2011年09月
2011年09月10日
際限なく続く
コミュニケーションやカウンセリングについてセミナーをしておきながら
「一体、どこまでコミュニケーションを磨くのが良いのか?」と
疑問を持つことがあります。
僕自身は、キリの無い道筋を進み続けようと思っていますが、
それは最終的には自分のためだからです。
自分が、「この人を傷つけたくない」と感じたときには
その相手に対するコミュニケーションで求められる技術には際限がありません。
だからといって、自分をないがしろにして相手のために行動するわけではなく、
むしろ「自分のため」に、「傷つけるのが嫌」なだけなので、
当然、自分が他に望むことと折り合いをつける必要があります。
人間関係ですから、自分が嫌な思いをすることに耐えられないケースもある。
そこは自分が「嫌だ」と思うだけの可能性もあるので、
自分自身の内面的課題を解決していく方向で対処もします。
他者のための技術だけを磨いていくと、自分の不満を抑圧することがあるので
技術と併せて自らの内面的課題と向き合っていくのも大事なわけです。
コミュニケーションの技術としても、その努力にはキリがない上に
技術を使う自分自身とも正面から向き合っていく…、
そういうスタンスを、どれだけ目指すべきなのかと思うんです。
少なくとも「ずっと学び続けるのが大事です」と、気軽には言えません。
だからといって「キリがないし、大変だから、やめといたら?」とも言えない。
この辺が難しいなぁと感じます。
これがビジネス目的とかであれば明確なんです。
「どれぐらいの努力が、どれぐらいの成果を生むか」の視点が重要でしょうから。
その意味でいうと、それほどコミュニケーションが必要のない分野もあるわけです。
ある程度、関係性が成立するぐらいがあれば良くて、
高度なやりとりがなくても問題にならない、というケースです。
別に、家電量販店の店員が、本当にお客さんを満足させるコミュニケーションを
取れなかったとしても、たいして売り上げには響かないでしょう。
客のニーズを的確に聞き出して、的確な商品を案内できても、
それが直接の売り上げに繋がるかどうかは分かりません。
喜んでくれれば、次に繋がるという可能性もありますが、
だからといって家電量販店で店員を指名して買い物をするわけではありません。
むしろ、商品知識に詳しいことのほうが重要なのかもしれません。
それが、目の前のお客さんが望んでいる情報かどうかは別にして、
「知りたいことを聞けば教えてくれる(詳し過ぎることも含むが…)」ぐらいの
ほうが、いわゆる人の気持ちを考えて対応する技術よりも重要かもしれない。
逆に、アパレル系の店員や、高額商品の営業になったりすると
コミュニケーションの技術が売り上げに関係しやすくなると考えられます。
それでも、そこで求められる技術はカウンセラーや福祉相談員と比べると
決して高くはないような気がします。
いや、実際のところ、カウンセラーや福祉相談員は、
人の心や人生の大きな問題に対応するという点で高い技術が期待されますが、
だからといって、それがどれぐらい必要かといえば回答は難しいところがあります。
人の心と密接に関わる以上、高い技術であって欲しいと思います。
少しでも高い満足が得られるようにと心がけていることを願います。
でも、どこまで高い技術が必要かというと…。
クレームばかりで仕事にならないとか、評判が悪くて仕事にならないのでは
運営上で困ってしまいますから、その場合には技術の向上が『必要』でしょう。
しかし、大きな不満も出てこない、ある程度は仕事として成立している、
これ以上の技術を磨いたところで得られる成果は小さい…
となってくると、はたして、どこまで技術を磨けば良いのでしょうか?
そこは、もう、関わっている本人が
「自分の気持ちとして」どれだけ大切に向き合いたいか、
という部分に関わるのかもしれません。
僕が学んできた先生たちは、偶然、その技術に妥協のない人たちでした。
技術を磨いて得られる成果を気にすることなく、
その技術がクライアントのために役に立つという一点だけから
ひたすらに技術を磨いた人たちでした。
僕は、そのスタイルが好きだったので自分も技術を磨こうと思いますし、
自分のセミナーでは細部にまでこだわって技術を扱うつもりです。
ただ、1つ言えるのは、
コミュニケーションが上手くいくと、自分も嬉しい
ということです。
そこも重要なモチベーションを上げる要因なのかもしれません。
以前、仲間として頻繁にペアを組んでセミナーをしていた人が言っていた
「『コミュニケーションって、こんなに楽しいんだ』ということを感じて欲しい」
との言葉が頭に浮かびます。
まぁ、コミュニケーションを学ぼうという段階で
人に対して並々ならぬ想いを持っていることが良くありますから、
そうした同志とコミュニケーションを取れる機会そのものが
何よりも貴重な時間だという気もします。
「一体、どこまでコミュニケーションを磨くのが良いのか?」と
疑問を持つことがあります。
僕自身は、キリの無い道筋を進み続けようと思っていますが、
それは最終的には自分のためだからです。
自分が、「この人を傷つけたくない」と感じたときには
その相手に対するコミュニケーションで求められる技術には際限がありません。
だからといって、自分をないがしろにして相手のために行動するわけではなく、
むしろ「自分のため」に、「傷つけるのが嫌」なだけなので、
当然、自分が他に望むことと折り合いをつける必要があります。
人間関係ですから、自分が嫌な思いをすることに耐えられないケースもある。
そこは自分が「嫌だ」と思うだけの可能性もあるので、
自分自身の内面的課題を解決していく方向で対処もします。
他者のための技術だけを磨いていくと、自分の不満を抑圧することがあるので
技術と併せて自らの内面的課題と向き合っていくのも大事なわけです。
コミュニケーションの技術としても、その努力にはキリがない上に
技術を使う自分自身とも正面から向き合っていく…、
そういうスタンスを、どれだけ目指すべきなのかと思うんです。
少なくとも「ずっと学び続けるのが大事です」と、気軽には言えません。
だからといって「キリがないし、大変だから、やめといたら?」とも言えない。
この辺が難しいなぁと感じます。
これがビジネス目的とかであれば明確なんです。
「どれぐらいの努力が、どれぐらいの成果を生むか」の視点が重要でしょうから。
その意味でいうと、それほどコミュニケーションが必要のない分野もあるわけです。
ある程度、関係性が成立するぐらいがあれば良くて、
高度なやりとりがなくても問題にならない、というケースです。
別に、家電量販店の店員が、本当にお客さんを満足させるコミュニケーションを
取れなかったとしても、たいして売り上げには響かないでしょう。
客のニーズを的確に聞き出して、的確な商品を案内できても、
それが直接の売り上げに繋がるかどうかは分かりません。
喜んでくれれば、次に繋がるという可能性もありますが、
だからといって家電量販店で店員を指名して買い物をするわけではありません。
むしろ、商品知識に詳しいことのほうが重要なのかもしれません。
それが、目の前のお客さんが望んでいる情報かどうかは別にして、
「知りたいことを聞けば教えてくれる(詳し過ぎることも含むが…)」ぐらいの
ほうが、いわゆる人の気持ちを考えて対応する技術よりも重要かもしれない。
逆に、アパレル系の店員や、高額商品の営業になったりすると
コミュニケーションの技術が売り上げに関係しやすくなると考えられます。
それでも、そこで求められる技術はカウンセラーや福祉相談員と比べると
決して高くはないような気がします。
いや、実際のところ、カウンセラーや福祉相談員は、
人の心や人生の大きな問題に対応するという点で高い技術が期待されますが、
だからといって、それがどれぐらい必要かといえば回答は難しいところがあります。
人の心と密接に関わる以上、高い技術であって欲しいと思います。
少しでも高い満足が得られるようにと心がけていることを願います。
でも、どこまで高い技術が必要かというと…。
クレームばかりで仕事にならないとか、評判が悪くて仕事にならないのでは
運営上で困ってしまいますから、その場合には技術の向上が『必要』でしょう。
しかし、大きな不満も出てこない、ある程度は仕事として成立している、
これ以上の技術を磨いたところで得られる成果は小さい…
となってくると、はたして、どこまで技術を磨けば良いのでしょうか?
そこは、もう、関わっている本人が
「自分の気持ちとして」どれだけ大切に向き合いたいか、
という部分に関わるのかもしれません。
僕が学んできた先生たちは、偶然、その技術に妥協のない人たちでした。
技術を磨いて得られる成果を気にすることなく、
その技術がクライアントのために役に立つという一点だけから
ひたすらに技術を磨いた人たちでした。
僕は、そのスタイルが好きだったので自分も技術を磨こうと思いますし、
自分のセミナーでは細部にまでこだわって技術を扱うつもりです。
ただ、1つ言えるのは、
コミュニケーションが上手くいくと、自分も嬉しい
ということです。
そこも重要なモチベーションを上げる要因なのかもしれません。
以前、仲間として頻繁にペアを組んでセミナーをしていた人が言っていた
「『コミュニケーションって、こんなに楽しいんだ』ということを感じて欲しい」
との言葉が頭に浮かびます。
まぁ、コミュニケーションを学ぼうという段階で
人に対して並々ならぬ想いを持っていることが良くありますから、
そうした同志とコミュニケーションを取れる機会そのものが
何よりも貴重な時間だという気もします。
2011年09月08日
仏像を見てきましたが
最近、仏教が流行っているそうです。
そればかりか、仏像ブームでもあるとか。
仏像を見て、「カッコイイ〜」という感想になるらしいです。
まぁ、仏像と一口に言っても、色々な種類がありますから
「如来」以外の仏像には見た目が華やかなものが多く、
手を合わせて祈りを捧げる以外の気分になる人がいても納得ではあります。
ちなみに、以前の僕は仏像に対して特に何も思わなかったというか、
感想の大半は「細かく作ってあるなぁ」とか「面白いバランスだなぁ」とか
単純に彫像の技術的側面に意識が向くことが多かった気がします。
絵画も同様に技術的観点に意識が向きやすかったんですが、
最近は違う見方ができるようになってきました。
絵画の場合には、強調されている要素から作者のゲシュタルトを想像して
それを捉えたときに自分の中に沸いてくる感覚を味わうようになっています。
西洋彫刻は、立体にはなっているとはいえ、見方は絵画と一緒。
でも仏像は違うんです。
見ようと思えば、絵画と同様に見られるかもしれませんが
仏像の場合には、なんとなくペーシングをしたくなります。
正確にいうと、ミラーリングをしたときの状態を想像して
「自分が仏像と同じ筋肉の使い方をしたらどうなるか?」
という感覚を体験する、という感じでしょうか。
慣れてくると、実際に体の姿勢を同じにしなくても
ミラーリングしたときの体の状態を想像できるようになります。
ミラーリングをラポールの観点から使うのではなく、
相手の状態を感じ取るために、体の使い方を合わせる。
この場合、自分の体の感覚を予想することになりますから、
慣れてくれば、見た姿勢と同じ姿勢をしたときの状態を想像するだけで
そのときの気分が生理的な状態の変化として感じられるわけです。
慣れるとショートカットができるから想像するだけで良いのであって、
慣れるまでは実際に体を動かしてみるほうが堅実だと思います。
ちなみに僕は、相手の体の動きを見たときに
どういう筋肉の使い方をしているかというのを想像するのが
ある程度は得意だったみたいです。
なので、プロ野球選手の形態模写をするのに早かったんだと思います。
だいたい、一回見て、記憶を頼りにやってみると8割ぐらいの完成度。
あとは細かい修正を加えていく感じでした。
最近は、コミュニケーションのトレーニングの成果もあって
そういう体の動きを感じ取る精度が上がってきたと考えられます。
で、仏像に対しても同様に感覚を想像してみるようになった、と。
その感じでいうと、多くの「如来」像は、綺麗な姿勢をしています。
無理のない姿勢や仕草であることが多いので、見ていても心地良い。
他は色々です。
もちろん、そのような仏像の体に姿勢を合わせるようなことだけでなく
ある程度は、個々の役割のような知識も気になるところがあります。
そこまで踏まえると、なんだか千手観音っていうのは、
個人的に随分と切ない印象を受けます。
千手観音の手が沢山あるのは、多くの人を、もれなく救うため…だとか。
ただ、良く見てみると、沢山の手は背中から出ているんです。
しかもメインの2本の腕よりも小さい。
なので、背中側から出ている腕を無視してみると
あくまで静かに両手を合掌しているだけにも見えます。
まぁ、中には前に組んでいる手が複数組あるタイプもあるようですが、
いずれにせよ、背中側から沢山の小さい手が伸びているのは一緒です。
後ろにある全ての手には色々な道具が握られています。
「あらゆる方法を手にしているので、どんな人でも救える」
とでも表現しているかのように思えます。
また、表情がシレッとしているんです。
仏像特有といいますか、落ち着いた表情。
別段、頑張っているような表情ではないわけです。
後ろの腕を無視すれば、あくまで、静かに合掌して何かを祈っているかのよう。
それらの印象を総合すると、
表向きは静かに落ち着いた様子で人々を祈っているように見せながら、
実は見えないところで、あらゆる手段を駆使して、一人残らず救おうとしている、
頑張っている様子は一切見せることなく…
そんな姿が想像されます。
人々からは一方的にお願いされるばかり。
「助けて下さい、お願いします、どうか幸せに…」そんな頼み事を絶えず聞き、
何一つ見返りがないばかりか、感謝すらほとんどされることもない。
それでもずっと救い続けるんです。
力が広大で、慈悲深いんですって。
仏様(…になるはずの存在?)ですから、それで良いんでしょうかね。
腕が千本あって、道具も沢山持っていたとしても
大変な役目だろうなぁと思ってしまいます。
修行が足りません。
そればかりか、仏像ブームでもあるとか。
仏像を見て、「カッコイイ〜」という感想になるらしいです。
まぁ、仏像と一口に言っても、色々な種類がありますから
「如来」以外の仏像には見た目が華やかなものが多く、
手を合わせて祈りを捧げる以外の気分になる人がいても納得ではあります。
ちなみに、以前の僕は仏像に対して特に何も思わなかったというか、
感想の大半は「細かく作ってあるなぁ」とか「面白いバランスだなぁ」とか
単純に彫像の技術的側面に意識が向くことが多かった気がします。
絵画も同様に技術的観点に意識が向きやすかったんですが、
最近は違う見方ができるようになってきました。
絵画の場合には、強調されている要素から作者のゲシュタルトを想像して
それを捉えたときに自分の中に沸いてくる感覚を味わうようになっています。
西洋彫刻は、立体にはなっているとはいえ、見方は絵画と一緒。
でも仏像は違うんです。
見ようと思えば、絵画と同様に見られるかもしれませんが
仏像の場合には、なんとなくペーシングをしたくなります。
正確にいうと、ミラーリングをしたときの状態を想像して
「自分が仏像と同じ筋肉の使い方をしたらどうなるか?」
という感覚を体験する、という感じでしょうか。
慣れてくると、実際に体の姿勢を同じにしなくても
ミラーリングしたときの体の状態を想像できるようになります。
ミラーリングをラポールの観点から使うのではなく、
相手の状態を感じ取るために、体の使い方を合わせる。
この場合、自分の体の感覚を予想することになりますから、
慣れてくれば、見た姿勢と同じ姿勢をしたときの状態を想像するだけで
そのときの気分が生理的な状態の変化として感じられるわけです。
慣れるとショートカットができるから想像するだけで良いのであって、
慣れるまでは実際に体を動かしてみるほうが堅実だと思います。
ちなみに僕は、相手の体の動きを見たときに
どういう筋肉の使い方をしているかというのを想像するのが
ある程度は得意だったみたいです。
なので、プロ野球選手の形態模写をするのに早かったんだと思います。
だいたい、一回見て、記憶を頼りにやってみると8割ぐらいの完成度。
あとは細かい修正を加えていく感じでした。
最近は、コミュニケーションのトレーニングの成果もあって
そういう体の動きを感じ取る精度が上がってきたと考えられます。
で、仏像に対しても同様に感覚を想像してみるようになった、と。
その感じでいうと、多くの「如来」像は、綺麗な姿勢をしています。
無理のない姿勢や仕草であることが多いので、見ていても心地良い。
他は色々です。
もちろん、そのような仏像の体に姿勢を合わせるようなことだけでなく
ある程度は、個々の役割のような知識も気になるところがあります。
そこまで踏まえると、なんだか千手観音っていうのは、
個人的に随分と切ない印象を受けます。
千手観音の手が沢山あるのは、多くの人を、もれなく救うため…だとか。
ただ、良く見てみると、沢山の手は背中から出ているんです。
しかもメインの2本の腕よりも小さい。
なので、背中側から出ている腕を無視してみると
あくまで静かに両手を合掌しているだけにも見えます。
まぁ、中には前に組んでいる手が複数組あるタイプもあるようですが、
いずれにせよ、背中側から沢山の小さい手が伸びているのは一緒です。
後ろにある全ての手には色々な道具が握られています。
「あらゆる方法を手にしているので、どんな人でも救える」
とでも表現しているかのように思えます。
また、表情がシレッとしているんです。
仏像特有といいますか、落ち着いた表情。
別段、頑張っているような表情ではないわけです。
後ろの腕を無視すれば、あくまで、静かに合掌して何かを祈っているかのよう。
それらの印象を総合すると、
表向きは静かに落ち着いた様子で人々を祈っているように見せながら、
実は見えないところで、あらゆる手段を駆使して、一人残らず救おうとしている、
頑張っている様子は一切見せることなく…
そんな姿が想像されます。
人々からは一方的にお願いされるばかり。
「助けて下さい、お願いします、どうか幸せに…」そんな頼み事を絶えず聞き、
何一つ見返りがないばかりか、感謝すらほとんどされることもない。
それでもずっと救い続けるんです。
力が広大で、慈悲深いんですって。
仏様(…になるはずの存在?)ですから、それで良いんでしょうかね。
腕が千本あって、道具も沢山持っていたとしても
大変な役目だろうなぁと思ってしまいます。
修行が足りません。
2011年09月06日
英語の勉強法を考えてみました
ちょっと変わった英語の勉強法を考えました。
題して、『カタコト日本語English 』とでも言いましょうか。
英語学習のプロセスとして、
日本語をカタコトにするステップを入れる
という方法です。
これは英語学習を進めていくにあたって、
どのような学習レベルでも役立つと思います。
なぜなら、この方法は日本語と英語の根本的な性質の違いに基づき、
理解においても発話においても、発想法を英語モードに変える訓練だからです。
英語を母国語としない場合、日本語と英語における
頭の使い方の違いは、いつまでも最大の障壁として残ってしまいます。
発音や聞き取りの力、ボキャブラリーも重要でしょう。
しかし、そことは別次元の英語能力があるはずなんです。
言ってみれば、英語圏の国語力です。
これを飛躍的に伸ばせる方法だろうという提案です。
理想をいえば、英語学習において日本語を介さないのが望ましいのでしょうが、
完全に日本語を挟まずに英語を学ぶとなると
英語圏の子供が英語を覚えるのと同じぐらい時間がかかってしまいます。
それは言語学習の過程で、概念も学んでいくからです。
体験を通じて概念を理解できるようになっていき、
ある概念に対して言語のラベルが貼られるわけです。
犬を見て「犬」という言葉を使って理解できるのは、
犬という概念を理解できているところに、「犬」という単語が対応しているから。
ここで日本語を介さずに「 dog 」を理解しようとすると
「 dog 」が何を指しているのかを体験的に理解する必要が出てしまいます。
幼少期からの言語学習では、そうした地道な経験の一般化と
それに対応する言語の関連付けがなされていますが、
第二言語をそのプロセスで学ぶのは、もったいないでしょう。
「 dog 」=「犬」と覚えれば済むわけですから。
英語学習について「日本語を介さないで英語を理解する」と言われるのは、
「英語を聞いて、日本語訳を作って、それを理解する」というプロセスを省き、
英語を聞いただけで理解できるという最終段階を目指す、
ということじゃないかと思います。
「 I have a dog. 」という文章を聞いたときに
「えーっと、『私は、犬を持っています』か」と頭の中で日本語訳をして
「犬を飼っているということか」という理解に至るのは時間がかかります。
なので、
「 I have a dog. 」を聞いたときと
「私は犬を飼っています」を聞いたときとで
同じ時間で内容を理解できれば良いということでしょう。
「私、犬を飼っているんです」 ―「へぇ。種類は何ですか?」
と反応するのと同様に
「 I have a dog. 」 ―「へぇ。種類は何ですか?」
と頭に浮かぶようになりたい。
あくまで、最終的に、です。
学習の過程で、日本語訳をしている時期があっても構わないはずです。
計算と同じようなものです。
「2×2=?」
という式を見れば、「4」であることが瞬間的に頭に浮かぶでしょう。
いちいち、「『ににんがし』だから、4だ!」とはしない。
それでも、掛け算を練習する過程では、九九を頭の中で暗唱した時期がある。
それを続けているうちに、最終的にはショートカットができて
「2×2=」が「4」だと、すぐに頭に浮かぶようになり、
「 I have a dog. 」も、「へぇ、犬を飼っているんだ…」と思えるようになるんです。
なので、日本語を介さないで英語を学ぶという発想は効率的ではないでしょう。
最終的には日本語訳を使わずに理解できる状態を目指すけれど、
日本語を活用しながら英語を勉強する時期があってもいいはずなんです。
重要なのは、その日本語訳をどのように使うか、です。
日本語と英語の大きな違いに、語順があります。
日本語では主語が省略されることもあり、述語は最後に出てきます。
英語は主語、動詞、の後に詳細な情報が続きます。
日本語は助詞を効果的に使うことで、語順への依存性が低くなっています。
英語には助詞がありません。
前置詞が近い働きをすることもありますが、
主要部分では、助詞を使わない代わりに、語順が重要な意味を持ちます。
「太郎が花子にプレゼントをあげた」
という文章は、日本語だと
「花子に太郎がプレゼントをあげた」
「太郎がプレゼントを花子にあげた」
「花子にプレゼントを太郎があげた」
「プレゼントを花子に太郎があげた」
「プレゼントを太郎が花子にあげた」
の、いずれの形にもできます。
ニュアンスや自然さには違いがありますが、文法的には正しいわけです。
一方、英語の場合
「 Taro gave Hanako a present. 」
の順番以外はありません。
「 Taro gave a present Hanako. 」
では意味が違ってしまいます。
英語の場合、順番そのものが役割を持っているわけです。
順番が意味を決めているといっても良いでしょう。
動作や力、影響の及ぶ方向性が、順番によって規定されている。
日本語では、影響の及ぶ方向性を、助詞が決めていることになります。
だから順番を変えても意味が変わらない。
英語でも、前置詞を使うことで多少アレンジができて
「 Taro gave a present to Hanako. 」
でも意味が通りますが、
基本的な文型には制約があります。
こうした語順の違いは、考え方の違いにもつながります。
言語的に情報を整理したり、情報伝達をする場合には
語順の影響は大きいでしょう。
文章や言葉で説明される内容を理解するためには
前に表現された内容を頭に保持しておく必要があります。
前の情報が残っているから脈絡が生まれ、話の展開が分かる。
読解であれ、会話であれ、話を理解するためには
前後の繋がりが欠かせないわけです。
接続詞が使われていたり、関係代名詞が使われたりすると
英語の一文が長くなっていきます。
長くなった文章を理解するには、文章を保持できていないといけない。
日本語と英語の違いが表れる典型的な例は、否定の表現でしょう。
「ピンクのゾウを思い浮かべないで下さい、と言われて
思い浮かべないことのできる人など誰もいません」
という文章は、おそらく次のようなステップで理解されると考えられます。
「ピンクのゾウ」
(ピンクのゾウを思い描く)
→「ピンクのゾウを思い浮かべちゃいけないんだ」
(思い描いたピンクのゾウを消す/否定する)
→「誰かが、ピンクのゾウを思い浮かべてはいけない、と言われた状況…」
(何者かの声で「ピンクのゾウを思い浮かべないで下さい」というセリフがあり
それを誰かが聞いている状況)
→「誰かが、ピンクのゾウを思い浮かべてはいけない、と言われた状況で、
その人が、ピンクのゾウを思い浮かべないでいられる状態…」
(「ピンクのゾウを思い浮かべないで下さい」というセリフを聞いた人が
頭の中にはピンクのゾウが無い状態)
→「ピンクのゾウを思い浮かべてはいけない、と言われた状況で、
思い浮かべないでいられる人…なんていない」
(「ピンクのゾウを思い浮かべないで下さい」というセリフを聞いた人が
頭の中にはピンクのゾウが無いままでいる状態…を自分で思い描き、
「そんな人は存在しない」とそれを消す/否定する)
これが英語だと
「 There is no one who can avoid visualizing a image of a pink elephant
just after being told not to do. 」
という感じでしょうか。
この場合、まず先に
「誰もいないんだ」
と考え、次に来るであろう「どんな人が?」という予想をします。
そして
「誰もいない。ピンクのゾウを思い浮かべないでいられる人なんて」
と理解する。
そこまでの段階では、
「ピンクのゾウを思い浮かべられる人なんていない?そうかな?」
と疑問も沸くかもしれません。
この疑問が次の展開を期待させます。
その後に
「ピンクのゾウを思い浮かべられる人なんていない。そうかな?
あぁ、思う浮かべちゃダメって言われたときの話ね。」
という形で理解が進むと想像できます。
一連の流れをまとめると、
「誰もいない(なんの話?)、思い浮かべないでいる人なんて(何を?)、
ピンクのゾウを(そうかな?)、言われたときに(何を言われたとき?)
そうしちゃダメって。」
となる。
ですから、日本語として無理やり変換すると
「誰もいない、思い浮かべないでいられる人なんて、ピンクのゾウを、
言われたときに、そうしちゃダメって。」
という文章なわけです。
このヘンテコな日本語を理解するときに
「しちゃダメって言われたときに、
ピンクのゾウを思い浮かべないでいられる人なんていない」
という日本語訳に並び変え、さらに
「しちゃダメ」の部分が何を指すかを対応させて
「ピンクのゾウを思い浮かべないで下さいと言われて
思い浮かべないでいられる人なんていない」
という自然な形に変換する…。
そんなことを毎回やっていたら理解のスピードが上がらないのは当然です。
だからこそ、僕が提案する英語学習法は、
このヘンテコな段階の日本語の文章で理解できるようにする
という方法なんです。
日本語としてはカタコトな
「誰もいない、思い浮かべないでいられる人、
言われたとき、そうしちゃダメ。」
がスムーズに理解できれば、
英語の語順で話を理解できるということです。
長い構造の文章になっても、このカタコトの日本語訳までの段階で
内容を理解していくことができれば英語の理解がしやすくなるでしょう。
つまり、頭の中に保持しておく文脈的情報を日本語と違う形で捉えておいて
それでも内容がイメージできるようにしておく、ということです。
コツは、上の説明の中でカッコ書きで追加した
「誰もいない →(なんの話?)
思い浮かべないでいる人 →(何を?)
ピンクのゾウを →(そうかな?)
言われたときに →(何を言われたとき?)
そうしちゃダメ(って)」
が予想できるようになることだと考えられます。
読む、書く、聞く、話す、は全て相互作用していて
何かの能力を上げると、他の能力も一緒に上がることは良くあります。
自分がスラスラと話せるフレーズや構造であれば、
聞いて理解するのもスムーズなはずです。
(音としての聞き取りも、話したことのある文章なら容易になります)
ですから、このカタコトな日本語で話せるようになれば、
カタコトの日本語を理解するのも易しくなりますし、
英語の理解にも繋がってくるはずです。
もちろん、カタコトの日本語で話せるようにするトレーニングは、
その文章の順番のままで英語を話すトレーニングへ繋げます。
誰かが話していて理解できなかった言葉とか、
読んでいて理解に苦しんだ文章などは、
しっかりと構造として整理して理解した上で、
その構造のままカタコト日本語に変換する。
カタコトの日本語で、その複雑な構造の文章を話せるようにして
その文章の意味内容も掴める感覚を身につける。
それからカタコトの日本語に沿って、複雑な文章を英語に直していく。
こういうことを続けていけば、慣れてくるにしたがって
無意識的なショートカットが作られていきますから
複雑な文章の形であっても使いこなせるようになりますし、
自分が使いこなせる文章であれば読み・聞きを通した理解も容易になります。
カタコトの日本語に変換することで英文が理解できる場合には、
自分でカタコトの日本語を使って作文をすると良いと思います。
自分の表現したいことをカタコトの日本語で言い表す練習をする。
それをやったら、必ず英語に変換する。
これを続けていけば、英語の発想の仕方が身についていくと予想しています。
言葉を使うときに、頭に浮かんでくる順番を英語モードにしてしまうわけです。
通訳がやっている『リプロセシング』に近いかもしれませんが、
わざとカタコトのまま理解して使えるようにする、というのがポイントです。
学習プログラムとして使えるようにするためには
カタコト変換のルールを明確にするのが必要だと考えています。
ちょっと試験的に取り組んでみたいものです。
題して、『カタコト日本語English 』とでも言いましょうか。
英語学習のプロセスとして、
日本語をカタコトにするステップを入れる
という方法です。
これは英語学習を進めていくにあたって、
どのような学習レベルでも役立つと思います。
なぜなら、この方法は日本語と英語の根本的な性質の違いに基づき、
理解においても発話においても、発想法を英語モードに変える訓練だからです。
英語を母国語としない場合、日本語と英語における
頭の使い方の違いは、いつまでも最大の障壁として残ってしまいます。
発音や聞き取りの力、ボキャブラリーも重要でしょう。
しかし、そことは別次元の英語能力があるはずなんです。
言ってみれば、英語圏の国語力です。
これを飛躍的に伸ばせる方法だろうという提案です。
理想をいえば、英語学習において日本語を介さないのが望ましいのでしょうが、
完全に日本語を挟まずに英語を学ぶとなると
英語圏の子供が英語を覚えるのと同じぐらい時間がかかってしまいます。
それは言語学習の過程で、概念も学んでいくからです。
体験を通じて概念を理解できるようになっていき、
ある概念に対して言語のラベルが貼られるわけです。
犬を見て「犬」という言葉を使って理解できるのは、
犬という概念を理解できているところに、「犬」という単語が対応しているから。
ここで日本語を介さずに「 dog 」を理解しようとすると
「 dog 」が何を指しているのかを体験的に理解する必要が出てしまいます。
幼少期からの言語学習では、そうした地道な経験の一般化と
それに対応する言語の関連付けがなされていますが、
第二言語をそのプロセスで学ぶのは、もったいないでしょう。
「 dog 」=「犬」と覚えれば済むわけですから。
英語学習について「日本語を介さないで英語を理解する」と言われるのは、
「英語を聞いて、日本語訳を作って、それを理解する」というプロセスを省き、
英語を聞いただけで理解できるという最終段階を目指す、
ということじゃないかと思います。
「 I have a dog. 」という文章を聞いたときに
「えーっと、『私は、犬を持っています』か」と頭の中で日本語訳をして
「犬を飼っているということか」という理解に至るのは時間がかかります。
なので、
「 I have a dog. 」を聞いたときと
「私は犬を飼っています」を聞いたときとで
同じ時間で内容を理解できれば良いということでしょう。
「私、犬を飼っているんです」 ―「へぇ。種類は何ですか?」
と反応するのと同様に
「 I have a dog. 」 ―「へぇ。種類は何ですか?」
と頭に浮かぶようになりたい。
あくまで、最終的に、です。
学習の過程で、日本語訳をしている時期があっても構わないはずです。
計算と同じようなものです。
「2×2=?」
という式を見れば、「4」であることが瞬間的に頭に浮かぶでしょう。
いちいち、「『ににんがし』だから、4だ!」とはしない。
それでも、掛け算を練習する過程では、九九を頭の中で暗唱した時期がある。
それを続けているうちに、最終的にはショートカットができて
「2×2=」が「4」だと、すぐに頭に浮かぶようになり、
「 I have a dog. 」も、「へぇ、犬を飼っているんだ…」と思えるようになるんです。
なので、日本語を介さないで英語を学ぶという発想は効率的ではないでしょう。
最終的には日本語訳を使わずに理解できる状態を目指すけれど、
日本語を活用しながら英語を勉強する時期があってもいいはずなんです。
重要なのは、その日本語訳をどのように使うか、です。
日本語と英語の大きな違いに、語順があります。
日本語では主語が省略されることもあり、述語は最後に出てきます。
英語は主語、動詞、の後に詳細な情報が続きます。
日本語は助詞を効果的に使うことで、語順への依存性が低くなっています。
英語には助詞がありません。
前置詞が近い働きをすることもありますが、
主要部分では、助詞を使わない代わりに、語順が重要な意味を持ちます。
「太郎が花子にプレゼントをあげた」
という文章は、日本語だと
「花子に太郎がプレゼントをあげた」
「太郎がプレゼントを花子にあげた」
「花子にプレゼントを太郎があげた」
「プレゼントを花子に太郎があげた」
「プレゼントを太郎が花子にあげた」
の、いずれの形にもできます。
ニュアンスや自然さには違いがありますが、文法的には正しいわけです。
一方、英語の場合
「 Taro gave Hanako a present. 」
の順番以外はありません。
「 Taro gave a present Hanako. 」
では意味が違ってしまいます。
英語の場合、順番そのものが役割を持っているわけです。
順番が意味を決めているといっても良いでしょう。
動作や力、影響の及ぶ方向性が、順番によって規定されている。
日本語では、影響の及ぶ方向性を、助詞が決めていることになります。
だから順番を変えても意味が変わらない。
英語でも、前置詞を使うことで多少アレンジができて
「 Taro gave a present to Hanako. 」
でも意味が通りますが、
基本的な文型には制約があります。
こうした語順の違いは、考え方の違いにもつながります。
言語的に情報を整理したり、情報伝達をする場合には
語順の影響は大きいでしょう。
文章や言葉で説明される内容を理解するためには
前に表現された内容を頭に保持しておく必要があります。
前の情報が残っているから脈絡が生まれ、話の展開が分かる。
読解であれ、会話であれ、話を理解するためには
前後の繋がりが欠かせないわけです。
接続詞が使われていたり、関係代名詞が使われたりすると
英語の一文が長くなっていきます。
長くなった文章を理解するには、文章を保持できていないといけない。
日本語と英語の違いが表れる典型的な例は、否定の表現でしょう。
「ピンクのゾウを思い浮かべないで下さい、と言われて
思い浮かべないことのできる人など誰もいません」
という文章は、おそらく次のようなステップで理解されると考えられます。
「ピンクのゾウ」
(ピンクのゾウを思い描く)
→「ピンクのゾウを思い浮かべちゃいけないんだ」
(思い描いたピンクのゾウを消す/否定する)
→「誰かが、ピンクのゾウを思い浮かべてはいけない、と言われた状況…」
(何者かの声で「ピンクのゾウを思い浮かべないで下さい」というセリフがあり
それを誰かが聞いている状況)
→「誰かが、ピンクのゾウを思い浮かべてはいけない、と言われた状況で、
その人が、ピンクのゾウを思い浮かべないでいられる状態…」
(「ピンクのゾウを思い浮かべないで下さい」というセリフを聞いた人が
頭の中にはピンクのゾウが無い状態)
→「ピンクのゾウを思い浮かべてはいけない、と言われた状況で、
思い浮かべないでいられる人…なんていない」
(「ピンクのゾウを思い浮かべないで下さい」というセリフを聞いた人が
頭の中にはピンクのゾウが無いままでいる状態…を自分で思い描き、
「そんな人は存在しない」とそれを消す/否定する)
これが英語だと
「 There is no one who can avoid visualizing a image of a pink elephant
just after being told not to do. 」
という感じでしょうか。
この場合、まず先に
「誰もいないんだ」
と考え、次に来るであろう「どんな人が?」という予想をします。
そして
「誰もいない。ピンクのゾウを思い浮かべないでいられる人なんて」
と理解する。
そこまでの段階では、
「ピンクのゾウを思い浮かべられる人なんていない?そうかな?」
と疑問も沸くかもしれません。
この疑問が次の展開を期待させます。
その後に
「ピンクのゾウを思い浮かべられる人なんていない。そうかな?
あぁ、思う浮かべちゃダメって言われたときの話ね。」
という形で理解が進むと想像できます。
一連の流れをまとめると、
「誰もいない(なんの話?)、思い浮かべないでいる人なんて(何を?)、
ピンクのゾウを(そうかな?)、言われたときに(何を言われたとき?)
そうしちゃダメって。」
となる。
ですから、日本語として無理やり変換すると
「誰もいない、思い浮かべないでいられる人なんて、ピンクのゾウを、
言われたときに、そうしちゃダメって。」
という文章なわけです。
このヘンテコな日本語を理解するときに
「しちゃダメって言われたときに、
ピンクのゾウを思い浮かべないでいられる人なんていない」
という日本語訳に並び変え、さらに
「しちゃダメ」の部分が何を指すかを対応させて
「ピンクのゾウを思い浮かべないで下さいと言われて
思い浮かべないでいられる人なんていない」
という自然な形に変換する…。
そんなことを毎回やっていたら理解のスピードが上がらないのは当然です。
だからこそ、僕が提案する英語学習法は、
このヘンテコな段階の日本語の文章で理解できるようにする
という方法なんです。
日本語としてはカタコトな
「誰もいない、思い浮かべないでいられる人、
言われたとき、そうしちゃダメ。」
がスムーズに理解できれば、
英語の語順で話を理解できるということです。
長い構造の文章になっても、このカタコトの日本語訳までの段階で
内容を理解していくことができれば英語の理解がしやすくなるでしょう。
つまり、頭の中に保持しておく文脈的情報を日本語と違う形で捉えておいて
それでも内容がイメージできるようにしておく、ということです。
コツは、上の説明の中でカッコ書きで追加した
「誰もいない →(なんの話?)
思い浮かべないでいる人 →(何を?)
ピンクのゾウを →(そうかな?)
言われたときに →(何を言われたとき?)
そうしちゃダメ(って)」
が予想できるようになることだと考えられます。
読む、書く、聞く、話す、は全て相互作用していて
何かの能力を上げると、他の能力も一緒に上がることは良くあります。
自分がスラスラと話せるフレーズや構造であれば、
聞いて理解するのもスムーズなはずです。
(音としての聞き取りも、話したことのある文章なら容易になります)
ですから、このカタコトな日本語で話せるようになれば、
カタコトの日本語を理解するのも易しくなりますし、
英語の理解にも繋がってくるはずです。
もちろん、カタコトの日本語で話せるようにするトレーニングは、
その文章の順番のままで英語を話すトレーニングへ繋げます。
誰かが話していて理解できなかった言葉とか、
読んでいて理解に苦しんだ文章などは、
しっかりと構造として整理して理解した上で、
その構造のままカタコト日本語に変換する。
カタコトの日本語で、その複雑な構造の文章を話せるようにして
その文章の意味内容も掴める感覚を身につける。
それからカタコトの日本語に沿って、複雑な文章を英語に直していく。
こういうことを続けていけば、慣れてくるにしたがって
無意識的なショートカットが作られていきますから
複雑な文章の形であっても使いこなせるようになりますし、
自分が使いこなせる文章であれば読み・聞きを通した理解も容易になります。
カタコトの日本語に変換することで英文が理解できる場合には、
自分でカタコトの日本語を使って作文をすると良いと思います。
自分の表現したいことをカタコトの日本語で言い表す練習をする。
それをやったら、必ず英語に変換する。
これを続けていけば、英語の発想の仕方が身についていくと予想しています。
言葉を使うときに、頭に浮かんでくる順番を英語モードにしてしまうわけです。
通訳がやっている『リプロセシング』に近いかもしれませんが、
わざとカタコトのまま理解して使えるようにする、というのがポイントです。
学習プログラムとして使えるようにするためには
カタコト変換のルールを明確にするのが必要だと考えています。
ちょっと試験的に取り組んでみたいものです。
2011年09月03日
9月の勉強会
9月の勉強会のお知らせ
日時はブログの片隅に出しておきましたが、
9月の勉強会の詳細をお知らせします。
今回は、すぐに日常生活で役立つことをテーマにします。
ただし、知識として知っていれば良いものではありません。
技術として向上できるようにトレーニングをします。
多くの人が自覚しないままにやっていることかもしれません。
しかし、意識的にトレーニングをしたことのある人は少ないと思います。
自然にやっているときもあるし、全くやっていないときもある…。
それが出来ているときにはコミュニケーションが上手くいっているけれど
出来ていないときには、空回りしたり、裏目に出たりする。
そういう性質の要素が、日常のコミュニケーションには潜んでいます。
できている時があるのなら、それを意図的に使えば良いわけです。
今まで上手くいっていない場面では使えていなかったやり方だと気づき、
自分が意図的に使うように心がければ、結果が変わる可能性は高いでしょう。
なので、トレーニングとは言っていますが、実際には
一度、集中的に気をつける時間を設ければ、
あとは日常で心がけるだけで上手くいきやすくなる。
…そんな便利な性質がありそうです。
今回のテーマは、名前がついた特定の技術ではありません。
もっと幅広く、日常生活の全ての場面で役立つコミュニケーションの要素です。
一言でいうと、『観察力をコミュニケーションに活かす』ということになります。
当然、ベースの観察力が高いほど活かせる量も多くなりますから
観察眼をトレーニングする意味も含まれます。
しかし、より重要なのは、観察した結果を活かすという部分。
見て、気づいて、終わり…ではないんです。
アサガオの観察日記だったら、観察して記録して終わりにしていいんです。
ですが、コミュニケーションは違います。
相手が反応を返してくれるんです。
観察そのものは自分から対象への一方通行でも成立します。
一方、コミュニケーションでは双方向性が出てくる。
やりとりがあるんです。
その双方向性において、観察によって得られる情報は
相手が言葉で話してくれる情報と同様に大切なんです。
ただ一般的には、自分が発している言葉以外のメッセージに対して
自覚しているという人は少ないものですから、
そのメッセージに対する返答を期待するケースは多くはないでしょう。
それが、言葉にして話しかけたのに、一言も返ってこなかったとしたら
ほとんどの人が「無視をされた」と感じるんじゃないでしょうか。
もちろん、言葉以外のメッセージでも返答を期待することもあります。
例えば、すれ違うときに小さくお辞儀をするような場合です。
挨拶のようなことになると返ってくるのが当然という期待が高まるようですが、
どのくらいの言葉にしていないメッセージに対して
相手からの返答を期待するのか、というのは個人差があると思います。
キョロキョロしている人であっても「何かお探しですか?」という返答を
全ての人がいつも期待しているわけではないわけです。
一方で、多くの人が言葉に出さないけれど期待していることもあります。
電車の中で電話をしている人に視線が集中するのは
「電話をやめる」という形での返答です。
多くの人が何らかの返答や対応を期待している場面で
そのままの状況を進めていると、
その人は「空気が読めない」と呼ばれることになります。
逆に、ほとんど対応を期待していないぐらいの小さなメッセージに対して
的確な返答や対応を返してくれると「気がきく」と言われる。
今回の勉強会で扱っていく内容は、この部分です。
観察によって相手の発している言葉以外のメッセージをキャッチする。
そして、それに合わせた対応をする。
この流れをトレーニングします。
観察をして、気づいて、何をするか?
こう考えると、心がけるポイントは2つ出てきます。
1つは、気づけるかどうか。
2つ目は、何をするか。
コミュニケーションが上手い、と言われる人は
おそらく、この2つの要素を高いレベルで行える人でしょう。
相手のメッセージに気づけるかどうかは、同じ人でも状況によって異なります。
人によってメッセージの出し方が違っていたり、
話題によって相手のメッセージへの注意が低下したりします。
ですから、着眼点を増やして気づける量を上げるトレーニングが有効です。
気づいた後に何をしたらいいか。
この技量を上げるには、相手の個性に合わせるのが効果的です。
まずは、相手の個性や好みを理解するトレーニングが役立つでしょう。
相手の好みを予想する。
自分の対応の結果、どのように相手が反応するかを予想する。
これを意識しながら、コミュニケーションを進めていくトレーニングが
今回の勉強会では、1つの中心的な取り組みになるでしょう。
そして、「何をしたらいいか」を考えるトレーニングでは、
直接的に「何をして欲しかったか」を相手から教えてもらうことができます。
これはトレーニングという特殊な場面だからこそ出来ることです。
日常生活では聞きにくいことも、練習の場だから聞けるわけです。
これも非常に大きなメリットだと思います。
相手からの言葉以外のメッセージを受け取り、
相手の期待に合わせた対応ができるようになる。
そういう方向を目指していきます。
同じ飲食店に行っても、
ある店員さんは視野の中に手を上げているお客さんがいても気づかない。
ある店員さんはメニューから顔を上げるだけで注文を取りにやってくる。
観察力によって気づける情報量が上がり、
それに対して適切な対応ができるようになると、
そのコミュニケーションは円滑に進みやすくなるでしょう。
今回は、気づいた後の対応の部分を言葉で練習していきますから
対話の場面を中心に進めていくことになるはずです。
それでもエッセンスは、あらゆる場面に応用できると思います。
どういうわけか、人は「分かってほしい」気持ちを持っているようです。
しかしながら、分かってくれる人は決して多くない。
ここで気をつけないといけないのは、
「分かってくれた」と感じられるかどうかです。
ある人が自分のことを分かってくれたとしても、
その人が本当に分かってくれているかどうかを知ることはできません。
だからといって「私はあなたのことを分かっています」と言ったところで
それをそのまま受け取る人も少ないでしょう。
「この人は私のことを分かってくれている」と感じられるような
言葉や態度で対応してくれた人に対してだけ、
「分かってくれた」と思えるわけです。
分かっているだけでは足りないんです。
分かっていることが伝わる必要があるんです。
そういう人が求められている気がします。
勉強会の開催日は、連休の真っただ中です。
あまり多くの人を気遣った日程設定とは言えないかもしれません。
祝日開催になりますが、ご都合がつきましたら、是非お越しください。
なかなか体験できない練習内容だと思います。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
☆気がかりがありましたら、お問い合わせください。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
≪定期勉強会≫
【日時】 9月23日(金・祝) 10:00〜16:30
★今回は終日でのご参加となります。
【場所】 滝野川会館 303集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
【参加費】 ・・・7,000円
当日、会場にてお支払いください。
【テーマ】 『観察力』を会話に活かす
〜共感と気配りの視点〜
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
コミュニケーションや心理に関する内容を学ぶときには
「セミナー」という同じ形式であっても、その方法には色々とあるようです。
多いのは、特定の名前がついた技術や流派を扱うパターン。
あとは、「営業」などと、ある状況を限定してコミュニケーションを扱うものでしょう。
この限定された状況でのトレーニングは実用性が高そうに思えますし、
自分に役立つものを1つでも手に入れられれば即効性もある。
その一方で、状況が限定されて具体的になればなるほど、
講師の経験や考えが色濃く反映されやすくなり、一般性は下がる傾向にあります。
ある人にとっては役立つけれど、別の人には合わない…そんなリスクがある。
また、特定の技術に絞り込むと、セミナーはやりやすくなります。
内容も詳しくできるし、理論的な部分も含むことができる。
参加している側からしても、専門的なことを学んだ満足感があるでしょう。
ところが、技術として限定される度合いが高いほど
その技術を使う場面にならなければ利用できないこともあります。
そういうこともあって、この勉強会では
幅広い場面で使える技術をテーマに設定しているつもりです。
今回のテーマは、「技術」という名前をつけようとしたら
「共感の技術」とか「気配りの技術」と呼んでも良い内容かもしれません。
それでも、あえて技術ではないトレーニングとして位置づけることにしました。
日常で即効性があるぐらい役に立つコミュニケーションの内容だと思います。
高度なコミュニケーション力が求められる営業や相談業務の人でも
同僚や友達との会話に苦手意識がある人でも、
自然に上手くいく方法を、自分で工夫できるようになると期待しています。
コミュニケーションという幅広いテーマに対して
上手くいくためのトレーニング内容も幅広いままで設定してあるということです。
ちょっと特殊な形態かもしれませんし、
心惹かれるようなインパクトもないかもしれません。
それでも、
「なんとなく楽しんでやっていたら
いつのまにかコミュニケーションが上手くいっていた」
なんていう結果を思い描いています。
地味ながら、味わい深くて栄養がある…、
そんなイメージを持って頂けると良いような気がします。
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています。
日時はブログの片隅に出しておきましたが、
9月の勉強会の詳細をお知らせします。
今回は、すぐに日常生活で役立つことをテーマにします。
ただし、知識として知っていれば良いものではありません。
技術として向上できるようにトレーニングをします。
多くの人が自覚しないままにやっていることかもしれません。
しかし、意識的にトレーニングをしたことのある人は少ないと思います。
自然にやっているときもあるし、全くやっていないときもある…。
それが出来ているときにはコミュニケーションが上手くいっているけれど
出来ていないときには、空回りしたり、裏目に出たりする。
そういう性質の要素が、日常のコミュニケーションには潜んでいます。
できている時があるのなら、それを意図的に使えば良いわけです。
今まで上手くいっていない場面では使えていなかったやり方だと気づき、
自分が意図的に使うように心がければ、結果が変わる可能性は高いでしょう。
なので、トレーニングとは言っていますが、実際には
一度、集中的に気をつける時間を設ければ、
あとは日常で心がけるだけで上手くいきやすくなる。
…そんな便利な性質がありそうです。
今回のテーマは、名前がついた特定の技術ではありません。
もっと幅広く、日常生活の全ての場面で役立つコミュニケーションの要素です。
一言でいうと、『観察力をコミュニケーションに活かす』ということになります。
当然、ベースの観察力が高いほど活かせる量も多くなりますから
観察眼をトレーニングする意味も含まれます。
しかし、より重要なのは、観察した結果を活かすという部分。
見て、気づいて、終わり…ではないんです。
アサガオの観察日記だったら、観察して記録して終わりにしていいんです。
ですが、コミュニケーションは違います。
相手が反応を返してくれるんです。
観察そのものは自分から対象への一方通行でも成立します。
一方、コミュニケーションでは双方向性が出てくる。
やりとりがあるんです。
その双方向性において、観察によって得られる情報は
相手が言葉で話してくれる情報と同様に大切なんです。
ただ一般的には、自分が発している言葉以外のメッセージに対して
自覚しているという人は少ないものですから、
そのメッセージに対する返答を期待するケースは多くはないでしょう。
それが、言葉にして話しかけたのに、一言も返ってこなかったとしたら
ほとんどの人が「無視をされた」と感じるんじゃないでしょうか。
もちろん、言葉以外のメッセージでも返答を期待することもあります。
例えば、すれ違うときに小さくお辞儀をするような場合です。
挨拶のようなことになると返ってくるのが当然という期待が高まるようですが、
どのくらいの言葉にしていないメッセージに対して
相手からの返答を期待するのか、というのは個人差があると思います。
キョロキョロしている人であっても「何かお探しですか?」という返答を
全ての人がいつも期待しているわけではないわけです。
一方で、多くの人が言葉に出さないけれど期待していることもあります。
電車の中で電話をしている人に視線が集中するのは
「電話をやめる」という形での返答です。
多くの人が何らかの返答や対応を期待している場面で
そのままの状況を進めていると、
その人は「空気が読めない」と呼ばれることになります。
逆に、ほとんど対応を期待していないぐらいの小さなメッセージに対して
的確な返答や対応を返してくれると「気がきく」と言われる。
今回の勉強会で扱っていく内容は、この部分です。
観察によって相手の発している言葉以外のメッセージをキャッチする。
そして、それに合わせた対応をする。
この流れをトレーニングします。
観察をして、気づいて、何をするか?
こう考えると、心がけるポイントは2つ出てきます。
1つは、気づけるかどうか。
2つ目は、何をするか。
コミュニケーションが上手い、と言われる人は
おそらく、この2つの要素を高いレベルで行える人でしょう。
相手のメッセージに気づけるかどうかは、同じ人でも状況によって異なります。
人によってメッセージの出し方が違っていたり、
話題によって相手のメッセージへの注意が低下したりします。
ですから、着眼点を増やして気づける量を上げるトレーニングが有効です。
気づいた後に何をしたらいいか。
この技量を上げるには、相手の個性に合わせるのが効果的です。
まずは、相手の個性や好みを理解するトレーニングが役立つでしょう。
相手の好みを予想する。
自分の対応の結果、どのように相手が反応するかを予想する。
これを意識しながら、コミュニケーションを進めていくトレーニングが
今回の勉強会では、1つの中心的な取り組みになるでしょう。
そして、「何をしたらいいか」を考えるトレーニングでは、
直接的に「何をして欲しかったか」を相手から教えてもらうことができます。
これはトレーニングという特殊な場面だからこそ出来ることです。
日常生活では聞きにくいことも、練習の場だから聞けるわけです。
これも非常に大きなメリットだと思います。
相手からの言葉以外のメッセージを受け取り、
相手の期待に合わせた対応ができるようになる。
そういう方向を目指していきます。
同じ飲食店に行っても、
ある店員さんは視野の中に手を上げているお客さんがいても気づかない。
ある店員さんはメニューから顔を上げるだけで注文を取りにやってくる。
観察力によって気づける情報量が上がり、
それに対して適切な対応ができるようになると、
そのコミュニケーションは円滑に進みやすくなるでしょう。
今回は、気づいた後の対応の部分を言葉で練習していきますから
対話の場面を中心に進めていくことになるはずです。
それでもエッセンスは、あらゆる場面に応用できると思います。
どういうわけか、人は「分かってほしい」気持ちを持っているようです。
しかしながら、分かってくれる人は決して多くない。
ここで気をつけないといけないのは、
「分かってくれた」と感じられるかどうかです。
ある人が自分のことを分かってくれたとしても、
その人が本当に分かってくれているかどうかを知ることはできません。
だからといって「私はあなたのことを分かっています」と言ったところで
それをそのまま受け取る人も少ないでしょう。
「この人は私のことを分かってくれている」と感じられるような
言葉や態度で対応してくれた人に対してだけ、
「分かってくれた」と思えるわけです。
分かっているだけでは足りないんです。
分かっていることが伝わる必要があるんです。
そういう人が求められている気がします。
勉強会の開催日は、連休の真っただ中です。
あまり多くの人を気遣った日程設定とは言えないかもしれません。
祝日開催になりますが、ご都合がつきましたら、是非お越しください。
なかなか体験できない練習内容だと思います。
<ご参加に際しての注意事項>
※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
過去に勉強会でトレーニングを積まれた方のご参加をお薦めします。
☆気がかりがありましたら、お問い合わせください。
※諸事情により資料作成にかけられる時間が限られていますので
ご用意できる資料が不十分になってしまう可能性があります。
その点をご理解いただいた上で、ご参加ください。
※定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。
※勉強会の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。
詳細は以下のとおりです。
【勉強会の詳細】
≪定期勉強会≫
【日時】 9月23日(金・祝) 10:00〜16:30
★今回は終日でのご参加となります。
【場所】 滝野川会館 303集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
【参加費】 ・・・7,000円
当日、会場にてお支払いください。
【テーマ】 『観察力』を会話に活かす
〜共感と気配りの視点〜
*多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
ご了承ください。
コミュニケーションや心理に関する内容を学ぶときには
「セミナー」という同じ形式であっても、その方法には色々とあるようです。
多いのは、特定の名前がついた技術や流派を扱うパターン。
あとは、「営業」などと、ある状況を限定してコミュニケーションを扱うものでしょう。
この限定された状況でのトレーニングは実用性が高そうに思えますし、
自分に役立つものを1つでも手に入れられれば即効性もある。
その一方で、状況が限定されて具体的になればなるほど、
講師の経験や考えが色濃く反映されやすくなり、一般性は下がる傾向にあります。
ある人にとっては役立つけれど、別の人には合わない…そんなリスクがある。
また、特定の技術に絞り込むと、セミナーはやりやすくなります。
内容も詳しくできるし、理論的な部分も含むことができる。
参加している側からしても、専門的なことを学んだ満足感があるでしょう。
ところが、技術として限定される度合いが高いほど
その技術を使う場面にならなければ利用できないこともあります。
そういうこともあって、この勉強会では
幅広い場面で使える技術をテーマに設定しているつもりです。
今回のテーマは、「技術」という名前をつけようとしたら
「共感の技術」とか「気配りの技術」と呼んでも良い内容かもしれません。
それでも、あえて技術ではないトレーニングとして位置づけることにしました。
日常で即効性があるぐらい役に立つコミュニケーションの内容だと思います。
高度なコミュニケーション力が求められる営業や相談業務の人でも
同僚や友達との会話に苦手意識がある人でも、
自然に上手くいく方法を、自分で工夫できるようになると期待しています。
コミュニケーションという幅広いテーマに対して
上手くいくためのトレーニング内容も幅広いままで設定してあるということです。
ちょっと特殊な形態かもしれませんし、
心惹かれるようなインパクトもないかもしれません。
それでも、
「なんとなく楽しんでやっていたら
いつのまにかコミュニケーションが上手くいっていた」
なんていう結果を思い描いています。
地味ながら、味わい深くて栄養がある…、
そんなイメージを持って頂けると良いような気がします。
終了しました
トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。
是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。
今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。
また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。
【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。
勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。
その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。
また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
調査して勉強会にあたります。
それでは当日お会いできることを楽しみにしています。