2008年12月

2008年12月30日

一年の振り返り

いよいよ明日は大晦日。
2008年も終わりです。

会社にいた頃と比べると年間の疲労は減っているだろうと思っていましたが、
気づかないうちにストレスは溜まっているものなんでしょう。

大掃除を終えた頃から、激しい頭痛と下痢、吐き気に襲われました。
まぁ、いわゆる片頭痛の症状ですが、結構ひどい状態。

年始から締切のある仕事が増えたことを認識した途端に、
無意識が一気に体を休ませようとしたかのようです。
全てを体から追い出そうとするように体調が崩れました。

もっと別の方法で心身のバランスを取りたいものです。


さて、今年一年を振り返っても色々な変化があったことに気づきます。

それは日々の生活レベルの変化としても挙げられますが、
僕自身にとって大きな意味があった気づきとして2つのことがあります。

1つは技術的なもの。
もう1つは、内面的なもの。

技術的には、ペーシングの奥深さを痛感しました。
そこには人間の持つ不思議な性質が関係しています。

まぁ、僕にとっては説明できる範囲なので不思議とまではいきませんが、
なかなか一般的には納得しにくいことでしょう。
人によっては何か神秘的であったり、スピリチュアルブームのように感じたり、
そんな印象すら受けるほどの人間の特性の面白さです。

身体レベルでペーシングを実感できると、
コミュニケーションの可能性は大きく広がると思います。
実際、この一年で僕のコミュニケーションには大きな変化がありました。

コミュニケーションとは、他人との関わり全てのことを言います。

しかしながら、他人との関わりにおける本人の意識状態は人それぞれ違います。
他人と関わる時に、他人を気にする人もいれば、自分を気にする人もいます。

人と関わったときに、どこに注意を向けるかというのは
かなりの部分において個人の癖によるわけです。

僕の印象では、その癖は滅多に変わりません。
なぜなら他のやり方があることに気づかないからです。
内的なプロセスは、必ず本人にとって当たり前のことで、他人と比較できません。

それはペーシング1つとっても言えることです。
相手との関係性を良好にする目的であったとしても、
ペーシングという技術を活かす方向性が違うんです。

僕の場合、ペーシングは「相手に楽でいてもらう」ために
相手のペースに自分を合わせていくということが中心でした。

自分と相手が合っているかを客観的に眺めるような感じ。
相手が楽でいられているかを見ていたわけです。

以前の僕は、そのときに、自分の内側に何が起きているかは
全くと言っていいほど、気にしていませんでした。

僕のコミュニケーションは相手に意識を向けることで成立していたわけです。

ところが現実的には、自分の身体反応を利用しながら
コミュニケーションをとっていく人もいるんです。

そのことを理解したとき、僕は自分の内側に意識を向け
身体反応を利用しながらコミュニケーションする方法も可能になりました。

もちろん、その技術は長年してきたものとは違いますから
意識的に努力する必要のある部分ですし、職業として磨いていきたい内容です。

ペーシングを通じて、この一年で僕は
自分の内側を感じ取ることの意味に気づきました。
これは非常に意味あることでした。


そして、もう1つ。
これは本当に大きな変化だったと思います。

一言でいうと「愛と自由が統合できた」ということです。

概念的なものではなく、実感を伴った気づきとして
僕の中で愛と自由の葛藤が統合された印象があるんです。

おおよそ言葉で伝えられるものではありません。

ただ、それを言い換えると、
「不必要に傷つけられることがなくなり、
 大切なもののために傷つくことができるようになる」
という感じでしょうか。

傷つくならば、それは愛ではない。
チャック・スペザーノがそんなタイトルの本を書いていますが、
言葉の意味からすると、そのことが実感できます。

愛を求めて傷つく必要はない。
愛のために傷つく自由がある。

そういうことだと思います。

それは選択ということです。
責任を持って自分の意志で選択をする。

他者に対して反応するのではなく、対応を選択するわけです。
そこに自由があるのでしょう。

まさにその意味では、NLPは自由になるためのものです。
自由になるために、NLPは上手く出来ていると思います。

その視点でNLPを見直せたのも、今年一年の大きな変化かもしれません。

cozyharada at 17:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2008年12月28日

隣の席が気になります

先日、喫茶店にいたとき、隣の席に一人のおばあさんが入ってきました。

僕はいわゆる、おばあちゃんっ子ってヤツだったので、
高齢の方を見たときには、お爺さんよりも、おばあさんに反応しやすいんでしょう。

だからといって、おばあさん全般に好意を抱くかというとそうでもなくて、
むしろ苦手なタイプのおばあさんもいます。
今の住居の近所には、どちらかと言うと苦手なタイプのおばあさんが多いんですが。

高齢になれば、自分の体が思うようにコントロールできなくなるのが普通でしょう。
となると、不自由な思いをすることが増えてくるわけです。

それは仕方ないことではありますが、そこには
何らかの悔しさや喪失感を伴うものではないかと思います。

やり場のない不満があっても当然だと考えられます。

僕の祖母は、そうした不自由さを受け入れていた感じがあったような気がします。
不満を言わないように育ってきた人だったのかもしれません。
むしろ、些細なことに対して「ありがたい」と口にしていました。

当たり前のことに感謝できる謙虚さとも言えますし、
同時に、セルフイメージが低い人だったような印象もあります。
それは良いでも悪いでもなく、そういう人だったということです。


ただ、僕の祖母がそういう人だったことは、
今の僕自身に対して随分と影響を与えている部分はあると思うんです。

というのは、僕が苦手なタイプのおばあさんは
祖母とは対極にあるような人物像だからです。

自分に内在しているはずの様々な不満を、外に対してぶつける。
責任を自分以外に求め、不満を撒き散らしている。
思い通りにならないことへ、いつもイライラしている。

そんな、自分を省みることをしないような人が苦手なようです。

そういうタイプが全般に苦手かというと、決してそうではなく、
若い人であれば他人として気にしないことができるのに、
「おばあさん」という条件がつくと気になってしまう。

これは僕自身の癖として定着しているものです。
それを直す必要があるとも今は思っていませんから、
ただ、そういう特性があるという程度に自分を意識するだけです。


で、その喫茶店で見かけたおばあさんは
随分と体が不自由そうな姿ながら、自分で荷物を沢山持って、
寒さに震えているのを休憩するために入ってきたようでした。

買い物した荷物と自分のかばんを沢山持っているところ。
荷車を押すでも、杖をつくでもないところ。
歩幅は小さいながら、足取りは一歩一歩を急ぐところ。
注文もメニューを見て決めるところ。

それらは当たり前のようでもありますが、
その人の個性を十分に物語る部分だと思います。

他人に頼ることをあまりしない人だろうと推測されます。
自分で努力して、責任をもって生きてきた人だろう、と。
他人に迷惑をかけないように頑張り続ける健気なおばあさんに見えます。

もしかすると、もっと行動面で活動的に働けていた過去の自分像を
今も維持しようとしているのかもしれません。

そうしたことを想像すると、過度に親切にされるのは嫌いかもしれないと思えます。
実際、表情は寒さと披露で苦しそうでしたが、
毅然として他人を寄せ付けないような雰囲気も発していました。

僕としては隣の席なものだから、非常に気になってしまいます。

店員がやってくるのも遅い。
決まり切った対応として、メニューと氷水を渡す。

顔を見れば、早く暖かい飲み物が欲しそうなのは分かりそうなものなのに…。
なんでもいいから、暖かいお茶を先に出して欲しかったです。

そんなやりとりを見ていると、僕はソワソワしてくるんです。
心配になってしまうんですね。


だから僕には福祉の仕事はできません。

思い入れが強過ぎます。
自分の癖が強く表れてきます。
抱え込み過ぎ、入れ込み過ぎになる可能性があります。

心理臨床の言葉で言えば「逆転移」というのが起きやすいんです。
それではプロとしてはできません。

仮に僕が福祉や介護の仕事をするのなら、自分自身の問題として、
おばあさんに対する思い入れの強さを解消する必要があります。

僕の「おばあちゃんっ子」ぶりは、福祉や介護に気持ちを向けさせます。
だからこそ、そうした仕事の方々と関わり、
コミュニケーションやストレスケアの方面でお手伝いをする意欲が生まれるのでしょう。

でも、僕自身が直接に関わっていくのは危険な気がしています。
自分の中に怖さがあることに気づくんです。

裏を返せば、それは介護や福祉の仕事をする方々への尊敬でもあるわけです。

2008年12月26日

気の利いた名前

今年は暖冬だったようですが、寒さが厳しくなってくると
移動の際の道順に違いが出てきます。

なるべく屋外を避けるようになるんです。

聞いたところによると、北海道では地下道が発達していて
外に出ることなく別の場所に移動できる都市があるんだとか。
札幌とかは確か、そんな状態だった気がします。

僕は寒いのよりも暑いほうが苦手ですが
寒さを実感するようになると自然と暖かい場所を通るようになっているようです。
地下道とか、店の中を通り抜けたりとか。


で、そうやって歩いている途中に、気になる店を見つけました。

ハーブティーの『ボタニカルズ』です。
(『BOTANICALS』という表記の看板が出ています)

別にハーブティーを飲むわけではないんですが、
目を引くものが多かったんです。

中身はなんだか分からないですが、棚に大きな瓶が大量に並んでいるわけです。
一部にはガロン瓶なんかもあります。

ガロン瓶を目にしたのは研究職として実験をしていた頃以来。
ちなみに、1ガロンは3.785リットルですが、
「ガロン瓶」の中身は通常、3リットル程度になります。

大学や会社で研究をしていた頃には、大量に試薬を使いますから
ガロン瓶で購入することはザラでしたが、
なかなか一般消費者が使う量ではないような気がします。

そんな大量に使うものは一体、何なんだろう?
なんてことを思いながら足を引かれて行ったんです。

すると店内には、一層目を引く商品がズラリ。

オリジナルブレンドのハーブティーが量り売りされているんですが、
その商品名に工夫が凝らしてあるんです。
これは興味を惹かれます。

例えば、
「疲れた体をいやしたい時に」
「ストレスがたまりすぎてキリキリつらい時に」
「イガイガをすっきりさせたい時に」
「ポカポカ温まりたい時に」
「しっとりお肌を目指したい時に(ドライ編)」
など。

この「〜時に」という形式が主流なんですね、どうやら。
中身がどうかよりも、この名前そのものに関心が向いてしまいます。
一通り見てみたくなる。

こうした工夫もビジネスでは大切なんでしょう。
客層を自然と決めてくれます。

なお、「(ドライ編)」と書いてある商品には、
「(ドライ編)」以外のバージョンは無いみたいです。
それがまた粋ですね。

他にも
「楽園の風」
「天使のデザート」
「初恋の涙」
「キューピッドの口づけ」
「白雪姫の夢」
「太陽の贈り物」…
などなど、気の利いた商品名が沢山あります。

こちらは機能面よりも、味と香りを前面に打ち出しているような印象。
なんとなく名前から、飲んだときの感じが想像できます。
想像できそうで、でもやっぱり分からない。
そのあたりの機微が人の心をくすぐります。

中身を詳しく見ていったら、似たものもあるのかもしれませんが
これだけ名前が工夫されていると買ってみたくもなりますから、
そういう意味では上手いやり方だと思いました。


そんなシリーズ中で、僕が大きな興味を持ったのは…。

「ワガママな部下にまいってしまった時に」
「嫌いな上司に叱られた時に」
という具体的な指示のもの。

この2種類で、一体どれだけコンセプトが違うのかが気になります。


そして、曖昧ながら意味を感じ取らせるパターンがこちら。

「”するーり”チョーすっきりさせたい時に」
「”ぴたり”チョーしっかりさせたい時に」
「”コレ”たまりすぎ気をつけたい時に」
「アレ、コレ、ソレ、出てこない時に」
「わかっちゃいるけどやめられない時に」

間接的ながら、利き目が想像できます。


で、良く分からないけど、気になってしまうのが…。

「グーチョキパーが辛い時に」
「君のヒトミに乾杯したい時に」
「くもり空でも穏やかに過ごしたい時に」
「もうコリゴリだと思う時に」

結構、ネガティブな感じのもあるようです。


良く売れるものを見ると、その時の世情が想像できたりするのでしょうか。
地域性なども出ていると面白いように思います。

短いフレーズですが、言葉の力を感じさせる品物ですね。

2008年12月23日

締めくくり

この勉強会で、2008年のセミナーも全部終わりました。
一年を振り返ると、半分以上の日がセミナーなんだなぁと意識したりして
一年で出会った人との関わりを振り返ったりもします。

自分の変化に目を向ければ、そこには随分とハッキリした自覚として
無意識における人の交流に気づけるようになってきたことが大きな位置を占めています。

そういう意味で言うと、12月の勉強会という一年の締めくくりに
催眠を扱って、無意識との交流ということを考えたのは
なかなか意味深いもののような気がします。

人は皆、社会生活の中で意識を張り詰めている部分が少なからずあるものです。
睡眠は、意識を解きほぐす意味で重要な時間ですが、
一年間も努力を続けていれば、意識のハリが癖になるようなこともあるわけです。

そうした自分の心身の現状を直感的に理解できている人は、
上手く自分をリラックスさせる手段も知っているようですが、
大学院の頃や、会社にいた頃の僕は、間違いなく
一年間を張り詰めた状態で過ごしていたように思います。

「緊張の糸が緩む」などという表現があるように、
何かに向かって頑張っているときには隠されていたものが
頑張るのをやめた瞬間に表にあらわれてくるのでしょう。

それは無意識がバランスをとろうとしている大切な作用です。

僕は、年末になると激しく体調を崩していました。
一年分のハリを過度に緩めるための調整だったのかもしれません。

そういう観点で人を見ていると、人の様々な行動や振る舞い、動きなどが
全て無意識のバランス調整に役立っているように見えてきます。
人間は良く出来ているものだと思います。


催眠の大家として知られるミルトン・エリクソンには、
その言動の端々から人間そのものを信頼している様子が伺えます。

自然にしていれば大丈夫。
そういう絶対的な信頼感がベースにあるように感じられます。

人間に対する信頼というのは、無意識との交流を実感するほどに
自然と深まっていくものだと思います。

それは無意識に身を委ねるだけでも実感できるものです。
催眠という不思議な状態は、無意識に身を委ねる状態とも言えます。

そうした状態では、日頃から意識の裏側でバランス調整をしてくれている無意識が
より積極的に心身の調和を取ろうと働いてくれるような印象があります。

実際、ある程度の時間を、無意識に委ねるような経験をすると
不思議と日々のストレスが軽減されることがあるわけです。

心に「わだかまり」がある状態では、多くの場合、
そのことについて絶えず意識が向くようになっているものです。
強く囚われてしまう。

催眠には、自然と全ての囚われから解放され、
ただただ今この瞬間の安心感に身を任せる意味合いがあります。

それ自体が、わだかまりを解消するのに大切な作用だということです。


今回の勉強会では特に、催眠というもの、変性意識状態というものに関して、
意識と無意識の説明モデルから含めて考えてみました。

その過程で、催眠術という奇妙な現象に関しても、
臨床催眠と同様のメカニズムで説明ができるようになったと考えています。

僕にとって、あのヘンテコな催眠術が作用するメカニズムを
他の理論体系の中で説明できることは意外と画期的なことだったんですが、
その部分に関してはご参加の皆さんには大して興味がなかったようでした。

まぁ、そんなものかもしれません。

しかしながら、催眠術というものが可能だという事実は、
人間の可能性を考える上で非常に重要な部分だと思います。

エリクソンは催眠術のように奇妙な現象さえ可能である人間の性質を
人間そのものや無意識の可能性に対する信頼の
基盤として見ていた部分があるような気がします。

ちなみに、よく催眠術のショーで目にする光景で
レモンを美味しそうに食べるものがありますが、
あれは決して特別なことではありません。

「さぁ、ここに美味しそうな桃がありますよ」

この言葉がけに重要なポイントがあるんです。

「このレモンは甘いですよ」
というのでは難しいんです。

なぜなら、レモンという言葉で「これからレモンを食べるんだ」という前提を作ると、
過去の記憶の中からレモンにまつわる体験が全て蘇ってきてしまいます。

誰しもが、レモンを食べるのを想像しただけで唾液が出るように、
催眠術であっても「レモンが甘い」と言われると、
レモンの酸味が同時に思い出されやすいわけです。

それよりは、「これは桃です」と言って、
桃の体験を喚起するほうが理にかなっているということです。

レモンをかじりながら、過去の体験として桃の味を再体験しているだけですから。

レモンを甘く感じさせる催眠術は、結構難しいはずです。
ミラクルフルーツでもあれば話は別ですが。

2008年12月21日

悩むべきは

問題には大きく分けると3種類あると言われます。

自分の問題。
相手の問題。
自分と相手の問題。

問題について悩む人ほど、相手の問題について悩むことが多いようです。
本当に悩むべきは相手なのに。

それには責任が関わってきます。
立場ということです。

「この問題で悩むべきは誰か」

その視点を持てるかどうかで、問題解決の方向性が変わってくるわけです。

相手の問題で自分が悩み、傷つくというのは苦しいものです。
間違っていると言ってもいいぐらいです。

それは責任感が強すぎるのか、頑張りすぎるのか、
相手の立場を考え過ぎてしまうのか、色々な可能性が考えられますが、
いずれにせよ、相手が問題と感じていないことが本当の問題なのでしょう。

それは組織の中などでは非常に多いケースです。
上司が解決すべき問題を部下が抱えてしまうことは多々あるようです。

部下が悩み、上司が問題と感じていないのなら、
その問題は上司に委ねられるべきものだと考えられます。
責任を取るのは上司の仕事だということです。

解決の方向性は、自分が悩んでいた問題を、
本来悩むべき相手に受け渡すということ。

相手の問題で悩んでしまう人は、問題を抱え過ぎる傾向があるわけです。
上司を困らせない、良い部下なんです。

上司からすると手のかかる部下ほど、
自分の範囲でないことを上司に委ねている可能性があります。

同僚との関係に問題があるのなら、それを解決できるのは権限のある上司かもしれません。
部下から「あの人とは仕事をしたくありません」と報告されれば、
問題は上司の元へと受け渡されます。
問題を解決すべき人物は上司になるわけです。

自分が悩むべきではない問題で傷つく必要はありません。
悩み、苦しむのをやめるのも大切な技術なんです。

悩むべきは誰か。
誰の問題か。

そういうことを考えながら、対処の方向性を意識していくのが大切だということです。

2008年12月19日

言葉の切れ味

コミュニケーションについて学び、そのことを本気で考えるようになると、
自分がしていることの意味を意識するようになります。

自分の行動、振る舞い、発言…。
自分が人前にいるときには、あらゆる部分がメッセージとなり、
必ず相手に対して何らかの影響を与えている。

自分の些細な言動すらも、他人に影響を与えるものであると
ハッキリ意識する必要があると思います。

それは責任です。

本気で人と関わっていくことを選択した人間の責任だと思います。

セミナーを行う場合でも、個人的な相談に乗る場合でも、
あるいは会社の上司というような立場であったとしても、
他人への影響力が大きい人は、自分の言動に責任を持つべきではないでしょうか。

それは言葉で伝えて納得されるものではないかもしれません。
経験によって、自分自身の影響力を肌で知って、後悔して、
心の痛みを持って理解していくものかもしれません。

自分がウッカリ発言した一言で、相手の人生が大きく変わるかもしれないんです。

確かに、自分が何かを言ったとして、
それに対して選択し、行動していくのは相手本人です。
その選択は相手のものであって、責任は本人のものではあります。

自分のしたアドバイスに従うも、従わないも、相手次第だとも言えます。
だから自分は思ったことを言っても構わない…。
本当にそうでしょうか。


自分の意志で選択したこととして責任を取れる人は、
自分に関わった人の影響を責めたり、後悔したりすることはないでしょう。
他人のせいにする人は、自分の人生のハンドルを手放している、
そんな風に考えることもできるでしょう。

でも、僕は自分の言動に責任を持つべきだと思います。
自分が相手に関わったことで、相手の人生に影響を及ぼしている。
その責任を意識するべきだと思います。

自分の些細な一言で、相手をドン底に叩き落としてしまう可能性だってあるんです。
深い傷を負わせてしまうこともあるんです。

自分から相手を切りつけておいて、
「傷つくのは相手の意志であって、相手が選択したことだ。
 傷つくことも、傷つかないことも、相手自身が選べるんだ。」
という態度は、あまりにも無責任でしょう。

小さな子供が遊ぶようなオモチャの刀であれば、
切りつけられても痛がるフリをするだけです。
竹刀で叩かれたのなら、痛みはあっても血は出ません。

ですが、切れ味の鋭い刃物で切りつけたら、傷も痛みも深くなるんです。

コミュニケーションを学び、人の心を学ぶと、
様々なことが見えてくるものです。
言葉の重みや影響力が大きくなっていくことでしょう。

切れ味が鋭くなっていくんです。
刃物を持ってしまっているわけです。
切るつもりがなかったとしても、切れてしまうことさえあるんです。


僕は、専門家として、自分の言葉を『メス』のようなものと考えています。
言葉は『メス』なんです。

外科医にとってのメスが必要不可欠な道具であるように、
人の心と関わる仕事の人間にとっては、言葉は必要不可欠な道具だということです。

そして、それは使い方を誤ると、取り返しのつかない傷を負わせてしまうものです。
切ってはいけない部分に刃が当たってしまったら、大出血になるんです。
命に関わることだってあるんです。

時には病巣を完全に取り除くために、勇気を持って切る必要もあるかもしれません。
時には、自らのミスで患者を助けられないこともあるかもしれません。

助けられなかったことを「自分は最善を尽くしたが、上手くいかなかった」
というように仕方のなかったことして受け止めていくのも必要でしょう。
そうでなければ続けていけないでしょう。

同時に、そのことに対する後悔と自分自身の心の痛みを
いつまでも負い続けていくことも大切なことのように思います。

『メス』を使う上での心構えと、使いこなす技術の両方を磨いていく。
それが僕の、専門家としての覚悟なんです。

2008年12月17日

新春ワークショップのご案内

新春ワークショップのお知らせ

年の初めに開催しているセミナーは、普段の勉強会よりも長めの時間で、
たっぷりと一年分の頭と心のウォーミングアップをする企画です。

僕自身の体験談で恐縮ですが、会社にいた頃の毎日は常に時間に追われ、
いつも少ない睡眠時間の中で生活をしていました。
特に、会社を辞める直前の一年ぐらいは、土日を含めて詰め込み過ぎの毎日。

会社のある日は日付が変わってから家に帰り、本を読んだりCDを聞いたりして勉強し、
それから英語の勉強のためにLOSTのDVDを観て、瞑想をしてから入浴…。
朝日を見ながら布団に入るようなことがほとんどでした。

そして、楽しみにしていた土日は、全てがセミナーのような状態。
色々と勉強が楽しくて、会社以外の関係が楽しくて、
文字通り休みなしで活動していたわけです。

ゴールデンウィークもお盆休みも関係なしでしたが、
そんな僕にとって唯一の休憩が年末年始の休みだったんです。

会社もセミナーもなくなるこの時期。
実家に帰り、のんびりゴロゴロする毎日を過ごします。
それでも勉強に飢えていたためか、喫茶店に出かけては本を読んだりしていました。

そうしていると、実感として頭も体も休まっているのが分かるんです。
忙しくしていた自分が休まっている期間なのでしょう。
以前にもブログで書きましたが、体調を崩す時期も年末限定でしたから
とにかく無意識が自分自身を休ませようとしていた期間なんだろうと思います。

そうこうして新年を迎え、正月ムード満載のテレビが頭の中に飛び込んでくる。
刺激を求めて外に出ても、どこもかしこも正月の雰囲気に溢れています。
新年を迎えて3日もすれば、日常に戻りたいような気分さえ出くるんです。

で、年初めの出社。
研究職で、実験ばかりの毎日ですから、一度休みをとってしまうと
なかなか普段通りのペースで仕事を回せるようにはならないんですね。

ある程度の準備期間がいるわけです。

だからこそ、一年の初めごろの週末に開催されるセミナーが楽しみなんです。
意識的な勉強としても、無意識での刺激が得られる交流としても、
セミナーから帰ってきたぐらいから、自分にスイッチが入ったような感じを味わう。

そういう意味で、僕にとって
新年のセミナーは印象的で、重要なものなんです。

是非、多くの方にご参加頂き、年の初めに
意識と無意識の両方を活性化させる機会にご活用いただければと思います。


前置きが長くなりました。
さて、いよいよセミナー内容のご案内ですが…。


 今年のテーマは「NLPの裏話」です。

普段は立場上、公にお伝えできない内容を扱います。
ずっと黙ってきた内容です。

NLPの内側からNLPを学ぶのではなく、
NLPに対して客観的な、外からの目線でNLPを眺めて頂こうという考えです。

ただし、ここで聞いた内容は、
「あるNLPのトレーナーは、こんな風に言ってましたよ」
というようにお話されると困ってしまうものです。

認知科学や各種の心理療法との関係性からの説明になります。
もちろん、そこには主観的な考えが含まれます。

NLPというものの内側からでは分かりにくい全体像を
1つの形として見て頂こうというわけです。

たった1日ですが、ハッキリ言って、相当な「タネ明かし」です。


その過程では、様々なNLPのスキルを、理論的な意味を持ってご理解頂けるはずです。
NLPのスキルは、ある基本的な部分を理解さえすれば、
基本に従った組み合わせによって出来ていることが分かります。

すると、ワークを行う上でも必要な部分と、どうでもいい部分が分かれてくるわけです。
NLPがシンプルになります。
基本の組み合わせ方によっては、応用も利くようになります。

しかし、困ったことも出てきます。

この枠組みに収まらない内容があるのです。

「では、その枠組みが間違っているのではないか?」
そう思われる方もいるかもしません。

もしかするとそうかもしれません。

NLPのスキルや、NLPで扱っている内容を細かく理解し、
それを様々な周辺領域との関係性や裏付けと結びつけて解釈すると、
NLPの多くの内容は実に良くできていると思えるのです。

一方で、その良くできた部分に目を向けるほどに、
ある一部分に不一致感が生まれてきてしまいます。

実際に自分自身が、課題に対するお手伝いをする場合には
その部分を無視しても関係がないようなことでもあり、
NLPのある流派では、その内容を扱わないといいます。

ですが、多くの日本のNLPにおいては、その内容が必須項目として指示されている。
それが現状なのです。

だからこそ今回の内容は、NLPトレーナーという立場から公にはお伝えできないわけです。
ご参加の際には、その点をご理解ください。



では、内容についても少しだけ説明します。

今回は、NLPの本質を理解して頂くようなモデルを提唱し、
その流れに沿ってNLPの理論的側面を理解していただきます。

それと並行して、具体的かつ実践的に使いこなす方向から
体験的な実習によって実感を深めていきます。

そのプロセスは、通常のNLPの資格取得コースで行うような
「この時間はポジション・チェンジを学びます。
 ポジション・チェンジは、こんな場面で役立ちます。」
という形のものとは違います。

それではスキルが先に合って、それに合わせた場面を選ぶ必要があるわけです。
むしろ現実は逆でしょう。

「困った場面がある」
「課題としているものがある」
「進みたい方向がある」

…「じゃあ、どうすればいいんだろう?」

状況に応じてNLPを使いたいということです。

今回の内容は、その方向性を示すはずです。
整理をすると以下のようなものになります。

・NLPを構成するもの
・NLPの基本戦略
・NLPと他の手法との関係
・NLPの実践的活用法


点と点の集まりのように扱ってきたNLPのスキルを
立体的に統合していく狙いです。

実際に多くの方が、NLPのスキルを
「点と点がバラバラの感じ」というようにお話されます。

ですが、その印象は少し違っている気がします。

「点」というのは、繋がっていないことの説明なのでしょうが、
実際には「点」というよりも大きな一塊に近いでしょう。
塊を細かく分けていくと、塊を作っている要素が見えてくるはずです。


世間一般のNLPの学び方は料理教室に似ている気がします。

料理教室に通っている間に、色々な料理の作り方を学びます。
レシピを見ながら、先生に言われたとおりに作っていく。
そうするとレパートリーが増えていくわけです。

料理教室で、作れる料理のレパートリーを増やすのも大切な価値です。
実生活で役に立ちます。

料理本を読みながら作るよりも、色々なコツを学べるでしょう。

そして、料理教室に通っている人たちの中には
ある時から自分でオリジナル料理を作れるようになる人も出てきます。

習った料理を作り続け、アレンジをしたりするうちに、
自分でオリジナルの料理が作れるようになるのです。

それは無意識的に、料理の本質を捉えることができたからです。
様々な料理のレパートリーの中に、料理の本質的な技法が含まれています。
切り方、火の通し方、味付けの仕方、素材の特性、…。

そうしたものを経験的に理解することで、
自分で素材と料理法を組み合わせてオリジナル料理を作れるようになるわけです。

NLPを継続的に学び、スキルを実践し続けていくうちに
そのような使い方が出来るようになるものです。

ただ、それには時間がかかります。
そして、人の心は料理よりも、少しだけ複雑な気がします。

NLPは人間をよく分析しているものです。
その分析の仕方を学ぶことは、人間を理解するためにも役立つと思います。

料理よりも少し複雑な人間を分析したNLPに対しては、
その複雑な部分を整理して学んでおくほうが効果的だと思うのです。

NLPを一通り学んだ方々には、いくつもの料理のレパートリーがあるわけです。

料理教室で習ったそれぞれの料理という一塊を
少し細かく分けて理解することで、
全ての料理に共通する本質を学んでみませんか、ということです。



特に参加条件というものはありません。

NLPのプラクティショナーを修了されていることが望ましいですが、
これからNLPを学ぼうかと考えている方には総論的な学びが期待できます。

何度も述べてきましたように、今回は「裏話」的な内容が含まれます。
ご参加にあたっては、その点のご理解をお願いします。

開催要項は以下の通りです。



『新春ワークショップ 〜外から眺めるNLPの全体像〜』



【日時】 2009年1月12日(月・祝)
     10:00〜18:30

       ※終了時間が前後することがあります。     

【場所】 北とぴあ 802会議室

       (JR京浜東北線・王子駅北口より徒歩2分)
       (東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)

【参加費】 12,000円 
    
【お支払い方法】 お申し込み後にご連絡いたします。

    

※ 学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
 ご了承ください。



NLPをトレーナーコースまで学び終えた頃、他にも色々なセミナーに参加していました。
面白いセミナーや効果的な方法はNLP以外にも沢山あるように感じていました。

面白いセミナーは沢山あります。
学びが深まるセミナーには、今も通っています。

しかし、NLP以外にも効果的な方法がある、という考え方は
今に思うと捉え方が違うような気がしています。

それはNLPが最高だという意味ではありません。
NLPは方法ではないということです。

「NLPを学んだから、他の学びが深くなった」
今はそのように思えます。

そして、色々と学ぶほどに、NLPは良く出来ていると思えるようになってきました。

NLPとは一体どういうものなんだろう?
そのような関心のある方は、是非ご参加頂きたい内容です。

年の初めにお会いできることを楽しみにしております。


参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)


終了しました



cozyharada at 23:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!セミナー情報 | NLP

2008年12月15日

電車の中で

電車に乗ると、揺れに強い人と弱い人が出てくるようです。
とても安定して立っている人もいれば、すぐにフラフラしてしまう人もいます。

先日、電車の中で一人の50代くらいの男性が、
女子高生と思われる2人組に対して怒っていました。
「さっきから何やってんだ!ちゃんと立ってろ!」

僕から見れば、その男性も決して「ちゃんと」立っているわけではなく、
吊革に掴まりながら体をグルングルン動かしていましたから
足の位置こそ変わらないまでも、前後の人には何度もぶつかる迷惑な人だったんです。

その電車はかなりスピードも出しますし、揺れが大きいタイプだと思います。
でも、吊革の数には限りがありますから、掴まっていられない人は大変です。

女子高生2人組は小さな声で話はしていましたが、
決してハシャギながら過ごしていたわけではなかったように見えました。
フラついたときに「ワァ」とか「キャア」とか言っていたぐらいなものです。

その声の感じや、動いてしまった後に顔を見合わせる様子から推測すれば
かなり反省していて恥ずかしそうな雰囲気に思えたわけです。
どう考えても、フラフラしてしまうことを楽しんで喜んでいるようには見えません。

ところが、その男性には不愉快に思えたのでしょう。
不運にも怒鳴られてしまった女子高生は委縮していました。

ワザとやっているようには見えないし、反省や恥ずかしさを感じているようなのに、
それに対して怒鳴りつける姿には、近くにいた僕まで残念な思いを抱いたものです。

なんだか、その男性の個人的な事情が投影されているような気がします。


僕は電車の中で揺れずに立っているのが苦手なほうだと思います。
一般的に女性のほうが男性よりも体系的に揺れに強いそうですが、
僕は結構頑張って立っているつもりなのに足元がおぼつかないんです。

そのせいもあって、揺れずに立っていようとしてもフラついてしまうのは
仕方のないことではないかと多めに見る傾向があります。

むしろ、吊革に掴まっているのを良いことに、吊革の腕だけに頼り切って
自分の体や足元を安定させるのを止めてしまうほうが好きではありません。

その時に見かけた50代くらいの男性も、まるで
上下を固定したパンチングボール(ボクシングの練習で使うやつ)ぐらいの勢いで
体全体を大きく揺さぶっていました。

一番大きな振幅で動く下腹部に至っては、前後の人に押し付けられ
その都度、前の人は顔をしかめながら後ろを振り返っていたほどです。


僕自身としては、電車の中で他人に迷惑をかけるべきではないと考えるわけでもなく、
自分の都合を正義を装いながら人に押し付けるのが不愉快だったようです。

別に、電車の中で足を踏まれたとしても不快にはなりません。
揺れた結果として人の足を踏んでしまうことは不可抗力だと思いますから。

状況の中で仕方のないことというのは多々あるものでしょう。

ただ、その不可抗力の結果として、相手に身体的な苦痛を及ぼしたのなら
その点に関しては謝罪の気持ちがあってもいいような気はします。

なので、足を踏むのは仕方ないけど、
踏んだ後に謝るかどうかは個人の問題だと考える、ということですね。


ところで、僕は先日、電車の中で揺れにくくなる方法を編み出しました。
僕だけにしか通用しない方法かもしれませんが、
自分の体の動きをコントロールするのに効果的な方法のような気もします。

それはNLPの表現で言うならば、
 別のところで使えていたリソースを問題状況に応用する
ということになります。

僕は自分の体の状態を客観的に捉えるのが意外と得意なようです。
体の使い方を真似するというときに、自分の状態をそれなりに意識できるんです。

その時には、「自分の体の感覚として動きや場所を筋肉の状態から把握する感じ」と、
「自分の体の動きを外から見たらどうなっているかを視覚的に想像する感じ」の
両方が同時に使われている印象があるんです。

しかしながら電車に乗ってしまうと、普段は何も意識せずに立っているだけ。

そこで、意識的に自分の体の状態をコントロールする感じを活用しました。

普通に電車で立っているときは、体の感覚や筋肉の状態だけを意識しているだけで
揺れの動きに対して力を入れて踏ん張る印象だったんですが、
体の状態を客観的に見るようにしてから力の入れ方が変わりました。

踏ん張るというよりも、むしろ力は抜けている感じ。
揺れに対して自分の体を逆方向に揺らしてバランスを取るわけです。
視覚的には、頭の位置を動かさないようにするイメージです。

ビルの耐震構造は、まさにそういうことをしています。
揺れを感知して反対方向に動きを入れることで、揺れをキャンセルするわけです。

工事現場で使われる削岩機も、手に伝わる振動が小さくなるように
中に重りを入れて、その重りが揺れと逆方向に動くような工夫で
機械全体の振動を抑えているそうです。

人間も、同じように体を揺らすことで、揺れに強くなるのかもしれません。


そういう意識をしてから、随分と安定して立っていられるようになりました。
まぁ、それでもフラフラすることは多いですけど。

ちなみに、最近の目標は、南北線の「駒込〜本駒込」の大きな揺れで
足を動かさずに耐えることです。

cozyharada at 23:00|PermalinkComments(2)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2008年12月13日

本から学ぶとき

催眠療法家のミルトン・エリクソンの天才ぶりは、
その業績が文献で評価されるだけでなく、その治療技術が様々な形で
技法の流派を産み出していったことでも理解できます。

大型書店やらアマゾンやらで探すと、エリクソン関連の本が沢山見つかります。
ただ、どれもエリクソンについて書かれた本か、
エリクソンのやっていたことについて書かれた本なんです。

エリクソンについて研究した人が書いている。
エリクソンから習った人が書いている。

それはエリクソン自身とは随分違うのではないかと感じます。

なぜなら、著者によって表現されているものが違うからです。

その差こそが、ストラテジック・アプローチや解決志向アプローチ、
家族療法の一派や、NLP、エリクソン催眠などの流派に分かれていった部分でしょう。

エリクソンが行っていた治療は決して催眠ばかりではないからこそ、
その関わり方が様々な技法に分化していったわけです。

そのようなエリクソンのクライアントとの関わり方を突き詰めてしまえば、
人間そのものを信頼するというところに行きつくのかもしれません。
それを無意識への信頼と呼ぶこともできるでしょうし、
人によっては、また別の表現でエリクソンが大切にしていたことを説明するんでしょう。

そこには、どうやっても著者の考えが反映されてしまいます。
経験に含まれる膨大な情報を整理しようとした時には、
本人の視点でしか整理できないんです。

エリクソンの本を読んでいても、実はザイクやヘイリーなどの著者の考えを
学んでいる可能性があるわけです。


そのことは言い換えると、誰もが何かを学ぶ時には
自分の視点からしか整理することができない、ということになります。

エリクソンに関する本が、著者によって様々な内容に分かれるように、
同じことを学んだとしても、人それぞれの学びが違ってくるということです。

しかもそれは、必ず元の教えをそのまま学んだことにはなりません。

誰かが他人に伝えられる内容は、ほんの一部なんです。
そして、それが他人に伝わっていく時には、
その人の持っている情報と結びつけてでしか理解されていきません。

エリクソンの本を読むと、著者の考えの中から
自分の持っているものとマッチするものだけを学んでいることになります。


極端な言い方をすると「分かっていないことは学べない」ということです。

本を読んで理解できないのは、分かっていないからです。
本を読んで理解できる時は、そのことを既に分かっている場合です。

「分かっている」というのは大袈裟かもしれません。
体験的に情報が蓄積されている、という言い方のほうが適切でしょうか。

つまり、「体験を通じて意味や本質を掴んでいるけれども、
それが適切に言語化されていない」という状態に対して、
他の人が言語化したものを照らし合わせて言葉で整理するのが
一般的に「分かった」と言われる状態だろう、ということなんです。

人は多くの体験を、知らず知らずのうちにしているものです。
意識化されることなく、多くの体験が蓄積しているんです。

でも、それが整理されていない。
何かを学ぶ場合には、大半が、経験を言葉で整理するということじゃないでしょうか。


良い本を読んだ。
勉強になった。
そういうときは、もしかすると既に自分の中に存在していた何かが
ひとつの形として切り出されただけかもしれないんです。

何かを学んだ時に心に残る部分は、学ぶ人の体験と関連させられるものなんです。

だからこそ、しばらくたってから本を読み直したりすると
また別の学びがあったような気がするんでしょう。
別の体験が増えたから、別の部分が理解できるようになったということです。

良い本は、何度読んでも学びがあるものかもしれません。

それは様々な体験と関連付けられるだけの深い本質を秘めているからのように思います。

cozyharada at 01:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2008年12月11日

気になる写真

どうでもいい話なんですが、毎年これぐらいの時期になると気になることがあります。

電車の中の広告。
ドアのところに貼ってあるシールのことです。

今年は見ていませんが、カルピスの「ほっとレモン」の広告は心暖まる感じでした。
雪山の救助犬として活躍するセントバーナードの首に「ほっとレモン」が着いている。
仕事帰りの混雑した電車の中でも、見ていると、ほのぼもしたものです。


ですが、やっぱり一番気になるのは、大学受験予備校の○○学苑というもの。
(問題無いと思いますが、一応伏せておきます。「怒涛の英語…」で有名かも)

塾そのものに関しては知りませんが、毎年変わっていく広告が印象的なんです。

都内のJRでは良く見かけます。
歴史上の偉人に扮した写真が並ぶ強烈なインパクト。

どういう基準で選ばれるのかも興味がありますが、
その写真の人物像と配置、デザインとしての構成にも光るところがあります。

毎年、「〜原人」の類は登場しますし、日本では卑弥呼や聖徳太子、
中国では孔子、老子、楊貴妃、ギリシャの哲学者も頻繁に見られます。
あとはクレオパトラとかナポレオンとかも出てきます。


で、2008年版は「三大ルネサンス編」というのだとか。

もう、気になるところが満載です。

レオナルド・ダ・ヴィンチが右手に絵筆を持っているなんてのは御愛嬌。
ミケランジェロがラファエロを抱えています。
なぜかラファエロは女性で、頭に天使の輪があります。
 (ラファエロの作品は女性的だと言われ、若くして亡くなっているからでしょうか…)

そして例年通りのネアンデルタール人とクロマニョン人。
その左にいる北京原人は、中国っぽい帽子をかぶり、ラーメンの丼を持っています。

ちなみに北京原人からネアンデルタール人、クロマニョン人へと
手に持っているテストの点数が上がっていってるらしいです。

その横にいるダーウィンは進化論からの連想なんでしょうか。

どうもメインらしきなのはヤマトタケルです。
ヤマトタケルは例年出ている気がします。
中心人物なんでしょうね。
ヤマトタケル役の人は変わっているようですけど。

それから、一人だけ名前を書く代わりにタスキをかけているのが縄文太郎。
槍を持った縄文時代の人のようですが、黒ぶち眼鏡をかけている。

縄文太郎はイメージキャラクターなんですね、どうやら。
ホームページにはキャラクターの絵とエピソードが載っています。
なのに、絵の縄文太郎は、広告の写真と全然違う。
メガネはかけていないし、髪型も別物です。

ここまで堂々と違うと、なんだか潔さを感じます。


なんとも楽しい広告なんです。
毎年、その変化が楽しみです。

あと数か月で新しいバージョンになるはず。
それも楽しみです。

この広告を見て集まる受験生にも興味がありますが、
目を引くかどうかというのが、まずは重要なんでしょうね。

少なくとも僕の目は、必ずといっていいほど引き寄せられます。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《コミュニケーション講座》
 〜人を育てる指導力〜

【日時】 
  2019年6月16日(日)
   10:00〜16:30


【場所】 
  北とぴあ 601会議室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細はこちら>>


《瞑想講座》

【日時】 
  2019年6月22日(土)

  午後の部 13:30〜16:30
  夜間の部 18:00〜21:00

【場所】 
  北とぴあ 第2和室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細はこちら>>


《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
次回未定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



 ◆ お問い合わせ 
  技術向上、
  コンサルティング、
  スーパーバイズ、
  執筆・講演…

  諸々のお問い合わせはこちらへ>>



ホームページ
バナー1


プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
Archives
最近のコメント
QRコード
QRコード