2011年06月

2011年06月11日

遺伝の話

夏になるとサンダル履きの人が増えてきます。

足の形は大きく3種類に分けられて
・エジプト型
・ギリシャ型
・スクエア型
と呼ばれます。

エジプト型は親指が一番長いタイプで
親指から小指にかけてナナメに短くなっていく形。
古代エジプトの彫刻において、足の形を見ると
このような作りになっていたことから呼ばれます。

ギリシャ型は、人差し指(第二指)が一番長い形。
親指のほうが短い形です。
古代ギリシャの彫刻の足が、この形だったそうです。

スクエア型は、親指、人差し指、中指ぐらいまで
横一直線に並ぶような長さになっている形。

日本人では、スクエア型が少数派で、
大半を占めるのはエジプト型とギリシャ型のいずれか。
どちらかというとエジプト型のほうが多いとのことです。

僕はエジプト型。
なので、電車の中などでギリシャ型の人を見かけると
ちょっと新鮮な感じがします。

曖昧な記憶ながら、両親はエジプト型だった気がしますが
単純なメンデル遺伝に当てはまるんでしょうか?
ちょっと気になります。

エジプト型とギリシャ型の両親に、どんな足型が生まれているのか?
調べられたら面白いと思うんですが…。


ちなみに、遺伝の話でいうと、少し汚い話ですが
耳垢が乾燥しているか、湿っているかはメンデルの法則に従います。

湿っているほうが優性。
乾燥しているほうが劣性。

なので、湿っている耳垢の人と、乾燥している耳垢の人との間には
50%以上の確率で、耳垢の湿ったタイプの子供が生まれるわけです。

ただ、日本人は劣性のはずの乾燥型が圧倒的多数なので
多くの日本人の耳垢は乾燥しているそうです。

かなり珍しいケースなんだとか。

2011年06月09日

二度目の感動

僕は基本的に、同じ本を何度も読むほうではありません。

同じような系統の本は何冊も読むので、
似た話を違う言葉で説明されて、記憶に定着していく
というのが良くある流れのようです。

大事だと思う情報は、どの本の、どこに、何があったか
として印象に残っているので、必要になったときは
本を見つけさえすればギリギリことは足りると感じています。

まぁ、ほぼ全ての本に書店でつけてもらったカバーがついていて
どれが、どの本かを見分けるのが大変なんですが。

特に、先日の地震のときに積み上げていた本の山が崩れ
場所が入れ替わってしまったので、今、探そうとしても
多分大変だろうと思います。


ですが、最近ふと思い立って、読み返したくなった本がありました。

丁度、その本が発売されてすぐに購入し、読み終えて、
感想を書いたような記憶があります。

石井裕之・箸『チギレグモノ、ソラノシタ』です。

チギレグモノ、ソラノシタ
チギレグモノ、ソラノシタ
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何をもって「良い本」と呼ぶかは人それぞれだと思いますが、
これは僕が「好きな本」です。

小説をほとんど読まない僕にとって、
本を読んで感動するということは少ないんです。

どちらかというと、本は知的関心を満たす方向に使われ、
情報収集や自分の考えを吟味する材料だったり、
あるいは本の内容と対話するようなものだったりします。

しかし、この本は僕にとって別物です。

もちろん、役に立つ考え方が書かれています。
そこは読むセラピーのような意図があるんでしょう。

そして、文章の巧みさにも、うなってしまいます。
読み物として面白く、小さな感動が積み重なっていきます。
それが最後に一気に流れ出る感じ。

涙が止まりません。
『もしドラ』では泣かなかった僕ですが、
この本は二度目に読んでも泣いてしまいます。

※余談ですが、僕が石井裕之さんをスゴイと感じることの1つは
 文章の書き分けの技術の部分です。

 実に絶妙に『それっぽい』文章を書くんです。
 英語の本を翻訳したような文章で書かれた本もありましたが
 本当に訳本なんじゃないかと感じるぐらい、それっぽいんです。

 この本も、一冊の中に複数のタッチが混ざっていて
 それもまた味わいを感じます。


何よりも感動するのは、リアルな心の描き方です。

これは「どこからそう感じるのか」を説明はできませんが、
多くの人生の悩みが抽象化されたエッセンスが
濃密に描写されているようなんです。

短編の組み合わせとして書かれる構成では、
それぞれの短編に悩みを持った主人公が登場します。

それそれの悩みが、いかにも多くの人に共通し、
その悩みへの対処法も、多くの人に有効なものです。
ですから、読むセラピーと言える。

ただ、それが薄っぺらじゃないんです。
よくある悩みを、ありきたりの話として、
想像で作り上げたような印象ではありません。

具体的な誰かを思い浮かべながら書いたのでもないでしょう。

その抽象化された多くの人に共通する悩みと人物像が
実際の出来事と密接に結びついているように感じます。

セラピストとして多くのクライアントと真剣に向き合って
そこから感じ取ってきたリアルな経験が、
自然と著者の中で抽象化されて作られたような…
そんな象徴的なストーリーなんです。

「同じ言葉を発しても重みが違う」ことがあるのと似ています。

どんなに良い話を言葉で発していても、
その言葉に結び付いている経験の豊かさが
なんとなくの部分で感じ取れてしまう。

誰かから聞いただけの良い話を受け売りで話しているのか、
実際に自分が深く感じ取ってきた言葉を話しているのか、
その違いが感じ取れるのと同じように、
ありがちなストーリーに重みが感じられるんです。

多分、僕が感動するのは、この部分でしょう。


見直したら、1年半以上前に出版された本でした。

その時は、駅の構内にある書店で本を購入し、
そのまま食事をしにいって、店内で読みました。

「失敗した!」と感じたのが思い出されます。
外でしたから、感情移入ができなかったんです。
自分で泣かないように抑えていました。

その本を久しぶりに読み返した。
遠慮なく入り込んで味わいました。

大体のストーリーは覚えていましたが、
それでも以前にはない感動がありました。

単純に、しっかりと味わったからだけではないでしょう。

自分のしてきた経験が、感じ取り方を変えたんだと思います。

この本を読んでいたときに、自分は何をしていただろう…?
なんて思い出してみると、さらに感慨深さがあります。

普段、本を読み直さないからこその良さかもしれません。

2011年06月07日

手のかからない人の摩耗

ドラマ「鈴木先生」には原作ほどの毒々しさや生々しさが少ないですが、
ストーリーが原作通りの部分が多く、楽しく見られます。

マンガの場合には、その絵における表現方法の強烈さで
読んでいるうちに感情をかき乱され、巻き込まれるような
気分が悪くなるぐらいの臨場感があるのに対して、
ドラマの場合は客観的に距離を置いて見られる印象があって
単純に話の内容を楽しめるというのが違いでしょうか。

だからこそ、そのストーリーの内容によって
個人的に感情移入しやすい部分があったりします。

それは原作のマンガで読んでいる時には気づきにくい部分でした。
マンガだと視覚的に感情を引きだされますから、
内容への入り込む度合いの判断がしにくいんです。


あらためてドラマのストーリーを眺めてみて、僕は個人的に
「鈴木先生にとって印象的だった生徒」の話が心に響きました。

主人公・鈴木先生が独自の教育スタイルを確立し、
いかにも「鈴木先生らしく」なっていったキッカケという生徒。

問題児の多いクラスの中で、全く目立たない存在だった、と。
問題も起こさないし、個性が際立つわけでもないし、
成績においても目立たない。
目立つほど無口でおとなしいわけでもない。
真面目な女子生徒という話でした。

ポイントになるのは、
 こうした普通の生徒が抱える苦悩
です。

目につきやすい多くの問題の陰に隠れて
人知れずヒッソリと抱え続けられる苦悩。

事情を抱えた同級生や、忙しく日常の問題に対処する先生。
そうした他人への気遣いから、特別な事情のない自分は
不平や不満を表わさずに日々をこなしていく。
期待されている通りに、何も問題を起こさずに…。

ともすると、他の生徒の事情で生まれる問題が
自分にしわ寄せとして集まっていても、
「自分には特別な事情がないから仕方ない」と
やるべきことをその通りに続ける。

その奥には
「なんで自分ばかり…」
という気持ちもありながら、
結局、自分に事情がないことを考えて、
事情のある他の人と比べることで我慢してしまう。

そんな生徒の話です。

「自分は恵まれている」
この中学生らしからぬ客観的な視点が、
自分自身に不満を感じさせることを許さないわけです。

 自分は恵まれている。
 だから頑張らなくちゃいけない。

人それぞれの事情に程度の違いがあっても
誰もが事情を持っていることを想像してしまい、
「仕方ない」理由を見つけてしまう。

もしかすると自分と同じぐらいの事情しかなくても
真面目に頑張ることをしていない生徒もいるかもしれない、
そう思ったとして、なお、違いになる事情を想像する。

単純なことだというのも知っているんです。
ただ、自分が許せばいい。
頑張らなくていいじゃないか、と。
皆、そんなにやってないんだから…。

それでも自分が許してくれないんです。

そして、その頑張っている自分が苦しくなってきたあたりで
決まって助けてくれる人が表れる。
なんとか乗り切れてしまうわけです。

ここでもやっぱり恵まれている、と。

そうやって、自分にかかった負荷を、
自分が頑張ることで対処していくという流れを
やめられずに続けていくうちに、少しずつ摩耗が進んでいった。

…そういう生徒の話。

「今の学校教育は
手のかからない子供の心の摩耗の上に支えられている」
という鈴木先生のセリフこそが、ここでのテーマのようです。

心の摩耗が限界に達したその女子生徒がどうなったか?

マンガによると、特に問題を起こしたわけではありませんでした。
むしろ逆方向でした。

日常的な振る舞いの全てが輝き始めた、と。
挨拶や仕草、「前へならえ」の指先の伸び方…
普通の中学生が恥ずかしさを感じるようなことを
一切の妥協なく、完璧に行うようになる。

ある種の崇高な境地に進んでしまったように。
「悲しいほどに透き通った境地」。

摩耗を続けた結果、磨かれてしまったのでしょうか。


…この話に強く感情移入したからといって、
僕の中学校時代が似ていたというわけではありません。

まぁ、同級生にも先生にも気を遣っていたのは似ていますが。

僕がそこまで摩耗することが無かったのは
マンガの中の状況と違って、実際の環境の中に
問題が起きること自体が少なかったからでしょう。

「自分だけが…」という気持ちにはならなかったようです。

といっても、それはあくまで中学校の話。

僕の場合は、むしろ大学、社会人あたりから
これに近いものを感じていた部分があったように思います。

自分が手を抜くことを許してしまえば楽になるのに
頑張らないことを許さない自分がいるような。

それは近年のセミナーの仕事においてもあった気がします。
自分が頑張らなかったら大変なことになる…というか。

ゴールキーパーみたいな気分を持っていた時期があります。
自分がボールを後ろの逸らせば失点になる、と。

本当は、僕だけの責任ではなく、キーパーが取れなくても
失点を責められるべきではないと頭では分かっている。
でも、手を抜かない自分がいたんです。


恵まれた人に集まってくる「しわ寄せ」。
他から見ると幸せな中で、こっそりと続いていく摩耗。
これらのことは、学校に限らず、社会全体でも起きている気がします。

組織だと分かりやすいでしょう。
・問題を作り出す人
・問題に気づかない人
・問題を無視する人
・問題のしわ寄せに負荷がかかって耐えられなくなる人
・問題のしわ寄せの負荷を受けながら頑張れる人

大部分は、問題に気づかないか、
問題に気づいても見て見ぬふりをするものでしょう。

上司からすると解決したいのは、問題を作り出す人ですから
組織として主眼を置いて取り組むのは、この部分になりやすい。
(実際は、上司が変わることで問題が解消されるケースも多いですが)

組織の健康度の観点からは、
耐えられなくなる人のケアが重要になるわけです。

メンタルヘルスとか、心の問題のケアという立場で
こうした「しわ寄せに耐えられない」人たちに対処しようとされますが、
実際には、この部分は表層なんです。

一人が解決しても、次の人が出てきます。
問題のひずみが、局所的に集まって表れているんです。

ですから、問題そのものが解消されるように
問題を生み出す人へのアプローチが重要になります。

ですが、それと同じぐらい気をつける必要があるのが、
 しわ寄せに負荷を受けながら頑張れる人
じゃないか、ということです。

これは、ストレスに我慢できなくなるとか、
過労や心労で健康に害が出てくるとか、
自分の限界を知って適度に休むとか、
そういう人とは違います。

最後まで頑張りぬけてしまう人たちのことです。
本当は大変、でも、
恵まれた部分に支えられて乗り越えられてしまう。

その人たちが摩耗していることも忘れられません。


そんなことを意識させてくれるストーリーでした。

2011年06月05日

見る目を養う

プロ野球の選手になるために、ドラフトで指名される選手もいれば
自らテストを受けて入団する人もいます。

テストでは色々な内容が課されるようですが、
最初の段階では50m走や遠投なども含まれるそうです。

しかし、プロ野球選手になって活躍できるかどうかは
50m走のタイムや遠投の記録では判断ができません。

当然、その後に実践形式のテストがあって
その様子をコーチやスカウトが見て判断するんでしょう。

結局、ドラフトから入っても、入団テストから入っても
最終的な判断はプロの目によってなされているわけです。

そのスカウトに見る目があれば、
他の球団が注目していなくても素質を見抜くことができて、
しかもプロの世界で大活躍できたりするんでしょう。

ドラフトで大注目だった選手がプロでは活躍できないケースも、
前評判通りに球界を代表する選手になっていくケースも、
無名だったのに大活躍するケースもあります。

見る目があれば、将来、活躍する人を
的確に見出すことができるんだろうと思います。

そして、それは50m走のタイムや遠投の記録にあるような
数値化されたデータでは判断できないもののはずです。


ミュージシャンや芸能人のオーディションも多分、同様です。
見る目のあるプロデューサーが判断して、
その人に合った売りだし方をしていくと大ヒットに繋がる。

こちらは実際の演奏や歌を聴いての判断であって、
当然、数値化されたデータで評価はされていないはずです。

音程が合っているかとかリズムが合っているかなどを
コンピューターで評価したところで、
人の心に響くものを生み出せるかとは無関係でしょう。


何かの分野で活躍ができるかどうか、というのは
その世界で経験を積んできた人には見える部分があるようです。

少なくとも、見る目がある人というのが存在する。

その目に留まるかどうかには運も関係するのかもしれません。

ですが、その世界の入り口として
誰をプロにしていくかを判断する立場の人は、
見る目を持っていて欲しいものだと思います。

少なくとも、その眼力を磨く努力をすることが
その分野の役に立つことは間違いないと思うんです。

就職難だと言われます。
就職の採用も、似たようなプロセスでしょう。

数値化されたデータで判断するものではない。
採用担当者たちの見る目にかかっているわけです。

大変な作業ですし、その見る目に依存する度合いは高いですが、
ホンの一部の能力だけを数値で測って評価するような
事態にはなっていないという点で、誠実さを感じます。

どんな人を求めているのかに応じて
見るべきポイントを明かにしていければ、
各分野で素養を活かせる人たちが増えるんじゃないかと思います。

持ち味が発揮されている人というのは、
他人が見ていても素敵に見えるものじゃないでしょうか。

夢をかなえる、目標を達成する…という
本人目線の取り組みも大切なことでしょうが、
その人の才能を活かすという他者目線の取り組みも
幸せな日々のために有効なものの気がします。

cozyharada at 23:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2011年06月03日

流行を読む

久しぶりに書店の新刊本コーナーを見ました。

ざっと見た全体的な印象ですが、
随分と流行が変わってきている気がしました。

数ヶ月前までは金銭面に関するものや、
脳科学に関係したようなもの、
分かりやすい一般教養やニュースもの…
などが多かったように記憶しています。

それが最近は違っているようです。


ビジネス系では、能力を開発するとか効率を上げるとかよりも
競争の中で残っていくための技術や
社会に受け入れられていくための振る舞い方など、
「阻害されない」、「蹴落とされない」ためのような視点が
増えていると感じました。

お金に関する内容でも、「儲ける」よりは
堅実さを重視したような視点が多い印象を受けます。

ちょっとコーナーを変えると、
仏教系の分かりやすい本が増えていたり。

一言でいえば、「生き残る」ことを意識した本が増えたような印象。

回避的な表現も多くなっているんじゃないかと思います。

これも震災の影響なのかもしれません。

「価値観が変わった」という言い方をする人もいるんでしょうが、
明確にそれが分かるかは、僕には判断できません。

ただ、現実に変化が見て取れる部分も沢山あるようです。

ニュースに表れることとは違った全体的な印象を感じ取るのも
なかなか面白いものですね。

2011年06月01日

英語だからこそ

この間、半年ぐらい通っていた英会話スクールの
全日程を消化しました。

といっても、「〜回」という単位で契約をして
その回数分を消化していくスタイルですから、
いつでも再開は可能なわけですが。

僕自身の最初の英会話スクールは別のところで、
そちらで去年の6月ぐらいから集中的に取り組み始め、
3,4か月したところで、別のところへ移りました。

最大の意図は、セルフイメージを変えるため。


最初に英語が話せない状態から通い始めたスクールでは
その環境とインストラクターとの関係性が、
僕の内面に安定したレベルを作ってしまいやすいんです。

「自分の英語力はこれぐらい」と生徒自身が捉え、
教師のほうも「この生徒の英語力はこれぐらい」と
前提をもって交流をすることになります。

もちろん、プロのインストラクターですから
時間が経てば英語力が上がっていくことは想像するでしょうが、
その向上スピードも先入観をもってしまいやすいものでしょう。
…このカリキュラムだと、これぐらいで進んでいく、と。

なので、僕はある程度慣れてきた実感が得られた辺りで
別のスクールに行くことにしました。

そこで新しく関係性を作っていく。
インストラクターの側も、最初のスクールで評価したレベルよりは
高いレベルで評価してくれるだろう、と想像したんです。

実際、挨拶からレッスンの内容まで、
できるだけ自分主導で進めるようにしました。

それによって、自分の英語力を高いレベルに設定して振る舞い
後から必要な経験を重ねていこう、という作戦。

その結果、こちらのスクールでは随分と
英語でコミュニケーションをすることができた気がします。

最初のスクールの関係性が「生徒と教師」だったのに対して
次のほうでは「学ぶ人と、それをサポートする人」という感じ。

トレーニングの方法についても効果を上げるために話し合いながら
積極的に進めていったものです。


当初の目的はTOEFLの目標スコアを取ることでしたから、
それに向けたスピーキング専門の訓練が中心でした。

レッスン数が残り半分ぐらいの段階でテストを受け、
目標ラインには到達できたので、以降は
より実践的なトレーニングに切り替えていったんです。

特に、こちらのスクールではインストラクターを指名できたので
目的やスケジュールに合わせて工夫して進めることもできました。

アメリカ人が少ないのがチョット残念でしたが、
コミュニケーションのスタイルそのものでいえば
あまりアメリカンなのは負荷が大きいのも事実でした。

アメリカ出身で発音は米語なのに、日本在住20年…
というインストラクターは話しやすかったです。

音が聞きやすい上に、人柄は日本人的。
旦那さんが日本人で、日本食を作り、日本語も話し、
日本語の本を英語に翻訳する仕事もしている。

言語媒体が英語になっているだけで、
コミュニケーションのスタイルそのものは
日本文化に近かったんじゃないかと思います。

多かったのは、ニュージーランドやオーストラリアの人。
発音は訛りがキツくて、戸惑いもありましたが
コミュニケーションの流れは日本人向きな印象を持ちました。


そんな人たちと、一方的に教えてもらうという方法ではなく、
一緒にトレーニングを進めていくように取り組みましたから
かなり人としての交流ができたように感じています。

基本にしていたスタイルは、
 僕が自分でニュースやネット、講演動画などから
 興味深いトピックを探して、覚えていき、それを紹介する
…というもの。

その後で、ディスカッションをしたりしていましたが、
僕としても興味を持てるものを探していくわけです。

セミナーの前置きなどに話した内容もありました。

こちらの努力として、インストラクターの好奇心を満たす
という目標も加わっていたんだと思います。

最初のスクールのときとは随分と違っていたはずです。
「練習する」のではなく、「伝え合う」ことを実際にしていた。
だからこそ、コミュニケーションの密度が高かったんでしょう。

ペーシングは欠かしていませんでしたし。

多くのインストラクターと良い関係が築けたように感じています。


途中まで良くレッスンを受けていたオーストラリア人は
最初かなり緊張した様子でしたが、徐々に打ち解けるにつれ、
持ち前のアカデミックな素養を発揮してくれました。

地元の大学から教員としてのオファーがあって
2月の中ごろにオーストラリアへ帰って行ったんです。

が、その帰国直前、最後のレッスンだろうという日には
丁寧にメッセージカードと地元名産らしきチョコレートをくれました。

また、心理学について熱く語り合ったインストラクターは
先日の最後のレッスンの日、休憩時間にわざわざ出てきて
挨拶をしてくれました。

最後のレッスンには、前述の日本在住20年の
アメリカ出身のインストラクター。
思い出や人生観をしんみりと話し合い、
暖かい気持ちでコミュニケーションを満喫しました。

心の触れ合いが感じられる交流というのは
やっぱり良いものだなぁ、と改めて感じました。

母国語ではない英語だからこそ新鮮に
コミュニケーションについて感じることができたように思います。


機会を作って、また行きたいものです。

おしらせ
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【場所】 
  北とぴあ 第2和室

   JR王子駅より2分
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     7月7日(日)
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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