出していくこととして考える。
そうすることでトレーニング内容を考えるときに考慮する点が明確になります。
新しく何かを身につけようとしても上手くいきずらいこともあります。
パートを意識すると、それを単純な練習不足だけで考えるのが
筋違いだと理解できるようになると思います。
新しく何かを身につけるプロセスで起きていることを
「パート」という考え方のベースで見てみる。
それだけでも対処法が変わってくるわけです。
もし、何度も繰り返しやっているのに上達しない、それでも繰り返し努力を続ける、
…そんな状況が続いていたら、そこには上達させないパートができているかもしれません。
学習を「パート」という観点から眺めていくと、
自分自身が何かを学ぶときにも、他人に指導していくときにも、
今まで気づかなかったような要素が見つかってくることもあるはずです。
そういったことができるようになるのも学習ですね。
ということで、10月の勉強会のテーマは
「パートと学習プロセス」です。
このことに関して、お伝えしたい情報は湧き出るような状態です。
理解を深めるための取り組みが多くなるかもしれませんが、
抽象概念をそのまま覚えるだけでは情報を鵜呑みにしていることになります。
それでは実際の場面で活用できるようになりません。
学習効果を高めるようなプロセスを勉強会そのものを利用して体験して頂き、
今回のテーマをご自身の無意識の中に結びつけて頂けるよう工夫するつもりです。
初心者が野球を始めるときには、練習試合だけで上達しようとはしないものです。
キャッチボールから始め、素振りやノックを受けて、
徐々に試合の形式に移行していくわけです。
泳ぎを覚えるときも、手順を踏んでいきます。
なのに、小学校で逆上がりを教える時には、いきなりやらされた記憶があります。
それは、いかがなものかと思うんです。
目標とする行動を身につけるために、効果的な学習法があるということです。
それは個人の持っているパートによって変わってくることもあるんです。
小さい子供が初めて泳ぎを身につけるために必要なことと、
カナヅチの大人が泳げるようになるために必要なことは違います。
そこには「パート」が密接に関わっているんです。
パートを見られるようになると、学習は飛躍的に変わると思います。
今回の内容は意味深く、即効性のあるものだと考えていますので、
内容そのものを他言することはお控えいただき、
ご自身のために活用する範囲に留めおき下さい。
もちろん、教育や指導という形で他人に関わるのは「ご自身のため」の範囲内です。
「こういう考え方で見ると分かりやすいよ」というような伝え方はご遠慮願います。
それだけ重要で、僕の中で中核を担っている考え方だとご理解頂ければ幸いです。
勉強会の進行としては、午前中に前回の内容についてと、
今回のテーマを学ぶ上で役立つ「抽象度」の概念に関しての復習をします。
9月の勉強会で体験して頂いた「パート」とのコミュニケーションについて
理解を深めていただくことが、他人のパートを見るトレーニングになります。
抽象度に関しては、8月の勉強会で復習した内容でもあり、
「分かりやすい伝え方」や「メタファー」などとも関連する内容です。
そして午後に『「パート」と学習プロセス』に関して扱っていきます。
いずれか一方のご参加も可能ですが、両方続けてご参加されることをお勧めします。
セミナーや教育、指導、援助ということに関わる方には
大いに役立てて頂ける内容だと思います。
三連休の最終日ですが、ご都合のつく方は是非お越し下さい。
詳細は以下のとおりです。
※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
【日時】 10月13日(月・祝)
午前の部 10:00〜12:30 ※午前の部は2時間30分です。
午後の部 13:30〜16:30
【場所】 北とぴあ 901会議室
(JR京浜東北線・王子駅北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
午前・午後両方ご参加の場合に割引きとなります。(ほんのチョットですけど)
◆午前の部 ・・・3,000円
◆午後の部 ・・・5,000円
《午前・午後両方へご参加の方》 ・・・ 7,000円
テーマ: 午前の部…『パートと抽象度(復習)』&『パートに関するトレーニング』
午後の部…『パートと学習プロセス』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
人は生まれてからずっと学習を続けています。
パートを生み出し、パートを活用して生きています。
長く生きるにつれ、パートの役割も確定していくことになります。
あらゆる行動が効率的になる反面、柔軟性が失われやすい側面も出るようです。
パートを通じた学習を自分なりに工夫できるようになると
世の中から得られる学びの幅は広くなっていくものと予測されます。
パートは組織に似ています。
会社組織は限りある社員数で作られますが、
パートを生み出す無意識には膨大なリソースがある気がします。
パートの概念を活用して無意識の可能性を拡げることも
人生を豊かなものにしてくれると思うのです。
学ぶことそのもの学ぶのも、人生の彩りとして味のあるものではないでしょうか?
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています。
直前になってしまいましたが、10月の勉強会のご案内です。
先月のテーマとして取り上げた「パート」という概念は
無意識の役割を考えたときに中心的な位置を占める重要な要素だと思われます。
我々が常日頃、何気なく行動していることが無意識に支えられていて、
意識せずに自然とできることが、まさに無意識の行動だと言えます。
無意識の行動というのは、例えば今現在、この文章を普通に理解できることもそうですし、
僕がこの文章をブラインドタッチで打つことができるのもそうです。
歩くことができるのも、自転車に乗ることができるのも無意識のおかげです。
無意識の行動というのは、基本的に本人にとって役に立っているわけですが、
一見すると望ましくない無意識の行動というのもあるわけです。
やめたいと思っていても禁煙できないとか、
高圧的な態度の上司と接すると言いたいことが言えなくなるとか、
いつも約束の時間のギリギリになってしまうとか、
そんな本人にとって望ましくないと思える行動パターンも無意識のなせるわざと言えます。
それは本人の意識の範囲では困ったことであっても、
本人の人生全体を考えたときには必ず役に立っている。
そこにエリクソン的な無意識への信頼があるんです。
つまり、本人が役に立っていると意識できる無意識の行動であっても、
本人が意識の上では望ましくないと判断する行動パターンであっても、
どちらも無意識が役立つこととして行動させてくれているということです。
そうした無意識の行動の役割をを担っているのが「パート」ということになります。
無意識の中では様々な役割を担当しているパートがあって、
時にはそのパート同士が連携し合って何かの行動を自然にしてくれるわけです。
NLPで「パート」を扱う時には、この望ましくない行動を生み出している自分の一部を
「パート」という言葉で説明するような傾向があるように感じますが、
「パート」ということを掘り下げて考えてみると、望ましいかどうかは関係なく
無意識の役割分担という意味で「パート」を考えたほうが本質的なはずです。
なぜなら「パート」には、それが生まれる時というのがあるからです。
パートは作られるものなんです。
パートは特定の状況に対する対処を自動的に行ってくれる担当であって、
その対処法を決めるときが、パートの生まれる時と言えます。
言いかえると、パートは学習の結果として生まれる、ということになります。
繰り返し、同じような行動をした結果として無意識的にできるようになるものもあれば、
一回の経験で無意識の反応パターンが決まってしまうものもあります。
犬に噛まれてから犬が恐くなるというケースは、一回で学習が成立する典型です。
意識しないで何かをするようになるのは無意識レベルの学習の成果であって、
その意味においては望ましい行動も、悪習慣も同じなわけです。
重要なのは、ある状況に対して自然と何かの行動をする、ということです。
それが「パート」の担っている役割です。
「パート」というと、望ましくない行動をさせていることに対して
それを改善するような方向で扱うケースが多いですが、
パートが学習の結果として生まれるということを考えると
パートへの理解を深めることは学習を効果的にするのにも役立つはずなんです。
セラピーも、技術向上も、勉強も、趣味やスポーツも、
学習という枠組みの中で考えることが可能です。
そこにはパートが関わっているわけです。
新しく何かの行動を身につけていく、という学習は
無意識にその行動をしてくれる新たなパートを生み出していくこととして考える。
そうすることでトレーニング内容を考えるときに考慮する点が明確になります。
新しく何かを身につけようとしても上手くいきずらいこともあります。
パートを意識すると、それを単純な練習不足だけで考えるのが
筋違いだと理解できるようになると思います。
新しく何かを身につけるプロセスで起きていることを
「パート」という考え方のベースで見てみる。
それだけでも対処法が変わってくるわけです。
もし、何度も繰り返しやっているのに上達しない、それでも繰り返し努力を続ける、
…そんな状況が続いていたら、そこには上達させないパートができているかもしれません。
学習を「パート」という観点から眺めていくと、
自分自身が何かを学ぶときにも、他人に指導していくときにも、
今まで気づかなかったような要素が見つかってくることもあるはずです。
そういったことができるようになるのも学習ですね。
ということで、10月の勉強会のテーマは
「パートと学習プロセス」です。
このことに関して、お伝えしたい情報は湧き出るような状態です。
理解を深めるための取り組みが多くなるかもしれませんが、
抽象概念をそのまま覚えるだけでは情報を鵜呑みにしていることになります。
それでは実際の場面で活用できるようになりません。
学習効果を高めるようなプロセスを勉強会そのものを利用して体験して頂き、
今回のテーマをご自身の無意識の中に結びつけて頂けるよう工夫するつもりです。
初心者が野球を始めるときには、練習試合だけで上達しようとはしないものです。
キャッチボールから始め、素振りやノックを受けて、
徐々に試合の形式に移行していくわけです。
泳ぎを覚えるときも、手順を踏んでいきます。
なのに、小学校で逆上がりを教える時には、いきなりやらされた記憶があります。
それは、いかがなものかと思うんです。
目標とする行動を身につけるために、効果的な学習法があるということです。
それは個人の持っているパートによって変わってくることもあるんです。
小さい子供が初めて泳ぎを身につけるために必要なことと、
カナヅチの大人が泳げるようになるために必要なことは違います。
そこには「パート」が密接に関わっているんです。
パートを見られるようになると、学習は飛躍的に変わると思います。
今回の内容は意味深く、即効性のあるものだと考えていますので、
内容そのものを他言することはお控えいただき、
ご自身のために活用する範囲に留めおき下さい。
もちろん、教育や指導という形で他人に関わるのは「ご自身のため」の範囲内です。
「こういう考え方で見ると分かりやすいよ」というような伝え方はご遠慮願います。
それだけ重要で、僕の中で中核を担っている考え方だとご理解頂ければ幸いです。
勉強会の進行としては、午前中に前回の内容についてと、
今回のテーマを学ぶ上で役立つ「抽象度」の概念に関しての復習をします。
9月の勉強会で体験して頂いた「パート」とのコミュニケーションについて
理解を深めていただくことが、他人のパートを見るトレーニングになります。
抽象度に関しては、8月の勉強会で復習した内容でもあり、
「分かりやすい伝え方」や「メタファー」などとも関連する内容です。
そして午後に『「パート」と学習プロセス』に関して扱っていきます。
いずれか一方のご参加も可能ですが、両方続けてご参加されることをお勧めします。
セミナーや教育、指導、援助ということに関わる方には
大いに役立てて頂ける内容だと思います。
三連休の最終日ですが、ご都合のつく方は是非お越し下さい。
詳細は以下のとおりです。
※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
【日時】 10月13日(月・祝)
午前の部 10:00〜12:30 ※午前の部は2時間30分です。
午後の部 13:30〜16:30
【場所】 北とぴあ 901会議室
(JR京浜東北線・王子駅北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
午前・午後両方ご参加の場合に割引きとなります。(ほんのチョットですけど)
◆午前の部 ・・・3,000円
◆午後の部 ・・・5,000円
《午前・午後両方へご参加の方》 ・・・ 7,000円
テーマ: 午前の部…『パートと抽象度(復習)』&『パートに関するトレーニング』
午後の部…『パートと学習プロセス』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
人は生まれてからずっと学習を続けています。
パートを生み出し、パートを活用して生きています。
長く生きるにつれ、パートの役割も確定していくことになります。
あらゆる行動が効率的になる反面、柔軟性が失われやすい側面も出るようです。
パートを通じた学習を自分なりに工夫できるようになると
世の中から得られる学びの幅は広くなっていくものと予測されます。
パートは組織に似ています。
会社組織は限りある社員数で作られますが、
パートを生み出す無意識には膨大なリソースがある気がします。
パートの概念を活用して無意識の可能性を拡げることも
人生を豊かなものにしてくれると思うのです。
学ぶことそのもの学ぶのも、人生の彩りとして味のあるものではないでしょうか?
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています。
2008年09月25日
左と右
先日、皆で食事をしていた時に、お箸の持ち方が話題に上りました。
自分の記憶をさかのぼると、僕は小さい頃、
おそらく幼稚園か小学校の低学年くらいまで
正しい(とされる)お箸の持ち方をしていなかったんです。
両親は綺麗なお箸の使い方をしていましたし、僕にもそれを教えたはずですが、
僕はなぜか分かりませんが、独自の持ち方でお箸を使っていたんです。
ちょうど鉛筆を持つような感じだった記憶があります。
父からは何も言われなかったような気がしますし、
母は言ったとしても「変わった持ち方ねぇ。よくそれで食べられるわね。」
というようなことを言っていた気がします。
で、ある日、僕は思い立って、自分からお箸の使い方を練習し始めました。
練習と言っても、食べる行為を伴っているので実践で身につけることをしたわけです。
皿の上の豆を隣の皿に移すような練習ではなかったということですね。
何がキッカケだったかは記憶にありませんが、その日のシーンは今も覚えています。
僕はポップコーンをお箸で食べることで、持ち方の矯正を始めました。
その行為を許してくれた両親というのも感謝の対象です。
その時の僕は、今に思い返しても理由が分からず、
どんな発想だったのかも分かりませんが、どういうわけか
左手でお箸の練習を始めました。
僕は右利きですし、当時からお箸は右手で持っていました。
そこで小学校低学年以下くらいの僕は、左手での練習を始めたんです。
確か、その日のうちに、ある程度はポップコーンが食べられるようになったはずです。
そんなことを続けつつ、いつの間にか僕は普通のお箸の使い方を身につけました。
色々と人間の特性に関して学んできた現在の自分からすると、
なかなか上手い学習法だったなぁと思えます。
変な癖がついてしまったものを矯正するのは大変な部分もあるわけです。
そこで、癖がついていない左手で新たに学習プロセスを体験し、それを右手に応用した。
そう考えると説得力を感じます。
そんなことはスッカリ意識を外れ、僕は高校・大学と進学していきました。
僕は中学校の3年間だけ、野球をやっていたんです。
上手くはありませんが、一応やっていました。
それなりに練習をした結果、僕は
遅い球なら空振りをしない程度のバッティングを身につけていたつもりです。
なので、中学校のソフトボール大会みたいなものだと
ボールをバットの芯でとらえるぐらいは自信があったんです。
そして高校に入って、僕はゴルフ部に入部しました。
それもまた、決して本格的な運動部の活動ではありませんでしたが、
練習は熱心に、楽しんでやっていたものです。
「ボールを打つ」という行為が楽しかったんですね。
野球も、ゴルフも。
僕は持ち前の完璧主義と探究心の関係もあって、
「ああでもない、こうでもない」と楽しむよりは苦しむように練習をしていました。
で、高校生活も終わりが近づき、ゴルフ歴も3年目に入ったころ、
体育の授業でソフトボールの時間があったんです。
久しぶりにバットを握りました。
授業というよりは、半分遊びみたいな配慮で行った時間でしたから、
楽しむことが目的で、打ちやすい球を投げるのが前提になっていたわけです。
僕の中には中学校の時に身につけた、あの感覚が残っていました。
「遅い球だったら確実に打てる」
そんな自信を持ってバッターボックスに入ったんです。
ところが僕は愕然としました。
当たりゃしません。
「おかしい!そんなはずでは…」
混乱をよそに、ボールは続けて投げ込まれますが、
当たるつもりで振ったバットは必ず空を切ります。
それどころか、飛んでくるボールに合わせて打つ体制を取ると、
全くボールを待つことができずに下半身がスイングを始めてしまいました。
バットを振ろうとする動きが完全にゴルフの動きになってしまっていたんです。
タイミングはボールに合わせられないわ、スイングはゴルフみたいになってしまうわで、
結局バットとボールは触れることさえありませんでした。
後で友人に言われたのは「完全にゴルフスイングだったよ」と。
ボールが飛んできた場所ではなく、いつものスイング軌道でバットを振っていたようです。
僕の中にあったはずの「飛んでくるボールをバットで打つ」能力は、
「止まっているボールをゴルフクラブで打つ」能力に変わってしまったみたいでした。
まぁ、悔しかったですよ。
それから大学に進み、大学3年の頃。
研究室に配属されると、そこには研究室対抗野球の文化がありました。
にわかに野球ブームなわけです。
ソフトボールでの苦い経験を思い出しながらも、僕は野球を再開しました。
でも、サークルでボチボチとゴルフも続けていましたから、
あの時と逆のように、野球がゴルフを邪魔するのが嫌だったんです。
そこで僕がとった作戦は、「左打ち」でした。
それまで一切、バットを左で振ったことはありませんでしたが、
ゴルフの時から発揮していた完璧主義と探究心が僕の左打ちを促進しました。
毎晩の素振りと、定期的なバッティングセンター通い。
1ヶ月もしないうちにバットは振れるようになり、
2,3ヶ月でバッティングセンターでも人並みに打てるようになりました。
中学校の頃に、自分の中の雰囲気だけでバットを振っていた右打ちとは違い、
左のスイングは完全に意識的に作り上げたスイングです。
その左打ちでボールが打てるようになった頃、
気が向いたので右打ちでもボールを打とうとしてみました。
すると。
これが意外と打てるんです。
あの無惨だった右打ち。
どうやってもゴルフスイングにしかならなかった右打ちのバットが、
いつの間にかタイミングよくボールを捉えてくれます。
面白いものです。
そして心配していたゴルフスイングへの影響も意識できるレベルではありませんでした。
僕の中で、おそらく野球のスイングとゴルフのスイングが別物になったのでしょう。
一度、左打ちを作り上げる過程で意識したせいか、
右打ちでもスイング中の体の動きがよく分かります。
他人の動きも見ていれば、どういう力の入り方なのかが分かりやすくなったようです。
この時に意識した体の動きの感じ方は、今も役に立っています。
人の体の動きと体の構造の関係がなんとなく見える感じがします。
他人の動きからでも力感を感じられるのは、今の仕事にも繋がる部分があります。
ミラーリングだとか、非言語のメッセージの受け取り方とかに役立つわけです。
奇しくも、お箸を左で練習してから右手で矯正したのと同じような戦略で
僕は野球の右打ちに混ざってしまったゴルフの癖を抜くことができたということです。
もちろん、お箸の使い方を矯正した頃の記憶はありませんから
同じプロセスで矯正できたかどうかは分かりませんが、
右の動きを矯正するために左で意識化してトレーニングするという方法自体は
色々なことに使えそうな感じがしています。
催眠的に言えば、利き手は意識の側、反対側が無意識の側ということになります。
無意識の側で意識的なトレーニングをするというのは、
もしかすると効果的なのかもしれません。
絵を描くときでも、左手で描いたり、被写体を上下逆にして描いたりして
意識のプロセスを排除するトレーニングをしたりしますが、
人間の持つ無意識の学習能力を活用するために有効のような気がします。
意識を抑える手法を開発。
さっそく1つのアイデアが浮かんできました。
今度、試してみます。
自分の記憶をさかのぼると、僕は小さい頃、
おそらく幼稚園か小学校の低学年くらいまで
正しい(とされる)お箸の持ち方をしていなかったんです。
両親は綺麗なお箸の使い方をしていましたし、僕にもそれを教えたはずですが、
僕はなぜか分かりませんが、独自の持ち方でお箸を使っていたんです。
ちょうど鉛筆を持つような感じだった記憶があります。
父からは何も言われなかったような気がしますし、
母は言ったとしても「変わった持ち方ねぇ。よくそれで食べられるわね。」
というようなことを言っていた気がします。
で、ある日、僕は思い立って、自分からお箸の使い方を練習し始めました。
練習と言っても、食べる行為を伴っているので実践で身につけることをしたわけです。
皿の上の豆を隣の皿に移すような練習ではなかったということですね。
何がキッカケだったかは記憶にありませんが、その日のシーンは今も覚えています。
僕はポップコーンをお箸で食べることで、持ち方の矯正を始めました。
その行為を許してくれた両親というのも感謝の対象です。
その時の僕は、今に思い返しても理由が分からず、
どんな発想だったのかも分かりませんが、どういうわけか
左手でお箸の練習を始めました。
僕は右利きですし、当時からお箸は右手で持っていました。
そこで小学校低学年以下くらいの僕は、左手での練習を始めたんです。
確か、その日のうちに、ある程度はポップコーンが食べられるようになったはずです。
そんなことを続けつつ、いつの間にか僕は普通のお箸の使い方を身につけました。
色々と人間の特性に関して学んできた現在の自分からすると、
なかなか上手い学習法だったなぁと思えます。
変な癖がついてしまったものを矯正するのは大変な部分もあるわけです。
そこで、癖がついていない左手で新たに学習プロセスを体験し、それを右手に応用した。
そう考えると説得力を感じます。
そんなことはスッカリ意識を外れ、僕は高校・大学と進学していきました。
僕は中学校の3年間だけ、野球をやっていたんです。
上手くはありませんが、一応やっていました。
それなりに練習をした結果、僕は
遅い球なら空振りをしない程度のバッティングを身につけていたつもりです。
なので、中学校のソフトボール大会みたいなものだと
ボールをバットの芯でとらえるぐらいは自信があったんです。
そして高校に入って、僕はゴルフ部に入部しました。
それもまた、決して本格的な運動部の活動ではありませんでしたが、
練習は熱心に、楽しんでやっていたものです。
「ボールを打つ」という行為が楽しかったんですね。
野球も、ゴルフも。
僕は持ち前の完璧主義と探究心の関係もあって、
「ああでもない、こうでもない」と楽しむよりは苦しむように練習をしていました。
で、高校生活も終わりが近づき、ゴルフ歴も3年目に入ったころ、
体育の授業でソフトボールの時間があったんです。
久しぶりにバットを握りました。
授業というよりは、半分遊びみたいな配慮で行った時間でしたから、
楽しむことが目的で、打ちやすい球を投げるのが前提になっていたわけです。
僕の中には中学校の時に身につけた、あの感覚が残っていました。
「遅い球だったら確実に打てる」
そんな自信を持ってバッターボックスに入ったんです。
ところが僕は愕然としました。
当たりゃしません。
「おかしい!そんなはずでは…」
混乱をよそに、ボールは続けて投げ込まれますが、
当たるつもりで振ったバットは必ず空を切ります。
それどころか、飛んでくるボールに合わせて打つ体制を取ると、
全くボールを待つことができずに下半身がスイングを始めてしまいました。
バットを振ろうとする動きが完全にゴルフの動きになってしまっていたんです。
タイミングはボールに合わせられないわ、スイングはゴルフみたいになってしまうわで、
結局バットとボールは触れることさえありませんでした。
後で友人に言われたのは「完全にゴルフスイングだったよ」と。
ボールが飛んできた場所ではなく、いつものスイング軌道でバットを振っていたようです。
僕の中にあったはずの「飛んでくるボールをバットで打つ」能力は、
「止まっているボールをゴルフクラブで打つ」能力に変わってしまったみたいでした。
まぁ、悔しかったですよ。
それから大学に進み、大学3年の頃。
研究室に配属されると、そこには研究室対抗野球の文化がありました。
にわかに野球ブームなわけです。
ソフトボールでの苦い経験を思い出しながらも、僕は野球を再開しました。
でも、サークルでボチボチとゴルフも続けていましたから、
あの時と逆のように、野球がゴルフを邪魔するのが嫌だったんです。
そこで僕がとった作戦は、「左打ち」でした。
それまで一切、バットを左で振ったことはありませんでしたが、
ゴルフの時から発揮していた完璧主義と探究心が僕の左打ちを促進しました。
毎晩の素振りと、定期的なバッティングセンター通い。
1ヶ月もしないうちにバットは振れるようになり、
2,3ヶ月でバッティングセンターでも人並みに打てるようになりました。
中学校の頃に、自分の中の雰囲気だけでバットを振っていた右打ちとは違い、
左のスイングは完全に意識的に作り上げたスイングです。
その左打ちでボールが打てるようになった頃、
気が向いたので右打ちでもボールを打とうとしてみました。
すると。
これが意外と打てるんです。
あの無惨だった右打ち。
どうやってもゴルフスイングにしかならなかった右打ちのバットが、
いつの間にかタイミングよくボールを捉えてくれます。
面白いものです。
そして心配していたゴルフスイングへの影響も意識できるレベルではありませんでした。
僕の中で、おそらく野球のスイングとゴルフのスイングが別物になったのでしょう。
一度、左打ちを作り上げる過程で意識したせいか、
右打ちでもスイング中の体の動きがよく分かります。
他人の動きも見ていれば、どういう力の入り方なのかが分かりやすくなったようです。
この時に意識した体の動きの感じ方は、今も役に立っています。
人の体の動きと体の構造の関係がなんとなく見える感じがします。
他人の動きからでも力感を感じられるのは、今の仕事にも繋がる部分があります。
ミラーリングだとか、非言語のメッセージの受け取り方とかに役立つわけです。
奇しくも、お箸を左で練習してから右手で矯正したのと同じような戦略で
僕は野球の右打ちに混ざってしまったゴルフの癖を抜くことができたということです。
もちろん、お箸の使い方を矯正した頃の記憶はありませんから
同じプロセスで矯正できたかどうかは分かりませんが、
右の動きを矯正するために左で意識化してトレーニングするという方法自体は
色々なことに使えそうな感じがしています。
催眠的に言えば、利き手は意識の側、反対側が無意識の側ということになります。
無意識の側で意識的なトレーニングをするというのは、
もしかすると効果的なのかもしれません。
絵を描くときでも、左手で描いたり、被写体を上下逆にして描いたりして
意識のプロセスを排除するトレーニングをしたりしますが、
人間の持つ無意識の学習能力を活用するために有効のような気がします。
意識を抑える手法を開発。
さっそく1つのアイデアが浮かんできました。
今度、試してみます。
2008年09月23日
ありがとうございました
9月の勉強会にご参加くださいました皆様
ありがとうございました。
『パート』とコミュニケーションをとる取り組みは
なかなか決まった形を明確にすることが難しいところがあって、
ご参加の方々には難しさや戸惑いを感じられる部分があったかもしれません。
幸い、勉強会にご参加の皆様は、センスと意欲と柔軟性に満ちた方ばかりですので、
色々と工夫をしながら無意識を信頼して取り組んでいただけたように思います。
ご自身の無意識との、そして関わった相手の方の無意識との交流を
様々な形で実感して下さっていたものと見ていました。
こうした無意識的な取り組みは、回数を重ねるごとに不思議なほど
自分の無意識のメッセージも、相手の無意識のメッセージも
感じ取りやすくなるようです。
バリエーションを体験していただくためにも、
実習として行えるような機会を増やせれば、と考えています。
今回は、開催の時期的なところもあって、個人的に
皆様から驚きと喜びを頂くこともできました。
以前の僕には「主役の時間」を受け取れないところがありました。
それは、照れてしまうのではなく、仲間外れの寂しさを感じるのに近かったんです。
一人だけ全員の輪から外れてしまう印象を持ってしまっていました。
それも僕のパートだったのでしょうね。
そのことを思うと、今回、皆様のお気持ちを素直に喜べたこともまた
僕にとって喜びを増してくれることでもありました。
この場を借りて御礼を申し上げます。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
『パート』とコミュニケーションをとる取り組みは
なかなか決まった形を明確にすることが難しいところがあって、
ご参加の方々には難しさや戸惑いを感じられる部分があったかもしれません。
幸い、勉強会にご参加の皆様は、センスと意欲と柔軟性に満ちた方ばかりですので、
色々と工夫をしながら無意識を信頼して取り組んでいただけたように思います。
ご自身の無意識との、そして関わった相手の方の無意識との交流を
様々な形で実感して下さっていたものと見ていました。
こうした無意識的な取り組みは、回数を重ねるごとに不思議なほど
自分の無意識のメッセージも、相手の無意識のメッセージも
感じ取りやすくなるようです。
バリエーションを体験していただくためにも、
実習として行えるような機会を増やせれば、と考えています。
今回は、開催の時期的なところもあって、個人的に
皆様から驚きと喜びを頂くこともできました。
以前の僕には「主役の時間」を受け取れないところがありました。
それは、照れてしまうのではなく、仲間外れの寂しさを感じるのに近かったんです。
一人だけ全員の輪から外れてしまう印象を持ってしまっていました。
それも僕のパートだったのでしょうね。
そのことを思うと、今回、皆様のお気持ちを素直に喜べたこともまた
僕にとって喜びを増してくれることでもありました。
この場を借りて御礼を申し上げます。
ありがとうございました。
2008年09月21日
自分という組織
仕事柄、無意識ということについて考えたり、
直接的に触れ合ったりすることが多いですが、
つくづく「人間はスゴイ、無意識は素晴らしい」と実感します。
無意識をどのように捉えるかは色々な考え方がありますが、
もう一人の自分として擬人化するにせよ、自分の一部と捉えるにせよ、
メカニズム的な人間の機能として理解するにせよ、
無意識という存在によって人間が楽に生きられていることは疑いようがない所でしょう。
自分自身が生きている上で、無意識がどれくらい自分の役に立っているかということを
当たり前と捉えることもできる一方で、そのことに感謝することもできるわけです。
ただ世間一般では、無意識というものは自分の理解の範疇を超えた手に負えないもの、
自分には知ることのできない世界、というような感じで、
意識的に捉えている自分自身やアイデンティティから距離を置く印象が多いようですね。
「無意識のうちにやってしまっていた…」とか、
「やめようと思っても、ついついやってしまう…」とか、
「無意識が成功を止めている」とか、
そのような表現も目にします。
人間の意識が3%で無意識が97%(意識10%、無意識90%ぐらいまで見かけますが)
というように、「自分は無意識によってコントロールされていて、
意識で頑張っても無意識に支配されたことには太刀打ちできない」
とでも言うようなメッセージが多いようだということです。
こうした表現は多くの人に向けて書かれたとき、共感を生みやすいのでしょう。
誰もが自分の意識でどうにもならないこと、頑張ってもできないこと、
なぜかいつも上手くいかないことなどを実感してきているでしょうから。
だからこそ、セールスレターや一般向けの「つかみ」のメッセージとして
様々なところで使い勝手良く書かれているのだろうと推測します。
「本当は無意識が自分を守ってくれているんです」と書いても
実感したことのない人にとってはインパクトが弱いのかもしれません。
古典的な催眠療法を行う人の中にも、心理セラピーや成功法則を謳う人の中にも、
無意識(潜在意識)の強大な力をアピールする傾向が見て取れます。
そのような流れがある中で、ミルトン・エリクソンからの流れは趣旨が違います。
無意識を徹底的に信頼しているんです。
無意識は自分自身を必ず守ってくれている、という見方です。
ただ、これは体験的に実感しないことには納得しずらいものでもあります。
そのためには自分の無意識と交流し、無意識が守ってくれているということを
実感を持って感じ取る必要があります。
自分の無意識とコミュニケーションをとって、その存在と意味を
「なんとなく」かつ「しっくりと」感じてみる必要があるはずです。
ここでも素晴らしいと思うのは、誰しもが、その「なんとなく」の無意識のメッセージを
自分で気づいたときには「しっくりと」感じることができる点です。
自分のことだからとは言え、それを多くの人が感じられるのは興味深いものです。
だからこそ、その無意識との交流の手法が重要なわけですが。
僕自身は、自分の体験で自分の無意識を感じる事と、
多くの人との関わりの中で、その無意識の素晴らしさを感じてきたことで、
実感として無意識を信じているところがあります。
それは、生理的な視点からの表現で言えば、「人間は良く出来ている」ということで、
心理的な視点からの表現で言えば、「無意識は素晴らしい」ということになります。
様々な形で無意識というものを見てくると、人間の行いの全てに
無意識が関わっているのが感じられます。
ただ、無意識という言葉を使ったり、潜在意識という言葉を使ったり、
ましてNLP的に「パート」という表現を使ったりする場合には、
どうしても心理療法的な視野から見てしまいがちになり
他の様々な場面で無意識が活用されるところを見過ごしがちなように思います。
逆に、無意識という言葉を普段から使わないサイエンス寄りの人々や
日常生活的・社会活動的な視点から人を見ている人々などは、
自分たちの説明している内容が無意識とどのように関わっているかなどは
意識もしないような気がします。
例えば、最近の脳科学ブームで学習や能力開発、自己啓発などに関して説明するときは
脳科学的な言葉で説明をしていくわけです。
病気の説明であれば医学的な話になるのが普通ですし、
趣味やスポーツの話であれば、技術論も精神論も専門的に語られることが多いでしょう。
逆にテレビで目にする心霊現象や超常現象の話には専門家の説明がなされますし、
精神世界の話を書いた本には共通する部分が見えてきます。
いずれにせよ、どのような説明の仕方をしていたとしても
そこに人間の無意識が関わっている可能性があるはずだと思うんです。
そして、それぞれを上手く組み合わせて説明をしていくと
より効果的だと思えることが見えてくるのではないでしょうか。
無意識に対する考え方の中でもパートというのは非常に本質的だと思います。
パートという言葉を使わなくても説明はできますが、
パートとしたほうが効果的に組み合わせられるケースもあるわけです。
なぜならパートという表現は、自分の中の部分というニュアンスを含み、
自分という全体を部分が生み出しているという考えに繋がるからです。
それは組織の中に多くに人員が関わっていることと似ています。
集団ではなく、組織というのがポイントです。
つまり役割があるんです。
様々なパートに役割を与え、役割同士の関わりも変えていきます。
新たな役割や新たな人員が加わることもあります。
組織が生まれ変わっていくわけです。
実際の組織と違うようなのは、人員削減がないことでしょうか。
人員削減も不可能ではないのかもしれませんが、自分の一部であることを考えると
なくしてしまうような方法は通常では行われないようです。
何かの目的に対して組織をマネジメントしていく。
そうやって考えると、パートという形でも無意識との交流が
様々な場面に使える可能性が見えてきます。
僕が常日頃、勉強会やコミュニケーションのトレーニングの場面でしている方法も
パートという考え方で説明することができます。
学習は無意識なしにはあり得ません。
だからこそ、無意識を活用する方法が役立つわけです。
次回の勉強会は、パートと学習の関係について整理してみようかと思います。
直接的に触れ合ったりすることが多いですが、
つくづく「人間はスゴイ、無意識は素晴らしい」と実感します。
無意識をどのように捉えるかは色々な考え方がありますが、
もう一人の自分として擬人化するにせよ、自分の一部と捉えるにせよ、
メカニズム的な人間の機能として理解するにせよ、
無意識という存在によって人間が楽に生きられていることは疑いようがない所でしょう。
自分自身が生きている上で、無意識がどれくらい自分の役に立っているかということを
当たり前と捉えることもできる一方で、そのことに感謝することもできるわけです。
ただ世間一般では、無意識というものは自分の理解の範疇を超えた手に負えないもの、
自分には知ることのできない世界、というような感じで、
意識的に捉えている自分自身やアイデンティティから距離を置く印象が多いようですね。
「無意識のうちにやってしまっていた…」とか、
「やめようと思っても、ついついやってしまう…」とか、
「無意識が成功を止めている」とか、
そのような表現も目にします。
人間の意識が3%で無意識が97%(意識10%、無意識90%ぐらいまで見かけますが)
というように、「自分は無意識によってコントロールされていて、
意識で頑張っても無意識に支配されたことには太刀打ちできない」
とでも言うようなメッセージが多いようだということです。
こうした表現は多くの人に向けて書かれたとき、共感を生みやすいのでしょう。
誰もが自分の意識でどうにもならないこと、頑張ってもできないこと、
なぜかいつも上手くいかないことなどを実感してきているでしょうから。
だからこそ、セールスレターや一般向けの「つかみ」のメッセージとして
様々なところで使い勝手良く書かれているのだろうと推測します。
「本当は無意識が自分を守ってくれているんです」と書いても
実感したことのない人にとってはインパクトが弱いのかもしれません。
古典的な催眠療法を行う人の中にも、心理セラピーや成功法則を謳う人の中にも、
無意識(潜在意識)の強大な力をアピールする傾向が見て取れます。
そのような流れがある中で、ミルトン・エリクソンからの流れは趣旨が違います。
無意識を徹底的に信頼しているんです。
無意識は自分自身を必ず守ってくれている、という見方です。
ただ、これは体験的に実感しないことには納得しずらいものでもあります。
そのためには自分の無意識と交流し、無意識が守ってくれているということを
実感を持って感じ取る必要があります。
自分の無意識とコミュニケーションをとって、その存在と意味を
「なんとなく」かつ「しっくりと」感じてみる必要があるはずです。
ここでも素晴らしいと思うのは、誰しもが、その「なんとなく」の無意識のメッセージを
自分で気づいたときには「しっくりと」感じることができる点です。
自分のことだからとは言え、それを多くの人が感じられるのは興味深いものです。
だからこそ、その無意識との交流の手法が重要なわけですが。
僕自身は、自分の体験で自分の無意識を感じる事と、
多くの人との関わりの中で、その無意識の素晴らしさを感じてきたことで、
実感として無意識を信じているところがあります。
それは、生理的な視点からの表現で言えば、「人間は良く出来ている」ということで、
心理的な視点からの表現で言えば、「無意識は素晴らしい」ということになります。
様々な形で無意識というものを見てくると、人間の行いの全てに
無意識が関わっているのが感じられます。
ただ、無意識という言葉を使ったり、潜在意識という言葉を使ったり、
ましてNLP的に「パート」という表現を使ったりする場合には、
どうしても心理療法的な視野から見てしまいがちになり
他の様々な場面で無意識が活用されるところを見過ごしがちなように思います。
逆に、無意識という言葉を普段から使わないサイエンス寄りの人々や
日常生活的・社会活動的な視点から人を見ている人々などは、
自分たちの説明している内容が無意識とどのように関わっているかなどは
意識もしないような気がします。
例えば、最近の脳科学ブームで学習や能力開発、自己啓発などに関して説明するときは
脳科学的な言葉で説明をしていくわけです。
病気の説明であれば医学的な話になるのが普通ですし、
趣味やスポーツの話であれば、技術論も精神論も専門的に語られることが多いでしょう。
逆にテレビで目にする心霊現象や超常現象の話には専門家の説明がなされますし、
精神世界の話を書いた本には共通する部分が見えてきます。
いずれにせよ、どのような説明の仕方をしていたとしても
そこに人間の無意識が関わっている可能性があるはずだと思うんです。
そして、それぞれを上手く組み合わせて説明をしていくと
より効果的だと思えることが見えてくるのではないでしょうか。
無意識に対する考え方の中でもパートというのは非常に本質的だと思います。
パートという言葉を使わなくても説明はできますが、
パートとしたほうが効果的に組み合わせられるケースもあるわけです。
なぜならパートという表現は、自分の中の部分というニュアンスを含み、
自分という全体を部分が生み出しているという考えに繋がるからです。
それは組織の中に多くに人員が関わっていることと似ています。
集団ではなく、組織というのがポイントです。
つまり役割があるんです。
様々なパートに役割を与え、役割同士の関わりも変えていきます。
新たな役割や新たな人員が加わることもあります。
組織が生まれ変わっていくわけです。
実際の組織と違うようなのは、人員削減がないことでしょうか。
人員削減も不可能ではないのかもしれませんが、自分の一部であることを考えると
なくしてしまうような方法は通常では行われないようです。
何かの目的に対して組織をマネジメントしていく。
そうやって考えると、パートという形でも無意識との交流が
様々な場面に使える可能性が見えてきます。
僕が常日頃、勉強会やコミュニケーションのトレーニングの場面でしている方法も
パートという考え方で説明することができます。
学習は無意識なしにはあり得ません。
だからこそ、無意識を活用する方法が役立つわけです。
次回の勉強会は、パートと学習の関係について整理してみようかと思います。
2008年09月19日
なにがなんでも
他人に対して怒りや悲しみ、不満などが沸いてくるのは
多くの場合、相手への期待があるからでしょう。
「こうあって欲しい」、「こういう対応をして欲しい」
そういうことを意識するにせよ、無意識にせよ、相手に対して感じている。
だから、その思いが満たされないときに「不満」と感じ、怒りや悲しみを感じるわけです。
その中には、自分にとってのルール、自分にとっての「当たり前」という
勝手な信条体系に当てはめて他人の行動を評価して、
それを守らない相手に怒りをぶつけるなどというのも含まれます。
自分にとって当たり前としてきたルールを鵜呑みにして、それを疑うことなく、
当然他人も従うべきものだと考えるのは、自他の区別がつかないことを示す気がします。
ただ、その裏側には本人の大切にしていることが存在しているとも言えるはずです。
自分が大切にしていることを相手が大切にしないから不満だということです。
そのとき「自分にとって大切なんだから、あなたも大切にして下さい」というのは
自分勝手な主張にも思えますが、それを相手に伝えた上で相手が何を選択するかは、
自分にどうこうできるものではありません。
相手がどうしてくれるかは別にして、自分から大切な思いを伝える。
それで相手が大切にしてくれなかったとしても仕方ない。
そのような形で自分の選択に責任を持つことが大人の対応だと考えます。
自分から相手に求めるものを伝えることなく、
「相手が大切にしてくれない」と不満を感じるのは大人のすることではないわけです。
そうしたことを踏まえても、時には
怒りや悲しみ、不満を感じることが大切なときもあると思うんです。
自分の思い通りにならないことへの不満さえ、大切な時もあるはずです。
それは自分が大切にしているものを守るときです。
自分が大切にしていることに他人が酷い扱い方をした。
そこで起きる不満は「大切にして欲しい」という前提からは少し違います。
「もちろん大切にしてもらえるに越したことはない。
でも、相手が大切にしてくれなくてもいい。
ただ、それを土足で踏みにじるようなことはしてもらいたくない。」
そこに常識とかルールやマナーは関係ありません。
本人がとても大切にしていることがあるかどうかです。
それを「自分のもの」として認識しているかどうかも関係ありません。
自分のものだから大切だというのは身勝手な発想だと思います。
「自分の」所有物というものを意識するのは小さい子供も同じですが、
対極的に見て、本当に「自分のもの」と呼べるものは無いでしょう。
何かのモノを買ったというときでも、それは多くの人の仕事の成果に対して
自分がした労力で手に入れたお金を支払って、自分がそれを使う権利を得たに過ぎません。
自分の命だって本当に自分のものと言えるかどうか。
人生に対して真剣な人は、そういう意識をするときもあると思います。
重要なのは、自分が気持ちと労力と時間を大きく向けるものがあって、
それが本人にとって大切なことだというところです。
全く見ず知らずの存在でも、自分にとって大切なものであれば
自分の身体と気持ちを向けていくことができるわけです。
それぐらい大切なものというのは、人にはあるわけです。
そういうものを他人から、ないがしろにされたとき
強い怒りや悲しみが沸いてくるのは当然だとも思うんです。
それだけ大切なものだということです。
そうした不満だって自分勝手といえば、自分勝手なものでしょう。
ただ、自分にとって、それだけ大切なものだったということは変わりません。
激しい怒りや悲しみをもってしても大切にしたいことがある。
どうしても許せないことがある。
何が何でも守りたいものがある。
そこで沸いてくる強い感情は、大切な何かを守るためのエネルギーでもあるはずです。
それだけ大切にしたいことがあるというのは、幸せなことでもあるのかもしれません。
多くの場合、相手への期待があるからでしょう。
「こうあって欲しい」、「こういう対応をして欲しい」
そういうことを意識するにせよ、無意識にせよ、相手に対して感じている。
だから、その思いが満たされないときに「不満」と感じ、怒りや悲しみを感じるわけです。
その中には、自分にとってのルール、自分にとっての「当たり前」という
勝手な信条体系に当てはめて他人の行動を評価して、
それを守らない相手に怒りをぶつけるなどというのも含まれます。
自分にとって当たり前としてきたルールを鵜呑みにして、それを疑うことなく、
当然他人も従うべきものだと考えるのは、自他の区別がつかないことを示す気がします。
ただ、その裏側には本人の大切にしていることが存在しているとも言えるはずです。
自分が大切にしていることを相手が大切にしないから不満だということです。
そのとき「自分にとって大切なんだから、あなたも大切にして下さい」というのは
自分勝手な主張にも思えますが、それを相手に伝えた上で相手が何を選択するかは、
自分にどうこうできるものではありません。
相手がどうしてくれるかは別にして、自分から大切な思いを伝える。
それで相手が大切にしてくれなかったとしても仕方ない。
そのような形で自分の選択に責任を持つことが大人の対応だと考えます。
自分から相手に求めるものを伝えることなく、
「相手が大切にしてくれない」と不満を感じるのは大人のすることではないわけです。
そうしたことを踏まえても、時には
怒りや悲しみ、不満を感じることが大切なときもあると思うんです。
自分の思い通りにならないことへの不満さえ、大切な時もあるはずです。
それは自分が大切にしているものを守るときです。
自分が大切にしていることに他人が酷い扱い方をした。
そこで起きる不満は「大切にして欲しい」という前提からは少し違います。
「もちろん大切にしてもらえるに越したことはない。
でも、相手が大切にしてくれなくてもいい。
ただ、それを土足で踏みにじるようなことはしてもらいたくない。」
そこに常識とかルールやマナーは関係ありません。
本人がとても大切にしていることがあるかどうかです。
それを「自分のもの」として認識しているかどうかも関係ありません。
自分のものだから大切だというのは身勝手な発想だと思います。
「自分の」所有物というものを意識するのは小さい子供も同じですが、
対極的に見て、本当に「自分のもの」と呼べるものは無いでしょう。
何かのモノを買ったというときでも、それは多くの人の仕事の成果に対して
自分がした労力で手に入れたお金を支払って、自分がそれを使う権利を得たに過ぎません。
自分の命だって本当に自分のものと言えるかどうか。
人生に対して真剣な人は、そういう意識をするときもあると思います。
重要なのは、自分が気持ちと労力と時間を大きく向けるものがあって、
それが本人にとって大切なことだというところです。
全く見ず知らずの存在でも、自分にとって大切なものであれば
自分の身体と気持ちを向けていくことができるわけです。
それぐらい大切なものというのは、人にはあるわけです。
そういうものを他人から、ないがしろにされたとき
強い怒りや悲しみが沸いてくるのは当然だとも思うんです。
それだけ大切なものだということです。
そうした不満だって自分勝手といえば、自分勝手なものでしょう。
ただ、自分にとって、それだけ大切なものだったということは変わりません。
激しい怒りや悲しみをもってしても大切にしたいことがある。
どうしても許せないことがある。
何が何でも守りたいものがある。
そこで沸いてくる強い感情は、大切な何かを守るためのエネルギーでもあるはずです。
それだけ大切にしたいことがあるというのは、幸せなことでもあるのかもしれません。
2008年09月17日
価値を考えてみる
先日、感性工学会に行ってきたという話を書きましたが、
感性工学というのは実に幅広い分野だということです。
人間の感性という曖昧で多様化したものに対して
工学的にアプローチするというスタンスですから、
「感性」というものに関わっていれば大半のことはテーマとなりえるわけです。
もちろん、その過程においては「感性」そのものの定義も重要ですから
「感性とは何か」ということも議論の対象になるようです。
工学的ということは実社会において役立つことが前提ですから
産業への応用を踏まえて研究がおこなわれることになります。
その中には、無理矢理に応用と結び付けようとしている感じのテーマもあれば
実際のビジネスの場面で起きている現象を工学的に解析しようとするスタンスもあります。
実際のビジネス現場に関するところでは、例えば、商品や店舗のデザインだとか、
飲食店のBGMとか、居心地とか、「商品の価値」を決める様々な要素を
研究テーマとして扱っているので、空論になりずらく面白いんです。
実際に起きていることと理論化されたことを結び付けて解釈することも
理論を実践する側に問われる部分ですが、感性工学においては
多様化している人の感性というものを意識することで、
短絡的な決め付けを避けて、個人の価値に迫ろうとする意欲を感じます。
今でもまだ十分に目にしますが、何かのビジネス書に書いてあることや
セミナーに出かけて入手した情報をそのまま使って、
ネット上でビジネスをしているケースがあります。
丸々モノマネするようにして書いたセールスレターもあるようです。
そういうのは短絡的なんです。
理論や手法がどのように人の心に関わっていくかが抜けている印象があるんです。
対象とする人を見ていない気がするんです。
感性工学会で目にする研究報告にも人を意識できていないものあるように感じましたが、
感性を意識したビジネスというのは常に人を見ることがスタートのように思えます。
とりわけ最近の日本人は商品の価値を幅広く受け取っているようです。
理性的に考えれば到底あり得ないようなものを買ってしまう。
仮面ライダーやガンダムなどのキャラクターものだったり、
プレミアのついたものだったりすると「なんとなく」欲しくなってしまうわけです。
先日、コンビニでジュースのペットボトルのフタの部分に
「キン肉マン」に出てくるウォーズマンとロビンマスクの顔がついているものを
見かけましたが、量も少なく500円という価格なのに、
不思議と欲しくなってしまう自分がいました。
また、伊藤園から発売されているペットボトルの抹茶は
フタの部分に工夫がされていて水と抹茶が別の状態で売られているんです。
チョット変わった形状と、お茶のはずなのに水しか入っていないペットボトル。
そして飲むときに抹茶の粉がペットボトルに入り、振ることで抹茶が泡立つ仕組み。
「面白そう、やってみたい」と、なんとなく興味を引かれます。
商品そのものの機能や用途、例えばジュースの味や、携帯電話の電話としての機能など、
そうした直接的で代用の利く部分以外にも商品に価値があるわけです。
付加価値とも言えるような、感性に訴える「感性価値」ということです。
先日の感性工学会で、セイコーの人が時計の感性価値について発表をしていましたが、
50万円以上する高級時計のシリーズでありながら、その発表を聞いているだけで
「いいなぁ、欲しいなぁ」という欲求が出てきたものです。
学会発表ですから決して商品のアピールを強くしているわけではありません。
感性価値の訴え方そのものを発表していたにも関わらず、
全くその時計の存在を知らなかった僕の感性は刺激されたわけです。
ちなみに僕は普段、腕時計をしませんが、
「これだったら欲しいなぁ」と思えるようなものに変わったわけです。
人が何かを購入するときには、様々な価値要因を総合して判断するはずです。
「この店は味がいい、でも接客がなぁ…」
「どういうわけか、この店に来ると落ち着くんだよなぁ」
などと様々な要因をひっくるめてお金を払うわけです。
その感性価値をアピールすることがビジネスに求められるという話です。
自分が行うセミナーの感性価値はなんだろうか?
見落としていることはないか?
そんなことを考えたりします。
そうでないと、期待して下さった方を裏切るわけですから。
感性工学というのは実に幅広い分野だということです。
人間の感性という曖昧で多様化したものに対して
工学的にアプローチするというスタンスですから、
「感性」というものに関わっていれば大半のことはテーマとなりえるわけです。
もちろん、その過程においては「感性」そのものの定義も重要ですから
「感性とは何か」ということも議論の対象になるようです。
工学的ということは実社会において役立つことが前提ですから
産業への応用を踏まえて研究がおこなわれることになります。
その中には、無理矢理に応用と結び付けようとしている感じのテーマもあれば
実際のビジネスの場面で起きている現象を工学的に解析しようとするスタンスもあります。
実際のビジネス現場に関するところでは、例えば、商品や店舗のデザインだとか、
飲食店のBGMとか、居心地とか、「商品の価値」を決める様々な要素を
研究テーマとして扱っているので、空論になりずらく面白いんです。
実際に起きていることと理論化されたことを結び付けて解釈することも
理論を実践する側に問われる部分ですが、感性工学においては
多様化している人の感性というものを意識することで、
短絡的な決め付けを避けて、個人の価値に迫ろうとする意欲を感じます。
今でもまだ十分に目にしますが、何かのビジネス書に書いてあることや
セミナーに出かけて入手した情報をそのまま使って、
ネット上でビジネスをしているケースがあります。
丸々モノマネするようにして書いたセールスレターもあるようです。
そういうのは短絡的なんです。
理論や手法がどのように人の心に関わっていくかが抜けている印象があるんです。
対象とする人を見ていない気がするんです。
感性工学会で目にする研究報告にも人を意識できていないものあるように感じましたが、
感性を意識したビジネスというのは常に人を見ることがスタートのように思えます。
とりわけ最近の日本人は商品の価値を幅広く受け取っているようです。
理性的に考えれば到底あり得ないようなものを買ってしまう。
仮面ライダーやガンダムなどのキャラクターものだったり、
プレミアのついたものだったりすると「なんとなく」欲しくなってしまうわけです。
先日、コンビニでジュースのペットボトルのフタの部分に
「キン肉マン」に出てくるウォーズマンとロビンマスクの顔がついているものを
見かけましたが、量も少なく500円という価格なのに、
不思議と欲しくなってしまう自分がいました。
また、伊藤園から発売されているペットボトルの抹茶は
フタの部分に工夫がされていて水と抹茶が別の状態で売られているんです。
チョット変わった形状と、お茶のはずなのに水しか入っていないペットボトル。
そして飲むときに抹茶の粉がペットボトルに入り、振ることで抹茶が泡立つ仕組み。
「面白そう、やってみたい」と、なんとなく興味を引かれます。
商品そのものの機能や用途、例えばジュースの味や、携帯電話の電話としての機能など、
そうした直接的で代用の利く部分以外にも商品に価値があるわけです。
付加価値とも言えるような、感性に訴える「感性価値」ということです。
先日の感性工学会で、セイコーの人が時計の感性価値について発表をしていましたが、
50万円以上する高級時計のシリーズでありながら、その発表を聞いているだけで
「いいなぁ、欲しいなぁ」という欲求が出てきたものです。
学会発表ですから決して商品のアピールを強くしているわけではありません。
感性価値の訴え方そのものを発表していたにも関わらず、
全くその時計の存在を知らなかった僕の感性は刺激されたわけです。
ちなみに僕は普段、腕時計をしませんが、
「これだったら欲しいなぁ」と思えるようなものに変わったわけです。
人が何かを購入するときには、様々な価値要因を総合して判断するはずです。
「この店は味がいい、でも接客がなぁ…」
「どういうわけか、この店に来ると落ち着くんだよなぁ」
などと様々な要因をひっくるめてお金を払うわけです。
その感性価値をアピールすることがビジネスに求められるという話です。
自分が行うセミナーの感性価値はなんだろうか?
見落としていることはないか?
そんなことを考えたりします。
そうでないと、期待して下さった方を裏切るわけですから。
2008年09月14日
「伝える」ということ
コーチングにせよ、カウンセリングにせよ、
コミュニケーションを謳っているものは「聴く」ことを中心にするようです。
NLPでもそうですし、僕が勉強会で扱う内容も「聴く」側が多くなります。
コールドリーディングは相手から話を聞くことなく相手の情報を言い当てるようにして
「この人は分かっている」と思ってもらう技術ですが、主役は相手であって、
なるべく相手が自分から話す状態を作るようにしていきます。
以前、勉強会で「分かりやすい伝え方」というテーマを扱ったときも、
「伝える」ことよりも相手が「分かる」状態を作り出すほうに主眼を置きました。
僕にとってはコミュニケーションで意識することは相手が中心だと言えますし、
多くのコミュニケーション技法が自分以外の相手を意識しているようです。
ファシリテーションなどは、まさに他人のためのコミュニケーション技法でしょう。
もちろん、アサーションやディベート、交渉術など、
自分の意見を主体としたやり方もありますが、それは目的と場面を選ぶ気がします。
「聴く」技術を学ぶことは、日常のコミュニケーションに活かしやすいわけです。
一方で、コミュニケーションを「聴く」と「伝える(話す)」、
「相手主体」と「自分主体」というように分けてみると、確かに
『自分の言いたいことを伝える』という要素も大切だと思えてくるでしょう。
「表現する」、「伝える」、「教える」、「指示」、「プレゼンテーション」など
自分からメッセージを発信するときにも重要なことは沢山あります。
ただ、このときに気をつける点があると思うんです。
それは目的です。
目的をハッキリさせることが大切だと考えられます。
目的を明確にするのは、あらゆるコミュニケーションに共通する大切な要素です。
今、自分がしようとしているコミュニケーションの目的は何か
それを本当に明確にできる人は極めて少ないものです。
ちなみに、アサーションというトレーニングが効果を発揮するのは、
この自分が分かってもらいたい本当の気持ちに気づくことができる部分でしょう。
多くの人はコミュニケーションにおいて自分の本当の気持ちさえ語れません。
本当の気持ちを語らないままに、相手に期待することが多いんです。
本当の欲求を言葉で伝えるのは率直過ぎて、ワガママにも思われるでしょうし。
何よりも、自分の欲求を伝えるために言葉が使えるようになるのは
ある程度の年齢になってからだというのが大きいはずです。
言葉も話せない頃から自分の欲求を伝えようと工夫して、
期待を裏切られることを繰り返しながら、人は歪んだ表現方法を身につけていくわけです。
例えば、自慢話をするのなら、それは尊敬してもらいたいと推測されます。
「スゴイですね!」と賞賛され、持ち上げられたいんです。
にも関わらず、誰も「これから自慢するから賞賛してください」と言ってから
自慢話を始めることはしません。
自分が承認や賞賛の欲求を持ち、相手にそれを期待しているとは気づかないからです。
知らず知らずに求めたくなってしまうということです。
自分の本当の気持ちに気づくことさえ難しいのに、
別の人がそれを理解するというのは至難の業というものでしょう。
アサーションはコミュニケーションの結果に目的を設定しないように思われるんです。
まずは自分の本当の気持ちに気づきましょう、というところが出発点に感じます。
そして、自分の気持ちに気づけたら、目的を意識する必要が出てきます。
何を目的に「伝える」ことをするのか、です。
伝わることが目的なのでしょうか?
だとしたら「何を伝えたいか」が重要です。
相手の必要としている情報を提供するという場合は、これに当てはまると思います。
ですが、相手が必要としている情報があるのなら、
相手が情報を手に入れたと判断するかどうかが基準になります。
伝え方の技術で変わる部分は、相手が「手に入れた」と判断するまでの時間。
「伝わる」かどうかの基準は相手にあるんです。
相手が言葉にした「知りたかったことは分かりました」という内容で判断するわけです。
ただ、残念ながら、相手が自分の提供した情報を100%理解することはあり得ません。
絶対にありません。
言葉にまつわる体験が個人によって異なる以上、概念の理解のされ方も人それぞれです。
相手が「分かった」と判断した時には、必ず相手の言葉で情報が整理し直されているんです。
その前提では、自分と同じように「分かる」ことを相手に求めるのは不可能ですから、
相手が「納得できた」と判断した部分を言葉から受け取るのが精一杯でしょう。
「伝わる」ことそのものが目的の場合、その目的が達成されたかどうかは
相手から返ってくる「理解した」という言葉によって判断することになるわけです。
このような情報提供としての伝え方であれば、
「分かりやすさ」という意味で技術的に向上させる要素があります。
以前の勉強会では、それを「分かりやすい伝え方」として扱いました。
筋道立てて話したいとか、自分の考えを上手く言葉にしたいとか、
そういう意図を持っているのであれば「伝え方」で工夫できる部分があると思います。
ただ、僕の受ける印象としては「伝える」ことに気持ちが向くときの多くは、
相手への情報伝達そのものを目的としていない気がするんです。
伝える側自身が気づかないうちに、「伝わる」ことの先にある結果に
コミュニケーションの目的を求めているように思えます。
例えば、プライベートな関係の会話や雑談などでは、
多くの人は相手の対応に対して無意識的に期待をしています。
なんとなく「こうしてくれるだろうなぁ」というのを持っているんです。
愚痴を言うときであれば、「それは大変だね」とか「ひどいね」とか、
相手からの同意を通じて自分の気持ちを発散させようという目的があるはずです。
だから「世の中、そんなもんだよ」などと言われると不満を感じるわけです。
自慢話をするのであれば相手からの称賛や尊敬を期待しているでしょうし、
面白い体験の話をするのなら相手が笑ってくれることを期待しているでしょう。
一緒に盛り上がってもらいたいと期待していることもあるかもしれません。
辛かった話、悲しかった話をするときは、なぐさめてもらいたいわけですし、
頑張ったけど成果が出なかったときは、ねぎらって欲しいものでしょう。
自分から話をするとき、つまり相手に対して「伝える」行為を始めるとき、
自分の感情や気持ちを認めてもらいたいという期待があるんです。
共感を求めているんです。
「自分は素晴らしい」「自分はOKだ」ということを相手を通じて確認したい。
そういう目的の元にコミュニケーションをしている可能性が非常に高いはずです。
その目的を相手に伝えることなく目的を達成しようとするのは相手への期待です。
自分が期待している反応が相手から得られるまで、多くの人が工夫しようとするんです。
「自分の伝え方が悪いから相手が分かってくれないんじゃないか?」と考えて。
確かに伝え方を変えれば、期待していることは得られるでしょう。
「私は今、あなたから『大変だったね』と言ってもらいたいです」
というふうに自分の目的を意識化してハッキリと伝える。
そうすれば相手も『大変だったね』と言ってくれる可能性は高まります。
ただ、そうして達成された目的では満足できないほど、人はワガママなものです。
重要なのは、「分かってくれた」と判断する基準が相手の対応にあるところです。
自慢話を聞いている人の中には、
「どうせ『スゴイですね!』って言って欲しいんだろ?言わねぇよ!」
と思いながら聞いている人もいるはずです。
つまり、目的としている内容は伝わっていても、期待通りの相手の対応が得られないから
「自分の伝え方が悪い」と判断してしまうケースもあるということです。
このようなことは仕事の場面や、プライベートにおいて相手に要求する場面で起きがちです。
仕事で指示を出す場合であれば、コミュニケーションの目的は
相手が仕事で期待通りの結果を出してくれることでしょう。
仕事での成果が、「伝える」ことの目的だと思われます。
であれば、「伝え方」に関わらず、相手の仕事の成果が上がるように
コミュニケーションを行っていけばいい、という発想が出てくるわけです。
質問の技術を活用して相手の成果を引き出したって良いわけです。
コーチングが企業に導入されやすい理由の1つが、これでしょう。
一方、仕事での指示の出し方において「伝わる」かどうかに意識が向くとき、
相手が自分の考え通りに行動して成果を出して欲しい、
という目的が追加されている可能性が考えられます。
「伝わった」と判断する基準が相手の行動にあるわけです。
相手が自分の意図したとおりに行動したとき、「伝わった」と判断する。
そうだとしたら、それは「伝える」ことが目的なのではなく、
「自分の思い通りに相手を動かす」ことが目的なのではないでしょうか。
仕事での指示だけじゃありません。
相手に対して、自分の要望を伝えるときは全てそうです。
「あなたのこういうところが気に入らないから変えて下さい」
「それはおかしいと思いますから、やめて下さい」
「そういうことはルール違反です」
「あなたには、もっとこういう風にしてもらいたい」
「今のやり方よりも、もっとこうやったら良くなるのに」
こういう要望が「伝わった」と判断されるのは、おそらく
相手が納得して実際に行動を変えてくれたときではないかと思います。
実際には、自分の伝えたい内容そのものは相手にシッカリと伝わっているのに、
相手が受け入れようとしなくて、納得も変化もてくれないというケースもあるはずです。
そういう事態に対して
「伝わらないなぁ。自分の伝え方が悪いのかなぁ」
という発想をしていることがあるように思うわけです。
そこには確かに伝え方の要素も含まれます。
説得の技術、交渉術などの目的は、自分の要望を通すことです。
起業するときに銀行にお金を借りに行くのなら、自分の要望を通すために
伝え方を工夫するという要素も重要です。
ただ、伝え方以外の要素も沢山あるでしょう。
現実的に考えた場合、多くのコミュニケーションにおける相手への要望は
自分勝手なワガママであるケースが大半だろうと感じます。
相手を変えたい、相手を思い通りに動かしたい、コントロールしたい。
そういうワガママなんじゃないか、ということです。
相手には相手の立場や事情があるわけです。
相手には相手の気持ちがあるんです。
もちろん、相手を無視して自分の要望を通そうとするのも人それぞれです。
欲しがっていない人に高額なモノを売りつけるかどうかは
その人の価値観によって判断すればいいところでしょう。
しかしながら僕の中には、『相手を変える』ということに大きなテーマがあります。
必然的に僕は、相手を自分とは別の他人としてハッキリ意識します。
コミュニケーションにおいて重要だと思う点も、
「人は皆違う」というところに行きつきます。
そのことを実感することが、人間社会を生きていく上で役立つと思うんです。
コミュニケーションを必要とする人にとって、現実的に役立つ部分だという考えです。
それを実感するためには、「伝える」ことを意識するよりも
「聴く」ことに意識を向けるトレーニングをすることが役立つはずです。
誰もが常日頃、他人が自分の思い通りに行動することを期待しています。
皆が自分の思い通りに生きようとしているのに、
他人が自分の思った通りには生きてくれるはずはありません。
そのことを理解するには、相手の個性を意識しながら話を聴く、
というトレーニングが役に立つと考えられます。
だから僕は「聴く」側を主体としたセミナーや勉強会をしているわけです。
なお、相手を思い通りにしたいという気持ちを持っている状態で
コーチングを質問の技術として学ぶ際には注意が必要だと考えます。
「伝える」ことで人を変えようとする場合、相手は抵抗することが容易です。
「分からない」と答えれば済むからです。
ところが質問によって導かれた結論は、自分が出した答えのように感じられます。
質問の技術を駆使すると、相手を自分が意図した結論に導くことも可能です。
それは「伝える」ことで相手を思い通りにしようとする以上に
逃げ場を与えないコントロールの仕方だと思います。
コーチングでは、「答えを引き出す」というような表現を使うこともあるようですが、
質問する側が答えを意識してしまった場合、「答えに導く」になる可能性があります。
相手を思い通りにしたいという欲求。
自分の中にあるワガママさに気づくことが大切だと感じます。
コミュニケーションを謳っているものは「聴く」ことを中心にするようです。
NLPでもそうですし、僕が勉強会で扱う内容も「聴く」側が多くなります。
コールドリーディングは相手から話を聞くことなく相手の情報を言い当てるようにして
「この人は分かっている」と思ってもらう技術ですが、主役は相手であって、
なるべく相手が自分から話す状態を作るようにしていきます。
以前、勉強会で「分かりやすい伝え方」というテーマを扱ったときも、
「伝える」ことよりも相手が「分かる」状態を作り出すほうに主眼を置きました。
僕にとってはコミュニケーションで意識することは相手が中心だと言えますし、
多くのコミュニケーション技法が自分以外の相手を意識しているようです。
ファシリテーションなどは、まさに他人のためのコミュニケーション技法でしょう。
もちろん、アサーションやディベート、交渉術など、
自分の意見を主体としたやり方もありますが、それは目的と場面を選ぶ気がします。
「聴く」技術を学ぶことは、日常のコミュニケーションに活かしやすいわけです。
一方で、コミュニケーションを「聴く」と「伝える(話す)」、
「相手主体」と「自分主体」というように分けてみると、確かに
『自分の言いたいことを伝える』という要素も大切だと思えてくるでしょう。
「表現する」、「伝える」、「教える」、「指示」、「プレゼンテーション」など
自分からメッセージを発信するときにも重要なことは沢山あります。
ただ、このときに気をつける点があると思うんです。
それは目的です。
目的をハッキリさせることが大切だと考えられます。
目的を明確にするのは、あらゆるコミュニケーションに共通する大切な要素です。
今、自分がしようとしているコミュニケーションの目的は何か
それを本当に明確にできる人は極めて少ないものです。
ちなみに、アサーションというトレーニングが効果を発揮するのは、
この自分が分かってもらいたい本当の気持ちに気づくことができる部分でしょう。
多くの人はコミュニケーションにおいて自分の本当の気持ちさえ語れません。
本当の気持ちを語らないままに、相手に期待することが多いんです。
本当の欲求を言葉で伝えるのは率直過ぎて、ワガママにも思われるでしょうし。
何よりも、自分の欲求を伝えるために言葉が使えるようになるのは
ある程度の年齢になってからだというのが大きいはずです。
言葉も話せない頃から自分の欲求を伝えようと工夫して、
期待を裏切られることを繰り返しながら、人は歪んだ表現方法を身につけていくわけです。
例えば、自慢話をするのなら、それは尊敬してもらいたいと推測されます。
「スゴイですね!」と賞賛され、持ち上げられたいんです。
にも関わらず、誰も「これから自慢するから賞賛してください」と言ってから
自慢話を始めることはしません。
自分が承認や賞賛の欲求を持ち、相手にそれを期待しているとは気づかないからです。
知らず知らずに求めたくなってしまうということです。
自分の本当の気持ちに気づくことさえ難しいのに、
別の人がそれを理解するというのは至難の業というものでしょう。
アサーションはコミュニケーションの結果に目的を設定しないように思われるんです。
まずは自分の本当の気持ちに気づきましょう、というところが出発点に感じます。
そして、自分の気持ちに気づけたら、目的を意識する必要が出てきます。
何を目的に「伝える」ことをするのか、です。
伝わることが目的なのでしょうか?
だとしたら「何を伝えたいか」が重要です。
相手の必要としている情報を提供するという場合は、これに当てはまると思います。
ですが、相手が必要としている情報があるのなら、
相手が情報を手に入れたと判断するかどうかが基準になります。
伝え方の技術で変わる部分は、相手が「手に入れた」と判断するまでの時間。
「伝わる」かどうかの基準は相手にあるんです。
相手が言葉にした「知りたかったことは分かりました」という内容で判断するわけです。
ただ、残念ながら、相手が自分の提供した情報を100%理解することはあり得ません。
絶対にありません。
言葉にまつわる体験が個人によって異なる以上、概念の理解のされ方も人それぞれです。
相手が「分かった」と判断した時には、必ず相手の言葉で情報が整理し直されているんです。
その前提では、自分と同じように「分かる」ことを相手に求めるのは不可能ですから、
相手が「納得できた」と判断した部分を言葉から受け取るのが精一杯でしょう。
「伝わる」ことそのものが目的の場合、その目的が達成されたかどうかは
相手から返ってくる「理解した」という言葉によって判断することになるわけです。
このような情報提供としての伝え方であれば、
「分かりやすさ」という意味で技術的に向上させる要素があります。
以前の勉強会では、それを「分かりやすい伝え方」として扱いました。
筋道立てて話したいとか、自分の考えを上手く言葉にしたいとか、
そういう意図を持っているのであれば「伝え方」で工夫できる部分があると思います。
ただ、僕の受ける印象としては「伝える」ことに気持ちが向くときの多くは、
相手への情報伝達そのものを目的としていない気がするんです。
伝える側自身が気づかないうちに、「伝わる」ことの先にある結果に
コミュニケーションの目的を求めているように思えます。
例えば、プライベートな関係の会話や雑談などでは、
多くの人は相手の対応に対して無意識的に期待をしています。
なんとなく「こうしてくれるだろうなぁ」というのを持っているんです。
愚痴を言うときであれば、「それは大変だね」とか「ひどいね」とか、
相手からの同意を通じて自分の気持ちを発散させようという目的があるはずです。
だから「世の中、そんなもんだよ」などと言われると不満を感じるわけです。
自慢話をするのであれば相手からの称賛や尊敬を期待しているでしょうし、
面白い体験の話をするのなら相手が笑ってくれることを期待しているでしょう。
一緒に盛り上がってもらいたいと期待していることもあるかもしれません。
辛かった話、悲しかった話をするときは、なぐさめてもらいたいわけですし、
頑張ったけど成果が出なかったときは、ねぎらって欲しいものでしょう。
自分から話をするとき、つまり相手に対して「伝える」行為を始めるとき、
自分の感情や気持ちを認めてもらいたいという期待があるんです。
共感を求めているんです。
「自分は素晴らしい」「自分はOKだ」ということを相手を通じて確認したい。
そういう目的の元にコミュニケーションをしている可能性が非常に高いはずです。
その目的を相手に伝えることなく目的を達成しようとするのは相手への期待です。
自分が期待している反応が相手から得られるまで、多くの人が工夫しようとするんです。
「自分の伝え方が悪いから相手が分かってくれないんじゃないか?」と考えて。
確かに伝え方を変えれば、期待していることは得られるでしょう。
「私は今、あなたから『大変だったね』と言ってもらいたいです」
というふうに自分の目的を意識化してハッキリと伝える。
そうすれば相手も『大変だったね』と言ってくれる可能性は高まります。
ただ、そうして達成された目的では満足できないほど、人はワガママなものです。
重要なのは、「分かってくれた」と判断する基準が相手の対応にあるところです。
自慢話を聞いている人の中には、
「どうせ『スゴイですね!』って言って欲しいんだろ?言わねぇよ!」
と思いながら聞いている人もいるはずです。
つまり、目的としている内容は伝わっていても、期待通りの相手の対応が得られないから
「自分の伝え方が悪い」と判断してしまうケースもあるということです。
このようなことは仕事の場面や、プライベートにおいて相手に要求する場面で起きがちです。
仕事で指示を出す場合であれば、コミュニケーションの目的は
相手が仕事で期待通りの結果を出してくれることでしょう。
仕事での成果が、「伝える」ことの目的だと思われます。
であれば、「伝え方」に関わらず、相手の仕事の成果が上がるように
コミュニケーションを行っていけばいい、という発想が出てくるわけです。
質問の技術を活用して相手の成果を引き出したって良いわけです。
コーチングが企業に導入されやすい理由の1つが、これでしょう。
一方、仕事での指示の出し方において「伝わる」かどうかに意識が向くとき、
相手が自分の考え通りに行動して成果を出して欲しい、
という目的が追加されている可能性が考えられます。
「伝わった」と判断する基準が相手の行動にあるわけです。
相手が自分の意図したとおりに行動したとき、「伝わった」と判断する。
そうだとしたら、それは「伝える」ことが目的なのではなく、
「自分の思い通りに相手を動かす」ことが目的なのではないでしょうか。
仕事での指示だけじゃありません。
相手に対して、自分の要望を伝えるときは全てそうです。
「あなたのこういうところが気に入らないから変えて下さい」
「それはおかしいと思いますから、やめて下さい」
「そういうことはルール違反です」
「あなたには、もっとこういう風にしてもらいたい」
「今のやり方よりも、もっとこうやったら良くなるのに」
こういう要望が「伝わった」と判断されるのは、おそらく
相手が納得して実際に行動を変えてくれたときではないかと思います。
実際には、自分の伝えたい内容そのものは相手にシッカリと伝わっているのに、
相手が受け入れようとしなくて、納得も変化もてくれないというケースもあるはずです。
そういう事態に対して
「伝わらないなぁ。自分の伝え方が悪いのかなぁ」
という発想をしていることがあるように思うわけです。
そこには確かに伝え方の要素も含まれます。
説得の技術、交渉術などの目的は、自分の要望を通すことです。
起業するときに銀行にお金を借りに行くのなら、自分の要望を通すために
伝え方を工夫するという要素も重要です。
ただ、伝え方以外の要素も沢山あるでしょう。
現実的に考えた場合、多くのコミュニケーションにおける相手への要望は
自分勝手なワガママであるケースが大半だろうと感じます。
相手を変えたい、相手を思い通りに動かしたい、コントロールしたい。
そういうワガママなんじゃないか、ということです。
相手には相手の立場や事情があるわけです。
相手には相手の気持ちがあるんです。
もちろん、相手を無視して自分の要望を通そうとするのも人それぞれです。
欲しがっていない人に高額なモノを売りつけるかどうかは
その人の価値観によって判断すればいいところでしょう。
しかしながら僕の中には、『相手を変える』ということに大きなテーマがあります。
必然的に僕は、相手を自分とは別の他人としてハッキリ意識します。
コミュニケーションにおいて重要だと思う点も、
「人は皆違う」というところに行きつきます。
そのことを実感することが、人間社会を生きていく上で役立つと思うんです。
コミュニケーションを必要とする人にとって、現実的に役立つ部分だという考えです。
それを実感するためには、「伝える」ことを意識するよりも
「聴く」ことに意識を向けるトレーニングをすることが役立つはずです。
誰もが常日頃、他人が自分の思い通りに行動することを期待しています。
皆が自分の思い通りに生きようとしているのに、
他人が自分の思った通りには生きてくれるはずはありません。
そのことを理解するには、相手の個性を意識しながら話を聴く、
というトレーニングが役に立つと考えられます。
だから僕は「聴く」側を主体としたセミナーや勉強会をしているわけです。
なお、相手を思い通りにしたいという気持ちを持っている状態で
コーチングを質問の技術として学ぶ際には注意が必要だと考えます。
「伝える」ことで人を変えようとする場合、相手は抵抗することが容易です。
「分からない」と答えれば済むからです。
ところが質問によって導かれた結論は、自分が出した答えのように感じられます。
質問の技術を駆使すると、相手を自分が意図した結論に導くことも可能です。
それは「伝える」ことで相手を思い通りにしようとする以上に
逃げ場を与えないコントロールの仕方だと思います。
コーチングでは、「答えを引き出す」というような表現を使うこともあるようですが、
質問する側が答えを意識してしまった場合、「答えに導く」になる可能性があります。
相手を思い通りにしたいという欲求。
自分の中にあるワガママさに気づくことが大切だと感じます。
2008年09月12日
イチローの言葉
先日、『イチロー選手の言葉に学ぶ セルフ・コーチング』という本を読みました。
イチロー選手の言葉に学ぶ セルフ・コーチング
イチロー選手は凄いですね。
そのことは、おそらく誰もが同意してくれるものと思います。
イチロー選手が好きかどうかは好みが分かれるとは思いますが。
僕は個人的に、イチロー選手のあの他人に流されない感じが好きなんですが、
その傾向は僕自身が尊敬する人に共通する要素のように思います。
評価基準を自分の内側に持つことを、僕は大切に感じているのでしょう。
で、そのイチロー選手が語る言葉というのも、僕にとってインパクトがあります。
一般的に偉人の残した言葉は多くの人の心に響くようですが、
それは誰もが何となく感じている事柄を言葉にできるレベルで
実感してきた経験に裏打ちされているからだろうと思うんです。
日々生きている中で感じられること。
心に訴えかけてくること。
そうしたことを数多く経験できる人が、その経験そのものをシッカリと見つめ
自分で整理することによって、抽象的で本質的な言葉として表現できる。
そのように考えたとき、イチローという野球選手は哲学的なまでに
自分自身と野球とに向き合って、自分を高めてきたのだろうと推測されます。
イチロー選手の言葉が本になり、多くの人の心に訴えかけるのは
野球という特定の行動から、より抽象的な人生全般に関わるような信念を生み出され、
その信念が説得力のある言葉として表現されたからと考えられるわけです。
超一流と呼ばれる人たちは、こうした信念レベルで自分自身と向き合い、
自分の内面を磨く行為をしているように思えます。
だから超一流同士の対談では、お互いに響き合うものを見つけられるんでしょう。
人は仕事や趣味など、1つのことで徹底的に真剣に取り組んでいくと
高みを目指す過程で、自分自身の内的世界の成長に意識が向きやすいのかもしれません。
日本の伝統である「〜道」と呼ばれるものは、どれも内面的成長に触れているようです。
結果に結びつく行動を可能にするのは、それに相応しい信念だということでしょうか。
現代では日常から離れてしまった感のある宗教の修行や、ヨガなども
内的成長を目指しているもののはずです。
スポーツや趣味、仕事、精神的修行を通して内面を高めることは素晴らしいわけですが、
一方で心理療法的なアプローチはその部分において非常に効率的だと考えられます。
そこに特化していると言ってもいいでしょう。
内的成長をダイレクトに扱える手法を活用することで、
これまでの世の中の主流とは逆方向に、スポーツや仕事の成果を上げることも
十二分に可能だと思えるわけです。
『イチロー選手の言葉に学ぶ セルフ・コーチング』という本は
様々なインタビューや対談でイチローが語った言葉を取り上げ、
それに対してNLP的な解説を加えているものです。
NLPの入門的な本としては分かりやすいでしょう。
ただ、一部に強引な結びつけや、偏った理解の仕方を感じる部分があり、
僕からすると疑問を感じずにはいられないところもあります。
著者のストーリーに当てはめられて展開することで
イチロー選手の真意がどうだったのかが歪む可能性も否定できないところでしょう。
とりわけ、目的志向という部分に過度に偏るところは危険です。
従来の心理学を「原因究明型」と呼び、それに比較する形での「目的志向」というのは
1つの方向性だとは思いますが、僕には前提に対する疑問があるんです。
原因志向の反対が目的志向、厳しさの反対が優しさ。
そうした二極化は分かった気にさせる要素を持っていますが、
別の要素を排除しかねない、捉え方の狭さも含んでいるはずです。
原因志向の問題は目的志向で解消されるわけではありません。
どちらかを志向するという前提から考え直すことも必要だと思います。
原因志向の問題は「原因が存在する」という前提です。
目的を考えさえすればいいわけでもないんです。
全ては相関関係に過ぎないということです。
そういったことを気にかけると、この本を読むときには注意も必要ですが、
イチロー選手の言葉を状況説明つきで記述してあることに大きな価値を感じます。
とにかくイチロー選手の言葉を追いかけていく過程では、
本を読む僕の内面には身体反応として、心動かされる感じを体験できたんです。
また、イチロー選手の言葉を名言集として集めただけの本もあります。
『イチロー 262のメッセージ』は、まさにそれ。
こっちはこっちで意味があります。
含蓄の深さを感じますし、読み手の想像力で意味が変わってくる。
抽象度の高さ、本質的な意味合いの深さを感じさせます。
ただ、短い言葉というのは本当の意味を伝えにくいところがあるのも事実です。
文脈がないからです。
言葉の意味内容は文脈によって決まります。
イチロー選手が、どのような状況で、どのような流れのなかで語った言葉なのか。
その前に話していた言葉はどうだったのか。
そういったこと無しに短いメッセージを読むのもまた
イチローに迫るには難しいわけです。
そう考えると、『イチロー選手の言葉に学ぶ セルフ・コーチング』という本は
イチロー選手の言葉から内面に迫りやすい構成になっていると言える気がします。
全体を通じて、イチローという人の個性が感じられます。
イチロー選手がどれだけ心理学的に意味のあることを考えているかよりも、
イチローという人が、いかに信念を磨きながら野球をしているかが感じられるんです。
そして、イチローの信念が動いていることも。
イチローは留まっていません。
絶えず動いているようです。
おそらく今年もイチロー選手は200本安打を達成し、
8年連続200本安打の記録に並ぶでしょう。
この先も記録を生み出すことでしょう。
でも、僕が一番興味があるのは、彼がどれだけの記録を残すかではありません。
イチロー選手がどうやって引退するか。
そこに見られるイチローの信念に、僕は大きな関心を持っています。
イチロー選手の言葉に学ぶ セルフ・コーチング
イチロー選手は凄いですね。
そのことは、おそらく誰もが同意してくれるものと思います。
イチロー選手が好きかどうかは好みが分かれるとは思いますが。
僕は個人的に、イチロー選手のあの他人に流されない感じが好きなんですが、
その傾向は僕自身が尊敬する人に共通する要素のように思います。
評価基準を自分の内側に持つことを、僕は大切に感じているのでしょう。
で、そのイチロー選手が語る言葉というのも、僕にとってインパクトがあります。
一般的に偉人の残した言葉は多くの人の心に響くようですが、
それは誰もが何となく感じている事柄を言葉にできるレベルで
実感してきた経験に裏打ちされているからだろうと思うんです。
日々生きている中で感じられること。
心に訴えかけてくること。
そうしたことを数多く経験できる人が、その経験そのものをシッカリと見つめ
自分で整理することによって、抽象的で本質的な言葉として表現できる。
そのように考えたとき、イチローという野球選手は哲学的なまでに
自分自身と野球とに向き合って、自分を高めてきたのだろうと推測されます。
イチロー選手の言葉が本になり、多くの人の心に訴えかけるのは
野球という特定の行動から、より抽象的な人生全般に関わるような信念を生み出され、
その信念が説得力のある言葉として表現されたからと考えられるわけです。
超一流と呼ばれる人たちは、こうした信念レベルで自分自身と向き合い、
自分の内面を磨く行為をしているように思えます。
だから超一流同士の対談では、お互いに響き合うものを見つけられるんでしょう。
人は仕事や趣味など、1つのことで徹底的に真剣に取り組んでいくと
高みを目指す過程で、自分自身の内的世界の成長に意識が向きやすいのかもしれません。
日本の伝統である「〜道」と呼ばれるものは、どれも内面的成長に触れているようです。
結果に結びつく行動を可能にするのは、それに相応しい信念だということでしょうか。
現代では日常から離れてしまった感のある宗教の修行や、ヨガなども
内的成長を目指しているもののはずです。
スポーツや趣味、仕事、精神的修行を通して内面を高めることは素晴らしいわけですが、
一方で心理療法的なアプローチはその部分において非常に効率的だと考えられます。
そこに特化していると言ってもいいでしょう。
内的成長をダイレクトに扱える手法を活用することで、
これまでの世の中の主流とは逆方向に、スポーツや仕事の成果を上げることも
十二分に可能だと思えるわけです。
『イチロー選手の言葉に学ぶ セルフ・コーチング』という本は
様々なインタビューや対談でイチローが語った言葉を取り上げ、
それに対してNLP的な解説を加えているものです。
NLPの入門的な本としては分かりやすいでしょう。
ただ、一部に強引な結びつけや、偏った理解の仕方を感じる部分があり、
僕からすると疑問を感じずにはいられないところもあります。
著者のストーリーに当てはめられて展開することで
イチロー選手の真意がどうだったのかが歪む可能性も否定できないところでしょう。
とりわけ、目的志向という部分に過度に偏るところは危険です。
従来の心理学を「原因究明型」と呼び、それに比較する形での「目的志向」というのは
1つの方向性だとは思いますが、僕には前提に対する疑問があるんです。
原因志向の反対が目的志向、厳しさの反対が優しさ。
そうした二極化は分かった気にさせる要素を持っていますが、
別の要素を排除しかねない、捉え方の狭さも含んでいるはずです。
原因志向の問題は目的志向で解消されるわけではありません。
どちらかを志向するという前提から考え直すことも必要だと思います。
原因志向の問題は「原因が存在する」という前提です。
目的を考えさえすればいいわけでもないんです。
全ては相関関係に過ぎないということです。
そういったことを気にかけると、この本を読むときには注意も必要ですが、
イチロー選手の言葉を状況説明つきで記述してあることに大きな価値を感じます。
とにかくイチロー選手の言葉を追いかけていく過程では、
本を読む僕の内面には身体反応として、心動かされる感じを体験できたんです。
また、イチロー選手の言葉を名言集として集めただけの本もあります。
『イチロー 262のメッセージ』は、まさにそれ。
こっちはこっちで意味があります。
含蓄の深さを感じますし、読み手の想像力で意味が変わってくる。
抽象度の高さ、本質的な意味合いの深さを感じさせます。
ただ、短い言葉というのは本当の意味を伝えにくいところがあるのも事実です。
文脈がないからです。
言葉の意味内容は文脈によって決まります。
イチロー選手が、どのような状況で、どのような流れのなかで語った言葉なのか。
その前に話していた言葉はどうだったのか。
そういったこと無しに短いメッセージを読むのもまた
イチローに迫るには難しいわけです。
そう考えると、『イチロー選手の言葉に学ぶ セルフ・コーチング』という本は
イチロー選手の言葉から内面に迫りやすい構成になっていると言える気がします。
全体を通じて、イチローという人の個性が感じられます。
イチロー選手がどれだけ心理学的に意味のあることを考えているかよりも、
イチローという人が、いかに信念を磨きながら野球をしているかが感じられるんです。
そして、イチローの信念が動いていることも。
イチローは留まっていません。
絶えず動いているようです。
おそらく今年もイチロー選手は200本安打を達成し、
8年連続200本安打の記録に並ぶでしょう。
この先も記録を生み出すことでしょう。
でも、僕が一番興味があるのは、彼がどれだけの記録を残すかではありません。
イチロー選手がどうやって引退するか。
そこに見られるイチローの信念に、僕は大きな関心を持っています。
2008年09月10日
「分かる」と「分ける」
「分かる」と「分ける」は似ているところがあるようです。
「分析する」という言葉に当たる単語は様々な言語でも同様の語源として
「分ける」というニュアンスが入っていると言います。
英語では「analyze」に当たりますが、「ana-」が「上に、さかのぼって」、
「ly-」が「解く、分ける」という意味だそうです。
つまり「analyze」は「元にさかのぼって分ける」ということから
「分析する、解析する」という意味になる、と。
そういうことを踏まえても、何かを「分かる」ことを想定すると、
そのキッカケとして「分ける」ことが出発点になりやすいわけです。
化学は錬金術のころから含めても、「分ける」ことが始まりでした。
細かく要素に「分けて」いく作業が、物質を「分かる」ための方法だったということです。
混合物から純物質を取り出し、元素に分けていったんです。
最小の構成単位と言われていた原子もさらに細かく分けられ、
電子、陽子、中性子という構成要素が見つかっています。
最先端の物理では素粒子とかクォークとか、
さらに小さい単位として「超ひも理論」なども展開されているそうです。
そのように徹底的に細かく「分けて」いけば、あらゆるものに共通する
本質的なものが「分かる」だとうという発想なのだと思います。
しかしながら、とにかく「分ける」ことさえすれば良いかというと
そうでもないような気がします。
細かい要素に分けるのと同時に、全体の関係性も考える必要があると思うんです。
例えば、僕は今、パソコンのキーボードを打っているわけですが、
そこに書かれているアルファベット26文字というのは
英語の要素を細かく分けたものと言えるはずです。
でも、英語の文章を色々と見て、「英語は26文字から出来ている」と分析しても
英語そのものを理解したことにはならないわけです。
アルファベットの組み合わせで「pen」という単語に意味が生まれ、
単語の組み合わせそのものの決まりごとから「This is a pen」という文章が生まれる。
そして、その文章が使われる状況に当てはめられて、文章に意味が生まれます。
要素に分けるだけでは理解できないことは沢山あるんです。
そうした関係性、
『要素に還元できない、全体としてのまとまりから生み出される構造的特性』
のことをゲシュタルトと呼びます。
要素は全体の中でどのように位置づけられ、どのような役割を持つ部分となるかによって、
その性質が変わってくる、ということです。
部分の集まりが全体を作り、全体的特性が部分を規定する。
全体と部分が双方向的に関係しているわけです。
例えば、文字というのは線の集まりに過ぎないとも言えますが、
線の集まった状態で意味が生まれ、その文字のゲシュタルトを作っています。
ところが、同じ漢字を何度も書いていると
「あれ?こんな字だったっけ?」という感じがしてくることがありますね。
こういう現象をゲシュタルト崩壊と言いますが、まさに全体の意味が崩壊して、
部分である線の性質が分からなくなってしまった状態と言えます。
つまり、「分かる」ためには全体の意味を捉えることも重要だということです。
ただ、この全体の意味を見出すという行為に関しては
なぜか人間が自然としやすいことのようです。
何かの出来事に意味づけしたくなるんです。
3日続けて同じ人に偶然出会ったら「何か縁があるんじゃないか?」なんて
思いたくなってしまうものでしょう。
これはコミュニケーションでも同じです。
相手の話を聞いているとき、話の部分的な情報を要素として捉え、
勝手に全体的な意味合いを理解しようとしてしまうものです。
それで相手の話を「分かった」気になってしまう。
どれだけの要素から全体を「分かった」つもりになってしまうかは
人それぞれだと思いますが、極端な人というのも目にします。
先日の学会でも驚くような内容がありました。
詳しくは言いませんが、「ルールを長い文章で書くと、逆にルールを守らなくなる」
というような仮説を立てていたりするんです。
どんな経験をしてきたのかは知りません。
ルール違反に不満を持つ機会が多かったのかもしれません。
だからといって、あまりに短絡的な意味づけは危険だと思います。
短絡的に意味づけするのも、「分かる」方法の1つかもしれません。
ですが、重要な要素を無視してしまっては「分かった」ことにならないと思うんです。
なぜなら「分かる」ことの目的は「分かる」ことそのものだけでなく、
「分かる」ことで他のケースに対処できるようになることだと思うからです。
『1+1=2』を覚えて言えるようになることは「分かる」ではありません。
『数字と記号で書かれている』というのは「分ける」ことで
「分かる」に近づいているとは思いますが、それだけでは不十分でしょう。
『1+1=2』が「分かる」と、『2+5=?』に答えられる。
それが大切なことだと考えられます。
そして、『2+5=?』に答えられるようになるためには
『1+1=2』を「分ける」ことから始めるのが効果的だと思います。
人間は自然に全体の意味を見つけ出したくなる性質を持っている。
だったらまず、細かい要素に「分けて」考えてみる。
大事な要素を見逃さないように「分ける」。
そうして「分ける」ことをしていると、自然と意味が生まれてくるような気がします。
だから「alalyze」なんじゃないでしょうか。
ただ「ly-」(=解く)だけでなく、「ana-」(=元にさかのぼって)解く。
「分ける」ことをしながら、同時に元にさかのぼるから
部分と全体を双方向的に関係づけて理解することができると思うんです。
全体における位置づけ、意味を考えながら、要素に分けていくことが
物事を理解するのに大切だろうということです。
「分析する」という言葉に当たる単語は様々な言語でも同様の語源として
「分ける」というニュアンスが入っていると言います。
英語では「analyze」に当たりますが、「ana-」が「上に、さかのぼって」、
「ly-」が「解く、分ける」という意味だそうです。
つまり「analyze」は「元にさかのぼって分ける」ということから
「分析する、解析する」という意味になる、と。
そういうことを踏まえても、何かを「分かる」ことを想定すると、
そのキッカケとして「分ける」ことが出発点になりやすいわけです。
化学は錬金術のころから含めても、「分ける」ことが始まりでした。
細かく要素に「分けて」いく作業が、物質を「分かる」ための方法だったということです。
混合物から純物質を取り出し、元素に分けていったんです。
最小の構成単位と言われていた原子もさらに細かく分けられ、
電子、陽子、中性子という構成要素が見つかっています。
最先端の物理では素粒子とかクォークとか、
さらに小さい単位として「超ひも理論」なども展開されているそうです。
そのように徹底的に細かく「分けて」いけば、あらゆるものに共通する
本質的なものが「分かる」だとうという発想なのだと思います。
しかしながら、とにかく「分ける」ことさえすれば良いかというと
そうでもないような気がします。
細かい要素に分けるのと同時に、全体の関係性も考える必要があると思うんです。
例えば、僕は今、パソコンのキーボードを打っているわけですが、
そこに書かれているアルファベット26文字というのは
英語の要素を細かく分けたものと言えるはずです。
でも、英語の文章を色々と見て、「英語は26文字から出来ている」と分析しても
英語そのものを理解したことにはならないわけです。
アルファベットの組み合わせで「pen」という単語に意味が生まれ、
単語の組み合わせそのものの決まりごとから「This is a pen」という文章が生まれる。
そして、その文章が使われる状況に当てはめられて、文章に意味が生まれます。
要素に分けるだけでは理解できないことは沢山あるんです。
そうした関係性、
『要素に還元できない、全体としてのまとまりから生み出される構造的特性』
のことをゲシュタルトと呼びます。
要素は全体の中でどのように位置づけられ、どのような役割を持つ部分となるかによって、
その性質が変わってくる、ということです。
部分の集まりが全体を作り、全体的特性が部分を規定する。
全体と部分が双方向的に関係しているわけです。
例えば、文字というのは線の集まりに過ぎないとも言えますが、
線の集まった状態で意味が生まれ、その文字のゲシュタルトを作っています。
ところが、同じ漢字を何度も書いていると
「あれ?こんな字だったっけ?」という感じがしてくることがありますね。
こういう現象をゲシュタルト崩壊と言いますが、まさに全体の意味が崩壊して、
部分である線の性質が分からなくなってしまった状態と言えます。
つまり、「分かる」ためには全体の意味を捉えることも重要だということです。
ただ、この全体の意味を見出すという行為に関しては
なぜか人間が自然としやすいことのようです。
何かの出来事に意味づけしたくなるんです。
3日続けて同じ人に偶然出会ったら「何か縁があるんじゃないか?」なんて
思いたくなってしまうものでしょう。
これはコミュニケーションでも同じです。
相手の話を聞いているとき、話の部分的な情報を要素として捉え、
勝手に全体的な意味合いを理解しようとしてしまうものです。
それで相手の話を「分かった」気になってしまう。
どれだけの要素から全体を「分かった」つもりになってしまうかは
人それぞれだと思いますが、極端な人というのも目にします。
先日の学会でも驚くような内容がありました。
詳しくは言いませんが、「ルールを長い文章で書くと、逆にルールを守らなくなる」
というような仮説を立てていたりするんです。
どんな経験をしてきたのかは知りません。
ルール違反に不満を持つ機会が多かったのかもしれません。
だからといって、あまりに短絡的な意味づけは危険だと思います。
短絡的に意味づけするのも、「分かる」方法の1つかもしれません。
ですが、重要な要素を無視してしまっては「分かった」ことにならないと思うんです。
なぜなら「分かる」ことの目的は「分かる」ことそのものだけでなく、
「分かる」ことで他のケースに対処できるようになることだと思うからです。
『1+1=2』を覚えて言えるようになることは「分かる」ではありません。
『数字と記号で書かれている』というのは「分ける」ことで
「分かる」に近づいているとは思いますが、それだけでは不十分でしょう。
『1+1=2』が「分かる」と、『2+5=?』に答えられる。
それが大切なことだと考えられます。
そして、『2+5=?』に答えられるようになるためには
『1+1=2』を「分ける」ことから始めるのが効果的だと思います。
人間は自然に全体の意味を見つけ出したくなる性質を持っている。
だったらまず、細かい要素に「分けて」考えてみる。
大事な要素を見逃さないように「分ける」。
そうして「分ける」ことをしていると、自然と意味が生まれてくるような気がします。
だから「alalyze」なんじゃないでしょうか。
ただ「ly-」(=解く)だけでなく、「ana-」(=元にさかのぼって)解く。
「分ける」ことをしながら、同時に元にさかのぼるから
部分と全体を双方向的に関係づけて理解することができると思うんです。
全体における位置づけ、意味を考えながら、要素に分けていくことが
物事を理解するのに大切だろうということです。
2008年09月08日
学問の世界
久しぶりに学会に行ってきました。
日本感性工学会。
聴講だけですが、数年ぶりの学会に様々な思いを抱きました。
懐かしさもあり、同時に多少の不快感も感じたのが正直なところ。
僕が学生時代、会社員時代に参加していた学会は、
バイオ系か化学系のものばかりで、かなり詳細な実験科学だったんです。
マニアックなところでは『大腸菌研究会』なんてのも参加していました。
大腸菌に関する研究をしていれば何でもアリなので、
大腸菌という対象に様々な専門性でアプローチするわけです。
大腸菌だって最先端の研究成果を集めても、ほとんど理解できていないのが現状。
その中で多くの成果を基に理解を深めたりするのは面白いものなんです。
こうした化学にベースを置く研究というのは実験技術に裏付けされる部分が大きく、
解釈に結びつけるに値する実験結果を示すことが大切です。
なので、結果に対しても、そのから得られる仮説に対しても、
評価の目は非常に厳しいと言えます。
実験結果には再現性も求められ、結論には客観性と妥当性が求められます。
これまでの知見と照らし合わせ、整合性がとれなくてはいけません。
化学に基づいた実験で得られた結果は、化学の理論体系の中で評価され、
地道に積み上げられて作られてきた仮説に上乗せされていくんです。
全ては仮説に過ぎませんが、今までに調べられてきた現象を
最も上手く説明できる仮説が絶えず更新されていくわけです。
サイエンスとは、今までに調べてきたこと全てを矛盾なく説明できることだと思うんです。
現実的にも、辻褄が合わないことは批判の対象になってしまう部分があるようです。
そういう前提で考えると、広い範囲の情報全ての中に当てはめて
研究を展開していくというのは非常に難しいと言えます。
自分なりのモデルや理論を提唱することは可能ですが、
それを説得する情報としてオリジナルな結果も必要になります。
何よりも、自分の中に持っているモデルや理論を発表できる形に記述するのが大変。
膨大な情報を具体的なまま全て記述することは不可能です。
なので、理論やモデルは抽象化されていくわけです。
僕が研究職の時に対象にしていた生物の分野では、とにかく膨大な情報があります。
大腸菌の遺伝子でさえ4800近くあると予測され、それぞれの働き方や
相互作用まで考えると普通に考えては理解は大変なんてものじゃありません。
さらにそれが様々な条件と関係してきますから、
試験管の中の大腸菌で起きていることは細かく見ると膨大な量の情報なんです。
とても処理しきれません。
そこで、実験的に集められる網羅的なデータを解析して、
シミュレーションのように全体を理解しようとする方向性が生まれます。
最近のIT技術の発展を利用して、人の頭を超えた理解をしようということでしょう。
これは複雑な要素が相互に絡み合っているだろうという前提で、
実験結果から関係性を導き出そうとする戦略と言えます。
一方、細かく見た情報は、さらに細かく見ようとすることもできます。
細かく見ようと思えば、また分からないことが出てくるんです。
分からないことが見つかれば、それを調べる研究が可能です。
研究者は成果を発表しなくてはいけません。
とくに学問の世界に籍を置く人は。
その視点からすると、とにかく網羅的に集めた膨大な情報をコンピューターで解析して
解析方法や分類方法を工夫するのは成果が発表しやすいものでもあるんです。
日常的なものに例えると…。(仮の話ですが)
小学校の教室の休み時間での児童の行動を分析するために、
児童全員の脈拍、体温、会話時間、声量、移動距離、移動速度を測定。
声量と移動距離の関係を調べたら、
「声が大きい児童ほど休み時間に移動する距離が長い傾向がある」
ことが分かった、なんていうようなことです。
「だから何なの?」と聞きたくなるような結果だったり、
実際に教室の中で何が起きていたかを無視するような結果だったりするわけです。
情報が膨大すぎるとハッキリした結論が導けなかったり、
本当に重要な要素に気づけなかったりするケースが否定できないようです。
ただ、データを一度集めてしまえば、色々と考察しながら成果を発表できる。
そこには大きなメリットがあります。
一方、細かく見た情報を、さらに細かく調べていくのも成果を出しやすい側面があります。
日常的な例えで言うと…。(これも嘘の話です)
教室を走っている児童の汗と、廊下を走っている児童の汗の成分を比較、
その結果、廊下を走っている児童の汗にだけ特定の成分が見つかった、
というようなことです。
これは更に詳しく調べられます。
次に、校庭を走る児童の汗を調べたら、廊下を走るときと同じ成分が
廊下を走るときの3倍の量で見つかった。
だから「廊下を走るのには校庭を走るのと近い効果がある」と言える。
そんな感じ。
詳しく調べれば、成果は生み出せます。
その狭い分野のエキスパートになれるんです。
研究の分野は、とかくこうした二極化になりやすい気がします。
僕が知りたかったのは、もっと全体的なことだったんです。
先の例に合わせるなら…。
小学校の教室の中を走っている児童がいる。
そのことで教室内には何が起こるか。
児童の特徴と関連性はどうか。
走っている児童との距離では影響はどうか。
月曜日と金曜日では違うか。
僕の頭の中では、個別の要素を詳細に考えながら、
それらの要素が相互作用して起きる全体の結果を理解しようとするプロセスが
常日頃から動いている気がします。
詳細な情報同士の辻褄が合わないのも不満ですし、
相互作用を考えたときに全体の中で矛盾があるのも嫌なんです。
例えば、僕は幽霊を見たことがありません。
だからと言って、幽霊がいないとは言いません。
幽霊を見たという人がいることは信じます。
人が幽霊を見たというときに何を見ているのかは状況によって違います。
「幽霊なんていない」というスタンスではないので、
「それは見間違いだ」とか「幻覚だ」とかいう考えでもありません。
僕の中には幽霊を見る人に対して、一応の仮説があって、
多分それが僕の持っている情報に対して最も上手く説明ができる方法なんです。
その仮説においては心霊写真には疑問があったりします。
「幽霊は死者の魂が…」とかいう説明にも疑問があります。
でも幽霊を見る、いわゆる霊感の強い人というのはいると思います。
詳しくは説明しませんが、1つの理論やモデルとして全体を含んでいるつもりです。
今回、感性工学会の発表を見てきて感じたことも似ていました。
詳細なところは詳細に、
関係性を見るところは関係性だけを。
全体としての統一感を感じさせる内容は少ない気がしました。
感性工学というのは、人の「感性」という曖昧なものを扱おうという
ある意味で挑戦的な内容で、動き始めたばかりという印象もあります。
工学として、産業への応用を踏まえ、一般的に扱える情報に加工していく。
それは非常に重要なスタンスだと思います。
一般化して、誰にでも活用できるシステムを作り上げるのは大切でしょう。
しかし、人という大腸菌よりも遥かに複雑なターゲットを扱うので
調査結果の扱い方が非常に難しいと感じました。
一般化するということは指標となる要素を抽出する作業とも言えます。
考慮すべき要素を簡略化することで、抽象度の高い理論を作るのが目的かと思います。
人がターゲットだという時点で関わってくる要素が膨大なわけです。
そこから要素を簡略化するのは難しいはずです。
そのなかで、僕が受けた印象は「先に理論を決め過ぎじゃないか」ということでした。
予測を立てて、それに対してデータを集め、統計的に考察するような発表が多いんです。
求める結果や目的が先にあるのかもしれません。
理論や概念で考えを進めている印象を受けるんです。
調査対象であるはずの「人」を、軽々しく見ている感じがしてしまいます。
学術の難しさかもしれません。
まぁ、学会の発表者の大半は学生ですから、求め過ぎてもいけないわけですが。
日本感性工学会。
聴講だけですが、数年ぶりの学会に様々な思いを抱きました。
懐かしさもあり、同時に多少の不快感も感じたのが正直なところ。
僕が学生時代、会社員時代に参加していた学会は、
バイオ系か化学系のものばかりで、かなり詳細な実験科学だったんです。
マニアックなところでは『大腸菌研究会』なんてのも参加していました。
大腸菌に関する研究をしていれば何でもアリなので、
大腸菌という対象に様々な専門性でアプローチするわけです。
大腸菌だって最先端の研究成果を集めても、ほとんど理解できていないのが現状。
その中で多くの成果を基に理解を深めたりするのは面白いものなんです。
こうした化学にベースを置く研究というのは実験技術に裏付けされる部分が大きく、
解釈に結びつけるに値する実験結果を示すことが大切です。
なので、結果に対しても、そのから得られる仮説に対しても、
評価の目は非常に厳しいと言えます。
実験結果には再現性も求められ、結論には客観性と妥当性が求められます。
これまでの知見と照らし合わせ、整合性がとれなくてはいけません。
化学に基づいた実験で得られた結果は、化学の理論体系の中で評価され、
地道に積み上げられて作られてきた仮説に上乗せされていくんです。
全ては仮説に過ぎませんが、今までに調べられてきた現象を
最も上手く説明できる仮説が絶えず更新されていくわけです。
サイエンスとは、今までに調べてきたこと全てを矛盾なく説明できることだと思うんです。
現実的にも、辻褄が合わないことは批判の対象になってしまう部分があるようです。
そういう前提で考えると、広い範囲の情報全ての中に当てはめて
研究を展開していくというのは非常に難しいと言えます。
自分なりのモデルや理論を提唱することは可能ですが、
それを説得する情報としてオリジナルな結果も必要になります。
何よりも、自分の中に持っているモデルや理論を発表できる形に記述するのが大変。
膨大な情報を具体的なまま全て記述することは不可能です。
なので、理論やモデルは抽象化されていくわけです。
僕が研究職の時に対象にしていた生物の分野では、とにかく膨大な情報があります。
大腸菌の遺伝子でさえ4800近くあると予測され、それぞれの働き方や
相互作用まで考えると普通に考えては理解は大変なんてものじゃありません。
さらにそれが様々な条件と関係してきますから、
試験管の中の大腸菌で起きていることは細かく見ると膨大な量の情報なんです。
とても処理しきれません。
そこで、実験的に集められる網羅的なデータを解析して、
シミュレーションのように全体を理解しようとする方向性が生まれます。
最近のIT技術の発展を利用して、人の頭を超えた理解をしようということでしょう。
これは複雑な要素が相互に絡み合っているだろうという前提で、
実験結果から関係性を導き出そうとする戦略と言えます。
一方、細かく見た情報は、さらに細かく見ようとすることもできます。
細かく見ようと思えば、また分からないことが出てくるんです。
分からないことが見つかれば、それを調べる研究が可能です。
研究者は成果を発表しなくてはいけません。
とくに学問の世界に籍を置く人は。
その視点からすると、とにかく網羅的に集めた膨大な情報をコンピューターで解析して
解析方法や分類方法を工夫するのは成果が発表しやすいものでもあるんです。
日常的なものに例えると…。(仮の話ですが)
小学校の教室の休み時間での児童の行動を分析するために、
児童全員の脈拍、体温、会話時間、声量、移動距離、移動速度を測定。
声量と移動距離の関係を調べたら、
「声が大きい児童ほど休み時間に移動する距離が長い傾向がある」
ことが分かった、なんていうようなことです。
「だから何なの?」と聞きたくなるような結果だったり、
実際に教室の中で何が起きていたかを無視するような結果だったりするわけです。
情報が膨大すぎるとハッキリした結論が導けなかったり、
本当に重要な要素に気づけなかったりするケースが否定できないようです。
ただ、データを一度集めてしまえば、色々と考察しながら成果を発表できる。
そこには大きなメリットがあります。
一方、細かく見た情報を、さらに細かく調べていくのも成果を出しやすい側面があります。
日常的な例えで言うと…。(これも嘘の話です)
教室を走っている児童の汗と、廊下を走っている児童の汗の成分を比較、
その結果、廊下を走っている児童の汗にだけ特定の成分が見つかった、
というようなことです。
これは更に詳しく調べられます。
次に、校庭を走る児童の汗を調べたら、廊下を走るときと同じ成分が
廊下を走るときの3倍の量で見つかった。
だから「廊下を走るのには校庭を走るのと近い効果がある」と言える。
そんな感じ。
詳しく調べれば、成果は生み出せます。
その狭い分野のエキスパートになれるんです。
研究の分野は、とかくこうした二極化になりやすい気がします。
僕が知りたかったのは、もっと全体的なことだったんです。
先の例に合わせるなら…。
小学校の教室の中を走っている児童がいる。
そのことで教室内には何が起こるか。
児童の特徴と関連性はどうか。
走っている児童との距離では影響はどうか。
月曜日と金曜日では違うか。
僕の頭の中では、個別の要素を詳細に考えながら、
それらの要素が相互作用して起きる全体の結果を理解しようとするプロセスが
常日頃から動いている気がします。
詳細な情報同士の辻褄が合わないのも不満ですし、
相互作用を考えたときに全体の中で矛盾があるのも嫌なんです。
例えば、僕は幽霊を見たことがありません。
だからと言って、幽霊がいないとは言いません。
幽霊を見たという人がいることは信じます。
人が幽霊を見たというときに何を見ているのかは状況によって違います。
「幽霊なんていない」というスタンスではないので、
「それは見間違いだ」とか「幻覚だ」とかいう考えでもありません。
僕の中には幽霊を見る人に対して、一応の仮説があって、
多分それが僕の持っている情報に対して最も上手く説明ができる方法なんです。
その仮説においては心霊写真には疑問があったりします。
「幽霊は死者の魂が…」とかいう説明にも疑問があります。
でも幽霊を見る、いわゆる霊感の強い人というのはいると思います。
詳しくは説明しませんが、1つの理論やモデルとして全体を含んでいるつもりです。
今回、感性工学会の発表を見てきて感じたことも似ていました。
詳細なところは詳細に、
関係性を見るところは関係性だけを。
全体としての統一感を感じさせる内容は少ない気がしました。
感性工学というのは、人の「感性」という曖昧なものを扱おうという
ある意味で挑戦的な内容で、動き始めたばかりという印象もあります。
工学として、産業への応用を踏まえ、一般的に扱える情報に加工していく。
それは非常に重要なスタンスだと思います。
一般化して、誰にでも活用できるシステムを作り上げるのは大切でしょう。
しかし、人という大腸菌よりも遥かに複雑なターゲットを扱うので
調査結果の扱い方が非常に難しいと感じました。
一般化するということは指標となる要素を抽出する作業とも言えます。
考慮すべき要素を簡略化することで、抽象度の高い理論を作るのが目的かと思います。
人がターゲットだという時点で関わってくる要素が膨大なわけです。
そこから要素を簡略化するのは難しいはずです。
そのなかで、僕が受けた印象は「先に理論を決め過ぎじゃないか」ということでした。
予測を立てて、それに対してデータを集め、統計的に考察するような発表が多いんです。
求める結果や目的が先にあるのかもしれません。
理論や概念で考えを進めている印象を受けるんです。
調査対象であるはずの「人」を、軽々しく見ている感じがしてしまいます。
学術の難しさかもしれません。
まぁ、学会の発表者の大半は学生ですから、求め過ぎてもいけないわけですが。