2010年01月
2010年01月12日
象徴的な食べ物
2010年になって、そろそろ2週間。
11日は成人式帰りの若者を多数見かけました。
正月ムードも街中から消え始め、そろそろ節分の方向に商戦がシフトしているようです。
仕事も始まり、生活のリズムやパターンが、
日常に戻ってきた人々が多いのではないかと思います。
僕の中も普段通りの雰囲気になってきているようですが、
僕にとって正月ムードが強く影響するのは食生活の部分。
正月特有の食事内容もさることながら
実家で食事をするということ自体が、僕にとっては普段と違いがあるんです。
セミナー中に飴を食べることがある以外は、普段あまり間食をしないのに
実家に帰ると、なんとなく色々と食べることが多い気がします。
食事の量も増えていると思います。
普段よりも満腹感を強く感じるところまで食べている。
ところで、NLPやエリクソン派の催眠療法では、
人の全ての振る舞いの裏には『肯定的意図』があると考えます。
意識では嫌だと思っている困った悪習慣や行動パターンのようなものでも
無意識では自分自身のために役立とうとする意図がある、と。
良かれと思ってやっている動機があるということです。
その意味で言うと、僕が実家にいるときに普段よりも食べる量が増えるというのにも
その裏側に肯定的意図があると考えられるわけです。
「食べる」ということに関して、肯定的意図は一概には言えないのですが、
「噛む」、「味わう」、「飲み込む」、「自分の中に取り込む」など
食べるプロセスを意味づけとして分類していくと、
それぞれ違った肯定的意図を持っている可能性があります。
僕の場合、普段の食事は「味わう」の度合いが高いんですが、
実家での食事では同じ味のものでも食べ続けられるようになるので
「自分の中に取り込む」の意味合いが高いと感じられます。
で、その側面で肯定的意図を探ってみると、
そこには「母の愛情を受け取る」という意味合いがあることに気づきます。
まぁ、実際には何年も前に気づいていたことですから、
そのことを意識してからは食べる量をコントロールするようにはなったんですが。
より感謝の気持ちを強く意識するようにもなりましたし。
どうやら、この「食べる」の中の「自分の中に取り込む」の意味合いは
今までに関わってきたケースを振り返っても「愛情」に関係することが多いようです。
与えてもらえる食べ物というのは母乳から始まって「愛」の象徴になるのかもしれません。
同じように飲食に関わることでも、その食べ物が特定されている場合には
もう少し違った意味合いを持つことがあります。
チョコレートが止められないとか、仕事帰りに必ずお菓子を買って帰るとか。
自分の中で、幼少期の家庭でのルールや世間一般の常識として捉えられているものに
違反するような行動が続いている場合には、
その「決まりごとを破る」側面に肯定的意図があることが多いようです。
例えば、「自分だけの時間」とか「他人の目をきにしない場所」とかの象徴として。
「噛む」ことには怒りや不満を解消す意図が多い傾向もあります。
どうも飲食では、普段あまり気にかけられたり、他人と比較したりしないせいか、
個人的な趣向が強く反映されやすい部分があるようです。
自分の好きな食べ物とか、いつも食べるものとかを
他人と話し合うケースは多くないでしょうから。
そんな中で習慣化されているものには、
かなり個人的な意味が出てくるのだろうと思います。
飲食の意味は大きいことを実感します。
11日は成人式帰りの若者を多数見かけました。
正月ムードも街中から消え始め、そろそろ節分の方向に商戦がシフトしているようです。
仕事も始まり、生活のリズムやパターンが、
日常に戻ってきた人々が多いのではないかと思います。
僕の中も普段通りの雰囲気になってきているようですが、
僕にとって正月ムードが強く影響するのは食生活の部分。
正月特有の食事内容もさることながら
実家で食事をするということ自体が、僕にとっては普段と違いがあるんです。
セミナー中に飴を食べることがある以外は、普段あまり間食をしないのに
実家に帰ると、なんとなく色々と食べることが多い気がします。
食事の量も増えていると思います。
普段よりも満腹感を強く感じるところまで食べている。
ところで、NLPやエリクソン派の催眠療法では、
人の全ての振る舞いの裏には『肯定的意図』があると考えます。
意識では嫌だと思っている困った悪習慣や行動パターンのようなものでも
無意識では自分自身のために役立とうとする意図がある、と。
良かれと思ってやっている動機があるということです。
その意味で言うと、僕が実家にいるときに普段よりも食べる量が増えるというのにも
その裏側に肯定的意図があると考えられるわけです。
「食べる」ということに関して、肯定的意図は一概には言えないのですが、
「噛む」、「味わう」、「飲み込む」、「自分の中に取り込む」など
食べるプロセスを意味づけとして分類していくと、
それぞれ違った肯定的意図を持っている可能性があります。
僕の場合、普段の食事は「味わう」の度合いが高いんですが、
実家での食事では同じ味のものでも食べ続けられるようになるので
「自分の中に取り込む」の意味合いが高いと感じられます。
で、その側面で肯定的意図を探ってみると、
そこには「母の愛情を受け取る」という意味合いがあることに気づきます。
まぁ、実際には何年も前に気づいていたことですから、
そのことを意識してからは食べる量をコントロールするようにはなったんですが。
より感謝の気持ちを強く意識するようにもなりましたし。
どうやら、この「食べる」の中の「自分の中に取り込む」の意味合いは
今までに関わってきたケースを振り返っても「愛情」に関係することが多いようです。
与えてもらえる食べ物というのは母乳から始まって「愛」の象徴になるのかもしれません。
同じように飲食に関わることでも、その食べ物が特定されている場合には
もう少し違った意味合いを持つことがあります。
チョコレートが止められないとか、仕事帰りに必ずお菓子を買って帰るとか。
自分の中で、幼少期の家庭でのルールや世間一般の常識として捉えられているものに
違反するような行動が続いている場合には、
その「決まりごとを破る」側面に肯定的意図があることが多いようです。
例えば、「自分だけの時間」とか「他人の目をきにしない場所」とかの象徴として。
「噛む」ことには怒りや不満を解消す意図が多い傾向もあります。
どうも飲食では、普段あまり気にかけられたり、他人と比較したりしないせいか、
個人的な趣向が強く反映されやすい部分があるようです。
自分の好きな食べ物とか、いつも食べるものとかを
他人と話し合うケースは多くないでしょうから。
そんな中で習慣化されているものには、
かなり個人的な意味が出てくるのだろうと思います。
飲食の意味は大きいことを実感します。
2010年01月10日
「いらっしゃいませ」の対象
年始に家電量販店に行きました。
僕も『iPod』ぐらい持っておこうかなぁ、なんて思い始めたところです。
僕が買い物に行くことは多分、あまり多いほうではないと客観的に捉えていますが、
それでも街中に出て、店の中を見て回ることぐらいはあります。
一番多いのは書店ですが、書道用品店も結構見ている気がします。
文房具や雑貨などで面白いものを探したりすることもあったり。
僕がウロウロしていて心地よく感じられるのは、
店員に放ったらかしにしてもらえる所。
何か聞きたいときに店員がいないのは困りますが、
余計なことを言われるのが嫌いなんでしょう。
家電量販店だと積極的に商品の説明をしようとする店員がいます。
それが詳しければ良いんですが、質問しても答えられず、
商品説明に書かれていることしか話さなかったりすると不満が高まります。
ですから、僕が実際に商品の購入を考えている時には、まず店員の観察をして、
詳しそうな人を見つけてから、こちら側で必要な情報を聞き出せるように
質問の仕方を工夫していくことになります。
これもまた、コミュニケーションの勉強をしている成果が感じられる場面ですね。
コミュニケーションという観点からすると、
販売員の意識の中に決定的に欠けているものがあるように思えてきます。
それは「何のために話しかけてくるのか」という部分。
意図が本人の中で明確になっていないんです。
お笑い芸人の「柳原可奈子」がギャル風アパレル店員のモノマネで有名になりましたが、
あのぐらい強調されるほどに特殊な対応の仕方をしているということでしょう。
何かの形のようなものがあると感じられます。
店の前を通りがかるだけでも聞こえてくる
「いらっしゃいませー。どうぞご覧くださーい」
の声に至っては、誰に指導されているんだか、決まり切った声のトーンです。
おそらく、見よう見真似というか、知らないうちに植え付けられたイメージが
幅広く浸透してしまっているのが現状でしょう。
電車の車掌や駅員が独特の声でアナウンスをするのも、
デパートの呼び出しのアナウンスが鼻に抜けたような声になっているのも、
アメ横の店員がダミ声で「安いよ、安いよ、1000円だよ」と言っているのも、
羽田空港の土産物屋の店員の声が全員似ているのも、
いつの間にか似せてしまった共通イメージが元になっているんだろうと思います。
似てくることにはメリットもあります。
その雰囲気を作り出し、いつも通りの場面にアンカリングされていきます。
通りすがりの人さえも、買い物モードに入れる効果は期待できるかもしれません。
しかし、あまりにも無条件に典型的なイメージを真似していくというのは
同時に「自分の頭で考えなくさせてしまう」デメリットも持ち合わせます。
なぜ、そうするのか。
なんのために、そうしているのか。
もっと上手くいくためには、どんな工夫ができるか。
そうした見方を奪っていくリスクも含んでいるはずです。
本来、「いらっしゃいませ」は来店時のお客様に対して
他にもある色々な店の中から、自分のいる店を選んで足を運びいれてくれたことへ
感謝の気持ちを込めたメッセージじゃないでしょうか。
「どうぞ、店の中に入ってきてください」というニュアンスで
「いらっしゃい」を使うこともあるかもしれませんが、
多くの場合、店に入ってくるタイミングで言われる言葉ですから
「ようこそ当店へいらっしゃいました」の感謝が含まれるように思えます。
ということは、そのお客様のほうを見て、その人に対して伝えるメッセージでしょう。
店に入ってきた特定のお客様に対して、その人のために発せられる言葉のはずです。
にも関わらず、多くの店で連発されるあの「いらっしゃいませー」は
誰に向けて言われている言葉かが不明確です。
とりあえず声が出ているほうが元気な印象があるとでもいうのでしょうか。
その「いらっしゃいませ」を一日止めてみたときに、どんな結果になるのか、
いつもと違う声のトーンで言ってみたときに、どんな結果になるのか、
曖昧な発音で「イラン参戦」とか「ルパン三世」とか言ってみたらどうなるのか、
などと試行錯誤をした結論が今の形なら構いません。
それ以外の方法を試すこともなく、決まり切った方法だけを
当然のように続けていくというのに、僕は疑問を感じてしまいます。
個人的には、あの「いらっしゃいませー」「ご覧下さーい」の連発は、
野球部が練習中に「バッチコーイ」「さぁこーい」と声出しをしている光景に
ソックリな印象を受けてしまいます。
誰かが「いらっしゃいませー」と言った後で、別の店員が声を出したりすると、
それはもう野球部の声出しと同じように思えて笑いが込み上げてくるぐらいです。
どうも、アパレル販売員の研修をしたこともあってか、
店員のコミュニケーションの仕方には色々と意識が向いてしまいます。
買い物に行くよりも、店員を見に行っているぐらいに
人の動きのほうが気になるんです。
そんな中、先日、ある一言が非常に強く印象に残りました。
好意的な印象として、です。
それは店員の些細な一言。
微妙な言い回しの違いなんですが、その裏側にあるスタンスが感じられるものでした。
「そちら、とても綺麗なデザインになっていますよ」
この断言の仕方。
謙虚な情報提供であれば
「そちら、とても綺麗なデザインになっております」
という具合でしょうか。
まぁ、これは耳にすることもあります。
これでは雰囲気として、何か語りかけようとして様子を伺う自信の無さが感じられる。
また、Yesセットのつもりなのか、同意を取って続きを期待しているのか、
「そちら、とても綺麗なデザインですよね?」
と無理矢理に会話をしかけてくる方法も、良く耳に入ってきます。
これはお客様本人が「綺麗なデザイン」と感じていない場合には
「No」のメッセージを生み出してしまいますからリスクもあるでしょう。
デザインじゃなくて色を見ているのであれば、もうハズレですから。
その点、「そちら、とても綺麗なデザインになっていますよ」という言葉は
専門家としての主観が無責任なぐらい断言されています。
「私は、そのデザインが綺麗だと思いますよ」と
第三者の意見を教えてくれているだけ。
「お客様ご自身がどう思うかは知りませんけど」のようなニュアンスを受けます。
無理してお客様の世界の内側に入って行こうとしないようでした。
そのことがプロ意識や、その商品の専門家としての自信を感じさせ、
暗に「お目が高いですね」と言っているような印象さえ伝えているように思えます。
細かい一言でさえも工夫する余地はあるかもしれない、ということです。
自分の振舞い、行動の意図を明確にしておけば
先入観に囚われずに、より良くするための工夫ができる。
知らず知らずのうちに身につけていくコミュニケーションの方法だからこそ
1つ1つを自覚しておく努力が大切ではないでしょうか。
僕も『iPod』ぐらい持っておこうかなぁ、なんて思い始めたところです。
僕が買い物に行くことは多分、あまり多いほうではないと客観的に捉えていますが、
それでも街中に出て、店の中を見て回ることぐらいはあります。
一番多いのは書店ですが、書道用品店も結構見ている気がします。
文房具や雑貨などで面白いものを探したりすることもあったり。
僕がウロウロしていて心地よく感じられるのは、
店員に放ったらかしにしてもらえる所。
何か聞きたいときに店員がいないのは困りますが、
余計なことを言われるのが嫌いなんでしょう。
家電量販店だと積極的に商品の説明をしようとする店員がいます。
それが詳しければ良いんですが、質問しても答えられず、
商品説明に書かれていることしか話さなかったりすると不満が高まります。
ですから、僕が実際に商品の購入を考えている時には、まず店員の観察をして、
詳しそうな人を見つけてから、こちら側で必要な情報を聞き出せるように
質問の仕方を工夫していくことになります。
これもまた、コミュニケーションの勉強をしている成果が感じられる場面ですね。
コミュニケーションという観点からすると、
販売員の意識の中に決定的に欠けているものがあるように思えてきます。
それは「何のために話しかけてくるのか」という部分。
意図が本人の中で明確になっていないんです。
お笑い芸人の「柳原可奈子」がギャル風アパレル店員のモノマネで有名になりましたが、
あのぐらい強調されるほどに特殊な対応の仕方をしているということでしょう。
何かの形のようなものがあると感じられます。
店の前を通りがかるだけでも聞こえてくる
「いらっしゃいませー。どうぞご覧くださーい」
の声に至っては、誰に指導されているんだか、決まり切った声のトーンです。
おそらく、見よう見真似というか、知らないうちに植え付けられたイメージが
幅広く浸透してしまっているのが現状でしょう。
電車の車掌や駅員が独特の声でアナウンスをするのも、
デパートの呼び出しのアナウンスが鼻に抜けたような声になっているのも、
アメ横の店員がダミ声で「安いよ、安いよ、1000円だよ」と言っているのも、
羽田空港の土産物屋の店員の声が全員似ているのも、
いつの間にか似せてしまった共通イメージが元になっているんだろうと思います。
似てくることにはメリットもあります。
その雰囲気を作り出し、いつも通りの場面にアンカリングされていきます。
通りすがりの人さえも、買い物モードに入れる効果は期待できるかもしれません。
しかし、あまりにも無条件に典型的なイメージを真似していくというのは
同時に「自分の頭で考えなくさせてしまう」デメリットも持ち合わせます。
なぜ、そうするのか。
なんのために、そうしているのか。
もっと上手くいくためには、どんな工夫ができるか。
そうした見方を奪っていくリスクも含んでいるはずです。
本来、「いらっしゃいませ」は来店時のお客様に対して
他にもある色々な店の中から、自分のいる店を選んで足を運びいれてくれたことへ
感謝の気持ちを込めたメッセージじゃないでしょうか。
「どうぞ、店の中に入ってきてください」というニュアンスで
「いらっしゃい」を使うこともあるかもしれませんが、
多くの場合、店に入ってくるタイミングで言われる言葉ですから
「ようこそ当店へいらっしゃいました」の感謝が含まれるように思えます。
ということは、そのお客様のほうを見て、その人に対して伝えるメッセージでしょう。
店に入ってきた特定のお客様に対して、その人のために発せられる言葉のはずです。
にも関わらず、多くの店で連発されるあの「いらっしゃいませー」は
誰に向けて言われている言葉かが不明確です。
とりあえず声が出ているほうが元気な印象があるとでもいうのでしょうか。
その「いらっしゃいませ」を一日止めてみたときに、どんな結果になるのか、
いつもと違う声のトーンで言ってみたときに、どんな結果になるのか、
曖昧な発音で「イラン参戦」とか「ルパン三世」とか言ってみたらどうなるのか、
などと試行錯誤をした結論が今の形なら構いません。
それ以外の方法を試すこともなく、決まり切った方法だけを
当然のように続けていくというのに、僕は疑問を感じてしまいます。
個人的には、あの「いらっしゃいませー」「ご覧下さーい」の連発は、
野球部が練習中に「バッチコーイ」「さぁこーい」と声出しをしている光景に
ソックリな印象を受けてしまいます。
誰かが「いらっしゃいませー」と言った後で、別の店員が声を出したりすると、
それはもう野球部の声出しと同じように思えて笑いが込み上げてくるぐらいです。
どうも、アパレル販売員の研修をしたこともあってか、
店員のコミュニケーションの仕方には色々と意識が向いてしまいます。
買い物に行くよりも、店員を見に行っているぐらいに
人の動きのほうが気になるんです。
そんな中、先日、ある一言が非常に強く印象に残りました。
好意的な印象として、です。
それは店員の些細な一言。
微妙な言い回しの違いなんですが、その裏側にあるスタンスが感じられるものでした。
「そちら、とても綺麗なデザインになっていますよ」
この断言の仕方。
謙虚な情報提供であれば
「そちら、とても綺麗なデザインになっております」
という具合でしょうか。
まぁ、これは耳にすることもあります。
これでは雰囲気として、何か語りかけようとして様子を伺う自信の無さが感じられる。
また、Yesセットのつもりなのか、同意を取って続きを期待しているのか、
「そちら、とても綺麗なデザインですよね?」
と無理矢理に会話をしかけてくる方法も、良く耳に入ってきます。
これはお客様本人が「綺麗なデザイン」と感じていない場合には
「No」のメッセージを生み出してしまいますからリスクもあるでしょう。
デザインじゃなくて色を見ているのであれば、もうハズレですから。
その点、「そちら、とても綺麗なデザインになっていますよ」という言葉は
専門家としての主観が無責任なぐらい断言されています。
「私は、そのデザインが綺麗だと思いますよ」と
第三者の意見を教えてくれているだけ。
「お客様ご自身がどう思うかは知りませんけど」のようなニュアンスを受けます。
無理してお客様の世界の内側に入って行こうとしないようでした。
そのことがプロ意識や、その商品の専門家としての自信を感じさせ、
暗に「お目が高いですね」と言っているような印象さえ伝えているように思えます。
細かい一言でさえも工夫する余地はあるかもしれない、ということです。
自分の振舞い、行動の意図を明確にしておけば
先入観に囚われずに、より良くするための工夫ができる。
知らず知らずのうちに身につけていくコミュニケーションの方法だからこそ
1つ1つを自覚しておく努力が大切ではないでしょうか。
2010年01月07日
本マニア
先日、都内の少し大き目な本屋に行きました。
学生時代に良く通っていた店に久しぶりに行ったんです。
久しぶりに行ったその店内には、一人の中年男性がウロウロしていました。
店員は決まった服装をしているのに、その人は普通のスーツ姿。
でも胸には書店のバッジがついているんです。
どうも店の人らしい。
が、他の店員とは扱いが違う様子。
最初は本社の人が視察でもしているのかと思っていました。
ところが。
僕が探している数冊の本についてカウンターで尋ねたところ、
カウンター内のアルバイト店員が、その男性を呼んだのです。
そして、その人に本のタイトルを伝えると、
そのスーツ姿の店員らしき人は何も見ることなくスラスラと話し始めました。
これと、これは在庫切れです。
これは他の店舗にあるかもしれないので、ちょっと調べてみます。
…そんな感じでパソコンを使って調べ始めました。
一般的な書店では、書店内の在庫を調べる段階でパソコンによる検索をします。
検索結果を元に本棚を探すところが店員の腕の見せ所といった感じでしょう。
良くても倉庫に探しに行くぐらい。
雑な場合には「この場所になければ無いですね」と一言なんていうことも。
そういうのと比べると圧倒的に詳しいんです。
まぁ、人気のある本だったのかもしれませんが、
本の題名だけで店内の3フロアにあるかどうかが分かるというのは
相当よく店の事情を知っていて、本の知識もなければいけないはずです。
あいにく、僕が探していた本は全て在庫がなかったようで、
その人はパソコンで調べた結果に関しても詳しく教えてくれました。
どの本が出版社の倉庫にある可能性があって、
どの本が絶版になっていて、どの本が出版社の返品待ちの状態か、
などと、手に入る可能性まで教えてくれたんです。
人気のある本の場合には、印刷の状況次第で入荷待ちになることもあるし、
絶版の本であっても、出版社の倉庫に置かれている可能性はゼロではない、と。
普通の書店や、amazonなどのオンライン書店であれば
「絶版」とか「在庫なし」という情報は知ることができても、
それが手に入る可能性があるかどうかまでは教えてもらえません。
一般的には、店員に尋ねても「取り寄せますか?」という返答が返ってくるか、
「もう絶版になっているみたいですね」と言われるかぐらいでしょう。
でも、その人は違いました。
その場ですぐに対応をして、手に入るのかどうか、どれくらいの期間がかかるのか、といった情報まで教えてくれました。
それも短時間で、です。
今回、僕の探していた本は全て在庫切れだったので諦めて帰りましたが、
もしかするとamazonの中古でプレミア価格になっている本も、
その人に聞けば、出版社の倉庫に残っている数冊から手に入るかもしれません。
在庫のある本で、そこそこ有名なものであれば
その人は迷わずに本棚から見つけ出してくれそうな雰囲気も感じました。
おそらく、書店コンシェルジュとでも言いますか、
売り場担当のエキスパートなんだろうと思います。
本屋にも、こういう仕事の人が出てきたようですね。
本のソムリエのような立場をとっている書店も聞いたことがありますが、
どちらも、ただ知っているだけでは成り立たない気がします。
本が好きなんでしょう。
まぁ、僕が質問したその人の場合、本好きの傾向が少しマニアックな感じもあって
必要以上のことを楽しそうに教えてくれている印象もありましたが…。
自分の扱う商品やサービスが好きな人というのは
その言動から発せられるメッセージが違う気がします。
本屋に勤める人は、ある程度、本が好きだから仕事にしているのだろうとは思いますが、
日々の業務や仕組みの中で、その気持ちが表に出にくくなってくることがあるようです。
もちろん、それは本屋に限ったことではない。
自分が好きな部分があったから選んだ仕事であっても
色々な要素の影響を受けて「好き」な気持ちが感じにくくなることはあるものでしょう。
書店のコンシェルジュも、本のソムリエも、
本が大好きというメッセージを前面に発信しているように感じます。
本が好きで本を買いに行く人たちは、きっと
そういう本好きの店員から発信されるメッセージを
心のどこかで嬉しく受け取っているんじゃないでしょうか。
店の中では他の店員たちからチョット浮いたような印象でしたが、
本好きの客からすると、そんな人がフロアにいるだけで
いつも行かない本にも足を運んでみたくなるような存在感があるかもしれません。
今度は多少、無理を言ってみようかなんて思っています。
学生時代に良く通っていた店に久しぶりに行ったんです。
久しぶりに行ったその店内には、一人の中年男性がウロウロしていました。
店員は決まった服装をしているのに、その人は普通のスーツ姿。
でも胸には書店のバッジがついているんです。
どうも店の人らしい。
が、他の店員とは扱いが違う様子。
最初は本社の人が視察でもしているのかと思っていました。
ところが。
僕が探している数冊の本についてカウンターで尋ねたところ、
カウンター内のアルバイト店員が、その男性を呼んだのです。
そして、その人に本のタイトルを伝えると、
そのスーツ姿の店員らしき人は何も見ることなくスラスラと話し始めました。
これと、これは在庫切れです。
これは他の店舗にあるかもしれないので、ちょっと調べてみます。
…そんな感じでパソコンを使って調べ始めました。
一般的な書店では、書店内の在庫を調べる段階でパソコンによる検索をします。
検索結果を元に本棚を探すところが店員の腕の見せ所といった感じでしょう。
良くても倉庫に探しに行くぐらい。
雑な場合には「この場所になければ無いですね」と一言なんていうことも。
そういうのと比べると圧倒的に詳しいんです。
まぁ、人気のある本だったのかもしれませんが、
本の題名だけで店内の3フロアにあるかどうかが分かるというのは
相当よく店の事情を知っていて、本の知識もなければいけないはずです。
あいにく、僕が探していた本は全て在庫がなかったようで、
その人はパソコンで調べた結果に関しても詳しく教えてくれました。
どの本が出版社の倉庫にある可能性があって、
どの本が絶版になっていて、どの本が出版社の返品待ちの状態か、
などと、手に入る可能性まで教えてくれたんです。
人気のある本の場合には、印刷の状況次第で入荷待ちになることもあるし、
絶版の本であっても、出版社の倉庫に置かれている可能性はゼロではない、と。
普通の書店や、amazonなどのオンライン書店であれば
「絶版」とか「在庫なし」という情報は知ることができても、
それが手に入る可能性があるかどうかまでは教えてもらえません。
一般的には、店員に尋ねても「取り寄せますか?」という返答が返ってくるか、
「もう絶版になっているみたいですね」と言われるかぐらいでしょう。
でも、その人は違いました。
その場ですぐに対応をして、手に入るのかどうか、どれくらいの期間がかかるのか、といった情報まで教えてくれました。
それも短時間で、です。
今回、僕の探していた本は全て在庫切れだったので諦めて帰りましたが、
もしかするとamazonの中古でプレミア価格になっている本も、
その人に聞けば、出版社の倉庫に残っている数冊から手に入るかもしれません。
在庫のある本で、そこそこ有名なものであれば
その人は迷わずに本棚から見つけ出してくれそうな雰囲気も感じました。
おそらく、書店コンシェルジュとでも言いますか、
売り場担当のエキスパートなんだろうと思います。
本屋にも、こういう仕事の人が出てきたようですね。
本のソムリエのような立場をとっている書店も聞いたことがありますが、
どちらも、ただ知っているだけでは成り立たない気がします。
本が好きなんでしょう。
まぁ、僕が質問したその人の場合、本好きの傾向が少しマニアックな感じもあって
必要以上のことを楽しそうに教えてくれている印象もありましたが…。
自分の扱う商品やサービスが好きな人というのは
その言動から発せられるメッセージが違う気がします。
本屋に勤める人は、ある程度、本が好きだから仕事にしているのだろうとは思いますが、
日々の業務や仕組みの中で、その気持ちが表に出にくくなってくることがあるようです。
もちろん、それは本屋に限ったことではない。
自分が好きな部分があったから選んだ仕事であっても
色々な要素の影響を受けて「好き」な気持ちが感じにくくなることはあるものでしょう。
書店のコンシェルジュも、本のソムリエも、
本が大好きというメッセージを前面に発信しているように感じます。
本が好きで本を買いに行く人たちは、きっと
そういう本好きの店員から発信されるメッセージを
心のどこかで嬉しく受け取っているんじゃないでしょうか。
店の中では他の店員たちからチョット浮いたような印象でしたが、
本好きの客からすると、そんな人がフロアにいるだけで
いつも行かない本にも足を運んでみたくなるような存在感があるかもしれません。
今度は多少、無理を言ってみようかなんて思っています。
2010年01月05日
サブモダリティに関しての難しい話
僕は色々なことを自分の中でシッカリと理解して
全ての情報に矛盾がないように整理するのが好きなので、
セミナーでお伝えしているNLPというものに関しても
誰かが説明したことを鵜呑みにすることは好きではありません。
そういうスタンスで行くと困ることも出てきます。
最初に作られた理論的説明や、大元の団体で決められた説明の仕方では
納得がいかないところが多数出てきてしまいます。
学術的な視点からすると、そうした理論というのは、より公知のものとして
新たな情報を統合する形でブラッシュアップされていくべきだと思いますが、
NLPは決して学術的な意味でオープンになったものではなく、
資格ビジネスとしての意味合いを含んでいますから扱いが違ってくるわけです。
最近の僕は、NLPの資格に必要な内容の説明と、
他の分野の情報と照らし合わせながらNLPの理論を
突き詰めて理解したときに見えてくる内容と、
両方の間のギャップを強く感じています。
まぁ、相当強いレベルで不満を持っていると言えるでしょう。
憤りにすら近い。
もっと正確に理解しようという観点があっても良いように思うんです。
そのように不正確さを感じざるを得ない例として
サブモダリティという部分があります。
NLPでサブモダリティと呼ばれるものは、
主に五感からなるモダリティで区別される情報のことを言います。
例えば、視覚のモダリティで区別される情報として
大きさや色、形、明るさ、数…などがあるとされます。
実際の感覚器官としての視覚を考えると、眼は光を知覚するものですから、
明るさや色合いの情報が最も直接的なものと言えるはずです。
で、その色や明るさの範囲を『大きさ』として捉え、
他と区別される範囲を『形』という「まとまり」として捉えるようになる。
眼だけの情報からでは、「どこの位置に、どんな光を放っている部分があるか」
しか分からないわけですが、そこに触覚の情報が組み合わされて、
眼から確認される色合いの範囲と、手で触れた感覚とを照らし合わせて
形を識別するようになっていくと考えられます。
例えば、ペットボトルのような形を識別できるのは
その物体からの光の反射を視覚で知覚した情報と
手で触ったときに他の空間と違うものとして知覚した情報とを組み合わせて
ペットボトルの範囲を『形』として他の空間と区別できるようになる、ということです。
そうした視覚の情報の中で「他と違う範囲」として区別される部分と
触覚の情報の中で「他と違う範囲」として区別される部分とを組み合わせて
『形』というものを学習していき、その結果として
視覚情報だけでも「物の『形』の範囲」が認知できるようになっていく。
経験を通じて、視覚情報だけから『形』を捉えられるようになったら、
その『形』の経験を積み重ねていくことで、丸とか四角とかいった
より抽象的な図形も認知できるようになっていくと考えられます。
何か特定の「もの」の形を捉える場合と
「この範囲に、こんな色で、こんな明るさの所がある」と形を捉える場合では
意味合いが全く違うわけです。
ペットボトルの形を意識するとしたら、
それは既に「ペットボトル」という「もの」を認識したうえで
その形を意識していると言えます。
形というのは、それを抽象化した情報と照らし合わせて理解されることが多いため
純粋な感覚情報ではないはずだと思います。
NLPの中のある流派では、
意味づけされる前の五感で感じられた直接の情報を「一次情報」
言語によって意味づけされた情報を「二次情報」
と呼ぶようですが、感覚器官の性質と、それをベースにした認知の仕組みを考えれば
この区別の仕方は不十分なように思えてきます。
形は視覚でとらえられる感覚情報(一次情報)のようでもありますが、
実際には、経験を通じて抽象化された『形』のパターンを認識して
それと照らし合わせる形で識別されるわけですから
本人が意識の中で自覚するかどうかは別にして、既に意味づけがされているものなんです。
そして、その形を認知した上で、その形の意味を捉えると
その意味を持ったグループに『数』が数えられるようになります。
例えば、皿の上に「おにぎり」が2個と「ゆで卵」が1個ずつ乗ったものが3皿ある
というケースを考えてみます。
「おにぎり」というものが認識できるのは、空間中に「おにぎり」のある範囲が、
「おにぎり」特有の色や明るさを光の情報として届けるからです。
過去の経験と照らし合わせて、そのような視覚情報を持ったものを
「おにぎり」と認識する。
同時に、この「おにぎり」にも三角形という形を認知しているでしょう。
このケースで目に入っているものを
「2個のおにぎりと、1個のゆで卵」という意味づけで捉えることもできるし、
「三角形のものが2個と、丸いものが1個」という意味づけで捉えることもできます。
眼に入った情報を、どの意味のグループに分類して識別するかの違いです。
さらに、その意味グループを別のものにすると
「3つの食べ物」と捉えることもできるでしょう。
皿の上のものを一まとめにして「おにぎりセット」と捉えるなら
「3つのおにぎりセット」として数えることもできます。
数というのは、何かの意味を持ったグループを意識することで
捉え方が変わってくるものだということです。
つまり、数は五感で識別するものではなく、
五感で感じ取った情報を、意味を持ったグループとして解釈して、
そのグループに分類されるものを意識することで
初めて捉えられる情報だということです。
『数』は抽象度が高いとも言えます。
抽象的な意味グループを理解していないと認識できないものなわけです。
そう考えると、『数』というものを「サブモダリティ」の中に入れるかどうかは
よく議論する必要が出てくると思います。
少なくとも、『数』を「デジタルなサブモダリティ」などと
都合のいい言葉で説明するのは問題があると僕は考えます。
「デジタル」という時点で感覚情報ではなく
その感覚情報の組み合わせを抽象化した意味の情報になるからです。
それは感覚器官で区別される情報ではないでしょう。
僕の考えでは、全ての感覚器官で共通して識別される情報があって
それがベースになっている文字通りの「一次情報」ということになります。
共感覚的に捉えることのできる情報とも言えます。
そうした感覚ベースの情報として
「範囲」、「範囲のエッジの鋭さ」、「量(密度)」、
「エネルギーとしての振動数(周波数)」、「エネルギーの強さ」
などが想定されます。
各感覚器官で捉えられる、これらのベースの情報に対して
それぞれの感覚器官ごとに意味合いが与えられます。
視覚であれば、光の量は「色合いの鮮明さ」に、エネルギーの強さは「明るさ」に、
周波数は「色」に、といった具合です。
その次の段階として、これらの感覚情報のパターンを捉えた識別がなされます。
視覚であれば、「範囲」と「エッジ」のパターンに対して「形」という意味が、
光の「量(密度)」のパターンに対して「透明度」という意味が与えられ、
聴覚であれば、「範囲」のパターンに対して
「音の長さ」や「リズム」という意味が与えられるわけです。
どうやら動物は、こうしたパターン認識の能力を持っているようなので
こうしたパターンの知覚までは感覚ベースの情報と呼んで良い気がします。
実際、この段階では、すでに感覚情報そのものだけではなく、
経験を通じて区別できるようになってきたパターンを利用しますので
厳密には、感覚器官でインプットされた情報そのままを知覚してはいないはずです。
ちなみに、よく「あるがままに感じる」などという言い方をしますが、
本当に感覚器官の情報ベースで「あるがまま」に感じていたら
「形」も「立体感」も「質感」も「リズム」も「音色」も感じられなくなるでしょう。
何かが目や耳に入ってきているという程度だと推測されます。
脳の特定の部位だけを損傷させると「あるがまま」に知覚できるかもしれませんが、
ほとんど全ての日常生活が出来なくなると考えられます。
感覚器官を通じて物事を認知できているのは
パターン認識能力と経験とに支えられているわけです。
感覚器官で捉えた情報に対して二次的な処理が加わっているものの、
感覚に付随して整理されているという意味では
ここの段階までは「サブモダリティ」と呼んで良いと思います。
その次の段階は、こうした感覚情報の組み合わせに対して
意味を与えていく抽象化のプロセスです。
この先は細かく段階的に見ていくよりも、何に注目して分類するかというほうが重要で、
複雑に入り組み合った概念のネットワークが作られるところと言えます。
細かい抽象化の段階を全てまとめて、意味の分類をする段階と考えます。
例えば、
リンゴ、柿、ミカン、イチゴ、メロン、キャベツ、キュウリ、ニンジン
という集合を考えたとき、
「丸いもの」と「細長いもの」に分類することもできれば
「野菜」と「果物」に分類することも、「色」によって分類することもできる。
このように意味の分類は、何に注目するかで違ってくるわけです。
こうした複雑なレベルの意味分類の段階にくると、
物事の認識には、五感で知覚される感覚情報よりも
過去の経験で作られたパターンの意味のほうが重要になってきます。
「どの範囲に、どんな色の光が、どれくらいの量あるか」
という感覚情報の捉え方を細かく意識することなく、
眼に入った情報を過去の意味のパターンに分類して
「リンゴがあるぞ」などと意識する。
一般的に、人はこの意味のグループを捉える段階で日常生活を送ります。
コミュニケーションで使われる言語も、この意味のグループに対して
決まった音のグループとしての「発音」と
決まった形のグループとしての「文字」を当てはめて作られたものと言えます。
「数」というのも、この意味のグループに対して当てはめられたものですから
感覚情報として捉えられるものではなく、
どちらかというと言語に近い情報だと考えられます。
より正確にいえば、「数学」という言語体系の中の概念の1つでしょう。
以上のように、感覚器官が外界の情報に反応して識別する情報の段階、
そのパターンを識別して各感覚特有の「まとまり」を持った情報を識別する段階、
それらの感覚情報の組み合わせのパターンに「意味」を当てはめて
意味のグループの分類を識別する段階、
というプロセスを想定する考え方です。
「サブモダリティ」を考えることの意義は
「サブモダリティ」の組み合わせに対して「意味」を認識する
という部分にあるはずです。
人が意味のまとまりを捉えられるものは、
全てサブモダリティの組み合わせで説明ができる、と。
そう考えることで、言語活動さえも
感覚情報の処理の仕方として説明できるようになるはずなんです。
(その説明の仕方をするNLPの人を僕は見たことがありませんが)
NLPのテキストや書籍の中には
「サブモダリティを変えると、体験の意味が変わる」
というような表現があったりしますが、それも正確ではないでしょう。
意味そのものがサブモダリティの組み合わせのことなんですから。
そのサブモダリティが変われば、意味が変わるのは当然です。
「サブモダリティを変えて、違う体験の意味づけに変える」のほうが正確なはずです。
この「サブモダリティの組み合わせが意味になる」という考え方においては
意味を捉えた後でなければ認識できない『数』の要素は
サブモダリティと呼べないだろうと思うんです。
「サブモダリティとは何か?」ということをシッカリと考えていけば
いくら初期に決められた説明の仕方だからといって
修正する可能性も出てくる気がするんですが。
もちろん、現実的にNLPを利用していくことを考えた場合、
そんな細かい話は全くどうだって良いことです。
知らなくても問題ないし、意識する必要さえあまりないでしょう。
説明されたことを「そういうもんか」と思っておけば十分だと思います。
ところが、その十分に吟味されていない説明の仕方を正しいものとして取り上げ、
その情報を知っていることが資格取得の条件のように扱われてしまうと
僕の中には猛烈に拒否感が出てきてしまいます。
重要じゃないのなら詳しく触れずに誤魔化しておけば良いのに。
変に細かく扱おうとするから、しわ寄せが出てくるんじゃないでしょうか。
細かく説明しようとするなら、それ相応の吟味をして欲しいものです。
そもそも、バンドラーは細かく理論を説明しようという人ではない気がします。
使ってこそ意味があるというスタンスを感じます。
だったら、NLPのスキルと呼ばれるものを利用する目的においては
細かい説明なんてしないほうが良いと思うんです。
事実、バンドラーはそうやって活動をしている気がします。
なので、僕も区別をしています。
僕の中で矛盾がない説明の仕方は、決められた説明の仕方と違ってしまう。
NLPという枠の中では、決められた説明を優先しよう、と。
このブログの話はNLPの言葉を、他の情報と関連付けた説明の仕方。
NLPの話ではなく、僕が人間の認知のプロセスをどう理解しているか、という話です。
ただ、この細かい部分をシッカリと整理していくと
NLPの理論体系は様々な学術分野を繋ぎ合わせる境界領域として
結構活躍できるような気もするんです。
僕が細かいところにコダワリを持っているのは、
NLPという視点が非常に幅広く効果を発揮できると考えているから。
もっと活かせると思うからこそ残念さも募るのでしょうね。
全ての情報に矛盾がないように整理するのが好きなので、
セミナーでお伝えしているNLPというものに関しても
誰かが説明したことを鵜呑みにすることは好きではありません。
そういうスタンスで行くと困ることも出てきます。
最初に作られた理論的説明や、大元の団体で決められた説明の仕方では
納得がいかないところが多数出てきてしまいます。
学術的な視点からすると、そうした理論というのは、より公知のものとして
新たな情報を統合する形でブラッシュアップされていくべきだと思いますが、
NLPは決して学術的な意味でオープンになったものではなく、
資格ビジネスとしての意味合いを含んでいますから扱いが違ってくるわけです。
最近の僕は、NLPの資格に必要な内容の説明と、
他の分野の情報と照らし合わせながらNLPの理論を
突き詰めて理解したときに見えてくる内容と、
両方の間のギャップを強く感じています。
まぁ、相当強いレベルで不満を持っていると言えるでしょう。
憤りにすら近い。
もっと正確に理解しようという観点があっても良いように思うんです。
そのように不正確さを感じざるを得ない例として
サブモダリティという部分があります。
NLPでサブモダリティと呼ばれるものは、
主に五感からなるモダリティで区別される情報のことを言います。
例えば、視覚のモダリティで区別される情報として
大きさや色、形、明るさ、数…などがあるとされます。
実際の感覚器官としての視覚を考えると、眼は光を知覚するものですから、
明るさや色合いの情報が最も直接的なものと言えるはずです。
で、その色や明るさの範囲を『大きさ』として捉え、
他と区別される範囲を『形』という「まとまり」として捉えるようになる。
眼だけの情報からでは、「どこの位置に、どんな光を放っている部分があるか」
しか分からないわけですが、そこに触覚の情報が組み合わされて、
眼から確認される色合いの範囲と、手で触れた感覚とを照らし合わせて
形を識別するようになっていくと考えられます。
例えば、ペットボトルのような形を識別できるのは
その物体からの光の反射を視覚で知覚した情報と
手で触ったときに他の空間と違うものとして知覚した情報とを組み合わせて
ペットボトルの範囲を『形』として他の空間と区別できるようになる、ということです。
そうした視覚の情報の中で「他と違う範囲」として区別される部分と
触覚の情報の中で「他と違う範囲」として区別される部分とを組み合わせて
『形』というものを学習していき、その結果として
視覚情報だけでも「物の『形』の範囲」が認知できるようになっていく。
経験を通じて、視覚情報だけから『形』を捉えられるようになったら、
その『形』の経験を積み重ねていくことで、丸とか四角とかいった
より抽象的な図形も認知できるようになっていくと考えられます。
何か特定の「もの」の形を捉える場合と
「この範囲に、こんな色で、こんな明るさの所がある」と形を捉える場合では
意味合いが全く違うわけです。
ペットボトルの形を意識するとしたら、
それは既に「ペットボトル」という「もの」を認識したうえで
その形を意識していると言えます。
形というのは、それを抽象化した情報と照らし合わせて理解されることが多いため
純粋な感覚情報ではないはずだと思います。
NLPの中のある流派では、
意味づけされる前の五感で感じられた直接の情報を「一次情報」
言語によって意味づけされた情報を「二次情報」
と呼ぶようですが、感覚器官の性質と、それをベースにした認知の仕組みを考えれば
この区別の仕方は不十分なように思えてきます。
形は視覚でとらえられる感覚情報(一次情報)のようでもありますが、
実際には、経験を通じて抽象化された『形』のパターンを認識して
それと照らし合わせる形で識別されるわけですから
本人が意識の中で自覚するかどうかは別にして、既に意味づけがされているものなんです。
そして、その形を認知した上で、その形の意味を捉えると
その意味を持ったグループに『数』が数えられるようになります。
例えば、皿の上に「おにぎり」が2個と「ゆで卵」が1個ずつ乗ったものが3皿ある
というケースを考えてみます。
「おにぎり」というものが認識できるのは、空間中に「おにぎり」のある範囲が、
「おにぎり」特有の色や明るさを光の情報として届けるからです。
過去の経験と照らし合わせて、そのような視覚情報を持ったものを
「おにぎり」と認識する。
同時に、この「おにぎり」にも三角形という形を認知しているでしょう。
このケースで目に入っているものを
「2個のおにぎりと、1個のゆで卵」という意味づけで捉えることもできるし、
「三角形のものが2個と、丸いものが1個」という意味づけで捉えることもできます。
眼に入った情報を、どの意味のグループに分類して識別するかの違いです。
さらに、その意味グループを別のものにすると
「3つの食べ物」と捉えることもできるでしょう。
皿の上のものを一まとめにして「おにぎりセット」と捉えるなら
「3つのおにぎりセット」として数えることもできます。
数というのは、何かの意味を持ったグループを意識することで
捉え方が変わってくるものだということです。
つまり、数は五感で識別するものではなく、
五感で感じ取った情報を、意味を持ったグループとして解釈して、
そのグループに分類されるものを意識することで
初めて捉えられる情報だということです。
『数』は抽象度が高いとも言えます。
抽象的な意味グループを理解していないと認識できないものなわけです。
そう考えると、『数』というものを「サブモダリティ」の中に入れるかどうかは
よく議論する必要が出てくると思います。
少なくとも、『数』を「デジタルなサブモダリティ」などと
都合のいい言葉で説明するのは問題があると僕は考えます。
「デジタル」という時点で感覚情報ではなく
その感覚情報の組み合わせを抽象化した意味の情報になるからです。
それは感覚器官で区別される情報ではないでしょう。
僕の考えでは、全ての感覚器官で共通して識別される情報があって
それがベースになっている文字通りの「一次情報」ということになります。
共感覚的に捉えることのできる情報とも言えます。
そうした感覚ベースの情報として
「範囲」、「範囲のエッジの鋭さ」、「量(密度)」、
「エネルギーとしての振動数(周波数)」、「エネルギーの強さ」
などが想定されます。
各感覚器官で捉えられる、これらのベースの情報に対して
それぞれの感覚器官ごとに意味合いが与えられます。
視覚であれば、光の量は「色合いの鮮明さ」に、エネルギーの強さは「明るさ」に、
周波数は「色」に、といった具合です。
その次の段階として、これらの感覚情報のパターンを捉えた識別がなされます。
視覚であれば、「範囲」と「エッジ」のパターンに対して「形」という意味が、
光の「量(密度)」のパターンに対して「透明度」という意味が与えられ、
聴覚であれば、「範囲」のパターンに対して
「音の長さ」や「リズム」という意味が与えられるわけです。
どうやら動物は、こうしたパターン認識の能力を持っているようなので
こうしたパターンの知覚までは感覚ベースの情報と呼んで良い気がします。
実際、この段階では、すでに感覚情報そのものだけではなく、
経験を通じて区別できるようになってきたパターンを利用しますので
厳密には、感覚器官でインプットされた情報そのままを知覚してはいないはずです。
ちなみに、よく「あるがままに感じる」などという言い方をしますが、
本当に感覚器官の情報ベースで「あるがまま」に感じていたら
「形」も「立体感」も「質感」も「リズム」も「音色」も感じられなくなるでしょう。
何かが目や耳に入ってきているという程度だと推測されます。
脳の特定の部位だけを損傷させると「あるがまま」に知覚できるかもしれませんが、
ほとんど全ての日常生活が出来なくなると考えられます。
感覚器官を通じて物事を認知できているのは
パターン認識能力と経験とに支えられているわけです。
感覚器官で捉えた情報に対して二次的な処理が加わっているものの、
感覚に付随して整理されているという意味では
ここの段階までは「サブモダリティ」と呼んで良いと思います。
その次の段階は、こうした感覚情報の組み合わせに対して
意味を与えていく抽象化のプロセスです。
この先は細かく段階的に見ていくよりも、何に注目して分類するかというほうが重要で、
複雑に入り組み合った概念のネットワークが作られるところと言えます。
細かい抽象化の段階を全てまとめて、意味の分類をする段階と考えます。
例えば、
リンゴ、柿、ミカン、イチゴ、メロン、キャベツ、キュウリ、ニンジン
という集合を考えたとき、
「丸いもの」と「細長いもの」に分類することもできれば
「野菜」と「果物」に分類することも、「色」によって分類することもできる。
このように意味の分類は、何に注目するかで違ってくるわけです。
こうした複雑なレベルの意味分類の段階にくると、
物事の認識には、五感で知覚される感覚情報よりも
過去の経験で作られたパターンの意味のほうが重要になってきます。
「どの範囲に、どんな色の光が、どれくらいの量あるか」
という感覚情報の捉え方を細かく意識することなく、
眼に入った情報を過去の意味のパターンに分類して
「リンゴがあるぞ」などと意識する。
一般的に、人はこの意味のグループを捉える段階で日常生活を送ります。
コミュニケーションで使われる言語も、この意味のグループに対して
決まった音のグループとしての「発音」と
決まった形のグループとしての「文字」を当てはめて作られたものと言えます。
「数」というのも、この意味のグループに対して当てはめられたものですから
感覚情報として捉えられるものではなく、
どちらかというと言語に近い情報だと考えられます。
より正確にいえば、「数学」という言語体系の中の概念の1つでしょう。
以上のように、感覚器官が外界の情報に反応して識別する情報の段階、
そのパターンを識別して各感覚特有の「まとまり」を持った情報を識別する段階、
それらの感覚情報の組み合わせのパターンに「意味」を当てはめて
意味のグループの分類を識別する段階、
というプロセスを想定する考え方です。
「サブモダリティ」を考えることの意義は
「サブモダリティ」の組み合わせに対して「意味」を認識する
という部分にあるはずです。
人が意味のまとまりを捉えられるものは、
全てサブモダリティの組み合わせで説明ができる、と。
そう考えることで、言語活動さえも
感覚情報の処理の仕方として説明できるようになるはずなんです。
(その説明の仕方をするNLPの人を僕は見たことがありませんが)
NLPのテキストや書籍の中には
「サブモダリティを変えると、体験の意味が変わる」
というような表現があったりしますが、それも正確ではないでしょう。
意味そのものがサブモダリティの組み合わせのことなんですから。
そのサブモダリティが変われば、意味が変わるのは当然です。
「サブモダリティを変えて、違う体験の意味づけに変える」のほうが正確なはずです。
この「サブモダリティの組み合わせが意味になる」という考え方においては
意味を捉えた後でなければ認識できない『数』の要素は
サブモダリティと呼べないだろうと思うんです。
「サブモダリティとは何か?」ということをシッカリと考えていけば
いくら初期に決められた説明の仕方だからといって
修正する可能性も出てくる気がするんですが。
もちろん、現実的にNLPを利用していくことを考えた場合、
そんな細かい話は全くどうだって良いことです。
知らなくても問題ないし、意識する必要さえあまりないでしょう。
説明されたことを「そういうもんか」と思っておけば十分だと思います。
ところが、その十分に吟味されていない説明の仕方を正しいものとして取り上げ、
その情報を知っていることが資格取得の条件のように扱われてしまうと
僕の中には猛烈に拒否感が出てきてしまいます。
重要じゃないのなら詳しく触れずに誤魔化しておけば良いのに。
変に細かく扱おうとするから、しわ寄せが出てくるんじゃないでしょうか。
細かく説明しようとするなら、それ相応の吟味をして欲しいものです。
そもそも、バンドラーは細かく理論を説明しようという人ではない気がします。
使ってこそ意味があるというスタンスを感じます。
だったら、NLPのスキルと呼ばれるものを利用する目的においては
細かい説明なんてしないほうが良いと思うんです。
事実、バンドラーはそうやって活動をしている気がします。
なので、僕も区別をしています。
僕の中で矛盾がない説明の仕方は、決められた説明の仕方と違ってしまう。
NLPという枠の中では、決められた説明を優先しよう、と。
このブログの話はNLPの言葉を、他の情報と関連付けた説明の仕方。
NLPの話ではなく、僕が人間の認知のプロセスをどう理解しているか、という話です。
ただ、この細かい部分をシッカリと整理していくと
NLPの理論体系は様々な学術分野を繋ぎ合わせる境界領域として
結構活躍できるような気もするんです。
僕が細かいところにコダワリを持っているのは、
NLPという視点が非常に幅広く効果を発揮できると考えているから。
もっと活かせると思うからこそ残念さも募るのでしょうね。
2010年01月03日
思い出の枠組み
年末年始は実家に帰る人が多いようです。
久しぶりに生まれ育った土地へ帰ると、その場所の変化にも驚きます。
最近はパソコンやデジカメが普及したこともあり、
年賀状に写っている本人の写真が何よりの近況報告に見えたりもします。
そこに写った旧友の顔には、懐かしさと同時に
関わりが薄くなったことへの距離感も感じました。
僕の中では、研究職からコミュニケーション・心理の方面へ移ったことは
完全に繋がりを持っていて、別のことをしている印象は薄いのですが、
職を変える前後で関わってきた人々を思い返すと、そこには印象の違いがあります。
自分の中では一本道のようでも、他から見ると違って見える。
それは「ある時期で道が重なる人たちがいる」ということなのかもしれません。
幼稚園、小学校、中学校、高校…。
学校という環境の中で偶然に出会う人たちとは、
その学校の期間で、それぞれの人生の道のりが重なっていた。
その期間を過ぎれば、またそれぞれの道の向くほうへと離れていくのでしょう。
卒業とは、そんなイメージじゃないでしょうか。
職を変えるというのも同じようなものなのだろうと思います。
世の中全体の視点から見れば、僕のしている仕事も意外と普通のはずです。
多くの人が「そういう仕事の人もいるよね」と感じるようなもの。
ただ、それが僕の大学ぐらいから関わってきた人たちの範囲から見ると
その枠組みを飛び出るような特殊な印象を持つのかもしれません。
世の中全体という大きな枠組みで見れば当然の範囲のことが
その中の、ある小さな枠組みで見ると、枠の中に入らない。
その小さな枠の中にいては、枠の外のことは意識すらしないわけです。
逆に、その枠組みの外に出てしまった側の人も、
普段の状態では以前の枠組みのことを強くは意識しないでしょう。
その枠組みの中のものを意識することはあっても、
その中身のものは、更に大きな「自分」という枠組みの中で意識されます。
以前の枠組みそのものが意識されることは滅多にないんです。
そして、ふとしたタイミングで、その枠組みを呼び起されたとき
自分が以前の枠組みにいないことが自覚される。
例えば、以前の友人に再会したときとか。
年賀状を見たときとか。
人は当たり前のように、何かの枠組みの中で、ある期間を過ごします。
その後、その枠組みを卒業していく。
それぞれの人生の曲がりくねった道が、ある時期に近寄って、
重なったり、集まったりした部分ができる。
そこの周りに人は、枠組みを意識するのでしょう。
そこに実際に枠組みがあるかどうかは分かりません。
僕は、枠組みとは人が意識するだけのもののような気がします。
ただ、ある時期に近くの道を歩いた人がいたということ。
それを何かの枠に当てはめようとすると、区別が生まれるのかもしれません。
僕が、大学時代の友人からの年賀状を見て
懐かしさと同時に、距離の離れた寂しさに近い感じを味わったのは、
僕の中に以前の枠組みが意識されたからだろうと思います。
その気持ちに向き合ってみました。
…僕にとって、大学時代という枠組みは、
思い出の詰まった箱のようなものだった気がします。
僕の中で大切な時期であって、心の拠り所になっている部分を感じます。
心の支えの一部分ではあるけれど、とても大事な部分。
その部分が区別されているようです。
どうも、その箱を取っ払ってしまうと、
思い出が失われてしまいそうな感じがしていたみたいです。
箱の中の知人の顔は当時のまま。
僕は、当時の知人に会おうとするとき、
思い出の箱の中で会おうとしていたのかもしれません。
彼ら自身もその枠組みから出て、自分の道を進んでいるのですから、
もうその枠組みの中で関わる必要はないのに。
今度は、友人・知人たちの今の顔を見るために
今の彼らと会ってみたい気がしています。
久しぶりに生まれ育った土地へ帰ると、その場所の変化にも驚きます。
最近はパソコンやデジカメが普及したこともあり、
年賀状に写っている本人の写真が何よりの近況報告に見えたりもします。
そこに写った旧友の顔には、懐かしさと同時に
関わりが薄くなったことへの距離感も感じました。
僕の中では、研究職からコミュニケーション・心理の方面へ移ったことは
完全に繋がりを持っていて、別のことをしている印象は薄いのですが、
職を変える前後で関わってきた人々を思い返すと、そこには印象の違いがあります。
自分の中では一本道のようでも、他から見ると違って見える。
それは「ある時期で道が重なる人たちがいる」ということなのかもしれません。
幼稚園、小学校、中学校、高校…。
学校という環境の中で偶然に出会う人たちとは、
その学校の期間で、それぞれの人生の道のりが重なっていた。
その期間を過ぎれば、またそれぞれの道の向くほうへと離れていくのでしょう。
卒業とは、そんなイメージじゃないでしょうか。
職を変えるというのも同じようなものなのだろうと思います。
世の中全体の視点から見れば、僕のしている仕事も意外と普通のはずです。
多くの人が「そういう仕事の人もいるよね」と感じるようなもの。
ただ、それが僕の大学ぐらいから関わってきた人たちの範囲から見ると
その枠組みを飛び出るような特殊な印象を持つのかもしれません。
世の中全体という大きな枠組みで見れば当然の範囲のことが
その中の、ある小さな枠組みで見ると、枠の中に入らない。
その小さな枠の中にいては、枠の外のことは意識すらしないわけです。
逆に、その枠組みの外に出てしまった側の人も、
普段の状態では以前の枠組みのことを強くは意識しないでしょう。
その枠組みの中のものを意識することはあっても、
その中身のものは、更に大きな「自分」という枠組みの中で意識されます。
以前の枠組みそのものが意識されることは滅多にないんです。
そして、ふとしたタイミングで、その枠組みを呼び起されたとき
自分が以前の枠組みにいないことが自覚される。
例えば、以前の友人に再会したときとか。
年賀状を見たときとか。
人は当たり前のように、何かの枠組みの中で、ある期間を過ごします。
その後、その枠組みを卒業していく。
それぞれの人生の曲がりくねった道が、ある時期に近寄って、
重なったり、集まったりした部分ができる。
そこの周りに人は、枠組みを意識するのでしょう。
そこに実際に枠組みがあるかどうかは分かりません。
僕は、枠組みとは人が意識するだけのもののような気がします。
ただ、ある時期に近くの道を歩いた人がいたということ。
それを何かの枠に当てはめようとすると、区別が生まれるのかもしれません。
僕が、大学時代の友人からの年賀状を見て
懐かしさと同時に、距離の離れた寂しさに近い感じを味わったのは、
僕の中に以前の枠組みが意識されたからだろうと思います。
その気持ちに向き合ってみました。
…僕にとって、大学時代という枠組みは、
思い出の詰まった箱のようなものだった気がします。
僕の中で大切な時期であって、心の拠り所になっている部分を感じます。
心の支えの一部分ではあるけれど、とても大事な部分。
その部分が区別されているようです。
どうも、その箱を取っ払ってしまうと、
思い出が失われてしまいそうな感じがしていたみたいです。
箱の中の知人の顔は当時のまま。
僕は、当時の知人に会おうとするとき、
思い出の箱の中で会おうとしていたのかもしれません。
彼ら自身もその枠組みから出て、自分の道を進んでいるのですから、
もうその枠組みの中で関わる必要はないのに。
今度は、友人・知人たちの今の顔を見るために
今の彼らと会ってみたい気がしています。
2010年01月01日
新年
新年、あけましておめでとうございます。

今年も、なるべくブログを更新していくつもりです。
僕のブログは、自分の情報ネットワークの整理という目的がありますから
分かりやすく説明しようという趣旨のものではありません。
読みにくいこと、何を言いたいのか分かりにくいことなどあると思います。
ただ、僕の中ではホットな内容が文章化されるはずですので
進んでいる方向性みたいなものが読み取れる形になるのではないかと考えています。
また、今年はブログ、ニュースレター以外の記事も書くつもりでいます。
分かりやすさや内容の絞り方などは工夫が必要そうですね。
少しずつですが、方向性が見てきているような気もします。
その一方で、去年の今頃には予想していなかった興味を
一年の間に抱くことになったわけですから、
今年の自分の興味が何に向かうのかは、僕自身としても楽しみなところ。
色々な刺激をインプットしていきたいものです。

今年も、なるべくブログを更新していくつもりです。
僕のブログは、自分の情報ネットワークの整理という目的がありますから
分かりやすく説明しようという趣旨のものではありません。
読みにくいこと、何を言いたいのか分かりにくいことなどあると思います。
ただ、僕の中ではホットな内容が文章化されるはずですので
進んでいる方向性みたいなものが読み取れる形になるのではないかと考えています。
また、今年はブログ、ニュースレター以外の記事も書くつもりでいます。
分かりやすさや内容の絞り方などは工夫が必要そうですね。
少しずつですが、方向性が見てきているような気もします。
その一方で、去年の今頃には予想していなかった興味を
一年の間に抱くことになったわけですから、
今年の自分の興味が何に向かうのかは、僕自身としても楽しみなところ。
色々な刺激をインプットしていきたいものです。