2009年03月
2009年03月30日
4月の勉強会
4月の勉強会のお知らせ
こんどの勉強会は開催を迷っていたんですが、やっぱり行うことにしました。
4月末から5月初旬にかけてのゴールデンウィークのあたりで
予定が立ちにくい部分があったのと、多くの方のご都合を考慮して
開催を迷うところがあったんです。
そこで今回は、より密度の濃い実習をしてみようと考えました。
それぞれの方によって興味の対象は違うところだと思いますので
実習によって経験を深めたい部分を意識しながらフォローする予定です。
内容としては、これまでに扱ってきた技法的な復習と
理論の全体像を重ねるようにして体験学習をして頂きます。
一言でテーマを言い表すと「変化の技法」というところでしょうか。
人間がどのように生きて、どのように自分自身を形作っているのか。
そして、その自分自身を変化させるには、どういったアプローチがあるのか。
それは体系立てて説明できることです。
もちろん、一人一人の現状によってどのようなアプローチを選択するかは
異なってきますが、そこにはある程度の原則があるわけです。
NLPは、人間の変化に対するアプローチとして効果的な方法を示しています。
ただ、一般的に伝えられるNLPには方法があっても、
方法を用いるべき体系が示されていないところがあるようにも思えます。
また、その方法が何を狙ったものかも詳しくは説明されません。
今回の勉強会では、人の変化ということに対して
全体像としての理論的な枠組みを示しながら、
その上でどのようなアプローチを選択していくかという一連の流れを扱います。
この流れは全てのコミュニケーションに活用できるものだと考えます。
状況が違えばコミュニケーションの結論は変わりますが、
そこに至るまでのプロセスには共通する流れがあるんです。
相手との交流を通じて自分が何をするか。
その流れです。
例えば、職場の同僚が愚痴を言ってきたとします。
そこで起きるコミュニケーションのゴールを何に設定するか。
・相手の話に共感して、なぐさめて、気分を楽にしてもらうことがゴールになる場合。
・相手の話を聞きながら、悩みの部分をリフレーミングしてスッキリしてもらう場合。
・問題を明確にして、解決のための行動を考えてもらう場合。
・NLPのワークを使って問題を解決しようとする場合。
色々なゴールがあります。
もしかすると、その同僚が異性だったりしたら、人によっては
愚痴を聞くことを通じて仲良くなるのがゴールになるかもしれません。
コミュニケーションのゴールをどこに設定するかは相互の意図によって決まりますが、
どのようなゴールであれ、そこに至るまでの流れには原則があるということです。
一時的に気持ちが楽になるというのも変化の1つです。
二度と、そのことで悩みを感じなくなるというのも変化の1つです。
どの変化を目的に設定し、そのためのアプローチとして何を使うか。
そこが今回の勉強会のテーマと言えます。
その意味では総論的に様々な内容を扱うことにもなりますし、
それぞれの方法論同士の関連性や、どの方法をどういう場面で用いるか
という具体的な部分も扱うことになります。
コミュニケーションの技法として語られる多くの内容を
1つの流れの中に組み込むようなイメージと言っても良いかもしれません。
コーチングなのかカウンセリングなのか、傾聴なのかリフレーミングなのか。
流れの中で選択すべき技法を整理しようということです。
また、余裕があれば、NLPやコーチングとは違ったアプローチも紹介します。
家族療法的なやり方に近いはずです。
ということで、今回の勉強会では「変化の技法」ということをテーマにして、
・人の変化に関する理論的な説明
・コミュニケーションにおいて設定されるゴールとしての変化
・ゴールまでのコミュニケーションの流れ
・変化のための具体的な手法
のあたりを扱っていきます。
1つ1つの内容を丁寧に扱えば、かなりの時間がかかるものですから
総論的な雰囲気があるかもしれません。
だからこそ、その中での実習は密度の濃いものにしたいと考えています。
午前・午後いずれかのご参加も可能です。
全体像の説明は両方に組み込むようにします。
午前と午後では、詳しく扱う内容が異なるとご理解ください。
ゴールデンウィークの始まりの時期です。
新年度が始まったばかりでお忙しい方もいるかもしれませんし、
長期連休を取ってリフレッシュされる方、逆に仕事が忙しくなる方もいるかもしれません。
ご興味とご都合が合いましたら、是非お越し下さい。
※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
定員を設けていますので、ご注意ください。
定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
詳細は以下のとおりです。
※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
【日時】 4月29日(水・祝)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
★午前、午後いずれかのご参加も可能です。
【場所】 滝野川会館 304集会室
(JR京浜東北線・上中里駅東口より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅北口より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午後の部 ・・・5,000円
◆午前・午後両方ご参加の場合 ・・・7,000円
テーマ: 『変化の技法』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
コミュニケーションを学ぼうとすると、特定の技法に行きつく。
コーチングであったり、カウンセリングであったり、セラピーであったり、
アサーションであったり、ロジカルシンキングであったり…。
それが現状のような気がします。
しかしながら、コミュニケーションは多くの場面で行われることです。
1つの技法は特定の状況で活用できる方法として生み出されたものです。
多くのコミュニケーション技法は専門家の方法なんです。
その中の特定の部分は、多くの場面で活用できる方法になるでしょうが、
どの部分、どの方法を、日常で活用すればいいかは
本人のセンスに頼ってしまっているところがあるようです。
もちろん、中にはそうした技法を、特定の場面で利用できるように
「〜のためのコミュニケーション術」というような方法を伝える人もいます。
そうした方法は親切ですが、応用性には欠けてしまう側面は避けられません。
コミュニケーションで大切なのは、場面に応じて
適切な関わり方を自分が選択するということだと思います。
そのためにも人が変化するプロセスを理解しておくことが重要なはずです。
人は誰かと関われば、関わる前には戻れないんです。
関わりがあれば、必ず何かの変化が起きるんです。
大きな変化が起きることもあれば、小さな変化が起こることもあります。
些細な変化が重要な時もあるんです。
だからこそ、自分が相手と関わるときに
どんな影響を与えるかを意識することも大切だというわけです。
コミュニケーションの目的意識をハッキリさせるためにも
今回のテーマは無駄にはならないのではないでしょうか。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
こんどの勉強会は開催を迷っていたんですが、やっぱり行うことにしました。
4月末から5月初旬にかけてのゴールデンウィークのあたりで
予定が立ちにくい部分があったのと、多くの方のご都合を考慮して
開催を迷うところがあったんです。
そこで今回は、より密度の濃い実習をしてみようと考えました。
それぞれの方によって興味の対象は違うところだと思いますので
実習によって経験を深めたい部分を意識しながらフォローする予定です。
内容としては、これまでに扱ってきた技法的な復習と
理論の全体像を重ねるようにして体験学習をして頂きます。
一言でテーマを言い表すと「変化の技法」というところでしょうか。
人間がどのように生きて、どのように自分自身を形作っているのか。
そして、その自分自身を変化させるには、どういったアプローチがあるのか。
それは体系立てて説明できることです。
もちろん、一人一人の現状によってどのようなアプローチを選択するかは
異なってきますが、そこにはある程度の原則があるわけです。
NLPは、人間の変化に対するアプローチとして効果的な方法を示しています。
ただ、一般的に伝えられるNLPには方法があっても、
方法を用いるべき体系が示されていないところがあるようにも思えます。
また、その方法が何を狙ったものかも詳しくは説明されません。
今回の勉強会では、人の変化ということに対して
全体像としての理論的な枠組みを示しながら、
その上でどのようなアプローチを選択していくかという一連の流れを扱います。
この流れは全てのコミュニケーションに活用できるものだと考えます。
状況が違えばコミュニケーションの結論は変わりますが、
そこに至るまでのプロセスには共通する流れがあるんです。
相手との交流を通じて自分が何をするか。
その流れです。
例えば、職場の同僚が愚痴を言ってきたとします。
そこで起きるコミュニケーションのゴールを何に設定するか。
・相手の話に共感して、なぐさめて、気分を楽にしてもらうことがゴールになる場合。
・相手の話を聞きながら、悩みの部分をリフレーミングしてスッキリしてもらう場合。
・問題を明確にして、解決のための行動を考えてもらう場合。
・NLPのワークを使って問題を解決しようとする場合。
色々なゴールがあります。
もしかすると、その同僚が異性だったりしたら、人によっては
愚痴を聞くことを通じて仲良くなるのがゴールになるかもしれません。
コミュニケーションのゴールをどこに設定するかは相互の意図によって決まりますが、
どのようなゴールであれ、そこに至るまでの流れには原則があるということです。
一時的に気持ちが楽になるというのも変化の1つです。
二度と、そのことで悩みを感じなくなるというのも変化の1つです。
どの変化を目的に設定し、そのためのアプローチとして何を使うか。
そこが今回の勉強会のテーマと言えます。
その意味では総論的に様々な内容を扱うことにもなりますし、
それぞれの方法論同士の関連性や、どの方法をどういう場面で用いるか
という具体的な部分も扱うことになります。
コミュニケーションの技法として語られる多くの内容を
1つの流れの中に組み込むようなイメージと言っても良いかもしれません。
コーチングなのかカウンセリングなのか、傾聴なのかリフレーミングなのか。
流れの中で選択すべき技法を整理しようということです。
また、余裕があれば、NLPやコーチングとは違ったアプローチも紹介します。
家族療法的なやり方に近いはずです。
ということで、今回の勉強会では「変化の技法」ということをテーマにして、
・人の変化に関する理論的な説明
・コミュニケーションにおいて設定されるゴールとしての変化
・ゴールまでのコミュニケーションの流れ
・変化のための具体的な手法
のあたりを扱っていきます。
1つ1つの内容を丁寧に扱えば、かなりの時間がかかるものですから
総論的な雰囲気があるかもしれません。
だからこそ、その中での実習は密度の濃いものにしたいと考えています。
午前・午後いずれかのご参加も可能です。
全体像の説明は両方に組み込むようにします。
午前と午後では、詳しく扱う内容が異なるとご理解ください。
ゴールデンウィークの始まりの時期です。
新年度が始まったばかりでお忙しい方もいるかもしれませんし、
長期連休を取ってリフレッシュされる方、逆に仕事が忙しくなる方もいるかもしれません。
ご興味とご都合が合いましたら、是非お越し下さい。
※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
定員を設けていますので、ご注意ください。
定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
詳細は以下のとおりです。
※勉強会の趣旨に関しましては
勉強会070725 ( http://rikei.livedoor.biz/archives/50205495.html )をご覧下さい。
【勉強会の詳細】
【日時】 4月29日(水・祝)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
★午前、午後いずれかのご参加も可能です。
【場所】 滝野川会館 304集会室
(JR京浜東北線・上中里駅東口より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅北口より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午後の部 ・・・5,000円
◆午前・午後両方ご参加の場合 ・・・7,000円
テーマ: 『変化の技法』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
コミュニケーションを学ぼうとすると、特定の技法に行きつく。
コーチングであったり、カウンセリングであったり、セラピーであったり、
アサーションであったり、ロジカルシンキングであったり…。
それが現状のような気がします。
しかしながら、コミュニケーションは多くの場面で行われることです。
1つの技法は特定の状況で活用できる方法として生み出されたものです。
多くのコミュニケーション技法は専門家の方法なんです。
その中の特定の部分は、多くの場面で活用できる方法になるでしょうが、
どの部分、どの方法を、日常で活用すればいいかは
本人のセンスに頼ってしまっているところがあるようです。
もちろん、中にはそうした技法を、特定の場面で利用できるように
「〜のためのコミュニケーション術」というような方法を伝える人もいます。
そうした方法は親切ですが、応用性には欠けてしまう側面は避けられません。
コミュニケーションで大切なのは、場面に応じて
適切な関わり方を自分が選択するということだと思います。
そのためにも人が変化するプロセスを理解しておくことが重要なはずです。
人は誰かと関われば、関わる前には戻れないんです。
関わりがあれば、必ず何かの変化が起きるんです。
大きな変化が起きることもあれば、小さな変化が起こることもあります。
些細な変化が重要な時もあるんです。
だからこそ、自分が相手と関わるときに
どんな影響を与えるかを意識することも大切だというわけです。
コミュニケーションの目的意識をハッキリさせるためにも
今回のテーマは無駄にはならないのではないでしょうか。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
いずれの回からのご参加でも、初めて起こしになるときはお試し価格を適用いたします。
その旨をお伝えください。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
2009年03月28日
ツボ
最近youtubeで、お笑いの動画を見たりしています。
便利ですね。
個人的なお気に入りは
エハラマサヒロ
ビーグル38
ハライチ
ガリガリガリクソン
あたり。
見ていると時間が過ぎるのが早いです。
こういう動画で面白いのは、内容を見られるところもありますが、
その動画の年代が必ずしも最新のものではないというところにもあります。
テレビで見ていたら常に最新の状態を見ることになりますから。
すると、そういう芸人さんたちの変化に気づくことができるわけです。
多くの場合、売れてきて人気が出てきているから動画として配信されるので
最近の内容のほうが面白いというか、一般的に評価されやすいものとなっています。
つまり変化の中に、売れるようになってきた要因が見えるということです。
「なるほど、売れてきたわけだ」と実感できるくらいの変化が見てとれる人も多数。
それは大まかに言えば、個性や型と呼ばれるものができてきた時期のように思えます。
他にはないオリジナリティとリズム感や間合い。
空回りする感じや独りよがりな感じがなくなって、
見ている人を巻き込めるような雰囲気を生み出しています。
そこには明らかに安心感、ラポールがあるわけです。
言うまでもなく、笑うためには緊張していては難しいですから
会場とラポールを作り、自分たちの空間に引き込んでいく力も求められます。
見ている側からすると、演者たちの余裕を感じさせる雰囲気や期待感が
笑える状態に入れてもらえる要因になると考えられます。
こうした雰囲気をベテランと呼ばれる人たちは皆、身につけている気がします。
会場を楽しませるのと同時に、その場や雰囲気そのものも楽しんでいる様子。
それがまた会場を巻き込んで、笑いの準備を広げていくというわけです。
皮肉なことに、笑いが取れないときほど誰もが焦り、必死で笑わせようと頑張り始めます。
テンポも早くなり、間が狂い始め、会場とのラポールが更に失われる。
その結果、何をしても空回りになって、ウケなくなってしまう…。
そんな体験を繰り返してしまったら自信が得られることもなく、
自分たちの長所を磨いていくことも難しくなるでしょう。
笑いを取れた経験が余裕を生み出し、笑いが起こる場としてラポールが強まる。
ラポールによって会場を巻き込めるから笑いも取りやすくなる。
そうして自分たちの上手くいくパターンを見つけていくことができる。
笑いをコンスタントに取れるようになれば人気が出てきて、
最初から会場に受け入れられた状態で舞台に立てるので、更にやりやすくなるでしょう。
会場も笑うことを期待している状態になっているので相乗効果で笑いが期待できます。
一方、笑いが取れない、いわゆるスベった状態を繰り返してしまうと、
余裕を失い、ラポールも失われ、自信を失っていくことになります。
何をしていいのか分からないまま空回りを繰り返し、悪循環にはまっていく。
差が大きくなってしまうわけです。
また、オリジナリティや個性、型、スタイルといったものが固まると
見る側も、いつも通りの状態を期待して安心することができます。
笑いという結果に安定感が出やすくなると考えられます。
ですから、オリジナリティや型が見えてきた頃というのは
自然と人気も高まりパフォーマンスにも安定感が出てくる時期と言えるでしょう。
自分たちの持ち味と、経験から見出してきたパターンと余裕が
自然と「〜らしさ」というスタイルを生み出すんです。
売れてくるのが納得できる時です。
こうした型やスタイルは、見ている側に、分かりやすさや
いつも通りの安心感を与えてくれるメリットがありますから、
中には早い段階から意識的に自分たちのスタイルを決め打ちしてくるケースもあります。
テレビ番組で言えば、「エンタの神様」などは気の毒なくらいに
こうしたスタイルを強要されている雰囲気があります。
分かりやすさが優先される様子を感じます。
中には、そうした戦略で売れるケースもあるようですが、
僕の眼には自然と生み出されてきたオリジナルのスタイルとの違いが見受けられます。
素直に笑えないときが多々あるんです。
自然な感じというのは、本人たちの楽しそうな雰囲気から受け取るのかもしれません。
僕はNLPをやってから特に、楽しそうにやっている場面を見るのが好きになりました。
やっている本人たちの余裕や、その場を楽しんでいる状態が
見ている自分をも楽しくさせてくれるような気がするんです。
僕の好みの傾向は、この「本人たちが楽しそうにしているか」というのに
随分と影響されそうな気がします。
笑いを取ろう、笑わせようと必死になっている感じよりも、
笑ってもらうために色々と考えること自体が楽しそうな感じが好きなんです。
これは、独りよがりで自分が楽しい感じとは別物です。
自分が面白いと思っていることをやって楽しんでいるのとは違います。
相手に笑ってもらうためにする工夫が楽しいという状態。
そういうのを感じると一緒に楽しい気持ちになるんです。
それは単なるバカ笑いとはチョット違った、少しホノボノした雰囲気や
暖かい気持ちを含んだ笑いなんです。
「ゲラゲラ」の中に、少し「ウフフフ」が混ざっているんです。
テレビ番組で言うと「しゃべくり007」とかでしょうか。
好きな芸人や、その細かい特徴のブームが移り変わっても
根底にあるものは変わらないのかもしれません。
どうやって僕の中に生み出されたものかは分かりませんが
大切な価値観であることは間違いなさそうです。
便利ですね。
個人的なお気に入りは
エハラマサヒロ
ビーグル38
ハライチ
ガリガリガリクソン
あたり。
見ていると時間が過ぎるのが早いです。
こういう動画で面白いのは、内容を見られるところもありますが、
その動画の年代が必ずしも最新のものではないというところにもあります。
テレビで見ていたら常に最新の状態を見ることになりますから。
すると、そういう芸人さんたちの変化に気づくことができるわけです。
多くの場合、売れてきて人気が出てきているから動画として配信されるので
最近の内容のほうが面白いというか、一般的に評価されやすいものとなっています。
つまり変化の中に、売れるようになってきた要因が見えるということです。
「なるほど、売れてきたわけだ」と実感できるくらいの変化が見てとれる人も多数。
それは大まかに言えば、個性や型と呼ばれるものができてきた時期のように思えます。
他にはないオリジナリティとリズム感や間合い。
空回りする感じや独りよがりな感じがなくなって、
見ている人を巻き込めるような雰囲気を生み出しています。
そこには明らかに安心感、ラポールがあるわけです。
言うまでもなく、笑うためには緊張していては難しいですから
会場とラポールを作り、自分たちの空間に引き込んでいく力も求められます。
見ている側からすると、演者たちの余裕を感じさせる雰囲気や期待感が
笑える状態に入れてもらえる要因になると考えられます。
こうした雰囲気をベテランと呼ばれる人たちは皆、身につけている気がします。
会場を楽しませるのと同時に、その場や雰囲気そのものも楽しんでいる様子。
それがまた会場を巻き込んで、笑いの準備を広げていくというわけです。
皮肉なことに、笑いが取れないときほど誰もが焦り、必死で笑わせようと頑張り始めます。
テンポも早くなり、間が狂い始め、会場とのラポールが更に失われる。
その結果、何をしても空回りになって、ウケなくなってしまう…。
そんな体験を繰り返してしまったら自信が得られることもなく、
自分たちの長所を磨いていくことも難しくなるでしょう。
笑いを取れた経験が余裕を生み出し、笑いが起こる場としてラポールが強まる。
ラポールによって会場を巻き込めるから笑いも取りやすくなる。
そうして自分たちの上手くいくパターンを見つけていくことができる。
笑いをコンスタントに取れるようになれば人気が出てきて、
最初から会場に受け入れられた状態で舞台に立てるので、更にやりやすくなるでしょう。
会場も笑うことを期待している状態になっているので相乗効果で笑いが期待できます。
一方、笑いが取れない、いわゆるスベった状態を繰り返してしまうと、
余裕を失い、ラポールも失われ、自信を失っていくことになります。
何をしていいのか分からないまま空回りを繰り返し、悪循環にはまっていく。
差が大きくなってしまうわけです。
また、オリジナリティや個性、型、スタイルといったものが固まると
見る側も、いつも通りの状態を期待して安心することができます。
笑いという結果に安定感が出やすくなると考えられます。
ですから、オリジナリティや型が見えてきた頃というのは
自然と人気も高まりパフォーマンスにも安定感が出てくる時期と言えるでしょう。
自分たちの持ち味と、経験から見出してきたパターンと余裕が
自然と「〜らしさ」というスタイルを生み出すんです。
売れてくるのが納得できる時です。
こうした型やスタイルは、見ている側に、分かりやすさや
いつも通りの安心感を与えてくれるメリットがありますから、
中には早い段階から意識的に自分たちのスタイルを決め打ちしてくるケースもあります。
テレビ番組で言えば、「エンタの神様」などは気の毒なくらいに
こうしたスタイルを強要されている雰囲気があります。
分かりやすさが優先される様子を感じます。
中には、そうした戦略で売れるケースもあるようですが、
僕の眼には自然と生み出されてきたオリジナルのスタイルとの違いが見受けられます。
素直に笑えないときが多々あるんです。
自然な感じというのは、本人たちの楽しそうな雰囲気から受け取るのかもしれません。
僕はNLPをやってから特に、楽しそうにやっている場面を見るのが好きになりました。
やっている本人たちの余裕や、その場を楽しんでいる状態が
見ている自分をも楽しくさせてくれるような気がするんです。
僕の好みの傾向は、この「本人たちが楽しそうにしているか」というのに
随分と影響されそうな気がします。
笑いを取ろう、笑わせようと必死になっている感じよりも、
笑ってもらうために色々と考えること自体が楽しそうな感じが好きなんです。
これは、独りよがりで自分が楽しい感じとは別物です。
自分が面白いと思っていることをやって楽しんでいるのとは違います。
相手に笑ってもらうためにする工夫が楽しいという状態。
そういうのを感じると一緒に楽しい気持ちになるんです。
それは単なるバカ笑いとはチョット違った、少しホノボノした雰囲気や
暖かい気持ちを含んだ笑いなんです。
「ゲラゲラ」の中に、少し「ウフフフ」が混ざっているんです。
テレビ番組で言うと「しゃべくり007」とかでしょうか。
好きな芸人や、その細かい特徴のブームが移り変わっても
根底にあるものは変わらないのかもしれません。
どうやって僕の中に生み出されたものかは分かりませんが
大切な価値観であることは間違いなさそうです。
2009年03月26日
住めば都
たしかNHKの「英語でしゃべらナイト」だったと思うんですが、
自分のハリウッド進出を夢に掲げて海外生活を始めた人が、インタビューされていました。
― 初めての海外生活、慣れない土地で大変ではなかったですか?
そんな質問だったと思います。
その人はこんなようなことを答えていました。
― 色々な街に行きましたが、どこの街にも良いところがある。
日本もアメリカも、それぞれの街に良いところと嫌なところがあって、
嫌なところに目を向ければ、どこも嫌いになってしまう。
でも、それぞれの街の良いところに目を向けると、
どの街も違った良いところがあって、どれも好きだった。
いわゆる「住めば都」というのとはチョット違ったニュアンスを感じたので
なんとなく印象に残ったんだと思います。
必ずしも環境に対して嫌なところが見えてこないということはないでしょうし、
好きな環境に順位がつくことが悪いことではないとも思います。
その人にとって重要なことがあって、それと環境がどの程度関連するかの問題です。
例えば、セミナーに積極的に参加して勉強したい人にとっては
東京や大阪などはメリットの多い土地でしょう。
でも、満員電車が嫌だということもあるかもしれません。
それで、その人が満員電車のない場所を選ぶのであれば、
セミナーへの参加よりも、満員電車を避けるほうに優先順位があるということです。
簡単な例で説明してしまいましたが、
言葉になっていても、いなくても、行動を決めるからには
何らかのことを大切にしようという意図があるわけです。
アメリカでも日本でも、どの街に住んでも快適だったと言えるのは、
自分自身の行動が街に作用されないところに高い重要度を置いていたから
という風に考えることもできるでしょう。
もしかすると、それだけハリウッド進出という夢が大切だったのかもしれません。
それに対する重要度が非常に高かったために、細かい環境要因は気にならなかった。
そんな考え方もできると思います。
そして、その人が語っていたように、良いところに目を向けるというのも大切でしょう。
嫌なところはあるものです。
嫌なところは住むところを変えれば別に出てくるものです。
100%満足できることはないはずです。
不満にばかり目を向けていれば、どの環境に身を置いても
決して満足することはないでしょう。
良いところに目を向けるというのも、全てを同じように素晴らしいと
受け止めるということでもないと思います。
良いところにも違いがあって、そこにも自分なりの重要さの順位があるはずです。
自分にとって大切なことが沢山ある環境が、望ましい環境に感じられるわけです。
良いところも、嫌なところも、表現の仕方の問題でしかないはずですが、
不思議と、嫌なところに目を向けると優先順位が分かりにくくなるような気がします。
嫌なものは嫌。
見たくもない。
離しておきたい。
そんな印象が伴うせいでしょうか。
嫌なことだって自分が優先したい何かがあるには変わりません。
「うるさいのが嫌」というのは「静かなところがいい」ということですから。
本当は、良いところに目を向けるのも、嫌なところに目を向けるのも
大した違いではないわけです。
ただ、人はなぜか嫌なことを常に意識するのが難しいようです。
嫌なことは、嫌な体験をしたときにやっと意識できる。
本当は重要なことなのに、常日頃は意識できていないことが多いようです。
そうしたことを踏まえながら、自分が大切にしたいことを思い巡らせてみる。
求めていることも、避けていることも、大切にしたいという点で同じです。
そんな大切なことの順位が自分の中にある。
ここで難しくなるのが、順位が一番のものさえ大切にできれば良い、
というようにシンプルにはことが進まないという部分です。
本当は大切にしたい順位の1位と2位が満たされているのに、
3位が満たされていないから不満に感じる。
そんなことがあるわけです。
1位と2位が満たされていることに無自覚のまま、
3位の部分を満たそうとして別の選択に移る。
そうすると、1位と2位のことが大切にできなくて嫌になってしまう。
場合によっては1位から5位まで満たされているのに、
6位が満たされないことを不満に感じるケースだってあるでしょう。
細かく見ていけば、自分の中には優先順位があるんです。
にも関わらず、人は満たされていることに気づかずに
満たされていないところに目を向けて嫌な気持ちになることが多い。
だから、良いところを見るようにしましょう、と言われるわけです。
「英語でしゃべらナイト」に出演していた人も
それぞれの街に不満が無かったわけではなかったでしょう。
でも良いところを見ていた。
いや、もしかすると色々と場所を変えた中で、
後から振り返ったときに色々な良いところと嫌なところが見えてきたのかもしれません。
そして、どこの街も良かったと思えたのかもしれません。
1位と2位と4位が満たされて、3位と5位が満たされなかった街。
1位と4位と5位が満たされて、2位と3位が満たされなかった街。
1位と3位、4位、5位が満たされて、2位が満たされなかった街。
どれにも全体として優劣はつけがたい。
だから、どの街も良いところがあって好きだった、と言えるようにも思えます。
大切なのは、「自分にとって」ということです。
自分にとっての「好み」の順位なんです。
良いか悪いかではないんです。
好きか嫌いかなんです。
自分が好きなところ、大切にしたいところの何番と何番が満たされているか。
大切にしたい重要度が高いものが多く満たされる対象が
自分にとって望ましいものと言えるでしょう。
そして、その中にも満たされない部分は必ず含まれる。
本当に優先したいところに目を向けることが大事だと思うんです。
自分にとって嫌いなところ、つまり自分が大切にしたいのに大切にできないところも、
別の人からすると大切な要素になってくるかもしれません。
静かなところが好きな人も、賑やかなところが好きな人もいるわけです。
場所に限ったことではないでしょう。
食べ物だろうが、仕事だろうが、同じように重要度によって好みを判断しているはずです。
人もそうです。
人の全ての特徴は、良くも悪くもありません。
誰かにとって「好き」と捉えられるか、「嫌い」と捉えられるか、です。
自分が大切にしたい要素を数多く満たしている人が
自分にとって望ましい人物ということです。
良い人も悪い人もいません。
何より、自分が出会う人の多くは、大切にしたいところが共通しているものです。
大切にしたいことが同じだから、似たような行動をして似たような場所に来るんです。
関わりがある時点で、大切にしたい要素は比較的近いものを持っていると考えられます。
その意味では、どうしようもないほど嫌いな人とは出会わないとも言えます。
自分が大切にしたいことを、同じように数多く大切にしているのに、
自分が大事なことの上位の何かを大切にしていない人には出会います。
そういう人が苦手になるんです。
ほんの少しの要素なんです。
ほんの少しの要素が、自分にとって重要度が高いんです。
だから残念な気持ちになるんです。
全体を見たら、かなり好きな人の部類でしょう。
でも、自分が大切にしたいところを大切にしていない。
そういう部分が数か所ある。
ただ単に、そういう人物なんです。
自分と違う人なんです。
自分にとっては好きじゃない部分が、好きだと感じる人だって他にはいるかもしれません。
全ては、人の個性だということです。
自分のハリウッド進出を夢に掲げて海外生活を始めた人が、インタビューされていました。
― 初めての海外生活、慣れない土地で大変ではなかったですか?
そんな質問だったと思います。
その人はこんなようなことを答えていました。
― 色々な街に行きましたが、どこの街にも良いところがある。
日本もアメリカも、それぞれの街に良いところと嫌なところがあって、
嫌なところに目を向ければ、どこも嫌いになってしまう。
でも、それぞれの街の良いところに目を向けると、
どの街も違った良いところがあって、どれも好きだった。
いわゆる「住めば都」というのとはチョット違ったニュアンスを感じたので
なんとなく印象に残ったんだと思います。
必ずしも環境に対して嫌なところが見えてこないということはないでしょうし、
好きな環境に順位がつくことが悪いことではないとも思います。
その人にとって重要なことがあって、それと環境がどの程度関連するかの問題です。
例えば、セミナーに積極的に参加して勉強したい人にとっては
東京や大阪などはメリットの多い土地でしょう。
でも、満員電車が嫌だということもあるかもしれません。
それで、その人が満員電車のない場所を選ぶのであれば、
セミナーへの参加よりも、満員電車を避けるほうに優先順位があるということです。
簡単な例で説明してしまいましたが、
言葉になっていても、いなくても、行動を決めるからには
何らかのことを大切にしようという意図があるわけです。
アメリカでも日本でも、どの街に住んでも快適だったと言えるのは、
自分自身の行動が街に作用されないところに高い重要度を置いていたから
という風に考えることもできるでしょう。
もしかすると、それだけハリウッド進出という夢が大切だったのかもしれません。
それに対する重要度が非常に高かったために、細かい環境要因は気にならなかった。
そんな考え方もできると思います。
そして、その人が語っていたように、良いところに目を向けるというのも大切でしょう。
嫌なところはあるものです。
嫌なところは住むところを変えれば別に出てくるものです。
100%満足できることはないはずです。
不満にばかり目を向けていれば、どの環境に身を置いても
決して満足することはないでしょう。
良いところに目を向けるというのも、全てを同じように素晴らしいと
受け止めるということでもないと思います。
良いところにも違いがあって、そこにも自分なりの重要さの順位があるはずです。
自分にとって大切なことが沢山ある環境が、望ましい環境に感じられるわけです。
良いところも、嫌なところも、表現の仕方の問題でしかないはずですが、
不思議と、嫌なところに目を向けると優先順位が分かりにくくなるような気がします。
嫌なものは嫌。
見たくもない。
離しておきたい。
そんな印象が伴うせいでしょうか。
嫌なことだって自分が優先したい何かがあるには変わりません。
「うるさいのが嫌」というのは「静かなところがいい」ということですから。
本当は、良いところに目を向けるのも、嫌なところに目を向けるのも
大した違いではないわけです。
ただ、人はなぜか嫌なことを常に意識するのが難しいようです。
嫌なことは、嫌な体験をしたときにやっと意識できる。
本当は重要なことなのに、常日頃は意識できていないことが多いようです。
そうしたことを踏まえながら、自分が大切にしたいことを思い巡らせてみる。
求めていることも、避けていることも、大切にしたいという点で同じです。
そんな大切なことの順位が自分の中にある。
ここで難しくなるのが、順位が一番のものさえ大切にできれば良い、
というようにシンプルにはことが進まないという部分です。
本当は大切にしたい順位の1位と2位が満たされているのに、
3位が満たされていないから不満に感じる。
そんなことがあるわけです。
1位と2位が満たされていることに無自覚のまま、
3位の部分を満たそうとして別の選択に移る。
そうすると、1位と2位のことが大切にできなくて嫌になってしまう。
場合によっては1位から5位まで満たされているのに、
6位が満たされないことを不満に感じるケースだってあるでしょう。
細かく見ていけば、自分の中には優先順位があるんです。
にも関わらず、人は満たされていることに気づかずに
満たされていないところに目を向けて嫌な気持ちになることが多い。
だから、良いところを見るようにしましょう、と言われるわけです。
「英語でしゃべらナイト」に出演していた人も
それぞれの街に不満が無かったわけではなかったでしょう。
でも良いところを見ていた。
いや、もしかすると色々と場所を変えた中で、
後から振り返ったときに色々な良いところと嫌なところが見えてきたのかもしれません。
そして、どこの街も良かったと思えたのかもしれません。
1位と2位と4位が満たされて、3位と5位が満たされなかった街。
1位と4位と5位が満たされて、2位と3位が満たされなかった街。
1位と3位、4位、5位が満たされて、2位が満たされなかった街。
どれにも全体として優劣はつけがたい。
だから、どの街も良いところがあって好きだった、と言えるようにも思えます。
大切なのは、「自分にとって」ということです。
自分にとっての「好み」の順位なんです。
良いか悪いかではないんです。
好きか嫌いかなんです。
自分が好きなところ、大切にしたいところの何番と何番が満たされているか。
大切にしたい重要度が高いものが多く満たされる対象が
自分にとって望ましいものと言えるでしょう。
そして、その中にも満たされない部分は必ず含まれる。
本当に優先したいところに目を向けることが大事だと思うんです。
自分にとって嫌いなところ、つまり自分が大切にしたいのに大切にできないところも、
別の人からすると大切な要素になってくるかもしれません。
静かなところが好きな人も、賑やかなところが好きな人もいるわけです。
場所に限ったことではないでしょう。
食べ物だろうが、仕事だろうが、同じように重要度によって好みを判断しているはずです。
人もそうです。
人の全ての特徴は、良くも悪くもありません。
誰かにとって「好き」と捉えられるか、「嫌い」と捉えられるか、です。
自分が大切にしたい要素を数多く満たしている人が
自分にとって望ましい人物ということです。
良い人も悪い人もいません。
何より、自分が出会う人の多くは、大切にしたいところが共通しているものです。
大切にしたいことが同じだから、似たような行動をして似たような場所に来るんです。
関わりがある時点で、大切にしたい要素は比較的近いものを持っていると考えられます。
その意味では、どうしようもないほど嫌いな人とは出会わないとも言えます。
自分が大切にしたいことを、同じように数多く大切にしているのに、
自分が大事なことの上位の何かを大切にしていない人には出会います。
そういう人が苦手になるんです。
ほんの少しの要素なんです。
ほんの少しの要素が、自分にとって重要度が高いんです。
だから残念な気持ちになるんです。
全体を見たら、かなり好きな人の部類でしょう。
でも、自分が大切にしたいところを大切にしていない。
そういう部分が数か所ある。
ただ単に、そういう人物なんです。
自分と違う人なんです。
自分にとっては好きじゃない部分が、好きだと感じる人だって他にはいるかもしれません。
全ては、人の個性だということです。
2009年03月24日
言葉と声のコミュニケーション
日本人と欧米人ではコミュニケーションの傾向に違いがあると思います。
そこには文化的な違いがあるのも当然ですが、
言語としての特徴もコミュニケーションに影響していると思うんです。
それは文字で書かれた英語の文章を通じてなされるコミュニケーションとは違って
実際に声によって発話される言語としての特徴です。
英語の発音は、日本語よりも体で響かせる度合いが高いと感じます。
基本周波数が低い発声。
声が低いわけです。
バイリンガルの人を見ていると典型的ですが、
日本語を話すときと英語を話すときでは雰囲気が違います。
そこには言語ごとに作り上げられた「自分」という概念体系が違う意味もありますが、
もっと単純に声の高さが全然違うんです。
一般に日本人は欧米人からすると幼く見られますが、
それは体の大きさや表情だけではなく、声の高さや響きにも理由がある気がします。
欧米人も子供のころは声が高く、声が響く位置も高いようですが、
ある時期から欧米人の発声は低くなっていくのでしょう。
高校生ぐらいになれば、通常、大人の話し方と同じに聞こえます。
日本人の場合、もっと段階的な変化をしていきます。
年齢が進むにつれて声のトーンが落ち着いていく印象があります。
声のトーンの落ち着きや、声の響き方の安定感は
自分自身に対する客観性と関係があると僕は考えています。
自分の声を聞きながら話せる人は客観性が高いわけです。
英語は声のトーンやアクセント、リズムなど、
文字情報以外の部分でニュアンスを伝えることが多いようです。
日本語でも、声の表現で印象が感じるケースはありますが、
それを一般的に使うことは少ないでしょう。
例えば「ありがとう」と発言するときに、言い方で印象は随分と変わってきます。
それでも、心がこもっていないとか、本当は迷惑そうだとか、
そういった程度の使われ方がされるぐらいだと思います。
声を怒った感じにして「ありがとう」と言えば、
本当は不満だということも伝わりますが、ごく普通のコミュニケーションとして
相手に不満を伝える場合に「ありがとう」を怒りながら言うことはしないでしょう。
ところが、英語で「Thank you!!」と怒った感じで言えば、
それは皮肉の意味合いとして怒りを示す会話になるわけです。
こうした皮肉っぽい言い回しで、文字とは逆の意味を伝えることが結構あるようです。
ということを考えると、英語をネイティブで話す人は
自分の発声に対して意識を向けていないとコントロールができません。
自分の声を聞く習慣が身に付きやすいと考えられます。
そして声を低くしながら、体全体で声を響かせるように発生します。
日本で良く耳にする声で言えば、J-waveなどのFMラジオのパーソナリティのような
話し方を想像してもらえば良いかもしれません。
喉が開いていて、首の姿勢も安定している。
それによって声を自分の体に向けて出していけるわけです。
こうした発声をしていると日本人でも、気持ちが体のほうへ向きやすくなります。
自分の体の内側に対する意識が高まりやすいはずです。
その上、欧米は文化的に感情表現を豊かにします。
そうしないと文字情報の側面だけでは、コミュニケーションの表現が
不十分だったのかもしれません。
自分の感情を素直に表現することを続けている。
ここが日本人と特に違うところでしょう。
日本人は子供のうちこそワガママに自分の感情を表現しますが、
徐々に意識で感情をコントロールすることを覚えていきます。
欧米のように感情を素直に表現するというのは、
自分の身体反応に敏感だということです。
ジェスチャーの大きさも身体反応との結びつきやすさに関連するでしょうし、
姿勢や態度も、日本的な礼儀とは無関係に自分の快適さが優先されるところも
身体反応を感じやすくさせていると考えられます。
感情のように自分の内側に起きていることを実感するのが上手く、
同時に、自分の声を客観的に聞くように自分を外から見る目もある。
自分を内から、外から、良く知覚しているようです。
であれば、NLPやイメージトレーニングなども上手く機能するでしょう。
もともと自分の無意識のメッセージを捉えているんです。
ただ、そのメッセージに気づいていないだけ。
あとは、様々な手法で無意識のメッセージを意識化すれば良いわけです。
無意識との交流は上手いんじゃないでしょうか。
欧米で生まれた技法は、英語圏の人に合っているような気がします。
日本人にも同じ仕組みは適用できるはずですが、
上手く出来るかどうかという意味では違うかもしれません。
言葉や文化の違いが人にもたらす影響も調べてみたいものです。
そこには文化的な違いがあるのも当然ですが、
言語としての特徴もコミュニケーションに影響していると思うんです。
それは文字で書かれた英語の文章を通じてなされるコミュニケーションとは違って
実際に声によって発話される言語としての特徴です。
英語の発音は、日本語よりも体で響かせる度合いが高いと感じます。
基本周波数が低い発声。
声が低いわけです。
バイリンガルの人を見ていると典型的ですが、
日本語を話すときと英語を話すときでは雰囲気が違います。
そこには言語ごとに作り上げられた「自分」という概念体系が違う意味もありますが、
もっと単純に声の高さが全然違うんです。
一般に日本人は欧米人からすると幼く見られますが、
それは体の大きさや表情だけではなく、声の高さや響きにも理由がある気がします。
欧米人も子供のころは声が高く、声が響く位置も高いようですが、
ある時期から欧米人の発声は低くなっていくのでしょう。
高校生ぐらいになれば、通常、大人の話し方と同じに聞こえます。
日本人の場合、もっと段階的な変化をしていきます。
年齢が進むにつれて声のトーンが落ち着いていく印象があります。
声のトーンの落ち着きや、声の響き方の安定感は
自分自身に対する客観性と関係があると僕は考えています。
自分の声を聞きながら話せる人は客観性が高いわけです。
英語は声のトーンやアクセント、リズムなど、
文字情報以外の部分でニュアンスを伝えることが多いようです。
日本語でも、声の表現で印象が感じるケースはありますが、
それを一般的に使うことは少ないでしょう。
例えば「ありがとう」と発言するときに、言い方で印象は随分と変わってきます。
それでも、心がこもっていないとか、本当は迷惑そうだとか、
そういった程度の使われ方がされるぐらいだと思います。
声を怒った感じにして「ありがとう」と言えば、
本当は不満だということも伝わりますが、ごく普通のコミュニケーションとして
相手に不満を伝える場合に「ありがとう」を怒りながら言うことはしないでしょう。
ところが、英語で「Thank you!!」と怒った感じで言えば、
それは皮肉の意味合いとして怒りを示す会話になるわけです。
こうした皮肉っぽい言い回しで、文字とは逆の意味を伝えることが結構あるようです。
ということを考えると、英語をネイティブで話す人は
自分の発声に対して意識を向けていないとコントロールができません。
自分の声を聞く習慣が身に付きやすいと考えられます。
そして声を低くしながら、体全体で声を響かせるように発生します。
日本で良く耳にする声で言えば、J-waveなどのFMラジオのパーソナリティのような
話し方を想像してもらえば良いかもしれません。
喉が開いていて、首の姿勢も安定している。
それによって声を自分の体に向けて出していけるわけです。
こうした発声をしていると日本人でも、気持ちが体のほうへ向きやすくなります。
自分の体の内側に対する意識が高まりやすいはずです。
その上、欧米は文化的に感情表現を豊かにします。
そうしないと文字情報の側面だけでは、コミュニケーションの表現が
不十分だったのかもしれません。
自分の感情を素直に表現することを続けている。
ここが日本人と特に違うところでしょう。
日本人は子供のうちこそワガママに自分の感情を表現しますが、
徐々に意識で感情をコントロールすることを覚えていきます。
欧米のように感情を素直に表現するというのは、
自分の身体反応に敏感だということです。
ジェスチャーの大きさも身体反応との結びつきやすさに関連するでしょうし、
姿勢や態度も、日本的な礼儀とは無関係に自分の快適さが優先されるところも
身体反応を感じやすくさせていると考えられます。
感情のように自分の内側に起きていることを実感するのが上手く、
同時に、自分の声を客観的に聞くように自分を外から見る目もある。
自分を内から、外から、良く知覚しているようです。
であれば、NLPやイメージトレーニングなども上手く機能するでしょう。
もともと自分の無意識のメッセージを捉えているんです。
ただ、そのメッセージに気づいていないだけ。
あとは、様々な手法で無意識のメッセージを意識化すれば良いわけです。
無意識との交流は上手いんじゃないでしょうか。
欧米で生まれた技法は、英語圏の人に合っているような気がします。
日本人にも同じ仕組みは適用できるはずですが、
上手く出来るかどうかという意味では違うかもしれません。
言葉や文化の違いが人にもたらす影響も調べてみたいものです。
2009年03月22日
好みの質問
コミュニケーション関連のセミナーをやっていると
質問の仕方の癖から、その人のやってきたことが見え隠れするときがあります。
研修講師、営業、面接官、コーチ…。
職業的な癖もあれば、トレーニングで身につけた方法もあるのでしょう。
最近のテレビなどで良くなされる質問に
「あなたにとって〜とは何ですか?」
というようなものがありますが、これなども日常的な質問ではありません。
相手に深く考えさせたり、相手の心情をシフトさせたり、
思ってもみなかったような部分にフォーカスを当てさせたり、
質問によって今までに気づかなかった部分を気づかせようとするものもあります。
確かに、人は日常生活の中で自分にとって当たり前のことしかしていません。
自分と向き合って、自分の当たり前を吟味する機会は少ないものです。
その意味では、深く考え込むような質問も意味のあるものだと思います。
世間一般で「質問力」を磨くといった時には、
意外とこの「考えさせる」方向性の質問が取り上げられる気がします。
普段では気づけなかったことを気づかせてくれる。
無意識だったところを意識できるようになれる。
それに対して「おかげで深く考えることができました」と感じるケースもあるでしょう。
ただし、気をつけないといけないのは、
そうした質問が相手に対してプレッシャーをかけるものだということです。
全ての質問は、質問内容そのもの以外のメッセージとして、相手に
「答えて下さい」という命令のメッセージも一緒に伝えているんです。
質問は相手に負担をかける行為なんです。
なので、深く考えさせる質問というのは
特に相手を苦しめることになっているわけです。
場合によっては、思いつきで答えを出せることもあるでしょうが、
深く考えた答えが自分にとって納得がいきにくい時には
むしろ答えを出せないままに疑問の印象だけが残り続けてしまいます。
これは不快なものです。
答えてみたけど実はシックリきていないこともあれば
答えられずに「分かりません」と言わなくてはいけないこともあります。
それが嫌な人もいるはずです。
ですから、相手に考えさせる質問をするには、
前提となる状況と、お互いの関係性が求められます。
コンサルティングや面接の場面と、日常会話では状況が違うんです。
また、コンサルと採用などの面接にも違いがあります。
コンサルティングの質問は相手のための質問なんです。
相手の視野を広げ、自分と深く向き合って、必要な情報を探しに行く。
それはクライアントが期待する方向とあっているべきものです。
自分が知りたいことと関連しながら深く考えたり、感じてみたりするから
クライアント自身にとって役に立つわけです。
一方、採用などの面接は相手を知るために質問をします。
考えさせる質問や、深く本人の内面と関わっている内容を聞くことで
相手を理解しようという試みです。
ある意味では非常に失礼な行為だとも思います。
値踏みをしているわけですから。
相手はどの程度のものを持っているかを質問を通じて探ろうとする。
今までに考えたことのないような内容であれば、それによって考え方の癖を見られます。
今までにも考えたことがあれば、どれだけ準備ができているかが分かるのでしょう。
日常では聞かれないような質問を投げかけることで、
相手がどういう人物かを知ろうとするということです。
コンサルティングの質問は相手のための質問ですが、
採用などの面接でなされる質問は自分のための質問と言えます。
質問が、相手のためなのか、自分のためなのかを意識するのは大切なことだと思います。
自分のための質問は、特に自覚をもって慎重に行うほうがいいと思うんです。
相手にとっては答えなくても差し障りがないことを
無理矢理に聞き出しているわけですから。
場合によっては、考えることで悪影響が出る場合だってあるかもしれません。
相手が深く考える質問や、意識の方向性がシフトする質問、
気づきが得られる質問というのは、それまでには相手自身に無かった視点です。
そこに聞き手が質問によって、相手に新たな視点を導入しているんです。
「勝手に相手の中に別の視点を加える作業」だと考えてもいいはずです。
許可をとることが出来ないままに質問するわけです。
「質問してもいいですか?」なんて聞いたところで変わりません。
何を質問するかが分からないで許可をとるほうが相手を束縛しています。
「質問してもいいですか?」「ダメです」という関わりには
既に相手の質問を受け入れてしまっているというダブルバインドがあります。
質問を実際に聞いたときに、それに対しての視点が生まれます。
通常、それを拒否するのは難しいものです。
だからこそ、質問をするときには相手への影響を考える必要があるということです。
その内容が、相手に深く考えさせるようなものなら尚更でしょう。
ちなみに、カウンセリングの勉強をした人は
相手の気持ちを質問する傾向があるような気がします。
「それで、どう思ったんですか?」
「そのとき、どんな気持ちだったんですか?」
「そういうことに対して、何を感じますか?」
NLPでも体感覚の質問によって、相手の状態を理解しようとする質問がありますが、
こうした質問も使いどころが重要だと思います。
僕は基本的に、相手の気持ちを聞く質問はしません。
それが野暮だと思っているからです。
「私は怒っています」と言いながら怒る人は滅多にいないものです。
気持ちや感情は、相手に言語化させることなく感じ取りたい。
「言わなくても気持ちを分かってくれる」というのが
日本人の心の機微というものじゃないでしょうか。
人には言葉にしたくないことだって沢山あるんです。
それを何でもかんでも質問でほじくり返すような方法は
僕の好みには合いません。
あくまで好みの問題ですが。
質問の仕方の癖から、その人のやってきたことが見え隠れするときがあります。
研修講師、営業、面接官、コーチ…。
職業的な癖もあれば、トレーニングで身につけた方法もあるのでしょう。
最近のテレビなどで良くなされる質問に
「あなたにとって〜とは何ですか?」
というようなものがありますが、これなども日常的な質問ではありません。
相手に深く考えさせたり、相手の心情をシフトさせたり、
思ってもみなかったような部分にフォーカスを当てさせたり、
質問によって今までに気づかなかった部分を気づかせようとするものもあります。
確かに、人は日常生活の中で自分にとって当たり前のことしかしていません。
自分と向き合って、自分の当たり前を吟味する機会は少ないものです。
その意味では、深く考え込むような質問も意味のあるものだと思います。
世間一般で「質問力」を磨くといった時には、
意外とこの「考えさせる」方向性の質問が取り上げられる気がします。
普段では気づけなかったことを気づかせてくれる。
無意識だったところを意識できるようになれる。
それに対して「おかげで深く考えることができました」と感じるケースもあるでしょう。
ただし、気をつけないといけないのは、
そうした質問が相手に対してプレッシャーをかけるものだということです。
全ての質問は、質問内容そのもの以外のメッセージとして、相手に
「答えて下さい」という命令のメッセージも一緒に伝えているんです。
質問は相手に負担をかける行為なんです。
なので、深く考えさせる質問というのは
特に相手を苦しめることになっているわけです。
場合によっては、思いつきで答えを出せることもあるでしょうが、
深く考えた答えが自分にとって納得がいきにくい時には
むしろ答えを出せないままに疑問の印象だけが残り続けてしまいます。
これは不快なものです。
答えてみたけど実はシックリきていないこともあれば
答えられずに「分かりません」と言わなくてはいけないこともあります。
それが嫌な人もいるはずです。
ですから、相手に考えさせる質問をするには、
前提となる状況と、お互いの関係性が求められます。
コンサルティングや面接の場面と、日常会話では状況が違うんです。
また、コンサルと採用などの面接にも違いがあります。
コンサルティングの質問は相手のための質問なんです。
相手の視野を広げ、自分と深く向き合って、必要な情報を探しに行く。
それはクライアントが期待する方向とあっているべきものです。
自分が知りたいことと関連しながら深く考えたり、感じてみたりするから
クライアント自身にとって役に立つわけです。
一方、採用などの面接は相手を知るために質問をします。
考えさせる質問や、深く本人の内面と関わっている内容を聞くことで
相手を理解しようという試みです。
ある意味では非常に失礼な行為だとも思います。
値踏みをしているわけですから。
相手はどの程度のものを持っているかを質問を通じて探ろうとする。
今までに考えたことのないような内容であれば、それによって考え方の癖を見られます。
今までにも考えたことがあれば、どれだけ準備ができているかが分かるのでしょう。
日常では聞かれないような質問を投げかけることで、
相手がどういう人物かを知ろうとするということです。
コンサルティングの質問は相手のための質問ですが、
採用などの面接でなされる質問は自分のための質問と言えます。
質問が、相手のためなのか、自分のためなのかを意識するのは大切なことだと思います。
自分のための質問は、特に自覚をもって慎重に行うほうがいいと思うんです。
相手にとっては答えなくても差し障りがないことを
無理矢理に聞き出しているわけですから。
場合によっては、考えることで悪影響が出る場合だってあるかもしれません。
相手が深く考える質問や、意識の方向性がシフトする質問、
気づきが得られる質問というのは、それまでには相手自身に無かった視点です。
そこに聞き手が質問によって、相手に新たな視点を導入しているんです。
「勝手に相手の中に別の視点を加える作業」だと考えてもいいはずです。
許可をとることが出来ないままに質問するわけです。
「質問してもいいですか?」なんて聞いたところで変わりません。
何を質問するかが分からないで許可をとるほうが相手を束縛しています。
「質問してもいいですか?」「ダメです」という関わりには
既に相手の質問を受け入れてしまっているというダブルバインドがあります。
質問を実際に聞いたときに、それに対しての視点が生まれます。
通常、それを拒否するのは難しいものです。
だからこそ、質問をするときには相手への影響を考える必要があるということです。
その内容が、相手に深く考えさせるようなものなら尚更でしょう。
ちなみに、カウンセリングの勉強をした人は
相手の気持ちを質問する傾向があるような気がします。
「それで、どう思ったんですか?」
「そのとき、どんな気持ちだったんですか?」
「そういうことに対して、何を感じますか?」
NLPでも体感覚の質問によって、相手の状態を理解しようとする質問がありますが、
こうした質問も使いどころが重要だと思います。
僕は基本的に、相手の気持ちを聞く質問はしません。
それが野暮だと思っているからです。
「私は怒っています」と言いながら怒る人は滅多にいないものです。
気持ちや感情は、相手に言語化させることなく感じ取りたい。
「言わなくても気持ちを分かってくれる」というのが
日本人の心の機微というものじゃないでしょうか。
人には言葉にしたくないことだって沢山あるんです。
それを何でもかんでも質問でほじくり返すような方法は
僕の好みには合いません。
あくまで好みの問題ですが。
2009年03月21日
人の特徴
今回の勉強会は、皆さんで話し合って理解を深めようという取り組みだったので
セミナーというよりも、まさに「勉強会」という表現が適切だったように思います。
初めて意識する着眼点だったりすると、整理するのには時間がかかるものですが
一度でも意識に上げておくと、何かの機会で気にすることができるメリットもあります。
特に、コミュニケーションという意味合いにおいては
自分と相手の違いを知っておくというのが大切なことだと思いますから、
「相手は自分と別の人間だ」と自覚するための情報や役立つはずです。
個人的に、僕の中には人は全員違うというスタンスが固まってきているようで、
他人に対して勝手な予測を立てて期待することは減ってきた気がします。
どのような気持ちが沸いてきたとしても、自分の気持ちに対して
自分で責任を取ろうとしているつもりです。
自分の気持ちに対して無理に制約をかけることも、
他人を自分の基準に当てはめて判断することも、
どちらも自分の気持ちを正面から受け止めようとする行為ではないと思います。
例えば、僕は喫茶店でコーヒーを飲みながら本を読むことがありますが、
そのときに隣の席の話し声が大きいと気が散って本に集中できなくなります。
「うるさいな」と思います。
この気持ちが沸き上がるのは事実です。
それを意識しないように隠すこともできます。
「この人たちだって楽しく時間を過ごしたいんだ」
「もしかしたら、久しく会って話せていない相手なのかもしれない」
「あるいは、日頃のストレスを解消するための大事な時間という可能性もある」
…そんな風に想像力を働かせれば、不満の気持ちは静まっていくものです。
それも1つの対応です。
ですが、僕は自分に不満の気持ちがあることにも気づいています。
直接「うるさいですよ」と伝える選択肢もあります。
どんな言い方で伝えるかも工夫ができるところです。
ただ、僕が不満なのは、自分が本を読もうとしているのに邪魔だという理由からです。
間違っても「公共の場では静かにするものだ」という第三者的なルールから
隣の席の話し声に不満が沸いているのではありません。
他人の気持ちを考えないで自分勝手に大声で話していることへの不満でもありません。
「周りへの影響を考えるべきだ」という思いから不満が出ているのではないんです。
「自分は静かにしているし、自分のしたいことをしたい。
あなた方にも、したいことがあるのかもしれないけれど
こっちも我慢しているのだから、あなた方も我慢しなさい」
というような平等意識から来る不満でもありません。
僕が不満を感じるのは、
「この場で本を集中して読みたい。本を読むつもりでやってきた。
なのに、それを邪魔された。目的が果たせない。だから不満だ。」
ということなんです。
極めてワガママで自分勝手な不満なんです。
相手の立場とか、社会のルールなんて考えていません。
単なるワガママで沸き起こってくる不満。
それを誤魔化したり、別の形に変えたりして感情を変えるのは
自分自身に対して正直に気づけていないように思うということです。
自分には、そういうワガママなところがある。
そのことを自覚していることも大切な気がします。
そして、さらに大切なのは、そのワガママも24時間ではないということです。
自分の中にワガママが沸いてくるのは、特定の状況に限られているんです。
ワガママになる状況は、自分にとって大切なときなんです。
ただ、それだけ大切なんだったら、もっと大切にする方法も考えられるわけです。
周りの人の話し声で本が読めないのが嫌だったら、
静かな図書館に行く方法もあるわけです。
ノイズキャンセリング・ヘッドホンをつける方法もあるわけです。
ただ、僕にとってはコーヒーの匂いも大事ですし、
図書館の雰囲気や特有の匂いが好きでなかったりもしますし、
ヘッドホンを長時間つけるときの耳の痛みが嫌だったりもする、
という具体に色々な好みがあるんです。
そうしたことを考えると、僕が本を読むのに最も快適なのが
喫茶店で特定の話し声が聞こえてこないぐらいのザワザワした環境となります。
ただ、その環境は残念ながら自分の意志だけでは作り出せない部分があります。
運が悪いと隣の人が大きな声で話し始めてしまいます。
ベストな環境が自分で作り出せるものではない、という事実を知っています。
だから自分の対応を選択できるんじゃないかと思うんです。
ベストな環境が得られなかったときに何をするかを選べるわけです。
まぁ、多くの場合、僕は別の環境に移動することを選択するんですが。
それでも、移動するという選択は意識的になされたものだという自覚があります。
様々な選択肢の中から自分で最善策を選びだしたという思いがあります。
ですから、不満を我慢をして場所を変えるのでもなく、
自分の気持ちを隠して、合理的に考えて納得しようとしているのでもないんです。
自分にとって責任の取れる範囲を自覚して選択しようとしているんです。
自分を知っておくこと。
相手の中の、どうにもならない特徴を知っておくこと。
それによって自分ができることに気づけるようになると思います。
特徴を知っておくというのは、そういう意味もあると考えています。
セミナーというよりも、まさに「勉強会」という表現が適切だったように思います。
初めて意識する着眼点だったりすると、整理するのには時間がかかるものですが
一度でも意識に上げておくと、何かの機会で気にすることができるメリットもあります。
特に、コミュニケーションという意味合いにおいては
自分と相手の違いを知っておくというのが大切なことだと思いますから、
「相手は自分と別の人間だ」と自覚するための情報や役立つはずです。
個人的に、僕の中には人は全員違うというスタンスが固まってきているようで、
他人に対して勝手な予測を立てて期待することは減ってきた気がします。
どのような気持ちが沸いてきたとしても、自分の気持ちに対して
自分で責任を取ろうとしているつもりです。
自分の気持ちに対して無理に制約をかけることも、
他人を自分の基準に当てはめて判断することも、
どちらも自分の気持ちを正面から受け止めようとする行為ではないと思います。
例えば、僕は喫茶店でコーヒーを飲みながら本を読むことがありますが、
そのときに隣の席の話し声が大きいと気が散って本に集中できなくなります。
「うるさいな」と思います。
この気持ちが沸き上がるのは事実です。
それを意識しないように隠すこともできます。
「この人たちだって楽しく時間を過ごしたいんだ」
「もしかしたら、久しく会って話せていない相手なのかもしれない」
「あるいは、日頃のストレスを解消するための大事な時間という可能性もある」
…そんな風に想像力を働かせれば、不満の気持ちは静まっていくものです。
それも1つの対応です。
ですが、僕は自分に不満の気持ちがあることにも気づいています。
直接「うるさいですよ」と伝える選択肢もあります。
どんな言い方で伝えるかも工夫ができるところです。
ただ、僕が不満なのは、自分が本を読もうとしているのに邪魔だという理由からです。
間違っても「公共の場では静かにするものだ」という第三者的なルールから
隣の席の話し声に不満が沸いているのではありません。
他人の気持ちを考えないで自分勝手に大声で話していることへの不満でもありません。
「周りへの影響を考えるべきだ」という思いから不満が出ているのではないんです。
「自分は静かにしているし、自分のしたいことをしたい。
あなた方にも、したいことがあるのかもしれないけれど
こっちも我慢しているのだから、あなた方も我慢しなさい」
というような平等意識から来る不満でもありません。
僕が不満を感じるのは、
「この場で本を集中して読みたい。本を読むつもりでやってきた。
なのに、それを邪魔された。目的が果たせない。だから不満だ。」
ということなんです。
極めてワガママで自分勝手な不満なんです。
相手の立場とか、社会のルールなんて考えていません。
単なるワガママで沸き起こってくる不満。
それを誤魔化したり、別の形に変えたりして感情を変えるのは
自分自身に対して正直に気づけていないように思うということです。
自分には、そういうワガママなところがある。
そのことを自覚していることも大切な気がします。
そして、さらに大切なのは、そのワガママも24時間ではないということです。
自分の中にワガママが沸いてくるのは、特定の状況に限られているんです。
ワガママになる状況は、自分にとって大切なときなんです。
ただ、それだけ大切なんだったら、もっと大切にする方法も考えられるわけです。
周りの人の話し声で本が読めないのが嫌だったら、
静かな図書館に行く方法もあるわけです。
ノイズキャンセリング・ヘッドホンをつける方法もあるわけです。
ただ、僕にとってはコーヒーの匂いも大事ですし、
図書館の雰囲気や特有の匂いが好きでなかったりもしますし、
ヘッドホンを長時間つけるときの耳の痛みが嫌だったりもする、
という具体に色々な好みがあるんです。
そうしたことを考えると、僕が本を読むのに最も快適なのが
喫茶店で特定の話し声が聞こえてこないぐらいのザワザワした環境となります。
ただ、その環境は残念ながら自分の意志だけでは作り出せない部分があります。
運が悪いと隣の人が大きな声で話し始めてしまいます。
ベストな環境が自分で作り出せるものではない、という事実を知っています。
だから自分の対応を選択できるんじゃないかと思うんです。
ベストな環境が得られなかったときに何をするかを選べるわけです。
まぁ、多くの場合、僕は別の環境に移動することを選択するんですが。
それでも、移動するという選択は意識的になされたものだという自覚があります。
様々な選択肢の中から自分で最善策を選びだしたという思いがあります。
ですから、不満を我慢をして場所を変えるのでもなく、
自分の気持ちを隠して、合理的に考えて納得しようとしているのでもないんです。
自分にとって責任の取れる範囲を自覚して選択しようとしているんです。
自分を知っておくこと。
相手の中の、どうにもならない特徴を知っておくこと。
それによって自分ができることに気づけるようになると思います。
特徴を知っておくというのは、そういう意味もあると考えています。
2009年03月19日
空白の期間
帰りがけに袴の女性を見ました。
卒業式か何かだったんでしょうか。
ちょっと時期が早い気もしますが、そろそろ卒業のシーズンのようです。
僕の場合、印象に残っているのは中学校と大学院。
小学校は特別な気持ちがあったとは記憶していませんし、
中学校が小学校の隣にあったので身近な印象があったのかもしれません。
小学校の同学年の9割ぐらいが隣の中学校に進んだので
友人と離れる気がしなかったのもあるでしょう。
中学校と卒業は、感情に大きな動きがあったのを覚えています。
同級生とは別れていくということ。
高校受験を通して、今までにない進路に変わるということ。
中学校生活に沢山の思い出があったということ。
そうしたことが中学校の卒業に対して想いを強めたように思います。
一方、高校の卒業は、全くと言っていいほど印象が薄いものでした。
大学が付属だったということもあるかもしれませんが、
3年間通った場所を離れる割りには、随分とアッサリしたものだったようです。
僕にとって、高校生活は大学で進む方向を決めるための前段階の位置づけで、
日々の勉強と部活動に追われるように毎日が過ぎていた気がします。
卒業の時期は、大学で何をするかということに気持ちが向いていたはずです。
また、実際に春休みの期間から、大学関連の手続きが多かったので
気持ちは自然と大学のほうへシフトしていたのだろうとも思えます。
大学も3年の後半ぐらいから研究室に配属になりましたから、
推薦はあったものの大学と大学院は続いたようなものでした。
大学の卒業式という形式と、大学院の入学式という形式はありましたが、
それに対して何らかの実感があった覚えはありません。
そうして大学院を修了して、就職。
会社を辞めて独立をした時のことを思い出しても、
退職という一種の卒業をしているにも関わらず
「卒業」という印象はあまり残っていません。
変化の時期が急に来ていたり、次に始まることへの準備があったり、
猶予期間が無いような状態だと、卒業の印象も弱い気がします。
卒業というイベントと、卒業から次のスタートまでの間の空白の時間。
変化の途中のポッカリした期間もまた、卒業を強く印象づけるのでしょう。
僕の場合は、大学院からの卒業が心に残っています。
大学から大学院までの研究室での活動の思い出。
就職までの短い空白の時間。
そして、新たな生活への不安。
それらが入り混じって、卒業の時期を特別なものにしているようです。
大学院の修了式。
式そのものは大雑把なものでした。
その後、研究室に戻ってから個別に終了のイベントを行いました。
修士論文は提出が済んでいます。
具体的なことは覚えていませんが、修士論文発表会みたいのを終えて、
大学院での活動を終えたぐらいの時期に卒業式があったように思います。
卒業式の後、研究室の皆での謝恩会がありました。
そして、この日ばかりは飲み会が徹夜で行われます。
研究室の1部屋を使って、朝まで皆で飲む。
僕は当時からお酒を飲めませんでしたので、皆と思い出話にふけるだけ。
そうやって朝を迎えて、家路につきました。
朝日の中、いつもと逆方向の電車に乗って家に帰る。
電車の窓から見る景色。
いつも見てきた景色を、もう見なくなるのかと思うと
なんとも感慨深いものがありました。
寂しい朝だったのを覚えています。
ちなみに僕は、その卒業式の後も数日間、研究室に通いました。
書きかけの論文があったので、その修正をしていたんです。
卒業をした後、僕の同級生は誰も研究室に来なくなります。
僕だけが一人、研究室に足を運ぶ。
卒業したはずの人が、まだその場にやってくるわけです。
別に未練がましくて、暇つぶしに来ているわけではありません。
それでも、どこか少し周りから浮いてしまっているような感じがありました。
ほんの数日間。
卒業から新しい道までの空白の期間。
そこには、場違いな気分と、何とも言えない寂しさがあるようです。
その気持ちも、卒業というイベントには仕方ないものなのかもしれません。
人は卒業を繰り返して生きていくようですから。
卒業式か何かだったんでしょうか。
ちょっと時期が早い気もしますが、そろそろ卒業のシーズンのようです。
僕の場合、印象に残っているのは中学校と大学院。
小学校は特別な気持ちがあったとは記憶していませんし、
中学校が小学校の隣にあったので身近な印象があったのかもしれません。
小学校の同学年の9割ぐらいが隣の中学校に進んだので
友人と離れる気がしなかったのもあるでしょう。
中学校と卒業は、感情に大きな動きがあったのを覚えています。
同級生とは別れていくということ。
高校受験を通して、今までにない進路に変わるということ。
中学校生活に沢山の思い出があったということ。
そうしたことが中学校の卒業に対して想いを強めたように思います。
一方、高校の卒業は、全くと言っていいほど印象が薄いものでした。
大学が付属だったということもあるかもしれませんが、
3年間通った場所を離れる割りには、随分とアッサリしたものだったようです。
僕にとって、高校生活は大学で進む方向を決めるための前段階の位置づけで、
日々の勉強と部活動に追われるように毎日が過ぎていた気がします。
卒業の時期は、大学で何をするかということに気持ちが向いていたはずです。
また、実際に春休みの期間から、大学関連の手続きが多かったので
気持ちは自然と大学のほうへシフトしていたのだろうとも思えます。
大学も3年の後半ぐらいから研究室に配属になりましたから、
推薦はあったものの大学と大学院は続いたようなものでした。
大学の卒業式という形式と、大学院の入学式という形式はありましたが、
それに対して何らかの実感があった覚えはありません。
そうして大学院を修了して、就職。
会社を辞めて独立をした時のことを思い出しても、
退職という一種の卒業をしているにも関わらず
「卒業」という印象はあまり残っていません。
変化の時期が急に来ていたり、次に始まることへの準備があったり、
猶予期間が無いような状態だと、卒業の印象も弱い気がします。
卒業というイベントと、卒業から次のスタートまでの間の空白の時間。
変化の途中のポッカリした期間もまた、卒業を強く印象づけるのでしょう。
僕の場合は、大学院からの卒業が心に残っています。
大学から大学院までの研究室での活動の思い出。
就職までの短い空白の時間。
そして、新たな生活への不安。
それらが入り混じって、卒業の時期を特別なものにしているようです。
大学院の修了式。
式そのものは大雑把なものでした。
その後、研究室に戻ってから個別に終了のイベントを行いました。
修士論文は提出が済んでいます。
具体的なことは覚えていませんが、修士論文発表会みたいのを終えて、
大学院での活動を終えたぐらいの時期に卒業式があったように思います。
卒業式の後、研究室の皆での謝恩会がありました。
そして、この日ばかりは飲み会が徹夜で行われます。
研究室の1部屋を使って、朝まで皆で飲む。
僕は当時からお酒を飲めませんでしたので、皆と思い出話にふけるだけ。
そうやって朝を迎えて、家路につきました。
朝日の中、いつもと逆方向の電車に乗って家に帰る。
電車の窓から見る景色。
いつも見てきた景色を、もう見なくなるのかと思うと
なんとも感慨深いものがありました。
寂しい朝だったのを覚えています。
ちなみに僕は、その卒業式の後も数日間、研究室に通いました。
書きかけの論文があったので、その修正をしていたんです。
卒業をした後、僕の同級生は誰も研究室に来なくなります。
僕だけが一人、研究室に足を運ぶ。
卒業したはずの人が、まだその場にやってくるわけです。
別に未練がましくて、暇つぶしに来ているわけではありません。
それでも、どこか少し周りから浮いてしまっているような感じがありました。
ほんの数日間。
卒業から新しい道までの空白の期間。
そこには、場違いな気分と、何とも言えない寂しさがあるようです。
その気持ちも、卒業というイベントには仕方ないものなのかもしれません。
人は卒業を繰り返して生きていくようですから。
2009年03月17日
積み木崩し
人の内面は様々な要素が積み上げられて出来ているように感じます。
全体としてバランスを取りながら建てられている立体的なもの。
それに上下方向があるイメージ。
下が上を支えているというニュアンスです。
土台になる下のほうは、人間の表面に表れている部分で、
日頃の言動や振る舞い、身体的特徴や外見的特徴も含みます。
一方、上のほうに乗っかっているのは、自分というものに対する捉え方。
「私は〜である」と言った時に出てくる部分でしょうか。
例えば、下のほうにある表面的な振る舞いとして、常日頃から
お金を無駄遣いしてしまったり、ビジネスチャンスを逃してしまったりする人は、
上のほうに「私は金に縁がない」というものが乗っかっているという感じです。
「お金に縁がない」の下には、沢山のパーツが積み重なっていて
様々な形のパーツが隙間を作りながら微妙なバランスで支え合っている。
ジェンガみたいなイメージでしょうか。
パーツの歪みや、パーツ同士の組み合わせが上手くいかなくて出来る隙間は
本人にとって望ましくない部分ということです。
歪みが身体的特徴に出てくれば体の症状になるでしょうし、
行動に出てくれば悪習慣になるというわけです。
「お金に縁がない」の場合には、下のほうに歪んだ部位が沢山あって、
それらが「無駄遣い」とか「ギャンブル」とか「チャンスを逃す」とか、
そうした行動に表れていると考えられます。
このように自分の中に納得できない部分があると、
それを問題と考えたり、目標に置き換えて考えたりして、変化を望むことになります。
一般に、悩みや問題というのは上のほうに乗っかっている部分になりやすく、
目標は下のほうにある(人間の表面に出ている)部分になりやすいでしょう。
「お金に縁がない」が悩みになって、「収入を増やす」が目標になるという具合に。
ここで重要なのが、上のほうのパーツを取り換えようとしても
元のパーツに戻ってしまうことがあるというところです。
上のほうのパーツの形が変わり、重さやバランスが変わると、
それを支えている下のパーツの組み合わせに対して
これまでと違った荷重がかかるわけです。
土台の下のほうが隙間だらけで、絶妙なバランスで形が保たれている上のほうを
今までと違うバランスのものに乗せ替えたら全体が崩れてしまいかねません。
もちろん人間は、積み木やパズルのように柔軟性のないものではありませんから
上のパーツを乗せ替えた瞬間にグシャッと一気に崩れてしまうことはないでしょうが、
歪みが徐々に大きくなっていくとか、上のパーツを元に戻そうとするとか、
そういう形でバランスの取れた状態を作り出していくと思われます。
逆に、下のほうの土台のパーツを入れ替えても
上からの荷重のバランスを取れずに崩れてしまうこともあるでしょう。
むしろ通常は、バランスを崩さないように別のパーツまで入れ替えて
土台の変化で生じたバランスの乱れを調整しようとするものです。
悪習慣をやめたら別の悪習慣が出来てしまった、というような場合です。
だからこそ、人の変化というのは難しいわけです。
強いて言うと、下のほうの土台のパーツをコツコツと
形の整ったものに少しずつ変えていくことで、
土台をシッカリしたものに造り替えていく方向性が確実でしょう。
同じようなことですが、違うイメージで表現すると、
パーツに弾力を持たせていくことで歪みを吸収しやすくして
徐々に土台の隙間を埋めていく、という感じ。
とにかく土台を安定させていくことが必要だということです。
そうして土台の隙間が埋まり、安定感が出てくると、
全ての歪みが無くなってはいない状態でも、
上のほうのパーツを入れ替える余裕が出てくるわけです。
同時に、土台が変わっていくうちに、上のパーツにも影響が出てくる。
柔軟性が生まれてきて、少しずつ形が変わっていく。
上のほうのパーツを変えるには、時期があると思うんです。
この点、エリクソンは絶妙だったように思います。
クライアントの土台の歪みを少しずつ変えていた。
そして、歪みを最も上手く修正できる形で土台の一部を変えていた気がします。
クライアントの些細な行動を変え、その結果として起こる出来事を通じて
全体のバランスを土台から少しずつ調整していった。
自殺願望は上のほうのパーツです。
「生きている意味がない」というようなパーツでしょうか。
それを一気に「私は素晴らしい」というものに置き換えさせるのは無理があります。
クライアントを深いトランスに入れて、
「あなたは素晴らしい、あなたは素晴らしい、…」と暗示を繰り返しても
土台のバランスが悪ければ上手くいきにくいはずです。
それよりも、エリクソンはクライアントの行動を少しずつ変えさせたんです。
服装を変えさせ、髪型を変えさせ、外見から魅力を高めさせた。
それによって変わってくる周囲の反応によって少しずつ土台を変えていったんです。
その結果、「生きている意味がない」という上のほうのパーツが
「生きている価値がある」というようなパーツに変わっていったのでしょう。
土台の小さなパーツを変えることから始める。
それが確実な手段だと思います。
その技術が高まってくると、エリクソンのように
小さくても影響が大きいパーツを狙って扱えるようになるんだと思います。
人の発達段階を無視した大きな変容を期待するのには疑問があります。
「私には自信がない」というパーツを、土台も整えることなく
「私は万能の神だ」というパーツに置き換えたとしたら、
その人は単に妄想的な人になるだけじゃないでしょうか。
全体としてバランスを取りながら建てられている立体的なもの。
それに上下方向があるイメージ。
下が上を支えているというニュアンスです。
土台になる下のほうは、人間の表面に表れている部分で、
日頃の言動や振る舞い、身体的特徴や外見的特徴も含みます。
一方、上のほうに乗っかっているのは、自分というものに対する捉え方。
「私は〜である」と言った時に出てくる部分でしょうか。
例えば、下のほうにある表面的な振る舞いとして、常日頃から
お金を無駄遣いしてしまったり、ビジネスチャンスを逃してしまったりする人は、
上のほうに「私は金に縁がない」というものが乗っかっているという感じです。
「お金に縁がない」の下には、沢山のパーツが積み重なっていて
様々な形のパーツが隙間を作りながら微妙なバランスで支え合っている。
ジェンガみたいなイメージでしょうか。
パーツの歪みや、パーツ同士の組み合わせが上手くいかなくて出来る隙間は
本人にとって望ましくない部分ということです。
歪みが身体的特徴に出てくれば体の症状になるでしょうし、
行動に出てくれば悪習慣になるというわけです。
「お金に縁がない」の場合には、下のほうに歪んだ部位が沢山あって、
それらが「無駄遣い」とか「ギャンブル」とか「チャンスを逃す」とか、
そうした行動に表れていると考えられます。
このように自分の中に納得できない部分があると、
それを問題と考えたり、目標に置き換えて考えたりして、変化を望むことになります。
一般に、悩みや問題というのは上のほうに乗っかっている部分になりやすく、
目標は下のほうにある(人間の表面に出ている)部分になりやすいでしょう。
「お金に縁がない」が悩みになって、「収入を増やす」が目標になるという具合に。
ここで重要なのが、上のほうのパーツを取り換えようとしても
元のパーツに戻ってしまうことがあるというところです。
上のほうのパーツの形が変わり、重さやバランスが変わると、
それを支えている下のパーツの組み合わせに対して
これまでと違った荷重がかかるわけです。
土台の下のほうが隙間だらけで、絶妙なバランスで形が保たれている上のほうを
今までと違うバランスのものに乗せ替えたら全体が崩れてしまいかねません。
もちろん人間は、積み木やパズルのように柔軟性のないものではありませんから
上のパーツを乗せ替えた瞬間にグシャッと一気に崩れてしまうことはないでしょうが、
歪みが徐々に大きくなっていくとか、上のパーツを元に戻そうとするとか、
そういう形でバランスの取れた状態を作り出していくと思われます。
逆に、下のほうの土台のパーツを入れ替えても
上からの荷重のバランスを取れずに崩れてしまうこともあるでしょう。
むしろ通常は、バランスを崩さないように別のパーツまで入れ替えて
土台の変化で生じたバランスの乱れを調整しようとするものです。
悪習慣をやめたら別の悪習慣が出来てしまった、というような場合です。
だからこそ、人の変化というのは難しいわけです。
強いて言うと、下のほうの土台のパーツをコツコツと
形の整ったものに少しずつ変えていくことで、
土台をシッカリしたものに造り替えていく方向性が確実でしょう。
同じようなことですが、違うイメージで表現すると、
パーツに弾力を持たせていくことで歪みを吸収しやすくして
徐々に土台の隙間を埋めていく、という感じ。
とにかく土台を安定させていくことが必要だということです。
そうして土台の隙間が埋まり、安定感が出てくると、
全ての歪みが無くなってはいない状態でも、
上のほうのパーツを入れ替える余裕が出てくるわけです。
同時に、土台が変わっていくうちに、上のパーツにも影響が出てくる。
柔軟性が生まれてきて、少しずつ形が変わっていく。
上のほうのパーツを変えるには、時期があると思うんです。
この点、エリクソンは絶妙だったように思います。
クライアントの土台の歪みを少しずつ変えていた。
そして、歪みを最も上手く修正できる形で土台の一部を変えていた気がします。
クライアントの些細な行動を変え、その結果として起こる出来事を通じて
全体のバランスを土台から少しずつ調整していった。
自殺願望は上のほうのパーツです。
「生きている意味がない」というようなパーツでしょうか。
それを一気に「私は素晴らしい」というものに置き換えさせるのは無理があります。
クライアントを深いトランスに入れて、
「あなたは素晴らしい、あなたは素晴らしい、…」と暗示を繰り返しても
土台のバランスが悪ければ上手くいきにくいはずです。
それよりも、エリクソンはクライアントの行動を少しずつ変えさせたんです。
服装を変えさせ、髪型を変えさせ、外見から魅力を高めさせた。
それによって変わってくる周囲の反応によって少しずつ土台を変えていったんです。
その結果、「生きている意味がない」という上のほうのパーツが
「生きている価値がある」というようなパーツに変わっていったのでしょう。
土台の小さなパーツを変えることから始める。
それが確実な手段だと思います。
その技術が高まってくると、エリクソンのように
小さくても影響が大きいパーツを狙って扱えるようになるんだと思います。
人の発達段階を無視した大きな変容を期待するのには疑問があります。
「私には自信がない」というパーツを、土台も整えることなく
「私は万能の神だ」というパーツに置き換えたとしたら、
その人は単に妄想的な人になるだけじゃないでしょうか。
2009年03月15日
イイ部屋の印象
セミナーが行われる会場は、多くの場合が会議室になります。
最近はセミナーも数多く開催されているので、貸会議室も人気があるようです。
そうした会議室にも色々な部屋があります。
同じビルであっても意外と部屋ごとに特徴が違っているものです。
そして、その部屋の特徴は「なんとなく」の印象として受け取られます。
窓が多いと明るい印象があったりしますし、部屋も広く感じられます。
天井が低いと圧迫感がありますし、壁の色でも雰囲気が変わります。
電灯の数や配置によっても居心地が違いますし、
カーペットの汚れなども印象に影響するでしょう。
あまり意識されないかもしれませんが、部屋の匂いや
雑音の聞こえ方、話し声の反響の仕方にも部屋ごとの特徴があるんです。
細かく調べていけば明確になるけれど、あまり意識されない部屋の特徴。
そういったものが「なんとなく」人の心に影響を与えているわけです。
こういうものは自分が住む部屋を探すときには気になるところでしょう。
ただ、多くの人が「どの要素が、どのような印象を与えているのか」までは
ハッキリと意識することができません。
意識しようとしていない、と言ったほうが正確でしょうか。
大抵は、「なんとなく」この部屋が良いとか、違和感があるとか、
理由は分からないけれども何らかの印象を感じているようです。
場合によっては、オーラだとか、何らかのイメージだとか、「気」だとかで
部屋の特徴を感じる人もいるみたいですが、
僕は個人的に、そうした「なんとなく」の印象も
細かい要素として明確にできるはずだと考えています。
これが意識できれば、さほど問題はありません。
悪い印象を与えやすい部屋にいるときに、自分が嫌な感じになっている理由が
その部屋の特徴のせいだと理解することができるからです。
ところが、「なんとなく」のままだと、人は理由の分からない不満を感じ続けます。
生理反応として生まれている気分の悪さを抱え続けるんです。
そして、普段であれば気にならないような細かいことや、
ちょっとした不満の対象を見つけたときに、「なんとなく」の不満まで
一緒に向けられることになってしまいます。
まるで、朝から機嫌の悪かった人が、ちょっとした挨拶の仕方だけに対して
ひどく怒りの反応を示すかのようです。
先に生理状態があるんです。
体の中の反応が気分を作り出す。
そして、その気分に対して都合の良い理由を、
どこか分かりやすい部分に見つけてしまうわけです。
生理状態が普段と変わっていることにさえ気づきにくく、
その生理状態が何に対する反応かも気づきにくい。
こうしたことをリチャード・バンドラーなどは利用しているようです。
わざと気になる部分を作り出しながら話をする。
すると聴衆が「気になる」状態になっていきます。
実際に気になっている対象は、話の内容とは関係のない部分なのに
気になる状態そのものが、話し手に対する関心のように錯覚される。
そんな風にして、聴衆が話に意識を集中するように工夫しているわけです。
状態が「なんとなく」変わっていくというのは、無意識的な部分です。
意識できていれば、状態が変わるキッカケの対象が分かります。
ですが、「なんとなく」感じる印象の場合には、理由が不明確なままです。
意識に上がりずらい背景の部分が「なんとなく」の印象に強い影響を及ぼすんです。
視野の中で焦点が当たっていない背景の景色。
話を聞こうとしているときの背景にある雑音。
すぐに気にならなくなってしまう部屋の匂い。
メインで意識したいことと違う部分の刺激が、五感を通じて受け取られ、
無意識のうちに生理状態に影響するわけです。
サブリミナルというやつですね。
テレビのドキュメント番組のコメントに、大学の先生や専門家が登場すると
VTRに流れる映像の背景に、専門書がズラッと並んだ本棚が置いてあるのも
背景から受ける印象をコントロールしようとしてのものでしょう。
注意が向いていないところが生理状態に与える影響が、
メインの内容に対する印象に混ざりこんでしまうということです。
セミナー会場の天井が低くて圧迫感があるようであれば、
その会場にいる人たちは無意識に窮屈さを感じやすいと言えます。
窮屈さが体に緊張感を生み出せば、ピリピリと張り詰めた状態になりやすいでしょう。
視野の端っこにゴチャゴチャと机や椅子が置かれていれば
無意識のうちに「雑多で整理されていない」印象が生まれるかもしれません。
その影響で、話の内容が分かりにくいと判断されないとも言えません。
「この部屋は明るくて、広々してて良いですね。開放感がありますね。」
なんていうポジティブなコメントを耳にすることはあっても
「壁紙の色が暗いのと、蛍光灯の位置が悪いので、薄暗い印象がありますね。
ホコリ臭さに加えて、窓も少ないので息苦しさも感じます。」
なんていうネガティブなコメントをしてくれる方は滅多にいません。
会場というものには、多くの方が受容的なスタンスをお持ちのようです。
「ここでやるんだ」というだけで、当たり前のこととして受け入れてしまうんでしょう。
他に選択肢がない立場ですから当然と言えば、当然かもしれません。
ところが、無意識のうちには部屋の印象の悪さが生理状態に悪影響を及ぼしている。
部屋が良くないために気分が良くないというケースがあるんです。
このギャップは重要だと思います。
それは細かいことを気にする性格かどうかとは、あまり関係がありません。
敏感な人が一人でもいると、その人の発している反応が広がります。
不満を感じている人の仕草や表情、声や体温の変化など、
非言語のメッセージとして多くの情報が発せられます。
それが再び別の人に、注意を外れた部分として影響していくわけです。
人が「なんとなく」感じてしまう環境から悪影響。
それを考えておくことは、セミナーを行う側にとって大切なことだと思うんです。
不快感を与えない環境作りも重要な作業だということです。
時おり、僕が会場設営を気にしていると、そのことに対して
性格から生まれる細かいコダワリのように感じる方がいるようですが、
それは僕にとっては違う解釈です。
僕は全てを気にしているわけではありません。
無意識に悪影響を及ぼしてしまいそうな部分に注意しているんです。
無意識の感受性を甘く見ていないだけの話です。
ちなみに、僕の勉強会はキッチリした「セミナー」という扱いではないですし、
費用にもその部分は反映していませんので、会場はかなり適当になっています。
その点はご了承ください。
最近はセミナーも数多く開催されているので、貸会議室も人気があるようです。
そうした会議室にも色々な部屋があります。
同じビルであっても意外と部屋ごとに特徴が違っているものです。
そして、その部屋の特徴は「なんとなく」の印象として受け取られます。
窓が多いと明るい印象があったりしますし、部屋も広く感じられます。
天井が低いと圧迫感がありますし、壁の色でも雰囲気が変わります。
電灯の数や配置によっても居心地が違いますし、
カーペットの汚れなども印象に影響するでしょう。
あまり意識されないかもしれませんが、部屋の匂いや
雑音の聞こえ方、話し声の反響の仕方にも部屋ごとの特徴があるんです。
細かく調べていけば明確になるけれど、あまり意識されない部屋の特徴。
そういったものが「なんとなく」人の心に影響を与えているわけです。
こういうものは自分が住む部屋を探すときには気になるところでしょう。
ただ、多くの人が「どの要素が、どのような印象を与えているのか」までは
ハッキリと意識することができません。
意識しようとしていない、と言ったほうが正確でしょうか。
大抵は、「なんとなく」この部屋が良いとか、違和感があるとか、
理由は分からないけれども何らかの印象を感じているようです。
場合によっては、オーラだとか、何らかのイメージだとか、「気」だとかで
部屋の特徴を感じる人もいるみたいですが、
僕は個人的に、そうした「なんとなく」の印象も
細かい要素として明確にできるはずだと考えています。
これが意識できれば、さほど問題はありません。
悪い印象を与えやすい部屋にいるときに、自分が嫌な感じになっている理由が
その部屋の特徴のせいだと理解することができるからです。
ところが、「なんとなく」のままだと、人は理由の分からない不満を感じ続けます。
生理反応として生まれている気分の悪さを抱え続けるんです。
そして、普段であれば気にならないような細かいことや、
ちょっとした不満の対象を見つけたときに、「なんとなく」の不満まで
一緒に向けられることになってしまいます。
まるで、朝から機嫌の悪かった人が、ちょっとした挨拶の仕方だけに対して
ひどく怒りの反応を示すかのようです。
先に生理状態があるんです。
体の中の反応が気分を作り出す。
そして、その気分に対して都合の良い理由を、
どこか分かりやすい部分に見つけてしまうわけです。
生理状態が普段と変わっていることにさえ気づきにくく、
その生理状態が何に対する反応かも気づきにくい。
こうしたことをリチャード・バンドラーなどは利用しているようです。
わざと気になる部分を作り出しながら話をする。
すると聴衆が「気になる」状態になっていきます。
実際に気になっている対象は、話の内容とは関係のない部分なのに
気になる状態そのものが、話し手に対する関心のように錯覚される。
そんな風にして、聴衆が話に意識を集中するように工夫しているわけです。
状態が「なんとなく」変わっていくというのは、無意識的な部分です。
意識できていれば、状態が変わるキッカケの対象が分かります。
ですが、「なんとなく」感じる印象の場合には、理由が不明確なままです。
意識に上がりずらい背景の部分が「なんとなく」の印象に強い影響を及ぼすんです。
視野の中で焦点が当たっていない背景の景色。
話を聞こうとしているときの背景にある雑音。
すぐに気にならなくなってしまう部屋の匂い。
メインで意識したいことと違う部分の刺激が、五感を通じて受け取られ、
無意識のうちに生理状態に影響するわけです。
サブリミナルというやつですね。
テレビのドキュメント番組のコメントに、大学の先生や専門家が登場すると
VTRに流れる映像の背景に、専門書がズラッと並んだ本棚が置いてあるのも
背景から受ける印象をコントロールしようとしてのものでしょう。
注意が向いていないところが生理状態に与える影響が、
メインの内容に対する印象に混ざりこんでしまうということです。
セミナー会場の天井が低くて圧迫感があるようであれば、
その会場にいる人たちは無意識に窮屈さを感じやすいと言えます。
窮屈さが体に緊張感を生み出せば、ピリピリと張り詰めた状態になりやすいでしょう。
視野の端っこにゴチャゴチャと机や椅子が置かれていれば
無意識のうちに「雑多で整理されていない」印象が生まれるかもしれません。
その影響で、話の内容が分かりにくいと判断されないとも言えません。
「この部屋は明るくて、広々してて良いですね。開放感がありますね。」
なんていうポジティブなコメントを耳にすることはあっても
「壁紙の色が暗いのと、蛍光灯の位置が悪いので、薄暗い印象がありますね。
ホコリ臭さに加えて、窓も少ないので息苦しさも感じます。」
なんていうネガティブなコメントをしてくれる方は滅多にいません。
会場というものには、多くの方が受容的なスタンスをお持ちのようです。
「ここでやるんだ」というだけで、当たり前のこととして受け入れてしまうんでしょう。
他に選択肢がない立場ですから当然と言えば、当然かもしれません。
ところが、無意識のうちには部屋の印象の悪さが生理状態に悪影響を及ぼしている。
部屋が良くないために気分が良くないというケースがあるんです。
このギャップは重要だと思います。
それは細かいことを気にする性格かどうかとは、あまり関係がありません。
敏感な人が一人でもいると、その人の発している反応が広がります。
不満を感じている人の仕草や表情、声や体温の変化など、
非言語のメッセージとして多くの情報が発せられます。
それが再び別の人に、注意を外れた部分として影響していくわけです。
人が「なんとなく」感じてしまう環境から悪影響。
それを考えておくことは、セミナーを行う側にとって大切なことだと思うんです。
不快感を与えない環境作りも重要な作業だということです。
時おり、僕が会場設営を気にしていると、そのことに対して
性格から生まれる細かいコダワリのように感じる方がいるようですが、
それは僕にとっては違う解釈です。
僕は全てを気にしているわけではありません。
無意識に悪影響を及ぼしてしまいそうな部分に注意しているんです。
無意識の感受性を甘く見ていないだけの話です。
ちなみに、僕の勉強会はキッチリした「セミナー」という扱いではないですし、
費用にもその部分は反映していませんので、会場はかなり適当になっています。
その点はご了承ください。
2009年03月13日
便利なだけでなく
名古屋駅から徒歩1、2分のところに大名古屋ビルヂングという建物があります。
そこの一階にあるコンビニ。
サンクス 大名古屋ビル店。
ここの接客は凄いです。
クオリティが非常に高い。
店舗の広さは一般的なサイズの範囲に入るでしょう。
少し広めといった程度。
ただ、オフィス街の入口にあるせいか、平日の朝は相当な混雑ぶりなんです。
なのでレジが5つぐらいあります。
広めのコンビニは設計上、自然とレジの数も増えるものですが、
半分くらいのレジを休止中にしている店は結構多いと思います。
中には、お客さんが並んでいてもレジを休止中にしたままで
少ない店員がレジの処理をしていることもあります。
他の店員が裏方にいたり、商品の陳列に行っていても呼ばない。
各コンビニの事情は分かりませんし、フランチャイズであれば
ある程度の方針や教育はオーナーの権限によって変わるのかもしれません。
以前に立ち寄ったコンビニでは、オーナー店長が妙なこだわりを持っていて
アルバイトの女子高生に事細かな敬語の使い方を教えていたこともありました。
余計にバイトの子が面倒臭そうな態度になって、指導が逆効果にさえ見えたものです。
ところが、この「サンクス 大名古屋ビル店」は一味違います。
挨拶も、キビキビした店員の動作も、1つ1つの確認の言葉も、
どれもが適切になされているようです。
まぁ、挨拶の多くは形式的なものですから、
「いらっしゃいませ」が誰に向けられたものか分からないのは仕方ないですが、
少なくとも「またお越し下さい」の声のかけ方はレジを離れる個人に向けられています。
声も大きく、それでいて居酒屋で良くあるような無駄に元気のある叫び声でもない。
列の長さも、並んでいた時間もチェックしているからこそ
「お待たせいたしました」の声にも、きちんと意味が込められている印象があります。
待っていた気持ちのあるときに「お待たせいたしました」を言ってくれるわけです。
どの店員にもダラダラした雰囲気は一切なく、
仕方なく言わされているマニュアルの言葉という印象もありません。
非常に丁寧な接客です。
小売店の店員の接客という分類で見れば、デパートなんかよりも気持ちが良い。
場合によっては、ビジネスホテルのフロントよりも対応が理にかなっているでしょう。
ホテルではエレガントさこそあっても、お客様を観察していないケースも目にします。
それに比べて、このサンクスの店員は良く見ている人が多い気がします。
しかも、それが朝の忙しい時間帯で出来ているのだから素晴らしいわけです。
忙しさに追われて雑になってしまうことがないのは、
利用する側からすると心地よいものですね。
名札に「研修中」と書いてあっても接客の質は維持されていますから
よほど丁寧な教育をしているのではないかと推測します。
オーナーの方針なのでしょうか。
あれだけの接客の質を高めたコンビニを、僕は他に見たことがありません。
どんな教育がなされているのか、ちょっと気になります。
まれに、気取り過ぎてしまって妙なテンションの店員もいますが…。
自分の仕事ぶりに酔えるほど、真剣に取り組めるのは立派なことでしょう。
名古屋に行くと、必ず立ち寄るコンビニです。
そこの一階にあるコンビニ。
サンクス 大名古屋ビル店。
ここの接客は凄いです。
クオリティが非常に高い。
店舗の広さは一般的なサイズの範囲に入るでしょう。
少し広めといった程度。
ただ、オフィス街の入口にあるせいか、平日の朝は相当な混雑ぶりなんです。
なのでレジが5つぐらいあります。
広めのコンビニは設計上、自然とレジの数も増えるものですが、
半分くらいのレジを休止中にしている店は結構多いと思います。
中には、お客さんが並んでいてもレジを休止中にしたままで
少ない店員がレジの処理をしていることもあります。
他の店員が裏方にいたり、商品の陳列に行っていても呼ばない。
各コンビニの事情は分かりませんし、フランチャイズであれば
ある程度の方針や教育はオーナーの権限によって変わるのかもしれません。
以前に立ち寄ったコンビニでは、オーナー店長が妙なこだわりを持っていて
アルバイトの女子高生に事細かな敬語の使い方を教えていたこともありました。
余計にバイトの子が面倒臭そうな態度になって、指導が逆効果にさえ見えたものです。
ところが、この「サンクス 大名古屋ビル店」は一味違います。
挨拶も、キビキビした店員の動作も、1つ1つの確認の言葉も、
どれもが適切になされているようです。
まぁ、挨拶の多くは形式的なものですから、
「いらっしゃいませ」が誰に向けられたものか分からないのは仕方ないですが、
少なくとも「またお越し下さい」の声のかけ方はレジを離れる個人に向けられています。
声も大きく、それでいて居酒屋で良くあるような無駄に元気のある叫び声でもない。
列の長さも、並んでいた時間もチェックしているからこそ
「お待たせいたしました」の声にも、きちんと意味が込められている印象があります。
待っていた気持ちのあるときに「お待たせいたしました」を言ってくれるわけです。
どの店員にもダラダラした雰囲気は一切なく、
仕方なく言わされているマニュアルの言葉という印象もありません。
非常に丁寧な接客です。
小売店の店員の接客という分類で見れば、デパートなんかよりも気持ちが良い。
場合によっては、ビジネスホテルのフロントよりも対応が理にかなっているでしょう。
ホテルではエレガントさこそあっても、お客様を観察していないケースも目にします。
それに比べて、このサンクスの店員は良く見ている人が多い気がします。
しかも、それが朝の忙しい時間帯で出来ているのだから素晴らしいわけです。
忙しさに追われて雑になってしまうことがないのは、
利用する側からすると心地よいものですね。
名札に「研修中」と書いてあっても接客の質は維持されていますから
よほど丁寧な教育をしているのではないかと推測します。
オーナーの方針なのでしょうか。
あれだけの接客の質を高めたコンビニを、僕は他に見たことがありません。
どんな教育がなされているのか、ちょっと気になります。
まれに、気取り過ぎてしまって妙なテンションの店員もいますが…。
自分の仕事ぶりに酔えるほど、真剣に取り組めるのは立派なことでしょう。
名古屋に行くと、必ず立ち寄るコンビニです。