2011年02月
2011年02月28日
価値の順列
先日、価値観について話を進めましたが、
それを感じたキッカケは「自分の中の価値観の順位を探る」という体験にありました。
ただ、僕としては違和感がありました。
順番を比べるということに不自然さを感じるときもあるんです。
もちろん、違和感なく比べられる価値観の組み合わせもありますが、
大事なことを言葉にして並べていくと、似たようなものが出てくるんです。
それは、ある意味で1つのカテゴリーに入っているようで、
そのカテゴリーの名前に当たるような価値観も同じ土俵で考えてしまう。
喩えていうと、
「好きな食べ物は何ですか?」
という質問に対して
「ラーメン、坦々麺、蕎麦、スパゲティ、うどん、麺類」
と答えるような感じ。
一言でいえば、「麺類」が好きなんだけど
詳しく言えば、ラーメンとか蕎麦とかが出てくる。
人によっては坦々麺をラーメンのカテゴリーに入れる人もいるでしょう。
抽象度が揃っていないんです。
価値観の抽象度を見出すのは大変です。
大変ですが、全て同じレベルとは言えないと思います。
例えば、「裕福さ」と」と「豊かさ」では、
僕の中では「豊かさ」のほうが抽象的な印象があります。
色々な「豊かさ」のうち、金銭的なものを「裕福さ」と呼ぶ。
「裕福」は「豊かさ」の中に包含されるわけです。
この2種類を、どっちが大事かと比較するのは難しい。
というよりも違和感があります。
比べるものじゃない気がするんです。
「ラーメンと麺類では、どっちが好きですか?」と聞かれる感じ。
それぐらい近いカテゴリーにあるのが実感できれば、僕の場合、
順位をつけるフリをしながら、自分の中ではカテゴリーの階層構造を描きます。
重要なカテゴリーを見つけて、それを構成する要素を意識する。
そして、様々な構成要素を思い浮かべながら、それぞれに重みづけをする。
僕が大切にしている「好きにしたら」という感じは、多くのものを一言でまとめた
大きなカテゴリーの頂点の部分のような気がします。
その下に、色々な条件が繋がっている。
僕個人の価値観は、「好きにしたら」の下位にあるものの気がします。
ちなみに、『下位』という言い方は順列の問題や、優劣とは関係なく、
上位のものは、その下位にあるものによって意味が決められますから
重要度に差はありません。
そうやって考えていくと、単純に価値観の順列を比較しようとすると、たとえるなら
「『ロングヘアー・ダックスフント』と『六本木』のどちらが好きですか?」
というような比べようのない2つが視野に入ってしまうときがある気がするんです。
「ペットと過ごす時間」と「街で買い物をする時間」なら同じ土俵でしょうが、
違う土俵で、しかも抽象度にまで差があると比較しようがないと思うんです。
そんなことはお構いなしに、自分と向き合う作業の1つとしては
価値観を探る作業に意味があるとは思います。
ただ、僕には、もっと上手い方法があるんじゃないかと思えてきます。
もっと個人の内面を正確に反映し、その人のことを深く理解できるような方法が。
そういうのを「追求」したくなるのも、また僕の大切にしている部分なんでしょうが。
それを感じたキッカケは「自分の中の価値観の順位を探る」という体験にありました。
ただ、僕としては違和感がありました。
順番を比べるということに不自然さを感じるときもあるんです。
もちろん、違和感なく比べられる価値観の組み合わせもありますが、
大事なことを言葉にして並べていくと、似たようなものが出てくるんです。
それは、ある意味で1つのカテゴリーに入っているようで、
そのカテゴリーの名前に当たるような価値観も同じ土俵で考えてしまう。
喩えていうと、
「好きな食べ物は何ですか?」
という質問に対して
「ラーメン、坦々麺、蕎麦、スパゲティ、うどん、麺類」
と答えるような感じ。
一言でいえば、「麺類」が好きなんだけど
詳しく言えば、ラーメンとか蕎麦とかが出てくる。
人によっては坦々麺をラーメンのカテゴリーに入れる人もいるでしょう。
抽象度が揃っていないんです。
価値観の抽象度を見出すのは大変です。
大変ですが、全て同じレベルとは言えないと思います。
例えば、「裕福さ」と」と「豊かさ」では、
僕の中では「豊かさ」のほうが抽象的な印象があります。
色々な「豊かさ」のうち、金銭的なものを「裕福さ」と呼ぶ。
「裕福」は「豊かさ」の中に包含されるわけです。
この2種類を、どっちが大事かと比較するのは難しい。
というよりも違和感があります。
比べるものじゃない気がするんです。
「ラーメンと麺類では、どっちが好きですか?」と聞かれる感じ。
それぐらい近いカテゴリーにあるのが実感できれば、僕の場合、
順位をつけるフリをしながら、自分の中ではカテゴリーの階層構造を描きます。
重要なカテゴリーを見つけて、それを構成する要素を意識する。
そして、様々な構成要素を思い浮かべながら、それぞれに重みづけをする。
僕が大切にしている「好きにしたら」という感じは、多くのものを一言でまとめた
大きなカテゴリーの頂点の部分のような気がします。
その下に、色々な条件が繋がっている。
僕個人の価値観は、「好きにしたら」の下位にあるものの気がします。
ちなみに、『下位』という言い方は順列の問題や、優劣とは関係なく、
上位のものは、その下位にあるものによって意味が決められますから
重要度に差はありません。
そうやって考えていくと、単純に価値観の順列を比較しようとすると、たとえるなら
「『ロングヘアー・ダックスフント』と『六本木』のどちらが好きですか?」
というような比べようのない2つが視野に入ってしまうときがある気がするんです。
「ペットと過ごす時間」と「街で買い物をする時間」なら同じ土俵でしょうが、
違う土俵で、しかも抽象度にまで差があると比較しようがないと思うんです。
そんなことはお構いなしに、自分と向き合う作業の1つとしては
価値観を探る作業に意味があるとは思います。
ただ、僕には、もっと上手い方法があるんじゃないかと思えてきます。
もっと個人の内面を正確に反映し、その人のことを深く理解できるような方法が。
そういうのを「追求」したくなるのも、また僕の大切にしている部分なんでしょうが。
2011年02月26日
やはり自然と価値観は変わるものですね
しばらくぶりに、自分の価値観を言語化してみました。
何を大切にしているかに順番をつけるような作業。
状況が変われば大切にするものも違ってくるので
そのときの設定は「人生で大切にしている価値観」として考えました。
ただ僕の場合、「人生」という言葉自体の意味の広さに対して
さらに分割して状況設定をする必要がありそうです。
「人生で大切」という言葉を聞くと、「自分の人生」に限定せず
「人の一生」というようなニュアンスに捉えてしまうようで、
結果として「人が生きるとは、こういうことじゃないだろうか」といった
全体的な視点が出てきます。
自分の好みや趣向から少し外れてくる感じがあります。
以前は、同じ質問について考えたときに、そんな違いを意識しませんでしたから
自分の中で自然と変化が起こっていたことに気づきます。
しばらく前は、「愛」とか「自由」とか「ゆるし」とか
そんな言葉が大切な価値観として出てきていました。
同時に、物事を「追求」することも大切なこととして意識していた気がします。
ちなみに「成長」などは、自分にとって自然なこととして捉えているせいか
わざわざ「大切」なこととしては意識されないようです。
それが先日、自分の内面を言葉にして整理してみたとき
今の自分が「人生」(=人の一生というもの)に対して大切だと感じているのは
以前の自分が言葉にしていたものとは違うものでした。
しかも、適切な単語が見つからないんです。
なんとなくの感じで言うと、
皆、せっかく生まれてきたんだから、
自分の好きなようにしたら良いんじゃない?
といったところです。
もちろん、何が本当に好きなことかを見つけるのは簡単ではないかもしれませんし、
好きなことだけやっていられるほど甘くないという考えもあるかもしれません。
それも含めて、「好きにしたら」と思う感じです。
好きなことを見つけようとするか、しないか。
したいことをするか、しないか。
悩むか、悩まないか。
目標を目指すか、目標さえ設定しないか。
誰かのために何かをしようとするか、しないか。
あらゆる瞬間の積み重ねとして出来上がる人生全体の中では
無数の選択肢と遭遇します。
全ての選択を「好きにすれば」良いと思っているようです。
怒りや悲しみが万人に共通する感情として説明されることがあるのを考慮すれば
全ての人が「100%思い通りに物事が進むわけではない」ことを意識するでしょう。
上手くいかないことは誰にでも起きるものだ、と僕は考えています。
90%ぐらいの確信度で。
それを問題と捉えるか、悩みにするか、課題と捉えるか、目標へのハードルとするか、
それとも一時的なものとして忘れ、気にしなくするか…。
その選び方も、人それぞれ「好きにしたら」良いと感じるみたいです。
同じ不満を繰り返していたとしても、それを変える必要は必ずしもない。
同じ問題を続け、いつか解決したいときが来るかもしれないし、
何もしないままで終わるかもしれません。
それも「好きにしたら」と。
なんでも「好きにしたら」と思えるようになったのは
『後悔』が必ずしも悪いものではないと思うようになったからでしょうか。
「好きにしたら」の先には、
「…後で後悔するかもしれないけど、それも良い人生でしょう」
というような見通しがあるように感じます。
最終的に、人は大丈夫。
そんな実感が、考えを変えてきたようです。
この感じ方を言い表わす言葉でシックリくるものが見つからないので
残念ながら、僕の「人生で一番大切な価値観」は言語化できません。
で、これが僕自身の個人的な人生になると、この考えが明確な方向付けをします。
『後悔』は悪くないと思う一方で、後悔はしたくない。
「したくない」というよりも「最小限にしたい」感じでしょうか。
なので、僕はかなりの場合、
結果を予測して、後悔が最小限になるように選択します。
僕が「好きなようにする」と、その結果として起きることは全て
好きなようにした結果なので後悔が少なくなる気がします。
「後悔したくない」と考えて、最善の選択肢を考えてから行動に移す。
ただ、結果として、あまり過去を引きずらないせいか
最近は、ほとんど後悔をしていないというのが実態ですが。
特に、カウンセリングの場合には、選択を繰り返す気持ちが強くなります。
一瞬一瞬の選択肢の積み重ねで、結果を推測して迷います。
どこまで言うか、何を言うか、どのような表現で言うか。
言って後悔することもあるし、言い方を間違えて後悔することもあるし、
言うのをやめて後悔することもあります。
そして少し反省をして、しばらくすると後悔の気持ちは消えていきます。
それでも、後悔を最小限にするように意識はし続けているつもりです。
多分、それが僕にって、最善を尽くすための方法なんだと思います。
そして、後悔が残らないことが、「好きにした」かどうかの指標のようです。
このように、僕の中では「好きになようにする」ことが大事になってきていて、
僕自身が「好きなように」やろうとすると、そこで次の価値観が出てくるんです。
なので、この価値観は「人生で大切なこと」というよりも
「好きなようにするとしたときに、好きなこと」という方向での価値観なのでしょう。
そこには、
整合性、関連、追及、仕組み、人間、プロセス、考察、観察、疑念、
などが出てきます。
1つの特徴は、細かくプロセスを見ていく、ということだと分析します。
全てに共通する法則には興味が無いんです。
目の前に1つのことのプロセスを、中身として詳しく説明できることが重要なんです。
この抽象度の低さは僕の特徴の1つだと思います。
発想や意識の向け方の癖でもあると同時に、価値観とも関係します。
なので、僕の関心は抽象度の低いところで広がる方向に行くようです。
勉強や研究が好きで、色々とインプットしたい、沢山のことを分かりたいと思うのは、
「向上心」という言葉ではシックリこないんです。
「上」を「向いている」気がしないからです。
どちらかというと「広げる」感じ。
山が高くなるイメージが向上心だとしたら、
インプットを増やしたい気持ちは、山の裾野を広げる感じなんです。
せっかく生まれてきたんだから、好きなようにしたら。
僕個人としては、好きなだけ、広くて大きな山を作っていきますから。
そんな趣向になってきていることに気づきました。
何を大切にしているかに順番をつけるような作業。
状況が変われば大切にするものも違ってくるので
そのときの設定は「人生で大切にしている価値観」として考えました。
ただ僕の場合、「人生」という言葉自体の意味の広さに対して
さらに分割して状況設定をする必要がありそうです。
「人生で大切」という言葉を聞くと、「自分の人生」に限定せず
「人の一生」というようなニュアンスに捉えてしまうようで、
結果として「人が生きるとは、こういうことじゃないだろうか」といった
全体的な視点が出てきます。
自分の好みや趣向から少し外れてくる感じがあります。
以前は、同じ質問について考えたときに、そんな違いを意識しませんでしたから
自分の中で自然と変化が起こっていたことに気づきます。
しばらく前は、「愛」とか「自由」とか「ゆるし」とか
そんな言葉が大切な価値観として出てきていました。
同時に、物事を「追求」することも大切なこととして意識していた気がします。
ちなみに「成長」などは、自分にとって自然なこととして捉えているせいか
わざわざ「大切」なこととしては意識されないようです。
それが先日、自分の内面を言葉にして整理してみたとき
今の自分が「人生」(=人の一生というもの)に対して大切だと感じているのは
以前の自分が言葉にしていたものとは違うものでした。
しかも、適切な単語が見つからないんです。
なんとなくの感じで言うと、
皆、せっかく生まれてきたんだから、
自分の好きなようにしたら良いんじゃない?
といったところです。
もちろん、何が本当に好きなことかを見つけるのは簡単ではないかもしれませんし、
好きなことだけやっていられるほど甘くないという考えもあるかもしれません。
それも含めて、「好きにしたら」と思う感じです。
好きなことを見つけようとするか、しないか。
したいことをするか、しないか。
悩むか、悩まないか。
目標を目指すか、目標さえ設定しないか。
誰かのために何かをしようとするか、しないか。
あらゆる瞬間の積み重ねとして出来上がる人生全体の中では
無数の選択肢と遭遇します。
全ての選択を「好きにすれば」良いと思っているようです。
怒りや悲しみが万人に共通する感情として説明されることがあるのを考慮すれば
全ての人が「100%思い通りに物事が進むわけではない」ことを意識するでしょう。
上手くいかないことは誰にでも起きるものだ、と僕は考えています。
90%ぐらいの確信度で。
それを問題と捉えるか、悩みにするか、課題と捉えるか、目標へのハードルとするか、
それとも一時的なものとして忘れ、気にしなくするか…。
その選び方も、人それぞれ「好きにしたら」良いと感じるみたいです。
同じ不満を繰り返していたとしても、それを変える必要は必ずしもない。
同じ問題を続け、いつか解決したいときが来るかもしれないし、
何もしないままで終わるかもしれません。
それも「好きにしたら」と。
なんでも「好きにしたら」と思えるようになったのは
『後悔』が必ずしも悪いものではないと思うようになったからでしょうか。
「好きにしたら」の先には、
「…後で後悔するかもしれないけど、それも良い人生でしょう」
というような見通しがあるように感じます。
最終的に、人は大丈夫。
そんな実感が、考えを変えてきたようです。
この感じ方を言い表わす言葉でシックリくるものが見つからないので
残念ながら、僕の「人生で一番大切な価値観」は言語化できません。
で、これが僕自身の個人的な人生になると、この考えが明確な方向付けをします。
『後悔』は悪くないと思う一方で、後悔はしたくない。
「したくない」というよりも「最小限にしたい」感じでしょうか。
なので、僕はかなりの場合、
結果を予測して、後悔が最小限になるように選択します。
僕が「好きなようにする」と、その結果として起きることは全て
好きなようにした結果なので後悔が少なくなる気がします。
「後悔したくない」と考えて、最善の選択肢を考えてから行動に移す。
ただ、結果として、あまり過去を引きずらないせいか
最近は、ほとんど後悔をしていないというのが実態ですが。
特に、カウンセリングの場合には、選択を繰り返す気持ちが強くなります。
一瞬一瞬の選択肢の積み重ねで、結果を推測して迷います。
どこまで言うか、何を言うか、どのような表現で言うか。
言って後悔することもあるし、言い方を間違えて後悔することもあるし、
言うのをやめて後悔することもあります。
そして少し反省をして、しばらくすると後悔の気持ちは消えていきます。
それでも、後悔を最小限にするように意識はし続けているつもりです。
多分、それが僕にって、最善を尽くすための方法なんだと思います。
そして、後悔が残らないことが、「好きにした」かどうかの指標のようです。
このように、僕の中では「好きになようにする」ことが大事になってきていて、
僕自身が「好きなように」やろうとすると、そこで次の価値観が出てくるんです。
なので、この価値観は「人生で大切なこと」というよりも
「好きなようにするとしたときに、好きなこと」という方向での価値観なのでしょう。
そこには、
整合性、関連、追及、仕組み、人間、プロセス、考察、観察、疑念、
などが出てきます。
1つの特徴は、細かくプロセスを見ていく、ということだと分析します。
全てに共通する法則には興味が無いんです。
目の前に1つのことのプロセスを、中身として詳しく説明できることが重要なんです。
この抽象度の低さは僕の特徴の1つだと思います。
発想や意識の向け方の癖でもあると同時に、価値観とも関係します。
なので、僕の関心は抽象度の低いところで広がる方向に行くようです。
勉強や研究が好きで、色々とインプットしたい、沢山のことを分かりたいと思うのは、
「向上心」という言葉ではシックリこないんです。
「上」を「向いている」気がしないからです。
どちらかというと「広げる」感じ。
山が高くなるイメージが向上心だとしたら、
インプットを増やしたい気持ちは、山の裾野を広げる感じなんです。
せっかく生まれてきたんだから、好きなようにしたら。
僕個人としては、好きなだけ、広くて大きな山を作っていきますから。
そんな趣向になってきていることに気づきました。
2011年02月24日
3月の勉強会
3月の勉強会のお知らせ
今回のテーマは、知的好奇心としても、実生活への応用としても、
技術と理論の内容としても、意味のあるものじゃないかと考えています。
以前にも少し、こちらの記事で触れましたが、
本人のリソースを活用して変化をもたらすための効果的な方法になります。
理論的には、NLPの『サブモダリティ・チェンジ』を深めます。
NLPで『プログラム』と呼ばれる基本単位を整理して説明し、
そのプログラムを変えるための方法として効果を劇的に高める技術を扱います。
期待できる効果は、かなり「劇的」だと考えられます。
対象は、行動、習慣、考え方、感情反応など多岐にわたります。
そもそも、人の『プログラム』を変えるための手法は、
その適用範囲が広いものですが、効果の高低に差があることが多いようです。
同じことをやっても、効果の出る人と、そうでない人がいるわけです。
効果が出なかったら違う方法を使う…、
その発想でも最終的な効果は期待できるものの
個人に合わせた最適な方法とは言えないでしょう。
ここのカスタマイズが今回の1つのポイントになります。
このあたりの理論的説明は、多少、専門的な印象を受けるかもしれません。
用語はNLPのものを中心に使う予定ですが、
世間一般のNLPの説明とは違う発想から解説しますので
理論の理解にはNLPの前提知識が必要なわけではありません。
(あったほうが理解しやすいときもあるでしょうが)
むしろ、実習を通じて体験をして頂く際にイメージワークをする場面がありますので
イメージや身体反応に注意を向けることに慣れていると望ましいかと思います。
NLPへの関心が高い方は、この理論部分と、実習が役立つと思います。
既存の説明では抜け落ちていた部分のはずです。
また、ご自分の変化や成長、問題解決に関心のある方も
実習での体験を通じて、効果が期待できると考えています。
理論の本質的な部分は、NLPの『サブモダリティ』を使って説明しますが、
その後で、理論をより日常的・現実的なレベルでも説明していきます。
日々の生活における発想や、会話でのコミュニケーションにおける応用法を扱います。
自分の行動の癖や習慣、感情的な反応などを
日々の生活の中で、どうやって変えていくかという内容です。
会話を通じて相手から必要な情報を引き出せれば
それを利用して変化のためのサポートも可能になります。
ミルトン・エリクソンのしていた指示的介入のような発想にも役立つでしょうし、
心理療法で使われる儀式処方を考えるのにも有効でしょう。
催眠と組み合わせれば、ダイレクトに効果を高められると期待できます。
ですから、この発想と、必要な情報の引き出し方のコツを知っていれば、
教育や指導という目的にも使えますし、
カウンセリングやセラピーの目的にも使えるはずです。
発想自体は非常にシンプル。
今までに使ってきた変化のプロセスを利用して、
現時点で変えたい部分を変える。
それだけです。
例えば…
今までに禁煙をしたことがある、
今までに自然と合わなくなった友人がいる、
今までに大きく自分の考え方を変えた経験がある、
今までに自分の失敗を笑い飛ばしたことがある、
今までに何かにのめり込んだ時期がある、
今までに長期間、淡々と続けられたことがある、
今までに深い悲しみを乗り越えたことがある、
…などなど、どのような変化のプロセスも利用できるんです。
こうしたプロセスを別の状況、別の行動、別の習慣に対して応用する。
しかも効果を高めながら。
そのためのコツと技術を扱うのが今回のテーマです。
副産物的に、リフレーミングも上達するかもしれません。
かなり面白い内容じゃないかと予想しています。
ご都合が合いましたら、是非、お越しください。
お待ちしています。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
☆気がかりがありましたら、お問い合わせください。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 3月21日(月・祝)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
★午前のみのご参加も可能です。(理論の全体像は午前に扱います)
「午前」あるいは「両方」でお申し込み下さい。
【場所】 滝野川会館 303集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午前・午後の両方 ・・・7,000円
【テーマ】 『変化のプロセスを促進する方法』
〜プロセス志向のサブモダリティ・チェンジとリソースの活用法〜
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
「必要なリソースは全てその人の中にある」というような言葉が使われるとき
どことなくハートウォーミングで抽象的な、
心構えとしての印象を受けることが多い気がします。
「相手の可能性を信じましょう」とか
「全ての人に成長するための力がある」とか、
そういった考えを強調するニュアンスで語られる場合がある、と。
こういう心構えは大切なことですが、言葉で理解して心がけていくよりも、
実際に人と接し、人の変化を目の当たりにしていくうちに
実感レベルで納得できるようになっていくものだと考えます。
なんとなく経験的に「リソースが本人の中にある」ことが信じられてくる。
そのときに感じる印象は、言葉で教えてもらったときの印象とは
大きく違うものだというのにも気づきました。
実感できるようになったときに、しみじみと
「必要なリソースは全てその人の中にあるんだなぁ…」なんて感じたら、
それは心温まる大きな喜びとして意識できるでしょう。
この意味合いでの「必要なリソースは全て本人の中にある」という考えは
人と接する上での態度に大きな影響を与えます。
なんとなく安心して、自信を持って関わることが出来るようになる。
ただ、現実的に
どうすればリソースを見つけられるのか
どのようにリソースを活用するか
という方法までは教えてくれません。
人の何に注目をして、
どういう発想で質問をして情報を引き出し、
それを応用していくのか。
これは技術なんです。
この技術を持ったうえで「必要なリソースは全てその人の中にある」と意識すると
本人の中から解決策を探し出そうと考えることができるはずです。
どんなに「料理は愛情!」と心がけても、
愛情をこめて具体的に何をすれば美味しくなるのかが分からなければ
気持ちが空回りしてしまうこともあるかもしれません。
「失礼のないように」と心がけても、
何が失礼に当たるのかを知らなければ
相手を不愉快にさせてしまう場合もあるかもしれません。
「あの人を喜ばせたい」と思っても、
何がその人にとって喜ばしいのかを知らなければ
期待外れに終わってしまうこともあるかもしれません。
方法を知ることで、想いが結果に繋がりやすくなることがあります。
本人のリソースを活かす方法を知っていると役立つ場面は多いと思います。
愛情を込めた料理を喜んでもらったときに嬉しいのは
その先に自分の望んでいるものが感じられるからじゃないでしょうか。
人それぞれ、人間関係で望んでいるものがあるはずです。
そこに辿りつくための工夫は、それもまた喜びをもって取り組める気がします。
多くの方と楽しみながら取り組めることを望んでいます。
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
今回のテーマは、知的好奇心としても、実生活への応用としても、
技術と理論の内容としても、意味のあるものじゃないかと考えています。
以前にも少し、こちらの記事で触れましたが、
本人のリソースを活用して変化をもたらすための効果的な方法になります。
理論的には、NLPの『サブモダリティ・チェンジ』を深めます。
NLPで『プログラム』と呼ばれる基本単位を整理して説明し、
そのプログラムを変えるための方法として効果を劇的に高める技術を扱います。
期待できる効果は、かなり「劇的」だと考えられます。
対象は、行動、習慣、考え方、感情反応など多岐にわたります。
そもそも、人の『プログラム』を変えるための手法は、
その適用範囲が広いものですが、効果の高低に差があることが多いようです。
同じことをやっても、効果の出る人と、そうでない人がいるわけです。
効果が出なかったら違う方法を使う…、
その発想でも最終的な効果は期待できるものの
個人に合わせた最適な方法とは言えないでしょう。
ここのカスタマイズが今回の1つのポイントになります。
このあたりの理論的説明は、多少、専門的な印象を受けるかもしれません。
用語はNLPのものを中心に使う予定ですが、
世間一般のNLPの説明とは違う発想から解説しますので
理論の理解にはNLPの前提知識が必要なわけではありません。
(あったほうが理解しやすいときもあるでしょうが)
むしろ、実習を通じて体験をして頂く際にイメージワークをする場面がありますので
イメージや身体反応に注意を向けることに慣れていると望ましいかと思います。
NLPへの関心が高い方は、この理論部分と、実習が役立つと思います。
既存の説明では抜け落ちていた部分のはずです。
また、ご自分の変化や成長、問題解決に関心のある方も
実習での体験を通じて、効果が期待できると考えています。
理論の本質的な部分は、NLPの『サブモダリティ』を使って説明しますが、
その後で、理論をより日常的・現実的なレベルでも説明していきます。
日々の生活における発想や、会話でのコミュニケーションにおける応用法を扱います。
自分の行動の癖や習慣、感情的な反応などを
日々の生活の中で、どうやって変えていくかという内容です。
会話を通じて相手から必要な情報を引き出せれば
それを利用して変化のためのサポートも可能になります。
ミルトン・エリクソンのしていた指示的介入のような発想にも役立つでしょうし、
心理療法で使われる儀式処方を考えるのにも有効でしょう。
催眠と組み合わせれば、ダイレクトに効果を高められると期待できます。
ですから、この発想と、必要な情報の引き出し方のコツを知っていれば、
教育や指導という目的にも使えますし、
カウンセリングやセラピーの目的にも使えるはずです。
発想自体は非常にシンプル。
今までに使ってきた変化のプロセスを利用して、
現時点で変えたい部分を変える。
それだけです。
例えば…
今までに禁煙をしたことがある、
今までに自然と合わなくなった友人がいる、
今までに大きく自分の考え方を変えた経験がある、
今までに自分の失敗を笑い飛ばしたことがある、
今までに何かにのめり込んだ時期がある、
今までに長期間、淡々と続けられたことがある、
今までに深い悲しみを乗り越えたことがある、
…などなど、どのような変化のプロセスも利用できるんです。
こうしたプロセスを別の状況、別の行動、別の習慣に対して応用する。
しかも効果を高めながら。
そのためのコツと技術を扱うのが今回のテーマです。
副産物的に、リフレーミングも上達するかもしれません。
かなり面白い内容じゃないかと予想しています。
ご都合が合いましたら、是非、お越しください。
お待ちしています。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
☆気がかりがありましたら、お問い合わせください。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 3月21日(月・祝)
◆午前の部 10:00〜12:30
◆午後の部 13:30〜16:30
★午前のみのご参加も可能です。(理論の全体像は午前に扱います)
「午前」あるいは「両方」でお申し込み下さい。
【場所】 滝野川会館 303集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
【参加費】当日、会場にてお支払いください。
◆午前の部 ・・・4,000円
◆午前・午後の両方 ・・・7,000円
【テーマ】 『変化のプロセスを促進する方法』
〜プロセス志向のサブモダリティ・チェンジとリソースの活用法〜
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
「必要なリソースは全てその人の中にある」というような言葉が使われるとき
どことなくハートウォーミングで抽象的な、
心構えとしての印象を受けることが多い気がします。
「相手の可能性を信じましょう」とか
「全ての人に成長するための力がある」とか、
そういった考えを強調するニュアンスで語られる場合がある、と。
こういう心構えは大切なことですが、言葉で理解して心がけていくよりも、
実際に人と接し、人の変化を目の当たりにしていくうちに
実感レベルで納得できるようになっていくものだと考えます。
なんとなく経験的に「リソースが本人の中にある」ことが信じられてくる。
そのときに感じる印象は、言葉で教えてもらったときの印象とは
大きく違うものだというのにも気づきました。
実感できるようになったときに、しみじみと
「必要なリソースは全てその人の中にあるんだなぁ…」なんて感じたら、
それは心温まる大きな喜びとして意識できるでしょう。
この意味合いでの「必要なリソースは全て本人の中にある」という考えは
人と接する上での態度に大きな影響を与えます。
なんとなく安心して、自信を持って関わることが出来るようになる。
ただ、現実的に
どうすればリソースを見つけられるのか
どのようにリソースを活用するか
という方法までは教えてくれません。
人の何に注目をして、
どういう発想で質問をして情報を引き出し、
それを応用していくのか。
これは技術なんです。
この技術を持ったうえで「必要なリソースは全てその人の中にある」と意識すると
本人の中から解決策を探し出そうと考えることができるはずです。
どんなに「料理は愛情!」と心がけても、
愛情をこめて具体的に何をすれば美味しくなるのかが分からなければ
気持ちが空回りしてしまうこともあるかもしれません。
「失礼のないように」と心がけても、
何が失礼に当たるのかを知らなければ
相手を不愉快にさせてしまう場合もあるかもしれません。
「あの人を喜ばせたい」と思っても、
何がその人にとって喜ばしいのかを知らなければ
期待外れに終わってしまうこともあるかもしれません。
方法を知ることで、想いが結果に繋がりやすくなることがあります。
本人のリソースを活かす方法を知っていると役立つ場面は多いと思います。
愛情を込めた料理を喜んでもらったときに嬉しいのは
その先に自分の望んでいるものが感じられるからじゃないでしょうか。
人それぞれ、人間関係で望んでいるものがあるはずです。
そこに辿りつくための工夫は、それもまた喜びをもって取り組める気がします。
多くの方と楽しみながら取り組めることを望んでいます。
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています
2011年02月22日
人は理解できません
人を理解するためにできるのは、つまるところ『推測』ぐらいしかないような気がします。
自分自身を理解しようと思ったときだって、それを正確に理解することはできません。
自分の体の中に起きている生理的な反応は、感覚の違いとして感じられはしても
その中身として何が起きているかは分からないものでしょう。
イライラしているからといって、その理由が何なのかは
自分のことだって分からないことが普通です。
実験でも説明される話ですが、生理反応に影響する薬を投与して
被験者がイライラする状態を作り出す。
そこで、事前に予想される反応を伝えた被験者は
そのイライラを薬のせいだと判断します。
一方、薬の効果を違うものとして説明された被験者たちは
その後で接する人たちの振る舞いに対して
不満を強く意識しやすくなった、というような話があります。
(情報は、かなり割愛しています)
自分の体の中に生理反応としてイライラがあり、
その理由が投与された薬品にあると知らない場合には、
自分の体の外側で起きている出来事に対して理由を探してしまうわけです。
このような認知に関する実験は、最終的に被験者本人の自覚を
言語的に説明してもらう評価の段階を含みますが、
その体験に対する主観的な評価自体が、かなりいい加減だということです。
自分の気持ちとして主観的に意識しているものが
本当にその理由によるものかといえば、正しいとも間違っているとも言えないんです。
実験の例でいえば、客観的には薬の影響と説明するのが正しそうですが、
主観的には他人の対応が不愉快だったからイライラしたと解釈されたんです。
本人にとっては、その体験の内容が正しいものと判断されるでしょう。
ちなみに、セミナーやカウンセリングの場合においても
こうした主観的体験の評価の曖昧さは意識しておくのが大事だと考えられます。
例えば、クライアントや受講生が、
外の音が気になって集中できない状態が続いたとか
空調の調子が悪くて高温多湿の環境に座っているだけで疲れてしまったとか
環境の影響があったとします。
すると、その「集中できない」や「疲労感」の状態を
セミナーやカウンセリングの中身と関連付けて評価する可能性があります。
「集中できなかった」理由として外の音を自覚できれば
「内容がつまらないから気が散ってしまった」とは解釈されにくいでしょうが、
客観的な理由が自覚できない場合には、本人が自覚している範囲で
その「集中できない」理由を探すことになってしまいます。
他人から判断すれば、高温多湿の部屋のせいで疲れたと考えられても、
本人がその理由を自覚していなければ
「あのセミナーは無駄に疲れる」という不満の評価で終わるかもしれません。
人の感じ方に影響する要因は、注意する必要があるということです。
で、自分が体験していることでさえ、それぐらいに理解するのが難しいわけで、
さらには過去の記憶も曖昧なものだというのを考えると
自分が自分のことを理解することだって非常に大変だと言えるはずです。
それを他人が理解するのは、さらに難しいでしょう。
どんなに優れた技能を身につけたカウンセラーやセラピストでも
クライアントを理解することは不可能です。
ただ、カウンセリングやセラピーは、
クライアントを理解することとは無関係に成立します。
それはカウンセリングやセラピーの主体がクライアントだからです。
最終的に「どうしたいか」という方向性を決めるのはクライアント自身です。
変化が起きるのもクライアントの中です。
どうやっても相手は理解できないんです。
どんなに話を聞いたって、全てのことを聞き出すのは不可能です。
話したくないことは話さないようにすることもあるでしょう。
何より、話している本人が自分のことを分かっていません。
相手の言葉を聞いたとしても、そこから理解できる情報量は、ごくわずか。
その情報を元に相手を理解したつもりになっても、それは『推測』にすぎません。
同じ『推測』をするのなら、言葉以外の部分からだって情報は得られます。
表情、仕草、声のトーン、行動の仕方…、沢山のメッセージがあります。
相手から出されるメッセージに注意を向ければ、情報量が増やせます。
もちろん、その情報から得られる『理解』は『推測』でしかありません。
『推測』が悪いわけじゃないんです。
むしろ『推測』しかできないんです。
『推測』しかしていないくせに、『理解』していると勘違いするのが問題なんです。
言葉で話された内容も、非言語メッセージや振る舞いから読み取った情報も、
どちらも相手を『推測』する上での膨大な情報の一部に過ぎません。
いつでも我々は『推測』をしているんです。
であれば、どれぐらい精度の高い推測ができるかが重要じゃないでしょうか。
言葉で話された情報や、質問と確認をして相手から言葉で引き出した情報は、
たしかに観察だけから得られる情報よりも意味が重い場合があります。
それは相手自身が語った言葉の内容が正確だからではありません。
相手が言葉にした責任があるだけです。
自分が言った内容に対しては責任が伴う。
ウソをついてはいない。
自分の意志で言葉に出して説明する。
意志決定も言葉に出して行う。
…そんな様々な前提が、言葉に出された情報に伴います。
通常の人間関係では、この言葉に出して言った責任が働きますから
言葉に出して言ってもらうことの意味が重いわけです。
しかし、そのことと相手を『理解』することの正確さは無関係です。
相手を理解するためには、やはり『推測』しかできていないと思います。
くれぐれも
相手が言葉で説明した情報は『事実』で
自分が頭の中で考えたことは『推測』や『思い込み』
などと誤解をしないようにしたいものです。
『推測』と『思い込み』も区別できると役立つはずです。
僕の中で『推測』と『思い込み』の違いは、確信度合いにあります。
『推測』は、常に疑っています。
『思い込み』には疑いが含まれない。
『推測』をしていることを自覚して、その確信度合いを意識する。
一度に沢山の情報を推測できます。
様々な可能性が推測できます。
そこからもっとも確信度合いの高い推測を組み立てていく。
自分の中で複数の推測を立てて、それぞれに反論をするんです。
そうやって一番説得力のある推測を残していくわけです。
反論のプロセスを含めることで、説得力の低い推測は捨てられるようになります。
他の可能性を考えない推測は『思い込み』になりやすい気がします。
できるだけ沢山の『推測』をして、できるだけ可能性の高い『推測』を残す。
それを続けることが、少しでも相手を『理解』しようとすることじゃないでしょうか。
自分自身を理解しようと思ったときだって、それを正確に理解することはできません。
自分の体の中に起きている生理的な反応は、感覚の違いとして感じられはしても
その中身として何が起きているかは分からないものでしょう。
イライラしているからといって、その理由が何なのかは
自分のことだって分からないことが普通です。
実験でも説明される話ですが、生理反応に影響する薬を投与して
被験者がイライラする状態を作り出す。
そこで、事前に予想される反応を伝えた被験者は
そのイライラを薬のせいだと判断します。
一方、薬の効果を違うものとして説明された被験者たちは
その後で接する人たちの振る舞いに対して
不満を強く意識しやすくなった、というような話があります。
(情報は、かなり割愛しています)
自分の体の中に生理反応としてイライラがあり、
その理由が投与された薬品にあると知らない場合には、
自分の体の外側で起きている出来事に対して理由を探してしまうわけです。
このような認知に関する実験は、最終的に被験者本人の自覚を
言語的に説明してもらう評価の段階を含みますが、
その体験に対する主観的な評価自体が、かなりいい加減だということです。
自分の気持ちとして主観的に意識しているものが
本当にその理由によるものかといえば、正しいとも間違っているとも言えないんです。
実験の例でいえば、客観的には薬の影響と説明するのが正しそうですが、
主観的には他人の対応が不愉快だったからイライラしたと解釈されたんです。
本人にとっては、その体験の内容が正しいものと判断されるでしょう。
ちなみに、セミナーやカウンセリングの場合においても
こうした主観的体験の評価の曖昧さは意識しておくのが大事だと考えられます。
例えば、クライアントや受講生が、
外の音が気になって集中できない状態が続いたとか
空調の調子が悪くて高温多湿の環境に座っているだけで疲れてしまったとか
環境の影響があったとします。
すると、その「集中できない」や「疲労感」の状態を
セミナーやカウンセリングの中身と関連付けて評価する可能性があります。
「集中できなかった」理由として外の音を自覚できれば
「内容がつまらないから気が散ってしまった」とは解釈されにくいでしょうが、
客観的な理由が自覚できない場合には、本人が自覚している範囲で
その「集中できない」理由を探すことになってしまいます。
他人から判断すれば、高温多湿の部屋のせいで疲れたと考えられても、
本人がその理由を自覚していなければ
「あのセミナーは無駄に疲れる」という不満の評価で終わるかもしれません。
人の感じ方に影響する要因は、注意する必要があるということです。
で、自分が体験していることでさえ、それぐらいに理解するのが難しいわけで、
さらには過去の記憶も曖昧なものだというのを考えると
自分が自分のことを理解することだって非常に大変だと言えるはずです。
それを他人が理解するのは、さらに難しいでしょう。
どんなに優れた技能を身につけたカウンセラーやセラピストでも
クライアントを理解することは不可能です。
ただ、カウンセリングやセラピーは、
クライアントを理解することとは無関係に成立します。
それはカウンセリングやセラピーの主体がクライアントだからです。
最終的に「どうしたいか」という方向性を決めるのはクライアント自身です。
変化が起きるのもクライアントの中です。
どうやっても相手は理解できないんです。
どんなに話を聞いたって、全てのことを聞き出すのは不可能です。
話したくないことは話さないようにすることもあるでしょう。
何より、話している本人が自分のことを分かっていません。
相手の言葉を聞いたとしても、そこから理解できる情報量は、ごくわずか。
その情報を元に相手を理解したつもりになっても、それは『推測』にすぎません。
同じ『推測』をするのなら、言葉以外の部分からだって情報は得られます。
表情、仕草、声のトーン、行動の仕方…、沢山のメッセージがあります。
相手から出されるメッセージに注意を向ければ、情報量が増やせます。
もちろん、その情報から得られる『理解』は『推測』でしかありません。
『推測』が悪いわけじゃないんです。
むしろ『推測』しかできないんです。
『推測』しかしていないくせに、『理解』していると勘違いするのが問題なんです。
言葉で話された内容も、非言語メッセージや振る舞いから読み取った情報も、
どちらも相手を『推測』する上での膨大な情報の一部に過ぎません。
いつでも我々は『推測』をしているんです。
であれば、どれぐらい精度の高い推測ができるかが重要じゃないでしょうか。
言葉で話された情報や、質問と確認をして相手から言葉で引き出した情報は、
たしかに観察だけから得られる情報よりも意味が重い場合があります。
それは相手自身が語った言葉の内容が正確だからではありません。
相手が言葉にした責任があるだけです。
自分が言った内容に対しては責任が伴う。
ウソをついてはいない。
自分の意志で言葉に出して説明する。
意志決定も言葉に出して行う。
…そんな様々な前提が、言葉に出された情報に伴います。
通常の人間関係では、この言葉に出して言った責任が働きますから
言葉に出して言ってもらうことの意味が重いわけです。
しかし、そのことと相手を『理解』することの正確さは無関係です。
相手を理解するためには、やはり『推測』しかできていないと思います。
くれぐれも
相手が言葉で説明した情報は『事実』で
自分が頭の中で考えたことは『推測』や『思い込み』
などと誤解をしないようにしたいものです。
『推測』と『思い込み』も区別できると役立つはずです。
僕の中で『推測』と『思い込み』の違いは、確信度合いにあります。
『推測』は、常に疑っています。
『思い込み』には疑いが含まれない。
『推測』をしていることを自覚して、その確信度合いを意識する。
一度に沢山の情報を推測できます。
様々な可能性が推測できます。
そこからもっとも確信度合いの高い推測を組み立てていく。
自分の中で複数の推測を立てて、それぞれに反論をするんです。
そうやって一番説得力のある推測を残していくわけです。
反論のプロセスを含めることで、説得力の低い推測は捨てられるようになります。
他の可能性を考えない推測は『思い込み』になりやすい気がします。
できるだけ沢山の『推測』をして、できるだけ可能性の高い『推測』を残す。
それを続けることが、少しでも相手を『理解』しようとすることじゃないでしょうか。
2011年02月20日
3月6日、実践トレーニング
直前で恐縮ですが、3月6日の「実践的なトレーニングの場」のご案内です。
お申込みは、下記のフォームからお願いします。
何度かこのタイプのトレーニングをやっていて感じるのが
濃密なトレーニングで技術的な向上に役立ちそうな雰囲気です。
これが実に楽しいんです。
遊び感覚の要素は、あまりありませんが
真剣なトレーニングをすることに充実感があるといえば良いでしょうか。
今のところ少人数になっているのも、カスタマイズしやすくて
緻密に取り組めているように感じられる要因でしょうか。
おそらく基本的なコンセプトは、コミュニケーションにおける受信側の技術を
地道にトレーニングするということで一定するんじゃないかと思います。
反面、テーマに名前をつけるのが難しいですが、
効果の高そうな実習を色々と交えられるように考えています。
今度のトレーニングでは、カウンセリングやコーチング、会議など
会話的なコミュニケーションの場面での『個人的な癖』を見ていく予定です。
癖を変えるわけではありませんが、苦手な状況への対処が変わると予測されます。
誰しも、気づかないうちに相手や周囲の人たちに影響されてしまうものです。
それはカウンセラーやコーチと呼ばれるプロの人でも同様です。
困った様子を見せることで、周りの人を
「放っておけなくて、助けてあげたい」気持ち
にさせるのが上手い人がいます。
同じ困った状況になったとき、周りの人に
「ほのぼのと笑って許してしまいたい」気持ち
を引きだすのが上手い人もいます。
一方、多くの人が「笑って許してしまいたい」感じになっている所で、
その振る舞いに対して「腹が立って仕方ない」状態になる人もいる。
人それぞれのコミュニケーションの癖や傾向があって、
それを自然に自覚せずにやっているわけです。
誰かのコミュニケーションに対しても、同じように癖で反応する。
これが自覚できないと、普段の自分だったらできることが
なぜか上手くいかなくなってしまったりします。
そんな自分自身の反応の癖を扱う方法に取り組む予定です。
日常生活の色々な場面で役に立つトレーニングになると思います。
実習で体験したことが自然と思い浮かぶようになる時がくるでしょうから。
コミュニケーションの最中に困ってきたときにも
このトレーニングの発想は役立つはずです。
年度末のお忙しい時期で、日曜日の夜という時間帯ですが
ご都合のつく方は、どうぞお越しください。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
※実習が中心となりますので資料の予定はありません。
過去の資料をお持ちの方は、ご持参いただけると参考になるかもしれません。
※前月分に参加されていない方には、その資料をお渡しすることが可能です。
ご希望される場合には「ご意見など」の欄に、その旨をご記入ください。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 3月6日(日) 18:30〜21:30
【場所】 北とぴあ 803会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)
【参加費】 4,000 円
(当日、会場にてお支払いください。)
※会場費によって変動します。ご了承ください。
【テーマ】 『セルフ・モニタリング』
*実習を優先しますので、学びの密度を考えて、
一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
開催延期になりました
人の気持ちや反応は単純なものではありません。
同時に相反する気持ちが存在することもあるし、
様々な想いが共存できることもよくあります。
その人が発信するメッセージも同様です。
複雑なメッセージを同時に発信します。
メッセージを発する側も、受け取る側も、
沢山の情報を同時に処理しているんです。
ある人は、自分の中に起きている複雑な気持ちを一言にまとめて説明します。
またある人は、複雑な気持ちの中の一部だけに目をやって説明します。
同時に沸き起こる気持ちのうち、いつも無視してしまうものもあるかもしれません。
それらのどこを感じ、どこを読み取り、何を相手に伝えるか。
離す側も、聞く側も、つねにそのプロセスを繰り返している。
知らず知らずのうちに、大変な作業をこなしているわけです。
沢山の中から、しかも何が重要かも分からない中から、重要なものを見つけ
それに対して適切な対処を考えていく。
コミュニケーションの難しさでもあり、醍醐味でもあると思います。
そこでの学びをご一緒できれば幸いです。
お申込みは、下記のフォームからお願いします。
何度かこのタイプのトレーニングをやっていて感じるのが
濃密なトレーニングで技術的な向上に役立ちそうな雰囲気です。
これが実に楽しいんです。
遊び感覚の要素は、あまりありませんが
真剣なトレーニングをすることに充実感があるといえば良いでしょうか。
今のところ少人数になっているのも、カスタマイズしやすくて
緻密に取り組めているように感じられる要因でしょうか。
おそらく基本的なコンセプトは、コミュニケーションにおける受信側の技術を
地道にトレーニングするということで一定するんじゃないかと思います。
反面、テーマに名前をつけるのが難しいですが、
効果の高そうな実習を色々と交えられるように考えています。
今度のトレーニングでは、カウンセリングやコーチング、会議など
会話的なコミュニケーションの場面での『個人的な癖』を見ていく予定です。
癖を変えるわけではありませんが、苦手な状況への対処が変わると予測されます。
誰しも、気づかないうちに相手や周囲の人たちに影響されてしまうものです。
それはカウンセラーやコーチと呼ばれるプロの人でも同様です。
困った様子を見せることで、周りの人を
「放っておけなくて、助けてあげたい」気持ち
にさせるのが上手い人がいます。
同じ困った状況になったとき、周りの人に
「ほのぼのと笑って許してしまいたい」気持ち
を引きだすのが上手い人もいます。
一方、多くの人が「笑って許してしまいたい」感じになっている所で、
その振る舞いに対して「腹が立って仕方ない」状態になる人もいる。
人それぞれのコミュニケーションの癖や傾向があって、
それを自然に自覚せずにやっているわけです。
誰かのコミュニケーションに対しても、同じように癖で反応する。
これが自覚できないと、普段の自分だったらできることが
なぜか上手くいかなくなってしまったりします。
そんな自分自身の反応の癖を扱う方法に取り組む予定です。
日常生活の色々な場面で役に立つトレーニングになると思います。
実習で体験したことが自然と思い浮かぶようになる時がくるでしょうから。
コミュニケーションの最中に困ってきたときにも
このトレーニングの発想は役立つはずです。
年度末のお忙しい時期で、日曜日の夜という時間帯ですが
ご都合のつく方は、どうぞお越しください。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
※実習が中心となりますので資料の予定はありません。
過去の資料をお持ちの方は、ご持参いただけると参考になるかもしれません。
※前月分に参加されていない方には、その資料をお渡しすることが可能です。
ご希望される場合には「ご意見など」の欄に、その旨をご記入ください。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
【日時】 3月6日(日) 18:30〜21:30
【場所】 北とぴあ 803会議室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅 5番出口直結)
【参加費】 4,000 円
(当日、会場にてお支払いください。)
※会場費によって変動します。ご了承ください。
【テーマ】 『セルフ・モニタリング』
*実習を優先しますので、学びの密度を考えて、
一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
参加をご希望される方はこちらのフォームに入力してください。
(*は必須項目です)
開催延期になりました
人の気持ちや反応は単純なものではありません。
同時に相反する気持ちが存在することもあるし、
様々な想いが共存できることもよくあります。
その人が発信するメッセージも同様です。
複雑なメッセージを同時に発信します。
メッセージを発する側も、受け取る側も、
沢山の情報を同時に処理しているんです。
ある人は、自分の中に起きている複雑な気持ちを一言にまとめて説明します。
またある人は、複雑な気持ちの中の一部だけに目をやって説明します。
同時に沸き起こる気持ちのうち、いつも無視してしまうものもあるかもしれません。
それらのどこを感じ、どこを読み取り、何を相手に伝えるか。
離す側も、聞く側も、つねにそのプロセスを繰り返している。
知らず知らずのうちに、大変な作業をこなしているわけです。
沢山の中から、しかも何が重要かも分からない中から、重要なものを見つけ
それに対して適切な対処を考えていく。
コミュニケーションの難しさでもあり、醍醐味でもあると思います。
そこでの学びをご一緒できれば幸いです。
2011年02月18日
靴磨きの構造
ビジネス街の駅前辺りには、靴磨きの光景が見られます。
習慣化しているのかもしれませんし、常識になっているのかもしれませんが、
靴磨きの人たちは大体が地面に座っているか、低い椅子に座っています。
そして、目の前に足を乗せる台があって、お客さんはそこに足を出して
靴を履いたまま磨いてもらうわけです。
別の手段として、靴を磨く作業中に、お客さんがゆったりと休めるような椅子を置き
脱いでもらった靴を丁寧に磨きあげ、磨く間は座って待っていてもらう
という形式だって可能なはずなんです。
自分で靴を磨くときには多くの人が靴を脱いだ状態で磨くでしょうし、
そのほうが踵側とか、細かい部分とか、綺麗にしやすい気がします。
靴の修理をする場合には、当然、脱いだ靴を渡して待つようですから
仕組みが違うようです。
靴磨きには、あのスタイルが定着しているように思えます。
ところで、人の認知には様々な傾向が備わっています。
正確には、経験を通して、傾向が備わってくるんです。
懐かしいことを思い出している時、人は遠い目をすることがあります。
そのとき、実際に遠くの場所に小さく映像を思い浮かべる人がいます。
また、憧れの人を思い浮かべるとき、その人を顔よりも高い位置に思い浮かべ
うっとりと眺めることもあります。
『憧れ』に関しては、「『憧れ』の状態をジェスチャーで表現して下さい」
と指示を出された人が典型的にする姿にも、その様子が反映されるはずです。
手を胸の前で組み合わせ、少し身を乗り出して、アゴを挙げて顔を見上げる。
胸のあたりを広げるように息を吸い込みながら、高い位置で呼吸をする感じでしょうか。
『憧れ』を視覚的に反映しやすいのは、上側目線のときだったりするわけです。
ただし、『憧れ』の場合は、映像の大きさが大き過ぎない特徴があったり、
光や色合い、明るさや表情などの優しい風合いや
輝きがセットになる傾向があったりするようです。
同じく見上げるイメージであっても、『威圧感』だと少し違いがあるはずです。
映像が大きかったり、上半身から全身までが含まれていたり、
少し黒みがかった暗い印象や、重苦しい雰囲気があったりするかもしれません。
重要なのは、「上方向に見上げる」というイメージに
典型的な心情(感情、気持ち)のパターンがリンクしている、ということです。
そこらへんは日本語の言葉遣いにも反映されているようで、
「見上げる」「見下す」「上下関係」など、高さ方向の位置の違いが
人間関係に基づく心情と関係していることが伺えます。
すると、高い位置から見下ろすイメージには、そうした下方向に目線をやって
状況を眺めるときの心情が関わっているだろうと考えられます。
古いお城の天守閣などは、その地域で一番高い位置にあって
周辺を下側に見渡せるような眺めになっていました。
下側に見るときには、気持ちが大きくなったような余裕のある感じがあったり、
場合によっては優越感さえ意識したりする人もいるかもしれません。
トラックの運転をすれば、目線が高くなる分、心情に影響が出る可能性があります。
実際、僕も一度だけ運転したことがありますが、
自分が大きくなったような気分になったのを覚えています。
景色として下方向に見える場合と、人が下方向に見える場合では
また印象も違ってくるでしょうし、
その相手の姿によっても印象が変わってくるはずです。
姿というのは姿勢などのことです。
ふんぞり返った姿勢が横柄に見えたり、
背筋を曲げて、うつむいた姿勢が元気なく見えたりするようなことです。
これらのことを加味すると、靴磨きの典型的なスタイルというのは
お客さん側の視野から見える景色に、相当な心理的影響を及ぼすと想像できます。
目線よりも下方向に人がいる。
その姿勢は、かがんでいて、自分の足の部分を触れている。
全く意識しない範囲で、余裕のある大きな気持ちや、得意げな気分、
もしかすると優越感や自尊心なども感じられているかもしれません。
もちろん、靴を綺麗にしようという身だしなみの観点から利用する人もいるでしょうし、
靴磨きをしている人たちが、お客さんを見上げるような気持ちで
やっているとは言いません。
ただ、視野が生理的な反応に与える影響は大きいものです。
感情や気持ちとして自覚できていなかったとしても
そのような状態が体の中に起きている可能性は十分にあるだろうという考察です。
靴磨きを仕事とする側も、靴を磨いてもらうお客さんの側も
その心の影響を知らないままに、こっそりと満足感を
くすぐられているかもしれないわけです。
もし、靴磨きの人が高いテーブルとイスに座っていて、
お客さんが自分で脱いだ靴をそのテーブルの上に置き、
待っている間をテーブルよりも低い椅子で座っていなければならないとしたら
その構図と景色が作り出すイメージが与える印象は
既存の靴磨きとは随分違うものになるでしょう。
その仕組みで物凄く靴が綺麗になるとして、
今までに靴磨きをしてもらっていたお客さんが利用するでしょうか?
新たな客層が利用するようになる可能性はあると思います。
逆に、これまでの客層でズバ抜けた結果を出したかったら、
その構図が生み出す心理的な満足度を、より強調して高めたサービスを考えると
人気が出たりするんじゃないでしょうか。
視覚的に重要なメッセージを伝える方法は
言語ほど意識されにくい分、大きな可能性を秘めている気がします。
習慣化しているのかもしれませんし、常識になっているのかもしれませんが、
靴磨きの人たちは大体が地面に座っているか、低い椅子に座っています。
そして、目の前に足を乗せる台があって、お客さんはそこに足を出して
靴を履いたまま磨いてもらうわけです。
別の手段として、靴を磨く作業中に、お客さんがゆったりと休めるような椅子を置き
脱いでもらった靴を丁寧に磨きあげ、磨く間は座って待っていてもらう
という形式だって可能なはずなんです。
自分で靴を磨くときには多くの人が靴を脱いだ状態で磨くでしょうし、
そのほうが踵側とか、細かい部分とか、綺麗にしやすい気がします。
靴の修理をする場合には、当然、脱いだ靴を渡して待つようですから
仕組みが違うようです。
靴磨きには、あのスタイルが定着しているように思えます。
ところで、人の認知には様々な傾向が備わっています。
正確には、経験を通して、傾向が備わってくるんです。
懐かしいことを思い出している時、人は遠い目をすることがあります。
そのとき、実際に遠くの場所に小さく映像を思い浮かべる人がいます。
また、憧れの人を思い浮かべるとき、その人を顔よりも高い位置に思い浮かべ
うっとりと眺めることもあります。
『憧れ』に関しては、「『憧れ』の状態をジェスチャーで表現して下さい」
と指示を出された人が典型的にする姿にも、その様子が反映されるはずです。
手を胸の前で組み合わせ、少し身を乗り出して、アゴを挙げて顔を見上げる。
胸のあたりを広げるように息を吸い込みながら、高い位置で呼吸をする感じでしょうか。
『憧れ』を視覚的に反映しやすいのは、上側目線のときだったりするわけです。
ただし、『憧れ』の場合は、映像の大きさが大き過ぎない特徴があったり、
光や色合い、明るさや表情などの優しい風合いや
輝きがセットになる傾向があったりするようです。
同じく見上げるイメージであっても、『威圧感』だと少し違いがあるはずです。
映像が大きかったり、上半身から全身までが含まれていたり、
少し黒みがかった暗い印象や、重苦しい雰囲気があったりするかもしれません。
重要なのは、「上方向に見上げる」というイメージに
典型的な心情(感情、気持ち)のパターンがリンクしている、ということです。
そこらへんは日本語の言葉遣いにも反映されているようで、
「見上げる」「見下す」「上下関係」など、高さ方向の位置の違いが
人間関係に基づく心情と関係していることが伺えます。
すると、高い位置から見下ろすイメージには、そうした下方向に目線をやって
状況を眺めるときの心情が関わっているだろうと考えられます。
古いお城の天守閣などは、その地域で一番高い位置にあって
周辺を下側に見渡せるような眺めになっていました。
下側に見るときには、気持ちが大きくなったような余裕のある感じがあったり、
場合によっては優越感さえ意識したりする人もいるかもしれません。
トラックの運転をすれば、目線が高くなる分、心情に影響が出る可能性があります。
実際、僕も一度だけ運転したことがありますが、
自分が大きくなったような気分になったのを覚えています。
景色として下方向に見える場合と、人が下方向に見える場合では
また印象も違ってくるでしょうし、
その相手の姿によっても印象が変わってくるはずです。
姿というのは姿勢などのことです。
ふんぞり返った姿勢が横柄に見えたり、
背筋を曲げて、うつむいた姿勢が元気なく見えたりするようなことです。
これらのことを加味すると、靴磨きの典型的なスタイルというのは
お客さん側の視野から見える景色に、相当な心理的影響を及ぼすと想像できます。
目線よりも下方向に人がいる。
その姿勢は、かがんでいて、自分の足の部分を触れている。
全く意識しない範囲で、余裕のある大きな気持ちや、得意げな気分、
もしかすると優越感や自尊心なども感じられているかもしれません。
もちろん、靴を綺麗にしようという身だしなみの観点から利用する人もいるでしょうし、
靴磨きをしている人たちが、お客さんを見上げるような気持ちで
やっているとは言いません。
ただ、視野が生理的な反応に与える影響は大きいものです。
感情や気持ちとして自覚できていなかったとしても
そのような状態が体の中に起きている可能性は十分にあるだろうという考察です。
靴磨きを仕事とする側も、靴を磨いてもらうお客さんの側も
その心の影響を知らないままに、こっそりと満足感を
くすぐられているかもしれないわけです。
もし、靴磨きの人が高いテーブルとイスに座っていて、
お客さんが自分で脱いだ靴をそのテーブルの上に置き、
待っている間をテーブルよりも低い椅子で座っていなければならないとしたら
その構図と景色が作り出すイメージが与える印象は
既存の靴磨きとは随分違うものになるでしょう。
その仕組みで物凄く靴が綺麗になるとして、
今までに靴磨きをしてもらっていたお客さんが利用するでしょうか?
新たな客層が利用するようになる可能性はあると思います。
逆に、これまでの客層でズバ抜けた結果を出したかったら、
その構図が生み出す心理的な満足度を、より強調して高めたサービスを考えると
人気が出たりするんじゃないでしょうか。
視覚的に重要なメッセージを伝える方法は
言語ほど意識されにくい分、大きな可能性を秘めている気がします。
2011年02月16日
「Lab.」の意味
最近は名古屋での宿泊の機会が減ってきていますが、
よく利用していたホテルがあります。
名古屋駅前の近くだからか、外国人観光客らしき人が多いんです。
比率は圧倒的にアジア系が高いですが、もちろん英語圏の人もいる。
そんなためか、ホテルのフロントにも中国系の人と西洋系の人がいます。
どちらも日本語ペラペラです。
かなりスムーズな敬語を使う上に配慮が細やかで感動します。
なんなら日本人の従業員以上に気を配っているように見えます。
鍵を預けて一時外出すれば、入口からフロントに着くまでに鍵を用意してくれます。
日本人の従業員には部屋番号を伝えてからじゃないと鍵を出してくれないのに、
その西洋系のホテルマンは顔と部屋番号を覚えているようなんです。
で、その人は英語圏の人のようで、領収証を依頼すると
「HRD Lab.」を非常に綺麗な発音で言ってくれます。
しかも「Lab.」は略さずに「ラボラトリーズ」と。
英語で「HRD」といえば、一般的に「人材開発」の意味で使われますから
おそらく「人材開発研究所」ぐらいのイメージで捉えているんでしょう。
ちょっと新鮮な気分を味わっていたものです。
「HRD Lab.」という名前を考えたときには
それほど深い思い入れを持ってはいませんでしたが、
僕にとって「研究所」を意味する単語が入っていることは、今にして重要になりました。
世の中に心理学やコミュニケーションの技術、NLPなどを紹介する人は多くても、
それを研究する人は、さほど多くのないような気がします。
僕よりもNLPを勉強しているトレーナーは沢山いると思いますが、
NLPを研究している度合いでは結構な自信があります。
その意味で、「Lab.」なのは意味があると感じます。
定期的に開催している勉強会は、実習と理論の説明と両方があるので
形式上は一般的なセミナーやワークショップに近いはずです。
でも、勉強会を始めたときから、
「勉強会の中で色々な方にアウトプットしてもらいたい」
という気持ちもあったんです。
それは勉強したこと、実践したことを自分なりにアウトプットするときに
学びが深まることを経験してきたからです。
アウトプットのために整理をすると、経験的にカンでやっていたものが
技術として意識しながらできるような精度アップの感じがあります。
同時に、一人で勉強できる量には限度がありますし、
個人の好みの傾向も分かれるものですから、皆で共同して学んでいくと
得られる情報量を増やしやすいというメリットもあると考えます。
それはまさに、研究所(研究室)でなされる勉強会やゼミの形に近いんです。
メンバーから定期的な研究発表の機会があり、
文献調査や学会出張で得た情報のシェアがあったりする。
僕が「Lab.」という名称からイメージする方向性として
そういう活動の場があったら楽しそうだと思うんです。
ですから、
・僕が定期的に、情報提供と実習をするワークショップ形式の「勉強会」
・技術向上のための実習とトレーニングをする「実践の場」
・お互いに調査、研究成果を発表しながら高め合っていくゼミ形式の「研究会」
のような感じでやりたいんです。
いつからになるかは分かりません。
今年中にやってみたい気持ちもありますが、分かりません。
こんな形が進められると、いよいよ「Lab.」という雰囲気が出てくる気がします。
それが最近想像しているチョットした将来像です。
よく利用していたホテルがあります。
名古屋駅前の近くだからか、外国人観光客らしき人が多いんです。
比率は圧倒的にアジア系が高いですが、もちろん英語圏の人もいる。
そんなためか、ホテルのフロントにも中国系の人と西洋系の人がいます。
どちらも日本語ペラペラです。
かなりスムーズな敬語を使う上に配慮が細やかで感動します。
なんなら日本人の従業員以上に気を配っているように見えます。
鍵を預けて一時外出すれば、入口からフロントに着くまでに鍵を用意してくれます。
日本人の従業員には部屋番号を伝えてからじゃないと鍵を出してくれないのに、
その西洋系のホテルマンは顔と部屋番号を覚えているようなんです。
で、その人は英語圏の人のようで、領収証を依頼すると
「HRD Lab.」を非常に綺麗な発音で言ってくれます。
しかも「Lab.」は略さずに「ラボラトリーズ」と。
英語で「HRD」といえば、一般的に「人材開発」の意味で使われますから
おそらく「人材開発研究所」ぐらいのイメージで捉えているんでしょう。
ちょっと新鮮な気分を味わっていたものです。
「HRD Lab.」という名前を考えたときには
それほど深い思い入れを持ってはいませんでしたが、
僕にとって「研究所」を意味する単語が入っていることは、今にして重要になりました。
世の中に心理学やコミュニケーションの技術、NLPなどを紹介する人は多くても、
それを研究する人は、さほど多くのないような気がします。
僕よりもNLPを勉強しているトレーナーは沢山いると思いますが、
NLPを研究している度合いでは結構な自信があります。
その意味で、「Lab.」なのは意味があると感じます。
定期的に開催している勉強会は、実習と理論の説明と両方があるので
形式上は一般的なセミナーやワークショップに近いはずです。
でも、勉強会を始めたときから、
「勉強会の中で色々な方にアウトプットしてもらいたい」
という気持ちもあったんです。
それは勉強したこと、実践したことを自分なりにアウトプットするときに
学びが深まることを経験してきたからです。
アウトプットのために整理をすると、経験的にカンでやっていたものが
技術として意識しながらできるような精度アップの感じがあります。
同時に、一人で勉強できる量には限度がありますし、
個人の好みの傾向も分かれるものですから、皆で共同して学んでいくと
得られる情報量を増やしやすいというメリットもあると考えます。
それはまさに、研究所(研究室)でなされる勉強会やゼミの形に近いんです。
メンバーから定期的な研究発表の機会があり、
文献調査や学会出張で得た情報のシェアがあったりする。
僕が「Lab.」という名称からイメージする方向性として
そういう活動の場があったら楽しそうだと思うんです。
ですから、
・僕が定期的に、情報提供と実習をするワークショップ形式の「勉強会」
・技術向上のための実習とトレーニングをする「実践の場」
・お互いに調査、研究成果を発表しながら高め合っていくゼミ形式の「研究会」
のような感じでやりたいんです。
いつからになるかは分かりません。
今年中にやってみたい気持ちもありますが、分かりません。
こんな形が進められると、いよいよ「Lab.」という雰囲気が出てくる気がします。
それが最近想像しているチョットした将来像です。
2011年02月14日
NLPとコミュニケーションの関係
3月6日の夜にも、3時間の実践トレーニングを行う予定です。
近日中に、お申込みのフォームを載せます。
2月19日(土)の夜にも実践トレーニングをやります。
※お申込みはこちらから>>
お忙しい方もいらっしゃるでしょうが、
ご都合が合いましたら是非お越しください。
濃密なトレーニングをします。
(遅れてのご参加も可能ですが、その場合はご連絡下さい)
また3月21日に予定している勉強会では、行動変容をテーマに扱うつもりですが、
これはかなり面白い内容だと思っています。
実際のところ、行動変容は結果として狙える部分であって、
本質的に内面で起こるのはリフレーミングの作用になるんですが
高度なプロセスを、シンプルな方法論で扱えるようになると考えています。
NLPの範囲に入れても構わないテーマのはずですが、
サブモダリティの定説として言われていることに反しながらも、
多くの人にとって、より直感的に納得できる手法じゃないかと思います。
興味のある方は、予定を開けておいてください。
僕がNLPをやってきて良かったと感じているところは色々ありますが、多分、
その中には日本人でNLPが好きな人たちとは違った好みが含まれている気がします。
それは理論体系として捉えている部分です。
NLPの理論、NLPの言葉で人間の性質を説明するということです。
一般的にはNLPの理論は曖昧にされていて、心理学や心理療法、認知科学など
様々なものの寄せ集めとして説明されるフシがあります。
重要なのは、いずれも昔の誰かが仮説として立てた説明を使っているということ。
おそらく、最初にNLPという形で発表したかった時期に、
その最新の技術にも1つの説明モデルが欲しかったんじゃないでしょうか。
その後、様々な技術が開発され、人が無自覚にしていることを考えていくにつれて
かなり多くの発見が取り込まれてきているようです。
関わった多くの人が自分の発想を『スキル』という形で組み込んでいく。
その結果、理論的に整合性をとりながら全てを説明するのが難しくなったと思うんです。
特に、NLPを開発してきた人たちは、NLP以前にも近い分野をやっていたり、
自己啓発分野で良く使われる発想などの有効性を実感してきていたり、
自分を支えるバックグラウンドを大事にしたままで
NLPを説明しようとしてきたんじゃないかと思えます。
ビリーフや価値観、無意識といった発想がNLPでも使われ続けているのは
そのあたりと関係しているんじゃないでしょうか。
一方、僕はNLPを開発者と比べて遥かに後から知りましたし、
特定の心理学の理論を大事にしてきたわけでもなければ
成功法則や自己啓発の考え方を実践した後でNLPを始めたのでもありません。
生物化学の研究職として培ってきた発想で現象を観察し、
仮説を立てては修正を繰り返してきました。
パラダイムが変わることに抵抗が少ないんだと思います。
人間の認知や知覚に関する情報も含めて、人体の中で起きていることを考えながら
NLPの概念(言葉)で人を理解しようとしてきたと、振り返って感じます。
そして、NLPの言葉で現象を説明できるようになったつもりです。
NLPの理論体系が、NLPオリジナルの言葉だけで説明できる。
他の心理学分野や成功法則・自己啓発分野で使われてきた言葉を使わずに
人の中で起きていることを説明できる。
ついでにいえば、そのNLPオリジナルの言葉と概念は、
いわゆる「脳科学」の分野の概念にも置き換えられると考えています。
にもかかわらず、そのNLPオリジナルの概念だけからなる理論体系は
世間一般で「NLP」として紹介されるものと離れてしまっているようです。
せっかくNLPがスキル開発を通して発見してきた人間の中で起きているプロセスを
既存の説明モデルに当てはめようとするのは、僕には勿体ないと思えるんです。
NLPなんだから、NLPオリジナルの説明の仕方をすれば良いのに…。
その気持ちがある僕にとっては、NLPは世の中を説明する手段なんです。
そうなってくると、NLPが利用される対象として世間で良くいわれるものは
僕にとってNLPの「スキル」で扱わなくても良くなってしまいます。
もっと柔軟に、もっと効果的な方法を目指したくなるんです。
目の前のその人に、できるだけ効果のある方法を使いたい。
そのためにはNLPのスキルは一般化され過ぎている傾向があると感じます。
なので僕が実際に使っている方法は、表面的に見ると
NLPのようには思えない部分もあるでしょうし、
一方で、それをNLPの言葉で説明することも可能なので
NLPだと言い張ることも可能なのかもしれません。
逆に、表面的にはNLPっぽく見えることをしているようでも
NLPの言葉で説明できないために、僕が「NLPじゃない」と
主張する種類のものもあります。
コミュニケーションで起きることの大抵は、NLPで説明できます。
ですが、NLPはコミュニケーションの技術ではないと思います。
話し方教室に行って上手い話し方を勉強するような、
カウンセリング講座に行って傾聴の練習をするような、
コーチングのスクールに行って勉強するような、
そういうタイプのコミュニケーション技術としてNLPがあるというのは
どうしても違和感があるんです。
NLPを使えばコミュニケーションを説明することができます。
人の振る舞いが変化するプロセスも説明することもできます。
その両方を合わせると、コミュニケーションの仕方に変化を起こすプロセスを
説明することができるようになります。
あとは、そのプロセスを実践すればいい。
そうすればコミュニケーションの方法を変えることができる。
NLPというコミュニケーション技術があるんじゃないんです。
NLPでコミュニケーションを説明すれば、
その観点からコミュニケーションを変えることができるんです。
ここの違いは大きいと思います。
さらに重要なのは、NLPでは良し悪しの基準が無いところです。
NLPのスキルや、用語の意味には決まりごとがあります。
それを統一しないと共通した説明ができませんから、当然のことです。
ですが、「こういうやり方がありますよ」という説明があっても
「この時には、こうすると良いです」という説明は無いんです。
具体的な正解となるやり方は、原則としてNLPに存在しません。
人それぞれの人生ですから、正解など存在せず、
人それぞれが好きなようにやれば良いという自由が尊重されるようです。
ただ、好きなようにできないのなら、それは不自由ですから
自由が無いよりは自由なほうが良い
選択肢が無いよりは選択肢があるほうが良い
…それぐらいの発想のように思えます。
それは目的が定まっていないからです。
人それぞれ目的が違うのに、正解を提示することはできません。
コミュニケーションの目的は、人それぞれ違いますから
NLPにおける正しいコミュニケーションの仕方というのは存在しないわけです。
嫌いな人と関わりたくないのなら、自分が快適に過ごすために
その人と接する時間を少なくするという方法だってあるんです。
その方法は、一般的に見れば良いコミュニケーションとは言えないと思います。
でも目的には叶っている。
それで良いわけです。
一方で、コミュニケーションの技術となると、暗黙の目的が定まってきます。
相手と良い関係を築きたい。
意志疎通をスムーズにしたい。
自分の気持ちを分かりやすく伝えたい。
相手に影響を与えたい。
困っている人をサポートしたい。
…様々な目的があるでしょう。
少なくとも、コミュニケーションの技術を学ぼうという発想の奥には
「良好な関係性」という前提があると考えられます。
お互いに快適な気分でいられるということでしょうか。
例えば、話し方教室であれば、「相手に伝わりやすいように」という目的があり、
カウンセリング講座であれば、「困っている人のサポートをする」という目的、
コーチングなら、「目標達成のサポート」などの目的があるわけです。
現実的には、カウンセリングやコーチングの技術を学ぶ中には、
それらの中の個別の技術の一部を利用して、
別の目的に応用しようという発想も含まれています。
例えば、上手に聞けるようになって営業や販売に活かそうとか、
質問を通して相手に考えてもらうことで部下の育成をしようとか、
そういう応用目的です。
いずれにせよ、「この目的のためには、このやり方が効果的」という
標準的な手法を扱えるのは、その技術を学ぶ目的が明確だからだと言えます。
漠然と「正しいコミュニケーション方法」や
「良いコミュニケーション」などというものはありません。
良好な関係を作るために「良いコミュニケーション」はあり得ます。
NLPで「正しい方法」や「良いやり方」が決められないのは
人それぞれ目的を決める自由に応じられるからじゃないでしょうか。
その意味でも、NLPは「コミュニケーションの技術」ではないと思うんです。
だから僕は、コミュニケーションの技術を扱うときには、暗黙のうちに
「良好な関係性」や「相手のためになる」という目的を設定しています。
この目的のために、効果的な方法をトレーニングしているわけです。
各種のコミュニケーション技術が、その技術の目的を暗黙のままにしています。
だから、その技術を学んだ人が勘違いするんです。
その技術が、どんな場面のコミュニケーションでも効果的だというように。
傾聴もコーチングも、その目的のために技術なのであって、
日常会話の技術ではありません。
飲み会で使う技術じゃないんです。
コーチングは「相手自身が達成したいと思っている目標をサポートする目的」
というように、技術の対象を明確化しておくほうが親切な気がします。
僕が勉強会で扱うテーマは、わりと全般的な人間関係に利用可能で、
「良好な人間関係」と「相手のため」に役立つ内容になっているはずです。
NLPで人を理解していくためにも、NLPで人の変化を促すためにも、
コミュニケーションの技術が求められます。
コミュニケーションの技術が高いほうがNLPを応用するのに効果的です。
NLPをパソコンに喩えると、コミュニケーションは
キーボード入力作業のようなものと言えると思います。
パソコンはプログラムで動きます。
プログラミングのレベルで勉強したい人もいれば、
インターネットやメールだけ使えれば良い人もいます。
僕は本物のパソコンは詳しくありませんが、NLPの喩えとしてのパソコンでは、
基盤や電子部品などのパソコンを構成する構造物から
プログラミングの技術まで、中身を詳しく知ろうとして取り組んできました。
パソコンの歴史は詳しくありませんが。
一般的なNLPの資格取得コースは、街中のパソコン教室のようなものです。
ソフトの使い方を教えてもらうところです。
パソコン教室に行けば、ワープロソフトの使い方ぐらいは習うでしょう。
メールの使い方も習うと思います。
それを続けていけば、キーボード入力は少しずつ上手くなるはずです。
ですが、パソコン教室に行ってキーボード入力が上手くなる度合いは、
その教室の先生がキーボード入力をどうやって教えてくれるかによるでしょう。
本当にキーボード入力が上手くなりたかったら
そのためのトレーニングをしたほうが効果的なはずです。
NLPを習いに行けば、コミュニケーションも上達する可能性は高いでしょう。
ただ、もしコミュニケーションを学びたかったら、
コミュニケーションそのものを考えてトレーニングできたほうが有効だと思います。
パソコンとキーボードの関係に喩えたときに現実と違いそうなのは、
コミュニケーションは人生においてキーボード入力以上に重要だというところです。
そしてNLPもまた、パソコンと同じぐらい興味深いものの気がします。
近日中に、お申込みのフォームを載せます。
2月19日(土)の夜にも実践トレーニングをやります。
※お申込みはこちらから>>
お忙しい方もいらっしゃるでしょうが、
ご都合が合いましたら是非お越しください。
濃密なトレーニングをします。
(遅れてのご参加も可能ですが、その場合はご連絡下さい)
また3月21日に予定している勉強会では、行動変容をテーマに扱うつもりですが、
これはかなり面白い内容だと思っています。
実際のところ、行動変容は結果として狙える部分であって、
本質的に内面で起こるのはリフレーミングの作用になるんですが
高度なプロセスを、シンプルな方法論で扱えるようになると考えています。
NLPの範囲に入れても構わないテーマのはずですが、
サブモダリティの定説として言われていることに反しながらも、
多くの人にとって、より直感的に納得できる手法じゃないかと思います。
興味のある方は、予定を開けておいてください。
僕がNLPをやってきて良かったと感じているところは色々ありますが、多分、
その中には日本人でNLPが好きな人たちとは違った好みが含まれている気がします。
それは理論体系として捉えている部分です。
NLPの理論、NLPの言葉で人間の性質を説明するということです。
一般的にはNLPの理論は曖昧にされていて、心理学や心理療法、認知科学など
様々なものの寄せ集めとして説明されるフシがあります。
重要なのは、いずれも昔の誰かが仮説として立てた説明を使っているということ。
おそらく、最初にNLPという形で発表したかった時期に、
その最新の技術にも1つの説明モデルが欲しかったんじゃないでしょうか。
その後、様々な技術が開発され、人が無自覚にしていることを考えていくにつれて
かなり多くの発見が取り込まれてきているようです。
関わった多くの人が自分の発想を『スキル』という形で組み込んでいく。
その結果、理論的に整合性をとりながら全てを説明するのが難しくなったと思うんです。
特に、NLPを開発してきた人たちは、NLP以前にも近い分野をやっていたり、
自己啓発分野で良く使われる発想などの有効性を実感してきていたり、
自分を支えるバックグラウンドを大事にしたままで
NLPを説明しようとしてきたんじゃないかと思えます。
ビリーフや価値観、無意識といった発想がNLPでも使われ続けているのは
そのあたりと関係しているんじゃないでしょうか。
一方、僕はNLPを開発者と比べて遥かに後から知りましたし、
特定の心理学の理論を大事にしてきたわけでもなければ
成功法則や自己啓発の考え方を実践した後でNLPを始めたのでもありません。
生物化学の研究職として培ってきた発想で現象を観察し、
仮説を立てては修正を繰り返してきました。
パラダイムが変わることに抵抗が少ないんだと思います。
人間の認知や知覚に関する情報も含めて、人体の中で起きていることを考えながら
NLPの概念(言葉)で人を理解しようとしてきたと、振り返って感じます。
そして、NLPの言葉で現象を説明できるようになったつもりです。
NLPの理論体系が、NLPオリジナルの言葉だけで説明できる。
他の心理学分野や成功法則・自己啓発分野で使われてきた言葉を使わずに
人の中で起きていることを説明できる。
ついでにいえば、そのNLPオリジナルの言葉と概念は、
いわゆる「脳科学」の分野の概念にも置き換えられると考えています。
にもかかわらず、そのNLPオリジナルの概念だけからなる理論体系は
世間一般で「NLP」として紹介されるものと離れてしまっているようです。
せっかくNLPがスキル開発を通して発見してきた人間の中で起きているプロセスを
既存の説明モデルに当てはめようとするのは、僕には勿体ないと思えるんです。
NLPなんだから、NLPオリジナルの説明の仕方をすれば良いのに…。
その気持ちがある僕にとっては、NLPは世の中を説明する手段なんです。
そうなってくると、NLPが利用される対象として世間で良くいわれるものは
僕にとってNLPの「スキル」で扱わなくても良くなってしまいます。
もっと柔軟に、もっと効果的な方法を目指したくなるんです。
目の前のその人に、できるだけ効果のある方法を使いたい。
そのためにはNLPのスキルは一般化され過ぎている傾向があると感じます。
なので僕が実際に使っている方法は、表面的に見ると
NLPのようには思えない部分もあるでしょうし、
一方で、それをNLPの言葉で説明することも可能なので
NLPだと言い張ることも可能なのかもしれません。
逆に、表面的にはNLPっぽく見えることをしているようでも
NLPの言葉で説明できないために、僕が「NLPじゃない」と
主張する種類のものもあります。
コミュニケーションで起きることの大抵は、NLPで説明できます。
ですが、NLPはコミュニケーションの技術ではないと思います。
話し方教室に行って上手い話し方を勉強するような、
カウンセリング講座に行って傾聴の練習をするような、
コーチングのスクールに行って勉強するような、
そういうタイプのコミュニケーション技術としてNLPがあるというのは
どうしても違和感があるんです。
NLPを使えばコミュニケーションを説明することができます。
人の振る舞いが変化するプロセスも説明することもできます。
その両方を合わせると、コミュニケーションの仕方に変化を起こすプロセスを
説明することができるようになります。
あとは、そのプロセスを実践すればいい。
そうすればコミュニケーションの方法を変えることができる。
NLPというコミュニケーション技術があるんじゃないんです。
NLPでコミュニケーションを説明すれば、
その観点からコミュニケーションを変えることができるんです。
ここの違いは大きいと思います。
さらに重要なのは、NLPでは良し悪しの基準が無いところです。
NLPのスキルや、用語の意味には決まりごとがあります。
それを統一しないと共通した説明ができませんから、当然のことです。
ですが、「こういうやり方がありますよ」という説明があっても
「この時には、こうすると良いです」という説明は無いんです。
具体的な正解となるやり方は、原則としてNLPに存在しません。
人それぞれの人生ですから、正解など存在せず、
人それぞれが好きなようにやれば良いという自由が尊重されるようです。
ただ、好きなようにできないのなら、それは不自由ですから
自由が無いよりは自由なほうが良い
選択肢が無いよりは選択肢があるほうが良い
…それぐらいの発想のように思えます。
それは目的が定まっていないからです。
人それぞれ目的が違うのに、正解を提示することはできません。
コミュニケーションの目的は、人それぞれ違いますから
NLPにおける正しいコミュニケーションの仕方というのは存在しないわけです。
嫌いな人と関わりたくないのなら、自分が快適に過ごすために
その人と接する時間を少なくするという方法だってあるんです。
その方法は、一般的に見れば良いコミュニケーションとは言えないと思います。
でも目的には叶っている。
それで良いわけです。
一方で、コミュニケーションの技術となると、暗黙の目的が定まってきます。
相手と良い関係を築きたい。
意志疎通をスムーズにしたい。
自分の気持ちを分かりやすく伝えたい。
相手に影響を与えたい。
困っている人をサポートしたい。
…様々な目的があるでしょう。
少なくとも、コミュニケーションの技術を学ぼうという発想の奥には
「良好な関係性」という前提があると考えられます。
お互いに快適な気分でいられるということでしょうか。
例えば、話し方教室であれば、「相手に伝わりやすいように」という目的があり、
カウンセリング講座であれば、「困っている人のサポートをする」という目的、
コーチングなら、「目標達成のサポート」などの目的があるわけです。
現実的には、カウンセリングやコーチングの技術を学ぶ中には、
それらの中の個別の技術の一部を利用して、
別の目的に応用しようという発想も含まれています。
例えば、上手に聞けるようになって営業や販売に活かそうとか、
質問を通して相手に考えてもらうことで部下の育成をしようとか、
そういう応用目的です。
いずれにせよ、「この目的のためには、このやり方が効果的」という
標準的な手法を扱えるのは、その技術を学ぶ目的が明確だからだと言えます。
漠然と「正しいコミュニケーション方法」や
「良いコミュニケーション」などというものはありません。
良好な関係を作るために「良いコミュニケーション」はあり得ます。
NLPで「正しい方法」や「良いやり方」が決められないのは
人それぞれ目的を決める自由に応じられるからじゃないでしょうか。
その意味でも、NLPは「コミュニケーションの技術」ではないと思うんです。
だから僕は、コミュニケーションの技術を扱うときには、暗黙のうちに
「良好な関係性」や「相手のためになる」という目的を設定しています。
この目的のために、効果的な方法をトレーニングしているわけです。
各種のコミュニケーション技術が、その技術の目的を暗黙のままにしています。
だから、その技術を学んだ人が勘違いするんです。
その技術が、どんな場面のコミュニケーションでも効果的だというように。
傾聴もコーチングも、その目的のために技術なのであって、
日常会話の技術ではありません。
飲み会で使う技術じゃないんです。
コーチングは「相手自身が達成したいと思っている目標をサポートする目的」
というように、技術の対象を明確化しておくほうが親切な気がします。
僕が勉強会で扱うテーマは、わりと全般的な人間関係に利用可能で、
「良好な人間関係」と「相手のため」に役立つ内容になっているはずです。
NLPで人を理解していくためにも、NLPで人の変化を促すためにも、
コミュニケーションの技術が求められます。
コミュニケーションの技術が高いほうがNLPを応用するのに効果的です。
NLPをパソコンに喩えると、コミュニケーションは
キーボード入力作業のようなものと言えると思います。
パソコンはプログラムで動きます。
プログラミングのレベルで勉強したい人もいれば、
インターネットやメールだけ使えれば良い人もいます。
僕は本物のパソコンは詳しくありませんが、NLPの喩えとしてのパソコンでは、
基盤や電子部品などのパソコンを構成する構造物から
プログラミングの技術まで、中身を詳しく知ろうとして取り組んできました。
パソコンの歴史は詳しくありませんが。
一般的なNLPの資格取得コースは、街中のパソコン教室のようなものです。
ソフトの使い方を教えてもらうところです。
パソコン教室に行けば、ワープロソフトの使い方ぐらいは習うでしょう。
メールの使い方も習うと思います。
それを続けていけば、キーボード入力は少しずつ上手くなるはずです。
ですが、パソコン教室に行ってキーボード入力が上手くなる度合いは、
その教室の先生がキーボード入力をどうやって教えてくれるかによるでしょう。
本当にキーボード入力が上手くなりたかったら
そのためのトレーニングをしたほうが効果的なはずです。
NLPを習いに行けば、コミュニケーションも上達する可能性は高いでしょう。
ただ、もしコミュニケーションを学びたかったら、
コミュニケーションそのものを考えてトレーニングできたほうが有効だと思います。
パソコンとキーボードの関係に喩えたときに現実と違いそうなのは、
コミュニケーションは人生においてキーボード入力以上に重要だというところです。
そしてNLPもまた、パソコンと同じぐらい興味深いものの気がします。
2011年02月12日
当たり前が変わるとき
コンフォートゾーンという考え方を耳にします。
心地の良い領域ということでしょうが、
本人にとって、『なんとなく「当たり前」と思える範囲』と捉えると
分かりやすいんじゃないかと思います。
例えば、「お財布の中には、いつも1万円以上ないと不安」という人もいれば
「財布の中には、いつも3000円ぐらいです」という人もいます。
財布の中が普段から何十万円という人もいる一方で、
財布の中に十万円以上あると不安になってくる人もいるでしょう。
あるゾーンに届かなくても、超えてしまっても心地良くない。
この範囲にいると、まぁ、普通だなぁと思えるところがあるという考え方です。
で、これが重要なのは「そのゾーンを外れると元に戻したくなる」からと言えます。
コンフォートゾーンを外れれば、不快になるんです。
だから自然と戻すように働く、と。
なので、目標があるときには、その目標をコンフォートゾーンに設定できれば
あとは自然な心の働きによって、そこに辿り着こうとするだろうという話です。
考えてみれば、本当にコンフォートゾーンが高い目標に設定されると
現状に対しての不快感が非常に大きくなりますから、
「こうはしていられない!」という強い不安や焦りとともに
目標に向かう大きなモチベーションが沸いてくるでしょう。
僕の場合は、少なくともコンフォートゾーンが変わると
いてもたってもいられないような焦りを伴いながら行動が駆きたてられます。
まぁ、あまり心地良くないと思います。
学生時代の期末試験直前に、「ヤバい、勉強が間に合わない!」と感じながら
慌てて机に向かうような気持ちに近い気がします。
自分では、意識的にコンフォートゾーンを設定して目標に向かう、
ということはあまりしませんが、自分の中でコンフォートゾーンが
移り変わった感じというのは頻繁に実感します。
最近ですと、英語の勉強の中で、その移り変わりを自覚します。
始めはTOEFLで特定のレベルの点数を取るのが目標でしたから
時期と目標点とのギャップをベースにコンフォートゾーンが設定されたようです。
特に、始めのうちは聞き取れない、意味が分からない、という出発点に愕然とし、
そこからまず単語の勉強を始めました。
単語が分からなければ前に進めない。
その気持ちで、とにかく一時期、単語を覚えるのに集中したんです。
この時期は、相当に焦っていましたから時間を惜しんで取り組みました。
単語を覚えてくると、文章の意味も分かってきますし、
リスニングでも知っている単語なので聞き取れるようになってくるんです。
それから少し安心感が出てきて、ペースを掴み始めました。
「この感じで続けていけば大丈夫かな」という気持ちで
持続的にトレーニングを続けました。
この辺りから「英語の勉強」ではなく、「トレーニング」の意識になりました。
ただ、スピーキングに難を強く感じていたので英会話学校にも通い始め
トレーニングを続けました。
そして英語が楽しくなってきたあたりから、
またコンフォートゾーンが変わりました。
TOEFLを勉強する人たちの大半は海外留学を目指しているので
その学校に来る人たちは留学希望者ばかりなんです。
そういう人たちの刺激もあって、海外に行ってみたい気持ちが高まります。
TOEFLで点数を取るのは当然の通過点になって、
今度は「海外で何かをしてみたい」気持ちが沸いてきていたんです。
すると求めることも、取り組む内容も自然と変わってきます。
特に、英語での講演動画を沢山見るうちに、
自分も英語で講演をしてみたいと思うようになりました。
英語でスピーチをしている自分に向けて進む中で
「今のペースで大丈夫だろうか」という基準が
現状のコンフォートゾーンになるわけです。
そんな目標をおぼろげにイメージしながらトレーニングを続けていくと、今度は
「今、自分が持っている英語の根本的なバリエーションからでは
それをいくら使いこなせても、ボキャブラリーを増やしても
ネイティブのような英語にはならない」
と感じる度合いが高まってくる。
文法のレベルや言葉の意味としての問題、音の問題以上に
根本的な言葉の運用法に違いがあるように思えてきました。
正確に言うと、そういう違いがあるのは分かっていたんですが、
自分がやってきたことと、できるようになってきたことを考慮したときに
予想される延長線上として「このままでは変わらない」と感じてきたんです。
「伝わるかどうか」から「自然かどうか」に基準がずれてきたんでしょう。
そして僕の英語における目標は、
『英語で自然なカウンセリングができる』
ところへとシフトしました。
僕が日本語でトレーニングを行っているようなレベルのコミュニケーションが
英語でもスムーズにできるようになったら達成、という基準です。
英語でコールドリーディングもできる必要がありますから
海外ドラマ「 The Mentalist 」のような英語が使えるようになりたいものです。
なので、「メンタリスト」のシーズン2がDVDで発売されたら
ボックスで購入して英語教材としても使おうかと計画しています。
コンフォートゾーンは目標と現状が変わるにつれて
段々と変わっていくものだというのが実感できます。
意識的にコンフォートゾーンを変えようとするのは負担が大きい気がしますが、
自然と変わっていく場合には、変化も自然と起きていくようです。
心地の良い領域ということでしょうが、
本人にとって、『なんとなく「当たり前」と思える範囲』と捉えると
分かりやすいんじゃないかと思います。
例えば、「お財布の中には、いつも1万円以上ないと不安」という人もいれば
「財布の中には、いつも3000円ぐらいです」という人もいます。
財布の中が普段から何十万円という人もいる一方で、
財布の中に十万円以上あると不安になってくる人もいるでしょう。
あるゾーンに届かなくても、超えてしまっても心地良くない。
この範囲にいると、まぁ、普通だなぁと思えるところがあるという考え方です。
で、これが重要なのは「そのゾーンを外れると元に戻したくなる」からと言えます。
コンフォートゾーンを外れれば、不快になるんです。
だから自然と戻すように働く、と。
なので、目標があるときには、その目標をコンフォートゾーンに設定できれば
あとは自然な心の働きによって、そこに辿り着こうとするだろうという話です。
考えてみれば、本当にコンフォートゾーンが高い目標に設定されると
現状に対しての不快感が非常に大きくなりますから、
「こうはしていられない!」という強い不安や焦りとともに
目標に向かう大きなモチベーションが沸いてくるでしょう。
僕の場合は、少なくともコンフォートゾーンが変わると
いてもたってもいられないような焦りを伴いながら行動が駆きたてられます。
まぁ、あまり心地良くないと思います。
学生時代の期末試験直前に、「ヤバい、勉強が間に合わない!」と感じながら
慌てて机に向かうような気持ちに近い気がします。
自分では、意識的にコンフォートゾーンを設定して目標に向かう、
ということはあまりしませんが、自分の中でコンフォートゾーンが
移り変わった感じというのは頻繁に実感します。
最近ですと、英語の勉強の中で、その移り変わりを自覚します。
始めはTOEFLで特定のレベルの点数を取るのが目標でしたから
時期と目標点とのギャップをベースにコンフォートゾーンが設定されたようです。
特に、始めのうちは聞き取れない、意味が分からない、という出発点に愕然とし、
そこからまず単語の勉強を始めました。
単語が分からなければ前に進めない。
その気持ちで、とにかく一時期、単語を覚えるのに集中したんです。
この時期は、相当に焦っていましたから時間を惜しんで取り組みました。
単語を覚えてくると、文章の意味も分かってきますし、
リスニングでも知っている単語なので聞き取れるようになってくるんです。
それから少し安心感が出てきて、ペースを掴み始めました。
「この感じで続けていけば大丈夫かな」という気持ちで
持続的にトレーニングを続けました。
この辺りから「英語の勉強」ではなく、「トレーニング」の意識になりました。
ただ、スピーキングに難を強く感じていたので英会話学校にも通い始め
トレーニングを続けました。
そして英語が楽しくなってきたあたりから、
またコンフォートゾーンが変わりました。
TOEFLを勉強する人たちの大半は海外留学を目指しているので
その学校に来る人たちは留学希望者ばかりなんです。
そういう人たちの刺激もあって、海外に行ってみたい気持ちが高まります。
TOEFLで点数を取るのは当然の通過点になって、
今度は「海外で何かをしてみたい」気持ちが沸いてきていたんです。
すると求めることも、取り組む内容も自然と変わってきます。
特に、英語での講演動画を沢山見るうちに、
自分も英語で講演をしてみたいと思うようになりました。
英語でスピーチをしている自分に向けて進む中で
「今のペースで大丈夫だろうか」という基準が
現状のコンフォートゾーンになるわけです。
そんな目標をおぼろげにイメージしながらトレーニングを続けていくと、今度は
「今、自分が持っている英語の根本的なバリエーションからでは
それをいくら使いこなせても、ボキャブラリーを増やしても
ネイティブのような英語にはならない」
と感じる度合いが高まってくる。
文法のレベルや言葉の意味としての問題、音の問題以上に
根本的な言葉の運用法に違いがあるように思えてきました。
正確に言うと、そういう違いがあるのは分かっていたんですが、
自分がやってきたことと、できるようになってきたことを考慮したときに
予想される延長線上として「このままでは変わらない」と感じてきたんです。
「伝わるかどうか」から「自然かどうか」に基準がずれてきたんでしょう。
そして僕の英語における目標は、
『英語で自然なカウンセリングができる』
ところへとシフトしました。
僕が日本語でトレーニングを行っているようなレベルのコミュニケーションが
英語でもスムーズにできるようになったら達成、という基準です。
英語でコールドリーディングもできる必要がありますから
海外ドラマ「 The Mentalist 」のような英語が使えるようになりたいものです。
なので、「メンタリスト」のシーズン2がDVDで発売されたら
ボックスで購入して英語教材としても使おうかと計画しています。
コンフォートゾーンは目標と現状が変わるにつれて
段々と変わっていくものだというのが実感できます。
意識的にコンフォートゾーンを変えようとするのは負担が大きい気がしますが、
自然と変わっていく場合には、変化も自然と起きていくようです。
2011年02月10日
才能について
雑誌「クーリエジャポン」の3月号が『才能』の特集を組んでいました。
興味深い内容もあれば、「うーん?」と唸るようなものも。
国によって強いスポーツに差があったりするのは
集団に属する人の熱意によるもの、というようなニュアンスがありましたが、
まぁ、この説明は納得できます。
記事では、どちらかというと
「集団の熱意が相互に影響し合って
質の高いトレーニングを長時間続けることになる」
というのが根拠として提案されていました。
『質の高い練習を1万時間続けると、誰でも一流になれる』といった
仮説に基づいて考察を展開していたようです。
しかし、単純に考えて、人気のある競技には多数の競技人口が集まりますから
母数が増える分、成果を出す人が出てくる可能性も高まる、
と考えたほうが妥当な気がします。
全競技人口の平均的な成績を調べると、国による違いというよりも
民族的な遺伝的特性の影響が出てくるかもしれません。
ただ、好成績者だけに目を向ければ、飛び抜けた人が数人出るほうが関係しますから
競技人口に関連する文化的な人気度が強く影響するだろう、と。
他にも知能に関する遺伝的な影響や、幼少期に数学の才能を予見するための指標など
色々な研究結果が示されています。
なかでも、IQ228でギネスブックに載っている
マリリン・ボス・サバントの記事は興味深かったです。
僕にとって面白いのは、写真が載っていること。
今の写真も、幼少期の写真も出ています。
なんとなくIQテストで好成績を残しそうな顔です。
ギネスブックではIQの記録の意味に疑問を持ったらしく
サバントの記録以降、IQの記録は載らないことになったそうです。
IQのテストで評価できる能力も限られているでしょうし。
それを受けて、ケンブリッジ大学で開発された知能測定のテストは
12項目の能力を測定するものになっているんだとか。
多分、僕の場合、視覚系統の認知や回転などの操作とか、
対連合学習などの関連づけた記憶とかいったものは得意分野な気がしますが、
言語的な操作の能力は相当な苦手分野のはずです。
ずっと前に速読教室で、意味のわからないトレーニングをさせられていたときも、
言語的な論理を捉える訓練は非常に苦手でした。
「AならばB。BならばC」→「AならばC」?
もう、こうやって書いていても正しいかどうか自信がありません。
「AはBより大きい。BはCより小さい。」→「CはAより大きい」
というようなヤツも苦手です。
僕の考えでは、この辺には個人の特性が関係しているはずです。
なので、能力を両極に分けて判断するほうが良い気がします。
具体的なイメージ化が得意なのか、抽象的な操作が得意なのか、などと。
ケンブリッジの項目は、既存のIQテストの偏りを改善しようとしたのかもしれませんが
それでも総合的な能力に関係性が見えにくいように思います。
才能や能力と呼ばれるものが、高いか低いかで考えられている風潮に
僕は違和感を感じます。
才能は高い/低いではなく、両方の極をベースに考えたほうが
説明できることが多いと思うんです。
何かが際立って得意になれば、対極にあるものは相当な苦手分野になる。
天才と呼ばれた人たちが、ある部分において問題を持っていた
という話は、良く聞くことです。
片寄りがあるというのは、ある状況で不便なことが多いでしょう。
その片寄りが活かせる場面だけで生きていられれば楽だとは思います。
そんなに世の中は都合よく出来ていない気はしますが、
なるべく自分の片寄った部分が活きる場面にいられると
生きやすいんじゃないでしょうか。
才能を調べようとするよりも、特性の片寄りの傾向を調べるほうが
役に立つことが多いようにも思えます。
…まぁ、そんなことしなくても、多くの場合は
自然に生活してくる中で得意・不得意が見えてくるでしょうけど。
もしかすると才能を知りたい気持ちというのは、
誰かの人生を都合よく扱おうとする第3者の思惑とも関係するのかもしれません。
才能はなくても好きなことをしてられるなら、
それはそれで幸せなことじゃないかという気もします。
興味深い内容もあれば、「うーん?」と唸るようなものも。
国によって強いスポーツに差があったりするのは
集団に属する人の熱意によるもの、というようなニュアンスがありましたが、
まぁ、この説明は納得できます。
記事では、どちらかというと
「集団の熱意が相互に影響し合って
質の高いトレーニングを長時間続けることになる」
というのが根拠として提案されていました。
『質の高い練習を1万時間続けると、誰でも一流になれる』といった
仮説に基づいて考察を展開していたようです。
しかし、単純に考えて、人気のある競技には多数の競技人口が集まりますから
母数が増える分、成果を出す人が出てくる可能性も高まる、
と考えたほうが妥当な気がします。
全競技人口の平均的な成績を調べると、国による違いというよりも
民族的な遺伝的特性の影響が出てくるかもしれません。
ただ、好成績者だけに目を向ければ、飛び抜けた人が数人出るほうが関係しますから
競技人口に関連する文化的な人気度が強く影響するだろう、と。
他にも知能に関する遺伝的な影響や、幼少期に数学の才能を予見するための指標など
色々な研究結果が示されています。
なかでも、IQ228でギネスブックに載っている
マリリン・ボス・サバントの記事は興味深かったです。
僕にとって面白いのは、写真が載っていること。
今の写真も、幼少期の写真も出ています。
なんとなくIQテストで好成績を残しそうな顔です。
ギネスブックではIQの記録の意味に疑問を持ったらしく
サバントの記録以降、IQの記録は載らないことになったそうです。
IQのテストで評価できる能力も限られているでしょうし。
それを受けて、ケンブリッジ大学で開発された知能測定のテストは
12項目の能力を測定するものになっているんだとか。
多分、僕の場合、視覚系統の認知や回転などの操作とか、
対連合学習などの関連づけた記憶とかいったものは得意分野な気がしますが、
言語的な操作の能力は相当な苦手分野のはずです。
ずっと前に速読教室で、意味のわからないトレーニングをさせられていたときも、
言語的な論理を捉える訓練は非常に苦手でした。
「AならばB。BならばC」→「AならばC」?
もう、こうやって書いていても正しいかどうか自信がありません。
「AはBより大きい。BはCより小さい。」→「CはAより大きい」
というようなヤツも苦手です。
僕の考えでは、この辺には個人の特性が関係しているはずです。
なので、能力を両極に分けて判断するほうが良い気がします。
具体的なイメージ化が得意なのか、抽象的な操作が得意なのか、などと。
ケンブリッジの項目は、既存のIQテストの偏りを改善しようとしたのかもしれませんが
それでも総合的な能力に関係性が見えにくいように思います。
才能や能力と呼ばれるものが、高いか低いかで考えられている風潮に
僕は違和感を感じます。
才能は高い/低いではなく、両方の極をベースに考えたほうが
説明できることが多いと思うんです。
何かが際立って得意になれば、対極にあるものは相当な苦手分野になる。
天才と呼ばれた人たちが、ある部分において問題を持っていた
という話は、良く聞くことです。
片寄りがあるというのは、ある状況で不便なことが多いでしょう。
その片寄りが活かせる場面だけで生きていられれば楽だとは思います。
そんなに世の中は都合よく出来ていない気はしますが、
なるべく自分の片寄った部分が活きる場面にいられると
生きやすいんじゃないでしょうか。
才能を調べようとするよりも、特性の片寄りの傾向を調べるほうが
役に立つことが多いようにも思えます。
…まぁ、そんなことしなくても、多くの場合は
自然に生活してくる中で得意・不得意が見えてくるでしょうけど。
もしかすると才能を知りたい気持ちというのは、
誰かの人生を都合よく扱おうとする第3者の思惑とも関係するのかもしれません。
才能はなくても好きなことをしてられるなら、
それはそれで幸せなことじゃないかという気もします。