2010年07月
2010年07月31日
言葉の推測力
英会話教室に通い始めて、どの程度の効果が実感できているかというと
それは決して顕著なものとは言いにくい状態です。
まぁ、それでも始める前のレベルチェックのときよりは
それなりに言葉が出やすくなっている気がするのと、
聞きとったフレーズを保持しておける長さが伸びた印象が少しあります。
「保持できる長さが伸びる」というのは、
「 This is a pen. 」ぐらいを聞きとって、それを復唱できていたのが
「 This is a pen given by my father. 」ぐらいまで
覚えていられるようになった、という感じの違いです。
ワーキングメモリーの容量が上がることは簡単ではないと思うので、
フレーズに対する予測がしやすくなったんじゃないかと考えています。
言語理解において予測の作業は非常に重要です。
何かの店に入ったときに店員が「っしゃっせー」といったら
「いらっしゃいませー」のことだろうと誰もが推測するでしょう。
実際に明確なレベルで聞けていない内容でも
文脈と状況から何を言っているかを予測できるしているはずなんです。
それまでの流れを受けて出てきそうな言葉を予測しながら会話をしているから
我々は同音異義語であっても正しく意味が取れるし
声の聞こえ方が鮮明でない電話や人混みなどの状況でも話を理解できるわけです。
言語理解において、この推測の作業は非常に重要です。
このあたりのパターン認識能力を上げるのが
言語習得のポイントの1つじゃないでしょうか。
例えば、リスニングのトレーニングを地味に続けていると
英語の発音では、ほとんど音になっていないにも関わらず
聞き分ける必要のある単語の違いがあったりします。
「 I can do it. 」と「 I can't do it. 」の違いは
中学校の英語ではハッキリと発音されていたと記憶していますが、
「 can't 」の最後の「 t 」の音は「 do 」の最初の音と繋がってしまって
実際には聞こえなくなる音です。
ただ、「 can (キャン)」の聞こえ方の強さと長さが違う。
否定形の「 can't 」のほうが「キャァン」という感じに強く長めに言われるようです。
そんな微妙な聞き取りのルールがあるみたいなんです。
実際に音は聞こえていないけど、リズムからすると
この部分は過去形になっていただろう、とか。
推測が当然のようになされる。
コミュニケーションのトレーニングをしていると
推測という行為は良くないもののように言われるときがあります。
相手の気持ちを推測したり、相手の話の結論を推測したり、
相手の悩みの本質を推測したり、問題の原因を推測したり…。
そういう推測が思い込みを作り、相手の話を理解できなくさせてしまう、と。
ところが、現実的に会話を進める上では
相手の言葉を聞き取って理解するレベルでさえ推測なしには成り立っていないんです。
「りか」という音が聞こえたときに、それが人名なのか「理科」なのか
その意味の区別ができているのも文脈から推測しているからです。
大事なのは、推測をしないことではなく、
推測が違ったときに修正していける準備があるかどうかでしょう。
その前に、効果的な推測ができるようになるまで
パターンを掴んでいくトレーニングが求められるんだと思います。
外国語を学ぶときには、特に重要な作業じゃないかと感じています。
ところで、最近の英語学習の影響として最も強く感じる部分は
僕の日本語の言語活動が英語に浸食されているところです。
日本語で会話をしていても英単語が頭に浮かぶことが増えてきたり、
言葉の繋がりがスムーズでなくなったり、
ちょっと困った影響が出ている感じがします。
英語の上達よりも、日本語への悪影響が強いというのは
僕がバイリンガルとして英語を学ばずに
日本語の言語運用システムを英語に流用しているためだと考えられます。
野球で言うと、ストレートの投げ方を流用して変化球を覚えてしまったために
ストレートを投げるときのフォームに悪影響が出てしまった感じ。
学習の作業では良く起きることですから心配はしていませんし、
こうした混乱こそが変化の過程と言えますから大きな問題ではないと思っています。
今後、使い分けをするための「分ける」作業が求められてくるだけ。
マイケル富岡みたいな日本語にまでは、なっていないつもりです。
それは決して顕著なものとは言いにくい状態です。
まぁ、それでも始める前のレベルチェックのときよりは
それなりに言葉が出やすくなっている気がするのと、
聞きとったフレーズを保持しておける長さが伸びた印象が少しあります。
「保持できる長さが伸びる」というのは、
「 This is a pen. 」ぐらいを聞きとって、それを復唱できていたのが
「 This is a pen given by my father. 」ぐらいまで
覚えていられるようになった、という感じの違いです。
ワーキングメモリーの容量が上がることは簡単ではないと思うので、
フレーズに対する予測がしやすくなったんじゃないかと考えています。
言語理解において予測の作業は非常に重要です。
何かの店に入ったときに店員が「っしゃっせー」といったら
「いらっしゃいませー」のことだろうと誰もが推測するでしょう。
実際に明確なレベルで聞けていない内容でも
文脈と状況から何を言っているかを予測できるしているはずなんです。
それまでの流れを受けて出てきそうな言葉を予測しながら会話をしているから
我々は同音異義語であっても正しく意味が取れるし
声の聞こえ方が鮮明でない電話や人混みなどの状況でも話を理解できるわけです。
言語理解において、この推測の作業は非常に重要です。
このあたりのパターン認識能力を上げるのが
言語習得のポイントの1つじゃないでしょうか。
例えば、リスニングのトレーニングを地味に続けていると
英語の発音では、ほとんど音になっていないにも関わらず
聞き分ける必要のある単語の違いがあったりします。
「 I can do it. 」と「 I can't do it. 」の違いは
中学校の英語ではハッキリと発音されていたと記憶していますが、
「 can't 」の最後の「 t 」の音は「 do 」の最初の音と繋がってしまって
実際には聞こえなくなる音です。
ただ、「 can (キャン)」の聞こえ方の強さと長さが違う。
否定形の「 can't 」のほうが「キャァン」という感じに強く長めに言われるようです。
そんな微妙な聞き取りのルールがあるみたいなんです。
実際に音は聞こえていないけど、リズムからすると
この部分は過去形になっていただろう、とか。
推測が当然のようになされる。
コミュニケーションのトレーニングをしていると
推測という行為は良くないもののように言われるときがあります。
相手の気持ちを推測したり、相手の話の結論を推測したり、
相手の悩みの本質を推測したり、問題の原因を推測したり…。
そういう推測が思い込みを作り、相手の話を理解できなくさせてしまう、と。
ところが、現実的に会話を進める上では
相手の言葉を聞き取って理解するレベルでさえ推測なしには成り立っていないんです。
「りか」という音が聞こえたときに、それが人名なのか「理科」なのか
その意味の区別ができているのも文脈から推測しているからです。
大事なのは、推測をしないことではなく、
推測が違ったときに修正していける準備があるかどうかでしょう。
その前に、効果的な推測ができるようになるまで
パターンを掴んでいくトレーニングが求められるんだと思います。
外国語を学ぶときには、特に重要な作業じゃないかと感じています。
ところで、最近の英語学習の影響として最も強く感じる部分は
僕の日本語の言語活動が英語に浸食されているところです。
日本語で会話をしていても英単語が頭に浮かぶことが増えてきたり、
言葉の繋がりがスムーズでなくなったり、
ちょっと困った影響が出ている感じがします。
英語の上達よりも、日本語への悪影響が強いというのは
僕がバイリンガルとして英語を学ばずに
日本語の言語運用システムを英語に流用しているためだと考えられます。
野球で言うと、ストレートの投げ方を流用して変化球を覚えてしまったために
ストレートを投げるときのフォームに悪影響が出てしまった感じ。
学習の作業では良く起きることですから心配はしていませんし、
こうした混乱こそが変化の過程と言えますから大きな問題ではないと思っています。
今後、使い分けをするための「分ける」作業が求められてくるだけ。
マイケル富岡みたいな日本語にまでは、なっていないつもりです。
2010年07月29日
韓流ドラマのフレーム
たまたま目に飛び込んできたテレビ画面を見て驚いたんですが、
韓流ドラマの映像は、日本の文化と随分違うようです。
多くの場合において、映像が鮮明でクッキリしている気がします。
カメラワークも独特な動きを伴っていたり、
画面に対する人物の配置にも特色がありそうです。
特に違いを感じるのが色の使い方。
彩度も明度も高い色を、沢山使っているように感じられます。
僕の目に飛び込んできた画面は、タイトルも内容も知らない番組ですが、
その番組は色使いと明るさ、鮮明さの特徴が際立っていました。
僕が日本のテレビで目にしてきた画面の傾向とは、あまりにも違っていました。
とにかく使われる色の種類が多い。
そして全ての色が鮮やかで明るいんです。
服装の色も派手ですし、画面の中には色鮮やかな花が映り込んでいたりもします。
全ての色の要素が、画面に対する大きさの比率としても小さいので
画面中に多くの色がバラバラッと散らばっている感じに見えます。
全てのものにピントが合ったような鮮明さがあって
奥の物から手前の物まで全てにピントが合ったクッキリさによっても
余計に賑やかさが強調されるようです。
カメラが動いていることも多く、障害物越しに人物を映したり、
場合によっては完全に障害物しか映っていない瞬間もあったり、
僕の感じ方としては「落ち着かない」印象さえ受けたりします。
「その部分は大事じゃないだろう…」というような背景部分にさえ
鮮やかな色が使われているのが興味深いんです。
例えば、画面に赤と黄色が少ないときには、背景の奥に移る洗濯物とかを使って
足りない色を補うことがされているように思えます。
もしかすると、韓国文化の日常生活の中には色鮮やかなものが多いのかもしれませんが、
僕のように日本でしか生活したことがない中で作られてきた基準からすると
違和感を覚えるような画面に感じられてしまいます。
まぁ、世の中の韓流ドラマ好きの人たちの多くは、そうした画面の特徴などよりも
そのストーリーや世界観に共鳴しているのでしょうが、
僕には、あの画面の作り出し方のほうが興味が沸いてくるんです。
なぜなら、そこには日本文化の中で日常的に目にするよりも
遥かに強調された度合いで映像が作られているからです。
あの独特のカメラワークは、固定されたカメラで状況を捕えただけのものよりも
遥かに主観的というか、感情移入しやすい効果があると考えられます。
人間の目は興味のあるものにズームインしたり、
大事なもの(ポジティブにでもネガティブにでも)が視野に入ると
急速に目を動かして、視野の中心に大事なものを運んだりします。
韓国ドラマに見られる目まぐるしいカメラワークは
画面を通じて「興味を惹かれている」状態の目の動きに近いものを
テレビ画面という視野の中に作っているようです。
カメラの動きが少なく、主要な登場人物がいつも画面の中に全員見えるような画面、
つまりミュージカルや舞台演劇を客席から見ているような画面の場合には、
横から客観的に物事を見ているような説明的な印象が伴いやすいでしょう。
舞台を見に行っている人は自分の目で、主要な動きを追いかけますから
決して単調にはなりにくいものですが、
いつも舞台全体が映っている映像で演劇を見たら淡々とした世界になりそうです。
逆に考えれば、舞台演劇やミュージカルで大袈裟なことをするのは
舞台という画面構成の設定の制約のなかでダイナミックさを追求した結果
とも言えるかもしれません。
そして色使い。
視野の中で強調される部分は、人の受け取り方に意味を与えます。
これがNLPで説明する「フレーム」の定義だと僕は主張しているんですが、
NLPの世界でも説明としてこの「フレーム」の意味を聞いたことはありません。
なので個人的な見解ではあります。
そのフレーム、つまり意味づけの観点から捉えると
韓流ドラマに見られる色使いの特徴は、見ている人の内面に
受け取り方の意味として影響を与える部分があると考えられます。
一般に、世界が鮮やかに見えるときは心理的に充実感や幸福感があるものですから、
色鮮やかな画面を見て充実した気分を感じる視聴者もいるかもしれません。
ただ、それが話の内容に関係なく続いているのですから、
そこには韓国文化特有の意味が加わっていると考えるほうが妥当でしょう。
僕の受け取り方の癖からすると、自然には感じられない。
ナチュラルとか、ありのままとかいった雰囲気とは違った印象を受けます。
これは、僕の中に「自然さ」というのが
価値観として埋め込まれているためだろうと説明できます。
「自然な映像っていうのは、こんなもの」という視覚情報のパターンが
頭の中にあって、そのパターンに当てはまることが当然だと決まっている。
そして、その自然な映像のパターンとポジティブな内面的反応がセットになっている。
そのため、その「自然な映像」パターンに当てはまらない韓国のドラマを目にすると
「なんだか色も明るさも鮮明さも動きもスゴイ」と感じて
その中に「不自然さ」という意味を与えていると考えられます。
心理学的な言葉や日常的な言い回しであれば、
価値観の違いがあるという一言で片付いてしまうんですが、
その違いが画面の構成のされ方に反映されているというわけです。
そして、韓流ドラマの画面に表れる「沢山のものが強調される」特色は
それそのものが韓国文化における価値観を表わしているのでしょう。
あくまで僕の主観的な感想ですが、
「より良いものを追求する」とか「理想を大事にする」とか
そんなような価値観が文化と結び付いているんじゃないかと感じます。
韓国旅行すらしたことがないので、
ドラマの画面の作り方だけからの考察に過ぎないものの、
NLPの視点で捉えると、そういう違いも見えてくるという話です。
韓流ドラマの映像は、日本の文化と随分違うようです。
多くの場合において、映像が鮮明でクッキリしている気がします。
カメラワークも独特な動きを伴っていたり、
画面に対する人物の配置にも特色がありそうです。
特に違いを感じるのが色の使い方。
彩度も明度も高い色を、沢山使っているように感じられます。
僕の目に飛び込んできた画面は、タイトルも内容も知らない番組ですが、
その番組は色使いと明るさ、鮮明さの特徴が際立っていました。
僕が日本のテレビで目にしてきた画面の傾向とは、あまりにも違っていました。
とにかく使われる色の種類が多い。
そして全ての色が鮮やかで明るいんです。
服装の色も派手ですし、画面の中には色鮮やかな花が映り込んでいたりもします。
全ての色の要素が、画面に対する大きさの比率としても小さいので
画面中に多くの色がバラバラッと散らばっている感じに見えます。
全てのものにピントが合ったような鮮明さがあって
奥の物から手前の物まで全てにピントが合ったクッキリさによっても
余計に賑やかさが強調されるようです。
カメラが動いていることも多く、障害物越しに人物を映したり、
場合によっては完全に障害物しか映っていない瞬間もあったり、
僕の感じ方としては「落ち着かない」印象さえ受けたりします。
「その部分は大事じゃないだろう…」というような背景部分にさえ
鮮やかな色が使われているのが興味深いんです。
例えば、画面に赤と黄色が少ないときには、背景の奥に移る洗濯物とかを使って
足りない色を補うことがされているように思えます。
もしかすると、韓国文化の日常生活の中には色鮮やかなものが多いのかもしれませんが、
僕のように日本でしか生活したことがない中で作られてきた基準からすると
違和感を覚えるような画面に感じられてしまいます。
まぁ、世の中の韓流ドラマ好きの人たちの多くは、そうした画面の特徴などよりも
そのストーリーや世界観に共鳴しているのでしょうが、
僕には、あの画面の作り出し方のほうが興味が沸いてくるんです。
なぜなら、そこには日本文化の中で日常的に目にするよりも
遥かに強調された度合いで映像が作られているからです。
あの独特のカメラワークは、固定されたカメラで状況を捕えただけのものよりも
遥かに主観的というか、感情移入しやすい効果があると考えられます。
人間の目は興味のあるものにズームインしたり、
大事なもの(ポジティブにでもネガティブにでも)が視野に入ると
急速に目を動かして、視野の中心に大事なものを運んだりします。
韓国ドラマに見られる目まぐるしいカメラワークは
画面を通じて「興味を惹かれている」状態の目の動きに近いものを
テレビ画面という視野の中に作っているようです。
カメラの動きが少なく、主要な登場人物がいつも画面の中に全員見えるような画面、
つまりミュージカルや舞台演劇を客席から見ているような画面の場合には、
横から客観的に物事を見ているような説明的な印象が伴いやすいでしょう。
舞台を見に行っている人は自分の目で、主要な動きを追いかけますから
決して単調にはなりにくいものですが、
いつも舞台全体が映っている映像で演劇を見たら淡々とした世界になりそうです。
逆に考えれば、舞台演劇やミュージカルで大袈裟なことをするのは
舞台という画面構成の設定の制約のなかでダイナミックさを追求した結果
とも言えるかもしれません。
そして色使い。
視野の中で強調される部分は、人の受け取り方に意味を与えます。
これがNLPで説明する「フレーム」の定義だと僕は主張しているんですが、
NLPの世界でも説明としてこの「フレーム」の意味を聞いたことはありません。
なので個人的な見解ではあります。
そのフレーム、つまり意味づけの観点から捉えると
韓流ドラマに見られる色使いの特徴は、見ている人の内面に
受け取り方の意味として影響を与える部分があると考えられます。
一般に、世界が鮮やかに見えるときは心理的に充実感や幸福感があるものですから、
色鮮やかな画面を見て充実した気分を感じる視聴者もいるかもしれません。
ただ、それが話の内容に関係なく続いているのですから、
そこには韓国文化特有の意味が加わっていると考えるほうが妥当でしょう。
僕の受け取り方の癖からすると、自然には感じられない。
ナチュラルとか、ありのままとかいった雰囲気とは違った印象を受けます。
これは、僕の中に「自然さ」というのが
価値観として埋め込まれているためだろうと説明できます。
「自然な映像っていうのは、こんなもの」という視覚情報のパターンが
頭の中にあって、そのパターンに当てはまることが当然だと決まっている。
そして、その自然な映像のパターンとポジティブな内面的反応がセットになっている。
そのため、その「自然な映像」パターンに当てはまらない韓国のドラマを目にすると
「なんだか色も明るさも鮮明さも動きもスゴイ」と感じて
その中に「不自然さ」という意味を与えていると考えられます。
心理学的な言葉や日常的な言い回しであれば、
価値観の違いがあるという一言で片付いてしまうんですが、
その違いが画面の構成のされ方に反映されているというわけです。
そして、韓流ドラマの画面に表れる「沢山のものが強調される」特色は
それそのものが韓国文化における価値観を表わしているのでしょう。
あくまで僕の主観的な感想ですが、
「より良いものを追求する」とか「理想を大事にする」とか
そんなような価値観が文化と結び付いているんじゃないかと感じます。
韓国旅行すらしたことがないので、
ドラマの画面の作り方だけからの考察に過ぎないものの、
NLPの視点で捉えると、そういう違いも見えてくるという話です。
2010年07月26日
直面できる力
箱根から帰ってきました。
行く直前まで、「今年は、どうしようかなぁ…」と迷っていたんです。
勉強したいものもありましたし、英会話のほうに回そうかとも考えました。
でも、行って良かったというのが一番の感想です。
ワークショップで得られるものは色々あります。
自らの気づきもあれば、知識や技術として習得できるものもあります。
ただ、大きいのは他の方々の取り組みから学べる部分です。
それぞれの方の人生の縮図を目の当たりにできる。
まさに映画のクライマックスを見ているような印象。
感動的なラストを迎えるものもあれば、続きを想像させるような展開もあります。
映画と違うのは、その圧倒的なリアリティでしょう。
真剣さが違います。
感動が違います。
一人の人間が生きている間に経験できることは限られているはずです。
その中で、それぞれの人が、全員違った経験をする。
波乱万丈でドラマチックな人生を過ごす人もいれば
一見すると何不自由のない生活を続けているような人もいます。
しかしながら、それぞれの人が抱えるテーマは、どれも重要なものだと思います。
何十年も変わらない日々を続けるのは、その積み重ねの中で
時間を重ねなければ感じられないような苦しみを抱くのかもしれません。
それはそれで、衝撃的な一瞬の事件とは違った種類の苦しみでしょう。
どんな人生であっても、様々な形の大変さがあるものだと実感します。
ワークショップでは、まさにそれを目にするわけです。
それぞれの人が、その瞬間に最も重要だと感じている人生のテーマに取り組む。
誰かの苦労話を聞くのも貴重な体験だとは思いますが、
今この瞬間に、これまでの人生全体を踏まえて最も大切なテーマに取り組むのですから、
それは過去の話とは全く異質のメッセージを発します。
今、目の前で、真剣に取り組むんです。
リアルタイムなんです。
大勢の人の、人生における重要なテーマを
同じ空間でリアルタイムに目撃する。
それは、他の人の人生の一部を共感的に体験させてもらっているような状態です。
何人分もの人生を生きているような気持ちにさせてもらえるんです。
どんなに頑張って日々を過ごしても、一日は24時間です。
睡眠時間を削って頑張ったとしたら、
睡眠時間を沢山とれる喜びは絶対に体験できません。
人が一生のうちに経験できる量は、生きている時間に強く影響を受けます。
可能だとしたら、それは人生の密度を上げることでしょうか。
一瞬一瞬を精一杯体験する。
全身をフル活用して、漫然と過ごさずに、多くのことを感じ取る。
そうすることで、経験を増やすことは可能かもしれません。
それ以外の方法の1つが、他の人の人生の集大成とも言えるような
本気の課題に対する真剣な取り組みの場を、共に過ごさせてもらうことだと思うんです。
箱根での経験には、それだけのインパクトがあります。
それを可能にしているのは、それぞれの方の真剣さだと感じています。
同じような状況にあっても、思い悩まない人はいるはずです。
成熟度が高く、問題を受け入れる度量があれば悩まないかもしれません。
ただ、それであっても一時期は問題として感じていたと考えられます。
それを乗り越えたから気にならなくなっている。
そういう人は、きっと、真剣に悩んでいる人に対して暖かい目を向けると思います。
同時に、新たな自分の課題に気づき、それに思い悩むこともあるでしょう。
何に思い悩むかは人それぞれ違うものの、
真剣に自分の人生と向き合っていれば、
悩みや問題が見えてくるのが自然ではないかという気がします。
自分の人生に真剣なほど、気になるところが増えてくるんじゃないでしょうか。
その真剣さが問題を解決しようとする力を生み出すように思います。
その力は不思議と他の人にも影響するようです。
真剣な姿が力をくれる感じがするんです。
真剣な人が集まる場。
人によっては、そんなに真剣に自分の問題と向き合うことを
バカバカしく思うかもしれません。
でも、僕はそれが好きなんです。
「そんなに一生懸命にならなくても…」というほどに一生懸命な人たちを尊敬します。
行く直前まで、「今年は、どうしようかなぁ…」と迷っていたんです。
勉強したいものもありましたし、英会話のほうに回そうかとも考えました。
でも、行って良かったというのが一番の感想です。
ワークショップで得られるものは色々あります。
自らの気づきもあれば、知識や技術として習得できるものもあります。
ただ、大きいのは他の方々の取り組みから学べる部分です。
それぞれの方の人生の縮図を目の当たりにできる。
まさに映画のクライマックスを見ているような印象。
感動的なラストを迎えるものもあれば、続きを想像させるような展開もあります。
映画と違うのは、その圧倒的なリアリティでしょう。
真剣さが違います。
感動が違います。
一人の人間が生きている間に経験できることは限られているはずです。
その中で、それぞれの人が、全員違った経験をする。
波乱万丈でドラマチックな人生を過ごす人もいれば
一見すると何不自由のない生活を続けているような人もいます。
しかしながら、それぞれの人が抱えるテーマは、どれも重要なものだと思います。
何十年も変わらない日々を続けるのは、その積み重ねの中で
時間を重ねなければ感じられないような苦しみを抱くのかもしれません。
それはそれで、衝撃的な一瞬の事件とは違った種類の苦しみでしょう。
どんな人生であっても、様々な形の大変さがあるものだと実感します。
ワークショップでは、まさにそれを目にするわけです。
それぞれの人が、その瞬間に最も重要だと感じている人生のテーマに取り組む。
誰かの苦労話を聞くのも貴重な体験だとは思いますが、
今この瞬間に、これまでの人生全体を踏まえて最も大切なテーマに取り組むのですから、
それは過去の話とは全く異質のメッセージを発します。
今、目の前で、真剣に取り組むんです。
リアルタイムなんです。
大勢の人の、人生における重要なテーマを
同じ空間でリアルタイムに目撃する。
それは、他の人の人生の一部を共感的に体験させてもらっているような状態です。
何人分もの人生を生きているような気持ちにさせてもらえるんです。
どんなに頑張って日々を過ごしても、一日は24時間です。
睡眠時間を削って頑張ったとしたら、
睡眠時間を沢山とれる喜びは絶対に体験できません。
人が一生のうちに経験できる量は、生きている時間に強く影響を受けます。
可能だとしたら、それは人生の密度を上げることでしょうか。
一瞬一瞬を精一杯体験する。
全身をフル活用して、漫然と過ごさずに、多くのことを感じ取る。
そうすることで、経験を増やすことは可能かもしれません。
それ以外の方法の1つが、他の人の人生の集大成とも言えるような
本気の課題に対する真剣な取り組みの場を、共に過ごさせてもらうことだと思うんです。
箱根での経験には、それだけのインパクトがあります。
それを可能にしているのは、それぞれの方の真剣さだと感じています。
同じような状況にあっても、思い悩まない人はいるはずです。
成熟度が高く、問題を受け入れる度量があれば悩まないかもしれません。
ただ、それであっても一時期は問題として感じていたと考えられます。
それを乗り越えたから気にならなくなっている。
そういう人は、きっと、真剣に悩んでいる人に対して暖かい目を向けると思います。
同時に、新たな自分の課題に気づき、それに思い悩むこともあるでしょう。
何に思い悩むかは人それぞれ違うものの、
真剣に自分の人生と向き合っていれば、
悩みや問題が見えてくるのが自然ではないかという気がします。
自分の人生に真剣なほど、気になるところが増えてくるんじゃないでしょうか。
その真剣さが問題を解決しようとする力を生み出すように思います。
その力は不思議と他の人にも影響するようです。
真剣な姿が力をくれる感じがするんです。
真剣な人が集まる場。
人によっては、そんなに真剣に自分の問題と向き合うことを
バカバカしく思うかもしれません。
でも、僕はそれが好きなんです。
「そんなに一生懸命にならなくても…」というほどに一生懸命な人たちを尊敬します。
2010年07月24日
今年もまた
年に一度の恒例行事。
箱根でのワークショップに来ています。
セミナーやワークショップには色々な形態があるようですが、
こうして街を離れて山の中にやってくると随分と雰囲気が違うもの。
空気も、匂いも、涼しさも東京とは別物のようで、
そこで作られる場は不思議なほどに一体感があります。
実に味わい深い空間です。
夜に入る温泉も体が緩む感じが実感できるほどで
一日中のワークと睡眠不足にも関わらず、日常の疲労を取ってくれるかのよう。
何よりも、ワークショップの会場に使われる会議室から見える景色が良いんです。
一面の大きな窓越しに見える箱根の山々。
明るく陽の光が差し込み、なんとも清々しい気分を誘います。
僕は、この会場では窓を背にして座ることが多いんですが、
そのスタイルが決まってきたのは数年前からだった気がします。
窓越しの自然を背中に感じ、
正面にワークショップ会場での人の動きが見られる場所。
多くの刺激を同時にインプットしているみたいです。
寝る前には沢山のイメージと話し声が脈絡なく沸いてきますから。
それにはもちろん、ワークショップの内容も関係しているでしょう。
個人個人が自分の内面と向き合いながら時間を過ごしていきます。
だからこそ普段とは違った刺激が沢山入るんだと思います。
そして、様々な情報が染み込みやすい状態になっている。
人は大なり小なり、必ず偏りを持っているもののはずです。
それぞれの人が、他者からの影響を受けられるということは
自分の中の偏りにバランスを取るように、他人から学べる
ということだろうと考えられます。
このワークショップが、もし海外であって、英語で行われていたとしたら
相当な速さで英語の習得ができるんじゃないかと思えてきます。
それぐらいに刺激が多いわけです。
日常を離れ、自然の中で、自分と向き合う時間を取ること。
実に貴重な時間です。
日本の文化の中に残っている様々な習慣には、このようにして
日常を離れて自分と向き合わせてくれるような効果のあるものも
存在しているんじゃないでしょうか。
箱根でのワークショップに来ています。
セミナーやワークショップには色々な形態があるようですが、
こうして街を離れて山の中にやってくると随分と雰囲気が違うもの。
空気も、匂いも、涼しさも東京とは別物のようで、
そこで作られる場は不思議なほどに一体感があります。
実に味わい深い空間です。
夜に入る温泉も体が緩む感じが実感できるほどで
一日中のワークと睡眠不足にも関わらず、日常の疲労を取ってくれるかのよう。
何よりも、ワークショップの会場に使われる会議室から見える景色が良いんです。
一面の大きな窓越しに見える箱根の山々。
明るく陽の光が差し込み、なんとも清々しい気分を誘います。
僕は、この会場では窓を背にして座ることが多いんですが、
そのスタイルが決まってきたのは数年前からだった気がします。
窓越しの自然を背中に感じ、
正面にワークショップ会場での人の動きが見られる場所。
多くの刺激を同時にインプットしているみたいです。
寝る前には沢山のイメージと話し声が脈絡なく沸いてきますから。
それにはもちろん、ワークショップの内容も関係しているでしょう。
個人個人が自分の内面と向き合いながら時間を過ごしていきます。
だからこそ普段とは違った刺激が沢山入るんだと思います。
そして、様々な情報が染み込みやすい状態になっている。
人は大なり小なり、必ず偏りを持っているもののはずです。
それぞれの人が、他者からの影響を受けられるということは
自分の中の偏りにバランスを取るように、他人から学べる
ということだろうと考えられます。
このワークショップが、もし海外であって、英語で行われていたとしたら
相当な速さで英語の習得ができるんじゃないかと思えてきます。
それぐらいに刺激が多いわけです。
日常を離れ、自然の中で、自分と向き合う時間を取ること。
実に貴重な時間です。
日本の文化の中に残っている様々な習慣には、このようにして
日常を離れて自分と向き合わせてくれるような効果のあるものも
存在しているんじゃないでしょうか。
2010年07月22日
8月の勉強会
8月の勉強会のお知らせ
8月はお盆の時期の日曜日に勉強会を行います。
今回のテーマは広く取ります。
コミュニケーションの幅を広げ、実際の場面で使える技術を増やす狙い。
理論的な部分や、扱う技術の内容、技術の解説などは
過去の勉強会で取り組んできたものを復習する形です。
特に、コミュニケーションに直接的に役立ちそうな部分を中心にします。
最近の勉強会で扱う内容は難しくなっているようですので
一回の間に内容を整理するのも大変かもしれません。
しばらくしてから疑問が沸くこともあるでしょうし、
時間を置いて考えてみたら違う発見をする場合もあるでしょう。
復習の機会として捉えていただいても役立つものと思います。
もちろん、出ていない回の内容を新たに取り組むというのも
全体的な流れとして把握しやすいはずですので有効だと考えます。
これはコミュニケーションに限らず、あらゆる領域で言えることでしょうが、
技という観点からすれば、個別の技術のトレーニングを行う意味があり、
実践という観点からすると、技術の使いどころを考える意味がある、と思うんです。
コミュニケーションという広い範囲で見ても、カウンセリングやコーチング、
NLPや心理療法という特定の分野で見ても、
一連の流れの中で「いつ、どの技術を使うか」を学ぶ機会は滅多にありません。
個別の型を学んで、実際の場面で使いながら
自分なりに使いやすい状況を把握していくような傾向が強い。
確かに、それは大切なことです。
人それぞれ個性が違いますから、合う・合わないもあります。
テレビ番組で紹介される料理のレシピのように細かい手順を指示されても、
相手の反応によっては手順通りに進めないほうが良いことも多いでしょう。
だからこそ柔軟性が求められるわけです。
今回の勉強会では、このコミュニケーションにおける柔軟性を
増すためのトレーニングも行います。
意識していないと、普段通りの対応をしてしまうものです。
そこを最善の方法に変えるための努力をする。
自分が自然にしてしまいやすい発想や対応に気づき、
それをコントロールして、技術の質を上げていきます。
例えば、カウンセリングの勉強をして傾聴の技術を学んだとします。
それは大切なことですが、状況によっては相手の話を聞くことよりも
ズバッと核心に迫る質問をしてしまったほうが良いこともあるでしょう。
リフレーミングだけで問題が解決してしまう可能性もあります。
より良い効果的な対応を見につけるトレーニングになるはずです。
同時に、全体的な流れや、個人の特性に合わせて
技術を使い分けるための視点も扱います。
アウトラインといった感じでしょうか。
考え方の基本となるポイントがあるんです。
仮に「計画性をもって取り組めないんです」と相談されたとき
それに対して、どんな対応が可能でしょうか?
絶対的な正解はないでしょうし、他の対応でも問題にはならないかもしれませんが、
この例でも状況別にアプローチの方針が考えられます。
そうした基本的な方針に沿って、個別の技術の使い方をまとめていきます。
個別の技術の復習とトレーニングを行って、
そして、実践的にそれらの技術の使いどころを身につけていく。
今回の勉強会の趣旨はそこにあります。
お盆休みの日曜日という日程ですが、
日常のコミュニケーションを離れている時期に
トレーニングを行っておくというのは役立つものだと思います。
気軽な復習のためにでも、実践力を向上させる目的でも
ご都合が合いましたら、是非、お越しください。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
※ただ、視覚的なイメージが浮かびやすい方であれば、
事前知識がなくても取り組みやすいかもしれません。
NLPや、イメージを活用した心理的取り組みに不慣れな方の場合には
ご自身の視覚イメージの浮かびやすさを元にご検討下さい。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
定員を設けていますので、ご注意ください。
定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 8月15日(日)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
★午前または午後のみのご参加も可能です。
「午前」、「午後」あるいは「両方」でお申し込み下さい。
【場所】 北とぴあ 901会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午後の部 ・・・5,000円
◆午前・午後の両方 ・・・7,000円
テーマ: 『復習と実践トレーニング』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
大学の先輩で、音声認識の研究をしている人がいました。
聞いたところ、その人のテーマは、
「ある単語の次には、どの単語が使われやすいか」
という確率を調べてプログラム化する、という話でした。
直接の音を認識して単語に当てはめるだけではないわけです。
ワープロの漢字変換もそうでしょう。
これまでの文脈をもとに、単語の使われやすさを計算していると思います。
人は、コミュニケーションの最中に、話の流れをもとに予測をして
相手の話を聞いているものです。
日本語で話している最中に、突然、脈絡と関係ない英語の単語を言われても
それが何の単語だったかすら理解できないのではないでしょうか。
なんとなく状況や流れを捉えて、過去のパターンに当てはめながら
コミュニケーションの予測を行っているわけです。
予測や推測をしないで話を聞くことの大切さが多く語られる一方、
現実的には予測なしのコミュニケーションはあり得ません。
その意味で、予測の精度を上げ、自分の予測の癖を知っておくことが
コミュニケーションの質を大きく左右すると考えられます。
当たり前に日本語を使いこなせるからこそ無自覚になってしまっている部分に目を向け
意識的にコミュニケーションができるようにしていく。
自然にホームランを打ってしまうメジャーリーガーと
自覚してヒットを打っているイチロー選手の違いのように思えます。
ご自身のコミュニケーション・スタイルを吟味してみるというのも
なかなか興味深い体験になるものと予測しています。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
8月はお盆の時期の日曜日に勉強会を行います。
今回のテーマは広く取ります。
コミュニケーションの幅を広げ、実際の場面で使える技術を増やす狙い。
理論的な部分や、扱う技術の内容、技術の解説などは
過去の勉強会で取り組んできたものを復習する形です。
特に、コミュニケーションに直接的に役立ちそうな部分を中心にします。
最近の勉強会で扱う内容は難しくなっているようですので
一回の間に内容を整理するのも大変かもしれません。
しばらくしてから疑問が沸くこともあるでしょうし、
時間を置いて考えてみたら違う発見をする場合もあるでしょう。
復習の機会として捉えていただいても役立つものと思います。
もちろん、出ていない回の内容を新たに取り組むというのも
全体的な流れとして把握しやすいはずですので有効だと考えます。
これはコミュニケーションに限らず、あらゆる領域で言えることでしょうが、
技という観点からすれば、個別の技術のトレーニングを行う意味があり、
実践という観点からすると、技術の使いどころを考える意味がある、と思うんです。
コミュニケーションという広い範囲で見ても、カウンセリングやコーチング、
NLPや心理療法という特定の分野で見ても、
一連の流れの中で「いつ、どの技術を使うか」を学ぶ機会は滅多にありません。
個別の型を学んで、実際の場面で使いながら
自分なりに使いやすい状況を把握していくような傾向が強い。
確かに、それは大切なことです。
人それぞれ個性が違いますから、合う・合わないもあります。
テレビ番組で紹介される料理のレシピのように細かい手順を指示されても、
相手の反応によっては手順通りに進めないほうが良いことも多いでしょう。
だからこそ柔軟性が求められるわけです。
今回の勉強会では、このコミュニケーションにおける柔軟性を
増すためのトレーニングも行います。
意識していないと、普段通りの対応をしてしまうものです。
そこを最善の方法に変えるための努力をする。
自分が自然にしてしまいやすい発想や対応に気づき、
それをコントロールして、技術の質を上げていきます。
例えば、カウンセリングの勉強をして傾聴の技術を学んだとします。
それは大切なことですが、状況によっては相手の話を聞くことよりも
ズバッと核心に迫る質問をしてしまったほうが良いこともあるでしょう。
リフレーミングだけで問題が解決してしまう可能性もあります。
より良い効果的な対応を見につけるトレーニングになるはずです。
同時に、全体的な流れや、個人の特性に合わせて
技術を使い分けるための視点も扱います。
アウトラインといった感じでしょうか。
考え方の基本となるポイントがあるんです。
仮に「計画性をもって取り組めないんです」と相談されたとき
それに対して、どんな対応が可能でしょうか?
絶対的な正解はないでしょうし、他の対応でも問題にはならないかもしれませんが、
この例でも状況別にアプローチの方針が考えられます。
そうした基本的な方針に沿って、個別の技術の使い方をまとめていきます。
個別の技術の復習とトレーニングを行って、
そして、実践的にそれらの技術の使いどころを身につけていく。
今回の勉強会の趣旨はそこにあります。
お盆休みの日曜日という日程ですが、
日常のコミュニケーションを離れている時期に
トレーニングを行っておくというのは役立つものだと思います。
気軽な復習のためにでも、実践力を向上させる目的でも
ご都合が合いましたら、是非、お越しください。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
※ただ、視覚的なイメージが浮かびやすい方であれば、
事前知識がなくても取り組みやすいかもしれません。
NLPや、イメージを活用した心理的取り組みに不慣れな方の場合には
ご自身の視覚イメージの浮かびやすさを元にご検討下さい。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
定員を設けていますので、ご注意ください。
定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 8月15日(日)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
★午前または午後のみのご参加も可能です。
「午前」、「午後」あるいは「両方」でお申し込み下さい。
【場所】 北とぴあ 901会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午後の部 ・・・5,000円
◆午前・午後の両方 ・・・7,000円
テーマ: 『復習と実践トレーニング』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
大学の先輩で、音声認識の研究をしている人がいました。
聞いたところ、その人のテーマは、
「ある単語の次には、どの単語が使われやすいか」
という確率を調べてプログラム化する、という話でした。
直接の音を認識して単語に当てはめるだけではないわけです。
ワープロの漢字変換もそうでしょう。
これまでの文脈をもとに、単語の使われやすさを計算していると思います。
人は、コミュニケーションの最中に、話の流れをもとに予測をして
相手の話を聞いているものです。
日本語で話している最中に、突然、脈絡と関係ない英語の単語を言われても
それが何の単語だったかすら理解できないのではないでしょうか。
なんとなく状況や流れを捉えて、過去のパターンに当てはめながら
コミュニケーションの予測を行っているわけです。
予測や推測をしないで話を聞くことの大切さが多く語られる一方、
現実的には予測なしのコミュニケーションはあり得ません。
その意味で、予測の精度を上げ、自分の予測の癖を知っておくことが
コミュニケーションの質を大きく左右すると考えられます。
当たり前に日本語を使いこなせるからこそ無自覚になってしまっている部分に目を向け
意識的にコミュニケーションができるようにしていく。
自然にホームランを打ってしまうメジャーリーガーと
自覚してヒットを打っているイチロー選手の違いのように思えます。
ご自身のコミュニケーション・スタイルを吟味してみるというのも
なかなか興味深い体験になるものと予測しています。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
2010年07月20日
最大限の配慮
何を、どのように言うか。
その結果が相手に影響を及ぼしている。
そのことを真剣に考えると、コミュニケーションの意味は大切に感じられます。
自分の些細な一言が、誰かを苦しめるかもしれない。
誰かの気軽な一言で、心が軽くなるかもしれない。
その結果は予想の難しいものではありますが、
それを予想しようとする気持ちがあるかどうかは
相手への誠実さとして意義のあるものではないかと思います。
自分が言いたいから言う。
それも1つの方法でしょう。
そのことで相手がどうなっても良いという無責任さから選択をするのか
そのことで相手や関係性がどうなっても自分の責任だと覚悟をして選択をするのか、
違いは大きい気がします。
最善の選択だと自覚して選択していきたいものです。
これがもし、全く無自覚なまま、選択することさえなく
どんな影響があるかも予想することなく、思いつくままに言葉を発し、
その結果が及ぼした影響にも目を向けないのだとしたら、
人の世を生きている中で困ったことになるかもしれません。
何も自覚しないままに発した一言がもたらしてしまった結果。
それに後悔できるかどうかも分かれるところでしょう。
自分が発しているメッセージの意味に気づけるのは大切だということです。
もちろん、24時間そんなに気を遣う必要があるとは思いません。
どの場面で自分の振る舞いを自覚して行うか、
それもまた選択の対象に含まれるはずです。
個人的には、プロとしてコミュニケーションをするとき場面は
全ての瞬間を最善の影響に繋げられるように配慮しながら
選択をしてメッセージを発したいと考えています。
ここでいうメッセージには、自分の発する言葉以外のメッセージも含みます。
例えば、自分の仕草や、姿勢、表情といった非言語メッセージ。
自然と視野に入る範囲や音、温度や湿度などの環境要因。
人に影響を与える可能性のあるものは、全て配慮の対象です。
あらゆることに対して、それをする意味が説明できるのが望ましいわけです。
誰かから教わったことだからと鵜呑みにして同じようにするとか、
決まりごとだからと当然のように進めるとか、
誰もそんなこと気にしないだろうと無視してしまうのか。
いずれも影響を考えていないんです。
配慮が足りない。
仮に、その配慮をしたところで実際の意味が小さかったとしても
それが人に影響を与える可能性がある以上は、配慮をしておきたいと思うんです。
プロとしての姿勢とは、そういうことじゃないでしょうか。
気軽に考えるとしたら、それは相手の人生に対しても
軽いものとして考えているように思えて仕方ありません。
その結果が相手に影響を及ぼしている。
そのことを真剣に考えると、コミュニケーションの意味は大切に感じられます。
自分の些細な一言が、誰かを苦しめるかもしれない。
誰かの気軽な一言で、心が軽くなるかもしれない。
その結果は予想の難しいものではありますが、
それを予想しようとする気持ちがあるかどうかは
相手への誠実さとして意義のあるものではないかと思います。
自分が言いたいから言う。
それも1つの方法でしょう。
そのことで相手がどうなっても良いという無責任さから選択をするのか
そのことで相手や関係性がどうなっても自分の責任だと覚悟をして選択をするのか、
違いは大きい気がします。
最善の選択だと自覚して選択していきたいものです。
これがもし、全く無自覚なまま、選択することさえなく
どんな影響があるかも予想することなく、思いつくままに言葉を発し、
その結果が及ぼした影響にも目を向けないのだとしたら、
人の世を生きている中で困ったことになるかもしれません。
何も自覚しないままに発した一言がもたらしてしまった結果。
それに後悔できるかどうかも分かれるところでしょう。
自分が発しているメッセージの意味に気づけるのは大切だということです。
もちろん、24時間そんなに気を遣う必要があるとは思いません。
どの場面で自分の振る舞いを自覚して行うか、
それもまた選択の対象に含まれるはずです。
個人的には、プロとしてコミュニケーションをするとき場面は
全ての瞬間を最善の影響に繋げられるように配慮しながら
選択をしてメッセージを発したいと考えています。
ここでいうメッセージには、自分の発する言葉以外のメッセージも含みます。
例えば、自分の仕草や、姿勢、表情といった非言語メッセージ。
自然と視野に入る範囲や音、温度や湿度などの環境要因。
人に影響を与える可能性のあるものは、全て配慮の対象です。
あらゆることに対して、それをする意味が説明できるのが望ましいわけです。
誰かから教わったことだからと鵜呑みにして同じようにするとか、
決まりごとだからと当然のように進めるとか、
誰もそんなこと気にしないだろうと無視してしまうのか。
いずれも影響を考えていないんです。
配慮が足りない。
仮に、その配慮をしたところで実際の意味が小さかったとしても
それが人に影響を与える可能性がある以上は、配慮をしておきたいと思うんです。
プロとしての姿勢とは、そういうことじゃないでしょうか。
気軽に考えるとしたら、それは相手の人生に対しても
軽いものとして考えているように思えて仕方ありません。
2010年07月17日
影響力のある人
「困っている」のと「困っているから、なんとかしたい」のは違う。
「変わりたい」と思えるかどうかの違いがあります。
コミュニケーションを通じて、本当に影響力の大きい人というのは、
その人と関わることで誰かが自然に「変わりたい」と思えてくる、
そんな人かもしれません。
さらにいえば、
その人と一緒にいるだけで自然と問題が解消されていく
なんてことになると、それはもう達人なんだろうと思います。
そこに求められるのは技術以上のものでしょう。
それを「 Being 」とか「 Be 」とか「 attitude 」とか「あり方」とか
色々な呼び方をする人がいます。
だからといって、直接それを求めていくのは道筋が違うような気がします。
徹底的に技術を追求できるような姿勢の奥にこそ、
技術なしでも人を力づけられるだけの何かが宿るんじゃないでしょうか。
身につけた技術の数々が洗練され、シンプルにそぎ落とされ、
最後の最後に何もなくなる。
あり方だとか、心構えだとかを語るのは、その時点かもしれません。
少しでも良くしようと、日々、技術を研鑽していける姿勢こそが
相手に対する想いを反映していると思います。
その想いは、自然と様々な振る舞いに反映されるはずです。
だから技術を使っていないようでも影響力があるんでしょう。
言葉にしたら薄っぺらになってしまう。
言葉にせずに伝えるには、技術以上の姿勢が必要。
その意味では、自分の本当に大切にしていることを誰かに伝えるのは
かなり難しいことだと言えそうです。
だからこそ、それが伝わったと感じられる瞬間が
かけがえのない喜びに感じられるわけですが。
「変わりたい」と思えるかどうかの違いがあります。
コミュニケーションを通じて、本当に影響力の大きい人というのは、
その人と関わることで誰かが自然に「変わりたい」と思えてくる、
そんな人かもしれません。
さらにいえば、
その人と一緒にいるだけで自然と問題が解消されていく
なんてことになると、それはもう達人なんだろうと思います。
そこに求められるのは技術以上のものでしょう。
それを「 Being 」とか「 Be 」とか「 attitude 」とか「あり方」とか
色々な呼び方をする人がいます。
だからといって、直接それを求めていくのは道筋が違うような気がします。
徹底的に技術を追求できるような姿勢の奥にこそ、
技術なしでも人を力づけられるだけの何かが宿るんじゃないでしょうか。
身につけた技術の数々が洗練され、シンプルにそぎ落とされ、
最後の最後に何もなくなる。
あり方だとか、心構えだとかを語るのは、その時点かもしれません。
少しでも良くしようと、日々、技術を研鑽していける姿勢こそが
相手に対する想いを反映していると思います。
その想いは、自然と様々な振る舞いに反映されるはずです。
だから技術を使っていないようでも影響力があるんでしょう。
言葉にしたら薄っぺらになってしまう。
言葉にせずに伝えるには、技術以上の姿勢が必要。
その意味では、自分の本当に大切にしていることを誰かに伝えるのは
かなり難しいことだと言えそうです。
だからこそ、それが伝わったと感じられる瞬間が
かけがえのない喜びに感じられるわけですが。
2010年07月15日
英語はじめました
重い腰を上げて、英会話教室に通い始めました。
多少、候補を挙げて検討したんですが、知人の評判や
実際に話をしてみた印象などを受けて決定しました。
何よりも僕にとって決め手になったのは
レベルチェックを担当した主任講師への信頼感の高さです。
そのレベルチェックは普通の会話に加えて、資料を見ながら説明をさせたり
CDを聞いて内容に対する質問があったり、といったもの。
その過程で、講師は僕の弱点になっているポイントを指摘してくれたんです。
「あなたは話を聞くときに映像化していますよね?
その映像で印象に残る部分に注意が強く向くので
話の内容を均等に聞いていない。
もっと多くの内容を均等に保持するのが役立ちます」
日常的な生活の中で、「他人が映像を浮かべながら話を聞いているかどうか」
なんていうことを意識する人は多くないと思います。
それが、そのスクールで教わったことなのか、彼独自の発想なのかは分かりませんが、
いずれにせよ鋭い着眼点を持っているのは間違いないだろうと考えました。
様々な特性にバランスが取れていて、歩き方や姿勢などから判断して
本人のペースは早めでアクティブな傾向に見えましたが、
こちらに合わせて待つことも自然にしています。
待つことの大切さを教えられても、
待っている間の状態まではコントロールできないことが多いようで、
人によっては待つ間にソワソワしたりするわけです。
その主任講師は、そうした状態のコントロールも上手い。
受講目的なども丁寧に聞いてくれ、こちらの意図に沿った提案もしてくれたので
まぁ、ここで良いだろう、ということになりました。
ちなみに僕の弱点とも言える視覚的に印象に残る情報を大事にする傾向は
ある意味で当然のことでもあり、これまでのトレーニングの成果とも言えるはずです。
人は一般的に、自分に興味のある情報を探すわけですから
意識を向けた部分を記憶に残すことが多いでしょう。
行きたい駅があったら、電車の中で放送される駅までの所要時間の話の中から
自分の行きたい駅までの時間だけを覚えて、他の駅までの所要時間は聞かなくなる。
一方、カウンセリングなどをしていれば、話のポイントは
専門家として重要度を意識して聞きとった内容と、
相手が話しながら非言語のメッセージを通じて表現した重要な内容と、
その両方を記憶にとどめていくことになります。
実際、僕は映像を浮かべながら聞くことで情報の正確さを上げるようにもしていますし。
カウンセリングの時間で、相手が話した内容を全て覚えているのは大変ですから、
どうしても比率として重要度というのは関係してきます。
そういう聞き方を訓練している以上、「短時間の情報を全て聞き洩らさない」
というタイプの聞き方が、個人的に難しく感じられるのでしょう。
その一方で、日本語でやっている作業が英語で出来ない部分が多くあり、
これには訓練に加えて、内面的な作業としての違いを発見するのが
役立ちそうな気がしています。
何より、実際にネイティブと英会話をできることのメリットは
ペーシングが利用できるという部分だと思います。
日本語の日常会話でも、新しく知り合った人の言葉が混ざったり、
引越しによって地域の方言が移ってしまったりするように、
ネイティブに合わせることで自然と染み込ませることのできる部分があるはずです。
この数年で積んできたトレーニングの成果を活かせる可能性として
期待しているところです。
多少、候補を挙げて検討したんですが、知人の評判や
実際に話をしてみた印象などを受けて決定しました。
何よりも僕にとって決め手になったのは
レベルチェックを担当した主任講師への信頼感の高さです。
そのレベルチェックは普通の会話に加えて、資料を見ながら説明をさせたり
CDを聞いて内容に対する質問があったり、といったもの。
その過程で、講師は僕の弱点になっているポイントを指摘してくれたんです。
「あなたは話を聞くときに映像化していますよね?
その映像で印象に残る部分に注意が強く向くので
話の内容を均等に聞いていない。
もっと多くの内容を均等に保持するのが役立ちます」
日常的な生活の中で、「他人が映像を浮かべながら話を聞いているかどうか」
なんていうことを意識する人は多くないと思います。
それが、そのスクールで教わったことなのか、彼独自の発想なのかは分かりませんが、
いずれにせよ鋭い着眼点を持っているのは間違いないだろうと考えました。
様々な特性にバランスが取れていて、歩き方や姿勢などから判断して
本人のペースは早めでアクティブな傾向に見えましたが、
こちらに合わせて待つことも自然にしています。
待つことの大切さを教えられても、
待っている間の状態まではコントロールできないことが多いようで、
人によっては待つ間にソワソワしたりするわけです。
その主任講師は、そうした状態のコントロールも上手い。
受講目的なども丁寧に聞いてくれ、こちらの意図に沿った提案もしてくれたので
まぁ、ここで良いだろう、ということになりました。
ちなみに僕の弱点とも言える視覚的に印象に残る情報を大事にする傾向は
ある意味で当然のことでもあり、これまでのトレーニングの成果とも言えるはずです。
人は一般的に、自分に興味のある情報を探すわけですから
意識を向けた部分を記憶に残すことが多いでしょう。
行きたい駅があったら、電車の中で放送される駅までの所要時間の話の中から
自分の行きたい駅までの時間だけを覚えて、他の駅までの所要時間は聞かなくなる。
一方、カウンセリングなどをしていれば、話のポイントは
専門家として重要度を意識して聞きとった内容と、
相手が話しながら非言語のメッセージを通じて表現した重要な内容と、
その両方を記憶にとどめていくことになります。
実際、僕は映像を浮かべながら聞くことで情報の正確さを上げるようにもしていますし。
カウンセリングの時間で、相手が話した内容を全て覚えているのは大変ですから、
どうしても比率として重要度というのは関係してきます。
そういう聞き方を訓練している以上、「短時間の情報を全て聞き洩らさない」
というタイプの聞き方が、個人的に難しく感じられるのでしょう。
その一方で、日本語でやっている作業が英語で出来ない部分が多くあり、
これには訓練に加えて、内面的な作業としての違いを発見するのが
役立ちそうな気がしています。
何より、実際にネイティブと英会話をできることのメリットは
ペーシングが利用できるという部分だと思います。
日本語の日常会話でも、新しく知り合った人の言葉が混ざったり、
引越しによって地域の方言が移ってしまったりするように、
ネイティブに合わせることで自然と染み込ませることのできる部分があるはずです。
この数年で積んできたトレーニングの成果を活かせる可能性として
期待しているところです。
2010年07月13日
化学で類推するNLP
サブモダリティは、化学でいうと元素のようなものだと考えられます。
原子というよりも元素。
色々な種類があって、それは単なる構成要素だというニュアンスです。
例えば、「明るさ」というサブモダリティを単独で扱っても
明るいだけで気分が上向きになったり
曇り空で暗いと気持ちまで暗くなったりするように、
特定のサブモダリティを取り上げても体験の意味に影響を与えるわけです。
もちろん、原子が組み合わさって分子になるように
サブモダリティも、その組み合わせが重要です。
そして、その組み合わせこそが意味そのものになります。
あるサブモダリティの組み合わせに対して
我々は意味をつけている、と。
そして、ある分子が他の分子と化学反応をすると別の分子が生まれるように
体験も反応を続けていると言えます。
その化学反応の一連の流れが、NLPでいうストラテジーに当たります。
何段階もの化学反応を重ねて、目的の医薬品を有機合成するように、
人は何段階ものサブモダリティの組み合わせを連続させて
目的の行動や振る舞いを結果として作り出しているということです。
このときの、各段階で新たに作られる分子内の化学結合を
アンカーのようなものとしてイメージすると近いような気もします。
ただ、違いがあるのは、それぞれのサブモダリティが
アナログに変化するという部分。
人間の体験にとって、元素は無限にあるわけです。
これが人の可能性を拡げているのかもしれません。
原子というよりも元素。
色々な種類があって、それは単なる構成要素だというニュアンスです。
例えば、「明るさ」というサブモダリティを単独で扱っても
明るいだけで気分が上向きになったり
曇り空で暗いと気持ちまで暗くなったりするように、
特定のサブモダリティを取り上げても体験の意味に影響を与えるわけです。
もちろん、原子が組み合わさって分子になるように
サブモダリティも、その組み合わせが重要です。
そして、その組み合わせこそが意味そのものになります。
あるサブモダリティの組み合わせに対して
我々は意味をつけている、と。
そして、ある分子が他の分子と化学反応をすると別の分子が生まれるように
体験も反応を続けていると言えます。
その化学反応の一連の流れが、NLPでいうストラテジーに当たります。
何段階もの化学反応を重ねて、目的の医薬品を有機合成するように、
人は何段階ものサブモダリティの組み合わせを連続させて
目的の行動や振る舞いを結果として作り出しているということです。
このときの、各段階で新たに作られる分子内の化学結合を
アンカーのようなものとしてイメージすると近いような気もします。
ただ、違いがあるのは、それぞれのサブモダリティが
アナログに変化するという部分。
人間の体験にとって、元素は無限にあるわけです。
これが人の可能性を拡げているのかもしれません。
2010年07月11日
頑固一徹
本質的には、人は頑固なものだと思います。
もし頑固に見えない人がいたとしたら、それは次のうちのいずれかでしょう。
「その時点で起きている出来事に対して、大切だと思っていない」か
「そもそも自分にとって大切にしたいことが見つかっていない」か
「自分にとって大切なことを貫くよりも、それを表わさないほうが大切」か。
「その時点で起きている出来事に対して、大切だと思っていない」のであれば、
目の前の内容には何かをこだわる必要はありません。
どうであっても気にならないはずです。
例えば、僕にとって為替相場は興味がありませんから
円高になっても円安になっても自分の気持ちは何も動かない。
どこの政治家が、どのような経済や貿易の政策を打ち出していたとしても
それに対して反感を覚えることはありません。
気にしていないからです。
サッカーのワールドカップでオランダを応援している人は
その試合の結果を大切にしているでしょうから、
オランダのことをないがしろにされたら不愉快でしょうが、
僕は全く気になりません。
人が何かに対して頑固になるということは、
その対象が本人にとって大切だということです。
大切なものを、ないがしろにされたくない。
大切なものを大切なままに守っていたい。
だから頑固になるんです。
一方、「その時点で起きている出来事」そのものは大切でもないのに
多くの人から「頑固」だと見られるような振る舞いをする人もいます。
ワールドカップに興味がないのに、そのことを言われると
頑なに、ワールドカップへ興味を持つことを批判するような場合。
興味がないんだから気にしなければいいのに、
そのことを指摘されると頑固な対応になる。
それはおそらく、何かを否定されることを通じて
自分の存在そのものを守ろうとするのでしょう。
自分が頑なになる理由が自分の立場や存在を守る目的に移ってしまうと、
目の前の出来事の内容に関わらず、頑固な振る舞いをするように見えると思います。
それは出来事そのものを大切にするための頑固さではなく、
その出来事を通じて自分の存在や立場を大切にするための頑固さだと考えられます。
同じ頑固に見える場合でも、この両者の差は大きいはずです。
「その時点で起きている出来事」が大切だから頑固になるということは、
本人にとって大切ではない部分に対しては頑固に見えないでしょう。
大切にしたいことがハッキリしていれば、頑固さは限定されます。
その頑固さは大切なものを守ろうという意志やエネルギーだとも言えますから、
それが人を行動に突き動かすわけです。
歴史に名を残す偉人の多くは頑固だったと言えます。
自分にとって大切な部分を明確にして、そこに向かって突き進んだ。
大らかに「まぁ、いいじゃないか」と言っていたら、何もしていないわけですから。
病も貧困も差別も、それに大らかだったら何も変わりません。
一部の頑固な人たちが、誰から何を言われても頑なに進んだのです。
大切なことが明確だったら、その部分に対しては頑固になるものでしょう。
同時に、大切でない部分に対しては頑固になる必要がないことも実感できるでしょう。
無自覚なまま、自分の存在を守るために、何に対しても頑固になってしまうのは
自分にとって本当に大切にしたいことを意識できていないからかもしれません。
もし何に対しても頑固に振舞わない人がいたとしたら、それは
「そもそも自分にとって大切にしたいことがない」可能性があります。
この場合、他人から見ると「大らか」というよりも
「無気力」に近く見えるのではないでしょうか。
全てのことが「どうでもいい」と思っているわけですから。
ただ、こんなことは滅多にないでしょう。
何かしらの部分では頑固になる場面があるだろうと思います。
もう1つの頑固に見えないケースは
「自分にとって大切なことを貫くよりも、それを表わさないほうが大切」
だと思っている場合です。
これも、自覚している人は少ないと思います。
言い換えると、「頑固な振る舞いをしない」ことに対して頑固なんです。
自分が意識的に何かを大切に守ろうとするように振る舞うよりも
その場で大切にしたいことがあるわけです。
それが、その場の人間関係の調和になっている人もいれば、
主張して言い返されることを避けている人もいるかもしれません。
ごく稀には、目の前の人を自分よりも大切にしたい人だっているかもしれません。
自覚しているか、自覚していないかは別にして
「自分が頑固だと受け取られるような振る舞い」をしないことを大切にしている。
大切にしたいことを守っているのですから
その意味では頑固だと言えるはずです。
人が頑固になるのは、それだけ大事なものがあるからだと言えるでしょう。
自分の安全を守りたいのか、自分の意志を守りたいのか。
その違いはあっても、守りたいものがある以上、頑固になるのは当然だと思います。
頑固になることで守ろうとしているものがあるのなら、
その人が頑固になっている時に、それをなだめようとするのは残酷です。
それは「そんなこと、どうでもいいじゃないか」と言っているようなものです。
もちろん、本当に大切なものが見つかっている人は
そうした関わり方ぐらいでは頑固さを失うことはないでしょうが、
そんな関わり方をしてきた相手に対して
残念な気持ちになるのは避けられないと思います。
仮に、ボルヴィックを心から愛している人が
「エビアンじゃだめなんだ!」と頑固になっていたとします。
そのときに「どっちも水じゃないか」と言うかどうかです。
ちょっと配慮をしたつもりでも、
「私もボルヴィック好きですよ。
色々な水に違った美味しさがありますよね。
エビアンでも水の素晴らしさは感じられると思いますよ。」
なんていう言い方で、その人をなだめるとしたら、
それは相手の大切なことを分かろうとしていない行為だと思います。
勝手に「相手の大切にしていること」を分かったつもりになっているからです。
そこまでのボルヴィックに頑なになる理由は何なのか。
その想いが何なのかを知ることのほうが、ずっと大切な気がします。
頑固に思える部分こそ、丁寧に理解していこうとするのが誠実じゃないでしょうか。
もし頑固に見えない人がいたとしたら、それは次のうちのいずれかでしょう。
「その時点で起きている出来事に対して、大切だと思っていない」か
「そもそも自分にとって大切にしたいことが見つかっていない」か
「自分にとって大切なことを貫くよりも、それを表わさないほうが大切」か。
「その時点で起きている出来事に対して、大切だと思っていない」のであれば、
目の前の内容には何かをこだわる必要はありません。
どうであっても気にならないはずです。
例えば、僕にとって為替相場は興味がありませんから
円高になっても円安になっても自分の気持ちは何も動かない。
どこの政治家が、どのような経済や貿易の政策を打ち出していたとしても
それに対して反感を覚えることはありません。
気にしていないからです。
サッカーのワールドカップでオランダを応援している人は
その試合の結果を大切にしているでしょうから、
オランダのことをないがしろにされたら不愉快でしょうが、
僕は全く気になりません。
人が何かに対して頑固になるということは、
その対象が本人にとって大切だということです。
大切なものを、ないがしろにされたくない。
大切なものを大切なままに守っていたい。
だから頑固になるんです。
一方、「その時点で起きている出来事」そのものは大切でもないのに
多くの人から「頑固」だと見られるような振る舞いをする人もいます。
ワールドカップに興味がないのに、そのことを言われると
頑なに、ワールドカップへ興味を持つことを批判するような場合。
興味がないんだから気にしなければいいのに、
そのことを指摘されると頑固な対応になる。
それはおそらく、何かを否定されることを通じて
自分の存在そのものを守ろうとするのでしょう。
自分が頑なになる理由が自分の立場や存在を守る目的に移ってしまうと、
目の前の出来事の内容に関わらず、頑固な振る舞いをするように見えると思います。
それは出来事そのものを大切にするための頑固さではなく、
その出来事を通じて自分の存在や立場を大切にするための頑固さだと考えられます。
同じ頑固に見える場合でも、この両者の差は大きいはずです。
「その時点で起きている出来事」が大切だから頑固になるということは、
本人にとって大切ではない部分に対しては頑固に見えないでしょう。
大切にしたいことがハッキリしていれば、頑固さは限定されます。
その頑固さは大切なものを守ろうという意志やエネルギーだとも言えますから、
それが人を行動に突き動かすわけです。
歴史に名を残す偉人の多くは頑固だったと言えます。
自分にとって大切な部分を明確にして、そこに向かって突き進んだ。
大らかに「まぁ、いいじゃないか」と言っていたら、何もしていないわけですから。
病も貧困も差別も、それに大らかだったら何も変わりません。
一部の頑固な人たちが、誰から何を言われても頑なに進んだのです。
大切なことが明確だったら、その部分に対しては頑固になるものでしょう。
同時に、大切でない部分に対しては頑固になる必要がないことも実感できるでしょう。
無自覚なまま、自分の存在を守るために、何に対しても頑固になってしまうのは
自分にとって本当に大切にしたいことを意識できていないからかもしれません。
もし何に対しても頑固に振舞わない人がいたとしたら、それは
「そもそも自分にとって大切にしたいことがない」可能性があります。
この場合、他人から見ると「大らか」というよりも
「無気力」に近く見えるのではないでしょうか。
全てのことが「どうでもいい」と思っているわけですから。
ただ、こんなことは滅多にないでしょう。
何かしらの部分では頑固になる場面があるだろうと思います。
もう1つの頑固に見えないケースは
「自分にとって大切なことを貫くよりも、それを表わさないほうが大切」
だと思っている場合です。
これも、自覚している人は少ないと思います。
言い換えると、「頑固な振る舞いをしない」ことに対して頑固なんです。
自分が意識的に何かを大切に守ろうとするように振る舞うよりも
その場で大切にしたいことがあるわけです。
それが、その場の人間関係の調和になっている人もいれば、
主張して言い返されることを避けている人もいるかもしれません。
ごく稀には、目の前の人を自分よりも大切にしたい人だっているかもしれません。
自覚しているか、自覚していないかは別にして
「自分が頑固だと受け取られるような振る舞い」をしないことを大切にしている。
大切にしたいことを守っているのですから
その意味では頑固だと言えるはずです。
人が頑固になるのは、それだけ大事なものがあるからだと言えるでしょう。
自分の安全を守りたいのか、自分の意志を守りたいのか。
その違いはあっても、守りたいものがある以上、頑固になるのは当然だと思います。
頑固になることで守ろうとしているものがあるのなら、
その人が頑固になっている時に、それをなだめようとするのは残酷です。
それは「そんなこと、どうでもいいじゃないか」と言っているようなものです。
もちろん、本当に大切なものが見つかっている人は
そうした関わり方ぐらいでは頑固さを失うことはないでしょうが、
そんな関わり方をしてきた相手に対して
残念な気持ちになるのは避けられないと思います。
仮に、ボルヴィックを心から愛している人が
「エビアンじゃだめなんだ!」と頑固になっていたとします。
そのときに「どっちも水じゃないか」と言うかどうかです。
ちょっと配慮をしたつもりでも、
「私もボルヴィック好きですよ。
色々な水に違った美味しさがありますよね。
エビアンでも水の素晴らしさは感じられると思いますよ。」
なんていう言い方で、その人をなだめるとしたら、
それは相手の大切なことを分かろうとしていない行為だと思います。
勝手に「相手の大切にしていること」を分かったつもりになっているからです。
そこまでのボルヴィックに頑なになる理由は何なのか。
その想いが何なのかを知ることのほうが、ずっと大切な気がします。
頑固に思える部分こそ、丁寧に理解していこうとするのが誠実じゃないでしょうか。