2010年12月
2010年12月30日
ほったらかしだったもの
2010年も、もうすぐ終わりです。
地デジは2011年7月から…
なんて、まだまだ先のことだと思って気にしていませんでしたが、
もうあと半年とチョットなんですね。
テレビを買い替える必要が出てきそうです。
さて、今年一年を振り返ると、今までの中で
最も英語に力を入れて取り組んだ年だったと感じます。
研究職をしていると、最新の情報は英語の論文から仕入れることになりますから
英語で情報をインプットするという作業自体は以前からやっていたようです。
で、それは別に日本語訳をしているわけではありませんが、
情報のネットワークとして自分の中で整理される時には
日本語の形になっていたのを思い出します。
つまり、仕入れた情報を整理して、記憶して、使える状態になる頃には
全て日本語に変換されている、ということです。
もちろん、そうした情報の中には日本語で勉強したものもありますから
両方がミックスされて理解が進んでいきます。
どれが英語でインプットしたものか、日本語でインプットしたものかは
区別がつかない状態になって整理がなされているわけです。
どんなインプット手段であれ、整理したものをアウトプットしようとすると
日本語の形でしかできない、という状態だったのかもしれません。
インプットしたものは、通常、一字一句同じ状態ではアウトプットされないでしょう。
引用するときを除き、自分の中からアウトプットされたものは
自分の言い回しに変換されるものじゃないかと思います。
その変換のときの表現方法が、日本語しかない。
それが日本語が母国語という意味だと言えそうです。
ところが、英語・日本語のバイリンガルの場合には、
日本語でインプットした情報か、英語でインプットした情報かが区別できないだけでなく
過去に日本語でアウトプットしたことがあったか、
英語でアウトプットしたことがあったか、さえも不明確になるそうです。
整理された情報が、英語でも日本語でも自由にアウトプットできる状態。
理解している記憶の情報そのものは、言語の区別がないということです。
でなければ、英語で話したときの記憶と、日本語で話したときの記憶が
完全に切り離されてしまいますから、二重人格のようになってしまいます。
状況によって性格や振る舞い方が変わりますから
使う言語によって雰囲気が変わって見えるのは当然ですが、
記憶には連続性があるはずです。
なので、人生として記憶されている全体は、個人の中で1つだと言えます。
それを日本語、英語の両方でアウトプットもインプットも自在にできる
というのがバイリンガルなんだろうと考えられます。
記憶の中にある概念のネットワークに対して
言語的な情報が密接に結びついているのが母国語。
僕にとって英語の場合には、その結びつきが弱く
英語の言葉を使って情報を整理するというのが困難なんでしょう。
言語は概念記憶に対するラベルだと考えることもできますが、
実際には、その運用方法のルールを把握していることも重要です。
多分、このルールを使いこなせるように練習していくことが必要だと考えています。
そのためには、英語で何かを説明するとか、英語で考え事をするとか、
英語で文章を書くといった作業が役立ちそうです。
現象を英語で考察するのが、僕には効果的なんじゃないかと思います。
英語で情報を整理する作業になりますから。
ということは、英語でブログを書く…。
少しハードルが高そうな気がしてしまいます。
前日に書いたブログの内容を、思い返しながら英語で書いていく。
これは良いトレーニングになりそうではあります。
意外と世界中に発信できる分、アクセス数が多かったりして。
気が向いたらやるかもしれません。
実は、僕にとってこの「気が向いたら」というのは非常に重要なんです。
経験上、その感覚が重要でした。
僕が英語を必要だと感じていたのは、大学の後半ぐらいから。
でも逃げていた気がします。
正確には、「気が向かなかった」んです。
それが一度「気が向いたら」、今度は勉強するのが楽しくなる。
真剣に取り組みたくなるんです。
僕の心の一部を小さいころから占めていた『英語』への想い。
ずっと引っかかっていたような感じでした。
タイミングがくると、それは膨らみ始めるみたいです。
なんとなく興味があったけど、実際には始めなかったこと。
ずっと気にはなっているけど、見ているだけ。
そういうのは、いつか始める時が来るような気がしています。
なぜか気になる。
その時点で、大きな意味があるはずです。
自分が何に興味を持ったことがあったか。
ちょっとでも気になったこと。
そんなことを振り返ってみると、何かが見つかるかもしれません。
世の中には沢山のことがあります。
一人の人にとって、どうでも良いことが世の中の大半です。
比率でいえば、興味を持つ対象のほうが少ないんです。
だとしたら、少しでも気持ちが向いたそのものは
その人にとって大事なことなんじゃないかと思います。
社会人になるときに全て捨ててしまった大量のマンガ。
あの中には、僕が興味を持ったタネのようなものが沢山あった気がします。
きっと将来、「そういえば…こんなマンガ持っていななぁ」なんて思い出しながら
その内容に集中して取り組む時期が来るんでしょう。
地デジは2011年7月から…
なんて、まだまだ先のことだと思って気にしていませんでしたが、
もうあと半年とチョットなんですね。
テレビを買い替える必要が出てきそうです。
さて、今年一年を振り返ると、今までの中で
最も英語に力を入れて取り組んだ年だったと感じます。
研究職をしていると、最新の情報は英語の論文から仕入れることになりますから
英語で情報をインプットするという作業自体は以前からやっていたようです。
で、それは別に日本語訳をしているわけではありませんが、
情報のネットワークとして自分の中で整理される時には
日本語の形になっていたのを思い出します。
つまり、仕入れた情報を整理して、記憶して、使える状態になる頃には
全て日本語に変換されている、ということです。
もちろん、そうした情報の中には日本語で勉強したものもありますから
両方がミックスされて理解が進んでいきます。
どれが英語でインプットしたものか、日本語でインプットしたものかは
区別がつかない状態になって整理がなされているわけです。
どんなインプット手段であれ、整理したものをアウトプットしようとすると
日本語の形でしかできない、という状態だったのかもしれません。
インプットしたものは、通常、一字一句同じ状態ではアウトプットされないでしょう。
引用するときを除き、自分の中からアウトプットされたものは
自分の言い回しに変換されるものじゃないかと思います。
その変換のときの表現方法が、日本語しかない。
それが日本語が母国語という意味だと言えそうです。
ところが、英語・日本語のバイリンガルの場合には、
日本語でインプットした情報か、英語でインプットした情報かが区別できないだけでなく
過去に日本語でアウトプットしたことがあったか、
英語でアウトプットしたことがあったか、さえも不明確になるそうです。
整理された情報が、英語でも日本語でも自由にアウトプットできる状態。
理解している記憶の情報そのものは、言語の区別がないということです。
でなければ、英語で話したときの記憶と、日本語で話したときの記憶が
完全に切り離されてしまいますから、二重人格のようになってしまいます。
状況によって性格や振る舞い方が変わりますから
使う言語によって雰囲気が変わって見えるのは当然ですが、
記憶には連続性があるはずです。
なので、人生として記憶されている全体は、個人の中で1つだと言えます。
それを日本語、英語の両方でアウトプットもインプットも自在にできる
というのがバイリンガルなんだろうと考えられます。
記憶の中にある概念のネットワークに対して
言語的な情報が密接に結びついているのが母国語。
僕にとって英語の場合には、その結びつきが弱く
英語の言葉を使って情報を整理するというのが困難なんでしょう。
言語は概念記憶に対するラベルだと考えることもできますが、
実際には、その運用方法のルールを把握していることも重要です。
多分、このルールを使いこなせるように練習していくことが必要だと考えています。
そのためには、英語で何かを説明するとか、英語で考え事をするとか、
英語で文章を書くといった作業が役立ちそうです。
現象を英語で考察するのが、僕には効果的なんじゃないかと思います。
英語で情報を整理する作業になりますから。
ということは、英語でブログを書く…。
少しハードルが高そうな気がしてしまいます。
前日に書いたブログの内容を、思い返しながら英語で書いていく。
これは良いトレーニングになりそうではあります。
意外と世界中に発信できる分、アクセス数が多かったりして。
気が向いたらやるかもしれません。
実は、僕にとってこの「気が向いたら」というのは非常に重要なんです。
経験上、その感覚が重要でした。
僕が英語を必要だと感じていたのは、大学の後半ぐらいから。
でも逃げていた気がします。
正確には、「気が向かなかった」んです。
それが一度「気が向いたら」、今度は勉強するのが楽しくなる。
真剣に取り組みたくなるんです。
僕の心の一部を小さいころから占めていた『英語』への想い。
ずっと引っかかっていたような感じでした。
タイミングがくると、それは膨らみ始めるみたいです。
なんとなく興味があったけど、実際には始めなかったこと。
ずっと気にはなっているけど、見ているだけ。
そういうのは、いつか始める時が来るような気がしています。
なぜか気になる。
その時点で、大きな意味があるはずです。
自分が何に興味を持ったことがあったか。
ちょっとでも気になったこと。
そんなことを振り返ってみると、何かが見つかるかもしれません。
世の中には沢山のことがあります。
一人の人にとって、どうでも良いことが世の中の大半です。
比率でいえば、興味を持つ対象のほうが少ないんです。
だとしたら、少しでも気持ちが向いたそのものは
その人にとって大事なことなんじゃないかと思います。
社会人になるときに全て捨ててしまった大量のマンガ。
あの中には、僕が興味を持ったタネのようなものが沢山あった気がします。
きっと将来、「そういえば…こんなマンガ持っていななぁ」なんて思い出しながら
その内容に集中して取り組む時期が来るんでしょう。
2010年12月28日
入選
以前に少し書いた「独立書展」についてですが、
先日、審査結果が郵送されてきました。
『秀作』とのこと。
「独立賞、特選、準特選、秀作、佳作、入選」という分け方らしいので
なかなかのご評価を頂いたんではないかと思っています。
2009年の7月から通い始めましたから、1年半ぐらい。
小学校のときに書道をやっていたとはいえ、
教室に通い始めたときのことを思うと、随分と出来ることが増えた気がします。
モデリングの成果が少し感じられました。
ちなみに、書道の世界では色々な流儀があるそうですが、
この通称「独立」と呼ばれる団体では、審査の際に
名前が伏せられた状態になっているとのことです。
誰の弟子だとか、生徒が何人いるとか、有名な人だとか、
テレビに出ているとかは審査に関係ないわけです。
そんな審査が一般応募で1000人以上。
六本木の国立新美術館の広さが必要なようです。
1月の6日から17日まで開催されているそうです。
ご興味があれば見てやって下さい。
(情報はこちらから>>)
1000点の中から僕のを探すのは大変だと思いますが
数多くの作品を眺めるのも興味深いんじゃないかと予想しています。
僕はまだ、何日に見に行くかは決めていませんが、
すばらしい作品を見て学べることが沢山あるものと期待しているところです。
特に、独創的な作品を理解するのは僕にとって難しいので
その辺も勉強したいなぁ…なんて考えているんです。
文字を崩していく作業では、
その文字として認識される範囲のゲシュタルトを維持する工夫が必要です。
かつ、全体としてのバランス感覚も問われる。
配置のバランス、白黒のバランス、傾きによる重さのバランス…。
そして線質の美しさや筆使い。
きっと沢山の見るべきポイントがあるんだと思います。
そういうものを通して、文字の中にも
サブモダリティの特徴が表現されています。
絵画を見るときには使われない基準があるような気がします。
芸術を理解するプロセスは、人の認知のメカニズムに触れる行為だとも言えそうです。
僕の先生は言っています。
展覧会に行って、良い作品を沢山見てくるだけで
何もしなくても上手くなることが良くある、と。
数多くの経験が一般化されて、美しさの基準の制度が上がるんでしょう。
一流に触れるということの重要性を実感します。
どんなものでも一流の技術を生で見られるのは貴重な体験のはずです。
どれだけ沢山の超一流を間近で体験できるかが
僕の1つの目標になっているようです。
先日、審査結果が郵送されてきました。
『秀作』とのこと。
「独立賞、特選、準特選、秀作、佳作、入選」という分け方らしいので
なかなかのご評価を頂いたんではないかと思っています。
2009年の7月から通い始めましたから、1年半ぐらい。
小学校のときに書道をやっていたとはいえ、
教室に通い始めたときのことを思うと、随分と出来ることが増えた気がします。
モデリングの成果が少し感じられました。
ちなみに、書道の世界では色々な流儀があるそうですが、
この通称「独立」と呼ばれる団体では、審査の際に
名前が伏せられた状態になっているとのことです。
誰の弟子だとか、生徒が何人いるとか、有名な人だとか、
テレビに出ているとかは審査に関係ないわけです。
そんな審査が一般応募で1000人以上。
六本木の国立新美術館の広さが必要なようです。
1月の6日から17日まで開催されているそうです。
ご興味があれば見てやって下さい。
(情報はこちらから>>)
1000点の中から僕のを探すのは大変だと思いますが
数多くの作品を眺めるのも興味深いんじゃないかと予想しています。
僕はまだ、何日に見に行くかは決めていませんが、
すばらしい作品を見て学べることが沢山あるものと期待しているところです。
特に、独創的な作品を理解するのは僕にとって難しいので
その辺も勉強したいなぁ…なんて考えているんです。
文字を崩していく作業では、
その文字として認識される範囲のゲシュタルトを維持する工夫が必要です。
かつ、全体としてのバランス感覚も問われる。
配置のバランス、白黒のバランス、傾きによる重さのバランス…。
そして線質の美しさや筆使い。
きっと沢山の見るべきポイントがあるんだと思います。
そういうものを通して、文字の中にも
サブモダリティの特徴が表現されています。
絵画を見るときには使われない基準があるような気がします。
芸術を理解するプロセスは、人の認知のメカニズムに触れる行為だとも言えそうです。
僕の先生は言っています。
展覧会に行って、良い作品を沢山見てくるだけで
何もしなくても上手くなることが良くある、と。
数多くの経験が一般化されて、美しさの基準の制度が上がるんでしょう。
一流に触れるということの重要性を実感します。
どんなものでも一流の技術を生で見られるのは貴重な体験のはずです。
どれだけ沢山の超一流を間近で体験できるかが
僕の1つの目標になっているようです。
2010年12月27日
ありがとうございます
アンケートへご協力いただきまして、ありがとうございました。
皆さまのご意見を総合した結果、
1月10日のダイジェスト版の開催は見送ることとしました。
ご期待されていた方には、申し訳ありません。
貴重なご意見をに学ぶところが沢山ありました。
今後は、早めに日時のアナウンスができるように工夫するつもりです。
(ギリギリまで仕事のスケジュールが分からないという部分もあるんですが…)
勉強会を開催していて感じるのは、
僕にとって、何かを学ぶのには非常に大切な意味がある
ということです。
大袈裟な言い方をすれば、
「人生の半分は学ぶことで、残りはそれを使うこと」
となるほど。
脳の機能として学習していくことを考れば、
学習の割合は半分以上だとも思います。
体験から学習するという前提に立つと、
初めての経験からは新たなパターンが学習され、
既に体験済みの状況に対しては、学習済みのパターンで対応する。
既にあるパターンで上手く対応できれば
それが「上手くいく」ものとして学習が進みますから、
普通に生活をしているだけでも情報のネットワークは変わり続けているんです。
絶えず学習は進んでいる。
この場合は、受動的に学習されているようなイメージでしょうか。
こうした広い意味での学習の中に、意識的に自分のやり方を変えようとしたり、
今までにない方法を身につけようとしたりする場合があります。
積極的に学習しようとする場合です。
こちらは能動的なイメージ。
それをもって、今までよりも望ましい結果が出せるように
自分のパフォーマンスを変えていく。
この結果が、いわばアウトプットです。
受動的なものも含めると膨大な量のインプットがあり、
それを用いてアウトプットをしているのが人間の中身だとも言えるでしょう。
何を経験して、どんな状況に身を置くか。
そこには個人の好みが強く反映されます。
理由は分かりません。
個人差があります。
環境の影響もあるでしょうが、それだけでは説明がつかないレベルとして
個人の生まれ持った好みがあるように思えます。
野球が好きか、サッカーが好きか。
犬が好きか、猫が好きか。
数学が好きか、国語が好きか。
海外旅行が好きか、国内旅行が好きか。
その好みの環境の中で、より多くのインプットとアウトプットを繰り返す。
仕事においても、スポーツにおいても、趣味においても。
そこで、より望ましい成果をアウトプットしたくなるようです。
学校の勉強は、学習の中のほんの一部だと言えます。
その人が頻繁にする行動、頻繁に身を置く状況において
沢山の学習が起こっています。
野球が上手くなりたいのも、
海外留学したいのも、
音楽が上手になりたいのも、
営業の成績を上げたいのも、
部下を効果的にマネジメントしたいのも、
会社の売上を上げたいのも、
トレーディングでお金を稼ぎたいのも、
パチンコで勝てる確率を上げたいのも、
家族関係をより良くしたいのも、
全て学習と、その成果にかかっているはずです。
本人にとって大切な分野で、
アウトプットをより望ましくするために
積極的に学習のためのインプットをするようになる。
それは、多くの人にとって自然な欲求だと思います。
生きている間に残せるのは、そのアウトプットの成果なんじゃないでしょうか。
色々とインプットして、自分の形にしてアウトプットする。
大雑把にいえば、人生の大部分はそういうことだと思います。
その学習の仕方には大きく2通りがあります。
自分の経験から学ぶか。
他人がアウトプットしたものを通じて学ぶか。
僕は、他人のアウトプットを取り入れたいほうなんです。
そのほうが効率的に学べる場合があります。
「効率的」というのはドライな感じもあるかもしれませんが、
限りある時間の中でできることを考えた場合には
効率的にインプットするのも大切だと思います。
何より、他人のアウトプットは
その人の人生を通った財産のようなものに思えるんです。
1つの種が芽を出し、養分を吸収して、自らの実を作る。
そんなイメージです。
歴史に刻まれてきた文化や習慣、言語、知識や学問は
大勢の人によるインプットとアウトプットを繰り返してできたものだと考えられます。
積極的に学ぶ行為は、大袈裟にいえば
人類の歴史の結晶を自分に取り入れることだと思うんです。
僕はシンプルに、沢山のことを知りたいんです。
自分の興味のあることを、できるだけインプットしたい。
インプットが増えることで、今までになかった興味が沸いてくることもあります。
もっと興味が増えてくるわけです。
何に興味を持つかは予想できません。
興味を持った時に学べるのが僕にとって理想的なんです。
そのための手段は学校に限りません。
達人から学ぶのも1つの手段ですし、
色々と本を当たってみる方法もあります。
ただ、自分が学びたいと思った内容は、できるだけスムーズに学びたい。
学びたい内容を学ぶための余計なプロセスも、少ないほうが嬉しいです。
勉強する許可を得るためにテスト対策をしなければいけないのは残念に感じます。
こういう想いを持つようになったのは、社会人になってからでした。
人の心に興味を持ち始めてから本を読むようになり、
速読の講座に対して、初めてお金を払って勉強をすることをしました。
それから自分のしたい勉強をする楽しさが感じられてきたんです。
大学のときにも面白い授業はありましたが
そこまでの主体性は無かったというのが正直なところ。
「もっと、もっと…」
「これをなんとかしたい…」
そんな気持ちと、行動力が一致したとき
学ぶことが楽しくなりました。
その追い求めるエネルギーが高い状態で、多くのことに取り組めると
沢山の貴重なことが得られているような充実感があります。
僕は、その感じが好きなんです。
そのときに、同じ方向に興味が向いている人がいるのは
なんだか嬉しいことに感じます。
それが真剣な人たちなら尚更です。
皆さまのご意見を総合した結果、
1月10日のダイジェスト版の開催は見送ることとしました。
ご期待されていた方には、申し訳ありません。
貴重なご意見をに学ぶところが沢山ありました。
今後は、早めに日時のアナウンスができるように工夫するつもりです。
(ギリギリまで仕事のスケジュールが分からないという部分もあるんですが…)
勉強会を開催していて感じるのは、
僕にとって、何かを学ぶのには非常に大切な意味がある
ということです。
大袈裟な言い方をすれば、
「人生の半分は学ぶことで、残りはそれを使うこと」
となるほど。
脳の機能として学習していくことを考れば、
学習の割合は半分以上だとも思います。
体験から学習するという前提に立つと、
初めての経験からは新たなパターンが学習され、
既に体験済みの状況に対しては、学習済みのパターンで対応する。
既にあるパターンで上手く対応できれば
それが「上手くいく」ものとして学習が進みますから、
普通に生活をしているだけでも情報のネットワークは変わり続けているんです。
絶えず学習は進んでいる。
この場合は、受動的に学習されているようなイメージでしょうか。
こうした広い意味での学習の中に、意識的に自分のやり方を変えようとしたり、
今までにない方法を身につけようとしたりする場合があります。
積極的に学習しようとする場合です。
こちらは能動的なイメージ。
それをもって、今までよりも望ましい結果が出せるように
自分のパフォーマンスを変えていく。
この結果が、いわばアウトプットです。
受動的なものも含めると膨大な量のインプットがあり、
それを用いてアウトプットをしているのが人間の中身だとも言えるでしょう。
何を経験して、どんな状況に身を置くか。
そこには個人の好みが強く反映されます。
理由は分かりません。
個人差があります。
環境の影響もあるでしょうが、それだけでは説明がつかないレベルとして
個人の生まれ持った好みがあるように思えます。
野球が好きか、サッカーが好きか。
犬が好きか、猫が好きか。
数学が好きか、国語が好きか。
海外旅行が好きか、国内旅行が好きか。
その好みの環境の中で、より多くのインプットとアウトプットを繰り返す。
仕事においても、スポーツにおいても、趣味においても。
そこで、より望ましい成果をアウトプットしたくなるようです。
学校の勉強は、学習の中のほんの一部だと言えます。
その人が頻繁にする行動、頻繁に身を置く状況において
沢山の学習が起こっています。
野球が上手くなりたいのも、
海外留学したいのも、
音楽が上手になりたいのも、
営業の成績を上げたいのも、
部下を効果的にマネジメントしたいのも、
会社の売上を上げたいのも、
トレーディングでお金を稼ぎたいのも、
パチンコで勝てる確率を上げたいのも、
家族関係をより良くしたいのも、
全て学習と、その成果にかかっているはずです。
本人にとって大切な分野で、
アウトプットをより望ましくするために
積極的に学習のためのインプットをするようになる。
それは、多くの人にとって自然な欲求だと思います。
生きている間に残せるのは、そのアウトプットの成果なんじゃないでしょうか。
色々とインプットして、自分の形にしてアウトプットする。
大雑把にいえば、人生の大部分はそういうことだと思います。
その学習の仕方には大きく2通りがあります。
自分の経験から学ぶか。
他人がアウトプットしたものを通じて学ぶか。
僕は、他人のアウトプットを取り入れたいほうなんです。
そのほうが効率的に学べる場合があります。
「効率的」というのはドライな感じもあるかもしれませんが、
限りある時間の中でできることを考えた場合には
効率的にインプットするのも大切だと思います。
何より、他人のアウトプットは
その人の人生を通った財産のようなものに思えるんです。
1つの種が芽を出し、養分を吸収して、自らの実を作る。
そんなイメージです。
歴史に刻まれてきた文化や習慣、言語、知識や学問は
大勢の人によるインプットとアウトプットを繰り返してできたものだと考えられます。
積極的に学ぶ行為は、大袈裟にいえば
人類の歴史の結晶を自分に取り入れることだと思うんです。
僕はシンプルに、沢山のことを知りたいんです。
自分の興味のあることを、できるだけインプットしたい。
インプットが増えることで、今までになかった興味が沸いてくることもあります。
もっと興味が増えてくるわけです。
何に興味を持つかは予想できません。
興味を持った時に学べるのが僕にとって理想的なんです。
そのための手段は学校に限りません。
達人から学ぶのも1つの手段ですし、
色々と本を当たってみる方法もあります。
ただ、自分が学びたいと思った内容は、できるだけスムーズに学びたい。
学びたい内容を学ぶための余計なプロセスも、少ないほうが嬉しいです。
勉強する許可を得るためにテスト対策をしなければいけないのは残念に感じます。
こういう想いを持つようになったのは、社会人になってからでした。
人の心に興味を持ち始めてから本を読むようになり、
速読の講座に対して、初めてお金を払って勉強をすることをしました。
それから自分のしたい勉強をする楽しさが感じられてきたんです。
大学のときにも面白い授業はありましたが
そこまでの主体性は無かったというのが正直なところ。
「もっと、もっと…」
「これをなんとかしたい…」
そんな気持ちと、行動力が一致したとき
学ぶことが楽しくなりました。
その追い求めるエネルギーが高い状態で、多くのことに取り組めると
沢山の貴重なことが得られているような充実感があります。
僕は、その感じが好きなんです。
そのときに、同じ方向に興味が向いている人がいるのは
なんだか嬉しいことに感じます。
それが真剣な人たちなら尚更です。
2010年12月25日
年忘れても顔は忘れず
忘年会に行きました。
今年、セミナーを通して関わった多くの方と再会。
よく会う方々から、お久しぶりの方まで大勢でした。
顔を見るとセミナーのときの場面が目に浮かびます。
映像とセットになって記憶されているようです。
初めて会った日の映像が浮かぶ方もいれば、
卒業式の日の映像が浮かぶ方もいます。
普段の講座の場面という方もいます。
なぜかは分かりませんが、人それぞれ、強く印象づけられたシーンがあるようです。
これまでにセミナーで関わった人数は、
多分1000人を超えるんじゃないかと思います。
2時間だけという方から、数百時間という方まで。
保管されている資格取得コースの方の名札を見ると、
全員の顔と場面が浮かんできます。
当然、長く関わった方ほど、関連する記憶の量が多いですから
思い出すキッカケになるものも、思い出されるシーンも多いですが、
僕はできるだけ名前を覚えていたいんです。
単なる顔と名前の一致ではなく、少しでも多くの思い出と一緒に。
セミナーは、学校とは少し違います。
学校であれば期限が決まっていますが、
セミナーの場合は、内容によって関わる期間が変わってくる。
旅館とかホテルとか、飲食店に近いイメージかもしれません。
一度しか会わないお客さんもいれば、常連さんもいるような。
住む場所によっても通いやすさが変わったり。
少し遠くても、あの店に食べに行きたいなぁ…なんて思ったり。
僕の場合は、飲食店のために遠出をすることも滅多にないですし、
よく行く旅行先というのもありません。
住まいの近くの店には、お気に入りの飲食店ができますが
引っ越してしまえば、なかなか行く機会がなくなってしまいます。
山口県にいたときに毎週通っていた「ジョリーパスタ」には
引っ越した後も山口に遊びに行った時に訪れました。
わざわざ山口までパスタを食べには行けないけれど、
近くに行ったら立ち寄る。
そんな店なんです。
また僕は、大学の頃から趣味でバッティングセンターに通っていましたが、
神宮外苑にある「バッティングドーム」は、かなり特別でした。
ちょっと高額ですが、プロ野球のピッチャーの映像を見ながらボールを打てます。
就職して山口県に行ったときには、そこまでの機能のバッティングセンターがなく
かといってバッティングセンターのために東京に帰ることもないので
近所の歴史あふれる感じのところで我慢をしていたものです。
それでも、ゴールデンウィークやお盆休みなど、
長い休みで東京に帰ってくると神宮まで行きました。
その後、転勤で東京に帰ってきて、都心から少し離れたところに住んだときには、
住まいの近くに同じ機能のバッティングセンターがあったので
当然、そこに通うことになります。
それでもやっぱり、お盆休みや年末年始の休暇のときには神宮外苑に行く。
最近でこそ遠ざかっていますが、行けるなら行きたい場所なんだと思います。
ちょっと離れているけれど、行けるときには行きたい。
そんな、僕にとっての神宮外苑のバッティングセンターぐらいに
通う価値のある場所として、セミナーができたら望ましいでしょう。
ある人は、一時期通っていたけれど、急にゴルフが楽しくなって
バッティングセンターに来なくなるかもしれません。
ある人は、仕事が忙しくなって野球ができなくなってしまったけれど
時間のあるときにはバッティングセンターに行きたいかもしれません。
どんな形であれ、ふと思い出してもらえるような場であったら
こんなに嬉しいことはないと思います。
ただ、セミナーとバッティングセンターには大きな違いがあります。
バッティングセンターのスタッフは、僕の名前を知りません。
覚えられていたかもしれませんが、知り合う程度が違います。
心やコミュニケーションを扱う場である以上、
体験する心の動きの大きさが違います。
印象的です。
人生の一端に触れさせてもらっているわけです。
そういう相手と、この先の時間に、どれぐらい関われるのかは予想できません。
僕にとっての山口県の「ジョリーパスタ」ぐらいになるのか、
神宮外苑の「バッティングドーム」ぐらいになるのか、
旅行先の喫茶店ぐらいになるのか。
それは僕に、どうこうできる範囲ではありません。
あまり会わなくなってしまう方がいることを知っています。
だからこそ卒業式は寂しい。
なんとなく予想してしまいますから。
最近では卒業式に出られないことも増えてきましたから
「今日が最後に会う日かもしれない」と思いながらセミナーをします。
記憶に刻み込むように時間を過ごします。
歴史というのは、語り継がれる人々の記憶の積み重ねだと思います。
語り継がれていくうちに、元の人の情報は、どんどん薄まっていきます。
会ったこともない人の話に変わっていきます。
偉人は、その業績とともに、末長く語り継がれていく。
本人が亡くなって何百年たっても、多くの人の心の中に残っていられる。
そういう人は幸せじゃないでしょうか。
しかし、大半の人はそうではない。
何年間、何人の心の中にいられるのか。
それが、その人の価値だとは言いませんが、
誰かに覚えていてもらうことが人生の喜びに関わっているのだとしたら
思い出を大切にすることは意味のあることだと思うんです。
誰かのために何かをする。
素晴らしいことではあるものの、それが相手の役に立つかは分かりません。
自分の頑張りだけで何とかなることは多くないはずです。
絶えず相手が関わっています。
自分が頑張ったつもりでも上手くいかないことは沢山ある。
その中で、『相手のことを覚えている』ということだけは
自分の努力だけで可能です。
自分の努力だけでできて、少しでも相手の喜びに繋がる可能性があるのなら
それは十分に価値のあることじゃないかと思います。
だから僕は覚えておきたいんでしょう。
アンケートにご協力下さい>>
今年、セミナーを通して関わった多くの方と再会。
よく会う方々から、お久しぶりの方まで大勢でした。
顔を見るとセミナーのときの場面が目に浮かびます。
映像とセットになって記憶されているようです。
初めて会った日の映像が浮かぶ方もいれば、
卒業式の日の映像が浮かぶ方もいます。
普段の講座の場面という方もいます。
なぜかは分かりませんが、人それぞれ、強く印象づけられたシーンがあるようです。
これまでにセミナーで関わった人数は、
多分1000人を超えるんじゃないかと思います。
2時間だけという方から、数百時間という方まで。
保管されている資格取得コースの方の名札を見ると、
全員の顔と場面が浮かんできます。
当然、長く関わった方ほど、関連する記憶の量が多いですから
思い出すキッカケになるものも、思い出されるシーンも多いですが、
僕はできるだけ名前を覚えていたいんです。
単なる顔と名前の一致ではなく、少しでも多くの思い出と一緒に。
セミナーは、学校とは少し違います。
学校であれば期限が決まっていますが、
セミナーの場合は、内容によって関わる期間が変わってくる。
旅館とかホテルとか、飲食店に近いイメージかもしれません。
一度しか会わないお客さんもいれば、常連さんもいるような。
住む場所によっても通いやすさが変わったり。
少し遠くても、あの店に食べに行きたいなぁ…なんて思ったり。
僕の場合は、飲食店のために遠出をすることも滅多にないですし、
よく行く旅行先というのもありません。
住まいの近くの店には、お気に入りの飲食店ができますが
引っ越してしまえば、なかなか行く機会がなくなってしまいます。
山口県にいたときに毎週通っていた「ジョリーパスタ」には
引っ越した後も山口に遊びに行った時に訪れました。
わざわざ山口までパスタを食べには行けないけれど、
近くに行ったら立ち寄る。
そんな店なんです。
また僕は、大学の頃から趣味でバッティングセンターに通っていましたが、
神宮外苑にある「バッティングドーム」は、かなり特別でした。
ちょっと高額ですが、プロ野球のピッチャーの映像を見ながらボールを打てます。
就職して山口県に行ったときには、そこまでの機能のバッティングセンターがなく
かといってバッティングセンターのために東京に帰ることもないので
近所の歴史あふれる感じのところで我慢をしていたものです。
それでも、ゴールデンウィークやお盆休みなど、
長い休みで東京に帰ってくると神宮まで行きました。
その後、転勤で東京に帰ってきて、都心から少し離れたところに住んだときには、
住まいの近くに同じ機能のバッティングセンターがあったので
当然、そこに通うことになります。
それでもやっぱり、お盆休みや年末年始の休暇のときには神宮外苑に行く。
最近でこそ遠ざかっていますが、行けるなら行きたい場所なんだと思います。
ちょっと離れているけれど、行けるときには行きたい。
そんな、僕にとっての神宮外苑のバッティングセンターぐらいに
通う価値のある場所として、セミナーができたら望ましいでしょう。
ある人は、一時期通っていたけれど、急にゴルフが楽しくなって
バッティングセンターに来なくなるかもしれません。
ある人は、仕事が忙しくなって野球ができなくなってしまったけれど
時間のあるときにはバッティングセンターに行きたいかもしれません。
どんな形であれ、ふと思い出してもらえるような場であったら
こんなに嬉しいことはないと思います。
ただ、セミナーとバッティングセンターには大きな違いがあります。
バッティングセンターのスタッフは、僕の名前を知りません。
覚えられていたかもしれませんが、知り合う程度が違います。
心やコミュニケーションを扱う場である以上、
体験する心の動きの大きさが違います。
印象的です。
人生の一端に触れさせてもらっているわけです。
そういう相手と、この先の時間に、どれぐらい関われるのかは予想できません。
僕にとっての山口県の「ジョリーパスタ」ぐらいになるのか、
神宮外苑の「バッティングドーム」ぐらいになるのか、
旅行先の喫茶店ぐらいになるのか。
それは僕に、どうこうできる範囲ではありません。
あまり会わなくなってしまう方がいることを知っています。
だからこそ卒業式は寂しい。
なんとなく予想してしまいますから。
最近では卒業式に出られないことも増えてきましたから
「今日が最後に会う日かもしれない」と思いながらセミナーをします。
記憶に刻み込むように時間を過ごします。
歴史というのは、語り継がれる人々の記憶の積み重ねだと思います。
語り継がれていくうちに、元の人の情報は、どんどん薄まっていきます。
会ったこともない人の話に変わっていきます。
偉人は、その業績とともに、末長く語り継がれていく。
本人が亡くなって何百年たっても、多くの人の心の中に残っていられる。
そういう人は幸せじゃないでしょうか。
しかし、大半の人はそうではない。
何年間、何人の心の中にいられるのか。
それが、その人の価値だとは言いませんが、
誰かに覚えていてもらうことが人生の喜びに関わっているのだとしたら
思い出を大切にすることは意味のあることだと思うんです。
誰かのために何かをする。
素晴らしいことではあるものの、それが相手の役に立つかは分かりません。
自分の頑張りだけで何とかなることは多くないはずです。
絶えず相手が関わっています。
自分が頑張ったつもりでも上手くいかないことは沢山ある。
その中で、『相手のことを覚えている』ということだけは
自分の努力だけで可能です。
自分の努力だけでできて、少しでも相手の喜びに繋がる可能性があるのなら
それは十分に価値のあることじゃないかと思います。
だから僕は覚えておきたいんでしょう。
2010年12月23日
アンケート
ギリギリなんですが、少しだけアンケートにご協力ください。
1月の勉強会についてです。
12月の勉強会でお会いした中で、何人かの方から
「この日に行きたかったんだけど、どうしても用事があって…」
「どちらに行こうか迷っていまして…」
といったお声をいただきました。
そこで、会場の都合などで不確定なんですが、
ちょっとした提案があります。
1月10日(月・祝)に
8日の内容と16日の内容を半分ずつ、ダイジェスト版で扱う
というのを考えました。
お忙しくて一日しか参加できない、とか
参加したい内容の回の用事が外せない、とか、
そういった方で、ダイジェスト版にご興味があれば
以下のメールフォームでご連絡下さい。
もちろん、こちらのオススメは8日、16日、それぞれの日で
一日分の中身を味わって頂くことなんですが、ご事情もおありでしょうから。
内容がダイジェスト版になりますので
8日か16日のどちらかにご参加の方は多少のお値引きを、
両日ご参加の方には無料でお越し頂くつもりです。
まだ未確定ですが、数日中の反響を見て決定したいと思います。
<1月10日(月・祝)ダイジェスト版へのご関心について>
ご協力ありがとうございました。
1月の勉強会についてです。
12月の勉強会でお会いした中で、何人かの方から
「この日に行きたかったんだけど、どうしても用事があって…」
「どちらに行こうか迷っていまして…」
といったお声をいただきました。
そこで、会場の都合などで不確定なんですが、
ちょっとした提案があります。
1月10日(月・祝)に
8日の内容と16日の内容を半分ずつ、ダイジェスト版で扱う
というのを考えました。
お忙しくて一日しか参加できない、とか
参加したい内容の回の用事が外せない、とか、
そういった方で、ダイジェスト版にご興味があれば
以下のメールフォームでご連絡下さい。
もちろん、こちらのオススメは8日、16日、それぞれの日で
一日分の中身を味わって頂くことなんですが、ご事情もおありでしょうから。
内容がダイジェスト版になりますので
8日か16日のどちらかにご参加の方は多少のお値引きを、
両日ご参加の方には無料でお越し頂くつもりです。
まだ未確定ですが、数日中の反響を見て決定したいと思います。
<1月10日(月・祝)ダイジェスト版へのご関心について>
ご協力ありがとうございました。
2010年12月21日
1月の勉強会
1月の勉強会のお知らせ
2011年最初の勉強会のご案内です。
これまでは月に一度の祝日を中心に勉強会を開催してきましたが、
今後は祝日に加えて、土曜日や日曜日の夜なども使いながら
定期的に勉強会とトレーニングを行っていきたいと考えています。
1月は、8日(土)に『新春ワークショップ』を開催し、
16日(日)に『お見通しの技術』をテーマにした勉強会を行います。
普通に宣伝をすることを考えたら個別に案内するのかもしれませんが、
開催日もそう離れていませんので、まとめて告知してしまいます。
申し込みは、この記事の中にある『申し込みフォーム』からお願いします。
(フォームは1つですので、『参加日』をご記入ください。)
実は、2つの勉強会をまとめて告知する理由は、もう1つあるんです。
それは『お見通しの技術』のほうで、事前に説明できるものが多くないためです。
事前に説明できないものもあるんですが、久しぶりに扱う内容なので楽しみです。
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【新春ワークショップ】(1月8日)
さて、まずは『新春ワークショップ』のほうから。
この中身に触れる前に、自分自身の過去を振り返って話を進めます。
会社員時代、東京に勤務地が移ってからは、土日によくセミナーに行っていました。
平日は仕事、土日はセミナー。
バイオ系の研究の場合、実験の都合で休日にも少しだけ作業があったりしますから
土日のセミナーの後にも会社に出ていました。
色々なことを詰め込んで、睡眠時間の短い毎日を過ごしていると
一年もすれば疲労が溜まってきます。
年末に体調を崩すことが多かったんです。
体調を崩すことで一度リセットして、心身のバランスを整えていたんでしょう。
とはいえ、それは心地良いものではありません。
そして年末年始、仕事もセミナーも離れて、のんびりとした時間を過ごす。
一週間程度の休みであっても、年末年始特有の雰囲気が
気持ちも体も大きく切り替えてくれるようです。
1つの区切りになる。
仕事始めの日に出社をして、実験の準備やら計画やらを進めたりしても
なかなかスイッチが入らないというか、リズムに乗り切れないというか…。
パソコンを再起動したような状態。
そんなときに役立っていたのが、1月の最初の週末に参加していたセミナーでした。
正確にいうと、ワークショップです。
体験型。
イメージワークをしたり、自分の目標について考えたり、
自分と深く向き合う時間を取ると、不思議と「起動」がスムーズになりました。
意識的に自分をコントロールして取り組んでいく仕事の流れと比べて、
トランスを介して自分の内面を探究するような作業には
内側から自然と沸き起こるエネルギーを高めるような効果がありそうです。
根拠はありません。
体験談です。
社会との接点が少なくなる年末年始の休日モードで活動を低くしていた
コミュニケーションのスイッチのようなものが、
ワークショップで人と接することによって活性化される感じもあるかもしれません。
とにかく、年の初めにワークショップで人と接し、
自分の内面と交流をすることが、一年のスタートをスムーズにしてくれる。
そんな印象を持っているわけです。
『新春ワークショップ』と言っているのは、それを期待しているからです。
実際、会社を離れ、不規則な仕事をするようになった今でも
年初めのワークショップで得られる刺激の効果は感じています。
「一年のスタート」ということ自体に対して、意味があるように思います。
休止していた何かが動き始める。
そんな楽しさがあります。
是非、多くの方とこの感じを味わいたいものです。
ちなみに、決して「ヤル気満々」になるタイプのワークショップではありません。
モチベーションをガンガン高めて、雄叫びをあげて一年に誓いを立てる…、
そういうセミナーをご希望の場合には、他をオススメします。
結果的に意欲が沸いて、前向きな気持ちで一日を終える方もいらっしゃるでしょうが
そこを目指すわけではなく、
しみじみと自分の内面に向き合い、人の暖かさに触れ、
深いところから泉のように沸き上がってくるエネルギーを感じたい。
そんなコンセプトです。
具体的に何をして、何が期待できるかというと…。
・自分の内的な安定感を高める
・自分の人生のスタンスが見えてくる
・自信が高まる
・ヤル気が上がる
・過去をゆるし、人を信頼する
・今を味わう
・ビジョンを描く
・未来の予定を立てる
普段の勉強会のような技術のトレーニングではありません。
体験的に色々な刺激を加えていきます。
持続力のあるワークを多くする予定です。
セラピーに使うワークの中で、一般化された技法になっているものは
一度体験しておくと役立つことが多いように思いますので、
そのあたりも取り扱うつもりです。
具体的に「何が学べるか」や「何が得られるか」などは説明しにくいのですが
一年の始まりに体験しておくと役立ちそうなワークを盛り込みます。
結構楽しいと思います。
ご参加をお待ちしております。
普段よりも大股の「はじめの一歩」になりますよ。
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【お見通しの技術】(1月16日)
1月は16日の日曜日に、定例の勉強会も行います。
こちらのテーマは『お見通しの技術』。
正直にいえば、最近、海外ドラマの「メンタリスト」を見て
人の心を読む(ように振る舞う)コミュニケーションに対して
興味が再び高まってきた、というのがキッカケです。
占い師がやるように相手を読み取る。
相手のことを言い当てる。
そんな感じの技術です。
実際には、言葉の技術として、
「この人は私のことをお見通しだ…」
と感じてもらうような手法がメイン。
現実的にどういう効果が期待できるかというと
速やかに信頼関係を築き、相手から自然と話をしてもらえるようになります。
特に、相手にとって言いにくい部分、迷っている部分などは
言語化を促しますから、早い段階から本題に移っていくことができるわけです。
自分自身、この技術を集中的に学んだのが数年前。
それからは、強調して技術を使ったつもりはありませんでした。
しかし、振り返ってみると、セミナーやカウンセリングの中で
かなり多用しているんです。
最近は技術として意識的にコントロールすることを心がけていますが
精度を高められると効果が高いのを実感しています。
特に、その「お見通し」の力が上がっているように評価できるのは
受け取れる情報量が上がってきたことにあると自己分析しています。
数年前と比べると、相手を理解するために使える情報量が増えてきている。
手っ取り早くいえば、観察力です。
なので、この勉強会では観察力を磨くためのトレーニングも行います。
この技術には大きく分けて2つの方向性があります。
●相手を観察して理解していく
●「分かっている」と感じてもらうように言葉を工夫する
受信する側と発信する側がある、と。
その両方のトレーニングをする予定です。
そして、もう1つ。
特に重要なことを扱います。
どちらかというと「発信」側の内容ですが、
これが『お見通しの技術』を含め、カウンセリングやコーチング、営業、教育…など
相手に影響を及ぼしていくコミュニケーションの鍵になります。
いわば、影響力を高めるためのトレーニングです。
この「発信の仕方」のポイントを、こっそりお伝えします。
<注意事項!>
工夫してご活用ください。
信頼関係とのバランスが大切です。
過去に、セミナーのアンケートで、こんなことを何度か目にしました。
「講師に全て見透かされているようで少し怖かった」
人には知られたくないことがあります。
「分かってもらえている」のと「全てを知られてしまう」のは意味が違います。
使い方に気をつける必要がありそうです。
少し風変わりな技術かもしれませんが、色々と役立ちます。
普段と違う技術と視点をトレーニングするからこそ
コミュニケーションの幅が大きく広がる可能性があります。
好奇心をそそるような興味深い内容だとも思います。
大々的に扱っていく予定もありませんので
興味のある方は、この機会にお越しください。
(会場の都合で定員が多くありません。満席の場合には、ご容赦ください。)
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<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 ◆1月 8日(土) 10:00~16:30 終了しました
◆1月16日(日) 10:00~16:30 キャンセル待ち
★今回は終日でのご参加となります。
お申込みフォームの『参加日』の欄に、参加希望日をご記入下さい。
【場所】 ◆1月 8日(土) 北とぴあ 802会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)
◆1月16日(日) 滝野川会館 304集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
※別会場ですのでご注意ください。
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆1月 8日(土) ・・・7,000円
◆1月16日(日) ・・・7,000円
【テーマ】 ◆1月 8日(土): 『新春ワークショップ』
◆1月16日(日): 『お見通しの技術』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
人を理解したい、自分を知りたい、自分のことを分かってもらいたい…
そんな気持ちは昔から変わらないものなのかもしれません。
名探偵ものの物語は数多く、占いにも様々なものがあります。
最先端の科学を使って、人の心を理解しようという流れも盛んです。
簡単ではないからこそ奥が深く、多くの人を引きつけるような気がします。
人は、自分の心を分かってくれようとする相手に、心を開くのでしょう。
それは決して、心構えだけでは済まないはずです。
相手に寄り添っているつもり、相手のことを考えているつもり。
「今日は誠心誠意、相手の立場を考えられた」と感じたときでも
その最大限の範囲は、自分のできる範囲を超えられないんです。
ところが技術のレベルで相手を理解するための努力を重ねていくと
その「最大限の範囲」が広がります。
外国語でのコミュニケーションを考えてもらうと分かりやすいでしょう。
分からない言葉でコミュニケーションするときに
どんなに一生懸命に相手を理解しようとしても限界があります。
受け取れるメッセージが多いほうが、相手をより理解できるはずです。
相手を分かろうとするからこそ、多くのメッセージに目を向けられます。
分からないことを知っているからこそ、分かるメッセージを増やそうとできます。
気持ちを向けられる量が増えるんです。
分かろうと努力していることが、相手にも伝わりやすくなる。
もっと努力できることがあると思います。
相手のためにできることがあると思います。
自分の精一杯で関われることは素晴らしいでしょうが、
自分の精一杯の上限を高めようとする努力も素晴らしいでしょう。
そういう努力を続けられることが
「相手のことを考える」という心構えの表れにも思えるんです。
疲れますけどね。
そういう人がいるのも良いものじゃないでしょうか。
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
2011年最初の勉強会のご案内です。
これまでは月に一度の祝日を中心に勉強会を開催してきましたが、
今後は祝日に加えて、土曜日や日曜日の夜なども使いながら
定期的に勉強会とトレーニングを行っていきたいと考えています。
1月は、8日(土)に『新春ワークショップ』を開催し、
16日(日)に『お見通しの技術』をテーマにした勉強会を行います。
普通に宣伝をすることを考えたら個別に案内するのかもしれませんが、
開催日もそう離れていませんので、まとめて告知してしまいます。
申し込みは、この記事の中にある『申し込みフォーム』からお願いします。
(フォームは1つですので、『参加日』をご記入ください。)
実は、2つの勉強会をまとめて告知する理由は、もう1つあるんです。
それは『お見通しの技術』のほうで、事前に説明できるものが多くないためです。
事前に説明できないものもあるんですが、久しぶりに扱う内容なので楽しみです。
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【新春ワークショップ】(1月8日)
さて、まずは『新春ワークショップ』のほうから。
この中身に触れる前に、自分自身の過去を振り返って話を進めます。
会社員時代、東京に勤務地が移ってからは、土日によくセミナーに行っていました。
平日は仕事、土日はセミナー。
バイオ系の研究の場合、実験の都合で休日にも少しだけ作業があったりしますから
土日のセミナーの後にも会社に出ていました。
色々なことを詰め込んで、睡眠時間の短い毎日を過ごしていると
一年もすれば疲労が溜まってきます。
年末に体調を崩すことが多かったんです。
体調を崩すことで一度リセットして、心身のバランスを整えていたんでしょう。
とはいえ、それは心地良いものではありません。
そして年末年始、仕事もセミナーも離れて、のんびりとした時間を過ごす。
一週間程度の休みであっても、年末年始特有の雰囲気が
気持ちも体も大きく切り替えてくれるようです。
1つの区切りになる。
仕事始めの日に出社をして、実験の準備やら計画やらを進めたりしても
なかなかスイッチが入らないというか、リズムに乗り切れないというか…。
パソコンを再起動したような状態。
そんなときに役立っていたのが、1月の最初の週末に参加していたセミナーでした。
正確にいうと、ワークショップです。
体験型。
イメージワークをしたり、自分の目標について考えたり、
自分と深く向き合う時間を取ると、不思議と「起動」がスムーズになりました。
意識的に自分をコントロールして取り組んでいく仕事の流れと比べて、
トランスを介して自分の内面を探究するような作業には
内側から自然と沸き起こるエネルギーを高めるような効果がありそうです。
根拠はありません。
体験談です。
社会との接点が少なくなる年末年始の休日モードで活動を低くしていた
コミュニケーションのスイッチのようなものが、
ワークショップで人と接することによって活性化される感じもあるかもしれません。
とにかく、年の初めにワークショップで人と接し、
自分の内面と交流をすることが、一年のスタートをスムーズにしてくれる。
そんな印象を持っているわけです。
『新春ワークショップ』と言っているのは、それを期待しているからです。
実際、会社を離れ、不規則な仕事をするようになった今でも
年初めのワークショップで得られる刺激の効果は感じています。
「一年のスタート」ということ自体に対して、意味があるように思います。
休止していた何かが動き始める。
そんな楽しさがあります。
是非、多くの方とこの感じを味わいたいものです。
ちなみに、決して「ヤル気満々」になるタイプのワークショップではありません。
モチベーションをガンガン高めて、雄叫びをあげて一年に誓いを立てる…、
そういうセミナーをご希望の場合には、他をオススメします。
結果的に意欲が沸いて、前向きな気持ちで一日を終える方もいらっしゃるでしょうが
そこを目指すわけではなく、
しみじみと自分の内面に向き合い、人の暖かさに触れ、
深いところから泉のように沸き上がってくるエネルギーを感じたい。
そんなコンセプトです。
具体的に何をして、何が期待できるかというと…。
・自分の内的な安定感を高める
・自分の人生のスタンスが見えてくる
・自信が高まる
・ヤル気が上がる
・過去をゆるし、人を信頼する
・今を味わう
・ビジョンを描く
・未来の予定を立てる
普段の勉強会のような技術のトレーニングではありません。
体験的に色々な刺激を加えていきます。
持続力のあるワークを多くする予定です。
セラピーに使うワークの中で、一般化された技法になっているものは
一度体験しておくと役立つことが多いように思いますので、
そのあたりも取り扱うつもりです。
具体的に「何が学べるか」や「何が得られるか」などは説明しにくいのですが
一年の始まりに体験しておくと役立ちそうなワークを盛り込みます。
結構楽しいと思います。
ご参加をお待ちしております。
普段よりも大股の「はじめの一歩」になりますよ。
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【お見通しの技術】(1月16日)
1月は16日の日曜日に、定例の勉強会も行います。
こちらのテーマは『お見通しの技術』。
正直にいえば、最近、海外ドラマの「メンタリスト」を見て
人の心を読む(ように振る舞う)コミュニケーションに対して
興味が再び高まってきた、というのがキッカケです。
占い師がやるように相手を読み取る。
相手のことを言い当てる。
そんな感じの技術です。
実際には、言葉の技術として、
「この人は私のことをお見通しだ…」
と感じてもらうような手法がメイン。
現実的にどういう効果が期待できるかというと
速やかに信頼関係を築き、相手から自然と話をしてもらえるようになります。
特に、相手にとって言いにくい部分、迷っている部分などは
言語化を促しますから、早い段階から本題に移っていくことができるわけです。
自分自身、この技術を集中的に学んだのが数年前。
それからは、強調して技術を使ったつもりはありませんでした。
しかし、振り返ってみると、セミナーやカウンセリングの中で
かなり多用しているんです。
最近は技術として意識的にコントロールすることを心がけていますが
精度を高められると効果が高いのを実感しています。
特に、その「お見通し」の力が上がっているように評価できるのは
受け取れる情報量が上がってきたことにあると自己分析しています。
数年前と比べると、相手を理解するために使える情報量が増えてきている。
手っ取り早くいえば、観察力です。
なので、この勉強会では観察力を磨くためのトレーニングも行います。
この技術には大きく分けて2つの方向性があります。
●相手を観察して理解していく
●「分かっている」と感じてもらうように言葉を工夫する
受信する側と発信する側がある、と。
その両方のトレーニングをする予定です。
そして、もう1つ。
特に重要なことを扱います。
どちらかというと「発信」側の内容ですが、
これが『お見通しの技術』を含め、カウンセリングやコーチング、営業、教育…など
相手に影響を及ぼしていくコミュニケーションの鍵になります。
いわば、影響力を高めるためのトレーニングです。
この「発信の仕方」のポイントを、こっそりお伝えします。
<注意事項!>
工夫してご活用ください。
信頼関係とのバランスが大切です。
過去に、セミナーのアンケートで、こんなことを何度か目にしました。
「講師に全て見透かされているようで少し怖かった」
人には知られたくないことがあります。
「分かってもらえている」のと「全てを知られてしまう」のは意味が違います。
使い方に気をつける必要がありそうです。
少し風変わりな技術かもしれませんが、色々と役立ちます。
普段と違う技術と視点をトレーニングするからこそ
コミュニケーションの幅が大きく広がる可能性があります。
好奇心をそそるような興味深い内容だとも思います。
大々的に扱っていく予定もありませんので
興味のある方は、この機会にお越しください。
(会場の都合で定員が多くありません。満席の場合には、ご容赦ください。)
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<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 ◆1月 8日(土) 10:00~16:30 終了しました
◆1月16日(日) 10:00~16:30 キャンセル待ち
★今回は終日でのご参加となります。
お申込みフォームの『参加日』の欄に、参加希望日をご記入下さい。
【場所】 ◆1月 8日(土) 北とぴあ 802会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)
◆1月16日(日) 滝野川会館 304集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
※別会場ですのでご注意ください。
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆1月 8日(土) ・・・7,000円
◆1月16日(日) ・・・7,000円
【テーマ】 ◆1月 8日(土): 『新春ワークショップ』
◆1月16日(日): 『お見通しの技術』
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
人を理解したい、自分を知りたい、自分のことを分かってもらいたい…
そんな気持ちは昔から変わらないものなのかもしれません。
名探偵ものの物語は数多く、占いにも様々なものがあります。
最先端の科学を使って、人の心を理解しようという流れも盛んです。
簡単ではないからこそ奥が深く、多くの人を引きつけるような気がします。
人は、自分の心を分かってくれようとする相手に、心を開くのでしょう。
それは決して、心構えだけでは済まないはずです。
相手に寄り添っているつもり、相手のことを考えているつもり。
「今日は誠心誠意、相手の立場を考えられた」と感じたときでも
その最大限の範囲は、自分のできる範囲を超えられないんです。
ところが技術のレベルで相手を理解するための努力を重ねていくと
その「最大限の範囲」が広がります。
外国語でのコミュニケーションを考えてもらうと分かりやすいでしょう。
分からない言葉でコミュニケーションするときに
どんなに一生懸命に相手を理解しようとしても限界があります。
受け取れるメッセージが多いほうが、相手をより理解できるはずです。
相手を分かろうとするからこそ、多くのメッセージに目を向けられます。
分からないことを知っているからこそ、分かるメッセージを増やそうとできます。
気持ちを向けられる量が増えるんです。
分かろうと努力していることが、相手にも伝わりやすくなる。
もっと努力できることがあると思います。
相手のためにできることがあると思います。
自分の精一杯で関われることは素晴らしいでしょうが、
自分の精一杯の上限を高めようとする努力も素晴らしいでしょう。
そういう努力を続けられることが
「相手のことを考える」という心構えの表れにも思えるんです。
疲れますけどね。
そういう人がいるのも良いものじゃないでしょうか。
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
2010年12月18日
トリックの解説
先日の「メンタリスト」でのトリックの説明をしてみたいと思います。
流れは、こんな感じでした。
主人公が、同僚のエージェントにイタズラをしかける場面です。
意識はハッキリしていますか?
では、目の前にスクリーンを思い浮かべて下さい。
そのスクリーン上に、何か基本的な図形を描いてもらいたいんです。
正方形でもいいし、そうじゃなくてもいいです。
いいですか?
それをそのままにして、
次に、先ほど描いた図形の周りを、別の図形で囲って下さい。
ここからが面白いところです。
さぁ、集中して…、それを私の頭の奥のほうに送ってください。
ここを見て。
心を開いて、送ってください。
きました。
丸の中に三角形がある図形ですね?
…という流れ。
まぁ、これは文字だけを読んだのではトリックは分からないんです。
文字にも工夫はありますが、文字を強調するなら
もっと工夫できることはあるはずです。
効果がありそうなのは、「基本的な図形を」( basic shape )というところ。
これは結構制限をかけます。
あまり複雑な絵は思い浮かべないでしょうから、
丸、三角、四角ぐらいがメインだと思われます。
そこで言葉の上で「正方形でもいいし、そうじゃなくてもいい」と言われると
正方形は避けようとすることが多いものでしょう。
ただ、実際にドラマの中では、その「図形を描いて下さい」のセリフとともに
ジェスチャーが入ります。
このジェスチャーがサブリミナルに意味を持つ。
視野の中心は、スクリーンを見るように指示してありますし、
目を開けたままイメージしようとすると視点は集中しやすくなります。
その状態で、周辺視野へ近い場所にジェスチャーで指示を出すわけです。
もちろん、ハッキリとした形ではなく
「何かの形」という言葉に不自然ではない程度の動き。
人差し指と親指を使って、60度ぐらいの角度を作り
その人差し指と親指の延長線上で正三角形が作られるように手を示す。
正三角形のゲシュタルトが得られるようにしてあるわけです。
欠けた部分があっても、残りの形が正三角形になるように、と。
角のある形だけだと正方形の可能性もあるので
言葉で制限を加えて確率を上げていると想像できます。
で、三角形が作られたであろう頃に次の指示に移る。
「別の図形で囲って下さい」と。
この「囲って下さい」のときに、またジェスチャーで指示を加えます。
今度は、両手を丸く動かす。
「囲う」という言葉に対して自然なジェスチャーですが、
両手の軌跡が「丸さ」を示しています。
英語の場合は、さらに「 put that shape around …」なので
そもそも「 round 」のニュアンスが含まれています。
つまり「丸い」ということ。
で、丸が思い浮かびやすいように工夫しているんだろう、と。
その後は、以前も書きましたが、イメージを送ってもらうようにして注意を逸らし、
指示があったことが意識から消えやすくしておくわけです。
そうすると、丸の中に三角形がある図形が
指示によって描かされていたということが分からないまま、
「自分が描いた図形を読み取られた」という印象になる。
そういう仕掛けだと考えられます。
こういった工夫は、心を読み取ったりするようなマジックでは
色々と使われているようです。
まぁ、ドラマですから上手くいっていますが、
実際にやって上手くいく程度は分かりません。
特に重要になるのは、暗示していく側の状態だったりするんですが、
実は、この辺はコールドリーディングを行う上でのポイントです。
言葉やジェスチャーでの暗示よりも大切なものがあるんです。
そこは1月の勉強会で扱う内容になると思いますが。
勉強会に関しては近々、告知をします。
役立つ部分を中心に扱うので、手品的な部分は少ない予定です。
結構、面白いと思いますよ。
流れは、こんな感じでした。
主人公が、同僚のエージェントにイタズラをしかける場面です。
意識はハッキリしていますか?
では、目の前にスクリーンを思い浮かべて下さい。
そのスクリーン上に、何か基本的な図形を描いてもらいたいんです。
正方形でもいいし、そうじゃなくてもいいです。
いいですか?
それをそのままにして、
次に、先ほど描いた図形の周りを、別の図形で囲って下さい。
ここからが面白いところです。
さぁ、集中して…、それを私の頭の奥のほうに送ってください。
ここを見て。
心を開いて、送ってください。
きました。
丸の中に三角形がある図形ですね?
…という流れ。
まぁ、これは文字だけを読んだのではトリックは分からないんです。
文字にも工夫はありますが、文字を強調するなら
もっと工夫できることはあるはずです。
効果がありそうなのは、「基本的な図形を」( basic shape )というところ。
これは結構制限をかけます。
あまり複雑な絵は思い浮かべないでしょうから、
丸、三角、四角ぐらいがメインだと思われます。
そこで言葉の上で「正方形でもいいし、そうじゃなくてもいい」と言われると
正方形は避けようとすることが多いものでしょう。
ただ、実際にドラマの中では、その「図形を描いて下さい」のセリフとともに
ジェスチャーが入ります。
このジェスチャーがサブリミナルに意味を持つ。
視野の中心は、スクリーンを見るように指示してありますし、
目を開けたままイメージしようとすると視点は集中しやすくなります。
その状態で、周辺視野へ近い場所にジェスチャーで指示を出すわけです。
もちろん、ハッキリとした形ではなく
「何かの形」という言葉に不自然ではない程度の動き。
人差し指と親指を使って、60度ぐらいの角度を作り
その人差し指と親指の延長線上で正三角形が作られるように手を示す。
正三角形のゲシュタルトが得られるようにしてあるわけです。
欠けた部分があっても、残りの形が正三角形になるように、と。
角のある形だけだと正方形の可能性もあるので
言葉で制限を加えて確率を上げていると想像できます。
で、三角形が作られたであろう頃に次の指示に移る。
「別の図形で囲って下さい」と。
この「囲って下さい」のときに、またジェスチャーで指示を加えます。
今度は、両手を丸く動かす。
「囲う」という言葉に対して自然なジェスチャーですが、
両手の軌跡が「丸さ」を示しています。
英語の場合は、さらに「 put that shape around …」なので
そもそも「 round 」のニュアンスが含まれています。
つまり「丸い」ということ。
で、丸が思い浮かびやすいように工夫しているんだろう、と。
その後は、以前も書きましたが、イメージを送ってもらうようにして注意を逸らし、
指示があったことが意識から消えやすくしておくわけです。
そうすると、丸の中に三角形がある図形が
指示によって描かされていたということが分からないまま、
「自分が描いた図形を読み取られた」という印象になる。
そういう仕掛けだと考えられます。
こういった工夫は、心を読み取ったりするようなマジックでは
色々と使われているようです。
まぁ、ドラマですから上手くいっていますが、
実際にやって上手くいく程度は分かりません。
特に重要になるのは、暗示していく側の状態だったりするんですが、
実は、この辺はコールドリーディングを行う上でのポイントです。
言葉やジェスチャーでの暗示よりも大切なものがあるんです。
そこは1月の勉強会で扱う内容になると思いますが。
勉強会に関しては近々、告知をします。
役立つ部分を中心に扱うので、手品的な部分は少ない予定です。
結構、面白いと思いますよ。
2010年12月16日
不満の話のつづき
僕が個人的に不満を感じるのは
「何かを学ぶ」ということに対してが多いようです。
個人的にといっていますが、社会に対してという部分もあるようで
自分にとって「学ぶ」ということの重要性を意識するところでもあります。
中でも、それが強く表れるのが
『学ぶのにお金がかかる』
ということ。
もしかすると、価値のある情報にお金を払うというのは
今後の世の中では当然になっていくのかもしれません。
提供する商品に形が無いことは良くあるものです。
むしろ、情報化とよばれるようなことが発展していくと
その方向性は当然にも思えます。
ただ、そこにも個人の事情があると思うんです。
「知りたい」と思ったことが事情によって得られないというのは残念なものです。
特にその学びの内容が、直接的に個人の利益へ還元されないものだと
どうしてもハードルは高くなりがちです。
コンサルタントの提供するサービスは利益を前提にしています。
収入や売上という形で利益が予測できる。
「どうすればお金が儲かるか」という情報にも、投資はしやすいようです。
どうすればモテるか、どうすれば美しくなれるか。
このあたりにも、多くの人に共通する要望があるのでしょう。
ただ、僕はもっとシンプルに「楽しいから、やりたい」という気持ちから
何かを知ろうとしたり、身につけようとしたりするのが
気軽にできたら良いのに…と思うんです。
お稽古ごとで習字に行ったり、料理教室に行ったり、ピアノを習ったり。
もちろん、習いごとをする奥底で得られるものには
それぞれ表面的な楽しさとは別の意味があります。
一言でいえば、「つながり」を感じられるんです。
しかしながら、それは多くの人にとって意識しやすいものではなく、
それを前面に打ち出したところで心地良いものでもないでしょう。
やったいるうちに気づいてくる魅力なんだろうと思います。
また、カウンセリングなどの技術を学ぼうという場合にも
さほど気軽ではない事情があるはずです。
突き動かされるような思いがあることも少なくない。
それは会社で研修に出ることや、資格を取りに行かされるのとは違います。
英会話スクールには会社のお金で行けることが多いですが、
「カウンセリングをやりたい!」という想いがあっても
それをかなえてくれる組織は多くないと思います。
学びたい意欲と、会社の方向性が一致した人には素晴らしい機会でも
両方が一致するのは恵まれたケースじゃないでしょうか。
「これがやりたい」という気持ちは
できる限り負担なく、行動に繋げられるようであって欲しいんです。
英会話スクールの多くは、1時間あたり7000円を超えるのはザラです。
もちろん本気で英語を身につけようとしたら、英会話スクール以外のところで
英語の訓練をする必要があるのは間違いありませんが、
だからといって、その額は相当なものだと思います。
一人ではどうにもならないことを教わる、という目的を果たすためには
あまりにハードルが高いでしょう。
個人の事情に強く依存します。
その点、僕がカウンセリングなどを教わっている先生のワークショップは
福祉の方々を別の扱いで対応しています。
ビジネス分野から来る多くの方々は経営者が中心なので
そちらから高額の受講料をもらい、
福祉分野向けのセミナーやワークショップは低額に抑えています。
場合によっては、交通費を支払うと赤字になるようなものもあるそうです。
しかし、福祉分野の方が学べる機会を増やすためにそうしている、と。
カウンセリングの依頼に関しても、金銭的にどうしようもない方のところへ
ボランティアとして行くこともあると聞いています。
だからビジネス分野の人たちからは、高額の受講料を貰うんだという話でした。
これも1つの形だと思います。
また、アメリカの大学には奨学金の制度が確立されています。
一流として知られるイェール大学は、9割の学生が奨学金で学費をまかなえるとか。
博士課程の場合には、全学生が学費の全額を奨学金で支払い、滞在費も貰うそうです。
学生のうちにはお金がかからない。
代わりに社会に出て活躍をして、大学に寄付をするんです。
だから奨学金が充実している。
学んだことが活かされるのは社会に出てからですから、
本人が学ぶ段階では費用がかからないようにしておくんでしょう。
後から支払うような感じなのかもしれません。
心情を考えれば、「先人の寄付による奨学金のおかげで今の自分がある」と思えば
後々に寄付をしようという想いも高まると思います。
質の高い学びを高額で提供し、
その実態のほとんどは寄付金でまかなう。
理想的な形だと感じます。
勉強自体は図書館さえあれば、お金をかけずに一人でできる、
そんな見方がされることもあります。
でも、僕はその意見には反対です。
文字で伝えられることは少ない。
図書館で実験や実習はできません。
専門的なトレーニングもできません。
直接的に技術の手ほどきをうけるのもできません。
高度な学びほど、直接的な交流が求められるはずです。
そういうものが、負担なくできるようにしたい。
そうなっていない現状に不満があるわけです。
将来的に、僕の提供する勉強会やセミナーは
寄付金でまかなえるようにしたいと考えています。
ですから、出世払いにも対応しますので
ご縁が広がることを期待しています。
とはいえ、冷やかしの方が増えても困りますから
ある程度のリピーターの方が中心になるとは思いますが。
「何かを学ぶ」ということに対してが多いようです。
個人的にといっていますが、社会に対してという部分もあるようで
自分にとって「学ぶ」ということの重要性を意識するところでもあります。
中でも、それが強く表れるのが
『学ぶのにお金がかかる』
ということ。
もしかすると、価値のある情報にお金を払うというのは
今後の世の中では当然になっていくのかもしれません。
提供する商品に形が無いことは良くあるものです。
むしろ、情報化とよばれるようなことが発展していくと
その方向性は当然にも思えます。
ただ、そこにも個人の事情があると思うんです。
「知りたい」と思ったことが事情によって得られないというのは残念なものです。
特にその学びの内容が、直接的に個人の利益へ還元されないものだと
どうしてもハードルは高くなりがちです。
コンサルタントの提供するサービスは利益を前提にしています。
収入や売上という形で利益が予測できる。
「どうすればお金が儲かるか」という情報にも、投資はしやすいようです。
どうすればモテるか、どうすれば美しくなれるか。
このあたりにも、多くの人に共通する要望があるのでしょう。
ただ、僕はもっとシンプルに「楽しいから、やりたい」という気持ちから
何かを知ろうとしたり、身につけようとしたりするのが
気軽にできたら良いのに…と思うんです。
お稽古ごとで習字に行ったり、料理教室に行ったり、ピアノを習ったり。
もちろん、習いごとをする奥底で得られるものには
それぞれ表面的な楽しさとは別の意味があります。
一言でいえば、「つながり」を感じられるんです。
しかしながら、それは多くの人にとって意識しやすいものではなく、
それを前面に打ち出したところで心地良いものでもないでしょう。
やったいるうちに気づいてくる魅力なんだろうと思います。
また、カウンセリングなどの技術を学ぼうという場合にも
さほど気軽ではない事情があるはずです。
突き動かされるような思いがあることも少なくない。
それは会社で研修に出ることや、資格を取りに行かされるのとは違います。
英会話スクールには会社のお金で行けることが多いですが、
「カウンセリングをやりたい!」という想いがあっても
それをかなえてくれる組織は多くないと思います。
学びたい意欲と、会社の方向性が一致した人には素晴らしい機会でも
両方が一致するのは恵まれたケースじゃないでしょうか。
「これがやりたい」という気持ちは
できる限り負担なく、行動に繋げられるようであって欲しいんです。
英会話スクールの多くは、1時間あたり7000円を超えるのはザラです。
もちろん本気で英語を身につけようとしたら、英会話スクール以外のところで
英語の訓練をする必要があるのは間違いありませんが、
だからといって、その額は相当なものだと思います。
一人ではどうにもならないことを教わる、という目的を果たすためには
あまりにハードルが高いでしょう。
個人の事情に強く依存します。
その点、僕がカウンセリングなどを教わっている先生のワークショップは
福祉の方々を別の扱いで対応しています。
ビジネス分野から来る多くの方々は経営者が中心なので
そちらから高額の受講料をもらい、
福祉分野向けのセミナーやワークショップは低額に抑えています。
場合によっては、交通費を支払うと赤字になるようなものもあるそうです。
しかし、福祉分野の方が学べる機会を増やすためにそうしている、と。
カウンセリングの依頼に関しても、金銭的にどうしようもない方のところへ
ボランティアとして行くこともあると聞いています。
だからビジネス分野の人たちからは、高額の受講料を貰うんだという話でした。
これも1つの形だと思います。
また、アメリカの大学には奨学金の制度が確立されています。
一流として知られるイェール大学は、9割の学生が奨学金で学費をまかなえるとか。
博士課程の場合には、全学生が学費の全額を奨学金で支払い、滞在費も貰うそうです。
学生のうちにはお金がかからない。
代わりに社会に出て活躍をして、大学に寄付をするんです。
だから奨学金が充実している。
学んだことが活かされるのは社会に出てからですから、
本人が学ぶ段階では費用がかからないようにしておくんでしょう。
後から支払うような感じなのかもしれません。
心情を考えれば、「先人の寄付による奨学金のおかげで今の自分がある」と思えば
後々に寄付をしようという想いも高まると思います。
質の高い学びを高額で提供し、
その実態のほとんどは寄付金でまかなう。
理想的な形だと感じます。
勉強自体は図書館さえあれば、お金をかけずに一人でできる、
そんな見方がされることもあります。
でも、僕はその意見には反対です。
文字で伝えられることは少ない。
図書館で実験や実習はできません。
専門的なトレーニングもできません。
直接的に技術の手ほどきをうけるのもできません。
高度な学びほど、直接的な交流が求められるはずです。
そういうものが、負担なくできるようにしたい。
そうなっていない現状に不満があるわけです。
将来的に、僕の提供する勉強会やセミナーは
寄付金でまかなえるようにしたいと考えています。
ですから、出世払いにも対応しますので
ご縁が広がることを期待しています。
とはいえ、冷やかしの方が増えても困りますから
ある程度のリピーターの方が中心になるとは思いますが。
2010年12月14日
次の模倣へ
作品を提出して一区切りつけたので
別の古典を臨書することになりました。
こっちが、これまでやっていたもの。
そして、これからは、こういう感じを練習することになります。
筆の使い方には共通点もありますが、
違う雰囲気を出すのは楽しいものですね。
しっかりと基本を身につけたいところです。
底に流れる共通点が、受け継がれてきたものだろうと思いますから。
幅を広げつつ、中心にあるもののトレーニングを続ける。
古典の臨書をするというのは、妥協のないモデリングに近いのかもしれません。
尊敬する誰かをモデリングしようというときに限って、
自分が尊敬する好きな部分ばかりを真似してしまいがちです。
部分は、部分として存在しているのではありません。
全体と繋がって意味を持つんです。
古典を模倣する臨書では、出来る限り細かく真似しようとします。
出来る限り同じことを経験して、
自然に自分の中で抽象化された技術が洗練されていくのを待つ。
そういった学び方も有効だというのを実感します。
効率的ではないかもしれませんが、
いつまでも意義のあるトレーニングだと思います。
カウンセリングを学ぶというのであれば、
傾聴のセミナーに出るのではなく、
ロジャースのビデオを徹底的に研究するということでしょうか。
まぁ、実際には僕の場合、先生の筆使いを通して学んでいるわけですから、
新たな達人の歴史が吹き込まれたものを体験していることになります。
徹底的に古典の臨書をした達人の中には
先人たちの歴史が結晶化しているんだろうという気がします。
その結晶を学びつつ、古典を学ぶ。
抽出されたエッセンス、
過去の偉大なオリジナル、
両方の組み合わせが、技術を磨くのに大切でしょうという話です。
別の古典を臨書することになりました。
こっちが、これまでやっていたもの。
そして、これからは、こういう感じを練習することになります。
筆の使い方には共通点もありますが、
違う雰囲気を出すのは楽しいものですね。
しっかりと基本を身につけたいところです。
底に流れる共通点が、受け継がれてきたものだろうと思いますから。
幅を広げつつ、中心にあるもののトレーニングを続ける。
古典の臨書をするというのは、妥協のないモデリングに近いのかもしれません。
尊敬する誰かをモデリングしようというときに限って、
自分が尊敬する好きな部分ばかりを真似してしまいがちです。
部分は、部分として存在しているのではありません。
全体と繋がって意味を持つんです。
古典を模倣する臨書では、出来る限り細かく真似しようとします。
出来る限り同じことを経験して、
自然に自分の中で抽象化された技術が洗練されていくのを待つ。
そういった学び方も有効だというのを実感します。
効率的ではないかもしれませんが、
いつまでも意義のあるトレーニングだと思います。
カウンセリングを学ぶというのであれば、
傾聴のセミナーに出るのではなく、
ロジャースのビデオを徹底的に研究するということでしょうか。
まぁ、実際には僕の場合、先生の筆使いを通して学んでいるわけですから、
新たな達人の歴史が吹き込まれたものを体験していることになります。
徹底的に古典の臨書をした達人の中には
先人たちの歴史が結晶化しているんだろうという気がします。
その結晶を学びつつ、古典を学ぶ。
抽出されたエッセンス、
過去の偉大なオリジナル、
両方の組み合わせが、技術を磨くのに大切でしょうという話です。
2010年12月12日
不満の話
不満がある、怒りが沸いてくる…
というのは、それが大事だからです。
大事なものが損なわれるから不満に感じられる。
それには大きく二通りが考えられます。
1つは、それを大事にしてもらえていないことで
自分の存在価値に不安定さを感じるとき。
そのものを通して、自分が否定されたと感じるんです。
自分の存在が揺らぐ。
否定されたことそのものに腹が立つ。
自分を大切にしてくれなかったことに腹が立つ。
例えば、電車の中で足を踏まれて腹を立てる、とか。
確かに「公共性」や「社会性」、「気配り」といった価値を大切にしているから
それが損なわれて腹が立つ、という見方もできます。
ですが、それが全てではない。
もっと単純に、痛みという不快感を感じさせた相手だから
腹が立ったという部分も含まれるでしょう。
不満を感じるからには、満たしたい何かがあるんです。
それは価値観とも言えます。
価値観が満たされないから不満になる、と。
ただ、注意する必要があるのは、1つの反応の仕方に対して
1つの価値観だけが関わっているのではない、ということ。
自分の反応に対して理由を考えると、そこには複数の価値観が見えてくるでしょう。
それを掘り下げていったときに
「自分という存在が大切にされていない」
ことに関連している場合が良くあるんです。
それは生物として当然のことですから
そういう不満の感じ方があるのは自然なことだと思います。
その不満に対して、どういう振る舞いをするのかが重要なだけです。
怒りや不満を表現してはいけないわけではないと考えます。
2つ目は、そのものが自分にとって本当に大切だから
何があっても守りたい、というとき。
ちょっとぐらい自分が傷つくとしても守ろうとする。
何を差し置いてでも、それが重要。
そんな大事なものが他人から台無しにされたと感じるとき
怒りと不満、さらには悲しみも生まれることでしょう。
確か、今年の初めごろに、酷く体調を崩したことがありました。
同時期に、同じ懇親会に行った人たちが皆、苦しんだと聞きましたから
ノロウイルスだったんじゃないかと話した記憶があります。
(カキだったんじゃないかと)
ただ、僕が発症し始めたのは食べた日から、ちょうど一週間後でした。
ノロウイルスの潜伏期間と症状からすると、チョット違う気がします。
通常は1~2以内に発症するので。
症状が出始めたのは、火曜日。
大阪の平日コースを担当していた日でした。
映像が浮かびますから、何日目で何をやったかも覚えています。
誰と、何のデモをやったかも覚えています。
昼休みの最中に、急に体が熱っぽくなってきました。
熱は一気に上がり、全身に激しい痛みが。
頭痛薬は持ち歩いていたので、それでゴマカシて
窓や壁の冷たいところで頭を冷やしながら、その日の内容を乗り切りました。
で、その日のうちに名古屋に移動。
体調は悪くなる一方だったので、代わりに担当できる人がいないかを確認しました。
ダメでした。
「頑張ってください」と言われました。
ホテルにチェックインしたあと、薬局に行って色々な物を買い込みました。
体温計、薬、水分補給用の飲み物、栄養補給用のゼリーなど。
食欲のないなかで、なんとかカロリーのあるものを手当たり次第。
すぐに寝ようと思ったんですが、今度は下痢と嘔吐が始まり
どうすることもできなくなりました。
ただ水分だけを取るようにして、寝られないまま翌朝。
今度は早くから開店している駅の薬局に行って下痢止めを買い、セミナー会場へ。
明らかに異常だったと思います。
下痢止めは全く効果を発揮せず、一日のセミナーの間に
十数回トイレに行った記憶があります。
辛うじてやってはいるけれど、力は発揮できません。
申し訳ない気持ちと、体の苦しさで大変だったものです。
アシスタントの方々が沢山いて下さったおかげで乗り切れたようなもの。
心配して声をかけてくれた方もいましたが、
誰もが気づいていながら触れないでいてくれたんだろうと思います。
次回に会ったときには、体調の心配をして下さいましたから。
それは本当に苦しい体験でした。
そんな体調の中でやることが不満だったのではなく、
そういう不測の事態で受講生の方がに迷惑をかけることが嫌でした。
受講しに来ているはずの方々に気を遣わせてしまうことも嫌でした。
どういう場を作るかが僕の仕事だと考えていますから、
自分が大切にしたいことが大切にできない状況が不満だったんです。
大切なことを大切にしたい。
そこから生まれる不満や怒りはエネルギーです。
自分がしたいことに進むためのエネルギーです。
もし、トレーナーや講師業をしている人が
「このクラスは楽しくないな」などとでも言おうものなら
僕の怒りと悲しみは最大限に達します。
あれは酷かった。
そうした不満のエネルギーを何に繋げていくかが重要じゃないかと思います。
怒りや不満は悪いことではない。
それが何物であるかを自覚できないままに振る舞ってしまうよりは、
その不満に対して、自分の行動を選択できるほうが役立つだろうということです。
特に、どちらの怒りなのかを見極めるのは簡単ではない気がします。
自分に正直でいる必要がありますから。
というのは、それが大事だからです。
大事なものが損なわれるから不満に感じられる。
それには大きく二通りが考えられます。
1つは、それを大事にしてもらえていないことで
自分の存在価値に不安定さを感じるとき。
そのものを通して、自分が否定されたと感じるんです。
自分の存在が揺らぐ。
否定されたことそのものに腹が立つ。
自分を大切にしてくれなかったことに腹が立つ。
例えば、電車の中で足を踏まれて腹を立てる、とか。
確かに「公共性」や「社会性」、「気配り」といった価値を大切にしているから
それが損なわれて腹が立つ、という見方もできます。
ですが、それが全てではない。
もっと単純に、痛みという不快感を感じさせた相手だから
腹が立ったという部分も含まれるでしょう。
不満を感じるからには、満たしたい何かがあるんです。
それは価値観とも言えます。
価値観が満たされないから不満になる、と。
ただ、注意する必要があるのは、1つの反応の仕方に対して
1つの価値観だけが関わっているのではない、ということ。
自分の反応に対して理由を考えると、そこには複数の価値観が見えてくるでしょう。
それを掘り下げていったときに
「自分という存在が大切にされていない」
ことに関連している場合が良くあるんです。
それは生物として当然のことですから
そういう不満の感じ方があるのは自然なことだと思います。
その不満に対して、どういう振る舞いをするのかが重要なだけです。
怒りや不満を表現してはいけないわけではないと考えます。
2つ目は、そのものが自分にとって本当に大切だから
何があっても守りたい、というとき。
ちょっとぐらい自分が傷つくとしても守ろうとする。
何を差し置いてでも、それが重要。
そんな大事なものが他人から台無しにされたと感じるとき
怒りと不満、さらには悲しみも生まれることでしょう。
確か、今年の初めごろに、酷く体調を崩したことがありました。
同時期に、同じ懇親会に行った人たちが皆、苦しんだと聞きましたから
ノロウイルスだったんじゃないかと話した記憶があります。
(カキだったんじゃないかと)
ただ、僕が発症し始めたのは食べた日から、ちょうど一週間後でした。
ノロウイルスの潜伏期間と症状からすると、チョット違う気がします。
通常は1~2以内に発症するので。
症状が出始めたのは、火曜日。
大阪の平日コースを担当していた日でした。
映像が浮かびますから、何日目で何をやったかも覚えています。
誰と、何のデモをやったかも覚えています。
昼休みの最中に、急に体が熱っぽくなってきました。
熱は一気に上がり、全身に激しい痛みが。
頭痛薬は持ち歩いていたので、それでゴマカシて
窓や壁の冷たいところで頭を冷やしながら、その日の内容を乗り切りました。
で、その日のうちに名古屋に移動。
体調は悪くなる一方だったので、代わりに担当できる人がいないかを確認しました。
ダメでした。
「頑張ってください」と言われました。
ホテルにチェックインしたあと、薬局に行って色々な物を買い込みました。
体温計、薬、水分補給用の飲み物、栄養補給用のゼリーなど。
食欲のないなかで、なんとかカロリーのあるものを手当たり次第。
すぐに寝ようと思ったんですが、今度は下痢と嘔吐が始まり
どうすることもできなくなりました。
ただ水分だけを取るようにして、寝られないまま翌朝。
今度は早くから開店している駅の薬局に行って下痢止めを買い、セミナー会場へ。
明らかに異常だったと思います。
下痢止めは全く効果を発揮せず、一日のセミナーの間に
十数回トイレに行った記憶があります。
辛うじてやってはいるけれど、力は発揮できません。
申し訳ない気持ちと、体の苦しさで大変だったものです。
アシスタントの方々が沢山いて下さったおかげで乗り切れたようなもの。
心配して声をかけてくれた方もいましたが、
誰もが気づいていながら触れないでいてくれたんだろうと思います。
次回に会ったときには、体調の心配をして下さいましたから。
それは本当に苦しい体験でした。
そんな体調の中でやることが不満だったのではなく、
そういう不測の事態で受講生の方がに迷惑をかけることが嫌でした。
受講しに来ているはずの方々に気を遣わせてしまうことも嫌でした。
どういう場を作るかが僕の仕事だと考えていますから、
自分が大切にしたいことが大切にできない状況が不満だったんです。
大切なことを大切にしたい。
そこから生まれる不満や怒りはエネルギーです。
自分がしたいことに進むためのエネルギーです。
もし、トレーナーや講師業をしている人が
「このクラスは楽しくないな」などとでも言おうものなら
僕の怒りと悲しみは最大限に達します。
あれは酷かった。
そうした不満のエネルギーを何に繋げていくかが重要じゃないかと思います。
怒りや不満は悪いことではない。
それが何物であるかを自覚できないままに振る舞ってしまうよりは、
その不満に対して、自分の行動を選択できるほうが役立つだろうということです。
特に、どちらの怒りなのかを見極めるのは簡単ではない気がします。
自分に正直でいる必要がありますから。