2010年10月

2010年10月31日

歌手の発音

最近の歌手の中には、海外育ちだったり、海外経験が長い人たちが結構いるようです。
リズム感や発声の仕方、表現方法など、純粋な日本育ちの歌手とは違いを感じます。

逆に、日本育ちで「英語は全く…」という歌手であっても
洋楽をカバーしたりすると、綺麗な発音で歌える人も沢山います。
知らないで聞くと洋楽かと思ってしまうほどだったり。

まぁ、丁寧に聞いていくと変なところがあったりしますし、
同じ歌手が、自分の曲の歌詞の中に英語のフレーズの出る部分を歌うと
途端に英語的ではない発音になったりしますから、
やっぱり海外育ちの歌手とは違いがあるのは分かります。

それでも重要なのは、音楽をやっている人、
特にプロの歌手のように歌うことを専門にしている人は、
自然と綺麗な発音で洋楽を歌える、という部分です。

耳が良いとでも言いましょうか。
自分の歌をコントロールするためには、自分の声を聞く必要がありますし、
「こうやって歌う」というイメージを理解するために違いを聞き取る能力も必要でしょう。

その辺りの聞く能力と合わせる能力が、英語の音に対しても活きると考えられます。

だから洋楽をカバーするときには、元となる曲がありますから、
そこから音の情報を聞き取ることができて、正しい発音に近くなるように
工夫しながら発音していくこともできるわけです。


この「聞いて、真似をする」というシンプルなプロセスが
幼児期の言語獲得には当然含まれているはずですが、
大人がやろうとすると中々難しいところがある。

シャドーイングと呼ばれる練習方法は、ネイティブスピーカーの英語を聞きながら
それを陰で追いかけるように、自分も一緒に発声していくやり方で、
真似をするという意味では役に立つところがあります。

感の良い人は、シャドーイングでリズム感やイントネーションなどを
自然に身につけられるかもしれません。

しかし、シャドーイングでは自分の発声している声を聞きにくいという
デメリットがあるのも事実です。

自分の声をモニターできない。
すると、自分の発声や発音があっているのかどうかが分からないわけです。

かといって、自分で文章を音読してみたとしても
やっぱり見本となるものがないので発音に注意するのは難しい。

カラオケの場合は、ガイドメロディというのが含まれていますが、
プロが歌うときはBGMだけでガイドメロディがないので
同じ歌であっても難しさが違う、というのと似ています。

少し前のシングルCDだと、「インツルメンタル」とかいって
歌の入っていないBGMだけが収録されていました。
それだと合わせる目標やガイドラインがないので
カラオケよりも歌うのが難しいということです。

音読ではガイドメロディがない。
シャドーイングでは自分の声が聞けない。

歌の上手い人は、どちらも自分でやれる傾向があります。
ガイドメロディを記憶から再現して頭の中で聞くことができて、
自分の歌声がガイドメロディと合っているかを聞き分けることもできる。

それがあると、英語の音を真似していくのにも効果があると考えられます。

歌が得意な人のほうが、英語の発音は綺麗になりやすい、と。


日本で習うときも、発音の言語的な研究をしているネイティブスピーカーであっても
口の開け方とか、舌の位置とか、そういう指導の仕方が多いようです。

これも一理ありますが、効果は決して高いとは言えないと思うんです。

まず自分の口の中の様子をモニターするのが難しい。
そのように口を使っているつもりでも、図で示されている使い方と一緒かどうか
判別する方法がありません。
鏡だけでは口の中まで見えない。

なので、英語の分かる人に、音の練習で善し悪しを判別してもらうとき、
彼らは形云々じゃなくて、結局のところ発音された音を元に判断しています。

練習する側が意識できるのは、形をイメージしながらの筋肉の様子になる。
指導は形という見た目で入り、練習は体感覚を想像しながら、判断は音。
この基準がバラバラになっていることが1つの問題でしょう。

もう1つの理由は、1つの音だけで練習をしていても
実際に単語や文章の中で発音される時には例外的なものが出てくるということ。

発音記号が正しく読めて、発音記号だけで音読ができれば
正しい発音に近く練習していくことも可能かもしれませんが、
通常の文章は英単語で書かれていますから、
結局スペルだけでは分からない音の様子を把握する必要性は残ってしまいます。

だったら、最初から英単語ごとにネイティブの発音の仕方を習ったほうが
効率的に音を抑えていけるんじゃないか、と考えられます。


どうやったらネイティブと同じ発音ができるか。
それだけを基準に練習していくのが、発音を綺麗にする方法かもしれません。

その意味では、録音しながら元の音をCDなどで流して
それに続いて自分の発音を録音して、両方を聞き比べる、
というやり方が効率的だろうと思います。

まぁ、ここでも違いを聞き分ける能力が問われますから、
本当の意味で、一人だけでできることには限界はあるとは思います。

この違いを聞き分ける能力も、やはり音楽的な素養と関係するので
プロの歌手が発音良くカバー曲を歌える理由も納得できる部分です。

いずれにせよ、何かを自分でコントロールできるようになるためには
目指すべき基準と、それをモニターする方法の両方が
効果的である必要があるということです。

2010年10月28日

11月の勉強会

11月の勉強会のお知らせ


 最初に言いますが、今回のテーマはコミュニケーションにおいて本質的です。
 全ての人に役立つ技術です。



世の中には「どうして、そんな言葉が出てくるんだろう?」というほど
人の心に響く言葉がけをできる人がいます。

僕のイメージするコミュニケーションの達人たちは
あきらかに、その特徴を持っています。

実際には、様々な技法を学びに行った方々ですが
体系化された技術そのものは、ある程度のトレーニングで身につくと感じています。

しかし、
あの言葉が生まれる瞬間に関しては
講座の内容とは別に、衝撃的な印象が残ります。

その一言でクライアントの表情が変わる。
姿勢が変わる。
場の空気が変わるんです。

前に進む力が生まれるような瞬間。

一見すると本当に些細な「あぁ、それは苦しいですね…」という一言から、
「皆には分からないところで、ずっと一人で支えてこられたんですね」、
「○○さんの会社を辞めていくなんて、もったいないですねぇ!」などと
相手の状態・状況に合わせて選ばれる複雑な言葉まで、
その人の求めていた何かを埋めるようなメッセージが語りかけられます。

この一言が、その後のコミュニケーションの展開を変えるんです。

他のどの技術よりも本質的で
何よりも効果が大きく
圧倒的に難しく
より良いものを求めれば上限のないもの。

ここの技術の差が、コミュニケーションの展開を分けるとも言えますし、
あらゆるコミュニケーション技術の集大成が、ここに表れるとも言えるでしょう。

『ねぎらい』
です。

今回は、この「ねぎらい」をテーマにします。
少しハードルを上げましたが、トレーニングは丁寧に行います。


「ねぎらい」は、英語には対応しにくい概念の1つです。
「 appreciation 」は「評価」や「感謝」に近い。
「 verbal reward 」は「言葉の報酬」ですから
 「よくやってくれた」というような言葉でしょうか。
「 back-patting 」は「激励」や「同意」に近いものですが、
 単語の意味から察すれば、背中をポンポンと軽く叩いて
 慰めや応援をするイメージが浮かびます。

実際には、日本語においても「ねぎらい」というと、
上司がチームの仕事の成果や一年間の頑張りを「ねぎらって」
食事につれていったり、「よくやってくれた!」と声をかけたり、
といったイメージが強いところもあるかもしれません。

しかし「ねぎらい」という言葉が使われる範囲は、もっと広いことがあり
なかなか一口には説明しきれない概念になっているように思えます。

まず、今回の勉強会では、この「ねぎらい」の範囲を整理します。

「ねぎらい」によって何が起こり、
どのようなメッセージが「ねぎらい」に当たるのか

それを知ることで、意識的に「ねぎらい」ができるようになります。

事実、自分は「ねぎらい」のつもりで言ったことが
相手にとって反感を買うという場面もあるんです。

誰かが言っていた素敵な言葉だから、誰にでも使えるなんてことはありません。
逆に失礼になってしまうことだってあり得ます。

だからこそ、何が「ねぎらい」になるのかを知っておくのが重要だというわけです。


勉強会の中でも解説をしますが
「ねぎらい」と「リフレーミング」には関係があります。
同じものではありませんが、関わりはあるんです。

最近の勉強会でも扱った「リフレーミング」ですが、
これまでに何度となく取り上げてきたことでも分かるように
コミュニケーションの技術として中心になるほど重要なものだと言えます。

「リフレーミングの言葉」をかけるにせよ
質問によって「リフレーミングが起こる」にせよ、
相手の変化にはリフレーミングが重要です。
必須とは言いませんが、重要です。

その一方で、どんなにリフレーミングをしようとしても
どんなに説得しようとしても、どんなにコーチングしようとしても、
「そうですよね…、でも…」と、堂々巡りになってしまうことがあります


それをセラピストは「抵抗」と呼び、
世間一般では「ヤル気がない」と言ったりする。
「本当は変わる気がないんじゃないか?」と

確かに、変わるのにはエネルギーがいります。
だからこそ、エネルギーを高めるのが大切なんです。

どんなに力のある人でも、一時的にエネルギーを失うこともあります。
そもそもエネルギーを高めることなく生きてきて、
自分のエネルギーに気づいてない方もいるでしょう。
深く傷ついて、立ち止まっているだけのエネルギーすら大変な場合だってあります。

その場合の、最大のサポートは
 エネルギーを取り戻してもらうように力づけをする
ということじゃないでしょうか。

それが「ねぎらい」の持つ効果だと言えます。

心の引っかかりを取り除く。
前に進むのを妨げる部分を解消する。
低下したエネルギーを補う。
力づけをする。
前を向けるようになる。
一歩を踏み出しやすくなる。

…どんな表現でも構いませんが、
変化の前提になる状態を作り出す関わり方が「ねぎらい」だということです。

「変化したい」状態になれば、それをサポートする技術は沢山あるんです。
その前に「変化したい」という気持ちになるほうが大変なんです。

コミュニケーションの達人とは
 「変化したい」気持ちにしてくれる人

なんじゃないでしょうか。

僕の見てきたコミュニケーションの達人が
見事な「ねぎらい」のメッセージをかけていたのは
そのことの重要性を知っていたからではないかと思います。


ちなみに変化ということでいえば、コーチングの場合は
前に進もうとするエネルギーの高さが求められます。

同時に、力がある人は、少しぐらいの傷つきやエネルギーの低下があっても
それを自分の意志で乗り越えて目標に向かって進もうとすることができます。

ですから、「ねぎらい」の技術を使わなくてもコーチングは機能しますし、
逆に言えば、「ねぎらい」がなくても大丈夫な人たちには
コーチングは有効だとも説明できるわけです。

コーチが「ねぎらい」の技術を持っていると
ヤル気を高める方向にも働きかけられますから
コーチングの技術を適用できる範囲が広がるはずです。

最初から「コーチングを受けたいです!」という相手には関係ないかもしれません。
ただ、組織の場合は状況が違います。
組織におけるコミュニケーションでは、ヤル気を高めるほうがむしろ重要でしょう。
組織にコーチングを導入したいのであれば、「ねぎらい」は欠かせないと思います。


もちろん「ねぎらい」は日常会話でも役立ちます。
むしろ、日常的なコミュニケーションの質は
「ねぎらい」が決めているといっても過言ではないかもしれません。

日常で話される内容は、特定の目的に向かってなされる建設的なものとは限りません。
日々の生活で起こる喜びやストレスが話題になることが多いものです。

変化のため、解決のため、目標達成のための話し合いじゃないんです。
そこには、もっと人として本能的な欲求があります。

それを満たすのが、まさに「ねぎらい」なんです。

ただ、上にも書きましたが、その技術は簡単ではありません。
本当に心に響く「ねぎらい」のメッセージを生むためには
コミュニケーションに求められる能力の多くが組み合わされる必要があります。

今回の勉強会では、「ねぎらい」を技術としてトレーニングするために
基本的な型と発想の生み出し方を練習してもらいます。

そして、それを活用するために求められる能力も
一緒にトレーニングしていきます。


以前にも「ねぎらい」を扱った回がありました。
そのときよりも、身につけるためのトレーニングを充実させられると思います。

輸入物のコミュニケーション技法には含まれない技術です。
日本人に大切なコミュニケーションだと思います。
海外にも輸出したい技術だと考えています。(英語の修業が必要ですが…)

自分自身、磨き続けてきたい技術です。

「ねぎらい」の技術があると、
 関係性を強い絆で結ぶことができます。
 カウンセリングの時間を短縮できます。
 コーチングを適用できる範囲も広がります。
 コミュニケーションの進行を促進できます。
 前に進むエネルギーを高めることができます。
 
トレーニングは実践的に行いますから、
「ねぎらい」の効果を自分自身で実感することも大切です。

ご自分が「ねぎらって」もらいたいような内容を準備してきて下さい。
ストレスがかかったこと、残念だったこと、困っていること、不満なこと…。

2010年も終盤に近づいています。
これまでを振り返って、ご自身をねぎらう時間にもなれば何よりです。

心のエネルギーを高める方法は、自分にも相手にも大切なものだと思います。

お越しをお待ちしております。



<ご参加に際しての注意事項>

※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
 NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
 過去に勉強会でトレーニングを積まれた方
のご参加をお薦めします。


※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
 ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。

 その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。



  ※最近は多くの方からお申し込みを頂いています。
   定員を設けていますので、ご注意ください。
   定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。


  ※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。


詳細は以下のとおりです。




【勉強会の詳細】


【日時】 11月23日(火・祝)

     ◆午前の部 10:00〜12:30  
     ◆午後の部 13:30〜16:30


     ★午前のみのご参加も可能です。(理論の全体像は午前に扱います)
      「午前」あるいは「両方」でお申し込み下さい。



【場所】 滝野川会館 301集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)


【参加費】当日、会場にてお支払いください。
     
     ◆午前の部 ・・・4,000円
     ◆午前・午後の両方 ・・・7,000円

    
    
テーマ: 『ねぎらいの技術』


 *多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
  学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
  ご了承ください。




ストレスの多い世の中のようです。

人それぞれ、違った形で頑張っています。

何を頑張っているかも人それぞれ違えば、
何を頑張っていると評価するかも人それぞれです。

自分で頑張っていることが、
他人からは「頑張っている」と評価されない。
そんなことは頻繁にあるものです。

頑張っているというのは、「大事にしたい」と言い換えても良いでしょう。
自分にとって欠かせない部分と関係するから頑張るわけです。

分かってくれる人は少ないんです。

同じ志をもった人々が集まるのは、そこで共有できるものがあるからかもしれません。
お互いに「頑張っていること」「大事にしたいこと」を認め合える場なのかもしれません。

そういう人がいることは心強いものでしょう。
ありがたいことだろうと思います。

ですが、そんなに頑張っている自分を
一番分かることのできるはずの人が、
そのことに気づいていない場合が多いんです。

自分です。

自分が自分の頑張りを分かっていない。
自分が自分の大事なことを分かっていない。

自分が分かっていない状態でコミュニケーションがスタートするんです。
自分で気づけていないところに期待しているものがある。
相手からのメッセージを期待しているのに、気づいていないんです。

そして、それが相手から得られないことに不満を高める。

しっかりとコミュニケーションのトレーニングを積み
「ねぎらい」の技術を磨いた人だとしても、
自分自身さえも気づいていない本心からの期待に沿うようなメッセージは
なかなか簡単にかけてくれるものではないようです。

かけてくれても、100%は満たされないかもしれません。

何より、メッセージをかけようとする側だってストレスを抱えているんです。
本人のことを差し置いて、誰かのためだけに努力を続けるのも大変でしょう。

だからこそ、自分自身が、頑張っている自分を
他の誰よりも「ねぎらう」ことができるようでありたいと思うんです。

上手に「ねぎらい」の言葉にできなくてもいい。
頑張っている自分に気づくだけでいい。

「誰も気づいてはくれないけど、ここは頑張っている。
 本当は、ここを分かってもらいたいのかもしれない。」
そんな部分を意識できるようになるだけで、
自分が自分の頑張りを認められるようになるんじゃないでしょうか。

「ねぎらい」の技術を学ぶということは
誰か他の人を「ねぎらう」ことだけを意味するのではないわけです。

他ならぬ自分にも気づけるようになる。
自分の中の分かってもらいたい気持ちにも気づけるようになるはずです。
それだけで楽になる部分があるものです。

それもまた、「ねぎらい」を技術としてトレーニングする価値の1つだと思います。

だからこそ、お忙しい方にも、ちょっと無理をしてでも来て頂きたいのです。


終了しました

トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。


是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。

今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。


また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。


【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。


勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。

その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。

また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。

調査して勉強会にあたります。



それでは当日お会いできることを楽しみにしています

2010年10月26日

憧れにはならない

今年もNLPのトレーナーコースに向けた審査の時期がやってきました。

審査に向けて準備をしている方を見ると、
トレーナーコースについての思い出が蘇ります。

フロリダで過ごした日々が懐かしいのと
そこで感じた変化や衝撃が意識の前面に上がってくるような感じがあります。

今、もう一度アメリカにコースを受けに行ったら
全然違った体験ができるんだろうと想像したりもします。

通訳なしで楽しめる度合いも違うでしょうし、
何がなされているかへの理解も違うでしょう。

少なくとも、今にしてトレーナーコースを振り返ってみて
リチャード・バンドラーやアシスタントのトレーナーたちが
何をしようと工夫していたのかが見てきている部分もあるかもしれません。

そこにはコース全体を通して設計されていた意図がハッキリとしている気がします。
コースでの経験によって色々な影響が出るように工夫されていた。

参加者にどれくらい伝わったのかは分かりませんし
個人差もあるとは思いますが、彼らのしていたことの多くは
意識的、知識的な学習やトレーニングではなく、
もっと個人的で内面的な、人間的成長を促すようなものだったと思います。


一見するとメチャクチャに思える彼らの振る舞いも
下品で非難を浴びることの多い言動も、意図があってのものでしょう。

バンドラーは自分の影響力に自信も持っているでしょうが、
それ以上に自分の影響力の大きさに注意を払っているように感じています。

そして、それはトレーナーやインストラクターや講師と呼ばれる人たちにとっては
非常に重要な注意事項のはずです。
自分の予想外の影響力を知ることが求められると僕は考えます。

特に、リチャード・バンドラーはNLPの創始者のひとりであって、
オリジナルの人であって、NLPをやり、トレーナーになろうという人にとっては
まさに憧れに近い雲の上のような存在に感じられる可能性があります。

そうでなくても、心を扱う場面においては
その場をコントロールしている人物に対して強烈なラポールが生まれやすいものです。

それが、NLPの創始者で、天才的だと噂される人物ですから
その尊敬の念や期待は大きくなっても当然でしょう。

ともすれば、アイドルのコンサートのように
講師が登場した瞬間に「キャー!!」となっても不思議ではありません。

僕には、バンドラーという人が、そのような偶像崇拝や盲信を
避けようとしている姿勢が感じられました。

個人的にいえば、僕は別のセミナーにおいて
ほとんど全ての参加者がトレーナーに対して憧れや崇拝を抱いているような場面を
何度か目にしてきたことがあります。

場合によっては、そのトレーナーに再会できたことで涙する人もいる。
それだけの想いを持てるのは素晴らしいと思いますが、
参加者がそのような状態になることが
その人自身の人生にとって望ましいかと考えると
僕はそれに同意はできません。

もちろん、セラピー的な関係性においては、一時的に
そうした強い結びつきが役立つことがあるのは事実です。
ただ、同じだけのセラピー効果が得られるのであれば、自立という意味において
そうした強い関係性はないほうが良いと思います。

それがセミナーということであれば、
トレーナーがアイドルやスターのように崇められてしまうのは
決して望ましいことではないと思うんです。

バンドラーは、特に崇拝されるのを嫌っていたような気がします。


それが、あのハチャメチャな言動や、下品なセミナー内容なんじゃないか、と。

トレーナーコースでは、座る場所を一定にするなと言われました。
しかし強制ではありません。

もし、それをルールにしたら、真面目な日本人の多くは
それが正しいんだと思いこんで、自分のセミナーでも同じように
「座る位置は毎回変えるようにしましょう」などと説明するようになるかもしれません。

確かに座る位置を変えると体験の仕方に大きな影響が出ます。
でも彼らは、それを詳しくは説明しなかったように記憶していますし、
それを強要することも、それが重要であるかのようにも言わなかったと思います。

あくまでチョット乱暴に、突き放すように、
「同じところに座るなよ!」と言いながら
それをルールや常識にはしようとしていませんでした。

確かに、座る位置を変えると感じ方は変わる。
それを体験することは重要だと思います。
やってみると違いに気づけるんです。

そして、それに気づいた後で、本人がどこに「座りたい」と思うかは
本人次第だということです。
本人が自分の意思で選択すれば良いんです。

違う方法をやってみて、その意味を知った上で普段のやり方を選択するのと、
無自覚なままにいつものやり方を続けるのでは、全く意味が違います。

彼らの突き放し方の中には、参加者自身の自由と自立を促すような工夫が
溢れていたんじゃないかと感じます。


「ノートを取るな!」というのも同様です。

もしノートを取らないことのメリットを論理的に説明して、
それが崇拝するリチャード・バンドラーの教えだったとしたら
日本で教えられるNLPのコースでは「ノートは取らないこと」というルールが
テキストの最初のほうに注意事項として載るようになったかもしれません。

「ノートを取ると理不尽な怒られ方をする。
 めちゃくちゃだなぁ…」
そんな感じ方をしてくれたほうが、ずっと
本人に意味を考えてもらうキッカケとしては役に立つでしょう。

何よりも、そういうメチャクチャな印象を与えることが
崇拝されるリスクを避けるのに役立っていると考えられます。

…まぁ、バンドラーの過去には良くない噂があるのも事実です。
本当に、そういうハチャメチャな性格だという部分もあるかもしれません。

ですが、彼ぐらい自分の振る舞いをコントロールしながら
意味のあるメッセージを複数組み合わせてプレゼンテーションできる
パブリックスピーカーであったとしたら、
理想的な人物を装うことぐらい簡単だと推測されます。

問題行動のようなものを噂されるとしても
「あのような暗い過去があったから、今の私があります」なんて
自分が正しい道を進んでいることを強調する材料に使えば、
完全無比な聖人のように振る舞うこともできるはずです。

NLPの創始者で、人間的にも素晴らしくて、
誰に対しても慈悲の心をもって接してくれ、
気づきと無批判で周りの人を成長させてくれる…
そんな人物像をすることぐらい、お手の物でしょう。

そうしたほうがビジネスだって上手くいくかもしれないし、
評判だって良くなるかもしれないし、
今よりも遥かに多くの人から尊敬を集めて
一大派閥を作ることだってできたかもしれません。

でも、バンドラーは、それをしなかったんだと思うんです。

そんなことよりも、実際に自分と関わる目の前の参加者に対して
本当に役に立つ影響を及ぼすことだけを考えたら、
ああいう下品でハチャメチャなスタイルになったんじゃないでしょうか。

持ち味を活かしながら、という前提がつくからハチャメチャなんだとは思いますが。

少なくとも、NLPの創始者リチャード・バンドラーという人物の影響を知るからこそ
意図的に自分の振る舞いを俗っぽくして、
崇拝されてしまうことを避けているところがあるんじゃないかということです。

敵も作るし、嫌われるし、評判も落とすし、尊敬もされにくいし…。
それが分かっていて、あの振る舞いを選んでいる。

だからこそバンドラーはスゴイんだと僕は考えているんです。

世の中に「今の私があるのはNLPのおかげです」という人はいるかもしれません。
でも「今の私があるのはリチャード・バンドラーのおかげです」という人は
限りなく少ないんじゃないかという気がします。

バンドラーがいなかったら、NLPは生まれなかった。
それを知っている人でも、バンドラーに意識が向きにくい。
そんな普及のさせ方をした人だと考えると、
やっぱり偉大な人物なんだと感じられます。

2010年10月24日

面白い講演動画

TEDというサイトが面白いです。

英語の勉強がてら見ていますが、色々な講演を動画で見ることができます。

欧米スタイルの講演を見ていると日本人との違いも感じられます。
スタンダップ・コメディに馴染みがあるせいか、
一人が舞台の上で自由に動き回るというのが標準的なスタイルなのかもしれません。

日本のように演台があって、マイクに向かって話し続ける
というわけではないようです。

当然、舞台上を歩き回ります。
まぁ、NLPのトレーナーとして見てしまうと
無駄な動きや意味のない動きもあったりしますが、
どこまで考えてやるかと言われれば、僕も空間の使い方に対する工夫は
そんなに一生懸命ではありませんから、人のことは言えません。

1つの発見は、話の構成が世間一般でいわれるほどには
論理的な構成にしようとしていないということ。

大学の講義などは論理構成をしっかりさせているのかもしれませんが、
こうした講演の場合は、面白く聞けることを工夫しているせいか
もっと自由で、日本人からしても違和感のない自然な展開に感じられます。

なんとなく映画を見ている時のような話の展開に似ています。
一番面白い部分は、気になるように工夫して、楽しみを取っておくような感じ。
もちろん、ループを作るような人もいます。


日本でも有名なのは、
「ハイ・コンセプト」や「モチベーション3.0」でお馴染みのダニエル・ピンク。
講演動画はこれです

ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代
ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代
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モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか
モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか
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他にも「第一感」(原題は「 Blink 」)のマルコム・グラッドウェルも面白いです。
(マルコム・グラッドウェルはこちら。

第1感  「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい (翻訳)
第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい (翻訳)
クチコミを見る



字幕も世界各国の言葉で出せるようになっています。

色々と勉強になるサイトだと感じています。

2010年10月22日

あの頃に…

この間、ふと考えが浮かびました。
「過去に戻ることができたら…」

もう何年も、そんな考えを抱くことさえなく
誰かがそんな話をしているのが耳に入ってきた時も
気にとめない感じでいたんですが。

ここしばらくの間、そんな発想から遠ざかっていたのは、
今の自分があることに過去が影響していて
少しでも変わっていたら今のようには生きていないんじゃないか
ということを思っていたからだと感じます。

それが、ふと「過去に戻ることができたら…」なんて考えが浮かんだ。
というよりも、正確には、その言葉の裏に
「過去に戻れたら良いなぁ」という「戻りたい」に近い願望があった気がします。

だからといって、今の自分が嫌になったわけでは決してなく、
もっと単純に、元気な時期を長くしたいという感じです。

色々なことをしたいから、もっと時間が欲しい。


当然、「今の自分の経験と記憶を持ったまま戻る」のが前提です。

高校生ぐらいに戻ったとしたら、脳の発達が一応続いている段階と言われますから
どうなるのかは良く分かりません。

もっと前、小学生とかだとしたら、可塑性が高く、効率的な学習ができそうですが
今の自分の記憶や、今の自分が価値を置くものも
変化していってしまいそうなので、それは困るかもしれません。

安全に戻るんなら、大学生ぐらいでしょう。
もし、今の脳のままで戻れるなら小学生でも良いかもしれませんが、
体のフィードバックで脳のネットワークが変わることを考えると
大学生ぐらいが適当な気がしています。
(まぁ、あり得ない話をどれだけ正確に設定しても仕方ないんですが…)

ただ、大学生ぐらいだと取り返せる時間が決して長くないので
大学生ぐらいに戻るのを2,3回はやりたいなぁ、なんて思いました。

当然、時間が戻ったとしたら、今の自分の記憶のままで当時の自分になるわけですから
周りの人たちとは全くといっていいほど合わないと思います。
多少、流行を先取りするかもしれませんが、そんなのは僕にはどうでもいいこと。

無理矢理にでも気を遣うか、孤立しても構わないか。

小学生ぐらいに戻ったら大変でしょうね。
キャピキャピできるとは思いません。
「名探偵コナン」以上のギャップが出るわけです。

そんな風に孤立すると分かっていても、やってみたいことがある。
そう考えると、こんな気持ちが再び沸いてきたのも悪いことではなさそうな気がします。

残りの人生でどれぐらいのことができるのか。
そんな意識が高まっているのかもしれません。

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2010年10月20日

論理をすっとばす癖

最近になって自覚したんですが、僕はあまり論理的ではないようです。

セミナーをしていると「論理的だ」と言われることが多いですが、
実際に英語のロジックの勉強をしてみると、
自分の論理展開に飛躍や勝手な補足が行われていることに気づきます。

まぁ、この論理展開が飛躍することや、
自分なりに情報を補いながら話の内容を理解していくというスタイルは
日本文化に固有の「察する」コミュニケーションと関連するかもしれませんが。


例えば、『月の起源』をテーマにした内容で話を考えてみます。

月の起源には以前、3種類の説が言われていました。

1つは地球と同じガス状の成分が、近い場所で凝集して塊になったという説。
双子のように同じものから同時期に生まれた、と。

2つ目は、元は別の惑星だったものが地球の引力に引っ張られて
月の軌道を回るようになったという説。

3つ目が、以前の地球は回転速度が速くて、原始地球の飛び出た部分が
遠心力で引きちぎられて分裂し、それが月になったという説。


ところが、アポロ計画で持ちかえられた月の石を分析してみたところ
いずれも説も否定されてしまったんです。

同じ成分から生まれている双子のような関係だとしたら
月の石の組成は地球の成分と同じになっているはずです。

元々、別の惑星だとしたら、成分は全くの別物と想定されます。

地球から引きちぎられたものだとしたら、月の組成は
地球の地表近くの成分と近くなって、中心部とは違うことになります。

実際は、全てに当てはまらなかった。
成分は、全体的に地球のものと良く似ていたんです。
一方で、低沸点の軽い物質は少なく、金などの沸点の低い重い物質は多めになっていた。
成分は似ているけれども、その比率が少し違っていたというんです。

そして、もう1つ。
鉄の比率だけが顕著に少ない。

似ているのだから別の惑星とは考えにくく、
違いがあるから同じものから生まれてはいない。
地表成分とも違いがある。


ということから、新たな説が提唱されています。

それは、火星と同じサイズぐらいの物体が地球に衝突して大爆発を起こし、
巻き上げられたり衝突のエネルギーで蒸発したりした成分が地球の周りに漂い、
それが凝集して月になったという説。

この説だと、月の石の組成が説明できます。
衝突のエネルギーで沸点の低い軽い成分は蒸発してしまって
再び月として凝集するときには含まれなかった。

そのため重い成分の比率が高めで、軽い成分の比率が低めになっている。

また、地球のコアの部分は鉄が集まっていると言われていますが、
衝突によって巻き上げられるものは割合として表面寄りが多くなるため
月には地球よりも鉄が少なめになっていると説明されます。

さらには、月の成分の中には、衝突した天体から持ちこまれた物質らしきものも
見つかっているようなので、その点でも説明がつく、と。

しかしながら、地球のどこを見ても、そのような衝突の痕跡は残っていないんです。


ここで、僕の論理的な理解の問題点が、不足分を勝手に補ってしまうことで
飛躍してしまう癖として表れます。

 「地球上に衝突の痕跡がない」ということが何を示しているか?
…この問いを考えたときに、混乱してしまうんです。

『衝突した物体は蒸発してしまった』と考えるのが
論理的に正しくないことが、すぐに理解できません。

 火星サイズの天体が地球に衝突した。
 中心近くまで巻き込むように削り取って爆発して
 多くのものが粉々になり、熱で蒸発して、チリやガスとして舞い上がった。
 舞い上がったほうが月になり、地球はその後に今の形に変化した。

そういう流れが頭の中に浮かんでしまって
『衝突した物体は蒸発してしまった』ということが
正しい説のように思えてしまうんです。

しかしながら、「地球上に衝突の痕跡がない」こととは
直接的に結びついていません。

僕の頭の中では、
 衝突したものが飛び散って蒸発してしまったから
 その部分を埋めるように地球が復元されて、今の球体になった
という流れが浮かんでいます。

痕跡はないわけです。

それに、もし蒸発していなかったとしたら、
ぶつかってきた天体が地球上に残り、球体じゃない形になったかもしれないし、
それが球体に復元されたとしても、衝突してきた天体の残骸が見つかると想像します。

ところが、その考え方は直接的ではないんです。
『復元されるような時期だったから』という考え方が抜けています。

今の地球に火星サイズの天体が衝突したら、どうなるか?
という部分です。

同じように大爆発が起こり、地球は大きく欠けたようになり、
どれくらいの単位かは分かりませんが、再び球体になるかもしれません。
ただ、地表が残った部分と、持っていかれた部分では差が出る可能性があります。

その後の地球を調べられる誰かがいたとしたら、
何かしらの衝突の痕跡が見つかるんじゃないだろうか、と想像できます。

一方で、今の地球には衝突の痕跡が残っていない。
ということは、衝突の跡が完全に分からなくなるぐらい
地球の形がリセットされたという考え方になります。

そして、それが可能になるのは、まだ地球が今のように出来上がっていない時期。
つまりドロドロの原始地球のとき、ということです。

まだ固まっていない時期の地球に別の天体が衝突して
大部分が飛び散ってしまったとしても、
そこから地球は今の形になるためのプロセスを始めていきます。

出来上がったものは、何事もなかったかのように均一になる、と。

なので、『衝突の痕跡が無い』ことが示しているのは
「衝突は地球誕生の時期に起きた」という説になる。

少なくとも、
「衝突した天体は蒸発してしまった」
「衝突は地球誕生の時期に起きた」
という2つの選択肢で、どちらがより論理的かと問われたら
「衝突は地球誕生の時期に起きた」のほうになるわけです。


この辺の区別が僕には非常に難しい。
僕だけではないかもしれませんが、情報を補いながら話を理解してしまうと
こういう丁寧な論理展開を理解するのが難しいようです。

言葉が示している内容に、多くの補足情報を追加しながら理解していると分かります。

言葉の内容だけしか取っていなければ、足りない部分に気づけるんです。

こうした勝手な補足がキッチリした論理展開を妨げているように思います。

理系とはいえ、数学や物理に進まなかったのも
この辺りの考え方の癖に関係しているのかもしれません。

2010年10月18日

改善のための取り組み

この間の日曜日に開催したコミュニケーションのトレーニング。
基礎的な部分を練習ましたが、レベルの高い内容になったように感じています。

効果的なトレーニングというのは、どのような時期であっても意味があって
その時々で得られるものに差が出てくるものです。

そして、ある程度トレーニングを積んできているからこそ
少しの気づきや、小さなコツだけで、劇的に技術が向上するときがあります。

特に、苦手分野に気づき、そこを効果的にトレーニングできると
全体的なレベルが底上げされたように変化することが多いようです。

得意分野を活かしていくのは有効な手段です。
しかし、それに頼ってばかりでは限界が来てしまう。

得意分野がハッキリしているときこそ、苦手分野を少し向上させるだけで
対応できる幅が大きく広がるんです。

苦手な分野のほうが伸びる幅が大きいとも言えます。

たとえば中学校の授業で、数学が苦手だったとします。
5教科の合計点で受験をするのだとしたら、得意な社会で補うという手もある。
ところが数学を少し頑張って合計点を上げていく方法もあります。

どんなに得意とはいえ、問題の相性であったり、予想外のミスだったりで、
高得点を絶えず維持するのは大変な場合もありますが、
苦手な数学から簡単な部類の問題で着実に点が取れるようになると
より安定して合計点を上げられるようになるでしょう。

また将来的に言えば、得意な社会の方向で進んでいっても
場合によっては数学の知識が求められることもありますし、
数学ができるようになることで、理科の成績も良くなるかもしれません。
数学的な発想が身につけば、国語にさえ影響する可能性もあります。

苦手分野をトレーニングすることには、大きな意味があるわけです。

得意分野とも言える本人の持ち味を活かすこと。
苦手分野のトレーニングをして、幅を広げること。
両方を適切なタイミングで行えると、多くのことが上手くいくようになると思います。

そのように強みを見出し、苦手分野を短期間で向上させられれば
トレーニングとしての有効性は高いと言って良いと考えられます。


そうはいっても、苦手分野をトレーニングするのは簡単ではありません。

いや、トレーニングすること自体は簡単なんです。
トレーニングの成果を上げるのが簡単ではないんです。

1つの理由は「苦手分野なので、効果的な方法を知らない」ことです。

あまり効果的ではない方法が癖になってしまっていて
効果的な方法を、上手くこなせなくなっていることが多いわけです。

苦手であれば上手くいく経験も少ないわけですから
何をすると上手くいくかという情報も蓄積されていません。

もっといえば、上手くいったことを判断する基準さえも明確ではない。
上手くいく状況を経験してきていないのですから当然です。
やったことのないことは判断のしようもないんです。

なので、上手くいく方法も知らないし
上手くいっているかどうかも分からないので、
単純な試行錯誤を繰り返すだけでは、
何が効果的な方法だったかにも気づきにくくなります。

苦手分野を我流で克服するのはハードルが高めだということです。


その意味では、得意な人からの助言が役立ちます。
上手くいく方法を教わる。
上手くいっているときを教えてもらう。

効果的なやり方と、効果的なフィードバックの組み合わせで
上手くいく方法を自覚できるようにしていくわけです。

しかしながら、苦手分野に関しては好きでないことが多い。
自分でそれをするのも好きではないし、
それをしている自分を見られるのも好きではない。

例えば、情熱的に言葉を発して説得するのが苦手な人は、
情熱的に話す行為自体に抵抗を感じやすいでしょう。

この「苦手分野を改善するための努力に抵抗を感じる」というのが
トレーニングの困難さの理由の1つです。

改善へのモチベーションが低い、と言っても良いかもしれません。
それは苦手だからこそ、過去に痛みを感じた経験があったり、
やることで傷つく可能性を心配していたりすることとも関係します。


こうした「痛みを避けようとする」エネルギーは
行動の方向性を決める動機付けになっています。

なので、苦手分野で徹底的に傷ついたりすると
それを克服しようとして大きな決断に繋がることがあります。
痛みを避けようとする動機が、変化の原動力になる場合です。

しかし、そういう経験は決して頻繁にあるものではありません。

むしろ、そのような心の痛みを伴う経験をしたときに
「何が問題だったのか」「どうしたら解決できるのか」が分からない状態だと
一歩を踏み出すまでには繋がらず、心の傷だけが残ることになってしまいます。

「動機づけの可能性がある痛みの場面の多くでは、
 どうしたら変えられるかが分からない」
これも苦手分野を克服するのが難しい理由の1つと考えられます。


苦手分野の場合…
・上手くいく方法を知らない
・それを教わっても、変えるためのモチベーションが高まらない
・モチベーションが高まるような痛い経験の場面では、改善策を見つけられない
ということが組み合わさっているわけです。

なので、トレーニングの場で、多少の痛みを伴いながらストレスをかけて
「避けようとするエネルギー」、つまりモチベーション、を高めます。

そして、その場ですぐに「改善策」を指導する。
これには得意な人からの意見が役立ちます。

自ら技術的なトレーニングに来るような人であれば
「避けようとするエネルギー」を、トレーニングそのものから避ける方向へは
使わない傾向があります。

そういうトレーニングだ、と外的な制約を加えて
ストレス状況の中に押し込むような負荷をかけるわけです。

逃げ場は、解決策の方向しかないように状況を作り上げる。

セラピーなどの場合は、この負荷の量を減らして小さな変化に限定しつつ、
確実に課題をこなすように確約することで対応しますが、
トレーニングレベルでは強めの負荷をかけても乗り越えられる可能性が高いものです。
(もちろん相手によって負荷の程度は考慮します)

トレーニングから逃げ場を失い、苦手分野の中でストレスをかけられると
唯一の逃げ道は、普段と違う新しい方法に取り組んでみることになります。

指導された内容をやってみる方向にプレッシャーをかけるわけです。

痛みとストレスによってモチベーションを上げながら行動変化を促すんです。

そして、実際に新しい効果的な方法に挑戦する。

そのあとには、確実なフィードバックが求められます。
上手くいったかどうかの基準も不明瞭なわけですし、
何よりストレスがかかっている状態なので状況判断能力も低下しています。

行動を起こしたことにフィードバックが得られる。
フィードバックの量は多いほうが良いでしょう。

技術的なレベルでのフィードバックに加え、
取り組む姿勢へもフィードバックがあれば、より印象は強まります。
とにかく、新しい方法をした結果にポジティブな印象を残すようにします。

上手くいく方法をしたことが記憶に残るように工夫するわけです。


具体的には、苦手分野に改善点としてのフィードバックをします。
それで痛みが伴う。
自覚があれば、なおさらでしょう。

その痛みから逃れようとするエネルギーに対して
外的な制約を加えてストレスをかけます。
改善のための意志を高めるんです。

そして実際に新しい方法に挑戦してもらう。

その結果には必ずフィードバックして、上手くいったことを自覚できるようにします。
できれば、本人が上手くいったかどうかが分かる基準も整理できると良いと思います。

このようなサイクルでトレーニングをすると、
苦手分野の改善が速やかになると考えられます。

そして、そのサイクル全体が楽しい雰囲気の中に組み込まれていると
楽しい経験の一部としての意味づけも追加されますから
学習の効果も強化されるでしょう。


先日開催したコミュニケーションのトレーニングでは
『紙を使ってタワーを作る』課題を利用して
このプロセスを組み込みました。

一度に色々なことに気づけるトレーニングではありますが、
その中に、気づきがあるか無いかに関わらず効果を生むプロセスを入れると
役立つことが多いはずです。

タワーを作る取り組み自体は、ゲーム感覚で仲良くなることもできますから
チームビルディングなどでも使われる方法ですし、
関係性を見るために家族を対象に行うこともあります。
入社面接で使えば、集団の中での振る舞い方が顕著に分かります。

取り組みの内容は同じでも、トレーニングの目的は変えられるんです。
オプションで付け加える指示内容が、トレーニングの方向性を決めます。

寸劇だってそうです。
寸劇を通じて得られる経験は沢山あります。
演じることそのものに意味のあるプロセスが含まれます。

しかし、その寸劇で何をトレーニングして、どんな効果を出すかは
全体構成の仕方で変わってくるんです。

何のワークをするかも大事ですが、
ワークをどのように進めるかも大事だと思います。

同じ内容のセミナーでも、進め方の工夫によって得られる効果が変わるということです。


ちなみに、こちらがワークで作った紙のタワー。
高さと美しさを求めて頂きました。

(1つのグループが最初に作った「紙のタワー」)
101017_B1























(そのグループが改善のための課題に取り組んだときに作った「タワー」)
101017_B2
























(もう1つのグループが最初に作った「紙のタワー」)
101017_A1























(もう1つのグループが改善のための課題に取り組んだときに作った「タワー」)
101017_A2
























美しさには、均一な美しさもあれば、絶妙なバランスの織りなす美しさもあります。
どれも味わい深いものですね。

ただ、各グループが改善のためのポイントに取り組んだ後のタワーのほうが、
どちらの場合でも洗練されたように見えるのは、先入観だけではないような気がします。

2ラウンド目ですから、慣れてきたというのもあるかもしれませんが、
使える道具や条件に制約を加え、制限時間も半分になっていますから
単なる慣れだけではない効果があったように感じます。

少なくとも、体験した方々の主観的な感想はポジティブな方向に進んだようですし、
見ていた側からしても、ちょっとした改善に取り組んだ後のほうが
効果的なコミュニケーションが起きていたように見えました。

改善の努力に対するフィードバックとして十分な結果だったと判断しています。

こちらで見ていても楽しい取り組みでした。


ちなみに個人的には、こういう創作系の作業は好きなので
見ていてウズウズしてしまいます。

2010年10月16日

型だからこそ役に立つ

メタモデルの質問は型になっています。
「こういう発言の形には、こういう質問をする」という型。

もちろん、それで覚えても役に立つ場面は多いでしょう。

しかし、その質問の意味を良く考えて、
「この質問によって何を聞こうとしているのか」
を掴めてきたら、その質問の使いやすさは格段に上がると思います。


もし、日本人が英語で誰かのカウンセリングをする必要があったとします。
ネイティブの感覚で英語を話せるわけではないという設定です。

なんとか聞いて話は理解できるけど、自分の言いたいことは
日本語と同じようなスムーズさでは言えない。
使えるフレーズを駆使して会話をしている。
そんな段階だとします。

そういうときに、「メタモデル」の質問パターンを教わったら
どれぐらい役立つことでしょうか。
僕は、すごく助かると思います。

細かいニュアンスで自分の聞きたいことを工夫して話すことはできないけど、
シンプルな質問の形を知っているだけで、
カウンセリングの会話を効果的に進めることができる。

それはもちろん、日本語でカウンセリングを進めるレベルには
追いつかないだろうと思います。
それでも、そこそこの形になる。

型を覚えることのメリットは、その部分にあるような気がします。

 シンプルな方法だけでも、それなりの結果が出る。


ところが、日本人が日本語でカウンセリングを勉強して
その過程でNLPのメタモデルというのを学んで、質問の型を習うと
なかなか、それを中心に使うという発想にはなりにくいようです。

もっと色々と工夫して聞いてしまいたくなる。
色々なことができるからこそ、わざわざ効率を下げてしまう場面も多々あるんです。
回りくどくなる場合があると言っても良いでしょう。

メタモデルの質問がシンプルな形をしているのは
汎用性を広げるためとも考えることができると思います。

短い質問のフレーズで、自分が期待した通りの情報を引き出しやすい。

もちろん、そのためには「メタモデル」の質問の英語でのニュアンスを掴み、
それぞれの質問によって、どういう返答が返ってくるのかを知っている必要があります。

逆に言えば、そのことさえ分かっていれば
色々と言葉を工夫して自分なりの質問を考えるよりも、
どの型の質問が使えそうかを考えたほうが簡単だということです。

ここで重要なのが、
・メタモデルの質問は、知りたいことを聞くための直接的な形になっている
・幅広い発言内容に対して適用できるように一般化された形になっている
という点。

多くの場面で使えて、かつ、直接的なんです。
知りたいことをダイレクトに聞いている。

色々な言い方ができてしまうと、知りたいことを尋ねるときに
間接的で遠まわしな表現になることが多いものです。

メタモデルではない例になりますが、例えば
仕事で失敗した部下に対して「なんで、こんな失敗をしたんだ?」
と質問が投げかけられることがあります。

しかし、それは正確ではない。
上司の意図を直接的に反映していないと思います。

その質問をしている理由は、失敗の原因を知りたいからでしょうか?
おそらく、原因を知って、改善策を考えたいのでしょう。
原因を分析させて、本人に解決してもらいたいのかもしれません。
反省してもらいたくて叱っているのかもしれません。

それぞれ、もっと直接的に言うことだって出来るはずなんです。

「何が原因で、こういうことになったと思う?」でも良いでしょうし、
丁寧にするなら「この問題を解決するために、問題が起きた原因を教えてください」
と言っても良いでしょう。

質問で引き出すような技術を学ぶと、
コミュニケーションが間接的になる場合も多いようです。

本人に考えさせようとして色々と質問を工夫する。
質問を組み合わせて、1つのゴールに導くようなやり方です。

自ら問題を分析して、解決してもらいたいのであれば、
質問で引き出すだけが方法ではないんです。

もっと直接的に言っても良い。
「自分で問題を解決してもらいたいから、まず原因を分析してきて下さい」と。

知りたいこと、期待している返答が得られるように
直接的な言い回しが出来るようになると、コミュニケーションのスピードが上がります。

会話を楽しむことが目的でないのであれば
その会話の目的を速やかに達成することが可能になるわけです。

メタモデルは質問でありながら、直接的な形で作られていると考えられます。

残念ながら、それが日本語訳される時に直接性を失っている感じはありますが…。

知りたいことをダイレクトに聞く。
そのためには、自分がしようとしている質問によって
何を知ろうとしているのかを自覚する必要があります。

そういう訓練がコミュニケーションの質を上げてくれるはずです。

2010年10月15日

型と例外

NLPには「メタモデル」と呼ばれる質問の技術があります。

正確には「メタモデル」そのものは質問法ではないと思いますが、
「メタモデルの質問」として、通称「メタモデル」と呼ばれるようです。

その質問法は、ヴァージニア・サティアとフリッツ・パールズのセラピーから
言語パターンを解析して作られたものだと言われています。


実際、本人たちの意図との関係性に注目することなく
そのパターンとしての側面に注目していった場合、
そこには第三者が体系化しようとした形跡のようなものも見て取れます。

その最たるものが、質問を項目ごとに分類しようという作業でしょう。

本人が自分の技術を分類しようとした場合、
質問の意図や、使うべき状況によって整理されやすいものだと考えられます。

しかし、第三者が分類した場合、意図や状況との関係性よりも
質問そのものの形や、直前の発言内容の形に目が行きやすいのかもしれません。

ですから、「相手の発言に、こういう部分があれば、この質問を使う」
といった形で、言葉の表面的な対応として整理されているところがあるわけです。

言われてみれば、確かにそういう質問の仕方があるなぁ…とは感じられますが、
では、いつでもその質問を使えるかというと、そうは思えない。
そういう感じ方をする人が多いようです。


おそらく、フリッツ・パールズやヴァージニア・サティアが使っていたときも、
直前の相手の発言内容に対して「この形だから、この質問」とはしていなかったはずです。

もっと意図を持って、これまでの話の文脈を考えて、相手の個性を考えて、
「自分の質問によってクライアントから、どんな情報が引き出されるか」
ということを予測したうえで質問をしていただろうと思います。

第三者が分類する以上、そこには傾向が中心に表れてしまうのは当然です。
まして、直前の発言内容に対する質問のパターンを調べていけば
「良く使われていた質問」ばかりがクローズアップされやすいと考えられます。

まさに「メタモデル」で質問されるように
「いつもそうなんですか?」
と、例外を聞く必要のある部分です。

これは「何を考え、何をしようとしていたか」ではなく
「頻繁に何をしていたか、何を言っていたか」だと言えるでしょう。

もしかすると、分類した人たち自身は、彼らのやり方を良く見ていたことで
適切な状況や、質問の意図も分かっていたのかもしれません。
ただ、それは型として記述された「メタモデル」には反映されていません。

どの程度、例外があるのかを調べていく。
「メタモデル」の型通りなら、こっちを聞くはずの発言内容なのに
ここでは違う質問をしている。
そんな場面にこそ、まだ他の学びの可能性が残っているはずです。

パターンを外れた意図があるはずなんです。
それが見えてくれば、同時に、パターンを使うための意図も見えてくる。

その辺りの意図が分かってくると、質問の型として使いやすさが増すと思います。

2010年10月13日

コミュニケーションの処理能力

人間をセンサーの沢山ついたコンピューターのようなものだと喩えてみると、
コミュニケーションの能力とは何かが見えやすくなる気がします。

センサーというのは人間でいえば、五感。
見たり、聞いたり、味わったり、匂ったり、感じたり。

まずは、センサー自体に『感度』というのがあるわけです。

例えば、犬の嗅覚は人間の数千倍などと耳にしますが、
あれは別に、臭いものを嗅いだときに、1000倍臭く感じているわけではなく
人間が感じないような弱い匂いでも感知できるということでしょう。

味覚でいえば、薄い味をどれくらい区別できるか、です。
分解能、解像度、シグナル/ノイズ比のようなものと言えると思います。

センサーの感度が良いというのは、微弱な違いを感知できるかにある、と。


その上で、センサーの感知したものを解釈する段階があります。
もちろん、そのときにセンサーの感度が悪いと、
判断に使うべき意味のある情報と、誤差としてのノイズとを混同してしまい
正確な解釈ができなくなります。

ただ、人間のコミュニケーションと関連付けたときに重要なのは
センサーが感じ取った情報の解釈の仕方の部分。

解釈の仕方はセンサーの問題ではなく、
コンピューター本体側のプログラムの問題なんです。
データベースが鍵になります。

「このデータは何に対応するか?」ということで
典型的なデータベースと比較して、もっとも相応しい分類がなされます。

化学の分析機器だったりすると、どの物質が、どのくらい含まれているかを
測定することがありますが、ここでもデータベースが必要です。

「こういう種類のデータを出す物質は〜だ」と
データベースと照らし合わせて物質を特定するんです。
たとえば、この重さの物質として可能な化学式は〜と…だ、とか。

光のセンサーとして人間の目を考えたとき、
単純に光に対する感度だけでは意味がないわけです。

明るさの違いが分かったとして、色の違いが区別できたとして
それの意味が分からないと、本人にとって「意味」が与えられません。

光の強さと色の分布は、さらに形の概念を生み出します。
この形が、さらに意味を決めるようになる。

どんな形かは分かっても、その形の意味が分からなければ
なんのことはない、本人にとって無意味なものになるわけです。

外国人の漢字のタトゥーは、デザインとして形のカッコよさを見ているのでしょうが、
日本人からすると、文字という形が持つ別の意味が分かってしまいます。

タケノコ採りの名人は、地面のわずかな盛り上がりから
どこにタケノコがあるかを見分けるそうですが、
そのための判断材料がデータベースにあるから区別ができるんです。

知らないと分からない。

野球のピッチャーが、ストレートとカーブで違う癖を持っていたとして
その癖を見分けるデータベースがあれば区別できますが、
素人からでは全く見当もつかないことでしょう。

コミュニケーションでいえば、同じ表情の変化、声のトーンの変化、仕草や姿勢であっても、
それを判断するためのデータベースがなければ、
全く気づくことなく見逃されてしまうということです。


そして、コンピューターではキーボードを通じた入力もなされます。
プログラムやデータの書き込みが行われる。

ここでも、プログラミング言語の違いがあります。

それは人間のコミュニケーションでいえば、いわゆる言語の違いに対応するでしょう。
日本語か、英語か、フランス語か、中国語か。
そういう違いです。

ただ、コンピューターのようにルールが明確に決まった言語を使っていても
プログラムでは『バグ』が必ずと言って良いほど起こるそうです。
予想と違うことが起きる、と。

言ってみれば、こちらが意図したとおりの言語メッセージが
違った形で解釈されていて、結果としてコンピューターが予想外の動きをする。
コンピューターにしてみれば、言われたとおりに動いたんでしょう。

伝えたメッセージと受け取られたメッセージに違いがあった、と言えます。

言うまでもなく、人間のコミュニケーションでは
この言語による食い違いはコンピュータープログラム以上に大きいはずです。

ここもデータベースの食い違いと解釈することもできるかもしれません。
伝える側が持っている言語に対するデータベースと
受け取る側のデータベースに差があるから、情報伝達のミスが起こる、と。


つまり、センサーの感度とデータベースと、
両方がコミュニケーション能力を分けているという話です。

細かい情報の違いで作られるデータを区別するためには
違いを正確に感じ取れる感度の高さと、
その細かな違いのパターンに対応するデータベースが求められます。

違いが分からなければ何も分からない。
違いが感じ取れても、その違いが持つ意味を知らないと
気づくことなく見逃されてしまう。

そして、もう1つ。

その「感じ取る」ために、コンピューターのCPUとメモリを使わないといけません。
処理をする必要があるんです。

感度を上げれば、より多くの情報が入ってきます。
処理量を超える情報が入れば、パンクしてしまいます。

1gの差を測定する料理用の「はかり」では、60kgの体重は計れないんです。

また、同時に複数のセンサーを使って、複数のプログラムを使って
多くの情報を処理しようとしたら、メモリを超えてしまうかもしれません。

表情を見ながら、仕草を見て、声の変化を感じて、体の感覚に注意を向け…
色々とやるほどにメモリが一杯になっていく。

ただ、幸い人間のCPUは、かなり高い能力あるようですし、
慣れてくると、1つの作業あたりのメモリの使用量も下がっていきます。


ですから、
 センサーの感度を上げる
 データベースの量を増やす
 個々の作業に慣れて、効率的な処理ができるようにする
といったことが
コミュニケーションで求められるトレーニングと言えそうです。

そうしたコンピューターの性能が上がると、発熱量も増えていきますから
冷却の問題も出てきてしまうんですが。

人間でいうと「疲れるようになる」ということです。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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