2010年09月
2010年09月29日
10月の勉強会
10月の勉強会のお知らせ
開催まで期間が短いですが、10月も勉強会を開催します。
9月は全体的なコンセプトが中心でしたが、
10月の内容は実践的なトレーニングと技術が中心になります。
基本的なコンセプトは、
世の中で使われているコミュニケーションやカウンセリングの技術を
NLPの発想を利用して、より個人に合わせて効果を高めるものにする
というものです。
これまでのNLPに対する世間的な評価は、実際にNLPをやっている人も含めて
「NLPが他の分野の良いところ取りをしてきた」というものが多かった印象があります。
「達人のモデリングをする」そんなコンセプトも重要な位置づけです。
広い意味でいえば、今月の勉強会でやろうとしている発想も
歴史上の達人的な心理療法家たちは重要視していた発想だと思われますから、
その意味では「達人のモデリング」の一部かもしれません。
ここで強調したいのは、
達人のやり方 → 分析 → 一般化 → NLPのスキル(ワーク)
という流れが一般的だっただろうという話です。
心がけや大事にする部分を学ぶというよりも
思考法や専門技術などを「誰にでも使える技の型」にする流れが中心だっただろう、と。
その一方で、世の中には「NLPを○○と融合した」というものも沢山あります。
多く受ける印象は、
・NLPの中の一部のスキルを取り入れている
・NLPで大事だと言われる発想が利用されている
・NLPのスキルと他のスキルを組み合わせている
というようなイメージでしょうか。
これは
NLPのスキル + 他の手法のスキル → 新しい効果/柔軟性
という流れでしょうか。
例えば、NLPとゲシュタルト療法を融合して
ゲシュタルト療法の流れで進めながら肯定的意図を探ってみたり。
NLPのワークをしている最中に表れた無自覚な動作に対して
ゲシュタルト療法でなされるように、その動作が何を言っているか聞いてみたり。
あるいは、家族療法の技法で家族の状況を整理している間に
NLPのアンカリングを利用してみたり、
家族関係で生まれるストレス反応からパートを扱ってみたり。
こういうやり方は汎用性が高いですし、持っている技術や視点を総動員して
相手に関わることができるので、型通りにやるよりも高い効果が期待できます。
何より、その場で起きている状況に応じて対応を変えながら進められるので
予想外の展開にも柔軟に対応していくこともしやすいものです。
実際、僕がカウンセリングやセラピーで、またコーチングの場合でさえ使うのは
こういう複合的な流れで生み出される型の無いものです。
これは有効ですが、型が無い分、セミナーとして全体的に伝えていくには
構成を工夫していく必要が出ますし、短期間で扱えるものでもないと思います。
今回、扱いたいのは、
「NLPの中の基本的なコンセプトで、他の技法を分析して
その技法の意図はそのままに、効果を上げるように洗練させる」
という方向性です。
融合して別の形に展開していくのでもなければ、
上手くいっているやり方を型に整理していくのでもありません。
既にある型をブラッシュアップする。
車に喩えると、
新しい車や、新しいエンジンを開発するのでもなく、
今ある車にパーツを追加したり、エンジンやタイヤを交換したりして改造するのでもなく、
今の車のエンジンを調整したり、バランスを調整したりすることで
ドライバーが車の最大の力を発揮できるようにする、
そんなイメージです。
流れとしては
NLPの概念 → 既存スキルの分析 → 最適化 → 効果アップ
という形でしょう。
これを、10月は「ブリーフセラピー」に関して行います。
ブリーフセラピーの技法をNLPの基本概念で分析する。
そこに見えてくる意図と流れ、結果として起きる変化もNLPで解析する。
すると、変化の中身が分かってきます。
それは他人が見て「お、変わったな」というものでも
本人が「なんとなく変わった気がします」というのでもありません。
もっと積極的にNLP用語で説明できるレベルに落とし込みます。
そこが分かると、その変化をもたらすのに有効な手段も
同様にNLPの発想から見えてくるわけです。
表面上はアンカリングやサブモダリティを使っているように見えるかもしれませんが、
基本的な流れはブリーフセラピーの発想を活かします。
会話の中で自然に扱えて、かつ効果の高いアプローチを目指します。
以前にも勉強会で扱ったことがありますが、
実際、ブリーフセラピーで行われる流れは
コーチングと通じる部分があり、相性の良さが想像されます。
ブリーフセラピーのほうが、いわゆるモチベーションが低い状態の相手に対して
働きかけるケースが多いですから、その辺りの工夫が今回のテーマになるかもしれません。
個人的な意見として、組織の中では
目標を立てて、ヤル気に満ちて取り組む人ばかりではないものですから、
その意味でブリーフセラピーの技法が役立つ部分は大きいと考えています。
9月にご参加の方は、そのときに扱った発想を
実践レベルで活かすトレーニングとして有効でしょう。
もちろん、1つの技術として扱える範囲ですから
多くの方に活かして頂けるものと思います。
ご興味とご都合に合わせて、是非、お越しください。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
定員を設けていますので、ご注意ください。
定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 10月11日(月・祝)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
★午前のみのご参加も可能です。(理論の全体像は午前に扱います)
「午前」あるいは「両方」でお申し込み下さい。
【場所】 北とぴあ 802会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午前・午後の両方 ・・・7,000円
テーマ: 『ブリーフセラピーを洗練する』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
最近、「ベストキッド」という映画がリニューアルされました。
新しいほうは見ていませんが、20年以上前に上映されたほうは
なかなか印象的なストーリーだった記憶があります。
なんといっても、あの独特のトレーニングが映画を有名にさせました。
ワックスをかける、ワックスをふき取る。
床磨きに、垣根のペンキ塗り。
そんな意味の分からない作業が練習になっていたんです。
そして知らず知らずのうちに防御の動きを身につけている。
確かに面白い。
型を学ぶことの重要性を感じます。
同時に、あの映画では、最初の対決のシーンで
主人公に対して師匠が指示も出していたと記憶しています。
攻撃されたときに指示が飛ぶんです。
「ワックスかける!」
そして自然に体が動く。
確かに型は身についています。
しかし、いつ、どのように型を選ぶかは身についていないわけです。
コミュニケーションでもカウンセリングでもコーチングでも、
型を学ぶだけでは不十分なところが残ってしまうのは仕方ありません。
多くの人は、それに対して実践を積むことで
型を活かせるようにトレーニングしていく。
1つのやり方ではあります。
ただ、その学び方では結局、我流に頼るところが大きい。
我流がいけないのではなく、我流のままでは
問題があるかどうかにすら気付けないのが重要なんです。
だからこそ、型を学ぶだけでなく
型を使う人がやっている中身を学ぶのが効果的だと思うんです。
型という大枠の流れに加えて、状況別の対処を身につける。
それには地道なトレーニングが必要な気がします。
今後も勉強会が、そういう場になればと考えています。
機会を見つけて是非お越しください。
広い意味で言えば、人生の大半は
学びと、その利用の繰り返しでしょうから。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
開催まで期間が短いですが、10月も勉強会を開催します。
9月は全体的なコンセプトが中心でしたが、
10月の内容は実践的なトレーニングと技術が中心になります。
基本的なコンセプトは、
世の中で使われているコミュニケーションやカウンセリングの技術を
NLPの発想を利用して、より個人に合わせて効果を高めるものにする
というものです。
これまでのNLPに対する世間的な評価は、実際にNLPをやっている人も含めて
「NLPが他の分野の良いところ取りをしてきた」というものが多かった印象があります。
「達人のモデリングをする」そんなコンセプトも重要な位置づけです。
広い意味でいえば、今月の勉強会でやろうとしている発想も
歴史上の達人的な心理療法家たちは重要視していた発想だと思われますから、
その意味では「達人のモデリング」の一部かもしれません。
ここで強調したいのは、
達人のやり方 → 分析 → 一般化 → NLPのスキル(ワーク)
という流れが一般的だっただろうという話です。
心がけや大事にする部分を学ぶというよりも
思考法や専門技術などを「誰にでも使える技の型」にする流れが中心だっただろう、と。
その一方で、世の中には「NLPを○○と融合した」というものも沢山あります。
多く受ける印象は、
・NLPの中の一部のスキルを取り入れている
・NLPで大事だと言われる発想が利用されている
・NLPのスキルと他のスキルを組み合わせている
というようなイメージでしょうか。
これは
NLPのスキル + 他の手法のスキル → 新しい効果/柔軟性
という流れでしょうか。
例えば、NLPとゲシュタルト療法を融合して
ゲシュタルト療法の流れで進めながら肯定的意図を探ってみたり。
NLPのワークをしている最中に表れた無自覚な動作に対して
ゲシュタルト療法でなされるように、その動作が何を言っているか聞いてみたり。
あるいは、家族療法の技法で家族の状況を整理している間に
NLPのアンカリングを利用してみたり、
家族関係で生まれるストレス反応からパートを扱ってみたり。
こういうやり方は汎用性が高いですし、持っている技術や視点を総動員して
相手に関わることができるので、型通りにやるよりも高い効果が期待できます。
何より、その場で起きている状況に応じて対応を変えながら進められるので
予想外の展開にも柔軟に対応していくこともしやすいものです。
実際、僕がカウンセリングやセラピーで、またコーチングの場合でさえ使うのは
こういう複合的な流れで生み出される型の無いものです。
これは有効ですが、型が無い分、セミナーとして全体的に伝えていくには
構成を工夫していく必要が出ますし、短期間で扱えるものでもないと思います。
今回、扱いたいのは、
「NLPの中の基本的なコンセプトで、他の技法を分析して
その技法の意図はそのままに、効果を上げるように洗練させる」
という方向性です。
融合して別の形に展開していくのでもなければ、
上手くいっているやり方を型に整理していくのでもありません。
既にある型をブラッシュアップする。
車に喩えると、
新しい車や、新しいエンジンを開発するのでもなく、
今ある車にパーツを追加したり、エンジンやタイヤを交換したりして改造するのでもなく、
今の車のエンジンを調整したり、バランスを調整したりすることで
ドライバーが車の最大の力を発揮できるようにする、
そんなイメージです。
流れとしては
NLPの概念 → 既存スキルの分析 → 最適化 → 効果アップ
という形でしょう。
これを、10月は「ブリーフセラピー」に関して行います。
ブリーフセラピーの技法をNLPの基本概念で分析する。
そこに見えてくる意図と流れ、結果として起きる変化もNLPで解析する。
すると、変化の中身が分かってきます。
それは他人が見て「お、変わったな」というものでも
本人が「なんとなく変わった気がします」というのでもありません。
もっと積極的にNLP用語で説明できるレベルに落とし込みます。
そこが分かると、その変化をもたらすのに有効な手段も
同様にNLPの発想から見えてくるわけです。
表面上はアンカリングやサブモダリティを使っているように見えるかもしれませんが、
基本的な流れはブリーフセラピーの発想を活かします。
会話の中で自然に扱えて、かつ効果の高いアプローチを目指します。
以前にも勉強会で扱ったことがありますが、
実際、ブリーフセラピーで行われる流れは
コーチングと通じる部分があり、相性の良さが想像されます。
ブリーフセラピーのほうが、いわゆるモチベーションが低い状態の相手に対して
働きかけるケースが多いですから、その辺りの工夫が今回のテーマになるかもしれません。
個人的な意見として、組織の中では
目標を立てて、ヤル気に満ちて取り組む人ばかりではないものですから、
その意味でブリーフセラピーの技法が役立つ部分は大きいと考えています。
9月にご参加の方は、そのときに扱った発想を
実践レベルで活かすトレーニングとして有効でしょう。
もちろん、1つの技術として扱える範囲ですから
多くの方に活かして頂けるものと思います。
ご興味とご都合に合わせて、是非、お越しください。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
定員を設けていますので、ご注意ください。
定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 10月11日(月・祝)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
★午前のみのご参加も可能です。(理論の全体像は午前に扱います)
「午前」あるいは「両方」でお申し込み下さい。
【場所】 北とぴあ 802会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午前・午後の両方 ・・・7,000円
テーマ: 『ブリーフセラピーを洗練する』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
最近、「ベストキッド」という映画がリニューアルされました。
新しいほうは見ていませんが、20年以上前に上映されたほうは
なかなか印象的なストーリーだった記憶があります。
なんといっても、あの独特のトレーニングが映画を有名にさせました。
ワックスをかける、ワックスをふき取る。
床磨きに、垣根のペンキ塗り。
そんな意味の分からない作業が練習になっていたんです。
そして知らず知らずのうちに防御の動きを身につけている。
確かに面白い。
型を学ぶことの重要性を感じます。
同時に、あの映画では、最初の対決のシーンで
主人公に対して師匠が指示も出していたと記憶しています。
攻撃されたときに指示が飛ぶんです。
「ワックスかける!」
そして自然に体が動く。
確かに型は身についています。
しかし、いつ、どのように型を選ぶかは身についていないわけです。
コミュニケーションでもカウンセリングでもコーチングでも、
型を学ぶだけでは不十分なところが残ってしまうのは仕方ありません。
多くの人は、それに対して実践を積むことで
型を活かせるようにトレーニングしていく。
1つのやり方ではあります。
ただ、その学び方では結局、我流に頼るところが大きい。
我流がいけないのではなく、我流のままでは
問題があるかどうかにすら気付けないのが重要なんです。
だからこそ、型を学ぶだけでなく
型を使う人がやっている中身を学ぶのが効果的だと思うんです。
型という大枠の流れに加えて、状況別の対処を身につける。
それには地道なトレーニングが必要な気がします。
今後も勉強会が、そういう場になればと考えています。
機会を見つけて是非お越しください。
広い意味で言えば、人生の大半は
学びと、その利用の繰り返しでしょうから。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
2010年09月28日
英語の解説書
個人的な意見としてNLPはもっと、積極的に言語の分野に乗り出すべきだと思っています。
いままでの言語学的な説明とは違う理論が作れるはずです。
そして、その理論は、実際に母国語として言語を運用している人たちが
どのように頭を使って、何を感じながら話しているかを説明できるものになる。
一般的な共通認識として使われているものもあるからこそ
言語でコミュニケーションができるわけですが、
同時に、言語に含まれる個人差の部分まで説明できる理論になるでしょう。
NLPで言語を説明した辞書ができると、なかなか面白いと思います。
ここでいう「NLP的に」とは、ミルトンモデルとか言語パターンとか
そういった言葉遣いに近いものや、初期のメタモデルの解説のような
言語学的な説明とも違います。
むしろ、価値観や時間がサブモダリティで説明できることを見出してきていた時期のように
全ての言語活動をサブモダリティで説明しようという方向です。
実際、英語研究者の中には、それに近い発想を持っている人もいるようです。
色々と本を見ているとサブモダリティやネイティブの感覚をベースに
英語の言語的特徴を説明しているものが見受けられます。
僕が読んでいて最もNLP的だと感じるのは
東洋学園大学の大西泰斗教授。
NHKでも番組を担当していましたし、身体感覚やイメージ、擬音語・擬態語など
サブモダリティの違いに敏感な方のようです。
堅苦しくなく読みやすい本が多いですが、どれも納得感の高いものばかりです。
ネイティブの感覚を構成要素に分解して説明する形式なので
理解したり整理したりするのには都合が良いように感じますが、
トレーニング法は別途必要な気がしています。
なぜならネイティブは、その運用感覚を身につけるまでに
膨大な実体験を繰り返してきているからです。
例えば、日本人でも「根本的」と「抜本的」では似ているものの
使いどころやニュアンスが違うことを自覚するようになって、
適切な文脈を判断するように訓練されていくわけですが、それも体験によるものが中心です。
ネイティブは、ある言葉や言い回しが良く使われる文脈を
経験的に積んできているから、使いこなせると考えられます。
なので、使えるためには状況と結び付ける必要がある。
そのトレーニング法を開発できると外国語習得は劇的に速まると思います。
ちなみに、今、僕が効果的じゃないかと予測しているのは
1つの文脈に対して表現したい内容を複数の文章で表現するトレーニングです。
単語レベルでの工夫もそうですが、文の構造から変えられるぐらい
様々なバリエーションが出るようになっていると、咄嗟の瞬発力が上がるだろう、と。
あとは、近いニュアンスの言葉(同義語)などの使い分けを
文脈とセットにして練習するということでしょうか。
そして、英語と日本語の大きな違いは、そもそも言語的に描写する内容にあるようですから、
言語化する上での着眼点の差を明確にするのが大事な気がしています。
日本人が「私は昨日、カレーを食べました」という感覚と
アメリカ人が「 I ate curry yesterday.」の感覚は違うだろう、と。
多分、日本人の感覚に近いのは「 be 」と「 have 」でしょう。
「 I had curry yesterday.」のほうが日本語のニュアンスに近そうな印象があります。
それは時間的な長さの違いです。
英語の動詞は、動作を躍動的に捉えていて、短い時間の感覚に繊細です。
例えば、中学校で習う「不定詞」と「動名詞」の違いは
このあたりの短い時間感覚の捉え方を繊細に表現していると感じられます。
不定詞( to 〜)は、「〜すること」ですが
この場合にセットで使われるメインの動詞( want とか try とか)が表わす瞬間において
不定詞に含まれる内容は「まだ起きていない」んです。
「 I want to eat curry.」であれば、まだカレーを食べていない。
だから食べたいんです。
そこには「 to 」が持つ「方向を指し示す」感覚も関係しているのでしょう。
自分目線で「 to 」が指し示す内容の方向を向いている。
ちょっと先にあるんです。
だから「まだ起きていない」のが一般的。
「 I try to open the door. 」だと、ドアを「開けよう」としているんです。
まだ開くか、開かないかは分かりません。
まだ開いていないんです。
「 I tried to open the door. 」だと、過去の時点で「開けようとした」んです。
ということは、「けど開かなかった」雰囲気が推測される。
一方、動名詞「〜ing 」の場合は、もっと躍動感があって
動作の最中が表現される様子があります。
中学校で「 stop 」の後は不定詞じゃなくて動名詞、と習ったのは
「 stop 」=止める内容は、その動作が進行している必要があるから、と解釈できます。
「 stop eating 」は、食べているのを止めるんです。
「 stop to eat 」は、食べる前に止めることになってしまうので一般的でない。
だから「何かを食べるために一時的に立ち止まった」と解釈されるほうが普通、と。
「 keep 」も「〜ing 」ですが、続けるためには、既に動作が進行している必要があります。
「 keep eating 」なのは、既に食べている必要があるからです。
「 I try opening the door.」は、「試しにドアを開けてみる」に近い。
開けようとしている最中です。
現在形で使うと「ドアが開くかどうか分からないけど試してみる」感じが出ます。
「 I'm trying opening the door.」ならガチャガチャやっている感じでしょうか。
「 I tried opening the door.」になると、過去の時点で
ドアに体当たりしているのか、ピッキングしているのか、
なんとかドアを開けようとしている場面が浮かびます。
その結果は開いたのかもしれないし、開いていないのかもしれない。
こういう表現の区別からは、動きをかなり細かい時間で区切っている感じを受けます。
明らかに発話者の着眼点が日本人と違うと思われます。
その注目の仕方をサブモダリティのレベルで教えてもらえると
トレーニングにも活かせると思うんです。
この言語化の発想の癖は、大きな違いになっているように感じます。
もう一点、コミュニケーションのルールや習慣としても違いがあるようです。
コミュニケーションをキャッチボールに喩えたときの、
キャッチボールのスタイルの違いのようなものでしょう。
この辺りは、この本に詳しいです。
知られざる英会話のスキル20(CD BOOK)
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これは結構なオススメ本。
本に関していうと、チョット変わり種も見つけました。
独自の文型理論を提唱しているものです。
<英語のカンを一瞬にしてモノにする!>世界に1つだけの英語教科書
クチコミを見る
ルールを探すのが好きなんでしょうね。
上に書いた大西泰斗氏が、ネイティブの運用感覚やイメージといった
言葉を構成している要素に分解していこうとするのに対して、
パズルや図式のような説明モデルを作ろうとしています。
日本人が、英語を、英語に近いニュアンスで訳して理解するための本に思えました。
僕には少し違和感がありましたが、これがピッタリという人もいるような気はします。
このように自分に合わないスタイルを知ることも
自分にとって有効なものを見出すときには重要なプロセスでしょう。
いままでの言語学的な説明とは違う理論が作れるはずです。
そして、その理論は、実際に母国語として言語を運用している人たちが
どのように頭を使って、何を感じながら話しているかを説明できるものになる。
一般的な共通認識として使われているものもあるからこそ
言語でコミュニケーションができるわけですが、
同時に、言語に含まれる個人差の部分まで説明できる理論になるでしょう。
NLPで言語を説明した辞書ができると、なかなか面白いと思います。
ここでいう「NLP的に」とは、ミルトンモデルとか言語パターンとか
そういった言葉遣いに近いものや、初期のメタモデルの解説のような
言語学的な説明とも違います。
むしろ、価値観や時間がサブモダリティで説明できることを見出してきていた時期のように
全ての言語活動をサブモダリティで説明しようという方向です。
実際、英語研究者の中には、それに近い発想を持っている人もいるようです。
色々と本を見ているとサブモダリティやネイティブの感覚をベースに
英語の言語的特徴を説明しているものが見受けられます。
僕が読んでいて最もNLP的だと感じるのは
東洋学園大学の大西泰斗教授。
NHKでも番組を担当していましたし、身体感覚やイメージ、擬音語・擬態語など
サブモダリティの違いに敏感な方のようです。
堅苦しくなく読みやすい本が多いですが、どれも納得感の高いものばかりです。
ネイティブの感覚を構成要素に分解して説明する形式なので
理解したり整理したりするのには都合が良いように感じますが、
トレーニング法は別途必要な気がしています。
なぜならネイティブは、その運用感覚を身につけるまでに
膨大な実体験を繰り返してきているからです。
例えば、日本人でも「根本的」と「抜本的」では似ているものの
使いどころやニュアンスが違うことを自覚するようになって、
適切な文脈を判断するように訓練されていくわけですが、それも体験によるものが中心です。
ネイティブは、ある言葉や言い回しが良く使われる文脈を
経験的に積んできているから、使いこなせると考えられます。
なので、使えるためには状況と結び付ける必要がある。
そのトレーニング法を開発できると外国語習得は劇的に速まると思います。
ちなみに、今、僕が効果的じゃないかと予測しているのは
1つの文脈に対して表現したい内容を複数の文章で表現するトレーニングです。
単語レベルでの工夫もそうですが、文の構造から変えられるぐらい
様々なバリエーションが出るようになっていると、咄嗟の瞬発力が上がるだろう、と。
あとは、近いニュアンスの言葉(同義語)などの使い分けを
文脈とセットにして練習するということでしょうか。
そして、英語と日本語の大きな違いは、そもそも言語的に描写する内容にあるようですから、
言語化する上での着眼点の差を明確にするのが大事な気がしています。
日本人が「私は昨日、カレーを食べました」という感覚と
アメリカ人が「 I ate curry yesterday.」の感覚は違うだろう、と。
多分、日本人の感覚に近いのは「 be 」と「 have 」でしょう。
「 I had curry yesterday.」のほうが日本語のニュアンスに近そうな印象があります。
それは時間的な長さの違いです。
英語の動詞は、動作を躍動的に捉えていて、短い時間の感覚に繊細です。
例えば、中学校で習う「不定詞」と「動名詞」の違いは
このあたりの短い時間感覚の捉え方を繊細に表現していると感じられます。
不定詞( to 〜)は、「〜すること」ですが
この場合にセットで使われるメインの動詞( want とか try とか)が表わす瞬間において
不定詞に含まれる内容は「まだ起きていない」んです。
「 I want to eat curry.」であれば、まだカレーを食べていない。
だから食べたいんです。
そこには「 to 」が持つ「方向を指し示す」感覚も関係しているのでしょう。
自分目線で「 to 」が指し示す内容の方向を向いている。
ちょっと先にあるんです。
だから「まだ起きていない」のが一般的。
「 I try to open the door. 」だと、ドアを「開けよう」としているんです。
まだ開くか、開かないかは分かりません。
まだ開いていないんです。
「 I tried to open the door. 」だと、過去の時点で「開けようとした」んです。
ということは、「けど開かなかった」雰囲気が推測される。
一方、動名詞「〜ing 」の場合は、もっと躍動感があって
動作の最中が表現される様子があります。
中学校で「 stop 」の後は不定詞じゃなくて動名詞、と習ったのは
「 stop 」=止める内容は、その動作が進行している必要があるから、と解釈できます。
「 stop eating 」は、食べているのを止めるんです。
「 stop to eat 」は、食べる前に止めることになってしまうので一般的でない。
だから「何かを食べるために一時的に立ち止まった」と解釈されるほうが普通、と。
「 keep 」も「〜ing 」ですが、続けるためには、既に動作が進行している必要があります。
「 keep eating 」なのは、既に食べている必要があるからです。
「 I try opening the door.」は、「試しにドアを開けてみる」に近い。
開けようとしている最中です。
現在形で使うと「ドアが開くかどうか分からないけど試してみる」感じが出ます。
「 I'm trying opening the door.」ならガチャガチャやっている感じでしょうか。
「 I tried opening the door.」になると、過去の時点で
ドアに体当たりしているのか、ピッキングしているのか、
なんとかドアを開けようとしている場面が浮かびます。
その結果は開いたのかもしれないし、開いていないのかもしれない。
こういう表現の区別からは、動きをかなり細かい時間で区切っている感じを受けます。
明らかに発話者の着眼点が日本人と違うと思われます。
その注目の仕方をサブモダリティのレベルで教えてもらえると
トレーニングにも活かせると思うんです。
この言語化の発想の癖は、大きな違いになっているように感じます。
もう一点、コミュニケーションのルールや習慣としても違いがあるようです。
コミュニケーションをキャッチボールに喩えたときの、
キャッチボールのスタイルの違いのようなものでしょう。
この辺りは、この本に詳しいです。
知られざる英会話のスキル20(CD BOOK)
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これは結構なオススメ本。
本に関していうと、チョット変わり種も見つけました。
独自の文型理論を提唱しているものです。
<英語のカンを一瞬にしてモノにする!>世界に1つだけの英語教科書
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ルールを探すのが好きなんでしょうね。
上に書いた大西泰斗氏が、ネイティブの運用感覚やイメージといった
言葉を構成している要素に分解していこうとするのに対して、
パズルや図式のような説明モデルを作ろうとしています。
日本人が、英語を、英語に近いニュアンスで訳して理解するための本に思えました。
僕には少し違和感がありましたが、これがピッタリという人もいるような気はします。
このように自分に合わないスタイルを知ることも
自分にとって有効なものを見出すときには重要なプロセスでしょう。
2010年09月27日
気になる違い
英語の勉強に行っていると、大勢の留学を目指す人と出会います。
社会人でMBAを取りに行こうとしている人から
大学は海外で卒業しようという高校生まで。
色々な人がいます。
が、明らかに言えるのは、年齢層と性別に
非常に明確な相関が見て取れるということ。
男女別の平均年齢が劇的に違います。
多分、10歳以上は離れています。(20は離れていないでしょうが)
圧倒的に男性の平均年齢が高く、女性の平均年齢が低い。
男性は大半が社会人です。
ごく稀に大学生を見かけますが、本当に数えるほどです。
男性全体に占める割合は、一割以下じゃないかと思えます。
それが女性になると、大半が大学生らしき様子。
高校生らしき人も見かけられます。
女性の社会人も見かけはしますが、学生の多さに比べると少数派になりそうです。
単純に統計的な数字上の話に過ぎませんが、
傾向として非常に顕著に見受けられるので
そこには何かの意味がありそうな気がしてきます。
ステレオタイプで判断するのは、個人に対してはバイアスになってしまうので
目の前の一人を見る場合には、思い込みを疑う必要がありますが、
全体を全体のまま考察していくには傾向を見るのも役立つものでしょう。
この男女差は区別として見て取れる部分でしかありませんが、
そこに一般的な社会の構造が影響している可能性は十分だと考えられます。
つまり、女性が社会人になって留学に行く機会は少ないらしいということです。
その理由には色々な可能性が考えられます。
強いて1つを挙げるとしたら、組織における扱われ方と
家庭における役割の一般的傾向とが関係しているかもしれません。
留学したいという欲求が減っていくのか、
欲求はあっても置かれている状況がそれを不可能にしているのか、
それも分かりません。
ただ、女性は社会に出るようになってからのほうが
海外留学のような方向性を志すことが減るようです。
逆に男性が、社会に出てからのほうが留学熱が上がるのかというと、
人の様子を見ている限り、ちょっと違いそうな印象は受けます。
海外への憧れの感じが薄いんです。
女性大生ぐらいだと、それが強く表に出ているように見えます。
なので、男性は社会に出て、社会人としてのステップアップとしての留学、
あるいはビジネスに必要なこととして勉強、などと想像されます。
また、男子学生が少なそうなことを考察すると
海外留学を目指すようなメンタリティ、たとえば憧れや挑戦心、度胸などは
女性のほうが持っている強く持っている人が多いのかもしれません。
その一方で、良く言われるように、
女性は家庭を意識する頃から現実的生活に根差すようになり
男性はいつまでの社会の中で夢を追いかけ続ける、
というようなこととも、この男女・年齢の分布が関係していそうな気がします。
もっともらしい解釈をすると、こんな感じでしょうか。
若いころは女性のほうがアクティブで夢に向かって積極的に行動をする。
しかし、家庭との関係を意識する頃から現実的な度合いが高まり、
留学のような方向性からは遠のいていく。
若いころには、とりたてて夢を意識していたわけでもなかった男性は
社会の中で評価を求めるようになり、その意味での野心が
海外への必要性を高めて留学まで志向させるようになる。
何が起きているんだかは分かりませんが、
あれだけ明確に差が見て取れると理由も気になってくるものです。
少なくとも、留学を目指すような女性大生の雰囲気や振る舞いには共通点があります。
個人個人バラバラではありながら、共通点や傾向があるというのは
やはり人間の面白いところの1つじゃないかと思います。
社会人でMBAを取りに行こうとしている人から
大学は海外で卒業しようという高校生まで。
色々な人がいます。
が、明らかに言えるのは、年齢層と性別に
非常に明確な相関が見て取れるということ。
男女別の平均年齢が劇的に違います。
多分、10歳以上は離れています。(20は離れていないでしょうが)
圧倒的に男性の平均年齢が高く、女性の平均年齢が低い。
男性は大半が社会人です。
ごく稀に大学生を見かけますが、本当に数えるほどです。
男性全体に占める割合は、一割以下じゃないかと思えます。
それが女性になると、大半が大学生らしき様子。
高校生らしき人も見かけられます。
女性の社会人も見かけはしますが、学生の多さに比べると少数派になりそうです。
単純に統計的な数字上の話に過ぎませんが、
傾向として非常に顕著に見受けられるので
そこには何かの意味がありそうな気がしてきます。
ステレオタイプで判断するのは、個人に対してはバイアスになってしまうので
目の前の一人を見る場合には、思い込みを疑う必要がありますが、
全体を全体のまま考察していくには傾向を見るのも役立つものでしょう。
この男女差は区別として見て取れる部分でしかありませんが、
そこに一般的な社会の構造が影響している可能性は十分だと考えられます。
つまり、女性が社会人になって留学に行く機会は少ないらしいということです。
その理由には色々な可能性が考えられます。
強いて1つを挙げるとしたら、組織における扱われ方と
家庭における役割の一般的傾向とが関係しているかもしれません。
留学したいという欲求が減っていくのか、
欲求はあっても置かれている状況がそれを不可能にしているのか、
それも分かりません。
ただ、女性は社会に出るようになってからのほうが
海外留学のような方向性を志すことが減るようです。
逆に男性が、社会に出てからのほうが留学熱が上がるのかというと、
人の様子を見ている限り、ちょっと違いそうな印象は受けます。
海外への憧れの感じが薄いんです。
女性大生ぐらいだと、それが強く表に出ているように見えます。
なので、男性は社会に出て、社会人としてのステップアップとしての留学、
あるいはビジネスに必要なこととして勉強、などと想像されます。
また、男子学生が少なそうなことを考察すると
海外留学を目指すようなメンタリティ、たとえば憧れや挑戦心、度胸などは
女性のほうが持っている強く持っている人が多いのかもしれません。
その一方で、良く言われるように、
女性は家庭を意識する頃から現実的生活に根差すようになり
男性はいつまでの社会の中で夢を追いかけ続ける、
というようなこととも、この男女・年齢の分布が関係していそうな気がします。
もっともらしい解釈をすると、こんな感じでしょうか。
若いころは女性のほうがアクティブで夢に向かって積極的に行動をする。
しかし、家庭との関係を意識する頃から現実的な度合いが高まり、
留学のような方向性からは遠のいていく。
若いころには、とりたてて夢を意識していたわけでもなかった男性は
社会の中で評価を求めるようになり、その意味での野心が
海外への必要性を高めて留学まで志向させるようになる。
何が起きているんだかは分かりませんが、
あれだけ明確に差が見て取れると理由も気になってくるものです。
少なくとも、留学を目指すような女性大生の雰囲気や振る舞いには共通点があります。
個人個人バラバラではありながら、共通点や傾向があるというのは
やはり人間の面白いところの1つじゃないかと思います。
2010年09月25日
テーマ選定中
9月の勉強会は全体的な概念の話が中心だったので、
10月は、もっと技術的なところにフォーカスして扱ってみようと考えています。
今の候補は、「ねぎらい」か「ブリーフセラピー」。
場合によっては「コーチング」的なものになるかもしれません。
いずれにせよ、言葉の技術として有効なものをNLPの概念で深めてみよう、
というような発想です。
僕の中にある1つの基本的な概念は、
「いずれか一方に片寄るよりは、両方ができたほうが役立つことが多い」
というものなので、コーチングやセラピーといった技術に関しても
片寄りのない形で相手に合わせた対応ができるように心がけたいんです。
例えば、コーチングであれば
目標を設定して
役立つものと必要なものを考え
アクションプランをたてて
実際に行動する
というようなシンプルな流れだけでなく、
目標に向けた最難関を最初に解消するような発想も取り入れたりする。
セラピーであれば、問題解決の方法に注目するばかりでなく、
一見すると関係なさそうな目標を利用して、間接的に問題解決を目指したり。
相手を常に、両面から眺められるようにトレーニングすると
柔軟性を上げられると考えているんです。
学習に関しては、大きく2つの方向性に分けられます。
1つは同じことが繰り返せるようにする方向。
もう1つは、一瞬一瞬で、対応の選択肢を増やしていく方向です。
繰り返せるようにするというのは、いわゆる反復練習で
何度やっても同じような作業ができるようにするものです。
例えば、ゴルフやボーリング、ダンスや、職人芸的な仕事などの中には
同じ作業を再現性高く繰り返すようにトレーニングを進めるものがあります。
これは言わば、1つの効率的な作業のために最適な回路を作るようなものです。
無駄を省き、シンプルに何度でも自動的にできるようにしていく。
劇団四季だったかは忘れましたが、ある劇団は1つのセリフの1つの助詞を間違えただけで
主役を降ろされることがあるという話です。
長時間に及ぶ一連の流れを、1つの手順で再現できるように練習するということです。
一方、一瞬一瞬で、選択を繰り返す必要のある場面も沢山あります。
練習としては反復練習も行いますが、その練習自体がバリエーションを含んでいて、
状況ごとに違った対応を自然にできるように最適な選択ができるように訓練するものです。
例えば、野球のバッティングであれば、球速もコースも変化の仕方も
毎回違っているわけですから、「打つぞ」と決めてから打ち終わるまでに
色々な選択を続けて一連の流れを完結させていると言えます。
コミュニケーションというのは、言うまでもなく後のほう。
一瞬一瞬で選択を繰り返して進んでいくものです。
にもかかわらず、多くのコミュニケーションのトレーニングは
ただ1つの流れを繰り返すだけで進んでしまいます。
野球のバッティングであれば、ミスをしたときにすぐに分かるから良いんです。
「今のは打ち損じた。あのような変化のときは、もっとこうだな。」
などと毎回のフィードバックを得ながら練習することもできます。
それがコミュニケーションになると事情が変わります。
ミスをしても気づきにくいんです。
意外とそのまま進んでしまう。
そういう作業を繰り返していると、自分がしやすいミスにも気づきにくいし、
ワンパターンになって選択肢すら無いことにも気づきにくい。
だからこそ、この一瞬一瞬の積み重ねとしてのコミュニケーションを向上させるために
バリエーションを増やしていくためのトレーニングが役立つんです。
より相手にとって望ましい言葉を生み出すように訓練をしてみようという考えです。
もちろん「NLP的に」ですから、その望ましい言葉の精度を上げるべく
NLPの視点を取り入れていくつもりです。
「ねぎらい」にするか「ブリーフセラピー」にするかは考え中ですが、
近いうちに両方やるつもりではいます。
決まったら正式に告知をする予定です。
ねぎらい NLPで深める
ブリーフセラピー、コーチングにNLPを活かす
10月は、もっと技術的なところにフォーカスして扱ってみようと考えています。
今の候補は、「ねぎらい」か「ブリーフセラピー」。
場合によっては「コーチング」的なものになるかもしれません。
いずれにせよ、言葉の技術として有効なものをNLPの概念で深めてみよう、
というような発想です。
僕の中にある1つの基本的な概念は、
「いずれか一方に片寄るよりは、両方ができたほうが役立つことが多い」
というものなので、コーチングやセラピーといった技術に関しても
片寄りのない形で相手に合わせた対応ができるように心がけたいんです。
例えば、コーチングであれば
目標を設定して
役立つものと必要なものを考え
アクションプランをたてて
実際に行動する
というようなシンプルな流れだけでなく、
目標に向けた最難関を最初に解消するような発想も取り入れたりする。
セラピーであれば、問題解決の方法に注目するばかりでなく、
一見すると関係なさそうな目標を利用して、間接的に問題解決を目指したり。
相手を常に、両面から眺められるようにトレーニングすると
柔軟性を上げられると考えているんです。
学習に関しては、大きく2つの方向性に分けられます。
1つは同じことが繰り返せるようにする方向。
もう1つは、一瞬一瞬で、対応の選択肢を増やしていく方向です。
繰り返せるようにするというのは、いわゆる反復練習で
何度やっても同じような作業ができるようにするものです。
例えば、ゴルフやボーリング、ダンスや、職人芸的な仕事などの中には
同じ作業を再現性高く繰り返すようにトレーニングを進めるものがあります。
これは言わば、1つの効率的な作業のために最適な回路を作るようなものです。
無駄を省き、シンプルに何度でも自動的にできるようにしていく。
劇団四季だったかは忘れましたが、ある劇団は1つのセリフの1つの助詞を間違えただけで
主役を降ろされることがあるという話です。
長時間に及ぶ一連の流れを、1つの手順で再現できるように練習するということです。
一方、一瞬一瞬で、選択を繰り返す必要のある場面も沢山あります。
練習としては反復練習も行いますが、その練習自体がバリエーションを含んでいて、
状況ごとに違った対応を自然にできるように最適な選択ができるように訓練するものです。
例えば、野球のバッティングであれば、球速もコースも変化の仕方も
毎回違っているわけですから、「打つぞ」と決めてから打ち終わるまでに
色々な選択を続けて一連の流れを完結させていると言えます。
コミュニケーションというのは、言うまでもなく後のほう。
一瞬一瞬で選択を繰り返して進んでいくものです。
にもかかわらず、多くのコミュニケーションのトレーニングは
ただ1つの流れを繰り返すだけで進んでしまいます。
野球のバッティングであれば、ミスをしたときにすぐに分かるから良いんです。
「今のは打ち損じた。あのような変化のときは、もっとこうだな。」
などと毎回のフィードバックを得ながら練習することもできます。
それがコミュニケーションになると事情が変わります。
ミスをしても気づきにくいんです。
意外とそのまま進んでしまう。
そういう作業を繰り返していると、自分がしやすいミスにも気づきにくいし、
ワンパターンになって選択肢すら無いことにも気づきにくい。
だからこそ、この一瞬一瞬の積み重ねとしてのコミュニケーションを向上させるために
バリエーションを増やしていくためのトレーニングが役立つんです。
より相手にとって望ましい言葉を生み出すように訓練をしてみようという考えです。
もちろん「NLP的に」ですから、その望ましい言葉の精度を上げるべく
NLPの視点を取り入れていくつもりです。
「ねぎらい」にするか「ブリーフセラピー」にするかは考え中ですが、
近いうちに両方やるつもりではいます。
決まったら正式に告知をする予定です。
ねぎらい NLPで深める
ブリーフセラピー、コーチングにNLPを活かす
2010年09月23日
ビリーフに対する理解の仕方
NLPは色々なものの良いところ取りだと呼ばれることがあります。
三人の心理療法家のやり方をモデリングしたとか、
実践心理学だとか、コミュニケーションスキルだとか、呼ばれることも。
実際のところ、NLPは遥かに出来た当時よりも形を変えていて、
寄せ集め感が強く見えるところもある反面、
NLP独自の概念や技術も沢山あるんです。
個人的にはNLP最大の発見はサブモダリティにあると考えていて
それを見出したバンドラーは、やはり偉大なんです。
それを深めて理論化しなかったのかもしれませんが。
自分の中では、一つの分野の中では「浮いている」情報は無くしたいんです。
NLPは多くの方が感じるように「色々あるけど点と点がバラバラ」といった
印象を受けやすい内容だと思います。
人によってはスキルの寄せ集めだというのも分かる気がします。
が、それらには根底に流れている共通点があるのも事実で、
それこそが「人間とはどういうものか」を説明している部分だと思うんです。
なので、その根底に流れる部分からNLPの全ての概念を繋げていくと
各々のスキルの関連性が見えてくるはずです。
そして、その作業を進めるとNLPの中の矛盾点も見えてきてしまいます。
そのうちのいくつかがビリーフに対する解釈であったり
メタプログラムに対する解釈だったりしたんです。
最近のNLPの中心理論はビリーフやメタプログラム、価値観といった
抽象度の高い概念から作られている印象があります。
それは心理学や心理療法に携わっていた人たちが絡んでいるからでしょう。
アメリカの自己啓発の第一人者ルー・タイスのTPIEなどもビリーフが基本ですし、
当然、アンソニー・ロビンスもジェームズ・スキナーもビリーフが基本です。
アメリカの自己啓発系は、伝統的にビリーフを使ってきているようです。
しかし、その理論で説明していくと、サブモダリティやアンカーが浮くんです。
それらは単純にプログラムを変えるスキルとして捉えられてしまいます。
リフレーミングというのもスキルになってしまいます。
全てをバラバラに捉えているからこそ、ビリーフ・チェンジというスキルまで生まれます。
アメリカの自己啓発系の流れの中に身を置く人が関われば
自然と、NLPもビリーフを中心とした理論で説明したくなると想像できます。
推測するに、サブモダリティについて深く研究する前に
NLPという一つの体系を発表したかったんでしょう。
だから全体を統括する理論が必要だった。
そのときに取り入れたのが馴染みのあるビリーフの理論だったんじゃないでしょうか。
ディルツは良く知られているビリーフの概念を
他のNLP用語と関連付けて説明することに挑戦したようです。
僕の知っている情報では、その理論には「深層構造」という表現はありますが
サブモダリティやアンカーという言葉は出てきません。
「深層構造」や「無意識」という曖昧な一言で片づけている中身を説明してこそ
統一的な理論になるんじゃないかと、僕の発想は動いていきました。
その結果、全ての中心をサブモダリティとアンカー、抽象度で考えていくと
他の概念の多くが最も上手く説明できていったんです。
当然、NLPで「スキル」と呼ばれているもの同士の関係性も説明できますし
NLPがまとまった1つの理論体系として扱える状態になったようです。
NLPが出来てきた歴史的経緯を考えれば、今のNLPの中心がビリーフだとか
ミルトンモデルとかに進んでいくのは納得のいくところです。
一度も壊すことなく、新しいものを積み上げているんです。
僕がしようとしている説明は、ちょっとした説明の視点の違いだと思ってはいますが、
大袈裟に言えば、地球の周りを月や星や太陽が回っているという仮説に基づいて
様々な理論を積み重ねて研究が進んでいるような状態に近い。
誰も「地球が回っている」と言わなかったんでしょう。
まぁ、そういう根本的な疑問を投げかける人はアメリカ文化の中では
すぐにオリジナルを志向しますから、NLPという名前を使わなかったとも考えられますが。
何も僕の説明の仕方が天動説と地動説の違いほど劇的だと言っているのではありません。
単純に
「NLPは疑われたり壊されたりすることなく
追加だけを繰り返されているのではないか」
という部分だけがポイントです。
その意味で、少し無理が出ているものや、説明しきれないものが含まれています。
少なくとも人間を「プログラム」で説明しようとしているなら
「無意識」という言葉は使うべきではない。
他分野との接点として解説をするとしても
「NLPでは無意識という言葉は使わないが、
もし無意識をNLPで説明するとしたら〜と…で説明ができます」
ぐらいに留めておくほうが良いと思うんです。
そういうNLPの積み重ね的な進展の中で、早期に取り入れられたのがビリーフで
かなりの理論的中心部分に据えることが決定されていたんじゃないかと推測しています。
サブモダリティやアンカーについて研究を進めるよりも先に
全体像を説明するための理論ができたんじゃないだろうか、と。
あるいは全体像を説明するよりも、役に立つものを志向する度合いが強く、
スキルを沢山開発していくということに重きが置かれ、
理論化していくことが優先されなかったのかもしれません。
おそらく、サブモダリティの研究が研究が進んでいた頃には
もう全体的な理論構成は決まっていたんじゃないでしょうか。
サブモダリティを使ったスキルを研究する中で
価値観をサブモダリティで扱おうとする内容が出てきますから、
その時点で既に、価値観がプログラムの1つだと捉えていた可能性が考えられます。
中には、人間の振る舞いの全てをサブモダリティで説明しようとした人も
もしかするといたんじゃないかとは思います。
スティーブ・アンドレアスからは、その雰囲気が感じられます。
沢山NLPを体験してきた人からは「NLPの中心はアンカーとサブモダリティだ」
という意見を耳にすることは一度ではありませんでしたし、
オーウェンというマスタートレーナーも
「NLPはアンカーとサブモダリティとミルトンモデルだ」と言っていました。
何より創始者バンドラーの開発するスキルは、大半が
アンカーのバリエーションかサブモダリティを応用したものです。
本質的には、アンカーとサブモダリティの重要性を感じながらも
それを明確に理論の中心に据えて説明することは少なかったのかもしれません。
バンドラー系の人たちは、理論を話すことそのものを好みませんから。
もちろん、僕が見たことが無いだけで、そんな理論もあるかもしれませんが、
僕は自分でその作業を進めて、人間の振る舞いの全てが
サブモダリティとアンカーと抽象度で説明しようとしたんです。
実際、ビリーフはサブモダリティとアンカーと抽象度で説明できます。
価値観も説明できます。
メタプログラムは説明できません。
しかし、サブモダリティやアンカーは、ビリーフでは説明できません。
例えば、犬に噛まれた経験があって、犬を怖がる人がいたとします。
犬を見ると体の中に恐怖反応が起きて、冷や汗が出て、筋肉が硬直する。
この人は「犬は噛むものだ」とか「犬は怖い」というビリーフを持っている。
ビリーフの理論では、そうやって説明するでしょう。
だから恐怖の反応が出る、と。
ところが、他の人が目の前の犬を可愛がっていて、
噛むこともないし、おとなしくて、人懐っこい犬だったとしても、
その犬が恐い人は恐怖の反応から、なかなか抜け出せないものです。
頭で「安全だ」「噛まない」と納得していたとしても怖いんです。
遠くから見るだけだって怖いんです。
鎖でつながれていて、絶対に来ないと分かっていても怖いんです。
どんなに論理的に安全性を説得しても、
老犬で歯がが全部抜けていて噛まれたって痛くないと証明してもらっても、
きっとその恐怖の反応は抜けないはずです。
それが犬恐怖症ということです。
この恐怖は、ビリーフを変えれば無くなるのでしょうか?
別の人は、「犬に対して恐怖反応がアンカーされている」と説明するでしょう。
そして、アンカリングのスキルを使ったり、恐怖症治療のスキルを使うかもしれません。
ビリーフを理論の中心に据える人は、
「恐怖症治療のスキルやアンカリングでビリーフが変わるんだ」
とは説明しないような気がします。
でも、そのスキルで恐怖症が治った事例は沢山ある。
犬恐怖症を克服した人に、数年後インタビューをしたら、こう答えると思います。
「もう犬は怖くありません」
これは「犬は怖い」というビリーフが変わっているとは言えないんでしょうか。
僕の説明は、
「ビリーフの中身にアンカーが含まれている」
というものです。
だからアンカーを変えれば、結果的にビリーフが変わる。
犬に対する恐怖のアンカーを「犬は噛むものだ」というビリーフで説明するのは難しくても、
「犬は噛むものだ」というビリーフをアンカーで説明するのは簡単です。
つまり、サブモダリティやアンカーは、ビリーフの構成要素だということです。
そして、ビリーフはプログラムの別の呼び名です。
全てのプログラムはサブモダリティとアンカーと抽象度で作られていて、
そのプログラムの中に「ビリーフ」と呼ばれる種類のものがある。
強いていうと、分類なんです。
化学に喩えると、サブモダリティや元素、アンカーは化学反応のようなものでしょう。
プログラムは化合物です。
化合物は、その構成によって別物になるので、その数は無限に近い可能性があります。
プログラムも、それを作っているサブモダリティやアンカーの組み合わせで
無限に近い数が存在しえます。
そうした化合物の中で、炭素を中心にしているものを有機化合物、
そうでないものを無機化合物というように分類し、
無機化合物も金属や鉱物などと様々に分類が可能です。
無数にある化合物をジャンル分けするわけです。
同様に、人間の中に無数にあるプログラムは、分類として
ビリーフや価値観などと呼ぶこともできる。
単純に呼び方の問題だということです。
「あの人は優しい」という表現をすることもできますが、
その「優しさ」をプログラムとして、中身をサブモダリティやアンカーで
詳細に説明していくことも可能なんです。
「あの人は頭が良い」という表現も可能ですが、
「頭の良さ」を詳細な中身で説明していくこともできます。
「イチローのバッティングは上手い」というのは誰でも言えますが
「イチローのバッティング」をサブモダリティとストラテジーで説明することも可能です。
一言で大雑把に片づけるか、詳細に説明しようとするかの違いに過ぎませんが、
僕は専門家というのは違いを詳しく分かっているものだと考えているんです。
その詳細な情報を説明するための手段がサブモダリティやアンカーだという話です。
「あの人は『犬は怖い』というビリーフを持っているから、犬が恐いんだ」
と説明してしまうよりも、
その犬に対するプログラムの中身を詳細に説明できたほうが
アプローチの仕方が効果的になるはずです。
相手のプログラムを詳細に理解できたほうが、選択肢が増えます。
より相手に合わせた方法も見出しやすくなります。
精度を上げていけると思うんです。
そして僕は、NLPの目的の中には、そうした
「より効果的なアプローチが誰にでもできるようにする」といったニュアンスや
「相手を一人の個別の人間として理解しようとする」といったニュアンスが
含まれていたように感じています。
「この人には、こんなビリーフがあるから、こういう振る舞いをするんだ」
という理解の仕方は、
「地図は領土ではない」という考え方と離れている気がします。
僕がビリーフを理論の中心として考えず、あくまで呼び名とだけ考えているのは
そのほうが人を正確に丁寧に理解しようとしていると感じるからです。
少しでも正確に理解したほうが、より効果的な関わり方ができそうじゃないですか。
心がこもっている料理が最高だという考え方もあるとは思いますが、
僕は少しでも美味しくできるように努力をする形で心を込めたいわけです。
ちなみに、料理は喩えなので、僕はあまり料理をしないんですけど。
三人の心理療法家のやり方をモデリングしたとか、
実践心理学だとか、コミュニケーションスキルだとか、呼ばれることも。
実際のところ、NLPは遥かに出来た当時よりも形を変えていて、
寄せ集め感が強く見えるところもある反面、
NLP独自の概念や技術も沢山あるんです。
個人的にはNLP最大の発見はサブモダリティにあると考えていて
それを見出したバンドラーは、やはり偉大なんです。
それを深めて理論化しなかったのかもしれませんが。
自分の中では、一つの分野の中では「浮いている」情報は無くしたいんです。
NLPは多くの方が感じるように「色々あるけど点と点がバラバラ」といった
印象を受けやすい内容だと思います。
人によってはスキルの寄せ集めだというのも分かる気がします。
が、それらには根底に流れている共通点があるのも事実で、
それこそが「人間とはどういうものか」を説明している部分だと思うんです。
なので、その根底に流れる部分からNLPの全ての概念を繋げていくと
各々のスキルの関連性が見えてくるはずです。
そして、その作業を進めるとNLPの中の矛盾点も見えてきてしまいます。
そのうちのいくつかがビリーフに対する解釈であったり
メタプログラムに対する解釈だったりしたんです。
最近のNLPの中心理論はビリーフやメタプログラム、価値観といった
抽象度の高い概念から作られている印象があります。
それは心理学や心理療法に携わっていた人たちが絡んでいるからでしょう。
アメリカの自己啓発の第一人者ルー・タイスのTPIEなどもビリーフが基本ですし、
当然、アンソニー・ロビンスもジェームズ・スキナーもビリーフが基本です。
アメリカの自己啓発系は、伝統的にビリーフを使ってきているようです。
しかし、その理論で説明していくと、サブモダリティやアンカーが浮くんです。
それらは単純にプログラムを変えるスキルとして捉えられてしまいます。
リフレーミングというのもスキルになってしまいます。
全てをバラバラに捉えているからこそ、ビリーフ・チェンジというスキルまで生まれます。
アメリカの自己啓発系の流れの中に身を置く人が関われば
自然と、NLPもビリーフを中心とした理論で説明したくなると想像できます。
推測するに、サブモダリティについて深く研究する前に
NLPという一つの体系を発表したかったんでしょう。
だから全体を統括する理論が必要だった。
そのときに取り入れたのが馴染みのあるビリーフの理論だったんじゃないでしょうか。
ディルツは良く知られているビリーフの概念を
他のNLP用語と関連付けて説明することに挑戦したようです。
僕の知っている情報では、その理論には「深層構造」という表現はありますが
サブモダリティやアンカーという言葉は出てきません。
「深層構造」や「無意識」という曖昧な一言で片づけている中身を説明してこそ
統一的な理論になるんじゃないかと、僕の発想は動いていきました。
その結果、全ての中心をサブモダリティとアンカー、抽象度で考えていくと
他の概念の多くが最も上手く説明できていったんです。
当然、NLPで「スキル」と呼ばれているもの同士の関係性も説明できますし
NLPがまとまった1つの理論体系として扱える状態になったようです。
NLPが出来てきた歴史的経緯を考えれば、今のNLPの中心がビリーフだとか
ミルトンモデルとかに進んでいくのは納得のいくところです。
一度も壊すことなく、新しいものを積み上げているんです。
僕がしようとしている説明は、ちょっとした説明の視点の違いだと思ってはいますが、
大袈裟に言えば、地球の周りを月や星や太陽が回っているという仮説に基づいて
様々な理論を積み重ねて研究が進んでいるような状態に近い。
誰も「地球が回っている」と言わなかったんでしょう。
まぁ、そういう根本的な疑問を投げかける人はアメリカ文化の中では
すぐにオリジナルを志向しますから、NLPという名前を使わなかったとも考えられますが。
何も僕の説明の仕方が天動説と地動説の違いほど劇的だと言っているのではありません。
単純に
「NLPは疑われたり壊されたりすることなく
追加だけを繰り返されているのではないか」
という部分だけがポイントです。
その意味で、少し無理が出ているものや、説明しきれないものが含まれています。
少なくとも人間を「プログラム」で説明しようとしているなら
「無意識」という言葉は使うべきではない。
他分野との接点として解説をするとしても
「NLPでは無意識という言葉は使わないが、
もし無意識をNLPで説明するとしたら〜と…で説明ができます」
ぐらいに留めておくほうが良いと思うんです。
そういうNLPの積み重ね的な進展の中で、早期に取り入れられたのがビリーフで
かなりの理論的中心部分に据えることが決定されていたんじゃないかと推測しています。
サブモダリティやアンカーについて研究を進めるよりも先に
全体像を説明するための理論ができたんじゃないだろうか、と。
あるいは全体像を説明するよりも、役に立つものを志向する度合いが強く、
スキルを沢山開発していくということに重きが置かれ、
理論化していくことが優先されなかったのかもしれません。
おそらく、サブモダリティの研究が研究が進んでいた頃には
もう全体的な理論構成は決まっていたんじゃないでしょうか。
サブモダリティを使ったスキルを研究する中で
価値観をサブモダリティで扱おうとする内容が出てきますから、
その時点で既に、価値観がプログラムの1つだと捉えていた可能性が考えられます。
中には、人間の振る舞いの全てをサブモダリティで説明しようとした人も
もしかするといたんじゃないかとは思います。
スティーブ・アンドレアスからは、その雰囲気が感じられます。
沢山NLPを体験してきた人からは「NLPの中心はアンカーとサブモダリティだ」
という意見を耳にすることは一度ではありませんでしたし、
オーウェンというマスタートレーナーも
「NLPはアンカーとサブモダリティとミルトンモデルだ」と言っていました。
何より創始者バンドラーの開発するスキルは、大半が
アンカーのバリエーションかサブモダリティを応用したものです。
本質的には、アンカーとサブモダリティの重要性を感じながらも
それを明確に理論の中心に据えて説明することは少なかったのかもしれません。
バンドラー系の人たちは、理論を話すことそのものを好みませんから。
もちろん、僕が見たことが無いだけで、そんな理論もあるかもしれませんが、
僕は自分でその作業を進めて、人間の振る舞いの全てが
サブモダリティとアンカーと抽象度で説明しようとしたんです。
実際、ビリーフはサブモダリティとアンカーと抽象度で説明できます。
価値観も説明できます。
メタプログラムは説明できません。
しかし、サブモダリティやアンカーは、ビリーフでは説明できません。
例えば、犬に噛まれた経験があって、犬を怖がる人がいたとします。
犬を見ると体の中に恐怖反応が起きて、冷や汗が出て、筋肉が硬直する。
この人は「犬は噛むものだ」とか「犬は怖い」というビリーフを持っている。
ビリーフの理論では、そうやって説明するでしょう。
だから恐怖の反応が出る、と。
ところが、他の人が目の前の犬を可愛がっていて、
噛むこともないし、おとなしくて、人懐っこい犬だったとしても、
その犬が恐い人は恐怖の反応から、なかなか抜け出せないものです。
頭で「安全だ」「噛まない」と納得していたとしても怖いんです。
遠くから見るだけだって怖いんです。
鎖でつながれていて、絶対に来ないと分かっていても怖いんです。
どんなに論理的に安全性を説得しても、
老犬で歯がが全部抜けていて噛まれたって痛くないと証明してもらっても、
きっとその恐怖の反応は抜けないはずです。
それが犬恐怖症ということです。
この恐怖は、ビリーフを変えれば無くなるのでしょうか?
別の人は、「犬に対して恐怖反応がアンカーされている」と説明するでしょう。
そして、アンカリングのスキルを使ったり、恐怖症治療のスキルを使うかもしれません。
ビリーフを理論の中心に据える人は、
「恐怖症治療のスキルやアンカリングでビリーフが変わるんだ」
とは説明しないような気がします。
でも、そのスキルで恐怖症が治った事例は沢山ある。
犬恐怖症を克服した人に、数年後インタビューをしたら、こう答えると思います。
「もう犬は怖くありません」
これは「犬は怖い」というビリーフが変わっているとは言えないんでしょうか。
僕の説明は、
「ビリーフの中身にアンカーが含まれている」
というものです。
だからアンカーを変えれば、結果的にビリーフが変わる。
犬に対する恐怖のアンカーを「犬は噛むものだ」というビリーフで説明するのは難しくても、
「犬は噛むものだ」というビリーフをアンカーで説明するのは簡単です。
つまり、サブモダリティやアンカーは、ビリーフの構成要素だということです。
そして、ビリーフはプログラムの別の呼び名です。
全てのプログラムはサブモダリティとアンカーと抽象度で作られていて、
そのプログラムの中に「ビリーフ」と呼ばれる種類のものがある。
強いていうと、分類なんです。
化学に喩えると、サブモダリティや元素、アンカーは化学反応のようなものでしょう。
プログラムは化合物です。
化合物は、その構成によって別物になるので、その数は無限に近い可能性があります。
プログラムも、それを作っているサブモダリティやアンカーの組み合わせで
無限に近い数が存在しえます。
そうした化合物の中で、炭素を中心にしているものを有機化合物、
そうでないものを無機化合物というように分類し、
無機化合物も金属や鉱物などと様々に分類が可能です。
無数にある化合物をジャンル分けするわけです。
同様に、人間の中に無数にあるプログラムは、分類として
ビリーフや価値観などと呼ぶこともできる。
単純に呼び方の問題だということです。
「あの人は優しい」という表現をすることもできますが、
その「優しさ」をプログラムとして、中身をサブモダリティやアンカーで
詳細に説明していくことも可能なんです。
「あの人は頭が良い」という表現も可能ですが、
「頭の良さ」を詳細な中身で説明していくこともできます。
「イチローのバッティングは上手い」というのは誰でも言えますが
「イチローのバッティング」をサブモダリティとストラテジーで説明することも可能です。
一言で大雑把に片づけるか、詳細に説明しようとするかの違いに過ぎませんが、
僕は専門家というのは違いを詳しく分かっているものだと考えているんです。
その詳細な情報を説明するための手段がサブモダリティやアンカーだという話です。
「あの人は『犬は怖い』というビリーフを持っているから、犬が恐いんだ」
と説明してしまうよりも、
その犬に対するプログラムの中身を詳細に説明できたほうが
アプローチの仕方が効果的になるはずです。
相手のプログラムを詳細に理解できたほうが、選択肢が増えます。
より相手に合わせた方法も見出しやすくなります。
精度を上げていけると思うんです。
そして僕は、NLPの目的の中には、そうした
「より効果的なアプローチが誰にでもできるようにする」といったニュアンスや
「相手を一人の個別の人間として理解しようとする」といったニュアンスが
含まれていたように感じています。
「この人には、こんなビリーフがあるから、こういう振る舞いをするんだ」
という理解の仕方は、
「地図は領土ではない」という考え方と離れている気がします。
僕がビリーフを理論の中心として考えず、あくまで呼び名とだけ考えているのは
そのほうが人を正確に丁寧に理解しようとしていると感じるからです。
少しでも正確に理解したほうが、より効果的な関わり方ができそうじゃないですか。
心がこもっている料理が最高だという考え方もあるとは思いますが、
僕は少しでも美味しくできるように努力をする形で心を込めたいわけです。
ちなみに、料理は喩えなので、僕はあまり料理をしないんですけど。
2010年09月21日
問題の長さ
カウンセリングやセラピーをする立場であっても
悩みや問題を抱えている本人であっても、多くの場合
その内容を短期的に捉える傾向があるように見受けられます。
極端なことを言えば、放っておくだけで、勝手に時期が来れば問題がなくなるものです。
職場の悩みといったって、いつまでもその場所にいるとは限らないし、
少なくとも、その会社と関わっている時間だって終りが来るわけです。
人間関係の悩みも、似たような部分があります。
環境が変わって苦手な人と合わなくなるなんて普通のことです。
人生に魅力を感じられていない人が、何かの趣味を見つけたり、
誰かとの出会ったりすることによって、途端に気持ちが上向いてくることがある。
なんとなく自分の道が分からなくて迷っているとか、
自分の将来のことを考えて不安になるとか、
人生における重要なテーマと関わるような問題ほど
短期的に解決しようとする必要すらないものかもしれません。
いつか気づく時がくるかもしれないし、
今はそのテーマについて悩んでいること自体が重要な時期かもしれない。
悩みや問題を感じられていることは大切なことだと思うんです。
なので、それを短期的に解決することが全てではないでしょう。
環境に不満があって、どうすることもできずに苦しんでいるなら、
上手にストレスをケアする方法を身につけて、日々を乗り越え
問題がなくなる時期まで待つという選択だってあるんです。
カウンセラーやセラピストは、
何をどこまで解決すればクライアント本人の人生全体にとって望ましいか
までを考えられるほうが望ましいような気がします。
もちろん、それは勝手な推測を含む『おせっかい』の範疇ではありますが。
それでも「なんでもかんでも、深い問題を早く解決してやろう」という種類の
『おせっかい』よりは、遥かに役立つ『おせっかい』だと思います。
問題や悩みの多くは、本人の置かれている状況や環境に関係します。
どんなに抽象的な問題、たとえば「私は良い親でいられない」のようなものでも、
それを強く感じる場面があるはずなので、その意味では状況や環境に依存するわけです。
時間が経てば、状況や環境は変わっていきます。
そうすると表面的な悩みが変わっていくことになります。
表面的な悩みが形を変えても、多くの場面で共通して関係してくる
問題を作り出してしまう自分の行動パターンや思考パターンがあれば、
それを変えるような取り組みをすることが役立ちます。
今の目先の問題を解決するのに役立つ行動パターン・思考パターンを扱うのではなく、
長期的に見て、ずっと関わっていきそうなものを優先的に扱う。
すると、その努力が後まで実を結びやすいと考えられます。
問題と関わっている状況が改善されて、自分にとって心地よくなるように取り組む。
それも1つの方法です。
それを目的にするなら、手段は色々と考えられるものです。
その状況を改善するために、自分の癖になっているパターンを変えるとしたら
それは長期的に見たときに役立つ可能性が広がります。
ただ、それを変えたからと言って、目の前の問題が改善されるとは限りません。
問題を生み出している自分の癖やパターンを変えていく方法は
短期的な問題解決のためだけのものではないんです。
それは自分の中にある課題に気づき、その課題をクリアすることで自分自身の幅を広げ、
未来に起きるかもしれない様々な場面に対処できる力をつけるための
『トレーニング』でもあるんです。
ですから、そういう自分の振る舞いのパターンを変えるようなトレーニングをすると
半年とか一年とか経ったあたりで、効果が感じられて来たりするのでしょう。
そして、自分の中の課題をクリアしていこうという発想は
状況と結び付いた問題や悩みを解決したいという発想とは別物です。
そのことを意識しておくことは重要だと思います。
今、目下の状況で困っているのであれば、将来的なことを考えて課題に取り組むよりも、
短期的に目の前の問題に対して楽になれるように工夫をするほうが良いかもしれません。
それを決めるのはクライアントです。
クライアント本人が現状に凄く困って相談に来ているのだとしたら
短期的に状況を変えるような取り組みの工夫を考慮する必要があるでしょう。
逆に、その問題を通じて、自分の未来を含んだ人生全般に対して
なんとなくの課題意識を感じているような場合には、
目先の問題を扱うよりも、自分自身の内的な課題をクリアするよう
トレーニングを考えていく必要が出てきます。
内的課題を重視する場合には、短期的な解決を目指す必要さえない場合もあるはずです。
なので、
「自分がクライアントの問題をどのように捉えているか」
「クライアントは問題の中の何を重要視しているのか」
「自分がその問題に、どのような手段で取り組もうとしているか」
といった要素を
バランスよく配慮していくことが求められると思います。
短期的な問題状況の解決をクライアントが求めているのに
カウンセラー側が、内的課題をクリアするための方法しか使えなかったり。
逆に、内的課題の取り組みを意識しているクライアントに対して
短期的な問題状況の改善を話し合ったり。
求めていることとは違ってしまうわけです。
いずれにおいても、『安定感』、『自信』、『柔軟性』を育むことは
人生全般に役立つことが多いので、そこを逃さなければ危険は小さいでしょうが、
「何が求められていて」「何が役立つのか」を区別して取り組めるのと
そうでないのでは効果には大きな違いがあると思います。
悩みや問題を抱えている本人であっても、多くの場合
その内容を短期的に捉える傾向があるように見受けられます。
極端なことを言えば、放っておくだけで、勝手に時期が来れば問題がなくなるものです。
職場の悩みといったって、いつまでもその場所にいるとは限らないし、
少なくとも、その会社と関わっている時間だって終りが来るわけです。
人間関係の悩みも、似たような部分があります。
環境が変わって苦手な人と合わなくなるなんて普通のことです。
人生に魅力を感じられていない人が、何かの趣味を見つけたり、
誰かとの出会ったりすることによって、途端に気持ちが上向いてくることがある。
なんとなく自分の道が分からなくて迷っているとか、
自分の将来のことを考えて不安になるとか、
人生における重要なテーマと関わるような問題ほど
短期的に解決しようとする必要すらないものかもしれません。
いつか気づく時がくるかもしれないし、
今はそのテーマについて悩んでいること自体が重要な時期かもしれない。
悩みや問題を感じられていることは大切なことだと思うんです。
なので、それを短期的に解決することが全てではないでしょう。
環境に不満があって、どうすることもできずに苦しんでいるなら、
上手にストレスをケアする方法を身につけて、日々を乗り越え
問題がなくなる時期まで待つという選択だってあるんです。
カウンセラーやセラピストは、
何をどこまで解決すればクライアント本人の人生全体にとって望ましいか
までを考えられるほうが望ましいような気がします。
もちろん、それは勝手な推測を含む『おせっかい』の範疇ではありますが。
それでも「なんでもかんでも、深い問題を早く解決してやろう」という種類の
『おせっかい』よりは、遥かに役立つ『おせっかい』だと思います。
問題や悩みの多くは、本人の置かれている状況や環境に関係します。
どんなに抽象的な問題、たとえば「私は良い親でいられない」のようなものでも、
それを強く感じる場面があるはずなので、その意味では状況や環境に依存するわけです。
時間が経てば、状況や環境は変わっていきます。
そうすると表面的な悩みが変わっていくことになります。
表面的な悩みが形を変えても、多くの場面で共通して関係してくる
問題を作り出してしまう自分の行動パターンや思考パターンがあれば、
それを変えるような取り組みをすることが役立ちます。
今の目先の問題を解決するのに役立つ行動パターン・思考パターンを扱うのではなく、
長期的に見て、ずっと関わっていきそうなものを優先的に扱う。
すると、その努力が後まで実を結びやすいと考えられます。
問題と関わっている状況が改善されて、自分にとって心地よくなるように取り組む。
それも1つの方法です。
それを目的にするなら、手段は色々と考えられるものです。
その状況を改善するために、自分の癖になっているパターンを変えるとしたら
それは長期的に見たときに役立つ可能性が広がります。
ただ、それを変えたからと言って、目の前の問題が改善されるとは限りません。
問題を生み出している自分の癖やパターンを変えていく方法は
短期的な問題解決のためだけのものではないんです。
それは自分の中にある課題に気づき、その課題をクリアすることで自分自身の幅を広げ、
未来に起きるかもしれない様々な場面に対処できる力をつけるための
『トレーニング』でもあるんです。
ですから、そういう自分の振る舞いのパターンを変えるようなトレーニングをすると
半年とか一年とか経ったあたりで、効果が感じられて来たりするのでしょう。
そして、自分の中の課題をクリアしていこうという発想は
状況と結び付いた問題や悩みを解決したいという発想とは別物です。
そのことを意識しておくことは重要だと思います。
今、目下の状況で困っているのであれば、将来的なことを考えて課題に取り組むよりも、
短期的に目の前の問題に対して楽になれるように工夫をするほうが良いかもしれません。
それを決めるのはクライアントです。
クライアント本人が現状に凄く困って相談に来ているのだとしたら
短期的に状況を変えるような取り組みの工夫を考慮する必要があるでしょう。
逆に、その問題を通じて、自分の未来を含んだ人生全般に対して
なんとなくの課題意識を感じているような場合には、
目先の問題を扱うよりも、自分自身の内的な課題をクリアするよう
トレーニングを考えていく必要が出てきます。
内的課題を重視する場合には、短期的な解決を目指す必要さえない場合もあるはずです。
なので、
「自分がクライアントの問題をどのように捉えているか」
「クライアントは問題の中の何を重要視しているのか」
「自分がその問題に、どのような手段で取り組もうとしているか」
といった要素を
バランスよく配慮していくことが求められると思います。
短期的な問題状況の解決をクライアントが求めているのに
カウンセラー側が、内的課題をクリアするための方法しか使えなかったり。
逆に、内的課題の取り組みを意識しているクライアントに対して
短期的な問題状況の改善を話し合ったり。
求めていることとは違ってしまうわけです。
いずれにおいても、『安定感』、『自信』、『柔軟性』を育むことは
人生全般に役立つことが多いので、そこを逃さなければ危険は小さいでしょうが、
「何が求められていて」「何が役立つのか」を区別して取り組めるのと
そうでないのでは効果には大きな違いがあると思います。
2010年09月19日
評価が与える影響
一般的に、人は関係性を一定にしやすいものです。
両者の間で一度、関係が決まってしまうと、それは変わりにくい。
もちろん、徐々に変わっていくことはありますが、
短期的に大きく変わるには何かの事件に近いレベルのキッカケが必要だったりします。
その両者の関係性を作るまでには、個人差として
一気に決まった関係ができるまで踏み込んでいく速い人もいれば、
徐々に打ちとけながら安定した関係を作っていく人もいます。
二人にとって安定する距離感が生まれるまでに
近づいたり離れたりを繰り返して、ある一定のところをキープする、ということです。
だからこそ、ちょっと距離が離れた感じを受け取れば
少し距離が近づけるように工夫をして、普段よりも多めに連絡を取ったり
近づき過ぎれば、もめごとを起こしたりして、距離を適切に保とうとする。
距離感として言うと、単純に親密度のように感じるかもしれませんが
それだけではありません。
上下関係とか、主体性とか、評価とか、他人が関わる要素において
両者の間で関係性が一定になりやすいものでしょう。
これが能力や技術に関しても起きるというのが重要なんです。
「この人は優秀だ」とか「この人は才能がある」とか、そういう評価においても
一度本人の中で決まってしまうと、そのレベルを保つように関係性が進みやすい。
自分の能力に対する評価や見込みが、相手の中で決まってしまうわけです。
上司が部下を一度「こいつは優秀だ」と捉えれば、その評価は変わりにくいので
少しぐらいミスがあっても「何かあったんじゃないか?」と推測をしたり
「このミスを活かして大きく成長するだろう」と期待したりする。
逆に上司が部下を「こいつはダメだ」と評価してしまえば
小さなミスでも「またミスしやがって」とか「やっぱりダメだ」とか
自分の評価の枠組みに当てはめて部下を見るようになりやすいものです。
「なりやすい」という言い方をしていますが、
ほとんどの場合は気づかずに、そうなっていると思います。
そうじゃない人を見ることなんて滅多にないものでしょう。
有名な実験結果として『期待をかけられた生徒のほうが成績の伸びが良い』
というものがありますが、そのうちの1つの要因は、
こうした関係性が保たれやすい性質に関係していると考えられます。
ということは、教員や講師、インストラクターといった人たちは
自分が指導する相手を、どのように評価しているかに注意をする必要があると思うんです。
自分が相手を低く見積もってしまえば、その人が伸びる可能性は減ってしまう。
「この人は上達しないなぁ」という感想を持つことがあったとしたら
それは自分が相手を低く評価していることと関係するかもしれないんです。
高く評価しているときでも注意が必要なことには変わりがありません。
そこには先々の見込みも含まれるからです。
「この人はスゴイ!きっとグングン伸びていく」と思って指導をしていたとしても
その伸び具合に評価や見積もりが含まれてしまいます。
その伸び具合の評価が低い可能性があるんです。
例えば、野球のコーチが「この子のバッティングは上手いなぁ」と思っていて
バッティングで活躍できるように指導していたとしても
コーチ自身が「自分の教え子からイチローを超える選手なんて出ないだろう」と
心のどこかで感じていることがあったとしたら、
その野球少年の才能を低く見積もってしまっているかもしれないんです。
自分の常識でしか相手を判断できない。
超一流を沢山育ててきた人が判断した才能と、そうでない人が判断した才能では
中身に大きな違いがあるはずです。
そしてそれが、その後の成長に関係するはずです。
「上達する」ことを思い描いておらず、現状の実力だけで評価をする指導者は
相手の上達のチャンスすら奪っている可能性があり、
どんなに「上達」を予測していたとしても、その予測の範囲がある限り
予想を上回る劇的な上達速度は奪ってしまっている可能性がある。
まぁ、指導という立場にいれば、ある程度は
相手の実力がついてくることを目にしているでしょうから
何も変わらないままという想像はしていないだろうと僕は期待していますが、
その実力の伸び具合に評価や予測を入れないことは難しいでしょう。
無限の可能性を信じていてくれれば良いんでしょうが、
それを期待することは酷だと思います。
なぜなら無限の可能性を期待してしまっては
相手のレベルに合わせて指導するのではなく、
過剰なまでに高度なことばかりを要求しかねないからです。
僕が今までしてきたことは、
『人は小さなキッカケで大きく変化する』
ということを実感した上での関わりのつもりです。
人は数分もあれば、劇的に変わる可能性がある。
まして、次に会う日には、別人のように変わっているかもしれない。
そういう前提で、一瞬一瞬で、相手を見るようにしてきたつもりです。
逆にいえば、何が変わったかを注目しているのかもしれません。
「その人の今」に合わせた対応をする。
それは、「その人」に合わせた対応をする、のとは別物です。
「その人」に合わせてしまっては、変化の可能性や成長の度合いを
自分が決めてしまうことで、逆に可能性を奪うかもしれないんです。
語学においては、とくに重要な要因になっているんじゃないでしょうか。
熟練した語学の指導者ほど、どのくらいの進度が一般的なのかを知ってしまっています。
だからこそ、劇的な上達なんてないと捉えてしまいやすい。
それがネイティブの場合は、特にそうでしょう。
日本人が英語を話すということに対して当たり前だと思っていないはずです。
むしろ、多くの日本人の生徒は英語が話せない。
自分と同じレベルで話せるようになると信じている講師は滅多にいないでしょう。
何年も英会話教室に通っても、ネイティブ並みになる人がいない理由の1つに
指導者側が見積もってしまっている評価の問題もあるような気がします。
日本人の講師でネイティブ並みの英語力にまでなった人であれば
どういうプロセスで言語習得がなされていくかを知っている分、
その点の評価では効果的に働くかもしれません。
それでも、劇的に変わるということを信じられる人は少ないんじゃないかと思います。
同じ先生について、ずっと習い続けるというのは
その点でデメリットになることがあると思います。
関係性が決まってしまって、上達の度合いに制限をかける場合があるんじゃないか、と。
その先生が毎回、初対面のように評価を変えてくれれば望ましいですが、
そういう発想を持っている先生を探すのは大変でしょう。
まして一般的な英会話スクールにいるネイティブの講師に
そういう期待をするのが困難なのは当然の話だと思います。
「この生徒は、これぐらいの英会話力だ」
「日本人は、こういうものだ」
「このレベルの生徒は、これぐらいの進歩をするものだ」
知らず知らずのうちに、そういう評価がなされてしまうでしょう。
生徒の側も、関係性が決まってしまうと、
「その先生の前にいる自分」を決めてしまいやすいものです。
劇的に上達した自分を表現するのが難しい。
なので、ある程度のタイミングで先生を変える、
場合によってはスクールそのものを変える、
というのが有効じゃないかと思います。
以前のスクールで身につけてきたものを最大限に発揮した状態を
新しいスクールでゼロから評価しなおしてもらえる。
初心者というレッテルがなくなるんです。
そして、ある程度の時間が経過したころに
また以前のスクールに戻るのも良いかもしれません。
今度は、劇的に上達した自分で新たに接しなおすことができます。
もちろん、そのときには新たな自分のつもりで行くことも大事ですが。
すると「 Oh! いつの間にか、すごく上達しているじゃないか!」
という風に見てくれるでしょうから。
短期的に力をつけたい場合には、
指導者側の上達予測に制限されないための工夫が役立つと思います。
両者の間で一度、関係が決まってしまうと、それは変わりにくい。
もちろん、徐々に変わっていくことはありますが、
短期的に大きく変わるには何かの事件に近いレベルのキッカケが必要だったりします。
その両者の関係性を作るまでには、個人差として
一気に決まった関係ができるまで踏み込んでいく速い人もいれば、
徐々に打ちとけながら安定した関係を作っていく人もいます。
二人にとって安定する距離感が生まれるまでに
近づいたり離れたりを繰り返して、ある一定のところをキープする、ということです。
だからこそ、ちょっと距離が離れた感じを受け取れば
少し距離が近づけるように工夫をして、普段よりも多めに連絡を取ったり
近づき過ぎれば、もめごとを起こしたりして、距離を適切に保とうとする。
距離感として言うと、単純に親密度のように感じるかもしれませんが
それだけではありません。
上下関係とか、主体性とか、評価とか、他人が関わる要素において
両者の間で関係性が一定になりやすいものでしょう。
これが能力や技術に関しても起きるというのが重要なんです。
「この人は優秀だ」とか「この人は才能がある」とか、そういう評価においても
一度本人の中で決まってしまうと、そのレベルを保つように関係性が進みやすい。
自分の能力に対する評価や見込みが、相手の中で決まってしまうわけです。
上司が部下を一度「こいつは優秀だ」と捉えれば、その評価は変わりにくいので
少しぐらいミスがあっても「何かあったんじゃないか?」と推測をしたり
「このミスを活かして大きく成長するだろう」と期待したりする。
逆に上司が部下を「こいつはダメだ」と評価してしまえば
小さなミスでも「またミスしやがって」とか「やっぱりダメだ」とか
自分の評価の枠組みに当てはめて部下を見るようになりやすいものです。
「なりやすい」という言い方をしていますが、
ほとんどの場合は気づかずに、そうなっていると思います。
そうじゃない人を見ることなんて滅多にないものでしょう。
有名な実験結果として『期待をかけられた生徒のほうが成績の伸びが良い』
というものがありますが、そのうちの1つの要因は、
こうした関係性が保たれやすい性質に関係していると考えられます。
ということは、教員や講師、インストラクターといった人たちは
自分が指導する相手を、どのように評価しているかに注意をする必要があると思うんです。
自分が相手を低く見積もってしまえば、その人が伸びる可能性は減ってしまう。
「この人は上達しないなぁ」という感想を持つことがあったとしたら
それは自分が相手を低く評価していることと関係するかもしれないんです。
高く評価しているときでも注意が必要なことには変わりがありません。
そこには先々の見込みも含まれるからです。
「この人はスゴイ!きっとグングン伸びていく」と思って指導をしていたとしても
その伸び具合に評価や見積もりが含まれてしまいます。
その伸び具合の評価が低い可能性があるんです。
例えば、野球のコーチが「この子のバッティングは上手いなぁ」と思っていて
バッティングで活躍できるように指導していたとしても
コーチ自身が「自分の教え子からイチローを超える選手なんて出ないだろう」と
心のどこかで感じていることがあったとしたら、
その野球少年の才能を低く見積もってしまっているかもしれないんです。
自分の常識でしか相手を判断できない。
超一流を沢山育ててきた人が判断した才能と、そうでない人が判断した才能では
中身に大きな違いがあるはずです。
そしてそれが、その後の成長に関係するはずです。
「上達する」ことを思い描いておらず、現状の実力だけで評価をする指導者は
相手の上達のチャンスすら奪っている可能性があり、
どんなに「上達」を予測していたとしても、その予測の範囲がある限り
予想を上回る劇的な上達速度は奪ってしまっている可能性がある。
まぁ、指導という立場にいれば、ある程度は
相手の実力がついてくることを目にしているでしょうから
何も変わらないままという想像はしていないだろうと僕は期待していますが、
その実力の伸び具合に評価や予測を入れないことは難しいでしょう。
無限の可能性を信じていてくれれば良いんでしょうが、
それを期待することは酷だと思います。
なぜなら無限の可能性を期待してしまっては
相手のレベルに合わせて指導するのではなく、
過剰なまでに高度なことばかりを要求しかねないからです。
僕が今までしてきたことは、
『人は小さなキッカケで大きく変化する』
ということを実感した上での関わりのつもりです。
人は数分もあれば、劇的に変わる可能性がある。
まして、次に会う日には、別人のように変わっているかもしれない。
そういう前提で、一瞬一瞬で、相手を見るようにしてきたつもりです。
逆にいえば、何が変わったかを注目しているのかもしれません。
「その人の今」に合わせた対応をする。
それは、「その人」に合わせた対応をする、のとは別物です。
「その人」に合わせてしまっては、変化の可能性や成長の度合いを
自分が決めてしまうことで、逆に可能性を奪うかもしれないんです。
語学においては、とくに重要な要因になっているんじゃないでしょうか。
熟練した語学の指導者ほど、どのくらいの進度が一般的なのかを知ってしまっています。
だからこそ、劇的な上達なんてないと捉えてしまいやすい。
それがネイティブの場合は、特にそうでしょう。
日本人が英語を話すということに対して当たり前だと思っていないはずです。
むしろ、多くの日本人の生徒は英語が話せない。
自分と同じレベルで話せるようになると信じている講師は滅多にいないでしょう。
何年も英会話教室に通っても、ネイティブ並みになる人がいない理由の1つに
指導者側が見積もってしまっている評価の問題もあるような気がします。
日本人の講師でネイティブ並みの英語力にまでなった人であれば
どういうプロセスで言語習得がなされていくかを知っている分、
その点の評価では効果的に働くかもしれません。
それでも、劇的に変わるということを信じられる人は少ないんじゃないかと思います。
同じ先生について、ずっと習い続けるというのは
その点でデメリットになることがあると思います。
関係性が決まってしまって、上達の度合いに制限をかける場合があるんじゃないか、と。
その先生が毎回、初対面のように評価を変えてくれれば望ましいですが、
そういう発想を持っている先生を探すのは大変でしょう。
まして一般的な英会話スクールにいるネイティブの講師に
そういう期待をするのが困難なのは当然の話だと思います。
「この生徒は、これぐらいの英会話力だ」
「日本人は、こういうものだ」
「このレベルの生徒は、これぐらいの進歩をするものだ」
知らず知らずのうちに、そういう評価がなされてしまうでしょう。
生徒の側も、関係性が決まってしまうと、
「その先生の前にいる自分」を決めてしまいやすいものです。
劇的に上達した自分を表現するのが難しい。
なので、ある程度のタイミングで先生を変える、
場合によってはスクールそのものを変える、
というのが有効じゃないかと思います。
以前のスクールで身につけてきたものを最大限に発揮した状態を
新しいスクールでゼロから評価しなおしてもらえる。
初心者というレッテルがなくなるんです。
そして、ある程度の時間が経過したころに
また以前のスクールに戻るのも良いかもしれません。
今度は、劇的に上達した自分で新たに接しなおすことができます。
もちろん、そのときには新たな自分のつもりで行くことも大事ですが。
すると「 Oh! いつの間にか、すごく上達しているじゃないか!」
という風に見てくれるでしょうから。
短期的に力をつけたい場合には、
指導者側の上達予測に制限されないための工夫が役立つと思います。
2010年09月16日
やり過ぎ注意
「自由にさせる」と言いながら、「放任」になっている。
人が自由になれる状態は、無関心に放置されているのとは違うはずです。
信頼して任せるのと、無関心なのは違うでしょう。
「仕組みを作ったら、あとは自立させる」と言いながら、
自分に都合よく人が動いてくれるように「管理」をしようとしている。
仕組みは組織には有効ですが、個人の学習には邪魔になるときもあるはずです。
それが「仕組みから自由になる」ことを学んでいるときには、特に。
「相手を信頼してサポートする」と言いながら、
その人の代わりに何かをしてあげようとする。
「代わりにやる」ということは、
その人が「できる」と信じていないからじゃないでしょうか。
「考え方」や「習慣」、「プログラム」や「ビリーフ」を変えれば
「問題は解決する」と言いながら、自分が「その考え方」を押しつけている。
ともすると「問題は何かをしなければ解決しない」という前提を持ってしまう場合まで。
人は日々、変わっているものだと思います。
何かを勉強して、何かを心がけるのは簡単です。
しかし、何かをしないように気をつけるのは難しいものだと思います。
人が自由になれる状態は、無関心に放置されているのとは違うはずです。
信頼して任せるのと、無関心なのは違うでしょう。
「仕組みを作ったら、あとは自立させる」と言いながら、
自分に都合よく人が動いてくれるように「管理」をしようとしている。
仕組みは組織には有効ですが、個人の学習には邪魔になるときもあるはずです。
それが「仕組みから自由になる」ことを学んでいるときには、特に。
「相手を信頼してサポートする」と言いながら、
その人の代わりに何かをしてあげようとする。
「代わりにやる」ということは、
その人が「できる」と信じていないからじゃないでしょうか。
「考え方」や「習慣」、「プログラム」や「ビリーフ」を変えれば
「問題は解決する」と言いながら、自分が「その考え方」を押しつけている。
ともすると「問題は何かをしなければ解決しない」という前提を持ってしまう場合まで。
人は日々、変わっているものだと思います。
何かを勉強して、何かを心がけるのは簡単です。
しかし、何かをしないように気をつけるのは難しいものだと思います。
2010年09月14日
「三次元」の酷評
最近、テレビでも映画でも、場合によっては携帯でも
「3D」映像のようなものが出回ってきています。
辛辣な言い方になりますから、関係者の方が目にしたら申し訳ないんですが、
僕は個人的に、あの技術は、まだ認められません。
「3D」と呼ぶにはちょっと早いんじゃないか、と。
「飛び出て見える画像」ぐらいなら良いですけど。
確かに、あの「3D」加工の画像を見ていると
画面のある位置よりもずっと手前にまで映像がやってくる感じがしますから
何かが飛んで向かってくるようなときには迫力があるかもしれません。
ただ、それは普通のテレビのドッキリ映像であるような
例えば、ゴルフボールがビデオカメラに直撃したときの映像であっても
こっちに向かって速いスピードで向かってくれば
思わず避けてしまうほどの迫力は十分にあるわけです。
なので、迫力を増す上で、効果を発揮するところはあるでしょうが、
その効果のほどは驚くほどではない気がするんです。
ここからが重要なんですが、その「3D」画像の表現の仕方は
むしろ一般的な平面画像よりも、リアリティを失っているように思えるんです。
そう感じる人は少ないんでしょうか?
僕が、人間の認知プロセスなどに興味を持っているせいかもしれません。
しかしながら現実的に、今の「3D」技術で表現されているのは
複数の焦点距離に像が結ばれるように屈折させているところまでに見えます。
奥行きがあるように見える部分は、あくまで画面と自分との間の空間に
近寄って画像が浮いていることで表現されているに過ぎません。
仮に、3人の人が手前から奥に向かって違う位置に立っていたとしたら
それぞれの場所が違っていることは見て取れます。
ただ、3人が全部、違う「空間」に浮いているようにしか見えないんです。
それも、かなり平面的に。
言ってみれば、透明なスライドに人物の絵を描いて、
それを手前から奥に向かって3か所に配置しているような状態です。
背景の絵はその奥にあるんです。
だから奇妙に見える。
現実的な見え方では、あり得ないんです。
人間が三次元として認知するときの視覚的な特徴は含まれていません。
いくつかの平面が前後に重なっているように見えて
現実とは違った映像になっていると思うんです。
トリックアートと呼ばれる絵画は、完全に平面に描かれているにも関わらず
見ている側に三次元的な認知をさせますから、
そちらのほうが統一感のある3Dになっていると考えられます。
逆に言えば、現実では認知できない世界を見せてくれているわけですから
それを活用した映像効果を考えれば工夫できるところは沢山あるんでしょう。
ですが、それは我々一般の三次元の認知とは別物です。
ちなみに、「対象物だけが背景から浮き出て見える」という状態は
本人が「のどから手が出る」ほど、あるいは「吸い寄せられる」ほどに
魅力的なものを認知するときのプロセスに似ていることがあります。
この「3D」技術で商品を背景から浮き上がらせるように寄せてくる、
NLPでいうビジュアル・スウィッシュのような動きを作れば
その商品が「欲しくてたまらない」ような気分にさせることは可能かもしれません。
おそらく、人間は映画やテレビの画面を見るとき、どんなに小さな画面でも
周辺視野への意識を低下させて、画面の中だけに集中する度合いが高まります。
もちろん、画像そのものが大きいほうが、視野の大部分を画面で占められるので
自然とその画像の世界に意識を集中しやすくはなるでしょう。
そして、この意識の向いている視野の範囲が、普段見えている世界と近いほど
その画面の中の世界に臨場感を感じることができるわけです。
その点、現状の「3D」映像は、視野を画面の中だけに固定できません。
本来は画面の中とは違うはずの空間に、画面の中のものが配置され
それを画面の中の世界と関連付けなければいけない。
一手間、余計にかかります。
そして、画面の中の世界だけに入り込むことも許されません。
画面と自分との間の途中の空間にも意識を分散させる必要があるからです。
となると、仮に映画館で「3D」映像を見たとしたら、
途中の空間の位置に焦点を合わせるタイミングがあって
そのときには、その距離に見える前の座席の人や通路などの他の物が
同時に意識されてしまう可能性が出てきます。
「画面の中のものが、映画館の中の空間に飛び出してきた」という迫力は
『自分は映画館の中にいる』という現実を認識させるので
映画の中の世界だけに入り込むための臨場感を低下させます。
ストーリーが展開される世界には入りにくくなるし、
映像を認識するためにも普段と違う作業が必要になって注意が散漫になるし、
「飛び出してくる」迫力を得るために支払っている代償は大き過ぎる気がします。
もし、本気で3Dの認知を作り出したければ
メガネのようにしてスクリーンを目の前に映し出すのが手っ取り早そうです。
しかも、できるだけ視野の全てを覆えるようにする。
目を開ければ、視野に入る範囲が全て映像になるようにしておくわけです。
ちょっと目を左右に振っても、そこまで画像が入っているように。
目を下に下げれば、自分の手足と地面が見える状態。
そうなると、何かが浮き出ている必要はありません。
映像の中で遠近感を正確に表現するほうが重要でしょう。
奥への広がりだけを表現すれば良いんです。
手前は、目の数cm前に実際の絵があるわけですから、近いほうは十分でしょう。
音声に関しては、距離感や方向性を感じさせるような録音・再生の技術がありますから、
そういう音声をヘッドホンで流すことになるでしょうか。
この上に、匂いや温度、皮膚感覚なども再現したら
現実との区別がつかなくなるぐらいの状況でしょうから、
そうなると別の問題が出てくるように思えます。
ヘッドセット型の映像と音声供給装置だけで、
その世界にいるかのような臨場感は、相当なレベルで作り出せると考えられます。
ただ、忘れてはいけないのは、「自分」は物語の登場人物ではないということ。
こういう技術で臨場感を高めていったときに認識されるのは
まるで夢を見ているような状態だと想像できます。
自分がその世界にいるように感じられるということは
ストーリーに対しての意味づけも必要になるのかもしれません。
自分がその世界にいるかのような臨場感を生み出したとすると、
それは主体的な体験として認識されるでしょう。
映画やテレビ、演劇などは、その場面を見ている自分が
その世界と切り離されている度合いが残っていることで
客観性を保っているわけです。
NLPのサブモダリティの特徴として表現するなら
思い浮かべた画像がパノラマで見えるときは100%主観的に体験していて
少し距離のある場所に、ある範囲で映像が見えるときには客観性が出ていると言えます。
ということは、ヘッドセットで視野全部を映像で覆ってしまった場合、
思い浮かべた映像がパノラマのときと同様、100%の主観的な捉え方になります。
一方、通常の映画やテレビのように、少し離れたある場所に映像が見えるときは
客観性を含みながら捉えられているときに似ているんです。
映画や演劇の魅力の1つは、自分とは違う世界を眺めながら
その世界にリアリティを感じつつも、
自分とは違う世界として切り離した体験ができるところにもあるはずです。
客観的な世界の中に、自分の人生で感じている感情を投影しながら
自分の人生と少し距離を置いて向き合うことができる。
その意味では、映画館のスクリーンやテレビ画面は、
自分の視野の中で、自分と離れた場所にある必要もあるんです。
離れた画面の中の世界に、共感するように想像力を使うのが重要な楽しみの1つです。
映像が飛び出てくる必要はないと思います。
自分から入っていくのが魅力なんですから。
「3D」映像のようなものが出回ってきています。
辛辣な言い方になりますから、関係者の方が目にしたら申し訳ないんですが、
僕は個人的に、あの技術は、まだ認められません。
「3D」と呼ぶにはちょっと早いんじゃないか、と。
「飛び出て見える画像」ぐらいなら良いですけど。
確かに、あの「3D」加工の画像を見ていると
画面のある位置よりもずっと手前にまで映像がやってくる感じがしますから
何かが飛んで向かってくるようなときには迫力があるかもしれません。
ただ、それは普通のテレビのドッキリ映像であるような
例えば、ゴルフボールがビデオカメラに直撃したときの映像であっても
こっちに向かって速いスピードで向かってくれば
思わず避けてしまうほどの迫力は十分にあるわけです。
なので、迫力を増す上で、効果を発揮するところはあるでしょうが、
その効果のほどは驚くほどではない気がするんです。
ここからが重要なんですが、その「3D」画像の表現の仕方は
むしろ一般的な平面画像よりも、リアリティを失っているように思えるんです。
そう感じる人は少ないんでしょうか?
僕が、人間の認知プロセスなどに興味を持っているせいかもしれません。
しかしながら現実的に、今の「3D」技術で表現されているのは
複数の焦点距離に像が結ばれるように屈折させているところまでに見えます。
奥行きがあるように見える部分は、あくまで画面と自分との間の空間に
近寄って画像が浮いていることで表現されているに過ぎません。
仮に、3人の人が手前から奥に向かって違う位置に立っていたとしたら
それぞれの場所が違っていることは見て取れます。
ただ、3人が全部、違う「空間」に浮いているようにしか見えないんです。
それも、かなり平面的に。
言ってみれば、透明なスライドに人物の絵を描いて、
それを手前から奥に向かって3か所に配置しているような状態です。
背景の絵はその奥にあるんです。
だから奇妙に見える。
現実的な見え方では、あり得ないんです。
人間が三次元として認知するときの視覚的な特徴は含まれていません。
いくつかの平面が前後に重なっているように見えて
現実とは違った映像になっていると思うんです。
トリックアートと呼ばれる絵画は、完全に平面に描かれているにも関わらず
見ている側に三次元的な認知をさせますから、
そちらのほうが統一感のある3Dになっていると考えられます。
逆に言えば、現実では認知できない世界を見せてくれているわけですから
それを活用した映像効果を考えれば工夫できるところは沢山あるんでしょう。
ですが、それは我々一般の三次元の認知とは別物です。
ちなみに、「対象物だけが背景から浮き出て見える」という状態は
本人が「のどから手が出る」ほど、あるいは「吸い寄せられる」ほどに
魅力的なものを認知するときのプロセスに似ていることがあります。
この「3D」技術で商品を背景から浮き上がらせるように寄せてくる、
NLPでいうビジュアル・スウィッシュのような動きを作れば
その商品が「欲しくてたまらない」ような気分にさせることは可能かもしれません。
おそらく、人間は映画やテレビの画面を見るとき、どんなに小さな画面でも
周辺視野への意識を低下させて、画面の中だけに集中する度合いが高まります。
もちろん、画像そのものが大きいほうが、視野の大部分を画面で占められるので
自然とその画像の世界に意識を集中しやすくはなるでしょう。
そして、この意識の向いている視野の範囲が、普段見えている世界と近いほど
その画面の中の世界に臨場感を感じることができるわけです。
その点、現状の「3D」映像は、視野を画面の中だけに固定できません。
本来は画面の中とは違うはずの空間に、画面の中のものが配置され
それを画面の中の世界と関連付けなければいけない。
一手間、余計にかかります。
そして、画面の中の世界だけに入り込むことも許されません。
画面と自分との間の途中の空間にも意識を分散させる必要があるからです。
となると、仮に映画館で「3D」映像を見たとしたら、
途中の空間の位置に焦点を合わせるタイミングがあって
そのときには、その距離に見える前の座席の人や通路などの他の物が
同時に意識されてしまう可能性が出てきます。
「画面の中のものが、映画館の中の空間に飛び出してきた」という迫力は
『自分は映画館の中にいる』という現実を認識させるので
映画の中の世界だけに入り込むための臨場感を低下させます。
ストーリーが展開される世界には入りにくくなるし、
映像を認識するためにも普段と違う作業が必要になって注意が散漫になるし、
「飛び出してくる」迫力を得るために支払っている代償は大き過ぎる気がします。
もし、本気で3Dの認知を作り出したければ
メガネのようにしてスクリーンを目の前に映し出すのが手っ取り早そうです。
しかも、できるだけ視野の全てを覆えるようにする。
目を開ければ、視野に入る範囲が全て映像になるようにしておくわけです。
ちょっと目を左右に振っても、そこまで画像が入っているように。
目を下に下げれば、自分の手足と地面が見える状態。
そうなると、何かが浮き出ている必要はありません。
映像の中で遠近感を正確に表現するほうが重要でしょう。
奥への広がりだけを表現すれば良いんです。
手前は、目の数cm前に実際の絵があるわけですから、近いほうは十分でしょう。
音声に関しては、距離感や方向性を感じさせるような録音・再生の技術がありますから、
そういう音声をヘッドホンで流すことになるでしょうか。
この上に、匂いや温度、皮膚感覚なども再現したら
現実との区別がつかなくなるぐらいの状況でしょうから、
そうなると別の問題が出てくるように思えます。
ヘッドセット型の映像と音声供給装置だけで、
その世界にいるかのような臨場感は、相当なレベルで作り出せると考えられます。
ただ、忘れてはいけないのは、「自分」は物語の登場人物ではないということ。
こういう技術で臨場感を高めていったときに認識されるのは
まるで夢を見ているような状態だと想像できます。
自分がその世界にいるように感じられるということは
ストーリーに対しての意味づけも必要になるのかもしれません。
自分がその世界にいるかのような臨場感を生み出したとすると、
それは主体的な体験として認識されるでしょう。
映画やテレビ、演劇などは、その場面を見ている自分が
その世界と切り離されている度合いが残っていることで
客観性を保っているわけです。
NLPのサブモダリティの特徴として表現するなら
思い浮かべた画像がパノラマで見えるときは100%主観的に体験していて
少し距離のある場所に、ある範囲で映像が見えるときには客観性が出ていると言えます。
ということは、ヘッドセットで視野全部を映像で覆ってしまった場合、
思い浮かべた映像がパノラマのときと同様、100%の主観的な捉え方になります。
一方、通常の映画やテレビのように、少し離れたある場所に映像が見えるときは
客観性を含みながら捉えられているときに似ているんです。
映画や演劇の魅力の1つは、自分とは違う世界を眺めながら
その世界にリアリティを感じつつも、
自分とは違う世界として切り離した体験ができるところにもあるはずです。
客観的な世界の中に、自分の人生で感じている感情を投影しながら
自分の人生と少し距離を置いて向き合うことができる。
その意味では、映画館のスクリーンやテレビ画面は、
自分の視野の中で、自分と離れた場所にある必要もあるんです。
離れた画面の中の世界に、共感するように想像力を使うのが重要な楽しみの1つです。
映像が飛び出てくる必要はないと思います。
自分から入っていくのが魅力なんですから。
2010年09月12日
「仕方ない」の気持ち
日本語では、頻繁に「仕方ない」という言葉が出てくると思います。
使いどころが多くて便利ですが、同時に、とても日本人的な発想のようです。
英語の辞書で「仕方ない」を調べようとすると、色々な表現が出てきます。
I have no choice. (他に選択肢はない)
It can't be helped. (助けようがない、手の打ちようがない)
There was no avoiding it. (避けることはできなかった)
It can't be avoided. (避けられない)
These things just happen. (こういうことは起こるものだ)
It's natural. (当然だ)
どれも微妙にニュアンスが違うような気もしますし、
たしかにそういう意味合いで「仕方ない」という時もあります。
が、いずれの言葉の後にも「だから、しかたない」と言葉が続けられますから、
その意味では、どれも正確な訳ではないと思うんです。
僕の印象では、「あきらめ」とセットになっているような印象がありますが、
またこの「あきらめる」というのも英語ではニュアンスが変わるようです。
「あきらめる」というときには「断念する」感じや
「無理だと判断して、やめる」という感じもあれば、
「受け入れる」感じもあると思います。
断念や、無理だと判断するほうの「あきらめる」は「 give up 」に近いようですが、
受け入れるのに近いほうは、「仕方ない」の気分が伴うので
上に挙げたような言い回しになるのかもしれません。
「仕方がない」対象は状況であるにもかかわらず、
そこに「受け入れ」に近い「あきらめる」内面的な状態を伴っていて、
表現として気分を語る言い回しになっているのが特徴的だと思います。
同じような状況に遭遇することは日本人でも英語圏の人でもあるでしょうが、
そのときに、何を表現する言葉を使うかが違うわけです。
日本人は、そこで自分の状態を表わす言い回しを使う。
「仕方ない」と。
細かく言えば、「仕方ない」は物や状況につく言葉ですから
「仕方ない」場面など、状況を説明する言葉なのかもしれません。
ただ、状況を「仕方ない」と判断している気持ちをベースにして
その自分の気持ちを含む状態全部を一言で「仕方ない」状態として説明しています。
それに比べて、英語の場合は、外の状況を意識している度合いが
もっと高いように感じられます。
自分の内面的な気分を述べるよりも、外側の状況を述べるという印象。
そして、外側の状況に対して何らかの作用をもたらす雰囲気もあります。
アクティブな感じです。
影響を与えてくる主体があって、その主体との作用を表現するとでも言いましょうか。
別の言い方をすれば、英語のほうが「動画っぽい」んです。
日本語は「静止画っぽい」。
自分という存在と、体の外側にある状況とが別の存在として切り分けられていて
その間で及ぼし合う力と影響が、動きを伴って表現されるのが、英語。
自分という存在と、体の外側にある状況とが切り分けられておらず、
自分と外側の区別が弱いために、そもそも「自分」が意識される度合いが弱い。
そのため、自分の内面から周りに起きている全ての状況まで、ひっくるめて捉え
それを動きのない状態や性質として表現するのが、日本語。
日本語で主語が省略されやすいのは、動きや力が影響を及ぼす様子を捉えておらず
全体的な状況を一場面として捉える傾向があることと関係していると考えられます。
それは何かの動作を表現するときにも
「〜する」ではなく「〜している」という言い回しを
よく使うことと関係していると思います。
「関係する」ではなく「関係している」なんです。
「私は毎日、学校に行きます」じゃなくて
「私は毎日、学校に行っています」。
「〜している」は、間違っても英訳したときに、現在進行形ではありません。
進行形は、もっと動作の感じが強い。
動画が強調されているんです。
日本語で良く使われる「〜している」は、英訳すると
「 be 動詞 + 形容詞」のような感じじゃないかと思います。
「 It rains. 」と「 It is rainy. 」の違いです。
英語で自然なのは前者で、日本語で自然なのは後者。
このような、動作の主体が、周囲の状況に影響を及ぼしている関係性を
動画のようにイメージして、それを言語に変えていかないと
なかなか自然な英語は使いこなせないのではないかと考えています。
「仕方ない」というのは、まさに
自分の内面の気分と周囲の状況が一続きになって捉えられていて
それを一場面の状態として表現する言葉じゃないでしょうか。
状態を感じて言語として表現する日本語の特徴は、たとえば
温泉につかって、ゆったりとした時間を味わっているような
穏やかな幸福感が、文化的に根付いていることとも関係する気がします。
逆に、何かを成し遂げた達成感のように、
短期的にピークが実感されるような幸福感が、英語圏では文化的に根付いていて、
それが動きや影響を伴う躍動的な表現とも関係しているかもしれません。
農耕民族の長期的な時間の流れの感覚と、
狩猟民族の短期的な時間の流れの感覚の違いにも思えます。
実りの時期を迎えているときの豊かな気持ちは長続きしますが、
狩猟に成功したときの達成感は、一瞬に喜びが集中します。
そんなことを考えていると、帰国子女のバイリンガルが
日本語を話すときよりも、英語を話すときに、
荒々しい感じが出てくるように見えるのも、納得できるようです。
使いどころが多くて便利ですが、同時に、とても日本人的な発想のようです。
英語の辞書で「仕方ない」を調べようとすると、色々な表現が出てきます。
I have no choice. (他に選択肢はない)
It can't be helped. (助けようがない、手の打ちようがない)
There was no avoiding it. (避けることはできなかった)
It can't be avoided. (避けられない)
These things just happen. (こういうことは起こるものだ)
It's natural. (当然だ)
どれも微妙にニュアンスが違うような気もしますし、
たしかにそういう意味合いで「仕方ない」という時もあります。
が、いずれの言葉の後にも「だから、しかたない」と言葉が続けられますから、
その意味では、どれも正確な訳ではないと思うんです。
僕の印象では、「あきらめ」とセットになっているような印象がありますが、
またこの「あきらめる」というのも英語ではニュアンスが変わるようです。
「あきらめる」というときには「断念する」感じや
「無理だと判断して、やめる」という感じもあれば、
「受け入れる」感じもあると思います。
断念や、無理だと判断するほうの「あきらめる」は「 give up 」に近いようですが、
受け入れるのに近いほうは、「仕方ない」の気分が伴うので
上に挙げたような言い回しになるのかもしれません。
「仕方がない」対象は状況であるにもかかわらず、
そこに「受け入れ」に近い「あきらめる」内面的な状態を伴っていて、
表現として気分を語る言い回しになっているのが特徴的だと思います。
同じような状況に遭遇することは日本人でも英語圏の人でもあるでしょうが、
そのときに、何を表現する言葉を使うかが違うわけです。
日本人は、そこで自分の状態を表わす言い回しを使う。
「仕方ない」と。
細かく言えば、「仕方ない」は物や状況につく言葉ですから
「仕方ない」場面など、状況を説明する言葉なのかもしれません。
ただ、状況を「仕方ない」と判断している気持ちをベースにして
その自分の気持ちを含む状態全部を一言で「仕方ない」状態として説明しています。
それに比べて、英語の場合は、外の状況を意識している度合いが
もっと高いように感じられます。
自分の内面的な気分を述べるよりも、外側の状況を述べるという印象。
そして、外側の状況に対して何らかの作用をもたらす雰囲気もあります。
アクティブな感じです。
影響を与えてくる主体があって、その主体との作用を表現するとでも言いましょうか。
別の言い方をすれば、英語のほうが「動画っぽい」んです。
日本語は「静止画っぽい」。
自分という存在と、体の外側にある状況とが別の存在として切り分けられていて
その間で及ぼし合う力と影響が、動きを伴って表現されるのが、英語。
自分という存在と、体の外側にある状況とが切り分けられておらず、
自分と外側の区別が弱いために、そもそも「自分」が意識される度合いが弱い。
そのため、自分の内面から周りに起きている全ての状況まで、ひっくるめて捉え
それを動きのない状態や性質として表現するのが、日本語。
日本語で主語が省略されやすいのは、動きや力が影響を及ぼす様子を捉えておらず
全体的な状況を一場面として捉える傾向があることと関係していると考えられます。
それは何かの動作を表現するときにも
「〜する」ではなく「〜している」という言い回しを
よく使うことと関係していると思います。
「関係する」ではなく「関係している」なんです。
「私は毎日、学校に行きます」じゃなくて
「私は毎日、学校に行っています」。
「〜している」は、間違っても英訳したときに、現在進行形ではありません。
進行形は、もっと動作の感じが強い。
動画が強調されているんです。
日本語で良く使われる「〜している」は、英訳すると
「 be 動詞 + 形容詞」のような感じじゃないかと思います。
「 It rains. 」と「 It is rainy. 」の違いです。
英語で自然なのは前者で、日本語で自然なのは後者。
このような、動作の主体が、周囲の状況に影響を及ぼしている関係性を
動画のようにイメージして、それを言語に変えていかないと
なかなか自然な英語は使いこなせないのではないかと考えています。
「仕方ない」というのは、まさに
自分の内面の気分と周囲の状況が一続きになって捉えられていて
それを一場面の状態として表現する言葉じゃないでしょうか。
状態を感じて言語として表現する日本語の特徴は、たとえば
温泉につかって、ゆったりとした時間を味わっているような
穏やかな幸福感が、文化的に根付いていることとも関係する気がします。
逆に、何かを成し遂げた達成感のように、
短期的にピークが実感されるような幸福感が、英語圏では文化的に根付いていて、
それが動きや影響を伴う躍動的な表現とも関係しているかもしれません。
農耕民族の長期的な時間の流れの感覚と、
狩猟民族の短期的な時間の流れの感覚の違いにも思えます。
実りの時期を迎えているときの豊かな気持ちは長続きしますが、
狩猟に成功したときの達成感は、一瞬に喜びが集中します。
そんなことを考えていると、帰国子女のバイリンガルが
日本語を話すときよりも、英語を話すときに、
荒々しい感じが出てくるように見えるのも、納得できるようです。