2011年01月
2011年01月31日
2月19日、実践トレーニングのご案内
先日、ご案内していた「実践的なトレーニングの場」の詳細です。
お申込みは、下記のフォームからお願いします。
月毎に開催している勉強会も含めて、コミュニケーションや心理、変化などを考えると
その中で本質的な要素というのは、かなり集約されてきます。
技術のカテゴリーとして見れば、かなり少ないもので説明ができてしまう反面、
それぞれの技術に際限がないわけです。
つまり、同じような技術に見えても、それを繰り返しトレーニングして
技術のレベルを上げていくことが、とても役に立つだろうということです。
その意味で、この「実践トレーニング」(名称は不確定ですが…)においては
かなり細かい部分の訓練に焦点が当たります。
ご参加の方々の、個人の傾向に合わせて課題が見つかるでしょうから
一般論ではない効果的なトレーニングが可能になると考えられます。
特に、2月では12月に扱ったテーマ『複数とのコミュニケーション』の中から
高度ながら非常に効果的な技術として
○プロセス・リフレーミング
○カップル・カウンセリング
の練習を行います。
また、1月の勉強会で扱った『お見通しの技術』の中から、
○外さない話術
の技術的トレーニングをします。
どちらにも共通して重要になるのが瞬発力や反応速度のような部分です。
今まさに起きているコミュニケーションの中身をピックアップして
その場で自分の対応を変えていく能力とでも言えるかもしれません。
とっさの対応のトレーニングになりますから
難しさを感じる可能性がある一方、負荷をかけて訓練するという点では
高い効果が期待できるはずです。
技術的に知りたい項目がある場合にも有効かと思います。
資料に関しましては、1月分の『お見通しの技術』に関してはお渡しが可能です。
ご要望のある場合には、フォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
継続的に技術を磨く機会にしていただけましたら何よりです。
実際の状況で場数を踏むよりも、短時間で効果を上げる
濃密なトレーニングを意図しています。
ご都合がつきましたら、是非お越しください。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
※実習が中心となりますので資料の予定はありません。
過去の資料をお持ちの方は、ご持参いただけると参考になるかもしれません。
※前月分に参加されていない方には、その資料をお渡しすることが可能です。
ご希望される場合には「ご意見など」の欄に、その旨をご記入ください。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 2月19日(土) 18:30~21:30
【場所】 北とぴあ 901会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)
【参加費】 5,000 円
(当日、会場にてお支払いください。)
※会場費によって変動します。ご了承ください。
【テーマ】 『外さない話術とカウンセリングの技法』
*実習を優先しますので、学びの密度を考えて、
一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
人間国宝の陶芸家が失敗作を壊す場面をテレビで見たことがあります。
番組の出演者たちには、どれが名品で、どれが失敗作かは分かりませんでした。
でも、作った本人は分かっているんです。
おそらく人間国宝の人が作った作品ということになれば
その名目だけでも高額で取引されるんでしょう。
素人には、陶芸家自身が失敗作だと思うものだって
他と変わらなく見えるかもしれません。
何が良くて何が悪いかも分からない。
それが、少し陶芸に詳しい人になると良さが分かるようになる。
人間国宝の作った作品と、工業生産の器の違いぐらいは分かるかもしれません。
それでも、人間国宝の陶芸家自身が判断するレベルの良し悪しは
きっと少し詳しいぐらいの人には分からないはずです。
どれも素晴らしく見えてしまうでしょう。
もっと詳しい人になると価値が分かるようになってくる。
取引の値段が決められるようなレベルの人もいるようです。
ただ、それでも多分、陶芸家本人が判断するレベルの基準はないと思います。
最高レベルの技術は、際立っているからこそ
誰にも理解してもらえない可能性があります。
そういう側面があってもなお、自分の基準で善し悪しを判断できる。
妥協のない判断ができる。
誰にも理解できないレベルだとしても徹底して納得のいくものを目指す。
その姿勢がカッコイイと感じるんです。
飽くなき技術への探究とは、そのものにかける想いの表れなんじゃないでしょうか。
真剣にコミュニケーションの技術を磨きたいと思うほどに
人の心を大切に感じられる方には、研鑽の場が役立つと思うんです。
技術を志しても、技におぼれることはないはずです。
もし大事な何かを見失っていることに気づいたとき、
そのときには誰よりも自分自身が深く傷つきますから。
遠慮なくトレーニングしていきましょう。
お申込みは、下記のフォームからお願いします。
月毎に開催している勉強会も含めて、コミュニケーションや心理、変化などを考えると
その中で本質的な要素というのは、かなり集約されてきます。
技術のカテゴリーとして見れば、かなり少ないもので説明ができてしまう反面、
それぞれの技術に際限がないわけです。
つまり、同じような技術に見えても、それを繰り返しトレーニングして
技術のレベルを上げていくことが、とても役に立つだろうということです。
その意味で、この「実践トレーニング」(名称は不確定ですが…)においては
かなり細かい部分の訓練に焦点が当たります。
ご参加の方々の、個人の傾向に合わせて課題が見つかるでしょうから
一般論ではない効果的なトレーニングが可能になると考えられます。
特に、2月では12月に扱ったテーマ『複数とのコミュニケーション』の中から
高度ながら非常に効果的な技術として
○プロセス・リフレーミング
○カップル・カウンセリング
の練習を行います。
また、1月の勉強会で扱った『お見通しの技術』の中から、
○外さない話術
の技術的トレーニングをします。
どちらにも共通して重要になるのが瞬発力や反応速度のような部分です。
今まさに起きているコミュニケーションの中身をピックアップして
その場で自分の対応を変えていく能力とでも言えるかもしれません。
とっさの対応のトレーニングになりますから
難しさを感じる可能性がある一方、負荷をかけて訓練するという点では
高い効果が期待できるはずです。
技術的に知りたい項目がある場合にも有効かと思います。
資料に関しましては、1月分の『お見通しの技術』に関してはお渡しが可能です。
ご要望のある場合には、フォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
継続的に技術を磨く機会にしていただけましたら何よりです。
実際の状況で場数を踏むよりも、短時間で効果を上げる
濃密なトレーニングを意図しています。
ご都合がつきましたら、是非お越しください。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
※実習が中心となりますので資料の予定はありません。
過去の資料をお持ちの方は、ご持参いただけると参考になるかもしれません。
※前月分に参加されていない方には、その資料をお渡しすることが可能です。
ご希望される場合には「ご意見など」の欄に、その旨をご記入ください。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 2月19日(土) 18:30~21:30
【場所】 北とぴあ 901会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)
【参加費】 5,000 円
(当日、会場にてお支払いください。)
※会場費によって変動します。ご了承ください。
【テーマ】 『外さない話術とカウンセリングの技法』
*実習を優先しますので、学びの密度を考えて、
一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
終了しました
人間国宝の陶芸家が失敗作を壊す場面をテレビで見たことがあります。
番組の出演者たちには、どれが名品で、どれが失敗作かは分かりませんでした。
でも、作った本人は分かっているんです。
おそらく人間国宝の人が作った作品ということになれば
その名目だけでも高額で取引されるんでしょう。
素人には、陶芸家自身が失敗作だと思うものだって
他と変わらなく見えるかもしれません。
何が良くて何が悪いかも分からない。
それが、少し陶芸に詳しい人になると良さが分かるようになる。
人間国宝の作った作品と、工業生産の器の違いぐらいは分かるかもしれません。
それでも、人間国宝の陶芸家自身が判断するレベルの良し悪しは
きっと少し詳しいぐらいの人には分からないはずです。
どれも素晴らしく見えてしまうでしょう。
もっと詳しい人になると価値が分かるようになってくる。
取引の値段が決められるようなレベルの人もいるようです。
ただ、それでも多分、陶芸家本人が判断するレベルの基準はないと思います。
最高レベルの技術は、際立っているからこそ
誰にも理解してもらえない可能性があります。
そういう側面があってもなお、自分の基準で善し悪しを判断できる。
妥協のない判断ができる。
誰にも理解できないレベルだとしても徹底して納得のいくものを目指す。
その姿勢がカッコイイと感じるんです。
飽くなき技術への探究とは、そのものにかける想いの表れなんじゃないでしょうか。
真剣にコミュニケーションの技術を磨きたいと思うほどに
人の心を大切に感じられる方には、研鑽の場が役立つと思うんです。
技術を志しても、技におぼれることはないはずです。
もし大事な何かを見失っていることに気づいたとき、
そのときには誰よりも自分自身が深く傷つきますから。
遠慮なくトレーニングしていきましょう。
2011年01月29日
7,8割で
前の記事に書いたNHKの「イチロー特集」で
印象に残った言葉があったので追記します。
話の流れとしては、いかにイチロー選手が「続ける」ことをしているか、
という話題の中でした。
糸井重里氏の言葉を借りれば「 sustainable 」つまり「持続可能」なことをする、と。
それに対しての発言だったと思います。
「多くの人は追い込もうとする。
アスリートは特に。」
一気に全力以上の力を注ぎ込んでやろうとする傾向があるという話でした。
でも、それでは無理がかかるというんです。
100を出すには120で準備をしなければいけない…
というような考え方にイチロー選手は反対だそうです。
もちろん、100は狙っているという話でした。
70~80で妥協するというのではないんです。
「70~80で、100を引きだす」
無理のない努力を続けていく。
自然な範囲で継続していく。
やりたい気持ちになれる範囲でやる。
この辺りのニュアンスが僕の心に響きました。
まぁ、正確にいえば、僕の中にも薄々と似た思いがあって
それを偉大な人がハッキリと言葉にしてくれたから響いたんでしょうけど。
無理をせずに続けていくことに関しては
イチローという野球選手が年齢を意識していることとも関係していそうです。
近年になって強まっているように見えます。
特にインタビューにおいて、引退をめぐる話になったとき
その表情には涙ぐむほどのハッキリした悲しみの様子が見て取れました。
終着点を意識するからこそ向き合える「今」があるのかもしれません。
僕も、やりたいと思えることを、日々重ねていこうと思います。
印象に残った言葉があったので追記します。
話の流れとしては、いかにイチロー選手が「続ける」ことをしているか、
という話題の中でした。
糸井重里氏の言葉を借りれば「 sustainable 」つまり「持続可能」なことをする、と。
それに対しての発言だったと思います。
「多くの人は追い込もうとする。
アスリートは特に。」
一気に全力以上の力を注ぎ込んでやろうとする傾向があるという話でした。
でも、それでは無理がかかるというんです。
100を出すには120で準備をしなければいけない…
というような考え方にイチロー選手は反対だそうです。
もちろん、100は狙っているという話でした。
70~80で妥協するというのではないんです。
「70~80で、100を引きだす」
無理のない努力を続けていく。
自然な範囲で継続していく。
やりたい気持ちになれる範囲でやる。
この辺りのニュアンスが僕の心に響きました。
まぁ、正確にいえば、僕の中にも薄々と似た思いがあって
それを偉大な人がハッキリと言葉にしてくれたから響いたんでしょうけど。
無理をせずに続けていくことに関しては
イチローという野球選手が年齢を意識していることとも関係していそうです。
近年になって強まっているように見えます。
特にインタビューにおいて、引退をめぐる話になったとき
その表情には涙ぐむほどのハッキリした悲しみの様子が見て取れました。
終着点を意識するからこそ向き合える「今」があるのかもしれません。
僕も、やりたいと思えることを、日々重ねていこうと思います。
2011年01月28日
イチ流の注意の向け方
NHKの深夜放送で、再放送らしき番組を見ました。
イチロー選手の特集。
色々とインタビューに答える形式が非常に面白かったです。
僕の見立てでいくと、イチロー選手は非常に沢山の情報を
同時に処理できるように見えます。
集中していない。
我を忘れてのめり込む、という感じには見えません。
多くのことを意識しながらコントロールしているようです。
「コントロール」というと、意識的に、自分に都合の良いように
使いこなしているような「支配的」なニュアンスを感じることもあるかもしれませんが、
どちらかというと逆でしょう。
沢山の情報を同時に意識に上げて、それらと上手く調和する行動を選択できる。
特に、野球選手ということもありますから、
その注意の大部分は体の内側に向いているように見えます。
会話のときは特にそうです。
自分の答えを探すとき、内側にあるメッセージを良く感じ取っているでしょう。
インタビュアーの糸井重里氏は
「どの質問に対しても、こんなに真正面から受け答える人はいない」
というようなニュアンスの感想を伝えていましたが、
イチロー選手本人はピンと来ていない様子でした。
それはきっと、この返答を探すときにも自分の内側のメッセージ全てに注意を向け
最もシックリくる言い回しを探すプロセスに対する感想だろうと思います。
はたから見ると一生懸命に答えを考えているように見えるし、
本人にしてみれば答えを探すときの普通の方法になっている。
そう考えるのが妥当じゃないでしょうか。
この体の内側に起きている反応全てに対して同時に注意を向ける能力は
野球の動作においても役立っているはずです。
自分の体がどう動いているか、どこに力が入っているか、
イメージした体の動きと実際の動きの誤差はどれくらいか…、
そうした変化を敏感に感じ取りながらバットを振っていると考えられます。
明らかに、ただ「ボールを良く見てバットを振る」という人ではないでしょう。
冷静に見えたり、落ち着いている雰囲気を感じたり、
動作や話し方がゆったりと見えたりするのは、
この「体の中の多くの反応に注意を向ける」ことと関係していると言えます。
注意が集中しやすい人のほうが、動作や表情を含めた筋肉の反応が
シャープに出る傾向があります。
動きの量の大きさではなくてスピード感や張りの感じです。
イチロー選手は、
内向きに
非常に広く
詳細に
注意を向けている、というのが僕の見立てです。
野球をしている最中には視野に対する意識が上がると推測していますが、
会話のときには視覚への注意が低い傾向が見て取れます。
その視覚も、内向きの映像化されたイメージを使って
様々な動作や結果に対する予測をしながらプレーしていると思います。
飛んできたボールや景色という外の世界を知覚するだけの視覚ではないわけです。
「ライトスタンドから自分の姿を見る」という有名な話も
自分の頭の中に「内向きの視覚情報」としてイメージを浮かべるからできる作業です。
頭の中のイメージも見ながら、実際の野球の状況も認識する、となると
注意は幅広く向けていなければ不可能です。
しかも、それによって注意は分散されますから、
1つ1つの注意の量は減ってしまって精度が落ちやすい。
そこを、イチロー選手は情報に対する感受性を上げて対応しているんでしょう。
沢山のことを詳細に細かく感知しようとすれば、研ぎ澄まされた感じや
ピリピリとして近寄りがたい雰囲気が出るのも仕方ない気がします。
で、この視覚における内側のイメージへの片寄りは
野球を離れた日常生活でも形を変えて使われているようです。
それが「自分がどう見えているかを気にしている」という話に繋がる。
「いつでも誰かに見られているつもり」で生きている、と。
だから「寝顔や死に顔は誰にも見られたくない」そうです。
視覚では、自分の内側のイメージを使って
外から見える自分の姿を見るために利用されているみたいです。
一般に、この「外から見られる自分」を強く意識していくと
客観的な度合いが上がってきて自分の内面に鈍感になる傾向があります。
しかし、イチロー選手は体の内側の身体感覚に対して圧倒的に敏感でしょうから
内面に鈍感ということは全く起きていないはずです。
逆にいうと、それだけ内面を内側から感じられているからこそ
外からの目線でバランスを取ろうとしているのかもしれません。
中から外から、徹底的に自分を見つめている。
スゴイと思います。
しかし、これらの注意の向け方の傾向は
いずれも自分のほうを向いています。
最大限の精度で、徹底的に自分をモニターしている。
野球の場を離れれば、外の世界に注意を向ける量は
さらに少なくなる可能性も考えられます。
推測ですが、会話の最中に、相手の表情の変化に意識を向ける
というようなことは少ないんじゃないでしょうか。
まぁ、インタビューされる側が中心ですから
自分に意識を向けるというやり方で困ることはないと思いますが…。
注意を集中する傾向のある人は、のめり込むあまりに空気を読めない場合があります。
イチロー選手は、その傾向ではありません。
むしろ独特の世界観の中にいるように評されることが多い。
それは極端なまでに注意を広げ、そのほとんど全てを
自分の内側に向けていることと関係していると思われます。
自分勝手な印象を持たれてしまうことが多いのも、この辺との兼ね合いでしょう。
「天才」と呼ばれるほどのパフォーマンスを発揮するためには
注意の向け方に片寄りがあるぐらいの異端さが必要なのかもしれません。
それ以上に、その異端さを補って人の尊敬を集められるのは
あの真剣な姿勢なんじゃないかと思いました。
イチロー選手の特集。
色々とインタビューに答える形式が非常に面白かったです。
僕の見立てでいくと、イチロー選手は非常に沢山の情報を
同時に処理できるように見えます。
集中していない。
我を忘れてのめり込む、という感じには見えません。
多くのことを意識しながらコントロールしているようです。
「コントロール」というと、意識的に、自分に都合の良いように
使いこなしているような「支配的」なニュアンスを感じることもあるかもしれませんが、
どちらかというと逆でしょう。
沢山の情報を同時に意識に上げて、それらと上手く調和する行動を選択できる。
特に、野球選手ということもありますから、
その注意の大部分は体の内側に向いているように見えます。
会話のときは特にそうです。
自分の答えを探すとき、内側にあるメッセージを良く感じ取っているでしょう。
インタビュアーの糸井重里氏は
「どの質問に対しても、こんなに真正面から受け答える人はいない」
というようなニュアンスの感想を伝えていましたが、
イチロー選手本人はピンと来ていない様子でした。
それはきっと、この返答を探すときにも自分の内側のメッセージ全てに注意を向け
最もシックリくる言い回しを探すプロセスに対する感想だろうと思います。
はたから見ると一生懸命に答えを考えているように見えるし、
本人にしてみれば答えを探すときの普通の方法になっている。
そう考えるのが妥当じゃないでしょうか。
この体の内側に起きている反応全てに対して同時に注意を向ける能力は
野球の動作においても役立っているはずです。
自分の体がどう動いているか、どこに力が入っているか、
イメージした体の動きと実際の動きの誤差はどれくらいか…、
そうした変化を敏感に感じ取りながらバットを振っていると考えられます。
明らかに、ただ「ボールを良く見てバットを振る」という人ではないでしょう。
冷静に見えたり、落ち着いている雰囲気を感じたり、
動作や話し方がゆったりと見えたりするのは、
この「体の中の多くの反応に注意を向ける」ことと関係していると言えます。
注意が集中しやすい人のほうが、動作や表情を含めた筋肉の反応が
シャープに出る傾向があります。
動きの量の大きさではなくてスピード感や張りの感じです。
イチロー選手は、
内向きに
非常に広く
詳細に
注意を向けている、というのが僕の見立てです。
野球をしている最中には視野に対する意識が上がると推測していますが、
会話のときには視覚への注意が低い傾向が見て取れます。
その視覚も、内向きの映像化されたイメージを使って
様々な動作や結果に対する予測をしながらプレーしていると思います。
飛んできたボールや景色という外の世界を知覚するだけの視覚ではないわけです。
「ライトスタンドから自分の姿を見る」という有名な話も
自分の頭の中に「内向きの視覚情報」としてイメージを浮かべるからできる作業です。
頭の中のイメージも見ながら、実際の野球の状況も認識する、となると
注意は幅広く向けていなければ不可能です。
しかも、それによって注意は分散されますから、
1つ1つの注意の量は減ってしまって精度が落ちやすい。
そこを、イチロー選手は情報に対する感受性を上げて対応しているんでしょう。
沢山のことを詳細に細かく感知しようとすれば、研ぎ澄まされた感じや
ピリピリとして近寄りがたい雰囲気が出るのも仕方ない気がします。
で、この視覚における内側のイメージへの片寄りは
野球を離れた日常生活でも形を変えて使われているようです。
それが「自分がどう見えているかを気にしている」という話に繋がる。
「いつでも誰かに見られているつもり」で生きている、と。
だから「寝顔や死に顔は誰にも見られたくない」そうです。
視覚では、自分の内側のイメージを使って
外から見える自分の姿を見るために利用されているみたいです。
一般に、この「外から見られる自分」を強く意識していくと
客観的な度合いが上がってきて自分の内面に鈍感になる傾向があります。
しかし、イチロー選手は体の内側の身体感覚に対して圧倒的に敏感でしょうから
内面に鈍感ということは全く起きていないはずです。
逆にいうと、それだけ内面を内側から感じられているからこそ
外からの目線でバランスを取ろうとしているのかもしれません。
中から外から、徹底的に自分を見つめている。
スゴイと思います。
しかし、これらの注意の向け方の傾向は
いずれも自分のほうを向いています。
最大限の精度で、徹底的に自分をモニターしている。
野球の場を離れれば、外の世界に注意を向ける量は
さらに少なくなる可能性も考えられます。
推測ですが、会話の最中に、相手の表情の変化に意識を向ける
というようなことは少ないんじゃないでしょうか。
まぁ、インタビューされる側が中心ですから
自分に意識を向けるというやり方で困ることはないと思いますが…。
注意を集中する傾向のある人は、のめり込むあまりに空気を読めない場合があります。
イチロー選手は、その傾向ではありません。
むしろ独特の世界観の中にいるように評されることが多い。
それは極端なまでに注意を広げ、そのほとんど全てを
自分の内側に向けていることと関係していると思われます。
自分勝手な印象を持たれてしまうことが多いのも、この辺との兼ね合いでしょう。
「天才」と呼ばれるほどのパフォーマンスを発揮するためには
注意の向け方に片寄りがあるぐらいの異端さが必要なのかもしれません。
それ以上に、その異端さを補って人の尊敬を集められるのは
あの真剣な姿勢なんじゃないかと思いました。
2011年01月26日
奇妙な動き
お台場、日本科学未来館で『テオ・ヤンセン展』が開催されています。
テオ・ヤンセン( Theo Jansen )はオランダ人のアーティスト。
『ビーチ・アニマル』と彼が呼ぶ、ヘンテコな作品を作っています。
今回、その作品群が日本に来ているというので見に行ってきました。
「ビーチ・アニマル」というのは、テオが作りたかった海辺の生物なんだそうです。
風を「食べて」生きる、と。
現実的な言い方をしてしまえば、風力を回転エネルギーに変えて
回転軸の周りにつけた「足」の構造が歩くような動きをするので
結果的に動くことができる、ということ。
で、どの「生き物」も骨格標本のような全体イメージの中に
沢山の足がついていて、それがワシャワシャと一度に動くので
見ていて面白いんです。
足は中心となる回転軸の周りに沢山ついていますから
足の数を増やすと形は細長くなります。
テオ自身は、その細長い方向に形の差をつけて、
頭っぽい構造物と、尻尾っぽい構造物を作っているので
パッと見た印象としては、頭と背骨と肋骨と尻尾がある骨格標本のようなイメージです。
しかしながら、その形からくるイメージに反して
足は背骨を軸にした回転運動によって動くために
頭と尻尾からなる前後方向ではなく、左右方向に進むことになります。
まぁ、ハッキリ言えば、頭と尻尾は完全な飾りなんです。
動画で見る限り、前後に進んでいるように見えるヤツもいますが、
日本に来ているのは、なぜか横歩きバージョンばかりみたいです。
言葉で言ってもイメージしにくいところもあるでしょうから、
YouTube で「テオ ヤンセン」と検索して動画を見てもらうと良いかもしれません。
かなり沢山の動画があります。
僕のオススメは、これ。
16秒から23秒ぐらいに出てくるデカイやつが楽しいです。
沢山の足が奇妙に動く様がコミカル。
ゆっくりながら重厚感があって、いかにも動物っぽいのはコイツ。
とてもスムーズに見えます。
動作的にいうと、あの足の動きは非常によく計算されていて
なんだか少し、モデル歩きみたいに見えたりしますが、
接地面で高さをキープできるのは重要なポイントじゃないでしょうか。
それによって支えているんだと思います。
実際、展示会の中では、その足の構造をどのように決めたかが解説されています。
なんでもコンピューターで計算したとか。
とはいえ、構造のアイデア自体は、テオ・ヤンセン自身が考えて、
各パーツの長さの比率をコンピューターで最適化したということでしょうが。
『テオ・ヤンセン展』では、実際にデモを見ることもできます。
ワシャワシャと進むところが見られる。
展示されている全てが砂で汚れているので
文字通り「ビーチ・アニマル」として海辺に置いていたことが伺えます。
動きを見せてくれるのは、そのうちの2体ぐらいらしく
圧縮空気を動力源にしたタイプでした。
で、肝心の動きなんですが、これがチョット期待外れ。
動画で見るとスムーズに見えますが、実際はギシギシと音を立てながら
ところどころ引っかかりつつ動きます。
大型の構造に対して中心骨格が貧弱なようで、すぐに歪みが出ていました。
1つ1つの部品も手作りですから、決して精密とは言えない感じ。
歪みがスムーズな動作を妨げ、ギクシャクした感じは否めませんでした。
少しガッカリ。
なんでも20年ぐらい、作り続けているんだとか。
芸術といえば芸術かもしれないし、科学の要素もあるのでしょうが、
楽しいことを除けば、かなりバカげた話だと思います。
それを本気になれるのは、スゴイものだと感じます。
「バカバカしい」と純粋に楽しい気持ちから笑えることを
一生懸命やっている人たち。
僕は、そういう人をとても尊敬しています。
僕の中で「役に立つかどうか」は重要な基準の1つです。
その意味でいうと「無駄」なことというのは
人生において、かなり「役に立つ」ことなんです。
日本科学未来館は、たしか例の「仕分け」騒ぎのときに対象に入っていたはずです。
ニュースで見た記憶があります。
僕が科学未来館に行ったのは、8年ぶりぐらいでしょうか。
変わらないものもあれば、変わったものもありました。
最先端の科学知識が反映されるところと、
基礎的な知識として変わらないところと両方がある。
非常に勉強になる施設です。
中学生以下には厳しいぐらい。
分かりやすく、詳しく、見ごたえがあります。
頻繁に行くところではないでしょうが、面白い場所です。
そのように感動や好奇心、楽しさなど、人の「興味」をひくものに対して
「無駄」を省くための仕分けをするのはナンセンスな気がします。
そんな仕分けをするために時間と労力をかけているほうが無駄だと思います。
クリエイティブなものは無駄の中から生まれることだって多いはずです。
面白い。
楽しい。
そのこと自体が素晴らしいんじゃないでしょうか。
見た人が一様に「オー…」と歓声をあげる。
見た人が一様に「はぁー…」と息をもらす。
そのあたりが物語っていると思うんです。
テオ・ヤンセン( Theo Jansen )はオランダ人のアーティスト。
『ビーチ・アニマル』と彼が呼ぶ、ヘンテコな作品を作っています。
今回、その作品群が日本に来ているというので見に行ってきました。
「ビーチ・アニマル」というのは、テオが作りたかった海辺の生物なんだそうです。
風を「食べて」生きる、と。
現実的な言い方をしてしまえば、風力を回転エネルギーに変えて
回転軸の周りにつけた「足」の構造が歩くような動きをするので
結果的に動くことができる、ということ。
で、どの「生き物」も骨格標本のような全体イメージの中に
沢山の足がついていて、それがワシャワシャと一度に動くので
見ていて面白いんです。
足は中心となる回転軸の周りに沢山ついていますから
足の数を増やすと形は細長くなります。
テオ自身は、その細長い方向に形の差をつけて、
頭っぽい構造物と、尻尾っぽい構造物を作っているので
パッと見た印象としては、頭と背骨と肋骨と尻尾がある骨格標本のようなイメージです。
しかしながら、その形からくるイメージに反して
足は背骨を軸にした回転運動によって動くために
頭と尻尾からなる前後方向ではなく、左右方向に進むことになります。
まぁ、ハッキリ言えば、頭と尻尾は完全な飾りなんです。
動画で見る限り、前後に進んでいるように見えるヤツもいますが、
日本に来ているのは、なぜか横歩きバージョンばかりみたいです。
言葉で言ってもイメージしにくいところもあるでしょうから、
YouTube で「テオ ヤンセン」と検索して動画を見てもらうと良いかもしれません。
かなり沢山の動画があります。
僕のオススメは、これ。
16秒から23秒ぐらいに出てくるデカイやつが楽しいです。
沢山の足が奇妙に動く様がコミカル。
ゆっくりながら重厚感があって、いかにも動物っぽいのはコイツ。
とてもスムーズに見えます。
動作的にいうと、あの足の動きは非常によく計算されていて
なんだか少し、モデル歩きみたいに見えたりしますが、
接地面で高さをキープできるのは重要なポイントじゃないでしょうか。
それによって支えているんだと思います。
実際、展示会の中では、その足の構造をどのように決めたかが解説されています。
なんでもコンピューターで計算したとか。
とはいえ、構造のアイデア自体は、テオ・ヤンセン自身が考えて、
各パーツの長さの比率をコンピューターで最適化したということでしょうが。
『テオ・ヤンセン展』では、実際にデモを見ることもできます。
ワシャワシャと進むところが見られる。
展示されている全てが砂で汚れているので
文字通り「ビーチ・アニマル」として海辺に置いていたことが伺えます。
動きを見せてくれるのは、そのうちの2体ぐらいらしく
圧縮空気を動力源にしたタイプでした。
で、肝心の動きなんですが、これがチョット期待外れ。
動画で見るとスムーズに見えますが、実際はギシギシと音を立てながら
ところどころ引っかかりつつ動きます。
大型の構造に対して中心骨格が貧弱なようで、すぐに歪みが出ていました。
1つ1つの部品も手作りですから、決して精密とは言えない感じ。
歪みがスムーズな動作を妨げ、ギクシャクした感じは否めませんでした。
少しガッカリ。
なんでも20年ぐらい、作り続けているんだとか。
芸術といえば芸術かもしれないし、科学の要素もあるのでしょうが、
楽しいことを除けば、かなりバカげた話だと思います。
それを本気になれるのは、スゴイものだと感じます。
「バカバカしい」と純粋に楽しい気持ちから笑えることを
一生懸命やっている人たち。
僕は、そういう人をとても尊敬しています。
僕の中で「役に立つかどうか」は重要な基準の1つです。
その意味でいうと「無駄」なことというのは
人生において、かなり「役に立つ」ことなんです。
日本科学未来館は、たしか例の「仕分け」騒ぎのときに対象に入っていたはずです。
ニュースで見た記憶があります。
僕が科学未来館に行ったのは、8年ぶりぐらいでしょうか。
変わらないものもあれば、変わったものもありました。
最先端の科学知識が反映されるところと、
基礎的な知識として変わらないところと両方がある。
非常に勉強になる施設です。
中学生以下には厳しいぐらい。
分かりやすく、詳しく、見ごたえがあります。
頻繁に行くところではないでしょうが、面白い場所です。
そのように感動や好奇心、楽しさなど、人の「興味」をひくものに対して
「無駄」を省くための仕分けをするのはナンセンスな気がします。
そんな仕分けをするために時間と労力をかけているほうが無駄だと思います。
クリエイティブなものは無駄の中から生まれることだって多いはずです。
面白い。
楽しい。
そのこと自体が素晴らしいんじゃないでしょうか。
見た人が一様に「オー…」と歓声をあげる。
見た人が一様に「はぁー…」と息をもらす。
そのあたりが物語っていると思うんです。
2011年01月24日
2月の実践トレーニングのご案内
2月は19日(土)の夜に、実践トレーニングを行います。
何週目の何曜日とか、固定できたら良いのでしょうが
スケジュールの都合で、チョットそれも難しいのが現状です。
とりあえず、3月は6日(日)あたりを考えていますが…。
ご案内は、ブログの「おしらせ」欄に出すようにしていきます。
ご興味のある方はご確認ください。
この勉強会は、通常の勉強会と違って実践形式を意図しています。
理論的な説明は少なめに、なるべく練習ができるようにしたいんです。
前月度の復習的な内容が多くなると思われます。
19日の夜には、12月の『複数とのコミュニケーション』の中から
○プロセス・リフレーミング
○カップル・カウンセリング
などと、
1月の『お見通しの技術』の中から
○外さない話術
の一部を扱う予定でいます。
多くのコミュニケーションの技術は、勉強して分かった時点が終わりではありません。
トレーニングによって「できる」ようにするのが大事だと考えていますので、
こちらの実践形式の場では、似たような内容を何度も繰り返します。
カウンセリングや、それに近いコミュニケーションにおいては
会話の進行というのは非常にシビアなものです。
ほんの一瞬の一言で、方向性が大きく変わってしまうことも良くあります。
一瞬一瞬が迷いの連続です。
そして、「全くミスをせずに理想的なカウンセリングができた」
ということも現実的には起こり得ないでしょう。
ミスはしてしまうものかもしれません。
相手のことは分からないのですから、当然かもしれません。
それでも、少しずつミスを減らしたい。
少しでも望ましいコミュニケーションにしたい。
上手くミスをカバーしていきたい。
結果オーライになるように帳尻合わせをしながら、
毎回の反省を繰り返して少しずつ技術が上がっていくような気がします。
だからこそ同じようなトレーニングが重要なんです。
特に、やりっぱなしではないトレーニングが。
少しずつ「できる」ことを増やすためには
お互いにフィードバックをしながら研鑽していくのが有効だと考えます。
新鮮さよりも効果を重視した地道なトレーニングになります。
僕は、こういうタイプのトレーニングは何度やっても学びがあって
楽しいものだと思います。
実践を意図した勉強会では、そうやってトレーニングの中から
個人個人が、そのときによって違った学びを得て頂けると考えています。
2月の実践トレーニングのお申込みは、近日中に載せますが
ご興味のある方は日程を確保しておいて頂ければと思います。
何週目の何曜日とか、固定できたら良いのでしょうが
スケジュールの都合で、チョットそれも難しいのが現状です。
とりあえず、3月は6日(日)あたりを考えていますが…。
ご案内は、ブログの「おしらせ」欄に出すようにしていきます。
ご興味のある方はご確認ください。
この勉強会は、通常の勉強会と違って実践形式を意図しています。
理論的な説明は少なめに、なるべく練習ができるようにしたいんです。
前月度の復習的な内容が多くなると思われます。
19日の夜には、12月の『複数とのコミュニケーション』の中から
○プロセス・リフレーミング
○カップル・カウンセリング
などと、
1月の『お見通しの技術』の中から
○外さない話術
の一部を扱う予定でいます。
多くのコミュニケーションの技術は、勉強して分かった時点が終わりではありません。
トレーニングによって「できる」ようにするのが大事だと考えていますので、
こちらの実践形式の場では、似たような内容を何度も繰り返します。
カウンセリングや、それに近いコミュニケーションにおいては
会話の進行というのは非常にシビアなものです。
ほんの一瞬の一言で、方向性が大きく変わってしまうことも良くあります。
一瞬一瞬が迷いの連続です。
そして、「全くミスをせずに理想的なカウンセリングができた」
ということも現実的には起こり得ないでしょう。
ミスはしてしまうものかもしれません。
相手のことは分からないのですから、当然かもしれません。
それでも、少しずつミスを減らしたい。
少しでも望ましいコミュニケーションにしたい。
上手くミスをカバーしていきたい。
結果オーライになるように帳尻合わせをしながら、
毎回の反省を繰り返して少しずつ技術が上がっていくような気がします。
だからこそ同じようなトレーニングが重要なんです。
特に、やりっぱなしではないトレーニングが。
少しずつ「できる」ことを増やすためには
お互いにフィードバックをしながら研鑽していくのが有効だと考えます。
新鮮さよりも効果を重視した地道なトレーニングになります。
僕は、こういうタイプのトレーニングは何度やっても学びがあって
楽しいものだと思います。
実践を意図した勉強会では、そうやってトレーニングの中から
個人個人が、そのときによって違った学びを得て頂けると考えています。
2月の実践トレーニングのお申込みは、近日中に載せますが
ご興味のある方は日程を確保しておいて頂ければと思います。
2011年01月22日
ルネッサンス
英語の表現で「 Renaissance man 」というのがあります。
「ルネッサンス・マン」。
元々は、ルネッサンス期の教養人たちのことを指していたそうですが、
当時は科学技術の知識も現代ほど発展していなかったので
その時代の最先端の知識を全て網羅することができた人もいた、
という話のようです。
転じて「幅広い知識を持つ人」というようなニュアンスで使われる、と。
( a man with extraordinarily broad and comprehensive knowledge. )
辞書で調べると
「1.ルネサンス的教養人。 2.万能型の教養人」
とのこと。
2.に関しては
「多くの異なった興味の対象について
薄っぺらな知識以上のものを得る地位にいる現代の学者」
( a modern scholar who is in a position to acquire more than
superficial knowledge about many different interests )
という説明も載っていました。
説明からは、「広く浅い」ではなく、「広く深い」のような印象を受けます。
ただ、当時の風潮の中で理想とされていたのも
幅広く天才性を発揮することだったそうですから、
「 Renaissance man 」という表現には
当時の理想とするイメージも含まれているとも考えられます。
代表的な「 Renaissance man 」と評されるのは
アルベルティ、ミケランジェロ、ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチなど。
網羅的に知識を得た「万能の天才」が活躍した時期だったということです。
確かに、今と比べればルネサンス期の情報量は格段に少なかったことでしょう。
網羅的に把握するのも不可能ではなかったのかもしれません。
しかし、情報が少ないということは、同時に
自分が積極的に調べなければいけないということでもあって
多くのことに詳しくなるためには、努力も大変だったように思えます。
その点、今は簡単に調べようと思えば、インターネットですぐに調べられる。
ウィキペディアで得られる程度の情報なら、
「浅く広く」知ろうとするのは、さほど大変ではないかもしれません。
特に、詳しさのレベルとしていうと、
五感レベルの実体験を伴った具体的な情報と、
本を読んで仕入れた知識レベルの情報とでは大きな違いがあります。
「聞いたことがある」のと、「知っている」のと、
「分かっている」のと、「できる」のとでは意味が違うわけです。
多くのことが実体験レベルで詳しく、
しかもそれを「できる」となると、相当大変なことだろうと思えます。
本当に「 Renaissance man 」となると、一筋縄ではいかないものなんでしょう。
ところで、誰だか忘れましたし、どこで読んだか聞いた話だかも忘れたんですが、
ある人が「今の時代はルネサンスに近い」と言っていたような記憶があります。
歴史に学び、再び復興させていく時期。
そんなニュアンスだったと思います。
となると、今の世の中でも理想とされるのは
「万能の天才」に近いような「 Renaissance man 」なんじゃないだろうか?
…そんなことが頭に浮かびました。
色々とできることがある。
専門性が組み合わさって、何が専門なのかが分かりにくくなる。
既存の枠組みで説明しようとすると、ピッタリな言葉が見つけられない。
そんな幅の広さも求められるのかもしれません。
ということを思うにつけて、レオナルド・ダ・ヴィンチへの憧れが
僕の中で、さらに影響の大きなものになった気がしています。
色々とやりたいことが浮かんできます。
「ルネッサンス・マン」。
元々は、ルネッサンス期の教養人たちのことを指していたそうですが、
当時は科学技術の知識も現代ほど発展していなかったので
その時代の最先端の知識を全て網羅することができた人もいた、
という話のようです。
転じて「幅広い知識を持つ人」というようなニュアンスで使われる、と。
( a man with extraordinarily broad and comprehensive knowledge. )
辞書で調べると
「1.ルネサンス的教養人。 2.万能型の教養人」
とのこと。
2.に関しては
「多くの異なった興味の対象について
薄っぺらな知識以上のものを得る地位にいる現代の学者」
( a modern scholar who is in a position to acquire more than
superficial knowledge about many different interests )
という説明も載っていました。
説明からは、「広く浅い」ではなく、「広く深い」のような印象を受けます。
ただ、当時の風潮の中で理想とされていたのも
幅広く天才性を発揮することだったそうですから、
「 Renaissance man 」という表現には
当時の理想とするイメージも含まれているとも考えられます。
代表的な「 Renaissance man 」と評されるのは
アルベルティ、ミケランジェロ、ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチなど。
網羅的に知識を得た「万能の天才」が活躍した時期だったということです。
確かに、今と比べればルネサンス期の情報量は格段に少なかったことでしょう。
網羅的に把握するのも不可能ではなかったのかもしれません。
しかし、情報が少ないということは、同時に
自分が積極的に調べなければいけないということでもあって
多くのことに詳しくなるためには、努力も大変だったように思えます。
その点、今は簡単に調べようと思えば、インターネットですぐに調べられる。
ウィキペディアで得られる程度の情報なら、
「浅く広く」知ろうとするのは、さほど大変ではないかもしれません。
特に、詳しさのレベルとしていうと、
五感レベルの実体験を伴った具体的な情報と、
本を読んで仕入れた知識レベルの情報とでは大きな違いがあります。
「聞いたことがある」のと、「知っている」のと、
「分かっている」のと、「できる」のとでは意味が違うわけです。
多くのことが実体験レベルで詳しく、
しかもそれを「できる」となると、相当大変なことだろうと思えます。
本当に「 Renaissance man 」となると、一筋縄ではいかないものなんでしょう。
ところで、誰だか忘れましたし、どこで読んだか聞いた話だかも忘れたんですが、
ある人が「今の時代はルネサンスに近い」と言っていたような記憶があります。
歴史に学び、再び復興させていく時期。
そんなニュアンスだったと思います。
となると、今の世の中でも理想とされるのは
「万能の天才」に近いような「 Renaissance man 」なんじゃないだろうか?
…そんなことが頭に浮かびました。
色々とできることがある。
専門性が組み合わさって、何が専門なのかが分かりにくくなる。
既存の枠組みで説明しようとすると、ピッタリな言葉が見つけられない。
そんな幅の広さも求められるのかもしれません。
ということを思うにつけて、レオナルド・ダ・ヴィンチへの憧れが
僕の中で、さらに影響の大きなものになった気がしています。
色々とやりたいことが浮かんできます。
2011年01月20日
2月の勉強会
2月の勉強会のお知らせ
2011年に入って始まったドラマの中には、
心理的な観点からの捜査や、プロファイリング、交渉術など
心にフォーカスしたものが多いような印象があります。
海外ドラマの「 Mentalist 」や「 Lie to Me 」も人気があるようですから、
どうも心理系の分野が流行っているのではないかと思えます。
また、刑事ドラマや探偵ものは以前から根強い人気がありますし、
シャーロック・ホームズに代表される名探偵は世界中で人の心を掴んでいるようです。
ホームズに関していえば、コールドリーダーの中では
シャーロック・ホームズを最高のコールドリーダーだとして尊敬する人たちも多く、
彼の「全てをお見通し」のような見立ては小説の醍醐味の1つだった気がします。
今の国内の流行りで言うと、「相棒」シリーズが大人気のようですし、
かつては「古畑任三郎」も人気がありました。
これらに共通して言えるのは、人の心を見るにしても、事件内容から推理するにしても、
主人公たちが類まれな観察力と推理力を発揮しているということです。
ヒントを見つけることができなければ、結論には辿り着けませんし、
重要なヒントに気づいていても推理力がなければ間違った結論になってしまいます。
両方の能力が物語を支えているようです。
面白いのは、これらに登場する人物の特徴です。
観察力と推理力のある人たちは、なぜか冷静で淡々としている。
人間味から魅力を出すために、ひょうひょうとしながらも愛嬌のあるときが多いですが、
熱血漢で行動力があるタイプとは違います。
こうしたステレオタイプが、なかなか現実的な人間の特性とも一致しているんです。
その意味では、物語の作者(少なくとも典型的な探偵像を作った最初の作者)には
そうした探偵なみの観察力があったともいえるかもしれません。
ちなみに、今年始まったドラマ「ホンボシ~心理特捜事件簿」で主役の
元心理学者の捜査官を演じる船越栄一郎氏は、そういうキャラ設定には
本人の特性が一致しておらず、少し不自然な印象があると考えられます。
そういう流行的な背景も捉えつつ、今回の勉強会のテーマは
『観察力』にしたいと考えました。
1月の『お見通しの技術』とも相性がいいはずです。
観察力のトレーニング自体は地味な印象があったり、
観察力を鍛える効果的な方法が知られていないせいか
あまり観察力そのものを扱った内容というのは多くない印象があったりします。
観察力を鍛えるために「間違い探し」のクイズをするのも悪くはないですが、
探偵の例からも分かるように、『観察力』というのは見て終わりじゃないんです。
レオナルド・ダ・ヴィンチが空気遠近法を開発したことで知られているのは、
ただ良く見ていただけでなく、そこから法則のようなものを見出したからでしょう。
観察力というときには、その対象が持つ意味を理解する能力も重要なんです。
それが探偵であれば推理力になるのでしょうし、
科学者であれば考察力とか論理思考力と呼ばれるものになる。
つまり、違いに気づく能力と、それを解釈する能力の両方を鍛える必要があるわけです。
観察をもとに理論を作り上げる研究者や、経験から観察力を鍛えた実践者は
様々な現象の中から重要な部分を抽出して説明ができるようになっていきます。
見ている現象は、沢山の出来事が関係し合って生まれています。
なので、簡単に因果関係を説明できるものではないのが普通といえます。
トレーニングを積んで観察力を身につけた人たちは、その複雑に絡み合った事象から
最も説得力のある部分をピックアップして説明するんです。
本当は全体を総合して判断しているはずです。
ただ、それをすると「なんとなく」としか言えなくなるので
最も理にかなった部分に注目して説明するようになる。
例えば、何かの質問に対して返答するときに
・腕を組み、
・目線を左上に向け、
・早口で、
・肩を少し上げて緊張させ、
・左足を後ろに引くようにしながら
答えたとします。
仮に、この時、その人が嘘をついていたとします。
観察力がある人の場合、それが嘘だと見抜けることがある。
多くの場合、全ての情報を加味して「嘘っぽい」印象から判断されるものですが、
もっともらしい説明としては
「話の内容に後ろめたさがあるから、その場から逃げようとして
緊張感と足の動きが表れて、早口で話すことになった」
という具合になるでしょうか。
その中で、もっと顕著に気持ちを表現していそうな部分が
足の動きだったとすると、説明しやすいのは
「話すときに左足を引いたのは嘘をつく後ろめたさからだ」
とでもなるかもしれません。
ここまでは良いんです。
観察力がある人が、自分の推理の根拠を説明しているだけですから。
ところが、この人が説明した情報を取り入れた人は事情が違います。
「左足を引くと嘘をついている」という解釈が強調されるんです。
そして、その理論に当てはめて物事を見るようになる。
結果、会話の途中で左足を引いた人を見つけると、理論に現象を当てはめて
「あの人は嘘をついている」と解釈する場合があります。
実際は、ただトイレに行きたくなっただけかもしれないのに。
「腕を組んでいるから、守ろうとしている」
「髪の毛を触っているから、不安だ」
そういう解釈は、当てはまる場合もありますが、それが全てではありません。
同時に発しているそうしたメッセージの組み合わせを色々と考慮に入れて
最も可能性の高そうな推理につなげていく。
その発想が観察で重要なのではないかと考えられます。
言ってみれば、『観察』というのは
目の前の相手や出来事を、できるだけ良く理解するために
最大限の注意を払って意味のある情報を探し出し、
可能な限り頭を働かせて、妥当な仮説を見つけていく作業
なのではないでしょうか。
かなり積極的で能動的な作業だと思います。
コミュニケーションにおける観察力は、
相手に対して気持ちを向けられる量とも関係するのではないでしょうか。
淡々と冷静な、探偵のような人物像にマッチする『観察力』のイメージですが、
内側に想いがなければ発揮できない、人情味あふれる能力なのかもしれません。
見て、聞いて、感じて、違いに気づく力。
違いを意味づけして、もっともらしい仮説をたてる力。
そのあたりを中心にトレーニングしていきます。
些細な感情の変化や、複雑に入り混じった気持ちなど
繊細な非言語メッセージを受け取る練習もしていきます。
同時に、観察を通じて相手を理解する方法も扱います。
今まで分からなかったものが見えてくるかもしれません。
このように、観察力だけに絞ったトレーニングの機会は多くないと思います。
重要だとは分かっていながらも、セミナーの一部になってしまうことが大半でしょう。
一度、集中的に取り組んでおくと、印象に残りやすいはずです。
トレーニングとしてお勧めいたします。
推理小説ほど悲惨な事件は滅多にないでしょうが、
目の前の相手の人生というドラマは、相当に興味深いものです。
その一端に、今までよりも少し深く触れられる経験は
なかなかの財産になるのではないかと考えています。
ご都合が合いましたら、是非、お越しください。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 2月11日(金・祝) 10:00~16:30>
★今回は終日でのご参加となります。
【場所】 滝野川会館 304集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
・・・7,000円
【テーマ】 『観察力』養成講座
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
研究職として働いていた間、微生物の培養槽をずっと眺めていました。
ベテランの方々からは良くこんな話も聞かされたものです。
「ワシが入社したころは、とりあえず一日中、培養槽を見ておけ、と言われたもんじゃ」
見ていると、少しずつですが変化が出てくるんです。
培養液の泡の様子が変わり始め、少しずつ濁ってくる。
リアルタイムで計測しているデータは、
培養槽の中で何か複雑な変化が起きていることを物語っているようでした。
匂いにも変化が出てきます。
色が違うこともあります。
そうした様々な変化を総合的に捉える必要がありました。
そこからヒントを見つけていく作業だったわけです。
今でも鮮明に覚えていますが、入社一年目に
海外の工場で原因不明のトラブルが頻発していた時期がありました。
たまたま、その原因究明が割り当てられたんです。
そのチームのメンバーに入ったんです。
熟練した人ほど、今までの延長で物事を考えようとするのかもしれません。
色々とデータを眺め、検証を繰り返すうちにカギになる要因が見つかりました。
そこから後は、周辺の情報を整理していくだけ。
多くの要因が重なってトラブルが起きます。
しかし、その中に本質的な要因も潜んでいたりする。
結局、その原因解析の仕事が、僕の入社一年目の一番の成果になりました。
沢山の情報を観察して、それをもとに仮説を立てていく。
…そんな作業が好きだったんだと思います。
その発想の特徴は、コミュニケーションや心を専門にするようになった後も変わりません。
自分にとって中心となる部分なんだろうと思います。
数学が難しいのも納得できます。
自分にとって『観察』が重要なものであるからこそ、
今回のテーマには思い入れが強いところがあります。
あらゆる状況で役立つ能力だと考えています。
多くの方にお越し頂けましたら幸いです。
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
2011年に入って始まったドラマの中には、
心理的な観点からの捜査や、プロファイリング、交渉術など
心にフォーカスしたものが多いような印象があります。
海外ドラマの「 Mentalist 」や「 Lie to Me 」も人気があるようですから、
どうも心理系の分野が流行っているのではないかと思えます。
また、刑事ドラマや探偵ものは以前から根強い人気がありますし、
シャーロック・ホームズに代表される名探偵は世界中で人の心を掴んでいるようです。
ホームズに関していえば、コールドリーダーの中では
シャーロック・ホームズを最高のコールドリーダーだとして尊敬する人たちも多く、
彼の「全てをお見通し」のような見立ては小説の醍醐味の1つだった気がします。
今の国内の流行りで言うと、「相棒」シリーズが大人気のようですし、
かつては「古畑任三郎」も人気がありました。
これらに共通して言えるのは、人の心を見るにしても、事件内容から推理するにしても、
主人公たちが類まれな観察力と推理力を発揮しているということです。
ヒントを見つけることができなければ、結論には辿り着けませんし、
重要なヒントに気づいていても推理力がなければ間違った結論になってしまいます。
両方の能力が物語を支えているようです。
面白いのは、これらに登場する人物の特徴です。
観察力と推理力のある人たちは、なぜか冷静で淡々としている。
人間味から魅力を出すために、ひょうひょうとしながらも愛嬌のあるときが多いですが、
熱血漢で行動力があるタイプとは違います。
こうしたステレオタイプが、なかなか現実的な人間の特性とも一致しているんです。
その意味では、物語の作者(少なくとも典型的な探偵像を作った最初の作者)には
そうした探偵なみの観察力があったともいえるかもしれません。
ちなみに、今年始まったドラマ「ホンボシ~心理特捜事件簿」で主役の
元心理学者の捜査官を演じる船越栄一郎氏は、そういうキャラ設定には
本人の特性が一致しておらず、少し不自然な印象があると考えられます。
そういう流行的な背景も捉えつつ、今回の勉強会のテーマは
『観察力』にしたいと考えました。
1月の『お見通しの技術』とも相性がいいはずです。
観察力のトレーニング自体は地味な印象があったり、
観察力を鍛える効果的な方法が知られていないせいか
あまり観察力そのものを扱った内容というのは多くない印象があったりします。
観察力を鍛えるために「間違い探し」のクイズをするのも悪くはないですが、
探偵の例からも分かるように、『観察力』というのは見て終わりじゃないんです。
レオナルド・ダ・ヴィンチが空気遠近法を開発したことで知られているのは、
ただ良く見ていただけでなく、そこから法則のようなものを見出したからでしょう。
観察力というときには、その対象が持つ意味を理解する能力も重要なんです。
それが探偵であれば推理力になるのでしょうし、
科学者であれば考察力とか論理思考力と呼ばれるものになる。
つまり、違いに気づく能力と、それを解釈する能力の両方を鍛える必要があるわけです。
観察をもとに理論を作り上げる研究者や、経験から観察力を鍛えた実践者は
様々な現象の中から重要な部分を抽出して説明ができるようになっていきます。
見ている現象は、沢山の出来事が関係し合って生まれています。
なので、簡単に因果関係を説明できるものではないのが普通といえます。
トレーニングを積んで観察力を身につけた人たちは、その複雑に絡み合った事象から
最も説得力のある部分をピックアップして説明するんです。
本当は全体を総合して判断しているはずです。
ただ、それをすると「なんとなく」としか言えなくなるので
最も理にかなった部分に注目して説明するようになる。
例えば、何かの質問に対して返答するときに
・腕を組み、
・目線を左上に向け、
・早口で、
・肩を少し上げて緊張させ、
・左足を後ろに引くようにしながら
答えたとします。
仮に、この時、その人が嘘をついていたとします。
観察力がある人の場合、それが嘘だと見抜けることがある。
多くの場合、全ての情報を加味して「嘘っぽい」印象から判断されるものですが、
もっともらしい説明としては
「話の内容に後ろめたさがあるから、その場から逃げようとして
緊張感と足の動きが表れて、早口で話すことになった」
という具合になるでしょうか。
その中で、もっと顕著に気持ちを表現していそうな部分が
足の動きだったとすると、説明しやすいのは
「話すときに左足を引いたのは嘘をつく後ろめたさからだ」
とでもなるかもしれません。
ここまでは良いんです。
観察力がある人が、自分の推理の根拠を説明しているだけですから。
ところが、この人が説明した情報を取り入れた人は事情が違います。
「左足を引くと嘘をついている」という解釈が強調されるんです。
そして、その理論に当てはめて物事を見るようになる。
結果、会話の途中で左足を引いた人を見つけると、理論に現象を当てはめて
「あの人は嘘をついている」と解釈する場合があります。
実際は、ただトイレに行きたくなっただけかもしれないのに。
「腕を組んでいるから、守ろうとしている」
「髪の毛を触っているから、不安だ」
そういう解釈は、当てはまる場合もありますが、それが全てではありません。
同時に発しているそうしたメッセージの組み合わせを色々と考慮に入れて
最も可能性の高そうな推理につなげていく。
その発想が観察で重要なのではないかと考えられます。
言ってみれば、『観察』というのは
目の前の相手や出来事を、できるだけ良く理解するために
最大限の注意を払って意味のある情報を探し出し、
可能な限り頭を働かせて、妥当な仮説を見つけていく作業
なのではないでしょうか。
かなり積極的で能動的な作業だと思います。
コミュニケーションにおける観察力は、
相手に対して気持ちを向けられる量とも関係するのではないでしょうか。
淡々と冷静な、探偵のような人物像にマッチする『観察力』のイメージですが、
内側に想いがなければ発揮できない、人情味あふれる能力なのかもしれません。
見て、聞いて、感じて、違いに気づく力。
違いを意味づけして、もっともらしい仮説をたてる力。
そのあたりを中心にトレーニングしていきます。
些細な感情の変化や、複雑に入り混じった気持ちなど
繊細な非言語メッセージを受け取る練習もしていきます。
同時に、観察を通じて相手を理解する方法も扱います。
今まで分からなかったものが見えてくるかもしれません。
このように、観察力だけに絞ったトレーニングの機会は多くないと思います。
重要だとは分かっていながらも、セミナーの一部になってしまうことが大半でしょう。
一度、集中的に取り組んでおくと、印象に残りやすいはずです。
トレーニングとしてお勧めいたします。
推理小説ほど悲惨な事件は滅多にないでしょうが、
目の前の相手の人生というドラマは、相当に興味深いものです。
その一端に、今までよりも少し深く触れられる経験は
なかなかの財産になるのではないかと考えています。
ご都合が合いましたら、是非、お越しください。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 2月11日(金・祝) 10:00~16:30>
★今回は終日でのご参加となります。
【場所】 滝野川会館 304集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
・・・7,000円
【テーマ】 『観察力』養成講座
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
研究職として働いていた間、微生物の培養槽をずっと眺めていました。
ベテランの方々からは良くこんな話も聞かされたものです。
「ワシが入社したころは、とりあえず一日中、培養槽を見ておけ、と言われたもんじゃ」
見ていると、少しずつですが変化が出てくるんです。
培養液の泡の様子が変わり始め、少しずつ濁ってくる。
リアルタイムで計測しているデータは、
培養槽の中で何か複雑な変化が起きていることを物語っているようでした。
匂いにも変化が出てきます。
色が違うこともあります。
そうした様々な変化を総合的に捉える必要がありました。
そこからヒントを見つけていく作業だったわけです。
今でも鮮明に覚えていますが、入社一年目に
海外の工場で原因不明のトラブルが頻発していた時期がありました。
たまたま、その原因究明が割り当てられたんです。
そのチームのメンバーに入ったんです。
熟練した人ほど、今までの延長で物事を考えようとするのかもしれません。
色々とデータを眺め、検証を繰り返すうちにカギになる要因が見つかりました。
そこから後は、周辺の情報を整理していくだけ。
多くの要因が重なってトラブルが起きます。
しかし、その中に本質的な要因も潜んでいたりする。
結局、その原因解析の仕事が、僕の入社一年目の一番の成果になりました。
沢山の情報を観察して、それをもとに仮説を立てていく。
…そんな作業が好きだったんだと思います。
その発想の特徴は、コミュニケーションや心を専門にするようになった後も変わりません。
自分にとって中心となる部分なんだろうと思います。
数学が難しいのも納得できます。
自分にとって『観察』が重要なものであるからこそ、
今回のテーマには思い入れが強いところがあります。
あらゆる状況で役立つ能力だと考えています。
多くの方にお越し頂けましたら幸いです。
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
2011年01月19日
勉強会のテーマ選定について
コミュニケーションや心理ということをベースに取り組んでいくと
効果的な手法を数多く学び、実践を繰り返すうちに
共通する本質のようなものが感じられてきます。
すると多くのものを包括する基本的な概念のようなものが見えてきて
必要な技術も段々とシンプルになってきてしまう。
色々な手法を使ったとして、結局目指すべきポイントはココだ、と。
特に、手法やスキルと呼ばれるものは、「どれが有効か」という基準はなく、
「どれが目の前の人に向いているか」の基準で選ばれるだけです。
その意味で本当に重要なのは、沢山の技術を知っているかよりも
目の前のクライアントに合わせた対応ができるかどうかのはずです。
目の前のクライアントを理解する能力が重要だと考えます。
こうした発想は現実的に役立つ反面、
勉強会という形でテーマを設定するときに少し困るんです。
本当に役立つものを扱おうとするとテーマの種類が限定されてきてしまいます。
理想的には、同じカテゴリー、同じテーマで何度も勉強会をやって、
色々な視点を説明していくうちに関連する周辺の理論を取り入れてもらって
同時に多くのトレーニングを繰り返してもらう、というのができると良いんです。
一対一のコミュニケーションとして考えれば
「ペーシング」をしながら「情報収集」と「ねぎらい」をして
「リフレーミング」につなげる…
必要な場合には、「今後のことについて考える」ことをする
といった説明に大部分が集約されてしまいます。
聞き役中心に思えるかもしれませんが、話すときにも共通して役立ちます。
技術的にトレーニングをしていく分には、
これらを地道に取り組むのが大切で、かつ効果的だと思います。
ただ、だからといって「今月もペーシングです」「来月もペーシングです」では、
なかなか興味を引いてもらえないのではないかと気がかりな部分があるのも事実。
出来る限りテーマとして違いを入れながら、これらの基本項目を骨組みに
肉付けをしていくような形にしたいと考えています。
なので、似た印象のテーマだったとしても得られるものはあるだろうと思います。
また、こうした項目を繋げながら、実際のコミュニケーションのような流れとして
トレーニングするために、別途、実践のための場も継続していきます。
こちらは、さらに基礎的なイメージがあるかもしれませんが、
コミュニケーション能力ということに関しては、
これらの地道なトレーニングが何よりも重要だと考えています。
何かの理論の効果的な質問法や、複雑な言語パターンを覚えるよりも、
実践の中から自分の言葉を生み出して蓄えていくほうが
はるかに身になるものじゃないでしょうか。
ということで、今後の勉強会では真新しさが減る場合もあるかもしれませんが、
それだけ中心部分なんだと捉えていただければと思います。
同時に、コミュニケーションの全体像を整理する目的も含めて
いくつかの基本項目を関連させたテーマも扱う予定です。
ご参加いただくうちに、
例えば、
「何を言っても『でも…』で返されてしまう人には、どうしたらいいですか?」
「いくら説明しても仕事を覚えてくれない人には、どう教えたらいいですか?」
「目標を聞いても『分からない』と答える人には、何を聞けばいいですか?」
といったような質問に対して
言葉で説明することはできなかったとしても
その状況に自然と対応できるようにはなっていくはずです。
上手くいかない状況を特別なこととして対処しようとするのは効果的です。
しかし、原則的な対処をすることで対応できる範囲を広げていくのは
もっと効果的だと思います。
基礎的な内容の技術が上がっていくと、
原則的な対応をしているだけでも、ほとんどの場面で困らなくなる。
そのあたりのことを踏まえて内容を考えていくつもりです。
なお、近いうちには、
・焦点化と気づきをもたらすアプローチ
・モチベーションを高める
・関係性を変える自分の振る舞い方
などを扱おうと考えています。
全体的な構造が見えてくるように工夫しますので、どうぞお楽しみに。
2月のテーマは「観察力」です。
近日中に申込みフォームを載せます。
11日(金・祝)開催です。
効果的な手法を数多く学び、実践を繰り返すうちに
共通する本質のようなものが感じられてきます。
すると多くのものを包括する基本的な概念のようなものが見えてきて
必要な技術も段々とシンプルになってきてしまう。
色々な手法を使ったとして、結局目指すべきポイントはココだ、と。
特に、手法やスキルと呼ばれるものは、「どれが有効か」という基準はなく、
「どれが目の前の人に向いているか」の基準で選ばれるだけです。
その意味で本当に重要なのは、沢山の技術を知っているかよりも
目の前のクライアントに合わせた対応ができるかどうかのはずです。
目の前のクライアントを理解する能力が重要だと考えます。
こうした発想は現実的に役立つ反面、
勉強会という形でテーマを設定するときに少し困るんです。
本当に役立つものを扱おうとするとテーマの種類が限定されてきてしまいます。
理想的には、同じカテゴリー、同じテーマで何度も勉強会をやって、
色々な視点を説明していくうちに関連する周辺の理論を取り入れてもらって
同時に多くのトレーニングを繰り返してもらう、というのができると良いんです。
一対一のコミュニケーションとして考えれば
「ペーシング」をしながら「情報収集」と「ねぎらい」をして
「リフレーミング」につなげる…
必要な場合には、「今後のことについて考える」ことをする
といった説明に大部分が集約されてしまいます。
聞き役中心に思えるかもしれませんが、話すときにも共通して役立ちます。
技術的にトレーニングをしていく分には、
これらを地道に取り組むのが大切で、かつ効果的だと思います。
ただ、だからといって「今月もペーシングです」「来月もペーシングです」では、
なかなか興味を引いてもらえないのではないかと気がかりな部分があるのも事実。
出来る限りテーマとして違いを入れながら、これらの基本項目を骨組みに
肉付けをしていくような形にしたいと考えています。
なので、似た印象のテーマだったとしても得られるものはあるだろうと思います。
また、こうした項目を繋げながら、実際のコミュニケーションのような流れとして
トレーニングするために、別途、実践のための場も継続していきます。
こちらは、さらに基礎的なイメージがあるかもしれませんが、
コミュニケーション能力ということに関しては、
これらの地道なトレーニングが何よりも重要だと考えています。
何かの理論の効果的な質問法や、複雑な言語パターンを覚えるよりも、
実践の中から自分の言葉を生み出して蓄えていくほうが
はるかに身になるものじゃないでしょうか。
ということで、今後の勉強会では真新しさが減る場合もあるかもしれませんが、
それだけ中心部分なんだと捉えていただければと思います。
同時に、コミュニケーションの全体像を整理する目的も含めて
いくつかの基本項目を関連させたテーマも扱う予定です。
ご参加いただくうちに、
例えば、
「何を言っても『でも…』で返されてしまう人には、どうしたらいいですか?」
「いくら説明しても仕事を覚えてくれない人には、どう教えたらいいですか?」
「目標を聞いても『分からない』と答える人には、何を聞けばいいですか?」
といったような質問に対して
言葉で説明することはできなかったとしても
その状況に自然と対応できるようにはなっていくはずです。
上手くいかない状況を特別なこととして対処しようとするのは効果的です。
しかし、原則的な対処をすることで対応できる範囲を広げていくのは
もっと効果的だと思います。
基礎的な内容の技術が上がっていくと、
原則的な対応をしているだけでも、ほとんどの場面で困らなくなる。
そのあたりのことを踏まえて内容を考えていくつもりです。
なお、近いうちには、
・焦点化と気づきをもたらすアプローチ
・モチベーションを高める
・関係性を変える自分の振る舞い方
などを扱おうと考えています。
全体的な構造が見えてくるように工夫しますので、どうぞお楽しみに。
2月のテーマは「観察力」です。
近日中に申込みフォームを載せます。
11日(金・祝)開催です。
2011年01月18日
見る目を養う
六本木で開催されていた独立書展に行ってきました。
僕も出展したヤツです。
新国立美術館の1階から3階までに渡って
全部で2000点を超える作品が並びます。
「大字」と呼ばれる作品などは、小学校の教室の広さぐらい(?)あって
まぁ、スゴイ迫力でした。
書道の団体というのは色々な流派があるんですが、
「独立」という団体は自由な気風で、どんな方の出展も受け付けるそうです。
そして作風にも制限がない。
なので独創的な作品が多く、単純に「お習字」として綺麗なわけではありません。
一般人には文字として識別できないようなものも沢山あります。
モノトーンで描かれる抽象画のようなイメージでしょうか。
絵画には写実的な風景画や人物画の名作もありますが、
一方で、何を書いているんだか分からないような抽象画もあります。
それでも何かを作者が訴えている。
表現しているんです。
文字を使っていますが、一般的な文字の持つ機能は大きく減ります。
文字の組み合わせによって作られる単語が持つ意味。
日常的には、その意味でコミュニケーションがなされます。
パソコンのフォントにあるような読みやすい文字もあれば、
ラーメン屋や居酒屋で見かけるような「筆文字デザイン」もあります。
書道の作品には読めないものもありますから、
その意味では文字としての機能が果たされていないようにも思えます。
書道の団体の中には非常に綺麗な文字を追求する団体もあるそうです。
しかし、僕が見たのは書道という媒体を使って表現された何かです。
白と黒、「かすれ」や「にじみ」の薄い色、
それらのモノトーンのバランスの美しさを感じました。
しかも、単純にバランスが「美しい」わけではないんです。
そこに色々な表情があります。
文字の意味に加えた表現が、モノトーンの配置によって生み出されるようです。
最初は何のことか分からない感じでしたが、
なんとなく面白さが感じられてきたみたいです。
ちなみに、書道の団体では「会員」になるだけでも大変だそうです。
一般や最初の入会の段階で展覧会に出展を重ね、
一定の基準に満たされるような評価を得ると準会員に推薦される。
準会員になってから、さらに基準を満たすと会員になれる。
なので、長く続けるだけで会員になれるわけじゃないんです。
書道団体の会員というのは、狭き門をくぐりぬけた人たちということです。
学会なんて、ほとんど申し込めば会員になれるようなものですから
随分意味合いが違う感じがします。
で、展覧会では、そのクラスごとに配置が決まっていました。
1階の入り口付近から会員の作品。
1階の奥のほうに「会員に推薦された準会員」の作品が並び始め
そこから2階まで準会員の作品が連なります。
2階の中ほどから一般の作品が並び、3階までギッシリ、と。
つまり、評価の高い作品ほど入口に近いところにあると言えます。
で、僕は順当に入口に近いほうから見て行きました。
独創的な作品が並びますから、良し悪しが分からないような気持ちで見ていたんです。
なんとなく「カッコイイなぁ」とか、「綺麗だなぁ」とか、そんなもんです。
ところが2階に上がって愕然としました。
失礼を承知で言いますが、レベルが違うんです。
パッと見た印象は似たような形式です。
しかし、美しさが違う。
いかに会員の人たちの作品が絶妙なバランスと線の美しさで書かれているか。
2階に上がって、それを実感しました。
そして2階の後半にあった自分の作品を見た時もビックリしました。
2000点もあれば、1つ1つをジックリと見ることは少なくなります。
目にとまったものに時間をかける感じ。
その意味では、自分の作品に目が止まらなかった。
何度も書きましたから文字の羅列はハッキリと印象に残っているはずです。
心のどこかで自分の作品を探している部分もありました。
それでも見逃したんです。
まぁ、流石に覚えている形ですから、見逃して通り過ぎようとしたあたりで
「あれ?」ということになって足を止めましたが。
そして、改めて見たときの感想は「下手くそだなぁ…」でした。
感情的なガッカリ感はありません。
自分のを見る恥ずかしさからでもありません。
まして謙遜でもありません。
非常に客観的に、「下手」だと感じたんです。
何度も書いた候補の中から選んだ作品です。
確かに同じものを何度も書いていると、何が良いんだか分からない感じもしてきます。
それでも、マシに書けるようになってきて、
「まぁまぁの出来」と思えるヤツを出品したんです。
それが飾られているのを見たら…。
広い場所で見るとか、隣の作品の印象との比較とか、
そうした環境要因では説明のつかない印象の悪さでした。
最も説得力のある説明は、たぶん、
1階の素晴らしい作品を見てきたことで、自分の中に
「書を見るときの基準」が生まれたから、ということじゃないでしょうか。
1階と2階の差が感じられるようになっていた。
ということは、自分のに対しても以前とは違う見方ができたんだろう、と。
「何だかよく分からない」なんて思いながら眺めていた1階の作品でしたが
やっぱり高く評価されるだけのものだった、というのが分かった気がします。
書いていた当時には分からなかった改善点が沢山見えました。
こうした「美しい書の基準」を自分の中に作れたのは
大きな収穫だったと思います。
最後にもう一度、1階の素晴らしい作品を見ましたが、
審査員が見ているであろうポイントのようなものを
少し掴めたんじゃないかと感じています。
良いものを数多く体験して、自分の中に基準を作る作業は
どんな分野においても重要なことだと改めて実感しました。
貴重な体験でした。
おまけになりますが、これが今回、僕が出した作品です。
僕も出展したヤツです。
新国立美術館の1階から3階までに渡って
全部で2000点を超える作品が並びます。
「大字」と呼ばれる作品などは、小学校の教室の広さぐらい(?)あって
まぁ、スゴイ迫力でした。
書道の団体というのは色々な流派があるんですが、
「独立」という団体は自由な気風で、どんな方の出展も受け付けるそうです。
そして作風にも制限がない。
なので独創的な作品が多く、単純に「お習字」として綺麗なわけではありません。
一般人には文字として識別できないようなものも沢山あります。
モノトーンで描かれる抽象画のようなイメージでしょうか。
絵画には写実的な風景画や人物画の名作もありますが、
一方で、何を書いているんだか分からないような抽象画もあります。
それでも何かを作者が訴えている。
表現しているんです。
文字を使っていますが、一般的な文字の持つ機能は大きく減ります。
文字の組み合わせによって作られる単語が持つ意味。
日常的には、その意味でコミュニケーションがなされます。
パソコンのフォントにあるような読みやすい文字もあれば、
ラーメン屋や居酒屋で見かけるような「筆文字デザイン」もあります。
書道の作品には読めないものもありますから、
その意味では文字としての機能が果たされていないようにも思えます。
書道の団体の中には非常に綺麗な文字を追求する団体もあるそうです。
しかし、僕が見たのは書道という媒体を使って表現された何かです。
白と黒、「かすれ」や「にじみ」の薄い色、
それらのモノトーンのバランスの美しさを感じました。
しかも、単純にバランスが「美しい」わけではないんです。
そこに色々な表情があります。
文字の意味に加えた表現が、モノトーンの配置によって生み出されるようです。
最初は何のことか分からない感じでしたが、
なんとなく面白さが感じられてきたみたいです。
ちなみに、書道の団体では「会員」になるだけでも大変だそうです。
一般や最初の入会の段階で展覧会に出展を重ね、
一定の基準に満たされるような評価を得ると準会員に推薦される。
準会員になってから、さらに基準を満たすと会員になれる。
なので、長く続けるだけで会員になれるわけじゃないんです。
書道団体の会員というのは、狭き門をくぐりぬけた人たちということです。
学会なんて、ほとんど申し込めば会員になれるようなものですから
随分意味合いが違う感じがします。
で、展覧会では、そのクラスごとに配置が決まっていました。
1階の入り口付近から会員の作品。
1階の奥のほうに「会員に推薦された準会員」の作品が並び始め
そこから2階まで準会員の作品が連なります。
2階の中ほどから一般の作品が並び、3階までギッシリ、と。
つまり、評価の高い作品ほど入口に近いところにあると言えます。
で、僕は順当に入口に近いほうから見て行きました。
独創的な作品が並びますから、良し悪しが分からないような気持ちで見ていたんです。
なんとなく「カッコイイなぁ」とか、「綺麗だなぁ」とか、そんなもんです。
ところが2階に上がって愕然としました。
失礼を承知で言いますが、レベルが違うんです。
パッと見た印象は似たような形式です。
しかし、美しさが違う。
いかに会員の人たちの作品が絶妙なバランスと線の美しさで書かれているか。
2階に上がって、それを実感しました。
そして2階の後半にあった自分の作品を見た時もビックリしました。
2000点もあれば、1つ1つをジックリと見ることは少なくなります。
目にとまったものに時間をかける感じ。
その意味では、自分の作品に目が止まらなかった。
何度も書きましたから文字の羅列はハッキリと印象に残っているはずです。
心のどこかで自分の作品を探している部分もありました。
それでも見逃したんです。
まぁ、流石に覚えている形ですから、見逃して通り過ぎようとしたあたりで
「あれ?」ということになって足を止めましたが。
そして、改めて見たときの感想は「下手くそだなぁ…」でした。
感情的なガッカリ感はありません。
自分のを見る恥ずかしさからでもありません。
まして謙遜でもありません。
非常に客観的に、「下手」だと感じたんです。
何度も書いた候補の中から選んだ作品です。
確かに同じものを何度も書いていると、何が良いんだか分からない感じもしてきます。
それでも、マシに書けるようになってきて、
「まぁまぁの出来」と思えるヤツを出品したんです。
それが飾られているのを見たら…。
広い場所で見るとか、隣の作品の印象との比較とか、
そうした環境要因では説明のつかない印象の悪さでした。
最も説得力のある説明は、たぶん、
1階の素晴らしい作品を見てきたことで、自分の中に
「書を見るときの基準」が生まれたから、ということじゃないでしょうか。
1階と2階の差が感じられるようになっていた。
ということは、自分のに対しても以前とは違う見方ができたんだろう、と。
「何だかよく分からない」なんて思いながら眺めていた1階の作品でしたが
やっぱり高く評価されるだけのものだった、というのが分かった気がします。
書いていた当時には分からなかった改善点が沢山見えました。
こうした「美しい書の基準」を自分の中に作れたのは
大きな収穫だったと思います。
最後にもう一度、1階の素晴らしい作品を見ましたが、
審査員が見ているであろうポイントのようなものを
少し掴めたんじゃないかと感じています。
良いものを数多く体験して、自分の中に基準を作る作業は
どんな分野においても重要なことだと改めて実感しました。
貴重な体験でした。
おまけになりますが、これが今回、僕が出した作品です。
2011年01月16日
人は「変われるか」という話
世の中には、「人は変われる」ということを信じられる人がいます。
それを強調することで、人の変化をサポートする人たちもいます。
僕の仕事の一部は、まさにその「変化のサポート」でしょう。
また、「自分は変われるんだろうか…」といった気持ちになる人もいるようです。
「今年、私は絶対に変わるんだ!」という決意を持った人もいるかもしれません。
セミナーでもカウンセリングでも、
「私は変われるでしょうか…?」と質問されることがあります。
同じ言葉でされた質問だとしても、言い方や本人の個性によって意味が違いますから、
この質問に対してハッキリと「変われますよ」と答えることは少ない気がします。
返答は、相手の中に、どのくらいの意志があるかということによります。
強い意欲があれば「変われます」と答えることもあったと思います。
「変わりたければ変われます」という答えもあるかもしません。
変わるのは自分自身、こちらの役割はサポートに過ぎない、
というニュアンスも含まれるのでしょう。
ただ、本当のことを言うと、僕の中では
「変わりますよ」
という答えが一番スムーズなんです。
「変われます」じゃありません。
「変わります」です。
人は常に変化をしているんです。
それが本人にとって望ましいかどうかの問題です。
努力するほどに望む方向と逆に進んでいる状態は苦しいでしょう。
全く変わらないことはないんです。
変わらないように見えたとしたら、
それは少し望ましい方向に変わったときと
少し望ましくない方向に変わったときとが両方あって
行ったり来たりして同じようなレベルを維持していると考えられます。
長期的にみると一定に見えても、短期的には変わっているんです。
逆にいうと、僕の中には
「人は一定ではいられない」
という考えが根付いているみたいなんです。
人には変わることしかできないんです。
だったら、その方向づけをどうしていくか。
セミナーでもセラピーでも、作業はそこに集中します。
「人は変われる!」でも
「私は変われるんでしょうか…?」でも
「私は絶対に変わりたいんです!」でも、
どの言い回しにも「変わる」ことへのハードルが前提にあるように思えます。
「変わる」ことは大変だ。
…「でも、変われる!」なのか
「それなのに、私は変われるんでしょうか?」なのか
「それでも、私は変わりたいんです!」なのか。
僕はそのようには考えていません。
「変わる」のが普通なんです。
むしろ「変わる」ことしかできないんです。
命ある限り、人は変わり続けているんです。
多くの場合、なぜか変化に対してハードルを高めている見方がある気がします。
止まっているものを動かすのが一番大変なんです。
動き始めてしまえば、そのあとは意外と力はいらないものです。
重い荷物の載った台車を動かすときも、動き始めてしまえば勢いがついて楽になります。
動いているものの方向を変えるのにも力は必要ですが、それはコツをつかむと
止まっているものを動かし始めるのよりも遥かに楽なものです。
合気道みたいなイメージでしょうか。
催眠療法家のミルトン・エリクソンは、その作業が非常に上手かったんだと思います。
エリクソンのしていたことを、
『クライアントが変化し続けている方向性を調節すること』
という見方で説明をしていっても、まとまりが見えるんじゃないでしょうか。
実際、エリクソンの催眠は重要な1つの前提の上に成り立っています。
「放っておけば、人はトランスに入るものだ」
催眠に誘導するとか、トランスに入れる、といった発想じゃないだろう、と。
普通にしていればトランスに入ってしまうものだ。
それが起こらないのは、何かが止めているからだ。
それを外してやるだけ。
そのアプローチがまさに、クライアントを安心させるプロセスにあると考えられます。
人の自然な進み方というのがあって、
それは大部分、健康的で、素晴らしいものじゃないか。
トランスという状態は、その1つの例なんだと思います。
普通にしていれば人が進んでいく快適な方向性の1つ。
問題があったり、上手くいかなかったりする時は、
その進み方が少しバランスを崩していて
あまり快適なほうに進めていないのかもしれません。
セラピーでは、そのバランス調整をすると考えることもできそうです。
そうしたバランスの崩れや、止めていることは
その人の意識的な『我慢』として表れることが良くあります。
セラピー的な技術を使うまでいかないような日常的なコミュニケーションであっても
その我慢をゆるめられるような「ねぎらい」ができるだけで
なんとなく楽になるということはあるものです。
「変わる」のは大変なことだと思っていないほうが
スムーズにできることが多いんじゃないかという話です。
それを強調することで、人の変化をサポートする人たちもいます。
僕の仕事の一部は、まさにその「変化のサポート」でしょう。
また、「自分は変われるんだろうか…」といった気持ちになる人もいるようです。
「今年、私は絶対に変わるんだ!」という決意を持った人もいるかもしれません。
セミナーでもカウンセリングでも、
「私は変われるでしょうか…?」と質問されることがあります。
同じ言葉でされた質問だとしても、言い方や本人の個性によって意味が違いますから、
この質問に対してハッキリと「変われますよ」と答えることは少ない気がします。
返答は、相手の中に、どのくらいの意志があるかということによります。
強い意欲があれば「変われます」と答えることもあったと思います。
「変わりたければ変われます」という答えもあるかもしません。
変わるのは自分自身、こちらの役割はサポートに過ぎない、
というニュアンスも含まれるのでしょう。
ただ、本当のことを言うと、僕の中では
「変わりますよ」
という答えが一番スムーズなんです。
「変われます」じゃありません。
「変わります」です。
人は常に変化をしているんです。
それが本人にとって望ましいかどうかの問題です。
努力するほどに望む方向と逆に進んでいる状態は苦しいでしょう。
全く変わらないことはないんです。
変わらないように見えたとしたら、
それは少し望ましい方向に変わったときと
少し望ましくない方向に変わったときとが両方あって
行ったり来たりして同じようなレベルを維持していると考えられます。
長期的にみると一定に見えても、短期的には変わっているんです。
逆にいうと、僕の中には
「人は一定ではいられない」
という考えが根付いているみたいなんです。
人には変わることしかできないんです。
だったら、その方向づけをどうしていくか。
セミナーでもセラピーでも、作業はそこに集中します。
「人は変われる!」でも
「私は変われるんでしょうか…?」でも
「私は絶対に変わりたいんです!」でも、
どの言い回しにも「変わる」ことへのハードルが前提にあるように思えます。
「変わる」ことは大変だ。
…「でも、変われる!」なのか
「それなのに、私は変われるんでしょうか?」なのか
「それでも、私は変わりたいんです!」なのか。
僕はそのようには考えていません。
「変わる」のが普通なんです。
むしろ「変わる」ことしかできないんです。
命ある限り、人は変わり続けているんです。
多くの場合、なぜか変化に対してハードルを高めている見方がある気がします。
止まっているものを動かすのが一番大変なんです。
動き始めてしまえば、そのあとは意外と力はいらないものです。
重い荷物の載った台車を動かすときも、動き始めてしまえば勢いがついて楽になります。
動いているものの方向を変えるのにも力は必要ですが、それはコツをつかむと
止まっているものを動かし始めるのよりも遥かに楽なものです。
合気道みたいなイメージでしょうか。
催眠療法家のミルトン・エリクソンは、その作業が非常に上手かったんだと思います。
エリクソンのしていたことを、
『クライアントが変化し続けている方向性を調節すること』
という見方で説明をしていっても、まとまりが見えるんじゃないでしょうか。
実際、エリクソンの催眠は重要な1つの前提の上に成り立っています。
「放っておけば、人はトランスに入るものだ」
催眠に誘導するとか、トランスに入れる、といった発想じゃないだろう、と。
普通にしていればトランスに入ってしまうものだ。
それが起こらないのは、何かが止めているからだ。
それを外してやるだけ。
そのアプローチがまさに、クライアントを安心させるプロセスにあると考えられます。
人の自然な進み方というのがあって、
それは大部分、健康的で、素晴らしいものじゃないか。
トランスという状態は、その1つの例なんだと思います。
普通にしていれば人が進んでいく快適な方向性の1つ。
問題があったり、上手くいかなかったりする時は、
その進み方が少しバランスを崩していて
あまり快適なほうに進めていないのかもしれません。
セラピーでは、そのバランス調整をすると考えることもできそうです。
そうしたバランスの崩れや、止めていることは
その人の意識的な『我慢』として表れることが良くあります。
セラピー的な技術を使うまでいかないような日常的なコミュニケーションであっても
その我慢をゆるめられるような「ねぎらい」ができるだけで
なんとなく楽になるということはあるものです。
「変わる」のは大変なことだと思っていないほうが
スムーズにできることが多いんじゃないかという話です。