2010年05月
2010年05月30日
学びの相性
品川で過ごしたセミナーの3日間。
非常に有意義なものでした。
色々なレベルでの学びがありました。
今、僕の中で面接やカウンセリングといったもののイメージは
樹形図というか、ネットワークというか、そんなイメージになっています。
もしくは、「 YES/NO 式の」チェック法やアンケートと言ってもいいでしょうか。
「あなたはどのタイプ?」なんて、スタート地点から色々な質問に答えていくと
行き先が枝分かれしていって、最終的にいくつかのゴールに辿り着く。
相槌や質問、言葉かけによってカウンセリング中の会話の流れが変わるわけですが、
そのときに選ぶ言葉によって方向性が選ばれているということです。
どのタイミングで、どんな言葉を選ぶかによって行き先が違ってくる。
ある部分では、質問の選び方によって行き先がグルグルと循環する部分があったり、
あちこちに飛びながら長いルートを通って複数あるうちのゴールに辿り着いたり。
技術の高さは、最短ルートで最も望ましいゴールの場所に
辿り着けるかとして反映されるというイメージです。
僕は具体的な出来事の性質を図式化して理解するのが好きなようですが、
とりあえず複数のカテゴリーに分類して整理するような図の使い方ではなく、
出来事そのものの性質を抽象化した図としてイメージが浮かんできます。
モデル図といったほうが良いかもしれません。
セミナーを受けている最中から、そうした図が浮かんでくることもあれば、
しばらくして振り返って図が浮かぶこともあります。
逆にいえば、セミナーの内容が、自分の中にある図の一部分だけしか説明していないと
僕にとっては、価値が低く感じられてしまうということ。
もちろん、僕の中にあるモデル図に当てはまらない部分や
その図をズームインして細かく作り直す必要があったりすれば、
それは刺激的なインプットとして価値があるんですが、
その量が限りなく少ないと残念な気持ちになってしまいます。
その点、今回の3日間は大きな図式の全体像も描き直されましたし、
その図式の細かい部分をズームアップして見た部分にも沢山の情報が加わりました。
何よりも、技術として見た場合には、言葉のバリエーションを増やせるのが大きい。
この部分は、確実に誰から学ぶかに依存します。
知らない言葉は使えないものです。
その場面で、どんな言葉を選択するか。
その選択肢は、知らなければ浮かびすらしないわけです。
もちろん、パターンとして利用できるからこそ学べるんですが、
そのようなパターンの言葉を発想として持たなければ、口からは出ないはずです。
自分には思いつきもしない言葉の選択肢を持っているトレーナー。
その人から学べるのは大きいと思います。
そして、懐かしい人と会えたのも嬉しかった。
その人がいるだけで学びが促進されることが沢山ありました。
人には相性というものがあるようです。
しばらくぶりに大きな学びの時間になりました。
非常に有意義なものでした。
色々なレベルでの学びがありました。
今、僕の中で面接やカウンセリングといったもののイメージは
樹形図というか、ネットワークというか、そんなイメージになっています。
もしくは、「 YES/NO 式の」チェック法やアンケートと言ってもいいでしょうか。
「あなたはどのタイプ?」なんて、スタート地点から色々な質問に答えていくと
行き先が枝分かれしていって、最終的にいくつかのゴールに辿り着く。
相槌や質問、言葉かけによってカウンセリング中の会話の流れが変わるわけですが、
そのときに選ぶ言葉によって方向性が選ばれているということです。
どのタイミングで、どんな言葉を選ぶかによって行き先が違ってくる。
ある部分では、質問の選び方によって行き先がグルグルと循環する部分があったり、
あちこちに飛びながら長いルートを通って複数あるうちのゴールに辿り着いたり。
技術の高さは、最短ルートで最も望ましいゴールの場所に
辿り着けるかとして反映されるというイメージです。
僕は具体的な出来事の性質を図式化して理解するのが好きなようですが、
とりあえず複数のカテゴリーに分類して整理するような図の使い方ではなく、
出来事そのものの性質を抽象化した図としてイメージが浮かんできます。
モデル図といったほうが良いかもしれません。
セミナーを受けている最中から、そうした図が浮かんでくることもあれば、
しばらくして振り返って図が浮かぶこともあります。
逆にいえば、セミナーの内容が、自分の中にある図の一部分だけしか説明していないと
僕にとっては、価値が低く感じられてしまうということ。
もちろん、僕の中にあるモデル図に当てはまらない部分や
その図をズームインして細かく作り直す必要があったりすれば、
それは刺激的なインプットとして価値があるんですが、
その量が限りなく少ないと残念な気持ちになってしまいます。
その点、今回の3日間は大きな図式の全体像も描き直されましたし、
その図式の細かい部分をズームアップして見た部分にも沢山の情報が加わりました。
何よりも、技術として見た場合には、言葉のバリエーションを増やせるのが大きい。
この部分は、確実に誰から学ぶかに依存します。
知らない言葉は使えないものです。
その場面で、どんな言葉を選択するか。
その選択肢は、知らなければ浮かびすらしないわけです。
もちろん、パターンとして利用できるからこそ学べるんですが、
そのようなパターンの言葉を発想として持たなければ、口からは出ないはずです。
自分には思いつきもしない言葉の選択肢を持っているトレーナー。
その人から学べるのは大きいと思います。
そして、懐かしい人と会えたのも嬉しかった。
その人がいるだけで学びが促進されることが沢山ありました。
人には相性というものがあるようです。
しばらくぶりに大きな学びの時間になりました。
2010年05月28日
貴重な体験
金曜日から品川でワークショップです。
面接を中心に技術的なトレーニング。
情報量が多いので、沢山インプットしておくのが目的といったところでしょうか。
学習の最中から整理をしたほうが効率的なことと、
とりあえず情報量を増やしておいて、あとから整理したほうが効率的なことがあります。
そこは自分の意識の中で分けながら進めていきたいものです。
ただ、重要度が高いのは情報量を増やす段階。
整理するのは後からでもできますが、価値の高い情報を得られる機会は少ないですから。
一度の学習で何を、どのレベルまで求めるかは人それぞれだと思いますが、
できるようになることと、知識を得ることは違います。
さらに知識を得ることと、情報量を増やすことも違います。
僕の中のニュアンスとして、知識は整理された形であって
ある程度の抽象度の高さを持った情報として理解できている状態です。
それに対して、情報量を増やすというのは、抽象度の高低を含め
とにかくインプットする量を増やしておくことです。
体験学習というのは、情報量の多さという意味で有意義ですし、
自分の知らない内容を提供してもらえると、
知識として整理される前に多くのことをインプットできます。
一時的に混乱になりますが、それで良いんです。
整理して知識に置き換えていくのは後のプロセス。
知識を仕入れて理解できた時は、自分の中で体験として
すでに持っている情報を仕分けしただけだと考えられます。
むしろ、自分の中に無い情報をインプットできたときのほうが
後々を考えると価値が出てくると思います。
そういう意味で、整理を目的とせずに
情報量を増やすことを目的にワークショップに参加すると
心地良い混乱を楽しめるんです。
適度なグチャグチャ感が望ましいようです。
面接を中心に技術的なトレーニング。
情報量が多いので、沢山インプットしておくのが目的といったところでしょうか。
学習の最中から整理をしたほうが効率的なことと、
とりあえず情報量を増やしておいて、あとから整理したほうが効率的なことがあります。
そこは自分の意識の中で分けながら進めていきたいものです。
ただ、重要度が高いのは情報量を増やす段階。
整理するのは後からでもできますが、価値の高い情報を得られる機会は少ないですから。
一度の学習で何を、どのレベルまで求めるかは人それぞれだと思いますが、
できるようになることと、知識を得ることは違います。
さらに知識を得ることと、情報量を増やすことも違います。
僕の中のニュアンスとして、知識は整理された形であって
ある程度の抽象度の高さを持った情報として理解できている状態です。
それに対して、情報量を増やすというのは、抽象度の高低を含め
とにかくインプットする量を増やしておくことです。
体験学習というのは、情報量の多さという意味で有意義ですし、
自分の知らない内容を提供してもらえると、
知識として整理される前に多くのことをインプットできます。
一時的に混乱になりますが、それで良いんです。
整理して知識に置き換えていくのは後のプロセス。
知識を仕入れて理解できた時は、自分の中で体験として
すでに持っている情報を仕分けしただけだと考えられます。
むしろ、自分の中に無い情報をインプットできたときのほうが
後々を考えると価値が出てくると思います。
そういう意味で、整理を目的とせずに
情報量を増やすことを目的にワークショップに参加すると
心地良い混乱を楽しめるんです。
適度なグチャグチャ感が望ましいようです。
2010年05月26日
先を見通すこと
久しぶりに会社の先輩と飲みに行きました。
3年半ぶりぐらいでしょうか。
東京の研究所にいたとき、隣の席だった人。
会社にいながらも見ている世界が僕と近いところがあったので
あまり研究者同士ではしないような話もしていたものです。
それが久しぶりにできたわけですから
懐かしさも刺激も大きかった。
1つの会社にいると、その会社の中の視点以外は持ちにくいものだと思います。
1つの部署にしかいなければ、その視点はさらに狭くなる。
大学で研究をしていた人が、会社の研究所に入って研究職を続けるという場合、
どうしても、その研究対象にばかり注意が向きやすくなるでしょう。
だからこそ、会社組織の中では異動によって視野を広げようとするんだと思いますが、
同じ会社の中であれば、見える範囲は限られているのも当然のこと。
社長の視点は会社の中からは滅多に想像できません。
今の僕の日常生活で、自然と目に入り、意識に上がって、気になって考えることは
会社にいた頃とは全く変わっています。
それも仕事内容や関わる世界が変わったことと関係しているはずです。
逆にいえば、会社にいたときから少しは外を意識していたからこそ
会社を離れるという方向に気持ちが向いたんだとも考えられます。
その先輩は会社にいながらも、とても広い視野を持っている人。
そこまで広い視野を持てるのは、環境要因だけでなく
本人の素養も関係しているような気がします。
僕の視野には国際社会は滅多に飛び込んできません。
どちらかというと細かいところに目がいきます。
細かいところを細かくやるだけでは不十分で
色々なことを細かく理解して根底にあるものを見たい。
そんな好みがあるから、会社の研究だけでは物足りなかったんだと思います。
つまり、環境要因から要求される視野と
個人の好みとして持っている視野とがあるということ。
個人の好みとしての視野が環境として求められる視野と一致していれば快適でしょう。
その道の専門家として職人的な道を極めることも可能だと思います。
ただ、多くの人は自分の好みの視野を意識せずに
環境として求められる視野ばかりを見るものかもしれません。
見えないことは意識に上がりませんから
見ないことで楽にいられる部分もあるものです。
見てしまったら、目を背けたとしても、見る前には戻れない。
そして、見えることには面白さもあります。
そうなるともう、「好みの視野で見たい」と思うかどうかです。
僕個人の好みとしては、自分の好みの視野で世の中を見ている人と話すのは楽しいです。
自分と違う視野には好奇心や驚き、刺激が感じられますし、
自分と近い視野には共感的な喜びが感じられます。
先輩と話していて強く感じたのは、随分と時間が経ったということ。
僕の知っている元同僚たちは、皆、組織の中での立場を進めているようです。
同期や1つ後輩ぐらいまでは、研究所の中で中堅になっている。
僕が入社した時の直属の上司は、研究所の所長にまでなっているそうですし。
企業の研究員というのは概して研究寿命が短いもののようです。
研究を取り仕切る立場、グループのトップぐらいになるのは40歳前後。
大学院を出てから入社するケースが大半ですから、実質15年ぐらい。
24,5歳で新入社員として研究活動を開始して
研究部門のトップになるのが15〜20年後。
僕のいた会社では20年間、研究活動を実際に続ける人は一部に過ぎません。
部門のリーダーになる人数は限られていますから、
途中で多くの研究員は他の部署に出ていくことにもなります。
トップになればなったで、自分の手で研究を進める時間も減ってしまう。
会社の中で研究者としての時間は短いんです。
僕が入社した時のイメージでいえば、30代後半から管理職になり始める時期ですが、
研究所以外の管理職が何をする仕事かなどは全くイメージできませんでした。
当然、その先はもっと分からない。
身近なところで先輩として見ていた年代、中堅の人たちは入社6,7年目の世代でした。
10年も離れていれば、それはもう上司として関わる人たち。
そして15年あたりからは管理職です。
視野に入る範囲は、この管理職になるあたりまででした。
管理職になってから20年前後は会社にいるわけですから、
会社員人生の半分にも満たない範囲までしか見えていなかったと言えます。
極端なイメージとしては、会社員としての道が40代前半までしかなく、
その先は真っ暗な景色になっている感じ。
途中で「ブツっ」と途切れているような気がしていました。
(まぁ、僕の場合、大学に戻るような予測もしていたんですが…)
世間一般で見ても、関わる人との経験からも、発達心理の観点からしても、
世の中にアウトプットして自分の人生を形として残すタイミングが
40代あたりからのことが多いものです。
今の僕は人生全般を意識するような仕事をしていますし、
様々な年代の方と接する機会を持っていますから
人生における時期というものを幅広く見ています。
しかし、会社に入ったときの僕は40歳ぐらいまでしか見えていなかったんです。
いや、多分、ほとんどの人がそうだっただろうと思います。
そういう話しかしませんでしたし。
僕が会社に残っていたとしたら、今の年代は研究員としてベテランの域です。
言い換えると、先の目標が見えなくなり始める時期。
会社にいたときには随分先のことだと思っていた世代に
もう辿りついてしまっていたんです。
随分と時間が経っていたんだなぁと実感しました。
反面、僕の視野は会社にいた頃よりも広がっているので
進む先は長く広く続いているように感じられています。
やれることは多い。
自分の好みの視野の範囲で見えてくるものに、進んで行けるんだと思います。
見えていれば、それだけ可能性が広がるということでしょう。
3年半ぶりぐらいでしょうか。
東京の研究所にいたとき、隣の席だった人。
会社にいながらも見ている世界が僕と近いところがあったので
あまり研究者同士ではしないような話もしていたものです。
それが久しぶりにできたわけですから
懐かしさも刺激も大きかった。
1つの会社にいると、その会社の中の視点以外は持ちにくいものだと思います。
1つの部署にしかいなければ、その視点はさらに狭くなる。
大学で研究をしていた人が、会社の研究所に入って研究職を続けるという場合、
どうしても、その研究対象にばかり注意が向きやすくなるでしょう。
だからこそ、会社組織の中では異動によって視野を広げようとするんだと思いますが、
同じ会社の中であれば、見える範囲は限られているのも当然のこと。
社長の視点は会社の中からは滅多に想像できません。
今の僕の日常生活で、自然と目に入り、意識に上がって、気になって考えることは
会社にいた頃とは全く変わっています。
それも仕事内容や関わる世界が変わったことと関係しているはずです。
逆にいえば、会社にいたときから少しは外を意識していたからこそ
会社を離れるという方向に気持ちが向いたんだとも考えられます。
その先輩は会社にいながらも、とても広い視野を持っている人。
そこまで広い視野を持てるのは、環境要因だけでなく
本人の素養も関係しているような気がします。
僕の視野には国際社会は滅多に飛び込んできません。
どちらかというと細かいところに目がいきます。
細かいところを細かくやるだけでは不十分で
色々なことを細かく理解して根底にあるものを見たい。
そんな好みがあるから、会社の研究だけでは物足りなかったんだと思います。
つまり、環境要因から要求される視野と
個人の好みとして持っている視野とがあるということ。
個人の好みとしての視野が環境として求められる視野と一致していれば快適でしょう。
その道の専門家として職人的な道を極めることも可能だと思います。
ただ、多くの人は自分の好みの視野を意識せずに
環境として求められる視野ばかりを見るものかもしれません。
見えないことは意識に上がりませんから
見ないことで楽にいられる部分もあるものです。
見てしまったら、目を背けたとしても、見る前には戻れない。
そして、見えることには面白さもあります。
そうなるともう、「好みの視野で見たい」と思うかどうかです。
僕個人の好みとしては、自分の好みの視野で世の中を見ている人と話すのは楽しいです。
自分と違う視野には好奇心や驚き、刺激が感じられますし、
自分と近い視野には共感的な喜びが感じられます。
先輩と話していて強く感じたのは、随分と時間が経ったということ。
僕の知っている元同僚たちは、皆、組織の中での立場を進めているようです。
同期や1つ後輩ぐらいまでは、研究所の中で中堅になっている。
僕が入社した時の直属の上司は、研究所の所長にまでなっているそうですし。
企業の研究員というのは概して研究寿命が短いもののようです。
研究を取り仕切る立場、グループのトップぐらいになるのは40歳前後。
大学院を出てから入社するケースが大半ですから、実質15年ぐらい。
24,5歳で新入社員として研究活動を開始して
研究部門のトップになるのが15〜20年後。
僕のいた会社では20年間、研究活動を実際に続ける人は一部に過ぎません。
部門のリーダーになる人数は限られていますから、
途中で多くの研究員は他の部署に出ていくことにもなります。
トップになればなったで、自分の手で研究を進める時間も減ってしまう。
会社の中で研究者としての時間は短いんです。
僕が入社した時のイメージでいえば、30代後半から管理職になり始める時期ですが、
研究所以外の管理職が何をする仕事かなどは全くイメージできませんでした。
当然、その先はもっと分からない。
身近なところで先輩として見ていた年代、中堅の人たちは入社6,7年目の世代でした。
10年も離れていれば、それはもう上司として関わる人たち。
そして15年あたりからは管理職です。
視野に入る範囲は、この管理職になるあたりまででした。
管理職になってから20年前後は会社にいるわけですから、
会社員人生の半分にも満たない範囲までしか見えていなかったと言えます。
極端なイメージとしては、会社員としての道が40代前半までしかなく、
その先は真っ暗な景色になっている感じ。
途中で「ブツっ」と途切れているような気がしていました。
(まぁ、僕の場合、大学に戻るような予測もしていたんですが…)
世間一般で見ても、関わる人との経験からも、発達心理の観点からしても、
世の中にアウトプットして自分の人生を形として残すタイミングが
40代あたりからのことが多いものです。
今の僕は人生全般を意識するような仕事をしていますし、
様々な年代の方と接する機会を持っていますから
人生における時期というものを幅広く見ています。
しかし、会社に入ったときの僕は40歳ぐらいまでしか見えていなかったんです。
いや、多分、ほとんどの人がそうだっただろうと思います。
そういう話しかしませんでしたし。
僕が会社に残っていたとしたら、今の年代は研究員としてベテランの域です。
言い換えると、先の目標が見えなくなり始める時期。
会社にいたときには随分先のことだと思っていた世代に
もう辿りついてしまっていたんです。
随分と時間が経っていたんだなぁと実感しました。
反面、僕の視野は会社にいた頃よりも広がっているので
進む先は長く広く続いているように感じられています。
やれることは多い。
自分の好みの視野の範囲で見えてくるものに、進んで行けるんだと思います。
見えていれば、それだけ可能性が広がるということでしょう。
2010年05月24日
「NLP」とは何か?
名前が指し示すものには、いくつかのタイプがあるようです。
特に、学問の分野においては、大きく2方向の呼び方に分類できるでしょう。
それは
『何を扱うか』と
『どのように扱うか』
の方向性です。
例えば、「社会学」「文学」「経済学」「政治学」「言語学」といったものは
『何を扱うか』が呼び名に反映されているパターンです。
社会を題材に扱えば「社会学」と呼び、
経済を題材に扱えば「経済学」と呼ぶわけです。
逆に、「数学」「物理学」「化学」などは
『どのように扱うか』が呼び名と関係している。
何かの対象を「数学」で扱ったり、「物理」で扱ったりします。
原子や分子などの粒子を意識しながら説明していくのが「化学」だとすると、
粒子の間にかかる力を意識しながら説明していくのが「物理」といった具合。
実際、大学にいたとき、物理でも化学でもDNAを対象とすることはありました。
どのような説明の仕方をするかによって、呼び名が違うということです。
「心理学」や「生物学」は中間ぐらいのような印象があります。
心に関して扱えば「心理学」であるのと同時に、
「心理学」には独特の調査スタイルがありますから
「心理学」の説明の仕方というのもあると考えられます。
いずれにせよ、抽象度が違う、と説明できます。
数学は物理、化学よりも抽象度が高く、
物理、化学よりも心理学や生物学のほうが抽象度が低い。
『何を扱うか』の度合いが高く、ターゲットが明確になってくるほど
抽象度も下がっていきます。
経済学にも、化学にも、数学が前提として使われますが
「〜数学」とは呼ばれないようです。
抽象度の低いほうが呼び名としては分かりやすいんでしょう。
『何を扱うか』で呼び名が決まっているような抽象度の低い(=具体的な)分野は
詳しく知らない人からでも何となく想像しやすいものです。
「言語学?あぁ、言葉について勉強しているのね」といった感じ。
内容は全く知らなくても、多少はイメージができる。
こういうことは学問だけの話ではありません。
「牛肉料理」と言われれば、「牛肉を使っているんだろうな」と想像できますが、
「スウェーデン料理」と言われても、スウェーデンに行ったことのない人には
どんな内容なのかが分からないはずです。
同様に、「コーチング」と言われれば、「誰かのコーチをするんだろう」と
詳しく知らない人でも大雑把な想像ができると思います。
「コンサルティング」と言われて、カタカナの意味がわからなかったとしても
「仕事上の相談を受けて、アドバイスをする仕事」と説明してもらえれば
その中身を想像するのは難しくないでしょう。
コーチングもコンサルティングも『何を扱うか』の視点で
その内容が分類されているわけです。
ところが「NLP」と言われても、知らない人には想像すらできません。
NLPは『何を扱うか』という観点で理解するものではないんです。
「NLPはコミュニケーション・スキルだ」とか
「NLPは実践心理学だ」とか言われることがありますが、
これは随分と乱暴な説明の仕方だと思います。
「心理学」には、心を扱うという『何を扱うか』の視点と
心理学特有の視点で説明するという『どのように扱うか』の視点の
両方が含まれていますが、
NLPは、心に限らず運動能力なども対象に含みますし
その扱い方は心理学の手法とは真逆のスタイルだと言えます。
NLPは心理学の内側に入れられるものではありません。
NLPは人に関することが中心ですから、コミュニケーションは重要なテーマですが、
「コミュニケーションを扱う技術」として『何を扱うか』の視点から見てしまうと
その対象は幅が広すぎて収まりきらないでしょう。
1つ確実なのは、NLPでは飛行機が飛ぶ理由などは説明しませんから、
「人に関するものを扱うのがNLP」という表現はあり得るかもしれません。
ただ、遺伝子を調べてどうこう…といった作業はNLPには出てこないので
「人に関するものを扱う」だけでは十分な説明とも言えません。
また、場合によっては
「上手くいく方法をまとめ上げたもの」
と説明されることもあります。
上手くいっている人を分析して作られてきた部分があるのは、
NLPの背景に一致する部分ではあります。
だからといって、「上手くいくやり方を説明していればNLPだ」
と言ってしまうのは、かなり強引だと思います。
世の中のセミナーの多くや、ビジネス書の類は
基本的に講師・著者が上手くいく方法を見出して
それを紹介することで成り立っているものです。
自分が上手くいく方法をコツとして掴んで、それを誰かに伝える。
そういう作業は日常生活の至る所にあるでしょう。
母親から伝えられる「お袋の味」だって、スポーツの技術だって、
絵画教室や音楽教室で教わる内容だって、上手くいく方法を習っているわけです。
じゃあ、それらがNLPか?
そうではないはずです。
中には、NLPのことを知らないのに自分の経験から、
NLPのセミナーで伝えられるような内容を実践している人もいます。
例えば、新入社員として会社に入ったとき、先輩の真似をしながら仕事を覚えていく。
NLPでは「モデリング」として紹介される方法ですが、
その人がNLPをやっていたと言えるのでしょうか?
また、中学校の先生で厳しい先生がいて苦手だったとします。
ところが卒業式のときに、その先生が涙を流しているのを見た。
そして、最後に熱い握手をして、涙目のままニッコリ微笑んでくれた。
…そうすれば、そんな先生を見た生徒は、先生への見方が変わるでしょう。
厳しかったけど良い先生だったなぁ、と。
その生徒の中ではリフレーミングが起きていると説明できます。
別にその先生も生徒も、NLPをしているわけではない。
当たり前に、その人らしいことをしているんです。
日常に、そうしたことは沢山あるものです。
重要なのは、NLPが「人に関わること」を説明するための視点だということです。
NLPには技術も沢山含まれていますが、その前に共通する視点がある。
基本になる概念があるんです。
真似をしながら学んでいくプロセスをNLPでは「モデリング」と呼ぶことにした。
物事の見方を変えることで意味づけを変え、体験の印象を変えていくことを
NLPでは「リフレーミング」と呼ぶことにした。
同時に起きたことは、意味として無関係でも、関係のあることとして記憶される、
その性質を「アンカー」と呼ぶことにした。
そういう決めごとがNLPの中にあるんです。
そして、その概念や用語を使って世の中の内容を説明したら
それはNLPを使っていることになると言えます。
つまり、NLPは『どのように扱うか』のほうなんです。
『何を扱うか』は関係ない。
どんなものでもNLPで扱えます。
NLPの用語と概念で物事を考え、説明することができれば、それはNLPなんです。
イチローのバッティングフォームを物理のの人が力学的に説明したら、
それは物理学の内容になります。
イチローの行動パターンをNLPの言葉で説明したら、
それはNLPの内容になります。
同じものでも、どのように記述するかによって、分野が分かれるんです。
「NLPとは何をするものか?」という問い自体がズレていると思います。
「NLPとは、どんなものですか?」という質問なら答えられます。
人の行動や感情、反応といった「振る舞い」の理由を分析して説明するための理論。
それがNLPです。
NLPで使われる概念がある。
それを集めて体系化した理論がNLPだと言えます。
その理論に基づいた応用技術が沢山あって、
セミナーでは、その応用技術が紹介されるんです。
物理で説明するか、化学で説明するか、心理学で説明するか、NLPで説明するか。
コーチングやカウンセリングよりも抽象度が高いんです。
特に、学問の分野においては、大きく2方向の呼び方に分類できるでしょう。
それは
『何を扱うか』と
『どのように扱うか』
の方向性です。
例えば、「社会学」「文学」「経済学」「政治学」「言語学」といったものは
『何を扱うか』が呼び名に反映されているパターンです。
社会を題材に扱えば「社会学」と呼び、
経済を題材に扱えば「経済学」と呼ぶわけです。
逆に、「数学」「物理学」「化学」などは
『どのように扱うか』が呼び名と関係している。
何かの対象を「数学」で扱ったり、「物理」で扱ったりします。
原子や分子などの粒子を意識しながら説明していくのが「化学」だとすると、
粒子の間にかかる力を意識しながら説明していくのが「物理」といった具合。
実際、大学にいたとき、物理でも化学でもDNAを対象とすることはありました。
どのような説明の仕方をするかによって、呼び名が違うということです。
「心理学」や「生物学」は中間ぐらいのような印象があります。
心に関して扱えば「心理学」であるのと同時に、
「心理学」には独特の調査スタイルがありますから
「心理学」の説明の仕方というのもあると考えられます。
いずれにせよ、抽象度が違う、と説明できます。
数学は物理、化学よりも抽象度が高く、
物理、化学よりも心理学や生物学のほうが抽象度が低い。
『何を扱うか』の度合いが高く、ターゲットが明確になってくるほど
抽象度も下がっていきます。
経済学にも、化学にも、数学が前提として使われますが
「〜数学」とは呼ばれないようです。
抽象度の低いほうが呼び名としては分かりやすいんでしょう。
『何を扱うか』で呼び名が決まっているような抽象度の低い(=具体的な)分野は
詳しく知らない人からでも何となく想像しやすいものです。
「言語学?あぁ、言葉について勉強しているのね」といった感じ。
内容は全く知らなくても、多少はイメージができる。
こういうことは学問だけの話ではありません。
「牛肉料理」と言われれば、「牛肉を使っているんだろうな」と想像できますが、
「スウェーデン料理」と言われても、スウェーデンに行ったことのない人には
どんな内容なのかが分からないはずです。
同様に、「コーチング」と言われれば、「誰かのコーチをするんだろう」と
詳しく知らない人でも大雑把な想像ができると思います。
「コンサルティング」と言われて、カタカナの意味がわからなかったとしても
「仕事上の相談を受けて、アドバイスをする仕事」と説明してもらえれば
その中身を想像するのは難しくないでしょう。
コーチングもコンサルティングも『何を扱うか』の視点で
その内容が分類されているわけです。
ところが「NLP」と言われても、知らない人には想像すらできません。
NLPは『何を扱うか』という観点で理解するものではないんです。
「NLPはコミュニケーション・スキルだ」とか
「NLPは実践心理学だ」とか言われることがありますが、
これは随分と乱暴な説明の仕方だと思います。
「心理学」には、心を扱うという『何を扱うか』の視点と
心理学特有の視点で説明するという『どのように扱うか』の視点の
両方が含まれていますが、
NLPは、心に限らず運動能力なども対象に含みますし
その扱い方は心理学の手法とは真逆のスタイルだと言えます。
NLPは心理学の内側に入れられるものではありません。
NLPは人に関することが中心ですから、コミュニケーションは重要なテーマですが、
「コミュニケーションを扱う技術」として『何を扱うか』の視点から見てしまうと
その対象は幅が広すぎて収まりきらないでしょう。
1つ確実なのは、NLPでは飛行機が飛ぶ理由などは説明しませんから、
「人に関するものを扱うのがNLP」という表現はあり得るかもしれません。
ただ、遺伝子を調べてどうこう…といった作業はNLPには出てこないので
「人に関するものを扱う」だけでは十分な説明とも言えません。
また、場合によっては
「上手くいく方法をまとめ上げたもの」
と説明されることもあります。
上手くいっている人を分析して作られてきた部分があるのは、
NLPの背景に一致する部分ではあります。
だからといって、「上手くいくやり方を説明していればNLPだ」
と言ってしまうのは、かなり強引だと思います。
世の中のセミナーの多くや、ビジネス書の類は
基本的に講師・著者が上手くいく方法を見出して
それを紹介することで成り立っているものです。
自分が上手くいく方法をコツとして掴んで、それを誰かに伝える。
そういう作業は日常生活の至る所にあるでしょう。
母親から伝えられる「お袋の味」だって、スポーツの技術だって、
絵画教室や音楽教室で教わる内容だって、上手くいく方法を習っているわけです。
じゃあ、それらがNLPか?
そうではないはずです。
中には、NLPのことを知らないのに自分の経験から、
NLPのセミナーで伝えられるような内容を実践している人もいます。
例えば、新入社員として会社に入ったとき、先輩の真似をしながら仕事を覚えていく。
NLPでは「モデリング」として紹介される方法ですが、
その人がNLPをやっていたと言えるのでしょうか?
また、中学校の先生で厳しい先生がいて苦手だったとします。
ところが卒業式のときに、その先生が涙を流しているのを見た。
そして、最後に熱い握手をして、涙目のままニッコリ微笑んでくれた。
…そうすれば、そんな先生を見た生徒は、先生への見方が変わるでしょう。
厳しかったけど良い先生だったなぁ、と。
その生徒の中ではリフレーミングが起きていると説明できます。
別にその先生も生徒も、NLPをしているわけではない。
当たり前に、その人らしいことをしているんです。
日常に、そうしたことは沢山あるものです。
重要なのは、NLPが「人に関わること」を説明するための視点だということです。
NLPには技術も沢山含まれていますが、その前に共通する視点がある。
基本になる概念があるんです。
真似をしながら学んでいくプロセスをNLPでは「モデリング」と呼ぶことにした。
物事の見方を変えることで意味づけを変え、体験の印象を変えていくことを
NLPでは「リフレーミング」と呼ぶことにした。
同時に起きたことは、意味として無関係でも、関係のあることとして記憶される、
その性質を「アンカー」と呼ぶことにした。
そういう決めごとがNLPの中にあるんです。
そして、その概念や用語を使って世の中の内容を説明したら
それはNLPを使っていることになると言えます。
つまり、NLPは『どのように扱うか』のほうなんです。
『何を扱うか』は関係ない。
どんなものでもNLPで扱えます。
NLPの用語と概念で物事を考え、説明することができれば、それはNLPなんです。
イチローのバッティングフォームを物理のの人が力学的に説明したら、
それは物理学の内容になります。
イチローの行動パターンをNLPの言葉で説明したら、
それはNLPの内容になります。
同じものでも、どのように記述するかによって、分野が分かれるんです。
「NLPとは何をするものか?」という問い自体がズレていると思います。
「NLPとは、どんなものですか?」という質問なら答えられます。
人の行動や感情、反応といった「振る舞い」の理由を分析して説明するための理論。
それがNLPです。
NLPで使われる概念がある。
それを集めて体系化した理論がNLPだと言えます。
その理論に基づいた応用技術が沢山あって、
セミナーでは、その応用技術が紹介されるんです。
物理で説明するか、化学で説明するか、心理学で説明するか、NLPで説明するか。
コーチングやカウンセリングよりも抽象度が高いんです。
2010年05月22日
制限となるビリーフ
心理療法やコーチング、NLP、自己啓発系の内容などでは
『ビリーフ』という考え方が良く用いられます。
人が持っている思い込み。
心の中にある信念や観念。
ルールのようなものです。
僕の説明では、「自分ルール」とか「本人が利用している経験則」といったところ。
自分の体験から「人生とは、こういうものだ」、「こんなときには、こうなるんだ」
などと人生の様々な局面におけるパターンを抽出して捉えたものと言えます。
当然、自分自身に対しても「大体、自分ってこういう傾向があるなぁ」と捉えて
「私は〜だ」という自己認識を持つようになる。
重要なのは、ビリーフという言葉の内容として表わされる事柄ではなくて
人生の色々な場面における傾向を捉えている部分です。
つまり、「電車の中では静かにしているほうが良い」というビリーフも
自分の人生では、そのように意識したほうが上手くいっただけであって、
絶対にそのビリーフに従って行動や反応をしてきたわけではない、ということです。
場合によっては、誰かと話をしたことだってあったかもしれません。
程度問題があるわけです。
本人の中で、許容範囲がある。
その許容範囲は「ビリーフ」として語られる言葉の内容では言い表せません。
「ビリーフ」という言葉の内容で語られる部分は表面のところであって、
その実態は本人の中で経験則としてパターン化された内容のはずです。
ところが、世の中では「ビリーフ」という発想に力を入れ過ぎて
その「ビリーフ」と呼ばれる言葉の内容が、その人の人生を決めている
と考えるような流派があります。
例えば、幼少期に、親から「もう勝手にしなさい!」と怒られた経験から
「自分は一人で頑張らなければいけない」というビリーフを身につけたとします。
すると、そのビリーフに従って、大人になってからも
他人に頼ることなく自分の力で何でも成し遂げようとする、と。
確かに、そういう傾向はあるでしょう。
でも、それはあくまで傾向なんです。
一人で頑張ろうとする姿勢の強さに、幼少期の育ちが影響している可能性は高い。
なぜなら、幼少期には色々な可能性を持って広い視野から解決策を考えることは
普通なかなかできないものだからです。
どうしても、成熟した発想から冷静に見れば最善とは言えないような行動であっても
その場の対応として選択されてしまうことがあるものです。
仮に誰から見てもベストな対応をするときがあっても、そうでない時も必ずある。
あまり良くない対応をしてしまったときがポイントです。
それで対応したことを学習してしまうから。
幼少期にはビリーフが作られやすいのではなく、
多くの体験を始めてのこととして学んでいくため
学習のプロセスとして色々なパターンを取りこんでしまいやすい時期だと考えられます。
あまり賢いやり方じゃなかったとしてもパターンとして学んでしまう。
すると、似たような状況では、そのパターンで対応するようになるわけです。
あたかも、そのことをビリーフとして決心したかのように。
幼少期が人生における対応のパターンを見につける時期として重要なのは同意しますが、
その時期に作ったビリーフに沿って人が生きているわけではないと思うんです。
パターンに当てはめて対応しやすいことと、
ビリーフという言葉の内容に従って判断することとは別物でしょう。
僕が、このビリーフという言葉の内容と、
その中身として存在している経験則として身につけたパターンとを
分けて考えようとするのは、言葉として語られたときのリスクを考えてのことです。
自分の人生のパターンを言葉として断定的に話す、つまりビリーフの形で言語化すると、
まるで実際に自分の中にそのようなビリーフがあって
それに従って生きてしまっているかのような印象を持つ人が出てくる可能性がある。
ビリーフが説明されるときには、行動に制約を加えるようなビリーフを
「制限となるビリーフ(リミッティング・ビリーフ)」などと言ったりしますが、
ビリーフを言葉にして理解したことで、その傾向を強く自覚してしまっては
『ビリーフ』という発想そのものが「制限となる」ものになってしまいます。
自分の人生一般を眺めてみたときに、控えめな行動を取ることが多かったと感じるのと、
それを「自分は控えめな人間だ」と思い込みのように言語化してしまうのでは
随分と違った結果になることがあるものです。
言語化して断言したときに、他の可能性に目が向きにくくなる。
「自分は7割ぐらいの確率で、控えめな振る舞いをすることが多い」
というほうが正確でしょう。
前にも書きましたが、自分の発言内容に対して
言葉に確信の度合いをどれくらい持っているかを自覚するのが大切です。
ビリーフを意識するときには、特に重要なはずです。
そのビリーフを何%ぐらい確信しているか、です。
このことを意識しないままにビリーフを学んでいくと、ちょっと怖いときがあります。
いや、実際に自分の過去として誤解していたこともあります。
それは『コア・ビリーフ』という発想について。
人間のビリーフには中心になるものがあって、それをコア・ビリーフという、と。
ビリーフを「なぜ、なぜ?」と深堀りしていくと出てくるものです。
大きく3つに分けられると言われます。
「私には価値がない」
「私には能力がない」
「私には希望がない」
このうちのどれかを人は必ず持っているものだという考え方です。
この話を始めて聞いたのは、NLPを始めたばかりの頃でした。
自分には、どれがあるだろう?
そう考えて探っていくと、どうやら「価値がない」がありそうに感じられる。
自分の中には本質的に「価値がない」と思っているところがあるように思えたわけです。
自分の存在だけでは十分ではない。
自分は頑張らないと価値がない。
そんな感じ。
だから自分は自分の価値を証明するために努力をするのだろう。
自分ひとりで頑張ろうとするのは、そのためかと考えました。
そういうことを思ったものですが、実際に周りを見渡しても
自分の存在価値を存在そのもので実感できている人は滅多にいなく、
何かをすることで価値を証明しようとする人が多いように思えました。
なるほど、という気分でした。
逆に「能力がない」の人もいるように感じられました。
上手く他人に頼れる人。
自分に能力がないことを知っているから他人の力に頼れる。
言い換えれば、自分に能力がなかったとしても大丈夫だと思えているのでしょう。
それは存在そのものの価値を知っているから。
「能力がない」の人は「価値がない」わけではないので
存在そのものの価値があるために、能力のなさを意識するということです。
そうした目線で眺めていくと、世の中は確かにそのように見えてくるものです。
自分には価値がないと思い込んだ時期がありました。
まぁ、心のどこかで自分の存在そのもの価値を
認めていないところがあったのかもしれません。
でも、実際に存在価値を全く認めていないかといえば
それは違いました。
もし「何%ぐらい価値がないと思っているのか?」と聞かれれば
多分、当時の僕でも40%とか答えていた気がします。
にもかかわらず、「自分には価値がない」という言葉を元に自分を見つめると
自分の存在そのものの価値を実感できていない部分に目が向くようになる。
そこばかりを意識していました。
それは、あまり役に立たない視点だったように振り返っています。
それよりは自分に価値があると思えている度合いを意識する。
その根拠を自覚する。
その上で、もっと価値があると思えるようになるために
何が必要かを意識していく。
そのほうが効果的だと考えられます。
コア・ビリーフという発想は、自分の中で100%満たされていない根源的な気持ちを
欠けた部分に目を向けて言葉に表現したものではないでしょうか。
コアビリーフの内容は、
セルフ・エスティーム(自尊感情)と
セルフ・エフィカシー(自己効力感)
の組み合わせで説明できるはずです。
つまり、エスティームが不足している度合いを「価値がない」と表現し、
エフィカシーが不足している度合いを「能力がない」と表現する。
両方が不足しているときは、「希望がない」という言い回し。
一言でいえば、どれくらい『自信』があるか、ということです。
能力に自信のある人もいれば、存在そのものの価値に自信がある人もいる。
エスティームとエフィカシーの総量としての自信をある程度持ち合わせていると、
多いほうを更に高めていくように努力するケースが多いように見受けられます。
実際には不足しているほうを直接的に満たすほうが楽になれますが、
不足感は行動の原動力でもあるので無理に不足分を満たす必要もないとは思いますが。
それなりにエフィカシーもエスティームも持っていたとしても、
足りないところに目を向けていけば見つけられてしまうものでしょう。
それがコア・ビリーフとして表現される。
「私には価値がない」とか、「私には能力がない」とか。
正確には、エスティームが何%ぐらい満たされていて
エフィカシーが何%ぐらい満たされているか、ということじゃないでしょうか。
なのに、それを「コア・ビリーフ」として3つの言い回しに含めてしまう。
それは全員にコア・ビリーフがあることになるでしょう。
ビリーフという発想に寄せて説明すれば、
「コア・ビリーフの強さに個人差がある」ということです。
そこを無視して「価値がない」とか「能力がない」とかの言い回しをしてしまうと
その言い回し自体が本人を縛り付ける可能性が生まれてしまいます。
大雑把にまとめてはいけないものを、ひとまとめにしている気がするんです。
まして、その言葉として表されている部分をビリーフチェンジしようとしても
一筋縄でいくものではないと考えるのが自然でしょう。
エスティームやエフィカシーは人生の経験全てを通して
自分全体の価値や能力を自ら評価しているものなのですから。
自分の価値を実感できるような体験を積み重ねていく。
自分の能力を評価する経験を積み上げていく。
強く実感できるような体験をしてもらうことは
セラピーとしてもコーチングとしても役立ちますが、
できるのはそこまでだろうと思います。
自分のコア・ビリーフが「私には価値がない」だったから、
それを「私は人を幸せにする」に変えるというのは、
どういう仕組みなのかが僕には理解できません。
できるのは価値と能力に対する自己評価を高めていくための
地道な作業だけじゃないでしょうか。
ビリーフが変わった後には、きっとこんな言い回しになるはずです。
「私には、まぁそれなりに生きている価値がある」
「私は、ここにいていいんだ」
「私も結構できるもんだな」
「ちょっとは成長できたかな」
他人から見て堂々としていて、安心したような雰囲気が増してくる。
自分の人生に自信が高まっていく。
ビリーフという言葉で自分のことを理解しようとするよりも
日々の体験の中から自分のことを受け入れていくほうが
現実的に役立つことが多いように思います。
『ビリーフ』という考え方が良く用いられます。
人が持っている思い込み。
心の中にある信念や観念。
ルールのようなものです。
僕の説明では、「自分ルール」とか「本人が利用している経験則」といったところ。
自分の体験から「人生とは、こういうものだ」、「こんなときには、こうなるんだ」
などと人生の様々な局面におけるパターンを抽出して捉えたものと言えます。
当然、自分自身に対しても「大体、自分ってこういう傾向があるなぁ」と捉えて
「私は〜だ」という自己認識を持つようになる。
重要なのは、ビリーフという言葉の内容として表わされる事柄ではなくて
人生の色々な場面における傾向を捉えている部分です。
つまり、「電車の中では静かにしているほうが良い」というビリーフも
自分の人生では、そのように意識したほうが上手くいっただけであって、
絶対にそのビリーフに従って行動や反応をしてきたわけではない、ということです。
場合によっては、誰かと話をしたことだってあったかもしれません。
程度問題があるわけです。
本人の中で、許容範囲がある。
その許容範囲は「ビリーフ」として語られる言葉の内容では言い表せません。
「ビリーフ」という言葉の内容で語られる部分は表面のところであって、
その実態は本人の中で経験則としてパターン化された内容のはずです。
ところが、世の中では「ビリーフ」という発想に力を入れ過ぎて
その「ビリーフ」と呼ばれる言葉の内容が、その人の人生を決めている
と考えるような流派があります。
例えば、幼少期に、親から「もう勝手にしなさい!」と怒られた経験から
「自分は一人で頑張らなければいけない」というビリーフを身につけたとします。
すると、そのビリーフに従って、大人になってからも
他人に頼ることなく自分の力で何でも成し遂げようとする、と。
確かに、そういう傾向はあるでしょう。
でも、それはあくまで傾向なんです。
一人で頑張ろうとする姿勢の強さに、幼少期の育ちが影響している可能性は高い。
なぜなら、幼少期には色々な可能性を持って広い視野から解決策を考えることは
普通なかなかできないものだからです。
どうしても、成熟した発想から冷静に見れば最善とは言えないような行動であっても
その場の対応として選択されてしまうことがあるものです。
仮に誰から見てもベストな対応をするときがあっても、そうでない時も必ずある。
あまり良くない対応をしてしまったときがポイントです。
それで対応したことを学習してしまうから。
幼少期にはビリーフが作られやすいのではなく、
多くの体験を始めてのこととして学んでいくため
学習のプロセスとして色々なパターンを取りこんでしまいやすい時期だと考えられます。
あまり賢いやり方じゃなかったとしてもパターンとして学んでしまう。
すると、似たような状況では、そのパターンで対応するようになるわけです。
あたかも、そのことをビリーフとして決心したかのように。
幼少期が人生における対応のパターンを見につける時期として重要なのは同意しますが、
その時期に作ったビリーフに沿って人が生きているわけではないと思うんです。
パターンに当てはめて対応しやすいことと、
ビリーフという言葉の内容に従って判断することとは別物でしょう。
僕が、このビリーフという言葉の内容と、
その中身として存在している経験則として身につけたパターンとを
分けて考えようとするのは、言葉として語られたときのリスクを考えてのことです。
自分の人生のパターンを言葉として断定的に話す、つまりビリーフの形で言語化すると、
まるで実際に自分の中にそのようなビリーフがあって
それに従って生きてしまっているかのような印象を持つ人が出てくる可能性がある。
ビリーフが説明されるときには、行動に制約を加えるようなビリーフを
「制限となるビリーフ(リミッティング・ビリーフ)」などと言ったりしますが、
ビリーフを言葉にして理解したことで、その傾向を強く自覚してしまっては
『ビリーフ』という発想そのものが「制限となる」ものになってしまいます。
自分の人生一般を眺めてみたときに、控えめな行動を取ることが多かったと感じるのと、
それを「自分は控えめな人間だ」と思い込みのように言語化してしまうのでは
随分と違った結果になることがあるものです。
言語化して断言したときに、他の可能性に目が向きにくくなる。
「自分は7割ぐらいの確率で、控えめな振る舞いをすることが多い」
というほうが正確でしょう。
前にも書きましたが、自分の発言内容に対して
言葉に確信の度合いをどれくらい持っているかを自覚するのが大切です。
ビリーフを意識するときには、特に重要なはずです。
そのビリーフを何%ぐらい確信しているか、です。
このことを意識しないままにビリーフを学んでいくと、ちょっと怖いときがあります。
いや、実際に自分の過去として誤解していたこともあります。
それは『コア・ビリーフ』という発想について。
人間のビリーフには中心になるものがあって、それをコア・ビリーフという、と。
ビリーフを「なぜ、なぜ?」と深堀りしていくと出てくるものです。
大きく3つに分けられると言われます。
「私には価値がない」
「私には能力がない」
「私には希望がない」
このうちのどれかを人は必ず持っているものだという考え方です。
この話を始めて聞いたのは、NLPを始めたばかりの頃でした。
自分には、どれがあるだろう?
そう考えて探っていくと、どうやら「価値がない」がありそうに感じられる。
自分の中には本質的に「価値がない」と思っているところがあるように思えたわけです。
自分の存在だけでは十分ではない。
自分は頑張らないと価値がない。
そんな感じ。
だから自分は自分の価値を証明するために努力をするのだろう。
自分ひとりで頑張ろうとするのは、そのためかと考えました。
そういうことを思ったものですが、実際に周りを見渡しても
自分の存在価値を存在そのもので実感できている人は滅多にいなく、
何かをすることで価値を証明しようとする人が多いように思えました。
なるほど、という気分でした。
逆に「能力がない」の人もいるように感じられました。
上手く他人に頼れる人。
自分に能力がないことを知っているから他人の力に頼れる。
言い換えれば、自分に能力がなかったとしても大丈夫だと思えているのでしょう。
それは存在そのものの価値を知っているから。
「能力がない」の人は「価値がない」わけではないので
存在そのものの価値があるために、能力のなさを意識するということです。
そうした目線で眺めていくと、世の中は確かにそのように見えてくるものです。
自分には価値がないと思い込んだ時期がありました。
まぁ、心のどこかで自分の存在そのもの価値を
認めていないところがあったのかもしれません。
でも、実際に存在価値を全く認めていないかといえば
それは違いました。
もし「何%ぐらい価値がないと思っているのか?」と聞かれれば
多分、当時の僕でも40%とか答えていた気がします。
にもかかわらず、「自分には価値がない」という言葉を元に自分を見つめると
自分の存在そのものの価値を実感できていない部分に目が向くようになる。
そこばかりを意識していました。
それは、あまり役に立たない視点だったように振り返っています。
それよりは自分に価値があると思えている度合いを意識する。
その根拠を自覚する。
その上で、もっと価値があると思えるようになるために
何が必要かを意識していく。
そのほうが効果的だと考えられます。
コア・ビリーフという発想は、自分の中で100%満たされていない根源的な気持ちを
欠けた部分に目を向けて言葉に表現したものではないでしょうか。
コアビリーフの内容は、
セルフ・エスティーム(自尊感情)と
セルフ・エフィカシー(自己効力感)
の組み合わせで説明できるはずです。
つまり、エスティームが不足している度合いを「価値がない」と表現し、
エフィカシーが不足している度合いを「能力がない」と表現する。
両方が不足しているときは、「希望がない」という言い回し。
一言でいえば、どれくらい『自信』があるか、ということです。
能力に自信のある人もいれば、存在そのものの価値に自信がある人もいる。
エスティームとエフィカシーの総量としての自信をある程度持ち合わせていると、
多いほうを更に高めていくように努力するケースが多いように見受けられます。
実際には不足しているほうを直接的に満たすほうが楽になれますが、
不足感は行動の原動力でもあるので無理に不足分を満たす必要もないとは思いますが。
それなりにエフィカシーもエスティームも持っていたとしても、
足りないところに目を向けていけば見つけられてしまうものでしょう。
それがコア・ビリーフとして表現される。
「私には価値がない」とか、「私には能力がない」とか。
正確には、エスティームが何%ぐらい満たされていて
エフィカシーが何%ぐらい満たされているか、ということじゃないでしょうか。
なのに、それを「コア・ビリーフ」として3つの言い回しに含めてしまう。
それは全員にコア・ビリーフがあることになるでしょう。
ビリーフという発想に寄せて説明すれば、
「コア・ビリーフの強さに個人差がある」ということです。
そこを無視して「価値がない」とか「能力がない」とかの言い回しをしてしまうと
その言い回し自体が本人を縛り付ける可能性が生まれてしまいます。
大雑把にまとめてはいけないものを、ひとまとめにしている気がするんです。
まして、その言葉として表されている部分をビリーフチェンジしようとしても
一筋縄でいくものではないと考えるのが自然でしょう。
エスティームやエフィカシーは人生の経験全てを通して
自分全体の価値や能力を自ら評価しているものなのですから。
自分の価値を実感できるような体験を積み重ねていく。
自分の能力を評価する経験を積み上げていく。
強く実感できるような体験をしてもらうことは
セラピーとしてもコーチングとしても役立ちますが、
できるのはそこまでだろうと思います。
自分のコア・ビリーフが「私には価値がない」だったから、
それを「私は人を幸せにする」に変えるというのは、
どういう仕組みなのかが僕には理解できません。
できるのは価値と能力に対する自己評価を高めていくための
地道な作業だけじゃないでしょうか。
ビリーフが変わった後には、きっとこんな言い回しになるはずです。
「私には、まぁそれなりに生きている価値がある」
「私は、ここにいていいんだ」
「私も結構できるもんだな」
「ちょっとは成長できたかな」
他人から見て堂々としていて、安心したような雰囲気が増してくる。
自分の人生に自信が高まっていく。
ビリーフという言葉で自分のことを理解しようとするよりも
日々の体験の中から自分のことを受け入れていくほうが
現実的に役立つことが多いように思います。
2010年05月20日
コミュニケーションとしての絵画鑑賞
たまに美術館へ足を運びます。
駅の広告などに出ている有名どころ「〜美術館展」のようなものは
興味を引かれることが多いので見に行くことも多い。
広告もしていますし、有名な画家の絵が来ていたりすると見に来る人も多いので、
なかなか落ち着いて見る感じではなくなってしまいます。
それでも、この1,2年の間に、NLPを扱っている中で絵を楽しむ方法が
少しずつ分かってきたような気がしていて、
名画を見る行為からは色々な楽しさが感じられます。
一言でいうと、1つの見方で絵を眺めていないんです。
絵に合わせた楽しみ方がある。
それはNLP的に説明すれば、画家の捉えた心の中の風景が
サブモダリティの特徴に表れているものとして、
際立った特徴に意識を向けながら、浮かんでくる視覚のイメージや
音の雰囲気、自分の体感覚の変化を味わう、といったプロセス。
日常的な表現にすれば、
「この画家は何を描きたかったんだろう…?」と
画家の気持ちを共感するように見るわけです。
すると、画家によって、絵によって、色々な楽しみ方がある。
自然と目が向いてしまう部分をに注目しながら楽しむもの、
絵の全体から浮かんでくる空気感や匂いを感じて楽しむもの、
二次元の中に表現された世界の奥行きを楽しむもの、
圧倒されるような光の美しさをボーッと感じるもの、
画面全体をボヤっと眺めたくなるもの、
逆に画面中央だけを凝視したくなるもの、…。
それを変えながら見られるようになって、絵の楽しみが増えたようです。
普通に生活をしていると、人が何かを見るとき(聞くとき、感じるときも同様ですが)、
その目線の配り方や視野の使い方、焦点の合わせ方、身体への意識の向け方など
眼を通して入ってくる情報を処理する手順は、
大体いつも通りの決まった方法を使うものです。
だから人の顔を見るときに、いつも注目する部分があって
「あの人は〜に似ている」といった内容に個人差としての印象の違いが生まれる。
当たり前に見ているつもりの視野は、同じ方向をに目をやっていても
人によって全く違っている可能性があるわけです。
言うまでもなく、そこに視力の違いなども含めていけば
まさに見える世界は人それぞれということです。
小中学校のときに美術館へ行っていたときは、僕の場合、
「綺麗か」とか「バランスが良いか」とか、そうしたことしか意識していませんでした。
形に対する印象が強かったんだと思います。
中学の美術の授業で、学年全員で少し離れた公園に写生に出かけたことがありました。
絵具と絵筆を持って行って、そこで水彩画を描く時間です。
当時の僕にとって絵というのは形を捉える度合いが高かったので、
藤の花が見える景色を選ぶと、大雑把な下書きを鉛筆で進めました。
全体のバランスが整うように気をつけて少し修正を加えた後、
そのまま絵具をベタベタと塗りました。
ほとんど水で溶かさない塗り方。
場合によっては、藤の花なんて雰囲気だけです。
「この辺りに薄紫があるなぁ」なんて思いながら、適当にポン、ポン、ポン…と
水を加えていない絵具を置いていくだけ。
木の肌を描くときは、縦方向の動きが気になるので、
濃い絵具を太い筆につけて、縦にザッザッと動かす感じ。
そのものの形に含まれる方向に沿って筆を動かすように
絵具を濃いままで画用紙の上に重ねていくわけです。
当時の僕には画用紙の裏表なんて関係ありませんでした。
濃い絵具は紙であれば問題なく乗ってくれましたから。
さすがに空の部分は水を加えてサラサラッと塗った覚えがありますが、
木や花や人口の構造物は、ベタベタに絵具を乗せたものです。
ちなみに、中学校の頃から僕の視力は落ち始めていたので
裸眼で0.3とか0.4とかだったはずです。
そんなに遠くの細かい部分は、そもそも見えていなかったでしょう。
そう考えると、雰囲気で適当にベタベタ絵具を乗せたのも自然な気もします。
細かいところを見ていませんし、なんとなくの雰囲気を描いていたので
他の生徒に比べると圧倒的に描き上がりが早いのが特徴でした。
さっさと仕上げてしまって、暇つぶしをしていたのを覚えています。
で、しばらく後に、校内の廊下の掲示板に全員の絵が貼りだされました。
そして、美術の先生か誰かによって「優秀賞」とかが決められていく。
残念ながら入賞はせず。
でも僕の目には、僕の絵は納得がいっていたのを覚えています。
悔しさよりも、「なんでこっちが良いの?」と疑問を持ったものでした。
入賞した作品は全て、「正しい水彩画」で描かれたものばかり。
ちゃんと絵具を水で薄めて、透明感のある景色を描いていました。
まぁ、たしかに綺麗な絵ではあったはずです。
でも僕には大きな違和感が。
『景色は、そんなに薄くない』
それから水彩画の描き方を知って
(もしかすると授業中に言っていたのを聞いていなかったのかもしれませんが)
僕のが決まった方法でやっていなかったことを自覚しました。
ですが、今でも僕の目に見えていたものと近かったのは
最優秀賞の絵ではなく、僕が描いた絵だったと思っています。
小学校の1,2年生のときにも全校生徒の絵を
体育館に貼りだして観賞するイベントがありました。
保護者もやってきて皆で眺める。
僕は母と一緒に歩きながら見ていて、同級生の描いた運動会の絵が気になりました。
たしか、彼は絵が得意で、その絵も小学校1,2年生にしては上手だったはずです。
「〜君の絵、上手ね」というような話を母からされた時だったでしょうか。
徒競争をしている場面の絵で、手と足が同じ側で描かれているのが
当時の僕には気になったようです。
不自然な動作だ、と。
で、僕は母に言ったんです。
「これ、手と足が同じだね」
そのとき、母からは「そういうことを言うもんじゃありません!」と
叱られたことを覚えています。
絵の全体が綺麗かとかではなく、形や動きに注意が向いていたんでしょう。
おそらく、現在の僕の中でも形態への意識の度合いは高いはずです。
そのような形への注目度合いが高い特徴をもって目をつかっていると
当然、名画を鑑賞するときにも、そんな見方で見ることになります。
なので、どんな名画と呼ばれるものを見ても、感動はしなかったんです。
逆に、古い絵画作品だと、馬の動きが不自然で違和感を感じてしまったり。
中学校のときに、ミレーの「落ち穂拾い」がやってくるというので
美術の宿題を兼ねて見に行ったことがありますが、
描かれている農夫のポーズに「なんという動きをしているのか?」と
妙な可笑しさのほうが気になってしまいました。
ですが、今は違います。
何を感じ取れば良いかが掴めてきた気がします。
ミレーは動作を見るんじゃなくて、あの画面全体の色合いや、かすんだ感じから
その空気感や心の広がりを味わうと良いように思います。
画面全体を視野全体に合わせるようなつもりで全体の雰囲気を感じていると
僕の場合、音が聞こえてきます。
特別な分かりやすい音ではなく、抽象的な「サーッ…」といった具合の音ですが、
それが胸の辺りの穏やかな感じと、ゆったり広がる感じを促進してくれます。
そして、何より匂いが思い浮かぶ。
枯れ草のような匂い。
それと風の感じです。
それらの音と風と匂い、つまり空気の感じを味わっていると
なんとも言えないほど穏やかで、ゆったりとして、豊かで満たされた感じがしてきます。
これが好きなんです。
中学校のときに分からなかったミレーが、今では好きな絵になりました。
絵にゆだねるように見方を変えていく行為は
まるでペーシングのような印象さえあります。
それを積極的に進めるためには、際立ったサブモダリティを探すと早い。
そこが掴めると、絵の放っている印象、ひいては
「画家は何をこのキャンバスの上に残したかったのか」
といったことにも迫れるような気がするんです。
絵は写真と違って、見た人の心に写ったものを表現することができます。
富士山が見えたとき、あるいは満月の空を見上げたとき、
それはとても大きく見えるものです。
その美しさに感動して携帯電話で写真にとる。
その写真を見ると、だいたいガッカリするでしょう。
写真で見る富士山や満月は小さいんです。
カメラは入ってきた範囲をそのまま映し出します。
人間の目は、入ってきた景色の中の、心に残る部分を際立たせて見ることができるんです。
絵画の場合、その画家が際立たせて見ようとした部分、
つまり心に強く響いた部分を画面の中に反映させることができます。
有名になる画家は、その特徴の際立たせ方が凄いんでしょう。
NLPとして言うと、際立ったサブモダリティのパターン化に対して敏感で
それをさらに際立たせながら画面に反映させて絵にすることができる。
画家は、その際立った特徴の表現方法に個性が表れると思います。
一瞬を切り取ったように時間を止めて自然の美しさを見せてくれる人、
溢れる光のキラメキを、短い時間のスローモーションとして見せてくれる人、
ゆったりとした時間の流れを画面の中に表現してくれる人。
感情や思想を絵に表わす人もいるでしょう。
思想を感じ取るには当時の世情を知らなくては分からないこともあるでしょうが、
その絵が訴えかけてくる特徴を捉えられると、絵の楽しみの幅も広がりそうです。
画家その人は、自分なりの特徴の捉え方を突き詰めれば良い。
見る側も普通は、自分なりの特徴の捉え方を続けているから
好きな画家というのに個人差が出てくると考えられます。
特徴の捉え方が合うと気にいる、と。
最初からペースが合っている人と、すぐに仲良くなるようなものでしょう。
相性が良いんです。
しかし、受け取る側が特徴の捉え方を変えられるようになると
様々な画家に合わせて感じ取ることができると思います。
それは音楽でも同じこと。
芸術を、芸術家の心を表現しているメッセージと考えると、
そのメッセージを受け取る能力は1つのコミュニケーション能力と言えそうです。
芸術家が伝えようとしているメッセージを受け取る。
そのためには発信者である芸術家に合わせる必要があるということです。
コミュニケーションの土台は、やっぱりペーシングなんだろうと感じました。
駅の広告などに出ている有名どころ「〜美術館展」のようなものは
興味を引かれることが多いので見に行くことも多い。
広告もしていますし、有名な画家の絵が来ていたりすると見に来る人も多いので、
なかなか落ち着いて見る感じではなくなってしまいます。
それでも、この1,2年の間に、NLPを扱っている中で絵を楽しむ方法が
少しずつ分かってきたような気がしていて、
名画を見る行為からは色々な楽しさが感じられます。
一言でいうと、1つの見方で絵を眺めていないんです。
絵に合わせた楽しみ方がある。
それはNLP的に説明すれば、画家の捉えた心の中の風景が
サブモダリティの特徴に表れているものとして、
際立った特徴に意識を向けながら、浮かんでくる視覚のイメージや
音の雰囲気、自分の体感覚の変化を味わう、といったプロセス。
日常的な表現にすれば、
「この画家は何を描きたかったんだろう…?」と
画家の気持ちを共感するように見るわけです。
すると、画家によって、絵によって、色々な楽しみ方がある。
自然と目が向いてしまう部分をに注目しながら楽しむもの、
絵の全体から浮かんでくる空気感や匂いを感じて楽しむもの、
二次元の中に表現された世界の奥行きを楽しむもの、
圧倒されるような光の美しさをボーッと感じるもの、
画面全体をボヤっと眺めたくなるもの、
逆に画面中央だけを凝視したくなるもの、…。
それを変えながら見られるようになって、絵の楽しみが増えたようです。
普通に生活をしていると、人が何かを見るとき(聞くとき、感じるときも同様ですが)、
その目線の配り方や視野の使い方、焦点の合わせ方、身体への意識の向け方など
眼を通して入ってくる情報を処理する手順は、
大体いつも通りの決まった方法を使うものです。
だから人の顔を見るときに、いつも注目する部分があって
「あの人は〜に似ている」といった内容に個人差としての印象の違いが生まれる。
当たり前に見ているつもりの視野は、同じ方向をに目をやっていても
人によって全く違っている可能性があるわけです。
言うまでもなく、そこに視力の違いなども含めていけば
まさに見える世界は人それぞれということです。
小中学校のときに美術館へ行っていたときは、僕の場合、
「綺麗か」とか「バランスが良いか」とか、そうしたことしか意識していませんでした。
形に対する印象が強かったんだと思います。
中学の美術の授業で、学年全員で少し離れた公園に写生に出かけたことがありました。
絵具と絵筆を持って行って、そこで水彩画を描く時間です。
当時の僕にとって絵というのは形を捉える度合いが高かったので、
藤の花が見える景色を選ぶと、大雑把な下書きを鉛筆で進めました。
全体のバランスが整うように気をつけて少し修正を加えた後、
そのまま絵具をベタベタと塗りました。
ほとんど水で溶かさない塗り方。
場合によっては、藤の花なんて雰囲気だけです。
「この辺りに薄紫があるなぁ」なんて思いながら、適当にポン、ポン、ポン…と
水を加えていない絵具を置いていくだけ。
木の肌を描くときは、縦方向の動きが気になるので、
濃い絵具を太い筆につけて、縦にザッザッと動かす感じ。
そのものの形に含まれる方向に沿って筆を動かすように
絵具を濃いままで画用紙の上に重ねていくわけです。
当時の僕には画用紙の裏表なんて関係ありませんでした。
濃い絵具は紙であれば問題なく乗ってくれましたから。
さすがに空の部分は水を加えてサラサラッと塗った覚えがありますが、
木や花や人口の構造物は、ベタベタに絵具を乗せたものです。
ちなみに、中学校の頃から僕の視力は落ち始めていたので
裸眼で0.3とか0.4とかだったはずです。
そんなに遠くの細かい部分は、そもそも見えていなかったでしょう。
そう考えると、雰囲気で適当にベタベタ絵具を乗せたのも自然な気もします。
細かいところを見ていませんし、なんとなくの雰囲気を描いていたので
他の生徒に比べると圧倒的に描き上がりが早いのが特徴でした。
さっさと仕上げてしまって、暇つぶしをしていたのを覚えています。
で、しばらく後に、校内の廊下の掲示板に全員の絵が貼りだされました。
そして、美術の先生か誰かによって「優秀賞」とかが決められていく。
残念ながら入賞はせず。
でも僕の目には、僕の絵は納得がいっていたのを覚えています。
悔しさよりも、「なんでこっちが良いの?」と疑問を持ったものでした。
入賞した作品は全て、「正しい水彩画」で描かれたものばかり。
ちゃんと絵具を水で薄めて、透明感のある景色を描いていました。
まぁ、たしかに綺麗な絵ではあったはずです。
でも僕には大きな違和感が。
『景色は、そんなに薄くない』
それから水彩画の描き方を知って
(もしかすると授業中に言っていたのを聞いていなかったのかもしれませんが)
僕のが決まった方法でやっていなかったことを自覚しました。
ですが、今でも僕の目に見えていたものと近かったのは
最優秀賞の絵ではなく、僕が描いた絵だったと思っています。
小学校の1,2年生のときにも全校生徒の絵を
体育館に貼りだして観賞するイベントがありました。
保護者もやってきて皆で眺める。
僕は母と一緒に歩きながら見ていて、同級生の描いた運動会の絵が気になりました。
たしか、彼は絵が得意で、その絵も小学校1,2年生にしては上手だったはずです。
「〜君の絵、上手ね」というような話を母からされた時だったでしょうか。
徒競争をしている場面の絵で、手と足が同じ側で描かれているのが
当時の僕には気になったようです。
不自然な動作だ、と。
で、僕は母に言ったんです。
「これ、手と足が同じだね」
そのとき、母からは「そういうことを言うもんじゃありません!」と
叱られたことを覚えています。
絵の全体が綺麗かとかではなく、形や動きに注意が向いていたんでしょう。
おそらく、現在の僕の中でも形態への意識の度合いは高いはずです。
そのような形への注目度合いが高い特徴をもって目をつかっていると
当然、名画を鑑賞するときにも、そんな見方で見ることになります。
なので、どんな名画と呼ばれるものを見ても、感動はしなかったんです。
逆に、古い絵画作品だと、馬の動きが不自然で違和感を感じてしまったり。
中学校のときに、ミレーの「落ち穂拾い」がやってくるというので
美術の宿題を兼ねて見に行ったことがありますが、
描かれている農夫のポーズに「なんという動きをしているのか?」と
妙な可笑しさのほうが気になってしまいました。
ですが、今は違います。
何を感じ取れば良いかが掴めてきた気がします。
ミレーは動作を見るんじゃなくて、あの画面全体の色合いや、かすんだ感じから
その空気感や心の広がりを味わうと良いように思います。
画面全体を視野全体に合わせるようなつもりで全体の雰囲気を感じていると
僕の場合、音が聞こえてきます。
特別な分かりやすい音ではなく、抽象的な「サーッ…」といった具合の音ですが、
それが胸の辺りの穏やかな感じと、ゆったり広がる感じを促進してくれます。
そして、何より匂いが思い浮かぶ。
枯れ草のような匂い。
それと風の感じです。
それらの音と風と匂い、つまり空気の感じを味わっていると
なんとも言えないほど穏やかで、ゆったりとして、豊かで満たされた感じがしてきます。
これが好きなんです。
中学校のときに分からなかったミレーが、今では好きな絵になりました。
絵にゆだねるように見方を変えていく行為は
まるでペーシングのような印象さえあります。
それを積極的に進めるためには、際立ったサブモダリティを探すと早い。
そこが掴めると、絵の放っている印象、ひいては
「画家は何をこのキャンバスの上に残したかったのか」
といったことにも迫れるような気がするんです。
絵は写真と違って、見た人の心に写ったものを表現することができます。
富士山が見えたとき、あるいは満月の空を見上げたとき、
それはとても大きく見えるものです。
その美しさに感動して携帯電話で写真にとる。
その写真を見ると、だいたいガッカリするでしょう。
写真で見る富士山や満月は小さいんです。
カメラは入ってきた範囲をそのまま映し出します。
人間の目は、入ってきた景色の中の、心に残る部分を際立たせて見ることができるんです。
絵画の場合、その画家が際立たせて見ようとした部分、
つまり心に強く響いた部分を画面の中に反映させることができます。
有名になる画家は、その特徴の際立たせ方が凄いんでしょう。
NLPとして言うと、際立ったサブモダリティのパターン化に対して敏感で
それをさらに際立たせながら画面に反映させて絵にすることができる。
画家は、その際立った特徴の表現方法に個性が表れると思います。
一瞬を切り取ったように時間を止めて自然の美しさを見せてくれる人、
溢れる光のキラメキを、短い時間のスローモーションとして見せてくれる人、
ゆったりとした時間の流れを画面の中に表現してくれる人。
感情や思想を絵に表わす人もいるでしょう。
思想を感じ取るには当時の世情を知らなくては分からないこともあるでしょうが、
その絵が訴えかけてくる特徴を捉えられると、絵の楽しみの幅も広がりそうです。
画家その人は、自分なりの特徴の捉え方を突き詰めれば良い。
見る側も普通は、自分なりの特徴の捉え方を続けているから
好きな画家というのに個人差が出てくると考えられます。
特徴の捉え方が合うと気にいる、と。
最初からペースが合っている人と、すぐに仲良くなるようなものでしょう。
相性が良いんです。
しかし、受け取る側が特徴の捉え方を変えられるようになると
様々な画家に合わせて感じ取ることができると思います。
それは音楽でも同じこと。
芸術を、芸術家の心を表現しているメッセージと考えると、
そのメッセージを受け取る能力は1つのコミュニケーション能力と言えそうです。
芸術家が伝えようとしているメッセージを受け取る。
そのためには発信者である芸術家に合わせる必要があるということです。
コミュニケーションの土台は、やっぱりペーシングなんだろうと感じました。
2010年05月18日
言葉を追いかける
シャドーイングをやってみました。
英語の勉強法の1つとして知られるものです。
元々は同時通訳の人が、話の内容を聞きながら
同時に訳の文章を話すための訓練として開発されたんだとか。
読み上げられる文章を聞きながら、それを追いかけていく。
自分の声で元の文章が聞こえにくくなるし、
聞き取れない部分があっても進んでいってしまうし、
同時に2つのことをしないといけないので大変な作業です。
が、多分、これは慣れの問題。
聞いている意識と、発音する意識は分けて同時並行で進められる気がします。
シャドーイングという行為自体は、運動のトレーニングに近い印象を受けます。
それよりも重要度が高いのは、追いかけて発音できるように
全文を聞きとるという部分でしょう。
なんとなく聞けているつもりでは、追いかけることができません。
自分が聞けていない部分を明確にする上で役立ちそうです。
そして、多分もっと重要なのは、意味のまとまり単位で文章を覚え、
それを繰り返せるようになることだろうと思います。
僕自身の経験でいうと、発話のレベルまで考えた場合、
覚えた文章を声に出せるかどうかは1つの基準になりえる印象があります。
アメリカでNLPのトレーナーコースを受けていたとき、
最後の卒業セレモニーの場面で、全員で同じ文章を宣誓したんです。
創始者のリチャード・バンドラーがトレーナーとしての志を宣言する。
その文章を覚えて言うことができなくて悔しかったのを覚えています。
覚えて声に出せるぐらいの文章であれば、その意味は文章の構造としても
内容としてもシッカリと理解できているでしょう。
それは意味内容のまとまりとして、ある長さの単位を
頭の中に保持できているということです。
この意味のある単位を保持できているかどうかが
内容理解のためのカギになると考えられます。
例として、接続詞で繋がれる文章のときを考えてみます。
「他の皆がカレーを頼んだのに対して、あの人だけはハヤシライスを頼んだ」
…この文章を日本語として理解していくときには
「大勢がカレーを注文した」ことへの対比として
「一人だけがハヤシライスを注文した」ことが強く意識されます。
感覚的に、コントラストが意識されるわけです。
日本語の文章を理解していく過程で、「他の」という言葉を捉えた瞬間に
日本人であれば「何に対しての『他』なんだろうか?」と予測を立てるでしょう。
そのあとに「他の皆」まで捉えられれば、後の流れとして
一人か、1つのグループに対して説明されることが推測されるはずです。
そして「他の皆がカレーを頼んだのに対して」まで捉えられたときに
大勢がカレーを頼んでいる場面が意識され、そのあとには
対比される少数派の行動が登場することまで予測される。
で、実際に「あの人だけがハヤシライスを頼んだ」が捉えられる、と。
「他の皆…カレー」vs「あの人…ハヤシライス」の対比が意識される。
そのためには、大勢がカレーを頼んだ意味内容を保持しておく必要があるわけです。
文章が長くなるほど、意味のまとまりとしての文節の単位を保持しておいて
それらの意味同士の関係性を把握していく労力が増えていくことになります。
いわゆる難しい話の内容というのは、この意味のまとまりを
脈絡として捉えていく作業に負担が生まれる場合にあたるでしょう。
国語の授業や英語の長文読解が勉強の項目として取り上げられるのは
こうした意味のまとまり同士の関係性を把握するトレーニングの意味も想定されます。
日本人の英語学習においては、文章の読解には力を入れるところがあるようなので
文字として書かれたものを読むときには意味のまとまりを保持することが
自然と身についてきているかもしれません。
自分で読み上げていった場合には、ある程度の長さを捉えておける。
ところが、誰かが発した言葉に関しては、その意味のまとまりを
保持しておくのが難しいことがあるようです。
音として文章を追いかけていくことができても
単語の羅列として文章が流れていってしまう。
イメージでいうと回転ずしで皿がドンドン通過していくような感じです。
目の前の
「マグロ」
「ウニ」
「エビ」
「イカ」
などは分かっても
そのまま目の前を通過したかを忘れていってしまうイメージです。
それが意味のまとまりとして捉えられるというのは、
何皿分かをまとめて1皿の上に並べ換え
「マグロ、ウニ、エビ、イカ」
という4品を1セットとして把握するような感じでしょうか。
音として捉える事ができて、なんとなく何を言っているかが記憶に残っていっても
それが頭の中を流れていってしまっては文章を把握できているとは言えないでしょう。
シャドーイングは音を捉えていくのには良いはずですが、
気をつけないと目の前を回転寿司の皿が流れていく形になりかねません。
たぶん、シャドーイングは役に立つトレーニングの1つだと思いますが、
それだけで英語の聞き取りができるようにはならない気がします。
おそらく役に立つのは、ある程度の意味の単位で文章を区切って、
それを覚えて追いかけるという方法じゃないでしょうか。
いくつぐらいの単語を覚えられるかはレベルによりますが、
例えば、平均10単語ぐらいの文節を読み上げたものを
その後に同じように言えるかどうかというトレーニングは有効だと思います。
できれば、その文章を覚えて発声するときに
自分がその文を発話しているつもりになって
文章を作り上げる意識で言えると良いように感じます。
少なくとも僕の場合は、その意識でトレーニングをすると
効果が出そうな予感がしています。
まぁ、そんな教材が手元にないので、とりあえずは、
文章を覚えて暗唱する方法をやってみるのが良いかもしれません。
英語の勉強法の1つとして知られるものです。
元々は同時通訳の人が、話の内容を聞きながら
同時に訳の文章を話すための訓練として開発されたんだとか。
読み上げられる文章を聞きながら、それを追いかけていく。
自分の声で元の文章が聞こえにくくなるし、
聞き取れない部分があっても進んでいってしまうし、
同時に2つのことをしないといけないので大変な作業です。
が、多分、これは慣れの問題。
聞いている意識と、発音する意識は分けて同時並行で進められる気がします。
シャドーイングという行為自体は、運動のトレーニングに近い印象を受けます。
それよりも重要度が高いのは、追いかけて発音できるように
全文を聞きとるという部分でしょう。
なんとなく聞けているつもりでは、追いかけることができません。
自分が聞けていない部分を明確にする上で役立ちそうです。
そして、多分もっと重要なのは、意味のまとまり単位で文章を覚え、
それを繰り返せるようになることだろうと思います。
僕自身の経験でいうと、発話のレベルまで考えた場合、
覚えた文章を声に出せるかどうかは1つの基準になりえる印象があります。
アメリカでNLPのトレーナーコースを受けていたとき、
最後の卒業セレモニーの場面で、全員で同じ文章を宣誓したんです。
創始者のリチャード・バンドラーがトレーナーとしての志を宣言する。
その文章を覚えて言うことができなくて悔しかったのを覚えています。
覚えて声に出せるぐらいの文章であれば、その意味は文章の構造としても
内容としてもシッカリと理解できているでしょう。
それは意味内容のまとまりとして、ある長さの単位を
頭の中に保持できているということです。
この意味のある単位を保持できているかどうかが
内容理解のためのカギになると考えられます。
例として、接続詞で繋がれる文章のときを考えてみます。
「他の皆がカレーを頼んだのに対して、あの人だけはハヤシライスを頼んだ」
…この文章を日本語として理解していくときには
「大勢がカレーを注文した」ことへの対比として
「一人だけがハヤシライスを注文した」ことが強く意識されます。
感覚的に、コントラストが意識されるわけです。
日本語の文章を理解していく過程で、「他の」という言葉を捉えた瞬間に
日本人であれば「何に対しての『他』なんだろうか?」と予測を立てるでしょう。
そのあとに「他の皆」まで捉えられれば、後の流れとして
一人か、1つのグループに対して説明されることが推測されるはずです。
そして「他の皆がカレーを頼んだのに対して」まで捉えられたときに
大勢がカレーを頼んでいる場面が意識され、そのあとには
対比される少数派の行動が登場することまで予測される。
で、実際に「あの人だけがハヤシライスを頼んだ」が捉えられる、と。
「他の皆…カレー」vs「あの人…ハヤシライス」の対比が意識される。
そのためには、大勢がカレーを頼んだ意味内容を保持しておく必要があるわけです。
文章が長くなるほど、意味のまとまりとしての文節の単位を保持しておいて
それらの意味同士の関係性を把握していく労力が増えていくことになります。
いわゆる難しい話の内容というのは、この意味のまとまりを
脈絡として捉えていく作業に負担が生まれる場合にあたるでしょう。
国語の授業や英語の長文読解が勉強の項目として取り上げられるのは
こうした意味のまとまり同士の関係性を把握するトレーニングの意味も想定されます。
日本人の英語学習においては、文章の読解には力を入れるところがあるようなので
文字として書かれたものを読むときには意味のまとまりを保持することが
自然と身についてきているかもしれません。
自分で読み上げていった場合には、ある程度の長さを捉えておける。
ところが、誰かが発した言葉に関しては、その意味のまとまりを
保持しておくのが難しいことがあるようです。
音として文章を追いかけていくことができても
単語の羅列として文章が流れていってしまう。
イメージでいうと回転ずしで皿がドンドン通過していくような感じです。
目の前の
「マグロ」
「ウニ」
「エビ」
「イカ」
などは分かっても
そのまま目の前を通過したかを忘れていってしまうイメージです。
それが意味のまとまりとして捉えられるというのは、
何皿分かをまとめて1皿の上に並べ換え
「マグロ、ウニ、エビ、イカ」
という4品を1セットとして把握するような感じでしょうか。
音として捉える事ができて、なんとなく何を言っているかが記憶に残っていっても
それが頭の中を流れていってしまっては文章を把握できているとは言えないでしょう。
シャドーイングは音を捉えていくのには良いはずですが、
気をつけないと目の前を回転寿司の皿が流れていく形になりかねません。
たぶん、シャドーイングは役に立つトレーニングの1つだと思いますが、
それだけで英語の聞き取りができるようにはならない気がします。
おそらく役に立つのは、ある程度の意味の単位で文章を区切って、
それを覚えて追いかけるという方法じゃないでしょうか。
いくつぐらいの単語を覚えられるかはレベルによりますが、
例えば、平均10単語ぐらいの文節を読み上げたものを
その後に同じように言えるかどうかというトレーニングは有効だと思います。
できれば、その文章を覚えて発声するときに
自分がその文を発話しているつもりになって
文章を作り上げる意識で言えると良いように感じます。
少なくとも僕の場合は、その意識でトレーニングをすると
効果が出そうな予感がしています。
まぁ、そんな教材が手元にないので、とりあえずは、
文章を覚えて暗唱する方法をやってみるのが良いかもしれません。
2010年05月16日
ねづっちのパターン
「エチカの鏡」で、謎かけ芸人「ねづっち」の
脳を調べるという内容をやっていました。
番組予告を見たときから約一週間、ずっと楽しみにしていたんです。
一体、彼は頭の中で何をしているのか。
調べた内容は、ねづっちが謎かけのお題に対して答えを探しているときの
脳画像をNIRSで計測する内容。
NIRSは「 near - infrared spectroscopy:近赤外分光法」で
近赤外線を頭の上から当てて、大脳皮質の神経活動の様子を測ろうというもの。
脳が活動するときに酸素を使うため、脳内の血流において
ヘモグロビンが酸素と結合しているかどうかを調べることで
どの部位が活動しているかを判断する発想です。
ヘモグロビンが酸素と結合している状態と、酸素と結合していない状態では
近赤外域の波長の光を吸収するパターンが違うので
光が吸収される量を測定することで血中の酸素が結合したヘモグロビンの濃度が
相対的に分かるという仕組み。
まぁ、脳の活動している部位を表面から見てみよう、というわけです。
番組の内容は、ねづっちが謎かけしているときの脳画像を元に
どんな作業をしているかを推測するというものでしたが、
随分とアッサリしたものでチョット残念でした。
結果は、前頭葉の活動が活発になっていて、
しかもそれが左半球だけでなく右半球においても活発だというもの。
言語活動として謎かけをしていたら左半球だけになると推測されるのに対して
右半球も使われていることを考えると、おそらくイメージを使っている、
といった解説がなされました。
とてもザックリとしていて「左脳=論理」、「右脳=イメージ」というような
俗っぽい論拠だけで話が進んでしまったことには不満がありますが、
達人と呼ばれる人ほど右半球の活動が活発になる事例は良く耳にします。
ただ、そのときに重要だと思うのは、
本人が何を自覚しているか
ということ。
例えば、将棋や囲碁の名人が次の一手を考えるときの脳画像測定をしたとして、
そのときに本人がどういうことを頭の中に思い浮かべているかを
会話を通じて確認するのが重要じゃないか、と。
せっかく本人がいるんですから、聞けばいい。
映像が浮かんでいるのか、声を聞いているのか、体の感じを自覚しているのか。
映像だって大きさやイメージの位置、動画が展開するスピードの違いなどもあります。
おそらく達人は、一手一手を仮定するように進めていかず
1つの可能性を思い浮かべた瞬間に、その先の展開が一気に描かれるでしょう。
よくあるパターンを探索して、予測が難しい部分で集中して
複数の可能性を意識し始めるんじゃないでしょうか。
しかも、このパターン探索の作業は自覚しにくいものです。
映像的に展開が早いと感じたり、結果イメージだけが浮かんだり、
「これだ!」という感じがしたり、体の反応として自覚していたり、
いわゆる直観的な判断がなされるプロセスです。
そういう処理がなされているときに自覚しにくいのだとしたら
客観的な測定結果で判断するように工夫していくと
他人が理解できる内容が増えていくと考えられます。
一方、もっと本人が自覚しやすい部分もあるものです。
例えば、「将棋盤を見た瞬間に、次の一手が映像として浮かぶんです」とか
「避けたほうが良い場所を思い浮かべると苦しい感じがあるんです」とか。
そこは測定結果を見て勝手な推測をするよりも
直接的に本人に話として聞いてしまったほうが良いでしょう。
自覚できる部分と、自覚できない部分とでは
アプローチの仕方を変えたほうが効率的だと思うんです。
ちなみに、ねづっちは映像を思い浮かべて、謎かけを考えていると言っていました。
例えば「海」というお題だったりすると、海の画像が浮かんできて
波が押し寄せて、ヨットが浮かんでいて、釣りしている人がいて…
という映像を見るという話。
これは僕が以前に予測したこととも符合します。(>>「なぞときのこころ」)
観察不足で見誤っていたのは、目線の動き。
最初は少し上側で待機している。
そして言われた瞬間に少し上のところで固定されて
その中でターゲットが絞られる。
絞り込みの目の動きは見て取れます。
それから確実に目線が下にさがります。
横方向かと思って見ていましたが、横方向に加えて下方向への動きも大きい。
ナナメ下に行く感じ。
ここで内部対話モードに入りますから、ここで音を探す度合いが高まる。
しかも、あまりにも上手過ぎる謎かけの場合には、目線の動く方向が逆になります。
これは多分、既に使ったことのある謎かけをそのまま出してきたときでしょう。
そして、もう1つ予測されるのが、語呂合わせのパターンを沢山持っていること。
それに合わせて探索しているはずです。
あの速さの秘密は、お題と関係するターゲットを映像から絞り込み、
それに使える語呂合わせをパターンから探索するという作業によると考えられます。
映像を使っているという部分が予測したことと合っていたので
収穫の大きい番組でした。
何より、僕としては、ねづっちが謎かけを考えているときの表情や目線を
ビデオで録画して、じっくりと見ることができたのが大きな収穫。
僕の勝手な推測ですが、自分の中にあるパターンから探索を行うときに
よく起こる脳画像の特徴があるんじゃないかと思います。
その辺りも測定結果から推測できるようになると面白い気がします。
まぁ、「語呂合わせのパターンを沢山準備しているんです」まで教えてしまったら
得意の芸の価値が下がってしまうかもしれませんが。
日常生活で目にする場面であれば、謎かけのお題になりそうなものは
それなりに限られてしまいますから。
まして、そこから関連するキーワードを探しに行けばいい。
映像を使って、語呂合わせ可能なターゲットを探すわけです。
そのうち、謎かけのパターンが重なってきてしまうこともあるかもしれません。
「もっと謎かけが上手くなりたい」と番組中で語っていた本心は
パターンを広げたいということのような気もします。
脳を調べるという内容をやっていました。
番組予告を見たときから約一週間、ずっと楽しみにしていたんです。
一体、彼は頭の中で何をしているのか。
調べた内容は、ねづっちが謎かけのお題に対して答えを探しているときの
脳画像をNIRSで計測する内容。
NIRSは「 near - infrared spectroscopy:近赤外分光法」で
近赤外線を頭の上から当てて、大脳皮質の神経活動の様子を測ろうというもの。
脳が活動するときに酸素を使うため、脳内の血流において
ヘモグロビンが酸素と結合しているかどうかを調べることで
どの部位が活動しているかを判断する発想です。
ヘモグロビンが酸素と結合している状態と、酸素と結合していない状態では
近赤外域の波長の光を吸収するパターンが違うので
光が吸収される量を測定することで血中の酸素が結合したヘモグロビンの濃度が
相対的に分かるという仕組み。
まぁ、脳の活動している部位を表面から見てみよう、というわけです。
番組の内容は、ねづっちが謎かけしているときの脳画像を元に
どんな作業をしているかを推測するというものでしたが、
随分とアッサリしたものでチョット残念でした。
結果は、前頭葉の活動が活発になっていて、
しかもそれが左半球だけでなく右半球においても活発だというもの。
言語活動として謎かけをしていたら左半球だけになると推測されるのに対して
右半球も使われていることを考えると、おそらくイメージを使っている、
といった解説がなされました。
とてもザックリとしていて「左脳=論理」、「右脳=イメージ」というような
俗っぽい論拠だけで話が進んでしまったことには不満がありますが、
達人と呼ばれる人ほど右半球の活動が活発になる事例は良く耳にします。
ただ、そのときに重要だと思うのは、
本人が何を自覚しているか
ということ。
例えば、将棋や囲碁の名人が次の一手を考えるときの脳画像測定をしたとして、
そのときに本人がどういうことを頭の中に思い浮かべているかを
会話を通じて確認するのが重要じゃないか、と。
せっかく本人がいるんですから、聞けばいい。
映像が浮かんでいるのか、声を聞いているのか、体の感じを自覚しているのか。
映像だって大きさやイメージの位置、動画が展開するスピードの違いなどもあります。
おそらく達人は、一手一手を仮定するように進めていかず
1つの可能性を思い浮かべた瞬間に、その先の展開が一気に描かれるでしょう。
よくあるパターンを探索して、予測が難しい部分で集中して
複数の可能性を意識し始めるんじゃないでしょうか。
しかも、このパターン探索の作業は自覚しにくいものです。
映像的に展開が早いと感じたり、結果イメージだけが浮かんだり、
「これだ!」という感じがしたり、体の反応として自覚していたり、
いわゆる直観的な判断がなされるプロセスです。
そういう処理がなされているときに自覚しにくいのだとしたら
客観的な測定結果で判断するように工夫していくと
他人が理解できる内容が増えていくと考えられます。
一方、もっと本人が自覚しやすい部分もあるものです。
例えば、「将棋盤を見た瞬間に、次の一手が映像として浮かぶんです」とか
「避けたほうが良い場所を思い浮かべると苦しい感じがあるんです」とか。
そこは測定結果を見て勝手な推測をするよりも
直接的に本人に話として聞いてしまったほうが良いでしょう。
自覚できる部分と、自覚できない部分とでは
アプローチの仕方を変えたほうが効率的だと思うんです。
ちなみに、ねづっちは映像を思い浮かべて、謎かけを考えていると言っていました。
例えば「海」というお題だったりすると、海の画像が浮かんできて
波が押し寄せて、ヨットが浮かんでいて、釣りしている人がいて…
という映像を見るという話。
これは僕が以前に予測したこととも符合します。(>>「なぞときのこころ」)
観察不足で見誤っていたのは、目線の動き。
最初は少し上側で待機している。
そして言われた瞬間に少し上のところで固定されて
その中でターゲットが絞られる。
絞り込みの目の動きは見て取れます。
それから確実に目線が下にさがります。
横方向かと思って見ていましたが、横方向に加えて下方向への動きも大きい。
ナナメ下に行く感じ。
ここで内部対話モードに入りますから、ここで音を探す度合いが高まる。
しかも、あまりにも上手過ぎる謎かけの場合には、目線の動く方向が逆になります。
これは多分、既に使ったことのある謎かけをそのまま出してきたときでしょう。
そして、もう1つ予測されるのが、語呂合わせのパターンを沢山持っていること。
それに合わせて探索しているはずです。
あの速さの秘密は、お題と関係するターゲットを映像から絞り込み、
それに使える語呂合わせをパターンから探索するという作業によると考えられます。
映像を使っているという部分が予測したことと合っていたので
収穫の大きい番組でした。
何より、僕としては、ねづっちが謎かけを考えているときの表情や目線を
ビデオで録画して、じっくりと見ることができたのが大きな収穫。
僕の勝手な推測ですが、自分の中にあるパターンから探索を行うときに
よく起こる脳画像の特徴があるんじゃないかと思います。
その辺りも測定結果から推測できるようになると面白い気がします。
まぁ、「語呂合わせのパターンを沢山準備しているんです」まで教えてしまったら
得意の芸の価値が下がってしまうかもしれませんが。
日常生活で目にする場面であれば、謎かけのお題になりそうなものは
それなりに限られてしまいますから。
まして、そこから関連するキーワードを探しに行けばいい。
映像を使って、語呂合わせ可能なターゲットを探すわけです。
そのうち、謎かけのパターンが重なってきてしまうこともあるかもしれません。
「もっと謎かけが上手くなりたい」と番組中で語っていた本心は
パターンを広げたいということのような気もします。
2010年05月14日
断定的な言葉
言葉にされることは全て自分の経験に基づいています。
仮に、ある単語を辞書で調べたとか、本で読んだだけだったとしても
その単語を理解するために使われた言葉自体は、経験によって理解されている。
少なくとも、辞書や本を読んだという経験とは結びついているわけです。
自分の考えや気持ちを話すときも同様です。
自分が感じていることに合った言い回しを選ぶんです。
普段の会話であれば、自分の言葉を吟味することは少ないでしょう。
もっとピッタリくる表現がないかどうかと意識して
シックリくる言い回しを見つける作業は多くないものだと思います。
これがカウンセリングやコーチングなどで
本人のテーマについて話をする場合になると、事情は変わってきます。
関係性として、普段よりも自分の気持ちに向き合えるようになってくる。
言葉を選ぶときの感受性が上がってくる感じです。
すると、一度言葉にしてみた後で、
もっとシックリくる表現に言い換えたりすることが起きてきます。
こういうコダワリを持っている人は、自分の発言内容や考えの内容に対して
「どれくらい、そのように感じているか?」という度合いを意識しやすいでしょう。
情報が整理されて、区別された形で記憶されているのかもしれません。
ところが、こうした区別がつきにくい形で記憶している場合には
平均的なコミュニケーションの仕方よりも、
極端な言葉の選び方をする(ように他人からは感じられる)ことがあります。
それが全ての自分の考えであるかのように、言葉にされる。
例えば、初対面の人と話す必要があったときに、
どんな話をしていいかが思い浮かばず、苦労したとします。
一般的には、そのことに対して「今日は、あの人と上手く会話が続かなかったな」
という具合に感じるケースが多いと思います。
あくまでも、その日に、その人と会話をした内容に意識を向ける。
その日、上手くいかなかったのは、その会話だったんです。
それも、「上手くいかなかった」と評価しているのであって、
全くダメだったとも言っていません。
このようなことがあった後、「私は、初対面の人と話すのが苦手だ」
と考えたり、そのことを誰かに話すことがあったとしたら、
それは一度限りの経験ではなかったと推測されます。
何度も似たような経験を繰り返してきて、
「自分には、初対面の人と話が続かない傾向がある」
ということを自覚して言葉にするわけです。
重要なポイントは「苦手」という言い回しに出来ていることでしょう。
全然ダメだとは言っていないんです。
仮に、これが「私は初対面の人と話が続かないんです」
と表現したとしても、一般的な会話の中では
あくまで「そういうことが多い」という含みを持っているはずです。
言い回しとして「続かない」という断定的な表現だったとしても
それが全てだと考えているわけではないものです。
会話をしている相手からすれば、話し手の気持ちの中にある断定の度合いや
確信している度合いのようなものも読み取れるかもしれません。
「そうは言っているけれど、そういうことが多いという程度だろうな」
と判断して、会話を続けてしまっても問題は少ないと思います。
なので、会話の展開として優先されるのは、
「私は初対面の人と話が続かない」という発言内容に囚われず
「どんな時に『続かない』と感じるんですか?」とか
「初対面の人との会話が苦手だというのは、何があった場合に思いますか?」
などと、具体的な出来事の内容を聞くための質問をしていくことになります。
そうすることで、本人が問題意識を持っている行動の内容を明確にするわけです。
例えば「話すときに緊張してしまうんです」とか
「お互いに会話が止まってしまって気まずい空気になるのが嫌なんです」など、
より具体的な問題状況が見えてくれば
それに対して何を改善していきたいのかという方向も決まってくるものです。
このように、課題意識を持っている事柄の中から
自分が変えていきたい部分を絞り込む作業を『焦点化』と呼びます。
ここで取り上げたようなケースであれば、本人の中には色々な信念が考えられます。
例えば、言葉にはされていませんが、
「どんな人ともスムーズに会話ができるほうが望ましい」とか
「会話が続かないことは良いコミュニケーションではない」とか、
そんな思い込みはあるかもしれません。
そのような思い込みを拡げていくアプローチは効果的でしょう。
しかし、直接言葉として表現された
「私は初対面の人と話が続かないんです」
といった考えに関しては、アプローチの対象にはなりません。
言葉で断定的に表現されていても、
それを思い込み(信念)としては持っていないと予測されるからです。
もちろん、NLPの中のメタモデルという質問のパターンや
ブリーフセラピーで用いられるような例外探しの質問を使えば
「初対面の人と話が続いたことはありませんでしたか?」
と聞くことも可能です。
それも無駄ではないと思います。
ですが、上手く話せた経験も自覚していたとしたら
その質問の効果は大きくはありません。
例外を聞くことが役に立つのは、本人の中で自覚されている度合いが少ないときです。
それは言葉に表現される内容の確信の度合いに影響します。
強く確信しているように聞こえた場合には、例外を考えてもらうのが役立つわけです。
言葉にされたことや、その言い回しが
本人の考えや思いと完全に一致しているとは限らないんです。
自分の気持ちと考えに一致する言葉をスムーズに選ぶ能力は個人差がありますから
言葉で表現された内容と、話に取り上げていきたい内容とを
区別しながら聞くことが重要でしょう。
メタモデルにせよ、スライトオブマウスにせよ、
言葉にされたビリーフにアプローチをする発想は
『言葉にされたことは、本人の内面と一致している』
という前提に基づいている気がします。
ですが、実際はそうではない。
まずは内面をシッカリと言葉で表現できるように
サポートするプロセスが優先されるものだと考えられます。
そして、世の中には数少ない経験を全てであるかのように一般化するタイプもいます。
例外や場合分けをして考える習慣がない人です。
0か1かと白黒ハッキリつける傾向とも結びつきやすいかもしれません。
その時点での自分の考えや気持ちに意識を向けたとき、
その考えや気持ちが自分の中の全てのように感じられてしまう。
様々な可能性を並列で考えるのではなく、
1つの部分を集中的にドップリと意識するわけです。
不安なことや落ち込んだ気持ちがあれば、その気持ちを意識した途端に
ドップリとその感情の中に浸っていく。
もちろん、楽しいことがあれば、そちらの体験にドップリ浸れるわけですから
喜びも苦しみも人一倍ということになるのでしょうが、
こうした人が苦しみを感じる時間を増やしていくと危険が予測されます。
頻繁に落ち込んだ状態を感じているのですから、
その状態が一般化されて意識されやすくなっていくでしょう。
「私はずっと落ち込んでばかりだ。何もかも上手くいかない。」という感じ。
その気持ちを意識すると、それに集中するのですから
「何もかも上手くいかない」気分が全てになってしまう方向に進みやすくなる。
そして、「何もかも上手くいかない」の気持ちに集中している状態では
日常の様々な経験を「上手くいかない」ことの事例として分類しやすくもなります。
悪循環になりやすい。
言葉として口から発するときも、頭の中で思考として声を聞くときも、
その考えが意識の前面に出ているという意味では同じです。
世の中には、その考えが自分の心の全てのように
体験してしまいやすいタイプもいるということです。
言葉にして発したことが、一時的にであっても
自分の全ての考えのように感じてしまいやすいのですから、
こうした人にとっては何を考えるか、何を口に出すかが特に重要になります。
そんなタイプにこそ、思い込みを指摘するような質問の仕方として
メタモデルやスライト・オブ・マウスが効果を発揮するわけです。
元々、こうした感じ方をする人は内面的に悩みを抱えることも多かったことでしょう。
カウンセラーやセラピストのところに足を運んだ人もいたと思います。
優れたセラピストの言語パターンを抽出して生み出した質問の技術は、
その質問が効果的に機能する相手に対して使われていたと考えられます。
残念ながら、その質問が効果を発揮する相手を判断する方法までは
技術として伝えられないようです。
使うべき状況を考えることなく、質問の型だけが独り歩きする。
そんな印象は否めません。
役に立つ質問の型があるのは効果的なものだと思いますが、
その質問が使えるように身につけていく作業ができれば
もっと効果的ではないでしょうか。
仮に、ある単語を辞書で調べたとか、本で読んだだけだったとしても
その単語を理解するために使われた言葉自体は、経験によって理解されている。
少なくとも、辞書や本を読んだという経験とは結びついているわけです。
自分の考えや気持ちを話すときも同様です。
自分が感じていることに合った言い回しを選ぶんです。
普段の会話であれば、自分の言葉を吟味することは少ないでしょう。
もっとピッタリくる表現がないかどうかと意識して
シックリくる言い回しを見つける作業は多くないものだと思います。
これがカウンセリングやコーチングなどで
本人のテーマについて話をする場合になると、事情は変わってきます。
関係性として、普段よりも自分の気持ちに向き合えるようになってくる。
言葉を選ぶときの感受性が上がってくる感じです。
すると、一度言葉にしてみた後で、
もっとシックリくる表現に言い換えたりすることが起きてきます。
こういうコダワリを持っている人は、自分の発言内容や考えの内容に対して
「どれくらい、そのように感じているか?」という度合いを意識しやすいでしょう。
情報が整理されて、区別された形で記憶されているのかもしれません。
ところが、こうした区別がつきにくい形で記憶している場合には
平均的なコミュニケーションの仕方よりも、
極端な言葉の選び方をする(ように他人からは感じられる)ことがあります。
それが全ての自分の考えであるかのように、言葉にされる。
例えば、初対面の人と話す必要があったときに、
どんな話をしていいかが思い浮かばず、苦労したとします。
一般的には、そのことに対して「今日は、あの人と上手く会話が続かなかったな」
という具合に感じるケースが多いと思います。
あくまでも、その日に、その人と会話をした内容に意識を向ける。
その日、上手くいかなかったのは、その会話だったんです。
それも、「上手くいかなかった」と評価しているのであって、
全くダメだったとも言っていません。
このようなことがあった後、「私は、初対面の人と話すのが苦手だ」
と考えたり、そのことを誰かに話すことがあったとしたら、
それは一度限りの経験ではなかったと推測されます。
何度も似たような経験を繰り返してきて、
「自分には、初対面の人と話が続かない傾向がある」
ということを自覚して言葉にするわけです。
重要なポイントは「苦手」という言い回しに出来ていることでしょう。
全然ダメだとは言っていないんです。
仮に、これが「私は初対面の人と話が続かないんです」
と表現したとしても、一般的な会話の中では
あくまで「そういうことが多い」という含みを持っているはずです。
言い回しとして「続かない」という断定的な表現だったとしても
それが全てだと考えているわけではないものです。
会話をしている相手からすれば、話し手の気持ちの中にある断定の度合いや
確信している度合いのようなものも読み取れるかもしれません。
「そうは言っているけれど、そういうことが多いという程度だろうな」
と判断して、会話を続けてしまっても問題は少ないと思います。
なので、会話の展開として優先されるのは、
「私は初対面の人と話が続かない」という発言内容に囚われず
「どんな時に『続かない』と感じるんですか?」とか
「初対面の人との会話が苦手だというのは、何があった場合に思いますか?」
などと、具体的な出来事の内容を聞くための質問をしていくことになります。
そうすることで、本人が問題意識を持っている行動の内容を明確にするわけです。
例えば「話すときに緊張してしまうんです」とか
「お互いに会話が止まってしまって気まずい空気になるのが嫌なんです」など、
より具体的な問題状況が見えてくれば
それに対して何を改善していきたいのかという方向も決まってくるものです。
このように、課題意識を持っている事柄の中から
自分が変えていきたい部分を絞り込む作業を『焦点化』と呼びます。
ここで取り上げたようなケースであれば、本人の中には色々な信念が考えられます。
例えば、言葉にはされていませんが、
「どんな人ともスムーズに会話ができるほうが望ましい」とか
「会話が続かないことは良いコミュニケーションではない」とか、
そんな思い込みはあるかもしれません。
そのような思い込みを拡げていくアプローチは効果的でしょう。
しかし、直接言葉として表現された
「私は初対面の人と話が続かないんです」
といった考えに関しては、アプローチの対象にはなりません。
言葉で断定的に表現されていても、
それを思い込み(信念)としては持っていないと予測されるからです。
もちろん、NLPの中のメタモデルという質問のパターンや
ブリーフセラピーで用いられるような例外探しの質問を使えば
「初対面の人と話が続いたことはありませんでしたか?」
と聞くことも可能です。
それも無駄ではないと思います。
ですが、上手く話せた経験も自覚していたとしたら
その質問の効果は大きくはありません。
例外を聞くことが役に立つのは、本人の中で自覚されている度合いが少ないときです。
それは言葉に表現される内容の確信の度合いに影響します。
強く確信しているように聞こえた場合には、例外を考えてもらうのが役立つわけです。
言葉にされたことや、その言い回しが
本人の考えや思いと完全に一致しているとは限らないんです。
自分の気持ちと考えに一致する言葉をスムーズに選ぶ能力は個人差がありますから
言葉で表現された内容と、話に取り上げていきたい内容とを
区別しながら聞くことが重要でしょう。
メタモデルにせよ、スライトオブマウスにせよ、
言葉にされたビリーフにアプローチをする発想は
『言葉にされたことは、本人の内面と一致している』
という前提に基づいている気がします。
ですが、実際はそうではない。
まずは内面をシッカリと言葉で表現できるように
サポートするプロセスが優先されるものだと考えられます。
そして、世の中には数少ない経験を全てであるかのように一般化するタイプもいます。
例外や場合分けをして考える習慣がない人です。
0か1かと白黒ハッキリつける傾向とも結びつきやすいかもしれません。
その時点での自分の考えや気持ちに意識を向けたとき、
その考えや気持ちが自分の中の全てのように感じられてしまう。
様々な可能性を並列で考えるのではなく、
1つの部分を集中的にドップリと意識するわけです。
不安なことや落ち込んだ気持ちがあれば、その気持ちを意識した途端に
ドップリとその感情の中に浸っていく。
もちろん、楽しいことがあれば、そちらの体験にドップリ浸れるわけですから
喜びも苦しみも人一倍ということになるのでしょうが、
こうした人が苦しみを感じる時間を増やしていくと危険が予測されます。
頻繁に落ち込んだ状態を感じているのですから、
その状態が一般化されて意識されやすくなっていくでしょう。
「私はずっと落ち込んでばかりだ。何もかも上手くいかない。」という感じ。
その気持ちを意識すると、それに集中するのですから
「何もかも上手くいかない」気分が全てになってしまう方向に進みやすくなる。
そして、「何もかも上手くいかない」の気持ちに集中している状態では
日常の様々な経験を「上手くいかない」ことの事例として分類しやすくもなります。
悪循環になりやすい。
言葉として口から発するときも、頭の中で思考として声を聞くときも、
その考えが意識の前面に出ているという意味では同じです。
世の中には、その考えが自分の心の全てのように
体験してしまいやすいタイプもいるということです。
言葉にして発したことが、一時的にであっても
自分の全ての考えのように感じてしまいやすいのですから、
こうした人にとっては何を考えるか、何を口に出すかが特に重要になります。
そんなタイプにこそ、思い込みを指摘するような質問の仕方として
メタモデルやスライト・オブ・マウスが効果を発揮するわけです。
元々、こうした感じ方をする人は内面的に悩みを抱えることも多かったことでしょう。
カウンセラーやセラピストのところに足を運んだ人もいたと思います。
優れたセラピストの言語パターンを抽出して生み出した質問の技術は、
その質問が効果的に機能する相手に対して使われていたと考えられます。
残念ながら、その質問が効果を発揮する相手を判断する方法までは
技術として伝えられないようです。
使うべき状況を考えることなく、質問の型だけが独り歩きする。
そんな印象は否めません。
役に立つ質問の型があるのは効果的なものだと思いますが、
その質問が使えるように身につけていく作業ができれば
もっと効果的ではないでしょうか。
2010年05月11日
落語の時間
今年のゴールデンウィークには、ちょっと出かけることもできました。
印象的だったのは、落語を聞きに行ったことです。
柳家花緑。
「5代目・柳家小さん」の孫に当たる人。
以前からテレビなどで見ていて好きだったのですが、
今回、初めて生で落語を見ることができました。
いやぁ、面白かった。
そして、勉強になりました。
落語家というのは噺家(はなしか)とも呼ばれますから
「話をする人」のように考えられますが、
その「話をする」の意味は、英語の「 speak 」とは随分違うもののようです。
最初の部分で日常的な小話を交えていた中でも出てきたこととして
世間一般で、まだ落語は有名ではないという内容がありました。
特に、若い世代には。
ある日、高座が終わった後にサイン会をしていたら
2人の若者がやってきて感想を述べて帰ったんだそうです。
「落語って分かりやすいんですね」と。
その意味を聞いてみると、なんでも
落語を能や狂言のような伝統芸能と同じものと考えていて
現代人には何を言っているのか分からないものだと想像していたのだとか。
確かに古典芸能ではありますから、
そういうイメージと結びつくこともあるのかもしれません。
僕の実家は祖父母が同居していましたから、
小さい頃から日曜日の夕方には「笑点」を見るのが恒例でした。
なので、落語家に対しては普通に芸能人のように見ていた気がします。
とはいえ、落語は笑点とは随分違う。
最近は違ってきているようですが、以前の笑点の番組構成は、
・冒頭、客席に故・三遊亭圓楽が司会者として登場し、最初の芸人を紹介
・1組の芸人が10分程度の芸を披露
・CMあけ、舞台を変えて大喜利
といった流れでした。
この大喜利の前に放送される1ネタには、マジックや漫才の他にも
短めの落語を見られるときもあったんです。
そのおかげか、僕の中では落語がそこそこ有名なものだったようです。
「落語家」=「カラフルな着物の人たち」ではなかったと思います。
落語で何がなされるかは、なんとなく見ていたつもりでした。
その後、高校・大学ぐらいから落語のCDを聞くようになりました。
CDで聞いても落語は面白い。
ですが、聞いているだけでは分からないところも沢山あるのも事実。
特に動きで笑わせてくれる部分では、客席の笑い声が入っているのに
CDを聞いている自分には面白さが分からなかったりするんです。
落語家は芝居の一人舞台ほど演じ分ける作業を明確にはしませんが、
単純に話の内容を覚えて暗唱しているのとは違います。
やはり、それぞれの登場人物や情景を描く作業をしている。
欧米のスタンダップ・コメディは、一人の印象がずっと強い。
面白い話を教えてくれる感じ。
最近のテレビ関連に照らし合わせると「すべらない話」のような印象でしょうか。
落語は、それよりも登場人物の描き方が丁寧です。
そして役を演じる。
ナレーションの比率が低いわけです。
1つの場面が、情景として描かれるように登場人物のやりとりとして語られる。
なので、話をするのと同時に演じている部分も強いんです。
特に、上手いと言われる落語家は、その演じ方、情景描写の仕方も見事なようです。
実に「それっぽい」。
芝居と違うのは、それが座ったままで行われること。
そして、違いの示し方が曖昧なことでしょうか。
見ている側として、誰がいて、どこで何をしているのか、
といった情景がイメージできるのだけれど、それが明確には示されないんです。
見ている側の想像力をかき立てる。
落語を分かろうと思ったら、見ている側にも工夫がいるのかもしれません。
そこにはリアリティや極端なまでの誇張はなされない。
さりげなく、くどくない範囲で、でも「それらしく」。
そんな感じの作り込み方を感じます。
例えば、有名な「時そば」で登場人物が蕎麦をすするシーン。
これは「しっぽく蕎麦」と言って、ちくわだけが具材として使われた
かけ蕎麦に近いシンプルな蕎麦です。
これを食べるときの音を出すのも、落語家の芸のうち。
演劇の舞台だったら、効果音を使えばいいかもしれませんが、落語では違います。
落語家が、蕎麦を食べる音も出すわけです。
この擬音、こだわって聞けば
「しっぽく蕎麦で、その音はしないだろう、
それは、とろろ蕎麦ぐらいの音だ」
という印象のもの。
でも、「それっぽい」ほうが大事なようです。
いかにも蕎麦をすする音。
その特徴を利用するのが1つのスタンスのように見えます。
登場人物の描き方も、細かな動作も、目線の配り方も、擬音の出し方も、
多くの人が共通して持っている「それっぽい」パターンに当てはまる。
あとは、見ている本人が自分の記憶を元にイメージを作っている、と考えられます。
つまり、落語は聞く側にも努力がいるということです。
自覚しているかどうかは別にして、落語を聞くということは受動的ではないんです。
「 speak 」つまり、一方的に話をするというコミュニケーションの形でない
と書いたのは、そういう意味でもあります。
落語家と見る側とでは、共同作業をしているところがある。
そして、落語を実際に見に行って感じるのは、
落語家自身も客席とコミュニケーションを取っているということ。
柳家花緑は、客席との交流が上手い人でした。
すごく気を遣っています。
よく見ているし、よく聞いている。
客席とラポールを取りながら、自分のトランスに巻き込んでいくんです。
佳境に入るほどに、お年寄りに眠気を誘うのも当然でしょう。
落語という内容をただ話しているわけではないことを強く実感しました。
落語はスピーチ、講演や演劇とも違う相互交流のコミュニケーションのようです。
それは、ライブでしか感じられない面白さを提供してくれるものだと思います。
印象的だったのは、落語を聞きに行ったことです。
柳家花緑。
「5代目・柳家小さん」の孫に当たる人。
以前からテレビなどで見ていて好きだったのですが、
今回、初めて生で落語を見ることができました。
いやぁ、面白かった。
そして、勉強になりました。
落語家というのは噺家(はなしか)とも呼ばれますから
「話をする人」のように考えられますが、
その「話をする」の意味は、英語の「 speak 」とは随分違うもののようです。
最初の部分で日常的な小話を交えていた中でも出てきたこととして
世間一般で、まだ落語は有名ではないという内容がありました。
特に、若い世代には。
ある日、高座が終わった後にサイン会をしていたら
2人の若者がやってきて感想を述べて帰ったんだそうです。
「落語って分かりやすいんですね」と。
その意味を聞いてみると、なんでも
落語を能や狂言のような伝統芸能と同じものと考えていて
現代人には何を言っているのか分からないものだと想像していたのだとか。
確かに古典芸能ではありますから、
そういうイメージと結びつくこともあるのかもしれません。
僕の実家は祖父母が同居していましたから、
小さい頃から日曜日の夕方には「笑点」を見るのが恒例でした。
なので、落語家に対しては普通に芸能人のように見ていた気がします。
とはいえ、落語は笑点とは随分違う。
最近は違ってきているようですが、以前の笑点の番組構成は、
・冒頭、客席に故・三遊亭圓楽が司会者として登場し、最初の芸人を紹介
・1組の芸人が10分程度の芸を披露
・CMあけ、舞台を変えて大喜利
といった流れでした。
この大喜利の前に放送される1ネタには、マジックや漫才の他にも
短めの落語を見られるときもあったんです。
そのおかげか、僕の中では落語がそこそこ有名なものだったようです。
「落語家」=「カラフルな着物の人たち」ではなかったと思います。
落語で何がなされるかは、なんとなく見ていたつもりでした。
その後、高校・大学ぐらいから落語のCDを聞くようになりました。
CDで聞いても落語は面白い。
ですが、聞いているだけでは分からないところも沢山あるのも事実。
特に動きで笑わせてくれる部分では、客席の笑い声が入っているのに
CDを聞いている自分には面白さが分からなかったりするんです。
落語家は芝居の一人舞台ほど演じ分ける作業を明確にはしませんが、
単純に話の内容を覚えて暗唱しているのとは違います。
やはり、それぞれの登場人物や情景を描く作業をしている。
欧米のスタンダップ・コメディは、一人の印象がずっと強い。
面白い話を教えてくれる感じ。
最近のテレビ関連に照らし合わせると「すべらない話」のような印象でしょうか。
落語は、それよりも登場人物の描き方が丁寧です。
そして役を演じる。
ナレーションの比率が低いわけです。
1つの場面が、情景として描かれるように登場人物のやりとりとして語られる。
なので、話をするのと同時に演じている部分も強いんです。
特に、上手いと言われる落語家は、その演じ方、情景描写の仕方も見事なようです。
実に「それっぽい」。
芝居と違うのは、それが座ったままで行われること。
そして、違いの示し方が曖昧なことでしょうか。
見ている側として、誰がいて、どこで何をしているのか、
といった情景がイメージできるのだけれど、それが明確には示されないんです。
見ている側の想像力をかき立てる。
落語を分かろうと思ったら、見ている側にも工夫がいるのかもしれません。
そこにはリアリティや極端なまでの誇張はなされない。
さりげなく、くどくない範囲で、でも「それらしく」。
そんな感じの作り込み方を感じます。
例えば、有名な「時そば」で登場人物が蕎麦をすするシーン。
これは「しっぽく蕎麦」と言って、ちくわだけが具材として使われた
かけ蕎麦に近いシンプルな蕎麦です。
これを食べるときの音を出すのも、落語家の芸のうち。
演劇の舞台だったら、効果音を使えばいいかもしれませんが、落語では違います。
落語家が、蕎麦を食べる音も出すわけです。
この擬音、こだわって聞けば
「しっぽく蕎麦で、その音はしないだろう、
それは、とろろ蕎麦ぐらいの音だ」
という印象のもの。
でも、「それっぽい」ほうが大事なようです。
いかにも蕎麦をすする音。
その特徴を利用するのが1つのスタンスのように見えます。
登場人物の描き方も、細かな動作も、目線の配り方も、擬音の出し方も、
多くの人が共通して持っている「それっぽい」パターンに当てはまる。
あとは、見ている本人が自分の記憶を元にイメージを作っている、と考えられます。
つまり、落語は聞く側にも努力がいるということです。
自覚しているかどうかは別にして、落語を聞くということは受動的ではないんです。
「 speak 」つまり、一方的に話をするというコミュニケーションの形でない
と書いたのは、そういう意味でもあります。
落語家と見る側とでは、共同作業をしているところがある。
そして、落語を実際に見に行って感じるのは、
落語家自身も客席とコミュニケーションを取っているということ。
柳家花緑は、客席との交流が上手い人でした。
すごく気を遣っています。
よく見ているし、よく聞いている。
客席とラポールを取りながら、自分のトランスに巻き込んでいくんです。
佳境に入るほどに、お年寄りに眠気を誘うのも当然でしょう。
落語という内容をただ話しているわけではないことを強く実感しました。
落語はスピーチ、講演や演劇とも違う相互交流のコミュニケーションのようです。
それは、ライブでしか感じられない面白さを提供してくれるものだと思います。