2009年01月
2009年01月31日
お気に入りの番組
深夜放送で凄いテレビ番組がやっています。
良く分からないけど感動します。
毎週木曜日の深夜、24時を回って、1時から2時くらいの間でしょうか。
テレビ東京系なので地域は限られるかもしれません。
『鉄道模型ch.』(鉄道模型ちゃんねる)
この番組が凄いんです。
僕は小さい頃から特に電車が好きだったわけじゃありませんし、
プラモデルとか模型とかも好きだったほうではないと思います。
友人には電車の模型を持っているのもいたりしましたが、
「良く出来ているなぁ」くらいにしか思っていなかった記憶があります。
にも関わらず、この番組の凄さには感動します。
「ここまでやるのか」という驚き。
こだわり抜く姿勢への尊敬。
見ている間中ずっと「はぁー」と感嘆の息が漏れるばかりです。
独り言のように沸き上がる言葉は「凄い」の一言。
1つの物事に徹底するということの迫力さえ感じられる番組です。
メインは『ゲージマイスター』と呼ばれる人物が
時間をかけて1つの模型を作り上げていくまでの過程を描く内容。
その技術とコダワリ、情熱が心に訴えかけてくるんでしょう。
TVチャンピオンとかが好きな方なら納得していただけるはずです。
そして制作中のマイスターの様子、完成した時の表情が素敵なんです。
好きなんだなぁ、というのが見ていても分かるようです。
また、番組中の1コーナーで、アイドルが鉄道の車両を採寸に行くものがあります。
「今日は、東急電鉄の○○型です」というような感じで、
巻き尺を手に実際の車両基地かどこかを訪ねていくコーナー。
この鉄道アイドルも凄い。
詳しいんです。
おそらくコメントは自分の意見だろうと推測されます。
鉄道好きじゃなくても楽しめる番組だと思います。
職人の世界に近いものを感じます。
ドキュメンタリー番組として楽しめると言えばいいでしょうか。
最近のオススメ番組です。
元々BSジャパンで放送されていたものの再放送らしいので
なかなか見るのは難しいかもしれませんが、一見の価値アリだと思います。
DVDもあるみたいです。
楽しい番組かどうかは意見が分かれるでしょうが、
「凄い」とか「驚き」とかいう感想が出る理由だけは納得してもらえる気がします。
良く分からないけど感動します。
毎週木曜日の深夜、24時を回って、1時から2時くらいの間でしょうか。
テレビ東京系なので地域は限られるかもしれません。
『鉄道模型ch.』(鉄道模型ちゃんねる)
この番組が凄いんです。
僕は小さい頃から特に電車が好きだったわけじゃありませんし、
プラモデルとか模型とかも好きだったほうではないと思います。
友人には電車の模型を持っているのもいたりしましたが、
「良く出来ているなぁ」くらいにしか思っていなかった記憶があります。
にも関わらず、この番組の凄さには感動します。
「ここまでやるのか」という驚き。
こだわり抜く姿勢への尊敬。
見ている間中ずっと「はぁー」と感嘆の息が漏れるばかりです。
独り言のように沸き上がる言葉は「凄い」の一言。
1つの物事に徹底するということの迫力さえ感じられる番組です。
メインは『ゲージマイスター』と呼ばれる人物が
時間をかけて1つの模型を作り上げていくまでの過程を描く内容。
その技術とコダワリ、情熱が心に訴えかけてくるんでしょう。
TVチャンピオンとかが好きな方なら納得していただけるはずです。
そして制作中のマイスターの様子、完成した時の表情が素敵なんです。
好きなんだなぁ、というのが見ていても分かるようです。
また、番組中の1コーナーで、アイドルが鉄道の車両を採寸に行くものがあります。
「今日は、東急電鉄の○○型です」というような感じで、
巻き尺を手に実際の車両基地かどこかを訪ねていくコーナー。
この鉄道アイドルも凄い。
詳しいんです。
おそらくコメントは自分の意見だろうと推測されます。
鉄道好きじゃなくても楽しめる番組だと思います。
職人の世界に近いものを感じます。
ドキュメンタリー番組として楽しめると言えばいいでしょうか。
最近のオススメ番組です。
元々BSジャパンで放送されていたものの再放送らしいので
なかなか見るのは難しいかもしれませんが、一見の価値アリだと思います。
DVDもあるみたいです。
楽しい番組かどうかは意見が分かれるでしょうが、
「凄い」とか「驚き」とかいう感想が出る理由だけは納得してもらえる気がします。
2009年01月30日
シャットアウト
病み上がりの体は色々と敏感になっているようです。
電車に乗れば、目に入るもの、耳に入るものが刺激的で
なんでもないような電車の移動が苦しく感じる場合もあったり。
人間のセンサーというものに普段よりも意識が向きやすい感じがします。
そして、普段の自分がどれぐらい他人に対して関心を向けているかにも気づきました。
家の中で寝込んでいて、人を見ない時間を長く過ごしてみて、
僕が普段、世の中を行き交う人たちを観察する癖がついていることを意識したわけです。
歩き方、姿勢、目線、他人とのすれ違い方…。
一人で歩いている人を見ていても色々なところが気になっています。
会話があったりすると更に意識は過敏になります。
声や仕草も気になり出します。
飲食店で隣の席に座った二人組なんかは気になって仕方ない。
それぞれの心の動きを追いかけているような状態だったみたいです。
ビデオに撮って解説したら面白いかも、なんて思ったりもします。
店員さんという存在にも意識が向きやすいようです。
特に店員さんとお客さんが話し始めたりすると関心は大きくなります。
店員さんが気を遣って話を合わせている様子や
体の一部がその場を離れたがっている様子などが気になる。
電車に乗れば、向いの席に座っている会社の上司と新人の会話の様子も見てしまいます。
飲み会帰りで酔っ払った上司が、新人の女の子のほうへ体を傾けながら
ノリノリで話をしていると、女の子も合わせて笑いながら話を聞いている。
でも、女の子の表情には緊張感があり、上半身は上司から離れるように傾いていて、
手元ではカバンの紐の端っこをずっと触り続けている。
顔では笑って合わせているけど、嫌なんだろうなぁと思えてきます。
これはもう「気になってしまう」という言い方がピッタリな感じがしていて、
気にしないでいるというほうが無理な気がします。
一度、周囲の話声が気になると、それを無視できなくなるのと近い感じ。
電車の中で二人組の話している内容が、聞いている自分にとって関心のあるものだと
自然と聞き耳を立ててしまうことがあるじゃないですか。
A:「ほら、なんだっけ、あの芸能人。ボキャブラ天国に出てた…」
B:「あぁ、誰だっけ?替え歌の人でしょ?えーっと…」
―自分:(あぁ、金谷ヒデユキね)
他人の会話だから入らないけど、内容が聞こえてしまって
その後もしばらく気になってしまう、あんな感じです。
周りで起きていることへ関心が随分と高まっていたんだと思いました。
だからこそ、目や心を休めるという意味では
全く外出しないで家に閉じこもっている時間が、どこかで必要なのかもしれません。
それを体調を崩す以外のやり方で出来るようになると良いんでしょうね。
電車に乗れば、目に入るもの、耳に入るものが刺激的で
なんでもないような電車の移動が苦しく感じる場合もあったり。
人間のセンサーというものに普段よりも意識が向きやすい感じがします。
そして、普段の自分がどれぐらい他人に対して関心を向けているかにも気づきました。
家の中で寝込んでいて、人を見ない時間を長く過ごしてみて、
僕が普段、世の中を行き交う人たちを観察する癖がついていることを意識したわけです。
歩き方、姿勢、目線、他人とのすれ違い方…。
一人で歩いている人を見ていても色々なところが気になっています。
会話があったりすると更に意識は過敏になります。
声や仕草も気になり出します。
飲食店で隣の席に座った二人組なんかは気になって仕方ない。
それぞれの心の動きを追いかけているような状態だったみたいです。
ビデオに撮って解説したら面白いかも、なんて思ったりもします。
店員さんという存在にも意識が向きやすいようです。
特に店員さんとお客さんが話し始めたりすると関心は大きくなります。
店員さんが気を遣って話を合わせている様子や
体の一部がその場を離れたがっている様子などが気になる。
電車に乗れば、向いの席に座っている会社の上司と新人の会話の様子も見てしまいます。
飲み会帰りで酔っ払った上司が、新人の女の子のほうへ体を傾けながら
ノリノリで話をしていると、女の子も合わせて笑いながら話を聞いている。
でも、女の子の表情には緊張感があり、上半身は上司から離れるように傾いていて、
手元ではカバンの紐の端っこをずっと触り続けている。
顔では笑って合わせているけど、嫌なんだろうなぁと思えてきます。
これはもう「気になってしまう」という言い方がピッタリな感じがしていて、
気にしないでいるというほうが無理な気がします。
一度、周囲の話声が気になると、それを無視できなくなるのと近い感じ。
電車の中で二人組の話している内容が、聞いている自分にとって関心のあるものだと
自然と聞き耳を立ててしまうことがあるじゃないですか。
A:「ほら、なんだっけ、あの芸能人。ボキャブラ天国に出てた…」
B:「あぁ、誰だっけ?替え歌の人でしょ?えーっと…」
―自分:(あぁ、金谷ヒデユキね)
他人の会話だから入らないけど、内容が聞こえてしまって
その後もしばらく気になってしまう、あんな感じです。
周りで起きていることへ関心が随分と高まっていたんだと思いました。
だからこそ、目や心を休めるという意味では
全く外出しないで家に閉じこもっている時間が、どこかで必要なのかもしれません。
それを体調を崩す以外のやり方で出来るようになると良いんでしょうね。
2009年01月29日
回復
随分と久しぶりの更新になってしまいました。
数日間、体調を大きく崩して寝込んでいました。
年末から年始にかけての体調不良とは質が違いました。
具合の悪さにも色々と違いがあるものですね。
僕は肩から首にかけての痛みが慢性的にあって、
肩と首が治まると腰が痛くなるようなバランスがあるみたいです。
そして、それが片頭痛に繋がるというパターン。
ところが発熱の場合には、体の反応が大きく違います。
まぁ、当たり前の話ですが。
片頭痛で寝られないときは、痛みで寝ることができない感じですが、
上手く寝つけてしまえれば、朝起きたときに楽になっていることが多いんです。
ところが高熱の場合には、寝ているんだか、起きているんだか分からない状態で
時間が進まないような感じがありました。
朝が来ない感じ。
こういう体の違いというのは、一時的に大きく変わることを経験しないと
なかなか意識できないものだと思いました。
整体に行った時もそうです。
施術終了後に感じる体の軽さを意識すると、
今までの自分の体にかかっていた負担に気づけます。
いかに自分の体の変化に鈍感になっているか、ということでしょう。
これは気をつけなくてはいけないと強く感じます。
大きな異変には気づけても、何をしたら良いかが分かっていないのも問題です。
そして、自分の中に基準が無いのも問題だと思います。
変化に気づくということは、基準に対する違いを見分けられるということです。
僕の中では常に「今」の自分が基準になってしまっている気がします。
だから異変に気付きにくい。
今の自分を客観的にチェックする習慣が必要かもしれません。
数日間、体調を大きく崩して寝込んでいました。
年末から年始にかけての体調不良とは質が違いました。
具合の悪さにも色々と違いがあるものですね。
僕は肩から首にかけての痛みが慢性的にあって、
肩と首が治まると腰が痛くなるようなバランスがあるみたいです。
そして、それが片頭痛に繋がるというパターン。
ところが発熱の場合には、体の反応が大きく違います。
まぁ、当たり前の話ですが。
片頭痛で寝られないときは、痛みで寝ることができない感じですが、
上手く寝つけてしまえれば、朝起きたときに楽になっていることが多いんです。
ところが高熱の場合には、寝ているんだか、起きているんだか分からない状態で
時間が進まないような感じがありました。
朝が来ない感じ。
こういう体の違いというのは、一時的に大きく変わることを経験しないと
なかなか意識できないものだと思いました。
整体に行った時もそうです。
施術終了後に感じる体の軽さを意識すると、
今までの自分の体にかかっていた負担に気づけます。
いかに自分の体の変化に鈍感になっているか、ということでしょう。
これは気をつけなくてはいけないと強く感じます。
大きな異変には気づけても、何をしたら良いかが分かっていないのも問題です。
そして、自分の中に基準が無いのも問題だと思います。
変化に気づくということは、基準に対する違いを見分けられるということです。
僕の中では常に「今」の自分が基準になってしまっている気がします。
だから異変に気付きにくい。
今の自分を客観的にチェックする習慣が必要かもしれません。
2009年01月23日
2月の勉強会
2月の勉強会のお知らせ
日時だけは以前からお知らせしていましたが、
テーマを確定しましたので正式にご案内します。
内容の候補はいくつかあって、何を選ぶかで迷っていました。
1月のワークショップでお伝えした枠組みをベースに積み上げていくと
様々なコミュニケーションを体系的に学べると考えていますので、
「何から始めるか」という点で迷いがあったわけです。
今後の流れとして、積み重ねることで身に付きやすくなるように
体系だてた方向性を意識するところがあります。
もちろん、これまでの勉強会で扱ってきた内容も
定期的にご参加下さっていた方々の中には、
それぞれが関係し合っていることに気づかれていた方もいたかと思います。
しかし、それは僕の中で意識的にしていたことではなく、
元から僕自身の中で関連し合いながら利用されていたことを
1つのテーマとして切り出していただけに過ぎないんです。
元から関係しているものを切り出せば、どこかに関係性や繋がりがあるのが当然で、
そうしたパーツが集まった中から相関を見出すのも人間本来の特性です。
繋がっているように感じられた方がいたとしても、
それは結果的にそうなっていた、ということなんです。
そして、繋がりを感じて頂ける部分があれば素晴らしいことだと思います。
それだけ理解が深まりやすいと考えられますから。
一方、最近の僕の方向性としては、もう少し意図的に
1つの体系の中でテーマを展開してみたいという思いが強まっています。
今までよりも大きな枠組みの中で整理をしようということです。
そうすることで、今までよりもスッキリとテーマごとの内容を
切り出していけるような気がしているんです。
随分と僕個人の感覚的な話になってしまっていますが、
このことは情報を発信するという立ち位置から言えば重要なことなんです。
何を伝えるかという部分と直接的に関わることなんです。
例えば、対人援助で必要とされるコミュニケーションの要素と
ビジネスの話し合いで必要とされるコミュニケーションの要素には違いがあります。
同じ対人援助でも福祉の相談援助と心理的援助の話の聞き方は違いますし、
心理的援助の中でもアプローチの仕方は様々あるわけです。
ビジネスの話だってそうです。
営業とマネジメントではコミュニケーションの内容に違いがあり、
会議のような対多数のコミュニケーションと一対一の話し合いでも違いがあります。
コミュニケーションで起きることが変われば、当然のこととして
求められるコミュニケーション技術も変わるわけです。
それにも関わらず、「コミュニケーションを学ぶ」と言った時には
全てに共通するような非常に大枠の技術か、
どこかの分野では有効な専門化された技術か、
そのどちらかを扱うことが多いのが現状です。
傾聴を学ぶと全てのコミュニケーションが上手くいくように伝えられていたり、
コーチングやセラピーという個別の目的に特化したコミュニケーション形態が
日常のあらゆる場面で活用できるように伝えられていたりします。
傾聴は重要ですが、傾聴が全てではありません。
コーチングやセラピーの技術は、コーチングやセラピーのために使うのが適しています。
それらを学ぶことで、その中にある要素を体験的に身につけることが可能ですから、
結果として、そういう要素が別の場面で役に立つことも多々あるはずです。
傾聴の技術が役立つ場面があるように、コーチングの質問が役立つ場面もあります。
ただ、それであれば、最初から個別の要素を学べばいいと思うんです。
そして、個別の要素を組み合わせることで状況別のコミュニケーションが
効果的に行えるようになれば、さらに望ましいと思うんです。
個別の要素としての技術と、組み合わせで生まれる技術体系。
両方を意識すると幅広い領域に活用できるはずです。
問題なのは…、
・個別の技術として細かくし過ぎると、相応しい状況が分からなくなる
・状況別の型を固定し過ぎると、それ以外の状況での応用性がなくなる
ということ。
オウム返しを間違えて学んでしまえば、
「会社を辞めようかと思っているんです…」
――「会社を辞めようかと思っているんだね」
ということにもなりかねませんし、
コーチングの型に固まり過ぎれば、同窓会でコーチングをしてしまいかねないわけです。
ここのバランスの取り方の1つとして、技術の意図を深く理解することが挙げられます。
「何のために、今、自分はこの方法でコミュニケーションするのか」
という目的意識を明確にしておくということです。
以上のように、個別の技術同士を体系の中で関連づけながら、
意図を明確しつつ理解を深めることが大切だと思うわけです。
あとは個別の技術を磨いていくことにつきます。
※本当は技術を扱う本人の人間的成長も重要な要素なので
そちらも同時に進められることが望ましいんですが。
NLPはコミュニケーション技術というよりも、むしろ
人間的成長の側面にフォーカスされている印象を個人的に持っています。
今後の全体的な方針の説明は、そういったところです。
それを踏まえて、今月の勉強会では全体を支える重要な要素をお伝えし、
その要素と関連付けながら個別の技術のトレーニングを行います。
具体的にはリフレーミングが上達するための枠組みになるはずです。
午前、午後、いずれかのご参加も可能ですので
ご関心のある方は是非、お越し下さい。
リフレーミングに関しては、僕が何かを言うたびに
「あ、これはアレをやってるな」などとバレてしまいそうなので
値段を上げようかと考えました、…が、今回はやめておきます。
※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
定員を設けていますので、ご注意ください。
定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
詳細は以下のとおりです。
※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
【日時】 2月11日(水・祝)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
※午前、午後いずれかのご参加も可能です。
【場所】 北とぴあ 802会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午後の部 ・・・5,000円
★午前・午後両方ご参加の場合 ・・・7,000円
テーマ: ◆午前の部:『ペーシングのトレーニング』
◆午後の部:『リフレーミング』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
マグロを解体するシーンを見たことがありますか?
大変な技術なんだろうと思います。
巨大なマグロが、みるみる分解されて切り身になっていく。
日本刀のような大きな包丁でスパッと切る姿には迫力があります。
また小さな出刃包丁だけで捌いてしまう技術には美しささえ覚えます。
どんな包丁でも刺身は作れます。
ですが、柳刃包丁の長さを目一杯に使って引かれるときの職人の動作には息を飲みます。
中華包丁は、切る、叩く、潰すと様々な作業が可能な形をしています。
それを使って素早く調理が進んでいく様子には、大胆で迅速な中に熱気さえ感じられます。
包丁1つをとってみても、様々な種類があり、それを使う場面もまた様々です。
1つの包丁で何でも見事にこなしてしまう技術も見事であって、
1つの目的のために専用の包丁にこだわってまで追求する姿勢も見事です。
道具と技術とは、そういうものだと思います。
道具を知ること。
技術を磨くこと。
数多くの道具を相応しい場面で使いこなす技術も、
1つの道具で何でもこなす技術も、どちらも素晴らしいと思います。
もちろん、道具をコレクションするのも素晴らしいことでしょう。
道具というのは不思議と美しいと思えるような魅力を持っているものです。
大切なのは、自分自身が何を目的としているか、ではないでしょうか。
なお、僕自身は、自分が使いやすいような形で
こだわりの逸品を造り出したいんだろうと思います。
少しでも響くものがあれば幸いです。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
日時だけは以前からお知らせしていましたが、
テーマを確定しましたので正式にご案内します。
内容の候補はいくつかあって、何を選ぶかで迷っていました。
1月のワークショップでお伝えした枠組みをベースに積み上げていくと
様々なコミュニケーションを体系的に学べると考えていますので、
「何から始めるか」という点で迷いがあったわけです。
今後の流れとして、積み重ねることで身に付きやすくなるように
体系だてた方向性を意識するところがあります。
もちろん、これまでの勉強会で扱ってきた内容も
定期的にご参加下さっていた方々の中には、
それぞれが関係し合っていることに気づかれていた方もいたかと思います。
しかし、それは僕の中で意識的にしていたことではなく、
元から僕自身の中で関連し合いながら利用されていたことを
1つのテーマとして切り出していただけに過ぎないんです。
元から関係しているものを切り出せば、どこかに関係性や繋がりがあるのが当然で、
そうしたパーツが集まった中から相関を見出すのも人間本来の特性です。
繋がっているように感じられた方がいたとしても、
それは結果的にそうなっていた、ということなんです。
そして、繋がりを感じて頂ける部分があれば素晴らしいことだと思います。
それだけ理解が深まりやすいと考えられますから。
一方、最近の僕の方向性としては、もう少し意図的に
1つの体系の中でテーマを展開してみたいという思いが強まっています。
今までよりも大きな枠組みの中で整理をしようということです。
そうすることで、今までよりもスッキリとテーマごとの内容を
切り出していけるような気がしているんです。
随分と僕個人の感覚的な話になってしまっていますが、
このことは情報を発信するという立ち位置から言えば重要なことなんです。
何を伝えるかという部分と直接的に関わることなんです。
例えば、対人援助で必要とされるコミュニケーションの要素と
ビジネスの話し合いで必要とされるコミュニケーションの要素には違いがあります。
同じ対人援助でも福祉の相談援助と心理的援助の話の聞き方は違いますし、
心理的援助の中でもアプローチの仕方は様々あるわけです。
ビジネスの話だってそうです。
営業とマネジメントではコミュニケーションの内容に違いがあり、
会議のような対多数のコミュニケーションと一対一の話し合いでも違いがあります。
コミュニケーションで起きることが変われば、当然のこととして
求められるコミュニケーション技術も変わるわけです。
それにも関わらず、「コミュニケーションを学ぶ」と言った時には
全てに共通するような非常に大枠の技術か、
どこかの分野では有効な専門化された技術か、
そのどちらかを扱うことが多いのが現状です。
傾聴を学ぶと全てのコミュニケーションが上手くいくように伝えられていたり、
コーチングやセラピーという個別の目的に特化したコミュニケーション形態が
日常のあらゆる場面で活用できるように伝えられていたりします。
傾聴は重要ですが、傾聴が全てではありません。
コーチングやセラピーの技術は、コーチングやセラピーのために使うのが適しています。
それらを学ぶことで、その中にある要素を体験的に身につけることが可能ですから、
結果として、そういう要素が別の場面で役に立つことも多々あるはずです。
傾聴の技術が役立つ場面があるように、コーチングの質問が役立つ場面もあります。
ただ、それであれば、最初から個別の要素を学べばいいと思うんです。
そして、個別の要素を組み合わせることで状況別のコミュニケーションが
効果的に行えるようになれば、さらに望ましいと思うんです。
個別の要素としての技術と、組み合わせで生まれる技術体系。
両方を意識すると幅広い領域に活用できるはずです。
問題なのは…、
・個別の技術として細かくし過ぎると、相応しい状況が分からなくなる
・状況別の型を固定し過ぎると、それ以外の状況での応用性がなくなる
ということ。
オウム返しを間違えて学んでしまえば、
「会社を辞めようかと思っているんです…」
――「会社を辞めようかと思っているんだね」
ということにもなりかねませんし、
コーチングの型に固まり過ぎれば、同窓会でコーチングをしてしまいかねないわけです。
ここのバランスの取り方の1つとして、技術の意図を深く理解することが挙げられます。
「何のために、今、自分はこの方法でコミュニケーションするのか」
という目的意識を明確にしておくということです。
以上のように、個別の技術同士を体系の中で関連づけながら、
意図を明確しつつ理解を深めることが大切だと思うわけです。
あとは個別の技術を磨いていくことにつきます。
※本当は技術を扱う本人の人間的成長も重要な要素なので
そちらも同時に進められることが望ましいんですが。
NLPはコミュニケーション技術というよりも、むしろ
人間的成長の側面にフォーカスされている印象を個人的に持っています。
今後の全体的な方針の説明は、そういったところです。
それを踏まえて、今月の勉強会では全体を支える重要な要素をお伝えし、
その要素と関連付けながら個別の技術のトレーニングを行います。
具体的にはリフレーミングが上達するための枠組みになるはずです。
午前、午後、いずれかのご参加も可能ですので
ご関心のある方は是非、お越し下さい。
リフレーミングに関しては、僕が何かを言うたびに
「あ、これはアレをやってるな」などとバレてしまいそうなので
値段を上げようかと考えました、…が、今回はやめておきます。
※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
定員を設けていますので、ご注意ください。
定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
詳細は以下のとおりです。
※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
【日時】 2月11日(水・祝)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
※午前、午後いずれかのご参加も可能です。
【場所】 北とぴあ 802会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午後の部 ・・・5,000円
★午前・午後両方ご参加の場合 ・・・7,000円
テーマ: ◆午前の部:『ペーシングのトレーニング』
◆午後の部:『リフレーミング』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
マグロを解体するシーンを見たことがありますか?
大変な技術なんだろうと思います。
巨大なマグロが、みるみる分解されて切り身になっていく。
日本刀のような大きな包丁でスパッと切る姿には迫力があります。
また小さな出刃包丁だけで捌いてしまう技術には美しささえ覚えます。
どんな包丁でも刺身は作れます。
ですが、柳刃包丁の長さを目一杯に使って引かれるときの職人の動作には息を飲みます。
中華包丁は、切る、叩く、潰すと様々な作業が可能な形をしています。
それを使って素早く調理が進んでいく様子には、大胆で迅速な中に熱気さえ感じられます。
包丁1つをとってみても、様々な種類があり、それを使う場面もまた様々です。
1つの包丁で何でも見事にこなしてしまう技術も見事であって、
1つの目的のために専用の包丁にこだわってまで追求する姿勢も見事です。
道具と技術とは、そういうものだと思います。
道具を知ること。
技術を磨くこと。
数多くの道具を相応しい場面で使いこなす技術も、
1つの道具で何でもこなす技術も、どちらも素晴らしいと思います。
もちろん、道具をコレクションするのも素晴らしいことでしょう。
道具というのは不思議と美しいと思えるような魅力を持っているものです。
大切なのは、自分自身が何を目的としているか、ではないでしょうか。
なお、僕自身は、自分が使いやすいような形で
こだわりの逸品を造り出したいんだろうと思います。
少しでも響くものがあれば幸いです。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
2009年01月21日
おすすめでス
東京駅構内の地下に色々な店があります。
飲食物が中心で、お土産に喜ばれそうなものが沢山。
ケーキ類もあれば、お弁当のようなものもあるみたいです。
先日、東京駅を通るとき、その地下の「GRANSTA」というゾーンで
デザート用のお酢を売っている店を見かけました。
その名も「飲む酢 エキスプレ・ス・東京」
様々な原料から作られたお酢が売られています。
フルーツビネガーが多いですが、料理用のお酢と違って
甘さが強く残っているのでデザート用ということみたいです。
気になったので飲んでみました。
5倍ぐらいに薄めたものをテイクアウトで飲めるんです。
これは美味しかったです。
僕が飲んだのは「苺の酢」を「牛乳割り(ラテ)」にしたもの。
フルーツヨーグルトみたいになりますが、それよりもスッキリした感じ。
炭酸割りなどもできるようです。
なんでも果物を発酵させて酢にしているそうなので、
よくあるジュースと比べると甘さも控え目、酸味も強くないので
さっぱりとした美味しさがありました。
ちなみに、牛乳割りにすると、まるで「飲むヨーグルト」のように
少しトロリとした飲み口になりますが、これは酢酸によってpHが下がって
牛乳の中のカゼインを中心にしたタンパク質が変性、凝固したからだろうと思われます。
ワインを置いておくと酸っぱくなってお酢になってしまうことがあるそうですが、
こうしたフルーツビネガーの作り方は、ワインがお酢になるのとは違うはずです。
より自然界で酢ができる状況に近いと思われます。
お酒がお酢に変わるのは、エタノールが酸化して酢酸になるからですが、
お酢を醸造するときの発酵プロセスは全く別物なんです。
お酢は酢酸菌と呼ばれる種類の微生物が糖分を元に生み出します。
糖分を酢酸に変えるときに、菌の活動エネルギーを作り出す仕組みなんです。
その仕組みでエネルギーを生み出すのは決して効率が良くはないんですが、
その分、糖分を酢に変換するスピードが速いんです。以前の記憶によると。
エネルギーを生み出す効率が悪いということは、
あまり生育が良くないということでもあります。
増えるのが遅いんです。
それでは環境中で生き残っていくのが大変です。
酢酸菌は果物などの糖分が沢山ある環境で生きていく微生物ですが、
当分は多くの微生物にとって好まれる食べ物なので、ライバルも多いんです。
その中で、生物は生き残るために様々な戦略を持っています。
例えば、大腸菌は非常に細胞分裂が速いタイプの微生物です。
増えるのが速いんです。(酢酸菌と生育環境は違いますが)
それによって他の微生物よりも勢力を拡大して、他の連中を追いやるわけです。
また、納豆菌は防御力が高いんです。
普通の細菌だったら死んでしまうような高温、乾燥などの過酷な条件でも生き延びます。
納豆作りでは大豆が熱いうちに納豆菌をふりかけますが、それによって
熱に弱い他の菌が殺菌され、納豆菌だけが大豆の周りで生きられる仕組みです。
で、酢酸菌はというと…。
全く違う戦略で生き残りを目指したんでしょう。
お酢を作るわけです。
酢酸を作るとpHが下がります。酸性になるんです。
多くの微生物は酸性では生きられないので、酢酸菌は糖分を速やかに酢に変え、
他の微生物が生きられないように環境を変えてしまう手段を取っているわけです。
大腸菌のように他よりも勢力拡大のスピードを上げて勝負するのではなく、
納豆菌のように防御力によって様々な環境で生き延びられるようにするのでもなく、
自分自身が環境を変えていくことで他をやっつける戦略だと言えそうです。
そして、酢酸菌はお酢を作り過ぎると、その酢の影響で
自分自身も活動が鈍ってきてしまうんです。
やり過ぎ注意、というわけにはいかないんですね。
個性を発揮して生き延びる。
その個性は、自分以外の存在から求められることもある。
微生物も人間も、似たようなところを感じます。
なお、デザート用のお酢は多分、果物の糖分が全て酢に変わる前の段階で
発酵を中断させているんだろうと考えられます。
そのため、糖分は元々の果物よりも少なくなって甘さ控え目、
酢酸の量も増え過ぎないうちなので酸っぱさも控え目、
ということなんじゃないかと思います。
そこには完全なお酢にも、元々の果物にもない別の美味しさがあるようです。
飲食物が中心で、お土産に喜ばれそうなものが沢山。
ケーキ類もあれば、お弁当のようなものもあるみたいです。
先日、東京駅を通るとき、その地下の「GRANSTA」というゾーンで
デザート用のお酢を売っている店を見かけました。
その名も「飲む酢 エキスプレ・ス・東京」
様々な原料から作られたお酢が売られています。
フルーツビネガーが多いですが、料理用のお酢と違って
甘さが強く残っているのでデザート用ということみたいです。
気になったので飲んでみました。
5倍ぐらいに薄めたものをテイクアウトで飲めるんです。
これは美味しかったです。
僕が飲んだのは「苺の酢」を「牛乳割り(ラテ)」にしたもの。
フルーツヨーグルトみたいになりますが、それよりもスッキリした感じ。
炭酸割りなどもできるようです。
なんでも果物を発酵させて酢にしているそうなので、
よくあるジュースと比べると甘さも控え目、酸味も強くないので
さっぱりとした美味しさがありました。
ちなみに、牛乳割りにすると、まるで「飲むヨーグルト」のように
少しトロリとした飲み口になりますが、これは酢酸によってpHが下がって
牛乳の中のカゼインを中心にしたタンパク質が変性、凝固したからだろうと思われます。
ワインを置いておくと酸っぱくなってお酢になってしまうことがあるそうですが、
こうしたフルーツビネガーの作り方は、ワインがお酢になるのとは違うはずです。
より自然界で酢ができる状況に近いと思われます。
お酒がお酢に変わるのは、エタノールが酸化して酢酸になるからですが、
お酢を醸造するときの発酵プロセスは全く別物なんです。
お酢は酢酸菌と呼ばれる種類の微生物が糖分を元に生み出します。
糖分を酢酸に変えるときに、菌の活動エネルギーを作り出す仕組みなんです。
その仕組みでエネルギーを生み出すのは決して効率が良くはないんですが、
その分、糖分を酢に変換するスピードが速いんです。以前の記憶によると。
エネルギーを生み出す効率が悪いということは、
あまり生育が良くないということでもあります。
増えるのが遅いんです。
それでは環境中で生き残っていくのが大変です。
酢酸菌は果物などの糖分が沢山ある環境で生きていく微生物ですが、
当分は多くの微生物にとって好まれる食べ物なので、ライバルも多いんです。
その中で、生物は生き残るために様々な戦略を持っています。
例えば、大腸菌は非常に細胞分裂が速いタイプの微生物です。
増えるのが速いんです。(酢酸菌と生育環境は違いますが)
それによって他の微生物よりも勢力を拡大して、他の連中を追いやるわけです。
また、納豆菌は防御力が高いんです。
普通の細菌だったら死んでしまうような高温、乾燥などの過酷な条件でも生き延びます。
納豆作りでは大豆が熱いうちに納豆菌をふりかけますが、それによって
熱に弱い他の菌が殺菌され、納豆菌だけが大豆の周りで生きられる仕組みです。
で、酢酸菌はというと…。
全く違う戦略で生き残りを目指したんでしょう。
お酢を作るわけです。
酢酸を作るとpHが下がります。酸性になるんです。
多くの微生物は酸性では生きられないので、酢酸菌は糖分を速やかに酢に変え、
他の微生物が生きられないように環境を変えてしまう手段を取っているわけです。
大腸菌のように他よりも勢力拡大のスピードを上げて勝負するのではなく、
納豆菌のように防御力によって様々な環境で生き延びられるようにするのでもなく、
自分自身が環境を変えていくことで他をやっつける戦略だと言えそうです。
そして、酢酸菌はお酢を作り過ぎると、その酢の影響で
自分自身も活動が鈍ってきてしまうんです。
やり過ぎ注意、というわけにはいかないんですね。
個性を発揮して生き延びる。
その個性は、自分以外の存在から求められることもある。
微生物も人間も、似たようなところを感じます。
なお、デザート用のお酢は多分、果物の糖分が全て酢に変わる前の段階で
発酵を中断させているんだろうと考えられます。
そのため、糖分は元々の果物よりも少なくなって甘さ控え目、
酢酸の量も増え過ぎないうちなので酸っぱさも控え目、
ということなんじゃないかと思います。
そこには完全なお酢にも、元々の果物にもない別の美味しさがあるようです。
2009年01月19日
勘違いかもしれませんが
どうも僕の中には「全てを理解したい」という気持ちが強いようです。
これを読んでいる方の中には「まぁ、そうでしょうね」と
思われる方もいるかもしれませんが、その傾向が最近では
「1つの統一的な枠組みの中で理解する」という方向に進んでいるのを感じます。
思い返すと、会社の採用面接の時にも、志望動機を
「発酵という題材を分子レベルの相互作用から、製品という手に触れられる形になるまで
全てのプロセスで起きていることを理解したい。
それは自分一人の努力では不可能かもしれないけれど、
世の中がどこまで進むかを知るためにも同じ分野に身を置きたい」
というようなことを言った記憶があります。
今にして振り返ってみても、修士課程の一年生にしては
大それたカッコイイことを言っていたものだと思います。
実際に入社した後も、そうした思いは継続していたので
自分の中に1つの型とも枠組みとも言える仮説を作り、
それを絶えず更新するように研究生活を送っていました。
僕にとっては自分の実験結果も他人の実験結果も価値は同じで、
全体の論理に筋が通っているかどうかが重要でした。
そういう新年を元に論文や学会、実験などから情報を集めていたわけです。
ところがアカデミックな世界に目を向けるほどに、
世の中の流れは僕の求める全体的理解とは違っていることを痛感するようになります。
学術的な研究を進める専門家は自分の専門分野を細かく調べ、
全体をシステム的に理解しようと試みる人たちは不十分なデータと
計算しきれない要素をシミュレーションという形で妥協しながら表現する。
実際に工業レベルの応用を進める人は不明な点には目をつぶり、
結果として求めるものが得られる方法を追求する。
どうあっても僕の求める全体像の理解へは辿り着かないと思いました。
まぁ、そう思えたから今の道へ進むのに未練がなかったわけですが。
そうした本質的な特性は人を相手にするようになった今も全く変わりません。
むしろ、人間、心、人生…と追求したい方向は大きな枠のものへと移っています。
より「全てを理解する」という方向へ進んでいる感じがあります。
先の新春ワークショップでもお伝えしたことと関係しますが、
そのような人間というものへの理解にはNLPが大いに役立ちます。
同時にNLPでは不十分にも感じられます。
NLPよりも抽象度の高いものを求めるわけですから当然ですが、
それはNLPをさらに外から説明できる枠組みである必要があります。
で、誤解を恐れずに大胆なことを言わせていただくと
最近の僕の中にはそのような統一理論とも言うべき枠組みが
なんとなく出来上がりつつあるような感じがあるんです。
入浴中にそれを感じたとき、少し恐怖に似た思いを抱きました。
早すぎるんじゃないか、と。
大それた感じを持ってしまっているという客観的な感想と、
「それが分かり切ってしまったら後の人生どうしよう」という主観的な感想と、
両方が入り混じった感じ。
きっと、その感じは誤解に近く、遥かに深遠な先が待っているとは思います。
そんなに簡単なものではないでしょう。
勘違いだろうと思いますが、それぐらいインパクトのある納得感だったということです。
ただ、少なくとも多くの人間関係やコミュニケーションで表れることについては
1つの枠組みで理解を深めることができそうな印象だけはあります。
特にコミュニケーション技術として見たときには相当役立つはずです。
これまでのコミュニケーション技術の多くは偏りが見られます。
ビジネスの場でのコミュニケーションで不足していたものを補うように
カウンセリングや傾聴の技術が学ばれるわけです。
コーチングが受けるのも援助的過ぎない部分が影響している気がしますが、
それでも主役を相手にするという意味では同じです。
現在の主流のコミュニケーション技術は、多くが
相手を主役にすえるものだということなんです。
強いて言うと、ディベートは相互の主張がありますから形態が違いますが、
こちらのケースは主体が自分自身にあると考えられます。
コミュニケーションというのは本来、相互作用を言うものだと思うんです。
にも関わらず、相互作用を扱うコミュニケーションを学ぶものが少ない。
心理臨床に携わるコミュニケーションの達人は、実は相互作用を活用しています。
その相互作用はクライアントのために活用されるものです。
この相互作用の技術を利用しない手はないと思うわけです。
コミュニケーションを相互作用として最大限に活用できれば、
様々な人間関係や、集団をとりまく問題を
複数の人間のリソースを用いて解決の方向に向けられると思うんです。
新しいアイデアや解決策が生み出せると考えられます。
よく「1+1を3にも4にもする」などと言いますが、
まさにそういうことが可能になるということです。
相手を主体にしたコミュニケーションでは、利用できるリソースは相手のものだけです。
自分が主体のコミュニケーションでは、利用できるリソースは自分のものだけです。
コミュニケーションで相互作用が可能になれば、
お互いが相手のリソースも利用できるようになるんです。
それぞれが1のリソースを持っていたら、自分のリソースと相手のリソースを合わせた
2のリソースを両方が利用できるということです。
そういう状態の人が2人いたら、2+2で4になるという計算です。
お互いが相手のリソースを100%活用できれば、1+1が4になるわけです。
これからは、そんな相互作用的なコミュニケーションが武器になるように思います。
そして、それは技術として身につけられるものなんです。
今後の勉強会では、その辺も含めて扱っていければと考えています。
これを読んでいる方の中には「まぁ、そうでしょうね」と
思われる方もいるかもしれませんが、その傾向が最近では
「1つの統一的な枠組みの中で理解する」という方向に進んでいるのを感じます。
思い返すと、会社の採用面接の時にも、志望動機を
「発酵という題材を分子レベルの相互作用から、製品という手に触れられる形になるまで
全てのプロセスで起きていることを理解したい。
それは自分一人の努力では不可能かもしれないけれど、
世の中がどこまで進むかを知るためにも同じ分野に身を置きたい」
というようなことを言った記憶があります。
今にして振り返ってみても、修士課程の一年生にしては
大それたカッコイイことを言っていたものだと思います。
実際に入社した後も、そうした思いは継続していたので
自分の中に1つの型とも枠組みとも言える仮説を作り、
それを絶えず更新するように研究生活を送っていました。
僕にとっては自分の実験結果も他人の実験結果も価値は同じで、
全体の論理に筋が通っているかどうかが重要でした。
そういう新年を元に論文や学会、実験などから情報を集めていたわけです。
ところがアカデミックな世界に目を向けるほどに、
世の中の流れは僕の求める全体的理解とは違っていることを痛感するようになります。
学術的な研究を進める専門家は自分の専門分野を細かく調べ、
全体をシステム的に理解しようと試みる人たちは不十分なデータと
計算しきれない要素をシミュレーションという形で妥協しながら表現する。
実際に工業レベルの応用を進める人は不明な点には目をつぶり、
結果として求めるものが得られる方法を追求する。
どうあっても僕の求める全体像の理解へは辿り着かないと思いました。
まぁ、そう思えたから今の道へ進むのに未練がなかったわけですが。
そうした本質的な特性は人を相手にするようになった今も全く変わりません。
むしろ、人間、心、人生…と追求したい方向は大きな枠のものへと移っています。
より「全てを理解する」という方向へ進んでいる感じがあります。
先の新春ワークショップでもお伝えしたことと関係しますが、
そのような人間というものへの理解にはNLPが大いに役立ちます。
同時にNLPでは不十分にも感じられます。
NLPよりも抽象度の高いものを求めるわけですから当然ですが、
それはNLPをさらに外から説明できる枠組みである必要があります。
で、誤解を恐れずに大胆なことを言わせていただくと
最近の僕の中にはそのような統一理論とも言うべき枠組みが
なんとなく出来上がりつつあるような感じがあるんです。
入浴中にそれを感じたとき、少し恐怖に似た思いを抱きました。
早すぎるんじゃないか、と。
大それた感じを持ってしまっているという客観的な感想と、
「それが分かり切ってしまったら後の人生どうしよう」という主観的な感想と、
両方が入り混じった感じ。
きっと、その感じは誤解に近く、遥かに深遠な先が待っているとは思います。
そんなに簡単なものではないでしょう。
勘違いだろうと思いますが、それぐらいインパクトのある納得感だったということです。
ただ、少なくとも多くの人間関係やコミュニケーションで表れることについては
1つの枠組みで理解を深めることができそうな印象だけはあります。
特にコミュニケーション技術として見たときには相当役立つはずです。
これまでのコミュニケーション技術の多くは偏りが見られます。
ビジネスの場でのコミュニケーションで不足していたものを補うように
カウンセリングや傾聴の技術が学ばれるわけです。
コーチングが受けるのも援助的過ぎない部分が影響している気がしますが、
それでも主役を相手にするという意味では同じです。
現在の主流のコミュニケーション技術は、多くが
相手を主役にすえるものだということなんです。
強いて言うと、ディベートは相互の主張がありますから形態が違いますが、
こちらのケースは主体が自分自身にあると考えられます。
コミュニケーションというのは本来、相互作用を言うものだと思うんです。
にも関わらず、相互作用を扱うコミュニケーションを学ぶものが少ない。
心理臨床に携わるコミュニケーションの達人は、実は相互作用を活用しています。
その相互作用はクライアントのために活用されるものです。
この相互作用の技術を利用しない手はないと思うわけです。
コミュニケーションを相互作用として最大限に活用できれば、
様々な人間関係や、集団をとりまく問題を
複数の人間のリソースを用いて解決の方向に向けられると思うんです。
新しいアイデアや解決策が生み出せると考えられます。
よく「1+1を3にも4にもする」などと言いますが、
まさにそういうことが可能になるということです。
相手を主体にしたコミュニケーションでは、利用できるリソースは相手のものだけです。
自分が主体のコミュニケーションでは、利用できるリソースは自分のものだけです。
コミュニケーションで相互作用が可能になれば、
お互いが相手のリソースも利用できるようになるんです。
それぞれが1のリソースを持っていたら、自分のリソースと相手のリソースを合わせた
2のリソースを両方が利用できるということです。
そういう状態の人が2人いたら、2+2で4になるという計算です。
お互いが相手のリソースを100%活用できれば、1+1が4になるわけです。
これからは、そんな相互作用的なコミュニケーションが武器になるように思います。
そして、それは技術として身につけられるものなんです。
今後の勉強会では、その辺も含めて扱っていければと考えています。
2009年01月17日
広告のイメージ
最近、電車の1つの車両の中に、同じ商品の広告が並んでいるのを良く目にします。
以前はもっとバラバラだった気がしますが、力を入れている広告は
1つの車両の中で何ヵ所にも宣伝がされているみたいです。
極端なものだと、電車の外側から内側まで、
全部がその商品の列車になったものも見かけます。
近いところだとSONYのVAIOとか、マクドナルドとかが
多くの広告を載せているようです。
どんな広告が消費者の購買意欲を掻き立てるかは難しいところですが、
最近よく見かけるVAIOのtypePの広告は一目で特長が分かるようになっています。
ポケットに入るサイズのパソコンが、実際にポケットに入っている画像ですから。
ジーンズに押し込まれたパソコンすらもオシャレに見えるような
モデルさんを使った写真が、パソコンに対して実用性以外のアピールを
消費者に訴えかけているように受け取れます。
他の部分の特徴に目をやれば、物凄く差別化できているわけでもなさそうですし、
現実的にポケット入れて持ち運ぶ人もいないでしょうから、
売れるかどうかの決め手の1つはオシャレさということになるように思えます。
その意味で、テレビCMも車内広告も目的は果たしているのかもしれません。
また、マクドナルドのクォーターパウンダーという商品の広告も
かなり目を引くものになっている気がします。
いわゆるマクドナルドの配色とロゴ、そしてハンバーガーの写真で
何の広告か分かりやすくなっていて、何よりも黒地に赤という配色がインパクト大。
ハンバーガーの写真が下から少し見上げるような視点で撮られていることもあって
肉の部分に目線が集まるような写りにもなっています。
しかも、その肉の部分がパンの部分よりもハミ出ている。
「肉」を強調したイメージと、赤と黒のコントラストが強い配色によって、
決して上品な美味しさや高級感とは違う、「強烈さ」や「重厚感」が感じられます。
それは「美味しそうだな」という印象よりもむしろ
「なんだか凄そうだな」という「今までのマクドナルドと違う」印象を与え、
「一度くらい食べてみたい」気持ちにさせる効果はあるのではないでしょうか。
低価格な飲食店においてはボリュームを売りにする部分もあったようで、
同じマクドナルドのメガマックはその路線だったと考えられます。
ただ、メガマックは通常路線の延長に位置づけられていたのに対して、
クォーターパウンダーという商品は個別のホームページが作られたり、
「今までと違う」イメージを強調している要素は強いように思えます。
売り出し方と広告のイメージがマッチしている印象を受けました。
食品の場合であれば、味という重要な要素がありますから
とにかく一度食べてもらってリピーターにするという方針もあるように思います。
食べてみたい気にさせるための手段が様々に講じられているようです。
ちなみに、僕が最近もっとも気になる電車の中の広告は
アサヒの缶コーヒー、「ワンダ モーニングショット」です。
こちらはコーヒーの味や香りを連想させる広告にはなっていません。
(最近の缶コーヒーのCMには、そういうタイプが多いようにも思えますが)
むしろ、印象深いメッセージを発して、記憶に残らせるような意図を感じます。
コンビニや自動販売機で缶を見かけたときに、CMを思い出して
その缶を手に取ってもらうような方法でしょうか。
モーニングショットの場合には「モーニング」という単語と、
朝の通勤と関連付けた広告で、「朝のコーヒー」に適したイメージが
植えつけられるような狙いがあるように考えられます。
「味が好きだから」という理由よりも、
「朝にはモーニングショット」という印象を理由にして
なんとなく商品を買う人を増やそうということだろう、と。
商品を印象やイメージと結びつける。
NLPで言えば、アンカーを作っているということです。
まぁ、僕の場合は、味が気に入らなかったら絶対に2回買うことはありませんから、
イメージを植え付けるタイプの広告は僕のような人間には効果がないわけです。
で、僕が気になるのは電車の中に貼られている数パターンの広告のうち、
「朝、チャックを開けたまま出勤したことのあるビジネスマン 37.2%」
というようなメッセージの書かれたものです。
正確な文章は覚えていませんが、そんな感じの内容。
パッと見たところ、随分と気になる内容です。
他のパターンも抽象的なメッセージですが、
どれも朝の通勤と関連付けることを狙っているものでしょう。
そんな中で僕がこのパターンを取り上げたのは、
小さな文字で書かれているサブメッセージが気になるからです。
「朝、チャックを開けたまま…」という文章の下に小さ目の文字で
「この電車の3人に1人以上」というような内容。
多そうな印象を表現しているように受け取れるんです。
ですが、僕の印象は思ったより少ないということ。
もっといるかと思っていました。
逆に言えば、3人のうち2人の人は、自分のチャックが開いていないかを常に確認して
一度たりとも開けたまま出勤してしまうようなミスはしない人だという意味です。
一度でもチャックを開けたまま出勤してしまったことのある人であれば
もっと沢山いそうな気がするんですが…。
それでも、この広告の最大のメリットは、これを読んだ人が
「今、自分のチャックは開いていないだろうか?」と意識できるところでしょう。
それを気にさせてくれるのは感謝の対象ですらあります。
そして、その部分に意識が向き過ぎてしまう以上、
コーヒーとの関連づけの効果は大幅に下がってしまうはずです。
朝のイメージと缶コーヒーという結びつけよりも、
面白い広告と商品名の結びつけが強まってしまう。
場合によっては広告の内容だけが印象に残ることさえあるでしょう。
「あの面白い広告って何のやつだっけ?」という会話がなされれば、
それは面白い広告であって、役に立つ広告ではないのかもしれません。
僕にとっては、面白い広告が話のネタになるので大歓迎なんですが。
以前はもっとバラバラだった気がしますが、力を入れている広告は
1つの車両の中で何ヵ所にも宣伝がされているみたいです。
極端なものだと、電車の外側から内側まで、
全部がその商品の列車になったものも見かけます。
近いところだとSONYのVAIOとか、マクドナルドとかが
多くの広告を載せているようです。
どんな広告が消費者の購買意欲を掻き立てるかは難しいところですが、
最近よく見かけるVAIOのtypePの広告は一目で特長が分かるようになっています。
ポケットに入るサイズのパソコンが、実際にポケットに入っている画像ですから。
ジーンズに押し込まれたパソコンすらもオシャレに見えるような
モデルさんを使った写真が、パソコンに対して実用性以外のアピールを
消費者に訴えかけているように受け取れます。
他の部分の特徴に目をやれば、物凄く差別化できているわけでもなさそうですし、
現実的にポケット入れて持ち運ぶ人もいないでしょうから、
売れるかどうかの決め手の1つはオシャレさということになるように思えます。
その意味で、テレビCMも車内広告も目的は果たしているのかもしれません。
また、マクドナルドのクォーターパウンダーという商品の広告も
かなり目を引くものになっている気がします。
いわゆるマクドナルドの配色とロゴ、そしてハンバーガーの写真で
何の広告か分かりやすくなっていて、何よりも黒地に赤という配色がインパクト大。
ハンバーガーの写真が下から少し見上げるような視点で撮られていることもあって
肉の部分に目線が集まるような写りにもなっています。
しかも、その肉の部分がパンの部分よりもハミ出ている。
「肉」を強調したイメージと、赤と黒のコントラストが強い配色によって、
決して上品な美味しさや高級感とは違う、「強烈さ」や「重厚感」が感じられます。
それは「美味しそうだな」という印象よりもむしろ
「なんだか凄そうだな」という「今までのマクドナルドと違う」印象を与え、
「一度くらい食べてみたい」気持ちにさせる効果はあるのではないでしょうか。
低価格な飲食店においてはボリュームを売りにする部分もあったようで、
同じマクドナルドのメガマックはその路線だったと考えられます。
ただ、メガマックは通常路線の延長に位置づけられていたのに対して、
クォーターパウンダーという商品は個別のホームページが作られたり、
「今までと違う」イメージを強調している要素は強いように思えます。
売り出し方と広告のイメージがマッチしている印象を受けました。
食品の場合であれば、味という重要な要素がありますから
とにかく一度食べてもらってリピーターにするという方針もあるように思います。
食べてみたい気にさせるための手段が様々に講じられているようです。
ちなみに、僕が最近もっとも気になる電車の中の広告は
アサヒの缶コーヒー、「ワンダ モーニングショット」です。
こちらはコーヒーの味や香りを連想させる広告にはなっていません。
(最近の缶コーヒーのCMには、そういうタイプが多いようにも思えますが)
むしろ、印象深いメッセージを発して、記憶に残らせるような意図を感じます。
コンビニや自動販売機で缶を見かけたときに、CMを思い出して
その缶を手に取ってもらうような方法でしょうか。
モーニングショットの場合には「モーニング」という単語と、
朝の通勤と関連付けた広告で、「朝のコーヒー」に適したイメージが
植えつけられるような狙いがあるように考えられます。
「味が好きだから」という理由よりも、
「朝にはモーニングショット」という印象を理由にして
なんとなく商品を買う人を増やそうということだろう、と。
商品を印象やイメージと結びつける。
NLPで言えば、アンカーを作っているということです。
まぁ、僕の場合は、味が気に入らなかったら絶対に2回買うことはありませんから、
イメージを植え付けるタイプの広告は僕のような人間には効果がないわけです。
で、僕が気になるのは電車の中に貼られている数パターンの広告のうち、
「朝、チャックを開けたまま出勤したことのあるビジネスマン 37.2%」
というようなメッセージの書かれたものです。
正確な文章は覚えていませんが、そんな感じの内容。
パッと見たところ、随分と気になる内容です。
他のパターンも抽象的なメッセージですが、
どれも朝の通勤と関連付けることを狙っているものでしょう。
そんな中で僕がこのパターンを取り上げたのは、
小さな文字で書かれているサブメッセージが気になるからです。
「朝、チャックを開けたまま…」という文章の下に小さ目の文字で
「この電車の3人に1人以上」というような内容。
多そうな印象を表現しているように受け取れるんです。
ですが、僕の印象は思ったより少ないということ。
もっといるかと思っていました。
逆に言えば、3人のうち2人の人は、自分のチャックが開いていないかを常に確認して
一度たりとも開けたまま出勤してしまうようなミスはしない人だという意味です。
一度でもチャックを開けたまま出勤してしまったことのある人であれば
もっと沢山いそうな気がするんですが…。
それでも、この広告の最大のメリットは、これを読んだ人が
「今、自分のチャックは開いていないだろうか?」と意識できるところでしょう。
それを気にさせてくれるのは感謝の対象ですらあります。
そして、その部分に意識が向き過ぎてしまう以上、
コーヒーとの関連づけの効果は大幅に下がってしまうはずです。
朝のイメージと缶コーヒーという結びつけよりも、
面白い広告と商品名の結びつけが強まってしまう。
場合によっては広告の内容だけが印象に残ることさえあるでしょう。
「あの面白い広告って何のやつだっけ?」という会話がなされれば、
それは面白い広告であって、役に立つ広告ではないのかもしれません。
僕にとっては、面白い広告が話のネタになるので大歓迎なんですが。
2009年01月15日
イビキ
吉本興業のタレント、間寛平さんが「アースマラソン」というのをやっているそうです。
地球一周のマラソン。
地上にいる間はマラソン、海上はヨットで移動。
一日50kmの距離を毎日、東へ進んでいくのだそうです。
3年ぐらいかけて地球を自力で一周する試みは世界初だとか。
どのような思いで旅立ちを決意したのか、それは僕には分かりませんが、
自分自身の生き様を世界の人々の記憶に残していくという意味合いは
どこかに必ずあるような気がします。
それもまた、「芸人」としての生き様なのかもしれません。
今日が30日目、太平洋をアメリカに向かって進んでいるところらしいです。
その模様は毎日ブログで更新されるということですが、
時折、テレビ番組と中継で繋がることもあるようで、
先日、ある番組で間寛平さんの姿が映っていました。
一日50km、地上を走る間は、全ての時間が移動ではありません。
24時間テレビのように、軽食をつまみながら走りっぱなし
というわけではないみたいで、普通にレストランで食事をする光景もありました。
スタートしてから日本国内を走る間は、
ずっと奥さんが伴走していたという話でした。
起きて、走って、食事をして、また走って、宿泊して…。
そんな繰り返しだったのでしょう。
そして、ヨットでの出航を翌日に控えた夜、
そのテレビ番組でテレビ局と中継が繋がっていたわけです。
放送中、間寛平さんが、人生で初めて口にするような話だと言いながら、
ある出来事の内容を話し始めました。
奥さんとは結婚して30年以上。
寝るときに奥さんのイビキがウルサイのだそうです。
とにかくイビキが大きくて寝られない、と。
それがいつも不満で、本当に嫌だったと言っていました。
だからいつも、イビキが気になって起きてしまったときは
トイレに行ってワザと大きな音でドアを閉めたり、
横で布団をバサバサさせたり、色々なアピールをして
奥さんにイビキのことを気づかせるようにしていたのだとか。
うるさ過ぎて、奥さんを起こすこともあるほど。
とにかく、もう、イビキが嫌で嫌で仕方なかった。
そう繰り返していたんです。
で、出向を間近に控えたある日の夜。
ふと、このように思ったそうです。
「あぁ、もう、このイビキも聞けんようになるんやなぁ」
もしかしたら死ぬかもしれない。
もちろん、生きて帰ってくるつもりだけど、最悪のケースもありうる。
少なくとも、これから3年ぐらいは帰ってこない。
何十年もずっと横で聞き続けてきたイビキが、もう聞けなくなる。
そう思った夜。
間寛平さんは、一晩起きたまま、奥さんのイビキをずっと聞いていたそうです。
そして、そのことを全て奥さんに話し、二人で泣いたということでした。
『愛』とは、そういうことなんでしょう。
嫌なところが大切に思える。
長所も短所も、良いところも悪いところも、好きなところも嫌いなところも、
両方あるのが素晴らしい、大切だ、そう思える。
それは人に限ったことではありません。
物でも、仕事でもそうです。
苦しいこと、残念なこと、辛いこと、嫌なこと。
そういうものがあるからこそ、喜びが感じられるわけです。
悪役がいるから、ヒーローがいられるんです。
ネガティブな部分を見ないようにするのは
ポジティブシンキングと言えるのかもしれませんが、
それは愛に欠けた行為だと思います。
両方あることを素晴らしいと思えるようでいたいものです。
地球一周のマラソン。
地上にいる間はマラソン、海上はヨットで移動。
一日50kmの距離を毎日、東へ進んでいくのだそうです。
3年ぐらいかけて地球を自力で一周する試みは世界初だとか。
どのような思いで旅立ちを決意したのか、それは僕には分かりませんが、
自分自身の生き様を世界の人々の記憶に残していくという意味合いは
どこかに必ずあるような気がします。
それもまた、「芸人」としての生き様なのかもしれません。
今日が30日目、太平洋をアメリカに向かって進んでいるところらしいです。
その模様は毎日ブログで更新されるということですが、
時折、テレビ番組と中継で繋がることもあるようで、
先日、ある番組で間寛平さんの姿が映っていました。
一日50km、地上を走る間は、全ての時間が移動ではありません。
24時間テレビのように、軽食をつまみながら走りっぱなし
というわけではないみたいで、普通にレストランで食事をする光景もありました。
スタートしてから日本国内を走る間は、
ずっと奥さんが伴走していたという話でした。
起きて、走って、食事をして、また走って、宿泊して…。
そんな繰り返しだったのでしょう。
そして、ヨットでの出航を翌日に控えた夜、
そのテレビ番組でテレビ局と中継が繋がっていたわけです。
放送中、間寛平さんが、人生で初めて口にするような話だと言いながら、
ある出来事の内容を話し始めました。
奥さんとは結婚して30年以上。
寝るときに奥さんのイビキがウルサイのだそうです。
とにかくイビキが大きくて寝られない、と。
それがいつも不満で、本当に嫌だったと言っていました。
だからいつも、イビキが気になって起きてしまったときは
トイレに行ってワザと大きな音でドアを閉めたり、
横で布団をバサバサさせたり、色々なアピールをして
奥さんにイビキのことを気づかせるようにしていたのだとか。
うるさ過ぎて、奥さんを起こすこともあるほど。
とにかく、もう、イビキが嫌で嫌で仕方なかった。
そう繰り返していたんです。
で、出向を間近に控えたある日の夜。
ふと、このように思ったそうです。
「あぁ、もう、このイビキも聞けんようになるんやなぁ」
もしかしたら死ぬかもしれない。
もちろん、生きて帰ってくるつもりだけど、最悪のケースもありうる。
少なくとも、これから3年ぐらいは帰ってこない。
何十年もずっと横で聞き続けてきたイビキが、もう聞けなくなる。
そう思った夜。
間寛平さんは、一晩起きたまま、奥さんのイビキをずっと聞いていたそうです。
そして、そのことを全て奥さんに話し、二人で泣いたということでした。
『愛』とは、そういうことなんでしょう。
嫌なところが大切に思える。
長所も短所も、良いところも悪いところも、好きなところも嫌いなところも、
両方あるのが素晴らしい、大切だ、そう思える。
それは人に限ったことではありません。
物でも、仕事でもそうです。
苦しいこと、残念なこと、辛いこと、嫌なこと。
そういうものがあるからこそ、喜びが感じられるわけです。
悪役がいるから、ヒーローがいられるんです。
ネガティブな部分を見ないようにするのは
ポジティブシンキングと言えるのかもしれませんが、
それは愛に欠けた行為だと思います。
両方あることを素晴らしいと思えるようでいたいものです。
2009年01月12日
決まりごとが増える
新春ワークショップが終わった後、打ちあわせがありました。
黙ってきていたことを一度おおっぴらに口にしてしまうと、
それを再び言わないようにするというのは以前よりも大変になるものですね。
ダムに小さな穴を開けてしまったような感じ。
しっかり塞いでないと危険なことになりそうな。
NLPについて話を聞いていると、どうも業界全体の流れのようなものを感じます。
僕自身は他の人たちへの興味が少ないので知らないことも多いのですが、
どこかが何かを変えると全体のバランスが変わる、という
システム的な影響に思いを巡らせます。
NLPというものの伝えられ方が様々なようなので
元締めが指針を作っていくのは当然のことだと思いますし、
それによってNLPというものを大切にしたい気持ちも分からないではない気もします。
ただ、制度で状況をコントロールしようとするのは
どうにも難しい印象を受けてしまいます。
まるで政治家が経済への影響を政策でコントロールしようとするように。
確かに、仕組みやルールは人に影響を与えるものです。
しかし、そこにはルールの内容そのものとは違った裏のメッセージも
同時に伝わっていることを意識する必要があると思います。
言葉で伝えるメッセージの他に、裏のメッセージが伝わる。
例えば、「好きなようにやって下さい」と言ったとき、
その際に込められている気持ちは非言語のメッセージとして
相手に何となくの印象を与えるわけです。
「大丈夫ですよ。安心して好きなようにやって下さい。
不安なことがあれば、気軽に聞いて下さい。」
そういう気持ちがあれば、行動や声の様子、表情などに表れます。
見守っている雰囲気や信頼感がなんとなく伝わるんです。
一方、「あとは、あなたたちの勝手だから好きなようにやって下さい。
自分たちで話し合って、問題解決の力をつけて下さい。」
というような気持ちで伝えた「好きなようにやって下さい」には、
放任や無関心のメッセージが伝わります。
話しかけにくい雰囲気、困惑、心配、慎重さなどが生まれます。
「自分たちだけで何とかしなくてはいけない」というのは
信頼の結果として生まれる気持ちではありません。
「何とかする」というのは、全てのことに責任を取ろうという気分が含まれます。
最後まで自分たちでやり切らなくては、ということです。
信頼があった場合には、「自分たちだけでやってみよう」という気持ちになります。
意志が生まれるわけです。
義務は発生しません。
どうしようもなくなったら、何とかしてくれる。
だから思い切って自分たちでやってみよう。
…そう思える状態が信頼されているときではないかと思います。
責任をとってくれる人がいるかどうか、とも言えるかもしれません。
「自分だけで何とかしなくてはならない」という状態を作り出すのは
自立を促しているのではないと僕は思います。
それは放任しているだけです。
なぜなら、人間はいつも通りのパターンに固まりやすいからです。
自分だけで何とかしなくては、という思いに駆られたとき
人は心の余裕を失います。
必死にはなるかもしれません。
でも安心感はありません。
その状態では柔軟性が発揮されずらいわけです。
硬直しやすいものなんです。
いつも通りのパターンに固着して、上手くいかないことを繰り返す。
上手くいっているかどうかの判断さえできない状態だったとしたら、
いつも通りのパターンで行動を続けていくのが普通ではないでしょうか。
心のどこかで「これでいいのかな」という不安を抱えながら。
集団に対してそれを行えば、「自分たちだけで何とかしなくては」の状態は
チームビルディングどころか、完全に決まった人間関係のパターンを生み出します。
家族システムの多くが固まってしまいやすいように、関係性までも硬直してしまいます。
成長する、チームビルディングを学ぶというのは、
人間関係の柔軟性を生み出して、いつもと違うやり方をしながら
望ましい結果に近づけていくことだと思います。
いつもリーダーシップを発揮する人がいて、その人に逆らえない人がいる。
その関係が変わって、自由に振る舞えるようになることが成長だと思うんです。
いつものパターンから抜け出して、選択肢が広がったということです。
信頼された状態においては、安心があります。
何をしても大丈夫だという安心があります。
それこそが人を柔軟にし、いつもとは違う行動を手助けするんです。
「好きなようにやって下さい」という言葉のメッセージにも
裏のメッセージが同時に伝わっているわけです。
信頼が伝わるか、それとも放任が伝わるか。
それは態度に表れているものです。
メッセージを受け取る側はハッキリと意識できないことも多いですが、
なんとなくの印象が人の内面に大きく影響しているのは間違いありません。
そういうダブルメッセージを巧みに利用していたのがミルトン・エリクソンでした。
グレゴリー・ベイトソンは、そうしたメッセージをダブルバインド理論で説明しました。
ルールや仕組みは、信頼していないメッセージを伝えている気がします。
お願いや依頼には、信頼している度合いが感じられます。
NLPはエリクソンやベイトソンに学んだ部分が大きかったはずなんですけどね。
黙ってきていたことを一度おおっぴらに口にしてしまうと、
それを再び言わないようにするというのは以前よりも大変になるものですね。
ダムに小さな穴を開けてしまったような感じ。
しっかり塞いでないと危険なことになりそうな。
NLPについて話を聞いていると、どうも業界全体の流れのようなものを感じます。
僕自身は他の人たちへの興味が少ないので知らないことも多いのですが、
どこかが何かを変えると全体のバランスが変わる、という
システム的な影響に思いを巡らせます。
NLPというものの伝えられ方が様々なようなので
元締めが指針を作っていくのは当然のことだと思いますし、
それによってNLPというものを大切にしたい気持ちも分からないではない気もします。
ただ、制度で状況をコントロールしようとするのは
どうにも難しい印象を受けてしまいます。
まるで政治家が経済への影響を政策でコントロールしようとするように。
確かに、仕組みやルールは人に影響を与えるものです。
しかし、そこにはルールの内容そのものとは違った裏のメッセージも
同時に伝わっていることを意識する必要があると思います。
言葉で伝えるメッセージの他に、裏のメッセージが伝わる。
例えば、「好きなようにやって下さい」と言ったとき、
その際に込められている気持ちは非言語のメッセージとして
相手に何となくの印象を与えるわけです。
「大丈夫ですよ。安心して好きなようにやって下さい。
不安なことがあれば、気軽に聞いて下さい。」
そういう気持ちがあれば、行動や声の様子、表情などに表れます。
見守っている雰囲気や信頼感がなんとなく伝わるんです。
一方、「あとは、あなたたちの勝手だから好きなようにやって下さい。
自分たちで話し合って、問題解決の力をつけて下さい。」
というような気持ちで伝えた「好きなようにやって下さい」には、
放任や無関心のメッセージが伝わります。
話しかけにくい雰囲気、困惑、心配、慎重さなどが生まれます。
「自分たちだけで何とかしなくてはいけない」というのは
信頼の結果として生まれる気持ちではありません。
「何とかする」というのは、全てのことに責任を取ろうという気分が含まれます。
最後まで自分たちでやり切らなくては、ということです。
信頼があった場合には、「自分たちだけでやってみよう」という気持ちになります。
意志が生まれるわけです。
義務は発生しません。
どうしようもなくなったら、何とかしてくれる。
だから思い切って自分たちでやってみよう。
…そう思える状態が信頼されているときではないかと思います。
責任をとってくれる人がいるかどうか、とも言えるかもしれません。
「自分だけで何とかしなくてはならない」という状態を作り出すのは
自立を促しているのではないと僕は思います。
それは放任しているだけです。
なぜなら、人間はいつも通りのパターンに固まりやすいからです。
自分だけで何とかしなくては、という思いに駆られたとき
人は心の余裕を失います。
必死にはなるかもしれません。
でも安心感はありません。
その状態では柔軟性が発揮されずらいわけです。
硬直しやすいものなんです。
いつも通りのパターンに固着して、上手くいかないことを繰り返す。
上手くいっているかどうかの判断さえできない状態だったとしたら、
いつも通りのパターンで行動を続けていくのが普通ではないでしょうか。
心のどこかで「これでいいのかな」という不安を抱えながら。
集団に対してそれを行えば、「自分たちだけで何とかしなくては」の状態は
チームビルディングどころか、完全に決まった人間関係のパターンを生み出します。
家族システムの多くが固まってしまいやすいように、関係性までも硬直してしまいます。
成長する、チームビルディングを学ぶというのは、
人間関係の柔軟性を生み出して、いつもと違うやり方をしながら
望ましい結果に近づけていくことだと思います。
いつもリーダーシップを発揮する人がいて、その人に逆らえない人がいる。
その関係が変わって、自由に振る舞えるようになることが成長だと思うんです。
いつものパターンから抜け出して、選択肢が広がったということです。
信頼された状態においては、安心があります。
何をしても大丈夫だという安心があります。
それこそが人を柔軟にし、いつもとは違う行動を手助けするんです。
「好きなようにやって下さい」という言葉のメッセージにも
裏のメッセージが同時に伝わっているわけです。
信頼が伝わるか、それとも放任が伝わるか。
それは態度に表れているものです。
メッセージを受け取る側はハッキリと意識できないことも多いですが、
なんとなくの印象が人の内面に大きく影響しているのは間違いありません。
そういうダブルメッセージを巧みに利用していたのがミルトン・エリクソンでした。
グレゴリー・ベイトソンは、そうしたメッセージをダブルバインド理論で説明しました。
ルールや仕組みは、信頼していないメッセージを伝えている気がします。
お願いや依頼には、信頼している度合いが感じられます。
NLPはエリクソンやベイトソンに学んだ部分が大きかったはずなんですけどね。
2009年01月09日
嫌われ役
ミルトン・エリクソンは、ユーモアやジョークを好んだようです。
時には悪ふざけとまで言えるようなことまで。
そこにはアメリカ文化ということもあるでしょうし、
自分自身が身体に大きな障害を抱えているという立場も
そうした態度を受け取らせやすくする部分があったように思えます。
そして徹底的にクライアントのために行動していたようです。
ユーモアも、悪ふざけも、クライアントを見て選んでいたはずですが、
それが治療に役立つものだったから利用していたのでしょう。
エリクソンの徹底ぶりは、治療という目的のためであれば
自分の評価を気にしないところに強く感じられます。
クライアントに嫌われることも、怒らせるようなことも
平気でやっていたような記録があります。
今の僕には到底できないことです。
だから僕には、エリクソンのその部分が凄いことに思えるのかもしれません。
エリクソンは場合によって、クライアントを罵倒することもあったそうです。
露骨な悪口を言ったり、一般的には相手を傷つけるようなことを言ったりして、
それに対して沸いてくる怒りや不満を治療に利用したということです。
強迫的に何かを気にしてしまうような人には、
あえて侮辱することでエリクソン自身に対する怒りを常に意識させ、
結果的に強迫的に気にしてしまう癖を弱めさせる。
確かに、強迫的な状態は悪循環になることもありますから、
それを断ち切るために過激な介入をするのは有効な方法なんでしょう。
ただ、そのために自分に怒りの矛先を向けさせるというのは
普通では、なかなかできない方法のように思えます。
クライアントは怒って帰っていくわけです。
予定通りだったとしても、不満を持ったまま帰っていくわけです。
気分を害しているわけです。
感謝されようなんて気持ちは毛頭ないのでしょう。
もちろん、その結果として、クライアントは良い方向に進んでいくのですから
最終的にはクライアントのためになっているはずです。
クライアントのためを考えれば当然なのかもしれません。
それでも僕は、クライアントも不愉快にならず、それでいて
良い方向に進んでいくような別の方法を考えたくなります。
もしかするとエリクソンには、そういう別の効果的な方法も見えていたかもしれません。
ただ、より即効性のある方法を選択したに過ぎないのかもしれません。
クライアントは困っているからエリクソンの元を訪れるわけです。
それに対する最大限の優しさは、一分一秒でも早く楽になることだとも言えます。
エリクソンは早く効果を出すために、あえて過激な方法も選んだような気がします。
それが「クライアントのためになることをする」という意味で
エリクソンが徹底していた部分だと思うんです。
親身になって話を聞く。
クライアントに共感する。
それも優しさでしょう。
しかし、一時的に負担をかけてでも、少しでも早く良くなってもらう
というスタンスも、とても優しい心遣いだと思います。
それには技術が必要です。
技術よりもクライアントを思う気持ちが大切だ、というのは
正論に聞こえますが、技術も同じくらい大切ではないでしょうか。
クライアントを思う気持ちが強いからこそ、
どこまでも技術を磨くことに力を注げるのだと思います。
クライアントのために何ができるか、何が役立つか。
そのことを徹底できる優しさがあれば、自分がクライアントから嫌われることなど
気にならなくなってしまうものなのかもしれません。
本当に相手のためを思って、あえて相手を傷つける。
これは簡単にできることではないでしょう。
日常生活においては、ますます難しいことのはずです。
自分のために相手を傷つけることはあっても
本当に相手のためにすることは大変なことです。
そう考えると、エリクソンの偉大さを少し垣間見れた気がします。
常日頃から、「相手のため」と思っている自分の心と
正面から向き合う必要がありそうです。
それは本当に「相手のために」しようとしていることだろうか。
その状態の相手を受け入れられない自分がいるだけではないだろうか。
いつもそう意識していたいと思います。
時には悪ふざけとまで言えるようなことまで。
そこにはアメリカ文化ということもあるでしょうし、
自分自身が身体に大きな障害を抱えているという立場も
そうした態度を受け取らせやすくする部分があったように思えます。
そして徹底的にクライアントのために行動していたようです。
ユーモアも、悪ふざけも、クライアントを見て選んでいたはずですが、
それが治療に役立つものだったから利用していたのでしょう。
エリクソンの徹底ぶりは、治療という目的のためであれば
自分の評価を気にしないところに強く感じられます。
クライアントに嫌われることも、怒らせるようなことも
平気でやっていたような記録があります。
今の僕には到底できないことです。
だから僕には、エリクソンのその部分が凄いことに思えるのかもしれません。
エリクソンは場合によって、クライアントを罵倒することもあったそうです。
露骨な悪口を言ったり、一般的には相手を傷つけるようなことを言ったりして、
それに対して沸いてくる怒りや不満を治療に利用したということです。
強迫的に何かを気にしてしまうような人には、
あえて侮辱することでエリクソン自身に対する怒りを常に意識させ、
結果的に強迫的に気にしてしまう癖を弱めさせる。
確かに、強迫的な状態は悪循環になることもありますから、
それを断ち切るために過激な介入をするのは有効な方法なんでしょう。
ただ、そのために自分に怒りの矛先を向けさせるというのは
普通では、なかなかできない方法のように思えます。
クライアントは怒って帰っていくわけです。
予定通りだったとしても、不満を持ったまま帰っていくわけです。
気分を害しているわけです。
感謝されようなんて気持ちは毛頭ないのでしょう。
もちろん、その結果として、クライアントは良い方向に進んでいくのですから
最終的にはクライアントのためになっているはずです。
クライアントのためを考えれば当然なのかもしれません。
それでも僕は、クライアントも不愉快にならず、それでいて
良い方向に進んでいくような別の方法を考えたくなります。
もしかするとエリクソンには、そういう別の効果的な方法も見えていたかもしれません。
ただ、より即効性のある方法を選択したに過ぎないのかもしれません。
クライアントは困っているからエリクソンの元を訪れるわけです。
それに対する最大限の優しさは、一分一秒でも早く楽になることだとも言えます。
エリクソンは早く効果を出すために、あえて過激な方法も選んだような気がします。
それが「クライアントのためになることをする」という意味で
エリクソンが徹底していた部分だと思うんです。
親身になって話を聞く。
クライアントに共感する。
それも優しさでしょう。
しかし、一時的に負担をかけてでも、少しでも早く良くなってもらう
というスタンスも、とても優しい心遣いだと思います。
それには技術が必要です。
技術よりもクライアントを思う気持ちが大切だ、というのは
正論に聞こえますが、技術も同じくらい大切ではないでしょうか。
クライアントを思う気持ちが強いからこそ、
どこまでも技術を磨くことに力を注げるのだと思います。
クライアントのために何ができるか、何が役立つか。
そのことを徹底できる優しさがあれば、自分がクライアントから嫌われることなど
気にならなくなってしまうものなのかもしれません。
本当に相手のためを思って、あえて相手を傷つける。
これは簡単にできることではないでしょう。
日常生活においては、ますます難しいことのはずです。
自分のために相手を傷つけることはあっても
本当に相手のためにすることは大変なことです。
そう考えると、エリクソンの偉大さを少し垣間見れた気がします。
常日頃から、「相手のため」と思っている自分の心と
正面から向き合う必要がありそうです。
それは本当に「相手のために」しようとしていることだろうか。
その状態の相手を受け入れられない自分がいるだけではないだろうか。
いつもそう意識していたいと思います。