2009年08月

2009年08月30日

「快」を感じるとき

NLPだとか成功法則だとかコーチングだとか、そういったものの中で
「脳は『快』の状態を求める」ということを耳にすることが少なくありません。

僕には少し疑問があります。

そもそも人間は生まれる前、母親の胎内で文字通りの一体感を感じているはずです。
ただ、その状態しか知らない胎児にとっては、それが当たり前の状態でしょう。

また、厳密にいえば、母子は身体的に繋がりを持っているわけですから
母親の受けたストレスが胎児にも影響している可能性は考えられます。
もしかすると胎児の状態から学習が始まっているかもしれませんが、
五感の機能的な発達を考慮すれば、その期間は決して長くないと思われます。

何より、誕生の瞬間に感じるであろう胎内とのギャップに比べると
そのインパクトは小さいのではないかと思います。
生まれたときに、母親と一体の状態から切り離されるわけです。

人の一生は分離から始まります。

そして、徐々に自分の身体の範囲を識別し、身体の使い方を学習していく。
脳の働きが明確になっていく時期でしょう。

そこには、乳幼児の時期だとはいえ、思い通りにならない場面が多々あるはずです。
生理的な不快感をベースにアピールをする。
もう、この時点で不快な状態がベースにあると言えます。

もっといえば、母親の胎内で感じていた一体となった状態が得られない不満は
常に感じられているのかもしれません。

胎内の安心できる感じとしての自覚よりも、
それが当たり前の状態から、それが得られない状態へ移り変わったときに
安心感や一体感とは対極にある「切り離された」感じとして、
不快な状態が自覚されるほうが一般的なのではないかと考えられます。

安心の状態が当たり前になっているから
安心ではない状態が自覚される。
だから、そこを避けて、元の状態を求めようとする。

安心を求めるといっても、不安を避けるといっても
どちらも同じものを指していると思えますが、
自覚されやすいのは、当たり前の状態からのギャップの部分としての
不満足な状態のほうでしょう。

根源的に求めているものは、当たり前に得られていたはずの一体感や安心感だとしても、
それが自覚されるタイミングは不快や不満足を通じてになるということです。


これは、いわゆる「快」の状態に対しても同様です。

分かりやすい例でいえば、人は空腹を満たしたときに「快」の状態になります。
満腹の状態で何かを食べても、そこに「快」は少ないわけです。

なお、「甘いものは別腹」という意見もありますが、
糖類が直接的にエネルギー源になるという意味では
エネルギー不足を避けるために、甘いものは多くの状況で「快」を感じさせるように
身体的な仕組みができていると考えればいいでしょう。

甘いものだって、本当に満腹の状態になったり、
ケーキの食べ放題などに行ったりしたら、多くの人は
あるタイミングから、食べたときの喜びが得られにくくなってくるはずです。

つまり、食べることで得られる「快」の状態は
空腹(エネルギー不足)という不満足な状態を回避することで得られているわけです。

食べ物を手に入れるために行動を起こそうとするモチベーションは
未来に起こるであろう空腹という不満足な状態を回避するために
「不快」な状態を感じる前から行動させるためのものだと考えることもできます。

ビジネスでお金を稼ごうとするモチベーションも、
未来にお金がなくなって生活に困る状態を避けるためであったり、
未来にお金がなくなって自分の思い通りにできなくなるのを避けるためであったり、
お金を稼ぐことで他人からの賞賛を得て
未来に人から認められない不安を感じるのを避けるためであったりするかもしれません。

「快」の状態は、「不快」を知っているからこそ、
「不快」を避けられたときに感じられるようになっているのではないでしょうか。

表面的に「快」の状態に向かってモチベーションを高めているように見える人は、
「不快」の状態に近づく前に早々と行動を始めることができて、
予測を元に日々を送ることができていると言えるかもしれません。

一方、表面的に「不快」の状態を避ける方向に行動するように見える人は、
「不快」の状態が身近に感じられ始めてきたタイミングで行動を始める。
「不快」の状態を避け始める時期が遅いのかもしれません。

「不快」として感じられる状態が同程度だったとして、
それに現状が、近づいてくるのを察知して行動を始めるわけですが、
その「不快」な状態に対して、どの程度近づくと行動を始めるかというレベルが
人それぞれ違っていると考えられます。

「不快」な感じが目の前に迫ったときに避け始める人は回避的に見えて、
かなり「不快」から離れた時点から避け始める行動ができる人は目的志向に見える。
ただ、それだけの違いのように思います。

その意味で、モチベーションと呼ばれるものが生まれるタイミングは
人によって違っているはずなんです。

病気になれば、すぐに体調を回復しようとする。
体に痛みがあれば、すぐに治療をしようとする。
それは、現状が「不快」のレベルになってしまっている意味で、
そこを避けようとするモチベーションは最も強くなると考えられます。

現時点で体に何も「不快」なものがない人が
将来やってくるかもしれない身体的な「不快」を避けようとして、
健康のためにモチベーションを上げて運動をするというような場合は、
避けたい「不快」が近くに感じられない分、ヤル気が起きないほうが普通なわけです。

むしろ、「病的な人とは関わりたくない」って言われる場面を想像して
それを避けるようにモチベーションを上げていくほうが強いエネルギーを生むでしょう。

悪習慣を断ち切る人の多くは、強烈な後悔を感じたときや、
将来に起こると予測される受け入れがたい状況を想像したときに、
強いモチベーションを働かせて、やめる決意をするようです。

思い返せば、僕の母親は「そんなことしていると皆に嫌われるわよ」
という強烈な一言で僕に社会性を躾してくれていたものです。

強い「不快」を避けようとするモチベーションは
決して明るさや楽しさを伴ったものではないかもしれませんが、
行動を起こさせるという意味において強烈ではあります。


そのとき、「不快」に近づいてから行動を始めると、
気持ちとして感じられる身体反応としては、すでに嫌な感じを自覚し始めていたりします。
順調な感じは少ないかもしれません。

「不快」が離れている段階から行動を始められると、
気分としては明るく、良い感じとして自覚できる状態でいられるようです。

一般的に、モチベーションが高く、何かに向かって進んでいくような人のほうが
明るくて楽しそうに見えるのは、「不快」を離していられるからだと考えられるでしょう。

また、動物的に考えれば、「不快」を先に予測して行動していられるほうが
より生命を維持するのに有利だったかもしれません。

「不快」から離れたところでモチベーションを高めているほうが
前向きで明るくて良いことのように思えるのも仕方がない気がします。


しかし、どちらも本質的な部分において、
同じ類の「不快」を避けようとしているという意味では違いがないはずなんです。

表面的に「快」を目指しているように見えても、
その「快」の前提には「不快」を避ける部分が含まれているんです。

自分自身の存在の危機という「不快」を避けようとする部分があるんです。

目標を設定して、それに向かって日々を過ごしていれば
間接的に「不快」を遠ざけた状態で日々を過ごせますから、
明るくて楽しそうな状態を維持できていると感じられることでしょう。
それは日々を満足して過ごす上で役に立ちます。

ただ、人間には何故か、理由がなく「快」を感じられるものがあるようです。

それは人によって違います。
芸術などは、その典型でしょう。

そのように「不快」が基準ではない「快」を生み出すものを見つけられると
人はとても幸せだろうと思います。

目標に向かって進んでいくことよりも、
そんな無条件の「快」の対象を見つけることのほうが
はるかに重要なことではないでしょうか。

cozyharada at 23:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2009年08月28日

名作

久しぶりに本を読んで感動しました。

石井裕之氏の『チギレグモノ、ソラノシタ』。
素晴らしい本だと思います。
軽い気持ちで読んで、ちょっと損をした気分さえ感じています。

部屋で一人、どっぷりと読みたかった。
二度目には感じられない気持ちに、もっと集中したかったと心残りがあります。
それぐらいに素晴らしい本じゃないでしょうか。

僕にとって数少ない、何度も読み返したいと思える素敵な本です。
本が好きで良かった。

ありきたりの言い方ですが、感動しました。

細かく説明すれば、色々と凄いところがあって、
ショートストーリーの展開や、文体の使い分け、リズム感や描写の美しさなど、
「この書き方ができるのは他にいないだろうなぁ」なんて客観的に凄さに感じ入りつつ、
同時に内容の世界に浸かって気持ちの動きを感じていたり。

色々なレベルで素晴らしさを感じていたわけですが、
その良さを言葉で説明することが、本を読んで感じた素晴らしい気持ちの動きを
自分の体の外に遠ざけてしまう行為のように思えてしまう。

だから多くを語ることなく、単純に「感動した」とだけ言っておきたい感じです。

チギレグモノ、ソラノシタ
チギレグモノ、ソラノシタ


本を読んで涙が出たのは、どれくらいぶりでしょうか。
悲しみで泣かせる類の感動ではないのも、また僕の感性に訴えかけたのかもしれません。

2009年08月26日

擬態

NHKで放送されている「ワンダー×ワンダー」という番組が面白いです。

毎回、驚きを感じられるようなテーマで進みます。
NHKスペシャルから切り取られたような形だとか。

野球マンガに登場する「魔球」を実現させようとしてみたり、
前人未到の鍾乳洞や、結晶だらけの洞窟を探検してみたり、
地球上の驚きの内容を特集してくれるのが楽しいところ。

人間の技術や探究心の凄さに感動できるときもあれば、
大自然の神秘に感動できるときもあって、個人的な興味とマッチしたときには
まさに食い入るように見てしまったりもします。


この間は、「大自然のモノマネ名人」というテーマで
「擬態」について特集していました。

これは本当に不思議で、あきれるぐらいに面白い。

擬態をするのは植物や昆虫、海の生物などに多いようですが、
鳥なども鳴きマネを駆使していたりするそうです。

何かの虫に似せた植物があるかと思えば、植物ソックリの形をした虫がいる。
枯れ葉や花に擬態したカマキリは、意識して見なければ気づかないほどです。

どう見ても、狙ってその形をしているとしか思えないぐらいに見事なマネっぷり。

海の中には、意図的に環境に紛れようと行動を変える生き物もいました。

「モクズショイ」というカニの仲間は、周りの環境にある海藻などを
自分のハサミを使って切り取り、それを体の表面にくっつけています。

実験で、全ての藻屑を取り除いたモクズショイの行動を観察したところ、
24時間ぶっ続けで作業をして、全身に海藻などを身につけていました。

器用に小さく海藻をちぎり、それを背中に乗せる様は
健気に思えるほどの地道な作業でした。
なんでも、脱皮のたびに、その作業をしているのだそうです。

これなどは自分の身を守るために、完全に意図的にやっている習性だと思えます。

また、つい20年ほど前に発見された「ミミックオクトパス」というタコの仲間は
体の表面の模様を変えるような手段ではなく、自分の手足の形で表現しながら
別の生物のモノマネをしていました。

人間が解釈すると、それは毒をもった生き物の擬態に捉えられますが、
そのタコが意図的に特定の生物に似せようとしているかどうかは分かりません。

ただ、襲われそうになる敵に合わせて、違った生き物のマネをするというのだから
その対応力は見事としか言いようがないでしょう。

全ての足をユラユラと上に持ち上げてイソギンチャクのマネをしたり、
足をフワッと広げて泳いでカサゴのマネをしたり。
全ての足を後ろ向きに束ねて、ヒラメのように平べったい魚のマネをするときもある。
時には両手を広げるような形をして、ウミヘビのマネをして敵を脅かします。

しかも、その動作が実に芸が細かいんです。

イソギンチャク・フォームのときには足を触覚ソックリにユラユラと動かし、
カサゴ・フォームの場合には、水の流れに漂うヒレの感じを足で表現している。

ヒラメ・フォームなんて、足をピッタリとくっつけて後ろ方向に流した姿は、
一枚の薄っぺらい形がヒラヒラと泳ぐ姿にしか見えません。

ウミヘビ・フォームは頭の部分や他の足の影響で微妙な様子でしたが、
ヘビが鎌首を持ち上げるスタイルを片方の足で表現して敵を脅していました。

こういう習性を持った生き物がいるというのは不思議で仕方ありません。

身を守るために手に入れた習性だと言えばそれまでですが、
タコやカニが本能的に模倣をすることを行動としてやっているのは
どういう進化の結果なのだろうかと驚きを感じざるを得ないところ。


生まれつき、姿かたちが別の何かに似ていることで生存に有利だというだけでなく、
自らの行動で姿を何かに似せようとする生き物がいるわけですから、
モノマネを駆使して生き残ろうとする戦略が選択されているように思えてしまいます。

ダーウィンの進化論でいえば、わずかな変化が時間をかけて
環境への適応の結果として選択されてくる、ということになりますが、
こんな擬態をする生き物が偶然に生まれることがあるのでしょうか?

生化学を専門にして遺伝子組み換えなどをやっていた僕からすると、
突然変異というのが、どの程度、表に現れる形質として影響するかは
なんとなくイメージができる部分だったりします。

擬態をする生き物が、現在の形まで進化してくる過程を
自然に起こるランダムな突然変異の結果として捉えると、
そこには、とんでもない確率の偶然性があると思えるんです。

何かの意志があるんじゃないだろうかとさえ思えてしまいます。
ただ、そこでは進化を説明する根拠が不明瞭なので
あくまで「不思議すぎて分からないけれども、事実として存在する」
ということを認めるのが僕のスタンスです。

とにかく凄い。
なぜ、こんな生き物が存在できるのか。
驚きです。

その偶然性は、世の中で語られる心霊体験や超常現象、
神秘体験やスピリチュアルな世界などの
人間に関わる体験よりも遥かに不思議なものだと思います。

それが目で見て確認できるものとして存在してしまっているから
不思議さを感じにくいのかもしれませんが、
その確率を考えたら、とてつもない大自然の神秘だと感じるはずです。

同様な意味合いでいえば、人間が人間として活動できていることもまた
素晴らしく神秘的なことじゃないでしょうか。

目に見えない不思議のほうが、より不思議そうに感じられるのかもしれませんが、
目に見える不思議というのも、世の中には沢山あるように思います。

2009年08月25日

もっと良くなるために

先日も、あるコンサルタントの方と話す機会がありました。

凄い人というのは、一般的な人と比べて何かの違いを持っているから
凄いと言われるようになるだけの成果を出せるわけですが、
多くの偉人に共通するのは「継続」という要素ではないかと思います。

ここでいう「継続」は、なんでもいいから続けることに意味があるというのではなく、
成長していくための工夫を続けているというニュアンスです。

勉強し続けるというのも1つかもしれません。
ただ、それ以上に大切なのは、「どうしたらもっと良くなるか」というスタンス。
良くなるための努力をやめないのではないかと思います。

それは努力とさえ感じられないもののようにも思えますが、
「もっと良くなるために」という動機に支えられて、
自然と成長するための取り組みを継続しているのでしょう。


そのコンサルタントは独立して10年という話でしたが、
10年間に飽くなき工夫を続けてきた様子が見て取れます。

その方にも師匠となる人が数人いたそうですが、
今のやり方の中には師匠と違った部分が多々あるように見えます。

本人は「負けず嫌いだったから」と話してくれましたが、
そこには、上手くいかなかったケースや、分からなかったケースを
真正面から受け止めて、それを必死で乗り越えようとする努力を
繰り返し続けてこれただけの素直さや正直さがあったんじゃないでしょうか?

師匠に教わって、自分でやってみて、上手くいく実感があったから
独立したのではないかと察していますが、
独立当初は予想外のトラブルの連続だったそうです。

上手くいくはずのことが失敗してしまう。
そこで上手くいくための方法と正面から向き合った。
工夫をしたわけです。

その結果、上手くいかないパターンの中から、新たな知見を得ることができる。
知恵と経験が増えていきます。

クライアント企業から受けた依頼や質問に対して答えられないことがあれば
その後で必死に調べたと言っていました。

自分が今まで知らなかったことを調べ始めると、
必要な情報量は膨大になっていくものです。
それでも妥協せずに調査を続けたということです。

何が起きているのか分からないときには徹底的に調査したと聞きました。
図書館で資料を山積みにして調べ物をしていたこともザラだったそうです。
その中で他の人が成果を出しているパターンを見つけて応用する。

目にとまったこと、気になったことを調べ、
役にたてられそうなものを常に探し続けている。

…そんな工夫を繰り返しながら活動してくるうちに
オリジナルのノウハウが蓄積していったのでしょう。


これは分かったつもりになってしまったら、
決して成し遂げられなかった結果だと思います。

分かったつもりで見たものは、自分の理解に当てはめて解釈してしまいます。
それでは新しいことは理解できません。
分かるところしか情報を取り入れられません。

その人は、分からないことから逃げなかった。
自分の範囲だけで対処しようとしなかった。

そうやって理解の範囲を広げて、何にでも対応できるコンサルタントとして
活躍の範囲を広げていかれたのではないでしょうか。


分かったつもりにならない。
これは非常に難しいテーマだと思います。

分かった実感を得られなければ、いつまでも同じような内容を学び続けることになります。
ある程度分かってきたと感じた時には、情報を集める範囲を広げることも大切でしょう。
関連分野から、より抽象的な学問領域に進んでいくことも重要なはずです。

僕の中にも「分かってきた」実感があるのは事実です。
ですから、物事をその枠組みを使って眺める傾向はあります。

ただ、僕が心がけているのは、
その枠組みで当てはまらないような違和感が少しでもあれば、
すぐに自分の理解の枠組み全体を修正していこうとする部分です。

例外は許したくない。
全てに対応できる理解の仕方でありたいという思いがあります。

「本当にそうだろうか?」
そういう吟味を繰り返しながら、理解を広げていきたいと感じています。

分からないところ、答えられないところ、気になるところがあったとき、
そのときが新たな情報を手に入れるチャンスになりそうです。

cozyharada at 23:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2009年08月23日

サービス業への感じ方

しばらく名古屋のホテルに泊まっています。

大体、セミナー会場に近いホテルを利用していますが、
フロントの対応が丁寧で良い印象を受けます。

だいぶ顔でも覚えてくれているようで、同じ説明になるような内容であれば、
それに合わせた話し方をしてくれたり。

気の利いた人だと、外出から帰ってきた時点で
部屋の鍵を準備してくれたりもします。

決まり切った対応だけでなく、柔軟に変えてくれるのは嬉しいものです。
まぁ、それも僕が柔軟性を大切にしているから感じるところかもしれませんが。


僕がよく使うホテルは、この名古屋のところと
箱根のワークショップで会場になるホテルぐらいなもの。

箱根は山奥にあるせいか、コースの食事の内容も毎回同じようなもので、
従業員の接客も残念なことが多いですから、どうしても比較してしまいます。

僕はホテルで、どの程度ワガママを言っていいのか分かりませんし、
また取り立てて要望を感じることもないので、十分に親切な対応と感じますが、
もっと高いホテルに泊まったら違いを意識するようになるのかもしれません。

僕の中には経験が少ないので、基準がシッカリしていないわけです。
何かを判断するようになるには、基準となる様々な体験が欠かせないと思います。

自分にとっての当たり前が、無自覚なうちに基準になってしまいます。
その基準の精度を上げていくためには、幅広い経験があるほうがいい。

特定の要素に注目したら、その傾向が強いものから弱いものまで
両方の方向で体験をしておくことが役に立つと考えられます。

それは自分自身の幅を広げ、柔軟性を強めていくうえでも大切でしょうし、
世の中一般という客観性を身につけるためにも重要でしょう。

「世間知らず」という言葉がありますが、それは「贅沢」という方向性だけでなく
「自分の基準が当たり前」であると勘違いした状態とも言える気がします。

世の中一般の標準的な程度を知っておくことは、自分に対しても他人に対しても、
偏り過ぎた固執に近いものを見つけるために役立ちますし、
逆に個性や特徴、強みを見つけるためにも役立つはずです。

比べるためには幅広い体験の中から標準となる程度を見出すことが前提だということです。


もっとも、「基準と比較する」という行為をしないために
客観的な理解が乏しくなってしまうケースも少なくないようです。

世間一般の基準を知り、自分にとっての当たり前を自覚する。
その上で、自分にとって心地良いラインを選択するのが大人の対応だと思います。

露骨に嫌な表情をする店員がいたり、
おしぼりが臭いことに気づかないまま客に渡してきたり、
座敷の席に靴ベラが用意されていなかったり、
客の前で店員を怒鳴りつけたり…。
不快に思うポイントは人それぞれの場合があります。

はたして、そのポイントは一般的な基準と比べてどうなのか?
どの程度、自分自身が大事にしたい度合いが強いのか?
そんなことを振り返ってみるのも良いかもしれません。

自分にとって譲れないポイントだから不快だ、と自覚できているとき、
自分の感情に責任を持てているのではないでしょうか。

2009年08月21日

ならないように

モチベーションには色々な方向性があります。
それは、いくつかの要素を組み合わせた結果、そのときの個人の特徴として
特定の方向に対してモチベーションが生まれるということです。

たとえば、すごくショッキングな出来事があったとしたら、
精神的打撃の影響で、しばらくは意欲がわかなかったとしても
その後に「二度とこんな想いはしたくない」という後悔の念から
今までと違う方向に強いモチベーションで進んだりする。

それが何かの目標に向けて進んでいる最中であったとすると、
後悔を避けようとして新たなモチベーションを生み出す人もいれば、
その目標に対して別の方向からアプローチをしようとして
以前のモチベーションを維持したり強めたりするほうになる人もいるでしょう。

「脳は快を求める」なんていう言い方で、
「快の状態を強くイメージすれば、その方向に進める」という意見もありますが、
実際のところ、「不快を避ける」という方向にもモチベーションは生まれるんです。

それは「不快を避ける」ことで「快の状態になれる」からではなく、
脳の機能として「不快を避ける」ためにもモチベーションが生まれることが
実験的に示されているということです。

ちなみに、モチベーションはドーパミンと密接に関わっていると言われていますが、
これもマウスの脳で実験した結果から人間でも同様だろうと推測されているもので、
マウスの実験結果からは「不快から逃げる」ためにもドーパミンが出ていることが
実験的に示されているという話です。

ということで、特定の目標がなくてもモチベーションは生まれると考えていいはずです。


現状で困っていることがある。
それを避けたい、どうにかしたい。
その状態は、困ったことを避けた結果として特定の目標に進もうとしていなくても
「変わりたい」という意味では強いモチベーションを生むことがあるわけです。

むしろモチベーションの強さという点では、
強烈な後悔以上に人を変えさせるものはないような気もします。

禁酒、禁煙、ダイエット…、そういった悪習慣を断ち切った人の中にも
後悔をキッカケにして一瞬で変わるケースは多くあると言われます。

どんなに、ダイエットに成功した状態を目標に設定しても上手くいかなかった人が、
強い後悔や将来への不安をキッカケにして変化し始めることがザラにあるんです。

「痛み」は、まさに回避からモチベーションを生み出すためのものじゃないでしょうか。

二度と同じ危険を体験しないように痛みを通じて学習する。
身体的、精神的に健康なレベルを取り戻すために痛みを通じて状態を知る。

痛みや苦しみは、人を別のレベルへと導いてくれるものでもあるかもしれません。


怒りや悲しみを原動力にして大きな結果を成し遂げる人がいます。

本人の中では「目標を設定して、目標に向かってモチベーションを燃やし続けた」と
感じていることもあるようですが、その原点が怒りや悲しみという
不快な想いからの回避であることは少なくないものです。

世の中を大きく変えた偉人は、現状への問題意識も高かったと思います。

その人が生きてきた中で感じた強烈な不快感。
それが人を突き動かす源泉となることが多いはずです。

そのように考えると、人生の転機となったような苦しみは
自分にとって大切な何かへと導かれるまでの試練のようにも考えられるでしょう。

マーチン・ルーサー・キング牧師の「 I have a dream. 」の「 Dream 」は
不満からの回避が原動力だったことは否定のしようがないと思います。

夢には、そうした回避的な側面も含まれていることがあるわけです。

コーチングにも目標設定だけでなく、モチベーションの源泉を聞き出す質問が
役に立つような気がします。


一方で、幼少期から命にかかわる体験を重ねすぎると
使命感のほうが強くなりすぎてしまい、
個人的な喜びを感じにくくなってしまうケースもあるようなので、
結局のところ「バランスが大事だ」という結論に落ち着きます。

多くのことには両極ともいえる2つの側面があります。
そこを考えれば、偏るというのは危険な気がするんです。

夢や目標に向かってポジティブに進もうとする考え方は大切ですが、
そればかりに偏らないことも大事じゃないでしょうか。

2009年08月18日

近くに置くものだから

携帯電話を変えました。
SHARPのSOLAR PHONEというヤツ。

太陽光発電の機能がついていますが、
それはどうでもいいんです。
大切なのは開閉の具合。
カチャッと音がするような固いのは嫌なので、今回の選択になりました。

URBANOという機種も、古めながら最高の開閉具合だったんですが、
カメラやテレビ、防水などの最新機能を優先しました。

だが後悔の感が強い。

ちょっと使いにくい気がしています。
早く慣れたいところです。


何よりもauのやり方に問題を強く感じました。

別売りの付属品が多いのに量販店には在庫を置かなかったり、
純正の付属品なのに、正規のauショップでさえ取り寄せだったり。

仕方なく代替品を買えば使えず、サポートセンターでは純正品を使えという指示。
「純正品を使っていないことが原因のトラブルがよく報告されているんです」
なんて言葉まで担当者から聞きました。

実際に起きているトラブルが上に伝わっていないのかもしれません。
仕組みの問題の気がします。

以前は付属だったものを別売りに変えていくというのは
何を意図した方針なのでしょうか?
僕には分かりませんが、僕にとって不便だったのは間違いないところ。

自分の身の回りに置かれている道具であるにも関わらず
状況が移り変わっていくのが非常に速い印象を受けます。

時代についていくためには多方面の情報収集も大切なのかと思いました。

2009年08月16日

いつもと違う日曜日

8月16日は日曜日でした。
全国的に日曜日ですが、僕にとってもセミナーのない「日曜日」だったんです。

年に2,3回しかない。

その分、平日にセミナーのない日がありますから
買い物に行ったりする分には困ることはありません。

むしろ、平日の昼間に出かけるほうが空いていて便利なこともあります。


会社にいたころは土日が大切な自分の時間でした。
山口にいた頃は、土日ぐらいしか車に乗らなかったものです。

ちなみに僕も車の免許は持っています。
以前に、「原田さんは車なんて乗らなそうですね」と言われたことがありますが、
山口にいる間に車を買って、東京に転勤になって乗らなくなって手放しました。

山口県の道は広くて綺麗なので、どの道を走っていても
大抵の場合、法定速度以上が平均的な移動速度に見えました。
1kmの移動に対して1時間で計算できるぐらい運行状況も良かったですし。

取り立てて車に乗るのが好きだったわけではありませんが、
ゴルフの練習か、ゴルフ用品店か、バッティングセンターか、本屋か、スーパーか、
そのあたりを求めて車に乗っていたものです。

といっても、土日も会社には行っていましたから、
朝から晩まで出かけているという経験は少なかったですが。
長時間の遠出は福岡に行ったときぐらいでしょうか。

書いていて懐かしい気持ちになってきました。

そういえば、いつの頃からか毎週日曜日の夜は「ジョリーパスタ」でした。
ちょっと仲良くなった気の利いた店員さんがいたんです。
食後のコーヒーは、僕がスパゲティを食べ終わったピッタリのタイミングで
運んできてくれる気配りの人でした。

その頃から、食後にコーヒーを飲みながら本を読む習慣が出来ていたみたいです。

山口での生活は、当時あまり好きではありませんでした。
寮が特に嫌いでしたし、お盆休み後に東京から山口へ戻る飛行機の中では
いつも片頭痛に襲われていたものです。

それが今にして思い返すと懐かしい気持ちになるのですから面白いですね。

ただし、寮のことは今思い出しても不愉快ですが。


東京に戻ってきてからの土日は、ほとんど勉強のために使っていた気がします。
速読から始めて、セミナーというものに参加するようになりました。

最初のうちは速読に行って、帰りにジュンク堂で本を買い込んで、
速読に行かない日はコーヒーを飲みながら本を読むというのが習慣。

それが徐々に色々なセミナーに行くようになり、
最後の一年は、土日のセミナーのほうが疲れるぐらいになっていた記憶があります。
その頃から、土日はセミナーで家にいないという生活になっていました。

セミナーに行けば刺激が得られるし、楽しいし、
研究職としてコミュニケーションに飢えていた当時の僕としては、
土日の休みに人と関わったり、自分の世界に没頭したりするのが大切だったようです。

外に出るのが土日の当然の過ごし方だったわけです。

久しぶりの何もない日曜日は、なんだか逆に日曜日という気がしませんでした。
確かに「笑っていいとも!増刊号」はやっているんですが、妙に落ち着かない感じ。

外に出れば人は多いし…。
慣れないだけとはいえ、「休み」という気分が味わえないのは少し残念でした。

2009年08月15日

リニューアルの場

8月の勉強会は、コミュニケーションの内容から少し離れて、
目標達成や願望実現というような自己啓発系のテーマを扱ってみました。

僕にとっては「勉強会」というよりは「ワークショップ」に近い印象が出てきます。

色々なスタイルの学びがあると思いますが、僕の中では「勉強会」と呼んだ場合、
あるテーマや考え方に対して理解を深め、考察しながら整理していく流れが浮かびます。

理解や納得をベースにして、考え方や取り組み方の基準を作ることで、
「なんとなく」やっていたことを意識的にもできるようになっていく。
そんな方向性が意識されている気がします。

多くの場合、それがコミュニケーションのスキルだったり、
人間理解や変化のための方法だったりしますから、そこには
理論を体験的、具体的に納得していくための体験学習の時間がセットになってきます。

特定のコミュニケーション・スキルをテーマとして扱えば、
それに関する理論的な整理の段階と、整理した内容を元にして実践してみるための
スキルトレーニングの段階が含まれることになるわけです。

一方、学びの中には、スキルを身につけることを主眼にせず、
自分自身と向き合って、自己変容や自己成長を目的にするタイプのものもあります。

そこでは自らの気づきが重要視され、取り組みの内容には
個人の体験をより意味深いものにするための刺激が意図されることになります。

8月の勉強会は、その意味で、スキルトレーニングの度合いよりも
自己変容や自己成長を目的にした取り組みの度合いが高かったと感じているわけです。

まぁ、その違いが「勉強会」と「ワークショップ」という呼び方の
一般的に正しい表現ではないと思いますが、なんとなく印象が違ったという話。

「勉強会」と呼ぶ背景には、僕の個人的な考え方を色濃く反映させていて、
誰かの受け売りや、特定の枠組みの中で制約された内容ではない
独自の自由なスタンスを表現しているところがあるようです。


ところで、本を読んでいたりすると、誰かの言葉を引用して
その内容に裏付けや説得力を与えようとしているかのような文面がありますが、
僕にしてみると、あれには違和感があります。

昔の本だろうが、有名人の意見だろうが、名著と呼ばれる作品だろうが、
誰かの考え方や意見を引用したところで、それは個人の意見の範囲を出ていません。

あくまで、その人の生み出した仮説。

サイエンスは、その点で違いがあります。
発見した人物の名前をセットにして引用するという前提もありますが、
それ以上にデータや理論で裏付けが取れていれば、
他の理論的背景と矛盾がない情報として取り入れていくことができます。

誰かの理論として引用するというよりも、
その理論や発見がサイエンス全体の一部として取り込まれていくわけです。

逆にいえば、そこに不一致があれば、それは受け入れられないか、
全てを覆す大発見となるはずです。

もちろん仮説の域を出ることができないのがサイエンスの宿命ですが、
それでもサイエンスという大きな仮説の中において矛盾がない仮説が
新しい発見として知見を広げていく仕組みがあるんです。

それが心理学やらコミュニケーション、自己啓発などの分野においては
話が違ってきてしまいます。
根本的な統一された理論がない。

あるのは、一人ひとりが自分なりの考えや人生経験を通じて見出してきた
世の中のルールや人間の仕組みなどを、その人の言葉で語ったものだけ。

それは個人の意見なんです。
客観的ではないし、正しいとも間違っているとも言えない。

過去の人の個人的な意見を引用したところで、
「あの有名な人も私と同じ考え方だったんですよ」と箔をつけるか、もしくは
自分で考えずに「有名な人が言っていたんだから、たぶんそうなんだろう」と
楽をしようとしているかのような気がしてしまいます。

まして、NLPなどでは良く起きることに思えますが、
過去の人の考えをベースにして理論を作ろうとしたせいで、
色々な意見を取り入れていくうちに全体の中に矛盾が出てしまうこともあるはずです。

過去の意見は、その当時に得られていた他領域の知見をベースにしたら
それが納得いくものとして本人のなかで整理されたのかもしれませんが、
新たな知見が得られていくうちに仮説が不一致になることはザラにあるわけです。

当時の人が、本人の中において、それで矛盾のない理解をしていたとしても
その意見を現代に引っぱり出してきて、後生大事に扱っていく必要は
必ずしもないと考えるのが僕のスタンスです。

考えや理論は、どんどんリニューアルされていって当然だと思います。

僕が今考えていることも、理解していることも、
もしかすると10年後には違った形で表現されていくかもしれません。

僕が小学生のころには当然のように習っていた
「水金地火木土天海冥」という惑星の呼び名も、
海王星が冥王星よりも遠くに行った時期には「水金地火木土天冥海」と
違った呼び方で覚えることになり、それが最近では
「冥王星は惑星ではない」という大幅な理論のリニューアルを迎えています。

何かを理解し、仮説を立てて、理論として説明をしていくという作業は
根本的にそういう性質を持っているものだと僕は思います。

それでも冥王星を発見した人の功績は変わらない。
冥王星という天体があることも変わらない。
それが「惑星」から「準惑星」とカテゴリーが変えられたとしても、
冥王星は他の準惑星とは別物の印象を放っているはずです。

何よりも、冥王星という星が見つかっていたから
「他にも似たような星があるぞ」とか、「小惑星と惑星は何が違うんだ?」とか
新たな議論に発展していったわけです。

「惑星」と「準惑星」を区別するような理論が作られたのも
冥王星の発見という過去の実績の上でのことだと考えられます。

心理学でも同様です。
フロイトやユングの無意識の説明は大きな偉業だと思います。

でも、いつまでも、その理論にしがみついて説明を続ける必要もないはずです。
あれは彼らが人間を理解しようとして生み出した彼らオリジナルの説明ですから。
逆にいえば、他の人が分かった風に説明すること自体、本人には失礼かもしれません。


人は皆、自分の人生を通じて、自分だけの説明の仕方で
「人生とは」「人間とは」「宇宙とは」「世界とは」「社会とは」…
というような大きなテーマを理解していくものではないかと思ったりもします。

その表現方法が人によって違う。
人生論を大っぴらに語るスピーカーもいれば、
それを数式で表現しようとする科学者もいる。
音楽や絵画、書などの芸術に求める人もいれば、運動に求める人もいるでしょう。
医療やビジネスのように、応用の形を追求する人もいるようです。

人それぞれ、なとなく人生観のようなものは持っているような気がします。

自分の考えを生み出すために、人の意見を参考にするのも素晴らしいでしょう。
理解を早め、議論の対象を得ることにもなる。
自分だけでは得られない発想を取り入れるチャンスにもなる。
その意味で、過去の偉人と対話をするのは面白いと思います。

そのようなテーマを表現することを前面に押し出して生きる人もいれば、
それを前提に、より良い人生を送ったり、身近な人をより幸せにしようとしたり、
より良く社会に貢献しようとしたりする人もいるのではないでしょうか。

たまたま僕は、そうしたテーマを考えて、整理していくのが好きなだけ。
その過程では、誰かの意見を鵜呑みにするのは面白くないんです。
応用していくよりも、解き明かすほうに、関心が上回っているようなので。

どうやら今のところ、僕の主目的は、
自分勝手に世の中を解き明かしていく方向みたいです。
それに興味を持って応用してくれる人がいれば、それに勝るものはないかもしれません。

勉強会は僕のワガママみたいなもんですね。

cozyharada at 23:04|PermalinkComments(2)TrackBack(0)clip!NLP | セミナー情報

2009年08月13日

声の主

テレビを見ていると、画面に本人が登場せずに
ナレーターとか天の声とか、何らかのキャラクターの設定とかで、
声だけが聞こえてくることがあります。

テレビのほうを向かずに番組を耳だけで聞いているときにも同じような状況でしょうが、
いずれにせよ、僕は比較的その声の主を当てるのが得意なようです。


そのことを最初に思ったのは、大学生のときでした。

友人5人ぐらいと一人の家に集まって、試験勉強を徹夜でやっていた日。
皆で雑魚寝をしているような状態で、テレビがつけっ放しだったんです。
で、早朝の番組が始まり、なんらかのナレーションが聞こえてきた。

その声が蟹江敬三氏のものだと分かったのは僕だけだったようです。
まぁ、「蟹江敬三」という人物がすぐに浮かぶためにも
その人の名前と特徴を一致させていなければいけないわけで、
友人の中には知らない人もいたかもしれません。

ただ、それ以上に僕が意外に感じたのは、多くの人が声の主に対して
興味すら抱いていないということ。

テレビから顔を出すことなく声だけが聞こえてくる。
その声の主が誰であるかを探そうともしない人がいることに驚いたものでした。

僕の中では少なくとも、人物名までは分からないながら
その人の声を以前にどこかで聞いていないかという探索は自然にやっています。
そこに興味を持っているのかもしれません。


最近、何かの朝の情報番組を見ていたとき、天の声として
聞き覚えのある声が聞こえてきました。

番組内でも、その声の主を明確にしないまま進めていたので
僕としてはチョットだけ気になったわけです。
思い出せそうで思い出せない感じ。

最初に頭に浮かんだのは「柳沢慎吾」氏。
でも良く聞いていると少し違う。
ちょっと声が低くて、鼻にかかる印象がある。
好き勝手に話す印象もなく、どちらかといえば遠慮がある感じでした。

これは違いそうだ、と考えて、もう一度探索。
次に浮かんだのは「スピードワゴン」の「小沢一敬」氏(ボケのほう)でした。
これは近い。
正解かと思ったぐらい。
ただ、それよりも少しだけ声が太い感じがありました。
オドオドした印象もある。

三回目の探索の結果、自信のある答えが。
「南海キャンディーズ」の「山里亮太」氏(やまちゃん)だろう、となったんです。
確認はしていませんが、合っていると思います。
僕の中で完全に一致していますから。

とすると、
「柳沢慎吾」
「スピードワゴン・小沢一敬」
「南海キャンディーズ・山里亮太」
の三人の声が僕の中で同じようなカテゴリーに分類されていると考えられます。

一言でいえば声質なわけですが、僕の中では
「かすれ具合い」「鼻への抜け方」「ノドの詰まり方」「声が響く位置」
「音の高さ」「息を吐き出す強さ」「発話のスピード」「声の安定感」などが
チェックされているようです。

上の3人の場合には、声が響く位置や、かすれ具合、息を吐き出す強さ、ノドの詰まり、
などが似ていたんだと思います。

そういう声の要素が、「もし自分が発声したらどんな感じか?」という体感覚と、
声質から浮かんでくる映像的なイメージでも僕の中で関連付けがある気もします。

どうやら、いろいろな情報を組み合わせて整理していて、
それに対して人物名を当てはめて記憶しているみたいです。

記憶の中を探索するときには、引っかけられる入口の情報が多いほど
思い出しやすいものなのかもしれません。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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