2009年10月
2009年10月30日
聖者
最近、チョット気に入っているマンガがあります。
『モーニング・ツー』で連載されている 『聖☆おにいさん』。
聖☆おにいさん 1 (モーニングKC)
クチコミを見る
ブッダとイエスが主人公のギャグマンガ。
二人が現代の地上で、一緒にアパート暮らしをしている設定。
普通の暮らしをしているようでも二人は聖者なので
発想や神通力的な現象などで一般生活とギャップが生まれます。
その前提になるキャラクター設定や弟子たちとの関係、
二人の当然のような振る舞いの根拠など、
仏教とキリスト教の伝説的なエピソードをパロディにしているので
多少の知識があると楽しめると思います。
「ブッダ」(手塚治虫)あたりを読むと、より面白いかもしれません。
バチあたりな感じもしないではありませんが、
冗談として笑い飛ばせる範囲なんじゃないでしょうか。
オリコンでも1位になったそうです。
ほのぼのと楽しめるマンガだと思います。
『モーニング・ツー』で連載されている 『聖☆おにいさん』。
聖☆おにいさん 1 (モーニングKC)
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ブッダとイエスが主人公のギャグマンガ。
二人が現代の地上で、一緒にアパート暮らしをしている設定。
普通の暮らしをしているようでも二人は聖者なので
発想や神通力的な現象などで一般生活とギャップが生まれます。
その前提になるキャラクター設定や弟子たちとの関係、
二人の当然のような振る舞いの根拠など、
仏教とキリスト教の伝説的なエピソードをパロディにしているので
多少の知識があると楽しめると思います。
「ブッダ」(手塚治虫)あたりを読むと、より面白いかもしれません。
バチあたりな感じもしないではありませんが、
冗談として笑い飛ばせる範囲なんじゃないでしょうか。
オリコンでも1位になったそうです。
ほのぼのと楽しめるマンガだと思います。
2009年10月29日
芸術の秋
先日、『藝大アーツ イン 東京丸の内』というのを見てきました。
僕は芸大に入ろうと思ったことはありませんでしたが、
芸術全般は好きなようで、興味深く見られました。
学生らしき人たちにも随分と興味が沸きます。
いかにも芸大生らしい振る舞いをします。
実際に芸術家として生活をしていけるようになる学生は少ないのでしょうが、
素養という点で見たとき、そこには何か「表現」という部分で個性が感じられます。
人は何かのメッセージを世の中に残して、語り継いでいってもらうために
得意な表現方法の分野というのを持っているのかもしれません。
芸術家は、言葉ではなく、多くの人に分かりやすい形で作品を残します。
それができるということは、逆にいえば、
言葉で何かを残すのには苦手意識があるケースも考えられるでしょう。
文章で表現するのが得意な人は、自分の考えを文字に残すのだろうし、
会話の言葉に表現するのが得意な人は、メッセージを自分の口で伝えることになる。
表情や声のトーンなど、非言語メッセージで気持ちを表現するのが得意な人は、
そういうコミュニケーションを通じて、関わった人たちに
自分の気持ちを伝える方法や、その大切さを、間接的に発信しているのだと思います。
芸術家として大成して、世の中に名を残していくレベルの人や、
文学者として作品を残していく人、学者として研究の結果を残していく人たちは、
その発信先が不特定多数の相手になります。
言い換えれば、顔の見えない、見ず知らずの人に自分のメッセージを伝えている。
世の中には、もっと身近な人との関わりを好む人もいます。
家族や、地域社会、会社での人間関係。
そういった直接的な触れ合いの中でも、人は自分のメッセージを
他人に対して発信しているような気がします。
伝える相手や、伝える内容に違いがあっても
人は何かを他人に伝えて、それを残して、
忘れないでいてもらうことを想いながら生きているのかもしれない。
そんなことを思いました。
ちなみに、これが芸大生の作っている『蓺大神輿』。
今年は『最強オカン神輿』とかいう作品でした。
大きさも相当ですが、作り方が非常にダイナミックで迫力があります。
きっと、製作者が自分の内側で「迫力」や「強さ」を象徴するような
サブモダリティの強調の仕方を鋭敏に感じ取って、
それを作品にそのまま反映させたんだろうと思います。
写真にすると迫力が落ちてしまうのは、見上げるような目線と
視野の大部分を占有される圧迫感が無くなってしまうからでしょう。
そして、僕はこういうものを楽しみながらも、
同時に色々と考察してみたくなる特性を持っているようです。
それは芸術家というよりも評論家に近いスタンスかもしれません。
芸大を目指さなくて正解だった気がします。
僕は芸大に入ろうと思ったことはありませんでしたが、
芸術全般は好きなようで、興味深く見られました。
学生らしき人たちにも随分と興味が沸きます。
いかにも芸大生らしい振る舞いをします。
実際に芸術家として生活をしていけるようになる学生は少ないのでしょうが、
素養という点で見たとき、そこには何か「表現」という部分で個性が感じられます。
人は何かのメッセージを世の中に残して、語り継いでいってもらうために
得意な表現方法の分野というのを持っているのかもしれません。
芸術家は、言葉ではなく、多くの人に分かりやすい形で作品を残します。
それができるということは、逆にいえば、
言葉で何かを残すのには苦手意識があるケースも考えられるでしょう。
文章で表現するのが得意な人は、自分の考えを文字に残すのだろうし、
会話の言葉に表現するのが得意な人は、メッセージを自分の口で伝えることになる。
表情や声のトーンなど、非言語メッセージで気持ちを表現するのが得意な人は、
そういうコミュニケーションを通じて、関わった人たちに
自分の気持ちを伝える方法や、その大切さを、間接的に発信しているのだと思います。
芸術家として大成して、世の中に名を残していくレベルの人や、
文学者として作品を残していく人、学者として研究の結果を残していく人たちは、
その発信先が不特定多数の相手になります。
言い換えれば、顔の見えない、見ず知らずの人に自分のメッセージを伝えている。
世の中には、もっと身近な人との関わりを好む人もいます。
家族や、地域社会、会社での人間関係。
そういった直接的な触れ合いの中でも、人は自分のメッセージを
他人に対して発信しているような気がします。
伝える相手や、伝える内容に違いがあっても
人は何かを他人に伝えて、それを残して、
忘れないでいてもらうことを想いながら生きているのかもしれない。
そんなことを思いました。
ちなみに、これが芸大生の作っている『蓺大神輿』。
今年は『最強オカン神輿』とかいう作品でした。
大きさも相当ですが、作り方が非常にダイナミックで迫力があります。
きっと、製作者が自分の内側で「迫力」や「強さ」を象徴するような
サブモダリティの強調の仕方を鋭敏に感じ取って、
それを作品にそのまま反映させたんだろうと思います。
写真にすると迫力が落ちてしまうのは、見上げるような目線と
視野の大部分を占有される圧迫感が無くなってしまうからでしょう。
そして、僕はこういうものを楽しみながらも、
同時に色々と考察してみたくなる特性を持っているようです。
それは芸術家というよりも評論家に近いスタンスかもしれません。
芸大を目指さなくて正解だった気がします。
2009年10月27日
11月の勉強会
11月の勉強会のお知らせ
才能がない。
それなら才能を作ればいい。
大袈裟にいうと、それが今回のテーマです。
『才能』と呼ばれるものの一体どれがけの部分が遺伝的要因によるものなのでしょうか?
身体的特性が、そのまま才能と結びつくケースもあります。
筋肉の付きやすさや体格の大きさは、ある種のスポーツで有利になります。
相撲では体の大きさが求められますし、
バスケットボールやバレーボールでは身長の高さはメリットでしょう。
逆に、長距離走は筋肉ムキムキよりも、無駄のない体のほうが有利なようです。
競馬の騎手にいたっては、体の大きさがデメリットにもなります。
また、好奇心の強さなどは、遺伝子として知られ始めている部分もありますから、
人の能力を決める要因として、遺伝が関わるところは少なからずあると言えるはずです。
しかし、遺伝以外の要素で決められている『才能』もあると思うんです。
分かりやすい例では「歌の上手さ」というものがあります。
歌の上手い人と、苦手な人との決定的な違いは
「自分の声を聞いているか」という部分です。
歌うときに自分の声がどのように出ているかを聞いて確認をしていかないと、
音程を取っていくことは難しくなります。
そのため、歌が苦手な人のためのトレーニングとして
バケツを頭にかぶりながら歌う練習をすることがあります。
そうすると普段よりも音が反響して自分の声に意識が行きやすくなるわけです。
実際には、頭の中で流すガイドメロディと、自分が出した声が合っているかを
常に確認していかなくてはいけませんから、
「頭の中にガイドメロディを流す」という作業も必須のはずです。
歌は自分のノドや口の筋肉を使うという意味で、運動に近い能力を要求されます。
運動においても、自分の体の状態を確認しながら体を動かすという意識が
パフォーマンスに大きな影響を与えると考えられます。
このように、「自分の体の使い方を予測して、確認しながら体を動かす」
という頭の中の使い方は、誰かが教えてくれるものではありません。
自然と、そうやって頭と体を使っていた人は、スポーツや音楽の分野で
それなりの才能を持っている人として扱われたかもしれません。
少なくとも、苦手分野にはならなかったことでしょう。
もちろん、世界の一流として活躍するレベルになるには、
それ相応の才能が求められる可能性があります。
そこには遺伝の要因が関わる部分もあると思います。
ただ、世界の一流には、また彼ら特有の頭と体の使い方があるかもしれないのです。
一流と超一流を分ける「頭と体に対する意識の仕方」の違いがあるかもしれないのです。
今回の勉強会で、そうした超一流の頭の使い方を扱うことはできませんが、
自分にとって苦手意識のある分野や、才能がないと捉えていた分野に関して
得意な人がやっている頭と体の使い方を学ぶチャンスは期待できます。
スポーツや音楽に関していえば、苦手なものは「やらない」
という選択も十分に可能な範囲かもしれません。
自分の得意分野を磨くという選択は賢明です。
ところが、文章を読んで理解するとか、話を聞いて理解するとか、
計算問題を解くとか、物事を論理的に考えるとか、
そういった能力は、仕事や日常生活の幅広いところで求められるものです。
しかも、小学校に入る前から求められる場合すらある。
幼稚園や小学校低学年ぐらいであれば、発達段階から考えて
言語能力や思考力の成長度合いに差が出やすいことがあります。
単純に4月生まれよりも3月生まれのほうが不利になることもあるわけです。
その後、小学校の途中ぐらいからは、個人の頭の使い方の違いが
成績や授業の理解力の差に表れてくる可能性があると思います。
文章の読み方が効率的でなかったために
勉強に苦手意識が生まれてしまうケースも十分に考えられます。
そういう頭の使い方に違いがあることには、普通、誰も関心を向けません。
当然、教える人もいないでしょう。
それは問題の解き方よりも前の段階なんです。
結果を出すための手順を教えても上手くいかないときには、
その手順をする時に気をつけるポイントを学ぶ必要があるということです。
このレベルで効果的な方法を学ぶと、今まで「才能」の違いと考えられていたところが
トレーニングの仕方によって乗り越えられる可能性が出てくるかもしれません。
人それぞれの持ち味があることを考慮すると、
「才能」の中身を分析して、どのように頭を使えば良いかを教えてしまうことは
教育として良い方向なのかどうかは分かりません。
それでも、人間の可能性を知る上では、とても興味深いことだと思います。
ここまでの話は、NLPで言うと、「ストラテジー」に当たる部分です。
行動をするときに「どのように意識を向けていくか」という内容です。
今回のテーマは、ストラテジーの範囲にとどまりません。
「頭と体の意識の向け方」だけを真似しようとしても
上手くいかないことがあるのも事実なんです。
そこを改善する1つのキッカケになりえるのが「体の使い方」です。
姿勢や筋肉の使い方といっても良いかもしれません。
体そのものの使い方を変えて、姿勢や目線を変えることで
頭の中の状態も変わってきます。
意識が向くものや、意識の働く度合いが変わってくるのが実感できます。
文章を読む場合で説明すれば、読むときの姿勢が
集中力や理解の仕方に影響する、ということになります。
体の使い方が能力に影響を与えることもあるわけです。
まとめると、「才能」と呼ばれていたものには、遺伝的な要因の他にも、
その行動をするときに意識を向ける部分(頭と体への意識の向け方) や
その行動をするときの体の使い方(姿勢や目線の使い方)
なども含まれるのではないかという話です。
今回の勉強会では、そのあたりのことをテーマにして掘り下げてみる予定です。
一般的に「頭が良い」と呼ばれる人たちの、頭の中の意識の向け方など、
こちらからお伝えするつもりの内容もありますが、
皆さんでディスカッションをさせて頂くこともあると思います。
その中から想定外の大発見などがあったら、これほど面白いことはない気がします。
何かのトレーニングをして、その場ですぐに才能が身につくとか
ワークをして感動的な体験を味わえるとか、
そういった類のセミナーではありません。
自分や他の人がやっている行動と、その結果を生み出している才能の中身を
細かく分析してみて、活かしていこうという内容です。
行動を細かく意識していく地味な作業だと思います。
人それぞれの違いを知る内容です。
才能のある人と、才能のない人では、
一体どこが違うのか?
そのことを知るのは興味深いことではないでしょうか。
日程と関心が合いましたら、是非ご参加ください。
※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
定員を設けていますので、ご注意ください。
定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 11月23日(月・祝)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
★午前、午後いずれかのご参加も可能です。
【場所】 北とぴあ 806会議室
(JR京浜東北線・王子駅北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅、5番出口直結)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午後の部 ・・・5,000円
◆午前・午後両方ご参加の場合 ・・・7,000円
テーマ: 『才能を身につける』
〜頭と体と意識の使い方〜
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
誰かに料理を教わるとします。
素材と調味料は用意されている。
レシピを渡され、大体のやり方を聞きながら、順番通りに進めていく。
レシピがあるので、出来上がる料理の味付けは同じようなものになるでしょう。
火の通し方などで腕の差は出るはずですが、大失敗はないかもしれません。
ところが、冷蔵庫の中に入っている材料とレシピを頼りに料理をするとなると、
素材選びの部分が関わってきます。
そこに教えてくれる人がいたとしても、素材の選び方を教えてくれなければ、
レシピ通りに料理を進めることさえ難しいかもしれません。
正しい素材が何かが分からないままでは、料理を進めるのは難しいでしょう。
個人の遺伝の要素は、冷蔵庫の中身のようなものかもしれません。
冷蔵庫の中に、超高級食材が入っている人もいる。
魚は新鮮なものが取り揃えられていても、肉は良いものではないこともあるでしょう。
良い材料がなければ、専門店で出すような料理にはならないかもしれませんが、
安くても普通の素材があれば、料理の仕方次第で美味しいものは作れるはずです。
ただ、初めて人が何かを学ぶときというのは、
レシピを教えてもらったり、見本を見せてもらったりすることはあっても、
自分の冷蔵庫の中から正しい素材を選ぶ作業は教えてもらえないことが多いようです。
教える人も、自分の冷蔵庫の中から正しい食材を選ぶことはできても、
相手の冷蔵庫の中の様子が分からないことは普通にあります。
初めて何かを学ぶとき、素材の選び方を教えてもらえれば、
そのあとの手順はレシピどおりに進みやすいように思います。
才能の中には、良い食材を持っているかだけではなく、
レシピに相応しい食材を選び出せるかという要素もあるわけです。
料理であったら当たり前のことが、人の行動や才能に関しては
多くの人の関心を集めていないのが現状のような気がします。
それは勿体ないことだと思います。
「才能」という便利な言葉で言い終えてしまわずに
努力で対応できる部分が増えていくと
可能性が広がると考えますが、いかがでしょうか?
人に興味のある方のご参加をお待ちしております。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
才能がない。
それなら才能を作ればいい。
大袈裟にいうと、それが今回のテーマです。
『才能』と呼ばれるものの一体どれがけの部分が遺伝的要因によるものなのでしょうか?
身体的特性が、そのまま才能と結びつくケースもあります。
筋肉の付きやすさや体格の大きさは、ある種のスポーツで有利になります。
相撲では体の大きさが求められますし、
バスケットボールやバレーボールでは身長の高さはメリットでしょう。
逆に、長距離走は筋肉ムキムキよりも、無駄のない体のほうが有利なようです。
競馬の騎手にいたっては、体の大きさがデメリットにもなります。
また、好奇心の強さなどは、遺伝子として知られ始めている部分もありますから、
人の能力を決める要因として、遺伝が関わるところは少なからずあると言えるはずです。
しかし、遺伝以外の要素で決められている『才能』もあると思うんです。
分かりやすい例では「歌の上手さ」というものがあります。
歌の上手い人と、苦手な人との決定的な違いは
「自分の声を聞いているか」という部分です。
歌うときに自分の声がどのように出ているかを聞いて確認をしていかないと、
音程を取っていくことは難しくなります。
そのため、歌が苦手な人のためのトレーニングとして
バケツを頭にかぶりながら歌う練習をすることがあります。
そうすると普段よりも音が反響して自分の声に意識が行きやすくなるわけです。
実際には、頭の中で流すガイドメロディと、自分が出した声が合っているかを
常に確認していかなくてはいけませんから、
「頭の中にガイドメロディを流す」という作業も必須のはずです。
歌は自分のノドや口の筋肉を使うという意味で、運動に近い能力を要求されます。
運動においても、自分の体の状態を確認しながら体を動かすという意識が
パフォーマンスに大きな影響を与えると考えられます。
このように、「自分の体の使い方を予測して、確認しながら体を動かす」
という頭の中の使い方は、誰かが教えてくれるものではありません。
自然と、そうやって頭と体を使っていた人は、スポーツや音楽の分野で
それなりの才能を持っている人として扱われたかもしれません。
少なくとも、苦手分野にはならなかったことでしょう。
もちろん、世界の一流として活躍するレベルになるには、
それ相応の才能が求められる可能性があります。
そこには遺伝の要因が関わる部分もあると思います。
ただ、世界の一流には、また彼ら特有の頭と体の使い方があるかもしれないのです。
一流と超一流を分ける「頭と体に対する意識の仕方」の違いがあるかもしれないのです。
今回の勉強会で、そうした超一流の頭の使い方を扱うことはできませんが、
自分にとって苦手意識のある分野や、才能がないと捉えていた分野に関して
得意な人がやっている頭と体の使い方を学ぶチャンスは期待できます。
スポーツや音楽に関していえば、苦手なものは「やらない」
という選択も十分に可能な範囲かもしれません。
自分の得意分野を磨くという選択は賢明です。
ところが、文章を読んで理解するとか、話を聞いて理解するとか、
計算問題を解くとか、物事を論理的に考えるとか、
そういった能力は、仕事や日常生活の幅広いところで求められるものです。
しかも、小学校に入る前から求められる場合すらある。
幼稚園や小学校低学年ぐらいであれば、発達段階から考えて
言語能力や思考力の成長度合いに差が出やすいことがあります。
単純に4月生まれよりも3月生まれのほうが不利になることもあるわけです。
その後、小学校の途中ぐらいからは、個人の頭の使い方の違いが
成績や授業の理解力の差に表れてくる可能性があると思います。
文章の読み方が効率的でなかったために
勉強に苦手意識が生まれてしまうケースも十分に考えられます。
そういう頭の使い方に違いがあることには、普通、誰も関心を向けません。
当然、教える人もいないでしょう。
それは問題の解き方よりも前の段階なんです。
結果を出すための手順を教えても上手くいかないときには、
その手順をする時に気をつけるポイントを学ぶ必要があるということです。
このレベルで効果的な方法を学ぶと、今まで「才能」の違いと考えられていたところが
トレーニングの仕方によって乗り越えられる可能性が出てくるかもしれません。
人それぞれの持ち味があることを考慮すると、
「才能」の中身を分析して、どのように頭を使えば良いかを教えてしまうことは
教育として良い方向なのかどうかは分かりません。
それでも、人間の可能性を知る上では、とても興味深いことだと思います。
ここまでの話は、NLPで言うと、「ストラテジー」に当たる部分です。
行動をするときに「どのように意識を向けていくか」という内容です。
今回のテーマは、ストラテジーの範囲にとどまりません。
「頭と体の意識の向け方」だけを真似しようとしても
上手くいかないことがあるのも事実なんです。
そこを改善する1つのキッカケになりえるのが「体の使い方」です。
姿勢や筋肉の使い方といっても良いかもしれません。
体そのものの使い方を変えて、姿勢や目線を変えることで
頭の中の状態も変わってきます。
意識が向くものや、意識の働く度合いが変わってくるのが実感できます。
文章を読む場合で説明すれば、読むときの姿勢が
集中力や理解の仕方に影響する、ということになります。
体の使い方が能力に影響を与えることもあるわけです。
まとめると、「才能」と呼ばれていたものには、遺伝的な要因の他にも、
その行動をするときに意識を向ける部分(頭と体への意識の向け方) や
その行動をするときの体の使い方(姿勢や目線の使い方)
なども含まれるのではないかという話です。
今回の勉強会では、そのあたりのことをテーマにして掘り下げてみる予定です。
一般的に「頭が良い」と呼ばれる人たちの、頭の中の意識の向け方など、
こちらからお伝えするつもりの内容もありますが、
皆さんでディスカッションをさせて頂くこともあると思います。
その中から想定外の大発見などがあったら、これほど面白いことはない気がします。
何かのトレーニングをして、その場ですぐに才能が身につくとか
ワークをして感動的な体験を味わえるとか、
そういった類のセミナーではありません。
自分や他の人がやっている行動と、その結果を生み出している才能の中身を
細かく分析してみて、活かしていこうという内容です。
行動を細かく意識していく地味な作業だと思います。
人それぞれの違いを知る内容です。
才能のある人と、才能のない人では、
一体どこが違うのか?
そのことを知るのは興味深いことではないでしょうか。
日程と関心が合いましたら、是非ご参加ください。
※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
定員を設けていますので、ご注意ください。
定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 11月23日(月・祝)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
★午前、午後いずれかのご参加も可能です。
【場所】 北とぴあ 806会議室
(JR京浜東北線・王子駅北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅、5番出口直結)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午後の部 ・・・5,000円
◆午前・午後両方ご参加の場合 ・・・7,000円
テーマ: 『才能を身につける』
〜頭と体と意識の使い方〜
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
誰かに料理を教わるとします。
素材と調味料は用意されている。
レシピを渡され、大体のやり方を聞きながら、順番通りに進めていく。
レシピがあるので、出来上がる料理の味付けは同じようなものになるでしょう。
火の通し方などで腕の差は出るはずですが、大失敗はないかもしれません。
ところが、冷蔵庫の中に入っている材料とレシピを頼りに料理をするとなると、
素材選びの部分が関わってきます。
そこに教えてくれる人がいたとしても、素材の選び方を教えてくれなければ、
レシピ通りに料理を進めることさえ難しいかもしれません。
正しい素材が何かが分からないままでは、料理を進めるのは難しいでしょう。
個人の遺伝の要素は、冷蔵庫の中身のようなものかもしれません。
冷蔵庫の中に、超高級食材が入っている人もいる。
魚は新鮮なものが取り揃えられていても、肉は良いものではないこともあるでしょう。
良い材料がなければ、専門店で出すような料理にはならないかもしれませんが、
安くても普通の素材があれば、料理の仕方次第で美味しいものは作れるはずです。
ただ、初めて人が何かを学ぶときというのは、
レシピを教えてもらったり、見本を見せてもらったりすることはあっても、
自分の冷蔵庫の中から正しい素材を選ぶ作業は教えてもらえないことが多いようです。
教える人も、自分の冷蔵庫の中から正しい食材を選ぶことはできても、
相手の冷蔵庫の中の様子が分からないことは普通にあります。
初めて何かを学ぶとき、素材の選び方を教えてもらえれば、
そのあとの手順はレシピどおりに進みやすいように思います。
才能の中には、良い食材を持っているかだけではなく、
レシピに相応しい食材を選び出せるかという要素もあるわけです。
料理であったら当たり前のことが、人の行動や才能に関しては
多くの人の関心を集めていないのが現状のような気がします。
それは勿体ないことだと思います。
「才能」という便利な言葉で言い終えてしまわずに
努力で対応できる部分が増えていくと
可能性が広がると考えますが、いかがでしょうか?
人に興味のある方のご参加をお待ちしております。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
2009年10月24日
風味を再現する人たち
最近発売された『ペプシあずき』を飲みました。
僕は結構、「あずき」が好きなんです。
「こしあん」よりも「つぶあん」が好き。
パンを買うときは「あんぱん」の比率が高いと思います。
饅頭なども好きな部類。
「あずき」の豆自体の風味が強く残っているものに惹かれます。
で、この『ペプシあずき』ですが、それなりに「あずき」っぽさが出ています。
和風かと言われると感じ方は人それぞれでしょうが、「あずき」の感じはあります。
全体的な味の構成は「ドクターペッパー」に似た印象。
それに「あずき」アイスを溶かしこんだような味だと想像すると良いかもしれません。
ただ、原材料名のところを見ても、「小豆」の文字は一切見当たらないので、
完全に香料を添加する配分だけで「あずき」風味を出していると想像されます。
こういう風味の再現の作業は、きっと地道な試行錯誤の上にあるんでしょう。
なぜなら、人間の嗅覚は非常に繊細で、ホンの少しの量があるだけで
敏感に検出できるものがあるからです。
人間が匂いを感じるのは、空気中に蒸発してきた分子が
鼻の粘膜の中にある受容体細胞と結びついたときに神経が活性化されるため。
匂いは、その物質の分子がセンサーにくっついたときに感じられるわけです。
ですから、揮発性の高いものほど、一般的に匂いやすいと考えられますが、
空気中にありふれていて無害なものには、匂いを感じないものもあります。
それはセンサーがないということ。
逆に、匂いがなくても有害なものもありますし、
好ましい匂いと判断されやすい物質もあります。
そして、少ない量でも匂いを強く感じるものもあります。
有機酸の類は揮発性もありますが、微量でも非常に臭く感じられます。
お酢のツーンとする匂いは強烈。
有機酸の匂いは腐敗と関わっているせいでしょうか、
人間はかなり敏感に感じられるようです。
そして、化学薬品として、その匂いの強さで知られているのが『酪酸(butyric acid)』。
試薬瓶は、とても厳重に梱包されて、匂いが漏れないように工夫されています。
銀杏の匂いは酪酸が主成分だそうです。
これもやっぱり人間には有害。
犬は人間の1000分の1の量でも感じ取れるとか。
犬の嗅覚は人間の1000倍というのは、こういう意味です。
ちなみに犬は、足の裏の匂いに含まれる
こうした微量な酸の匂いを嗅ぎ分けていると言います。
人間も犬ほどではないにせよ、かなり鋭敏に感じられる匂い成分があるということです。
ということは、成分として含まれる量によってのみで
匂いの強さが決まるわけではないと考えられます。
「あずき」の風味を再現しようとしたら、
「あずき」を溶かした液の成分を分析して、
沢山含まれるものだけを混ぜれば良いということではないはずです。
少量でも匂いの中心になるものがあるかもしれない。
液体中に含まれる物質の濃度を測定する装置として HPLC が一般的に使われますが、
その感度は決して高いものではありません。
少なくとも、僕が実験で使っていたころはそうでした。
分析装置のキャッチコピーに「人の嗅覚並みの高感度!」などと書かれるぐらい
人間の嗅覚が持つセンサーの感度は高いんです。
そして、測定装置で測れる濃度の基準は、人間の嗅覚とは無関係ですから、
人間にとっては微量でも重要な匂い成分が、
装置の測定方法では調べにくいということもあるでしょう。
なので、「ペプシあずき」の「あずき」風味を再現するときには
「あずき」に含まれる成分を全て測定して、
その成分を、そのままの量で配分すれば良いという単純な話ではないはずなんです。
機械では分かりにくいのに、実際の匂いとしては重要な成分を見つけなければいけない。
有名な話としては、加齢臭の主成分として知られる『ノネナール』が
装置で測定しても特定しにくかったところを、
資生堂の一人の研究員が「この匂いは多分、これだろう」と当たりをつけて
『ノネナール』の存在を特定したということもあります。
達人の嗅覚は、機械で測れる範囲を遥かに上回っているんです。
人間の能力は文字通り「計り知れない」わけです。
きっと「あずき」風味も、開発に関わった人たちが
「ああでもない」「こうでもない」と香料を混ぜ合わせ、
試行錯誤の末に「この組み合わせが一番あずきっぽいでしょう」と
結論付けて製品化に至ったんだろうと思います。
そんなプロセスを想像すると、
美味しいかどうかという消費者にとって最もシンプルで本質的な基準だけで、
味の評価をしてしまうことに少し抵抗が出てきたりもします。
なので、僕は『ペプシあずき』を飲んだ時の最初の感想が、
「あぁ、良くできているなぁ」だったんでしょう。
それは別に無愛想なわけでも、素直さに欠けているわけでもない気がします。
裏側にある開発のドラマを想像するのも、1つの楽しみ方かもしれません。
僕は結構、「あずき」が好きなんです。
「こしあん」よりも「つぶあん」が好き。
パンを買うときは「あんぱん」の比率が高いと思います。
饅頭なども好きな部類。
「あずき」の豆自体の風味が強く残っているものに惹かれます。
で、この『ペプシあずき』ですが、それなりに「あずき」っぽさが出ています。
和風かと言われると感じ方は人それぞれでしょうが、「あずき」の感じはあります。
全体的な味の構成は「ドクターペッパー」に似た印象。
それに「あずき」アイスを溶かしこんだような味だと想像すると良いかもしれません。
ただ、原材料名のところを見ても、「小豆」の文字は一切見当たらないので、
完全に香料を添加する配分だけで「あずき」風味を出していると想像されます。
こういう風味の再現の作業は、きっと地道な試行錯誤の上にあるんでしょう。
なぜなら、人間の嗅覚は非常に繊細で、ホンの少しの量があるだけで
敏感に検出できるものがあるからです。
人間が匂いを感じるのは、空気中に蒸発してきた分子が
鼻の粘膜の中にある受容体細胞と結びついたときに神経が活性化されるため。
匂いは、その物質の分子がセンサーにくっついたときに感じられるわけです。
ですから、揮発性の高いものほど、一般的に匂いやすいと考えられますが、
空気中にありふれていて無害なものには、匂いを感じないものもあります。
それはセンサーがないということ。
逆に、匂いがなくても有害なものもありますし、
好ましい匂いと判断されやすい物質もあります。
そして、少ない量でも匂いを強く感じるものもあります。
有機酸の類は揮発性もありますが、微量でも非常に臭く感じられます。
お酢のツーンとする匂いは強烈。
有機酸の匂いは腐敗と関わっているせいでしょうか、
人間はかなり敏感に感じられるようです。
そして、化学薬品として、その匂いの強さで知られているのが『酪酸(butyric acid)』。
試薬瓶は、とても厳重に梱包されて、匂いが漏れないように工夫されています。
銀杏の匂いは酪酸が主成分だそうです。
これもやっぱり人間には有害。
犬は人間の1000分の1の量でも感じ取れるとか。
犬の嗅覚は人間の1000倍というのは、こういう意味です。
ちなみに犬は、足の裏の匂いに含まれる
こうした微量な酸の匂いを嗅ぎ分けていると言います。
人間も犬ほどではないにせよ、かなり鋭敏に感じられる匂い成分があるということです。
ということは、成分として含まれる量によってのみで
匂いの強さが決まるわけではないと考えられます。
「あずき」の風味を再現しようとしたら、
「あずき」を溶かした液の成分を分析して、
沢山含まれるものだけを混ぜれば良いということではないはずです。
少量でも匂いの中心になるものがあるかもしれない。
液体中に含まれる物質の濃度を測定する装置として HPLC が一般的に使われますが、
その感度は決して高いものではありません。
少なくとも、僕が実験で使っていたころはそうでした。
分析装置のキャッチコピーに「人の嗅覚並みの高感度!」などと書かれるぐらい
人間の嗅覚が持つセンサーの感度は高いんです。
そして、測定装置で測れる濃度の基準は、人間の嗅覚とは無関係ですから、
人間にとっては微量でも重要な匂い成分が、
装置の測定方法では調べにくいということもあるでしょう。
なので、「ペプシあずき」の「あずき」風味を再現するときには
「あずき」に含まれる成分を全て測定して、
その成分を、そのままの量で配分すれば良いという単純な話ではないはずなんです。
機械では分かりにくいのに、実際の匂いとしては重要な成分を見つけなければいけない。
有名な話としては、加齢臭の主成分として知られる『ノネナール』が
装置で測定しても特定しにくかったところを、
資生堂の一人の研究員が「この匂いは多分、これだろう」と当たりをつけて
『ノネナール』の存在を特定したということもあります。
達人の嗅覚は、機械で測れる範囲を遥かに上回っているんです。
人間の能力は文字通り「計り知れない」わけです。
きっと「あずき」風味も、開発に関わった人たちが
「ああでもない」「こうでもない」と香料を混ぜ合わせ、
試行錯誤の末に「この組み合わせが一番あずきっぽいでしょう」と
結論付けて製品化に至ったんだろうと思います。
そんなプロセスを想像すると、
美味しいかどうかという消費者にとって最もシンプルで本質的な基準だけで、
味の評価をしてしまうことに少し抵抗が出てきたりもします。
なので、僕は『ペプシあずき』を飲んだ時の最初の感想が、
「あぁ、良くできているなぁ」だったんでしょう。
それは別に無愛想なわけでも、素直さに欠けているわけでもない気がします。
裏側にある開発のドラマを想像するのも、1つの楽しみ方かもしれません。
2009年10月22日
お買いもの
11月の勉強会のテーマが決まりつつあります。
「頭が良くなる 体と意識の使い方」
という感じでしょうか。
近いうちに申し込みをスタートする予定です。
日程は、11月23日(月・祝)。
会場が狭いので人数には上限があるかと思います。
さて。
最近、書道用品店で買い物をしてきました。
僕は大きな作品を書くようなレベルではありませんから、
それほど筆には費用がかかりません。
(筆は大きくなるほど高くなります。長い毛が沢山必要になるので)
墨や硯も高いものは高いですが、墨を磨る時間を考えると
なかなかそこまではできません。
紙は手で漉いているものだと、手間暇がかかりますから値段も相応。
墨を磨れば話は変わってきますが、
ランニングコストの中心は紙代になる気がします。
それと比べると、墨液は圧倒的にコストパフォーマンスが良いんです。
しかも、種類によって書き味や仕上がりに影響が出てきますから、
色々と試してみると気軽に楽しみを増やせるようです。
最近は、この辺を使ってみているところ。
どれも膠を溶剤に使っているものです。
墨液には合成糊を使ったものと、膠を使ったものがありますが、
膠系のほうが墨のノビが良い感じがあります。
筆にも良いらしい。
それでも、実際に墨を濃いめに磨り下ろしたものとは随分と違いを感じてしまいます。
濃く下ろした墨は紙の上に乗っている時間が長い感じがあって、
それが筆先の動きで引っ張られてノビていくようなんです。
これは自分が上手くなったと錯覚するほどに快適な進み方をしてくれる。
技術があれば関係なく使いこなせるんでしょうし、
そういうフィーリングを気にせずに筆を使う人もいるようですが、
僕はモデリングをしながら書道をするのが1つの目的なので
体感覚の刺激にはコダワリたいところでもあるわけです。
好みの墨液を見つけたいものです。
ちなみに、こちらは一緒に購入してきたカラー筆ペン。
全部、メタリックカラーになっています。
ある目的のために買ったんですが、その機会がなくなってしまいました。
今週の名古屋では活かせるかもしれません。
「頭が良くなる 体と意識の使い方」
という感じでしょうか。
近いうちに申し込みをスタートする予定です。
日程は、11月23日(月・祝)。
会場が狭いので人数には上限があるかと思います。
さて。
最近、書道用品店で買い物をしてきました。
僕は大きな作品を書くようなレベルではありませんから、
それほど筆には費用がかかりません。
(筆は大きくなるほど高くなります。長い毛が沢山必要になるので)
墨や硯も高いものは高いですが、墨を磨る時間を考えると
なかなかそこまではできません。
紙は手で漉いているものだと、手間暇がかかりますから値段も相応。
墨を磨れば話は変わってきますが、
ランニングコストの中心は紙代になる気がします。
それと比べると、墨液は圧倒的にコストパフォーマンスが良いんです。
しかも、種類によって書き味や仕上がりに影響が出てきますから、
色々と試してみると気軽に楽しみを増やせるようです。
最近は、この辺を使ってみているところ。
どれも膠を溶剤に使っているものです。
墨液には合成糊を使ったものと、膠を使ったものがありますが、
膠系のほうが墨のノビが良い感じがあります。
筆にも良いらしい。
それでも、実際に墨を濃いめに磨り下ろしたものとは随分と違いを感じてしまいます。
濃く下ろした墨は紙の上に乗っている時間が長い感じがあって、
それが筆先の動きで引っ張られてノビていくようなんです。
これは自分が上手くなったと錯覚するほどに快適な進み方をしてくれる。
技術があれば関係なく使いこなせるんでしょうし、
そういうフィーリングを気にせずに筆を使う人もいるようですが、
僕はモデリングをしながら書道をするのが1つの目的なので
体感覚の刺激にはコダワリたいところでもあるわけです。
好みの墨液を見つけたいものです。
ちなみに、こちらは一緒に購入してきたカラー筆ペン。
全部、メタリックカラーになっています。
ある目的のために買ったんですが、その機会がなくなってしまいました。
今週の名古屋では活かせるかもしれません。
2009年10月20日
本に反映されること
僕は本が好きなんだと思います。
なので本を買います。
カバーをかけます。
置いてある本もずっとカバーをかけたままなので、
また読みたくなった時に探すのが労力になることもありますが、
本を綺麗に、大切に扱いたい気持ちがあるようです。
カバンに入れて持ち運ぶときも、角が折れたりしないように
それなりに気を遣っていますし、雨の日には濡れないように
ビニール袋に入れた状態でカバンに入れたりする几帳面ぶり。
それぐらい気を遣っているのは、他にはパソコンぐらいなもの。
パソコンは濡れたり落としたりすると壊れてしまいそうですから。
本は濡れても壊れないし、落としてもデータが消えたりはしませんが、
なるべく綺麗な状態を保っておきたい気持ちが強いんです。
一時期は、齊藤孝氏の本を読んで、三色ボールペンで書き込むこともしましたが
すぐに止めてしまいました。
最近は気になる部分にポストイットを貼るか、メモ用紙を挟むかしています。
本というもの自体に思い入れが強いんでしょう。
それは情報媒体ではなく、著者や編集者を始めとする色々な人の思いが詰まった
1つの作品のように感じられるからでもあるようです。
僕はセミナー関係の仕事をしていますし、
自分でも勉強に行ったりすることがあります。
そのようにして人と関わっていると、
本を書いている人と知り合うことが結構あるんです。
元々ベストセラーを書いている人の元へ勉強に行って直接に交流することができたり、
逆に、知り合って話をしているうちに本を書いている人だと分かることもあります。
こちらから分かって学びに行っている先生が書いた本は
勉強のために楽しみにして買います。
自分で購入して読んでいた本の著者と偶然知り合ったりすると
なんだかチョットした驚きを覚えたりもします。
そんな具合に、面識のある人の本を書店で見かけると
その本だけが、他に並んでいる本よりもハッキリと見えるような感じになるんです。
手に取るときも、その人の顔を思い浮かべながら安心感を味わっているようです。
なんというか、買うことに対して迷いがない。
当然のように本を手に取ります。
「この本は面白いかな?」とか「どれが役に立つかな?」とか
中身に目を通しながら選ぶプロセスが省略されることがある。
知り合いだからというよりも、
「あの人が書いているんだから」という信頼があるような気がします。
そして、それとは違った気持ちを感じるのが、
知り合いの人が初めて本を出版したときです。
書店で、その人の名前を本のカバーに見たとき。
これは不思議と嬉しい気持ちが沸いてきます。
それを誰かが立ち読みなんてしていようものなら、
どんな反応をするかが気になってしまったり。
最近では、この本。
「また会いたい」と思われる人の38のルール
クチコミを見る
勉強会にも足を運んで下さったことのある方。
イメージコンサルタントとしてご活躍です。
内容はパブリックな場におけるコミュニケーションが中心といったところ。
決まり切ったマナーを説明するのではなく、
状況に応じて対処を変えるようにして具体的な方法が書かれています。
僕は個人的に、「こうすると絶対に上手くいく」という一方向的な結論が好きではなく、
状況によって対応が変わる可能性を意識していますから、
その意味でも読者に判断の余地を残している部分に共感します。
相手の期待していることを考え、
自分がどうしたいかという気持ちを意識して、
状況に応じて自分の意志で選択する。
そして、その結果に責任を持ち、上手くいかなければ反省して次に活かす。
コミュニケーションは自分と相手の間にあることを意識させてくれるようです。
誰かから習った方法を別の言葉で説明してみたり、
その業界では当たり前の方法をルールのように説明したり、
自分の経験談から上手くいく方法を一面的に説明したり…。
そんな本ではないと思います。
例えば笑顔1つとっても、ただ「人と会うときは笑顔にしましょう」と言うのでなく、
状況によって表情を選ぶ必要性を解説している。
クライアントとの関わりの中で、その人に合わせた対応をしてきたことが、
状況によって移り変わるコミュニケーションの多面性を
本の中の内容にも反映させているのではないかと感じました。
普段は自分が「どう見られているか」には関心の低いほうですが、
本を読んでいたらチョット気になってきました。
まぁ、僕の場合、社会のルールや常識に合わせるよりも、
オープンかつ自由でありながら大人同士として関われる場を作るほうが
仕事の割合として重要ですから、気楽にいたい気持ちもあったりするんですけど。
なので本を買います。
カバーをかけます。
置いてある本もずっとカバーをかけたままなので、
また読みたくなった時に探すのが労力になることもありますが、
本を綺麗に、大切に扱いたい気持ちがあるようです。
カバンに入れて持ち運ぶときも、角が折れたりしないように
それなりに気を遣っていますし、雨の日には濡れないように
ビニール袋に入れた状態でカバンに入れたりする几帳面ぶり。
それぐらい気を遣っているのは、他にはパソコンぐらいなもの。
パソコンは濡れたり落としたりすると壊れてしまいそうですから。
本は濡れても壊れないし、落としてもデータが消えたりはしませんが、
なるべく綺麗な状態を保っておきたい気持ちが強いんです。
一時期は、齊藤孝氏の本を読んで、三色ボールペンで書き込むこともしましたが
すぐに止めてしまいました。
最近は気になる部分にポストイットを貼るか、メモ用紙を挟むかしています。
本というもの自体に思い入れが強いんでしょう。
それは情報媒体ではなく、著者や編集者を始めとする色々な人の思いが詰まった
1つの作品のように感じられるからでもあるようです。
僕はセミナー関係の仕事をしていますし、
自分でも勉強に行ったりすることがあります。
そのようにして人と関わっていると、
本を書いている人と知り合うことが結構あるんです。
元々ベストセラーを書いている人の元へ勉強に行って直接に交流することができたり、
逆に、知り合って話をしているうちに本を書いている人だと分かることもあります。
こちらから分かって学びに行っている先生が書いた本は
勉強のために楽しみにして買います。
自分で購入して読んでいた本の著者と偶然知り合ったりすると
なんだかチョットした驚きを覚えたりもします。
そんな具合に、面識のある人の本を書店で見かけると
その本だけが、他に並んでいる本よりもハッキリと見えるような感じになるんです。
手に取るときも、その人の顔を思い浮かべながら安心感を味わっているようです。
なんというか、買うことに対して迷いがない。
当然のように本を手に取ります。
「この本は面白いかな?」とか「どれが役に立つかな?」とか
中身に目を通しながら選ぶプロセスが省略されることがある。
知り合いだからというよりも、
「あの人が書いているんだから」という信頼があるような気がします。
そして、それとは違った気持ちを感じるのが、
知り合いの人が初めて本を出版したときです。
書店で、その人の名前を本のカバーに見たとき。
これは不思議と嬉しい気持ちが沸いてきます。
それを誰かが立ち読みなんてしていようものなら、
どんな反応をするかが気になってしまったり。
最近では、この本。
「また会いたい」と思われる人の38のルール
クチコミを見る
勉強会にも足を運んで下さったことのある方。
イメージコンサルタントとしてご活躍です。
内容はパブリックな場におけるコミュニケーションが中心といったところ。
決まり切ったマナーを説明するのではなく、
状況に応じて対処を変えるようにして具体的な方法が書かれています。
僕は個人的に、「こうすると絶対に上手くいく」という一方向的な結論が好きではなく、
状況によって対応が変わる可能性を意識していますから、
その意味でも読者に判断の余地を残している部分に共感します。
相手の期待していることを考え、
自分がどうしたいかという気持ちを意識して、
状況に応じて自分の意志で選択する。
そして、その結果に責任を持ち、上手くいかなければ反省して次に活かす。
コミュニケーションは自分と相手の間にあることを意識させてくれるようです。
誰かから習った方法を別の言葉で説明してみたり、
その業界では当たり前の方法をルールのように説明したり、
自分の経験談から上手くいく方法を一面的に説明したり…。
そんな本ではないと思います。
例えば笑顔1つとっても、ただ「人と会うときは笑顔にしましょう」と言うのでなく、
状況によって表情を選ぶ必要性を解説している。
クライアントとの関わりの中で、その人に合わせた対応をしてきたことが、
状況によって移り変わるコミュニケーションの多面性を
本の中の内容にも反映させているのではないかと感じました。
普段は自分が「どう見られているか」には関心の低いほうですが、
本を読んでいたらチョット気になってきました。
まぁ、僕の場合、社会のルールや常識に合わせるよりも、
オープンかつ自由でありながら大人同士として関われる場を作るほうが
仕事の割合として重要ですから、気楽にいたい気持ちもあったりするんですけど。
2009年10月19日
日本一のサブモダリティ
葛飾北斎の『富嶽三十六景』には富士山が登場しますが、
どの絵も実際の富士山より急勾配で描かれています。
どれだけの人が『富嶽三十六景』を見慣れていて、
無意識のイメージとして、その勾配を記憶しているかは分かりませんが、
富士山の絵を描かせると多くの人が実際よりも急勾配に描くそうです。
人は自分が見たものや聞いたものを、実際のままで記憶することは多くなく、
その記憶の内容は簡単に歪んでしまうそうです。
詳細に覚えていないことも普通にあるでしょう。
経験を通じて、典型的なパターンを記憶していくと考えられます。
そして、そのパターンと一致しているかどうかで意味を判断する。
色々な人の笑っている顔を見ているうちに、
典型的な笑顔のパターンを作り出し、
同じような表情をした人を見て、「笑っている」と判断できるわけです。
まぁ、笑顔に関しては生まれたばかりの乳児も反応を示すようですから
遺伝的にプログラムされている部分もあるのかもしれません。
そこから進んで、「目が笑っていない」という表情を区別できるようになるのは、
おそらく何度も色々な笑顔を見て、典型的なパターンを作ったからでしょう。
本当の笑顔のパターンと違う所に気づき、「目が笑っていない」と判断する、と。
で、このパターン化されたイメージの記憶は
実際のものと違っていても構わないというか、むしろ
実際には存在しない典型的なイメージになっていることがあり、
そのイメージの中には判別しやすくするための強調がなされていることがあるようです。
NLPでは人の内的なパターンのイメージを詳細に調べることで、
そのパターン特有の強調の仕方を探し出します。
その強調の仕方が「愛」や「尊敬」や「恐怖」や「威圧感」であったりします。
例えば、自分が威圧感を感じやすい相手というのがいたとしたら、
その威圧感を感じる反応を生み出すためのパターン(プログラム)が作動します。
これは、そのパターンに含まれる特有の見た目や声が引き金になって動き出す。
つまり実際に誰に対しても威圧的な態度を取る相手でなくても、
自分の中の威圧感パターンに含まれる見た目や声の特徴を持っている相手に対しては、
無条件に威圧感を感じる反応を引き出すためのパターンが作動してしまうということです。
仮に、眉間のシワが威圧感パターンの引き金になっているとしたら、
眉間のシワを見たとたんに、威圧感のパターン記憶が引き出されます。
そして、目の前の相手が実際に威圧感を感じる人かどうかは別にして、
自分の中の威圧感パターンを特徴づける強調の仕方が頭の中のイメージに反映される。
多くの場合、威圧感のイメージは下から見上げるような映像になりますから、
目で見た相手の姿を、頭の中で下から見上げるような映像に作り変えて、
その強調された後の映像に対して、怯えたような身体反応を生み出すことになります。
実際に見た相手の映像が、そのまま頭の中で描かれるのではない
というのが重要なポイントでしょう。
アントニオ・ダマシオも本に書いていますが、認知のプロセスで強調がなされるようです。
実際に目にしたものを頭の中で強調して、
その強調されたイメージに対して身体反応が引き出される。
そういう流れがあるわけです。
『富嶽三十六景』の富士山も、多くの人が適当に描く富士山の絵も、
どちらも急勾配という表現で強調されていると言えます。
「日本一高い」印象を、そのような急勾配にする表現方法で
強調してパターンに表しているのでしょう。
デフォルメして描いているという言い方もできるかもしれませんが、
上手く強調して描かれたものは、実際よりも遥かに「それっぽく」見えるんです。
CMの映像なんて良い例です。
食べ物の湯気も、冷たいグラスについた水滴も、ツヤツヤした輝きも、
映像の撮り方として強調されているはずです。
実物ではない。
にも関わらず、そうして強調されたほうが臨場感タップリに感じられる。
そこには人の認識の仕組みを知らず知らずのうちに利用してきた伝統があるようです。
こういうのを解き明かすのは、脳科学の実験で色々と計測するだけでなく、
人の心の中のイメージを質問して聞き出すという地道な作業と組み合わせたほうが
遥かに効果的だと思います。
どの絵も実際の富士山より急勾配で描かれています。
どれだけの人が『富嶽三十六景』を見慣れていて、
無意識のイメージとして、その勾配を記憶しているかは分かりませんが、
富士山の絵を描かせると多くの人が実際よりも急勾配に描くそうです。
人は自分が見たものや聞いたものを、実際のままで記憶することは多くなく、
その記憶の内容は簡単に歪んでしまうそうです。
詳細に覚えていないことも普通にあるでしょう。
経験を通じて、典型的なパターンを記憶していくと考えられます。
そして、そのパターンと一致しているかどうかで意味を判断する。
色々な人の笑っている顔を見ているうちに、
典型的な笑顔のパターンを作り出し、
同じような表情をした人を見て、「笑っている」と判断できるわけです。
まぁ、笑顔に関しては生まれたばかりの乳児も反応を示すようですから
遺伝的にプログラムされている部分もあるのかもしれません。
そこから進んで、「目が笑っていない」という表情を区別できるようになるのは、
おそらく何度も色々な笑顔を見て、典型的なパターンを作ったからでしょう。
本当の笑顔のパターンと違う所に気づき、「目が笑っていない」と判断する、と。
で、このパターン化されたイメージの記憶は
実際のものと違っていても構わないというか、むしろ
実際には存在しない典型的なイメージになっていることがあり、
そのイメージの中には判別しやすくするための強調がなされていることがあるようです。
NLPでは人の内的なパターンのイメージを詳細に調べることで、
そのパターン特有の強調の仕方を探し出します。
その強調の仕方が「愛」や「尊敬」や「恐怖」や「威圧感」であったりします。
例えば、自分が威圧感を感じやすい相手というのがいたとしたら、
その威圧感を感じる反応を生み出すためのパターン(プログラム)が作動します。
これは、そのパターンに含まれる特有の見た目や声が引き金になって動き出す。
つまり実際に誰に対しても威圧的な態度を取る相手でなくても、
自分の中の威圧感パターンに含まれる見た目や声の特徴を持っている相手に対しては、
無条件に威圧感を感じる反応を引き出すためのパターンが作動してしまうということです。
仮に、眉間のシワが威圧感パターンの引き金になっているとしたら、
眉間のシワを見たとたんに、威圧感のパターン記憶が引き出されます。
そして、目の前の相手が実際に威圧感を感じる人かどうかは別にして、
自分の中の威圧感パターンを特徴づける強調の仕方が頭の中のイメージに反映される。
多くの場合、威圧感のイメージは下から見上げるような映像になりますから、
目で見た相手の姿を、頭の中で下から見上げるような映像に作り変えて、
その強調された後の映像に対して、怯えたような身体反応を生み出すことになります。
実際に見た相手の映像が、そのまま頭の中で描かれるのではない
というのが重要なポイントでしょう。
アントニオ・ダマシオも本に書いていますが、認知のプロセスで強調がなされるようです。
実際に目にしたものを頭の中で強調して、
その強調されたイメージに対して身体反応が引き出される。
そういう流れがあるわけです。
『富嶽三十六景』の富士山も、多くの人が適当に描く富士山の絵も、
どちらも急勾配という表現で強調されていると言えます。
「日本一高い」印象を、そのような急勾配にする表現方法で
強調してパターンに表しているのでしょう。
デフォルメして描いているという言い方もできるかもしれませんが、
上手く強調して描かれたものは、実際よりも遥かに「それっぽく」見えるんです。
CMの映像なんて良い例です。
食べ物の湯気も、冷たいグラスについた水滴も、ツヤツヤした輝きも、
映像の撮り方として強調されているはずです。
実物ではない。
にも関わらず、そうして強調されたほうが臨場感タップリに感じられる。
そこには人の認識の仕組みを知らず知らずのうちに利用してきた伝統があるようです。
こういうのを解き明かすのは、脳科学の実験で色々と計測するだけでなく、
人の心の中のイメージを質問して聞き出すという地道な作業と組み合わせたほうが
遥かに効果的だと思います。
2009年10月18日
たとえば
高級な寿司屋があるとします。
扱う品は、お試し用のお土産とランチメニュー、そしてメインのコースだけ。
加えて、メインのコースを食べた方には限定の特別コースも用意されている。
店には数組の団体客がくる。
板場の人数は多くないので、一日の組数も多くはない。
どの職人が、どの組の前で寿司を握るかは、その時次第。
一組のお客様に一人の職人がずっとつくこともあれば、
一品ごとに変わる時もある。
いつ、誰が、どのお客様と顔を合わせるかも分からない。
職人はただ、目の前のお客様のために、心を込めて握るだけ。
限定コースの最後の一品ともなれば、その方の好みも、人柄も、
色々なことを感じている頃。
それでも最後の一品を握るのは一人の職人になる。
他の職人は、ただ今までの関わりを想いながら気持ちを向けることが精一杯。
できるなら、最後の一品を口にする表情くらいは見ていたいものだが、
自分の目の前にお客様がいる以上、それも許されない。
いや、目の前のお客様から気持ちをそらして、
限定コースの最後の一品に気持ちを向けることさえ避けるべきかもしれない。
そのお客様にとっては、大切な一品と向き合っている最中なわけだから。
何よりも、その目の前のお客様に寿司を握ること自体が、
今の一品で最後になってしまうかもしれない。
横目で気になってしまう限定コースの最後の一品だって、
自分が握ったときに気持ちを向け切れていなかったから
それを気にしてしまうだけかもしれないわけで。
できるのは、ただ目の前のこと。
そして、お客様が店を出るときに声をかける「ありがとうございました」。
それはマニュアルやマナーとしての挨拶とは違ったものになるかもしれない。
どんな仕事であれ中断することが許される、数少ない瞬間ではないだろうか。
扱う品は、お試し用のお土産とランチメニュー、そしてメインのコースだけ。
加えて、メインのコースを食べた方には限定の特別コースも用意されている。
店には数組の団体客がくる。
板場の人数は多くないので、一日の組数も多くはない。
どの職人が、どの組の前で寿司を握るかは、その時次第。
一組のお客様に一人の職人がずっとつくこともあれば、
一品ごとに変わる時もある。
いつ、誰が、どのお客様と顔を合わせるかも分からない。
職人はただ、目の前のお客様のために、心を込めて握るだけ。
限定コースの最後の一品ともなれば、その方の好みも、人柄も、
色々なことを感じている頃。
それでも最後の一品を握るのは一人の職人になる。
他の職人は、ただ今までの関わりを想いながら気持ちを向けることが精一杯。
できるなら、最後の一品を口にする表情くらいは見ていたいものだが、
自分の目の前にお客様がいる以上、それも許されない。
いや、目の前のお客様から気持ちをそらして、
限定コースの最後の一品に気持ちを向けることさえ避けるべきかもしれない。
そのお客様にとっては、大切な一品と向き合っている最中なわけだから。
何よりも、その目の前のお客様に寿司を握ること自体が、
今の一品で最後になってしまうかもしれない。
横目で気になってしまう限定コースの最後の一品だって、
自分が握ったときに気持ちを向け切れていなかったから
それを気にしてしまうだけかもしれないわけで。
できるのは、ただ目の前のこと。
そして、お客様が店を出るときに声をかける「ありがとうございました」。
それはマニュアルやマナーとしての挨拶とは違ったものになるかもしれない。
どんな仕事であれ中断することが許される、数少ない瞬間ではないだろうか。
2009年10月15日
オススメ本
最近買ったオススメの一冊。
機関銃英語が聴き取れる!-リスニングの鍵はシラブルとビート-
クチコミを見る
オススメなのは僕だけではありません。
ジュンク堂では意外と推しているようです。
名古屋に行ったときに寄ったジュンク堂・名古屋店で目にとまったのがキッカケですが、
そのときには立ち読み用の見本があり、丁寧にポイントとなる部分に見出しがついていて、
色々な解説まで書きこまれているほどだったんです。
名古屋店は気合が入っているなぁ、と思いながら頭の片隅に置いて、
しばらくしてからジュンク堂・池袋本店に行ったときにも
やっぱり同じように見出しと解説付きの見本があったので、そこで購入。
元から買うつもりではいましたが、
もしかするとジュンク堂の全店舗で同様の紹介をしているのかもしれません。
で、読んでみて何が良かったかというと、
「日本語と英語では、発音の聞きわけで意識を向けるポイントが違う」
という内容を、分かりやすく、かつ詳しく解説してあるところでしょう。
大きなポイントの1つはシラブル。
音節の単位として、音の区切りのリズムが日本語と英語で違うという話です。
もう1つが僕にとってインパクトがありました。
それは発声の仕方。
よくある英語の発音法のテキストというと、
口を横から見た断面図で、舌の位置をどこに置くかを説明していますが、
この本の場合は、口の中を重視していません。
むしろ発音で大事なのは、ノド。
日本語は口の中で、聞き取りに必要な音の要素を区別して発声するのに対して、
英語はむしろノドの状態をコントロールして発音の仕方を変えていく。
日本人からすると聞き取りにくい「L」と「R」の発音の違いも
その音が響く場所がノドの高いところか低いところかで区別すると
全く別の音として聞こえるようになる、というんです。
ネイティブの子供は、LとRの区別は難しくなく、
むしろ「R」と「W」の音の聞き分けを間違いやすいんだとか。
こういうところからも、普通に注意を向ける音の特性が
日本語と英語で別物だということが分かります。
実際、僕もLとRの音の聞き分けは苦手なほうでしたが、
声がノドの中で響く位置を意識したら、随分と区別しやすくなりました。
英語を発音する人たちは、発声の仕方として
ノドの筋肉を緩めて、ノドを開いた状態にしているので
全体的に声が低めの印象を受けると思います。
歌を歌うときと近い発声で話していると言っても良いかもしれません。
この本の中では、その英語を発話するときのノドの使い方に対して
色々なエピソードを加えて解説してありますが、
その中の1つに、欧米人の姿勢のことが説明されています。
欧米人に猫背はいない。
皆、姿勢が良いというんです。
それは発話のときにノドを緩めるため、首をストレートに保っておく必要があるから。
確かに、そう言われてみると、欧米人は年を取っても
背中が丸まらないイメージがあります。
映画に出てくる老人も、車いすに乗っていたり、
杖をつきながら歩いていたりして、上半身を直立させた姿勢を保っています。
日本人のように、腰を曲げて歩くのは見たことがありません。
背中を曲げて、首を起こした姿勢をとっていると
英語の発音は難しいのかもしれません。
言語活動と体の使い方の関係を考えると、
このようなノドの状態に意識を向けた説明は興味深いです。
これは本の内容からは離れますが、僕の見立てでは、
ノドの開き方や発声の仕方が、その人の内面の状態と密接に関わっているようです。
言いにくい内容だったり、自分の意見を出しにくい環境だったりすると
自然と声が詰まったようになってくることが多いもの。
口先で発音するようにした場合、自分の体の反応や気持ちを切り離して
言葉の内容だけで考えたことを言っていたりします。
ノドを緩めて、ノドのあたりで音を響かせながら発声するという状態は
自分の体の反応や素直な気持ちを声に乗せやすいという意味にも近いと考えられます。
欧米人のコミュニケーションスタイルが直接的で、感情表現豊かに感じられるのは、
1つの要因としてノドで発音する言語だということが関わっている気がします。
読みやすい本ですが、色々な示唆を与えてくれた内容でした。
機関銃英語が聴き取れる!-リスニングの鍵はシラブルとビート-
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オススメなのは僕だけではありません。
ジュンク堂では意外と推しているようです。
名古屋に行ったときに寄ったジュンク堂・名古屋店で目にとまったのがキッカケですが、
そのときには立ち読み用の見本があり、丁寧にポイントとなる部分に見出しがついていて、
色々な解説まで書きこまれているほどだったんです。
名古屋店は気合が入っているなぁ、と思いながら頭の片隅に置いて、
しばらくしてからジュンク堂・池袋本店に行ったときにも
やっぱり同じように見出しと解説付きの見本があったので、そこで購入。
元から買うつもりではいましたが、
もしかするとジュンク堂の全店舗で同様の紹介をしているのかもしれません。
で、読んでみて何が良かったかというと、
「日本語と英語では、発音の聞きわけで意識を向けるポイントが違う」
という内容を、分かりやすく、かつ詳しく解説してあるところでしょう。
大きなポイントの1つはシラブル。
音節の単位として、音の区切りのリズムが日本語と英語で違うという話です。
もう1つが僕にとってインパクトがありました。
それは発声の仕方。
よくある英語の発音法のテキストというと、
口を横から見た断面図で、舌の位置をどこに置くかを説明していますが、
この本の場合は、口の中を重視していません。
むしろ発音で大事なのは、ノド。
日本語は口の中で、聞き取りに必要な音の要素を区別して発声するのに対して、
英語はむしろノドの状態をコントロールして発音の仕方を変えていく。
日本人からすると聞き取りにくい「L」と「R」の発音の違いも
その音が響く場所がノドの高いところか低いところかで区別すると
全く別の音として聞こえるようになる、というんです。
ネイティブの子供は、LとRの区別は難しくなく、
むしろ「R」と「W」の音の聞き分けを間違いやすいんだとか。
こういうところからも、普通に注意を向ける音の特性が
日本語と英語で別物だということが分かります。
実際、僕もLとRの音の聞き分けは苦手なほうでしたが、
声がノドの中で響く位置を意識したら、随分と区別しやすくなりました。
英語を発音する人たちは、発声の仕方として
ノドの筋肉を緩めて、ノドを開いた状態にしているので
全体的に声が低めの印象を受けると思います。
歌を歌うときと近い発声で話していると言っても良いかもしれません。
この本の中では、その英語を発話するときのノドの使い方に対して
色々なエピソードを加えて解説してありますが、
その中の1つに、欧米人の姿勢のことが説明されています。
欧米人に猫背はいない。
皆、姿勢が良いというんです。
それは発話のときにノドを緩めるため、首をストレートに保っておく必要があるから。
確かに、そう言われてみると、欧米人は年を取っても
背中が丸まらないイメージがあります。
映画に出てくる老人も、車いすに乗っていたり、
杖をつきながら歩いていたりして、上半身を直立させた姿勢を保っています。
日本人のように、腰を曲げて歩くのは見たことがありません。
背中を曲げて、首を起こした姿勢をとっていると
英語の発音は難しいのかもしれません。
言語活動と体の使い方の関係を考えると、
このようなノドの状態に意識を向けた説明は興味深いです。
これは本の内容からは離れますが、僕の見立てでは、
ノドの開き方や発声の仕方が、その人の内面の状態と密接に関わっているようです。
言いにくい内容だったり、自分の意見を出しにくい環境だったりすると
自然と声が詰まったようになってくることが多いもの。
口先で発音するようにした場合、自分の体の反応や気持ちを切り離して
言葉の内容だけで考えたことを言っていたりします。
ノドを緩めて、ノドのあたりで音を響かせながら発声するという状態は
自分の体の反応や素直な気持ちを声に乗せやすいという意味にも近いと考えられます。
欧米人のコミュニケーションスタイルが直接的で、感情表現豊かに感じられるのは、
1つの要因としてノドで発音する言語だということが関わっている気がします。
読みやすい本ですが、色々な示唆を与えてくれた内容でした。
2009年10月14日
左目
疲労が溜まってくると、僕の左目の下まぶたは
ピクピクと痙攣したようになることがあります。
僕はハッキリとした自覚として、右目が利き目だというのを知っています。
結構片寄って右目を使っているようです。
視力も確か、左目のほうが悪い。
車に乗っていた時期も、左側をあまり見ていないフシがあって、
車幅感覚にあまり自信がなかったのを覚えていますし。
車に乗っているときにコスッたりブツけたりしやすいのは
目の使い方に偏りがある場合だと聞いたこともありますが、
僕も左右方向の距離感には自信がなかったと思います。
今、セミナーをやっていても多分、右目を中心に見ているようで
左側の視野のほうが狭いような気がします。
多分、そのせいで、僕は少し顔を中心よりも左側に向ける癖があるんでしょう。
顔を中心よりも左寄りに向けておくことで
バランス良く全体が見える気がするのかもしれません。
そうやって考えると、明らかに僕の目は普段から右目ばかりを使っている。
そして、こうしてそのことを言語化しながら書いていると
僕の中には申し訳ないような反省に近い気持ちと、
それではマズイというようなチョットした危機感や不安感を感じ始めています。
もっと左目も使ったほうがいいんじゃないかと思うんです。
(と書いたところでホッとしました)
そんな風に、右目を沢山使っているにも関わらず、
疲れた時に現れるピクピクした反応が左目だというのが面白い。
疲れた側の目が何らかの反応をするんなら話は分かりやすいですが、
普段使っていないほうの疲れていない目がピクピクしているんです。
もしかすると、実は左目のほうが疲れているんでしょうか?
意識的に「見る」作業には使っていないけれども、
なんとなく視野の中で「見える」ものには左目も使っていたり、とか。
ところで、石井裕之氏が催眠療法をやっていたとき、
自分の催眠の勉強会(「沢雉会」)で色々な催眠誘導の方法を研究していたそうです。
そのときに利き目をつぶるか、利き目だけ目隠しして、
利き目と反対側の目で見るようにするとトランスに入りやすい、
ということを発見したと聞いたことがあります。
「ビッグコミックスピリッツ」に連載されていた『ホムンクルスの目』という読み物は
『ホムンクルス』という山本英夫氏のマンガとセットになっていましたが、
二人は以前からのお知り合いだそうで、
マンガのアイデアも石井裕之氏との関わりから得ているところがあるんだとか。
『ホムンクルス』の主人公は、トレパネーションという手術をして以来、
他人の深層心理のイメージが見えるようになります。
このイメージを見るときに、右目を手で覆うんです。
利き目じゃないほうの目だけで他人を見ると、
不思議なイメージで世の中が見えるようになる。
この設定のヒントになったのが、催眠の研究のプロセスで分かってきた
「利き目と反対側の目だけで見ると、トランスに入りやすい」
という情報だったという話。
意識的に見る側の目が利き目ですから、
その働きを抑えれば普段と違う意識状態、つまりトランスに
入っていきやすいのは自然なことだと思います。
そんなことを考えると、実は僕の左目もトランス的というか
意識に上げないような情報を捉えていた可能性があるのかという気がしてきます。
多くの情報を同時に捉えて、意識に上げないレベルで注意を払っている。
そんなことをずっと続けていたら、むしろ疲れが出やすいのは
利き目ではない左目のほうなのかもしれません。
ということは、左目のピクピクが起きている時は
他人への注意のレベルが上がり過ぎていて疲労が出ている場合と想像されます。
自分だけの内側に入り込んで、一人の時間を過ごすのが大事なように思います。
左目の使い方。
ちょっと気になってきました。
ピクピクと痙攣したようになることがあります。
僕はハッキリとした自覚として、右目が利き目だというのを知っています。
結構片寄って右目を使っているようです。
視力も確か、左目のほうが悪い。
車に乗っていた時期も、左側をあまり見ていないフシがあって、
車幅感覚にあまり自信がなかったのを覚えていますし。
車に乗っているときにコスッたりブツけたりしやすいのは
目の使い方に偏りがある場合だと聞いたこともありますが、
僕も左右方向の距離感には自信がなかったと思います。
今、セミナーをやっていても多分、右目を中心に見ているようで
左側の視野のほうが狭いような気がします。
多分、そのせいで、僕は少し顔を中心よりも左側に向ける癖があるんでしょう。
顔を中心よりも左寄りに向けておくことで
バランス良く全体が見える気がするのかもしれません。
そうやって考えると、明らかに僕の目は普段から右目ばかりを使っている。
そして、こうしてそのことを言語化しながら書いていると
僕の中には申し訳ないような反省に近い気持ちと、
それではマズイというようなチョットした危機感や不安感を感じ始めています。
もっと左目も使ったほうがいいんじゃないかと思うんです。
(と書いたところでホッとしました)
そんな風に、右目を沢山使っているにも関わらず、
疲れた時に現れるピクピクした反応が左目だというのが面白い。
疲れた側の目が何らかの反応をするんなら話は分かりやすいですが、
普段使っていないほうの疲れていない目がピクピクしているんです。
もしかすると、実は左目のほうが疲れているんでしょうか?
意識的に「見る」作業には使っていないけれども、
なんとなく視野の中で「見える」ものには左目も使っていたり、とか。
ところで、石井裕之氏が催眠療法をやっていたとき、
自分の催眠の勉強会(「沢雉会」)で色々な催眠誘導の方法を研究していたそうです。
そのときに利き目をつぶるか、利き目だけ目隠しして、
利き目と反対側の目で見るようにするとトランスに入りやすい、
ということを発見したと聞いたことがあります。
「ビッグコミックスピリッツ」に連載されていた『ホムンクルスの目』という読み物は
『ホムンクルス』という山本英夫氏のマンガとセットになっていましたが、
二人は以前からのお知り合いだそうで、
マンガのアイデアも石井裕之氏との関わりから得ているところがあるんだとか。
『ホムンクルス』の主人公は、トレパネーションという手術をして以来、
他人の深層心理のイメージが見えるようになります。
このイメージを見るときに、右目を手で覆うんです。
利き目じゃないほうの目だけで他人を見ると、
不思議なイメージで世の中が見えるようになる。
この設定のヒントになったのが、催眠の研究のプロセスで分かってきた
「利き目と反対側の目だけで見ると、トランスに入りやすい」
という情報だったという話。
意識的に見る側の目が利き目ですから、
その働きを抑えれば普段と違う意識状態、つまりトランスに
入っていきやすいのは自然なことだと思います。
そんなことを考えると、実は僕の左目もトランス的というか
意識に上げないような情報を捉えていた可能性があるのかという気がしてきます。
多くの情報を同時に捉えて、意識に上げないレベルで注意を払っている。
そんなことをずっと続けていたら、むしろ疲れが出やすいのは
利き目ではない左目のほうなのかもしれません。
ということは、左目のピクピクが起きている時は
他人への注意のレベルが上がり過ぎていて疲労が出ている場合と想像されます。
自分だけの内側に入り込んで、一人の時間を過ごすのが大事なように思います。
左目の使い方。
ちょっと気になってきました。