2010年02月

2010年02月27日

納豆に注意

先日、テレビで色々な業界の常識やジンクスを放送していました。
それぞれ独自の習慣というのがあるものですね。

僕が以前にやっていたバイオテクノロジー系の研究の場合には
雑菌汚染に対する工夫が色々なされていました。

元々、母が「キレイ」か「汚い」かというのを気にするほうだったように思いますが、
バイオ系の研究をするようになって、汚染に対する意識は強まった気がします。

「汚染」は英語で「 contamination 」なので、
略して「コンタミ」と呼んでいました。
これは全国的に生物系の研究では使われる用語のようです。

あとは「 PCR 」という種類の実験作業が上手くいくことを
「 PCR が、まわる」という言い回しをしたり。
業界用語といったところでしょうか。


で、このコンタミに対する発想は、経験的にも知識的にも強く根付いているらしく、
例えば、CD をジャケットから出して、机の上に仮置きするときに
どちらの面を上にするかという部分にも反映されています。

それから、食べ物の容器を開けた時のフタの置き方も同様です。

基本的に、空中には沢山の雑菌やウイルス、ホコリなどの汚染物質
(純粋培養するときに汚染源になるという意味)
が飛び回っていますが、空中から落下してきて汚染されるというリスクは、
実際の経験上、あまり多くないものなんです。

落下菌体の試験などで汚染度合いを調べることもあって、そのようなときには
栄養豊富な培養シャーレをしばらく開けておいて、そのあとで密閉して、
それを培養してみて菌がどのくらい増えるかを調べたりします。

一瞬フタを開けて、それをまた閉じる、ぐらいであれば
空気中からの落下菌体は意外と多くないんです。
多いのはカビの胞子とかでしょうか。

その点、どこかの場所に直接触れるという接触が起こった場合には、
相当な確率で、その場所から雑菌汚染が起こります。

空気中を飛び回っているものよりも、何かに触れるというほうが
汚染源としての可能性は高そうなんです。

なので、僕は習慣的に、キレイに保ちたい側を空気中に向けて、
色々なものに触れる可能性の高い側を、床や机などに触れる向きにする。
そんな習慣が身に付いているんです。

CD であれば、ラベルの面を下側にして、情報が入っている面を上に向けて置く。
食べ物のフタも、入れ物の内側を向いているフタの内部が上のほう(空中)に向き、
開けるために手で触る側のほうを下に向けて台に接触するように置きます。

持ち上げたり、外したりしたときとは逆になるように
一度ひっくり返して置くわけです。

これは多分、バイオ系・微生物系の研究をしていた習慣のはずです。


ちなみに、バイオ系の中でも特に動物細胞のように汚染の悪影響が出やすい分野だと
自分の体から雑菌がコンタミするリスクを最小限におさえるために、
「納豆は食べない」というジンクスを持っていたりするようです。

納豆菌は胞子を作って死滅しにくいので、
他の雑菌よりもコンタミしやすいと考えるからでしょう。

実際の製造現場の発酵タンクに汚染が見つかれば
原材料と固定費で膨大なロスが起きてしまいますから
慎重になるのも分からなくはありません。

文化や習慣の違いも、理由から考えていくとチョット面白い気がします。

2010年02月26日

保存の形式

最近になって、セミナーで使うために iPod を買ったんですが、
充電が長持ちするので移動中に遠慮なく使えて便利です。

その前は携帯電話の音楽再生機能を使っていました。
僕は AU なので Lismo というやつです。

こちらでも十分に音楽を楽しめてはいました。
新幹線での移動中には結構使っていたものです。

それから本を読むときの話し声遮断用 BGM としても。
  (ちなみに、最近お気に入りの話し声遮断用 BGM は
   カーシュ・カーレイのインド風な音楽です。
   話し声が気になって集中できない時にはオススメ)


ただ、最近の携帯電話は充電の持続時間が短いので
好き勝手に聞けるというほどではありませんでした。
メインの目的は電話ですから、電池を切らすまで聞くわけにはいきません。

そこで、古い MP3 プレイヤーも使ったりしていました。

この古いほうの MP3 プレイヤーは、音楽再生用にも使えるんですが、
実際の目的は IC レコーダーなんです。
録音再生機能と併用して、音楽を入れて再生することもできる。

録音する音声ファイルの形式が、音楽再生の形式と同じになっているようです。

ポータブル CD プレイヤーを持ち歩くほどの音楽好きではなかったので、
この IC レコーダーが長きにわたって僕の移動用の音楽機器だったんです。


で、この IC レコーダーは元々、音楽再生を主目的として
作られているわけではありませんから、シンプルな仕組みになっています。

パソコン上でフォルダを展開していけば、そのまま音楽ファイルを移せますし、
新しくフォルダを作って、好みの再生リストを作ることもできます。

色々な CD から楽曲をパソコンに取り込んで、
その中の特定の曲だけを移していけば、自分好みの選曲でリストが作れるわけです。

例えば、ロックだけを集めたフォルダを作れば、再生するときにも、
そのロックのフォルダを選択して再生することで、そのリストを続けて聞ける、と。

同様にして、90年代の名曲を集めたフォルダとか、
映画で使われた音楽を集めたフォルダとか、
気分を盛り上げるための曲を集めたフォルダとか、
色々なリストを作っておける。

まぁ、他の MP3 プレイヤーも同じようなものだと思いますが、
この IC レコーダーの場合には、フォルダごとに曲を集めていくのが特徴なんです。

何かのアルバムをそのまま入れたければ、アルバムのフォルダを作って
そこにアルバム中の全楽曲を入れる必要がある。

再生リストを作るためには、そのリスト用のフォルダを作って
その中に必要な曲の音楽ファイルを入れる形式なんです。

ということは、アルバムに入っている1つの曲を気にいったとして
その音楽がロックのジャンルで、映画にも使われていて、
気分を盛り上げる曲でもあるとしたら、
ロックのリストにも、映画音楽のリストにも、気分盛り上げ曲リストにも、
入れたいリストが増えれば、それぞれ全てのフォルダの中に、
その楽曲の音楽ファイルをコピーして入れる必要があるわけです。

リストを流して聞きたければ、複数のリストで重複する曲は、
その音楽ファイルの同じものを複数コピー入れておかなくてはいけない。

保存の仕方やリストの作り方はシンプルですが、
同じ曲をコピーして保存する分、保存に必要な容量が増えてしまう欠点もあります。


一方、iPod は、CD やダウンロードした曲は、全て音楽ファイルとして保存されます。

そして、音楽ファイルに付属している楽曲情報を元にして
ミュージシャン、アルバムタイトル、ジャンル、製作年などのラベルがつけられ、
それぞれのラベルで呼び出せるようになっている。

アルバムのラベルが同じものは、同じアルバムに入っている曲として
そのアルバムタイトルのリストとして連続再生ができるスタイル。

ミュージシャンの名前で呼び出せば、iPod 中に保存されている
そのミュージシャンの楽曲全てを連続再生できるようになる。

ラベルを使って分類しているけれど、それは楽曲を選び出して再生するためのもの。
アルバムリストと、ミュージシャンのリストに同じ曲が重なっていても
楽曲の音楽ファイル自体は1つしか保存されないわけです。

次の曲の再生が始まるたびに、曲のラベルを元にして保存されている全曲から検索され、
見つかった音楽ファイルが再生されるようなプロセスなんでしょう。

毎回検索する必要はありますが、その検索をスムーズに行える処理能力さえあれば、
保存に必要な容量は少なくて済むというメリットがあります。

自分で新たに再生リストを作って、ロックのジャンルのリストとか
映画音楽のリストとか、気分盛り上げリストとかに重複させていっても、
必要なのは音楽ファイルのラベルでリストを作る作業だけ。

あとは、再生のときにリストで指示されたラベルが貼られた音楽ファイルを検索して
それを再生する処理を行えばいい。
そんな形式なんじゃないかと思います。


検索が速やかにできるような処理能力があれば、全ての楽曲を音楽ファイルとして
整理して保存しておいて、必要な時に探し出して再生する。
それによって保存の容量を少なくできる。

保存の容量が十分にあれば、分類されるリストの中で重複する楽曲を
必要な数だけコピーして音楽ファイルとして保存しておく。
それによって再生のときに探す手間が省け、検索の処理能力を必要としない。

双方にメリットがあると言えそうです。

本屋に喩えると、大型書店とアマゾンの違いのようなものでしょうか。

大型書店では、人気のある本は色々な棚に並べられています。
新刊の棚、売れ筋の棚、入口フロアの平積み、本の内容に合わせた棚…。
内容がビジネス心理のようなものであれば、内容に合わせた棚であっても
ビジネス書の棚と、心理学の棚の両方に置かれることも少なくありません。

大型書店は在庫を沢山並べられる敷地の広さがあるので、
人気のある本は、必要な分類の数だけ、色々な棚に同じ本が置かれます。

一方、オンライン書店であれば、本はジャンルや著者名、キーワードなど
様々な形で検索されてから注文がなされます。

検索で見つけて本を特定してから注文するので、在庫は一か所に管理できるでしょう。
ISBN か何かで在庫管理をしておけば発送の手間も少ないと思います。

大型書店は僕の持っている IC レコーダーの音楽保存形式に近く、
オンライン書店は iPod の保存形式に近いと考えられます。


で、人間の記憶の仕方というのは、iPod のような形式なんじゃないかと思うんです。

現時点では、特定の記憶が脳内の一か所のニューロンに
保存されているわけではないらしいというのが主流の仮説のようでもあります。

最も細かいレベルのサブモダリティの情報が散らばって保存されていて、
それぞれの組み合わせに対してグループとしてラベルをつけている。
さらにグループ同士を組み合わせて上位のグループを作る。
…そんな形式だろうと僕は考えています。

最も細かいレベルというのが1つの音楽ファイルに対応します。
(イメージとしては、もっと細かいんですが、分かりやすく楽曲を最小単位にします)

iPod に「 I believe 」や「三日月」、「 WINDING LOAD 」などが保存されている。

それぞれには、元のアルバムタイトルや、製作年もグループ情報として付いている。
で、同時にベストアルバムとして「 ayaka's history 」に収録されている、
というグループ情報も付いています。

それぞれ「絢香」というアーティスト名もグループ情報として付けられていて
「 WINDING LOAD 」の場合には「絢香×コブクロ」という
コラボレーションの情報も付いているかもしれません。

なので、「絢香」の曲という一番大きなグループの下に
製作年やアルバムタイトルなどのグループがあって、
それぞれのグループから検索しても呼び出せるようになっているわけです。

「 WINDING LOAD 」の場合には「コブクロ」で検索しても出てくるでしょう。

人が「絢香」の曲を思い浮かべるというときにも、
同じような感じなのではないでしょうか。
ラベルで検索しながらグループを思い浮かべ、実際の曲の情報は重複しない。

より具体的な例として
「昨日、山手線の車両の中で、ドアの前に立って
 ニンテンドー DS をしているサラリーマンの後ろ姿を見た」
という記憶を思い浮かべる場合で説明すると…。

山手線の車両の中のイメージも、ニンテンドー DS の見た目も、
サラリーマンの服装や髪型も、過去の記憶の中から検索してきて
全てを1つの映像の中に組み合わせて思い浮かべる、という考え方です。

ですから、
「二週間前に、山手線の車両の中で、ドアの前に立って
 携帯電話で話をしている女子高生を見た」
という記憶を思い浮かべた場合にも、
山手線の車両の中のイメージは共通しやすいと考えられます。

少なくとも、ドアの前にある「手すり」の映像記憶ぐらいは
実際に見ていたものを思い出すより、データベースとしての記憶の中から
検索して引っぱり出してきて映像に組み合わされているでしょう。

おそらく、「小学校の頃、担任の先生に褒められた」というような記憶を思い出すのも、
iPod で「気分の盛り上がる曲」のリストを選ぶのと同じようにして
なされているんじゃないかと思います。


そう考えると、iPod で再生リストを気軽に沢山作れるように
人の記憶も意外と気軽に作っていけるような気がしてきます。

そうやって考えておくと、
人が変化していくということも、それほど難しいことではない
と思えてくるんじゃないでしょうか。

cozyharada at 23:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2010年02月24日

泣かせる技術

この本を買いました。

感動させる技術~人の心を自在に動かす「泣かせ」のテクニック~
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著者の内藤誼人氏は心理系読み物として売れっ子の心理学者です。
単純に「心温まる良い話」を説明する心理読み物が多い中で
テクニックや裏技的な内容を数多くの本に書き記しています。

個人的に、最近では読む機会が減ってきてしまっていましたが、
僕が心理系の本を読み漁るようになった最初の頃には好んで買い集めていたものです。

心理に興味を持っていたのは、多分、小学校ぐらいからだっただろうと思いますが、
自分で本を買うようになっていったのは大学一年だったと記憶しています。

大学の授業で加藤諦三氏の心理学や精神分析の講義を取ったのがキッカケ。
マンガ以外で本を買うようになったのは、この頃だった気がします。
大学2年か3年のときには、文学部の「心理療法」の講座も取っていました。

で、それぐらいの時期に、大学生協の書籍部で見かけた本が
内藤誼人・伊東明コンビの書いた
 『「心理戦」で絶対に負けない本」(アスペクト)
というもの。

「心理戦」で絶対に負けない本―敵を見抜く・引き込む・操るテクニック
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真っ赤で目を引く表紙、理工書の中に並ぶ「心理戦」の文字。
当時の僕には、相当なインパクトがあったようです。
今も、その書棚の景色が鮮明に思い浮かぶほど。

その内容も、今でこそ知られ過ぎてしまっている印象のある
『ミラーリング』や『フット・イン・ザ・ドア・テクニック』など
様々な心理テクニックを、身近な例と実験データともに示したもので、
かなり刺激的で面白かったのを覚えています。

今では150冊近い本を書いている内藤氏の、
確か、デビュー作だったのではないかと思います。

この本が売れたのが1つのキッカケだったんじゃないでしょうか。
最近になって、新書や文庫になっているようです。


内藤誼人という人が、どんな人物なのかというのは
話したことがあるわけではないですから分かりませんが、
個人的な推測としては、「テクニック」や「ブラック心理術」などの言葉とは裏腹に
かなり人の良さそうなハートウォーミングな印象を受けます。

売れる本を書くとか、売れっ子著者として出版社の意向に沿うとか、
そうした事情があるんじゃないかと思うんです。

その中に見え隠れするシニカルな笑いのセンスを僕が感じ取るから
この著者の本を好むのかもしれません。

先日買った『感動させる技術〜人の心を自在に動かす「泣かせ」のテクニック〜』
という本も、あとがきを読む感じでは編集者の企画を受けた形らしく
著者自身は「泣かせるテクニック」というのには少し抵抗があるようでしたが、
僕としては面白さを満喫できたように感じています。

引用してきたエピソードや、著者自身が書いたエピソードを通じて
涙を誘う文章の例を紹介し、それに対して心理学的な解説を加えていくという形式。

このエピソードの「ホロリ…」とくる感じと
それを一歩引いて解説する部分とのバランスが心地良いです。

僕個人としては、昨今の「良い話ブーム」が
少し行き過ぎになっている印象も感じていますから、
もっと大胆に皮肉をこめて『涙を誘う』仕組みを解説してしまっていても
ほくそ笑みながらも楽しめたとは思います。

ただ、内藤氏は、それを選ばなかったようです。

泣ける理由を解説しながらも、人が話を聞いて泣ける理由の中に
人間の共感性や心の暖かさのようなものを込めているように感じました。

そこら辺が、ドップリと「感動話」に入り過ぎるでもなく
ナナメから否定的に眺めるでもない、
暖かみのあるバランスに仕上がっているところかもしれません。

2010年02月23日

3月の勉強会

3月の勉強会のお知らせ

NLPの中に「メタモデル」と呼ばれる言語パターンがあります。

リチャード・バンドラーとジョン・グリンダーが
二人の心理療法家(フリッツ・パールズ、ヴァージニア・サティア)の
会話のパターンを分析して、モデルにしたものと説明されます。

NLPが、まだ「NLP」と呼ばれる前の時期に、一番最初に取りかかられた部分。

現在のNLPの中でも、1つのスキルとして紹介されます。
効果的な質問の技術として取り上げられることもあるようです。

この「メタモデル」という表現は、「言語におけるメタレベルの構造」
のようなニュアンスを含んでいるらしく、
質問のパターンそのもののことを「メタモデル」と呼ぶのではなく、
質問の対象となる相手の発言内容の中の言葉の構造のことを
「メタモデル」と呼ぶほうが正確なはずです。

相手の発言内容を「メタモデル」に当てはめて解釈をすると
それに対して効果的な質問の仕方が選べるようになる、ということでしょう。


ところが、現状のNLPでは「メタモデルの質問」パターンばかりが説明されます。
相手の発言のパターンに合わせて、決まった型の質問をする、と。

NLPは基本的に、その応用技術を利用する場面設定をしていません。
どんな場面でも説明できる理論だと考えれば、場面を選ばないのは当然でしょう。

目的に応じて使い分ければ、どんな状況でも役には立つ。
仮に役に立たない場面があったら、別の方法を試せばいい。
…役に立つかどうか、という実用的な視点もあるようです。

同様に、この「メタモデル」の質問パターンも、使ってみて
役に立つかどうかを判断していけばいいわけです。

相手の話の文脈には関係なく、とにかく質問パターンに当てはまる発言内容が出たら
それに対して決まった型の質問を投げかけてみる、と。

話の流れを無視しているわけですから、変なことになる場合もあります。
「あなたは、もう私のことを愛していないのね…」
−「どのようにして愛していないことが分かるんだい?」

メタモデルの質問パターンに当てはまってはいても、
上手くいく状況と、そうでない状況はあると思います。

1つのスタンスは、自分なりに使ってみて、
上手くいく状況を自分で見つければ良いというものでしょう。

現実的には、そう説明するのが妥当かもしれません。


ですが、「メタモデル」というものが生まれたときの前提から考えれば、
そこには「二人の心理療法家の言葉づかいを体系化する」という目的があったはずです。

どんな状況でも使ってみて上手くいくものを探していけばいい、というのでは
表面的な質問のパターンは学べていても、彼らの質問の技術そのものは
十分には学べていないとも考えられます。

優れた心理療法家が、
どんな話の流れの中で、何を目的にして、何を考えて、どんな質問をしていたのか
までをモデル化したかったのが本当のところではないでしょうか。

それがNLPの初期の段階だったからか、取り急ぎの成果を求めた発表だったのか、
グリンダーが言語学者だったことで生まれた視点が関わっているのか、
理由は定かではありませんが、二人の質問技術が完全に体系化できているかといえば
そうではないような気がします。

リチャード・バンドラーは天才的に模倣をしたと言われているので、
僕の推測では、バンドラーは、状況に応じた質問の方法までも
自らの中に体系化して取り入れることができていたのではないかと思います。
それを記録に残す方法が不足していただけで。

残念ながら、今となってはメタモデルの元になったコミュニケーションの内容を
実際に分析しなおす作業は難しいでしょう。


また、「メタモデル」を質問パターンのように捉えるやり方では
NLPの理論体系の中での位置づけが上手く整理できないところも感じられます。

それも当然のことでしょう。
NLPの他の発想が生まれる前の段階で体系化された言葉のパターンですから。

ただ正確には、「メタモデル」は質問パターンではなく、
相手の発言内容の構造モデルのことを指し示すわけなので、
その言語の構造という部分に着目して整理をしていく中で
NLPの他の説明と結びつけることは可能だろうと考えます。

そこで、今回の勉強会では「メタモデル」を
・まず構造的に説明する(これまでの分類と違う可能性があります)
・その構造を用いて、状況に合わせた質問の選び方を説明する
・目的に応じて質問を選ぶトレーニングをする
というような内容を扱いたいと思います。

目的別という部分に関しては、僕がこれまでに見てきた心理療法家や
相談援助面接の実践者たちの質問の仕方と、
僕自身が「メタモデル」を意識して使ってみた中で効果のあったパターンと、
僕自身がコミュニケーション中にしていることとを、分析してお伝えする形になります。

今回の内容で提案する「メタモデルの構造」を理解していただくと
やみくもに質問をするのではなく、意図を持って質問できるように
なっていくはずだと考えています。


NLPを一通り体験した人であっても、
「メタモデル」の部分は分かりにくい、というのが
正直な感想ではないかと思います。

それが少しでも整理されたようになれば何よりです。

年度末のお忙しい時期かもしれませんが、
ご興味とご都合がつく方は、是非お越しください。

なお、NLPの資格取得コースでは、するわけにいかない説明の仕方になります。
そのことを前提としてご理解くださいますようお願いします。

もちろん、NLPのことを知らない方のご参加も歓迎いたします。


  ※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
   定員を設けていますので、ご注意ください。
   定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。


  ※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。


詳細は以下のとおりです。




【勉強会の詳細】


【日時】 3月22日(月・祝)

     ◆午前の部 10:00〜12:30  
     ◆午後の部 13:30〜16:30


     ★午前のみのご参加も可能です。
      「午前」あるいは「両方」でお申し込み下さい。



【場所】 北とぴあ 802会議室
    (JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
    (東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)


【参加費】当日、会場にてお支払いください。
     
     ◆午前の部 ・・・4,000円 
     ◆午前・午後の両方 ・・・7,000円

    
    
テーマ: 『言語のメタモデル』〜言葉の構造と目的別の質問法〜


 *多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
  学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
  ご了承ください。




質問には命令的な側面が必ず含まれます。

一人が複数の徴収に対して投げかける問いかけの場合を除き、一対一の対話であれば、
質問された側は、それに答えるという暗黙の了解が生まれます。

質問されるというのは少なからずプレッシャーであり、
負荷がかかっているということです。

コーチングやNLPをかじったときに、やたらと質問をすることを覚えてしまうのは、
質問が持つこの強制力を意識できていない部分で危険性があると思います。
…その対極に、ただ話を聞き続ける傾聴への偏重があるわけですが。

質問をするのも、相手の話を積極的に聞くことに専念するのも、
どちらも1つの技術だということを自覚するのが大切ではないでしょうか。

相手の特徴によって、相手の状態によって、相手の置かれている状況によって、
どの技術が有効に作用するかは異なってくるはずです。

自分がやろうとしているコミュニケーションの方法に
どのような効果があり、どのようなリスクを秘めているかを知っておくことは
とても重要なことだと思います。

それは風邪を引いたときに薬を飲むことに似ている気がします。

風邪を引いたら、いつもの風邪薬と栄養ドリンクを飲むという方法で
全てを乗り切ってしまう人もいます。

その一方で、薬には必ず副作用の可能性があるのも事実。
医師や薬剤師であれば、その危険性を意識しながら、
目的に合わせた投薬をしていくことになるでしょう。

ネギを鼻に入れる方法しか知らなかった人にとっては
風邪薬を飲むという方法だけを知ることにも重要な意味があるかもしれません。

しかし、人によっては、専門家でなくても、
様々な風邪薬の効き目と副作用を知った上で薬を飲むことを選択するのが
求められる場合もあるかもしれません。

質問の効果と目的意識。
そのあたりをテーマとして取り組む機会になればと思います。

参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)


終了しました

トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。


是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。

今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。


また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。


【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。


勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。

その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。

また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。

調査して勉強会にあたります。



それでは当日お会いできることを楽しみにしています

cozyharada at 01:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!セミナー情報 | NLP

2010年02月21日

味のキッカケ

駄菓子屋でお馴染み「チェリオ」のライフガードに新製品が出たようです。
「ライフガード・ブラック」。

ライフガード


























これまでのライフガードは「オロナミンC」などの栄養炭酸飲料に近い味でしたが、
この「ブラック」は全くの別物。
コーヒー味の炭酸飲料です。

ただ、コーヒー味というのは正確ではなくて、
炭酸のジュースにコーヒー風味を追加した感じ。

コーラとコーヒーを混ぜたような味なんです。

僕にとっては懐かしい味わいでした。


今から10年近く前、プロ野球・西武ライオンズに
カブレラという野手が入団しました。

入団一年目から50本近いホームランを打ち、
二年目にはホームラン55本で本塁打王(年間最多本塁打タイ記録)、
三年めにも50本という華々しい成績を残しました。

今も日本でプレーをしていますが、全盛期ほどではないにせよ、
安定した成績を残し、ドーム球場の天井に打球を当てるパワーは健在です。

そのカブレラが名前を轟かせていたころ、
スポーツニュースで彼の生活パターンなども取り上げられていたんです。

カブレラの出身地はベネズエラ。
カリブ海に面した国です。

で、このカリブ海のあたりでは、ポピュラーな飲み物として
コーラとコーヒーを混ぜたドリンクがあるという話を見たわけです。

カブレラは、コーヒー&コーラ・ブレンドが好きだと。

で、味覚の好奇心が旺盛な僕は、それを実際にやってみました。
コーヒーにコーラを混ぜる。
半分ずつぐらいを中心に、比率を変えながら試しました。

口に含んだ感じはコーラに近いんですが、口の中に広がる匂いはコーヒーのもの。
後味はコーヒーをメインに、コーラ特有の香料が追加されたようになります。
この後味はチョット癖がある感じ。

なので、コーヒーが3割、コーラが7割ぐらいの比率が飲みやすいと思います。


このライフガード・ブラックを飲んだとき、
当時に味わったコーヒーとコーラを混ぜた飲み物を思い出しました。

そして、それを飲んでいた場所、コップ、そのときに一緒に過ごしていた人たち…。
多くの記憶が蘇ってきます。

顔も名前も声も、意外と覚えているもんですね。
今は何をしているのだろう、なんて思ったり。

このような記憶の繋がりのことをNLPではアンカーと呼びますが、
アンカーは嗅覚で強く起こりやすいと言われます。

嗅覚が原始的な感覚だとか、他の感覚刺激とは情報処理のルートが違うとか、
色々な特徴が説明されていますが、アンカーが強く形成されやすい理由としては
いささか説明が不十分な印象を受けます。

僕自身の実感としては、アンカーとして特定の記憶を引きだす作用が強いのは、
その感覚情報の記憶が意識化されていない場合ではないかと考えています。

自分で触った触覚刺激でアンカーを作ったり、
特定の音楽で意識的にアンカーを作ろうとしたりしても、
意外と難しさを訴えるケースがあるんです。

それに比べると、日常生活の中で普通に出来てしまっているアンカーのパターンは
BGMや何かの匂い、ある背景の景色など、
意識の前面に上がらずに関連情報として整理されたものであるケースが多いようです。

おそらく、正確にはアンカーが成立しやすいかどうかよりも、
意識が向いている感覚情報とアンカーされた記憶は
意識的に思い出すプロセスと似た印象を感じやすいために、
「アンカーで記憶が戻ってきた」という感じ方になりにくいのではないでしょうか。

常日頃は意識していないような感覚情報を受け取ったときに、
ふと、それに関連していた記憶が蘇ってくるということです。

普段は意識してないから、予想外の記憶が出てきて不思議な感じを味わう、と。

一度ある記憶を思い出せたら、その周辺にある記憶は引き出しやすくなるはずです。
山口にいた頃の景色が頭の中に次々と浮かんできます。

随分と変わっているのかもしれませんね。

そういえば、「パレス愛」というホストクラブみたいな名前のホテルがありましたが、
今はどうなっているんでしょう。

色々なことを思い出して、チョットしんみりした感じになりました。

cozyharada at 01:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2010年02月19日

正しくない

個人的なスタンスとして、全ての情報を整合性を持って理解したいという願望があります。
ストレングス・ファインダーで「着想」が一位になるのも当然でしょう。

全ての情報に辻褄が合っているかが重要なんです。
矛盾したところがあると反発が生まれます。

その一方で、科学的な視点も含めて、僕の中には
「100%正しいというものはない」という考えが強く根付いています。
正しいかどうかは断言できないと考えているんです。

化学においては、原子核の周りに電子が存在すること自体が
もう確率論でしか説明できません。

中学校のときに習うボーアの原子のモデルは不正確な模式図で
原子核の周りを電子が回っているというのとは違う形で説明されます。
電子が存在する確率の高い場所があると考えるんです。

化学反応が起こるのも原子核や電子の存在する場所の確率で説明されます。
もう少し大きな視野で見ると、溶液の中に物質が溶けている状態も
厳密に均一なわけではなく、動き回っている物質がいる場所が
平均的な確率として満遍なく散らばっている可能性が高いだけなんです。

物質同士が化学反応を起こすときも、たまたま近づいた物質同士が相互作用するので
反応の起こりやすさも確率でしか説明されないわけです。

そのように化学反応そのものが確率論である上に、
化学反応の集まりである生命活動は、その構造の中に
さらに不確定な仕組みを多く含んでいます。

脳の神経細胞の電気的な伝達の仕組みは、かなり不確定な仕組みと言えるでしょう。

まぁ、そうした不確実性が人間らしさを生み出していると考えられていますし、
そうしたランダムな部分が人を一定ではない状態にして
柔軟性を生み出すキッカケ作りに役立っているのではないかと思います。


ということで、僕は「正しい」という概念を
「最も整合性のある形で全ての情報を説明できる仮説」と捉えています。

「100%正しい」というものはない、と。

ですが、「正しくない」ものはあると僕は考えています。
「正しくない」「間違っている」という概念は、
「他の情報と整合性が取れていない」「矛盾がある」として捉えているんです。

例えば、NLPやヒプノセラピーの中で、
インナーペアレンツに対して取り組む内容があります。
(これら多くの場合のインナーペアレンツという発想自体が僕には違和感がありますが)

心の中の親とコミュニケーションを取るために、
自分のイメージの中で過去にさかのぼっていきます。
自分の誕生の瞬間や、胎内での体験をイメージの中で再体験する方法がとられます。

このとき、受胎から誕生までの間のイメージ誘導の言葉として
「今、あなたは1つの細胞です。細胞分裂をするにつれて…」
などという表現がなされたりします。

自分の胎内での成長の過程をイメージさせるわけですが、
一般に「受胎」というのは「妊娠」が成立した状態を言うらしいので
着床のプロセスが完了した段階を示すはずです。

受精卵は確かに1つの細胞ですが、そこから子宮内膜まで辿り着くのに約2日、
そこから着床のプロセスが進み、胎盤が形成される準備が整うまでに何日もかかる。
その間、細胞分裂は進んでいますから、「受胎」した時点で
細胞の数は1つではないわけです。

ということは、受胎直前の時点をイメージさせて、そこから受胎の瞬間に入り
誕生までのプロセスをイメージで進めていく誘導のなかで、
受胎の場面に入ってから「あなたは1つの細胞です」というのは
「間違っている」と判断します。

別に、インナーペアレンツという取り組みだけをする上では
そのような言葉の内容には問題はありません。
それで上手くいくなら構わないでしょう。

でも情報としては「間違っている」んです。

この誘導の仕方で良い体験ができて、取り組んだ結果が役に立つのであれば
その人にとっては意味のあることですから、それを否定することはしません。

そういう体験をしたという人の話を聞いたら
「それは良かったですね」と思うだけです。

ただ、そうした手法を広く伝える側の人間が、「間違った」情報を含んでいる場合には
僕はそのことに対して否定的な反応をします。
反感を覚えます。

なぜなら、受胎という状況を具体的に詳しくイメージできるような知識を持った人に
そのような誘導の言葉がけをした場合には、体験をしている本人のイメージと
違った内容を言葉にしている可能性が出てくるからです。

「間違っていない」情報を既に持っている人に対して
一致しない情報を言葉として伝える場合には、その人の体験を妨げるリスクがあります。


個人の体験にとっては「間違っている」かどうかは問題ではありません。
僕の中の情報と矛盾する話を聞いても、その人にとって役立っている考え方であれば
僕がそれに反発することはないつもりです。

ただ、広く情報を発信していく立場の人物が
偏りがあって他の情報と辻褄の合わない説明をしているとしたら、
僕はその内容を「間違っている」と判断します。

場合によっては、「えー、それは違うんじゃないの?」と言葉にもします。

その意見や説明が他人に影響を与えているからです。
その「正しくない」場合が、デメリットになる可能性を考慮して欲しいんです。

説明をしている本人にとって役に立ってきたものでも、
人によって状況によって違うことがあるはずです。

学問の場は、前提として論理的な矛盾を排除するものですから
「間違い」として批判することさえ許されます。
そうして「最も上手く説明できる仮説」に近づけていくわけです。

それは言い換えると、全世界の人の頭を利用して
1つの上手い仮説を吟味していく作業ということです。
話題に上る内容は、話をする一人の中から出るものではなく、
全員の目の前に客観的に出されるものだと言えます。

でもセミナーや講演というのは、趣旨が違う。
話題に上がる内容は、講師の中から出てきます。
全員が対等かつ客観的に内容を吟味する場ではありません。

なので、参加者の立場として「正しくない」ことを指摘すべきではないと思います。
どんなに反発が沸いても、ある程度のガマンをします。

講師の内側から出る内容なのですから、
最初から「私はそう思います」とか
「こう考えると役に立つことがあります」とか、
マイルドに表現してもらいたいものだと感じます。

一般論として「正しさ」を主張されると反発が沸いてしまいますので。

2010年02月17日

光の画家

芸術家はサブモダリティに敏感だと感じます。

サブモダリティというのは、五感で識別する要素のこと。
視覚であれば、色とか明るさとか、大きさ、形など。
聴覚であれば、音の高さ、音色、トーン、リズムなどを言います。

なお、大きさや形というのは、まず先に色の識別があって、
その色で他の部分と区別される領域に対して認知できるものです。

形を識別するということは、他と区別された意味のある「まとまり」を
その時点で意識しているということ。
背景とは区別されるものだと分かっていることになります。

ちなみに、音の場合には視覚よりも遥かに多くの情報量から
「まとまり」を感じられるといいます。
楽譜で見て規則性を見つけられない人でも、音楽として聞いてしまえば
そのリズムやメロディーの規則性が実感できる、と。


我々は日常生活で言語を利用していますから、
何かを目にしたり聞いたりしたときにも、それを言語に変換して理解するものです。

だからといって、言語化するときに意味づけがされるわけではない
と僕は考えていますので、その辺は一部のNLPの流派とは相容れない部分ですが。

意味づけは、対象の中の特定のサブモダリティを捉えて、
その対象を認識した瞬間に、記憶の中からゲシュタルトが立ちあがって
そのゲシュタルトの持つ印象によってなされます。

花を見るときには、その色と形というサブモダリティの組み合わせが知覚されて、
その「花」としての特徴的なサブモダリティの組み合わせに当てはまる記憶が探索され、
1つの意味を持った「まとまり」(ゲシュタルト)と対応させるようにして
目の前の花を「花」という意味に当てはめることになります。

その「花」のゲシュタルトの中には関連する情報として、
文字としての「花」や「華」、音としての【 ha - na 】なども含まれますから
言語的に説明すれば「花だ」と認識されるわけです。

意味のある「まとまり」として識別された瞬間、
つまり何かの仲間の中にグループ分けされた瞬間に、
そのグループの一員としての意味が判断されているということです。

幼稚園でのゲームみたいに、色々な絵の描かれたカードを見せられて
仲間はずれを探す感じに近いでしょう。

例えば、自動車、自転車、飛行機、船、電話、電車あたりを見せられると、
「他は乗り物だけど、電話だけ乗り物ではない」と区別されます。
ここで「乗り物」というゲシュタルトに当てはめられて意味づけがなされています。

こうした作業をもっと五感に近い情報のレベルでも人間は行っているんです。
「この色と形の組み合わせは花だな、こっちのは土だ」という具合に。

ただ、言語化するのは、そのグループに対応する言葉を意識した場合ですから、
意味づけは言語化の前に起こっていて、
意味に対して言語が当てはめられている、と考えるほうが正確でしょう。


そうしたゲシュタルトは経験によって作られますから、
感情的に不快な体験を伴ってきたゲシュタルトに分類されると、
その不快感が意味づけのなかに付け加えられます。

僕は、幼少期に風邪を引いている状態で出前のカツ丼を食べたとき
その玉ネギの半生の歯ごたえで戻してしまった経験を持っています。

それ以来、僕にとっての「玉ネギ」のゲシュタルトには、
ジャリッとした歯ごたえと吐き気の感覚がセットになっていました。
玉ネギの意味づけのなかに、最初から「苦手」な意味づけも含まれていたわけです。
(今はもう大丈夫ですけど)

つまり、ゲシュタルトの中に含まれている身体反応の記憶が、
その対象の意味づけに対しての快/不快の判断に大きく関わっているということです。

ところが、芸術に関しては、サブモダリティの組み合わせ自体が
記憶の中から特定のゲシュタルトを引きだす前に、
直接的に身体感覚を動かすことがあります。

それは芸術に限ったことでなく、自然に対しても同じような効果がありそうです。

見た瞬間、聞いた瞬間、
その場に行った途端に「ウワーッ」「ハーッ」と息を飲むような感動を覚える。
それは過去の意味づけとは無関係に、直接的に身体に訴えていると思うんです。

だからこそ、自然や芸術が時代や文化を超えて、人に感動を与え続けているのでしょう。

芸術と自然と、どちらが先に存在するかと言えば、
それは自然のほうだろうと思いますから、
ある程度、人は自然から身体が感動的に突き動かされる感覚を
別の活動を通じて表現しようとしてきたのではないでしょうか。

それが芸術ではないか、と。

なお、ここで言う「自然」には、人体の仕組みのようなものも含みます。
人が特定の音を聞くと体に反応が出るようなことは、自然の作用として捉えています。

で、そうした人の身体反応に直接的に訴えかけるような自然の特徴を
五感の情報(サブモダリティ)としてピックアップして
それを表現することができる人たちが「芸術家」として
多くの人々を魅了してきたと思うんです。


以前にセザンヌの絵の特徴について書きましたが、
それは人間の周辺視野と中心視野の違いを描き分けたところに
ポイントがありそうだ、という内容でした。

写真で取ってしまったり、テレビ画面に映し出された映像では
画面の全ての領域がそれなりに均一な様子で描かれます。

実際にはレンズの歪みの影響はあるはずですが、
それは人間の目が中心視野と周辺視野で見分けるときの特徴とは別物です。

映画館の大画面で見ると迫力があるのは、
画面の端の部分を周辺視野で捉えられるようになって
その映像が実際に目の前にあるときの感じに近づくから、というのもあるでしょう。

セザンヌは、特に人間が中心視野の範囲を狭くして見ている状態、
つまり何かを集中してズームインするように捉えているときの見え方の特徴を
サブモダリティのレベルで敏感に捉えて絵に表わしたと考えられます。

セザンヌの不思議なまでの立体感と吸いこまれるような臨場感は
肉眼が捉えている視覚情報を正確に再現したからだと思います。


人間の視覚は光を捉えているだけですから、その光の情報の組み合わせによって
色合いや形、表面の質感、奥行きなどの特徴を区別しているわけです。

なので、光というのは人間にとって大きな意味を持つものだろうと考えられます。

古くから宗教画などでは、聖者の周りに後光を描くことが多いものですが、
これも人が光の特徴を利用して意味づけをしていることの典型例です。

どういうわけか、実際に光を放っている人というのはいないのに、
多くの人が大切な人や尊敬する人を思い浮かべると
その人の顔の周りだけ明るかったり、淡いスポットライトが当たったようであったり、
何かしらの光による強調がなされているものです。

これは「大切な人」とか「尊敬する人」とかいったゲシュタルトの中に
光の情報が組み込まれていることを意味します。
ゲシュタルトの強調のされ方の中には光を使ったものが意外と多いようです。

これは、生理的な反応が視野や焦点に違いを及ぼすからだろうと考えられます。

楽しい気分、ウキウキした気分、高揚している状態…、
そんな時には目の前が明るくなるような感じになることがあります。
(敏感に視野の変化を自覚している人に限って実感できることかもしれませんが)

大好きなもの、興味津津なものには、焦点が絞られて
中心視野だけで対象を凝視するようなこともあるでしょう。
背景が抜け落ちて見えるような感じです。

すると、主役とか大事なものというのは、繰り返しの経験の中から
中心視野でハッキリと捉えられていて、背景よりも明るく捉えられる、
という特徴が一般化されていくことになります。

逆にいえば、そのように視野の中心で、他よりも明るくハッキリと映るものは
「大事なもの」という意味づけに当てはめられるわけです。

高揚した状態で視野がパァーッと淡く明るくなる印象が一般化されれば
そうした光の特徴が示された対象には「高揚感」の意味が当てはめられるでしょう。

気分や感情に伴う生理状態が引き起こす視野や焦点の変化が
光の特徴として一般化されるために、光を使った印象表現が可能になる、
と考えられます。

舞台でスポットライトが当たった人物を主役だと認識するのは
元々のゲシュタルトとして「主役」という意味に「光が当たっている」特徴を
含んでいることが多かったからだろうと推測します。
その特徴に敏感だった人が発案したのではないか、と。


で、この光のサブモダリティの特徴で識別されている印象を巧みに表現したのが、
あの有名なレンブラントだと思うんです。

レンブラントの絵には独特の光の当たり方があります。
いわゆる正しい光源の方向とは違うスポットライト的な光もあったりする。
光の当たり方そのものにも色々な違いがあるようです。

有名な「夜警」という絵がありますが、
これなどは典型的に光で強調がなされている作品です。
(http://www.wallpaperlink.com/info/fineart.htmlより)

光の印象が人の内面に影響を与えることを敏感に察知したのでしょう。

ちなみに、マンガ家で光の表現を上手く利用しているのは
「シティハンター」でおなじみの「北条司」氏だろうと思います。

興味があったら見てみてください。
セリフがなくても感情が読み取れる貴重なマンガ家ではないでしょうか。

cozyharada at 15:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2010年02月14日

前から欲しかったDVD

エリック・マーカスのDVDを買いました。
マーカスは家族療法家で、僕が勉強しに行っている先生の師匠にあたる人物。

非常にシンプルな方法を1つだけ紹介した内容でしたが、
色々なことを整理するのに役に立った印象があります。


僕自身、その先生を通じて多くの学びを得ていますから
考え方やスタンスの部分でも影響を受けているのは当然のことでしょう。
その先生の師匠にあたる人物の基本的な考え方とも同様なのも
自然なことかもしれません。

ただ、僕の中には、こうした心理臨床のトレーニング以外にも
生物化学系の研究者としての経験で培われた能力やポリシーもあります。

その中心にあるのが、科学に限らず、「全ては仮説である」ということ。
「正しいものはない」という考え方です。

最も整合性のある理論を、自信をもって説明することはありますが、
それでも、その考え方が正しいという思いはありません。

また、生物化学系の研究というのは、現象の観察と分析から始まりますから
細かな違いを意識することが重要でした。
そのスタンスは人と関わる今でも大切にされていて、
大雑把な理論に当てはめて人を見ることはしたくない気持ちがあります。

マーカスもまた「人は皆違う」ということを強調します。
「『これが正しい』というものはない」とも言います。

さらに「正しいものはない」ということにも例外があると言います。
「柔軟性がないよりも、柔軟性があるほうが上手くいくことが多い」と。

「正しいものがない」こと自体も正しくない、ということでしょうか。

そんなスタンスからなされるワークショップの模様は
僕にとって勉強になるかどうかの前に、非常に受け入れやすい気持ちになれます。

「これが正しい!」ということを強調されると反感が出てしまいますから。

口先だけの内容として「正しいものはない」と言うのではなく、
全ての振る舞いの中から、そのことが感じられる。
そこもまた僕にとって心地良さを感じさせてくれる部分だったようです。


DVDを見ていて色々とアイデアが浮かんできたりもしましたので
3月の勉強会の内容にも関連させてワークを工夫してみようかと思っています。

というように、内容からは理論が整理されたり、手法のアイデアが浮かんだり
多くのものが得られた印象があって、またマーカスという人の言動からは
自分自身のスタンスを明確に意識して強める機会にもなったと感じているわけです。

そして、もう1つ発見がありました。

僕が良く指摘される癖というか、座り方の姿勢があります。
椅子に浅く座って後ろにのけぞるような姿勢。
腕を組んで片手の指で顔の横あたりを触る。

何の自覚もなしにしている姿勢です。

これと全く同じ座り方をマーカスがしていたんです。

多分、僕のお世話になっている先生も同じような座り方をすることがあるんでしょう。
そこから移ってきたものだと思います。

意外と他人の癖というのは伝わりやすいものです。
僕の中には受け継がれてきた癖が根付いているみたいです。

人は皆違う。
でも、人はお互いに影響し合って生きているんです。

自分の中の何かが他人に伝わって受け継がれている。
そういう可能性もあることを考えると、
人は一人ではないことも実感できるかもしれません。

なんだかチョット嬉しい気分にもなりました。

2010年02月12日

有名人の言葉

ダライ・ラマは
 「科学的発見が仏教の教義と対立したときには、教義が譲らなければならない」
と言っているそうです。


心理学で説明されているものを認知科学で説明すると別の表現になるように、
同じ事柄であっても説明する理論体系が変わると表現の仕方が違ってくることは
様々な分野で起きることでしょう。

重要なのは、その理論体系の中で矛盾が無いということだと思います。

長く続いてきた宗教の持つ論理は見事なものでしょうから
現在の科学では説明しきれない部分に関しても、
仏教の理論体系では説明できているところもあるかもしれません。

一方、科学は原則として、ほとんど全ての理論を仮説として利用し、
いつでも変更できる準備を含んでいるはずです。
矛盾が見つかったら理論を修正することがザラなわけです。

科学で大切なのは、全ての分野において関連しあいながら、矛盾を含むことなく、
論理的に最も上手く説明できる方法を用いるところだと考えられます。

その意味で、科学は常に発展途上にあるものだと思うんです。

そもそも、「科学的発見が仏教の教義と対立する」ためには
お互いの理論体系を照らし合わせて、相互に対応させられる必要があるはずです。

それをすると、より抽象度の低い説明を含む科学の分野が
情報量的に多くの説明を必要とするようになると考えられます。

そのときには、おそらく科学の表現では説明しきれない部分も出てくるでしょう。

ですから、仮に「対立する」状況が起きるためには、まず
教義のほとんど全てを理論的証明と実験的説明で表現しきれるようになる必要がある。
そして、その説明の中に矛盾や不一致が見つかれば、
「対立した」状況と言えるようになる。

それは簡単に起きることではないと思います。

にもかかわらず、そのことについて考えを寄せ、
対立する場合には譲る準備もしているという姿勢には、
科学に対する真摯な評価と、世の中を正確に捉えようとする誠意を感じます。

仏教と科学とを分けて考えることなく、
ただ、人や世の中のほうを向いている。
そんな印象を受けるんです。


…と、ここまで、ダライ・ラマの言葉について
僕が感じた印象を書いてきました。

そこには、明らかに僕が大切だと考えている意見が反映されています。
僕が考えていることと結びつけながら、ダライ・ラマの言葉を引用しているわけです。

もし、同じ言葉を科学をこよなく尊重する人が引用していたとすれば
「仏教のトップだって科学のほうが正しいと認めている」と
極端に解釈することだってあるかもしれません。

一方、受け入れる心の大切さを意識する人が引用したとすると
「対極にある科学に対しても受け入れようとする広い心の持ち方こそが
 受容の精神を何よりも顕著に表わしている」というように解釈するかもしれません。

僕の場合は、日本語に訳された冒頭の言葉を本で見ただけなんです。
ダライ・ラマが、その言葉をどういう流れの中で、
どんな意図で言ったのかは、サッパリわかりません。

もしかすると別の場面では、僕が期待しているのとは真逆のような言葉だって
発言として残っているかもしれないんです。

一文の言葉として残るものは、本人の内面をどの程度あらわしているのでしょうか。

僕が今回のブログ記事で主題として意識している部分は、
冒頭のダライ・ラマの言葉そのものではありません。

「誰かの言葉を引用する」という行為に関してなんです。


ダライ・ラマの言葉を引用して何かを語るとき、
そこにある意味は、語っている本人のものです。

もし引用をするとしたら、単純なダライ・ラマ語録として
一切の余計な情報を追加することなく、元の言葉だけを(せいぜい和訳まで)
列挙するのが、本来の意図に近いメッセージを伝える方法になるでしょう。

引用して何かを追加して説明するのだとしたら、
それは元のメッセージとは違ってくる可能性を秘めています。

特定の言葉を選び出した時点で、選んだ本人の意図に沿ったものを見ているわけですし、
それに選んだ本人の意見を追加でもしようものなら、
元の言葉は単なる題材になってしまいます。

別に引用なんてしなくなって、同じ考えを主張することもできるはずです。
ともすると、権威づけのための引用になってしまう可能性だってあると思います。

確かに、誰かの言葉を引用すると、聞き手(読み手)へのインパクトは高まるでしょう。
心に残りやすくなるものです。

ただ、その目的のためだけに引用するのだとしたら、
それは言葉を残した本人を利用するような行為に感じられてしまいます。

自分の表現したい内容が決まっていて、それのサポートとして引用をするのか。
誰かの言葉を読んで、自分の中に気づきや想いの強まりが生まれたために、
その発見を書くキッカケとして元の言葉も引用しておくのか。

自分が引用することで起きる影響と、
自分が引用したい裏側にある気持ちとを自覚した上で、
元の人物への敬意を持ってするように心がけたいものです。

2010年02月09日

本物らしさ

名古屋出張も、かなり馴染んできた感じがあります。
土産物コーナーを見ていた時期が懐かしい。

それでも土地ごとの味というのは興味深いもので、
名古屋らしい食べ物には今でも少し心が引かれる部分があるようです。

名古屋に来たから名古屋名物を食べようという観光気分とは少し違う感じです。
なんというか、普通に選択肢の一部として組み込まれている印象。

それはフランチャイズの店であっても、コンビニであっても同様で、
興味を引かれたものを手に取っている気がします。


そんな中、先日コンビニで見かけた商品がこちら。
小倉バター味の飴です。

小倉バター





















名古屋といえば「小倉マーガリン」発祥の地ですから、
それと似たような雰囲気でしょうか。

小倉あんの味とバター飴の味が混ざった感じです。

まぁ、良くも悪くも予想通り。
僕にとっては、いたって普通な味わいでした。

強いて言うと、バターの風味というのはマーガリンよりも強いらしく
ちょっと脂っぽい匂いが好みではないかもしれません。

小倉あんは「生どら」に代表されるように生クリームとも相性が良いので、
バターよりもミルク感が強いほうが好きな気がします。

目を引くデザインと、チョット意外に思える味の組み合わせで
名古屋土産としては良さそうです。

今まで一番ビックリしたのは「手羽先風味キャラメル」でしょうか。
手羽先の匂いと甘辛いタレの味とピリッとした黒コショウの風味が独特でした。

多分、小倉バター飴も、キャラメルにしたらクオリティが上がるように思います。
小倉あんの味を再現するには堅い飴は不利な気がするので。


香料と調味料の組み合わせだけで、何かの味を再現するのは難しい作業なんでしょう。
おそらく本物よりも本物っぽくしないといけないでしょうから。

本当に手羽先と同じ味わいで、同じ歯ごたえのガムか何かを作ったら
きっと不満のほうが大きくなってしまうと思います。

そのものの特徴は、本物よりも強調されて印象に残るものです。

本物っぽさを感じさせる要因をピックアップするセンスと
全体の味わいのバランスを取るセンス。
両方が求められるわけです。

似顔絵で人を感動させるのに近い難しさがあるような気がします。

cozyharada at 22:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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