2010年08月
2010年08月31日
信じること
ラポールは、よく「信頼関係」と説明されます。
「親密な」という前置きがつくこともあります。
「感情的な親密さ」という説明もあります。
しかしながら、僕は「信頼」と「親密さ」では
随分と大きな違いがあると思うんです。
「親密さ」というのは、親密さゆえに相手に対して率直になることがあります。
自分の気持ちをぶつけるときもある。
親密だからこそ、ケンカになるときもあるでしょう。
そして、親密さがあるからこそ発したメッセージが
相手にとっては不快なものとして受け取られることもあるはずです。
もし、取り返しのつかないコミュニケーションをしたことに対して
後悔した記憶があったとしたら、それは
相手に対して親密さを感じていたからじゃないかと考えられます。
親密さを感じていないような相手であれば、後悔さえしないでしょうから。
親密さを感じているから関係を崩すこともあるという話です。
一方、「信頼」は意味が違うと思います。
「信頼」や「信用」の言葉の意味は、人によって違うでしょうから
ハッキリと表現することは難しいんですが、
相手を「信じる」という意味を含むことにおいて
単なる「親密さ」とは全く別の部分があると思うんです。
相手を「信じる」のは、相手を「親密」に感じるよりも
はるかに大変な作業でしょう。
「信じている」つもりで、実際には
「期待している」だけだったり、
「心配している」だけだったり、
「疑うのをやめている」だけだったり、
色々な可能性が考えられます。
少なくとも「信じていたのに…」というガッカリがあったとしたら
それは「信じていた」とは言えないと思います。
「こうあって欲しい」と期待をしていて
それが満たされなくて残念だった。
また、不安だらけで心配なものだから、頑張って「信じよう」とする。
「きっと大丈夫、信じているから」と必死で言い聞かせる。
本当に「信じて」いたら、心配は出てこないでしょう。
根拠はないけど安心感さえあるかもしれません。
あるいは、よく分かっていないのに「信じている」つもりになる。
「どうせ大丈夫さ、こういうときは」と分かったつもり。
思い込みで対応をする。
目の前のことや相手を良く見ていない場合です。
分かっていないかどうかと自分を疑うことがない、
その意味では、自分を「信じている」のかもしれませんが。
本当に、相手のことを「信じる」のは大変だと思います。
その感じを知っている人も少ないかもしれません。
安定感があるような気がします。
自分の人生を「信じる」ことができているほど
まさに「自信」があるのだとしたら、
「自信」が安定感のように見受けられるのも納得できるかもしれません。
ただ、本当に「信じる」ということは難しいとしても、
「信じ」始めている人は、積極的に「信じよう」とするんじゃないでしょうか。
本当は個人的に、その人に対して「こうして欲しい」と期待しているところもある。
けど、それを押しつけることはなく、
その人が好きにしようとすることを受け入れようとする。
自分の期待とは違う選択に対しても、不満を出さずに、応援しようとする。
本当は、その人のことを心配する気持ちが無いわけではない。
でも、それを出さないようにする。
「それで大丈夫なんだろうか?」という疑問が沸いてしまう部分があっても
「大丈夫」という気持ちのほうを優先する。
「信じたい」気持ちの強さが、話を聞くという行為に繋がる。
相手を分かろうとするから、話を聞く。
「大丈夫」の気持ちを高めるために。
その逆は、こういうことです。
心配な相手を
自分が期待している安心できる形にさせるために
分かったつもりで対応しようとする
それよりも、僕はこっちのほうが「信じる」ことに積極的だと思います。
相手は大丈夫だと思っているけれども心配してしまう自分が少しあるから
自分が予想・期待していた方向とは違う結果が、相手にとって素晴らしいと思えるよう
相手を分かることができていない自分を納得させるために、ただ話を聞く
自分の期待と自分の気持ちのために、相手を変えようとするか。
相手のために、自分の気持ちを変えようとするか。
誰か一人でも、自分のことを本当に「信じて」くれる人がいたら、
それは幸せなことでしょう。
自分のことを「信じよう」と頑張ってくれる人が身の回りにいるだけでも
とても幸せなことだと思います。
僕は、人に関して信じていたいことがあるんです。
なので、それを邪魔するような考え方や心構え、NLPや心理学の理論などがあれば、
堂々とそれを疑います。
間違いだと言ってやりたくなるんです。
「親密な」という前置きがつくこともあります。
「感情的な親密さ」という説明もあります。
しかしながら、僕は「信頼」と「親密さ」では
随分と大きな違いがあると思うんです。
「親密さ」というのは、親密さゆえに相手に対して率直になることがあります。
自分の気持ちをぶつけるときもある。
親密だからこそ、ケンカになるときもあるでしょう。
そして、親密さがあるからこそ発したメッセージが
相手にとっては不快なものとして受け取られることもあるはずです。
もし、取り返しのつかないコミュニケーションをしたことに対して
後悔した記憶があったとしたら、それは
相手に対して親密さを感じていたからじゃないかと考えられます。
親密さを感じていないような相手であれば、後悔さえしないでしょうから。
親密さを感じているから関係を崩すこともあるという話です。
一方、「信頼」は意味が違うと思います。
「信頼」や「信用」の言葉の意味は、人によって違うでしょうから
ハッキリと表現することは難しいんですが、
相手を「信じる」という意味を含むことにおいて
単なる「親密さ」とは全く別の部分があると思うんです。
相手を「信じる」のは、相手を「親密」に感じるよりも
はるかに大変な作業でしょう。
「信じている」つもりで、実際には
「期待している」だけだったり、
「心配している」だけだったり、
「疑うのをやめている」だけだったり、
色々な可能性が考えられます。
少なくとも「信じていたのに…」というガッカリがあったとしたら
それは「信じていた」とは言えないと思います。
「こうあって欲しい」と期待をしていて
それが満たされなくて残念だった。
また、不安だらけで心配なものだから、頑張って「信じよう」とする。
「きっと大丈夫、信じているから」と必死で言い聞かせる。
本当に「信じて」いたら、心配は出てこないでしょう。
根拠はないけど安心感さえあるかもしれません。
あるいは、よく分かっていないのに「信じている」つもりになる。
「どうせ大丈夫さ、こういうときは」と分かったつもり。
思い込みで対応をする。
目の前のことや相手を良く見ていない場合です。
分かっていないかどうかと自分を疑うことがない、
その意味では、自分を「信じている」のかもしれませんが。
本当に、相手のことを「信じる」のは大変だと思います。
その感じを知っている人も少ないかもしれません。
安定感があるような気がします。
自分の人生を「信じる」ことができているほど
まさに「自信」があるのだとしたら、
「自信」が安定感のように見受けられるのも納得できるかもしれません。
ただ、本当に「信じる」ということは難しいとしても、
「信じ」始めている人は、積極的に「信じよう」とするんじゃないでしょうか。
本当は個人的に、その人に対して「こうして欲しい」と期待しているところもある。
けど、それを押しつけることはなく、
その人が好きにしようとすることを受け入れようとする。
自分の期待とは違う選択に対しても、不満を出さずに、応援しようとする。
本当は、その人のことを心配する気持ちが無いわけではない。
でも、それを出さないようにする。
「それで大丈夫なんだろうか?」という疑問が沸いてしまう部分があっても
「大丈夫」という気持ちのほうを優先する。
「信じたい」気持ちの強さが、話を聞くという行為に繋がる。
相手を分かろうとするから、話を聞く。
「大丈夫」の気持ちを高めるために。
その逆は、こういうことです。
心配な相手を
自分が期待している安心できる形にさせるために
分かったつもりで対応しようとする
それよりも、僕はこっちのほうが「信じる」ことに積極的だと思います。
相手は大丈夫だと思っているけれども心配してしまう自分が少しあるから
自分が予想・期待していた方向とは違う結果が、相手にとって素晴らしいと思えるよう
相手を分かることができていない自分を納得させるために、ただ話を聞く
自分の期待と自分の気持ちのために、相手を変えようとするか。
相手のために、自分の気持ちを変えようとするか。
誰か一人でも、自分のことを本当に「信じて」くれる人がいたら、
それは幸せなことでしょう。
自分のことを「信じよう」と頑張ってくれる人が身の回りにいるだけでも
とても幸せなことだと思います。
僕は、人に関して信じていたいことがあるんです。
なので、それを邪魔するような考え方や心構え、NLPや心理学の理論などがあれば、
堂々とそれを疑います。
間違いだと言ってやりたくなるんです。
2010年08月29日
師匠という存在
師匠から学べることのメリットは情報量の多さにあると思います。
ここでいう「師匠」というのは、「心の師」と仰ぐような人ではなく
もっと直接的に指導を仰げる存在のことを意味します。
歴史上の人物で自分の「師」とか「メンター」だと思える人もいるでしょうが、
その場合には、直接的に多くの情報量のある教えを得ることはできません。
まして、学べることの多くは、自分が受け取れる範囲だけになってしまう。
その点、直接の関わりをもって指導を受けることのできる師匠というのは
与えてくれる情報量が圧倒的に違います。
意識的に受け取ることができない情報であっても、
その振る舞いの様子が、弟子に影響を与えることも良くあるものです。
言葉で説明できるものも、できないものも、
多くの情報を提供してくれるのが師匠の意味じゃないかという話です。
言葉では一切教えてくれなかったとしても
その姿を見て盗むことができる量が多かったとしたら
それは膨大な量の教えとなるでしょう。
その師匠には代わりが利かないんです。
その人からしか学べないものが沢山あるんです。
ミルトン・エリクソンは何人もの弟子を育てていますが、
その誰に対しても、自分のマネをすることを拒否していたと言われます。
それぞれの弟子がオリジナルを作り上げることを好んでいたようです。
もしコピーのような存在を増やしていたとしたら
それは誰にでも教えられるような一般化されたものが
伝わっていることになると考えられます。
なので、弟子から、そのまた弟子へ、同じようなものを伝えていける。
コピーが量産されていくわけです。
しかし、そのコピーは、誰一人としてエリクソン本人には遠く及ばない。
なぜなら、誰にでも伝えられるように一般化され過ぎているから。
個人に合ったものも、個別の状況に合ったものも省略され
誰からでも画一的な内容が学べるレベルにまで一般化されていることでしょう。
エリクソンの弟子であれば、誰から学んでも
「エリクソン流」が身につけられる。
その学び方は「師匠」から学ぶものではないと思います。
師匠から学ぶときは、もっと膨大な情報が得られるんです。
弟子本人にとって重要な情報を沢山得られます。
師匠と全く同じになることは当然、不可能です。
素養も違えば、経験も違う。
別物になるほうが自然でしょう。
近いことが近い技術レベルで達成できるようにはなるかもしれません。
ただ、その形は違うんです。
師匠から学べることは、師匠によっても違いますし、弟子自身によっても違います。
一方、一般論から学べることは似たようなものになります。
典型的な例は学校でしょう。
学校の授業で習う内容は、先生によって、学校によって教え方の差はあっても
基本的な内容は同じになっているはずです。
誰が発見した理論か分からなくなるほどに一般化されて
1つの学問という扱いの中で学習が進む。
一般論を学んでいるんです。
先生の教え方が分かりやすさの違いを生んだり、
身につけるための勉強の進め方に違いはあるでしょうが、
身についたときに得られているものは同じになる必要があります。
その一般論として学ぶ範囲は、どこの学校でも同じものです。
もちろん、学校においても師匠から学ぶように先生と接する機会はありますから、
その場合は、先生の専門分野や個人的な学びの成果を受け取ることになります。
これは学校において師匠と接する状態。
学校の先生は、師匠としての教え方と、一般論の教え方の両方を
生徒に対して同時に行っていると言うこともできます。
ただ、それでもバランスとしては、学校の学びには一般論としての意味が大きい。
学校で学ぶことは、極端な言い方をすれば
いつ、どこで、どの学校に入学して学んだとしても大差はないんです。
しかし「師匠につく」というのは代わりが利きません。
小学生が親の転勤の都合で転校するようには、
師匠を変えることはできないんです。
引っ越すから別の師匠に弟子入りするというのでは
師匠から学ぶということの本質的な意味を欠いていると僕は思うんです。
どうしても「この師匠から学びたい」という場合には、
一切の代替はあり得ないように思います。
幸い、僕にはそのように師と仰げるような先生がいます。
同じことは他の誰からも学べません。
その価値は、他では得られないんです。
学校に行く目的とは比較になりません。
同じテーマを学べる学校なら、学校の選択肢は多いものでしょう。
こっちに行けなかったから、あっちに行く、ということが良く起きます。
師匠の場合は、そうではない。
何を学ぶかよりも、誰から学ぶかが大きいケースです。
生活全般の中の何かを犠牲にしてでも師匠から学びたいと思うのは
その学びが他では代えようがないからです。
ここでいう「師匠」というのは、「心の師」と仰ぐような人ではなく
もっと直接的に指導を仰げる存在のことを意味します。
歴史上の人物で自分の「師」とか「メンター」だと思える人もいるでしょうが、
その場合には、直接的に多くの情報量のある教えを得ることはできません。
まして、学べることの多くは、自分が受け取れる範囲だけになってしまう。
その点、直接の関わりをもって指導を受けることのできる師匠というのは
与えてくれる情報量が圧倒的に違います。
意識的に受け取ることができない情報であっても、
その振る舞いの様子が、弟子に影響を与えることも良くあるものです。
言葉で説明できるものも、できないものも、
多くの情報を提供してくれるのが師匠の意味じゃないかという話です。
言葉では一切教えてくれなかったとしても
その姿を見て盗むことができる量が多かったとしたら
それは膨大な量の教えとなるでしょう。
その師匠には代わりが利かないんです。
その人からしか学べないものが沢山あるんです。
ミルトン・エリクソンは何人もの弟子を育てていますが、
その誰に対しても、自分のマネをすることを拒否していたと言われます。
それぞれの弟子がオリジナルを作り上げることを好んでいたようです。
もしコピーのような存在を増やしていたとしたら
それは誰にでも教えられるような一般化されたものが
伝わっていることになると考えられます。
なので、弟子から、そのまた弟子へ、同じようなものを伝えていける。
コピーが量産されていくわけです。
しかし、そのコピーは、誰一人としてエリクソン本人には遠く及ばない。
なぜなら、誰にでも伝えられるように一般化され過ぎているから。
個人に合ったものも、個別の状況に合ったものも省略され
誰からでも画一的な内容が学べるレベルにまで一般化されていることでしょう。
エリクソンの弟子であれば、誰から学んでも
「エリクソン流」が身につけられる。
その学び方は「師匠」から学ぶものではないと思います。
師匠から学ぶときは、もっと膨大な情報が得られるんです。
弟子本人にとって重要な情報を沢山得られます。
師匠と全く同じになることは当然、不可能です。
素養も違えば、経験も違う。
別物になるほうが自然でしょう。
近いことが近い技術レベルで達成できるようにはなるかもしれません。
ただ、その形は違うんです。
師匠から学べることは、師匠によっても違いますし、弟子自身によっても違います。
一方、一般論から学べることは似たようなものになります。
典型的な例は学校でしょう。
学校の授業で習う内容は、先生によって、学校によって教え方の差はあっても
基本的な内容は同じになっているはずです。
誰が発見した理論か分からなくなるほどに一般化されて
1つの学問という扱いの中で学習が進む。
一般論を学んでいるんです。
先生の教え方が分かりやすさの違いを生んだり、
身につけるための勉強の進め方に違いはあるでしょうが、
身についたときに得られているものは同じになる必要があります。
その一般論として学ぶ範囲は、どこの学校でも同じものです。
もちろん、学校においても師匠から学ぶように先生と接する機会はありますから、
その場合は、先生の専門分野や個人的な学びの成果を受け取ることになります。
これは学校において師匠と接する状態。
学校の先生は、師匠としての教え方と、一般論の教え方の両方を
生徒に対して同時に行っていると言うこともできます。
ただ、それでもバランスとしては、学校の学びには一般論としての意味が大きい。
学校で学ぶことは、極端な言い方をすれば
いつ、どこで、どの学校に入学して学んだとしても大差はないんです。
しかし「師匠につく」というのは代わりが利きません。
小学生が親の転勤の都合で転校するようには、
師匠を変えることはできないんです。
引っ越すから別の師匠に弟子入りするというのでは
師匠から学ぶということの本質的な意味を欠いていると僕は思うんです。
どうしても「この師匠から学びたい」という場合には、
一切の代替はあり得ないように思います。
幸い、僕にはそのように師と仰げるような先生がいます。
同じことは他の誰からも学べません。
その価値は、他では得られないんです。
学校に行く目的とは比較になりません。
同じテーマを学べる学校なら、学校の選択肢は多いものでしょう。
こっちに行けなかったから、あっちに行く、ということが良く起きます。
師匠の場合は、そうではない。
何を学ぶかよりも、誰から学ぶかが大きいケースです。
生活全般の中の何かを犠牲にしてでも師匠から学びたいと思うのは
その学びが他では代えようがないからです。
2010年08月27日
無意識を分類する
個人的な見解としては、『無意識』というのは2種類に分けられると思います。
普段、僕は「無意識」という用語を出来るだけ使わないようにしているんですが、
それは「無意識」という言葉が非常に曖昧だからです。
なので、僕が「無意識」というときは「意識できていないもの」というニュアンスです。
でも、世間一般の無意識の定義は違っているようなので
混乱を避けるために、なるべく「無意識」とは言わずに
「無自覚」という言い方をすることが多いんです。
で、その無自覚な状態にも2種類あると僕は考えていて、
そのうちの片方だけが、主にNLPで扱われるべきもののはずです。
その2つは、決して「個人の無意識」と「集合無意識」ではありません。
用語の意味を日本語として利用すれば意外と近いので間違いではないんですが、
心理学としての定義に沿って使われる「個人の無意識」や「集合無意識」とは
意味合いが全くの別物なので、そういう呼び方はできません。
僕が区別したいのは、つまるところ
「なんとなく」「気づかないうちに」「いつの間にか」「自然と」「なぜか」
起きてしまう現象が、2つの要因に左右されているという部分。
その違いを意識できるようになると、例えば
「なんでか分からないけど、この部屋は居心地が悪いなぁ」
という感じの理由が説明できるようになる可能性があります。
説明できるようになれば、対処の仕方にも工夫ができるでしょう。
この視点も、人を理解する上でのポイントになると思います。
次の勉強会で触れる予定です。
普段、僕は「無意識」という用語を出来るだけ使わないようにしているんですが、
それは「無意識」という言葉が非常に曖昧だからです。
なので、僕が「無意識」というときは「意識できていないもの」というニュアンスです。
でも、世間一般の無意識の定義は違っているようなので
混乱を避けるために、なるべく「無意識」とは言わずに
「無自覚」という言い方をすることが多いんです。
で、その無自覚な状態にも2種類あると僕は考えていて、
そのうちの片方だけが、主にNLPで扱われるべきもののはずです。
その2つは、決して「個人の無意識」と「集合無意識」ではありません。
用語の意味を日本語として利用すれば意外と近いので間違いではないんですが、
心理学としての定義に沿って使われる「個人の無意識」や「集合無意識」とは
意味合いが全くの別物なので、そういう呼び方はできません。
僕が区別したいのは、つまるところ
「なんとなく」「気づかないうちに」「いつの間にか」「自然と」「なぜか」
起きてしまう現象が、2つの要因に左右されているという部分。
その違いを意識できるようになると、例えば
「なんでか分からないけど、この部屋は居心地が悪いなぁ」
という感じの理由が説明できるようになる可能性があります。
説明できるようになれば、対処の仕方にも工夫ができるでしょう。
この視点も、人を理解する上でのポイントになると思います。
次の勉強会で触れる予定です。
2010年08月25日
9月の勉強会
9月の勉強会のお知らせ
今回の内容はNLPに関するものです。
NLPの概要を扱います。
一言でいうと、
「NLPとは何か?」
です。
個人的には、「思いきって、やってしまうか」という気分の内容でもあります。
<注意!>
この勉強会はNLPの入門的なセミナーではありません。
NLPを知らない人に分かりやすく「NLPとは、どういうものか?」を説明するのは
他にも色々なセミナーが開催されているようですので、そちらにご参加下さい。
NLPに対する説明の仕方は色々とあるようです。
しかし、色々と知るほどに「NLPとは何か?」を説明するのは
なかなか難しくなってくるものじゃないでしょうか。
◆NLPは心理学?
◆NLPはコミュニケーション?
◆NLPは卓越した人のやり方を学ぶもの?
◆NLPは態度(あり方)?
◆NLPは心理療法の良いところ取り?
◆NLPは多くのスキルを集めたもの?
様々な説明の仕方があります。
これらとは違う「NLPの定義」を説明します。
もちろん、個人的な見解であって、誰かから教わったことではありません。
誰よりもNLPを疑いながら実践してきたという自負のもと
「何がNLPであって、何がNLPでないか」を区別する予定です。
こういった内容は、NLPの資格取得セミナーの中では絶対に話せませんし、
その内容をどれくらいオープンにできるのかは自分でも想像ができません。
※ここで聞いた内容は、ご自身のためにご利用ください。
オープンにしていくと問題が出てくる可能性もゼロではありません。
ただ今回はそのテーマにしました。
同時に、自分がNLPやセミナーを通して
何を一番大切にしているかという個人的な意見も触れようと思います。
まぁ、これは個人的な価値観でもあるので
興味のない人にとってはどうでもいいかもしれませんが、
セミナーでも文章でも、決して言葉にしないことです。
この機会に少数の方にだけでも聞いてもらおうという気分になったんです。
今回の勉強会では、NLPをNLPたらしめる要因を中心に扱うことになります。
理論的な説明も多くなりますが、トレーニングを交えながら
実感できるように進めるつもりです。
それはつまり、日常生活の中で、NLPの視点からの
気づきが得やすくなるようなトレーニングと言っても良いでしょう。
NLPを理解したい方にも、NLPを使いたい方にもお薦めします。
また、NLPの大きな目的は「変化」という部分にもあるはずですから
変化の技法としての使い方も整理しながらトレーニングを行います。
そこでは「どういう状況で、どの技法を使うと良いのか」という
選択の基準も解説をして、実際に使い分けられるようにします。
個人に合わせるための工夫の仕方です。
NLPの一般的なセミナーで扱われる内容は一般化されていて
誰でも同じようにやれば、最低限の効果が出るように設計されています。
テキスト通りに実習をすれば、そこそこの実感が得られるわけです。
NLPを「変化のための技術」として使っていく場合、
この特徴は非常に便利なところだと言えます。
その一方で、人によっては向き・不向きが出ることもあるのが事実。
それは一般化し過ぎている弊害でもあるんです。
もう少しだけ分解して、個人の特徴に合わせた使い分けができるようになると
それだけで効果の幅は大きく変わっていくものです。
言うまでもなく、コミュニケーションの質を向上させようとした場合、差を生むのは、
その瞬間、目の前の相手に対して、最適な関わり方の選択ができるかどうかです。
極端な喩えですが、お寿司を食べに行ったことを想定してみます。
チョット高級な店なので、味付け用に、醤油も、塩も置かれています。
そこで「アナゴの握り」が出てきたとします。甘いタレのかかっているもの。
そのときに、初めてお寿司を食べにくる外国人がガイドブックから
「お寿司を食べるときは醤油をつけて食べましょう」と学んでいたらどうでしょう?
その情報は一般的な方法として間違っていません。
ですが、甘いタレのかかった「アナゴの握り」には
醤油をつけずに食べる人のほうが多いんじゃないでしょうか。
経験で学んでいると、一般論の情報とは違う例外にも対応できるものです。
しかし、一般論しか知らないと、例外には対応しにくい。
無条件に「アナゴの握り」を醤油につけてしまうようなものです。
そこで
「ただし、ドロッとしたタレがついて出されたお寿司は、醤油をつけずに食べます」
という追加の説明がなされていれば、初めてでも対応できます。
一般化された方法を、状況別に使い分けできるようになっていれば
より高い効果を、より確実に期待できるはずです。
状況別に最適化しながら使えるようになる。
そのためのコツをいくつかお伝えして、トレーニングを行うことになります。
カウンセリングをしていれば迷いがあるほうが普通でしょう。
常に迷いながら、何を言うか、どのように言うか、どんな振る舞いをするかを決める…
それが目の前の相手に最善を尽くすということだと思います。
コミュニケーションにおける関わり方のバリエーションを広げることが
多くの人に対して最善の関わり方ができるようになるための方法じゃないでしょうか。
今回の勉強会では、
「NLPの根底にある理論」
と
「NLPの実用化」
を
トレーニングを交えながら扱います。
NLPがクリアになる。
今までの経験が洗練される。
そういう機会にして頂けるものと考えています。
お時間の調整が可能な方は、是非お越しください。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
定員を設けていますので、ご注意ください。
定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 9月23日(木・祝)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
★午前のみのご参加も可能です。(理論の全体像は午前に扱います)
「午前」あるいは「両方」でお申し込み下さい。
【場所】 滝野川会館 303集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午前・午後の両方 ・・・7,000円
テーマ: 『NLPってナンダ!?』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
NLPの現状というのは、なんだかラーメン業界に似ている気がします。
ラーメンの生い立ちは分かりませんが、中華料理の麺類と関係がありそうです。
そこから醤油ラーメンが作られ、トンコツや味噌、塩といった
バリエーションが広がったようです。
奇しくも、現状のNLPには数種類の流派があります。
そして、それぞれの流派の中でも、数多くの団体や個人が
NLPの講座を開催している。
沢山のラーメン屋がある状態です。
それぞれの店が工夫を凝らしています。
人によってはNLPを他の心理療法やコミュニケーションスキルなどと融合して
独自の技術を作っている人もいます。
それはラーメンと違う食べ物を融合しようとしたケースに似ていると思います。
きっと、カレーラーメンのように上手くいったケースから
とにかくラーメンの上に具材だけ乗っけたような
「ハンバーグラーメン」みたいなものもあるんじゃないでしょうか。
ラーメン業界ほどNLPが進んでいないように見えるのは、
どうも具材やトッピングや味付けを意識したものが多いと感じられるからです。
ここで提案したいのは原点とも言える「醤油ラーメン」です。
ラーメンは、もはや中華料理ではなく、日本料理といっても良いでしょう。
ですが、うどんや蕎麦とは違う。
ラーメンをラーメンとして区別させる要因があるわけです。
厳選素材で作った洗練された味わいのラーメン。
どことなく懐かしい醤油ラーメンのような雰囲気ではあっても
初めてラーメンが作られた頃とは別物の味わいになっている。
そういう方向性のNLPを提案したいんです。
それは必ずしも源流そのままというわけではないでしょう。
最初に作られたラーメンが徐々に形を変えて行ったように。
使う必要のなくなった素材だってあったはずです。
「NLP」と「NLPではないもの」を区別するための基準が分かれば、
原点のようでいて無駄のない、本質的なものが見えてくるような気がします。
洗練されていて本質的。
そこに価値を感じるのは個人的な好みがあるかもしれません。
しかし日本には伝統的に、そうした美意識があったのも事実じゃないでしょうか。
シンプルながら洗練されたNLP。
そんなイメージのものを味わって頂ければ何よりです。
お越しをお待ちしております。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
今回の内容はNLPに関するものです。
NLPの概要を扱います。
一言でいうと、
「NLPとは何か?」
です。
個人的には、「思いきって、やってしまうか」という気分の内容でもあります。
<注意!>
この勉強会はNLPの入門的なセミナーではありません。
NLPを知らない人に分かりやすく「NLPとは、どういうものか?」を説明するのは
他にも色々なセミナーが開催されているようですので、そちらにご参加下さい。
NLPに対する説明の仕方は色々とあるようです。
しかし、色々と知るほどに「NLPとは何か?」を説明するのは
なかなか難しくなってくるものじゃないでしょうか。
◆NLPは心理学?
◆NLPはコミュニケーション?
◆NLPは卓越した人のやり方を学ぶもの?
◆NLPは態度(あり方)?
◆NLPは心理療法の良いところ取り?
◆NLPは多くのスキルを集めたもの?
様々な説明の仕方があります。
これらとは違う「NLPの定義」を説明します。
もちろん、個人的な見解であって、誰かから教わったことではありません。
誰よりもNLPを疑いながら実践してきたという自負のもと
「何がNLPであって、何がNLPでないか」を区別する予定です。
こういった内容は、NLPの資格取得セミナーの中では絶対に話せませんし、
その内容をどれくらいオープンにできるのかは自分でも想像ができません。
※ここで聞いた内容は、ご自身のためにご利用ください。
オープンにしていくと問題が出てくる可能性もゼロではありません。
ただ今回はそのテーマにしました。
同時に、自分がNLPやセミナーを通して
何を一番大切にしているかという個人的な意見も触れようと思います。
まぁ、これは個人的な価値観でもあるので
興味のない人にとってはどうでもいいかもしれませんが、
セミナーでも文章でも、決して言葉にしないことです。
この機会に少数の方にだけでも聞いてもらおうという気分になったんです。
今回の勉強会では、NLPをNLPたらしめる要因を中心に扱うことになります。
理論的な説明も多くなりますが、トレーニングを交えながら
実感できるように進めるつもりです。
それはつまり、日常生活の中で、NLPの視点からの
気づきが得やすくなるようなトレーニングと言っても良いでしょう。
NLPを理解したい方にも、NLPを使いたい方にもお薦めします。
また、NLPの大きな目的は「変化」という部分にもあるはずですから
変化の技法としての使い方も整理しながらトレーニングを行います。
そこでは「どういう状況で、どの技法を使うと良いのか」という
選択の基準も解説をして、実際に使い分けられるようにします。
個人に合わせるための工夫の仕方です。
NLPの一般的なセミナーで扱われる内容は一般化されていて
誰でも同じようにやれば、最低限の効果が出るように設計されています。
テキスト通りに実習をすれば、そこそこの実感が得られるわけです。
NLPを「変化のための技術」として使っていく場合、
この特徴は非常に便利なところだと言えます。
その一方で、人によっては向き・不向きが出ることもあるのが事実。
それは一般化し過ぎている弊害でもあるんです。
もう少しだけ分解して、個人の特徴に合わせた使い分けができるようになると
それだけで効果の幅は大きく変わっていくものです。
言うまでもなく、コミュニケーションの質を向上させようとした場合、差を生むのは、
その瞬間、目の前の相手に対して、最適な関わり方の選択ができるかどうかです。
極端な喩えですが、お寿司を食べに行ったことを想定してみます。
チョット高級な店なので、味付け用に、醤油も、塩も置かれています。
そこで「アナゴの握り」が出てきたとします。甘いタレのかかっているもの。
そのときに、初めてお寿司を食べにくる外国人がガイドブックから
「お寿司を食べるときは醤油をつけて食べましょう」と学んでいたらどうでしょう?
その情報は一般的な方法として間違っていません。
ですが、甘いタレのかかった「アナゴの握り」には
醤油をつけずに食べる人のほうが多いんじゃないでしょうか。
経験で学んでいると、一般論の情報とは違う例外にも対応できるものです。
しかし、一般論しか知らないと、例外には対応しにくい。
無条件に「アナゴの握り」を醤油につけてしまうようなものです。
そこで
「ただし、ドロッとしたタレがついて出されたお寿司は、醤油をつけずに食べます」
という追加の説明がなされていれば、初めてでも対応できます。
一般化された方法を、状況別に使い分けできるようになっていれば
より高い効果を、より確実に期待できるはずです。
状況別に最適化しながら使えるようになる。
そのためのコツをいくつかお伝えして、トレーニングを行うことになります。
カウンセリングをしていれば迷いがあるほうが普通でしょう。
常に迷いながら、何を言うか、どのように言うか、どんな振る舞いをするかを決める…
それが目の前の相手に最善を尽くすということだと思います。
コミュニケーションにおける関わり方のバリエーションを広げることが
多くの人に対して最善の関わり方ができるようになるための方法じゃないでしょうか。
今回の勉強会では、
「NLPの根底にある理論」
と
「NLPの実用化」
を
トレーニングを交えながら扱います。
NLPがクリアになる。
今までの経験が洗練される。
そういう機会にして頂けるものと考えています。
お時間の調整が可能な方は、是非お越しください。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
定員を設けていますので、ご注意ください。
定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 9月23日(木・祝)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
★午前のみのご参加も可能です。(理論の全体像は午前に扱います)
「午前」あるいは「両方」でお申し込み下さい。
【場所】 滝野川会館 303集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午前・午後の両方 ・・・7,000円
テーマ: 『NLPってナンダ!?』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
NLPの現状というのは、なんだかラーメン業界に似ている気がします。
ラーメンの生い立ちは分かりませんが、中華料理の麺類と関係がありそうです。
そこから醤油ラーメンが作られ、トンコツや味噌、塩といった
バリエーションが広がったようです。
奇しくも、現状のNLPには数種類の流派があります。
そして、それぞれの流派の中でも、数多くの団体や個人が
NLPの講座を開催している。
沢山のラーメン屋がある状態です。
それぞれの店が工夫を凝らしています。
人によってはNLPを他の心理療法やコミュニケーションスキルなどと融合して
独自の技術を作っている人もいます。
それはラーメンと違う食べ物を融合しようとしたケースに似ていると思います。
きっと、カレーラーメンのように上手くいったケースから
とにかくラーメンの上に具材だけ乗っけたような
「ハンバーグラーメン」みたいなものもあるんじゃないでしょうか。
ラーメン業界ほどNLPが進んでいないように見えるのは、
どうも具材やトッピングや味付けを意識したものが多いと感じられるからです。
ここで提案したいのは原点とも言える「醤油ラーメン」です。
ラーメンは、もはや中華料理ではなく、日本料理といっても良いでしょう。
ですが、うどんや蕎麦とは違う。
ラーメンをラーメンとして区別させる要因があるわけです。
厳選素材で作った洗練された味わいのラーメン。
どことなく懐かしい醤油ラーメンのような雰囲気ではあっても
初めてラーメンが作られた頃とは別物の味わいになっている。
そういう方向性のNLPを提案したいんです。
それは必ずしも源流そのままというわけではないでしょう。
最初に作られたラーメンが徐々に形を変えて行ったように。
使う必要のなくなった素材だってあったはずです。
「NLP」と「NLPではないもの」を区別するための基準が分かれば、
原点のようでいて無駄のない、本質的なものが見えてくるような気がします。
洗練されていて本質的。
そこに価値を感じるのは個人的な好みがあるかもしれません。
しかし日本には伝統的に、そうした美意識があったのも事実じゃないでしょうか。
シンプルながら洗練されたNLP。
そんなイメージのものを味わって頂ければ何よりです。
お越しをお待ちしております。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
2010年08月24日
達人の筆使い
書道を習い始めて、いつの間にか一年以上が経っていました。
始めた頃と比べると、随分と違うことができるようになっている気はします。
が、やればやるほど、先生との差の大きさに気づくようになっていきます。
見慣れてくることによって、美しいバランスのとり方や線質が
感じられるようになってきているのでしょう。
バランスに関しては、良くお手本を見ながら
細かい部分と全体の比率、形のまとまりなどを見ていくと
練習しているうちに、同じような構成に仕上げていくことは無理ではないようです。
実際、多くの生徒さんたちは、そうやって上達していくみたいです。
ただ、線質の美しさに関しては、そうではありません。
形を良く見て練習したとしても、それだけでは到達できない美しさがあるんです。
線の強弱、線のキレ、かすれの量などの線質は
筆使いが大きくモノを言います。
もちろん、そこには墨の濃さ、紙と筆の種類のような
道具の要因も含まれます。
しかし、それ以上に関係する筆の動き方があるんです。
ただ古典の名作を本で眺めて、それをお手本に練習をしても
なかなか分からないようなレベルの筆使いがあるようです。
いや、実際には、そうした古典を眺める中で
細かな筆使いを読み取ることは可能なんでしょうし、先生はそうしているわけですが、
そのレベルに達するには、様々なプロセスが必要になると考えられます。
つまり「どのように筆が動くと、どんな線になるか」という情報を
試行錯誤の中から抽出していって、自分の中にパターンを蓄積する必要があります。
そうした情報が多ければ多いほど、1つの名品を眺めても
細かい筆使いの違いまで読み取れるようになる。
僕が師事している先生は、その能力が非常に秀でているように思えます。
なので、先生の書く線と、そのときの筆使い、
そして筆を動かすときの手の動きと体の使い方やリズムなど、
様々な動作を焼き付け、そして模倣するのがトレーニングになります。
僕は細かく見ることも細かく模倣することも
どちらも自分の中の価値として高い重要性を感じていますから、
多分、ほかの生徒さんたちよりも真似しようと試みている量が多い気がします。
それだけ出来ない部分が沢山あって、先生の凄さを意識することにもなるんですが。
で、やはり見ているだけでは得られない情報というのもある。
最近、そのことを強く実感しました。
認知的にいえば当たり前の話なんですが、
自分が注目していない部分は見えていても意識に上がりにくいわけです。
動作として覚えていたとしても、それをどのような意識でコントロールするか
といった複合的な作業になると、模倣するのが難しい。
リズム、墨の量、墨の濃さ、紙の厚さ…多くの要因が、いつも違っているものです。
その細かな条件の組み合わせに対して、筆使いを微妙に変える。
だから美しい線が書けるんだと思います。
同じような線を書くときでも、全く同じではないからこそ
模倣をしていくのが難しいんだろうと感じます。
それらの細かな違いを感じ取りながら微調整をしている作業。
細かい技術同士を組み合わせてコントロールする作業といっても良いかもしれません。
それは意外と意識的に工夫している部分であることが多いようです。
「墨が少なくなってきたから、ゆっくり動かそう」とか
「全体のバランスを取るために、この線は太めにしよう」とか
「筆先がねじれてきているから、一度立ち上げて整えよう」とか。
何を意識して、何を意図して筆の使い方を選択しているか。
このレベルのことは、どんなに頑張って模倣しようとしても難しいことが多く、
逆に、本人に直接の言葉で聞くことができるとスムーズに理解できるときがあります。
僕の教わっている先生は、この意識的な作業の量が多いタイプの人です。
「なんとなく」じゃないんです。
多くのことを意識化して作業することができる。
同時に沢山のことを感じ取りながら書ける人です。
なので「書には心が出るというのはウソ」と良く言っています。
腕があれば、無駄話をしながらでも上手く書ける、と。
まぁ、そういう人が全身全霊を集中して一作品に取り組めば
それは圧倒的なレベルになることも想像できるんですが…。
最近、特に言葉で教わって、自分の技術に大きく影響したのが
『筆をねじって使う』
『筆の面を使い分ける』
ということです。
以前から、途中で筆を回すように持ちかえる時があるのは気づいていましたが、
それは筆先が整ったときの形をベースにしているものだと考察していました。
それもあるのは間違いないと思いますが、それ以外にもあったんです。
墨の含み方でした。
どのように筆先の毛を曲げると、どのように墨が動くかを考えているんだそうです。
本人いわく、考えるというよりも「分かっている」んだとか。
紙と筆先の毛が接したときに、毛は紙に押し付けられて曲がります。
接した部分には摩擦力がありますから、触れた状態で筆をねじると
筆先の毛も一緒にねじれる。
この「ねじり」によって、先ほどまで紙に触れていた部分とは違う面を
紙に接することができる、という話でした。
紙に触れた筆の面は、紙に墨を吸い取られますから、少し墨が減るわけです。
そこで、まだ紙に触れていない面を使うと、多くの墨を利用できる。
同じ面を使い続ければ墨が減って、文字に「かすれ」を作ることができて
違う面が紙に接するようにすれば、墨の多い状態で書き続けられるので
文字に「かすれ」は起きにくい、と。
また、細い線を書きたいときには、筆先に墨が多過ぎるのは使いにくい。
墨は筆の毛と毛の間の隙間に表面張力で吸い上げられていますから
一本一本の毛の隙間を開くようにすると、上のほうから墨が下りてくるわけです。
なので、細い線を引くときには、筆の根元に溜まっている墨が下りてこないように
筆先の振動を抑えるように筆を使い、
墨が減ってきたら筆先だけを押し付けて墨が落ちてくるまで待つ。
そういった筆の毛の動きをコントロールすることで
墨の状態や線質をコントロールしているんだそうです。
こういったことを意識的にやっている人は滅多にいないだろうという話でした。
自分で気づいた方法だ、と。
それは、とにかく色々な筆の使い方をして、
どのように筆を使うと、どのように毛が動いて、どんな線になるか、
のパターンを色々と試したからこそ得られた知見だと思います。
そういう工夫をしていて、かつ、それを言語化できる状態にしてある先生なんです。
僕のような細かい学び方を好むタイプにとっては
実にありがたい先生です。
もうひとつ僕の好みに合うのが、他人の評価に惑わされない部分。
徹底的に細かく筆の線の関係を体験して体系化したから分かることでしょうが、
古典の名作と呼ばれる作品であっても、平気で批判するときがあります。
判断の基準のレベルを高めていった結果だと思います。
それもひとえに、徹底的に古典の文字を細かく眺め、
どのように筆を使うと、どんな線が書けるのかを感じ取り、
両方を照らし合わせることで古典の筆使いを見につけたからだと考えられます。
素人目には分からないような高度な判断基準をも持っているんでしょう。
有名な誰かが書いた作品だから、というような理由では
判断基準が曇ることがないようです。
しっかりと言語化して説明できる理由をもって
違うものは違うと言えるところが、僕にとっての共感ポイントなんだろうと思います。
習い始める前は、先生の技術の凄さも分かっていませんでしたから
数多い先生の中の一人から適当に選んでいた、というのが実態でした。
その先生が、そんなに細かく古典の研究を重ねてきていることも知りませんでしたし、
試行錯誤の中で、他の人にはない発想の技術を発見してきたことも知りませんでした。
ましてや、自分のしていることを言語化して説明できるとは思いもよりませんでした。
適当に選んで通い始めたものの、その選択は大正解だったようです。
最近は、この「ねじる」筆使いと
毛の曲げ方による墨と線質のコントロールが面白くなりました。
「ねじる」という発想は全くなかったので、これは大きい。
今まで出来なかったことが少し出来るようになった気がします。
「ねじる」の発想をベースに先生の筆使いを見ることで、
今までに気づかなかったパターンが見えてきています。
自分の筆使いにも試行錯誤のねじりを入れて、
先生に近い線質の出し方が少しだけ掴めそうな気もしています。
あまりにも細か過ぎて見ていても分からない技術、
なのに、意識してやってみると違いが実感できる技術。
こういうレベルを言葉で教えてもらえると、上達が飛躍的に加速されるものです。
コミュニケーションの技術として僕が伝えようと工夫している部分も、これです。
高度で繊細な工夫が、僕は好きなんだと改めて実感しました。
始めた頃と比べると、随分と違うことができるようになっている気はします。
が、やればやるほど、先生との差の大きさに気づくようになっていきます。
見慣れてくることによって、美しいバランスのとり方や線質が
感じられるようになってきているのでしょう。
バランスに関しては、良くお手本を見ながら
細かい部分と全体の比率、形のまとまりなどを見ていくと
練習しているうちに、同じような構成に仕上げていくことは無理ではないようです。
実際、多くの生徒さんたちは、そうやって上達していくみたいです。
ただ、線質の美しさに関しては、そうではありません。
形を良く見て練習したとしても、それだけでは到達できない美しさがあるんです。
線の強弱、線のキレ、かすれの量などの線質は
筆使いが大きくモノを言います。
もちろん、そこには墨の濃さ、紙と筆の種類のような
道具の要因も含まれます。
しかし、それ以上に関係する筆の動き方があるんです。
ただ古典の名作を本で眺めて、それをお手本に練習をしても
なかなか分からないようなレベルの筆使いがあるようです。
いや、実際には、そうした古典を眺める中で
細かな筆使いを読み取ることは可能なんでしょうし、先生はそうしているわけですが、
そのレベルに達するには、様々なプロセスが必要になると考えられます。
つまり「どのように筆が動くと、どんな線になるか」という情報を
試行錯誤の中から抽出していって、自分の中にパターンを蓄積する必要があります。
そうした情報が多ければ多いほど、1つの名品を眺めても
細かい筆使いの違いまで読み取れるようになる。
僕が師事している先生は、その能力が非常に秀でているように思えます。
なので、先生の書く線と、そのときの筆使い、
そして筆を動かすときの手の動きと体の使い方やリズムなど、
様々な動作を焼き付け、そして模倣するのがトレーニングになります。
僕は細かく見ることも細かく模倣することも
どちらも自分の中の価値として高い重要性を感じていますから、
多分、ほかの生徒さんたちよりも真似しようと試みている量が多い気がします。
それだけ出来ない部分が沢山あって、先生の凄さを意識することにもなるんですが。
で、やはり見ているだけでは得られない情報というのもある。
最近、そのことを強く実感しました。
認知的にいえば当たり前の話なんですが、
自分が注目していない部分は見えていても意識に上がりにくいわけです。
動作として覚えていたとしても、それをどのような意識でコントロールするか
といった複合的な作業になると、模倣するのが難しい。
リズム、墨の量、墨の濃さ、紙の厚さ…多くの要因が、いつも違っているものです。
その細かな条件の組み合わせに対して、筆使いを微妙に変える。
だから美しい線が書けるんだと思います。
同じような線を書くときでも、全く同じではないからこそ
模倣をしていくのが難しいんだろうと感じます。
それらの細かな違いを感じ取りながら微調整をしている作業。
細かい技術同士を組み合わせてコントロールする作業といっても良いかもしれません。
それは意外と意識的に工夫している部分であることが多いようです。
「墨が少なくなってきたから、ゆっくり動かそう」とか
「全体のバランスを取るために、この線は太めにしよう」とか
「筆先がねじれてきているから、一度立ち上げて整えよう」とか。
何を意識して、何を意図して筆の使い方を選択しているか。
このレベルのことは、どんなに頑張って模倣しようとしても難しいことが多く、
逆に、本人に直接の言葉で聞くことができるとスムーズに理解できるときがあります。
僕の教わっている先生は、この意識的な作業の量が多いタイプの人です。
「なんとなく」じゃないんです。
多くのことを意識化して作業することができる。
同時に沢山のことを感じ取りながら書ける人です。
なので「書には心が出るというのはウソ」と良く言っています。
腕があれば、無駄話をしながらでも上手く書ける、と。
まぁ、そういう人が全身全霊を集中して一作品に取り組めば
それは圧倒的なレベルになることも想像できるんですが…。
最近、特に言葉で教わって、自分の技術に大きく影響したのが
『筆をねじって使う』
『筆の面を使い分ける』
ということです。
以前から、途中で筆を回すように持ちかえる時があるのは気づいていましたが、
それは筆先が整ったときの形をベースにしているものだと考察していました。
それもあるのは間違いないと思いますが、それ以外にもあったんです。
墨の含み方でした。
どのように筆先の毛を曲げると、どのように墨が動くかを考えているんだそうです。
本人いわく、考えるというよりも「分かっている」んだとか。
紙と筆先の毛が接したときに、毛は紙に押し付けられて曲がります。
接した部分には摩擦力がありますから、触れた状態で筆をねじると
筆先の毛も一緒にねじれる。
この「ねじり」によって、先ほどまで紙に触れていた部分とは違う面を
紙に接することができる、という話でした。
紙に触れた筆の面は、紙に墨を吸い取られますから、少し墨が減るわけです。
そこで、まだ紙に触れていない面を使うと、多くの墨を利用できる。
同じ面を使い続ければ墨が減って、文字に「かすれ」を作ることができて
違う面が紙に接するようにすれば、墨の多い状態で書き続けられるので
文字に「かすれ」は起きにくい、と。
また、細い線を書きたいときには、筆先に墨が多過ぎるのは使いにくい。
墨は筆の毛と毛の間の隙間に表面張力で吸い上げられていますから
一本一本の毛の隙間を開くようにすると、上のほうから墨が下りてくるわけです。
なので、細い線を引くときには、筆の根元に溜まっている墨が下りてこないように
筆先の振動を抑えるように筆を使い、
墨が減ってきたら筆先だけを押し付けて墨が落ちてくるまで待つ。
そういった筆の毛の動きをコントロールすることで
墨の状態や線質をコントロールしているんだそうです。
こういったことを意識的にやっている人は滅多にいないだろうという話でした。
自分で気づいた方法だ、と。
それは、とにかく色々な筆の使い方をして、
どのように筆を使うと、どのように毛が動いて、どんな線になるか、
のパターンを色々と試したからこそ得られた知見だと思います。
そういう工夫をしていて、かつ、それを言語化できる状態にしてある先生なんです。
僕のような細かい学び方を好むタイプにとっては
実にありがたい先生です。
もうひとつ僕の好みに合うのが、他人の評価に惑わされない部分。
徹底的に細かく筆の線の関係を体験して体系化したから分かることでしょうが、
古典の名作と呼ばれる作品であっても、平気で批判するときがあります。
判断の基準のレベルを高めていった結果だと思います。
それもひとえに、徹底的に古典の文字を細かく眺め、
どのように筆を使うと、どんな線が書けるのかを感じ取り、
両方を照らし合わせることで古典の筆使いを見につけたからだと考えられます。
素人目には分からないような高度な判断基準をも持っているんでしょう。
有名な誰かが書いた作品だから、というような理由では
判断基準が曇ることがないようです。
しっかりと言語化して説明できる理由をもって
違うものは違うと言えるところが、僕にとっての共感ポイントなんだろうと思います。
習い始める前は、先生の技術の凄さも分かっていませんでしたから
数多い先生の中の一人から適当に選んでいた、というのが実態でした。
その先生が、そんなに細かく古典の研究を重ねてきていることも知りませんでしたし、
試行錯誤の中で、他の人にはない発想の技術を発見してきたことも知りませんでした。
ましてや、自分のしていることを言語化して説明できるとは思いもよりませんでした。
適当に選んで通い始めたものの、その選択は大正解だったようです。
最近は、この「ねじる」筆使いと
毛の曲げ方による墨と線質のコントロールが面白くなりました。
「ねじる」という発想は全くなかったので、これは大きい。
今まで出来なかったことが少し出来るようになった気がします。
「ねじる」の発想をベースに先生の筆使いを見ることで、
今までに気づかなかったパターンが見えてきています。
自分の筆使いにも試行錯誤のねじりを入れて、
先生に近い線質の出し方が少しだけ掴めそうな気もしています。
あまりにも細か過ぎて見ていても分からない技術、
なのに、意識してやってみると違いが実感できる技術。
こういうレベルを言葉で教えてもらえると、上達が飛躍的に加速されるものです。
コミュニケーションの技術として僕が伝えようと工夫している部分も、これです。
高度で繊細な工夫が、僕は好きなんだと改めて実感しました。
2010年08月21日
文字の描写と頭の中の描写
先日、久しぶりに会った知人から一冊の本を貰いました。
推理小説。
ミステリーっていうんでしょうか。
僕は普段、めったに小説を読まないので
一番最近の小説は、『ダ・ヴィンチ・コード』が文庫になった時に
他人から勧められたために読んだというものです。
ですから、何かの情報を得る目的とは違う本の読み方には馴染みが薄い。
ただ、その本は読みやすく、サラサラと最後まで一気に読むことができました。
なんでも結構、有名な本だそうで、映画化もされたという話でした。
ほとんど読まないミステリーのジャンルですから
なんとも感想を表現しにくいんですが、いくつか気づいたことがありました。
そのうちの1つは、小説という形態だからこそ可能になる
トリックというかドンデン返しというか、読者を驚かせるポイントがあったんです。
もちろん全ての小説で、そんな手法を使うわけはないでしょうし、
その小説を有名にした部分が、多分、その「小説ならではの特徴」
を活かした盲点のつきかただったんじゃないかと思います。
小説の大きな特徴は、全てが文章だけで描かれる世界であるということ。
様々な描写の技法を使って、物語の世界が描かれていくわけですが
その世界に描かれる具体的な内容は、読者自身の作りだす想像の世界です。
文章が想起させるイメージで物語の世界が作られていくんです。
もちろん、たとえば「夕日が沈みかけている細い路地をアパートに向かって」
なんていうレベルの具体的な情報はあります。
が、「夕日」で思い浮かぶ映像は、人によって個人差があるはずです。
人物の顔も、人物の姿かたちも、場面の背景も、
何もかも読者自身が映像として作りだす作業を要求します。
映画やマンガだと、作者の側が映像情報を提供しているわけですが、
それが一切ないのが小説の特徴です。
また、ラジオドラマやCDなどの音声教材の類も映像を含みません。
誰かの講演の模様を音声で聞いたり、有名なスピーチを聞いたりはできますが、
そのときの場面は、これまた分からないわけです。
勝手に想像しながら聞くことになるかもしれません。
それよりは、小説のほうが場面の描写をする必要性が高いですから、
積極的に映像情報を言語化したものが含まれていて、
それをベースにイメージを作るのが容易でしょう。
ただ、小説は音声情報とも違って、声や効果音を聞くこともできません。
登場人物の話し声、会話の声のトーン、その場にあるはずの音…、
音声の類もまた、全てを読者側が作り出すことを必要とします。
小説中には、音声に対する詳しい表現がなされることもありますが、
映像情報よりは、ずっと少ないような気がします。
こうした、映像と音声の全てを、読者側に想像させる部分。
これが小説を映画やマンガ、ラジオドラマなどと区別する大きな特徴でしょう。
で、僕が貰って読んだ小説は、この「映像と音声を勝手にイメージする性質」を
上手く利用して、そこで勝手に作られる思い込みの盲点をついて
予想外の展開に持っていく作業をしていたんです。
答えが分かって、それまでの流れを振り返ってみると
全ての表現の意味が全部変わってきて、それでも
辻褄があうようにはなっている。
「なるほど、そういうことだったのか」となったんです。
音声や映像が文字情報でしか提供されないことを活かして、
どの人物について話が進んでいるのかが勘違いされやすい部分がカギだったようです。
ところが、ここに映像や音声があったとしたら
どの人物について進んでいる話なのかが限定されやすくなります。
犯人のような人物がいたとして、その声が犯行現場のシーンで出ていたとしたら
以降の展開の中で登場する人物の声と照らし合わせることで
誰が犯人かが分かってしまうかもしれません。
小説の場合は、その可能性がない。
たとえば、以前、実際の社会的な事件として起きたように
殺人犯が小学生だったりした場合、そういう想像は一般的にしにくいものです。
ですから、「犯人」という言葉だけからすると
勝手に人は一般的な犯人像を描いてしまいやすい。
小説でそういうことがあった場合、最後の種明かしとして
「実は小学生だったんです」となると驚きが得られるわけです。
もし、そのときに声や映像がハッキリと読者に捉えられていたとしたら
「なんだ、小学生の声じゃん」
ということで面白さが減ってしまいます。
ミステリードラマなどの場合は、きっと人物を写さない、声も聞かせないことで
そうした効果を狙うんでしょうが、
小説の場合には、その性質を利用して大胆に予想を覆せるようです。
ただ、僕として不愉快になるのは、
もし「犯人が小学生でした」みたいなことになったとき、
それまで犯人の姿や声に当てはめていたイメージが
一気に間違いだったことに気づき、壊さなくてはいけないことです。
頭の中に作ってきたものを一度壊さなくてはいけない。
この作業はキツイ。
「なんだ、そうだったんだ」という驚きもありますが、
それ以上に、勝手に作ってしまっていたものを
本一冊分の情報として作り替える作業は大変です。
もしかすると、あまり映像を作らないで読んだほうが
素直に驚きを楽しめるのかもしれません。
映画で似たようなことがあれば、
ずっと映っていなかった犯人の姿が初めて画面に出たとき
小学生だったというだけですから、
何も無いところに映像を追加する作業なので負荷はありません。
でも、小説の場合、それを作ってしまいやすいので
すでにあるものを書き換える必要が出てくる。
ちょっとここは僕には厳しいところです。
小説好きな人というのは、頭の中でしている作業が
僕とは違っているんだろうと思います。
きっと小説を楽しむための読み方があるんでしょう。
それが分かるまで、小説好きにはならなそうな気がします。
推理小説。
ミステリーっていうんでしょうか。
僕は普段、めったに小説を読まないので
一番最近の小説は、『ダ・ヴィンチ・コード』が文庫になった時に
他人から勧められたために読んだというものです。
ですから、何かの情報を得る目的とは違う本の読み方には馴染みが薄い。
ただ、その本は読みやすく、サラサラと最後まで一気に読むことができました。
なんでも結構、有名な本だそうで、映画化もされたという話でした。
ほとんど読まないミステリーのジャンルですから
なんとも感想を表現しにくいんですが、いくつか気づいたことがありました。
そのうちの1つは、小説という形態だからこそ可能になる
トリックというかドンデン返しというか、読者を驚かせるポイントがあったんです。
もちろん全ての小説で、そんな手法を使うわけはないでしょうし、
その小説を有名にした部分が、多分、その「小説ならではの特徴」
を活かした盲点のつきかただったんじゃないかと思います。
小説の大きな特徴は、全てが文章だけで描かれる世界であるということ。
様々な描写の技法を使って、物語の世界が描かれていくわけですが
その世界に描かれる具体的な内容は、読者自身の作りだす想像の世界です。
文章が想起させるイメージで物語の世界が作られていくんです。
もちろん、たとえば「夕日が沈みかけている細い路地をアパートに向かって」
なんていうレベルの具体的な情報はあります。
が、「夕日」で思い浮かぶ映像は、人によって個人差があるはずです。
人物の顔も、人物の姿かたちも、場面の背景も、
何もかも読者自身が映像として作りだす作業を要求します。
映画やマンガだと、作者の側が映像情報を提供しているわけですが、
それが一切ないのが小説の特徴です。
また、ラジオドラマやCDなどの音声教材の類も映像を含みません。
誰かの講演の模様を音声で聞いたり、有名なスピーチを聞いたりはできますが、
そのときの場面は、これまた分からないわけです。
勝手に想像しながら聞くことになるかもしれません。
それよりは、小説のほうが場面の描写をする必要性が高いですから、
積極的に映像情報を言語化したものが含まれていて、
それをベースにイメージを作るのが容易でしょう。
ただ、小説は音声情報とも違って、声や効果音を聞くこともできません。
登場人物の話し声、会話の声のトーン、その場にあるはずの音…、
音声の類もまた、全てを読者側が作り出すことを必要とします。
小説中には、音声に対する詳しい表現がなされることもありますが、
映像情報よりは、ずっと少ないような気がします。
こうした、映像と音声の全てを、読者側に想像させる部分。
これが小説を映画やマンガ、ラジオドラマなどと区別する大きな特徴でしょう。
で、僕が貰って読んだ小説は、この「映像と音声を勝手にイメージする性質」を
上手く利用して、そこで勝手に作られる思い込みの盲点をついて
予想外の展開に持っていく作業をしていたんです。
答えが分かって、それまでの流れを振り返ってみると
全ての表現の意味が全部変わってきて、それでも
辻褄があうようにはなっている。
「なるほど、そういうことだったのか」となったんです。
音声や映像が文字情報でしか提供されないことを活かして、
どの人物について話が進んでいるのかが勘違いされやすい部分がカギだったようです。
ところが、ここに映像や音声があったとしたら
どの人物について進んでいる話なのかが限定されやすくなります。
犯人のような人物がいたとして、その声が犯行現場のシーンで出ていたとしたら
以降の展開の中で登場する人物の声と照らし合わせることで
誰が犯人かが分かってしまうかもしれません。
小説の場合は、その可能性がない。
たとえば、以前、実際の社会的な事件として起きたように
殺人犯が小学生だったりした場合、そういう想像は一般的にしにくいものです。
ですから、「犯人」という言葉だけからすると
勝手に人は一般的な犯人像を描いてしまいやすい。
小説でそういうことがあった場合、最後の種明かしとして
「実は小学生だったんです」となると驚きが得られるわけです。
もし、そのときに声や映像がハッキリと読者に捉えられていたとしたら
「なんだ、小学生の声じゃん」
ということで面白さが減ってしまいます。
ミステリードラマなどの場合は、きっと人物を写さない、声も聞かせないことで
そうした効果を狙うんでしょうが、
小説の場合には、その性質を利用して大胆に予想を覆せるようです。
ただ、僕として不愉快になるのは、
もし「犯人が小学生でした」みたいなことになったとき、
それまで犯人の姿や声に当てはめていたイメージが
一気に間違いだったことに気づき、壊さなくてはいけないことです。
頭の中に作ってきたものを一度壊さなくてはいけない。
この作業はキツイ。
「なんだ、そうだったんだ」という驚きもありますが、
それ以上に、勝手に作ってしまっていたものを
本一冊分の情報として作り替える作業は大変です。
もしかすると、あまり映像を作らないで読んだほうが
素直に驚きを楽しめるのかもしれません。
映画で似たようなことがあれば、
ずっと映っていなかった犯人の姿が初めて画面に出たとき
小学生だったというだけですから、
何も無いところに映像を追加する作業なので負荷はありません。
でも、小説の場合、それを作ってしまいやすいので
すでにあるものを書き換える必要が出てくる。
ちょっとここは僕には厳しいところです。
小説好きな人というのは、頭の中でしている作業が
僕とは違っているんだろうと思います。
きっと小説を楽しむための読み方があるんでしょう。
それが分かるまで、小説好きにはならなそうな気がします。
2010年08月19日
動詞の感覚
英語と日本語には色々な違いがあると思いますが、
日本人が英語を学ぶ上でハードルが高くなりそうなポイントとして
言語的な性質の違いが挙げられそうです。
特に、難しくする要因の1つが翻訳という作業。
理想を言えば、日本語を一切交えずに英語を英語のまま理解できれば良いのでしょうが、
その作業は、良く言われるほどに簡単なことではないと思います。
なぜなら、相互に概念として共有する意味があって、
それが本人の中で繋がっていなければ、
言語はコミュニケーション手段としての意味を持つことができても
それを使って何かを学び取り、経験を広げるということはできないからです。
つまり、英語で知った情報は英語に関する記憶の中にだけ整理されていて
日本語を通じて経験してきた情報とは無関係に整理されることになります。
英語での経験と日本語での経験が相互に活かせない。
極端な言い方をすれば、別の人間が一人の中に存在している感じ。
英語で経験したことは日本語で話せないことになってしまう状態です。
それでは外国語を見につける利点が減ってしまうでしょうし、
現実的に、そのような事態はまず起こらないと考えられます。
バイリンガルの帰国子女が日本語を話すときと外国語を話すときで
全く性格が変わるケースは良く見受けられますが、
それでも2つの人格があるわけではなく、記憶としては繋がっています。
日本語を話しているときには、英語を話していた時の記憶が無くなってしまう…
なんていうことは起きないでしょう。
これは、概念として意味を理解できているものは
複数の言語を使っていても対応させることができることを示していると言えます。
日本語で「犬」と呼ぶものと、英語で「 dog 」と呼ぶものが
同じ概念であることが記憶の中で繋がっている。
英語を話すときに、いちいち日本語訳にしないとしても
理解した情報は英語でも日本語でも説明できるはずです。
それは日本語訳の作業を意識的にしていないだけの話で
「理解する」という作業そのものがしている内容は
英語でも日本語でも共通していると考えられます。
そういう意味で、2種類の言語を使うときには
ある程度、共有できる概念を知っている必要があるということです。
「犬」と「 dog 」は同じ概念だ、と。
その概念のベースになる実体験の内容に違いがあることは、
ここでは問題ではありません。
一般的な日本人にとっての「川」は、渓流の細い水の流れのイメージが典型的で、
アメリカ人にとっての「 river 」は、対岸が見えないような川幅の広い
海と区別できないようなイメージが典型的でしょう。
それは経験の違いが生み出した差であって、
もし日本人がアメリカで生活をして「 river 」を沢山見てきたとしたら
その人にとっての「川」の典型的なイメージに、大きな川の映像が追加されるだけで、
「川」と「 river 」を別の概念として理解することはないはずです。
経験が広がれば、概念の意味する範囲が広がるだけのことで、
「川」と「 river 」は、同じ概念と理解しても問題はないと思います。
なので、翻訳という作業が可能になります。
ところが、そのような一対一の対応ができない概念もあります。
「兄」と「 brother 」はイコールではない。
「兄」を英語で言うときには「 big brother 」として一単語では表せないわけです。
英和辞典を使うと、1つの単語に対して、色々な日本語の説明が出てきますし、
和英辞典を使えば、逆のことが起きます。
正確に同じ意味に対応しない概念が、他の言語には存在しているんです。
しかし、辞書というものは、その性質上、
意味の対応として近いものを示すことになっています。
いちいち日本語訳にしないで理解できるようになったとしても、
理解のための概念ネットワークが日本語用に作られている人にとっては、
英語の理解のためにも、そのネットワークが応用されてしまいやすいようです。
新しい単語を覚えるときに、どうしても日本語での理解の仕方が影響してしまう。
ここが大きなハードルになるように感じられます。
日本人が英語で言いたいことを考えた場合、
表現したい内容に対応する単語を記憶から探すことになります。
ところが、この「言いたいこと」の思い浮かび方が、すでに
日本語の影響を強く受けているんです。
自分の言い表わしたいことに対応する言葉を探そうとしても、
その感じに対応する正確な英単語がなかったりする。
また、辞書では同じ意味として出てくる単語だからと使ってみたら
ニュアンスの違いがあってネイティブには違和感があったりする。
日本語の単語と英語の単語を正確に対応させるのが難しいんです。
特に、英語は動詞が意味するニュアンスが詳細で、
動詞の使い分けだけで意味の違いを作ることが良くあるようです。
たとえば、日本語で「混ぜる」に対応する単語として
mix, blend, stir, scrumble, whisk, whip など
動作の状態や、動作によって起こる結果の違いによって
動詞が使い分けられます。
他にも日本では、「推測する」「推定する」「予測する」「仮説を立てる」
の間には大きな違いを意識することは少ないと思います。
仮に、「株価の動き〜」に対して付け加えることを考えても、
どれを当てはめても大きな意味の違いは出ないでしょう。
「株価の動き」は未来のことですから「予測する」が正確なのかもしれませんが、
「株価の動きを推測する」といえば、未来のこととして暗黙の了解で理解できます。
厳密な使い分けが必要ないのが、日本語の特徴ではないでしょうか。
ところが、英語では「 predict 」と「 guess 」に明確な違いがあるそうです。
「 predict 」には推測の根拠となる情報があって、
「 guess 」には、それがなく、普通の「〜じゃないかな?」という感じ。
「心配する」の意味も、「 be concerned about 」と「 be worried about 」とあって、
「 concerned 」のほうが根拠があって可能性の高い心配で、
「 worried 」のほうが漠然とした不安に近い心配なんだとか。
英語は、1つの単語が持つ意味が詳細に設定されているようです。
それに対して、日本語は1つの動詞が意味する範囲が広くて、
しかも同じような単語が複数あります。
なので、意味を正確に表現しようとすると、
他の単語で情報を加えていくことになります。
先ほどの「混ぜる」であれば、「ゆっくりと混ぜる」とか「素早く混ぜる」とか。
しかし、英語であれば、コーヒーの砂糖をゆっくり混ぜるときは「 stir 」です。
「コーヒーに砂糖を入れて」の後に
「ゆっくり」という言葉をつけて意味を丁寧に表現しておけば、
そのあとの単語は「混ぜる」でも「かき混ぜる」でも「撹拌する」でも
間違いじゃないんです。
でも英語は「 stir 」が普通。
英語は、そもそもが詳細な意味の違いを持った単語を使い分けて、意味の違いを表現し、
日本語は、単語に詳細な情報を付け加えていくことで、意味の違いを表現する。
こんな差があるように思います。
しかも、英語の単語は動詞を中心に作られています。
英語を始めとするラテン語系の言語には
単語の中にラテン語由来のものと、ゲルマン語由来のものが含まれますが、
この段階から動詞を派生させる形で単語が作られているようです。
おそらく、こうした動詞に対する細かな意味の違いの設定の仕方が
ラテン語系の特徴なんじゃないでしょうか。
少ない単語でニュアンスの違いを表現する前提がありそうな気がします。
その中心が動作を表現する動詞。
一方、日本語は状態を説明する言葉に細かい部分がありそうです。
修飾語、それも心情に関わるような表現が豊富じゃないかと感じます。
動作のバリエーションで説明するよりも、
状況を補足説明するように単語を付け加えて言い表わしていく。
さらに日本語の場合は、微妙な言い回しの差、たとえば助詞の使い方などで
メッセージを発信する人の伝えたい意図なども表現できます。
日本語と英語では、細かく表現しようとしている場所が違う、という話です。
これが日本人英語学習者にとってハードルの高いポイントの1つだと感じます。
英語を理解するときには、単純に辞書を使って
日本語の意味を利用して内容を把握するのでは理解度が不足しやすいでしょう。
それは英単語そのものの中に、微妙なニュアンスの違いが含まれるからです。
単純な日本語訳として出てくる単語の意味をつかって理解しようとすると
日本人からしたら情報が不足していて、何を言いたい文章なのか分からないことがある。
英語の単語が持つ細かな概念に敏感になると
英文を理解するのも、英会話を理解するのも、やりやすくなると推測しています。
逆に、英文を書いたり、英語を話す場合にも、
正確な単語の使い分けができるようになっていくと、
少ない単語数で必要な情報が伝えられるようになると思います。
どうしても日本人が英語の文章を作ろうとすると
メッセージの内容を状態として説明しようとして
修飾語を付け加えたくなる気がします。
日本語の感覚として、修飾語をつけて工夫して言い表わした意味が
実は英語だと一単語で言えてしまったりする。
この辺のボキャブラリーの違いに対応できると、伝わりやすくもなるんでしょう。
何より、動詞の感覚が難しい。
日本語は主語を使わないことで、説明内容を状態・状況として
少し客観的な言い回しで説明することが多いものです。
動作の主体が表現されないので、動作の躍動感が小さく、
状況を眺めて描写するような静止画の感じがある。
それが、英語の場合は、もっと動作の主体が明確です。
他動詞なんていうのは、その性質として
他者に影響を及ぼしているイメージが伴います。
このアクティブな動作の感じと、動作が影響していく様子とが
動画のような感じで捉えられるようになると
英語らしいシンプルな表現ができるんでしょう。
日本人の慣れていない部分だと思います。
動作と主体、影響を及ぼす感じ。
この辺の動詞中心のイメージをトレーニングする効果的な方法があると
日本人の英語学習も楽になるかもしれません。
日本人が英語を学ぶ上でハードルが高くなりそうなポイントとして
言語的な性質の違いが挙げられそうです。
特に、難しくする要因の1つが翻訳という作業。
理想を言えば、日本語を一切交えずに英語を英語のまま理解できれば良いのでしょうが、
その作業は、良く言われるほどに簡単なことではないと思います。
なぜなら、相互に概念として共有する意味があって、
それが本人の中で繋がっていなければ、
言語はコミュニケーション手段としての意味を持つことができても
それを使って何かを学び取り、経験を広げるということはできないからです。
つまり、英語で知った情報は英語に関する記憶の中にだけ整理されていて
日本語を通じて経験してきた情報とは無関係に整理されることになります。
英語での経験と日本語での経験が相互に活かせない。
極端な言い方をすれば、別の人間が一人の中に存在している感じ。
英語で経験したことは日本語で話せないことになってしまう状態です。
それでは外国語を見につける利点が減ってしまうでしょうし、
現実的に、そのような事態はまず起こらないと考えられます。
バイリンガルの帰国子女が日本語を話すときと外国語を話すときで
全く性格が変わるケースは良く見受けられますが、
それでも2つの人格があるわけではなく、記憶としては繋がっています。
日本語を話しているときには、英語を話していた時の記憶が無くなってしまう…
なんていうことは起きないでしょう。
これは、概念として意味を理解できているものは
複数の言語を使っていても対応させることができることを示していると言えます。
日本語で「犬」と呼ぶものと、英語で「 dog 」と呼ぶものが
同じ概念であることが記憶の中で繋がっている。
英語を話すときに、いちいち日本語訳にしないとしても
理解した情報は英語でも日本語でも説明できるはずです。
それは日本語訳の作業を意識的にしていないだけの話で
「理解する」という作業そのものがしている内容は
英語でも日本語でも共通していると考えられます。
そういう意味で、2種類の言語を使うときには
ある程度、共有できる概念を知っている必要があるということです。
「犬」と「 dog 」は同じ概念だ、と。
その概念のベースになる実体験の内容に違いがあることは、
ここでは問題ではありません。
一般的な日本人にとっての「川」は、渓流の細い水の流れのイメージが典型的で、
アメリカ人にとっての「 river 」は、対岸が見えないような川幅の広い
海と区別できないようなイメージが典型的でしょう。
それは経験の違いが生み出した差であって、
もし日本人がアメリカで生活をして「 river 」を沢山見てきたとしたら
その人にとっての「川」の典型的なイメージに、大きな川の映像が追加されるだけで、
「川」と「 river 」を別の概念として理解することはないはずです。
経験が広がれば、概念の意味する範囲が広がるだけのことで、
「川」と「 river 」は、同じ概念と理解しても問題はないと思います。
なので、翻訳という作業が可能になります。
ところが、そのような一対一の対応ができない概念もあります。
「兄」と「 brother 」はイコールではない。
「兄」を英語で言うときには「 big brother 」として一単語では表せないわけです。
英和辞典を使うと、1つの単語に対して、色々な日本語の説明が出てきますし、
和英辞典を使えば、逆のことが起きます。
正確に同じ意味に対応しない概念が、他の言語には存在しているんです。
しかし、辞書というものは、その性質上、
意味の対応として近いものを示すことになっています。
いちいち日本語訳にしないで理解できるようになったとしても、
理解のための概念ネットワークが日本語用に作られている人にとっては、
英語の理解のためにも、そのネットワークが応用されてしまいやすいようです。
新しい単語を覚えるときに、どうしても日本語での理解の仕方が影響してしまう。
ここが大きなハードルになるように感じられます。
日本人が英語で言いたいことを考えた場合、
表現したい内容に対応する単語を記憶から探すことになります。
ところが、この「言いたいこと」の思い浮かび方が、すでに
日本語の影響を強く受けているんです。
自分の言い表わしたいことに対応する言葉を探そうとしても、
その感じに対応する正確な英単語がなかったりする。
また、辞書では同じ意味として出てくる単語だからと使ってみたら
ニュアンスの違いがあってネイティブには違和感があったりする。
日本語の単語と英語の単語を正確に対応させるのが難しいんです。
特に、英語は動詞が意味するニュアンスが詳細で、
動詞の使い分けだけで意味の違いを作ることが良くあるようです。
たとえば、日本語で「混ぜる」に対応する単語として
mix, blend, stir, scrumble, whisk, whip など
動作の状態や、動作によって起こる結果の違いによって
動詞が使い分けられます。
他にも日本では、「推測する」「推定する」「予測する」「仮説を立てる」
の間には大きな違いを意識することは少ないと思います。
仮に、「株価の動き〜」に対して付け加えることを考えても、
どれを当てはめても大きな意味の違いは出ないでしょう。
「株価の動き」は未来のことですから「予測する」が正確なのかもしれませんが、
「株価の動きを推測する」といえば、未来のこととして暗黙の了解で理解できます。
厳密な使い分けが必要ないのが、日本語の特徴ではないでしょうか。
ところが、英語では「 predict 」と「 guess 」に明確な違いがあるそうです。
「 predict 」には推測の根拠となる情報があって、
「 guess 」には、それがなく、普通の「〜じゃないかな?」という感じ。
「心配する」の意味も、「 be concerned about 」と「 be worried about 」とあって、
「 concerned 」のほうが根拠があって可能性の高い心配で、
「 worried 」のほうが漠然とした不安に近い心配なんだとか。
英語は、1つの単語が持つ意味が詳細に設定されているようです。
それに対して、日本語は1つの動詞が意味する範囲が広くて、
しかも同じような単語が複数あります。
なので、意味を正確に表現しようとすると、
他の単語で情報を加えていくことになります。
先ほどの「混ぜる」であれば、「ゆっくりと混ぜる」とか「素早く混ぜる」とか。
しかし、英語であれば、コーヒーの砂糖をゆっくり混ぜるときは「 stir 」です。
「コーヒーに砂糖を入れて」の後に
「ゆっくり」という言葉をつけて意味を丁寧に表現しておけば、
そのあとの単語は「混ぜる」でも「かき混ぜる」でも「撹拌する」でも
間違いじゃないんです。
でも英語は「 stir 」が普通。
英語は、そもそもが詳細な意味の違いを持った単語を使い分けて、意味の違いを表現し、
日本語は、単語に詳細な情報を付け加えていくことで、意味の違いを表現する。
こんな差があるように思います。
しかも、英語の単語は動詞を中心に作られています。
英語を始めとするラテン語系の言語には
単語の中にラテン語由来のものと、ゲルマン語由来のものが含まれますが、
この段階から動詞を派生させる形で単語が作られているようです。
おそらく、こうした動詞に対する細かな意味の違いの設定の仕方が
ラテン語系の特徴なんじゃないでしょうか。
少ない単語でニュアンスの違いを表現する前提がありそうな気がします。
その中心が動作を表現する動詞。
一方、日本語は状態を説明する言葉に細かい部分がありそうです。
修飾語、それも心情に関わるような表現が豊富じゃないかと感じます。
動作のバリエーションで説明するよりも、
状況を補足説明するように単語を付け加えて言い表わしていく。
さらに日本語の場合は、微妙な言い回しの差、たとえば助詞の使い方などで
メッセージを発信する人の伝えたい意図なども表現できます。
日本語と英語では、細かく表現しようとしている場所が違う、という話です。
これが日本人英語学習者にとってハードルの高いポイントの1つだと感じます。
英語を理解するときには、単純に辞書を使って
日本語の意味を利用して内容を把握するのでは理解度が不足しやすいでしょう。
それは英単語そのものの中に、微妙なニュアンスの違いが含まれるからです。
単純な日本語訳として出てくる単語の意味をつかって理解しようとすると
日本人からしたら情報が不足していて、何を言いたい文章なのか分からないことがある。
英語の単語が持つ細かな概念に敏感になると
英文を理解するのも、英会話を理解するのも、やりやすくなると推測しています。
逆に、英文を書いたり、英語を話す場合にも、
正確な単語の使い分けができるようになっていくと、
少ない単語数で必要な情報が伝えられるようになると思います。
どうしても日本人が英語の文章を作ろうとすると
メッセージの内容を状態として説明しようとして
修飾語を付け加えたくなる気がします。
日本語の感覚として、修飾語をつけて工夫して言い表わした意味が
実は英語だと一単語で言えてしまったりする。
この辺のボキャブラリーの違いに対応できると、伝わりやすくもなるんでしょう。
何より、動詞の感覚が難しい。
日本語は主語を使わないことで、説明内容を状態・状況として
少し客観的な言い回しで説明することが多いものです。
動作の主体が表現されないので、動作の躍動感が小さく、
状況を眺めて描写するような静止画の感じがある。
それが、英語の場合は、もっと動作の主体が明確です。
他動詞なんていうのは、その性質として
他者に影響を及ぼしているイメージが伴います。
このアクティブな動作の感じと、動作が影響していく様子とが
動画のような感じで捉えられるようになると
英語らしいシンプルな表現ができるんでしょう。
日本人の慣れていない部分だと思います。
動作と主体、影響を及ぼす感じ。
この辺の動詞中心のイメージをトレーニングする効果的な方法があると
日本人の英語学習も楽になるかもしれません。
2010年08月17日
詳細というコダワリ
先日、勉強会の資料を一通り見直してみて、
自分がやってきた分析、解析の成果を懐かしく感じていました。
勉強会を始めてから3年以上になりますが、
その間に自分が取り組んできた内容も思い返されます。
そして、ある時期から格段に「難しく」なっている。
「高度になった」と言えば聞こえが良いですが、
説明のベースになる情報の由来が、心理やコミュニケーションの分野で
良く使われる表現ではなくなってきているのが1つの理由でしょう。
曖昧に説明されていたものを、なるべく矛盾の内容に
現実に起きている現象に即した説明になるように工夫していくと、
便利な説明モデルを使わずに本質的な内容を開設することになるので
どうしても日本語として過度に一般化された抽象的な表現になりやすいんです。
喩えて言うと、こんな感じ…。
便利な説明の仕方で分かった感じを早く体験するには…
「牛乳には天然のカルシウムが豊富に含まれているので健康に最適です」
となるものの、僕としては表現が気になってしまう。
それを、詳細に正確な表現をすると…
「カルシウムを遊離したイオンの形で摂取する場合と比較して、
牛乳由来のカルシウムを経口摂取した場合、
牛乳中でカルシウムはカゼインタンパク質と結合して
CCPと呼ばれる複合体を作り小腸からの吸収を助けるため
より効果的にカルシウムを体内で利用しやすいと考えられる」
となります。
でも、それでは専門的な情報が含まれるし、説明の量が長くなってしまいます。
で、それをシンプルにしようとすると…
「牛乳に含まれるカルシウムは、タンパク質の一種と結び付いて
人体に吸収されやすい形になっているため効果的」
となる。
説明している僕の側からすると、
分かった感じをイメージしやすい言葉を入れていないので正確にはなっている反面、
情報が抽象的で理解するのが難しいだろう、
と考えられます。
実際、最近の勉強会では人間の心や振る舞いの性質という
非常に全般的な内容を扱っているので、
その説明は非常に抽象的なものになりやすいようです。
それは「難しい」印象になるのも当然かと。
しかし、そこにあるのは、きちんと説明できる言葉だけを使って
内容を解説しようという根本的なスタンス。
確かに、そんなに詳細に、矛盾の無いように説明しようとしなくても
良いのかもしれませんし、そのことを気にしない人もいると思います。
どんな説明の仕方でも、何かを学んで、それが役に立てばいい、
…そういう発想もあるでしょう。
ただ、僕の求めたいものは、そうではない。
それだけの話です。
「役に立つ時もあれば、役に立たないときもある」
僕に言わせれば、それは、もっと役に立つ形にできる余地がある、ということです。
少しでも上手くいく可能性を上げたい。
少しでも失敗する可能性を下げたい。
僕の扱っている範囲は、人間に関わる内容です。
それも、人類全般や社会、集団といった大きな枠組みではない。
個人の人生に関わるものです。
目の前のその人の、その一瞬。
唯一のその場面で最善を尽くせるようにしたい。
そのための技術だと考えているんです。
「上手くいかなかったら、やり方を変えれば良い」
それは非常に大切で、本質的な発想ですが、
上手くいかなかったことだって、相手には影響していると思うんです。
まして心を扱う範囲です。
傷つけてしまったから、やり方を変えるのでは遅い場合もある。
その失敗から学び、次の機会に活かすことはできても、
その人との関係性は戻りません。
それはセミナーでも同じだと考えています。
とりあえず試しにやってみて、評判や様子を見て、次回以降に工夫をしていく…
そのスタンスは開催する側にとっては構わないかもしれませんが、
試しでやってみた評判の悪かった時に受講した人はどうなるのでしょうか。
今の目の前の一度きりのコミュニケーションにおいて
最善を尽くすために技術を磨くというのが僕の重要とする部分です。
細かく、正確に、そして「安全に」といった方向が出やすいわけです。
細かいことはトレーニングとしての意味合いも高めると考えています。
初めて野球を習う人がいて、ボールの投げ方も良く分からないような場合に、
いきなり練習試合だけをさせるか、ということに似ています。
中には、ひたすら実践の中で技術を磨く方法もあります。
日本人が日本語を学ぶときには、ほぼ実践の中で見につけているでしょう。
水泳だって、とりあえず水の中に入れられて、溺れないように頑張って
ジタバタしているうちに、犬かき程度なら出来るようになるかもしれません。
一つ一つの技術の部分をトレーニングして、
個別の技術の中でも細かい体の使い方などを練習して、
その中でコツになるような意識の仕方を教えてもらう。
そんなプロセスを経て学習していったほうが効率的なことが多いと思うんです。
過去の勉強会を振り返ると、そうした細かなコダワリが強まってきた時期がありました。
それは同時に、どこかから引っ張ってきた内容ではなく、
自分自身で分析・解析して技術としての整理を試みたものです。
積み重ねてきたことを振り返ったわけですから
懐かしい気持ちになるのも当然かもしれません。
そして、自分自身で解説をしてきた内容でありながら
しばらく意識から遠ざかっていた技術内容も思い返しました。
一つ一つ丁寧に扱えば、どれも財産にできるような内容だという自負があります。
今後、ブラッシュアップした形を扱ってみたり、
複合的な技術として整理してみたり、といったことを考えています。
何よりも全体的な形として、まとめ上げたい気持ちが強い。
勉強会のテーマ設定を工夫するのも良いかもしれません。
自分がやってきた分析、解析の成果を懐かしく感じていました。
勉強会を始めてから3年以上になりますが、
その間に自分が取り組んできた内容も思い返されます。
そして、ある時期から格段に「難しく」なっている。
「高度になった」と言えば聞こえが良いですが、
説明のベースになる情報の由来が、心理やコミュニケーションの分野で
良く使われる表現ではなくなってきているのが1つの理由でしょう。
曖昧に説明されていたものを、なるべく矛盾の内容に
現実に起きている現象に即した説明になるように工夫していくと、
便利な説明モデルを使わずに本質的な内容を開設することになるので
どうしても日本語として過度に一般化された抽象的な表現になりやすいんです。
喩えて言うと、こんな感じ…。
便利な説明の仕方で分かった感じを早く体験するには…
「牛乳には天然のカルシウムが豊富に含まれているので健康に最適です」
となるものの、僕としては表現が気になってしまう。
それを、詳細に正確な表現をすると…
「カルシウムを遊離したイオンの形で摂取する場合と比較して、
牛乳由来のカルシウムを経口摂取した場合、
牛乳中でカルシウムはカゼインタンパク質と結合して
CCPと呼ばれる複合体を作り小腸からの吸収を助けるため
より効果的にカルシウムを体内で利用しやすいと考えられる」
となります。
でも、それでは専門的な情報が含まれるし、説明の量が長くなってしまいます。
で、それをシンプルにしようとすると…
「牛乳に含まれるカルシウムは、タンパク質の一種と結び付いて
人体に吸収されやすい形になっているため効果的」
となる。
説明している僕の側からすると、
分かった感じをイメージしやすい言葉を入れていないので正確にはなっている反面、
情報が抽象的で理解するのが難しいだろう、
と考えられます。
実際、最近の勉強会では人間の心や振る舞いの性質という
非常に全般的な内容を扱っているので、
その説明は非常に抽象的なものになりやすいようです。
それは「難しい」印象になるのも当然かと。
しかし、そこにあるのは、きちんと説明できる言葉だけを使って
内容を解説しようという根本的なスタンス。
確かに、そんなに詳細に、矛盾の無いように説明しようとしなくても
良いのかもしれませんし、そのことを気にしない人もいると思います。
どんな説明の仕方でも、何かを学んで、それが役に立てばいい、
…そういう発想もあるでしょう。
ただ、僕の求めたいものは、そうではない。
それだけの話です。
「役に立つ時もあれば、役に立たないときもある」
僕に言わせれば、それは、もっと役に立つ形にできる余地がある、ということです。
少しでも上手くいく可能性を上げたい。
少しでも失敗する可能性を下げたい。
僕の扱っている範囲は、人間に関わる内容です。
それも、人類全般や社会、集団といった大きな枠組みではない。
個人の人生に関わるものです。
目の前のその人の、その一瞬。
唯一のその場面で最善を尽くせるようにしたい。
そのための技術だと考えているんです。
「上手くいかなかったら、やり方を変えれば良い」
それは非常に大切で、本質的な発想ですが、
上手くいかなかったことだって、相手には影響していると思うんです。
まして心を扱う範囲です。
傷つけてしまったから、やり方を変えるのでは遅い場合もある。
その失敗から学び、次の機会に活かすことはできても、
その人との関係性は戻りません。
それはセミナーでも同じだと考えています。
とりあえず試しにやってみて、評判や様子を見て、次回以降に工夫をしていく…
そのスタンスは開催する側にとっては構わないかもしれませんが、
試しでやってみた評判の悪かった時に受講した人はどうなるのでしょうか。
今の目の前の一度きりのコミュニケーションにおいて
最善を尽くすために技術を磨くというのが僕の重要とする部分です。
細かく、正確に、そして「安全に」といった方向が出やすいわけです。
細かいことはトレーニングとしての意味合いも高めると考えています。
初めて野球を習う人がいて、ボールの投げ方も良く分からないような場合に、
いきなり練習試合だけをさせるか、ということに似ています。
中には、ひたすら実践の中で技術を磨く方法もあります。
日本人が日本語を学ぶときには、ほぼ実践の中で見につけているでしょう。
水泳だって、とりあえず水の中に入れられて、溺れないように頑張って
ジタバタしているうちに、犬かき程度なら出来るようになるかもしれません。
一つ一つの技術の部分をトレーニングして、
個別の技術の中でも細かい体の使い方などを練習して、
その中でコツになるような意識の仕方を教えてもらう。
そんなプロセスを経て学習していったほうが効率的なことが多いと思うんです。
過去の勉強会を振り返ると、そうした細かなコダワリが強まってきた時期がありました。
それは同時に、どこかから引っ張ってきた内容ではなく、
自分自身で分析・解析して技術としての整理を試みたものです。
積み重ねてきたことを振り返ったわけですから
懐かしい気持ちになるのも当然かもしれません。
そして、自分自身で解説をしてきた内容でありながら
しばらく意識から遠ざかっていた技術内容も思い返しました。
一つ一つ丁寧に扱えば、どれも財産にできるような内容だという自負があります。
今後、ブラッシュアップした形を扱ってみたり、
複合的な技術として整理してみたり、といったことを考えています。
何よりも全体的な形として、まとめ上げたい気持ちが強い。
勉強会のテーマ設定を工夫するのも良いかもしれません。
2010年08月15日
文章の見やすさ
外国語を勉強するというのは、日本語のことを客観的に見られて興味深いものですね。
日本語の1つの特徴として、「漢字、カタカナ、ひらがな」と
複数の文字を使い分けるということが挙げられます。
英語のアルファベットは26文字ですから、
全ての単語を26文字の組み合わせで表現する仕組みです。
日本語の場合は、ひらがなでも50文字弱、
いろは歌に沿った文字(旧字含む)と48文字で
アルファベットの約2倍の文字があります。
それに膨大な量の漢字が使われるので、
日本語を母国語としない人からすると非常に複雑に思えるかもしれません。
ところが、この漢字や仮名の組み合わせで書かれる文章は
その見た目が特徴的で、『かたまり』としての長さが短いので、
一目見た瞬間に視野に入る情報量を多くできるメリットがあります。
僕のような日本語を母国語とする立場からすると
英語の文章というのは、似たような見た目の単語が並んでいて
一目見た瞬間に捉えられる範囲が小さいように感じます。
極端な言い方をすれば、全部ひらがなで書かれた日本語の文章を読むような印象。
当然、全部が仮名で書かれていたら単語の区切りが分かりにくいので、
英語のようにスペースを空けながら文章を書くのでしょうが。
たった26文字の並び方だけで複雑に意味が変わる単語が並んでいる。
パッと見た印象として似たような字面に見えてしまうわけです。
単語として決められている文字の並びの特徴を捉えて、
その形態的特徴から単語の意味を引き出すという認知のプロセスは
なかなか大変なものに思えます。
使われる文字が同じですから、どうしても
似たような見た目の形をした単語が出来てしまうようなんです。
そこでは、文脈から関係しそうな単語を予測する作業が重要になるはずです。
似たような文字の羅列からなる単語でも、この場面では出ないはずだという認知が
適切な単語の認知を可能にしているんでしょう。
ですから、相当な慣れが無いと、単語を速やかに正確に捉えるのは難しいと思うんです。
まして、その文字が手書きだったりすると、識別は相当な労力になる。
タイプライターが発達した理由も分かる気がします。
文字数が少ないからタイプがしやすく、同時に形の識別が難しいんじゃないでしょうか。
一方、日本語の場合、文字のバリエーションが多いので、
その形の特徴さえ覚えてしまえれば、識別はしやすいと想像できます。
それはひらがなだけのぶんしょうをよむよりも、
ひらがなと漢字が使い分けられている文章を読むほうが、
読みやすく思える部分で実感できるでしょう。
英語は少ない文字の組み合わせで文章が作られるため
区別しなければいけない文字の形は少ないものの、
その並び方のパターンを捉える必要があって、そこに慣れが求められる。
日本語は膨大な文字の組み合わせで文章が作られるため
区別できる必要のある形を沢山インプットする必要があるものの、
形で単語を捉えやすく、文章を捉える作業がやりやすい。
そんな違いがあるんじゃないかと考察しています。
そもそも、人間の視覚は形のパターン抽出に秀でているようですが、
それは視覚情報の処理の速さとも関係していると考えられます。
一瞬目にすれば、何を見たかが分かる。
自然界で危険なものを区別するには、重要な能力でしょう。
パッと目に入った危険な動物を認知できるかどうかは生存に影響します。
一方、聴覚では、短い音の高さの細かな違いを識別するのは難しいようですが、
逆に、時間的な長さを伴った音の並び方のパターンは区別しやすいようです。
メロディとかリズムというのを感じやすい、と。
楽譜を見てメロディのパターンや、音楽としての雰囲気を感じられるためには
相当な慣れが必要なはずですが、どんな素人でも
実際に演奏されたメロディであれば、そのパターンの特徴に気づけます。
意味を感じやすくなるわけです。
多分、英語という言語は、音楽に近い雰囲気があると思うんです。
英語の文章を理解する作業は、楽譜を読む感じに近いのかもしれません。
慣れれば当然、読みやすくなるはずですが、ちょっと大変なんじゃないか、と。
もともと文章、つまり書かれる文字は、
話し言葉を記録するためのものだっただろうと推測されます。
英語は、その意味合いが色濃く残っていて
会話という楽曲を、文章という楽譜に残すような作業に近いと思うんです。
英語は、アクセントやイントネーションで伝えるニュアンスも大きいですから
楽譜で使われるようなフォルテとかピアニッシモとか、クレッシェンドとか、
そういったニュアンス表現もあったほうが良いのかもしれません。
それに対して、日本語の書き言葉は、
中国で開発された文字媒体でのコミュニケーション・ツールであった漢字を取り入れ、
話し言葉を書き記すだけの文字とは違った発展をしたんじゃないでしょうか。
実際、話し言葉では滅多に使われない表現方法が、文章で使われたりします。
新幹線の車内液晶画面に流れるニュースなどは、日常言葉とは大きく違う例です。
日本語の文章は、単語は長くても漢字4文字ぐらいなもので、
一般的には3文字以下の単語が多いと思います。
そのため、視覚を使って形としてパターンを捉えることがしやすく
文章として読みやすいと考えられます。
日本語は、文字でのコミュニケーションをしやすくするために
様々な工夫がなされていて、視覚を有効活用しやすいものになっている。
そんな特徴があるような気がします。
この辺の文字の識別の感覚。
バイリンガルの人に聞いてみたいものです。
とりあえず僕は読み慣れる作業を続ける必要がありそうですが…。
日本語の1つの特徴として、「漢字、カタカナ、ひらがな」と
複数の文字を使い分けるということが挙げられます。
英語のアルファベットは26文字ですから、
全ての単語を26文字の組み合わせで表現する仕組みです。
日本語の場合は、ひらがなでも50文字弱、
いろは歌に沿った文字(旧字含む)と48文字で
アルファベットの約2倍の文字があります。
それに膨大な量の漢字が使われるので、
日本語を母国語としない人からすると非常に複雑に思えるかもしれません。
ところが、この漢字や仮名の組み合わせで書かれる文章は
その見た目が特徴的で、『かたまり』としての長さが短いので、
一目見た瞬間に視野に入る情報量を多くできるメリットがあります。
僕のような日本語を母国語とする立場からすると
英語の文章というのは、似たような見た目の単語が並んでいて
一目見た瞬間に捉えられる範囲が小さいように感じます。
極端な言い方をすれば、全部ひらがなで書かれた日本語の文章を読むような印象。
当然、全部が仮名で書かれていたら単語の区切りが分かりにくいので、
英語のようにスペースを空けながら文章を書くのでしょうが。
たった26文字の並び方だけで複雑に意味が変わる単語が並んでいる。
パッと見た印象として似たような字面に見えてしまうわけです。
単語として決められている文字の並びの特徴を捉えて、
その形態的特徴から単語の意味を引き出すという認知のプロセスは
なかなか大変なものに思えます。
使われる文字が同じですから、どうしても
似たような見た目の形をした単語が出来てしまうようなんです。
そこでは、文脈から関係しそうな単語を予測する作業が重要になるはずです。
似たような文字の羅列からなる単語でも、この場面では出ないはずだという認知が
適切な単語の認知を可能にしているんでしょう。
ですから、相当な慣れが無いと、単語を速やかに正確に捉えるのは難しいと思うんです。
まして、その文字が手書きだったりすると、識別は相当な労力になる。
タイプライターが発達した理由も分かる気がします。
文字数が少ないからタイプがしやすく、同時に形の識別が難しいんじゃないでしょうか。
一方、日本語の場合、文字のバリエーションが多いので、
その形の特徴さえ覚えてしまえれば、識別はしやすいと想像できます。
それはひらがなだけのぶんしょうをよむよりも、
ひらがなと漢字が使い分けられている文章を読むほうが、
読みやすく思える部分で実感できるでしょう。
英語は少ない文字の組み合わせで文章が作られるため
区別しなければいけない文字の形は少ないものの、
その並び方のパターンを捉える必要があって、そこに慣れが求められる。
日本語は膨大な文字の組み合わせで文章が作られるため
区別できる必要のある形を沢山インプットする必要があるものの、
形で単語を捉えやすく、文章を捉える作業がやりやすい。
そんな違いがあるんじゃないかと考察しています。
そもそも、人間の視覚は形のパターン抽出に秀でているようですが、
それは視覚情報の処理の速さとも関係していると考えられます。
一瞬目にすれば、何を見たかが分かる。
自然界で危険なものを区別するには、重要な能力でしょう。
パッと目に入った危険な動物を認知できるかどうかは生存に影響します。
一方、聴覚では、短い音の高さの細かな違いを識別するのは難しいようですが、
逆に、時間的な長さを伴った音の並び方のパターンは区別しやすいようです。
メロディとかリズムというのを感じやすい、と。
楽譜を見てメロディのパターンや、音楽としての雰囲気を感じられるためには
相当な慣れが必要なはずですが、どんな素人でも
実際に演奏されたメロディであれば、そのパターンの特徴に気づけます。
意味を感じやすくなるわけです。
多分、英語という言語は、音楽に近い雰囲気があると思うんです。
英語の文章を理解する作業は、楽譜を読む感じに近いのかもしれません。
慣れれば当然、読みやすくなるはずですが、ちょっと大変なんじゃないか、と。
もともと文章、つまり書かれる文字は、
話し言葉を記録するためのものだっただろうと推測されます。
英語は、その意味合いが色濃く残っていて
会話という楽曲を、文章という楽譜に残すような作業に近いと思うんです。
英語は、アクセントやイントネーションで伝えるニュアンスも大きいですから
楽譜で使われるようなフォルテとかピアニッシモとか、クレッシェンドとか、
そういったニュアンス表現もあったほうが良いのかもしれません。
それに対して、日本語の書き言葉は、
中国で開発された文字媒体でのコミュニケーション・ツールであった漢字を取り入れ、
話し言葉を書き記すだけの文字とは違った発展をしたんじゃないでしょうか。
実際、話し言葉では滅多に使われない表現方法が、文章で使われたりします。
新幹線の車内液晶画面に流れるニュースなどは、日常言葉とは大きく違う例です。
日本語の文章は、単語は長くても漢字4文字ぐらいなもので、
一般的には3文字以下の単語が多いと思います。
そのため、視覚を使って形としてパターンを捉えることがしやすく
文章として読みやすいと考えられます。
日本語は、文字でのコミュニケーションをしやすくするために
様々な工夫がなされていて、視覚を有効活用しやすいものになっている。
そんな特徴があるような気がします。
この辺の文字の識別の感覚。
バイリンガルの人に聞いてみたいものです。
とりあえず僕は読み慣れる作業を続ける必要がありそうですが…。
2010年08月13日
真面目な本
最近、面白かった本です。
「生」と「死」の取り扱い説明書
クチコミを見る
例によって、論理で書かれていますから
「生」と「死」というテーマについて書かれていても
説得力を感じます。
いくつかの分野から情報を引っ張ってきて、
それを論理的に関連付けて理解を進めていくというスタイルは
知識としての学習にとって、スッキリとしていて楽しいものです。
しかし、この本に関しては単なる情報提供や技術の理論を説明するものではなく、
「生」と「死」のテーマに対する考え方を述べたものです。
論理構成の中には、僕個人としての考えと違った視点も入っていましたが、
その最終的な主張が、納得感の高いものでした。
「そうそう、そうなんだよなぁ…」と。
それは、僕が経験的に感じてきていた内容を言い表わすのにシックリくる言葉で、
本を読むことで新しく学んだとか、本の主張に説得されたとか、
そういう印象とは違います。
「よくぞ言い切ってくれた」という気分が近いかもしれません。
生きる目的は、生きることそのものにある。
『生きるために、生きる』という表現だったように思います。
僕は、あまり「目標を設定してバリバリ突き進む」という感じが好きでないので
『生きるために、生きる』の感じが表現として好みに合ったんでしょう。
もちろん、この言葉の意味は本を読んでもらわないと伝わりにくいと考えますが。
一言で言い表わされているだけに誤解も生みやすいでしょう。
一冊かけて展開してきた論理の終着点の言葉だと感じていますから、
それを納得しようと思ったら、一冊分は読む必要があると思います。
僕が強調したいのは、意識的に目標を設定する状態と
自然と目標が生まれてくる状態の違いです。
目標に込められた「欲求= want 」の質の違いとでも言いましょうか。
突き動かされる感じとでも言いましょうか。
「やりたいから、やる」、「好きなようにする」。
それが自然に感じられるようであったら、毎日は楽しいものの気がします。
ちなみに、「死ぬことへの恐怖」について書かれた部分では
論理的に、その恐怖を感じる必要がないことを説明してくれていたようですが、
残念ながら僕の理解力と想像力では恐怖はなくなりませんでした。
まぁ、それでも僕が死を恐れているのは、
まだまだ他にやりたいことが沢山あるからだと思っているので
気にしてはいないんですけど。
「生」と「死」の取り扱い説明書
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例によって、論理で書かれていますから
「生」と「死」というテーマについて書かれていても
説得力を感じます。
いくつかの分野から情報を引っ張ってきて、
それを論理的に関連付けて理解を進めていくというスタイルは
知識としての学習にとって、スッキリとしていて楽しいものです。
しかし、この本に関しては単なる情報提供や技術の理論を説明するものではなく、
「生」と「死」のテーマに対する考え方を述べたものです。
論理構成の中には、僕個人としての考えと違った視点も入っていましたが、
その最終的な主張が、納得感の高いものでした。
「そうそう、そうなんだよなぁ…」と。
それは、僕が経験的に感じてきていた内容を言い表わすのにシックリくる言葉で、
本を読むことで新しく学んだとか、本の主張に説得されたとか、
そういう印象とは違います。
「よくぞ言い切ってくれた」という気分が近いかもしれません。
生きる目的は、生きることそのものにある。
『生きるために、生きる』という表現だったように思います。
僕は、あまり「目標を設定してバリバリ突き進む」という感じが好きでないので
『生きるために、生きる』の感じが表現として好みに合ったんでしょう。
もちろん、この言葉の意味は本を読んでもらわないと伝わりにくいと考えますが。
一言で言い表わされているだけに誤解も生みやすいでしょう。
一冊かけて展開してきた論理の終着点の言葉だと感じていますから、
それを納得しようと思ったら、一冊分は読む必要があると思います。
僕が強調したいのは、意識的に目標を設定する状態と
自然と目標が生まれてくる状態の違いです。
目標に込められた「欲求= want 」の質の違いとでも言いましょうか。
突き動かされる感じとでも言いましょうか。
「やりたいから、やる」、「好きなようにする」。
それが自然に感じられるようであったら、毎日は楽しいものの気がします。
ちなみに、「死ぬことへの恐怖」について書かれた部分では
論理的に、その恐怖を感じる必要がないことを説明してくれていたようですが、
残念ながら僕の理解力と想像力では恐怖はなくなりませんでした。
まぁ、それでも僕が死を恐れているのは、
まだまだ他にやりたいことが沢山あるからだと思っているので
気にしてはいないんですけど。