2009年05月
2009年05月30日
不平等ということ
「noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)」という考え方があります。
貴族などの裕福な立場の人が持つ精神的、社会的な義務のことです。
イギリスでは現在でも浸透している考え方だそうですし、
アメリカで言えば、いわゆる成功者と呼ばれる人たちが
ボランティアをすることを当然としているのも、これに当たると思われます。
個人的な満足のために富を求めるのではなく、
影響力のある立場の人間として社会貢献を意識するということでしょう。
ルネサンス期で考えてみれば、芸術家に対するパトロンの立場も
ある意味ではノブレス・オブリージュの部分があったのかもしれません。
売れない画家を画商が発掘して支援していくのには
ビジネスとしての観点も含まれているでしょうし、
芸術家を支援したパトロンも個人的な欲求から来るところもあったかもしれませんが、
芸術に対する想いというのは、どこか尊いものがあるような気がします。
優れた作品を世の中に残していく。
そのために芸術家を支援する。
そういうスタンスも、1つのノブレス・オブリージュではないでしょうか。
現代に目をやっても、企業の社会貢献というスタンスは
私利私欲を超えたノブレス・オブリージュの側面を持つのかもしれません。
ビジネスとして個人の利益や欲求を追い求めるのではなく、
社会に対して富を還元していくという姿勢。
それは社会的責任の上に成り立っているようです。
最近では企業のミッションなどを明確に打ち立てることが流行っているようで、
インターネット広告から企業のホームページへランダムに行ってみても
そのホームページ上にミッションが書かれていることは少なくありません。
それが企業としての社会貢献を意識しているのか、
そのような考えを元に経営していくことを学んだから、そうしているのか、
その辺りのことは僕には分かりません。
ただ、大切なのは、この「貢献しよう」という姿勢が
どこから来たものであるのかということだと思うんです。
最初から企業としての「あるべき姿」を描きながら進めていくのは
方針として素晴らしいことなのでしょうが、
その「あるべき姿」を本心から望んでいるかが重要な気がします。
本当は、単純に利益を求めていて、経済的な成功に関心がある。
本当は、誰かから評価されることを求めていて、社会的な地位に関心がある。
本当は、自分が好きなことをしたいだけで、他人には興味がない。
そういう本心があるのは当然のことだと思います。
そして、それは大切な原動力になっているはずです。
もちろん、そのことを大っぴらにアピールするのは悪い印象を与えかねませんが、
その気持ちに嘘をつく必要はないと思うわけです。
そもそも「貢献」という気持ちには、通常では、なかなか辿り着けない気がします。
そこには当事者としての不平等感があるように思うんです。
不平等感という言葉は僕の印象を言語化したものですから
人によって表現の仕方は変わってくるでしょう。
「世の中は決して平等ではない」ことを意識しているというか。
例えば、死線を乗り越えた人というのは大きな変化をすることが多いようです。
自分が生きていること自体に感謝ができるようになるのかもしれません。
同じような境遇にある人が他にもいて、その中で自分だけは生き残れた。
そんな経験があれば自分の存在に対する見方が変わるのも当然でしょう。
僕の近くには事故や病気で若くして亡くなった人が数人います。
それは僕にとって非常に衝撃的な出来事でした。
悔しさに近い怒りを抱えていた時期もありました。
その人の分までという傲慢さはないけれど、
僕の中で「真剣さ」という価値観が高まったのには影響があると思います。
世界中の誰であれ、どのような状況であれ、
自分が「今の自分」として生きていることは当たり前ではないわけです。
この時代の、この国の、この地域の、この家族で生まれ育ち、
このような体を持ち、このような現在を生きている自分。
それは唯一の存在であって、それは平等ではないんです。
全ての人がユニークな存在で、全ての人が素晴らしいという
オンリーワンの考え方も大切なことだと思います。
優劣ではなく、皆が価値のある存在だという考え方は素晴らしいものでしょう。
でも、そのユニークな存在は平等ではないんです。
それは優劣を表現したいのではありません。
それぞれが違っていて、生まれたときから差があるということです。
運命や前世などを信じる人からすれば、
「今回は、こういう自分だ」と思えるのかもしれませんが、
どんな自分であっても、それが他人とは違う存在であることは同じのはずです。
むしろ、生まれる前から決まっていることや
生まれ変わっても続いていくことがあるなら、
その存在が平等ではないことは、さらに顕著になる気がします。
自分が自分であることは、すでに平等ではない。
その感じを実感するというのは、逆に言えば
自分が自分であることを感謝できる状態ではないでしょうか。
自分が、今のこのタイミングで、今の自分として生まれてきた。
自分にできること、自分の持っているもの。
それは自分にとって偶然に与えられた不平等なものだ。
その自分を認められて、それに心の底から感謝ができたとき、
自分だけが持っている何かを、他の人のために使おうとするんじゃないか。
そんなことを思うわけです。
貴族というのは、まさに生まれたときから不平等に裕福な存在です。
それは当然のことではありません。
もともとのノブレス・オブリージュは、もしかしたら
その不平等に気づき、感謝できた誰かが始めたことだったのかもしれません。
裕福な立場だから社会に貢献するのが当然だ、というスタンスは
自分が裕福な立場でいられることへの感謝とは少し違う印象を受けます。
アメリカには、大学の奨学金などを含めて
成功した先達が後進の育成を支援する文化があるようですが、
それも本来は文化とは違うところから来ていたものじゃないかと思います。
日本人的な表現にすれば「恩返し」に近い感じだったかもしれません。
企業のミッションというのも同様だと感じます。
最初は個人の満足のためで良いと思うんです。
いつか満たされてきたとき、そんな自分の不平等に感謝できるようになり、
自分以外の存在としての社会に対して影響を考えたくなる。
貢献は自分の存在への感謝から始まるということです。
その意味では、全ての人は不平等に「恵まれている」とも考えられます。
オンリーワンで、違った恵まれ方をしているという考え方です。
それは「自分は自分のままでいいんだ」という受容的なスタンスよりも
ずっと積極的な姿勢かもしれません。
全員が「自分で良かった」と思えるだけの何かを持っているのかもしれません。
その人の人生には、他にはない魅力があるのかもしれません。
他人は皆、うらやましく思えて、
同時に自分で良かったと思える。
なんだか、大勢で食事に行った時に似ている気がします。
「あ、それ美味しそうだね。良いなぁ、それも食べたいなぁ。
うん。でも、やっぱり、これ美味しいよ。」
貴族などの裕福な立場の人が持つ精神的、社会的な義務のことです。
イギリスでは現在でも浸透している考え方だそうですし、
アメリカで言えば、いわゆる成功者と呼ばれる人たちが
ボランティアをすることを当然としているのも、これに当たると思われます。
個人的な満足のために富を求めるのではなく、
影響力のある立場の人間として社会貢献を意識するということでしょう。
ルネサンス期で考えてみれば、芸術家に対するパトロンの立場も
ある意味ではノブレス・オブリージュの部分があったのかもしれません。
売れない画家を画商が発掘して支援していくのには
ビジネスとしての観点も含まれているでしょうし、
芸術家を支援したパトロンも個人的な欲求から来るところもあったかもしれませんが、
芸術に対する想いというのは、どこか尊いものがあるような気がします。
優れた作品を世の中に残していく。
そのために芸術家を支援する。
そういうスタンスも、1つのノブレス・オブリージュではないでしょうか。
現代に目をやっても、企業の社会貢献というスタンスは
私利私欲を超えたノブレス・オブリージュの側面を持つのかもしれません。
ビジネスとして個人の利益や欲求を追い求めるのではなく、
社会に対して富を還元していくという姿勢。
それは社会的責任の上に成り立っているようです。
最近では企業のミッションなどを明確に打ち立てることが流行っているようで、
インターネット広告から企業のホームページへランダムに行ってみても
そのホームページ上にミッションが書かれていることは少なくありません。
それが企業としての社会貢献を意識しているのか、
そのような考えを元に経営していくことを学んだから、そうしているのか、
その辺りのことは僕には分かりません。
ただ、大切なのは、この「貢献しよう」という姿勢が
どこから来たものであるのかということだと思うんです。
最初から企業としての「あるべき姿」を描きながら進めていくのは
方針として素晴らしいことなのでしょうが、
その「あるべき姿」を本心から望んでいるかが重要な気がします。
本当は、単純に利益を求めていて、経済的な成功に関心がある。
本当は、誰かから評価されることを求めていて、社会的な地位に関心がある。
本当は、自分が好きなことをしたいだけで、他人には興味がない。
そういう本心があるのは当然のことだと思います。
そして、それは大切な原動力になっているはずです。
もちろん、そのことを大っぴらにアピールするのは悪い印象を与えかねませんが、
その気持ちに嘘をつく必要はないと思うわけです。
そもそも「貢献」という気持ちには、通常では、なかなか辿り着けない気がします。
そこには当事者としての不平等感があるように思うんです。
不平等感という言葉は僕の印象を言語化したものですから
人によって表現の仕方は変わってくるでしょう。
「世の中は決して平等ではない」ことを意識しているというか。
例えば、死線を乗り越えた人というのは大きな変化をすることが多いようです。
自分が生きていること自体に感謝ができるようになるのかもしれません。
同じような境遇にある人が他にもいて、その中で自分だけは生き残れた。
そんな経験があれば自分の存在に対する見方が変わるのも当然でしょう。
僕の近くには事故や病気で若くして亡くなった人が数人います。
それは僕にとって非常に衝撃的な出来事でした。
悔しさに近い怒りを抱えていた時期もありました。
その人の分までという傲慢さはないけれど、
僕の中で「真剣さ」という価値観が高まったのには影響があると思います。
世界中の誰であれ、どのような状況であれ、
自分が「今の自分」として生きていることは当たり前ではないわけです。
この時代の、この国の、この地域の、この家族で生まれ育ち、
このような体を持ち、このような現在を生きている自分。
それは唯一の存在であって、それは平等ではないんです。
全ての人がユニークな存在で、全ての人が素晴らしいという
オンリーワンの考え方も大切なことだと思います。
優劣ではなく、皆が価値のある存在だという考え方は素晴らしいものでしょう。
でも、そのユニークな存在は平等ではないんです。
それは優劣を表現したいのではありません。
それぞれが違っていて、生まれたときから差があるということです。
運命や前世などを信じる人からすれば、
「今回は、こういう自分だ」と思えるのかもしれませんが、
どんな自分であっても、それが他人とは違う存在であることは同じのはずです。
むしろ、生まれる前から決まっていることや
生まれ変わっても続いていくことがあるなら、
その存在が平等ではないことは、さらに顕著になる気がします。
自分が自分であることは、すでに平等ではない。
その感じを実感するというのは、逆に言えば
自分が自分であることを感謝できる状態ではないでしょうか。
自分が、今のこのタイミングで、今の自分として生まれてきた。
自分にできること、自分の持っているもの。
それは自分にとって偶然に与えられた不平等なものだ。
その自分を認められて、それに心の底から感謝ができたとき、
自分だけが持っている何かを、他の人のために使おうとするんじゃないか。
そんなことを思うわけです。
貴族というのは、まさに生まれたときから不平等に裕福な存在です。
それは当然のことではありません。
もともとのノブレス・オブリージュは、もしかしたら
その不平等に気づき、感謝できた誰かが始めたことだったのかもしれません。
裕福な立場だから社会に貢献するのが当然だ、というスタンスは
自分が裕福な立場でいられることへの感謝とは少し違う印象を受けます。
アメリカには、大学の奨学金などを含めて
成功した先達が後進の育成を支援する文化があるようですが、
それも本来は文化とは違うところから来ていたものじゃないかと思います。
日本人的な表現にすれば「恩返し」に近い感じだったかもしれません。
企業のミッションというのも同様だと感じます。
最初は個人の満足のためで良いと思うんです。
いつか満たされてきたとき、そんな自分の不平等に感謝できるようになり、
自分以外の存在としての社会に対して影響を考えたくなる。
貢献は自分の存在への感謝から始まるということです。
その意味では、全ての人は不平等に「恵まれている」とも考えられます。
オンリーワンで、違った恵まれ方をしているという考え方です。
それは「自分は自分のままでいいんだ」という受容的なスタンスよりも
ずっと積極的な姿勢かもしれません。
全員が「自分で良かった」と思えるだけの何かを持っているのかもしれません。
その人の人生には、他にはない魅力があるのかもしれません。
他人は皆、うらやましく思えて、
同時に自分で良かったと思える。
なんだか、大勢で食事に行った時に似ている気がします。
「あ、それ美味しそうだね。良いなぁ、それも食べたいなぁ。
うん。でも、やっぱり、これ美味しいよ。」
2009年05月28日
「好きな芸能人は?」
今日は個人的な趣味の話。
僕が見るテレビ番組は、深夜放送のバラエティが多いんですが、
長年にわたって僕の心を掴んで離さないのが「さまぁ〜ず」です。
20年近く前、当時は「バカルディ」でしたが、
ホンジャマカやデンジャラスと一緒に出ている番組をよく見ていました。
レギュラー番組だと「大石恵三」は欠かさず見ていた記憶があります。
デビュー当時から変わらぬ芸風は、逆に言えば早すぎた感じだったのかもしれませんが
「さまぁ〜ず」に改名した頃から世の中が追いついてきたのでしょうか。
今では様々な番組で見ることができて僕としては嬉しいところです。
ホリプロでは「バカルディと伊集院光は化ける」と言われ続けながら
いつまでたっても化けないという評判だったと聞いた時期がありましたが、
どちらも今では大活躍のもようです。
中学校ぐらいから僕はラジオを聴いていたりして、中でも伊集院光が好きでした。
大学の頃は毎日のように深夜ラジオを聴いていて寝不足気味だったのを覚えています。
で、ナインティナインのオールナイトニッポンで
バカルディのツッコミが取り上げられることが頻繁にあり、
そのあたりから「〜かよ!」というツッコミのスタイルが
「三村ツッコミ」として評判を上げていったようです。
「三村ツッコミ」に関してはホンジャマカの二人も
「事実を報告するだけ」という形で取り上げていたものです。
ナインティナインは「めちゃイケ」の「笑わず嫌い王決定戦」でも
バカルディを取り上げ、その辺りから「三村ツッコミ」が
知名度を上げていったような気がします。
ちなみに、その時期は妙にツッコミが注目されていた印象があります。
最近はリズム芸やキャラ付けをハッキリさせる芸風が好まれるようですから、
そうした時期に沿った流行だったのかもしれません。
個人的には、さまぁ〜ずの本がお気に入りでした。
出版当時、彼らのお気に入りだったらしい「悲しいダジャレ」が
一冊の本としてまとめられたもの。
当時は、会社の研究所の関係で山口県に住んでいました。
毎週日曜日の夜に本屋に行くのが習慣になっていた僕は、
平積みにされた「さまぁ〜ずの悲しいダジャレ」を立ち読みし、
笑いがこらえられずに立ち読みを続けられない事態になったものでした。
当然、その場で本を購入。
二作目の「さまぁ〜ずの悲しい俳句」とともに
山口にいた頃の僕の座右の書になっていたものです。
なぜ、今回、こんな思い出話を書いてみたかというと
昨晩のテレビで、さまぁ〜ずが面白かったからです。
番組中で「フタコブラクダのコブの中には何が入っているか」という
フリートークをしていて、それが楽しかったので
色々と思い出を探ってみたというわけです。
ラクダは首の付き方が、馬などとは随分違うんです。
一度下がる形になってから上に向いていく。
馬と人が合体した架空の存在・ケンタウロスというのが神話に出てきますが、
あれは馬の首の付き方だから人間の上半身と取り替えても形がスッキリしています。
ラクダの首の付き方に合わせてケンタウロスにすると
伏臥上体そらしのように不自然な上半身になってしまいます。
確かに、さまぁ〜ずの2人が番組中で語っていたように
足からコブにかけて人が入っていると想像した形のほうがスムーズ。
獅子舞のように人が入っていて、前の人の頭が1つ目のコブの中。
後ろの人の頭が2つ目のコブの中。
そんな着ぐるみをイメージすると、ラクダの形が面白く見えてきます。
人間の想像力は面白いですね。
僕が見るテレビ番組は、深夜放送のバラエティが多いんですが、
長年にわたって僕の心を掴んで離さないのが「さまぁ〜ず」です。
20年近く前、当時は「バカルディ」でしたが、
ホンジャマカやデンジャラスと一緒に出ている番組をよく見ていました。
レギュラー番組だと「大石恵三」は欠かさず見ていた記憶があります。
デビュー当時から変わらぬ芸風は、逆に言えば早すぎた感じだったのかもしれませんが
「さまぁ〜ず」に改名した頃から世の中が追いついてきたのでしょうか。
今では様々な番組で見ることができて僕としては嬉しいところです。
ホリプロでは「バカルディと伊集院光は化ける」と言われ続けながら
いつまでたっても化けないという評判だったと聞いた時期がありましたが、
どちらも今では大活躍のもようです。
中学校ぐらいから僕はラジオを聴いていたりして、中でも伊集院光が好きでした。
大学の頃は毎日のように深夜ラジオを聴いていて寝不足気味だったのを覚えています。
で、ナインティナインのオールナイトニッポンで
バカルディのツッコミが取り上げられることが頻繁にあり、
そのあたりから「〜かよ!」というツッコミのスタイルが
「三村ツッコミ」として評判を上げていったようです。
「三村ツッコミ」に関してはホンジャマカの二人も
「事実を報告するだけ」という形で取り上げていたものです。
ナインティナインは「めちゃイケ」の「笑わず嫌い王決定戦」でも
バカルディを取り上げ、その辺りから「三村ツッコミ」が
知名度を上げていったような気がします。
ちなみに、その時期は妙にツッコミが注目されていた印象があります。
最近はリズム芸やキャラ付けをハッキリさせる芸風が好まれるようですから、
そうした時期に沿った流行だったのかもしれません。
個人的には、さまぁ〜ずの本がお気に入りでした。
出版当時、彼らのお気に入りだったらしい「悲しいダジャレ」が
一冊の本としてまとめられたもの。
当時は、会社の研究所の関係で山口県に住んでいました。
毎週日曜日の夜に本屋に行くのが習慣になっていた僕は、
平積みにされた「さまぁ〜ずの悲しいダジャレ」を立ち読みし、
笑いがこらえられずに立ち読みを続けられない事態になったものでした。
当然、その場で本を購入。
二作目の「さまぁ〜ずの悲しい俳句」とともに
山口にいた頃の僕の座右の書になっていたものです。
なぜ、今回、こんな思い出話を書いてみたかというと
昨晩のテレビで、さまぁ〜ずが面白かったからです。
番組中で「フタコブラクダのコブの中には何が入っているか」という
フリートークをしていて、それが楽しかったので
色々と思い出を探ってみたというわけです。
ラクダは首の付き方が、馬などとは随分違うんです。
一度下がる形になってから上に向いていく。
馬と人が合体した架空の存在・ケンタウロスというのが神話に出てきますが、
あれは馬の首の付き方だから人間の上半身と取り替えても形がスッキリしています。
ラクダの首の付き方に合わせてケンタウロスにすると
伏臥上体そらしのように不自然な上半身になってしまいます。
確かに、さまぁ〜ずの2人が番組中で語っていたように
足からコブにかけて人が入っていると想像した形のほうがスムーズ。
獅子舞のように人が入っていて、前の人の頭が1つ目のコブの中。
後ろの人の頭が2つ目のコブの中。
そんな着ぐるみをイメージすると、ラクダの形が面白く見えてきます。
人間の想像力は面白いですね。
2009年05月26日
頑張るべきは
専門的なカウンセリングに限らず、何かの相談にのるという場面で
相談される側が頑張り過ぎてしまうことが起きる場合があります。
相手のために親身になって「なんとかしてあげたい」と思ったり、
相談されること自体が自分に対して起きた課題のように捉えて
「自分なら解決できる」というスタンスになってしまったり。
勉強してきたことを試そうとして頑張り過ぎてしまう時期もあるでしょう。
そんなとき、相談してきた側が期待外れの印象を受けることがあるようです。
ただ話を聞いてもらいたかったというケースもあるかもしれませんし、
もらったアドバイスが分かっていても出来ないケースもあるかもしれません。
また、人によっては必死で何とかしようとしてくれる相手に対して
心のどこかで頼ってしまう気持ちが沸いてくる場合もあるものです。
人間関係は相互作用で形作られていきますから、
相談に乗る側が頑張り過ぎてしまうと、相談者本人の頑張りが減ってしまうわけです。
もちろん、相談者自身の頑張れる力も大切です。
状況によっては力を失くしてしまっているときもあるでしょうし、
そもそも頑張る気力を発揮するのが苦手な人もいるでしょう。
誰か大切な人との別れを経験して打ちひしがれている人が
頑張る力を失ってしまうのは当然のことです。
スクールカウンセラーが対応するようなケースには
そもそも相談に行くこと自体を望んでいない相手の話を聞くこともあるはずです。
どうやって相談者自身に力を出してもらうかというのも
相談に乗る側の力量だと考えられます。
その意味でも、相談に乗る側が頑張る方向性というのが重要なわけです。
相談に乗る側が、相談者本人以上に頑張ってしまっては、
本人の力を発揮するチャンスを奪ってしまいかねないんです。
プロとして相談にのる場合には、その傾向は顕著になるようです。
どうやって本人に頑張ってもらうか。
その度合いを見極めていくのは僕にとって永きに渡るテーマだと思います。
問題を解決できるのは本人だけです。
頑張るのも本人です。
コーチはクライアントの中から答えを引き出すように質問しますし、
いわゆるロジャース派のカウンセラーはクライアントが答えに気づけるまで
一生懸命に話を聞くことを心がけます。
コンサルタントも専門家としてアドバイスをしながらも
クライアント自身に努力をしてもらう部分を含めます。
ノウハウを伝えて、それを実践していくのはクライアント自身ということです。
相談業務をこなす人は数多くいますから、中には、適切なアドバイスによって
相談者自身が頑張らなくても問題解決できるようにする人もいるでしょう。
そのことを自覚して、意識的に選んだスタイルとしている分には構わないと思います。
ただ、原則的に「頑張るのは本人」という考え方が大切にされるということです。
ところが、中には「頑張るのは本人」ということの意味を曲解して
相談に乗る側が何も頑張らないケースがあります。
セミナーの実習中に、テキストに書かれた質問を読むだけになってしまって
答える側だけが頑張っている状態というのは、仕方のない場面だと思います。
それがプロだとすると、いかがなものでしょうか。
用意された質問だけを繰り返す。
クライアントが質問に答え、その中で情報が得られて整理されていく仕組み。
まるでアンケートに答えているような印象です。
確かに質問に答える側は頑張っています。
本人の力で解決に向けて進んでいる状態だと言えます。
しかし、それでは頑張る力が引き出されないはずです。
解決に向けて進んでいこうとする力が失われてしまうようでは本末転倒です。
クライアントに頑張らせようと無理をかけていくのも同様です。
無理を感じすぎるとクライアントは苦しくなってしまいます。
それによって力を消耗してしまっては逆効果なわけです。
少しストレスをかけて力を引き出す方法もありますが、
かけすぎが逆効果になるのは当然のことでしょう。
だからラポールが前提になるんです。
相手の状態に合わせて進めていくのが大切なんです。
相談者本人が頑張れるようにサポートしていく。
そのための努力は最大限にするんです。
解決のための努力をするのは確かに本人です。
だからといって、相談に乗る側が何も努力しないわけではありません。
解決のサポートのためには努力する部分が沢山あるはずです。
間接的に努力して、本人の努力を最大限に活かせるようにする必要があると思います。
「頑張らせる」んじゃないんです。
「頑張りたく」なってもらうんです。
そのための努力は尽きません。
相談される側が頑張り過ぎてしまうことが起きる場合があります。
相手のために親身になって「なんとかしてあげたい」と思ったり、
相談されること自体が自分に対して起きた課題のように捉えて
「自分なら解決できる」というスタンスになってしまったり。
勉強してきたことを試そうとして頑張り過ぎてしまう時期もあるでしょう。
そんなとき、相談してきた側が期待外れの印象を受けることがあるようです。
ただ話を聞いてもらいたかったというケースもあるかもしれませんし、
もらったアドバイスが分かっていても出来ないケースもあるかもしれません。
また、人によっては必死で何とかしようとしてくれる相手に対して
心のどこかで頼ってしまう気持ちが沸いてくる場合もあるものです。
人間関係は相互作用で形作られていきますから、
相談に乗る側が頑張り過ぎてしまうと、相談者本人の頑張りが減ってしまうわけです。
もちろん、相談者自身の頑張れる力も大切です。
状況によっては力を失くしてしまっているときもあるでしょうし、
そもそも頑張る気力を発揮するのが苦手な人もいるでしょう。
誰か大切な人との別れを経験して打ちひしがれている人が
頑張る力を失ってしまうのは当然のことです。
スクールカウンセラーが対応するようなケースには
そもそも相談に行くこと自体を望んでいない相手の話を聞くこともあるはずです。
どうやって相談者自身に力を出してもらうかというのも
相談に乗る側の力量だと考えられます。
その意味でも、相談に乗る側が頑張る方向性というのが重要なわけです。
相談に乗る側が、相談者本人以上に頑張ってしまっては、
本人の力を発揮するチャンスを奪ってしまいかねないんです。
プロとして相談にのる場合には、その傾向は顕著になるようです。
どうやって本人に頑張ってもらうか。
その度合いを見極めていくのは僕にとって永きに渡るテーマだと思います。
問題を解決できるのは本人だけです。
頑張るのも本人です。
コーチはクライアントの中から答えを引き出すように質問しますし、
いわゆるロジャース派のカウンセラーはクライアントが答えに気づけるまで
一生懸命に話を聞くことを心がけます。
コンサルタントも専門家としてアドバイスをしながらも
クライアント自身に努力をしてもらう部分を含めます。
ノウハウを伝えて、それを実践していくのはクライアント自身ということです。
相談業務をこなす人は数多くいますから、中には、適切なアドバイスによって
相談者自身が頑張らなくても問題解決できるようにする人もいるでしょう。
そのことを自覚して、意識的に選んだスタイルとしている分には構わないと思います。
ただ、原則的に「頑張るのは本人」という考え方が大切にされるということです。
ところが、中には「頑張るのは本人」ということの意味を曲解して
相談に乗る側が何も頑張らないケースがあります。
セミナーの実習中に、テキストに書かれた質問を読むだけになってしまって
答える側だけが頑張っている状態というのは、仕方のない場面だと思います。
それがプロだとすると、いかがなものでしょうか。
用意された質問だけを繰り返す。
クライアントが質問に答え、その中で情報が得られて整理されていく仕組み。
まるでアンケートに答えているような印象です。
確かに質問に答える側は頑張っています。
本人の力で解決に向けて進んでいる状態だと言えます。
しかし、それでは頑張る力が引き出されないはずです。
解決に向けて進んでいこうとする力が失われてしまうようでは本末転倒です。
クライアントに頑張らせようと無理をかけていくのも同様です。
無理を感じすぎるとクライアントは苦しくなってしまいます。
それによって力を消耗してしまっては逆効果なわけです。
少しストレスをかけて力を引き出す方法もありますが、
かけすぎが逆効果になるのは当然のことでしょう。
だからラポールが前提になるんです。
相手の状態に合わせて進めていくのが大切なんです。
相談者本人が頑張れるようにサポートしていく。
そのための努力は最大限にするんです。
解決のための努力をするのは確かに本人です。
だからといって、相談に乗る側が何も努力しないわけではありません。
解決のサポートのためには努力する部分が沢山あるはずです。
間接的に努力して、本人の努力を最大限に活かせるようにする必要があると思います。
「頑張らせる」んじゃないんです。
「頑張りたく」なってもらうんです。
そのための努力は尽きません。
2009年05月24日
目を引く品物
人が何かの商品を最初に手に取るとき。
そこには人それぞれの様々な内面の動きがあると思います。
対象が何かによっても違うでしょう。
家電なのか、衣類なのか、お菓子なのか、食事なのか…。
値段によっても購入までのプロセスは違うでしょう。
例えば、同じお菓子を買うにしても、デパートの地下でシュークリームを買うのと
コンビニでシュークリームを買うのでもプロセスは違うかもしれません。
特に、何度も買っていて本人にとって「お気に入り」や「定番」になっているものと
初めて目にして「買ってみよう」という気になるときとでは
その内面に起きているプロセスは全くの別物だろうと推測されます。
だからこそ、リピーターになってもらうための売り方と
初めて手に取ってもらうための売り方は別物のように思えるわけです。
デパートの食品売り場や、駅・空港の土産物売り場の試食コーナーは
初めて手に取ってもらうキッカケ作り、あるいは気に入ってもらって
ファンになってもらうための方法だろうと考えられます。
でも、あれは僕にとって全く効果がありません。
単純に「ごちそうさま」になるだけ。
なぜなら、僕が食品を購入する時のプロセスには役立たないからです。
実際に僕が羽田空港で、お土産としてお菓子を買うときにしていたのは
商品を色々と眺め、そのときに見た目から味を想像することをします。
そして、今までに買ったことがあったかを思い出し、
お土産を持っていく人たちの好みを思い出し、
「チーズは苦手な人がいたな」なんてことを考えて、候補を決める。
で、店員に日持ちや保冷剤の確認をしてから購入する。
そんなプロセスなんです。
初めて買うものであっても、味を想像するというのがポイントじゃないでしょうか。
だから、試食をさせてもらっても何も影響が出ないんです。
食べても「うん、そうだろうね」と確認になるだけ。
予想を大きく上回って凄く美味しかったりすれば変わるかもしれませんが、
まぁ、値段を考えれば、そこまで美味しいものは土産物コーナーには少ないでしょう。
瓶詰めのウニを選んだ時は、ひと通り試食してから決めたこともありましたが、
それはウニの瓶詰めの場合、味が想像しきれなかったからです。
頭の中で味を比較するか、実際に試食で味を比較するかの違いでしかありません。
そうすると、僕がお菓子を選ぶとき、初めてのものを購入するといっても
味を想像しながら美味しいはずのものに決めていると言えますから、
基準は「美味しいかどうか」という部分になっているわけです。
会社員時代にお土産を選んでいた中では、何度かリピートして買ったものもありました。
そのときも味を知っているのは安心感としてサポートにはなりますが、
大きな選択基準にはなっていませんでした。
他のものと比べ、「美味しい」と判断したのが二度目、三度目のそれだっただけ。
※ちなみに、僕が何度かリピートして買ったのは「西洋和菓子 銀のぶどう」
の商品だったことが多い気がします。
お土産にはリーズナブルな価格の生菓子が買えます。
この購買プロセスは僕の場合、他の食べ物にも適用されているようです。
コンビニで食べ物を選んでいても「味を想像する」という部分は抜けません。
人によっては、「今の自分の体には、どれが食べたいか」という基準で
選ぶ場合も意外と多いようですが、僕は少し違うようですね。
僕の場合、味は客観的なニュアンスを含んでいて、
自分の体調とか気分とかに関係なく「美味しいかどうか」で判断されやすい傾向です。
もちろん、「お腹が空いていない」とか、「軽いものがいい」とか、
その程度の体の具合が、食べ物選びの基準に加わることもありますが、
優先順位としては、体とのマッチングよりも味が上回るんです。
例えば、コンビニで飴を選ぶとき。
ここでも同じように味を想像します。
見た目がないので、文字情報と過去の経験で工夫して味を想像します。
で、好みに合いそうなヤツを選ぶ。
ところが、コンビニで売っているような商品だと
全く味の想像がつかないような奇妙な商品も多々あります。
飲み物とかでも不思議と興味を引かれるものがあります。
そうなると、味を想像できない。
むしろ、「どんな味なんだろう?」という好奇心が増してきます。
そして「味を知りたい」という好奇心が購買意欲を一気に高め、
とりあえず買ってみることになるわけです。
(これはコンビニぐらいの低価格商品だからしている行為だと思いますが)
そういう意味で言うと、消費者の好奇心をそそるような商品作りも
特定の対象には効果があるだろうと考えられます。
面白い名前や、不思議な味の組み合わせなんていうのは好奇心をかき立てます。
大抵の場合、そうした好奇心をそそるような商品も
食べてみると普通だったり、逆にガッカリするような味だったりで、
なかなかリピーターになるケースは多くないようですが。
その点、個人的にお気に入りなのは「男梅のど飴」。
「男梅」という奇妙なネーミングが好奇心をそそりますが、
実際に食べてみると濃厚な梅の味わいとサッパリした甘さが美味しいんです。
「男梅のど飴」は商品のコンセプトを見事に情報としてアピールできた好例でしょう。
だから食べたときに期待通りか、それ以上の味を体験できる。
目を引くだけではなく、それが商品を表現していて、
かつ商品自体にも魅力があるということが、
最初に購買するキッカケ作りと、リピートしやすさを両立させていると考えられます。
なお、最近の僕が好奇心だけで買ってみた商品がこちら。
以前に、これの「梅かつお」味を買ったことがありますが、
その時は「忍者めし」という名前の面白さと、
「梅かつお」というお菓子とは思えない味付けへの興味で
商品を手に取ることになりました。
今回は、別の味でシリーズ展開ということなんでしょうが、
僕は単純にマンゴー味だったら買わなかったと思います。
これが「宮崎マンゴー味」という名前で表現されていて、
パッケージに、おそらく宮崎県知事と思われる人物が描かれているから、
俄然、僕の好奇心がそそられたわけです。
味は普通でしたけど。
興味をそそる、好奇心をかき立てる、期待をあおる…。
様々なやり方で、最初に商品を手に取るキッカケを作ることはできると思います。
そっちの工夫も大事だとは思いますが、
その商品を好きになってもらうための工夫も忘れてはいけない気がします。
そこには人それぞれの様々な内面の動きがあると思います。
対象が何かによっても違うでしょう。
家電なのか、衣類なのか、お菓子なのか、食事なのか…。
値段によっても購入までのプロセスは違うでしょう。
例えば、同じお菓子を買うにしても、デパートの地下でシュークリームを買うのと
コンビニでシュークリームを買うのでもプロセスは違うかもしれません。
特に、何度も買っていて本人にとって「お気に入り」や「定番」になっているものと
初めて目にして「買ってみよう」という気になるときとでは
その内面に起きているプロセスは全くの別物だろうと推測されます。
だからこそ、リピーターになってもらうための売り方と
初めて手に取ってもらうための売り方は別物のように思えるわけです。
デパートの食品売り場や、駅・空港の土産物売り場の試食コーナーは
初めて手に取ってもらうキッカケ作り、あるいは気に入ってもらって
ファンになってもらうための方法だろうと考えられます。
でも、あれは僕にとって全く効果がありません。
単純に「ごちそうさま」になるだけ。
なぜなら、僕が食品を購入する時のプロセスには役立たないからです。
実際に僕が羽田空港で、お土産としてお菓子を買うときにしていたのは
商品を色々と眺め、そのときに見た目から味を想像することをします。
そして、今までに買ったことがあったかを思い出し、
お土産を持っていく人たちの好みを思い出し、
「チーズは苦手な人がいたな」なんてことを考えて、候補を決める。
で、店員に日持ちや保冷剤の確認をしてから購入する。
そんなプロセスなんです。
初めて買うものであっても、味を想像するというのがポイントじゃないでしょうか。
だから、試食をさせてもらっても何も影響が出ないんです。
食べても「うん、そうだろうね」と確認になるだけ。
予想を大きく上回って凄く美味しかったりすれば変わるかもしれませんが、
まぁ、値段を考えれば、そこまで美味しいものは土産物コーナーには少ないでしょう。
瓶詰めのウニを選んだ時は、ひと通り試食してから決めたこともありましたが、
それはウニの瓶詰めの場合、味が想像しきれなかったからです。
頭の中で味を比較するか、実際に試食で味を比較するかの違いでしかありません。
そうすると、僕がお菓子を選ぶとき、初めてのものを購入するといっても
味を想像しながら美味しいはずのものに決めていると言えますから、
基準は「美味しいかどうか」という部分になっているわけです。
会社員時代にお土産を選んでいた中では、何度かリピートして買ったものもありました。
そのときも味を知っているのは安心感としてサポートにはなりますが、
大きな選択基準にはなっていませんでした。
他のものと比べ、「美味しい」と判断したのが二度目、三度目のそれだっただけ。
※ちなみに、僕が何度かリピートして買ったのは「西洋和菓子 銀のぶどう」
の商品だったことが多い気がします。
お土産にはリーズナブルな価格の生菓子が買えます。
この購買プロセスは僕の場合、他の食べ物にも適用されているようです。
コンビニで食べ物を選んでいても「味を想像する」という部分は抜けません。
人によっては、「今の自分の体には、どれが食べたいか」という基準で
選ぶ場合も意外と多いようですが、僕は少し違うようですね。
僕の場合、味は客観的なニュアンスを含んでいて、
自分の体調とか気分とかに関係なく「美味しいかどうか」で判断されやすい傾向です。
もちろん、「お腹が空いていない」とか、「軽いものがいい」とか、
その程度の体の具合が、食べ物選びの基準に加わることもありますが、
優先順位としては、体とのマッチングよりも味が上回るんです。
例えば、コンビニで飴を選ぶとき。
ここでも同じように味を想像します。
見た目がないので、文字情報と過去の経験で工夫して味を想像します。
で、好みに合いそうなヤツを選ぶ。
ところが、コンビニで売っているような商品だと
全く味の想像がつかないような奇妙な商品も多々あります。
飲み物とかでも不思議と興味を引かれるものがあります。
そうなると、味を想像できない。
むしろ、「どんな味なんだろう?」という好奇心が増してきます。
そして「味を知りたい」という好奇心が購買意欲を一気に高め、
とりあえず買ってみることになるわけです。
(これはコンビニぐらいの低価格商品だからしている行為だと思いますが)
そういう意味で言うと、消費者の好奇心をそそるような商品作りも
特定の対象には効果があるだろうと考えられます。
面白い名前や、不思議な味の組み合わせなんていうのは好奇心をかき立てます。
大抵の場合、そうした好奇心をそそるような商品も
食べてみると普通だったり、逆にガッカリするような味だったりで、
なかなかリピーターになるケースは多くないようですが。
その点、個人的にお気に入りなのは「男梅のど飴」。
「男梅」という奇妙なネーミングが好奇心をそそりますが、
実際に食べてみると濃厚な梅の味わいとサッパリした甘さが美味しいんです。
「男梅のど飴」は商品のコンセプトを見事に情報としてアピールできた好例でしょう。
だから食べたときに期待通りか、それ以上の味を体験できる。
目を引くだけではなく、それが商品を表現していて、
かつ商品自体にも魅力があるということが、
最初に購買するキッカケ作りと、リピートしやすさを両立させていると考えられます。
なお、最近の僕が好奇心だけで買ってみた商品がこちら。
以前に、これの「梅かつお」味を買ったことがありますが、
その時は「忍者めし」という名前の面白さと、
「梅かつお」というお菓子とは思えない味付けへの興味で
商品を手に取ることになりました。
今回は、別の味でシリーズ展開ということなんでしょうが、
僕は単純にマンゴー味だったら買わなかったと思います。
これが「宮崎マンゴー味」という名前で表現されていて、
パッケージに、おそらく宮崎県知事と思われる人物が描かれているから、
俄然、僕の好奇心がそそられたわけです。
味は普通でしたけど。
興味をそそる、好奇心をかき立てる、期待をあおる…。
様々なやり方で、最初に商品を手に取るキッカケを作ることはできると思います。
そっちの工夫も大事だとは思いますが、
その商品を好きになってもらうための工夫も忘れてはいけない気がします。
2009年05月22日
歪みが強調するもの
先日、電車に乗っていたら、旅行会社の企画でルーブル美術館のフロアを
時間貸しでタップリと見させてくれるという話がありました。
個人的には非常に魅力的な企画だと感じていたんですが、
今回のテーマは、その広告にあった『モナ・リザ』の絵。
写真のようにリアルに見える気もするし、その一方で
現実にはあり得ない印象も受ける不思議な感じ。
とはいえ、人物の描き方は非常に精密なようです。
一般人でもモデルを見ながら描けば、ある程度は精密な人物画を描けるかもしれませんが、
モデルを見ないで人間の姿を正確に描写するのは、かなり難しい作業じゃないでしょうか。
そもそも詳細な部分を思い出して、それを絵にするのは通常、大変なわけです。
誰か特定の人物を見ないで絵を描く時というのは、
心の中にある「人間」というイメージを描くことになると推測されます。
モデルを見ながらなら詳細に人物画を描けるのに、
思いだして描こうとすると難しいということになれば
それは心の中にあるイメージが詳細なものとして鮮明に見られないということでしょう。
そして、その心の中に絵が描かれるイメージは必ずしも現実通りではありません。
むしろ典型的なパターンを反映するというか、象徴的なイメージだというか、
その対象に対して自分が持っている印象がイメージに反映されるようです。
そのことは小さい子供の描く絵を思い浮かべてみると理解しやすいと思います。
子供が描く絵は、決まって頭が大きく、目が大きく、体や手足が小さくて細い。
家を描けば建物の形は不正確で、ドアが目立つように描かれます。
地図を描いても、自分の家を大きく描くことが多いようです。
これは、まさに心の中に描かれている印象を反映していると考えられます。
小さい子供にとっては、家といえば自分の住んでいる家が最も大切で、
家の機能として大切なのは、外の世界と囲われた世界との境目としてのドアであって、
人間に対しては良く目を向けている顔と目が印象の大部分だ、ということと推測できます。
もちろん、こうした子供の持つ印象にも他の要因が関係している可能性もあります。
たとえば、小さな子どもとはいえ絵本を読んでもらったり、アニメを見たりするでしょう。
また、子ども自身の体型が、頭が大きく、目が大きい特徴を含んでいます。
そうしたことが刷り込みとして影響を与えている部分もあるかもしれません。
ただ、子供の描く地図の歪みまで考慮すれば、
本人にとって重要な部分が強調される傾向は少なからずあると考えていいはずです。
「サザエさん」のように、服をどうやって着るんだかわからないようなデフォルメは
自然と顔に注意を向けさせ、登場人物のキャラクターという重要な部分を
見る側に強く印象付ける効果があるとも言えるわけです。
まぁ、一般的に頭が大きく、目が大きいという特徴は自然と子供を想起させ
「可愛らしさ」という印象を与えることが多いようですから、
いわゆるデフォルメには、その辺りの愛着を生む効果もあるとは思いますが。
マンガということに目を向けると、たとえば
心情を表現していくようなドラマ仕立ての内容であれば、
顔の表情や目が強調されて描かれることが多いようです。
カット割りとしても顔がアップで描かれたりする。
また、少年マンガにあるようなアクション物の場合には、
登場人物の動きを捉えられるような広い視野で描かれた場面や、
人物自体の特徴も体型や筋肉などで表現されることが多いように見受けられます。
描きたい特徴が強調されるように表現されているということです。
そして、こうした特徴の歪みは人間の心の中でも自然と行われているらしく、
心の中で印象や特徴を整理するための情報に
歪みの要素を利用することは少なくありません。
日本人の場合、心の中で持っている印象の特徴を映像的に
常日頃から捉えている人は少ないようなので、
それはまさに無意識の領域と言っていいでしょう。
無意識の範囲で、映像の歪みを特徴づけの要素として使っているわけです。
たとえば、尊敬する人の中の憧れる特徴が強調されてイメージされる人がいます。
テキパキしたところが好きなのであれば、動画の中で動きが過度にテキパキしていたり。
また、嫌いな人は表情が実物以上に不愉快な顔になっていたり。
人は無意識のうちに特徴を歪ませながら印象付けをしているところがあるという話です。
大人の場合、客観性が増してきて、現実に見ているものを事実として捉え、
正確に情報を受け取っていこうとする傾向が強まってきますから、
絵を描くときにも自然と見たままに近いものを描こうとするようです。
外にあるものを正しく描こうとするわけです。
ところが、子供はそうした客観性が身についていませんから
自分の印象の中にある歪みをそのまま絵に表現するんでしょう。
その意味では、子供は無意識的に特徴づけている印象に忠実な絵を描いていて、
心の中にあるイメージを絵に表現していると言っても良さそうです。
マンガで表現されるデフォルメもまた、無意識の印象に近いものがあります。
しかも、それが多くの人に共通する可能性があるんじゃないでしょうか。
だから、なんとなく読者に表現したい内容が伝わっている。
浮世絵やマンガといった日本文化としての表現技術は
現実世界の正確な描写とは違った、心の中の印象を描写する技術として
全世界の人の心に響いているのかもしれません。
時間貸しでタップリと見させてくれるという話がありました。
個人的には非常に魅力的な企画だと感じていたんですが、
今回のテーマは、その広告にあった『モナ・リザ』の絵。
写真のようにリアルに見える気もするし、その一方で
現実にはあり得ない印象も受ける不思議な感じ。
とはいえ、人物の描き方は非常に精密なようです。
一般人でもモデルを見ながら描けば、ある程度は精密な人物画を描けるかもしれませんが、
モデルを見ないで人間の姿を正確に描写するのは、かなり難しい作業じゃないでしょうか。
そもそも詳細な部分を思い出して、それを絵にするのは通常、大変なわけです。
誰か特定の人物を見ないで絵を描く時というのは、
心の中にある「人間」というイメージを描くことになると推測されます。
モデルを見ながらなら詳細に人物画を描けるのに、
思いだして描こうとすると難しいということになれば
それは心の中にあるイメージが詳細なものとして鮮明に見られないということでしょう。
そして、その心の中に絵が描かれるイメージは必ずしも現実通りではありません。
むしろ典型的なパターンを反映するというか、象徴的なイメージだというか、
その対象に対して自分が持っている印象がイメージに反映されるようです。
そのことは小さい子供の描く絵を思い浮かべてみると理解しやすいと思います。
子供が描く絵は、決まって頭が大きく、目が大きく、体や手足が小さくて細い。
家を描けば建物の形は不正確で、ドアが目立つように描かれます。
地図を描いても、自分の家を大きく描くことが多いようです。
これは、まさに心の中に描かれている印象を反映していると考えられます。
小さい子供にとっては、家といえば自分の住んでいる家が最も大切で、
家の機能として大切なのは、外の世界と囲われた世界との境目としてのドアであって、
人間に対しては良く目を向けている顔と目が印象の大部分だ、ということと推測できます。
もちろん、こうした子供の持つ印象にも他の要因が関係している可能性もあります。
たとえば、小さな子どもとはいえ絵本を読んでもらったり、アニメを見たりするでしょう。
また、子ども自身の体型が、頭が大きく、目が大きい特徴を含んでいます。
そうしたことが刷り込みとして影響を与えている部分もあるかもしれません。
ただ、子供の描く地図の歪みまで考慮すれば、
本人にとって重要な部分が強調される傾向は少なからずあると考えていいはずです。
「サザエさん」のように、服をどうやって着るんだかわからないようなデフォルメは
自然と顔に注意を向けさせ、登場人物のキャラクターという重要な部分を
見る側に強く印象付ける効果があるとも言えるわけです。
まぁ、一般的に頭が大きく、目が大きいという特徴は自然と子供を想起させ
「可愛らしさ」という印象を与えることが多いようですから、
いわゆるデフォルメには、その辺りの愛着を生む効果もあるとは思いますが。
マンガということに目を向けると、たとえば
心情を表現していくようなドラマ仕立ての内容であれば、
顔の表情や目が強調されて描かれることが多いようです。
カット割りとしても顔がアップで描かれたりする。
また、少年マンガにあるようなアクション物の場合には、
登場人物の動きを捉えられるような広い視野で描かれた場面や、
人物自体の特徴も体型や筋肉などで表現されることが多いように見受けられます。
描きたい特徴が強調されるように表現されているということです。
そして、こうした特徴の歪みは人間の心の中でも自然と行われているらしく、
心の中で印象や特徴を整理するための情報に
歪みの要素を利用することは少なくありません。
日本人の場合、心の中で持っている印象の特徴を映像的に
常日頃から捉えている人は少ないようなので、
それはまさに無意識の領域と言っていいでしょう。
無意識の範囲で、映像の歪みを特徴づけの要素として使っているわけです。
たとえば、尊敬する人の中の憧れる特徴が強調されてイメージされる人がいます。
テキパキしたところが好きなのであれば、動画の中で動きが過度にテキパキしていたり。
また、嫌いな人は表情が実物以上に不愉快な顔になっていたり。
人は無意識のうちに特徴を歪ませながら印象付けをしているところがあるという話です。
大人の場合、客観性が増してきて、現実に見ているものを事実として捉え、
正確に情報を受け取っていこうとする傾向が強まってきますから、
絵を描くときにも自然と見たままに近いものを描こうとするようです。
外にあるものを正しく描こうとするわけです。
ところが、子供はそうした客観性が身についていませんから
自分の印象の中にある歪みをそのまま絵に表現するんでしょう。
その意味では、子供は無意識的に特徴づけている印象に忠実な絵を描いていて、
心の中にあるイメージを絵に表現していると言っても良さそうです。
マンガで表現されるデフォルメもまた、無意識の印象に近いものがあります。
しかも、それが多くの人に共通する可能性があるんじゃないでしょうか。
だから、なんとなく読者に表現したい内容が伝わっている。
浮世絵やマンガといった日本文化としての表現技術は
現実世界の正確な描写とは違った、心の中の印象を描写する技術として
全世界の人の心に響いているのかもしれません。
2009年05月20日
売り込み
僕には商売っ気というのが少ないようです。
自覚しているところでもあり、他の人から指摘されるところでもあります。
別に、「お金なんて要りませんよ。ボランティアでいいんです」
というわけではありません。
仕事に誇りを持っているつもりです。
ただ、優先順位の問題だろうと思います。
で、僕が特に好きでないのがアピールをする部分。
自分がすることを説明するだけなら、まぁ許容範囲ですが
それを広告宣伝の形にしていくのが好きではないんだろうと思います。
それには僕が理系で研究職をしてきた視点が影響している気がします。
僕自身が何かの商品を選ぶとき、情報を鵜呑みにしない傾向があるんです。
この傾向は商品選びに限らず、本を読むときであれ、セミナーを受けるときであれ、
テレビ番組を見るときであれ、様々な情報に対して発揮されます。
情報を吟味し、根拠や論理展開を意識するんです。
実験結果、つまりデータ自体には嘘は少ないものです。
ポイントは、結果の解釈の仕方。
特に、サイエンスの視点から言えば、因果関係には注意を払っています。
サイエンス・ライターの竹内薫氏の著書ではありませんが、
まさに「99%は仮説」というスタンスです。
相関があるのと因果関係は別物だということです。
とかく人間の習性として因果関係を見出したくなる傾向があるようですが、
その多くは証明しきれているとは言えないんです。
例えば、沖縄が長寿の地域だというのは調査結果として言えることでしょう。
食生活を調べれば、そこから傾向を見出すこともできるでしょう。
仮に、沖縄の人が豚肉を沢山食べているというデータがあったとしても、
「沖縄の人が長寿なのは豚肉を食べているからだ」
という結論には絶対に導けないはずなんです。
「沖縄の人は長寿で、そして、よく豚肉を食べている」というのが正確です。
なぜなら他にも要因があるかもしれないからです。
もしかしたらゴーヤのせいかもしれないし、
泡盛に何か長寿の秘密が隠れているかもしれないし、
平均気温が高いことが秘密かもしれません。
実際には、複数の要因が絡み合っていると考えるのが妥当でしょう。
さらには、全く逆の結論が導かれるようなヒドイ実験だって見逃される可能性があります。
極端な例で言えば、
「コップに入れた1リットルの水を、気温30℃のところと
気温25℃のところに3時間放置して、あとから重さを計る」
という実験をすると考えます。
普通に理科の知識を思い出せば、温度が高いほうが早く蒸発して
重さが軽くなるように考えるでしょう。
これはサイエンスの視点でいえば、何も記述されていない部分は
当然のように条件が揃っていると判断されるわけです。
ですから、気温30℃のところが熱帯のジャングルで、
気温25℃のところがオフィスの中ということは想定しません。
でも、世の中の宣伝で示される情報の中には
僕からすると、こんなレベルであり得ない比較をしているものが沢山あるんです。
そして、実験結果を決めるのは1つの要因だけではないというのも見逃せません。
仮に、コップの水が5℃だったとしましょう。
そして気温30℃、25℃ともに湿度が90%の部屋だったとしましょう。
そうすると蒸発が起きるよりも、むしろ冷たいコップの周りに結露して
空気中の水分がコップに付着する可能性が考えられます。
それで重さを計ったら、コップは重くなるかもしれないわけです。
でも、そこから「水は放置しておくと自然に増えて、重さが増える」
という結論には誰も導かないでしょう。
それは結露によって水滴が付いたら、重くなるということを想像するからです。
起きていることを説明するには、複数の要因を関連付けて
筋の通った、整合性のとれた論理展開をする必要があるんです。
ところが、商品の魅力というのは、必ずしも論理的に説明できるものとは限りません。
それがセミナーなどの情報になれば尚更だと思います。
一方で、世の中の宣伝広告は、一見すると説得力がありそうな雰囲気を出して
論理的に根拠が説明しきれていない情報を材料に売り込みをする傾向があります。
もちろん、そうした客観的なデータっぽい情報が全てではなく、
むしろ主観的とも言える熱意や商品への愛情を感じ取って
商品が選ばれていくこともあるはずです。
僕が引っかかるのは、一見すると説得力がありそうに思える
客観的データっぽい情報のほうみたいです。
「その情報では、その結論には辿りつけないだろう」と考えてしまう。
僕が一時期、年収の8割ぐらいをセミナーに使っていたとしても、
だからといって、沢山の知識とスキルを持っている人だという証明にはならない。
現役時代に200勝したピッチャーだからといって、
投手コーチとしてピッチングを上手に指導できるという証明にはならない。
20回の離婚経験を持っていたからといって、
離婚問題のスペシャリストという証明にはならない。
そうした根拠とは言い切れないような情報で
納得できる人も世の中には沢山いるんだろうと思います。
だから、そういう情報で宣伝がなされるんでしょう。
そのこと自体は大切なことだと思うんです。
それによって経済が成り立ち、多くの人が商品を知ることになる。
でも僕は、そこにある根拠が気になってしまうんです。
何も言えない気持ちになってしまうんです。
それが売り込みを好きになれない1つの理由かもしれません。
自覚しているところでもあり、他の人から指摘されるところでもあります。
別に、「お金なんて要りませんよ。ボランティアでいいんです」
というわけではありません。
仕事に誇りを持っているつもりです。
ただ、優先順位の問題だろうと思います。
で、僕が特に好きでないのがアピールをする部分。
自分がすることを説明するだけなら、まぁ許容範囲ですが
それを広告宣伝の形にしていくのが好きではないんだろうと思います。
それには僕が理系で研究職をしてきた視点が影響している気がします。
僕自身が何かの商品を選ぶとき、情報を鵜呑みにしない傾向があるんです。
この傾向は商品選びに限らず、本を読むときであれ、セミナーを受けるときであれ、
テレビ番組を見るときであれ、様々な情報に対して発揮されます。
情報を吟味し、根拠や論理展開を意識するんです。
実験結果、つまりデータ自体には嘘は少ないものです。
ポイントは、結果の解釈の仕方。
特に、サイエンスの視点から言えば、因果関係には注意を払っています。
サイエンス・ライターの竹内薫氏の著書ではありませんが、
まさに「99%は仮説」というスタンスです。
相関があるのと因果関係は別物だということです。
とかく人間の習性として因果関係を見出したくなる傾向があるようですが、
その多くは証明しきれているとは言えないんです。
例えば、沖縄が長寿の地域だというのは調査結果として言えることでしょう。
食生活を調べれば、そこから傾向を見出すこともできるでしょう。
仮に、沖縄の人が豚肉を沢山食べているというデータがあったとしても、
「沖縄の人が長寿なのは豚肉を食べているからだ」
という結論には絶対に導けないはずなんです。
「沖縄の人は長寿で、そして、よく豚肉を食べている」というのが正確です。
なぜなら他にも要因があるかもしれないからです。
もしかしたらゴーヤのせいかもしれないし、
泡盛に何か長寿の秘密が隠れているかもしれないし、
平均気温が高いことが秘密かもしれません。
実際には、複数の要因が絡み合っていると考えるのが妥当でしょう。
さらには、全く逆の結論が導かれるようなヒドイ実験だって見逃される可能性があります。
極端な例で言えば、
「コップに入れた1リットルの水を、気温30℃のところと
気温25℃のところに3時間放置して、あとから重さを計る」
という実験をすると考えます。
普通に理科の知識を思い出せば、温度が高いほうが早く蒸発して
重さが軽くなるように考えるでしょう。
これはサイエンスの視点でいえば、何も記述されていない部分は
当然のように条件が揃っていると判断されるわけです。
ですから、気温30℃のところが熱帯のジャングルで、
気温25℃のところがオフィスの中ということは想定しません。
でも、世の中の宣伝で示される情報の中には
僕からすると、こんなレベルであり得ない比較をしているものが沢山あるんです。
そして、実験結果を決めるのは1つの要因だけではないというのも見逃せません。
仮に、コップの水が5℃だったとしましょう。
そして気温30℃、25℃ともに湿度が90%の部屋だったとしましょう。
そうすると蒸発が起きるよりも、むしろ冷たいコップの周りに結露して
空気中の水分がコップに付着する可能性が考えられます。
それで重さを計ったら、コップは重くなるかもしれないわけです。
でも、そこから「水は放置しておくと自然に増えて、重さが増える」
という結論には誰も導かないでしょう。
それは結露によって水滴が付いたら、重くなるということを想像するからです。
起きていることを説明するには、複数の要因を関連付けて
筋の通った、整合性のとれた論理展開をする必要があるんです。
ところが、商品の魅力というのは、必ずしも論理的に説明できるものとは限りません。
それがセミナーなどの情報になれば尚更だと思います。
一方で、世の中の宣伝広告は、一見すると説得力がありそうな雰囲気を出して
論理的に根拠が説明しきれていない情報を材料に売り込みをする傾向があります。
もちろん、そうした客観的なデータっぽい情報が全てではなく、
むしろ主観的とも言える熱意や商品への愛情を感じ取って
商品が選ばれていくこともあるはずです。
僕が引っかかるのは、一見すると説得力がありそうに思える
客観的データっぽい情報のほうみたいです。
「その情報では、その結論には辿りつけないだろう」と考えてしまう。
僕が一時期、年収の8割ぐらいをセミナーに使っていたとしても、
だからといって、沢山の知識とスキルを持っている人だという証明にはならない。
現役時代に200勝したピッチャーだからといって、
投手コーチとしてピッチングを上手に指導できるという証明にはならない。
20回の離婚経験を持っていたからといって、
離婚問題のスペシャリストという証明にはならない。
そうした根拠とは言い切れないような情報で
納得できる人も世の中には沢山いるんだろうと思います。
だから、そういう情報で宣伝がなされるんでしょう。
そのこと自体は大切なことだと思うんです。
それによって経済が成り立ち、多くの人が商品を知ることになる。
でも僕は、そこにある根拠が気になってしまうんです。
何も言えない気持ちになってしまうんです。
それが売り込みを好きになれない1つの理由かもしれません。
2009年05月17日
運動神経
僕は子供のころ、いくつかの習い事をしていました。
当時としては「やらされている」意識のほうが強かった記憶がありますが、
今になって振り返ってみると、どれも僕の中で役に立っているのは間違いありません。
特に、幼少期の人間の特徴を踏まえると、運動神経を鍛えるというか
体の使い方に意識を向ける機会の多い習い事は意味深いものだと思います。
一般的に子供のころのほうが、自分の体を自分の思い通りには動かせないものです。
客観性も乏しいですから、自分がどのように体を動かしているかは分かりにくいでしょう。
それは発声に関しても同様です。
声も筋肉の使い方と、それを客観的に聞きとる聴覚の働きとでコントロールされます。
小さい子供が必要以上に大きな声で話してしまったり、
歌を歌っても上手くなかったりするのは、筋肉のコントロールという点で
ある程度は当たり前なわけです。
ミルトン・エリクソンのエピソードで
夜尿症の子供を相手にする話がいくつか知られていますが、
それに対するエリクソンの基本的なスタンスは、
筋肉のコントロールという部分に置かれているように思えます。
子供は小さい頃にオネショをしていても、
自然と大きくなるにつれてオネショをしなくなっていくもののようですが
それも筋肉をコントロールする能力が高まっていくためだと考えられます。
いわゆる「運動神経」が良いとか悪いとか言うと、
運動能力の何を示しているのか不明瞭になってはきますが、
ここでは「自分の体を自分の意図したとおりに動かす能力」
というニュアンスで使っているつもりです。
その意味では、幼少期ほど運動神経が発達していないのは当然で、
大人になるほど自然と運動神経は発達していくわけです。
とはいえ、大人になれば自然と運動が上達するかといえば
全くそんなことはなく、むしろ大人になってからのほうが
運動全般に対する苦手意識が明確になっていく人は多いのではないでしょうか。
ここで重要なのは、大人になると「運動が苦手な人」と「運動が得意な人」に
大きく二分されるように説明されがちな点です。
実際に、運動に自信のある人は、様々な運動をこなすようですし、
新しくスポーツを始めたときにも上達が早い傾向はあるように思えます。
では、運動の苦手な人が、全ての運動を苦手にしているかというと
決してそうではないはずなんです。
たとえば、運動はスポーツは得意ではないけれども絵を描くのが上手いとか、
料理が上手いとか、工作が得意だとか、字が綺麗だとか、食べ方が美しいとか、
何か特定の目的の動作は上手くできたりするでしょう。
むしろ、スポーツは苦手だという人ほど、特定の何か…例えば
「キャベツの千切りが芸術的に上手い」なんていうことがあったりもします。
特定の運動は高いパフォーマンスでこなせるわけなんです。
スポーツと呼ばれるような特殊な運動は得意でなくても
何らかの動作という意味での運動は得意な可能性があるということです。
ということは、スポーツが苦手であっても
運動神経が鈍いわけではないと言えます。
ある動作を目的に沿って高いパフォーマンスで成し遂げる「運動神経」を
別の動作(たとえばスポーツなど)に利用できていないだけと考えられます。
エリクソンが夜尿症の子供に対して行っていたアプローチは
まさに別の場面で利用できている「運動神経」、つまり
筋肉を自分の意志の通りにコントロールする能力を
尿を我慢するための筋肉のコントロール方法に応用することでした。
また夜尿症の中でも、「運動神経」の全般的なレベルの成長が遅い子供には
文字を上手に書かせる練習をすることで、筋肉のコントロール法自体を身につけさせ、
その結果としてオネショをコントロールする「運動神経」まで同時に高めたようです。
大人になれば、ある程度の「運動神経」は発達してくるものですから、
何かの動作を高いパフォーマンスで行うことは自然と上達するのが一般的です。
ただ、人によって、どの動作を上手に行えるかが違うだけだと思うんです。
スポーツ全般が得意な人は、スポーツに共通する体の動かし方や
体の動きに対する意識、感じ取り方を身につけているのでしょう。
上達の早い人は、自分の体の動きを調整する能力が高いと考えられます。
一方、スポーツは得意だけれど、字は上手に書けないという人は、
スポーツを上手にするときに使っている体のコントロール方法を
字を書くときに利用できていないということです。
まぁ、一般的には字を綺麗に書く人は、ある程度若い段階で
自分の文字が他人から見られているという意識を持つものですから、
文字を綺麗に書こうという意識を持っていたかどうかが
最大のカギだろうと僕は考えています。
また、スポーツの内容に関しても同じようなことが言えます。
例えば、野球は得意だけどサッカーは苦手という人がいたとしたら、
その人は野球を上手にやるために使っている体のコントロール方法を
サッカーをするときには応用できていないと考えられます。
こうしたことが起きやすいのは、小さい頃には体の動きを感じ取ること自体が
あまり上手ではないことに関係しているのではないでしょうか。
子供のころは、自分が体をどう動かしているかを自ら意識することなく
動かしたことの結果だけを頼りに運動を続けていきます。
練習をするうちに自然と上手になっていくプロセスです。
そうやって身につけてしまった運動のための方法は
自覚していない分、他の運動をするときには応用しにくくなってしまう。
大人になるほど、その傾向は強くなるでしょう。
運動が得意な人は、おそらく、様々な運動を上手にこなすために必要な
体をコントロールする方法を、共通するパターンとして持っていると考えられます。
そんな体をコントロールするための全般的な方法を
自分の中で自覚できるレベルにできていれば、
様々な動作・運動を効果的に上達させていくことができるはずです。
もちろん、そこまで全般的なパターンを見出せなくても、
自分が得意な運動や動作をしているときに行っていることと、
自分が苦手な運動や動作をしているときに行っていることの違いを把握すれば
苦手なものを克服していくのにも役立つのは間違いなさそうです。
僕は、今こうして自分の行動を様々に意識化していく中で、
自分が苦手だった運動の分野の不得意だった理由が分かってきました。
このことをもっと早く知っていれば、僕はかなりのスポーツマンだった気がします。
逆に言えば、そうでなかったから今の気付きがあるわけなので、
苦手な運動があったことに後悔もないわけですが。
こんな風に、体を目的に沿ってコントロールするという視点に立つと、
幼少期に様々なタイプの運動・動作を学ぶことは、非常に有効だと思います。
体を感じ取り、体をコントロールする能力は人生の様々な場面で役立つはずです。
特定のスポーツにのめり込むのも悪くはないでしょうが、
色々な動作をしてみるのは相当な効果を発揮すると思います。
元プロ野球選手の桑田投手がピアノをやったり、古武術を学んだことは有名ですが、
自分の体の使い方に対する意識を広げる意味では有効だったんでしょう。
逆に、高校ぐらいまでは凄かったのに、プロ入りしてから目が出ない人の中には
自分が何をしているのかを感じ取り、コントロールする能力を
磨いてきていなかった人も多いのではないかと考えています。
高校ぐらいまでなら、結果が良くなることだけを意識して練習するだけで
自然と良いパフォーマンスを発揮できる人もいるのでしょう。
しかし、プロの世界に入り、毎日のパフォーマンスを考え、
高いレベルの中で結果を出していくためには、
「なんとなく」練習で上達できる段階だけでは行き詰まりが出るのかもしれません。
そのようなレベルでは、自分が上手く出来るための方法を
自分自身で自覚しながらコントロールして磨いていける人が
活躍していくのではないでしょうか。
その最たる例が、イチロー選手だろうと僕は見立てています。
ちなみに、僕が小さい頃にやっていた習い事の中に、書道があります。
これは落ち着きのない子供にとっては苦痛な時間を含んでいますが、
体をコントロールする能力を幼少期に磨くには効果的だったと思います。
一見すると静かで、運動とは呼べないようなものの中にも
体のコントロールという視点からは重要なものがあるわけです。
書道でもリズム感の大切さを今にして思いますが、
ピアノを習ったりするのも、「運動神経」を鍛えるのに役立ちそうです。
とにかく、静的にも動的にも、体の使い方を上達させていくようなものを
子供の遊びの中や習い事の中に取り入れていくと、
大人になってから様々な場面で応用可能な能力の基礎が身につくと思うんです。
そして、ある程度の客観性を身につけてくる中学校、高校ぐらいから
自分の行動を意識的にコントロールする練習をしていくと
幅広い範囲のパフォーマンスをスピーディに上達できるような人になっていく。
そんな気がします。
勉強の仕方とか、運動の仕方とか、表面的に教えるのとは違うレベルで、
高いパフォーマンスを発揮している人が内的にどのようなプロセスを取っているのかを
技術として体系化して教育に応用できれば、かなり面白いことになると思ったりします。
…でも、どうやって生きていきたいかは人それぞれ、
その人の人生ですから大人になってからのほうが良いような気もしますね。
当時としては「やらされている」意識のほうが強かった記憶がありますが、
今になって振り返ってみると、どれも僕の中で役に立っているのは間違いありません。
特に、幼少期の人間の特徴を踏まえると、運動神経を鍛えるというか
体の使い方に意識を向ける機会の多い習い事は意味深いものだと思います。
一般的に子供のころのほうが、自分の体を自分の思い通りには動かせないものです。
客観性も乏しいですから、自分がどのように体を動かしているかは分かりにくいでしょう。
それは発声に関しても同様です。
声も筋肉の使い方と、それを客観的に聞きとる聴覚の働きとでコントロールされます。
小さい子供が必要以上に大きな声で話してしまったり、
歌を歌っても上手くなかったりするのは、筋肉のコントロールという点で
ある程度は当たり前なわけです。
ミルトン・エリクソンのエピソードで
夜尿症の子供を相手にする話がいくつか知られていますが、
それに対するエリクソンの基本的なスタンスは、
筋肉のコントロールという部分に置かれているように思えます。
子供は小さい頃にオネショをしていても、
自然と大きくなるにつれてオネショをしなくなっていくもののようですが
それも筋肉をコントロールする能力が高まっていくためだと考えられます。
いわゆる「運動神経」が良いとか悪いとか言うと、
運動能力の何を示しているのか不明瞭になってはきますが、
ここでは「自分の体を自分の意図したとおりに動かす能力」
というニュアンスで使っているつもりです。
その意味では、幼少期ほど運動神経が発達していないのは当然で、
大人になるほど自然と運動神経は発達していくわけです。
とはいえ、大人になれば自然と運動が上達するかといえば
全くそんなことはなく、むしろ大人になってからのほうが
運動全般に対する苦手意識が明確になっていく人は多いのではないでしょうか。
ここで重要なのは、大人になると「運動が苦手な人」と「運動が得意な人」に
大きく二分されるように説明されがちな点です。
実際に、運動に自信のある人は、様々な運動をこなすようですし、
新しくスポーツを始めたときにも上達が早い傾向はあるように思えます。
では、運動の苦手な人が、全ての運動を苦手にしているかというと
決してそうではないはずなんです。
たとえば、運動はスポーツは得意ではないけれども絵を描くのが上手いとか、
料理が上手いとか、工作が得意だとか、字が綺麗だとか、食べ方が美しいとか、
何か特定の目的の動作は上手くできたりするでしょう。
むしろ、スポーツは苦手だという人ほど、特定の何か…例えば
「キャベツの千切りが芸術的に上手い」なんていうことがあったりもします。
特定の運動は高いパフォーマンスでこなせるわけなんです。
スポーツと呼ばれるような特殊な運動は得意でなくても
何らかの動作という意味での運動は得意な可能性があるということです。
ということは、スポーツが苦手であっても
運動神経が鈍いわけではないと言えます。
ある動作を目的に沿って高いパフォーマンスで成し遂げる「運動神経」を
別の動作(たとえばスポーツなど)に利用できていないだけと考えられます。
エリクソンが夜尿症の子供に対して行っていたアプローチは
まさに別の場面で利用できている「運動神経」、つまり
筋肉を自分の意志の通りにコントロールする能力を
尿を我慢するための筋肉のコントロール方法に応用することでした。
また夜尿症の中でも、「運動神経」の全般的なレベルの成長が遅い子供には
文字を上手に書かせる練習をすることで、筋肉のコントロール法自体を身につけさせ、
その結果としてオネショをコントロールする「運動神経」まで同時に高めたようです。
大人になれば、ある程度の「運動神経」は発達してくるものですから、
何かの動作を高いパフォーマンスで行うことは自然と上達するのが一般的です。
ただ、人によって、どの動作を上手に行えるかが違うだけだと思うんです。
スポーツ全般が得意な人は、スポーツに共通する体の動かし方や
体の動きに対する意識、感じ取り方を身につけているのでしょう。
上達の早い人は、自分の体の動きを調整する能力が高いと考えられます。
一方、スポーツは得意だけれど、字は上手に書けないという人は、
スポーツを上手にするときに使っている体のコントロール方法を
字を書くときに利用できていないということです。
まぁ、一般的には字を綺麗に書く人は、ある程度若い段階で
自分の文字が他人から見られているという意識を持つものですから、
文字を綺麗に書こうという意識を持っていたかどうかが
最大のカギだろうと僕は考えています。
また、スポーツの内容に関しても同じようなことが言えます。
例えば、野球は得意だけどサッカーは苦手という人がいたとしたら、
その人は野球を上手にやるために使っている体のコントロール方法を
サッカーをするときには応用できていないと考えられます。
こうしたことが起きやすいのは、小さい頃には体の動きを感じ取ること自体が
あまり上手ではないことに関係しているのではないでしょうか。
子供のころは、自分が体をどう動かしているかを自ら意識することなく
動かしたことの結果だけを頼りに運動を続けていきます。
練習をするうちに自然と上手になっていくプロセスです。
そうやって身につけてしまった運動のための方法は
自覚していない分、他の運動をするときには応用しにくくなってしまう。
大人になるほど、その傾向は強くなるでしょう。
運動が得意な人は、おそらく、様々な運動を上手にこなすために必要な
体をコントロールする方法を、共通するパターンとして持っていると考えられます。
そんな体をコントロールするための全般的な方法を
自分の中で自覚できるレベルにできていれば、
様々な動作・運動を効果的に上達させていくことができるはずです。
もちろん、そこまで全般的なパターンを見出せなくても、
自分が得意な運動や動作をしているときに行っていることと、
自分が苦手な運動や動作をしているときに行っていることの違いを把握すれば
苦手なものを克服していくのにも役立つのは間違いなさそうです。
僕は、今こうして自分の行動を様々に意識化していく中で、
自分が苦手だった運動の分野の不得意だった理由が分かってきました。
このことをもっと早く知っていれば、僕はかなりのスポーツマンだった気がします。
逆に言えば、そうでなかったから今の気付きがあるわけなので、
苦手な運動があったことに後悔もないわけですが。
こんな風に、体を目的に沿ってコントロールするという視点に立つと、
幼少期に様々なタイプの運動・動作を学ぶことは、非常に有効だと思います。
体を感じ取り、体をコントロールする能力は人生の様々な場面で役立つはずです。
特定のスポーツにのめり込むのも悪くはないでしょうが、
色々な動作をしてみるのは相当な効果を発揮すると思います。
元プロ野球選手の桑田投手がピアノをやったり、古武術を学んだことは有名ですが、
自分の体の使い方に対する意識を広げる意味では有効だったんでしょう。
逆に、高校ぐらいまでは凄かったのに、プロ入りしてから目が出ない人の中には
自分が何をしているのかを感じ取り、コントロールする能力を
磨いてきていなかった人も多いのではないかと考えています。
高校ぐらいまでなら、結果が良くなることだけを意識して練習するだけで
自然と良いパフォーマンスを発揮できる人もいるのでしょう。
しかし、プロの世界に入り、毎日のパフォーマンスを考え、
高いレベルの中で結果を出していくためには、
「なんとなく」練習で上達できる段階だけでは行き詰まりが出るのかもしれません。
そのようなレベルでは、自分が上手く出来るための方法を
自分自身で自覚しながらコントロールして磨いていける人が
活躍していくのではないでしょうか。
その最たる例が、イチロー選手だろうと僕は見立てています。
ちなみに、僕が小さい頃にやっていた習い事の中に、書道があります。
これは落ち着きのない子供にとっては苦痛な時間を含んでいますが、
体をコントロールする能力を幼少期に磨くには効果的だったと思います。
一見すると静かで、運動とは呼べないようなものの中にも
体のコントロールという視点からは重要なものがあるわけです。
書道でもリズム感の大切さを今にして思いますが、
ピアノを習ったりするのも、「運動神経」を鍛えるのに役立ちそうです。
とにかく、静的にも動的にも、体の使い方を上達させていくようなものを
子供の遊びの中や習い事の中に取り入れていくと、
大人になってから様々な場面で応用可能な能力の基礎が身につくと思うんです。
そして、ある程度の客観性を身につけてくる中学校、高校ぐらいから
自分の行動を意識的にコントロールする練習をしていくと
幅広い範囲のパフォーマンスをスピーディに上達できるような人になっていく。
そんな気がします。
勉強の仕方とか、運動の仕方とか、表面的に教えるのとは違うレベルで、
高いパフォーマンスを発揮している人が内的にどのようなプロセスを取っているのかを
技術として体系化して教育に応用できれば、かなり面白いことになると思ったりします。
…でも、どうやって生きていきたいかは人それぞれ、
その人の人生ですから大人になってからのほうが良いような気もしますね。
2009年05月15日
四拍子
日本人の心には、文化的にか、習慣的にか、遺伝的にか、
七五調のリズムが合うようです。
五七五で綴られる俳句や川柳、五七五七七の短歌・和歌、
そして七五調の小気味よいリズムで進んでいく都々逸(どどいつ)。
齋藤孝氏が「声に出して読みたい日本語」でヒットしていますが、
その中の主張にも日本語特有のリズムというのが強調されていたようです。
また、それとは少し違うリズムに感じられますが
三三七拍子や三本締めなどのように、手拍子を打つ時にも
日本人が好むリズム感があるように思えます。
七五調のゆったりと流れに身を任せるような心地良さと比較すると
三と七、三と一で作られるリズムには、もっと勢いがあるというか、
スピーディーにたたみかけてくるようなアップテンポなノリを感じます。
このあたりの、リズムと気分の関係というのは世界中の音楽に対して
多くの人が共通して持つ印象だと考えてよいのではないでしょうか。
たとえば、ワルツのリズムには、落ち着いた優雅さを感じるように。
日本人にとって三本締めや三三七拍子が染みついていることを感じさせるのは
高速道路のスピード注意のために道についている出っ張りでしょうか。
一定のスピードで進むと、タイヤが地面の出っ張りを拾い
その音がリズムよく三本締めを奏でるというヤツです。
余談ですが、北海道の道路には法定速度で走っていると
丁度いいリズム・音程で「知床旅情」が聞こえてくる道があるそうです。
これは道路に細かい溝を作り、その間隔で音程を調節する仕組みなんだとか。
で、日本人にとって馴染みの深い三本締めや三三七拍子も、
外国の人からすると単なる四拍子に聞こえることもあるそうなんです。
確かに言われてみれば、三三七拍子は四拍子のリズムに合わせられます。
4分の4拍子の楽譜の上に、手をたたくところを音符、休むところを休符で記すと
(叩くところを○、休むところを●)○○○●○○○●○○○○○○○●の繰り返し。
四拍子に当てはめられるわけです。
日本人がこれを聞いたときには休符にあたる休みの部分には
あくまで体の中で一拍の間をおいてはいますが、それをリズムの一部とは感じず、
三回手をたたくところと七回手をたたくところに意識が行くようです。
これを四拍子と感じるには、手をたたくところと休むところが作り出す
全体的なリズムの流れを背景に感じ取る必要がありそうですから
一定のリズムを意識しやすい習慣があるのかもしれません。
もしかすると、日本人のリズム感には、
音が作り出すテンポの変化に敏感な傾向があるのでしょうか。
日本の伝統音楽は欧米のリズムと比べると独特な展開をするように感じられますから
何か特有の感性が磨かれてきた可能性も否定できません。
とはいえ、そうした日本的なリズム感も、間の部分を明確に感じていないだけで
そこをハッキリと意識化させていけば多くのものが四拍子に当てはまるというのも
なんだか面白いことのように思えます。
三本締めに関しては ○○○●○○○●○○○●◎
という形ですが、最後の一拍は、それまでの細かい三拍の倍の長さに当たります。
4分の4拍子の楽譜に当てはめると、「四分音符×3+四分休符×1」を三回、
最後の一小節は「二分音符×1+二分休符×1」になるわけです。
で、その全体を三回繰り返すという流れ。
最後の一小節、つまり最後に締めの一拍を打つところは
全員が共通して少し長めの間を取っているから、
繰り返しでタイミングよく進めるのだろうということです。
同様に、五七五のリズムも実は四拍子に当てはめることができます。
○○○○○●●●○○○○○○○●○○○○○●●●
俳句や川柳のリズムは、自然とこんな感じで読んでいるはずです。
最初の五音の後には多少長めの間をあけ、次の七音の後の間は短い。
「松島や ああ松島や 松島や」
たぶん、二回目の「ああ松島や」と三回目の「松島や」の間隔の短さに気づけるでしょう。
このことを考えると、「字余り」と呼ばれるものに関しても
一般的には真ん中の七音については細かく言われない理由が分かる気がします。
たとえばサラリーマン川柳から引用すると、
「『オレオレ』に 亭主と知りつつ 電話切る」
「『課長いる?』 返ったこたえは 『いりません!』」
この2つの例だと真ん中は八音あります。
それでも多くの人が、あまりそのことが気にならないんじゃないでしょうか?
たぶん、それは真ん中の二小節分に八音がピッタリ収まるからだと考えられます。
つまり、七音のときには最後の句に移る前に取っていた一拍分を
八音のときには音に変えて発音してしまっている状態ということです。
だから全体のリズム感が崩れない。
そんな風に考えていくと、人間には一定のリズムを感じ取る能力というのが
ある程度は普遍的にあるのではないかという感じがしてきます。
だからこそ、世界中で自然発生的に音楽が生まれてきたのだろう、と。
そういう人類共通の感受性みたいなものは
人に影響を与えるものとして十分に検討してみる価値がありそうです。
七五調のリズムが合うようです。
五七五で綴られる俳句や川柳、五七五七七の短歌・和歌、
そして七五調の小気味よいリズムで進んでいく都々逸(どどいつ)。
齋藤孝氏が「声に出して読みたい日本語」でヒットしていますが、
その中の主張にも日本語特有のリズムというのが強調されていたようです。
また、それとは少し違うリズムに感じられますが
三三七拍子や三本締めなどのように、手拍子を打つ時にも
日本人が好むリズム感があるように思えます。
七五調のゆったりと流れに身を任せるような心地良さと比較すると
三と七、三と一で作られるリズムには、もっと勢いがあるというか、
スピーディーにたたみかけてくるようなアップテンポなノリを感じます。
このあたりの、リズムと気分の関係というのは世界中の音楽に対して
多くの人が共通して持つ印象だと考えてよいのではないでしょうか。
たとえば、ワルツのリズムには、落ち着いた優雅さを感じるように。
日本人にとって三本締めや三三七拍子が染みついていることを感じさせるのは
高速道路のスピード注意のために道についている出っ張りでしょうか。
一定のスピードで進むと、タイヤが地面の出っ張りを拾い
その音がリズムよく三本締めを奏でるというヤツです。
余談ですが、北海道の道路には法定速度で走っていると
丁度いいリズム・音程で「知床旅情」が聞こえてくる道があるそうです。
これは道路に細かい溝を作り、その間隔で音程を調節する仕組みなんだとか。
で、日本人にとって馴染みの深い三本締めや三三七拍子も、
外国の人からすると単なる四拍子に聞こえることもあるそうなんです。
確かに言われてみれば、三三七拍子は四拍子のリズムに合わせられます。
4分の4拍子の楽譜の上に、手をたたくところを音符、休むところを休符で記すと
(叩くところを○、休むところを●)○○○●○○○●○○○○○○○●の繰り返し。
四拍子に当てはめられるわけです。
日本人がこれを聞いたときには休符にあたる休みの部分には
あくまで体の中で一拍の間をおいてはいますが、それをリズムの一部とは感じず、
三回手をたたくところと七回手をたたくところに意識が行くようです。
これを四拍子と感じるには、手をたたくところと休むところが作り出す
全体的なリズムの流れを背景に感じ取る必要がありそうですから
一定のリズムを意識しやすい習慣があるのかもしれません。
もしかすると、日本人のリズム感には、
音が作り出すテンポの変化に敏感な傾向があるのでしょうか。
日本の伝統音楽は欧米のリズムと比べると独特な展開をするように感じられますから
何か特有の感性が磨かれてきた可能性も否定できません。
とはいえ、そうした日本的なリズム感も、間の部分を明確に感じていないだけで
そこをハッキリと意識化させていけば多くのものが四拍子に当てはまるというのも
なんだか面白いことのように思えます。
三本締めに関しては ○○○●○○○●○○○●◎
という形ですが、最後の一拍は、それまでの細かい三拍の倍の長さに当たります。
4分の4拍子の楽譜に当てはめると、「四分音符×3+四分休符×1」を三回、
最後の一小節は「二分音符×1+二分休符×1」になるわけです。
で、その全体を三回繰り返すという流れ。
最後の一小節、つまり最後に締めの一拍を打つところは
全員が共通して少し長めの間を取っているから、
繰り返しでタイミングよく進めるのだろうということです。
同様に、五七五のリズムも実は四拍子に当てはめることができます。
○○○○○●●●○○○○○○○●○○○○○●●●
俳句や川柳のリズムは、自然とこんな感じで読んでいるはずです。
最初の五音の後には多少長めの間をあけ、次の七音の後の間は短い。
「松島や ああ松島や 松島や」
たぶん、二回目の「ああ松島や」と三回目の「松島や」の間隔の短さに気づけるでしょう。
このことを考えると、「字余り」と呼ばれるものに関しても
一般的には真ん中の七音については細かく言われない理由が分かる気がします。
たとえばサラリーマン川柳から引用すると、
「『オレオレ』に 亭主と知りつつ 電話切る」
「『課長いる?』 返ったこたえは 『いりません!』」
この2つの例だと真ん中は八音あります。
それでも多くの人が、あまりそのことが気にならないんじゃないでしょうか?
たぶん、それは真ん中の二小節分に八音がピッタリ収まるからだと考えられます。
つまり、七音のときには最後の句に移る前に取っていた一拍分を
八音のときには音に変えて発音してしまっている状態ということです。
だから全体のリズム感が崩れない。
そんな風に考えていくと、人間には一定のリズムを感じ取る能力というのが
ある程度は普遍的にあるのではないかという感じがしてきます。
だからこそ、世界中で自然発生的に音楽が生まれてきたのだろう、と。
そういう人類共通の感受性みたいなものは
人に影響を与えるものとして十分に検討してみる価値がありそうです。
2009年05月13日
心の中の英会話
何かの技術を身につけるとき、
何かの行動の癖を変えるとき、
自分の中の思考パターンを変えるとき、
そういうときに役立つのが細かく分割して調べていくという方法です。
これはNLPのスキルの基本的なスタンスとも呼べるところですが、
人によって当たり前のように行動している中身が違うという前提を踏まえているものです。
たとえば、僕が今こうしてブログをノートパソコンで書いているとき、
僕の中には心の声が聞こえています。
たぶん、心の中の声というのは多くの人が聞こえているものでしょう。
いわゆる内部対話とか、思考と呼ばれるものは言葉を伴っているはずです。
(そのため意識=言語という発想が生まれるようですが、これには違和感があります)
同じように心の声を聞いていても、ブログを書くときのプロセスは
詳細にみていくと人によって違っているはずなんです。
僕の場合は特に一生懸命何かを考えながら文章を書くという状態はありません。
どちらかというと心の声が聞こえてくるのをキーボードで書きだしている感じ。
さすがに自分の一部だろうと感じられるのは、その心の声が
キーボードを打つスピードを待っていてくれるところあたり。
心の声はある程度の早口で話しているので、
手書きだとたぶん、追いつけないような気がします。
ブラインドタッチでキーボードを打っているから書ける作業だと思います。
そして、こうやって文章を打っていると予定と違う方向に進むこともあります。
それは心の中の声が記憶の連想に従って別の内容を話し始めるからだと思われます。
とはいえ、心の中にはもう一つ、ハッキリと自覚できる全体の趣旨が
頭の左奥のあたりに残っていて、それがあるから進んでいく方向が分かり、
どうやって全体をまとめていくかが理解できているのでしょう。
僕の目はキーボードを見ることは滅多になく、
大体において文章をチェックするのに使われます。
正しい文字が打てているか、変換は正しいか、文字数はどれくらいか、などなど
そうしたことをチェックする役割が目と、それから頭の右横くらいにありそうです。
一応、パソコンの起動音やキーボードを打つ音、それからキーボードの感触なども
同時に感じてはいますが、それは文章を書くときには重要ではない役割の気がします。
ちょうど今、文章を打ちなおしていて気付いたのが、
語尾に対して注意する反応をしてくれる役割も自動的に動いていることです。
「そういえば、さっき『でしょう』を使ったばかりだったよな」
という印象がパッと浮かび、その瞬間に語尾を消去するように指が動きました。
それから今までの文章の流れを頭の中で軽く呼び起こし、
文章のリズム感や言い終わりの印象を振り返ってみて
あまり出てきていない言い回しの中から、文脈的に違和感のない表現を選びました。
それが『気がします』だったわけです。
そして、今ここで、頭の前あたりで
「ちょっと最初に予定していたことと違う方向に行っているかなぁ」
ということを小さく薄い声で思ったので、
そろそろ当初、書こうとしていたメインテーマのほうに流れを修正しようかと
意識の方向付けが変わった感じがしました。
ということで、本題に移ろうかと思いましたが、
「それではあまりにも急かな」という感じの違和感が身体反応として
胸のあたりに沸いてきて(これは言葉になる前に行動に移りました)
そこで、今までの流れを少し結論づけたほうがいいかと考えました。
ここまでで何が言いたかったかというと、人は何かの行動をしているときに
その人特有のプロセスを持っていて、それは内面で非常に複雑に
細かく移り変わりながら進んでいるということなんです。
こうしたものが人それぞれ学習してきたプロセスであるため、
このプロセスのここを変えようとか、新しく内面的なプロセスを学習しようとか、
そういった発想にはなりにくいというのが一般的な傾向でしょう。
だから世間一般の学習法というのは、大まかで表面的な行動レベルであったり、
ある時点での発想法や思考の内容に注意することであったりするわけです。
ところが、本当に効果的なのは、その人自身の持っている
こうした内面で複雑に繰り返されている細かいプロセスを順番通りに解析し、
その過程を利用したり、変更したりする手法だと思うんです。
たとえば、本を読んで理解するということを1つとってみても
本を読むときに、その人の中で起きていることが違うはずなんです。
本の読み方も様々な読書術として紹介されているようですが、
そもそも「文字を読んで理解する」ための内面的なプロセスが違うことには
あまり目が向けられていません。
読解力のトレーニングをするために国語の授業を頑張るのも役立つでしょうが、
文字を読んで理解するためのプロセス自体が効果的でない人の場合、
文章から内容を理解するという行為そのものが得意ではないわけです。
であれば、文字を読んで理解するために内面で起きているプロセスを分析し、
その流れを参考にして文章理解のトレーニングをするほうが役立つだろうということです。
で、今回の主題なんですが、そうしたプロセスの応用は
外国語学習にも使えるのではないだろうか、ということを最近思いました。
たまに僕はyoutubeで海外の心理系のセミナー動画や、
催眠などの動画を見たりしますが、そのときには英語を理解する必要があります。
僕の英語力は、聞きとりぐらいなら多少できる程度のものです。
なので、しっかりと理解できているとは言えません。
で、僕は英語の動画を見ているときに気づきました。
英語を聞くときは耳から音が入っているだけ。
心の声は聞いていない。
むしろ雑念として日本語が聞こえてくるときがあるぐらいです。
ところが、日本語の話を聞く時にはプロセスが違うんです。
耳から入ってきた日本語の話を、心の声として小さな音量で反復しているようです。
とくに話の内容を丁寧に理解しようと集中しているときは
話し手の声が大きく聞こえ、心の中の小さい声が重なるように進行していきます。
イメージとして説明すると、合唱しているときに近い。
もしくは、おぼろげにしか覚えていない歌を、原曲に合わせて歌う感じでしょうか。
そうすると自分の記憶の中の言葉同士が再編成される印象になるんです。
ある程度、自分が話しているときと近い感じ。
それが英語の場合には耳から入る音が、そのまま流れてしまう印象なわけですから
内容がしっかり理解できないのも当然だと思えました。
では、意識して心の中で追唱していけるかというと、
それがなかなか難しいんです。
後追いで話の内容を繰り返せるということは、
相手の話の内容を一度記憶して、発話できるということです。
でも僕は繰り返せない。
その原因は、そもそも英語の文章を聞いても
それを短期的に記憶できないところにあるのだろう、と。
繰り返せるぐらいになると、前の文章の内容を頭の片隅に留めていられます。
そうすれば、次の文章との繋がりも理解しやすくなる。
全体の流れや、意味のまとまりが掴めるようになると思うんです。
僕の場合、話をするときにも自分の声を聞いて、
その内容を頭の片隅に留めながら、それとの繋がりを感じつつ
次の文章の内容を決めているところがありますから、
聞いた文章を繰り返せるように記憶させることは
スピーキングにも役立ちそうな予感があります。
ということで、あまり連続した会話を漫然と聞くよりも、
ある程度の長さの文章をネイティブの発音で聞き、
それをすぐに繰り返す練習をすると効果があるんじゃないかと考えました。
その意味では、いわゆるシャドーイングというトレーニングは
実に理にかなっていると考えられます。
言ってみれば、僕の頭の中で、日本語は常にシャドーイングされながら
話を理解しているわけですから。
このプロセスが全ての人に当てはまるかどうかは
調査していないので分かりませんが、
少なくとも自分に関しては日本語を理解する時のプロセスを
英語に応用することは可能だろうと言えるはずです。
自分の内面で繰り広げられる詳細なプロセス。
特に内的なイメージや心の声のようなものを、
どれだけ捉えて参考にしていけるかが、効果的な学習の1つのコツだと思っています。
今、僕はチョットだけ英語を勉強し始めたところです。
何かの行動の癖を変えるとき、
自分の中の思考パターンを変えるとき、
そういうときに役立つのが細かく分割して調べていくという方法です。
これはNLPのスキルの基本的なスタンスとも呼べるところですが、
人によって当たり前のように行動している中身が違うという前提を踏まえているものです。
たとえば、僕が今こうしてブログをノートパソコンで書いているとき、
僕の中には心の声が聞こえています。
たぶん、心の中の声というのは多くの人が聞こえているものでしょう。
いわゆる内部対話とか、思考と呼ばれるものは言葉を伴っているはずです。
(そのため意識=言語という発想が生まれるようですが、これには違和感があります)
同じように心の声を聞いていても、ブログを書くときのプロセスは
詳細にみていくと人によって違っているはずなんです。
僕の場合は特に一生懸命何かを考えながら文章を書くという状態はありません。
どちらかというと心の声が聞こえてくるのをキーボードで書きだしている感じ。
さすがに自分の一部だろうと感じられるのは、その心の声が
キーボードを打つスピードを待っていてくれるところあたり。
心の声はある程度の早口で話しているので、
手書きだとたぶん、追いつけないような気がします。
ブラインドタッチでキーボードを打っているから書ける作業だと思います。
そして、こうやって文章を打っていると予定と違う方向に進むこともあります。
それは心の中の声が記憶の連想に従って別の内容を話し始めるからだと思われます。
とはいえ、心の中にはもう一つ、ハッキリと自覚できる全体の趣旨が
頭の左奥のあたりに残っていて、それがあるから進んでいく方向が分かり、
どうやって全体をまとめていくかが理解できているのでしょう。
僕の目はキーボードを見ることは滅多になく、
大体において文章をチェックするのに使われます。
正しい文字が打てているか、変換は正しいか、文字数はどれくらいか、などなど
そうしたことをチェックする役割が目と、それから頭の右横くらいにありそうです。
一応、パソコンの起動音やキーボードを打つ音、それからキーボードの感触なども
同時に感じてはいますが、それは文章を書くときには重要ではない役割の気がします。
ちょうど今、文章を打ちなおしていて気付いたのが、
語尾に対して注意する反応をしてくれる役割も自動的に動いていることです。
「そういえば、さっき『でしょう』を使ったばかりだったよな」
という印象がパッと浮かび、その瞬間に語尾を消去するように指が動きました。
それから今までの文章の流れを頭の中で軽く呼び起こし、
文章のリズム感や言い終わりの印象を振り返ってみて
あまり出てきていない言い回しの中から、文脈的に違和感のない表現を選びました。
それが『気がします』だったわけです。
そして、今ここで、頭の前あたりで
「ちょっと最初に予定していたことと違う方向に行っているかなぁ」
ということを小さく薄い声で思ったので、
そろそろ当初、書こうとしていたメインテーマのほうに流れを修正しようかと
意識の方向付けが変わった感じがしました。
ということで、本題に移ろうかと思いましたが、
「それではあまりにも急かな」という感じの違和感が身体反応として
胸のあたりに沸いてきて(これは言葉になる前に行動に移りました)
そこで、今までの流れを少し結論づけたほうがいいかと考えました。
ここまでで何が言いたかったかというと、人は何かの行動をしているときに
その人特有のプロセスを持っていて、それは内面で非常に複雑に
細かく移り変わりながら進んでいるということなんです。
こうしたものが人それぞれ学習してきたプロセスであるため、
このプロセスのここを変えようとか、新しく内面的なプロセスを学習しようとか、
そういった発想にはなりにくいというのが一般的な傾向でしょう。
だから世間一般の学習法というのは、大まかで表面的な行動レベルであったり、
ある時点での発想法や思考の内容に注意することであったりするわけです。
ところが、本当に効果的なのは、その人自身の持っている
こうした内面で複雑に繰り返されている細かいプロセスを順番通りに解析し、
その過程を利用したり、変更したりする手法だと思うんです。
たとえば、本を読んで理解するということを1つとってみても
本を読むときに、その人の中で起きていることが違うはずなんです。
本の読み方も様々な読書術として紹介されているようですが、
そもそも「文字を読んで理解する」ための内面的なプロセスが違うことには
あまり目が向けられていません。
読解力のトレーニングをするために国語の授業を頑張るのも役立つでしょうが、
文字を読んで理解するためのプロセス自体が効果的でない人の場合、
文章から内容を理解するという行為そのものが得意ではないわけです。
であれば、文字を読んで理解するために内面で起きているプロセスを分析し、
その流れを参考にして文章理解のトレーニングをするほうが役立つだろうということです。
で、今回の主題なんですが、そうしたプロセスの応用は
外国語学習にも使えるのではないだろうか、ということを最近思いました。
たまに僕はyoutubeで海外の心理系のセミナー動画や、
催眠などの動画を見たりしますが、そのときには英語を理解する必要があります。
僕の英語力は、聞きとりぐらいなら多少できる程度のものです。
なので、しっかりと理解できているとは言えません。
で、僕は英語の動画を見ているときに気づきました。
英語を聞くときは耳から音が入っているだけ。
心の声は聞いていない。
むしろ雑念として日本語が聞こえてくるときがあるぐらいです。
ところが、日本語の話を聞く時にはプロセスが違うんです。
耳から入ってきた日本語の話を、心の声として小さな音量で反復しているようです。
とくに話の内容を丁寧に理解しようと集中しているときは
話し手の声が大きく聞こえ、心の中の小さい声が重なるように進行していきます。
イメージとして説明すると、合唱しているときに近い。
もしくは、おぼろげにしか覚えていない歌を、原曲に合わせて歌う感じでしょうか。
そうすると自分の記憶の中の言葉同士が再編成される印象になるんです。
ある程度、自分が話しているときと近い感じ。
それが英語の場合には耳から入る音が、そのまま流れてしまう印象なわけですから
内容がしっかり理解できないのも当然だと思えました。
では、意識して心の中で追唱していけるかというと、
それがなかなか難しいんです。
後追いで話の内容を繰り返せるということは、
相手の話の内容を一度記憶して、発話できるということです。
でも僕は繰り返せない。
その原因は、そもそも英語の文章を聞いても
それを短期的に記憶できないところにあるのだろう、と。
繰り返せるぐらいになると、前の文章の内容を頭の片隅に留めていられます。
そうすれば、次の文章との繋がりも理解しやすくなる。
全体の流れや、意味のまとまりが掴めるようになると思うんです。
僕の場合、話をするときにも自分の声を聞いて、
その内容を頭の片隅に留めながら、それとの繋がりを感じつつ
次の文章の内容を決めているところがありますから、
聞いた文章を繰り返せるように記憶させることは
スピーキングにも役立ちそうな予感があります。
ということで、あまり連続した会話を漫然と聞くよりも、
ある程度の長さの文章をネイティブの発音で聞き、
それをすぐに繰り返す練習をすると効果があるんじゃないかと考えました。
その意味では、いわゆるシャドーイングというトレーニングは
実に理にかなっていると考えられます。
言ってみれば、僕の頭の中で、日本語は常にシャドーイングされながら
話を理解しているわけですから。
このプロセスが全ての人に当てはまるかどうかは
調査していないので分かりませんが、
少なくとも自分に関しては日本語を理解する時のプロセスを
英語に応用することは可能だろうと言えるはずです。
自分の内面で繰り広げられる詳細なプロセス。
特に内的なイメージや心の声のようなものを、
どれだけ捉えて参考にしていけるかが、効果的な学習の1つのコツだと思っています。
今、僕はチョットだけ英語を勉強し始めたところです。
2009年05月10日
鶏肉と手羽先
先日、名古屋駅の地下街を歩いていたら、
マクドナルドの商品メニューから見たことのない映像が飛び込んできました。
「シャカシャカチキンウィング」
3つ入って150円。
形から推測するに手羽先だと思います。
名古屋限定なんでしょうか。
マクドナルドのホームページを見ても載っていません。
出張で名古屋に行くようになって気づいたのは、
チェーン店を他で見たことのある店のメニューに
他では見たことのないものが載っているケース。
文化は土地によって違うということを実感します。
また、聞いた話ですが、ニキビケアで有名な「プロアクティブ」も
名古屋で放送されるCMでは、お客様の声が名古屋弁で書かれているそうです。
土地柄に合わせるというのは商売においても大事なことなんでしょうね。
僕の場合、取り立てて土地柄や地域差を意識することは少ないですが、
複数の人と同時に関わるときには、そのグループの特性に合わせる意識を持ちますから
その意味では、どこかで土地柄に合わせるような方法を使っているかもしれません。
ところで、このマクドナルドの「シャカシャカチキンウィング」を見ていて
少し思ったところがありました。
マクドナルドぐらいの規模になれば、仕入れも相当な量になるでしょうから
鶏肉だって大量に仕入れているんじゃないかと推測されます。
ケンタッキーは噂によると、鶏1羽の広い領域を調理しているらしく、
食べ終わった骨を組み合わせていくと鶏の骨格が結構作れるという話もあるようです。
(確かテレビで見たような気がするんですが…、バラエティですから不確かです)
マクドナルドが鶏をどの単位で購入しているかは知りませんが、
今まで商品に使っていなかった手羽先の部分を商品にできれば
無駄もなくなるしコストダウンにもつながりそうな印象を受けます。
効率的な商品になりそうな気がしたわけです。
まぁ、実際にはマクドナルドの場合、鶏肉として使っている部位は限られますから
別途に手羽先の部分を仕入れているのかもしれません。
とにかく、原料を上手く使いきることができるように商品を開発できると
無駄なくコストダウンができるんじゃないかという話です。
他にも最近で気になるのは、山崎製パンから販売されている「チョコの山」。
コンビニのパンのコーナーで見かけることがあります。
なんでも食パンの耳を焼いたものにチョコレートをかけているのだとか。
ザクザクした歯応えのお菓子だということです。
で、何が気になるかというと、「パンの耳」だというところ。
ヤマザキですから、パン関連の製品として当たりまえのようにも感じますが、
これがパンの耳だということが引っかかるんです。
なぜかというと、最近のヤマザキが随分と「ランチパック」を推している印象があるから。
ランチパックそのものは25年前から売られていたそうです。
僕が意識していたのは10年弱ぐらい前だったと思いますが。
少なくとも、しばらく前まではテレビコマーシャルも見なかったですし、
最近ほど商品を増やしている気配もありませんでした。
現在は、どこのコンビニに行っても置いてあるような状況ですから、
「ランチパック」の製造量も増えているだろうと想像できます。
そして、この「ランチパック」の特徴と言えば、バリエーション豊かな具材が
食パンの中に挟まれていて、手軽なサンドイッチ形態であるということ。
食パンを使っていながらも、耳の部分が切り落とされているのも特徴でしょう。
この耳が切り落とされているというのがポイント。
もしかすると「チョコの山」は、ランチパックで切り落とされたパンの耳を
上手いこと商品に利用しているものじゃないかと推測したくなります。
だとすると最近、「ランチパック」の販売に力を入れているからこそ、
大量に余ってしまうパンの耳の部分を効果的に再利用したんじゃないかということです。
製造業で研究開発をしていた経験を通じて言わせてもらえば、
製造の工程で出来てしまう副産物や無駄な部分を減らすのは大切ですし、
何よりも、その無駄になってしまう部分を商品化できれば
コスト面で非常に有利になるということがあるはずです。
もちろん、副産物や余剰の部分を回収するのに費用がかかってはいけませんが、
食品製造工程ぐらいであれば、むしろ再販売できるメリットのほうが大きそうです。
「チョコの山」が売れるほど、原材料費は安くて済むし、
「ランチパック」の製造原価を計算上、減らすこともできると思います。
ここでの話は「チョコの山」が「ランチパック」製造過程で出る
パンの耳を使って作られているという前提ですが、
そういうやり方をしているとしたら、それなりに効率的なんじゃないでしょうか。
アサヒビールはビール製造に使った後のビール酵母を回収して
健康食品として販売しているみたいですし、
こうして無駄を出さなくすることは様々なところで考えられているように感じます。
「無駄を出さない」という発想を持つことも、
「効率化をする」という発想を持つことも大事だと思いますが、
こうした「ランチパック」と「チョコの山」のような関係では
「全体を見るように視野を広げている」ことが大切なポイントだと思います。
パンの耳という無駄を減らすためなら、他の方法だってあったはずです。
例えば、パンの金型を大きくして、食パンのサイズを大きくすれば、
周りにできるパンの耳の部分の量は相対的に減っていきます。
耳を切り落とす範囲をギリギリにして、無駄を減らす方法もあったでしょう。
それよりも、パンの耳という無駄になっていた部分から価値を見つけ、
それを新たな商品に変えていくほうが更に積極的だと考えられます。
無駄を減らすのではなく、無駄を価値に変える。
そうした発想は商品開発だけのものでもないと思うんです。
NLPの創始者リチャード・バンドラーは、結構せわしない印象のある人です。
ちょこまかと細かく動いていることがあるし、
客観的に見れば無駄と思えるようなアクションが沢山あります。
無駄な動きを止め、ゆったりと体を動かさずに話していたとしたら
もっとエレガントで堂々とした印象を与えることだってできるはずです。
でも、バンドラーの選択は違います。
彼はその無駄と思えるような動き・ジェスチャーを利用しています。
特定の仕草や動き方で、話題や聞き手の気持ちを条件づけしていると言われます。
ジョークで観客を笑わせるときには必ず鼻をかく、という具合に。
それを繰り返すうちに、鼻をかくだけで観客には笑う準備ができるわけです。
意識的に努力をしていけば、無駄な動きを止めていって
もっと静かな印象を作り出すことだってできたはずですが、
その無駄な動きを別の方向で利用しているのでしょう。
無駄をなくす、無駄を減らすという発想に加えて、
無駄を価値に変えるという発想に注意していみるのも、
なかなか役に立つことではないでしょうか。
マクドナルドの商品メニューから見たことのない映像が飛び込んできました。
「シャカシャカチキンウィング」
3つ入って150円。
形から推測するに手羽先だと思います。
名古屋限定なんでしょうか。
マクドナルドのホームページを見ても載っていません。
出張で名古屋に行くようになって気づいたのは、
チェーン店を他で見たことのある店のメニューに
他では見たことのないものが載っているケース。
文化は土地によって違うということを実感します。
また、聞いた話ですが、ニキビケアで有名な「プロアクティブ」も
名古屋で放送されるCMでは、お客様の声が名古屋弁で書かれているそうです。
土地柄に合わせるというのは商売においても大事なことなんでしょうね。
僕の場合、取り立てて土地柄や地域差を意識することは少ないですが、
複数の人と同時に関わるときには、そのグループの特性に合わせる意識を持ちますから
その意味では、どこかで土地柄に合わせるような方法を使っているかもしれません。
ところで、このマクドナルドの「シャカシャカチキンウィング」を見ていて
少し思ったところがありました。
マクドナルドぐらいの規模になれば、仕入れも相当な量になるでしょうから
鶏肉だって大量に仕入れているんじゃないかと推測されます。
ケンタッキーは噂によると、鶏1羽の広い領域を調理しているらしく、
食べ終わった骨を組み合わせていくと鶏の骨格が結構作れるという話もあるようです。
(確かテレビで見たような気がするんですが…、バラエティですから不確かです)
マクドナルドが鶏をどの単位で購入しているかは知りませんが、
今まで商品に使っていなかった手羽先の部分を商品にできれば
無駄もなくなるしコストダウンにもつながりそうな印象を受けます。
効率的な商品になりそうな気がしたわけです。
まぁ、実際にはマクドナルドの場合、鶏肉として使っている部位は限られますから
別途に手羽先の部分を仕入れているのかもしれません。
とにかく、原料を上手く使いきることができるように商品を開発できると
無駄なくコストダウンができるんじゃないかという話です。
他にも最近で気になるのは、山崎製パンから販売されている「チョコの山」。
コンビニのパンのコーナーで見かけることがあります。
なんでも食パンの耳を焼いたものにチョコレートをかけているのだとか。
ザクザクした歯応えのお菓子だということです。
で、何が気になるかというと、「パンの耳」だというところ。
ヤマザキですから、パン関連の製品として当たりまえのようにも感じますが、
これがパンの耳だということが引っかかるんです。
なぜかというと、最近のヤマザキが随分と「ランチパック」を推している印象があるから。
ランチパックそのものは25年前から売られていたそうです。
僕が意識していたのは10年弱ぐらい前だったと思いますが。
少なくとも、しばらく前まではテレビコマーシャルも見なかったですし、
最近ほど商品を増やしている気配もありませんでした。
現在は、どこのコンビニに行っても置いてあるような状況ですから、
「ランチパック」の製造量も増えているだろうと想像できます。
そして、この「ランチパック」の特徴と言えば、バリエーション豊かな具材が
食パンの中に挟まれていて、手軽なサンドイッチ形態であるということ。
食パンを使っていながらも、耳の部分が切り落とされているのも特徴でしょう。
この耳が切り落とされているというのがポイント。
もしかすると「チョコの山」は、ランチパックで切り落とされたパンの耳を
上手いこと商品に利用しているものじゃないかと推測したくなります。
だとすると最近、「ランチパック」の販売に力を入れているからこそ、
大量に余ってしまうパンの耳の部分を効果的に再利用したんじゃないかということです。
製造業で研究開発をしていた経験を通じて言わせてもらえば、
製造の工程で出来てしまう副産物や無駄な部分を減らすのは大切ですし、
何よりも、その無駄になってしまう部分を商品化できれば
コスト面で非常に有利になるということがあるはずです。
もちろん、副産物や余剰の部分を回収するのに費用がかかってはいけませんが、
食品製造工程ぐらいであれば、むしろ再販売できるメリットのほうが大きそうです。
「チョコの山」が売れるほど、原材料費は安くて済むし、
「ランチパック」の製造原価を計算上、減らすこともできると思います。
ここでの話は「チョコの山」が「ランチパック」製造過程で出る
パンの耳を使って作られているという前提ですが、
そういうやり方をしているとしたら、それなりに効率的なんじゃないでしょうか。
アサヒビールはビール製造に使った後のビール酵母を回収して
健康食品として販売しているみたいですし、
こうして無駄を出さなくすることは様々なところで考えられているように感じます。
「無駄を出さない」という発想を持つことも、
「効率化をする」という発想を持つことも大事だと思いますが、
こうした「ランチパック」と「チョコの山」のような関係では
「全体を見るように視野を広げている」ことが大切なポイントだと思います。
パンの耳という無駄を減らすためなら、他の方法だってあったはずです。
例えば、パンの金型を大きくして、食パンのサイズを大きくすれば、
周りにできるパンの耳の部分の量は相対的に減っていきます。
耳を切り落とす範囲をギリギリにして、無駄を減らす方法もあったでしょう。
それよりも、パンの耳という無駄になっていた部分から価値を見つけ、
それを新たな商品に変えていくほうが更に積極的だと考えられます。
無駄を減らすのではなく、無駄を価値に変える。
そうした発想は商品開発だけのものでもないと思うんです。
NLPの創始者リチャード・バンドラーは、結構せわしない印象のある人です。
ちょこまかと細かく動いていることがあるし、
客観的に見れば無駄と思えるようなアクションが沢山あります。
無駄な動きを止め、ゆったりと体を動かさずに話していたとしたら
もっとエレガントで堂々とした印象を与えることだってできるはずです。
でも、バンドラーの選択は違います。
彼はその無駄と思えるような動き・ジェスチャーを利用しています。
特定の仕草や動き方で、話題や聞き手の気持ちを条件づけしていると言われます。
ジョークで観客を笑わせるときには必ず鼻をかく、という具合に。
それを繰り返すうちに、鼻をかくだけで観客には笑う準備ができるわけです。
意識的に努力をしていけば、無駄な動きを止めていって
もっと静かな印象を作り出すことだってできたはずですが、
その無駄な動きを別の方向で利用しているのでしょう。
無駄をなくす、無駄を減らすという発想に加えて、
無駄を価値に変えるという発想に注意していみるのも、
なかなか役に立つことではないでしょうか。