2009年04月
2009年04月30日
日本人だもの
4月の勉強会を終えてみて思うのは、「日本人のコミュニケーション」として
日本人の特徴を踏まえた内容が、やはり重要なのではないかということです。
日本人は欧米からの輸入物をありがたがる傾向があるような印象があります。
歴史的にも海外から入ってきたものを尊重していたところがあるのかもしれません。
いわゆる近代的な文明の多くは、確かに世界の先端から学ぶところが多かったでしょうが、
最近の日本の技術を考えていくと日本が世界をリードするものも沢山あるわけです。
日本人からノーベル賞受賞者が毎年のように出ていることも、
芸術分野で世界的に活躍する人がいることも、
日本の野球がベースボールの大会で優勝したことも。
科学技術の分野でも、文化の領域でも日本が世界で認められることは多々あります。
でも、自己啓発やコミュニケーションの分野では事情が違うようです。
そもそも成功哲学における「成功」というのは、
いわゆるアメリカンドリームに近い印象があると思います。
まさに言葉の意味通り「アウトカム」。
外に求めているわけです。
しかし、心理臨床に携わる人たちや、自己実現を掲げる人たちの中には
日本の禅を大切にする人がいます。
心の豊かさという観点からは伝統的な日本文化の精神が大切だということを
欧米の人々のほうが意識しているのでしょうか。
まぁ、ニューエイジブームのときに仏教的な思想が流行ったりしたのも
バックグラウンドにあるのかもしれませんが。
また、欧米の文化では、日本人と比べるとハッキリと強く
自己主張をするような傾向があると言われます。
感情表現も豊かですし、自分を表に出していくことが自然な背景があるのでしょう。
であれば、当然、コミュニケーションにおいて意見の衝突も起きやすいはずです。
日本人が黙って我慢するところでも、ハッキリと表現してしまう。
上手くいくときは物凄く幸せが味わえるのでしょうが、
ぶつかったときには大変なことになるような気がします。
日本人のように奥ゆかしいのも、欧米人のように主張するのも
どちらにも良い面があるのは間違いありません。
しかし、表面的にトラブルが起きやすいのは主張が食い違ったときだと思います。
主張が強いほど、人間関係から問題が起きることは少なくないように考えられます。
さらに、多民族が集まっていたり、戦争が多かったり、
情勢が与える影響もあるでしょう。
様々な要因が際立ってくれば、一部の人にだけ強い負荷がかかることになります。
日本よりも多様性が高い背景だからこそ、合わないときには問題も大きく出やすい。
そういう傾向があるんじゃないでしょうか。
そんな状況であれば、カウンセリングやセラピーも必要とされやすいのかもしれません。
日本人が身内に相談することを想定したら、欧米の心理的援助の技術が
向上していくのは当然のように思えます。
成功法則もそうです。
日本の企業が家族の延長のように、組織的な発展を求めてきたのに対して
欧米文化において、一部の人が極端な大成功を収める前提があれば、
成功のための方法論が発展していくのも自然だと考えられます。
日本人が、そうした人間の変化に関する技法を発展させていくことは
状況を考えれば少し難しかったのかもしれません。
とにかく、最近の日本に輸入されてきた人間の変化に関する方法論のほとんどが
欧米の文化的背景によって作られたものだということです。
常日頃から生活して、コミュニケーションをとっている内容が違うわけです。
人との関わりを通じて心の内側が作り上げられていくと考えると、
内面的な癖だって日本人特有のものがあると想定するほうが妥当です。
まして言語が違うんです。
原則的に、同じ方法が役立つとしても、
日本人向けにアレンジすることが必要なところも多いでしょう。
一例を挙げれば、日本人は比較的、主語を曖昧にして生活しています。
日本語においては主語を明確にしなくてもコミュニケーションがとれます。
関西弁では二人称に「じぶん」と言ったりするぐらい。
英語と比較して、人称に対する意識の弱さが特徴として挙げられます。
このことが、文化的な主張の強さの差に表れている可能性もあると思うんです。
言語化の際には、積み上げられてきた記憶が再構成されます。
話しているうちに整理されてくるというのは、まさにこれです。
セミナーで体験したことを言語化して共有することの大切さは
記憶を再構成して利用しやすい形に整理できるところにもあるわけです。
我々は言葉を通じて自分の心の中を整理している。
そのときに毎回、主語を明確にしていれば、自然と
自分と他人の区別を明確にしていきやすいんじゃないかということです。
英語では、自分に関することを話すたびに「私は」という主語をつけて
「私」という概念と、他の情報を結び付けることをしているんです。
アメリカから輸入されてくる成功法則には、
セルフイメージを変えることで成功を引き寄せる類のものがありますが、
このセルフイメージというものは、まさに「私は〜である」という文章です。
日本語を話す人よりも、英語を話すことが日常的な人のほうが
セルフイメージを変えることの影響が強く出やすいのかもしれません。
「私は〜だ」と発言するたびに、「私」という概念に関連した様々な記憶が
毎回のように再構成されていくわけですから、
セルフイメージを変えること自体もやりやすい可能性も考えられます。
他にも主語を強調することの影響は推測できますが、
その辺は別の機会に譲るとします。
こういうことを考えていくと、コミュニケーションの質も
人間の心の中を形作っているものも、
日本人と欧米人では随分と違っているはずだという思いが強まります。
残念なのは、国際的な舞台が英語で進められているという事実。
世界に公表していくときには必ずと言っていいほど英語が前提になるんです。
日本人の文化や日本語の特徴、日本語の特徴が心に与える影響…、
多くのことを研究し、考え、まとめ上げたところで、
それを世界的に発表しようとしたら英語で説明しなくてはいけなくなります。
日本語を対象とした言語学の論文は英語で書かれるわけです。
はたして、それで大事なことが表現できるのでしょうか。
社会が国際化しているのは誰の目にも明らかでしょう。
それでも場合によっては、日本人が日本人のために
日本で役に立つ内容を発展させていくことも必要な気がします。
日本人の特徴を踏まえた内容が、やはり重要なのではないかということです。
日本人は欧米からの輸入物をありがたがる傾向があるような印象があります。
歴史的にも海外から入ってきたものを尊重していたところがあるのかもしれません。
いわゆる近代的な文明の多くは、確かに世界の先端から学ぶところが多かったでしょうが、
最近の日本の技術を考えていくと日本が世界をリードするものも沢山あるわけです。
日本人からノーベル賞受賞者が毎年のように出ていることも、
芸術分野で世界的に活躍する人がいることも、
日本の野球がベースボールの大会で優勝したことも。
科学技術の分野でも、文化の領域でも日本が世界で認められることは多々あります。
でも、自己啓発やコミュニケーションの分野では事情が違うようです。
そもそも成功哲学における「成功」というのは、
いわゆるアメリカンドリームに近い印象があると思います。
まさに言葉の意味通り「アウトカム」。
外に求めているわけです。
しかし、心理臨床に携わる人たちや、自己実現を掲げる人たちの中には
日本の禅を大切にする人がいます。
心の豊かさという観点からは伝統的な日本文化の精神が大切だということを
欧米の人々のほうが意識しているのでしょうか。
まぁ、ニューエイジブームのときに仏教的な思想が流行ったりしたのも
バックグラウンドにあるのかもしれませんが。
また、欧米の文化では、日本人と比べるとハッキリと強く
自己主張をするような傾向があると言われます。
感情表現も豊かですし、自分を表に出していくことが自然な背景があるのでしょう。
であれば、当然、コミュニケーションにおいて意見の衝突も起きやすいはずです。
日本人が黙って我慢するところでも、ハッキリと表現してしまう。
上手くいくときは物凄く幸せが味わえるのでしょうが、
ぶつかったときには大変なことになるような気がします。
日本人のように奥ゆかしいのも、欧米人のように主張するのも
どちらにも良い面があるのは間違いありません。
しかし、表面的にトラブルが起きやすいのは主張が食い違ったときだと思います。
主張が強いほど、人間関係から問題が起きることは少なくないように考えられます。
さらに、多民族が集まっていたり、戦争が多かったり、
情勢が与える影響もあるでしょう。
様々な要因が際立ってくれば、一部の人にだけ強い負荷がかかることになります。
日本よりも多様性が高い背景だからこそ、合わないときには問題も大きく出やすい。
そういう傾向があるんじゃないでしょうか。
そんな状況であれば、カウンセリングやセラピーも必要とされやすいのかもしれません。
日本人が身内に相談することを想定したら、欧米の心理的援助の技術が
向上していくのは当然のように思えます。
成功法則もそうです。
日本の企業が家族の延長のように、組織的な発展を求めてきたのに対して
欧米文化において、一部の人が極端な大成功を収める前提があれば、
成功のための方法論が発展していくのも自然だと考えられます。
日本人が、そうした人間の変化に関する技法を発展させていくことは
状況を考えれば少し難しかったのかもしれません。
とにかく、最近の日本に輸入されてきた人間の変化に関する方法論のほとんどが
欧米の文化的背景によって作られたものだということです。
常日頃から生活して、コミュニケーションをとっている内容が違うわけです。
人との関わりを通じて心の内側が作り上げられていくと考えると、
内面的な癖だって日本人特有のものがあると想定するほうが妥当です。
まして言語が違うんです。
原則的に、同じ方法が役立つとしても、
日本人向けにアレンジすることが必要なところも多いでしょう。
一例を挙げれば、日本人は比較的、主語を曖昧にして生活しています。
日本語においては主語を明確にしなくてもコミュニケーションがとれます。
関西弁では二人称に「じぶん」と言ったりするぐらい。
英語と比較して、人称に対する意識の弱さが特徴として挙げられます。
このことが、文化的な主張の強さの差に表れている可能性もあると思うんです。
言語化の際には、積み上げられてきた記憶が再構成されます。
話しているうちに整理されてくるというのは、まさにこれです。
セミナーで体験したことを言語化して共有することの大切さは
記憶を再構成して利用しやすい形に整理できるところにもあるわけです。
我々は言葉を通じて自分の心の中を整理している。
そのときに毎回、主語を明確にしていれば、自然と
自分と他人の区別を明確にしていきやすいんじゃないかということです。
英語では、自分に関することを話すたびに「私は」という主語をつけて
「私」という概念と、他の情報を結び付けることをしているんです。
アメリカから輸入されてくる成功法則には、
セルフイメージを変えることで成功を引き寄せる類のものがありますが、
このセルフイメージというものは、まさに「私は〜である」という文章です。
日本語を話す人よりも、英語を話すことが日常的な人のほうが
セルフイメージを変えることの影響が強く出やすいのかもしれません。
「私は〜だ」と発言するたびに、「私」という概念に関連した様々な記憶が
毎回のように再構成されていくわけですから、
セルフイメージを変えること自体もやりやすい可能性も考えられます。
他にも主語を強調することの影響は推測できますが、
その辺は別の機会に譲るとします。
こういうことを考えていくと、コミュニケーションの質も
人間の心の中を形作っているものも、
日本人と欧米人では随分と違っているはずだという思いが強まります。
残念なのは、国際的な舞台が英語で進められているという事実。
世界に公表していくときには必ずと言っていいほど英語が前提になるんです。
日本人の文化や日本語の特徴、日本語の特徴が心に与える影響…、
多くのことを研究し、考え、まとめ上げたところで、
それを世界的に発表しようとしたら英語で説明しなくてはいけなくなります。
日本語を対象とした言語学の論文は英語で書かれるわけです。
はたして、それで大事なことが表現できるのでしょうか。
社会が国際化しているのは誰の目にも明らかでしょう。
それでも場合によっては、日本人が日本人のために
日本で役に立つ内容を発展させていくことも必要な気がします。
2009年04月27日
もの忘れ
催眠など、トランスと呼ばれる状態を活用する手法を扱っていると
ずっと忘れていたような記憶を思い出すことを体験します。
そういう体験を重ねるうちに、多くの記憶された内容は
忘れられてはいないんじゃないか、思い出せなくなっているだけじゃないか、
というような印象を実感してきます。
年をとると記憶力が悪くなるというのは、
1つには本当に長期記憶しなくなる内容が増えてくるというところで説明できます。
人間は知っている情報を新たに記憶しないで済むように
情報をパターン化して記憶して、そのパターンを利用して生活をしているものです。
年齢を重ねるうちに、豊富な人生経験から、そうしたパターンが増えてきて
日常のほとんどの場面をパターンで対応できるようになっていく。
言ってみれば新鮮さに欠けてくるわけです。
すると新たな情報として対応されないので、あまり長期記憶に蓄えられなくなる、と。
その辺の情報の仕分けをしているのが海馬だと言われていたりします。
もう1つ、記憶力が悪くなるというのは、
何かを思い出す必要性が減ってくるところにもあるかしれません。
覚えているかどうかの判断は通常、そのことを思い出せるかどうかでしょうから、
学生時代のテストのように頑張って何かを思い出す必要性が
年齢を重ね、社会での経験を重ねるうちに減っていくというわけです。
学校で勉強したように、暗記が必要なものは特定の業種を除くと
一般に仕事をしているときには少なくなっていくもののように思います。
何よりも、身近に接する情報というのが限定されてくるところが大きいでしょう。
会社に入って、三角関数の公式を使う人は少ないはずです。
そうして関わりが薄れてきた情報は、思い出される頻度が減ってきて
だんだんと忘れられていくように捉えられるということです。
ただ実際には、そのように思い出さなくなってきた情報も
忘れられているわけではないのかもしれない。
思い出しにくくなっているだけかもしれない。
そんなことも思うんです。
まとめると、新しい情報として記憶に定着させていく部分と
記憶した情報を思い出していく部分とによって
目的とする情報を「覚えている」と自覚する、という具合に考えられます。
一度記憶した情報を思い出す頻度は、日常の変化によって変わっていきますから
そのことから離れる時間が長くなるほど、思い出さなくなっていくものでしょう。
意識に上がらなくなっていく。
気にならなくなっていく。
忘れられていく。
…そんな印象かもしれません。
僕の仕事は、多くの出会いを伴うものです。
一方通行の情報伝達型のセミナーではありません。
一人一人の顔が見えるワークショップです。
そこには多くの交流があって、人と人との触れ合いがあるんです。
その人に特有の出来事や特徴が、その場に溢れているんです。
それはどれも新鮮な新しい情報です。
沢山の情報が記憶に残っていき、それが全て思い出となるんです。
ワークショップは特定の期間に集中して行われますから
頻繁に会うことのできる時期というのもあります。
そのときは、その人のことを思い出すことも多いわけです。
でも、ワークショップ開催期間が終われば、
自然と会う機会が少なくなり、思い出されることも減っていってしまいます。
思い出す頻度が減っていくうちに、思い出しにくくなっていくのも事実です。
それは僕にとって残念なことです。
その中で、記憶が失われたわけではないという実感が僕を支えています。
思い出しにくくなっているけれど、なくなってはいない。
そんな信念が僕を支えているんです。
だからこそ、僕は人を覚えたい。
一人一人を個人として、別の人として、その人だけを僕の中の思い出として
できるだけ蓄えていきたいと思っています。
思い出しにくくなることがあるのは仕方ないことなのかもしれませんが、
記憶の中に思い出をどれだけ残していくかは、意志の問題だと思うんです。
覚えようとする意志。
それは、その人に関する思い出を僕の中に残していく作業です。
思い出せなくても残っているものと信じて、
その人を僕の記憶の中に残していく。
僕のコダワリです。
ずっと忘れていたような記憶を思い出すことを体験します。
そういう体験を重ねるうちに、多くの記憶された内容は
忘れられてはいないんじゃないか、思い出せなくなっているだけじゃないか、
というような印象を実感してきます。
年をとると記憶力が悪くなるというのは、
1つには本当に長期記憶しなくなる内容が増えてくるというところで説明できます。
人間は知っている情報を新たに記憶しないで済むように
情報をパターン化して記憶して、そのパターンを利用して生活をしているものです。
年齢を重ねるうちに、豊富な人生経験から、そうしたパターンが増えてきて
日常のほとんどの場面をパターンで対応できるようになっていく。
言ってみれば新鮮さに欠けてくるわけです。
すると新たな情報として対応されないので、あまり長期記憶に蓄えられなくなる、と。
その辺の情報の仕分けをしているのが海馬だと言われていたりします。
もう1つ、記憶力が悪くなるというのは、
何かを思い出す必要性が減ってくるところにもあるかしれません。
覚えているかどうかの判断は通常、そのことを思い出せるかどうかでしょうから、
学生時代のテストのように頑張って何かを思い出す必要性が
年齢を重ね、社会での経験を重ねるうちに減っていくというわけです。
学校で勉強したように、暗記が必要なものは特定の業種を除くと
一般に仕事をしているときには少なくなっていくもののように思います。
何よりも、身近に接する情報というのが限定されてくるところが大きいでしょう。
会社に入って、三角関数の公式を使う人は少ないはずです。
そうして関わりが薄れてきた情報は、思い出される頻度が減ってきて
だんだんと忘れられていくように捉えられるということです。
ただ実際には、そのように思い出さなくなってきた情報も
忘れられているわけではないのかもしれない。
思い出しにくくなっているだけかもしれない。
そんなことも思うんです。
まとめると、新しい情報として記憶に定着させていく部分と
記憶した情報を思い出していく部分とによって
目的とする情報を「覚えている」と自覚する、という具合に考えられます。
一度記憶した情報を思い出す頻度は、日常の変化によって変わっていきますから
そのことから離れる時間が長くなるほど、思い出さなくなっていくものでしょう。
意識に上がらなくなっていく。
気にならなくなっていく。
忘れられていく。
…そんな印象かもしれません。
僕の仕事は、多くの出会いを伴うものです。
一方通行の情報伝達型のセミナーではありません。
一人一人の顔が見えるワークショップです。
そこには多くの交流があって、人と人との触れ合いがあるんです。
その人に特有の出来事や特徴が、その場に溢れているんです。
それはどれも新鮮な新しい情報です。
沢山の情報が記憶に残っていき、それが全て思い出となるんです。
ワークショップは特定の期間に集中して行われますから
頻繁に会うことのできる時期というのもあります。
そのときは、その人のことを思い出すことも多いわけです。
でも、ワークショップ開催期間が終われば、
自然と会う機会が少なくなり、思い出されることも減っていってしまいます。
思い出す頻度が減っていくうちに、思い出しにくくなっていくのも事実です。
それは僕にとって残念なことです。
その中で、記憶が失われたわけではないという実感が僕を支えています。
思い出しにくくなっているけれど、なくなってはいない。
そんな信念が僕を支えているんです。
だからこそ、僕は人を覚えたい。
一人一人を個人として、別の人として、その人だけを僕の中の思い出として
できるだけ蓄えていきたいと思っています。
思い出しにくくなることがあるのは仕方ないことなのかもしれませんが、
記憶の中に思い出をどれだけ残していくかは、意志の問題だと思うんです。
覚えようとする意志。
それは、その人に関する思い出を僕の中に残していく作業です。
思い出せなくても残っているものと信じて、
その人を僕の記憶の中に残していく。
僕のコダワリです。
2009年04月25日
ラーメンマニア
僕は小さい頃から相当な量のマンガを読んできました。
上には上がいるとは思いますが、一般的に言えば
結構、マンガを読むほうだったんじゃないでしょうか。
読む範囲も、好みのジャンルはなんとなくあった気がしますが
今にして振り返ると意外と料理マンガの類が多かったのを思い出します。
ただし、僕の中で料理マンガのポイントは、料理そのものの絵です。
料理の絵がリアルに描かれていないと受け入れられません。
登場人物のタッチと、料理のタッチが全くの別物になって
料理が美しくリアルに描かれているのが大事でした。
そこから想像を膨らませていたんでしょう。
「美味しんぼ」は途中で買うのを止めてしまいましたが
90巻ぐらいまでは揃えていたと思います。
ちなみに、そんなイメージトレーニングの効果もあってか、
僕の中には「見た目通りの味」という基準が存在しています。
この「見た目通りの味」かどうかという評価基準があるおかげで
僕はお土産を選ぶのが得意だったりしたんだろうと思います。
お菓子は多くのものが見た目通りの味に近いんです。
で、最近も僕は、たまにマンガを読みますが
毎週欠かさずに見ているものの中にも案の定、料理マンガがあります。
「ラーメン発見伝」です。
ラーメンマニアが主人公のマンガ。
サラリーマンとして仕事をしながら、
脱サラしてラーメン屋を開業しようとしている話です。
僕自身はラーメンという食べ物が大好きなわけではありませんし、
どちらかというと好きなラーメンに巡り合うほうが少なかったりします。
なのに「ラーメン発見伝」が好きだったり、
雑誌のラーメン特集や、ラーメンガイドブックなんかは読んだりする。
ラーメンという食べ物が複雑化してきていて、
その中にトレンドがあって、多くの人が研鑽を積んでいて、
個性や品質へのコダワリが感じられる部分に惹かれるのかもしれません。
ラーメンという食べ物に込められた人の想い。
それは他の料理の分野でも共通するのかもしれません。
料理人によって、技術も味も個性も、追求すればキリがないでしょう。
ただラーメンという、狭い範囲の1つの食べ物でありながら
かつ定義が曖昧で広い可能性を秘めているものの中には、
作り手の思いが色濃く、分かりやすく見てとれるように感じるんです。
言ってみれば、想いを表現しやすい食べ物なのではないでしょうか。
自由でいて、しかも身近だというのもポイントになるかもしれません。
あらゆる料理でコダワリが強くなっていくと、
それが食べられる店は一般的に、高級店になっていくと思います。
それに比べるとラーメン屋は、一般的なラーメンの価格の範囲で頑張っている。
その中でコダワリと個性を表現している。
想いの強さを身近に感じられそうなところも
昨今のラーメンブームを生み出している要因の1つのような気がします。
食べる側もコダワリをもって関わっていくために、
ラーメンが身近な値段でキープされているのは大事だということです。
そんなラーメンを取り巻く様々なドラマや気持ち、コダワリを描いた
「ラーメン発見伝」というマンガ。
そこにはラーメンを通じて訴えかけてくるメッセージ性もあるようです。
まぁ、メタファーというのは受け取り手が好きなように感じ取るものですから
たまたま「ラーメン発見伝」が僕の内面に響いただけの可能性もありますが…。
ともかく、このマンガを大勢で読み合って、
メタファーとして印象に残ったエピソードを語り合ったりすると
なかなか面白い取り組みになるんじゃないかと思うぐらいなんです。
それほど訴えるものがあるわけです。
「美味しんぼ」でも出てくるようなエピソードですが、
テレビで取材されたりして人気が出てきたときに起きやすい話があります。
どこかで品質が落ちてしまうという話です。
「美味しんぼ」では接客が急に横柄になるとか、
手間のかかる料理を雑に短時間で作ってしまうなんて話がありました。
「こんなのはトンポーローじゃない。ただの豚バラ煮込みだよ」なんて。
ラーメン屋で人気が出てくると起きやすいのは
「スープ切れのため本日は閉店しました」というもの。
確かに一日分の量というのはあるでしょうが、
お客様の立場からすると食べにくるのが目的なわけです。
遠くから時間をかけて食べに来た人もいるかもしれない。
なのに張り紙1枚で「スープ切れのため本日閉店」。
それは努力できる部分が残っていると思います。
人気が出てきている途中の段階なら仕方ない部分もあるでしょう。
予想外に今日は人が来たので、準備していた材料がなくなってしまった。
まずはそんな事態が起きるようになってくるわけです。
ところが、人気が上がってくると徐々にそういうことが増えてくる。
早い時間に売り切れてしまうことが多くなってきたら、
需要が供給できるサービスを上回ってきていることが自覚できているはずなんです。
それを分かっている段階で、どんな行動で対応していくかが問われるという話です。
準備する量を増やして多くの人に食べてもらえるようにするのも1つ。
何時ぐらいに売り切れてしまうかをアナウンスしておくのも1つでしょう。
予約制にするなんていう方法だってあるかもしれません。
評判を聞いて食べに来た人が、何度も食べられずに悔しい思いをするのは
放っておいて良いことではないと思うんです。
一回目に来たときは、もう売り切れで閉店。
二回目に来たときは、行列に並んだのに途中で売り切れ。
三回目に来たときは、開店前から並んだのに大行列で、やっぱり途中で売り切れ。
四回目は覚悟を決めて開店3時間前に行ったのに、
「本日はスープの出来が悪いので臨時休業」という張り紙。
そんなことが繰り返されるのは、いかがかと思うわけです。
店主のコダワリや、調理の兼ね合いで
一日あたりの販売数を限定するのは方針だと思います。
出来が悪いときには開店しないのも方針です。
ただ、そういう可能性があるのなら、
その情報を事前に知ることのできる仕組みを用意するとか
別の対応の仕方があるんじゃないでしょうか。
「美味しいラーメンを作りたい」という気持ちと
「美味しいラーメンを食べてもらいたい」は気持ちは別物のはずです。
また、ラーメン屋の人気が急に上がってくると
そうした急な打ち切りとは逆方向の対応に進む店もあるようです。
確か「ラーメン発見伝」にあったか話だったと思いますが、
スープを水増しして作ってしまうというケースです。
入ってくる大勢のお客様に対応するために、麺は発注量を増やすことで対応。
スープは今まで店でしていた準備だけでは間に合わなくなるので
業務用のスープを購入し、自家製のスープにブレンドして使う。
ベースの味は自分の店のスープですが、ゴマカシに違いはないと思います。
一般的に、1つの寸胴鍋で取れるスープの量は決まっているそうなので、
マンガ中では、その量を超える客数を入れている店に主人公が
クレームを言うようなシーンがあったように記憶しています。
今まで提供していたラーメンのスープを作る作業はしているわけです。
でも客数を増やすことに目を向けたために、業務用スープを混ぜて対応してしまった。
そんな話でした。
人気が出てきてから評判を聞いて来店した人は、
その水増ししたラーメンしか食べたことがないんです。
噂の名店のラーメンはこういう味だと思うでしょう。
でも、開店当時から常連で通っている人は味の変化に気づくかもしれません。
店主はビジネスとして当然のことをしたのかもしれないし、
「スープ切れで売り切れ」というのが嫌いでしたのかもしれない。
良かれと思ってしたのか、仕方なく選択したのか、それは分かりません。
ただ、中には違いを知っている人もいるはずです。
そのラーメンの味に憧れてアルバイトに入った店員。
それまでラーメンは滅多に食べなかったけど、何度も通ううちに
ラーメンの魅力にひかれ、ラーメンの味が分かるようになってきた常連客。
それらの人が何を思うでしょうか。
「ラーメン発見伝」には非常にドライで、ビジネスとしてラーメン屋をやっている
主人公のライバルのような人物も登場します。
主人公を「ラーメンマニア」と罵り、プロ意識の無さを指摘する人物です。
何にフォーカスをして、何を優先し、何を犠牲にするか。
プロとしてやる以上、選択の必要に迫られる場面もあるわけです。
スープの水増しに気づいた人が何を感じるか。
そこも踏まえて店主は選択するのが大事なように思います。
ちなみに、僕の仕事をラーメンに例えると
最近やっているNLPのOB勉強会や、定期的にやっている僕の勉強会は
オリジナル新作ラーメンを限定20食で販売する感じに近いかもしれません。
色々と試行錯誤したラーメンではありますが
最近はコダワリが強くなり過ぎて好みの分かれる味になることもあるみたいです。
物凄く煮干しのダシが利いていたり、ドロドロに豚骨が煮込まれていたり、
野菜だけで作ったラーメンがあったり、汁無しラーメンがあったり…。
そこで、正直に向きあう気持ちがなくなることは、ないつもりです。
時には口に合いずらい場合もあるでしょうが、そんな時にも
申し訳なさはあれど、後ろめたさはありません。
あとは、独りよがりなマニアックなだけのラーメンには
したくないものだと気をつけていますけど。
上には上がいるとは思いますが、一般的に言えば
結構、マンガを読むほうだったんじゃないでしょうか。
読む範囲も、好みのジャンルはなんとなくあった気がしますが
今にして振り返ると意外と料理マンガの類が多かったのを思い出します。
ただし、僕の中で料理マンガのポイントは、料理そのものの絵です。
料理の絵がリアルに描かれていないと受け入れられません。
登場人物のタッチと、料理のタッチが全くの別物になって
料理が美しくリアルに描かれているのが大事でした。
そこから想像を膨らませていたんでしょう。
「美味しんぼ」は途中で買うのを止めてしまいましたが
90巻ぐらいまでは揃えていたと思います。
ちなみに、そんなイメージトレーニングの効果もあってか、
僕の中には「見た目通りの味」という基準が存在しています。
この「見た目通りの味」かどうかという評価基準があるおかげで
僕はお土産を選ぶのが得意だったりしたんだろうと思います。
お菓子は多くのものが見た目通りの味に近いんです。
で、最近も僕は、たまにマンガを読みますが
毎週欠かさずに見ているものの中にも案の定、料理マンガがあります。
「ラーメン発見伝」です。
ラーメンマニアが主人公のマンガ。
サラリーマンとして仕事をしながら、
脱サラしてラーメン屋を開業しようとしている話です。
僕自身はラーメンという食べ物が大好きなわけではありませんし、
どちらかというと好きなラーメンに巡り合うほうが少なかったりします。
なのに「ラーメン発見伝」が好きだったり、
雑誌のラーメン特集や、ラーメンガイドブックなんかは読んだりする。
ラーメンという食べ物が複雑化してきていて、
その中にトレンドがあって、多くの人が研鑽を積んでいて、
個性や品質へのコダワリが感じられる部分に惹かれるのかもしれません。
ラーメンという食べ物に込められた人の想い。
それは他の料理の分野でも共通するのかもしれません。
料理人によって、技術も味も個性も、追求すればキリがないでしょう。
ただラーメンという、狭い範囲の1つの食べ物でありながら
かつ定義が曖昧で広い可能性を秘めているものの中には、
作り手の思いが色濃く、分かりやすく見てとれるように感じるんです。
言ってみれば、想いを表現しやすい食べ物なのではないでしょうか。
自由でいて、しかも身近だというのもポイントになるかもしれません。
あらゆる料理でコダワリが強くなっていくと、
それが食べられる店は一般的に、高級店になっていくと思います。
それに比べるとラーメン屋は、一般的なラーメンの価格の範囲で頑張っている。
その中でコダワリと個性を表現している。
想いの強さを身近に感じられそうなところも
昨今のラーメンブームを生み出している要因の1つのような気がします。
食べる側もコダワリをもって関わっていくために、
ラーメンが身近な値段でキープされているのは大事だということです。
そんなラーメンを取り巻く様々なドラマや気持ち、コダワリを描いた
「ラーメン発見伝」というマンガ。
そこにはラーメンを通じて訴えかけてくるメッセージ性もあるようです。
まぁ、メタファーというのは受け取り手が好きなように感じ取るものですから
たまたま「ラーメン発見伝」が僕の内面に響いただけの可能性もありますが…。
ともかく、このマンガを大勢で読み合って、
メタファーとして印象に残ったエピソードを語り合ったりすると
なかなか面白い取り組みになるんじゃないかと思うぐらいなんです。
それほど訴えるものがあるわけです。
「美味しんぼ」でも出てくるようなエピソードですが、
テレビで取材されたりして人気が出てきたときに起きやすい話があります。
どこかで品質が落ちてしまうという話です。
「美味しんぼ」では接客が急に横柄になるとか、
手間のかかる料理を雑に短時間で作ってしまうなんて話がありました。
「こんなのはトンポーローじゃない。ただの豚バラ煮込みだよ」なんて。
ラーメン屋で人気が出てくると起きやすいのは
「スープ切れのため本日は閉店しました」というもの。
確かに一日分の量というのはあるでしょうが、
お客様の立場からすると食べにくるのが目的なわけです。
遠くから時間をかけて食べに来た人もいるかもしれない。
なのに張り紙1枚で「スープ切れのため本日閉店」。
それは努力できる部分が残っていると思います。
人気が出てきている途中の段階なら仕方ない部分もあるでしょう。
予想外に今日は人が来たので、準備していた材料がなくなってしまった。
まずはそんな事態が起きるようになってくるわけです。
ところが、人気が上がってくると徐々にそういうことが増えてくる。
早い時間に売り切れてしまうことが多くなってきたら、
需要が供給できるサービスを上回ってきていることが自覚できているはずなんです。
それを分かっている段階で、どんな行動で対応していくかが問われるという話です。
準備する量を増やして多くの人に食べてもらえるようにするのも1つ。
何時ぐらいに売り切れてしまうかをアナウンスしておくのも1つでしょう。
予約制にするなんていう方法だってあるかもしれません。
評判を聞いて食べに来た人が、何度も食べられずに悔しい思いをするのは
放っておいて良いことではないと思うんです。
一回目に来たときは、もう売り切れで閉店。
二回目に来たときは、行列に並んだのに途中で売り切れ。
三回目に来たときは、開店前から並んだのに大行列で、やっぱり途中で売り切れ。
四回目は覚悟を決めて開店3時間前に行ったのに、
「本日はスープの出来が悪いので臨時休業」という張り紙。
そんなことが繰り返されるのは、いかがかと思うわけです。
店主のコダワリや、調理の兼ね合いで
一日あたりの販売数を限定するのは方針だと思います。
出来が悪いときには開店しないのも方針です。
ただ、そういう可能性があるのなら、
その情報を事前に知ることのできる仕組みを用意するとか
別の対応の仕方があるんじゃないでしょうか。
「美味しいラーメンを作りたい」という気持ちと
「美味しいラーメンを食べてもらいたい」は気持ちは別物のはずです。
また、ラーメン屋の人気が急に上がってくると
そうした急な打ち切りとは逆方向の対応に進む店もあるようです。
確か「ラーメン発見伝」にあったか話だったと思いますが、
スープを水増しして作ってしまうというケースです。
入ってくる大勢のお客様に対応するために、麺は発注量を増やすことで対応。
スープは今まで店でしていた準備だけでは間に合わなくなるので
業務用のスープを購入し、自家製のスープにブレンドして使う。
ベースの味は自分の店のスープですが、ゴマカシに違いはないと思います。
一般的に、1つの寸胴鍋で取れるスープの量は決まっているそうなので、
マンガ中では、その量を超える客数を入れている店に主人公が
クレームを言うようなシーンがあったように記憶しています。
今まで提供していたラーメンのスープを作る作業はしているわけです。
でも客数を増やすことに目を向けたために、業務用スープを混ぜて対応してしまった。
そんな話でした。
人気が出てきてから評判を聞いて来店した人は、
その水増ししたラーメンしか食べたことがないんです。
噂の名店のラーメンはこういう味だと思うでしょう。
でも、開店当時から常連で通っている人は味の変化に気づくかもしれません。
店主はビジネスとして当然のことをしたのかもしれないし、
「スープ切れで売り切れ」というのが嫌いでしたのかもしれない。
良かれと思ってしたのか、仕方なく選択したのか、それは分かりません。
ただ、中には違いを知っている人もいるはずです。
そのラーメンの味に憧れてアルバイトに入った店員。
それまでラーメンは滅多に食べなかったけど、何度も通ううちに
ラーメンの魅力にひかれ、ラーメンの味が分かるようになってきた常連客。
それらの人が何を思うでしょうか。
「ラーメン発見伝」には非常にドライで、ビジネスとしてラーメン屋をやっている
主人公のライバルのような人物も登場します。
主人公を「ラーメンマニア」と罵り、プロ意識の無さを指摘する人物です。
何にフォーカスをして、何を優先し、何を犠牲にするか。
プロとしてやる以上、選択の必要に迫られる場面もあるわけです。
スープの水増しに気づいた人が何を感じるか。
そこも踏まえて店主は選択するのが大事なように思います。
ちなみに、僕の仕事をラーメンに例えると
最近やっているNLPのOB勉強会や、定期的にやっている僕の勉強会は
オリジナル新作ラーメンを限定20食で販売する感じに近いかもしれません。
色々と試行錯誤したラーメンではありますが
最近はコダワリが強くなり過ぎて好みの分かれる味になることもあるみたいです。
物凄く煮干しのダシが利いていたり、ドロドロに豚骨が煮込まれていたり、
野菜だけで作ったラーメンがあったり、汁無しラーメンがあったり…。
そこで、正直に向きあう気持ちがなくなることは、ないつもりです。
時には口に合いずらい場合もあるでしょうが、そんな時にも
申し訳なさはあれど、後ろめたさはありません。
あとは、独りよがりなマニアックなだけのラーメンには
したくないものだと気をつけていますけど。
2009年04月23日
マナーの本
新入社員研修の時期ですね。
4月に新入社員が入ってくると、組織全体の気分も
リフレッシュされるような印象がある気がします。
自分が新入社員研修を受けていた時のことを思い返すと
随分な内容だったなぁと感じますが、
それでも当時は、それなりの意気込みを持っていたのを覚えています。
僕がいた会社は圧倒的に理系採用が多く、最初から総務系で入社する割合は
新入社員全体の1割にも満たなかったものですから、
いわゆる社会人としてのルールやマナーなどには力が注がれていませんでした。
医薬品関係だとMRに進む人が沢山いたものの、MRは専用の研修期間を取ってたので、
全体の研修は企業理念や会社の内情の説明が多かったのかもしれません。
そんな中ですから電話応対なんて練習したこともなく、
マナーの話を聞いたのは、たしか名刺交換の練習と
お辞儀の部分だけだったように記憶しています。
まぁ、あとは現場で学んでいけというスタンスだったのでしょう。
とはいえ、研究所にいれば名刺なんて使うことも滅多になく、
学会に出向いたときに使うぐらいのものでした。
懐かしいものです。
で、先日、ジュンク堂書店に行ったら沢山のビジネスマナー本が売られていたんです。
もちろんビジネスマナーのコーナーは以前からありますが、
4月ごろはマナー系に力を入れるようでした。
そんな中、この4月に発売された一冊の本が、
そのコーナーの棚で一番目立つところに並べられていたんです。
目線ぐらいの高さにズラッと。
この本の著者は名古屋のNLPの受講生の方。
受講中に1つの目標として取り組んだテーマが
出版という形になったという話です。
新入社員に向けた分かりやすい本だと思います。
セミナー中はともかく、人と出会うことを考えたら
僕もマナーを気にしたほうがいいかもしれません。
マンガで学ぶ新人マナー「なんで挨拶しなきゃいけないの?」マナーの「ナンデ?」がわかる本
クチコミを見る
4月に新入社員が入ってくると、組織全体の気分も
リフレッシュされるような印象がある気がします。
自分が新入社員研修を受けていた時のことを思い返すと
随分な内容だったなぁと感じますが、
それでも当時は、それなりの意気込みを持っていたのを覚えています。
僕がいた会社は圧倒的に理系採用が多く、最初から総務系で入社する割合は
新入社員全体の1割にも満たなかったものですから、
いわゆる社会人としてのルールやマナーなどには力が注がれていませんでした。
医薬品関係だとMRに進む人が沢山いたものの、MRは専用の研修期間を取ってたので、
全体の研修は企業理念や会社の内情の説明が多かったのかもしれません。
そんな中ですから電話応対なんて練習したこともなく、
マナーの話を聞いたのは、たしか名刺交換の練習と
お辞儀の部分だけだったように記憶しています。
まぁ、あとは現場で学んでいけというスタンスだったのでしょう。
とはいえ、研究所にいれば名刺なんて使うことも滅多になく、
学会に出向いたときに使うぐらいのものでした。
懐かしいものです。
で、先日、ジュンク堂書店に行ったら沢山のビジネスマナー本が売られていたんです。
もちろんビジネスマナーのコーナーは以前からありますが、
4月ごろはマナー系に力を入れるようでした。
そんな中、この4月に発売された一冊の本が、
そのコーナーの棚で一番目立つところに並べられていたんです。
目線ぐらいの高さにズラッと。
この本の著者は名古屋のNLPの受講生の方。
受講中に1つの目標として取り組んだテーマが
出版という形になったという話です。
新入社員に向けた分かりやすい本だと思います。
セミナー中はともかく、人と出会うことを考えたら
僕もマナーを気にしたほうがいいかもしれません。
マンガで学ぶ新人マナー「なんで挨拶しなきゃいけないの?」マナーの「ナンデ?」がわかる本
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2009年04月21日
達人のボキャブラリー
言葉には影響力があります。
心に響く言葉というのがあります。
それは誰が言うか、どのように言うかによっても随分と変わるものですが、
ある程度は、気の利いた言葉としてボキャブラリーに依存するところもあるはずです。
名言を知っていると使いやすい、ということです。
とはいえ、どんな効果的な言葉であっても、それが使われる状況が重要なものです。
相応しい場面、適切なタイミングで発するからこそ役に立つ言葉がある。
だからこそ、効果的な言葉を学ぶには
リアルなコミュニケーションの場面に身を置くのが手っ取り早いんです。
効果的な言葉、気の利いた言葉、自分には予想もつかないような受け答え、…
多くの言葉遣いを勉強するには、それが使われる場面を見る。
すると、「なるほど。そういう時に、そんな言葉を使うのか」という学びが得られます。
そうした自分にとって新しい言葉遣いは、日常の些細なところからも学べるはずです。
たまたま出会った人でも、よく接する職場の仲間でも、友人関係からも、
自分には馴染みのない言葉遣いをする人がいるものです。
そういう人に出会ったら、その言葉遣いを真似してみる。
同じような場面になったときに、自分もその言葉を言っているわけです。
すると、何らかの反応が得られるはずです。
言葉を発する時には、無意識のうちに答えを予想していると思います。
答えの内容そのものではなくても、答えの方向性を予測して言葉を選ぶ。
「たぶん、こういうことを言ったら、相手はこんな反応をするだろう…」と。
そこには過去の経験があるんです。
パターン化された経験です。
この言葉の後には、こういう言葉が返ってくるという経験。
言葉は単独で記憶されるわけではないと考えられます。
一連の流れの中で記憶されているんです。
だから、場面に応じて適切な受け答えができるわけです。
言いかえれば、発言には目的があるということでもあります。
何かの答えの方向性を予測している。
こういう方向に会話を進めたい。
質問の場合であれば、自分が期待している答えの方向性があるということです。
自分が知りたいことがあって、そのために質問する。
会話の流れや、相手の考えの方向を導くためにも質問が選ばれます。
少なからず先読みがなされているんです。
相手の話を聞いていて「あ、こういうことが言いたいのかな?」と
結論がなんとなく先に理解できたような気持ちになったり、
「結局、結論として何が言いたいんだ?」と
最終的な話の行き先が気になってしまったりするのは、
まさに会話の先読みをしているからと考えられます。
カウンセリングにせよ、コーチングにせよ、
会話を通じて相手のサポートをするときには、
特にこの先読みということが重要になってきます。
全く先読みができないうちには、何を言えばいいのか、
何を質問すればいいのかが分からないものです。
それは流れが掴めていないことで起きるものです。
一方、自分自身の人生経験や仕事上の経験が蓄積されてくると
先読みできることも増えてきます。
すると、少ない言葉からでも勝手に先読みをしてしまうことになります。
その先読みが適切であれば優秀な導きができますが、
必ずしもそういうわけではないものです。
むしろ、自分と他人の違いを踏まえずに先読みをしてしまうケースのほうが多いでしょう。
先読みが多くなってくると起きやすいのが、
発言内容が長くなるということです。
相手の話ではなくて、自分の話になっていきやすい。
日常会話であれば、相手の話を聞いている間に
自分の話がしたくなってきて話をしようとすることは多々あるものです。
やり過ぎると「話好き」のレッテルを貼られる。
それだけのことです。
それがカウンセリングやコーチングといった相談に応じる場面だと意味が違います。
相手の話を中心に進めていくのが前提だからです。
相手の話を聞いていて、自分の話をしたくなったら
確認をとってから発言する必要があります。
「私の個人的な話ですが、お話してもよろしいですか?」と。
この場合は、自分の話だと自覚できていることが多いようです。
ところが、質問の形をとっていると、
自分の考えが反映されていることに気づきにくくなる印象を受けます。
相手の話から先読みをして、質問をする。
自分の質問から得られる答えも先読みをしている。
相手の考えの流れや話の方向性を、自分の質問でコントロールしている状況です。
そうなると多くの場合、質問が長くなるんです。
質問の言葉そのものが長くなるんです。
コーチやカウンセラーが言葉を発している時間が長くなっているとしたら
その発言内容には、先読みという形で自分の考えが反映されている可能性が高いんです。
相手を主体としたコミュニケーションにおいては
自分自身の使う言葉の長さを短くしていくようにトレーニングするのが大切です。
少ない言葉に意味を込めると、重みが増していくわけです。
効果的に質問をしていくには、まさにこの点が重要になります。
先読みをしながらも、自分の考えの方向を押し付けない。
先読みをし過ぎた質問は答えの方向を制限することになります。
それは自分の予測の方向性に相手をコントロールすることになります。
コミュニケーションの主体が自分になっている状態です。
相手が答えられる幅を広くとれるような質問の形がポイントかもしれません。
それは多くの場合、短い言葉で表現されます。
相手の答えの可能性が広いということは
その先の展開が読みにくいということでもあります。
答えの幅を広く予測しておくことが大切だと思います。
「こんなことを質問すると、相手はこんなことを答える」
そういうパターンを身につけておく必要があるということです。
先読みをしているからこそできるわけですが、
先読みの内容が決め付けになっていたらできない作業です。
複数の可能性を同時に予測しながら先読みをしていると言ってもいいでしょう。
全体の流れを導くために幅広く先読みをしながら質問をして、
同時に特定の考えに制限しないように、相手の話を主体にする。
このバランスが高度なコミュニケーション技術だと思うんです。
そのためには質問や言葉かけの目的を知っていることが不可欠だと考えられます。
目的や意図が分かっていると適切な先読みができます。
効果的な言葉がけや質問を学ぶ時には、
・どんな状況や場面の、どんな流れの中で出てきた言葉か
・その言葉によって、どんな答えが得られたか
・それを踏まえると、何を目的として使われた言葉だったのか
ということを意識すると良いように思います。
逆に言うと、このうちの1つでも欠けていたら
どんなに効果的な言葉でも、効果的に使えなくなってしまいます。
適切な状況や場面が分からなければ、場違いな言葉になります。
愚痴を聞いて欲しい人には、解決に導くような質問は不要です。
心に響く感動的なメッセージも、前置きがあってのことかもしれません。
言葉がけの結果として得られる答えを知っているから先読みができます。
同様の反応を期待しながら、言葉を発するようになれます。
そのためには自分も真似して使ってみて、その言葉の効果を実感するのが大切です。
そして、目的を理解していないと、どんな効果的な言葉も台無しになることがあります。
「少しでも可能性を拡げてもらえれば…」という気持ちから出る言葉も
「思い込みを壊してやろう」という気持ちで使ってしまっては
相手の抵抗に合いかねません。
NLPには多くの効果的な言葉があります。
多くの効果的な言葉を技術として分類してあります。
メタモデル、ミルトンモデル、スライトオブマウス…。
いずれも言葉を分類したものです。
言葉の持つ効果にフォーカスされています。
言葉の構造が主体となっている印象があるんです。
元々は、コミュニケーションの達人と呼ばれた人たちが
どんな言葉を用いていたかを研究して生まれたものです。
それが技術として伝えられる時、元々使っていた本人たちの意図が抜け落ちます。
彼らは、どんな場面で、何を先読みして、どんな気持ちから
その言葉を発していたんでしょうか。
効果的な言葉を学ぶには、ボキャブラリーとして
言葉遣いそのものを増やしていくことも大切です。
しかし、それ以上に、その言葉を使う人の意図を感じ取ることが
はるかに重要ではないかと思います。
心に響く言葉というのがあります。
それは誰が言うか、どのように言うかによっても随分と変わるものですが、
ある程度は、気の利いた言葉としてボキャブラリーに依存するところもあるはずです。
名言を知っていると使いやすい、ということです。
とはいえ、どんな効果的な言葉であっても、それが使われる状況が重要なものです。
相応しい場面、適切なタイミングで発するからこそ役に立つ言葉がある。
だからこそ、効果的な言葉を学ぶには
リアルなコミュニケーションの場面に身を置くのが手っ取り早いんです。
効果的な言葉、気の利いた言葉、自分には予想もつかないような受け答え、…
多くの言葉遣いを勉強するには、それが使われる場面を見る。
すると、「なるほど。そういう時に、そんな言葉を使うのか」という学びが得られます。
そうした自分にとって新しい言葉遣いは、日常の些細なところからも学べるはずです。
たまたま出会った人でも、よく接する職場の仲間でも、友人関係からも、
自分には馴染みのない言葉遣いをする人がいるものです。
そういう人に出会ったら、その言葉遣いを真似してみる。
同じような場面になったときに、自分もその言葉を言っているわけです。
すると、何らかの反応が得られるはずです。
言葉を発する時には、無意識のうちに答えを予想していると思います。
答えの内容そのものではなくても、答えの方向性を予測して言葉を選ぶ。
「たぶん、こういうことを言ったら、相手はこんな反応をするだろう…」と。
そこには過去の経験があるんです。
パターン化された経験です。
この言葉の後には、こういう言葉が返ってくるという経験。
言葉は単独で記憶されるわけではないと考えられます。
一連の流れの中で記憶されているんです。
だから、場面に応じて適切な受け答えができるわけです。
言いかえれば、発言には目的があるということでもあります。
何かの答えの方向性を予測している。
こういう方向に会話を進めたい。
質問の場合であれば、自分が期待している答えの方向性があるということです。
自分が知りたいことがあって、そのために質問する。
会話の流れや、相手の考えの方向を導くためにも質問が選ばれます。
少なからず先読みがなされているんです。
相手の話を聞いていて「あ、こういうことが言いたいのかな?」と
結論がなんとなく先に理解できたような気持ちになったり、
「結局、結論として何が言いたいんだ?」と
最終的な話の行き先が気になってしまったりするのは、
まさに会話の先読みをしているからと考えられます。
カウンセリングにせよ、コーチングにせよ、
会話を通じて相手のサポートをするときには、
特にこの先読みということが重要になってきます。
全く先読みができないうちには、何を言えばいいのか、
何を質問すればいいのかが分からないものです。
それは流れが掴めていないことで起きるものです。
一方、自分自身の人生経験や仕事上の経験が蓄積されてくると
先読みできることも増えてきます。
すると、少ない言葉からでも勝手に先読みをしてしまうことになります。
その先読みが適切であれば優秀な導きができますが、
必ずしもそういうわけではないものです。
むしろ、自分と他人の違いを踏まえずに先読みをしてしまうケースのほうが多いでしょう。
先読みが多くなってくると起きやすいのが、
発言内容が長くなるということです。
相手の話ではなくて、自分の話になっていきやすい。
日常会話であれば、相手の話を聞いている間に
自分の話がしたくなってきて話をしようとすることは多々あるものです。
やり過ぎると「話好き」のレッテルを貼られる。
それだけのことです。
それがカウンセリングやコーチングといった相談に応じる場面だと意味が違います。
相手の話を中心に進めていくのが前提だからです。
相手の話を聞いていて、自分の話をしたくなったら
確認をとってから発言する必要があります。
「私の個人的な話ですが、お話してもよろしいですか?」と。
この場合は、自分の話だと自覚できていることが多いようです。
ところが、質問の形をとっていると、
自分の考えが反映されていることに気づきにくくなる印象を受けます。
相手の話から先読みをして、質問をする。
自分の質問から得られる答えも先読みをしている。
相手の考えの流れや話の方向性を、自分の質問でコントロールしている状況です。
そうなると多くの場合、質問が長くなるんです。
質問の言葉そのものが長くなるんです。
コーチやカウンセラーが言葉を発している時間が長くなっているとしたら
その発言内容には、先読みという形で自分の考えが反映されている可能性が高いんです。
相手を主体としたコミュニケーションにおいては
自分自身の使う言葉の長さを短くしていくようにトレーニングするのが大切です。
少ない言葉に意味を込めると、重みが増していくわけです。
効果的に質問をしていくには、まさにこの点が重要になります。
先読みをしながらも、自分の考えの方向を押し付けない。
先読みをし過ぎた質問は答えの方向を制限することになります。
それは自分の予測の方向性に相手をコントロールすることになります。
コミュニケーションの主体が自分になっている状態です。
相手が答えられる幅を広くとれるような質問の形がポイントかもしれません。
それは多くの場合、短い言葉で表現されます。
相手の答えの可能性が広いということは
その先の展開が読みにくいということでもあります。
答えの幅を広く予測しておくことが大切だと思います。
「こんなことを質問すると、相手はこんなことを答える」
そういうパターンを身につけておく必要があるということです。
先読みをしているからこそできるわけですが、
先読みの内容が決め付けになっていたらできない作業です。
複数の可能性を同時に予測しながら先読みをしていると言ってもいいでしょう。
全体の流れを導くために幅広く先読みをしながら質問をして、
同時に特定の考えに制限しないように、相手の話を主体にする。
このバランスが高度なコミュニケーション技術だと思うんです。
そのためには質問や言葉かけの目的を知っていることが不可欠だと考えられます。
目的や意図が分かっていると適切な先読みができます。
効果的な言葉がけや質問を学ぶ時には、
・どんな状況や場面の、どんな流れの中で出てきた言葉か
・その言葉によって、どんな答えが得られたか
・それを踏まえると、何を目的として使われた言葉だったのか
ということを意識すると良いように思います。
逆に言うと、このうちの1つでも欠けていたら
どんなに効果的な言葉でも、効果的に使えなくなってしまいます。
適切な状況や場面が分からなければ、場違いな言葉になります。
愚痴を聞いて欲しい人には、解決に導くような質問は不要です。
心に響く感動的なメッセージも、前置きがあってのことかもしれません。
言葉がけの結果として得られる答えを知っているから先読みができます。
同様の反応を期待しながら、言葉を発するようになれます。
そのためには自分も真似して使ってみて、その言葉の効果を実感するのが大切です。
そして、目的を理解していないと、どんな効果的な言葉も台無しになることがあります。
「少しでも可能性を拡げてもらえれば…」という気持ちから出る言葉も
「思い込みを壊してやろう」という気持ちで使ってしまっては
相手の抵抗に合いかねません。
NLPには多くの効果的な言葉があります。
多くの効果的な言葉を技術として分類してあります。
メタモデル、ミルトンモデル、スライトオブマウス…。
いずれも言葉を分類したものです。
言葉の持つ効果にフォーカスされています。
言葉の構造が主体となっている印象があるんです。
元々は、コミュニケーションの達人と呼ばれた人たちが
どんな言葉を用いていたかを研究して生まれたものです。
それが技術として伝えられる時、元々使っていた本人たちの意図が抜け落ちます。
彼らは、どんな場面で、何を先読みして、どんな気持ちから
その言葉を発していたんでしょうか。
効果的な言葉を学ぶには、ボキャブラリーとして
言葉遣いそのものを増やしていくことも大切です。
しかし、それ以上に、その言葉を使う人の意図を感じ取ることが
はるかに重要ではないかと思います。
2009年04月19日
かみねんど
先日、あるセミナー(勉強会)で粘土細工をしました。
心理療法の中にはアートセラピーと呼ばれる分野があって
絵を描いたり、何かを作ったりすることが結構あります。
1つには無意識のイメージを表現して、そこからの気づきを得るという目的もあって、
精神分析的に表現されたものから深層心理を読み解く目的もある。
ただ、人間という存在に共通する性質として
音楽や美術などの芸術に心が動かされる部分もあるわけです。
古来より引き継がれてきた芸術活動には人の心に訴えかける何かがありそう。
そういう意味で、創作活動は、かなり刺激的なプロセスだと思われます。
僕自身は、普段から芸術活動をしているわけではありませんが
芸術全般は結構好きなようです。
絵を描いたり、字を書いたり、工作をしたり、音楽を聴いたり、
ちょっと始めたつもりが夢中になってしまうところがあります。
他人と比較して、妥協するタイミングが遅い気がします。
こだわりがあるとも言えるかもしれません。
余談ですが、僕のそういう部分を見ている人が勘違いしやすいのは
僕が神経質っぽいとか、綺麗好きっぽいとか、そういう印象の部分。
何かを始めると妥協しないということと、
常日頃から完璧な状態を維持しておくというのは別物です。
どうでもいいところは気にしないけど、関心が向いたら妥協しない。
そんな傾向があるんだと思います。
で、先日やった粘土細工は30〜40分くらいの短時間でしたが、面白くて
相当のめりこんで作業をしていました。
僕は触覚と味覚の共感覚が強めなので、粘土はあまり好きじゃないんです。
触っているうちに口の中が気持ち悪くなってくるんです。
陶芸の土は、同時に水を使っているので大丈夫ですが、
小学校でやっていたような粘土細工は苦手です。
あの青味がかったネズミ色の油粘土は我慢できません。
その点、最近の紙粘土は柔らかく、フワフワしていて軽いものなんですね。
同じ紙粘土でも昔ながらのドッシリと重くてベタッと冷たいヤツとは違います。
「フワフワムースのかみねんど」。
ひそかに流行っているそうです。
これなら気持ち悪さはチョットで済みました。
そのときに作ったのがコチラ。
なんとなく作ったものですが、かなり楽しい時間を過ごしました。
芸術系は全般に趣味になりそうな印象を持っていますが、
同時に僕の中には、それに没頭するタイミングは今ではないような予感もあります。
数十年たって頃に、さまざまな形での表現を始めるかもしれません。
言葉で表現できる範囲は少ないものです。
言葉では言い表せないものを言葉以外の形で表現する。
そこにも大きな意味を感じます。
今は、その表現する対象を自分の中に貯め込んでいく時期だと思っています。
心理療法の中にはアートセラピーと呼ばれる分野があって
絵を描いたり、何かを作ったりすることが結構あります。
1つには無意識のイメージを表現して、そこからの気づきを得るという目的もあって、
精神分析的に表現されたものから深層心理を読み解く目的もある。
ただ、人間という存在に共通する性質として
音楽や美術などの芸術に心が動かされる部分もあるわけです。
古来より引き継がれてきた芸術活動には人の心に訴えかける何かがありそう。
そういう意味で、創作活動は、かなり刺激的なプロセスだと思われます。
僕自身は、普段から芸術活動をしているわけではありませんが
芸術全般は結構好きなようです。
絵を描いたり、字を書いたり、工作をしたり、音楽を聴いたり、
ちょっと始めたつもりが夢中になってしまうところがあります。
他人と比較して、妥協するタイミングが遅い気がします。
こだわりがあるとも言えるかもしれません。
余談ですが、僕のそういう部分を見ている人が勘違いしやすいのは
僕が神経質っぽいとか、綺麗好きっぽいとか、そういう印象の部分。
何かを始めると妥協しないということと、
常日頃から完璧な状態を維持しておくというのは別物です。
どうでもいいところは気にしないけど、関心が向いたら妥協しない。
そんな傾向があるんだと思います。
で、先日やった粘土細工は30〜40分くらいの短時間でしたが、面白くて
相当のめりこんで作業をしていました。
僕は触覚と味覚の共感覚が強めなので、粘土はあまり好きじゃないんです。
触っているうちに口の中が気持ち悪くなってくるんです。
陶芸の土は、同時に水を使っているので大丈夫ですが、
小学校でやっていたような粘土細工は苦手です。
あの青味がかったネズミ色の油粘土は我慢できません。
その点、最近の紙粘土は柔らかく、フワフワしていて軽いものなんですね。
同じ紙粘土でも昔ながらのドッシリと重くてベタッと冷たいヤツとは違います。
「フワフワムースのかみねんど」。
ひそかに流行っているそうです。
これなら気持ち悪さはチョットで済みました。
そのときに作ったのがコチラ。
なんとなく作ったものですが、かなり楽しい時間を過ごしました。
芸術系は全般に趣味になりそうな印象を持っていますが、
同時に僕の中には、それに没頭するタイミングは今ではないような予感もあります。
数十年たって頃に、さまざまな形での表現を始めるかもしれません。
言葉で表現できる範囲は少ないものです。
言葉では言い表せないものを言葉以外の形で表現する。
そこにも大きな意味を感じます。
今は、その表現する対象を自分の中に貯め込んでいく時期だと思っています。
2009年04月16日
子供のフリをして
名探偵コナンというマンガがあります。
テレビアニメとしても放送されています。
天才的な高校生の探偵が悪者のしわざで子供の姿にさせられてしまう話。
小学生の姿でありながら、頭脳や運動神経は天才高校生のまま。
そんな主人公がコッソリと探偵活動をして事件を解決していくんです。
ところで、何かの話題で
「もう一度人生をやり直せるなら何歳に戻りたいか」
というテーマが挙げられていたのを覚えています。
まぁ、日常会話でもそんな話題に触れたり、
あるいは自分で過去を振り返っていて「またあの頃に戻りたいわぁ」なんて
思う時もあるかもしれません。
ここ数年、僕は過去に戻りたいという気持ちは全くありませんが、
以前は心のどこかに「あの時をやり直したい」という思いがあったものです。
それだけ後悔していた出来事がいくつかあったということですが。
今、自分の中にあるのは、
もし過去をやり直したとしたら今現在の自分が変わってしまう
というところに対して期待していない思いです。
それは恐怖に近いものでさえあります。
そう考えると今の自分に満足しているということなのかもしれませんし、
自分の人生の進み方として肯定的に見ているようにも思えます。
とにかく「過去に戻って、それをやり直してみる」という仮定は
映画「バタフライ・エフェクト」のように現在の自分を大きく変える可能性という点で
僕はあまり想像しなくなったわけです。
(映画「バタフライ・エフェクト」は面白かったですが)
で、そういうのとは別に
「あの頃の楽しかった時間をもう一度体験したい」
という気持ちだけで、「あの頃に戻りたい」と考える人もいるようです。
高校生の頃は毎日楽しかったなぁ、なんて。
高校生の楽しい時期だけを3年間過ごして、思い出を味わってきたあとに
再び、いつもの現在に戻ってくる。
そんな自分の過去の一場面を映画のように体験できたら
なんだか面白いものかもしれません。
ただ、個人的には、あまりそういう時期がないですし、
高校生に戻ったら毎日、学校の勉強をしなきゃいけないなぁ、とか
中学校に戻ったら毎日、塾に行かなきゃいけないなぁ、とか
そんな面倒臭い気持ちもあったりします。
そんな僕が興味を持っている仮定が、
名探偵コナンのように子供に戻るというものだったりします。
子供じゃなくても良いんですが、今の自分の記憶や脳内の情報を持ったまま
自分の過去の年代をやってみたい、という好奇心。
今の知識を持っていれば、子供の頃の勉強なんてチョロイもんです。
運動にしても、体は子供に戻りますが、運動の理論や体の使い方は分かっているので
きっと相当上手にできるでしょう。
天才少年ですよ。
もっと没頭してみたかったと今に振り返ることであれば
何でも集中してやってみたりできるんじゃないか。
そんな空想をしてみたりするわけです。
ところが、それさえもやっぱり僕には耐えられないかもしれません。
良い面もあれば悪い面もあるはずですが、
僕にとっては良い面を楽しめる喜びよりも我慢の苦しみのほうが大きい気がしたんです。
今の自分が体だけ小学生や中学生に戻って、周りに溶け込めるだろうか。
いや、溶け込むように努力をするだろうけど、それは楽しいだろうか。
分かっている内容をもう一度、習っていくとして
その時間は退屈なのではないか。
専門分野で深く学んできた本質的な情報を横において
表面的で分かりやすく説明された内容が受け入れられるだろうか。
そこには居場所がないような気がします。
もし甲子園に出場するような人が子供の体に戻ったとしたら
近所の少年野球チームでは楽しく野球をできないでしょう。
ピッチャーだとしたらボールを取れるキャッチャーがいないかもしれません。
もしプロのダンサーが幼稚園児の体になったとしたら
お遊戯なんてバカバカしくてやっていられないかもしれません。
もし英語をネイティブと同じように話せるビジネスマンが中学一年生になったら
英語の授業の不自然さに耐えられないかもしれません。
数学を研究している大学教授が小学生になったら
計算ドリルで同級生に負けてしまうことだってあるかもしれません。
そんな状況では自分の実力を隠すことになる気がします。
周りに合わせたり、自分からアクションを起こさなかったり。
それは相当な苦痛だと思います。
名探偵コナンの救いは、身近に事件が沢山起きるところでしょう。
それに主人公が活躍するためにサポートしてくれた阿笠博士もいる。
警察や探偵の知り合いもいる。
そういう場所があるからこそ、小学校も我慢できるのかもしれません。
居場所があるのは大事なことだと思いました。
テレビアニメとしても放送されています。
天才的な高校生の探偵が悪者のしわざで子供の姿にさせられてしまう話。
小学生の姿でありながら、頭脳や運動神経は天才高校生のまま。
そんな主人公がコッソリと探偵活動をして事件を解決していくんです。
ところで、何かの話題で
「もう一度人生をやり直せるなら何歳に戻りたいか」
というテーマが挙げられていたのを覚えています。
まぁ、日常会話でもそんな話題に触れたり、
あるいは自分で過去を振り返っていて「またあの頃に戻りたいわぁ」なんて
思う時もあるかもしれません。
ここ数年、僕は過去に戻りたいという気持ちは全くありませんが、
以前は心のどこかに「あの時をやり直したい」という思いがあったものです。
それだけ後悔していた出来事がいくつかあったということですが。
今、自分の中にあるのは、
もし過去をやり直したとしたら今現在の自分が変わってしまう
というところに対して期待していない思いです。
それは恐怖に近いものでさえあります。
そう考えると今の自分に満足しているということなのかもしれませんし、
自分の人生の進み方として肯定的に見ているようにも思えます。
とにかく「過去に戻って、それをやり直してみる」という仮定は
映画「バタフライ・エフェクト」のように現在の自分を大きく変える可能性という点で
僕はあまり想像しなくなったわけです。
(映画「バタフライ・エフェクト」は面白かったですが)
で、そういうのとは別に
「あの頃の楽しかった時間をもう一度体験したい」
という気持ちだけで、「あの頃に戻りたい」と考える人もいるようです。
高校生の頃は毎日楽しかったなぁ、なんて。
高校生の楽しい時期だけを3年間過ごして、思い出を味わってきたあとに
再び、いつもの現在に戻ってくる。
そんな自分の過去の一場面を映画のように体験できたら
なんだか面白いものかもしれません。
ただ、個人的には、あまりそういう時期がないですし、
高校生に戻ったら毎日、学校の勉強をしなきゃいけないなぁ、とか
中学校に戻ったら毎日、塾に行かなきゃいけないなぁ、とか
そんな面倒臭い気持ちもあったりします。
そんな僕が興味を持っている仮定が、
名探偵コナンのように子供に戻るというものだったりします。
子供じゃなくても良いんですが、今の自分の記憶や脳内の情報を持ったまま
自分の過去の年代をやってみたい、という好奇心。
今の知識を持っていれば、子供の頃の勉強なんてチョロイもんです。
運動にしても、体は子供に戻りますが、運動の理論や体の使い方は分かっているので
きっと相当上手にできるでしょう。
天才少年ですよ。
もっと没頭してみたかったと今に振り返ることであれば
何でも集中してやってみたりできるんじゃないか。
そんな空想をしてみたりするわけです。
ところが、それさえもやっぱり僕には耐えられないかもしれません。
良い面もあれば悪い面もあるはずですが、
僕にとっては良い面を楽しめる喜びよりも我慢の苦しみのほうが大きい気がしたんです。
今の自分が体だけ小学生や中学生に戻って、周りに溶け込めるだろうか。
いや、溶け込むように努力をするだろうけど、それは楽しいだろうか。
分かっている内容をもう一度、習っていくとして
その時間は退屈なのではないか。
専門分野で深く学んできた本質的な情報を横において
表面的で分かりやすく説明された内容が受け入れられるだろうか。
そこには居場所がないような気がします。
もし甲子園に出場するような人が子供の体に戻ったとしたら
近所の少年野球チームでは楽しく野球をできないでしょう。
ピッチャーだとしたらボールを取れるキャッチャーがいないかもしれません。
もしプロのダンサーが幼稚園児の体になったとしたら
お遊戯なんてバカバカしくてやっていられないかもしれません。
もし英語をネイティブと同じように話せるビジネスマンが中学一年生になったら
英語の授業の不自然さに耐えられないかもしれません。
数学を研究している大学教授が小学生になったら
計算ドリルで同級生に負けてしまうことだってあるかもしれません。
そんな状況では自分の実力を隠すことになる気がします。
周りに合わせたり、自分からアクションを起こさなかったり。
それは相当な苦痛だと思います。
名探偵コナンの救いは、身近に事件が沢山起きるところでしょう。
それに主人公が活躍するためにサポートしてくれた阿笠博士もいる。
警察や探偵の知り合いもいる。
そういう場所があるからこそ、小学校も我慢できるのかもしれません。
居場所があるのは大事なことだと思いました。
2009年04月14日
水
僕は水が好きです。
飲み物として水を好むというわけではなく、
水という物質が好きだという感じが近い気がします。
…飲み物としては味があるほうが好きです。
水に浸かっているのも好きです。
プールで泳がされるのは苦しかった記憶がありますが、
自由に水の中に浸かっているだけだったら好きなんです。
小さい頃の水遊びみたいなもんでしょうか。
水を見ているのも好きです。
水の流れ。
水の動き。
流体の動きは面白いと思いますが、水の振る舞いは他の液体と違った性質が沢山ある。
水の動きには心を惹かれます。
砂糖などが水に溶けていく様子も、見ていると飽きません。
そこには溶解と拡散の美しさがあります。
化学的に水の性質を考えても、水というのは不思議で凄い物質です。
水が水の性質を持っているからこそ、我々の命があると言っても過言ではない。
まぁ、水があったから生命がこのような形になったと考えることもできますが。
0度から100度の狭い温範囲で個体・液体・気体と全ての状態を取るのも、
個体の密度が液体の密度よりも小さいのも水ぐらいなもの。
氷が水よりも軽いから、氷が水に浮くわけです。
分子の運動ということを考えると、通常の物質は
液体よりも固体のほうが高密度になっていくものなんです。
それが水は違う。
水が氷に浮くから、凍った海の底でも生命が活動できたとも考えられるかもしれません。
また、水から不純物を取り除き、物凄く純粋な水に近づけていくと
様々なものを分解する作用まで出てきます。
一時期の話題になったダイオキシンも超臨界水と呼ばれる状態の水で分解可能ですし、
水を高圧で噴き出せばダイヤモンドも切れてしまう。
やっぱり水は凄いです。
そして、何より僕の中には水に対して綺麗な印象があります。
ドブ川の水は悲しいですが、澄んだ水は美しいものです。
心理学的なメタファーとしても水は象徴的に登場しますし、
宗教的なメッセージとしても水の意味は大きいようです。
五行説というのもありますが、五行の中でも僕の好みはダントツで水に向きます。
こういうことに理由は分かりませんが、
自分の中で水の意味が大きいということそのものが
自分自身を形作る上で重要な位置を占めているようにも思えます。
人には何か、理由もなく惹かれるものというのがあるのかもしれません。
飲み物として水を好むというわけではなく、
水という物質が好きだという感じが近い気がします。
…飲み物としては味があるほうが好きです。
水に浸かっているのも好きです。
プールで泳がされるのは苦しかった記憶がありますが、
自由に水の中に浸かっているだけだったら好きなんです。
小さい頃の水遊びみたいなもんでしょうか。
水を見ているのも好きです。
水の流れ。
水の動き。
流体の動きは面白いと思いますが、水の振る舞いは他の液体と違った性質が沢山ある。
水の動きには心を惹かれます。
砂糖などが水に溶けていく様子も、見ていると飽きません。
そこには溶解と拡散の美しさがあります。
化学的に水の性質を考えても、水というのは不思議で凄い物質です。
水が水の性質を持っているからこそ、我々の命があると言っても過言ではない。
まぁ、水があったから生命がこのような形になったと考えることもできますが。
0度から100度の狭い温範囲で個体・液体・気体と全ての状態を取るのも、
個体の密度が液体の密度よりも小さいのも水ぐらいなもの。
氷が水よりも軽いから、氷が水に浮くわけです。
分子の運動ということを考えると、通常の物質は
液体よりも固体のほうが高密度になっていくものなんです。
それが水は違う。
水が氷に浮くから、凍った海の底でも生命が活動できたとも考えられるかもしれません。
また、水から不純物を取り除き、物凄く純粋な水に近づけていくと
様々なものを分解する作用まで出てきます。
一時期の話題になったダイオキシンも超臨界水と呼ばれる状態の水で分解可能ですし、
水を高圧で噴き出せばダイヤモンドも切れてしまう。
やっぱり水は凄いです。
そして、何より僕の中には水に対して綺麗な印象があります。
ドブ川の水は悲しいですが、澄んだ水は美しいものです。
心理学的なメタファーとしても水は象徴的に登場しますし、
宗教的なメッセージとしても水の意味は大きいようです。
五行説というのもありますが、五行の中でも僕の好みはダントツで水に向きます。
こういうことに理由は分かりませんが、
自分の中で水の意味が大きいということそのものが
自分自身を形作る上で重要な位置を占めているようにも思えます。
人には何か、理由もなく惹かれるものというのがあるのかもしれません。
2009年04月12日
作品
世界は受け取る人によって違う。
何に注目するかも、何を知っているかも、人それぞれです。
世の中と呼べるものは、その人が生きてきた人生そのものを反映しているんです。
現実の、実際の世界は存在していたとしても
それをそのまま認識できている生物は存在しないはずです、多分。
意識的な判断をするかしないか、ということでも世界の捉え方は違いますから
ありのまま、自分の五感が知覚するままに世界を感じ取ろうとする方向性もあります。
それでも、五感というものを通った時点で現実世界とは別物を知覚しているわけです。
たとえば、人間が視覚で捉えているものは、あくまでも特定の波長の光であって
世の中の景色の大部分を光の反射によって知覚できているということです。
人間には紫外線や赤外線は見えませんが、
一部の動物の光受容体は紫外線を捉える事ができる。
人間の目で見ている世界と、他の動物の目で見ている世界は別物なんです。
もっと身近な話で言えば、人が視覚を通じて見ている世界は
その人の視力によっても違いますし、サングラスをかけただけでも別物になります。
匂いにいたっては、遺伝的に感じ方の違う種類の物質があったりします。
それに、慣れてくると匂いを感じなくなることも日常によくあることです。
家の匂いなんて、他人の家を訪れて初めて意識するものじゃないでしょうか。
そのように人間が五感で感じ取り、理解した世界というのは
人によってバラバラだということです。
自分の体の外で起きていることを五感を通じてインプットする。
そのインプットされる情報も、インプットされた情報がどのように整理されるかも、
人によって違いがあるわけです。
当たり前のことなんですが、とても重要なことだと思います。
そして、人生のあらゆる局面を通じてインプットされた全ての情報が
その個人の中で世界観を作り上げていきます。
自分とは。
人生とは。
社会とは。
世の中とは。
宇宙とは。
森羅万象は人の中に、それぞれの形で存在している。
自分の捉えている森羅万象を言葉で説明しようとする人は哲学者になるのかもしれません。
それを数学で説明しようとする人、
物理で説明しようとする人、
化学で説明しようとする人…、
様々な視点で説明が試みられます。
別に説明しなくても気にならない人も大勢いるとは思いますが、
それでも、その人なりの世界観に基づいて人が生活していることは間違いありません。
全ての行動には、その人の世界観が反映されているんです。
行動や発言は、アウトプットの行為です。
五感を通じてインプットしてきた情報を処理して
アウトプットをしているわけです。
インプットされるものが違い、インプットされた情報の整理の仕方も違うのだから、
アウトプットされるものが人によって違っているのは当然のこと。
個性はアウトプットを通じて表現されているとも言えるでしょう。
その意味で、アウトプットの全て、
つまり行動や発言の全ては個性的であって、主観的であると言えます。
どんなに客観的に情報をまとめているつもりのものでも
その人だけが認識している世界観を反映している以上、
その人だけの表現方法でなされる主観的なものなんです。
(世間一般で言われる「主観的」には気持ちの含まれる度合いが高いようですが)
ですから、どのようにアウトプットしたとしても、それは主観的なものであって
その表現方法が多くの人の世界観と一致するほど「写実的」と言われることになります。
逆に、その人が認識している世界観を表現したものが
他の人からすると自分の世界観と違って受け取られるときに、
その表現内容のことを「個性的」だとか「面白い」とか言うわけです。
一般に「芸術」と呼ばれるものは、表現する本人のアウトプットの仕方が
多くの人の世界観と異なった個性的なものであるようです。
一方、「科学」は徹底的に写実的でなくてはならない。
そんな違いがあるように思います。
ただ、そうは言っても実際には、あらゆるアウトプットが現実と違っている以上
個性的な度合の違いがあるだけで、全てが表現方法であることには変わらないはずです。
英語で「art」と言った場合には「芸術」としての意味の他に
「技術」としての意味合いも含まれますし、
「自然の模倣、人工」といった意味もあります。
人間のアウトプットの行為は全て「art」であって、
そこから残されるものは全て「art」の「作品」なんです。
例えば、写真や動画などは現代社会においては写実的なアウトプット方法ですが、
それでも撮る人によって表現方法が違ってくるものです。
光の度合いや構図で好みがある。
本人が良いと思った写真は、やはりその人の作品なわけです。
同じ対象を絵画で表現した場合、そちらのほうが「芸術的」に受け取られがちですが、
写実的な度合が下がっているだけでと考えることもできます。
むしろ重要なのは写実的か、個性的かという視点で芸術を捉えるのではなく、
そのアウトプットされた「作品」が、どれほど作者の世界観を反映しているか
という視点ではないかと思います。
自分が捉えている世界、自分にとっての森羅万象の理を
いかに1つの作品に集約させてアウトプットできるか。
それが芸術性の高さじゃないでしょうか。
その人が人生で経験してきた全てが反映されたアウトプット、
そんな形で表現された作品には、他人に感動を与える力があるような気がします。
自分の世界観をもっとも効果的に表現できるアウトプット方法も
人によって違っているのが当然です。
それが絵画であれば画家になり、
それが音楽であれば音楽家になり、
それが物語であれば小説家になり、
それが科学であれば科学者になり、
それが漫才であれば漫才師になる。
そういう違いです。
作品が形に残らない人もいるでしょう。
言葉だけで世界観を語った人は、思想として受け継がれるのかもしれません。
どういう種類の作品でアウトプットされたものであっても、
そこに作者の人生を通じた世界観が集約されていれば「art」だということです。
レオナルド・ダ・ヴィンチにとっての「モナ・リザ」が、
ゴッホにとっての「ひまわり」が、
アインシュタインにとっての「一般相対性理論」が、
手塚治虫にとっての「火の鳥」が、
「art」の「作品」なのではないかと思います。
ミルトン・エリクソンの「作品」は形には残らなかったかもしれませんが、
それは彼の治療方法に反映されていたはずです。
自分にとっての作品は、どんな形になるんでしょうか。
それが楽しみです。
何に注目するかも、何を知っているかも、人それぞれです。
世の中と呼べるものは、その人が生きてきた人生そのものを反映しているんです。
現実の、実際の世界は存在していたとしても
それをそのまま認識できている生物は存在しないはずです、多分。
意識的な判断をするかしないか、ということでも世界の捉え方は違いますから
ありのまま、自分の五感が知覚するままに世界を感じ取ろうとする方向性もあります。
それでも、五感というものを通った時点で現実世界とは別物を知覚しているわけです。
たとえば、人間が視覚で捉えているものは、あくまでも特定の波長の光であって
世の中の景色の大部分を光の反射によって知覚できているということです。
人間には紫外線や赤外線は見えませんが、
一部の動物の光受容体は紫外線を捉える事ができる。
人間の目で見ている世界と、他の動物の目で見ている世界は別物なんです。
もっと身近な話で言えば、人が視覚を通じて見ている世界は
その人の視力によっても違いますし、サングラスをかけただけでも別物になります。
匂いにいたっては、遺伝的に感じ方の違う種類の物質があったりします。
それに、慣れてくると匂いを感じなくなることも日常によくあることです。
家の匂いなんて、他人の家を訪れて初めて意識するものじゃないでしょうか。
そのように人間が五感で感じ取り、理解した世界というのは
人によってバラバラだということです。
自分の体の外で起きていることを五感を通じてインプットする。
そのインプットされる情報も、インプットされた情報がどのように整理されるかも、
人によって違いがあるわけです。
当たり前のことなんですが、とても重要なことだと思います。
そして、人生のあらゆる局面を通じてインプットされた全ての情報が
その個人の中で世界観を作り上げていきます。
自分とは。
人生とは。
社会とは。
世の中とは。
宇宙とは。
森羅万象は人の中に、それぞれの形で存在している。
自分の捉えている森羅万象を言葉で説明しようとする人は哲学者になるのかもしれません。
それを数学で説明しようとする人、
物理で説明しようとする人、
化学で説明しようとする人…、
様々な視点で説明が試みられます。
別に説明しなくても気にならない人も大勢いるとは思いますが、
それでも、その人なりの世界観に基づいて人が生活していることは間違いありません。
全ての行動には、その人の世界観が反映されているんです。
行動や発言は、アウトプットの行為です。
五感を通じてインプットしてきた情報を処理して
アウトプットをしているわけです。
インプットされるものが違い、インプットされた情報の整理の仕方も違うのだから、
アウトプットされるものが人によって違っているのは当然のこと。
個性はアウトプットを通じて表現されているとも言えるでしょう。
その意味で、アウトプットの全て、
つまり行動や発言の全ては個性的であって、主観的であると言えます。
どんなに客観的に情報をまとめているつもりのものでも
その人だけが認識している世界観を反映している以上、
その人だけの表現方法でなされる主観的なものなんです。
(世間一般で言われる「主観的」には気持ちの含まれる度合いが高いようですが)
ですから、どのようにアウトプットしたとしても、それは主観的なものであって
その表現方法が多くの人の世界観と一致するほど「写実的」と言われることになります。
逆に、その人が認識している世界観を表現したものが
他の人からすると自分の世界観と違って受け取られるときに、
その表現内容のことを「個性的」だとか「面白い」とか言うわけです。
一般に「芸術」と呼ばれるものは、表現する本人のアウトプットの仕方が
多くの人の世界観と異なった個性的なものであるようです。
一方、「科学」は徹底的に写実的でなくてはならない。
そんな違いがあるように思います。
ただ、そうは言っても実際には、あらゆるアウトプットが現実と違っている以上
個性的な度合の違いがあるだけで、全てが表現方法であることには変わらないはずです。
英語で「art」と言った場合には「芸術」としての意味の他に
「技術」としての意味合いも含まれますし、
「自然の模倣、人工」といった意味もあります。
人間のアウトプットの行為は全て「art」であって、
そこから残されるものは全て「art」の「作品」なんです。
例えば、写真や動画などは現代社会においては写実的なアウトプット方法ですが、
それでも撮る人によって表現方法が違ってくるものです。
光の度合いや構図で好みがある。
本人が良いと思った写真は、やはりその人の作品なわけです。
同じ対象を絵画で表現した場合、そちらのほうが「芸術的」に受け取られがちですが、
写実的な度合が下がっているだけでと考えることもできます。
むしろ重要なのは写実的か、個性的かという視点で芸術を捉えるのではなく、
そのアウトプットされた「作品」が、どれほど作者の世界観を反映しているか
という視点ではないかと思います。
自分が捉えている世界、自分にとっての森羅万象の理を
いかに1つの作品に集約させてアウトプットできるか。
それが芸術性の高さじゃないでしょうか。
その人が人生で経験してきた全てが反映されたアウトプット、
そんな形で表現された作品には、他人に感動を与える力があるような気がします。
自分の世界観をもっとも効果的に表現できるアウトプット方法も
人によって違っているのが当然です。
それが絵画であれば画家になり、
それが音楽であれば音楽家になり、
それが物語であれば小説家になり、
それが科学であれば科学者になり、
それが漫才であれば漫才師になる。
そういう違いです。
作品が形に残らない人もいるでしょう。
言葉だけで世界観を語った人は、思想として受け継がれるのかもしれません。
どういう種類の作品でアウトプットされたものであっても、
そこに作者の人生を通じた世界観が集約されていれば「art」だということです。
レオナルド・ダ・ヴィンチにとっての「モナ・リザ」が、
ゴッホにとっての「ひまわり」が、
アインシュタインにとっての「一般相対性理論」が、
手塚治虫にとっての「火の鳥」が、
「art」の「作品」なのではないかと思います。
ミルトン・エリクソンの「作品」は形には残らなかったかもしれませんが、
それは彼の治療方法に反映されていたはずです。
自分にとっての作品は、どんな形になるんでしょうか。
それが楽しみです。
2009年04月10日
方便と実態
コーチングやNLPをやっていると
「答えは自分の中にある」
というような表現を耳にすることがあるようです。
これは、1つの戒めとしては大変有効なものだと思います。
普通に自分なりのやり方で生きてくると、
自分と他人と違いというのをハッキリ意識する人は少ないものです。
他人の話を聞いていると、その内容を自分の人生観に当てはめて理解をして
それに対する自分の考えが出てきてしまう。
相手が困って相談に来ているのなら、相手の状況を自分で想像して
理解したつもりになって、その状況に対する解決策を伝えようとすることになります。
もちろん、それが上手くいくケースもあります。
圧倒的にカリスマ性のある人物であったり、
相談している本人が尊敬してやまない人物からのアドバイスだったりすると、
とても良いことを教えてもらったような気持ちになれます。
…まぁ、それが本人にとって上手くいくやり方かどうかは分かりませんが。
何より、人は相手の話を聞く時に、相手の言葉を理解する必要があるわけです。
このときに、相手の言葉を形作っている体験内容が不明なままで
相手の話を聞かなければならないため、聞く側も
自分の体験で作られた言葉を介して理解する必要が出てきます。
例えば、「不安だ」という話を聞いたとしても、話し手と聞き手の間で
「不安」という言葉に対応している体験が違うということです。
相手がどのように不安なのかは分からないにも関わらず、
自分の知っている不安の体験を元に、相手の不安を理解してしまう。
まず、この点で相手の話を全て理解することができないというわけです。
それは仕方ないことなんです。
また、相手の話の内容をどのように理解するかという部分にも
人によって違いが出てくるような気がします。
どちらかというと気持ちとか感情とかに無頓着で
話の内容を客観的に理解できる人のほうが、相手の話を
自分の主観をまじえずに聞きやすいと思うんです。
冷静に、淡々と、相手の状況を理解して整理できる。
コンサルタントがクライアントの現状を把握するときや、警察の尋問、
入社試験の面接官が相手を理解しようとして質問するときなどは
この感じに近くなるケースが多いような気がします。
自分の体験とは全くの別物として、相手の話を聞き、
1つの事実を明確にしていこうとするプロセス。
事実の因果関係や時系列などを整理するわけです。
相手の体験というものを客観的な1つのエピソードとして
形作っていく作業と言えるかもしれません。
この場合、基本的に情報は多ければ多いほど良いのですが、
話し手の状況の因果関係が整理されると、なんとなく納得できるようです。
ある程度聞いて、話の筋道が見えたときに「理解できた」となる。
話し手の気持ちや、体験に対する聞き手側からの主観的な印象は
会話の間で意識されにくいというのも特徴でしょう。
共感的ではないものの、正確な情報を得ることができるわけです。
こういう人のアドバイスは主観的なものというよりは
一般論としての正論になりやすいような気がします。
筋は通ってるけど、それができれば苦労しない…。
そんな感じになることも少なくないかもしれません。
一方、相手の話の内容を自分の体験にフィードバックしながら聞く人もいます。
言葉が自分の体験と強く結び付いていると考えられます。
相手の話を自分で推測しながら、自分の体験と照らし合わせる。
状況を推測しながら自分だったらどう感じるかを自然と探っている傾向です。
そのため、相手の話を聞きながら、聞いている自分の気持ちが意識されます。
「大変だなぁ」とか「辛いですねぇ」とか。
いわゆる共感力がある人です。
親身になって聞いている。
ただ、相手の話の内容そのものに共感していくプロセスは
あくまで自分なりに相手の体験談を推測しながら感じているものなので、
実際に相手が体験したことと違う内容に感情移入する可能性もあります。
話の前置きの部分に強く共感してしまったり、
話し手本人はチョットだけ嫌な体験だったのに聞き手側が大袈裟に聞いてしまったり。
相手の話を主観をまじえつつ聞いているということです。
そんな人の場合、相手の問題について親身になり過ぎて
「自分がなんとかしてあげよう」なんていう気持ちも沸いてくるかもしれません。
共感力があるので相手の気持ちを感じ取りながら話を聞きますから
相談の場合には、その話を聞くスタイルに暖かみを感じやすい特徴はあります。
その一方で、話の内容をどのように理解するかということに関しては
自分の体験を自然と思い起こしながら聞く傾向にあるので
割りと早い段階で話を理解したつもりになりやすいとも考えられます。
少ない情報を元に主観的に理解して、内容に対する自分の気持ちを感じる。
そこから出てくるアドバイスは親身になってくれている反面、
見当違いだったり、押しつけがましかったりするように捉えられる可能性もあるでしょう。
世間一般のイメージからすると、前者は男性的、後者は女性的と言われるようですが、
どちらが良い悪いではないと思います。
むしろ、両方が必要なんです。
バランスよく、どちらにも偏っていない場合よりも、
両方を同時に高いレベルで発揮できることがコミュニケーションにおいて
重要なものとなってくると考えられます。
それは技術として両方の側面を磨いていくということです。
しかしながら、いずれの性質にしても相手のことが理解できない点では変わりません。
相手の状況を事実に近い形で客観的に聞ける能力。
相手の気持ちを共感するように、自分の気持ち(主観)を入れて聞ける能力。
そのどちらも、相手をきちんと理解してはいません。
相手の体験内容の事実を把握し、相手の気持ちを感じ取る。
その両方を高いレベルでできたとしても、相手の全てが分かったわけではないんです。
だからこそ、相談援助という場面においては、話し手の自己決定が重要なわけです。
相手のことは相手本人しか分からない。
その前提で、相手自身が状況を整理して、気持ちを整理できるように話を聞く。
それが最高の援助になるんだと思います。
相手の話を自分が理解したところで、そのこと自体が役に立つとは限らないはずです。
重要なのは相手が必要としていることを提供すること。
その前段階として相手の話を整理するプロセスが入るんじゃないでしょうか。
そうした会話の中には、相手の答えを引き出す作業は入りません。
間違っても、こちらが主観的、あるいは一般論として客観的に思いつく答えに
クライアントを導くことはありえません。
自分が答えだと思うことを、相手に気づかせようなんて滅相もない。
まずは相手が本当に望んでいることを明確にするのが先です。
「自分の中の答え」を探してもらう前に、
自分が何を求めているのかを明確にする必要があるということです。
それさえ明確になった後では、外からのアドバイスが役に立つこともあるんです。
何かの知識や技術を提供することが必要な場合には、
答えはクライアント自身の中にはないわけですから。
自分自身が全ての答えを持っているという発想は極端な気がします。
「何かの専門的な情報を必要としている」ということに気づくのが
本人にとっての「答え」だというところまで拡大解釈するのなら、
「答えは自分の中にある」と言い切ってしまっても良いのかもしれませんが。
その前に、現実的なところから考えていくと、
「答えは自分自身の中にある」と思っているほうが
相手の話を上手に聞けるようになる可能性が高いというメリットがあるわけです。
客観的な視点から見たときのアドバイスを答えとして言いたくなるのでもなく、
親身になって主観的な答えを教えてあげたくなるのでもなく、
答えは相手が自分で出せるんだと思っていると
相談した人を逆に不愉快にさせてしまう危険性を避けられるということです。
「答えは自分の中にある」
それが方便として機能している状況でしょう。
カッコイイ言葉は、その意味を良く考えてみるのが大事なように思います。
「答えは自分の中にある」
というような表現を耳にすることがあるようです。
これは、1つの戒めとしては大変有効なものだと思います。
普通に自分なりのやり方で生きてくると、
自分と他人と違いというのをハッキリ意識する人は少ないものです。
他人の話を聞いていると、その内容を自分の人生観に当てはめて理解をして
それに対する自分の考えが出てきてしまう。
相手が困って相談に来ているのなら、相手の状況を自分で想像して
理解したつもりになって、その状況に対する解決策を伝えようとすることになります。
もちろん、それが上手くいくケースもあります。
圧倒的にカリスマ性のある人物であったり、
相談している本人が尊敬してやまない人物からのアドバイスだったりすると、
とても良いことを教えてもらったような気持ちになれます。
…まぁ、それが本人にとって上手くいくやり方かどうかは分かりませんが。
何より、人は相手の話を聞く時に、相手の言葉を理解する必要があるわけです。
このときに、相手の言葉を形作っている体験内容が不明なままで
相手の話を聞かなければならないため、聞く側も
自分の体験で作られた言葉を介して理解する必要が出てきます。
例えば、「不安だ」という話を聞いたとしても、話し手と聞き手の間で
「不安」という言葉に対応している体験が違うということです。
相手がどのように不安なのかは分からないにも関わらず、
自分の知っている不安の体験を元に、相手の不安を理解してしまう。
まず、この点で相手の話を全て理解することができないというわけです。
それは仕方ないことなんです。
また、相手の話の内容をどのように理解するかという部分にも
人によって違いが出てくるような気がします。
どちらかというと気持ちとか感情とかに無頓着で
話の内容を客観的に理解できる人のほうが、相手の話を
自分の主観をまじえずに聞きやすいと思うんです。
冷静に、淡々と、相手の状況を理解して整理できる。
コンサルタントがクライアントの現状を把握するときや、警察の尋問、
入社試験の面接官が相手を理解しようとして質問するときなどは
この感じに近くなるケースが多いような気がします。
自分の体験とは全くの別物として、相手の話を聞き、
1つの事実を明確にしていこうとするプロセス。
事実の因果関係や時系列などを整理するわけです。
相手の体験というものを客観的な1つのエピソードとして
形作っていく作業と言えるかもしれません。
この場合、基本的に情報は多ければ多いほど良いのですが、
話し手の状況の因果関係が整理されると、なんとなく納得できるようです。
ある程度聞いて、話の筋道が見えたときに「理解できた」となる。
話し手の気持ちや、体験に対する聞き手側からの主観的な印象は
会話の間で意識されにくいというのも特徴でしょう。
共感的ではないものの、正確な情報を得ることができるわけです。
こういう人のアドバイスは主観的なものというよりは
一般論としての正論になりやすいような気がします。
筋は通ってるけど、それができれば苦労しない…。
そんな感じになることも少なくないかもしれません。
一方、相手の話の内容を自分の体験にフィードバックしながら聞く人もいます。
言葉が自分の体験と強く結び付いていると考えられます。
相手の話を自分で推測しながら、自分の体験と照らし合わせる。
状況を推測しながら自分だったらどう感じるかを自然と探っている傾向です。
そのため、相手の話を聞きながら、聞いている自分の気持ちが意識されます。
「大変だなぁ」とか「辛いですねぇ」とか。
いわゆる共感力がある人です。
親身になって聞いている。
ただ、相手の話の内容そのものに共感していくプロセスは
あくまで自分なりに相手の体験談を推測しながら感じているものなので、
実際に相手が体験したことと違う内容に感情移入する可能性もあります。
話の前置きの部分に強く共感してしまったり、
話し手本人はチョットだけ嫌な体験だったのに聞き手側が大袈裟に聞いてしまったり。
相手の話を主観をまじえつつ聞いているということです。
そんな人の場合、相手の問題について親身になり過ぎて
「自分がなんとかしてあげよう」なんていう気持ちも沸いてくるかもしれません。
共感力があるので相手の気持ちを感じ取りながら話を聞きますから
相談の場合には、その話を聞くスタイルに暖かみを感じやすい特徴はあります。
その一方で、話の内容をどのように理解するかということに関しては
自分の体験を自然と思い起こしながら聞く傾向にあるので
割りと早い段階で話を理解したつもりになりやすいとも考えられます。
少ない情報を元に主観的に理解して、内容に対する自分の気持ちを感じる。
そこから出てくるアドバイスは親身になってくれている反面、
見当違いだったり、押しつけがましかったりするように捉えられる可能性もあるでしょう。
世間一般のイメージからすると、前者は男性的、後者は女性的と言われるようですが、
どちらが良い悪いではないと思います。
むしろ、両方が必要なんです。
バランスよく、どちらにも偏っていない場合よりも、
両方を同時に高いレベルで発揮できることがコミュニケーションにおいて
重要なものとなってくると考えられます。
それは技術として両方の側面を磨いていくということです。
しかしながら、いずれの性質にしても相手のことが理解できない点では変わりません。
相手の状況を事実に近い形で客観的に聞ける能力。
相手の気持ちを共感するように、自分の気持ち(主観)を入れて聞ける能力。
そのどちらも、相手をきちんと理解してはいません。
相手の体験内容の事実を把握し、相手の気持ちを感じ取る。
その両方を高いレベルでできたとしても、相手の全てが分かったわけではないんです。
だからこそ、相談援助という場面においては、話し手の自己決定が重要なわけです。
相手のことは相手本人しか分からない。
その前提で、相手自身が状況を整理して、気持ちを整理できるように話を聞く。
それが最高の援助になるんだと思います。
相手の話を自分が理解したところで、そのこと自体が役に立つとは限らないはずです。
重要なのは相手が必要としていることを提供すること。
その前段階として相手の話を整理するプロセスが入るんじゃないでしょうか。
そうした会話の中には、相手の答えを引き出す作業は入りません。
間違っても、こちらが主観的、あるいは一般論として客観的に思いつく答えに
クライアントを導くことはありえません。
自分が答えだと思うことを、相手に気づかせようなんて滅相もない。
まずは相手が本当に望んでいることを明確にするのが先です。
「自分の中の答え」を探してもらう前に、
自分が何を求めているのかを明確にする必要があるということです。
それさえ明確になった後では、外からのアドバイスが役に立つこともあるんです。
何かの知識や技術を提供することが必要な場合には、
答えはクライアント自身の中にはないわけですから。
自分自身が全ての答えを持っているという発想は極端な気がします。
「何かの専門的な情報を必要としている」ということに気づくのが
本人にとっての「答え」だというところまで拡大解釈するのなら、
「答えは自分の中にある」と言い切ってしまっても良いのかもしれませんが。
その前に、現実的なところから考えていくと、
「答えは自分自身の中にある」と思っているほうが
相手の話を上手に聞けるようになる可能性が高いというメリットがあるわけです。
客観的な視点から見たときのアドバイスを答えとして言いたくなるのでもなく、
親身になって主観的な答えを教えてあげたくなるのでもなく、
答えは相手が自分で出せるんだと思っていると
相談した人を逆に不愉快にさせてしまう危険性を避けられるということです。
「答えは自分の中にある」
それが方便として機能している状況でしょう。
カッコイイ言葉は、その意味を良く考えてみるのが大事なように思います。