2011年10月
2011年10月30日
顔を見ない会話
最近の10代の人たちは、非言語メッセージに鈍感なんじゃないかと思います。
当たり前のように、お互いに携帯電話をいじりながら会話をしたり、
食事中の会話であれば、顔を上げずに食べながら話が進む。
電話であれば何をしながらでも相手には様子が見えませんが、
それでも営業の人などであれば電話越しにお辞儀をしたりもするものです。
もちろん、電話の奥の姿は相手には見えませんが、
そのときの動作は、かすかに声のトーンに影響を与えるでしょう。
まして、それが一緒にいる時にも関わらず全く別のことをしているわけです。
その姿に何も思わないのだろうと思います。
まぁ、当然と言えば当然でしょうか。
お互いに電話をいじるなどの別のことをしているんですから。
また、僕には会話中の声のトーンも気になります。
一見すると面と向かって話しているようでも
その声は相手に向かって飛んでいないことが多いようです。
自分に向かって話しかけている様子。
必然的に音程は低くなります。
なんだか不機嫌そうな声に聞こえるんです。
高校生ぐらいの女の子に、その傾向は強く見られる印象を受けます。
大学生だったり、男女一緒だったりすると状況が変わるようですが
女子高生ぐらいの会話で、声の低さを感じる気がします。
喉がダラーッと開いているんだと思います。
何もかも面倒くさい時期なんでしょうか?
周囲に対して意識が向いていない状態だと考えられます。
姿勢やアイコンタクトなどの視覚情報も
声のトーンや声の高さなどの聴覚情報も、
あまり気にされずにコミュニケーションが進んでいるようです。
話すほうも気にしていないし、聞くほうも気にしていない。
おおよそ「相手の目を見て話すのが苦手です…」なんていう悩みは
浮かんでくることさえないでしょう。
そもそもお互いに見ないんですから。
1つの大きな要因は、携帯電話の普及にあると思います。
特にメールです。
最近は、そこにSNSが加わり、ツイッターが加わり…と
「ケータイ」を介したコミュニケーションの比率が上がっているんでしょう。
特に、メールの返信に対する考え方は、かなり要求が高いようです。
一日のやり取りの回数も、数百回なんて聞いたことがありますし、
すぐに返信があるのが当然だという人もいるんだとか。
となると、携帯電話を介したコミュニケーションによって
人間関係が支えられている比重が大きいと想像できます。
目の前にいる人に話しかけて返事がなかったら
「無視された」と捉える人も少なくないでしょう。
それと同じ感じで携帯電話のメール機能が使われているのかもしれません。
「返信が無い。無視された」
それによって関係に悪影響が出るのであれば、
どんな場面であっても、お互いにケータイから返信をするのは優先され、
結果として誰かと会話をしている最中でも、携帯電話は手放せない、と。
もしかすると、目の前にいる相手も、携帯電話の奥の相手も
同じような距離感なのかもしれません。
そうしているうちに、コミュニケーションにおける重要なメッセージが
言葉で示されたものだけになっていった…
なんていう可能性も考えられそうです。
メールで使われる文字情報、会話においても言葉の内容だけが拾われる。
非言語メッセージにまで意識を向けていたら、携帯電話の向こうの相手とも
同時にコミュニケーションすることは難しいでしょうから。
会話のメッセージも、メールのメッセージも、同じ価値として捉えるには
言葉の内容だけを捉えている程度に調整する必要があるはずです。
もし、会話中のメッセージを言葉以外の部分でも受け取っていたら
言葉だけのメッセージよりも重要度が高いと意識してしまいます。
それを意識したら、ケータイのコミュニケーションと同等には扱えないでしょう。
僕などは、会話中に携帯電話を使うのは相手に失礼じゃないかと考えるので
メールも電話も放ったらかしにすることがありますが、
最近の10代は逆の発想なのかもしれません。
「誰かとの会話中だろうが、ケータイのメールを無視したら
メールの相手に失礼じゃないか」とでも思うんでしょうか。
何を大切にするか、どのような関係性を重要視するかは
個人の好みだと思いますが、
こういうコミュニケーションが続いた結果として予想される
非言語メッセージの軽視は、ちょっと心配でもあります。
気持ちを察するという関わり方は、減っていってしまうんでしょうか?
今の女子高生たちが母親になったとき
言葉を覚える前の子供と、上手く関われるんでしょうか?
当たり前のように、お互いに携帯電話をいじりながら会話をしたり、
食事中の会話であれば、顔を上げずに食べながら話が進む。
電話であれば何をしながらでも相手には様子が見えませんが、
それでも営業の人などであれば電話越しにお辞儀をしたりもするものです。
もちろん、電話の奥の姿は相手には見えませんが、
そのときの動作は、かすかに声のトーンに影響を与えるでしょう。
まして、それが一緒にいる時にも関わらず全く別のことをしているわけです。
その姿に何も思わないのだろうと思います。
まぁ、当然と言えば当然でしょうか。
お互いに電話をいじるなどの別のことをしているんですから。
また、僕には会話中の声のトーンも気になります。
一見すると面と向かって話しているようでも
その声は相手に向かって飛んでいないことが多いようです。
自分に向かって話しかけている様子。
必然的に音程は低くなります。
なんだか不機嫌そうな声に聞こえるんです。
高校生ぐらいの女の子に、その傾向は強く見られる印象を受けます。
大学生だったり、男女一緒だったりすると状況が変わるようですが
女子高生ぐらいの会話で、声の低さを感じる気がします。
喉がダラーッと開いているんだと思います。
何もかも面倒くさい時期なんでしょうか?
周囲に対して意識が向いていない状態だと考えられます。
姿勢やアイコンタクトなどの視覚情報も
声のトーンや声の高さなどの聴覚情報も、
あまり気にされずにコミュニケーションが進んでいるようです。
話すほうも気にしていないし、聞くほうも気にしていない。
おおよそ「相手の目を見て話すのが苦手です…」なんていう悩みは
浮かんでくることさえないでしょう。
そもそもお互いに見ないんですから。
1つの大きな要因は、携帯電話の普及にあると思います。
特にメールです。
最近は、そこにSNSが加わり、ツイッターが加わり…と
「ケータイ」を介したコミュニケーションの比率が上がっているんでしょう。
特に、メールの返信に対する考え方は、かなり要求が高いようです。
一日のやり取りの回数も、数百回なんて聞いたことがありますし、
すぐに返信があるのが当然だという人もいるんだとか。
となると、携帯電話を介したコミュニケーションによって
人間関係が支えられている比重が大きいと想像できます。
目の前にいる人に話しかけて返事がなかったら
「無視された」と捉える人も少なくないでしょう。
それと同じ感じで携帯電話のメール機能が使われているのかもしれません。
「返信が無い。無視された」
それによって関係に悪影響が出るのであれば、
どんな場面であっても、お互いにケータイから返信をするのは優先され、
結果として誰かと会話をしている最中でも、携帯電話は手放せない、と。
もしかすると、目の前にいる相手も、携帯電話の奥の相手も
同じような距離感なのかもしれません。
そうしているうちに、コミュニケーションにおける重要なメッセージが
言葉で示されたものだけになっていった…
なんていう可能性も考えられそうです。
メールで使われる文字情報、会話においても言葉の内容だけが拾われる。
非言語メッセージにまで意識を向けていたら、携帯電話の向こうの相手とも
同時にコミュニケーションすることは難しいでしょうから。
会話のメッセージも、メールのメッセージも、同じ価値として捉えるには
言葉の内容だけを捉えている程度に調整する必要があるはずです。
もし、会話中のメッセージを言葉以外の部分でも受け取っていたら
言葉だけのメッセージよりも重要度が高いと意識してしまいます。
それを意識したら、ケータイのコミュニケーションと同等には扱えないでしょう。
僕などは、会話中に携帯電話を使うのは相手に失礼じゃないかと考えるので
メールも電話も放ったらかしにすることがありますが、
最近の10代は逆の発想なのかもしれません。
「誰かとの会話中だろうが、ケータイのメールを無視したら
メールの相手に失礼じゃないか」とでも思うんでしょうか。
何を大切にするか、どのような関係性を重要視するかは
個人の好みだと思いますが、
こういうコミュニケーションが続いた結果として予想される
非言語メッセージの軽視は、ちょっと心配でもあります。
気持ちを察するという関わり方は、減っていってしまうんでしょうか?
今の女子高生たちが母親になったとき
言葉を覚える前の子供と、上手く関われるんでしょうか?
2011年10月28日
気軽なカウンセリング
日本におけるカウンセリングの知名度は決して低くないと思いますが、
カウンセリングを利用する割合というのは、かなり低いようです。
帰国子女の知人に聞いた話だと、アメリカでは
風邪を引いたら病院に行くのと同じぐらいの感覚で
気軽にカウンセラーに連れていかれるということでした。
何かトラブルがあったら、第三者に話を聞いてもらう。
弁護士の数も日本とは比べ物にならないぐらい多いわけですし、
「第三者」という立場を強く必要とする文化のように思います。
まぁ、あのコミュニケーションのスタイルを見ていれば
「自分」と「相手」という区別はあっても、NLPの知覚位置でいえば
「第一のポジション」(「私」)にいる割合が高いことが窺えます。
「相手の立場にたってみる( stand in other's shoes )」という表現こそあれ
「第二のポジション」や「第三のポジション」にいることは少ない気がします。
だからこそ、人間関係でもめることも多いのでしょうし、
訴訟に進むことも多くて弁護士が求められ、
「困ったら第三者に相談する」という流れも生まれやすいと考えられます。
それに比べると、日本では「誰かに相談する」という発想自体が少ない。
井戸端会議や居酒屋での愚痴がメインかもしれません。
例えば、区役所や市役所などでは
弁護士に短時間の無料相談をしてもらえたりするそうですが、
そういうものでさえ利用しようという人は限られていると思います。
困ったことがあったときに、「困っている」段階で相談をしない傾向がある。
困っていることを自分なりに解決しようとして「解決方法」の段階で
それを提供してくれる人のところへ行くわけです。
困っていることが何なのか、どうすれば解決できるのか。
その部分の見立てを素人である本人がやってしまって、
解決策だけをプロに求めに行く、とも言えます。
例えば、頭が痛かったとして、
「風邪かな」と判断して病院に行く人もいれば、
「頭痛薬を飲めば大丈夫」と判断して薬局に行く人もいる。
同じ薬局に行っても「疲れ目から来ているな」と目薬や疲労回復薬を買ったり、
「肩こりから来ている」と判断してマッサージに行ったり、
「疲れがたまっている」と判断して温泉旅行に行ったりするかもしれません。
理想をいえば、「頭が痛いんです」と言って相談できる相手がいて、
その人がカウンセリングや診断を進めた結果として
頭痛薬や目薬、マッサージや温泉などの処置を指示できると望ましいはずです。
しかし、それは難しいので、本人の好みのところへ行くのが現状でしょう。
日本の場合は、その選択肢の中に
「ストレスかな」と判断してカウンセラーに行く
というのが含まれにくいわけです。
まぁ、風邪を引いたときに病院に行くかどうかさえ人それぞれなのですから
病院に行かない人がいるのと同様に、カウンセラーに行かない人がいる
と考えてしまうこともできるかもしれません。
体に不調があっても、整体やマッサージに行くかどうかも好みですし。
そこは知名度の問題ではなく、「困ったときにどう対処するか」に対する
文化的な姿勢も関係していると思います。
困ったことに対処する段階までイメージしてからサービスを利用する。
そうなれば、内容や効果が分かりにくいところには手を出しにくいでしょう。
カウンセリングに通うということをネガティブに評価する他者の目というのは
意見として耳にすることがありますが、現実的にどれぐらいのものかは
僕には定かではありません。
むしろ、カウンセラーが何をしてくれるのかが分かっていないから
自分の現状への対応策の候補としてカウンセラーが上がらないんだと思います。
その結果、早めにカウンセラーに行っておけば楽だった問題が
かなり深刻な「症状」と呼ばれる状態に近くなって、
別の解決手段へ目が向くようになることもあると考えられます。
日本において「困ったら誰かに相談」という文化が
浸透していくかは分かりませんし、そうだったとしても
それには時間もかかるような気がします。
日本では、まだまだカウンセリングが「遅れていて」
アメリカのようにカウンセリングが「広まる」ときが来る…
と考えるのは、僕には実感が沸きません。
広まっていないから、隠れたニーズがある…
と考えるのもビジネス的には大事かもしれませんが、隠れたニーズが
病院に行くのと同じぐらい手軽なものとして広まると考えるのは楽観的でしょう。
カウンセリングが日本で今よりも広まるためには、1つの方法として
「カウンセラーのところに行くと、どういう効果が期待できるか」という中身を
多くの人に知ってもらえるように目指すことが挙げられると思います。
中身を知ってもらって、
「この状況だったらカウンセラーに行けば楽になるな」
という判断を、多くの人が選択肢として持てるようになれば
カウンセリングのニーズは高まっていくんじゃないでしょうか。
とはいえ、それは個人でできるレベルではありません。
カウンセラー側が、自分のカウンセリングで期待できる効果を示すことと
多くの人がカウンセリングで期待できる効果を知っていることとは違います。
現状で、カウンセラーが個人で中身を知らせたところで、
その情報にアクセスする人そのものが
カウンセリングを選択肢として既に持っている人なわけですから。
現時点ではカウンセリングの効果を知らない人が
カウンセリングの効果を知って、カウンセリングの情報を
自分から調べようとする方向に進んでいくには、
全体的な啓蒙活動が必要でしょう。
日本の場合、それにはテレビを使うのが効果的だと思います。
情報番組でカウンセリングの特集をするとか、
カウンセラーとして有名人を作り、テレビの露出を増やすとか、
バラエティ番組などでのコメンテーターとしてカウンセラーを出すとか。
テレビ番組で占い師やスピリチュアルな人たちがやっていたようなことを
カウンセリングのレベルでもやってしまう、という荒業も1つの手でしょう。
ただ、それよりも僕が効果的じゃないかと思うのは
芸能人やスポーツ選手が気軽にカウンセリングを使っている
という状況を作り出して、それをテレビで話してもらう、という形です。
芸能界が異常にストレスに満ちているであろうことは
ニュースから入ってくる悲惨な情報で想像に難くないところでしょう。
そんなストレスに満ちた芸能人を支えているのがカウンセリングです、
といったような様子にしていく。
現状は、ストレスに耐えきれなくなった芸能人が病院に行って
それから復帰してくることはあっても、カウンセリングではなさそうです。
限界を超えて病院に行く前に、カウンセラーが定期的にケアをする。
そういう存在としてカウンセリングの知名度が上がっていくと
ポジティブなイメージとともにニーズも増えていくんじゃないかと想像します。
有名人がやっている、というのは強い影響力を持っていると思うんです。
多少、「贅沢なもの」というイメージもついてしまうかもしれませんが。
どこを目指すかの問題もあるでしょう。
多くの人が知っていて、選択肢として気軽に選べるものにするか、
セレブ御用達の自分自身のケアとして嗜好品にするか。
後者の場合には、エステとか美容とかフィットネスとか
そんなイメージに近づいていくと思われます。
値段の幅も広がるでしょうが、同時に日常的なところとしても
広がりは出ていくように思いますから。
「困ったからカウンセリング」だけでなく
「より良い毎日を過ごすためにカウンセリング」というのも良さそうです。
カウンセリングを利用する割合というのは、かなり低いようです。
帰国子女の知人に聞いた話だと、アメリカでは
風邪を引いたら病院に行くのと同じぐらいの感覚で
気軽にカウンセラーに連れていかれるということでした。
何かトラブルがあったら、第三者に話を聞いてもらう。
弁護士の数も日本とは比べ物にならないぐらい多いわけですし、
「第三者」という立場を強く必要とする文化のように思います。
まぁ、あのコミュニケーションのスタイルを見ていれば
「自分」と「相手」という区別はあっても、NLPの知覚位置でいえば
「第一のポジション」(「私」)にいる割合が高いことが窺えます。
「相手の立場にたってみる( stand in other's shoes )」という表現こそあれ
「第二のポジション」や「第三のポジション」にいることは少ない気がします。
だからこそ、人間関係でもめることも多いのでしょうし、
訴訟に進むことも多くて弁護士が求められ、
「困ったら第三者に相談する」という流れも生まれやすいと考えられます。
それに比べると、日本では「誰かに相談する」という発想自体が少ない。
井戸端会議や居酒屋での愚痴がメインかもしれません。
例えば、区役所や市役所などでは
弁護士に短時間の無料相談をしてもらえたりするそうですが、
そういうものでさえ利用しようという人は限られていると思います。
困ったことがあったときに、「困っている」段階で相談をしない傾向がある。
困っていることを自分なりに解決しようとして「解決方法」の段階で
それを提供してくれる人のところへ行くわけです。
困っていることが何なのか、どうすれば解決できるのか。
その部分の見立てを素人である本人がやってしまって、
解決策だけをプロに求めに行く、とも言えます。
例えば、頭が痛かったとして、
「風邪かな」と判断して病院に行く人もいれば、
「頭痛薬を飲めば大丈夫」と判断して薬局に行く人もいる。
同じ薬局に行っても「疲れ目から来ているな」と目薬や疲労回復薬を買ったり、
「肩こりから来ている」と判断してマッサージに行ったり、
「疲れがたまっている」と判断して温泉旅行に行ったりするかもしれません。
理想をいえば、「頭が痛いんです」と言って相談できる相手がいて、
その人がカウンセリングや診断を進めた結果として
頭痛薬や目薬、マッサージや温泉などの処置を指示できると望ましいはずです。
しかし、それは難しいので、本人の好みのところへ行くのが現状でしょう。
日本の場合は、その選択肢の中に
「ストレスかな」と判断してカウンセラーに行く
というのが含まれにくいわけです。
まぁ、風邪を引いたときに病院に行くかどうかさえ人それぞれなのですから
病院に行かない人がいるのと同様に、カウンセラーに行かない人がいる
と考えてしまうこともできるかもしれません。
体に不調があっても、整体やマッサージに行くかどうかも好みですし。
そこは知名度の問題ではなく、「困ったときにどう対処するか」に対する
文化的な姿勢も関係していると思います。
困ったことに対処する段階までイメージしてからサービスを利用する。
そうなれば、内容や効果が分かりにくいところには手を出しにくいでしょう。
カウンセリングに通うということをネガティブに評価する他者の目というのは
意見として耳にすることがありますが、現実的にどれぐらいのものかは
僕には定かではありません。
むしろ、カウンセラーが何をしてくれるのかが分かっていないから
自分の現状への対応策の候補としてカウンセラーが上がらないんだと思います。
その結果、早めにカウンセラーに行っておけば楽だった問題が
かなり深刻な「症状」と呼ばれる状態に近くなって、
別の解決手段へ目が向くようになることもあると考えられます。
日本において「困ったら誰かに相談」という文化が
浸透していくかは分かりませんし、そうだったとしても
それには時間もかかるような気がします。
日本では、まだまだカウンセリングが「遅れていて」
アメリカのようにカウンセリングが「広まる」ときが来る…
と考えるのは、僕には実感が沸きません。
広まっていないから、隠れたニーズがある…
と考えるのもビジネス的には大事かもしれませんが、隠れたニーズが
病院に行くのと同じぐらい手軽なものとして広まると考えるのは楽観的でしょう。
カウンセリングが日本で今よりも広まるためには、1つの方法として
「カウンセラーのところに行くと、どういう効果が期待できるか」という中身を
多くの人に知ってもらえるように目指すことが挙げられると思います。
中身を知ってもらって、
「この状況だったらカウンセラーに行けば楽になるな」
という判断を、多くの人が選択肢として持てるようになれば
カウンセリングのニーズは高まっていくんじゃないでしょうか。
とはいえ、それは個人でできるレベルではありません。
カウンセラー側が、自分のカウンセリングで期待できる効果を示すことと
多くの人がカウンセリングで期待できる効果を知っていることとは違います。
現状で、カウンセラーが個人で中身を知らせたところで、
その情報にアクセスする人そのものが
カウンセリングを選択肢として既に持っている人なわけですから。
現時点ではカウンセリングの効果を知らない人が
カウンセリングの効果を知って、カウンセリングの情報を
自分から調べようとする方向に進んでいくには、
全体的な啓蒙活動が必要でしょう。
日本の場合、それにはテレビを使うのが効果的だと思います。
情報番組でカウンセリングの特集をするとか、
カウンセラーとして有名人を作り、テレビの露出を増やすとか、
バラエティ番組などでのコメンテーターとしてカウンセラーを出すとか。
テレビ番組で占い師やスピリチュアルな人たちがやっていたようなことを
カウンセリングのレベルでもやってしまう、という荒業も1つの手でしょう。
ただ、それよりも僕が効果的じゃないかと思うのは
芸能人やスポーツ選手が気軽にカウンセリングを使っている
という状況を作り出して、それをテレビで話してもらう、という形です。
芸能界が異常にストレスに満ちているであろうことは
ニュースから入ってくる悲惨な情報で想像に難くないところでしょう。
そんなストレスに満ちた芸能人を支えているのがカウンセリングです、
といったような様子にしていく。
現状は、ストレスに耐えきれなくなった芸能人が病院に行って
それから復帰してくることはあっても、カウンセリングではなさそうです。
限界を超えて病院に行く前に、カウンセラーが定期的にケアをする。
そういう存在としてカウンセリングの知名度が上がっていくと
ポジティブなイメージとともにニーズも増えていくんじゃないかと想像します。
有名人がやっている、というのは強い影響力を持っていると思うんです。
多少、「贅沢なもの」というイメージもついてしまうかもしれませんが。
どこを目指すかの問題もあるでしょう。
多くの人が知っていて、選択肢として気軽に選べるものにするか、
セレブ御用達の自分自身のケアとして嗜好品にするか。
後者の場合には、エステとか美容とかフィットネスとか
そんなイメージに近づいていくと思われます。
値段の幅も広がるでしょうが、同時に日常的なところとしても
広がりは出ていくように思いますから。
「困ったからカウンセリング」だけでなく
「より良い毎日を過ごすためにカウンセリング」というのも良さそうです。
2011年10月26日
国内留学
テンプル大学ジャパンキャンパスに見学に行ってきました。
テンプル大学というのはアメリカのペンシルベニアにある州立大学で
日本で初めて「外国の大学の日本キャンパス」という形をとったところです。
なので日本にありながら、全てはアメリカと同じスタイルになるわけです。
当然、学生の比率としては外国人が多く、全ては英語で行われます。
日本にいながら留学ができるような環境といったところでしょうか。
日本人学生が入学する場合には、海外の大学に出願するときと
同じプロセスが必要になるらしいです。
日本人らしき人がいても、帰国子女だったり、親が外国出身だったり、
インターナショナルスクールから入ってきていたり…ということが多いようです。
もちろん、日本人として日本の高校に通っていて、大学から入る人もいれば
どこかの大学から編入の形で移ってくる人もいるという話でした。
その場合は、国内留学というつもりなんでしょう。
感想を一言でいうと、まぁ、ビックリしました。
麻布にありますから、元々国際色は豊かな地域だと思います。
が、キャンパスの前から一気に雰囲気が変わります。
ちょうど高校生の集団が見学に来ていたようでしたが
日本の高校生よりもサイズがデカイ。
皆、大人っぽく見えます。
「ジャパンキャンパス」とはいえ、東京都港区ですから、敷地は大きくありません。
設立も1980年代だそうですから、土地を広くは持っていないのでしょう。
基本的には広めのビルに、チョット中庭的なスペースがあるぐらい。
門はなく、入口からいきなりロビーと事務室なので
ビジネス街の大きな会社の持ちビルみたいな印象かもしれません。
そして、驚いたのは入り口のドアを開けた瞬間。
匂いが日本じゃありません。
アメリカの匂いがしました。
アメリカのスーパーマーケットみたいな匂いがします。
日本人も働いていますし、事務局なんかは半分は日本人ぐらいの様子。
しかし、入ってくる学生の姿は、まぎれもなく海外ドラマで見る通りです。
英会話学校の先生のようなプロとして日本に適応する礼儀正しさもなければ、
外国人観光客のような新鮮さの素振りもありません。
街中に一人でいれば、もっと違った振る舞いになるのかもしれませんが、
集団として集まった時には、一気に奔放さが拡大するんじゃないでしょうか。
本当に、日本じゃないところに来たような気分になります。
時々目に入る日本語の文字に、日本を思い出させてもらえるぐらい。
ちょっと不思議なのは、ときどき日本語も聞こえてくること。
英語と日本語で話をしている、なんていう光景もありました。
日本語を話せる外国人の割合も高そうですし、
見た目は日本人じゃなくてもバイリンガルという人もいるようでしたし、
逆に日本人にしか見えないのに振る舞いはアメリカ人、という人もいます。
授業にも「日本語」や「英語」があるらしいですから
全員、聞いて理解するというときには日本語でも大丈夫なのかもしれません。
といっても、95%は英語の感じ。
いわゆるネイティブ同士の会話ですから、基本は外国気分でした。
テンプルに行ったのは、心理学系の授業を単科受講しようかと思っているからで
今回は、その授業の見学と、諸々の相談をしてきたことになります。
「心理系の授業を見学させて」と言ったんですが、指定した日程と
大学側の時間割の都合で、僕が見学した授業は「 Human Sexualtity 」になりました。
日本の学校の授業形式を想定していると、全くの別物です。
ディスカッションが多いんです。
教授のファシリテーション能力には疑問がありますが、
あれだけパワフルに好き勝手な会話をされたら、コントロールも大変でしょう。
講座担当者という立場を想定したとき、同情するほど生徒は自分勝手でした。
遅刻は当たり前、前は向かない、話し始めると止まらない、
授業にチャチャを入れる(下ネタ)、パソコンは開いている、
あちこちでパンや、お菓子、ドーナッツを食べている…。
その授業は、特に外国人比率が高く、ディスカッションも多いタイプのクラスで、
かつ今回は特に好きに話させた、と教授は教えてくれましたが、
それにしてもウッカリしたら無法地帯みたいな感じでした。
バンドラーだったら怒鳴っているだろうなぁ。
立川談志だったら教室からつまみだしているだろうなぁ。
日本の学校の先生だったら泣いたり、逃げ出したりもありそうだなぁ。
…なんて思っていたぐらいです。
しかも内容が「 Human sexuality 」の中でも「避妊」の回でしたから。
日本じゃあり得ないような話題を、おおっぴらに議論していました。
「議論」っていうか赤裸々に語っていました。
日本だったら深夜番組じゃないと放送しないような内容だったと思います。
こうやって、色々なテーマに対して、自分の意見を言うことを訓練されていれば
会話の中でも自己主張を強く持つようになるのも当然に感じます。
観察していて興味深かったのは、生徒によって個性がハッキリと出るところ。
日本人のほうが個人差が小さい気がしました。
全員が全員、開けっぴろげで、積極的で主張の強い感じではなく
日本人に近いような穏やかさを持った人もいたようでしたし、
内気な感じの人もいましたし、他の人についていく雰囲気の人もいました。
活発なタイプの割合は日本人よりも高いですが、
それぞれの特性は日本人にないものではないんだと思えたのは収穫です。
あくまで、その傾向が極端になっている。
それから、もう1つの特徴は、殻の弱さです。
素直というか、オープンというか、「よそ行き」の感じが無いんです。
おそらく「日常」と「特別なイベント」という区別はあるでしょうが、
学校は「日常」なんだろうと感じたわけです。
「家」と「外」という区別が薄いのかもしれません。
もしかすると、それが家の中でも靴を脱がないことと
関係しているかもしれません。
日本人にとって学校は明らかに「外」ですし、いまどきの大学生なんて、
学校に行くためのオシャレは明らかに「よそ行き」です。
ですが、テンプル大学に来ている学生のほとんどは家気分のようでした。
その「よそ行き」の殻で自分を覆っていない分、
素直なようでもあり、自分勝手なようでもあり、親しみやすくもあり、
同時に打たれ弱さもあるんだと思います。
打たれ弱さというのは、喩えてみれば、鎧を着ていないようなものですから、
相手の攻撃がダイレクトに当たる…といった感じ。
その結果、積極的に関わろうとしなくなる人もいれば
守ってくれそうな人と一緒にいようとする人もいるし、
自分から積極的になることで攻撃されにくくしようとする人も、
無防備に攻撃されてしまって怒りとともに反撃しようとする人も出てくる。
そんな感じがありそうです。
他人への意識が低いわけではなく、意識の仕方が違うんでしょう。
境界が薄いといっても良いかもしれません。
すぐに親しくもなるし、ぶつかりやすくもある。
それは「 Human Sexuality 」の授業が必要で、人気もあるわけです。
これは明らかに文化の差だろうと感じました。
それにしても、僕にとっては完全にコンフォートゾーンの外なので
多くの経験が刺激になりそうに思います。
「 Human Sexuality 」は取らないと思いますが、
いくつか心理系の単位を取ってみようかなぁと考え中です。
テンプル大学というのはアメリカのペンシルベニアにある州立大学で
日本で初めて「外国の大学の日本キャンパス」という形をとったところです。
なので日本にありながら、全てはアメリカと同じスタイルになるわけです。
当然、学生の比率としては外国人が多く、全ては英語で行われます。
日本にいながら留学ができるような環境といったところでしょうか。
日本人学生が入学する場合には、海外の大学に出願するときと
同じプロセスが必要になるらしいです。
日本人らしき人がいても、帰国子女だったり、親が外国出身だったり、
インターナショナルスクールから入ってきていたり…ということが多いようです。
もちろん、日本人として日本の高校に通っていて、大学から入る人もいれば
どこかの大学から編入の形で移ってくる人もいるという話でした。
その場合は、国内留学というつもりなんでしょう。
感想を一言でいうと、まぁ、ビックリしました。
麻布にありますから、元々国際色は豊かな地域だと思います。
が、キャンパスの前から一気に雰囲気が変わります。
ちょうど高校生の集団が見学に来ていたようでしたが
日本の高校生よりもサイズがデカイ。
皆、大人っぽく見えます。
「ジャパンキャンパス」とはいえ、東京都港区ですから、敷地は大きくありません。
設立も1980年代だそうですから、土地を広くは持っていないのでしょう。
基本的には広めのビルに、チョット中庭的なスペースがあるぐらい。
門はなく、入口からいきなりロビーと事務室なので
ビジネス街の大きな会社の持ちビルみたいな印象かもしれません。
そして、驚いたのは入り口のドアを開けた瞬間。
匂いが日本じゃありません。
アメリカの匂いがしました。
アメリカのスーパーマーケットみたいな匂いがします。
日本人も働いていますし、事務局なんかは半分は日本人ぐらいの様子。
しかし、入ってくる学生の姿は、まぎれもなく海外ドラマで見る通りです。
英会話学校の先生のようなプロとして日本に適応する礼儀正しさもなければ、
外国人観光客のような新鮮さの素振りもありません。
街中に一人でいれば、もっと違った振る舞いになるのかもしれませんが、
集団として集まった時には、一気に奔放さが拡大するんじゃないでしょうか。
本当に、日本じゃないところに来たような気分になります。
時々目に入る日本語の文字に、日本を思い出させてもらえるぐらい。
ちょっと不思議なのは、ときどき日本語も聞こえてくること。
英語と日本語で話をしている、なんていう光景もありました。
日本語を話せる外国人の割合も高そうですし、
見た目は日本人じゃなくてもバイリンガルという人もいるようでしたし、
逆に日本人にしか見えないのに振る舞いはアメリカ人、という人もいます。
授業にも「日本語」や「英語」があるらしいですから
全員、聞いて理解するというときには日本語でも大丈夫なのかもしれません。
といっても、95%は英語の感じ。
いわゆるネイティブ同士の会話ですから、基本は外国気分でした。
テンプルに行ったのは、心理学系の授業を単科受講しようかと思っているからで
今回は、その授業の見学と、諸々の相談をしてきたことになります。
「心理系の授業を見学させて」と言ったんですが、指定した日程と
大学側の時間割の都合で、僕が見学した授業は「 Human Sexualtity 」になりました。
日本の学校の授業形式を想定していると、全くの別物です。
ディスカッションが多いんです。
教授のファシリテーション能力には疑問がありますが、
あれだけパワフルに好き勝手な会話をされたら、コントロールも大変でしょう。
講座担当者という立場を想定したとき、同情するほど生徒は自分勝手でした。
遅刻は当たり前、前は向かない、話し始めると止まらない、
授業にチャチャを入れる(下ネタ)、パソコンは開いている、
あちこちでパンや、お菓子、ドーナッツを食べている…。
その授業は、特に外国人比率が高く、ディスカッションも多いタイプのクラスで、
かつ今回は特に好きに話させた、と教授は教えてくれましたが、
それにしてもウッカリしたら無法地帯みたいな感じでした。
バンドラーだったら怒鳴っているだろうなぁ。
立川談志だったら教室からつまみだしているだろうなぁ。
日本の学校の先生だったら泣いたり、逃げ出したりもありそうだなぁ。
…なんて思っていたぐらいです。
しかも内容が「 Human sexuality 」の中でも「避妊」の回でしたから。
日本じゃあり得ないような話題を、おおっぴらに議論していました。
「議論」っていうか赤裸々に語っていました。
日本だったら深夜番組じゃないと放送しないような内容だったと思います。
こうやって、色々なテーマに対して、自分の意見を言うことを訓練されていれば
会話の中でも自己主張を強く持つようになるのも当然に感じます。
観察していて興味深かったのは、生徒によって個性がハッキリと出るところ。
日本人のほうが個人差が小さい気がしました。
全員が全員、開けっぴろげで、積極的で主張の強い感じではなく
日本人に近いような穏やかさを持った人もいたようでしたし、
内気な感じの人もいましたし、他の人についていく雰囲気の人もいました。
活発なタイプの割合は日本人よりも高いですが、
それぞれの特性は日本人にないものではないんだと思えたのは収穫です。
あくまで、その傾向が極端になっている。
それから、もう1つの特徴は、殻の弱さです。
素直というか、オープンというか、「よそ行き」の感じが無いんです。
おそらく「日常」と「特別なイベント」という区別はあるでしょうが、
学校は「日常」なんだろうと感じたわけです。
「家」と「外」という区別が薄いのかもしれません。
もしかすると、それが家の中でも靴を脱がないことと
関係しているかもしれません。
日本人にとって学校は明らかに「外」ですし、いまどきの大学生なんて、
学校に行くためのオシャレは明らかに「よそ行き」です。
ですが、テンプル大学に来ている学生のほとんどは家気分のようでした。
その「よそ行き」の殻で自分を覆っていない分、
素直なようでもあり、自分勝手なようでもあり、親しみやすくもあり、
同時に打たれ弱さもあるんだと思います。
打たれ弱さというのは、喩えてみれば、鎧を着ていないようなものですから、
相手の攻撃がダイレクトに当たる…といった感じ。
その結果、積極的に関わろうとしなくなる人もいれば
守ってくれそうな人と一緒にいようとする人もいるし、
自分から積極的になることで攻撃されにくくしようとする人も、
無防備に攻撃されてしまって怒りとともに反撃しようとする人も出てくる。
そんな感じがありそうです。
他人への意識が低いわけではなく、意識の仕方が違うんでしょう。
境界が薄いといっても良いかもしれません。
すぐに親しくもなるし、ぶつかりやすくもある。
それは「 Human Sexuality 」の授業が必要で、人気もあるわけです。
これは明らかに文化の差だろうと感じました。
それにしても、僕にとっては完全にコンフォートゾーンの外なので
多くの経験が刺激になりそうに思います。
「 Human Sexuality 」は取らないと思いますが、
いくつか心理系の単位を取ってみようかなぁと考え中です。
2011年10月24日
【予告】メタファーで話を聞く方法
11月の勉強会のご案内は近日中にと考えていますが
日程と内容だけは決まりましたので先のお伝えしておきます。
日時は、11月23日(水・祝)10:00〜16:30
会場は、北とぴあ 803会議室
内容は、「カウンセリングにメタファーを活かす」
です。
16:30までとなっていますが、だいたい伸びる傾向にあるので
お忙しい方は、その旨をご連絡頂けますと助かります。
学校の授業が10分伸びるなんて言ったらヒンシュクでしたが
マッサージに行って10分伸びたら得した気がするんですから面白いものです。
内容は、前回の勉強会ではメタファーの「伝える」側面が中心になったので
もう少し相手に合わせるという部分を強調して扱うつもりです。
実は、メタファーを使って相手の話を聞くというのは
カウンセリングやセラピーでは良く使われる方法なので、
ここをトレーニングしておくと相手の話を聞くときのバリエーションが増えます。
そして、このやり方はラポールという点でも非常に効果的です。
話の聞き方の技術を言語的観点から説明するものの多くは
バックトラッキングや質問のほうに目がいきがちです。
質問は理解するためのプロセスとして使えますが、
質問が多いということは「理解しようとしてくれている」という印を
相手に伝える可能性がある反面、
「まだ分かってくれていない」という印象を与える可能性もあるわけです。
一方、バックトラッキングは確認や要約の手段としても使えますし、
「聞いてくれていた」という印象を与えられる反面、そればかりやっていると
「言ったこと”は”、聞いてくれている」という気分へ導く可能性もあります。
自分の言ったことを覚えてはいるが、はたして理解しているんだろうか?と。
だからといって、聞き手側の表現に言い換えてしまうと
何か違った解釈をされていると受け取る人も出てくる場合があります。
なので、人によっては「相手の言葉を変えずにバックトラックしなさい」と
指導する場合があるのでしょう。
同じ内容でも表現の仕方には好みが反映されますから。
また、話の内容だけでなく、感情面に対しても触れることは有効です。
そこで露骨なカウンセリングやコーチングの流派だと
「どんな気持ちだったんですか?」と直接質問をするのでしょうが、
僕は日本人の心意気として、このやり方は『野暮』だと感じます。
最近読んだ「7つの習慣」では、内容と気持ちの両方に返答するのが大事、
という内容が書かれていました。
しかも、1つの文章で。
メタファーを使うと、これが比較的簡単に、しかも効果的にできるんです。
「分かってもらえた」感じが非常に高くなる方法です。
実際に僕自身もカウンセリングで使うやり方ですし、日常会話でも使っています。
悩み事を聞くときにも、夢や目標を聞くときにも使えます。
今回は、そんな聞き方の練習をしようと考えています。
これは一部分なので、他にも色々と実習を行います。
話を聞いて、メタファーを使う。
この形式が中心だということです。
詳しくは、また実際のご案内の中で説明するかもしれません。
ご興味がありましたら、日程をご検討ください。
日程と内容だけは決まりましたので先のお伝えしておきます。
日時は、11月23日(水・祝)10:00〜16:30
会場は、北とぴあ 803会議室
内容は、「カウンセリングにメタファーを活かす」
です。
16:30までとなっていますが、だいたい伸びる傾向にあるので
お忙しい方は、その旨をご連絡頂けますと助かります。
学校の授業が10分伸びるなんて言ったらヒンシュクでしたが
マッサージに行って10分伸びたら得した気がするんですから面白いものです。
内容は、前回の勉強会ではメタファーの「伝える」側面が中心になったので
もう少し相手に合わせるという部分を強調して扱うつもりです。
実は、メタファーを使って相手の話を聞くというのは
カウンセリングやセラピーでは良く使われる方法なので、
ここをトレーニングしておくと相手の話を聞くときのバリエーションが増えます。
そして、このやり方はラポールという点でも非常に効果的です。
話の聞き方の技術を言語的観点から説明するものの多くは
バックトラッキングや質問のほうに目がいきがちです。
質問は理解するためのプロセスとして使えますが、
質問が多いということは「理解しようとしてくれている」という印を
相手に伝える可能性がある反面、
「まだ分かってくれていない」という印象を与える可能性もあるわけです。
一方、バックトラッキングは確認や要約の手段としても使えますし、
「聞いてくれていた」という印象を与えられる反面、そればかりやっていると
「言ったこと”は”、聞いてくれている」という気分へ導く可能性もあります。
自分の言ったことを覚えてはいるが、はたして理解しているんだろうか?と。
だからといって、聞き手側の表現に言い換えてしまうと
何か違った解釈をされていると受け取る人も出てくる場合があります。
なので、人によっては「相手の言葉を変えずにバックトラックしなさい」と
指導する場合があるのでしょう。
同じ内容でも表現の仕方には好みが反映されますから。
また、話の内容だけでなく、感情面に対しても触れることは有効です。
そこで露骨なカウンセリングやコーチングの流派だと
「どんな気持ちだったんですか?」と直接質問をするのでしょうが、
僕は日本人の心意気として、このやり方は『野暮』だと感じます。
最近読んだ「7つの習慣」では、内容と気持ちの両方に返答するのが大事、
という内容が書かれていました。
しかも、1つの文章で。
メタファーを使うと、これが比較的簡単に、しかも効果的にできるんです。
「分かってもらえた」感じが非常に高くなる方法です。
実際に僕自身もカウンセリングで使うやり方ですし、日常会話でも使っています。
悩み事を聞くときにも、夢や目標を聞くときにも使えます。
今回は、そんな聞き方の練習をしようと考えています。
これは一部分なので、他にも色々と実習を行います。
話を聞いて、メタファーを使う。
この形式が中心だということです。
詳しくは、また実際のご案内の中で説明するかもしれません。
ご興味がありましたら、日程をご検討ください。
2011年10月22日
好みが合うかどうか
微生物の話の続きです。
微生物は色々な場所にいますが、それぞれ適した環境に住んでいます。
そして、その環境の中で生き残るために色々な手段を取っている。
この辺りの生存戦略は、なかなか面白いものです。
有名な「菌」に「大腸菌」がいます。
大腸菌は、文字通り大腸の中に潜んでいるものとしても知られますが、
そのシンプルな性質ゆえに、もっとも研究が進んでいる微生物でもあります。
大腸菌の特徴は、なんといっても、その生育の早さです。
酸素と栄養が十分にある状況では、圧倒的な速さで増えることができます。
なので、他の菌がいたとしても、他よりも早く生育することで
生存競争にも勝ち残りやすいでしょう。
同様に腸内細菌として知られるのが「乳酸菌」です。
乳酸菌は、他の菌よりも酸性条件に強い性質があります。
なので腸の中は酸性に保たれています。
一般に、他の菌の多くは酸性条件では生育できないので
酸性の条件で最も活発に働ける乳酸菌は、その条件で他よりも有利なわけです。
さらに、乳酸菌は「乳酸」と呼ばれる酸性物質を大量に作ります。
これによって周囲の環境を酸性にすることができるんです。
実際、『悪玉菌』などと呼ばれる類の菌の近くに乳酸菌を置くと、
乳酸菌が作る乳酸の作用で、悪玉菌がドンドンやれられていく様子が分かります。
乳酸菌は、自ら作り出した武器で他のヤツをやっつけながら
自分にとって最適な環境を自ら作り出していく戦略を取っていると言えます。
一方、腸内だけでなく、自然界の至る所にいるのが枯草菌です。
納豆菌は枯草菌の一種。
最大の特徴は、「胞子」という固くて丈夫な殻の中にこもって身を守れることでしょう。
もともと丈夫な性質を持った枯草菌は、他の菌が生きられないような高温でも
生育していくことが可能です。
高温条件では圧倒的に主流になる種類です。
そんな高温に強い枯草菌でも生きられないほどの高温になると
胞子と呼ばれる殻のようなものを作って、過酷な条件に耐えられるようになります。
この殻のようなものは、高温以外でも、過酷な条件ならいつでも作られます。
乾燥や、栄養不足のときにも胞子をつくって耐えるんです。
そして、生育に適した条件がやってくるまで、ずっと耐えていることができます。
枯草菌は過酷な条件を耐えることで、幅広い場所に潜むことができるわけです。
その他に変わった戦略を取っているのは、「酢酸菌」と呼ばれるグループです。
酢酸菌は総称で、もちろんその中に酢酸(お酢)を作るヤツもいます。
酢酸菌のグループは、全般に生育が遅いんです。
他の菌と一緒にいると、生育スピードで負けてしまう。
ですが、酢酸菌のグループは、他の菌に負けない特徴を持っています。
それは、栄養分を別の物に変換する能力の高さです。
酢酸菌のグループは、栄養が豊富にある環境を好みます。
しかし、栄養が豊富であれば、他の菌も生育に好都合。
そこで酢酸菌は、その栄養分を、他の菌が利用できない形に変換してしまうんです。
自分だけは、その作業によって少しだけエネルギーを得て、生育に使う。
栄養分を消費しても得られるエネルギーが少ないので生育は遅いんですが、
他の菌が利用できない形に栄養分を変換していくんです。
このスピードが非常に速い。
なので、他の菌が栄養分を使って生育しようとしていたとしても
圧倒的な速度で栄養分を別の形に変えてしまって、使えなくさせてしまいます。
生育の形で競争に勝つのではなく、栄養分の奪い合いだけに勝つことで
他よりも有利に生存しているというわけです。
その他で、人間にとって有名なのは酵母でしょうか。
イースト菌とも呼ばれますし、ビール酵母としても有名でしょう。
酵母は生存戦略という点では、比較的特徴がありません。
際立っていないのが、逆にいえば特徴でしょうか。
色々なことができるんです。
生育のスピードは、かなり早いほう、…でも大腸菌ほどではない。
酸性条件にも強い、…でも乳酸菌ほどではない。
過酷な条件では胞子を作って耐えられる、…でも枯草菌ほどではない。
生育速度が遅くなってしまう環境では、栄養分を別の形へスピーディーに変換する、
…でも酢酸菌のグループほどではない。
そこそこ色々なことができる反面、ズバ抜けているわけではないようです。
ただ、他の菌にはない特徴もあります。
それは、進化することができる、というものです。
酵母は、ただ増えるのではなく、有性生殖によって
遺伝子を変化させながら増えることができるんです。
ゆっくりですが、自らを大きく変化させる可能性を
他の菌よりも高く持っていると言えます。
このように、それぞれが最も適した環境の中で
最適な戦術を使って生存競争を勝ち抜いているわけです。
中には、際立った特徴が無いながらも、自らを変化させて生きるヤツもいます。
より正確にいえば、たまたま身につけている能力が有利に働く環境に行くと
その場所で他の種類の微生物よりも生育しやすくなる、ということです。
なので、不利な環境にいて、ほとんど生育できていないヤツもいるはずです。
能力が発揮できる場所に行くと、途端に他を圧倒できるんです。
…というような話を
「誰にでも才能があって、それを活かせる環境に身を置くのが大切」
というメッセージのメタファーとして使ったとします。
僕は微生物に馴染みがありますから、納得できるところがありますが、
そうでない人はピンとこないかもしれません。
また、「へぇ〜!そうなんだ!」と好奇心を高め過ぎると
話そのものをストレートに吸収するほうに意識が向いてしまいます。
結果的に、連想させて意味を感じ取るところに注意がいかなくなるかもしれません。
メタファーは、ある程度、話の親しみやすさも大事なわけです。
微生物では自分を投影できない人もいるだろう、ということです。
同じ話を動物に喩えていたら、伝わりやすい人は増えるかもしれません。
同じ微生物を使っても、マンガで可愛らしく描いていたら
メッセージを感じ取れる人も増えるかもしれません。
情緒的な側面が含まれるように工夫するのも大事じゃないでしょうか。
微生物は色々な場所にいますが、それぞれ適した環境に住んでいます。
そして、その環境の中で生き残るために色々な手段を取っている。
この辺りの生存戦略は、なかなか面白いものです。
有名な「菌」に「大腸菌」がいます。
大腸菌は、文字通り大腸の中に潜んでいるものとしても知られますが、
そのシンプルな性質ゆえに、もっとも研究が進んでいる微生物でもあります。
大腸菌の特徴は、なんといっても、その生育の早さです。
酸素と栄養が十分にある状況では、圧倒的な速さで増えることができます。
なので、他の菌がいたとしても、他よりも早く生育することで
生存競争にも勝ち残りやすいでしょう。
同様に腸内細菌として知られるのが「乳酸菌」です。
乳酸菌は、他の菌よりも酸性条件に強い性質があります。
なので腸の中は酸性に保たれています。
一般に、他の菌の多くは酸性条件では生育できないので
酸性の条件で最も活発に働ける乳酸菌は、その条件で他よりも有利なわけです。
さらに、乳酸菌は「乳酸」と呼ばれる酸性物質を大量に作ります。
これによって周囲の環境を酸性にすることができるんです。
実際、『悪玉菌』などと呼ばれる類の菌の近くに乳酸菌を置くと、
乳酸菌が作る乳酸の作用で、悪玉菌がドンドンやれられていく様子が分かります。
乳酸菌は、自ら作り出した武器で他のヤツをやっつけながら
自分にとって最適な環境を自ら作り出していく戦略を取っていると言えます。
一方、腸内だけでなく、自然界の至る所にいるのが枯草菌です。
納豆菌は枯草菌の一種。
最大の特徴は、「胞子」という固くて丈夫な殻の中にこもって身を守れることでしょう。
もともと丈夫な性質を持った枯草菌は、他の菌が生きられないような高温でも
生育していくことが可能です。
高温条件では圧倒的に主流になる種類です。
そんな高温に強い枯草菌でも生きられないほどの高温になると
胞子と呼ばれる殻のようなものを作って、過酷な条件に耐えられるようになります。
この殻のようなものは、高温以外でも、過酷な条件ならいつでも作られます。
乾燥や、栄養不足のときにも胞子をつくって耐えるんです。
そして、生育に適した条件がやってくるまで、ずっと耐えていることができます。
枯草菌は過酷な条件を耐えることで、幅広い場所に潜むことができるわけです。
その他に変わった戦略を取っているのは、「酢酸菌」と呼ばれるグループです。
酢酸菌は総称で、もちろんその中に酢酸(お酢)を作るヤツもいます。
酢酸菌のグループは、全般に生育が遅いんです。
他の菌と一緒にいると、生育スピードで負けてしまう。
ですが、酢酸菌のグループは、他の菌に負けない特徴を持っています。
それは、栄養分を別の物に変換する能力の高さです。
酢酸菌のグループは、栄養が豊富にある環境を好みます。
しかし、栄養が豊富であれば、他の菌も生育に好都合。
そこで酢酸菌は、その栄養分を、他の菌が利用できない形に変換してしまうんです。
自分だけは、その作業によって少しだけエネルギーを得て、生育に使う。
栄養分を消費しても得られるエネルギーが少ないので生育は遅いんですが、
他の菌が利用できない形に栄養分を変換していくんです。
このスピードが非常に速い。
なので、他の菌が栄養分を使って生育しようとしていたとしても
圧倒的な速度で栄養分を別の形に変えてしまって、使えなくさせてしまいます。
生育の形で競争に勝つのではなく、栄養分の奪い合いだけに勝つことで
他よりも有利に生存しているというわけです。
その他で、人間にとって有名なのは酵母でしょうか。
イースト菌とも呼ばれますし、ビール酵母としても有名でしょう。
酵母は生存戦略という点では、比較的特徴がありません。
際立っていないのが、逆にいえば特徴でしょうか。
色々なことができるんです。
生育のスピードは、かなり早いほう、…でも大腸菌ほどではない。
酸性条件にも強い、…でも乳酸菌ほどではない。
過酷な条件では胞子を作って耐えられる、…でも枯草菌ほどではない。
生育速度が遅くなってしまう環境では、栄養分を別の形へスピーディーに変換する、
…でも酢酸菌のグループほどではない。
そこそこ色々なことができる反面、ズバ抜けているわけではないようです。
ただ、他の菌にはない特徴もあります。
それは、進化することができる、というものです。
酵母は、ただ増えるのではなく、有性生殖によって
遺伝子を変化させながら増えることができるんです。
ゆっくりですが、自らを大きく変化させる可能性を
他の菌よりも高く持っていると言えます。
このように、それぞれが最も適した環境の中で
最適な戦術を使って生存競争を勝ち抜いているわけです。
中には、際立った特徴が無いながらも、自らを変化させて生きるヤツもいます。
より正確にいえば、たまたま身につけている能力が有利に働く環境に行くと
その場所で他の種類の微生物よりも生育しやすくなる、ということです。
なので、不利な環境にいて、ほとんど生育できていないヤツもいるはずです。
能力が発揮できる場所に行くと、途端に他を圧倒できるんです。
…というような話を
「誰にでも才能があって、それを活かせる環境に身を置くのが大切」
というメッセージのメタファーとして使ったとします。
僕は微生物に馴染みがありますから、納得できるところがありますが、
そうでない人はピンとこないかもしれません。
また、「へぇ〜!そうなんだ!」と好奇心を高め過ぎると
話そのものをストレートに吸収するほうに意識が向いてしまいます。
結果的に、連想させて意味を感じ取るところに注意がいかなくなるかもしれません。
メタファーは、ある程度、話の親しみやすさも大事なわけです。
微生物では自分を投影できない人もいるだろう、ということです。
同じ話を動物に喩えていたら、伝わりやすい人は増えるかもしれません。
同じ微生物を使っても、マンガで可愛らしく描いていたら
メッセージを感じ取れる人も増えるかもしれません。
情緒的な側面が含まれるように工夫するのも大事じゃないでしょうか。
2011年10月21日
墨の匂い
秋というよりも冬に近いような肌寒い気候が続きます。
去年に引き続き、僕にとってのこの時期は「芸術の秋」です。
芸術というほど表現したいものがあるわけではないですが書道の作品を制作中。
昨年、同じように作品を書いていたときには、
もっと気温が高かった記憶があります。
書いていている中身は違いますが、同じ場所で、同じような姿勢で
同じような作業をしようとすると、一年前の記憶が蘇ってくるのを感じます。
色々な刺激がアンカーになっているんでしょうね。
共通するアンカーが多いほど、アクセスできる記憶も正確になるような気がします。
去年と同じように床に下敷きを置き、去年と同じように紙を置く。
去年と同じ場所に硯を置いて、去年と同じシリーズの墨汁を使う。
今年の作品は、昨年のよりも一文字を大きくして、太い字を書いているので
一枚を書くのに使う墨の量が多いようです。
減りが早い。
それ以上に、墨が乾きにくいんです。
なので、書き上がったものはハンガーに洗濯バサミで引っかけて
それを扉の縁や、窓枠などに吊るして乾かします。
すっかり部屋の中は墨の匂いで充満している今日この頃です。
墨の匂いには好き嫌いがあると思いますが、
僕の実家では母が書道をやっていた関係で、
小さいころから墨の匂いが普通にありました。
あまりにも普通に感じ過ぎていると、
こちらは特にアンカーにはならないみたいです。
特定の記憶と結びついていないわけです。
様々な記憶と関連しているので、ピンポイントで呼び起こすものはない、と。
もし僕が、小学校の頃だけ墨の匂いに親しんでいたとかであれば
きっと墨の匂いで懐かしい記憶もよみがえったことでしょうが、
あまりにも日常的すぎると特に懐かしくも感じません。
むしろ、去年とは違った、ある匂いが僕から記憶を呼び起こしました。
墨汁は一般的に防腐剤を含んでいるので、腐るものではありません。
しかし、固形墨をすった場合には、防腐剤が無いので腐りやすい。
「腐る」と一言でいっていますが、雑菌が繁殖するということです。
カビが生えるまでは滅多にいかないでしょう。
墨は、ススを集めて作ります。
が、ススだけでは固まらないので、ニカワを混ぜてあります。
ススとニカワを混ぜたものを練って、型に入れて乾燥したのが「墨」です。
ちなみに、このニカワが動物臭いので一般的に香料が加えられます。
いわゆる墨の匂いというのは、こっちの香料の匂いが中心だそうです。
ニカワは英語でいうとコラーゲンなので、タンパク質です。
水に溶かすと粘度が高くなります。
この粘度の高さが筆に含ませたときの弾力を生みます。
どれぐらい墨を濃くして、どれぐらいドロドロにするかで書き味が違うんです。
墨汁の場合は、ニカワではなく合成糊なので、さらに書き味が違います。
墨汁でも合成糊を入れる必要があるのは、紙と結合させるためです。
そして、このニカワや糊の成分が、墨汚れを落ちにくくしています。
元々非常に粒子が細かいススは、繊維の隙間に入り込み、
そこにノリの成分が作用してしまうので非常に取れにくい、とのこと。
実は、洗って落とせる墨汁というのも販売されていますが、
これは糊の成分が入っていないらしいんです。
なので紙に書くと、紙の上に乗っかりはしますが、水をかけると滲んでしまう。
表装するときには、霧吹きで湿らせてシワを伸ばす作業があるので
ニカワや糊を含んでいないと綺麗に保存できないわけです。
なので、ニカワが重要なんです。
そして、話は「腐る」ところに戻っていきますが、
すりおろした墨が腐るのは、主にこのニカワの成分のせいだと考えられます。
これが栄養分となって微生物が繁殖するんです。
固形墨は水分が無いので、微生物は増えません。
が、一度すりおろすと格好の培養液になってしまうわけです。
だから墨汁には、腐らないための工夫がしてあります。
で、僕は作品の時には前述した書き味を高めるために
固形墨に近いタイプの墨汁に、墨をすり足して濃さを調整しています。
墨の濃さで「にじみ」や「かすれ」が違ってきますから、
濃さを調整するというのも作品の雰囲気を出すためには重要な気がします。
硯は大きめのものを使います。
一枚を書いている途中に墨を足したりすると濃さが変わってしまいますし、
一枚を仕上げるのに数十分かかりますから、蒸発も考えて
硯の中には墨液を多めに用意しておきたいんです。
すると案の定ですが、書き上がった頃には余ってしまう。
せっかく濃さを調整した墨液ですから、捨てるには勿体ない…。
ということで、今年は余った墨を硯から空き容器に移して保存してみました。
元々が墨汁ですから、防腐剤もあるし大丈夫だろう、と。
ちなみに冷蔵庫には入れられません。
ニカワはコラーゲンですから低温にするとゼリーみたいに固まってしまいます。
そして、2回分の余りがまとまった時点で、2日ほど放置していました。
一回目から数えると一週間近かったかもしれません。
それを硯に出してみました。
見た目は一緒。
ちゃんと良い感じの濃さです。
「少し粘りが減っているかなぁ」という気はしたんです。
が、それを気にせず書き始めようとしたときに気づきました。
ちょっと臭い。
いつもと違う匂いがします。
いつもの匂いに、何かの匂いが加わっています。
僕の嗅覚のアンカーが、その種類を教えてくれました。
それは、枯草菌に特有の匂いでした。
大学時代に実験で使っていた菌の1つですから、覚えています。
同時に、研究室の景色や実験台の模様、
滅菌装置から出したときの湯気と匂いなども思い出されました。
良い匂いではありませんが、懐かしい気分になりました。
ちなみに納豆菌は枯草菌の一種です。
自然界に普通に存在しているメジャーなタイプの菌で、
胞子をつくって乾燥や高温に耐えられるので、かなり色々な場所にいます。
納豆は、茹で上がって高温になった大豆に、納豆菌を吹きかけて作られますが、
この高温条件で他の菌の多くは死んでしまう。
納豆菌だけは高温に耐えられるので、他の菌がいないところで繁殖ができる。
だから他の菌で腐ることなく、納豆として発酵ができるわけです。
余談ですが、乳酸菌は酸性条件を好みます。
こちらも色々な場所にいる菌なので、雑菌として混ざりやすいんです。
家庭でヨーグルトを作ろうとして失敗するときは、ヨーグルト用の乳酸菌に
その辺にいる乳酸菌が混ざってしまった場合です。
逆に、ぬか漬けが美味しくなるのは、その辺にいる乳酸菌のおかげです。
どんな乳酸菌が混ざって繁殖するかが違うので、家によって味が違うわけです。
大学の時には酵母も少し触っていました。
いわゆるイースト菌です。
この培養液を滅菌するとパンの匂いがしたものです。
食パンの匂いは、ほとんどが酵母の匂いなんです。
そして、会社で研究職をしていたときに扱っていた微生物の匂いも
色々と思いだされてきました。
雑菌の混入や培養の状態を匂いで嗅ぎ分けていたぐらいですから
色々な匂いを正確に覚えていられたみたいです。
おそらく、僕の場合、嗅覚が重要な感覚器官になっているのでしょう。
一般に嗅覚は、間脳にある視床を経由しないので原始的な感覚と呼ばれて
アンカーの作用は強い部類にあるようです。
しかし、僕の場合、嗅覚が様々な情報の判断基準になっているところがあり、
いわゆる優位表象システムとして「味覚/嗅覚」を使っていそうなんです。
なので今回、偶然に起こった枯草菌の匂いをキッカケに
様々な微生物の匂いが思い出されたのでしょう。
ここでは、僕の中で、嗅覚情報がカテゴリー分けされていることが伺えます。
あきらかに「微生物の匂い」というカテゴリーが、
アンカーの関連付けのレベルで存在しているようです。
記憶のカテゴリー分けや関連性の強さが、連想のしやすさと関係する
…ということを身を持って体験できました。
面白さと懐かしさの伴う出来事でしたが、
あまり良い匂いではないので、墨液の保存は止めることにします。
去年に引き続き、僕にとってのこの時期は「芸術の秋」です。
芸術というほど表現したいものがあるわけではないですが書道の作品を制作中。
昨年、同じように作品を書いていたときには、
もっと気温が高かった記憶があります。
書いていている中身は違いますが、同じ場所で、同じような姿勢で
同じような作業をしようとすると、一年前の記憶が蘇ってくるのを感じます。
色々な刺激がアンカーになっているんでしょうね。
共通するアンカーが多いほど、アクセスできる記憶も正確になるような気がします。
去年と同じように床に下敷きを置き、去年と同じように紙を置く。
去年と同じ場所に硯を置いて、去年と同じシリーズの墨汁を使う。
今年の作品は、昨年のよりも一文字を大きくして、太い字を書いているので
一枚を書くのに使う墨の量が多いようです。
減りが早い。
それ以上に、墨が乾きにくいんです。
なので、書き上がったものはハンガーに洗濯バサミで引っかけて
それを扉の縁や、窓枠などに吊るして乾かします。
すっかり部屋の中は墨の匂いで充満している今日この頃です。
墨の匂いには好き嫌いがあると思いますが、
僕の実家では母が書道をやっていた関係で、
小さいころから墨の匂いが普通にありました。
あまりにも普通に感じ過ぎていると、
こちらは特にアンカーにはならないみたいです。
特定の記憶と結びついていないわけです。
様々な記憶と関連しているので、ピンポイントで呼び起こすものはない、と。
もし僕が、小学校の頃だけ墨の匂いに親しんでいたとかであれば
きっと墨の匂いで懐かしい記憶もよみがえったことでしょうが、
あまりにも日常的すぎると特に懐かしくも感じません。
むしろ、去年とは違った、ある匂いが僕から記憶を呼び起こしました。
墨汁は一般的に防腐剤を含んでいるので、腐るものではありません。
しかし、固形墨をすった場合には、防腐剤が無いので腐りやすい。
「腐る」と一言でいっていますが、雑菌が繁殖するということです。
カビが生えるまでは滅多にいかないでしょう。
墨は、ススを集めて作ります。
が、ススだけでは固まらないので、ニカワを混ぜてあります。
ススとニカワを混ぜたものを練って、型に入れて乾燥したのが「墨」です。
ちなみに、このニカワが動物臭いので一般的に香料が加えられます。
いわゆる墨の匂いというのは、こっちの香料の匂いが中心だそうです。
ニカワは英語でいうとコラーゲンなので、タンパク質です。
水に溶かすと粘度が高くなります。
この粘度の高さが筆に含ませたときの弾力を生みます。
どれぐらい墨を濃くして、どれぐらいドロドロにするかで書き味が違うんです。
墨汁の場合は、ニカワではなく合成糊なので、さらに書き味が違います。
墨汁でも合成糊を入れる必要があるのは、紙と結合させるためです。
そして、このニカワや糊の成分が、墨汚れを落ちにくくしています。
元々非常に粒子が細かいススは、繊維の隙間に入り込み、
そこにノリの成分が作用してしまうので非常に取れにくい、とのこと。
実は、洗って落とせる墨汁というのも販売されていますが、
これは糊の成分が入っていないらしいんです。
なので紙に書くと、紙の上に乗っかりはしますが、水をかけると滲んでしまう。
表装するときには、霧吹きで湿らせてシワを伸ばす作業があるので
ニカワや糊を含んでいないと綺麗に保存できないわけです。
なので、ニカワが重要なんです。
そして、話は「腐る」ところに戻っていきますが、
すりおろした墨が腐るのは、主にこのニカワの成分のせいだと考えられます。
これが栄養分となって微生物が繁殖するんです。
固形墨は水分が無いので、微生物は増えません。
が、一度すりおろすと格好の培養液になってしまうわけです。
だから墨汁には、腐らないための工夫がしてあります。
で、僕は作品の時には前述した書き味を高めるために
固形墨に近いタイプの墨汁に、墨をすり足して濃さを調整しています。
墨の濃さで「にじみ」や「かすれ」が違ってきますから、
濃さを調整するというのも作品の雰囲気を出すためには重要な気がします。
硯は大きめのものを使います。
一枚を書いている途中に墨を足したりすると濃さが変わってしまいますし、
一枚を仕上げるのに数十分かかりますから、蒸発も考えて
硯の中には墨液を多めに用意しておきたいんです。
すると案の定ですが、書き上がった頃には余ってしまう。
せっかく濃さを調整した墨液ですから、捨てるには勿体ない…。
ということで、今年は余った墨を硯から空き容器に移して保存してみました。
元々が墨汁ですから、防腐剤もあるし大丈夫だろう、と。
ちなみに冷蔵庫には入れられません。
ニカワはコラーゲンですから低温にするとゼリーみたいに固まってしまいます。
そして、2回分の余りがまとまった時点で、2日ほど放置していました。
一回目から数えると一週間近かったかもしれません。
それを硯に出してみました。
見た目は一緒。
ちゃんと良い感じの濃さです。
「少し粘りが減っているかなぁ」という気はしたんです。
が、それを気にせず書き始めようとしたときに気づきました。
ちょっと臭い。
いつもと違う匂いがします。
いつもの匂いに、何かの匂いが加わっています。
僕の嗅覚のアンカーが、その種類を教えてくれました。
それは、枯草菌に特有の匂いでした。
大学時代に実験で使っていた菌の1つですから、覚えています。
同時に、研究室の景色や実験台の模様、
滅菌装置から出したときの湯気と匂いなども思い出されました。
良い匂いではありませんが、懐かしい気分になりました。
ちなみに納豆菌は枯草菌の一種です。
自然界に普通に存在しているメジャーなタイプの菌で、
胞子をつくって乾燥や高温に耐えられるので、かなり色々な場所にいます。
納豆は、茹で上がって高温になった大豆に、納豆菌を吹きかけて作られますが、
この高温条件で他の菌の多くは死んでしまう。
納豆菌だけは高温に耐えられるので、他の菌がいないところで繁殖ができる。
だから他の菌で腐ることなく、納豆として発酵ができるわけです。
余談ですが、乳酸菌は酸性条件を好みます。
こちらも色々な場所にいる菌なので、雑菌として混ざりやすいんです。
家庭でヨーグルトを作ろうとして失敗するときは、ヨーグルト用の乳酸菌に
その辺にいる乳酸菌が混ざってしまった場合です。
逆に、ぬか漬けが美味しくなるのは、その辺にいる乳酸菌のおかげです。
どんな乳酸菌が混ざって繁殖するかが違うので、家によって味が違うわけです。
大学の時には酵母も少し触っていました。
いわゆるイースト菌です。
この培養液を滅菌するとパンの匂いがしたものです。
食パンの匂いは、ほとんどが酵母の匂いなんです。
そして、会社で研究職をしていたときに扱っていた微生物の匂いも
色々と思いだされてきました。
雑菌の混入や培養の状態を匂いで嗅ぎ分けていたぐらいですから
色々な匂いを正確に覚えていられたみたいです。
おそらく、僕の場合、嗅覚が重要な感覚器官になっているのでしょう。
一般に嗅覚は、間脳にある視床を経由しないので原始的な感覚と呼ばれて
アンカーの作用は強い部類にあるようです。
しかし、僕の場合、嗅覚が様々な情報の判断基準になっているところがあり、
いわゆる優位表象システムとして「味覚/嗅覚」を使っていそうなんです。
なので今回、偶然に起こった枯草菌の匂いをキッカケに
様々な微生物の匂いが思い出されたのでしょう。
ここでは、僕の中で、嗅覚情報がカテゴリー分けされていることが伺えます。
あきらかに「微生物の匂い」というカテゴリーが、
アンカーの関連付けのレベルで存在しているようです。
記憶のカテゴリー分けや関連性の強さが、連想のしやすさと関係する
…ということを身を持って体験できました。
面白さと懐かしさの伴う出来事でしたが、
あまり良い匂いではないので、墨液の保存は止めることにします。
2011年10月19日
理想的な習慣が理想的なのか
今さら、という感じはありますが、有名な本を読みました。
スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』です。
非常に有名な本ですし、心構えというか心がけというか、
あまり技術論ではない内容になるのは想像できましたから、
多分、僕の傾向からすると素直には読めないだろうと思いました。
なので、英語の勉強を兼ねてペーパーバックで読むことにしました。
The 7 Habits of Highly Effective People: Powerful Lessons in Personal Change
クチコミを見る
面白いもので、英語で読むと少し謙虚になれるみたいです。
というよりも、日本語の本を読むと
自分の意見と照らし合わせながら議論する感じが出てくるのに対して、
英語で読んでしまえば、内容理解に注意が配分されるようで
比較的に心穏やかにした状態で読み進められました。
内容としては、人生全般に対して書かれていて、かなり抽象的なものなので
現実的にどれぐらいできるかという部分は人それぞれだと感じます。
僕自身は、色々と勉強をした後でこの本の内容に触れましたから
新しいことを読んでいるというよりも、自分の理解を整理するような気分で
「ごもっともですね」な雰囲気を自分の中に感じていました。
もし僕が心理系のトレーニングを積む前の段階でこの内容に触れていたら
どんな対応をしていたのだろうか?と不思議な気持ちになります。
真面目に本の内容に沿って意識的な生活をしていたかもしれないし、
読むだけ読んで、「分かっちゃいるけど、やるのは大変だ」と
あまり気にせずにいたかもしれません。
なんというか、非常に理想的な話が展開されていた印象が残っています。
そして、その理想的な生き方のスタイルを「良いもの」として
多くの人に伝えようとした背景に、僕は興味を抱きました。
どうしても僕の場合、
「理想的な生き方が、全ての人にとって望ましくはない」
と思ってしまいますし、
「いったい何が幸せな生き方か?」
という部分まで考えを巡らせると、
『理想的な人生』から大きく離れながらも、楽な生き方だってあると思えてきます。
「全ての人に当てはまり、これが理想的な生き方だ」と
堂々と主張するのは、どんな気持ちからくるものなんでしょうか?
その気持ちの背景にあるのが個人的な想いなのか、
それとも文化的な影響を含んでいるのか。
そういった部分まで想いを馳せるキッカケになりました。
本の中に登場する事例なども、日本人の常識からすると意外なものが沢山。
特に、家族に対するスタンスの違いには驚きがありました。
家族の中で仕事の分担を決めたり、家族で目標を設定したり、
全体的な印象として「取り決め(契約?)をする」という風潮があるみたいです。
だからこそ、自分の生活の中に習慣として「取り決め」をしていくことが
自然と馴染みやすいのかもしれません。
このあたりは、文化に直接的に触れてみたい気がします。
今の自分には想像もできないような何かの背景が
意外なところに溢れている可能性もありそうです。
言語的に理解しようとしても分からないものは
やっぱり実際に体験して感じてみるのが役立ちそうに思いますから。
こういう本がベストセラーになる背景で生まれた技術が
コミュニケーションでも心理療法でも沢山伝わってきているのが現実です。
この本の内容を思い描けば、確かにコーチングは有効そうに思えてきます。
技術には、それが作られた背景としての文化も関係しているはずです。
背景の違いを踏まえて、「日本人向け」の技術を考えてみたいものです。
スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』です。
非常に有名な本ですし、心構えというか心がけというか、
あまり技術論ではない内容になるのは想像できましたから、
多分、僕の傾向からすると素直には読めないだろうと思いました。
なので、英語の勉強を兼ねてペーパーバックで読むことにしました。
The 7 Habits of Highly Effective People: Powerful Lessons in Personal Change
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面白いもので、英語で読むと少し謙虚になれるみたいです。
というよりも、日本語の本を読むと
自分の意見と照らし合わせながら議論する感じが出てくるのに対して、
英語で読んでしまえば、内容理解に注意が配分されるようで
比較的に心穏やかにした状態で読み進められました。
内容としては、人生全般に対して書かれていて、かなり抽象的なものなので
現実的にどれぐらいできるかという部分は人それぞれだと感じます。
僕自身は、色々と勉強をした後でこの本の内容に触れましたから
新しいことを読んでいるというよりも、自分の理解を整理するような気分で
「ごもっともですね」な雰囲気を自分の中に感じていました。
もし僕が心理系のトレーニングを積む前の段階でこの内容に触れていたら
どんな対応をしていたのだろうか?と不思議な気持ちになります。
真面目に本の内容に沿って意識的な生活をしていたかもしれないし、
読むだけ読んで、「分かっちゃいるけど、やるのは大変だ」と
あまり気にせずにいたかもしれません。
なんというか、非常に理想的な話が展開されていた印象が残っています。
そして、その理想的な生き方のスタイルを「良いもの」として
多くの人に伝えようとした背景に、僕は興味を抱きました。
どうしても僕の場合、
「理想的な生き方が、全ての人にとって望ましくはない」
と思ってしまいますし、
「いったい何が幸せな生き方か?」
という部分まで考えを巡らせると、
『理想的な人生』から大きく離れながらも、楽な生き方だってあると思えてきます。
「全ての人に当てはまり、これが理想的な生き方だ」と
堂々と主張するのは、どんな気持ちからくるものなんでしょうか?
その気持ちの背景にあるのが個人的な想いなのか、
それとも文化的な影響を含んでいるのか。
そういった部分まで想いを馳せるキッカケになりました。
本の中に登場する事例なども、日本人の常識からすると意外なものが沢山。
特に、家族に対するスタンスの違いには驚きがありました。
家族の中で仕事の分担を決めたり、家族で目標を設定したり、
全体的な印象として「取り決め(契約?)をする」という風潮があるみたいです。
だからこそ、自分の生活の中に習慣として「取り決め」をしていくことが
自然と馴染みやすいのかもしれません。
このあたりは、文化に直接的に触れてみたい気がします。
今の自分には想像もできないような何かの背景が
意外なところに溢れている可能性もありそうです。
言語的に理解しようとしても分からないものは
やっぱり実際に体験して感じてみるのが役立ちそうに思いますから。
こういう本がベストセラーになる背景で生まれた技術が
コミュニケーションでも心理療法でも沢山伝わってきているのが現実です。
この本の内容を思い描けば、確かにコーチングは有効そうに思えてきます。
技術には、それが作られた背景としての文化も関係しているはずです。
背景の違いを踏まえて、「日本人向け」の技術を考えてみたいものです。
2011年10月17日
メタファーの応用
10月の勉強会では『メタファー』を中心に扱いました。
メタファーというと間接的なコミュニケーションということで
曖昧なメッセージのように思われることが多いようです。
しかし、曖昧な伝え方だからこそ、自分の伝えたいメッセージを伝えるには
その構造を良く理解している必要があると思います。
まぁ、伝わるかどうかまで気にしないほど曖昧なのであれば
何も工夫する必要はありませんが、
この部分を少しでもこだわると言語の持つ意味が変わってきます。
「どのように伝わるか」、「聞いた相手が何を受け取るか」という部分は
本来、メタファーではない通常の会話であっても同じはずなんです。
メタファーは間接的、通常の会話は直接的…
そんな分類には、「通常の会話であれば直接伝わる」といった
暗黙の了解を含んでしまう可能性が含まれるでしょう。
どんなに論理的とされる伝え方でも、言語に置き換えられた時点で
自分の意図していることは別の形に変換されているんです。
ただ、我々が自分の思いや考えを、
日常的な言語の使い方に置き換えることに慣れ過ぎているので、
普段の話し方であれば直接的に伝えられていると思いやすい。
それが実態のような気がします。
ということは、逆にいえば、自分の表現したいことを
メタファーに効果的に反映する方法を身につければ、
メタファーは必ずしも間接的な伝え方ではなくなり
むしろ、伝えたいものをより直接に伝える方法になるかもしれないわけです。
例えば、人との関わり方で自分が大切にしていることや、
漠然と感じている自分の悩みなどであれば、
「直接的」とされる話し方よりも、メタファーのほうが
自分の内側にあるものを上手く表現できるかもしれません。
それは、あくまで表現方法の慣れの問題なんです。
論理的な説明で自分の想いや考えを表現するのが得意な人もいれば、
絵画や音楽などの芸術で表現するほうが得意な人もいる。
それと同様に、メタファーを使って説明するほうが
自分の内側にあるものを上手く表現できる場合だってある、ということです。
その意味では、小説家というのは、まさに
自分で作った物語というメタファーによって何かを表現しているわけで、
メタファーのほうが上手く思いを伝えられる人なのかもしれません。
ですから、メタファーで自分の考えや想いを伝えるには
そのための技術があって、その技術が高まれば
メタファーは決して間接的な伝達方法ではないとも言えると思うんです。
元々が曖昧なものであれば、曖昧なメタファーのままで伝えるほうが
逆に、余計な解釈を入れていない分だけ、より「直接的」とも言えるでしょう。
メタファーで効果的な伝え方をする方法は存在しているはずなんです。
しかし、多くの人はメタファーを日常会話でも多用はしませんし、
ましてや使ってみたメタファーが分かりやすかったかどうかを
吟味できるような機会はないでしょう。
「あの部分が余計だった」
「途中に出てきた、あそこのフレーズがあったから意図と違う解釈をしてしまった」
「ここのところをもっと詳しく話してくれたら、もっと伝わりやすかった」
…などと、フィードバックを貰うような機会でもあれば
自分の伝え方を改善しようという気にもなるかもしれません。
セミナーででも、そういう機会は決して多くない気がします。
実は、このような作業を細かくしている職種の人がいるんです。
お笑い芸人です。
特に、フリートークで人を笑わせたり、
「〜な話」などと、テレビで一人語りをできる人たちは
同じ内容を「どのように」伝えるかに厳しいわけです。
どういう順番で、どこを詳しく、どんな前置きを入れて話をするか。
ここをお互いにフィードバックしながら技術を磨くようです。
オチを理解するために必要な前置きを言わなくてはいけません。
かといって、余計な情報があると、どこに注目していけば良いかが不明瞭になる。
話のポイントが明確なっていないといけないわけです。
お笑いのフリートークの目的は、笑いを引き出すことです。
そのためには結論から話すわけにはいかないんです。
聞くほうは「面白い」話だろうと、どこかにオチがあることを期待しては聞きます。
が、どんな展開があるのか、どんな結論になるのかは分かりません。
予想がつかないんです。
しかし、ある程度の予想は無意識にしてしまう。
その予想を覆した意外性に、面白さとの関連が生まれます。
「実は…」という部分が、オチになっているはずです。
要約してしまえば、
「〜な場面で、普通だったら…になるのに、○○○という変な展開になったんです」
となってしまいます。
まぁ、そんな風に要約しても、意外性が大きければ
聞き手の想像力の範囲内で笑いは起きます。
しかし、お笑いのプロがやるべきことは、そのメッセージを
より面白く伝えるとことです。
一連の具体的なストーリーを通して、意外な体験だったという結論を伝える。
この『具体的なストーリーから、中心的なメッセージを伝える』作業が
メタファーの中で起きていることと同じなんです。
ですから、お笑いのフリートーク(上手い人の場合)には
メタファーを効果的にする上で学ぶポイントが沢山あります。
これはオススメです。
そして裏を返すと、メタファーが伝わりやすくなるためのポイントは
そのまま論理的で分かりやすい説明の仕方にも繋がります。
メタファーの練習をするには、メタファーだけでは不十分なんです。
というよりも、メタファーだけが上手くなる練習というのは存在しません。
メタファーが上達するトレーニングをキッチリと組み立てると、
そのトレーニングは論理的な話し方の技術にも効果が出てしまうんです。
つまり、伝わりやすい話し方にコダワリを持っていくと
その中核はメタファーだろうがディベートだろうが同じだということです。
そんなトレーニングを考えて、実際に勉強会でやってみたら
当初想像していた以上に盛り沢山の内容になってしまいました。
普段から勉強会は、かなり詰め込み気味だと自覚していますが
10月のは普段にも増して…という感じでした。
実際には、もっと予定していたトレーニングも残っていましたし。
丁寧にやれば、メタファーだけで3日ぐらいのコースは
十分にできるような気がしています。
特に、今回はメタファーとしての表現に焦点を当てましたので
今度はもう少し、相手に合わせる側でやってみようと思っています。
メタファーを使って質問をする、なんていう方法も
カウンセリングでは効果的ですから、その辺りも含めての予定です。
多分、11月はそんな内容になると思います。
興味がありましたら、是非。
メタファーというと間接的なコミュニケーションということで
曖昧なメッセージのように思われることが多いようです。
しかし、曖昧な伝え方だからこそ、自分の伝えたいメッセージを伝えるには
その構造を良く理解している必要があると思います。
まぁ、伝わるかどうかまで気にしないほど曖昧なのであれば
何も工夫する必要はありませんが、
この部分を少しでもこだわると言語の持つ意味が変わってきます。
「どのように伝わるか」、「聞いた相手が何を受け取るか」という部分は
本来、メタファーではない通常の会話であっても同じはずなんです。
メタファーは間接的、通常の会話は直接的…
そんな分類には、「通常の会話であれば直接伝わる」といった
暗黙の了解を含んでしまう可能性が含まれるでしょう。
どんなに論理的とされる伝え方でも、言語に置き換えられた時点で
自分の意図していることは別の形に変換されているんです。
ただ、我々が自分の思いや考えを、
日常的な言語の使い方に置き換えることに慣れ過ぎているので、
普段の話し方であれば直接的に伝えられていると思いやすい。
それが実態のような気がします。
ということは、逆にいえば、自分の表現したいことを
メタファーに効果的に反映する方法を身につければ、
メタファーは必ずしも間接的な伝え方ではなくなり
むしろ、伝えたいものをより直接に伝える方法になるかもしれないわけです。
例えば、人との関わり方で自分が大切にしていることや、
漠然と感じている自分の悩みなどであれば、
「直接的」とされる話し方よりも、メタファーのほうが
自分の内側にあるものを上手く表現できるかもしれません。
それは、あくまで表現方法の慣れの問題なんです。
論理的な説明で自分の想いや考えを表現するのが得意な人もいれば、
絵画や音楽などの芸術で表現するほうが得意な人もいる。
それと同様に、メタファーを使って説明するほうが
自分の内側にあるものを上手く表現できる場合だってある、ということです。
その意味では、小説家というのは、まさに
自分で作った物語というメタファーによって何かを表現しているわけで、
メタファーのほうが上手く思いを伝えられる人なのかもしれません。
ですから、メタファーで自分の考えや想いを伝えるには
そのための技術があって、その技術が高まれば
メタファーは決して間接的な伝達方法ではないとも言えると思うんです。
元々が曖昧なものであれば、曖昧なメタファーのままで伝えるほうが
逆に、余計な解釈を入れていない分だけ、より「直接的」とも言えるでしょう。
メタファーで効果的な伝え方をする方法は存在しているはずなんです。
しかし、多くの人はメタファーを日常会話でも多用はしませんし、
ましてや使ってみたメタファーが分かりやすかったかどうかを
吟味できるような機会はないでしょう。
「あの部分が余計だった」
「途中に出てきた、あそこのフレーズがあったから意図と違う解釈をしてしまった」
「ここのところをもっと詳しく話してくれたら、もっと伝わりやすかった」
…などと、フィードバックを貰うような機会でもあれば
自分の伝え方を改善しようという気にもなるかもしれません。
セミナーででも、そういう機会は決して多くない気がします。
実は、このような作業を細かくしている職種の人がいるんです。
お笑い芸人です。
特に、フリートークで人を笑わせたり、
「〜な話」などと、テレビで一人語りをできる人たちは
同じ内容を「どのように」伝えるかに厳しいわけです。
どういう順番で、どこを詳しく、どんな前置きを入れて話をするか。
ここをお互いにフィードバックしながら技術を磨くようです。
オチを理解するために必要な前置きを言わなくてはいけません。
かといって、余計な情報があると、どこに注目していけば良いかが不明瞭になる。
話のポイントが明確なっていないといけないわけです。
お笑いのフリートークの目的は、笑いを引き出すことです。
そのためには結論から話すわけにはいかないんです。
聞くほうは「面白い」話だろうと、どこかにオチがあることを期待しては聞きます。
が、どんな展開があるのか、どんな結論になるのかは分かりません。
予想がつかないんです。
しかし、ある程度の予想は無意識にしてしまう。
その予想を覆した意外性に、面白さとの関連が生まれます。
「実は…」という部分が、オチになっているはずです。
要約してしまえば、
「〜な場面で、普通だったら…になるのに、○○○という変な展開になったんです」
となってしまいます。
まぁ、そんな風に要約しても、意外性が大きければ
聞き手の想像力の範囲内で笑いは起きます。
しかし、お笑いのプロがやるべきことは、そのメッセージを
より面白く伝えるとことです。
一連の具体的なストーリーを通して、意外な体験だったという結論を伝える。
この『具体的なストーリーから、中心的なメッセージを伝える』作業が
メタファーの中で起きていることと同じなんです。
ですから、お笑いのフリートーク(上手い人の場合)には
メタファーを効果的にする上で学ぶポイントが沢山あります。
これはオススメです。
そして裏を返すと、メタファーが伝わりやすくなるためのポイントは
そのまま論理的で分かりやすい説明の仕方にも繋がります。
メタファーの練習をするには、メタファーだけでは不十分なんです。
というよりも、メタファーだけが上手くなる練習というのは存在しません。
メタファーが上達するトレーニングをキッチリと組み立てると、
そのトレーニングは論理的な話し方の技術にも効果が出てしまうんです。
つまり、伝わりやすい話し方にコダワリを持っていくと
その中核はメタファーだろうがディベートだろうが同じだということです。
そんなトレーニングを考えて、実際に勉強会でやってみたら
当初想像していた以上に盛り沢山の内容になってしまいました。
普段から勉強会は、かなり詰め込み気味だと自覚していますが
10月のは普段にも増して…という感じでした。
実際には、もっと予定していたトレーニングも残っていましたし。
丁寧にやれば、メタファーだけで3日ぐらいのコースは
十分にできるような気がしています。
特に、今回はメタファーとしての表現に焦点を当てましたので
今度はもう少し、相手に合わせる側でやってみようと思っています。
メタファーを使って質問をする、なんていう方法も
カウンセリングでは効果的ですから、その辺りも含めての予定です。
多分、11月はそんな内容になると思います。
興味がありましたら、是非。
2011年10月14日
メタファーを分析しました
メタファーというのは、なかなか曖昧で掴みどころのない印象がありました。
上手くいくときもあるし、いかないときもあるし…といった感じでしょうか。
大雑把に、「喩え話を使って、気づきを重視した伝え方をする」
ぐらいに理解して、色々と使ってみるのも1つの手だと思います。
で、喩え話を使うこと自体は、言葉を使ってコミュニケーションをしてくれば
生育過程で自然と触れるものですし、なんとなく分かってくるものでしょう。
だからこそ、トレーニングの内容も曖昧になりやすい。
そもそも知っているはずのことだし、使えるはずのものだから
「それをより効果的に使えるように意識して使ってみましょう」といった程度で
慣れを重視した実習が多かったように思います。
どうやってメタファーを作るか、
どういうメタファーが効果的なのか、
何に注意をすればいいのか、
上手くいくメタファーは何が違うのか、
…そのあたりのことは抽象的な発想法ぐらいでしか聞いたことがありません。
ですが、今回、勉強会でメタファーを扱うことにして、色々と整理をしてみると
非常に面白いポイントが見えてきました。
なので今回の勉強会では、滅多に説明されることのない
メタファーの重要なポイントをお伝えすることになると思います。
今までに、僕自身も教わったことのない内容ですし、
どのセミナーでも伝えたことのない内容です。
まぁ、当然ですね。
今回、整理しているうちに思いつきましたから。
自分でも、もっと早く気づいていれば、メタファーを多用したかもしれないと感じます。
また、具体的にメタファーの効果を高めるための方法や、
メタファーを使う目的と場面に応じた工夫の仕方も扱います。
安全なやり方なので、実用的な気もしています。
メタファーというと思い浮かばれる人物は、やはりミルトン・エリクソンだと思いますが
じゃあ、実際にエリクソンがどれぐらいのメタファーを、
『どのように』使っていたのかということは不明瞭です。
残っているのは、エリクソンが話していた逸話や、
良くても、事例として「こういうストーリーを話していた」という情報まで。
いつ、どんなクライアントに、どのような伝え方で…という情報はありません。
エリクソンの晩年と、若いころでは意味が違います。
催眠的にやっていたのか、指示的にやっていたのかでも分かれます。
そのあたりを気にすることなく、エリクソンのメタファーの言語的側面だけから
メタファーを理解しようとすると無理があると思うんです。
催眠だから機能していたメタファーだってあったはずです。
今となっては、もう知ることはできませんが。
今回は、メタファーをストーリーだけの部分としては扱いません。
前置きや、伝え方の工夫なども含むことになりました。
かなり詳しい内容です。
ご参加の方がベテラン揃いなので、詳しくしても良いかな、と。
メタファーの奥行きを楽しみにして頂ければと思っています。
上手くいくときもあるし、いかないときもあるし…といった感じでしょうか。
大雑把に、「喩え話を使って、気づきを重視した伝え方をする」
ぐらいに理解して、色々と使ってみるのも1つの手だと思います。
で、喩え話を使うこと自体は、言葉を使ってコミュニケーションをしてくれば
生育過程で自然と触れるものですし、なんとなく分かってくるものでしょう。
だからこそ、トレーニングの内容も曖昧になりやすい。
そもそも知っているはずのことだし、使えるはずのものだから
「それをより効果的に使えるように意識して使ってみましょう」といった程度で
慣れを重視した実習が多かったように思います。
どうやってメタファーを作るか、
どういうメタファーが効果的なのか、
何に注意をすればいいのか、
上手くいくメタファーは何が違うのか、
…そのあたりのことは抽象的な発想法ぐらいでしか聞いたことがありません。
ですが、今回、勉強会でメタファーを扱うことにして、色々と整理をしてみると
非常に面白いポイントが見えてきました。
なので今回の勉強会では、滅多に説明されることのない
メタファーの重要なポイントをお伝えすることになると思います。
今までに、僕自身も教わったことのない内容ですし、
どのセミナーでも伝えたことのない内容です。
まぁ、当然ですね。
今回、整理しているうちに思いつきましたから。
自分でも、もっと早く気づいていれば、メタファーを多用したかもしれないと感じます。
また、具体的にメタファーの効果を高めるための方法や、
メタファーを使う目的と場面に応じた工夫の仕方も扱います。
安全なやり方なので、実用的な気もしています。
メタファーというと思い浮かばれる人物は、やはりミルトン・エリクソンだと思いますが
じゃあ、実際にエリクソンがどれぐらいのメタファーを、
『どのように』使っていたのかということは不明瞭です。
残っているのは、エリクソンが話していた逸話や、
良くても、事例として「こういうストーリーを話していた」という情報まで。
いつ、どんなクライアントに、どのような伝え方で…という情報はありません。
エリクソンの晩年と、若いころでは意味が違います。
催眠的にやっていたのか、指示的にやっていたのかでも分かれます。
そのあたりを気にすることなく、エリクソンのメタファーの言語的側面だけから
メタファーを理解しようとすると無理があると思うんです。
催眠だから機能していたメタファーだってあったはずです。
今となっては、もう知ることはできませんが。
今回は、メタファーをストーリーだけの部分としては扱いません。
前置きや、伝え方の工夫なども含むことになりました。
かなり詳しい内容です。
ご参加の方がベテラン揃いなので、詳しくしても良いかな、と。
メタファーの奥行きを楽しみにして頂ければと思っています。
2011年10月12日
バイリンガルの話
先日、完全なバイリンガルの人と話をする機会がありました。
「完全な」というのは曖昧な表現ですが、
「大人になってから二ヶ国語を見につけたのではなく
幼少期から二つの言語に触れて、自然な発達のプロセスの中で
両方の言語を身につけた」ということを言っています。
つまり、両親が日本人で、海外で育って
家にいるときは日本語、外では英語…のような感じの成育歴を持つ人です。
帰国子女ではなくて、幼いころから、長い期間にわたって
二つの言語を自然に使い続けてきていることを強調しておきます。
一時期でも、どちらかに偏っていると、どうしても「母国語」という雰囲気は出ます。
そうではなくて、本当に二つの言語の中間にいるような人だということです。
芸能人でいうと、「宇多田ヒカル」ではなくて「 Shelly 」の感じです。
実は、以前にも、ある英会話学校の教師でバイリンガルに当たったことがあります。
完全にアメリカ育ちの日本人。
両親が日本人で、名前も日本語の名前ですが、
育った環境はアメリカという形だったんです。
日本語も普通に使いこなせるという話でしたが、
学校の環境は全て英語圏のものなので、実際には英語のほうが強そうに聞こえました。
教育や学校での訓練の全てを英語でやっていれば当然でしょう。
一方、僕が先日会ったのは、外国人の家庭に生まれ、日本で生まれ育った人。
ただし、小学校から高校までは日本国内のインターナショナル・スクールに通い、
大学は日本の大学に進んだというケースです。
なので、おそらく言語に関するトレーニングを、日本語と英語で
ほとんど均等にやってきていたんだと想像できます。
しかも、重要なのが、言語を習得する段階から、基礎的な言語運用能力を身につけるまで
多くの情報を吸収している過程を日本で過ごしているということなんです。
英語で教育を受けていたとしても、学校以外で入ってくる情報は全て日本のもの。
この環境だと、頭の中に持っている概念が日本の経験で作られています。
例えば、簡単な言葉として「 train 」が学校で使われるとき
日常生活では「電車」という概念を経験から学んで、それを当てはめているはずです。
その人は、日本で育っているので「 train 」といえば
日本の電車の経験と結びついているはずなんです。
時間通りに正確に動き、安全で、朝と夕方は大混雑していて
中に乗っている人は自分の世界にこもっている…というのが
「 train 」であり、「電車」なわけです。
家の中にあるものも、街中で見かけるものも、
呼び方としては日本語と英語の両方で呼べるように育っていますが、
その概念の元となる経験は、完全に日本のものなはずです。
あくまで簡単にするために名詞だけで話しましたが
抽象的な単語や、動作や状態を表すものに関しても同様です。
同じ概念に2つのラベルが貼られているんです。
同じことを2つの表現方法で言えるんです。
それも日本の環境で作られた概念に対して。
すると、例えば「 exciting 」なんていう単語は
「興奮している」という訳がオカシイことに気づくらしいんです。
辞書を引けば確かにそう出ている。
でも英語の自然な使い方として「 exciting 」と使う場面を、
日本人の日本の生活の中で、どんな表現でしているかと対応を考えると
より自然な日本語訳が思い浮かぶそうです。
ちなみに、それは「ワクワクしている」だそうですが。
この状態が、日本語を母国語とする日本人が、
英語学習において目指せる理想的な状態かもしれないと感じました。
逆の立場では機能しません。
両親が日本人で日本語も話せるけど、普通にアメリカで育ちました、というケースでは。
この場合、全ての概念がアメリカ文化、アメリカの環境の中で作られます。
それに英語と日本語の二種類のラベルを貼っているだけ。
同じ単語を使ったときに、日本育ちの人とでは、
全く違う中身を指している可能性があるわけです。
それが日本育ちのバイリンガルであれば、そのまま真似できます。
自分が知っている日本語を、そのまま英語にしてもらって大丈夫なんです。
もちろん、言語活動自体に個人差がありますが、
自分で色々と調べたりするよりも遥かに効率的で自然でしょう。
同じことを日本語でも英語でも言える。
…これだけなら、日本で育とうがアメリカで育とうが関係ありません。
しかし、「日本人が言いたいこと」を日本語でも英語でも言える、となると
それは日本育ちのほうが有利なはずなんです。
「日本人が言いたいこと」は日本の文化や生活環境と密接に結びついていますから、
同じ状況で育ち、同じような概念を持ちながら、
それを英語でも言える人を手本とするのは有効だろう、と。
英語を話そうとして、どう表現して良いか分からなくなったときは
きっと先に頭の中に日本語が浮かんでいます。
それを聞いてしまえば良いわけですから、楽なんです。
で、その言い回しをそのまま丸覚えしてしまえばいい。
一般的な英語学習と逆なんです。
多くの英語のテキストは、フレーズを先に学ぶんです。
こういう言い方がありますよ、と。
それはネイティブにとって自然な表現かもしれませんが、
日本人が、どういう状況で言うべきものかが結びつきにくい。
なので、いざ覚えていたつもりでも、実際に使うべき場面に来ると
それが出てこないという可能性もあります。
日本育ちのバイリンガルの頭を活用させてもらえれば、
自分が言いたいことが日本語で浮かんでしまったときに
それをそのまま日本語で言ってしまえばいいんです。
そして、自然な英語に変換してもらう。
それを丸々覚えて、次回以降は言えるようにする。
学習のスピードでいえば、かなり早いだろうと期待しています。
問題は、そういうことができる人が少ない、というところ。
ここさえクリアできれば、かなりのスピードで身につきそうに感じています。
おそらく、ドイツ語を母国語とする人が、英語を学ぶときは
文法的に非常に似通った部分がありますから、
こんな感じで単語の言い換えさえしていけば身につくんだろうと想像します。
発音や細かい文法の違いは課題として残りますが。
日本語と英語は大きく異なるところがありますが、
それでも自在に相互変換できる人に手伝ってもらえれば
似たようなプロセスで学習を進められそうに思いました。
やり方自体は簡単だと思います。
英語で会話をしながら、詰まった瞬間に日本語を言ってしまう。
『ちゃんぽん』で会話を進めるわけです。
で、区切りの良いところで、日本語だった部分を英語に直してもらう。
そして言い直して練習する。
もちろん、これだけでは「日本人が話す英語」にしかならず
「ネイティブの英語」とは別物です。
ネイティブにしてみても不自然なところは見つからないでしょうが、
依然として魅力的な英語ではないんです。
より高度で、魅力的に聞こえ、ネイティブに対して好まれるように英語を使うとしたら、
その先の段階として高度な英語に触れる必要があるんでしょう。
例えば、英語のセールスレターを見本にしながら
自分でも同じように違う商品のセールスレターを書いてみるとか。
あるいは、英語の有名な演説をお手本にしながら
自分でも同じように英語のスピーチを組み立ててみるとか。
形容詞や副詞の使い方、省略の仕方など、日本語にはない習慣もあります。
これは、日本育ちの人が、いくら言いたいことを英語で表現する練習をしても
決して身に付かないはずのところです。
当然、読んだり、聞いたりしても理解が難しいでしょう。
だからこそ、日本語に無い部分は、積極的に身につけに行く必要があると思います。
何よりも重要なのは、目的意識をハッキリさせること。
このトレーニングは、「何ができるようになるためのものか」を
しっかりと説明できるようになっているか、です。
これが明確になったトレーニングをすれば、
やみくもに沢山の本を読んだり、沢山の英語を聞いたり、
沢山の表現を覚えたり、沢山のスピーチを暗唱したりするよりも、
ずっと効率よく学習を進められると思います。
まぁ、こうした地道なトレーニングは有効ですし、無駄にはならないでしょうが、
ある目的のレベルのために必須かというと、そうでもないと思うんです。
地味に頑張ればできるようになる。
それは分かっていたとしても、効率的に進められるなら、
そちらを選ぶ方法もあると思うんです。
それは、楽をしようということではありません。
すでに持っているリソースを応用しよう、ということです。
なんだか、チョット僕の頭の中で、効果的な英語学習法が
確立されつつある予感がします。
「完全な」というのは曖昧な表現ですが、
「大人になってから二ヶ国語を見につけたのではなく
幼少期から二つの言語に触れて、自然な発達のプロセスの中で
両方の言語を身につけた」ということを言っています。
つまり、両親が日本人で、海外で育って
家にいるときは日本語、外では英語…のような感じの成育歴を持つ人です。
帰国子女ではなくて、幼いころから、長い期間にわたって
二つの言語を自然に使い続けてきていることを強調しておきます。
一時期でも、どちらかに偏っていると、どうしても「母国語」という雰囲気は出ます。
そうではなくて、本当に二つの言語の中間にいるような人だということです。
芸能人でいうと、「宇多田ヒカル」ではなくて「 Shelly 」の感じです。
実は、以前にも、ある英会話学校の教師でバイリンガルに当たったことがあります。
完全にアメリカ育ちの日本人。
両親が日本人で、名前も日本語の名前ですが、
育った環境はアメリカという形だったんです。
日本語も普通に使いこなせるという話でしたが、
学校の環境は全て英語圏のものなので、実際には英語のほうが強そうに聞こえました。
教育や学校での訓練の全てを英語でやっていれば当然でしょう。
一方、僕が先日会ったのは、外国人の家庭に生まれ、日本で生まれ育った人。
ただし、小学校から高校までは日本国内のインターナショナル・スクールに通い、
大学は日本の大学に進んだというケースです。
なので、おそらく言語に関するトレーニングを、日本語と英語で
ほとんど均等にやってきていたんだと想像できます。
しかも、重要なのが、言語を習得する段階から、基礎的な言語運用能力を身につけるまで
多くの情報を吸収している過程を日本で過ごしているということなんです。
英語で教育を受けていたとしても、学校以外で入ってくる情報は全て日本のもの。
この環境だと、頭の中に持っている概念が日本の経験で作られています。
例えば、簡単な言葉として「 train 」が学校で使われるとき
日常生活では「電車」という概念を経験から学んで、それを当てはめているはずです。
その人は、日本で育っているので「 train 」といえば
日本の電車の経験と結びついているはずなんです。
時間通りに正確に動き、安全で、朝と夕方は大混雑していて
中に乗っている人は自分の世界にこもっている…というのが
「 train 」であり、「電車」なわけです。
家の中にあるものも、街中で見かけるものも、
呼び方としては日本語と英語の両方で呼べるように育っていますが、
その概念の元となる経験は、完全に日本のものなはずです。
あくまで簡単にするために名詞だけで話しましたが
抽象的な単語や、動作や状態を表すものに関しても同様です。
同じ概念に2つのラベルが貼られているんです。
同じことを2つの表現方法で言えるんです。
それも日本の環境で作られた概念に対して。
すると、例えば「 exciting 」なんていう単語は
「興奮している」という訳がオカシイことに気づくらしいんです。
辞書を引けば確かにそう出ている。
でも英語の自然な使い方として「 exciting 」と使う場面を、
日本人の日本の生活の中で、どんな表現でしているかと対応を考えると
より自然な日本語訳が思い浮かぶそうです。
ちなみに、それは「ワクワクしている」だそうですが。
この状態が、日本語を母国語とする日本人が、
英語学習において目指せる理想的な状態かもしれないと感じました。
逆の立場では機能しません。
両親が日本人で日本語も話せるけど、普通にアメリカで育ちました、というケースでは。
この場合、全ての概念がアメリカ文化、アメリカの環境の中で作られます。
それに英語と日本語の二種類のラベルを貼っているだけ。
同じ単語を使ったときに、日本育ちの人とでは、
全く違う中身を指している可能性があるわけです。
それが日本育ちのバイリンガルであれば、そのまま真似できます。
自分が知っている日本語を、そのまま英語にしてもらって大丈夫なんです。
もちろん、言語活動自体に個人差がありますが、
自分で色々と調べたりするよりも遥かに効率的で自然でしょう。
同じことを日本語でも英語でも言える。
…これだけなら、日本で育とうがアメリカで育とうが関係ありません。
しかし、「日本人が言いたいこと」を日本語でも英語でも言える、となると
それは日本育ちのほうが有利なはずなんです。
「日本人が言いたいこと」は日本の文化や生活環境と密接に結びついていますから、
同じ状況で育ち、同じような概念を持ちながら、
それを英語でも言える人を手本とするのは有効だろう、と。
英語を話そうとして、どう表現して良いか分からなくなったときは
きっと先に頭の中に日本語が浮かんでいます。
それを聞いてしまえば良いわけですから、楽なんです。
で、その言い回しをそのまま丸覚えしてしまえばいい。
一般的な英語学習と逆なんです。
多くの英語のテキストは、フレーズを先に学ぶんです。
こういう言い方がありますよ、と。
それはネイティブにとって自然な表現かもしれませんが、
日本人が、どういう状況で言うべきものかが結びつきにくい。
なので、いざ覚えていたつもりでも、実際に使うべき場面に来ると
それが出てこないという可能性もあります。
日本育ちのバイリンガルの頭を活用させてもらえれば、
自分が言いたいことが日本語で浮かんでしまったときに
それをそのまま日本語で言ってしまえばいいんです。
そして、自然な英語に変換してもらう。
それを丸々覚えて、次回以降は言えるようにする。
学習のスピードでいえば、かなり早いだろうと期待しています。
問題は、そういうことができる人が少ない、というところ。
ここさえクリアできれば、かなりのスピードで身につきそうに感じています。
おそらく、ドイツ語を母国語とする人が、英語を学ぶときは
文法的に非常に似通った部分がありますから、
こんな感じで単語の言い換えさえしていけば身につくんだろうと想像します。
発音や細かい文法の違いは課題として残りますが。
日本語と英語は大きく異なるところがありますが、
それでも自在に相互変換できる人に手伝ってもらえれば
似たようなプロセスで学習を進められそうに思いました。
やり方自体は簡単だと思います。
英語で会話をしながら、詰まった瞬間に日本語を言ってしまう。
『ちゃんぽん』で会話を進めるわけです。
で、区切りの良いところで、日本語だった部分を英語に直してもらう。
そして言い直して練習する。
もちろん、これだけでは「日本人が話す英語」にしかならず
「ネイティブの英語」とは別物です。
ネイティブにしてみても不自然なところは見つからないでしょうが、
依然として魅力的な英語ではないんです。
より高度で、魅力的に聞こえ、ネイティブに対して好まれるように英語を使うとしたら、
その先の段階として高度な英語に触れる必要があるんでしょう。
例えば、英語のセールスレターを見本にしながら
自分でも同じように違う商品のセールスレターを書いてみるとか。
あるいは、英語の有名な演説をお手本にしながら
自分でも同じように英語のスピーチを組み立ててみるとか。
形容詞や副詞の使い方、省略の仕方など、日本語にはない習慣もあります。
これは、日本育ちの人が、いくら言いたいことを英語で表現する練習をしても
決して身に付かないはずのところです。
当然、読んだり、聞いたりしても理解が難しいでしょう。
だからこそ、日本語に無い部分は、積極的に身につけに行く必要があると思います。
何よりも重要なのは、目的意識をハッキリさせること。
このトレーニングは、「何ができるようになるためのものか」を
しっかりと説明できるようになっているか、です。
これが明確になったトレーニングをすれば、
やみくもに沢山の本を読んだり、沢山の英語を聞いたり、
沢山の表現を覚えたり、沢山のスピーチを暗唱したりするよりも、
ずっと効率よく学習を進められると思います。
まぁ、こうした地道なトレーニングは有効ですし、無駄にはならないでしょうが、
ある目的のレベルのために必須かというと、そうでもないと思うんです。
地味に頑張ればできるようになる。
それは分かっていたとしても、効率的に進められるなら、
そちらを選ぶ方法もあると思うんです。
それは、楽をしようということではありません。
すでに持っているリソースを応用しよう、ということです。
なんだか、チョット僕の頭の中で、効果的な英語学習法が
確立されつつある予感がします。