2010年11月
2010年11月30日
決められない
自分が伝えたいことを伝えるのが大事なのか、
相手が知りたいことを伝えるのが大事なのか。
受け取れるかどうかは相手次第だと考えたとき、
伝わるかどうかわからないから最高のものを伝えておこうとするのか、
少しでも伝わりやすくするように相手に合わせて伝える内容を変えるのか。
その場を快適に過ごしてもらうことを優先し
簡単に情報を伝えて分かったつもりになってもらうのか、
正確な情報を丁寧に伝えて頑張って分かってもらおうとするのか。
やり方だけ伝えて、練習は相手任せにしておくのか、
その場で少しでも実感できるように工夫するのか。
自分が大切だと思う心構えや考え方が定着するように
繰り返し言葉にして伝えていくのか、
自分が大切だと思う心構えが相手を束縛しないように
自分のスタンスや振る舞いを通して伝えようと心がけるのか。
セミナーや講座といっても、伝える側によって色々なスタイルがあります。
それが受ける側の好みに合っていれば望ましいでしょうが、
合わない時は、なかなかの苦痛になるものかもしれません。
僕自身が受けてきた経験からも、それは実感しています。
何を大事にするかは個人の価値観によると考えるケースが多いようですが、
「価値観を尊重しましょう」と言いながらも
「どうやって折り合いをつけるか」を教えてくれるケースは少ない気がします。
そこには
「折り合いをつけられるくらいなら、大事な価値観ではない」
という土台がありそうにも感じられます。
譲れないぐらいの大事なものがあるから
それにこだわって工夫や努力を積み上げられると思いますから。
相手が知りたいことを伝えるのが大事なのか。
受け取れるかどうかは相手次第だと考えたとき、
伝わるかどうかわからないから最高のものを伝えておこうとするのか、
少しでも伝わりやすくするように相手に合わせて伝える内容を変えるのか。
その場を快適に過ごしてもらうことを優先し
簡単に情報を伝えて分かったつもりになってもらうのか、
正確な情報を丁寧に伝えて頑張って分かってもらおうとするのか。
やり方だけ伝えて、練習は相手任せにしておくのか、
その場で少しでも実感できるように工夫するのか。
自分が大切だと思う心構えや考え方が定着するように
繰り返し言葉にして伝えていくのか、
自分が大切だと思う心構えが相手を束縛しないように
自分のスタンスや振る舞いを通して伝えようと心がけるのか。
セミナーや講座といっても、伝える側によって色々なスタイルがあります。
それが受ける側の好みに合っていれば望ましいでしょうが、
合わない時は、なかなかの苦痛になるものかもしれません。
僕自身が受けてきた経験からも、それは実感しています。
何を大事にするかは個人の価値観によると考えるケースが多いようですが、
「価値観を尊重しましょう」と言いながらも
「どうやって折り合いをつけるか」を教えてくれるケースは少ない気がします。
そこには
「折り合いをつけられるくらいなら、大事な価値観ではない」
という土台がありそうにも感じられます。
譲れないぐらいの大事なものがあるから
それにこだわって工夫や努力を積み上げられると思いますから。
2010年11月28日
トレーニングの場を設けます
<ご案内>
12月11日(土)、12月19日(日)
技術を磨くためのトレーニングを行います。
これまで、色々と勉強会としてテーマを設定して取り組んできましたが、
概念的な説明の量に対して、十分なトレーニングができていたとは言えない印象でした。
技術を身につけるためのトレーニングとして、
技術を向上させるためのトレーニングとして、
練習をする場というのが大切だろうと思います。
僕自身は、NLPのトレーナーとしてセミナーを行うことが多く、
そうしたセミナーやカウンセリングなどの場を通して、
自分の技術を向上できるように取り組んできたと思っています。
というよりも、そうした実践の場がなければ
学んだことや、気づいたコツでさえも、磨けなかったように感じます。
そして僕の場合は、セミナーやカウンセリングの最中に
アイデアを思いつくことが多々あって、
そこで作ったトレーニングのための型が
後々まで使い続けことになる重要な手法であったりします。
勉強会で扱っている新しいテーマも、実践の中でトレーニングした技術と、
それを磨いたことで見えてきた新たな発想などが組み合わさっていたりもします。
なので、僕自身の実感として、実践であれトレーニングであれ、
意識的に何かの技術に取り組む時間というのが、非常に重要だと考えているわけです。
本来は、月謝制のお稽古ごとのように
毎週続けてトレーニングができるような場があれば良いと考えていますが、
それを実現するのは簡単な道のりではなさそうなので、
まずは月に一回か二回、トレーニングの場を作ろうと思います。
テーマとしては過去に扱った技術を1つ絞り込むか、
あるいは広範囲に「コミュニケーション」としておいて
ご参加の型に合わせたトレーニングを実施していくか、
どちらかの形になる見込みです。
いずれにせよ、復習的なトレーニングになります。
ワークとしても体験済みのものになることもあれば、
これまでの勉強会では時間の都合で省略したワークをやることもあるでしょう。
ですから、資料を配って、新たなテーマについて考えるという作業は少ないはずです。
もちろん、過去に扱ったテーマが出てきたときに
その勉強会にご参加でない方もいらっしゃる可能性がありますから、
ある程度の概念的な説明も含まれるとは思います。
ただ、メインはトレーニングだということです。
練習をして頂きます。
当然、こちらからもフィードバックがあるでしょうし、
それぞれの方に合わせたコツや、心がけるべきポイントなども
個別にお伝えすることになるでしょう。
コミュニケーションの場合、練習をする機会というのは意外と少ないものです。
全てが実践になりますから。
その点で、相手への影響を考えると、
気軽に練習できない気がする方もいらっしゃるかもしれません。
思いついたことを実際のアクションに移してみないことには
上手くいったかどうかさえ分かりませんが、
失敗したときのリスクが気になってしまう場面も当然あるものでしょう。
僕は、それでも実践の中で失敗しながら技術を磨こうと取り組んできましたが、
練習の場があれば、もう少し効率的に、安心して
トレーニングできる可能性もあると思います。
そういう場を作りたいわけです。
また、より実践的な視点から、日常の場面で応用する方法を考えるのも
面白い取り組みになるんじゃないかと感じています。
個人によって全く異なっている日常生活。
その自分の生活の中で実践していくために、どんな工夫ができるか?
そういう方向性から取り組むこともできると考えられます。
内容は、その回によって変わる可能性が高いですが
とにかくトレーニングをする場だとご理解下さい。
まずは
○ 12月11日(土) 18:30~21:30
○ 12月19日(日) 18:30~21:30
の二回で始めます。
テーマと申し込みフォームは、近日中に公開します。
23日(木・祝)のご案内も近日中になると思いますので
ご都合のつく方は、是非、検討してみてください。
12月11日(土)、12月19日(日)
技術を磨くためのトレーニングを行います。
これまで、色々と勉強会としてテーマを設定して取り組んできましたが、
概念的な説明の量に対して、十分なトレーニングができていたとは言えない印象でした。
技術を身につけるためのトレーニングとして、
技術を向上させるためのトレーニングとして、
練習をする場というのが大切だろうと思います。
僕自身は、NLPのトレーナーとしてセミナーを行うことが多く、
そうしたセミナーやカウンセリングなどの場を通して、
自分の技術を向上できるように取り組んできたと思っています。
というよりも、そうした実践の場がなければ
学んだことや、気づいたコツでさえも、磨けなかったように感じます。
そして僕の場合は、セミナーやカウンセリングの最中に
アイデアを思いつくことが多々あって、
そこで作ったトレーニングのための型が
後々まで使い続けことになる重要な手法であったりします。
勉強会で扱っている新しいテーマも、実践の中でトレーニングした技術と、
それを磨いたことで見えてきた新たな発想などが組み合わさっていたりもします。
なので、僕自身の実感として、実践であれトレーニングであれ、
意識的に何かの技術に取り組む時間というのが、非常に重要だと考えているわけです。
本来は、月謝制のお稽古ごとのように
毎週続けてトレーニングができるような場があれば良いと考えていますが、
それを実現するのは簡単な道のりではなさそうなので、
まずは月に一回か二回、トレーニングの場を作ろうと思います。
テーマとしては過去に扱った技術を1つ絞り込むか、
あるいは広範囲に「コミュニケーション」としておいて
ご参加の型に合わせたトレーニングを実施していくか、
どちらかの形になる見込みです。
いずれにせよ、復習的なトレーニングになります。
ワークとしても体験済みのものになることもあれば、
これまでの勉強会では時間の都合で省略したワークをやることもあるでしょう。
ですから、資料を配って、新たなテーマについて考えるという作業は少ないはずです。
もちろん、過去に扱ったテーマが出てきたときに
その勉強会にご参加でない方もいらっしゃる可能性がありますから、
ある程度の概念的な説明も含まれるとは思います。
ただ、メインはトレーニングだということです。
練習をして頂きます。
当然、こちらからもフィードバックがあるでしょうし、
それぞれの方に合わせたコツや、心がけるべきポイントなども
個別にお伝えすることになるでしょう。
コミュニケーションの場合、練習をする機会というのは意外と少ないものです。
全てが実践になりますから。
その点で、相手への影響を考えると、
気軽に練習できない気がする方もいらっしゃるかもしれません。
思いついたことを実際のアクションに移してみないことには
上手くいったかどうかさえ分かりませんが、
失敗したときのリスクが気になってしまう場面も当然あるものでしょう。
僕は、それでも実践の中で失敗しながら技術を磨こうと取り組んできましたが、
練習の場があれば、もう少し効率的に、安心して
トレーニングできる可能性もあると思います。
そういう場を作りたいわけです。
また、より実践的な視点から、日常の場面で応用する方法を考えるのも
面白い取り組みになるんじゃないかと感じています。
個人によって全く異なっている日常生活。
その自分の生活の中で実践していくために、どんな工夫ができるか?
そういう方向性から取り組むこともできると考えられます。
内容は、その回によって変わる可能性が高いですが
とにかくトレーニングをする場だとご理解下さい。
まずは
○ 12月11日(土) 18:30~21:30
○ 12月19日(日) 18:30~21:30
の二回で始めます。
テーマと申し込みフォームは、近日中に公開します。
23日(木・祝)のご案内も近日中になると思いますので
ご都合のつく方は、是非、検討してみてください。
2010年11月26日
発音トレーニング
このブログはライブドアのものですが、記事を投稿しようとする画面の一部に
google の広告がいつも表れています。
その広告内容は、google のメールサービスのところに表れるものと違っていて
どうやらブログの内容を反映しているように思えます。
なので、コーチングとかNLPとか、なぜかスピリチュアル系のとか、
話し方教室とか、ロジカルシンキングとか、最近だと英語関係のなどが多いようです。
そんな中で見つけて、興味深かったのが「ザ・ジングルズ」という方法。
一言でいえば「英語の発音を矯正しましょう」というコンセプトなんですが、
その根底にあるアイデアと、地味ながら役立ちそうなトレーニングが面白いんです。
アイデアとしては、言語特有の筋肉の使い方をベースに置いているようです。
いわゆる英語の発音の仕方のトレーニングというと
口の絵が描いてあって、「ここに舌を当てて、音を出しましょう」
というようなイメージがありますが、それとは少し違います。
筋肉の使い方を中心に解説がなされているんです。
どこに力を入れましょう、ということが分かる。
これは大きいと思います。
例えば、僕が良く見てきたケースで言うと
「L」の音を出そうとして、舌を上の歯の裏側に押し付ける努力をしても、
その押し付ける動きに伴って舌の奥の部分が下がってしまって
口の中全体の形としては「R」の音の形に近くなってしまうことがあります。
舌をどうすればいいかという説明だけだと、力の入れ方が分かりにくいわけです。
僕の場合は、音と口の関係から音の出し方を意識してきてはいたので
勘違いして音を出してしまうケースは少なかったと思いますが
単純なトレーニング不足のところはありそうです。
筋肉だと考えれば、使っていなければ鍛えられませんから。
で、ポイントになる筋肉の使い方に関していうと
各言語で特有の使い方があるという説明なんです。
もちろん、世界中にはアフリカなどのように少数の集団でだけ使われる言語もあって、
そういうところの音の使い方は、非常に多彩だったりします。
ここでは、使用者の多い言語を中心に話が進められていますから
主に北半球の土地の言葉で解説がなされていました。
この「ザ・ジングルズ」は85から90までの数字が、
レベルとして割り当てられています。
なぜ、そんな数字なのか?
チョット気になるところだったんですが、
それが言語に標準的な筋肉の使い方のレベルを表わしているんだとか。
日本語は84、英語は90。
英語でもアナウンサーなどは91ぐらいあるという話でした。
ここには、文法や構造的な差異もありますが、
主眼においているのは、あくまで音を出す上での筋肉の使い方です。
その意味でいうと、非常に分かりやすくイギリスから日本までの道のりが
そのまま言語的な隔たりになっている、と。
日本語は割と独立した色合いの濃い言語と言われますが、
強いていえば韓国語に近いらしいです。
音が近いかと言われると、韓国語は随分と低い音のイメージが伴います。
それでも、母音や子音の組み合わせ方や、口の筋肉の使い方は近いかもしれません。
韓国語のほうがノドを広げて音をこもらせる雰囲気があり、
日本語のほうが口の中だけで音を響かせる雰囲気が強いように僕には思えます。
ただ、ポイントは、やはり口周りの筋肉の使い方で、
日本語、韓国語ともに、口を積極的に動かさないという特徴はありそうです。
省エネの発音。
ハングルは、日本語の五十音に近い形で書き表せた記憶もありますし。
この「ザ・ジングルズ」の開発者に言わせると
韓国人が日本語を習得するのも、日本人が韓国語を習得するのも
言語的に似通っている部分が多いだけ容易だということでした。
ヨーロッパ人が英語を習得するのに近い程度の負担だ、と。
ところが、それが東南アジア、中東、ヨーロッパと進むにつれ、
言語的な隔たりは大きくなっていく。
音を生み出すための筋肉の使い方が違ってくるらしいんです。
英語に一番近いのはオランダ語だそうですが、
この標準的なヨーロッパ圏の人と同じぐらいの筋肉の使い方を身につけないと
国際的なレベルでの発音は通じない、というのが開発者の主張。
日本人は弱く短い音を素早く使うのには慣れているらしく
「あたたかかったです」などは得意だけれども、
舌を口の中で前後に動かすような(LとRの使い分けとか、Thの音とか)
が苦手な傾向が生まれてしまう。
そこは、筋トレしかないでしょう、というコンセプトのようです。
僕は個人的に、ネイティブスピーカーの中には日常会話でも
かなり口を大きく動かして話す人がいることに気づいていましたが、
「まぁ、あそこまでやらなくても…」という小さな抵抗があったんです。
しかし、「筋肉の使い方が日本語と英語は対極にある」と説明されると
「じゃあ、筋肉の使い方を普段と変える必要がありそうだ」と思えてきました。
まるでアナウンサーが日本語のトレーニングで発音を良くしていくように
英語の発音を鍛えていこうというわけです。
とりあえず、書籍版を買ってトレーニングを始めました。
ちょっとした筋肉痛らしきものになるので、
効果はあるんじゃないかと予感しています。
google の広告がいつも表れています。
その広告内容は、google のメールサービスのところに表れるものと違っていて
どうやらブログの内容を反映しているように思えます。
なので、コーチングとかNLPとか、なぜかスピリチュアル系のとか、
話し方教室とか、ロジカルシンキングとか、最近だと英語関係のなどが多いようです。
そんな中で見つけて、興味深かったのが「ザ・ジングルズ」という方法。
一言でいえば「英語の発音を矯正しましょう」というコンセプトなんですが、
その根底にあるアイデアと、地味ながら役立ちそうなトレーニングが面白いんです。
アイデアとしては、言語特有の筋肉の使い方をベースに置いているようです。
いわゆる英語の発音の仕方のトレーニングというと
口の絵が描いてあって、「ここに舌を当てて、音を出しましょう」
というようなイメージがありますが、それとは少し違います。
筋肉の使い方を中心に解説がなされているんです。
どこに力を入れましょう、ということが分かる。
これは大きいと思います。
例えば、僕が良く見てきたケースで言うと
「L」の音を出そうとして、舌を上の歯の裏側に押し付ける努力をしても、
その押し付ける動きに伴って舌の奥の部分が下がってしまって
口の中全体の形としては「R」の音の形に近くなってしまうことがあります。
舌をどうすればいいかという説明だけだと、力の入れ方が分かりにくいわけです。
僕の場合は、音と口の関係から音の出し方を意識してきてはいたので
勘違いして音を出してしまうケースは少なかったと思いますが
単純なトレーニング不足のところはありそうです。
筋肉だと考えれば、使っていなければ鍛えられませんから。
で、ポイントになる筋肉の使い方に関していうと
各言語で特有の使い方があるという説明なんです。
もちろん、世界中にはアフリカなどのように少数の集団でだけ使われる言語もあって、
そういうところの音の使い方は、非常に多彩だったりします。
ここでは、使用者の多い言語を中心に話が進められていますから
主に北半球の土地の言葉で解説がなされていました。
この「ザ・ジングルズ」は85から90までの数字が、
レベルとして割り当てられています。
なぜ、そんな数字なのか?
チョット気になるところだったんですが、
それが言語に標準的な筋肉の使い方のレベルを表わしているんだとか。
日本語は84、英語は90。
英語でもアナウンサーなどは91ぐらいあるという話でした。
ここには、文法や構造的な差異もありますが、
主眼においているのは、あくまで音を出す上での筋肉の使い方です。
その意味でいうと、非常に分かりやすくイギリスから日本までの道のりが
そのまま言語的な隔たりになっている、と。
日本語は割と独立した色合いの濃い言語と言われますが、
強いていえば韓国語に近いらしいです。
音が近いかと言われると、韓国語は随分と低い音のイメージが伴います。
それでも、母音や子音の組み合わせ方や、口の筋肉の使い方は近いかもしれません。
韓国語のほうがノドを広げて音をこもらせる雰囲気があり、
日本語のほうが口の中だけで音を響かせる雰囲気が強いように僕には思えます。
ただ、ポイントは、やはり口周りの筋肉の使い方で、
日本語、韓国語ともに、口を積極的に動かさないという特徴はありそうです。
省エネの発音。
ハングルは、日本語の五十音に近い形で書き表せた記憶もありますし。
この「ザ・ジングルズ」の開発者に言わせると
韓国人が日本語を習得するのも、日本人が韓国語を習得するのも
言語的に似通っている部分が多いだけ容易だということでした。
ヨーロッパ人が英語を習得するのに近い程度の負担だ、と。
ところが、それが東南アジア、中東、ヨーロッパと進むにつれ、
言語的な隔たりは大きくなっていく。
音を生み出すための筋肉の使い方が違ってくるらしいんです。
英語に一番近いのはオランダ語だそうですが、
この標準的なヨーロッパ圏の人と同じぐらいの筋肉の使い方を身につけないと
国際的なレベルでの発音は通じない、というのが開発者の主張。
日本人は弱く短い音を素早く使うのには慣れているらしく
「あたたかかったです」などは得意だけれども、
舌を口の中で前後に動かすような(LとRの使い分けとか、Thの音とか)
が苦手な傾向が生まれてしまう。
そこは、筋トレしかないでしょう、というコンセプトのようです。
僕は個人的に、ネイティブスピーカーの中には日常会話でも
かなり口を大きく動かして話す人がいることに気づいていましたが、
「まぁ、あそこまでやらなくても…」という小さな抵抗があったんです。
しかし、「筋肉の使い方が日本語と英語は対極にある」と説明されると
「じゃあ、筋肉の使い方を普段と変える必要がありそうだ」と思えてきました。
まるでアナウンサーが日本語のトレーニングで発音を良くしていくように
英語の発音を鍛えていこうというわけです。
とりあえず、書籍版を買ってトレーニングを始めました。
ちょっとした筋肉痛らしきものになるので、
効果はあるんじゃないかと予感しています。
2010年11月24日
一区切り
先日、ようやく作品が完成しました。
書道の話です。
僕の通っている書道教室では、ある程度以上やっていると
先生から出品を促されます。
で、僕はチョット時間的に厳しいかなぁと考えて迷っていたんですが
結局、出品することにしました。
負担のかからないように、「文字数が少なくて小さい作品を」と
先生にリクエストしていたものの、どういうわけか結構大きなものになりました。
おかげで予想以上に時間をかけることに。
サイズは175cm×75cm なので狭い自宅に並べるのも一苦労でした。
普段の練習は机の上に半紙を置いて書いていますが、
作品となると床の上に紙を置くことになります。
姿勢が違うんです。
当然、書くときの感じも違うので、慣れるのにも時間がかかりました。
まぁ、慣れてしまえば自然というか、
問題は自分の技術のほうに表れてきて
環境のせいにはしていられなくなります。
それにしても、同じ姿勢で床に置いた紙に書き続けると
体に負担がかかってきます。
肩、首、膝、腰、足首。
なかでも足首の痛みは大きめで、いまだに痛みが残っているほど。
チョット負担をかけ過ぎたようです。
書き終わってしまうと、一区切りがついた感じと同時に、
なんだか少し物足りないような違和感が残ります。
一生懸命続けていたものが終わる、というのは多少の寂しさを伴いますね。
ちなみに、これがその作品の一部。
実際に出品したものとは違いますが、こんな雰囲気のヤツです。
書展は来年の1月初めに、六本木の「国立新美術館」で行われます。
沢山の作品が出品されますから、僕のを探すのは大変かもしれませんが、
よろしければ見に行ってみてください。
(サイトはこちら>>)
こちらの『独立書人団』という団体は、古典を大切にする一方で
それを根底に置いた独創的な作品も扱うそうです。
いわゆる「お習字」という感じの綺麗で教科書的なものとは少し違うようです。
当然、筆文字デザインとも違います。
どんな作品を見られるのか、楽しみです。
書道の話です。
僕の通っている書道教室では、ある程度以上やっていると
先生から出品を促されます。
で、僕はチョット時間的に厳しいかなぁと考えて迷っていたんですが
結局、出品することにしました。
負担のかからないように、「文字数が少なくて小さい作品を」と
先生にリクエストしていたものの、どういうわけか結構大きなものになりました。
おかげで予想以上に時間をかけることに。
サイズは175cm×75cm なので狭い自宅に並べるのも一苦労でした。
普段の練習は机の上に半紙を置いて書いていますが、
作品となると床の上に紙を置くことになります。
姿勢が違うんです。
当然、書くときの感じも違うので、慣れるのにも時間がかかりました。
まぁ、慣れてしまえば自然というか、
問題は自分の技術のほうに表れてきて
環境のせいにはしていられなくなります。
それにしても、同じ姿勢で床に置いた紙に書き続けると
体に負担がかかってきます。
肩、首、膝、腰、足首。
なかでも足首の痛みは大きめで、いまだに痛みが残っているほど。
チョット負担をかけ過ぎたようです。
書き終わってしまうと、一区切りがついた感じと同時に、
なんだか少し物足りないような違和感が残ります。
一生懸命続けていたものが終わる、というのは多少の寂しさを伴いますね。
ちなみに、これがその作品の一部。
実際に出品したものとは違いますが、こんな雰囲気のヤツです。
書展は来年の1月初めに、六本木の「国立新美術館」で行われます。
沢山の作品が出品されますから、僕のを探すのは大変かもしれませんが、
よろしければ見に行ってみてください。
(サイトはこちら>>)
こちらの『独立書人団』という団体は、古典を大切にする一方で
それを根底に置いた独創的な作品も扱うそうです。
いわゆる「お習字」という感じの綺麗で教科書的なものとは少し違うようです。
当然、筆文字デザインとも違います。
どんな作品を見られるのか、楽しみです。
2010年11月22日
スキルでもなく心構えでもなく
色々なことを学び、理解が深まってくると
他の人のやっていることが分かるようになってきます。
技術が見て分かるようになってくるわけです。
それが個人技能の場合には、「すごいなぁ」とか
「なるほど、そこでそうするのか、勉強になるなぁ」とか、
そういった感想が、見ている側の学びとしても役立ちます。
このとき、技術に名前が付いていることが良くあります。
例えば、NLPの場合、
「あ、今ここでネストループを使っている」とか
「空間のアンカーが使われている」とか
「ここでリフレーミングをした」とか、
色々と分かりやすくなると言えます。
それは「分かりやすくなる」という意味でメリットもありますが、
「分かったつもりになる」という点でデメリットもあるはずです。
むしろ僕はデメリットの大きさが上回ると考えているので
技術に対して積極的に名前をつけていくのは好みません。
気をつけたいのは、名前をつけた技術を目にしたとき、
知っていることをやっているということで
その中身への注目度が下がってしまう可能性がある、という点です。
名前がついていても、より細かな中身の違いに目がいけば良いとは思いますが、
工夫というのは決して単純化された1つのものではありません。
同時に色々な工夫がなされているものです。
名前の付いた技術として見ていくと、
同時に使われている多くの工夫が見逃されやすくなってしまうと思うんです。
そして、それがカウンセリングやセラピーなど
対人技術になった場合には、さらに注意すべき点があると考えます。
それはクライアントへの影響です。
何の技術を使ったか、どんな工夫をしているかも重要ですが、
それがクライアントにどんな影響を及ぼしたかのほうが、
遥かに大事だと僕は思うんです。
アンカリングやら、ミルトンモデルやら、ラポールの技術やら
色々と名前の付いた方法があって、それを駆使しながら進めている様子を見ると、
あたかも技術を使いこなしているように感じられるんじゃないでしょうか。
しかし、そのミルトンモデルが何も意味をなさなかったり、
逆にクライアントにとって不愉快なものになったりするのなら、
その技術には意味がないと思うんです。
意味がないというよりも、「やってはいけない」とさえ感じます。
技術として学ぶものというのは、それが効果的だという前提で受け入れることになります。
「やらないよりは、やったほうが良い」とも言えるかもしれません。
しかし実際は違います。
コミュニケーションですから、効果的だと言われている技術が
その使われ方や状況、相手によっては、逆効果に働く可能性もあります。
高度な技術を沢山使って、クライアントに効果が出ないのなら、
「シンプルな技術で、一見すると普通のやり取りに見えながら
実際には高い効果を発揮していた」というほうが価値が高いと僕は思うんです。
コミュニケーションは相互作用ですから、
意図的に何かをすれば、その方向に関係性は進みやすくなります。
質問すれば、それに答える。
「〜と言ってみてください」と指示を出せば、それに従うでしょう。
そうやって技術を適用していくと、技術の予定している方向へ話は進みやすいものです。
もし進まなかくても、「クライアントの抵抗」だとか説明もできる。
それがクライアントにどう影響しているかは
どう判断すれば良いのでしょうか?
誰かが「カウンセラーの方は、見事にミラーリングをしていました」と解説したとして
その時にクライアントがどう反応したのかが無視されてはいけないと思います。
「何の技術を使ったか」よりも、
「何をしたときに、クライアントにどんな影響があったか」のほうが
コミュニケーションとしての意味は大きいはずです。
先に技術に目がいくのは危険だということです。
そして、そういう技術偏重の可能性を嫌う人が
逆に、精神論や心構え、考え方などを強調することがあります。
「ミラーリングなんて意味はない。寄り添う気持ちが大事だ」というように。
本質的にいえば、これは技術だけを見ているのと変わりありません。
結局、クライアントを見ていないんです。
カウンセラーやセラピストが、どんな考え方をしているか、
どんな気持ちで関わっているか、どんな心構えなのか、
といった視点だと思います。
寄り添う気持ちがあったって、クライアントがそう感じなければ
それは残念なことじゃないかと僕は思います。
カウンセラーの心構えばかりを強調するというのは
カウンセラーが何の技術を使えているかだけを見るのと
同じような落とし穴を持っているということです。
それによってクライアントはどうなのか?
という部分を見るのが最優先じゃないでしょうか。
カウンセラーの使える技術が大事なのでもなければ、
カウンセラーの心構えが大事なのでもありません。
カウンセラーがしたことがクライアントに与える影響が大事なんです。
僕がトレーニングしたいのは、
どうすればクライアントに良い影響を及ぼせるか
という工夫の部分です。
広い意味でいえば、それも技術と呼ばれるとは思いますが、
そこには名前のつけようがないような気がします。
同じことは二度と起きませんから。
名前の付いた技術の紹介とも、
精神論や心構えの教育とも違う、
一瞬一瞬への対応のトレーニング。
僕がやってきていることを言い表すと、
そんな感じになりそうです。
他の人のやっていることが分かるようになってきます。
技術が見て分かるようになってくるわけです。
それが個人技能の場合には、「すごいなぁ」とか
「なるほど、そこでそうするのか、勉強になるなぁ」とか、
そういった感想が、見ている側の学びとしても役立ちます。
このとき、技術に名前が付いていることが良くあります。
例えば、NLPの場合、
「あ、今ここでネストループを使っている」とか
「空間のアンカーが使われている」とか
「ここでリフレーミングをした」とか、
色々と分かりやすくなると言えます。
それは「分かりやすくなる」という意味でメリットもありますが、
「分かったつもりになる」という点でデメリットもあるはずです。
むしろ僕はデメリットの大きさが上回ると考えているので
技術に対して積極的に名前をつけていくのは好みません。
気をつけたいのは、名前をつけた技術を目にしたとき、
知っていることをやっているということで
その中身への注目度が下がってしまう可能性がある、という点です。
名前がついていても、より細かな中身の違いに目がいけば良いとは思いますが、
工夫というのは決して単純化された1つのものではありません。
同時に色々な工夫がなされているものです。
名前の付いた技術として見ていくと、
同時に使われている多くの工夫が見逃されやすくなってしまうと思うんです。
そして、それがカウンセリングやセラピーなど
対人技術になった場合には、さらに注意すべき点があると考えます。
それはクライアントへの影響です。
何の技術を使ったか、どんな工夫をしているかも重要ですが、
それがクライアントにどんな影響を及ぼしたかのほうが、
遥かに大事だと僕は思うんです。
アンカリングやら、ミルトンモデルやら、ラポールの技術やら
色々と名前の付いた方法があって、それを駆使しながら進めている様子を見ると、
あたかも技術を使いこなしているように感じられるんじゃないでしょうか。
しかし、そのミルトンモデルが何も意味をなさなかったり、
逆にクライアントにとって不愉快なものになったりするのなら、
その技術には意味がないと思うんです。
意味がないというよりも、「やってはいけない」とさえ感じます。
技術として学ぶものというのは、それが効果的だという前提で受け入れることになります。
「やらないよりは、やったほうが良い」とも言えるかもしれません。
しかし実際は違います。
コミュニケーションですから、効果的だと言われている技術が
その使われ方や状況、相手によっては、逆効果に働く可能性もあります。
高度な技術を沢山使って、クライアントに効果が出ないのなら、
「シンプルな技術で、一見すると普通のやり取りに見えながら
実際には高い効果を発揮していた」というほうが価値が高いと僕は思うんです。
コミュニケーションは相互作用ですから、
意図的に何かをすれば、その方向に関係性は進みやすくなります。
質問すれば、それに答える。
「〜と言ってみてください」と指示を出せば、それに従うでしょう。
そうやって技術を適用していくと、技術の予定している方向へ話は進みやすいものです。
もし進まなかくても、「クライアントの抵抗」だとか説明もできる。
それがクライアントにどう影響しているかは
どう判断すれば良いのでしょうか?
誰かが「カウンセラーの方は、見事にミラーリングをしていました」と解説したとして
その時にクライアントがどう反応したのかが無視されてはいけないと思います。
「何の技術を使ったか」よりも、
「何をしたときに、クライアントにどんな影響があったか」のほうが
コミュニケーションとしての意味は大きいはずです。
先に技術に目がいくのは危険だということです。
そして、そういう技術偏重の可能性を嫌う人が
逆に、精神論や心構え、考え方などを強調することがあります。
「ミラーリングなんて意味はない。寄り添う気持ちが大事だ」というように。
本質的にいえば、これは技術だけを見ているのと変わりありません。
結局、クライアントを見ていないんです。
カウンセラーやセラピストが、どんな考え方をしているか、
どんな気持ちで関わっているか、どんな心構えなのか、
といった視点だと思います。
寄り添う気持ちがあったって、クライアントがそう感じなければ
それは残念なことじゃないかと僕は思います。
カウンセラーの心構えばかりを強調するというのは
カウンセラーが何の技術を使えているかだけを見るのと
同じような落とし穴を持っているということです。
それによってクライアントはどうなのか?
という部分を見るのが最優先じゃないでしょうか。
カウンセラーの使える技術が大事なのでもなければ、
カウンセラーの心構えが大事なのでもありません。
カウンセラーがしたことがクライアントに与える影響が大事なんです。
僕がトレーニングしたいのは、
どうすればクライアントに良い影響を及ぼせるか
という工夫の部分です。
広い意味でいえば、それも技術と呼ばれるとは思いますが、
そこには名前のつけようがないような気がします。
同じことは二度と起きませんから。
名前の付いた技術の紹介とも、
精神論や心構えの教育とも違う、
一瞬一瞬への対応のトレーニング。
僕がやってきていることを言い表すと、
そんな感じになりそうです。
2010年11月20日
海外ゲストのセミナー
日本に海外から講師やトレーナーを呼んでセミナーが開催されると
かなり盛況な催しになることが多いようです。
やはり呼ぶからには有名な方を招待することになりますし、
その分野の第一人者であったり、創始者であったり、団体の長だったりが来るわけです。
そのときには、関連する分野の人たちが日本中から集まって
どこかで見た顔があちこちに見受けられたりします。
普段聞けないセミナーですから参加するほうとしても楽しみですし、
海外の講師業やスピーカーのほうがオリジナルを大切にする度合いが高いので
得られるものも多いだろうと期待できるのも嬉しいところ。
僕も実際、色々な海外ゲストのセミナーに出ました。
まぁ、僕自身は「色々な人から教わった」ということが
そんなに価値のあることだとは思っていませんから、
僕なんかよりも遥かに沢山の海外ゲストセミナーに参加した方は大勢いると思います。
お金と時間の使い方に関しては、個人の好みが分かれますね。
今だったら、僕は色々な海外ゲストのセミナーや
外国で開催されるセミナーにも行ってみたいと思いますが、
それは内容うんぬんではなくて、英語の勉強の意味合いが大きくなっています。
その意味では、別に違う分野の勉強、たとえばビジネス関係とかでも良いんですが、
ある程度バックグラウンドがしっかりしている分野のほうが
同じことを英語でインプットするにしても、
アウトプットのトレーニングをするにしても、
効果的にできるんじゃないかという考えです。
それが、日本で開催される海外ゲストのセミナーのチョット残念なところで、
逐次通訳が入るということなんです。
もちろん、日本語で整理したほうが内容は正確に分かるでしょうが、
じゃあ通訳が正確かというと、そういうものでもないはずです。
それは通訳の技術を疑っているわけではなく、
日本語に翻訳しようのない内容が含まれていたり、
文化的な背景の違いが無視されたまま訳されてしまったりするところにあります。
もし、日本語と英語圏の文化の差を理解して
その違いを説明しながら注釈をつけて翻訳してくれたら、
そんな通訳のいるセミナーは学びの量が増えると思います。
英語と日本語の違いを学びながら、同時に内容そのものも深く理解できるわけですから。
でも、実際には難しいものでしょう。
通訳のする作業の量は大変なものだと思いますし、
専門性の高い分野だと、その大変さは尚更だろうと推測されます。
僕が催眠の勉強をしていた時に、心理系の業界を中心に通訳をしている方と同期でしたが、
その方は通訳の技術だけでなく催眠の技術も身につけようとしていたようです。
催眠の通訳をするには、翻訳される日本語のほうも
催眠になっている必要があるという考えだと推測されますから
とても重要なことだと感じます。
ただ、その方の場合、副作用として「トランスに入りやすい」
という性質を身につけてしまい、催眠モードになると
自分自身が不快トランス状態になってしまう傾向が見受けられました。
実際、その方が通訳をしている講座で、講師が催眠を使ったときがありましたが、
受講生として見ていて気の毒なくらい、横で通訳をしているご本人が
意識を失いそうになっていたんです。
しきりに水を飲んだり、途中で立ち上がったり、
色々と工夫をして眠らないように注意していたようでした。
催眠のケースは特殊な要因を含みますが、ここに象徴されるのは、
心理やコミュニケーションの分野で伝えなければならない情報は
言葉の内容だけにとどまらない、ということです。
科学技術系の学会であれば、専門用語はそのまま日本語に置き換えれば良いわけです。
言語の内容さえ正確に伝えられれば、通訳として十分でしょう。
それが心理やコミュニケーション、セラピーという分野になると
言葉の内容以外の要素を同時に使い分けながらメッセージが発信されます。
それを全て正確に、日本人向けに対応させるのは大変だろうと思います。
別の知人の通訳の方は、モノマネをする勢いで
非言語メッセージをコントロールしようとしていました。
気合いを感じるところですが…、
日本文化とアメリカ文化の表現の違いを考慮せずにモノマネとなると
なんだか少し奇妙な感じもしてしまったり。
やっぱり日本語に置き換えていく作業は複雑だと言えそうです。
こうして書いていると、色々な過去の経験が蘇ります。
どれも通訳が挟まるがゆえのチョット妙な体験でした。
全てに共通するのは、通訳が挟まることで進みが遅くなるということ。
講師の話す時間が短くなります。
体験中心のワークショップであれば、講師の話す時間の割合も小さくなりますから
通訳が入って、そこに時間がとられても、大きな問題はないかもしれません。
しかし、僕が出たあるセミナーは、ワークがほとんど無くて、
心理系の心構えや考え方を説明する内容のものだったんです。
それも講師に気合いが入っていたのか、主催者側の要望だったのか、
「通常のアメリカで開催するセミナーで2日かける内容を一日に集約する」
という話からセミナーがスタートしました。
その上、毎回話すごとに日本語の通訳が入る。
つまり、2日の内容を、実際には半日で進めるような負荷になったわけです。
4倍に短縮しなければいけなくなった。
もう、明らかに講師がイラだっているのが見て取れます。
まだ通訳が日本語を話し切っていない段階から話し始めたりする始末。
良いコミュニケーションとか、より良い生き方とか、
そんな内容を説明しながら、講師自身がマズイ反応を露骨に表現していたんです。
自分が大事だと説明した心構えを実践できないような状況に追い込まれていました。
また、内容が専門的なために、英語が堪能な日本人講師が
通訳を担当するというケースも良く見受けられます。
説明される内容自体にも詳しいし、英語も大丈夫、と。
ある時は、外国人の講師自身も少し日本語が話せる人だったので、
通訳をしている日本人講師側が適切な日本語を見つけられずに困っているときに、
横から海外ゲスト本人が日本語訳を教えていたりもしました。
これはむしろ、2人のコンビネーションを感じさせる印象的な場面でした。
一方、通訳が専門分野の講師でもあって、その人自身の受講生が沢山いる前で
海外ゲストの通訳をしている場面を見たこともあります。
そのときには、受講生からの質問に対して、
その質問を英語に訳して海外ゲストに伝えるのではなく、
通訳のはずの日本人が自分で質問に答えてしまっていました。
それも一度ではなく、何度も。
質問する側も、一言だけ尋ねて終わりではなかったので
やりとりの中の一部は通訳されて、海外ゲストの意見も
一応聞ける形にはなっていました。
しかし、形式上は「通訳」という扱いで紹介されているわけですから
立場をハッキリと自覚しておく必要があるように感じたのを覚えています。
僕が質問したときにも、その通訳をしている日本人(講師)が先に答え始めました。
さすがに「あなたには聞いていません」とまでは言いませんから、
答えを聞いた後に「もう一度聞きます。通訳してください。」と質問し直しました。
これは残念なケースでした。
専門家として別意見を出すこと自体は意義のあるものだと思いますから、
そのときには前置きをすると随分違うと思うんですが。
「ちょっと捕捉させていただきますと…」というように。
別のある通訳の方は、アメリカンジョークが通じないときに
「ちょっと捕捉させてもらいますが」とジョークの背景を教えてくれました。
まぁ、笑えませんけど。
別のケースでは、海外ゲストのデモ・セッションの通訳がなされているときに、
ゲスト講師がデモのクライアントに出た日本人に対して
全くペーシングができておらず、相当な不満のメッセージを出し始めたころ、
通訳が率先してクライアントにペーシングをし始めました。
優しい方なんだろうと思います。
おかげで、海外ゲストの講師だけが浮いた雰囲気になる始末。
ペーシングを積極的に行った結果、通訳の方は混乱してしまって
クライアントの日本語の発言を、日本語のまま要約して海外ゲストに伝えてしまいました。
すぐに奇妙な事態に気づいて英語に修正しましたが、
ながらく通訳をしてきた方にとっては、
きっと恥ずかしい体験だったんだろうと想像しています。
休憩時間に話していたとき「普段は講師にペーシングするんだけど…」と
自分に起きていた異常事態を反省しているようでした。
講師によって通訳のしなければいけない作業も変わるんでしょう。
この相性が上手く決まり、日本人向けにサポート情報を加えてくれたりしたら、
逐次通訳のセミーというのは、一層魅力的になるのかもしれません。
まるで二人の共同作業を見るようなイメージじゃないかと思います。
かなり盛況な催しになることが多いようです。
やはり呼ぶからには有名な方を招待することになりますし、
その分野の第一人者であったり、創始者であったり、団体の長だったりが来るわけです。
そのときには、関連する分野の人たちが日本中から集まって
どこかで見た顔があちこちに見受けられたりします。
普段聞けないセミナーですから参加するほうとしても楽しみですし、
海外の講師業やスピーカーのほうがオリジナルを大切にする度合いが高いので
得られるものも多いだろうと期待できるのも嬉しいところ。
僕も実際、色々な海外ゲストのセミナーに出ました。
まぁ、僕自身は「色々な人から教わった」ということが
そんなに価値のあることだとは思っていませんから、
僕なんかよりも遥かに沢山の海外ゲストセミナーに参加した方は大勢いると思います。
お金と時間の使い方に関しては、個人の好みが分かれますね。
今だったら、僕は色々な海外ゲストのセミナーや
外国で開催されるセミナーにも行ってみたいと思いますが、
それは内容うんぬんではなくて、英語の勉強の意味合いが大きくなっています。
その意味では、別に違う分野の勉強、たとえばビジネス関係とかでも良いんですが、
ある程度バックグラウンドがしっかりしている分野のほうが
同じことを英語でインプットするにしても、
アウトプットのトレーニングをするにしても、
効果的にできるんじゃないかという考えです。
それが、日本で開催される海外ゲストのセミナーのチョット残念なところで、
逐次通訳が入るということなんです。
もちろん、日本語で整理したほうが内容は正確に分かるでしょうが、
じゃあ通訳が正確かというと、そういうものでもないはずです。
それは通訳の技術を疑っているわけではなく、
日本語に翻訳しようのない内容が含まれていたり、
文化的な背景の違いが無視されたまま訳されてしまったりするところにあります。
もし、日本語と英語圏の文化の差を理解して
その違いを説明しながら注釈をつけて翻訳してくれたら、
そんな通訳のいるセミナーは学びの量が増えると思います。
英語と日本語の違いを学びながら、同時に内容そのものも深く理解できるわけですから。
でも、実際には難しいものでしょう。
通訳のする作業の量は大変なものだと思いますし、
専門性の高い分野だと、その大変さは尚更だろうと推測されます。
僕が催眠の勉強をしていた時に、心理系の業界を中心に通訳をしている方と同期でしたが、
その方は通訳の技術だけでなく催眠の技術も身につけようとしていたようです。
催眠の通訳をするには、翻訳される日本語のほうも
催眠になっている必要があるという考えだと推測されますから
とても重要なことだと感じます。
ただ、その方の場合、副作用として「トランスに入りやすい」
という性質を身につけてしまい、催眠モードになると
自分自身が不快トランス状態になってしまう傾向が見受けられました。
実際、その方が通訳をしている講座で、講師が催眠を使ったときがありましたが、
受講生として見ていて気の毒なくらい、横で通訳をしているご本人が
意識を失いそうになっていたんです。
しきりに水を飲んだり、途中で立ち上がったり、
色々と工夫をして眠らないように注意していたようでした。
催眠のケースは特殊な要因を含みますが、ここに象徴されるのは、
心理やコミュニケーションの分野で伝えなければならない情報は
言葉の内容だけにとどまらない、ということです。
科学技術系の学会であれば、専門用語はそのまま日本語に置き換えれば良いわけです。
言語の内容さえ正確に伝えられれば、通訳として十分でしょう。
それが心理やコミュニケーション、セラピーという分野になると
言葉の内容以外の要素を同時に使い分けながらメッセージが発信されます。
それを全て正確に、日本人向けに対応させるのは大変だろうと思います。
別の知人の通訳の方は、モノマネをする勢いで
非言語メッセージをコントロールしようとしていました。
気合いを感じるところですが…、
日本文化とアメリカ文化の表現の違いを考慮せずにモノマネとなると
なんだか少し奇妙な感じもしてしまったり。
やっぱり日本語に置き換えていく作業は複雑だと言えそうです。
こうして書いていると、色々な過去の経験が蘇ります。
どれも通訳が挟まるがゆえのチョット妙な体験でした。
全てに共通するのは、通訳が挟まることで進みが遅くなるということ。
講師の話す時間が短くなります。
体験中心のワークショップであれば、講師の話す時間の割合も小さくなりますから
通訳が入って、そこに時間がとられても、大きな問題はないかもしれません。
しかし、僕が出たあるセミナーは、ワークがほとんど無くて、
心理系の心構えや考え方を説明する内容のものだったんです。
それも講師に気合いが入っていたのか、主催者側の要望だったのか、
「通常のアメリカで開催するセミナーで2日かける内容を一日に集約する」
という話からセミナーがスタートしました。
その上、毎回話すごとに日本語の通訳が入る。
つまり、2日の内容を、実際には半日で進めるような負荷になったわけです。
4倍に短縮しなければいけなくなった。
もう、明らかに講師がイラだっているのが見て取れます。
まだ通訳が日本語を話し切っていない段階から話し始めたりする始末。
良いコミュニケーションとか、より良い生き方とか、
そんな内容を説明しながら、講師自身がマズイ反応を露骨に表現していたんです。
自分が大事だと説明した心構えを実践できないような状況に追い込まれていました。
また、内容が専門的なために、英語が堪能な日本人講師が
通訳を担当するというケースも良く見受けられます。
説明される内容自体にも詳しいし、英語も大丈夫、と。
ある時は、外国人の講師自身も少し日本語が話せる人だったので、
通訳をしている日本人講師側が適切な日本語を見つけられずに困っているときに、
横から海外ゲスト本人が日本語訳を教えていたりもしました。
これはむしろ、2人のコンビネーションを感じさせる印象的な場面でした。
一方、通訳が専門分野の講師でもあって、その人自身の受講生が沢山いる前で
海外ゲストの通訳をしている場面を見たこともあります。
そのときには、受講生からの質問に対して、
その質問を英語に訳して海外ゲストに伝えるのではなく、
通訳のはずの日本人が自分で質問に答えてしまっていました。
それも一度ではなく、何度も。
質問する側も、一言だけ尋ねて終わりではなかったので
やりとりの中の一部は通訳されて、海外ゲストの意見も
一応聞ける形にはなっていました。
しかし、形式上は「通訳」という扱いで紹介されているわけですから
立場をハッキリと自覚しておく必要があるように感じたのを覚えています。
僕が質問したときにも、その通訳をしている日本人(講師)が先に答え始めました。
さすがに「あなたには聞いていません」とまでは言いませんから、
答えを聞いた後に「もう一度聞きます。通訳してください。」と質問し直しました。
これは残念なケースでした。
専門家として別意見を出すこと自体は意義のあるものだと思いますから、
そのときには前置きをすると随分違うと思うんですが。
「ちょっと捕捉させていただきますと…」というように。
別のある通訳の方は、アメリカンジョークが通じないときに
「ちょっと捕捉させてもらいますが」とジョークの背景を教えてくれました。
まぁ、笑えませんけど。
別のケースでは、海外ゲストのデモ・セッションの通訳がなされているときに、
ゲスト講師がデモのクライアントに出た日本人に対して
全くペーシングができておらず、相当な不満のメッセージを出し始めたころ、
通訳が率先してクライアントにペーシングをし始めました。
優しい方なんだろうと思います。
おかげで、海外ゲストの講師だけが浮いた雰囲気になる始末。
ペーシングを積極的に行った結果、通訳の方は混乱してしまって
クライアントの日本語の発言を、日本語のまま要約して海外ゲストに伝えてしまいました。
すぐに奇妙な事態に気づいて英語に修正しましたが、
ながらく通訳をしてきた方にとっては、
きっと恥ずかしい体験だったんだろうと想像しています。
休憩時間に話していたとき「普段は講師にペーシングするんだけど…」と
自分に起きていた異常事態を反省しているようでした。
講師によって通訳のしなければいけない作業も変わるんでしょう。
この相性が上手く決まり、日本人向けにサポート情報を加えてくれたりしたら、
逐次通訳のセミーというのは、一層魅力的になるのかもしれません。
まるで二人の共同作業を見るようなイメージじゃないかと思います。
2010年11月17日
「 you 」の持つ意味
最近は英語の話が多いですが、
日本語との比較に役立つという点で僕には興味深いんです。
で、その英語の話として最近少し納得できてきたのが
英語の「 you 」の使い方に関してです。
中学校か高校かは忘れましたが、学校の英語の授業で
『「 you 」を訳さないときがある』というか
『この「 you 」は不特定の相手が主語になっている』
というような説明を聞いたのを覚えています。
「形式上の主語であって、一般的な話をしているので
目の前の『あなた』が主語ではない」と。
確かに日本語に訳す時には、文脈からすると
「あなた」という目の前の相手として考えるのは不自然です。
なので、不特定の相手だと考えるのでしょう。
実際、ネイティブの人は、そういう「 you 」を使って話をします。
もちろん、習慣的に身につけてきたものでしょうから
意図的に使い分けているかどうかは分かりません。
一般論を話すときには「 peopole 」が主語になって話が進む時もあります。
が、多分、言いやすさの点で「 you 」が選ばれることが多い気がします。
僕などは日本人感覚で聞いてしまいますから
実際にこの不特定の「 you 」で話をされても
一瞬「自分のことか?」と戸惑ってしまうことが良くあります。
「習慣だから、そうやって話す」と説明してしまえばそれまでなので
「では、どうしてその習慣が自然に生まれたのか?」
という発想で見たときに、英語や英語圏の人々の特徴が感じられると思うんです。
そこには、おそらく「スピーチ」の前提があるんじゃないでしょうか。
つまり、不特定の「 you 」というのは、
日本人でもスピーチやセミナー、講演などにおいて
「皆さんが」という主語で話をするときの感覚に近いだろう、と。
個人個人には差があるかもしれないけれど、一般論として多くの人がそうであって
多分、ここにいる皆さんの中にも当てはまるだろう、というような想定。
あるいは、「ちょっと仮の話として考えてみてください」というケースでしょう。
「たとえば皆さんが電気屋に買い物に行ったとしましょう」とか
「仮に皆さんが、街中でトラブルに巻き込まれたとしましょう」とか。
日本語で「皆さんが」といった形で話を進めるときというのは
客観的に状況を捉えるのではなく、「もし自分だったら」という視点で
場面に入り込んでもらいたい意図があると考えられます。
(少なくとも僕は、その意図で使い分けています)
主語を不特定の「 you 」=「皆さんが」で話すときには
「あなたがその立場(場面)にいると想像して」という前置きが入るわけです。
逆にいえば、それが自然に使われる英語文化においては
会話の中で、「もし自分が、その立場だったら」という視点で
話が進みやすい可能性を示していると言えるでしょう。
話す側はスピーチをするように、「もし、皆さんが…」というスタンスを取り、
聞く側も自然と「もし自分がその立場だったら…」という想像をする。
そうした話し手と聞き手の関係がハッキリとしているんじゃないだろうか、
ということです。
言い方を変えれば、
話す側としては、相手に納得してもらえるように説明をしている
のだろうという姿勢がうかがえます。
日本人の日常会話では、そんな風に、
話す側が聞く側を納得してもらうように説明する、
というのは少ないように思えます。
「もし自分だったら」という発想の仕方には個人差がありますが、
もっと一般論で客観的に、話の内容に距離を取ることが多いでしょう。
単純に日本語訳する場合には、不特定の「 you 」という理解で十分だとしても、
その裏には話す側、聞く側ともに持っている
コミュニケーションの文化的・習慣的な違いがあると思います。
そういう発想の違いを埋めることも
コミュニケーションギャップを少なくする手段じゃないかと思うんです。
日本語との比較に役立つという点で僕には興味深いんです。
で、その英語の話として最近少し納得できてきたのが
英語の「 you 」の使い方に関してです。
中学校か高校かは忘れましたが、学校の英語の授業で
『「 you 」を訳さないときがある』というか
『この「 you 」は不特定の相手が主語になっている』
というような説明を聞いたのを覚えています。
「形式上の主語であって、一般的な話をしているので
目の前の『あなた』が主語ではない」と。
確かに日本語に訳す時には、文脈からすると
「あなた」という目の前の相手として考えるのは不自然です。
なので、不特定の相手だと考えるのでしょう。
実際、ネイティブの人は、そういう「 you 」を使って話をします。
もちろん、習慣的に身につけてきたものでしょうから
意図的に使い分けているかどうかは分かりません。
一般論を話すときには「 peopole 」が主語になって話が進む時もあります。
が、多分、言いやすさの点で「 you 」が選ばれることが多い気がします。
僕などは日本人感覚で聞いてしまいますから
実際にこの不特定の「 you 」で話をされても
一瞬「自分のことか?」と戸惑ってしまうことが良くあります。
「習慣だから、そうやって話す」と説明してしまえばそれまでなので
「では、どうしてその習慣が自然に生まれたのか?」
という発想で見たときに、英語や英語圏の人々の特徴が感じられると思うんです。
そこには、おそらく「スピーチ」の前提があるんじゃないでしょうか。
つまり、不特定の「 you 」というのは、
日本人でもスピーチやセミナー、講演などにおいて
「皆さんが」という主語で話をするときの感覚に近いだろう、と。
個人個人には差があるかもしれないけれど、一般論として多くの人がそうであって
多分、ここにいる皆さんの中にも当てはまるだろう、というような想定。
あるいは、「ちょっと仮の話として考えてみてください」というケースでしょう。
「たとえば皆さんが電気屋に買い物に行ったとしましょう」とか
「仮に皆さんが、街中でトラブルに巻き込まれたとしましょう」とか。
日本語で「皆さんが」といった形で話を進めるときというのは
客観的に状況を捉えるのではなく、「もし自分だったら」という視点で
場面に入り込んでもらいたい意図があると考えられます。
(少なくとも僕は、その意図で使い分けています)
主語を不特定の「 you 」=「皆さんが」で話すときには
「あなたがその立場(場面)にいると想像して」という前置きが入るわけです。
逆にいえば、それが自然に使われる英語文化においては
会話の中で、「もし自分が、その立場だったら」という視点で
話が進みやすい可能性を示していると言えるでしょう。
話す側はスピーチをするように、「もし、皆さんが…」というスタンスを取り、
聞く側も自然と「もし自分がその立場だったら…」という想像をする。
そうした話し手と聞き手の関係がハッキリとしているんじゃないだろうか、
ということです。
言い方を変えれば、
話す側としては、相手に納得してもらえるように説明をしている
のだろうという姿勢がうかがえます。
日本人の日常会話では、そんな風に、
話す側が聞く側を納得してもらうように説明する、
というのは少ないように思えます。
「もし自分だったら」という発想の仕方には個人差がありますが、
もっと一般論で客観的に、話の内容に距離を取ることが多いでしょう。
単純に日本語訳する場合には、不特定の「 you 」という理解で十分だとしても、
その裏には話す側、聞く側ともに持っている
コミュニケーションの文化的・習慣的な違いがあると思います。
そういう発想の違いを埋めることも
コミュニケーションギャップを少なくする手段じゃないかと思うんです。
2010年11月15日
「成功」と「成功する」の違い
NLPでも、他の色々な自己啓発の方法でも、
アメリカから輸入されてきたものには、共通する要因が見られます。
それは、もちろん「全ての人に共通するであろう」という見込みとも捉えられますが、
一方で、英語特有・アメリカ文化特有の背景に影響を受けているものもあると思うんです。
英語を勉強していくと、その辺のことが見えてくるというか
実感できてくる部分があったりするのも面白いところ。
その可能性を踏まえると、海外から有名な講師がやってきて
その話を忠実に理解しようとするとギャップが出ることがあると予想されます。
ギャップがなんとなくでも感じれられていれば悪くないでしょうが、
何も疑うことなく「そういうものだ」と捉えてしまうのは
少し困りものじゃないかという気もします。
特にセミナーの講師をしている立場としては
「自分が習ったものだから」という理由だけで説明するのには抵抗もあります。
まして、それがアメリカの本部からの指導ということになると
従わないわけにもいかないので厄介さは増すところ。
アメリカ人にとっては役立つ技術として作られたものであっても
それが英語特有の仕組みに沿っていたりすると日本人には使いにくかったりするわけです。
そのことは当然、アメリカの本部の方がには予想もできないでしょうし、
英語の背景と日本語の背景の違いを分かっていない場合にも
日本に導入する際に気をつけるべきポイントにも目が行きにくいと思います。
例えば、小さな話題として挙げると
「価値観」に対する説明の仕方には日米の大きな違いが出ます。
「価値観」とは「大切にしていること」ですから、
基本的に名詞の形で、一言で言い表わされるものを言います。
自由とか愛とか勇気とか信頼とか…。
これを英語の説明のまま日本語訳すると
「価値観とは名詞化されたものである」という風になってしまうんです。
英語の場合は、動詞の持つ意味が大きく、
動詞の基本語根に変化を加えて形容詞を作り出し
さらに変化を加えて名詞にする、なんてことも良くあります。
もちろん、形容詞が主体になる言葉も沢山あります。
大雑把にいえば、「動作」を表わす言葉(=動詞)と、
「状態」を表わす言葉(=形容詞)の役割が大きい、ということです。
日本語的に表現すると「述語」が中心なんです。
ここで、単語の持つ意味のイメージとして
動詞のほうが変化の度合いが大きく(短時間に変わる、もしくは動きが大きい)
形容詞のほうが一定で、変化の少ないもの(普遍的な性質)を表わすことが多い
という部分を付け加えておきます。
で、「名詞化」は、これらの形容詞や動詞を名詞の形に変化させることを言って、
「価値観」というのは「もともと動詞や形容詞だったものを名詞の形にしたもの」
として説明されることになります。
この作業に伴って、英語の感覚では「動きがなくなる」ようです。
動詞が動作の内容を示しているのに対して
形容詞は状態を説明している。
そして名詞化されると、動きや変化の一切ない「静止画」になる、と。
例えば、「発達する」という意味の「 develop 」は
名詞化すると「 development 」になって「発達」になります。
全ての名詞化が動詞や形容詞を基準にしてなされるわけではありませんが、
そういうことが多いという説明なんでしょう。
一方、日本語は「〜する」という語尾で動詞に変化する単語が沢山あって
「名詞化」という表現はピンと来にくいものじゃないかと思います。
「発達」を動詞の形にして「発達する」に変える。
逆になる場合が多いんです。
まず、価値観の説明をするときに「名詞化」という言葉を使うのは
日本人にとって必要じゃない部分だろうという話です。
このような違いがあったとしても、確かに
動詞のほうが動きがあって、名詞の場合には動きがない、
という特徴は共通します。
ただ、僕が英語を勉強している感じからすると
動作の積極性というか、動きの大きさは、英語のほうがダイナミックです。
そもそも日本語の説明の仕方のほうが動きが小さい印象があります。
それをさらに客観的な状態にして会話することも多いものです。
「昨日は何してた?」という言い方は
「昨日は何した?」よりも、もっと動きが小さいイメージを伴います。
日本語のほうが全体的な状態を描写することが多い。
それは言語的、文化的な特徴だと考えられます。
で、「価値観」の説明のときに、よく使われる例として「成功」の話があります。
まぁ自己啓発的な話題ですから、「成功」は使いやすい例でもあるのかもしれません。
日本語では「成功」という名詞を元に「成功する」という動詞が作られます。
「成功」という名詞は止まったイメージ・1つの状態として捉えられやすいと思いますし、
「成功する」というのも、そこから派生して、大きな変化とは違うものでしょう。
ところが英語の場合、「成功」は「 success 」ですが、
「成功する」という動詞は「 succeed 」になります。
「 succeed 」は自動詞だと「成功する」と日本語訳され、
他動詞だと「〜を継続する」「〜を引き継ぐ」と日本語訳されます。
ですから「 succeed 」のもう一つの名詞化された形は「 succession 」となり
「継続」とか「連続」といった日本語訳を与えられるようになるんです。
動詞の場合には「連続的」「継続的」なイメージが伴われているのに
名詞になると「成功した」「上手くいった」一瞬だけに切り取られて動きを失う。
だとしたら、「成功」という名詞化、つまり「 success 」は
動作も実感もないものとして大きく意味を変えてしまう、と言えそうです。
この「成功」にまつわる話として
「成功者として評価される人たちは、成功と言わない」
というようなニュアンスが説明されたりします。
「成功」と言ってしまうと、動きが止まってしまうから。
そこで止まってしまう、という説明です。
進んでいきたい方向に向かって「継続している」(= succeed )のを意識するのと
上手くいった場面での「成功」(= success )を意識するのとでは
描いていることも感じていることも別物だろうと想像できます。
そこには日本語での「成功する」と「成功」の差以上のものがありそうに思います。
英語で「 succeed 」と「 success 」の話を説明したときに納得してもらえる内容と
日本語で「成功する」と「成功」の話を説明したときに理解してもらえる内容とでは
全く別物になっている可能性があるわけです。
通訳や翻訳家は、そのまま「成功」にまつわる話として訳すでしょうが、
説明のもつ意味が違っているとしたら、内容は違って理解されているかもしれません。
日本語に翻訳された内容を聞いて理解したことを
そのまま日本人向けのセミナーで説明したとしたら、
それは果たして役立つ内容なんだろうか?と感じてしまいます。
英語では重要な考え方が、日本語ではそれほど重要ではない。
そういうケースには注意が必要だと思います。
アメリカから輸入されてきたものには、共通する要因が見られます。
それは、もちろん「全ての人に共通するであろう」という見込みとも捉えられますが、
一方で、英語特有・アメリカ文化特有の背景に影響を受けているものもあると思うんです。
英語を勉強していくと、その辺のことが見えてくるというか
実感できてくる部分があったりするのも面白いところ。
その可能性を踏まえると、海外から有名な講師がやってきて
その話を忠実に理解しようとするとギャップが出ることがあると予想されます。
ギャップがなんとなくでも感じれられていれば悪くないでしょうが、
何も疑うことなく「そういうものだ」と捉えてしまうのは
少し困りものじゃないかという気もします。
特にセミナーの講師をしている立場としては
「自分が習ったものだから」という理由だけで説明するのには抵抗もあります。
まして、それがアメリカの本部からの指導ということになると
従わないわけにもいかないので厄介さは増すところ。
アメリカ人にとっては役立つ技術として作られたものであっても
それが英語特有の仕組みに沿っていたりすると日本人には使いにくかったりするわけです。
そのことは当然、アメリカの本部の方がには予想もできないでしょうし、
英語の背景と日本語の背景の違いを分かっていない場合にも
日本に導入する際に気をつけるべきポイントにも目が行きにくいと思います。
例えば、小さな話題として挙げると
「価値観」に対する説明の仕方には日米の大きな違いが出ます。
「価値観」とは「大切にしていること」ですから、
基本的に名詞の形で、一言で言い表わされるものを言います。
自由とか愛とか勇気とか信頼とか…。
これを英語の説明のまま日本語訳すると
「価値観とは名詞化されたものである」という風になってしまうんです。
英語の場合は、動詞の持つ意味が大きく、
動詞の基本語根に変化を加えて形容詞を作り出し
さらに変化を加えて名詞にする、なんてことも良くあります。
もちろん、形容詞が主体になる言葉も沢山あります。
大雑把にいえば、「動作」を表わす言葉(=動詞)と、
「状態」を表わす言葉(=形容詞)の役割が大きい、ということです。
日本語的に表現すると「述語」が中心なんです。
ここで、単語の持つ意味のイメージとして
動詞のほうが変化の度合いが大きく(短時間に変わる、もしくは動きが大きい)
形容詞のほうが一定で、変化の少ないもの(普遍的な性質)を表わすことが多い
という部分を付け加えておきます。
で、「名詞化」は、これらの形容詞や動詞を名詞の形に変化させることを言って、
「価値観」というのは「もともと動詞や形容詞だったものを名詞の形にしたもの」
として説明されることになります。
この作業に伴って、英語の感覚では「動きがなくなる」ようです。
動詞が動作の内容を示しているのに対して
形容詞は状態を説明している。
そして名詞化されると、動きや変化の一切ない「静止画」になる、と。
例えば、「発達する」という意味の「 develop 」は
名詞化すると「 development 」になって「発達」になります。
全ての名詞化が動詞や形容詞を基準にしてなされるわけではありませんが、
そういうことが多いという説明なんでしょう。
一方、日本語は「〜する」という語尾で動詞に変化する単語が沢山あって
「名詞化」という表現はピンと来にくいものじゃないかと思います。
「発達」を動詞の形にして「発達する」に変える。
逆になる場合が多いんです。
まず、価値観の説明をするときに「名詞化」という言葉を使うのは
日本人にとって必要じゃない部分だろうという話です。
このような違いがあったとしても、確かに
動詞のほうが動きがあって、名詞の場合には動きがない、
という特徴は共通します。
ただ、僕が英語を勉強している感じからすると
動作の積極性というか、動きの大きさは、英語のほうがダイナミックです。
そもそも日本語の説明の仕方のほうが動きが小さい印象があります。
それをさらに客観的な状態にして会話することも多いものです。
「昨日は何してた?」という言い方は
「昨日は何した?」よりも、もっと動きが小さいイメージを伴います。
日本語のほうが全体的な状態を描写することが多い。
それは言語的、文化的な特徴だと考えられます。
で、「価値観」の説明のときに、よく使われる例として「成功」の話があります。
まぁ自己啓発的な話題ですから、「成功」は使いやすい例でもあるのかもしれません。
日本語では「成功」という名詞を元に「成功する」という動詞が作られます。
「成功」という名詞は止まったイメージ・1つの状態として捉えられやすいと思いますし、
「成功する」というのも、そこから派生して、大きな変化とは違うものでしょう。
ところが英語の場合、「成功」は「 success 」ですが、
「成功する」という動詞は「 succeed 」になります。
「 succeed 」は自動詞だと「成功する」と日本語訳され、
他動詞だと「〜を継続する」「〜を引き継ぐ」と日本語訳されます。
ですから「 succeed 」のもう一つの名詞化された形は「 succession 」となり
「継続」とか「連続」といった日本語訳を与えられるようになるんです。
動詞の場合には「連続的」「継続的」なイメージが伴われているのに
名詞になると「成功した」「上手くいった」一瞬だけに切り取られて動きを失う。
だとしたら、「成功」という名詞化、つまり「 success 」は
動作も実感もないものとして大きく意味を変えてしまう、と言えそうです。
この「成功」にまつわる話として
「成功者として評価される人たちは、成功と言わない」
というようなニュアンスが説明されたりします。
「成功」と言ってしまうと、動きが止まってしまうから。
そこで止まってしまう、という説明です。
進んでいきたい方向に向かって「継続している」(= succeed )のを意識するのと
上手くいった場面での「成功」(= success )を意識するのとでは
描いていることも感じていることも別物だろうと想像できます。
そこには日本語での「成功する」と「成功」の差以上のものがありそうに思います。
英語で「 succeed 」と「 success 」の話を説明したときに納得してもらえる内容と
日本語で「成功する」と「成功」の話を説明したときに理解してもらえる内容とでは
全く別物になっている可能性があるわけです。
通訳や翻訳家は、そのまま「成功」にまつわる話として訳すでしょうが、
説明のもつ意味が違っているとしたら、内容は違って理解されているかもしれません。
日本語に翻訳された内容を聞いて理解したことを
そのまま日本人向けのセミナーで説明したとしたら、
それは果たして役立つ内容なんだろうか?と感じてしまいます。
英語では重要な考え方が、日本語ではそれほど重要ではない。
そういうケースには注意が必要だと思います。
2010年11月13日
久しぶりにテストを受けました
TOEFLのテストを受けてきました。
(正確に言うと「T」が「テスト」なので「TOEFLを受けてきました」ですが)
これは大変でした。
TOEICが可愛らしく思えるほどです。
Reading、Listening、Speaking、Writing の4つがテストされます。
テストの内容によって所要時間に差が出るそうですが、
僕が受けてきたのは短いほうのバージョンでした。
賞味4時間15分。
途中に10分の休憩が入りますから、実際は4時間ぐらいでしょうか。
ずっと意識を張り詰めた状態でした。
インターネットに接続されたパソコンを使って行うテストなので
テストの開始時間が受付順でズレているんです。
なので、自分が Reading の問題を解いている最中に
他の人がマイクチェックをしていたり
Listening の問題を解いていたりして、
とにかく周囲の音が気になってしまいました。
僕は、この外的な音に気をそらされやすい傾向があるので
この部分は耳栓を使うとかして工夫する必要がありそうです。
そして、自分が勉強してきていたベースが紙に書かれた教材だったので
パソコンの画面上で進めなければいけないところも随分と厄介に感じました。
読みにくいし、視野に対する文字の大きさや分布なども、情報を取り込みにくい印象。
また、初めてのテストだということもありますし、
会社で受けていたTOEICを除けば、大学の期末試験以来の
本格的なテストの受験でしたから、平常心とは言いにい状態だったのもあります。
心に関わる仕事をしていますから、ある程度は自分で状態をコントロールしましたが、
同時に周りからの影響を受けやすくなっているのも対処しなければいけませんでした。
音に対しては敏感になっていたせいか、Listening に関しては
環境的なストレスを感じることは少なく、普段に近い気分だったとは思います。
強いていえば、メモを取るときの鉛筆が借り物なので
その部分での痛さや書きにくさで少し不満を感じたのも覚えています。
振り返って、やっぱり問題として大きかったのは
パソコンの画面上の文字を読むという作業への影響でしょう。
Speaking にも Writing にも文章を読んでから回答するものが含まれますから
この読みにくさの影響で力が発揮できなかった印象は否定できません。
全体を通じて、自分が集中的に取り組む必要のある部分が
見えたという意味では貴重なテストではあったかと考えています。
僕の個人的な特徴を改めて意識したんですが、
本番の大事な場面になると集中力が上がるというか、
追い込まれると処理速度が上がるというか、
自分の頭と体のスピードが少し上昇する印象を受けます。
時間がゆっくりになるというよりは、
普段よりも自分が速く進んでしまう感じ。
大学のときに研究室の仲間内で野球をしていた際にも感じたことがあります。
試合で気合が入っている打席ほど、自分が速くなる感じがありました。
打席に入り、普段だったらこのタイミングでピッタリ、というはずのスイングが
完全に早過ぎてボールが来る前に振り終わってしまっていたり。
タイミングを取る判断材料から動き始めるまでの時間も短縮されるのかもしれませんし、
体の動き自体も普段より速くなるのかもしれません。
守っていた時も、絶好のダブルプレーのチャンスというときに
「ボールを取って、二塁ベースを踏んで、一塁に投げる…」という流れが
僕の頭の中で加速し過ぎてしまったらしく、失敗したこともありました。
ボールがグローブに入ったと思ってグローブを閉じ、
ボールを取って投げる態勢に入る…というつもりが
まだボールがグローブよりも手前を飛んでいる間に、ボールを捕ったつもりになり
送球の態勢にまで進んでしまったんです。
僕の中では、どちらも「あれ?」という感じ。
絶対にボールに当たっているはずだったし、
絶対にボールをグローブで掴んだはずだったのに…。
そういう具合に、体の筋肉のレベルでも、脳の処理速度のレベルでも
スピードが普段よりも上がり過ぎてしまうことがあるんです。
よくプロゴルファーが最終ホールが近づくと
自然にボールが飛び過ぎてしまうと言いますが、
それも似たような作用だろうと思います。
アドレナリンの分泌量が増えるのかもしれません。
同様に、テストを受けていても、その状態が起きていた気がします。
なんだか処理速度が上がっている感じ。
周りの音には気が散らされますから、ドップリと集中するのとは違うんでしょう。
ただ、作業の効率が上がるというか、自分のスピードが上がった感じがします。
一秒間に考えられる量が増えるような、意識に上がる量が増えるような、そんな感じ。
まぁ、とはいえ手が動くスピードには限界がありますし、
Listening をしながらメモを取る作業で、やはり聞く作業の効率は落ちたようです。
しかも書こうとするスピードは上がってしまっているので
後から見たメモの字が普段よりも読みにくい。
これには参りました。
そのような状態を「集中力が上がっている」というかは分かりません。
気が散ることもあるわけですから「集中している」のとはチョット違う気がします。
目の前の作業に大量の力を注いでいる状態でしょうか。
張り詰めている状態、意識が普段よりも覚醒している状態とも言えそうです。
それを4時間続けたんです。
終わった後の消耗は激しいものでした。
椅子が少し後ろに傾いた形をしていたために
座り続けているだけで腰が痛くなるようなものだったんですが、
その腰の痛みに気づいたのも、テストが終わった瞬間でした。
頭の中はまだ過剰に動いているようでありながら、
体のほうは動きがなくなっているような妙な感覚。
運動をしたときとは違う疲労感で、どちらかというと
徹夜明けでハイになる状態に似ているかもしれません。
事前に話で聞いていたところでは、後半になると集中力が切れてくるとか
どうでも良くなってくる人がいるということでしたが、
僕はそのタイプではないようです。
後半になると「どうでもいい」感じになってくるという人は
おそらく疲労してきている体の感覚や、
糖分や酸素供給量の低下によってエネルギー効率が下がるのを
実感しやすいのだろうと想像できます。
僕の場合は、大事な作業のときには体の痛みのメッセージをカットしやすくなります。
これもアドレナリンが関係しているのかもしれません。
打撃系格闘技の選手は試合中はアドレナリンで痛みをあまり感じないと言いますから。
頭の疲労感というのも、内容に入り込んでいる時は出てきません。
この頭の疲労感は、セミナーをしていると顕著に見ることができます。
難しい作業や考えるワークを沢山続けても大丈夫な人と
後半になるとボーッとしてきやすい人とがいますから。
そのあたりの特性が長時間のテストのときに、
僕の場合は比較的よい方向に働くような気がします。
一方で、終わった瞬間のギャップは激しい。
あそこまで疲労感は久しぶりに感じました。
あまりにも頭と体の活動バランスがズレていたので
少し歩いて体を動かすことにしたぐらいです。
今回のテストでは自分の特徴を久しぶりに自覚しましたし、
それを踏まえたうえでの対策の取り方も意識できました。
僕の場合は、Writing を集中的に取り組むのが効果が高そうです。
自分が日本語の説明能力をどうやって上げてきたかと振り返ると
それは大学時代から研究職のときまでに繰り返した
「書く」作業によるところが大きかったと思いましたから。
多分、ブログを英語で書いたら役立つだろうなぁ、とは思うんですが。
これとは別に英語ブログを作ればいいのかもしれませんね。
(正確に言うと「T」が「テスト」なので「TOEFLを受けてきました」ですが)
これは大変でした。
TOEICが可愛らしく思えるほどです。
Reading、Listening、Speaking、Writing の4つがテストされます。
テストの内容によって所要時間に差が出るそうですが、
僕が受けてきたのは短いほうのバージョンでした。
賞味4時間15分。
途中に10分の休憩が入りますから、実際は4時間ぐらいでしょうか。
ずっと意識を張り詰めた状態でした。
インターネットに接続されたパソコンを使って行うテストなので
テストの開始時間が受付順でズレているんです。
なので、自分が Reading の問題を解いている最中に
他の人がマイクチェックをしていたり
Listening の問題を解いていたりして、
とにかく周囲の音が気になってしまいました。
僕は、この外的な音に気をそらされやすい傾向があるので
この部分は耳栓を使うとかして工夫する必要がありそうです。
そして、自分が勉強してきていたベースが紙に書かれた教材だったので
パソコンの画面上で進めなければいけないところも随分と厄介に感じました。
読みにくいし、視野に対する文字の大きさや分布なども、情報を取り込みにくい印象。
また、初めてのテストだということもありますし、
会社で受けていたTOEICを除けば、大学の期末試験以来の
本格的なテストの受験でしたから、平常心とは言いにい状態だったのもあります。
心に関わる仕事をしていますから、ある程度は自分で状態をコントロールしましたが、
同時に周りからの影響を受けやすくなっているのも対処しなければいけませんでした。
音に対しては敏感になっていたせいか、Listening に関しては
環境的なストレスを感じることは少なく、普段に近い気分だったとは思います。
強いていえば、メモを取るときの鉛筆が借り物なので
その部分での痛さや書きにくさで少し不満を感じたのも覚えています。
振り返って、やっぱり問題として大きかったのは
パソコンの画面上の文字を読むという作業への影響でしょう。
Speaking にも Writing にも文章を読んでから回答するものが含まれますから
この読みにくさの影響で力が発揮できなかった印象は否定できません。
全体を通じて、自分が集中的に取り組む必要のある部分が
見えたという意味では貴重なテストではあったかと考えています。
僕の個人的な特徴を改めて意識したんですが、
本番の大事な場面になると集中力が上がるというか、
追い込まれると処理速度が上がるというか、
自分の頭と体のスピードが少し上昇する印象を受けます。
時間がゆっくりになるというよりは、
普段よりも自分が速く進んでしまう感じ。
大学のときに研究室の仲間内で野球をしていた際にも感じたことがあります。
試合で気合が入っている打席ほど、自分が速くなる感じがありました。
打席に入り、普段だったらこのタイミングでピッタリ、というはずのスイングが
完全に早過ぎてボールが来る前に振り終わってしまっていたり。
タイミングを取る判断材料から動き始めるまでの時間も短縮されるのかもしれませんし、
体の動き自体も普段より速くなるのかもしれません。
守っていた時も、絶好のダブルプレーのチャンスというときに
「ボールを取って、二塁ベースを踏んで、一塁に投げる…」という流れが
僕の頭の中で加速し過ぎてしまったらしく、失敗したこともありました。
ボールがグローブに入ったと思ってグローブを閉じ、
ボールを取って投げる態勢に入る…というつもりが
まだボールがグローブよりも手前を飛んでいる間に、ボールを捕ったつもりになり
送球の態勢にまで進んでしまったんです。
僕の中では、どちらも「あれ?」という感じ。
絶対にボールに当たっているはずだったし、
絶対にボールをグローブで掴んだはずだったのに…。
そういう具合に、体の筋肉のレベルでも、脳の処理速度のレベルでも
スピードが普段よりも上がり過ぎてしまうことがあるんです。
よくプロゴルファーが最終ホールが近づくと
自然にボールが飛び過ぎてしまうと言いますが、
それも似たような作用だろうと思います。
アドレナリンの分泌量が増えるのかもしれません。
同様に、テストを受けていても、その状態が起きていた気がします。
なんだか処理速度が上がっている感じ。
周りの音には気が散らされますから、ドップリと集中するのとは違うんでしょう。
ただ、作業の効率が上がるというか、自分のスピードが上がった感じがします。
一秒間に考えられる量が増えるような、意識に上がる量が増えるような、そんな感じ。
まぁ、とはいえ手が動くスピードには限界がありますし、
Listening をしながらメモを取る作業で、やはり聞く作業の効率は落ちたようです。
しかも書こうとするスピードは上がってしまっているので
後から見たメモの字が普段よりも読みにくい。
これには参りました。
そのような状態を「集中力が上がっている」というかは分かりません。
気が散ることもあるわけですから「集中している」のとはチョット違う気がします。
目の前の作業に大量の力を注いでいる状態でしょうか。
張り詰めている状態、意識が普段よりも覚醒している状態とも言えそうです。
それを4時間続けたんです。
終わった後の消耗は激しいものでした。
椅子が少し後ろに傾いた形をしていたために
座り続けているだけで腰が痛くなるようなものだったんですが、
その腰の痛みに気づいたのも、テストが終わった瞬間でした。
頭の中はまだ過剰に動いているようでありながら、
体のほうは動きがなくなっているような妙な感覚。
運動をしたときとは違う疲労感で、どちらかというと
徹夜明けでハイになる状態に似ているかもしれません。
事前に話で聞いていたところでは、後半になると集中力が切れてくるとか
どうでも良くなってくる人がいるということでしたが、
僕はそのタイプではないようです。
後半になると「どうでもいい」感じになってくるという人は
おそらく疲労してきている体の感覚や、
糖分や酸素供給量の低下によってエネルギー効率が下がるのを
実感しやすいのだろうと想像できます。
僕の場合は、大事な作業のときには体の痛みのメッセージをカットしやすくなります。
これもアドレナリンが関係しているのかもしれません。
打撃系格闘技の選手は試合中はアドレナリンで痛みをあまり感じないと言いますから。
頭の疲労感というのも、内容に入り込んでいる時は出てきません。
この頭の疲労感は、セミナーをしていると顕著に見ることができます。
難しい作業や考えるワークを沢山続けても大丈夫な人と
後半になるとボーッとしてきやすい人とがいますから。
そのあたりの特性が長時間のテストのときに、
僕の場合は比較的よい方向に働くような気がします。
一方で、終わった瞬間のギャップは激しい。
あそこまで疲労感は久しぶりに感じました。
あまりにも頭と体の活動バランスがズレていたので
少し歩いて体を動かすことにしたぐらいです。
今回のテストでは自分の特徴を久しぶりに自覚しましたし、
それを踏まえたうえでの対策の取り方も意識できました。
僕の場合は、Writing を集中的に取り組むのが効果が高そうです。
自分が日本語の説明能力をどうやって上げてきたかと振り返ると
それは大学時代から研究職のときまでに繰り返した
「書く」作業によるところが大きかったと思いましたから。
多分、ブログを英語で書いたら役立つだろうなぁ、とは思うんですが。
これとは別に英語ブログを作ればいいのかもしれませんね。
2010年11月11日
サポートの仕方
そういえば、ずっと前に参加したコーチングかコミュニケーションか何かの講座で
ガイドやコーチの役目を実感するためのワークとして、
目隠しをしたクライアントを目的地に誘導するゲームをしました。
手を繋いで案内する感じだったと思います。
それに大きな疑問を覚えたものです。
趣旨は、信頼感を築くところだったのかもしれませんが、
僕のイメージでは、その種の信頼感は、クライアントとの信頼感とは違います。
その設定はコーチングやカウンセリングの何を表現しているのでしょうか。
目隠しをしているということは、クライアントが目的地も現在地も
何も「見えていない」状態ということのように思えます。
目的が分からないクライアントを導くのがコーチやカウンセラーの仕事だろうか、と。
よほど、目隠しの取り方を一緒に考えるほうが役立つ気がします。
まぁ、目隠しは重要な設定でしょうから、それを外す方向は無しだとして、
どうやったら目的地と現状の把握が本人にできるかを考えるのが現実的でしょう。
それは杖を使うとか、目的地の方向で音を出すとか、
そういったことでしょうか。
そのときのワークでは、部屋の中に障害物も置いてあった気がします。
椅子が散乱している。
で、部屋を横断する形式。
僕のペアは、どうしたらクライアントが目隠しをしたままで
自立していけるかを自然と考えていました。
(そんな指示はなかったとは思いますが…)
最初につないでいた手を、どうやって離していくか?
まずは声をかけるところから始めた気がします。
しかし、これは不安が大きかったようです。
で、次に道具を使うことにしました。
杖はなかったので何かの物で障害物を確認できるようにしよう、と。
それから、歩くときの不安が大きかったので
支えになるものがあると良いという話になって
その部屋の椅子を利用することにしました。
椅子がキャスター付きでしたらから、
つかまりながら安定して歩けそうだと感じられたようです。
で、実際にキャスター付きの椅子を支えにして、
かつ、障害物も椅子で探知しながら歩いていくと
僕は、ただ横で見ているだけでも大丈夫な状態になりました。
最終的には「この椅子はスゴイ!障害物も弾き飛ばせる!」となって
本人が一人で椅子を進行方向に持ち、キャスターの支えを利用して
荷台を押すような感じで走り始めました。
部屋にある障害物は、その前方の椅子で弾き飛ばし、ガンガン前に進む。
僕がしたことは、他の人の存在を伝えることと、
目標の向きから大きく逸れそうなときに伝えること。
本当に見ているだけで大丈夫な状態になりました。
手を取って一緒に歩き、目標までの道案内をしていくのと、
椅子を使って勝手に進める方法を見つけてもらうサポートをするのと、
色々な関わり方があるとは思います。
一生その人の手を取って一緒に歩くなら、それも素晴らしいでしょう。
ただ、コーチングやカウンセリングや、一時の関係性です。
それを踏まえると、手を取って案内するだけが全てではないと感じたものです。
そんな思い出が蘇ってきました。
ガイドやコーチの役目を実感するためのワークとして、
目隠しをしたクライアントを目的地に誘導するゲームをしました。
手を繋いで案内する感じだったと思います。
それに大きな疑問を覚えたものです。
趣旨は、信頼感を築くところだったのかもしれませんが、
僕のイメージでは、その種の信頼感は、クライアントとの信頼感とは違います。
その設定はコーチングやカウンセリングの何を表現しているのでしょうか。
目隠しをしているということは、クライアントが目的地も現在地も
何も「見えていない」状態ということのように思えます。
目的が分からないクライアントを導くのがコーチやカウンセラーの仕事だろうか、と。
よほど、目隠しの取り方を一緒に考えるほうが役立つ気がします。
まぁ、目隠しは重要な設定でしょうから、それを外す方向は無しだとして、
どうやったら目的地と現状の把握が本人にできるかを考えるのが現実的でしょう。
それは杖を使うとか、目的地の方向で音を出すとか、
そういったことでしょうか。
そのときのワークでは、部屋の中に障害物も置いてあった気がします。
椅子が散乱している。
で、部屋を横断する形式。
僕のペアは、どうしたらクライアントが目隠しをしたままで
自立していけるかを自然と考えていました。
(そんな指示はなかったとは思いますが…)
最初につないでいた手を、どうやって離していくか?
まずは声をかけるところから始めた気がします。
しかし、これは不安が大きかったようです。
で、次に道具を使うことにしました。
杖はなかったので何かの物で障害物を確認できるようにしよう、と。
それから、歩くときの不安が大きかったので
支えになるものがあると良いという話になって
その部屋の椅子を利用することにしました。
椅子がキャスター付きでしたらから、
つかまりながら安定して歩けそうだと感じられたようです。
で、実際にキャスター付きの椅子を支えにして、
かつ、障害物も椅子で探知しながら歩いていくと
僕は、ただ横で見ているだけでも大丈夫な状態になりました。
最終的には「この椅子はスゴイ!障害物も弾き飛ばせる!」となって
本人が一人で椅子を進行方向に持ち、キャスターの支えを利用して
荷台を押すような感じで走り始めました。
部屋にある障害物は、その前方の椅子で弾き飛ばし、ガンガン前に進む。
僕がしたことは、他の人の存在を伝えることと、
目標の向きから大きく逸れそうなときに伝えること。
本当に見ているだけで大丈夫な状態になりました。
手を取って一緒に歩き、目標までの道案内をしていくのと、
椅子を使って勝手に進める方法を見つけてもらうサポートをするのと、
色々な関わり方があるとは思います。
一生その人の手を取って一緒に歩くなら、それも素晴らしいでしょう。
ただ、コーチングやカウンセリングや、一時の関係性です。
それを踏まえると、手を取って案内するだけが全てではないと感じたものです。
そんな思い出が蘇ってきました。