2009年09月

2009年09月12日

『ウォッチメン』

「ウォッチメン」見ました。

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素直に面白かったです。
飽きることなく最後まで楽しめました。

1980年代のアメリカ、冷戦時代の状況のためにヒーローたちが事件に巻き込まれていく。

事件の展開や、ヒーローたちのドラマもさることながら、
いわゆるアメコミのヒーローのパロディのような登場人物が"粋"です。

物語の展開や、全体を通じてのメッセージ性は真面目に入り込んでいけるものなのに、
全編の中に溢れているパロディやユーモアがまた心に訴えかけます。

「人間」や「人生」というものの性質に対するユーモアの位置づけが
この「ウォッチメン」の話の中の重要なメッセージでもあるようです。


で、僕は別に、この映画の評論をしたいわけではなく、
1人の登場人物に思うところがあったので、こうして話題に挙げているんです。

その人物は物語の中心人物となるヒーロー「Mr.マンハッタン」。
他のヒーローたちとは一線を画す人物。

ウォッチメンの世界でヒーローと呼ばれる人物たちは、
他のヒーローものの映画に出てくるような特殊な設定がないようで、
理由はよくわからないんですが、メチャクチャ強い人間という様子でした。

バットマンのような設定のヒーローが何人か出ているようです。
実際、露骨にバットマンを模倣したようなヒーローもいます。

そんな中、一人だけ超人的なヒーローがいるんです。
それがMr.マンハッタン。

全身が青い。
ボヤっと光っています。
不死身です。
年をとりません。
巨大化したり、壁を通り抜けたり、分身したり、宇宙空間でも平気だったり、
未来が分かったり、瞬間移動したり、触らずに物を動かしたり…。
もう、何でもアリなんです。

冷戦でソ連がアメリカに攻撃を仕掛けないのは、
Mr.マンハッタンがミサイルを全部、念力で破壊してくれるから、という話までありました。

Mr.マンハッタンが、そのような超人的な能力を身につける理由は
物語中で説明されているんですが、そのような人間離れした存在になったことで、
彼は内面的にも人間的でなくなっているところが興味深く感じます。

それもそうでしょう。

未来が分かり、年を取らず、瞬間移動ができる。
人間の制約を超えているわけです。
物質としての存在ではないみたいです。

宇宙の全てを悟っていて、宇宙規模で思考がなされる。
まるで神話に登場する神々のよう。

まぁ、とにかく凄い。

老いることも、死ぬこともなく、宇宙の全てを実感として理解している。
自分の体を含めて、全ての物質を自由に操作することができる。
量子力学の世界を自分自身で体現している存在。

ただ、そうなったとき、その人は何を感じるのでしょうか。
それは幸せなことなんでしょうか。
幸せすらも超越しているように見えました。

Mr.マンハッタンは、他の人間の目に見えて、彼と話すことができて、
彼自身には思考や感情の中心となる意識があって、
他人とコミュニケーションをとることができる。

でも、Mr.マンハッタンは生きていると言えるのか分かりません。
体なんて自分の意志で何とでも作れるんです。
命という制約からも外れてしまっているようです。

僕は単純に、その状態を良いものと感じませんでした。
むしろ限りある命ということのほうが、素晴らしいものに思えました。

生きているからこそ感じられるものがある。

悟って、仙人になって、何百年も山の上にいるよりも、
人との関わりの中で限りある時間を過ごしたほうがいい。

なんだか、そんなことを考えさせられました。

cozyharada at 02:04|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2009年09月11日

何度もやり直せば上手くなります

仕事がら、ある程度はNLPの本を読みます。
そのNLP系統の本の中に、「タイムラインセラピー」という本があります。

この本や著者に対する感想は置いておきますが、
本のタイトルにもなっているタイムラインセラピーの事例のなかで
興味深い内容が出てくるんです。

簡単にタイムラインセラピーというのを説明すると、
自分の人生を一本のタイムラインという流れとしてイメージして
そのタイムラインの上を浮かんで好きな時間に移動していく手法という具合になります。

なんだか「ドラえもん」に出てくるタイムマシンのようですが、
浮かんで移動するというパターン自体は、ヒプノセラピーなどでも使われる方法なので、
自分の人生を俯瞰して眺めるという意味では都合が良いのかもしれません。

ちなみに特定の過去の記憶へのアクセスの仕方というのは
人によって意外と得意なやり方が違っているものなので、
「自分の人生の流れの上を浮かんで当時の場所に行って思い出す」という方法が
まったく合わないタイプの人がいることも十分にあり得ます。

逆に言うと、タイムラインセラピーが合う人というのは
タイムラインと関連したことで思い悩む傾向にある人と言えます。

「見たくない過去がある」とか「暗い過去がある」とか、
人生のある部分で起きた辛い時期を、視覚的な表現で話せるような人は
自覚していない範囲でタイムラインを捉えている可能性があるわけです。

タイムラインという形で人生を視覚的にイメージしてから行う手法ですから、
自分の問題の時期も視覚的に捉えられているほうが上手くいきやすいということです。

簡単に説明してしまったようですが、タイムラインセラピーの本に出てくるものも、
NLPのセミナーで扱われるタイムラインセラピーの技法も、
実際のところ、簡単にタイムラインをイメージさせて移動するので
発想としてはシンプルな技法になっていると言えます。

技術の核になる部分はタイムラインを眺めて移動するところですが、
具体的な問題によって、移動した後の対処の仕方が変わります。
そこで工夫がなされているのでしょう。


で、本の中に出てくる興味深い部分というのは、
そのような技法レベルのところではなくて、
事例に紹介されているクライアントの発言内容なんです。

過去をさかのぼっていくと、当たり前のように前世の話が出てきたりします。
NLPのワークとして扱われるときにも注意事項として
「数千年前や前世の出来事が出てくる場合には…」というような説明があったり。

取り組みの内容の形態から考えても、開発者が技法のベースの部分に
ヒプノセラピーを取り入れている可能性が推測されます。
ヒプノではインナーチャイルドやら前世療法やらというのが扱われますから。

 (なお、僕は個人的に「ヒプノセラピー」という言葉と
  「催眠療法」という言葉を意図的にに使い分けています)


本の中に出てくるデモンストレーションの事例中では
特にセラピストが前世について触れている言葉はないのに
クライアントが自分から「生まれるよりもずっと前の問題だ」と話すのですから、
きっと、そういう前提を持った人がクライアントに出てきたのでしょう。

前世というものを信じていて、それについての知識を持ち、
自分自身の前世というものを少なからず想ったことのある人でなければ、
セラピーの途中で前世の話題は出てこないと思います。

僕自身は、「原田さんの前世は〜です」と言われたことはありますが、
自分自身のセラピーやNLPのワークの中で前世が出てきたことはありません。

だからといって、僕が「前世なんてない」と考えているわけではなく、
例によってサイエンスの姿勢として「前世があるかどうかは分からない」と
思っているに過ぎません。

ただ、「前世があるかどうか分からない」と考えている人は、
自分の前世について思いを巡らせることも、
前世から問題が続いているとも思い巡らせることがありませんから、
そうしたワーク中にはイメージにも出ないのでしょう。

「前世があるかないか」という部分とは別の要素として、
僕の中には「自分の人生は自分の責任で選択する」という想いがありますから
「自分の問題が前世から続いている」というイメージが出てこないと考えられます。


前世があるかどうかは分かりませんし、
あると思っていても、ないと思っていても、
その人の人生の送り方の話だと思いますから、どちらでも良い気がします。

前世からの問題だろうが、幼少期に受けた心の傷の問題だろうが、
今の自分がその問題をどうしていきたいかが重要でしょう。

前世の因縁だから仕方ないと考えても、
親の育て方がダメだったから仕方ないと考えても、
問題が残っていくことには違いありません。

もちろん、問題を問題として解決せず、そのままにしておくというのも1つの選択です。
自分の問題を受け入れるために、前世という考え方が役立つなら
それも良いと思います。

確実なのは、現在の自分に問題があるということ。
それを解決しようとするか、あきらめて受け入れるか。
苦しさを解消していく努力を選択するか、苦しみを抱えて生きる覚悟を選択するか、です。
苦しみに文句を言いながら生きるのは、僕の好みではありません。

不満をこぼす時間を選択をするのは大切なことだと思いますが、
無自覚なままで不満を言い続けるのは、大人のすることではない気がします。


前世という発想が、どういった目的で生まれてきたものか
僕には勉強不足で分かりません。

それでも僕の中には、なんとなく「前世というものがあってもいいなぁ」
と思うところがあるんです。

それは人の才能と環境に関してです。

人には遺伝的に決められている要因を含めて、得意・不得意の違いがあります。
また、人は生まれてくる環境を選べません。

僕が日本の東京に生まれ、日本語を話す家族に生まれたことは
当たり前ではないと感じるんです。
違う環境に生まれていたら、今の自分はないわけです。

僕には得意なことや苦手なことが色々とあります。
僕の強みがあるのを知っています。
そのような特徴は、僕が選んで持っているものではありません。

なぜか僕は「知る」ことが好きで、あきらめが悪くて、ものを考えるのが好きです。
小さい頃から図工が好きで、地域の展覧会で入選したりしていました。

そのような自分の得意分野は、僕が生まれるときに決まっていたように感じます。

なんとか大学院の修士課程まで進学させてもらえたのだって、
それなりの経済状況の家族のもとに生まれたからです。

僕の体に備わっている遺伝子と、僕が生まれた環境と、
生きてきた中で関わってきた環境が、僕の強みを形作っている。

それは僕のせいじゃない気がするんです。

そんな恵まれた部分こそ前世から引き継いできたものだと想像してみたら、
今の自分の能力や成果に対して謙虚になれるような気がします。

自分の人生の上手くいっているところは前世のおかげと考えたら謙虚になれる。
自分の才能を押し殺して卑屈になることもなく、その才能に感謝をして
それを「たまたま貰ったものだから」と、堂々と他人のために使えるようになる。

驕りも卑下もなく、自分の才能を活かした生き方ができるんじゃないでしょうか。

前世の考え方は、現在に感謝するためにこそ役立つように思います。

cozyharada at 08:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2009年09月09日

気になる商品

名古屋に行くと、コンビニで見慣れないものを見かけます。
珍しいものに手を出す癖のある僕は、やっぱり気になって買ってみるんです。

なんとなく味が想像できるけれど、実際に食べたらどうかなぁ…
という程度だと最も好奇心がそそられるみたい。

味の予測が立ちすぎると、「好みに合うか」「食べたいか」という視点になるので
物珍しそうなほうが興味を引かれるんでしょう。

かといって、突拍子もなかったり、好みから離れすぎていたりすると
そもそも視野にさえ入ってこない。

僕にとって微妙なバランスを満たした新商品がチェックされるわけですね。

今回、手に取ってみたのはこちら。

ちくわ磯辺














ドリアン味














どちらも食べてみると、それなりの味でした。

ちくわ磯辺は、焼きそばパンの麺の部分を竹輪の天ぷらにした感じ。
以前にテレビか何かで地域性の強い食べ物として知った記憶があったので
手に取ってみたというところです。

「ドリアン味」はドリアン香料を使用しているとのことで驚きましたが、
パッケージを開けるぐらいでは匂いはしませんでした。

ただ、口に入れた瞬間に広がる特有の香りはドリアンをよく再現しています。
嫌いな人は嫌いかもしれません。

話のネタとしては、十分に楽しめました。

最近、ハイチュウのシリーズは、味のバリエーションで色々と工夫をしているみたい。
ハイチュウのベースを変えずに香料だけで表現していると考えると
商品開発で試行錯誤をしている人たちの地道な作業とセンスに頭が下がります。

ちなみに、味覚と嗅覚は、特定の化合物に対する接触型の化学センサーですが、
混ざりものから微量な配分を決定したり、含まれているものを特定したりするのは
精密な分析機械よりも人間のほうが高感度な場合が多いようです。

職人的な鼻を持つ人が組み合わせた香料の配合を
僕は好奇心から楽しめているわけです。

僕が好奇心から珍しい食べ物に手を伸ばしたくなる理由の中には、
その背景で繰り広げられる試行錯誤のドラマを
想像している部分があることに気づきました。

ドリアン味なんて再現しようとしたら、程度問題で相当に悩んだと思うんです。
強く匂いを出し過ぎれば、商品として置いてもらうことすら難しくなる。
一方で、匂いを抑えたら、ドリアンの味を表現するのが難しい。

ドリアンという名前は知っていて、何度か食べたこともあるけど、
そんなに頻繁に食べる果物でもないし…ぐらいの人が口にしたとき、
「あぁ、ドリアンの味だ」と思い出してもらえるぐらいのバランス。

ドリアンらしさを出しながら、嫌われないように味と匂いをコントロールする。
これは難しい作業だっただろうと思います。
きっと会議で試食とかしながら、色々話し合ったんでしょう。

そんなことを想像するから、新商品が気になるのかもしれません。

2009年09月08日

質問者の責任

質問をするときには状況によって様々な目的があるものです。

ただ日常会話で話を広げるだけのときであれば、
相手から答えが返ってきて話が広がりさえすれば目的にかなうでしょう。

相手と仲良くなりたいのであれば、相手が話したいことを話せるように
相手に合わせて質問で広げていくことも大切かもしれません。

なかには、質問によって特定の情報を相手から引き出したいときがあります。
相手を理解し、情報を整理するような場合でしょうか。

そのような目的の違いで、質問の言葉の選び方が変わってくるはずなんです。


NLPのセミナーでワークをやるときにも、コーチングやカウンセリングの場面でも、
質問の組み立て方には言葉を選ぶ必要があると思います。

少なくとも、質問の結果として得たい答えは意識している必要がある。

意図的に曖昧な言い回し、どのようにでも受け取れるような表現で質問をして
相手がどんな答えでも話せるようにする方法を選ぶときもあります。

それは相手本人が気づき、相手の中で情報整理を進めていく場合です。
相手の中で進行中のプロセスを言葉のレベルで確認していく意味もあります。

それに対して、自分が相手から情報を引き出したいときもあります。
こちらが相手のことを把握したいときです。

カウンセリングの初期には、相手が困っていることを把握するために
情報を教えてもらうこともあります。

これは自分のための質問なんです。

コーチングで目標を話してもらえるように質問するのとは違います。
コーチングの場合には、相手のための質問になります。
どんな答えの形で返ってきても、クライアント自身が目標に向かって進めればいい。

カウンセリングの場合には、その後の処方を決めたり、
取り組みの方向性そのものを決定していくために
クライアントの考えを確認していくプロセスが必要になるケースが多いんです。

そのときには、質問をする側に教えてもらいたいことがあるわけです。
その聞きたいことが答えとして返ってくるように、質問を工夫する必要があります。

自分が情報として相手から引き出したいことがある。
答えの形として期待しているものがある。
にも関わらず、質問をした結果として、期待した形で返答が得られなければ、
それは質問の言葉の選び方が悪いんです。

質問の仕方を変える必要があります。

自分がその答えを得るためには、その質問の仕方で大丈夫であっても、
相手が同じ質問をして、同じような形式の答えをするとは限りません。
他の人に上手くいった質問の言葉でも、
別の人から同じ形の答えを引き出せるとは限らないんです。

相手から意図したとおりの答えの形が得られなかったとき、
それは質問者の言葉選びの責任です。
質問を相手に理解してもらえていないんですから、工夫が足りないわけです。

意図した形で返答が得られなければ、
別の質問に変える工夫をする努力が求められると思います。

自分が知りたい情報を相手が答えやすいように質問を工夫していく。
それが質問者の技量じゃないかと思うんです。

自分に知りたいことがあって、それを相手から教えてもらうのは
他でもない自分自身なわけですから。

「主役は相手」、「相手から引き出す」などの発想は大切だと思いますが、
それによって自分の関わり方が相手のためのものだと誤解してしまってはいけません。

相手のために努力をするのは、それが自分の責任だからです。
自分が相手に質問するのは、自分の責任を全うするための場合もあるんです。
そのときには、質問は相手のためでなく、自分のためのものになるはずです。

質問の目的と、誰のための質問かを自覚しておくことが重要だと思います。

2009年09月06日

生きているうちに

しばらく前になりますが、曹洞宗の開祖・道元を主人公にした映画のDVDを見ました。
「禅」というタイトル。

僕の親戚には出雲で曹洞宗の住職をしている人がいますから
実家で法事をするときは曹洞宗になります。

だからというわけではないんですが、興味を持って見てみたんです。

その映画の冒頭、道元の幼少期のシーンで、幼い道元が母親に対して
「死んでから極楽浄土に行ったって仕方がない、
 浄土はこの世にあるべきだ」
というようなセリフがありました。

それに対して母は「息子と過ごせる今この時間が浄土だ」と語りかけるんです。

しみじみ納得できる一場面。

死後の世界のことは分かりようがありませんが、
人間の「自己」に対する感覚は、あきらかにホメオスタシスの及ぶ範囲として
自分自身の身体をベースに生み出されているはずですから、
身体機能が停止した「生物的な死」の状態の後に
「自分」という範囲を認識できる主体がいるのかどうかは個人的に疑問が残ります。

身体という境界がなくなる状態は、文字通りの一体感を感じられて
一切の不安を感じることのない世界と言うこともできるかもしれません。
ある意味で、それは極楽浄土なのでしょうか。


自分という存在が、身体によって外部環境と区別されることから自覚されると考えると、
自己の感覚は他者との区別や境界によって生み出されると言えそうです。

自分とは、他者がいるからこそ感じられる存在だということです。
他者が存在しなければ、自分という発想もまた生まれてこないわけです。

人は、とかく自分の存在に対して意識を向け、
その存在を守ることにエネルギーを使っているものですが、
自分の存在を脅かすものとして捉えている他者こそが
自分自身を存在させてくれているというのは不思議な感じがします。

自分を自分として意識できて、他者を他者として捉えられるのが、
生きている間だけのことだとすると、他者との関わりの中で成し遂げられるものは、
自分が生きている間にしかできないことだと考えられます。

それは「他人のために」とか「役に立ちたい」とか「貢献したい」とか
そういった他人に主眼を置いたものとは少しニュアンスが違う気がします。

自分の存在を与えてくれている他者に対する感謝の気持ちから生み出される
自分自身の気持ちとして成し遂げたいことのように思います。
「感謝したいから感謝する」というような、自分本位の行動じゃないかと思います。

自分が生きている間に他者との関わりの中でやっていきたい気持ち。
それが意志と呼ばれるものじゃないでしょうか。

cozyharada at 23:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2009年09月04日

見えるものの中に

僕には理系をやってきて良かったと思える部分が多々ありますが、
その中には物事の仕組みを知ろうとする好奇心を維持できたところもあります。

多分、多くの子供が世の中にあることに対して
幅広く興味を持ち、それを「なんで?」と聞いただろうと思います。

大人だったら見向きもしないようなことに、
大人だったら意識にすら上がらないようなことに、
子供が興味を持つことがあります。

一般的に、年を重ねるほど、生きるのに必要な行動の多くをパターン化して
普段通りの方法で、何も考えずに対処できるようになっていきますが、
子供の頃は、そうした対処のパターンを持っていないために
多くのことが意識に上がる傾向にあるのかもしれません。

たとえば、「なんで空は青いの?」という質問が浮かぶのさえ、
空の色を当たり前のこととして見過ごすような対処法を
身につけていないためだろうと考えることができます。

子供は膨大な情報量の中を生きている。
世の中に溢れている様々な刺激に注意を向けているんです。

ただ、そのように多くの情報を意識化していたら
情報の優先度が考慮できずに、必要な集中力を得られないこともあります。

子供に落ち着きがないのは、外の刺激に注意が向きやすいからでもあるかもしれません。

そして成長するにつれて、徐々に一つのことに集中できるようになり、
その状況で重要なことと、そうでないことの区別がつくようになっていきます。
大人になるほど、その状況で重要でないことには注意が向かなくなっていくわけです。

そんな中で、僕が好奇心を減らさずに済んだのは、
母親を始めとした身の回りの人の対応の影響があるような気がします。

幼馴染のお兄ちゃんは色々なことを知っていて
世の中に対する科学的な見方を示してくれていましたし、
小学校の先生も、中学校の理科の先生も僕の関心に答えてくれていました。

そういう背景があったのも、僕の理科好きを促進してくれたようです。


理系で進学して、実際に工学として研究に携わるようになると
他の分野の研究者が扱う内容も工学的な視点で見ることが増えてきました。

化学系のモノの見方で世の中と接する習慣がついたと言ってもいいかもしれません。
パソコンを見ても、素材に興味は行きますが、プログラムの内容には興味がいかない。
目に見える「もの」の成り立ちに興味が向くのは化学系の特徴でしょう。

企業に研究職として就職したのも大きな意味を持っていそうです。
モノづくりをする企業としての生産現場に触れ、
どのような人たちが、どのような活動をして、どのようにして製品が出荷されていくか、
というような一連のプロセスを実感することができました。

僕がやっていたのはアミノ酸を作るときのコストダウンの研究が多かったですから、
アミノバリューやらアミノサプリやらの中に含まれるアミノ酸が
どんな経緯で作られているのかということをリアルに想像することができます。

アミノ酸ほどのリアリティはないでしょうが、他のものに対しても
商品として自分が触れられるようになるまでのプロセスが思い描かれます。

自分が何気なく使っているモノの全てに、沢山の人の工夫と労力が込められている。
その繋がりと広がりをイメージするだけで、ため息が漏れます。
一人ひとりの担当部分は小さいかもしれませんが、多くの力が集まっているんです。

凄いことだと思います。

さらに、そこには歴史も関わっています。
過去の知見の積み重ねがなければ、現在の技術はあり得ません。

自分の身の回りには、気の遠くなるほど大勢の人の想いが蓄積されている。
モノに込められた技術と知恵の系譜に想像をめぐらせれば、
世の中は感動の対象で溢れていることに気づけるはずです。


目の前に見えるモノの多くが、そうした多くの人の努力に支えられているわけです。
原理を追求した人がいたから、応用技術が生まれて製品開発が進む。
不測の事態に対処するための創意工夫が、技術として伝承されていく。

膨大な知識のネットワークが存在しているんです。

目に映る全てのモノ、聞こえてくる全てのモノに
好奇心と想像力をもって向き合ったとき、
世の中に、どれだけの感謝と敬意を向けられるようになることでしょうか。

世の中は凄いと思います。
過去の知恵の蓄積が、現在の一瞬に表現されているのだと思います。

最近は、「見えない世界」に対して興味を持つ人々が増えているようです。
心のことに興味を持つと、その方向に進む人も少なくないでしょう。
「科学信仰」などと言って、科学では説明できない世界を強調する人もいるようです。

科学で説明できないことがあることぐらい、
科学を知っている人は誰よりも分かっているものです。
だから分からないことを説明しようと努力するんです。

目に見える世界で分からないことが沢山あるから、
科学の人たちは分かるための努力を続けているんです。

見えないぐらい小さい世界も見えるように、
肉眼を超えた能力で「見る」装置を開発しているんです。
世の中を見ようとしているんです。

何を使っても「見えない世界」はあるのかもしれませんが、
その世界のことを考える前に、もっと「見える世界」を
しっかりと自分の目で見てみるのも大切な気がします。

自分が何気なく目にしているものを、もっとしっかりと見つめてみる。
それも大事じゃないでしょうか。

見える世界が全てだとは言いませんが、見えない世界に気持ちを向けるのは
自分の身の回りの世界をもっと見てからでも遅くないと思います。


自分一人の命の系譜を辿っていけば、そこには膨大な先祖がいます。
自分の命が受け継がれてきたものであることが意識できます。

ただ、人々が受け継いできた知識は、もっと幅広く、複雑に絡み合って
歴史の中で広がり続けてきているはずです。

どんな些細な情報も、何らかの形で受け継がれている。
世の中の知恵の集まりは、時代とともに大きくなっていっている。

知恵の歴史の中の自分は、自分の命の系譜以上に、
もっと大きな全体の一部であることに気づけます。

身の回りに見えるモノには、そうした知恵の歴史が詰まっているんです。

cozyharada at 06:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2009年09月02日

導こうとする人

自分が大切にしていることというのは、
違和感を通じて気づくことが多いものだと思います。

僕は特定の答えを導くようなトレーニングが好みではありません。
というよりも、嫌いです。

そのような実習を受けると、多くの場合、意図された通りには感じず
別の方向への気づきを得て、場合によっては作業の内容さえ変えてしまうこともあるほど。

ヒネクレているんですね。

どこかに導こうとしている意図を察知して、
それに対して不自由な感じを受ける傾向があるわけです。

そんな対応を無自覚にやっていたら、
「操作しようとしている相手に対して操作されたくない」という反応の癖そのものに
自分がコントロールされてしまっていることになりますが、
僕の場合、反応のパターンに気づき、そこの意図を明確に分けていくことで
だんだんと自分の意思によって対応を選択できるようになってきた気がします。

自分は、そのように意図的なトレーニングが嫌いで、
それに対しては、こっちも意図的に別の方向へ進んでやろうとする。

意識的に反発することを選択していますから、
その意味では不自由な感じはしていないつもりですが、
まぁ、素直ではないと言われれば、それまでです。


ただ、僕には「意図している特定の答えに導くようなトレーニングが嫌い」という
ハッキリとした自覚があり、その気持ちを支える大切な想いもあります。

それは、「正解がある」という前提に対する反発です。

特定の気づきが得られるように意図されたトレーニングというのは
トレーニングを考える側が自分の中に正解を持っているから作られるものだと思います。

「〜してはいけない」
「〜するべきだ」
「〜は役に立たない」
そんな正解を持っていなければ、トレーニングを体験した人が
自分自身の間違いに気づいたり、今までのやり方を反省するような気づきを得ることを
想定したりはしないはずでしょう。

より正確に表現するなら、「正解がある」という思い込みよりは
「間違いがある」という思い込みでしょうか。

僕の中には「本人が意識的に選択したことに後悔しないのであれば全て正解」
というような僕にとっての正解に近い考え方があります。

そして「世の中に『100%正しいこと』は何一つない」という考え方があります。

全ては仮説であって、より上手くいくために体系化された知恵がある。
それが人によって、状況によって、役に立つときと役に立たないときがある。
上手くいかなければ、上手くいくために考えを改めればいい。
上手くいくための答えは状況によって違う。
上手くいかなかったとしても、「自分が意志をもって選択をした」と
自信をもって言えるようであれば良い人生じゃないか。

そんな想いが根付いているようです。


決まった正解はなく、状況によって上手くいくやり方も違う。
何よりも、「上手くいく」という結果さえ、自分が意識的に判断する必要があります。

誰かほかの人が作った基準に当てはめて、
その基準が自分にとっても大切かどうかを吟味することなく
無条件に判断してしまうのは不自由なことじゃないでしょうか。

自分が大切にしたいことを自覚したうえで、
それに当てはまるかどうかで自分なりの基準を作る。

それは、「正しいことがない」からこそ
自分が「大切にしたい」かどうかの基準で判断できるということです。

「〜すべき」という発想は、正しいことに従うことで生まれると思います。
「〜すべき」には「正しいことがある」という前提があるわけです。

その「〜すべき」を「〜したい」「〜しよう」という意志に変えていく。

世の中でルールや常識とされていることも
それを自分で吟味して納得していくプロセスを経れば
自分の意思で「皆と同じように行動しよう」という意志になっていくはずです。

「遅刻をしてはいけない」というルールに従っていれば
遅刻をしたときに出てくる気持ちは「遅刻をしてしまって、ごめんなさい」でしょう。
それはルールを破ったことに対して反省しているんです。
ルールを与えた人に対して謝罪しているんです。

「遅刻したくない」「時間通りに行きたい」という意志からであれば
遅刻をしたときには「待たせてしまって、ごめんなさい」と、
待っている間の時間を使わせてしまったことや待っている間の気持ちに対して
申し訳ない気持ちになるような気がします。

与えられたルールを無自覚に受け入れていないかどうかを振り返り、
自分の行動を意志を持って選択できるようになると、人は自由が増えると思います。

 もちろん、全ての人が自由でなければいけないと思うほど
 僕は不自由な考えを持っているつもりはありませんが、
 他人の不自由な考えを押し付けられたときに
 僕が自分自身の自由を大切にするために反発をするのは自由な選択だと考えます。


僕は、僕自身として大切にしたいことがあるんです。

間違った方向や進むべき方向なんてない。
本人がどうしたいかという意志を尊重したいんです。

その意味で、スキルトレーニングは技術の練習が目的であって、
体験する人に気づきを促すことは目的とはしたくありません。

気づきを得るための手法は、スキルトレーニングとは別物として、
本人にとって役立つような気づきを得られるように
可能性を広げて組み立てることが大切だと考えています。

どんな気づきであっても、そのときの本人が大切だと思えれば素晴らしいんです。
トレーナーの側が大切だと思っている方向に導いてしまっては指導です。
ましてトレーナーが正しいと思っている方向に導いてしまったら、それは強要です。

学校教育や社員教育の場面では、全員を1つの方向にまとめたい方針があるものでしょう。
会社には会社の理念があるでしょうから、それに向かって教育するのは大切です。
しっかりと組織としての価値観を伝えていく必要があります。
そこにギャップを感じている社員が居座り続けるのは気の毒ですから。

でも、心に関すること、人に関することは、本人の人生に関わることです。
人生は、その人のものです。
その人の自己成長の問題です。

そこに関わるトレーニングにおいては、答えは本人が出すものだと思います。
トレーナーとして、トレーニングを受ける人を導いていくべき方向なんてないと思います。

正しい方向に導くとか、答えを気づかせるとか、
トレーナーが意図した方向に人を導こうとするなんて傲慢だと思います。


そうやって考えてみると、僕へ最初にNLPを直接指導してくれた人は素晴らしかった。
彼は答えを期待していなかった気がします。

受講生本人たちが受け取ったことを全て受容していた。
それぞれが進みたいように進ませてくれていたように感じます。

人を導こうとするような雰囲気は一切ありませんでした。
不慣れな時期だったから、自信のないところもあったかもしれませんが、
それ以上に彼の中には根底に「人を信じている」部分があったように思います。

あれは本当にありがたかったなぁ。

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  ゆるしの技法〜


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  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

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次回未定


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《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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