2011年11月
2011年11月30日
大学ランキング
「 Times Higher Education 」の世界大学ランキングで
ついにハーバード大が一位から陥落したそうです。
今年の首位は「カリフォルニア工科大学」、通称「カルテック」。
他の大学と比べて、大学関係の産業収入がダントツ。
ただ、発表元の説明では、研究費が増えたことがランク上昇の理由だとか。
これまで何年間も一位の座を保ってきたハーバードの順位が落ちたのは
個人的にかなりの驚きでした。
2位以下は毎年かなり変動していたんです。
まぁ、研究成果は毎年コンスタントに出るわけではなく、
成果を出せる研究者が沢山いることで、大学全体の評価が高まるはずです。
その中でも、多くの研究者の成果が集中して出る年もあれば
逆にハズレ年のようなこともあるんでしょう。
そういう変動の影響もあったんだと思います。
だからこそ、逆に考えれば2位以下の変動は当たり前のことで
ハーバードのトップ維持のほうが異常な事態だったのかもしれません。
ハーバードは文系も理系も幅広く扱っているのに対して
カルテックは理系大学で、その学部数も学生数も少ない。
学生はハーバードの10分の1ぐらいだとか。
その中でのランキング一位ですから大変なことなんでしょう。
来年の動きも気になるところですが。
日本の大学では東大の30位が最高で、国際色が低く評価されています。
こういうランキングでは外国人学生の数なども評価の対象になるようなので
もしかするとTPPの関係で日本への移住が楽になったりすると
日本での生活を目指す外国人の数が増えて、
日本の大学の評価も上がることになるのかもしれません。
しかし、教育という観点で言えば、そこには学生側の姿勢も関係すると思います。
自分の過去を思い返しても、大学の授業で寝ていたことが結構ありましたから。
まぁ、半分以上は講義が面白くない教授のせいだと感じていましたが。
今だったら、もっと真面目に授業を聞こうとするでしょうし、
内容によっては質問攻めにすることもあったでしょう。
世界のトップスクールをトップにさせているのは、
大学側だけの問題じゃない気がします。
そこで学ぶ学生の意欲や姿勢が、日本とは違うのかもしれません。
そう考えると、大学のレベルや教育のレベルについて、どうこういうことよりも、
小学校の時点から「学ぶ」ということの意味について
今までとは違う別の可能性を広げられるような授業の形が
求められてくるんじゃないかと思えます。
進学のための勉強ではない、「学ぶ」楽しさが伝わるような
そんな授業を小学校の頃から体験できていれば
大学に入ってからも授業をサボったりするケースだって減るような気もします。
大学も受験制度を変えたりしようとしているらしいですが、
その前に学生の成長過程にも注目してみてもいいんじゃないでしょうか。
ついにハーバード大が一位から陥落したそうです。
今年の首位は「カリフォルニア工科大学」、通称「カルテック」。
他の大学と比べて、大学関係の産業収入がダントツ。
ただ、発表元の説明では、研究費が増えたことがランク上昇の理由だとか。
これまで何年間も一位の座を保ってきたハーバードの順位が落ちたのは
個人的にかなりの驚きでした。
2位以下は毎年かなり変動していたんです。
まぁ、研究成果は毎年コンスタントに出るわけではなく、
成果を出せる研究者が沢山いることで、大学全体の評価が高まるはずです。
その中でも、多くの研究者の成果が集中して出る年もあれば
逆にハズレ年のようなこともあるんでしょう。
そういう変動の影響もあったんだと思います。
だからこそ、逆に考えれば2位以下の変動は当たり前のことで
ハーバードのトップ維持のほうが異常な事態だったのかもしれません。
ハーバードは文系も理系も幅広く扱っているのに対して
カルテックは理系大学で、その学部数も学生数も少ない。
学生はハーバードの10分の1ぐらいだとか。
その中でのランキング一位ですから大変なことなんでしょう。
来年の動きも気になるところですが。
日本の大学では東大の30位が最高で、国際色が低く評価されています。
こういうランキングでは外国人学生の数なども評価の対象になるようなので
もしかするとTPPの関係で日本への移住が楽になったりすると
日本での生活を目指す外国人の数が増えて、
日本の大学の評価も上がることになるのかもしれません。
しかし、教育という観点で言えば、そこには学生側の姿勢も関係すると思います。
自分の過去を思い返しても、大学の授業で寝ていたことが結構ありましたから。
まぁ、半分以上は講義が面白くない教授のせいだと感じていましたが。
今だったら、もっと真面目に授業を聞こうとするでしょうし、
内容によっては質問攻めにすることもあったでしょう。
世界のトップスクールをトップにさせているのは、
大学側だけの問題じゃない気がします。
そこで学ぶ学生の意欲や姿勢が、日本とは違うのかもしれません。
そう考えると、大学のレベルや教育のレベルについて、どうこういうことよりも、
小学校の時点から「学ぶ」ということの意味について
今までとは違う別の可能性を広げられるような授業の形が
求められてくるんじゃないかと思えます。
進学のための勉強ではない、「学ぶ」楽しさが伝わるような
そんな授業を小学校の頃から体験できていれば
大学に入ってからも授業をサボったりするケースだって減るような気もします。
大学も受験制度を変えたりしようとしているらしいですが、
その前に学生の成長過程にも注目してみてもいいんじゃないでしょうか。
2011年11月28日
邪魔されるのが、どうも…
僕には、どうしても受け入れられないことがあります。
勝手に他人の中に実在しない問題を指摘して
それを解決したように見せているやり方、です。
最初から無いんだから、解決するのは簡単です。
ただ、「良い経験をした」と楽しませることは上手い。
この技術が高いことは認めます。
が、「それで良いんだろうか?」と思ってしまう。
大袈裟に言えば
「あなた悪霊が付いていますよ。
あなたの今の不安な気持ちや漠然とした不満は、悪霊のたたりです。
私が除霊してあげます。
ハイ、終わりました。
もう大丈夫ですよ。」
というやり方。
大昔、医療が発達する前には、そうやって痛みを治療していたようですが、
最近は、その方向性は少なくなっているはずです。
もちろん、悪霊がいるかどうかは別にして、
そういう方法を取ることで体の痛みがなくなるのであれば
実用的に意味があるとは思うんです。
良くなるんなら、役に立ってはいるわけです。
体の場合には自覚症状があって、改善も分かりやすいでしょう。
それが、漠然とした不安や不満のような気持ちの問題となってくると
良くなったのかどうかの判断が難しいはずです。
一瞬の気が紛れただけで、日常に戻れば元の不安にさらされるのに、
その場だけでは「良くなった」と感じてしまう可能性だって否定できません。
本当は役に立っていないんじゃないか?
そういう疑問が、僕には避けられないんです。
にもかかわらず
「それでも本人が満足しているなら良いじゃないか」
という考えも同時に浮かびます。
僕から見れば意味のないことのように思えても、
実在しない問題を作って解決している人も、解決してもらっている人も、
両方がそれで満足しているんだったら、本人の自由かもしれません。
僕はサッカーに興味がないですけど、ワールドカップを見るために
海外にまで出向いていく人だっているわけです。
そういう好みのレベルとして見れば、
好きでやっている人たちに対して、僕がどうこう言うものでもないだろう、と。
そう頭で分かっていても、なぜか嫌いなんです。
勝手に実在しない問題を指摘して解決するやり方が。
その理由を突き詰めていって見えてきたのは、僕の中にある
「人生は有限だ」
という考えのようでした。
他の人がどうやって生きようが、その人の自由だと思う一方で
「人生には限りがあるし、一回きりなんだから…」
といった思いから生まれる「もったいない」という気持ちが消えません。
自分自身の人生に対する焦りも関係しているかもしれません。
その焦りを投影しているという見方。
もう1つは、志半ばで道が途切れてしまった人たちを見てきたから、
という可能性もありそうです。
いずれにせよ、僕の中には人生に対するメタファー的なイメージがあって
それが両方の可能性に反映されている気がします。
なかなか手に入らないテーマパークのチケットが当たった。
ずっと欲しくて欲しくて、長年待ち続け、ようやく入手できたチケット。
それを持ってテーマパークに向かう。
沢山のアトラクションがあって、事前に調べていて、
「あれに行きたい、次はこれ、その後でこっちに行って…」
と少しでも満喫できるように色々と計画まで立てている。
並ばないと乗れないようなヤツもあるし、
乗るためには抽選で当たらないといけないようなアトラクションもある。
人によっては、その高倍率のアトラクションに乗るために
他には見向きもせずに、何度も何度も抽選に挑み続けたり。
別のある人は、レストランでのんびりと過ごしていたり。
大好きなアトラクションだけで何度も遊ぶ人もいれば
とにかく沢山のアトラクションを回ろうとする人もいる。
少し疲れたら休む人。
疲れなんて気にせずに目いっぱい走り回る人。
アトラクションよりも、友達と話すほうが大事な人もいたり。
来て間もないうちに、急用で帰らなければいけなくなった人も、
最初から長くはいられない予定で来た人も。
逆に、誰よりも長く滞在している人もいる。
ただ、全員に共通しているのは、ずっといられるわけではなく、
そのチケットを入手するのは困難である、ということ。
僕は、そのテーマパークの中で、残りの時間を意識しながら
精一杯楽しもうとしているようなイメージがあります。
次に来られるのが、いつになるのかも分からないし、
ずっと楽しみにしていたから、とにかく満喫したい。
ちょっとぐらい疲れたって、休んでいたら勿体ないと思う。
友達の何人かが、途中で帰らなければいけなくなってしまって、
そのことも残念に思っている。
人それぞれの好みだとは分かっていても、他の人を見ては
「せっかく来られたのに、勿体ないなぁ。
帰らなければいけなかった人だっているのに…」
と感じることもある。
そんなイメージがあるんです。
それが僕の焦りの感じ。
テーマパークの中を、じっくりと散策したい人だって良いと思います。
休憩するのも良いと思いますし、色々な楽しみ方もあるでしょう。
ただアトラクションの行列を並ぶだけの時間だって
無駄に思えたとしても必要なプロセスかもしれません。
本人が、自分でそれを選んでいる分には良いんです。
僕が受け入れ難く感じるのは、
『道案内しますよ』と言いながら、他人に回り道をさせている人
みたいな感じです。
最終的に、その人が時間をかけて歩いた道を
「楽しかった」と思ってくれれば良いなぁ、と僕は願うばかり。
乗りたかったアトラクションに間に合ってくれれば…。
どうしても見たかったものがあったはずなのに
その遠回りな道案内のせいで
滞在時間に間に合わなくなってしまうのは残念だと感じてしまいます。
最終的に、本人がテーマパークに来たことを「良かった」と思ってくれれば
それに越したことはないんですが。
心残りがあるままで去らなければいけないのは、なんだか嫌なんです。
楽しみ方は人それぞれとはいえ、楽しむための時間を他の人から奪うのは
僕にとって受け入れたくないイメージなんだと思います。
それにしても、僕は随分と回りたいアトラクションや
見たい景色が多いみたいです。
勝手に他人の中に実在しない問題を指摘して
それを解決したように見せているやり方、です。
最初から無いんだから、解決するのは簡単です。
ただ、「良い経験をした」と楽しませることは上手い。
この技術が高いことは認めます。
が、「それで良いんだろうか?」と思ってしまう。
大袈裟に言えば
「あなた悪霊が付いていますよ。
あなたの今の不安な気持ちや漠然とした不満は、悪霊のたたりです。
私が除霊してあげます。
ハイ、終わりました。
もう大丈夫ですよ。」
というやり方。
大昔、医療が発達する前には、そうやって痛みを治療していたようですが、
最近は、その方向性は少なくなっているはずです。
もちろん、悪霊がいるかどうかは別にして、
そういう方法を取ることで体の痛みがなくなるのであれば
実用的に意味があるとは思うんです。
良くなるんなら、役に立ってはいるわけです。
体の場合には自覚症状があって、改善も分かりやすいでしょう。
それが、漠然とした不安や不満のような気持ちの問題となってくると
良くなったのかどうかの判断が難しいはずです。
一瞬の気が紛れただけで、日常に戻れば元の不安にさらされるのに、
その場だけでは「良くなった」と感じてしまう可能性だって否定できません。
本当は役に立っていないんじゃないか?
そういう疑問が、僕には避けられないんです。
にもかかわらず
「それでも本人が満足しているなら良いじゃないか」
という考えも同時に浮かびます。
僕から見れば意味のないことのように思えても、
実在しない問題を作って解決している人も、解決してもらっている人も、
両方がそれで満足しているんだったら、本人の自由かもしれません。
僕はサッカーに興味がないですけど、ワールドカップを見るために
海外にまで出向いていく人だっているわけです。
そういう好みのレベルとして見れば、
好きでやっている人たちに対して、僕がどうこう言うものでもないだろう、と。
そう頭で分かっていても、なぜか嫌いなんです。
勝手に実在しない問題を指摘して解決するやり方が。
その理由を突き詰めていって見えてきたのは、僕の中にある
「人生は有限だ」
という考えのようでした。
他の人がどうやって生きようが、その人の自由だと思う一方で
「人生には限りがあるし、一回きりなんだから…」
といった思いから生まれる「もったいない」という気持ちが消えません。
自分自身の人生に対する焦りも関係しているかもしれません。
その焦りを投影しているという見方。
もう1つは、志半ばで道が途切れてしまった人たちを見てきたから、
という可能性もありそうです。
いずれにせよ、僕の中には人生に対するメタファー的なイメージがあって
それが両方の可能性に反映されている気がします。
なかなか手に入らないテーマパークのチケットが当たった。
ずっと欲しくて欲しくて、長年待ち続け、ようやく入手できたチケット。
それを持ってテーマパークに向かう。
沢山のアトラクションがあって、事前に調べていて、
「あれに行きたい、次はこれ、その後でこっちに行って…」
と少しでも満喫できるように色々と計画まで立てている。
並ばないと乗れないようなヤツもあるし、
乗るためには抽選で当たらないといけないようなアトラクションもある。
人によっては、その高倍率のアトラクションに乗るために
他には見向きもせずに、何度も何度も抽選に挑み続けたり。
別のある人は、レストランでのんびりと過ごしていたり。
大好きなアトラクションだけで何度も遊ぶ人もいれば
とにかく沢山のアトラクションを回ろうとする人もいる。
少し疲れたら休む人。
疲れなんて気にせずに目いっぱい走り回る人。
アトラクションよりも、友達と話すほうが大事な人もいたり。
来て間もないうちに、急用で帰らなければいけなくなった人も、
最初から長くはいられない予定で来た人も。
逆に、誰よりも長く滞在している人もいる。
ただ、全員に共通しているのは、ずっといられるわけではなく、
そのチケットを入手するのは困難である、ということ。
僕は、そのテーマパークの中で、残りの時間を意識しながら
精一杯楽しもうとしているようなイメージがあります。
次に来られるのが、いつになるのかも分からないし、
ずっと楽しみにしていたから、とにかく満喫したい。
ちょっとぐらい疲れたって、休んでいたら勿体ないと思う。
友達の何人かが、途中で帰らなければいけなくなってしまって、
そのことも残念に思っている。
人それぞれの好みだとは分かっていても、他の人を見ては
「せっかく来られたのに、勿体ないなぁ。
帰らなければいけなかった人だっているのに…」
と感じることもある。
そんなイメージがあるんです。
それが僕の焦りの感じ。
テーマパークの中を、じっくりと散策したい人だって良いと思います。
休憩するのも良いと思いますし、色々な楽しみ方もあるでしょう。
ただアトラクションの行列を並ぶだけの時間だって
無駄に思えたとしても必要なプロセスかもしれません。
本人が、自分でそれを選んでいる分には良いんです。
僕が受け入れ難く感じるのは、
『道案内しますよ』と言いながら、他人に回り道をさせている人
みたいな感じです。
最終的に、その人が時間をかけて歩いた道を
「楽しかった」と思ってくれれば良いなぁ、と僕は願うばかり。
乗りたかったアトラクションに間に合ってくれれば…。
どうしても見たかったものがあったはずなのに
その遠回りな道案内のせいで
滞在時間に間に合わなくなってしまうのは残念だと感じてしまいます。
最終的に、本人がテーマパークに来たことを「良かった」と思ってくれれば
それに越したことはないんですが。
心残りがあるままで去らなければいけないのは、なんだか嫌なんです。
楽しみ方は人それぞれとはいえ、楽しむための時間を他の人から奪うのは
僕にとって受け入れたくないイメージなんだと思います。
それにしても、僕は随分と回りたいアトラクションや
見たい景色が多いみたいです。
2011年11月26日
トマト炭酸
炭酸トマトジュース。
飲みました。
こちらはカゴメのほう。
商品棚の隣には、デルモンテから発売されている
ペットボトル入りのものもありましたが、カゴメ「 TOMASH 」を選びました。
デルモンテのよりもトマト率が高いようだったので。
トマト40%の炭酸飲料です。
味は…。
それほどトマトの感じがしません。
良く言えば、トマト臭くないので、トマトが苦手な人も大丈夫という感じ。
悪く言えば、トマトジュースではない。
どちらかというと、砂糖控え目のレモンスカッシュのほうが近いでしょう。
少なめながら甘さも加えてあるので、ますますトマトジュースの雰囲気は弱いです。
後味に少しだけトマト風味がする程度。
僕はトマトも、トマトジュースも好きなほうなので
もっとトマト感が強いものを期待していました。
とても当たり障りのない炭酸飲料。
もしかすると、トマトを強めたら炭酸と合わなかったのかもしれません。
電車の車内広告にも出ていたりしたので、
それなりに売り込もうという意志ある商品かと思いました。
デザインからしても、広告からしても、オシャレさを求めている様子。
意図した客層は、トマトが好きな人ではないような気がします。
どういう人をターゲットにするかによって、商品の味も変わるんでしょうね。
どんな会議のすえに生まれた商品なのか、とても気になります。
飲みました。
こちらはカゴメのほう。
商品棚の隣には、デルモンテから発売されている
ペットボトル入りのものもありましたが、カゴメ「 TOMASH 」を選びました。
デルモンテのよりもトマト率が高いようだったので。
トマト40%の炭酸飲料です。
味は…。
それほどトマトの感じがしません。
良く言えば、トマト臭くないので、トマトが苦手な人も大丈夫という感じ。
悪く言えば、トマトジュースではない。
どちらかというと、砂糖控え目のレモンスカッシュのほうが近いでしょう。
少なめながら甘さも加えてあるので、ますますトマトジュースの雰囲気は弱いです。
後味に少しだけトマト風味がする程度。
僕はトマトも、トマトジュースも好きなほうなので
もっとトマト感が強いものを期待していました。
とても当たり障りのない炭酸飲料。
もしかすると、トマトを強めたら炭酸と合わなかったのかもしれません。
電車の車内広告にも出ていたりしたので、
それなりに売り込もうという意志ある商品かと思いました。
デザインからしても、広告からしても、オシャレさを求めている様子。
意図した客層は、トマトが好きな人ではないような気がします。
どういう人をターゲットにするかによって、商品の味も変わるんでしょうね。
どんな会議のすえに生まれた商品なのか、とても気になります。
2011年11月24日
設定の中で
冬は夜空が綺麗です。
星が良く見える。
そして、星を見るたびに僕は、疑問に思うことがあります。
映画『猿の惑星』についてです。
最近やっている「どうやって地球が猿の惑星になったか」の話ではなく
一番最初のストーリーのほう。
「宇宙船の乗組員が、ある惑星に辿り着いたら、
そこは猿が人を支配する惑星だった…」という。
この映画『猿の惑星』では、主人公が最後に
自分の辿り着いた「猿の惑星」が未来の地球だった、
と気づくところで終わります。
その決定的な証拠となったのが、崩れて地面に埋まった自由の女神像。
それを見て、主人公は自分のやってきた惑星が
実は地球だったんだと気づいて衝撃を受けるわけです。
これが不思議で仕方がない。
なぜ、自由の女神を見るまで地球だと分からなかったのか?
山や海、地形は時間の経過とともに変わったとしましょう。
でも、空は変わらないでしょう。
星空は数千年単位では大きく変わらないと思います。
夜、外に出れば月が見え、星座が見えるはずです。
見なれたヤツが。
宇宙人のいる星があったとしても、
その星から見える夜空が地球と全く同じ可能性は、格段に低いでしょう。
なんか変だと思ってしまうんです。
そして、猿の生活スタイルも気になる。
洞穴のような住居に住んでいるのに、着ている衣服は現代人のよう。
皮ジャンなんか着ていたりしますし、王族のようなローブだったりもします。
なぜ皮ジャンを加工できる技術があって、
金属製のヘルメットを作れて、
洞穴の中に住んでいるのか?
家だって加工できそうなものなのに。
仮に猿の身体能力に沿った住居に最適化されていったとしたら
家の中に掴まるための棒があったり、
生活の動線が人間と違って設定されていたりしても良いはず。
洞窟の中にはベッドや棚があって、食器も使っているのに
なぜか住宅を自ら建設していないのが納得できません。
映画だと分かっていても、フィクションだと知っていても
なんか変だと感じてしまうんです。
ところが、他の映画なら違和感なく見られるんです。
「スパイダーマン」が遺伝子組換えのクモに噛まれて特殊能力になる。
科学的にはあり得ませんが、これは気になりません。
素直に楽しめます。
「ハルク」が巨大化するのも、あり得ないと思いますけど
これだって気にせずに楽しめるんです。
「バイオハザード」の原因となっているウイルスだって
最初は空気感染で施設が壊滅したのに、ゾンビで出てきてからは
噛まれなければ触ったとしても感染しないのも、
ウイルスということからすると変な感じですが、気にならないんです。
「X-MEN」なんて、ミュータントの範囲を超えているのは承知の上です。
目から光線が出るヤツが、しかも、その光線をサングラスで防げる。
仕組みなんて見当もつきませんが、見ていて違和感はありません。
にもかかわらず、『猿の惑星』は気になる。
どうしても、オカシイと思ってしまうんです。
猿の惑星だって、変なところは他にも沢山あるはずです。
話せるようになっているなら、それに合わせて口周りの筋肉だって
変わっていくように進化しそうなものです。
オランウータンやゴリラやチンパンジーが、そのままの姿で知能を発達させている。
種族の違う猿が全て均等に進化しています。
ただ、そういう部分の違和感は小さい。
そういうものなんだと思って見られるんです。
どうやら、僕の中で「設定」だと捉えた部分は無視できるようです。
前提となっている設定は、「そういうもの」として処理できるんでしょう。
猿が人間に代わって知的な生活をして、人類を支配している世界。
姿かたちは猿のままで、知的能力だけ発達した。
そういう「設定」ということで納得できるわけです。
設定の段階であれば、無茶だとか、オカシイとかは思わないみたいです。
そこは空想の世界として楽しめます。
なのに、「地球にいたことが、夜空を見ても気づかない」とか
「皮ジャンや鉄のヘルメットやベッドを作れるのに、家を建てない」とか
そういった部分は変だと思ってしまう。
僕は、「設定」の範囲内に矛盾があるかどうかを
自覚するしないうちに判断しているんだと気づきました。
『猿の惑星』という設定は、そのまま受け入れる。
でも、『猿の惑星』の設定であれば、
「そうはならないだろう」というところが気になるんだと思います。
地球が猿に支配される星になりました。
猿が言葉を話し、人間を虐げるほど進化しました。
猿が皮ジャンを着るような世界です。
そこに、なぜか時間を超えて宇宙船の乗組員が帰ってきました。
ここまでは設定として受け入れているんでしょう。
ただし、この設定では「未来の地球」に現代人が帰ってきている
という形が決められますから、だったら星座も月も同じはずとなる。
それを見れば、地球だと思うんじゃないだろうか。
少なくとも疑うだろう、と。
なのに、主人公の宇宙船乗組員は最後の最後まで分からない。
それは設定の範囲内でオカシイと思えてくるようです。
何も現実にあり得るかどうかを求めているのではありません。
フィクションだとしても、その世界の中で矛盾のない話であって欲しいんです。
僕にとって、設定や前提の中で矛盾がないかどうか、ということが
無自覚に判断してしまうほど重要なポイントになっているんだ
と、改めて思いました。
星が良く見える。
そして、星を見るたびに僕は、疑問に思うことがあります。
映画『猿の惑星』についてです。
最近やっている「どうやって地球が猿の惑星になったか」の話ではなく
一番最初のストーリーのほう。
「宇宙船の乗組員が、ある惑星に辿り着いたら、
そこは猿が人を支配する惑星だった…」という。
この映画『猿の惑星』では、主人公が最後に
自分の辿り着いた「猿の惑星」が未来の地球だった、
と気づくところで終わります。
その決定的な証拠となったのが、崩れて地面に埋まった自由の女神像。
それを見て、主人公は自分のやってきた惑星が
実は地球だったんだと気づいて衝撃を受けるわけです。
これが不思議で仕方がない。
なぜ、自由の女神を見るまで地球だと分からなかったのか?
山や海、地形は時間の経過とともに変わったとしましょう。
でも、空は変わらないでしょう。
星空は数千年単位では大きく変わらないと思います。
夜、外に出れば月が見え、星座が見えるはずです。
見なれたヤツが。
宇宙人のいる星があったとしても、
その星から見える夜空が地球と全く同じ可能性は、格段に低いでしょう。
なんか変だと思ってしまうんです。
そして、猿の生活スタイルも気になる。
洞穴のような住居に住んでいるのに、着ている衣服は現代人のよう。
皮ジャンなんか着ていたりしますし、王族のようなローブだったりもします。
なぜ皮ジャンを加工できる技術があって、
金属製のヘルメットを作れて、
洞穴の中に住んでいるのか?
家だって加工できそうなものなのに。
仮に猿の身体能力に沿った住居に最適化されていったとしたら
家の中に掴まるための棒があったり、
生活の動線が人間と違って設定されていたりしても良いはず。
洞窟の中にはベッドや棚があって、食器も使っているのに
なぜか住宅を自ら建設していないのが納得できません。
映画だと分かっていても、フィクションだと知っていても
なんか変だと感じてしまうんです。
ところが、他の映画なら違和感なく見られるんです。
「スパイダーマン」が遺伝子組換えのクモに噛まれて特殊能力になる。
科学的にはあり得ませんが、これは気になりません。
素直に楽しめます。
「ハルク」が巨大化するのも、あり得ないと思いますけど
これだって気にせずに楽しめるんです。
「バイオハザード」の原因となっているウイルスだって
最初は空気感染で施設が壊滅したのに、ゾンビで出てきてからは
噛まれなければ触ったとしても感染しないのも、
ウイルスということからすると変な感じですが、気にならないんです。
「X-MEN」なんて、ミュータントの範囲を超えているのは承知の上です。
目から光線が出るヤツが、しかも、その光線をサングラスで防げる。
仕組みなんて見当もつきませんが、見ていて違和感はありません。
にもかかわらず、『猿の惑星』は気になる。
どうしても、オカシイと思ってしまうんです。
猿の惑星だって、変なところは他にも沢山あるはずです。
話せるようになっているなら、それに合わせて口周りの筋肉だって
変わっていくように進化しそうなものです。
オランウータンやゴリラやチンパンジーが、そのままの姿で知能を発達させている。
種族の違う猿が全て均等に進化しています。
ただ、そういう部分の違和感は小さい。
そういうものなんだと思って見られるんです。
どうやら、僕の中で「設定」だと捉えた部分は無視できるようです。
前提となっている設定は、「そういうもの」として処理できるんでしょう。
猿が人間に代わって知的な生活をして、人類を支配している世界。
姿かたちは猿のままで、知的能力だけ発達した。
そういう「設定」ということで納得できるわけです。
設定の段階であれば、無茶だとか、オカシイとかは思わないみたいです。
そこは空想の世界として楽しめます。
なのに、「地球にいたことが、夜空を見ても気づかない」とか
「皮ジャンや鉄のヘルメットやベッドを作れるのに、家を建てない」とか
そういった部分は変だと思ってしまう。
僕は、「設定」の範囲内に矛盾があるかどうかを
自覚するしないうちに判断しているんだと気づきました。
『猿の惑星』という設定は、そのまま受け入れる。
でも、『猿の惑星』の設定であれば、
「そうはならないだろう」というところが気になるんだと思います。
地球が猿に支配される星になりました。
猿が言葉を話し、人間を虐げるほど進化しました。
猿が皮ジャンを着るような世界です。
そこに、なぜか時間を超えて宇宙船の乗組員が帰ってきました。
ここまでは設定として受け入れているんでしょう。
ただし、この設定では「未来の地球」に現代人が帰ってきている
という形が決められますから、だったら星座も月も同じはずとなる。
それを見れば、地球だと思うんじゃないだろうか。
少なくとも疑うだろう、と。
なのに、主人公の宇宙船乗組員は最後の最後まで分からない。
それは設定の範囲内でオカシイと思えてくるようです。
何も現実にあり得るかどうかを求めているのではありません。
フィクションだとしても、その世界の中で矛盾のない話であって欲しいんです。
僕にとって、設定や前提の中で矛盾がないかどうか、ということが
無自覚に判断してしまうほど重要なポイントになっているんだ
と、改めて思いました。
2011年11月21日
区切りがつきました
今年も作品を提出しました。
書道の話です。
期限までの間、何度も書いてみるわけですが
普段の半紙に書く練習とは違って、「作品としての良さ」というのが
自分の中に基準として不足しているのを感じます。
週に一度ぐらい、先生に見てもらってチェックを受ける。
とはいえ、細かなポイントまでは聞けないのが実情でした。
全体的な印象とか、こういうことに気をつけてといったことを言われるぐらい。
最終的には自分で色々とバリエーションをつけるように試しながら書いてみて
最終決定日に細かな解説とともに作品として提出するものを選ぶんです。
そして、そこで初めて、細かいチェックポイントが明かされます。
大きな違いを感じないものの中から
「こっちのほうが線の質にバリエーションがあるから」
「これの、この払いは原本と違うと言われそうだから」
「ここが少し全体のバランスとズレて見える」
などと。
コミュニケーションの技術として言えば、
この段階で初めて効果的なフィードバックが得られると言っても良いわけです。
なので、その時間は非常に有益です。
と同時に、そのフィードバックが得られるのが最終決定日というのが残念でもある。
それを聞いて、もう一週間時間をかけて書いてみたら
もっと納得のいくものが書けると思えるからです。
ちょっと悔しさが残ります。
おそらく先生としては、ある程度の偶然性を意識していると思われて
意識してもできない部分はフィードバックしないのでしょう。
書道の場合、筆やら紙やら墨やら湿度やら、様々な要因で
線の表情が変わってきます。
具体的な筆使いやバランスの取り方の指導はできても
できあがる作品の良し悪しの調整までは求めないんだと思います。
ただ、僕の実感としては、フィードバックとして言われたことの中に
「それは意識すればコントロールできる範囲」と感じることも多くて。
細かなチェックポイントを全部意識しながら最善を求めていけば
より良いものができたんじゃないかという気持ちが残ってしまいました。
まぁ、その分、次回には活かせる学びが多いとも言えるわけですが…。
理想を言うと、
今まで書いたヤツの良い部分を切り取って
寄せ集めたものを目標に設定して書いていく、
ということができると、やりがいもあると思っています。
もちろん、精神的なものが影響する部分もありますので
完璧を求めて書き過ぎると、その雰囲気が線質に出たり
全体に縮こまってしまったりと、副作用もあるはずです。
この辺はバランスなのかもしれません。
そこを理解しながらフィードバックをしてもらえると作品の質は格段に上がるでしょうが、
先生は書道の先生であって、コミュニケーションの先生ではないので
そこは自分から理解を深めていくのが学ぶ立場として適切だと考えています。
こちらは提出しなかったものですが、最後の日に仕上げた数枚のうちの1つで
長らく苦労した文字が上達してきたことと、全体のバランスとを考慮して
かなり気にいっていたものです。
(残念ながら最後までは残りませんでした。)
最後から二文字目の「之」という字が難関で、ようやくコツを掴んだ感じのもの。
僕にとって、この文字が難関だった分、実際に提出したものは
その部分が少し気にいらないところが残りました。
ですが先生に言わせると、その一文字は気にならないんだそうです。
僕が気にして見てしまう部分と、達人が気にする部分は違うということでしょう。
それにしても、最終的な細かいチェックポイントを活かして
もう一回チャンスが欲しかったものです。
まぁ、去年の作品を今にして思い返すと
「今なら、もっと上手く書ける」と感じますから、
きっと来年に今年の作品を振り返れば
今の小さなコダワリも誤差の範囲に入ってしまうんだろうと思います。
道具一式が片付き、ようやく部屋の中が広くなりました。
書道の話です。
期限までの間、何度も書いてみるわけですが
普段の半紙に書く練習とは違って、「作品としての良さ」というのが
自分の中に基準として不足しているのを感じます。
週に一度ぐらい、先生に見てもらってチェックを受ける。
とはいえ、細かなポイントまでは聞けないのが実情でした。
全体的な印象とか、こういうことに気をつけてといったことを言われるぐらい。
最終的には自分で色々とバリエーションをつけるように試しながら書いてみて
最終決定日に細かな解説とともに作品として提出するものを選ぶんです。
そして、そこで初めて、細かいチェックポイントが明かされます。
大きな違いを感じないものの中から
「こっちのほうが線の質にバリエーションがあるから」
「これの、この払いは原本と違うと言われそうだから」
「ここが少し全体のバランスとズレて見える」
などと。
コミュニケーションの技術として言えば、
この段階で初めて効果的なフィードバックが得られると言っても良いわけです。
なので、その時間は非常に有益です。
と同時に、そのフィードバックが得られるのが最終決定日というのが残念でもある。
それを聞いて、もう一週間時間をかけて書いてみたら
もっと納得のいくものが書けると思えるからです。
ちょっと悔しさが残ります。
おそらく先生としては、ある程度の偶然性を意識していると思われて
意識してもできない部分はフィードバックしないのでしょう。
書道の場合、筆やら紙やら墨やら湿度やら、様々な要因で
線の表情が変わってきます。
具体的な筆使いやバランスの取り方の指導はできても
できあがる作品の良し悪しの調整までは求めないんだと思います。
ただ、僕の実感としては、フィードバックとして言われたことの中に
「それは意識すればコントロールできる範囲」と感じることも多くて。
細かなチェックポイントを全部意識しながら最善を求めていけば
より良いものができたんじゃないかという気持ちが残ってしまいました。
まぁ、その分、次回には活かせる学びが多いとも言えるわけですが…。
理想を言うと、
今まで書いたヤツの良い部分を切り取って
寄せ集めたものを目標に設定して書いていく、
ということができると、やりがいもあると思っています。
もちろん、精神的なものが影響する部分もありますので
完璧を求めて書き過ぎると、その雰囲気が線質に出たり
全体に縮こまってしまったりと、副作用もあるはずです。
この辺はバランスなのかもしれません。
そこを理解しながらフィードバックをしてもらえると作品の質は格段に上がるでしょうが、
先生は書道の先生であって、コミュニケーションの先生ではないので
そこは自分から理解を深めていくのが学ぶ立場として適切だと考えています。
こちらは提出しなかったものですが、最後の日に仕上げた数枚のうちの1つで
長らく苦労した文字が上達してきたことと、全体のバランスとを考慮して
かなり気にいっていたものです。
(残念ながら最後までは残りませんでした。)
最後から二文字目の「之」という字が難関で、ようやくコツを掴んだ感じのもの。
僕にとって、この文字が難関だった分、実際に提出したものは
その部分が少し気にいらないところが残りました。
ですが先生に言わせると、その一文字は気にならないんだそうです。
僕が気にして見てしまう部分と、達人が気にする部分は違うということでしょう。
それにしても、最終的な細かいチェックポイントを活かして
もう一回チャンスが欲しかったものです。
まぁ、去年の作品を今にして思い返すと
「今なら、もっと上手く書ける」と感じますから、
きっと来年に今年の作品を振り返れば
今の小さなコダワリも誤差の範囲に入ってしまうんだろうと思います。
道具一式が片付き、ようやく部屋の中が広くなりました。
2011年11月19日
「なんとなく」を意識化する
個人的な好みとして、僕は「なんとなく」を言語化できるようにしたい傾向があります。
無意識を意識化するといっても良いかもしれません。
「別に、無意識にできてさえいれば、意識化できなくても構わない」
という考え方もあるとは思います。
しかし、無意識にやっていることというのは自覚がないわけなので
本当にできているかどうかに対しても気づきようがありません。
できているかどうかの判断は、その過程ではなくて結果のみで判断される。
結果は状況によっても変わりますし、偶然の要素に左右されることもあります。
だからこそ、結果だけを頼りに「できる」かどうかを判断して
プロセスを自覚せずにやっていくというのは危険を伴うと思うんです。
「できている」つもりのことの中にも、できていない部分があるかもしれません。
問題を含んでいる可能性や、さらに向上できる余地があっても
自覚せずに取り組んでいると、そこに気づきにくいでしょう。
その意味で、無意識にできている人というのは
好・不調の波が大きいと想像できます。
典型的な例は、メジャーリーグの野球選手たち。
イチロー選手いわく、彼らは天才だそうです。
本人も良く分かっていないけれどホームランが打てるから。
イチロー選手はヒットを打つために、どれだけ意識的に作業をしているか
ということを物語っているようです。
実際、メジャーの選手たちは波が大きいと感じます。
一時期は日本でも驚くほど取り上げられた選手が
いつの間にか調子を崩して、知らないうちに引退していたりする。
今年は残念な結果に終わりましたが、イチロー選手の10年連続200本安打は
自覚してヒットを打てることが、どれだけ成績を高く安定させるかを
示しているのではないでしょうか。
本人にとってどうでもいいことなら、わざわざ自覚しなくても良いでしょう。
ただ、その内容が大事なことなら、意識的にできるようになったほうが
そのクオリティは上がっていくと思うんです。
多くの人が無意識的にやっていることの1つがコミュニケーションだと思います。
自然に身につけて、自分なりのやり方で、何が正しいでもなく
生きてきた過程で気づかないうちに学んだものです。
また、そのやり方を自覚することもなく日々を過ごしていくことも多いでしょう。
そして、それは意識的にしていくことによって変えられる可能性を秘めています。
問題を自覚できれば、変えることができるわけです。
望ましい結果を出すために、方法を変えられるんです。
コミュニケーションの場合、気づいていないことも多いですが、
自分なりのやり方がある以上、他のやり方をしていないことが沢山あります。
同じ状況で、他の人は別の対応をしている。
そういうことがザラにある。
なので、自分がやったことのなかったコミュニケーション方法を
新しい技術として学ぶこともできるということです。
今までのやり方は十分に身についていますから、
一度それから離れて、新しい方法だけを意識的にやるようにする。
トレーニングの機会では、結果を出すことを求めて取り組むよりも
今までやったことのなかった方法を使うことを心がけたほうが
技術的な伸び幅を大きくできると言えます。
上手くやろうとすると、今までのやり方を使いたくなるものです。
上手くなりたいなら、新しいやり方だけに専念したほうがメリットが大きいでしょう。
まず別物として新しく取り入れる。
自分のものと組み合わせるのは、次の実践段階からで十分だと思います。
僕はコミュニケーションの方法を意識化することを心がけてきました。
今まで知らずにやって効果的だった部分も意識化するようにしましたし、
逆に、新しく学ぶ方法に関しても意識的に整理してきたつもりです。
しかし、その多くは、ある土台の上に積み重ねるタイプのものでした。
新しく何かをトレーニングするとしても、その人の得意な能力を利用して
できるだけ効率的に身に着くようにと考えてきたんです。
すでに持っている技術や能力で応用できるものは使っていく。
これが大人が何かを学ぶときのコツだと思います。
ところが、裏を返すと、応用できるものが少ない状態で
トレーニングをした経験というのは滅多になかったんです。
大人になってから身につけるものは、大抵、何かの技術や能力が利用できます。
例えば、スキーをやったことのない人が新しく始めたとしても
そこには歩いているときにバランスを取るといった自然に身につけた能力が
利用できているはずなんです。
歩くときに目線を一定にすることでバランスを取る人は、それを利用すれば良いし、
膝の柔軟性で体を安定させる人は、それを利用すれば良い。
体幹部を使ってバランスを取る人は、その意識が役に立つでしょう。
何かしら関連させられる能力があるケースが多いんです。
多分、今までに全くやったことのない経験というと
スカイダイビングとか、トランポリンや体操の宙返りとかでしょうか。
普通に地上で生活をしてきた人にとって、空中の姿勢をコントロールしたり
上下方向に激しく回転する感覚は身についていないと思います。
他は、パッと思いつきません。
つまり、自然に地上で、日本の社会で生活して身につけたことは
無意識のままで、色々なことに応用できる土台になっているということです。
だからこそ、新しい言語の習得というのは大変なんだと感じます。
少なくとも、自分が母国語でできることと同じところまで
外国語を使えるようになるのは、相当大変なことのはずです。
それは、母国語そのものが、ほとんど全ての生活の土台になっているからです。
日本語の土台を活かして外国語を学ぶ限り、母国語には追いつかないでしょう。
だからといって、もう一度、母国語を身につけたときと同じようにして
外国語を習得できるかというと、それも大変な気がします。
外国語学習の理論には色々なものがありますが、いずれも方法論であって、
「どうしてそれで身につくのか」を理由づけできるものではないように思います。
人によっては、母国語として身につけられる年齢には制限があると言いますし、
「言語から隔離された環境で大人になってしまうと言葉が使えるようにはならない」
といった話も聞いたことがあります。(オオカミに育てられたら…みたいな話とか)
条件によっては厳しいこともあるとは思いますが、
1つの言語を自然に獲得した人なら、可能性はあると信じています。
それが困難な大きな理由は、おそらく
「無意識なままで身につけてしまった複雑な技能を
『どうやって身につけてきたか』として説明できる人がいない」
からじゃないでしょうか。
「どういう過程を経てきたか」ぐらいは言えるんです。
そこだけに注目すると、
最初は聞くところだけから始まっているから
とにかく沢山聞けば英語は身に着く!
といった過激な発想に繋がる。
小さな子供が沢山の言葉を聞いていたときと
大人になってから沢山の言葉を聞いたときと
同じ聞き方をしているんでしょうか?
そこが違ったら、同じことをしているとは言えません。
表面的に見て同じような行動をしても、処理されている中身が違えば
得られる結果は違うはずです。
むしろ明確にすべきなのは、言葉を話せない子供が
沢山の音を聞いているときに、頭の中でどんな作業をしているか、です。
まず最初に何に注目しているのか。
まず最初に、何ができるようになっているのか。
それから、そのできるようになった能力を使って
次に何ができるようになっていくのか。
幼稚園ぐらいで、言語を使って何ができるようになっていて
小学校ぐらいでどうなって、中学校でどうなって…。
そのあたりの詳しいプロセスを追いかけられれば
言語習得の方法論も変わってくると思います。
特に、大人の場合は既に母国語でできていることがあるわけなので
それを応用すべきところと、新しく別に身につけるべきところを
分けてトレーニングすることができると考えられます。
外国語を学ぼうとしていることで、
自分が日本語を無意識に身につけてきたことを再認識しました。
そして、どうやって日本語を使っているかにも無自覚だ、と。
このプロセスは、通常では大人になってから再体験できません。
ごく稀に、病気が理由で、大人になってから
今まで無意識にしていたことを、意識的に再び身につける人がいます。
思い浮かぶのは、ミルトン・エリクソンでしょう。
彼はポリオのために、一度全身が動かせなくなっています。
そこから、どうしたら体が動くのかを発見し、
どうやって歩くのかを学び、普通の生活まで回復した人です。
一般的には、どうやって歩くかというのも完全に無意識でしょう。
母国語を使いこなせているのと同様に、無意識の領域です。
エリクソンは、それを意識化した人なんです。
人がどうやって行動しているかを意識的にやり直したんです。
他の人にとって無意識のことが、彼にとっては意識的なんです。
エリクソンが良く言っていたという
「無意識を信頼する」
という言葉も、
エリクソン自身が無意識を意識化していたことを考えれば
受け取る意味が変わってくるはずです。
意識してできるように努力してきていないことは
いくら無意識を信頼したところで出来るとは思えません。
頑張って取り組んできたものなら、無意識を信頼することで
その努力の過程を最大限に発揮できる可能性はあるでしょう。
エリクソンが誰よりも無意識を信頼できたのは
誰よりも無意識を意識化する努力をしたからではないでしょうか。
最近、僕は外国語習得を目指す過程で、それまで以上に、
無意識にやってきたことを意識化しようとしている気がします。
大人になってから意識的なプロセスで、新しく言語を身につける。
その過程を通して、無意識を意識化することを
より効果的にできるようになるという期待があるからかもしれません。
その目的に対しては、ネイティブの人からは多くが学べないようです。
トレーニングの相手として、ペーシングで感覚を分けてもらう相手として
ネイティブスピーカーには助けてもらえていますが、
どうしたら外国語を習得できるかという話に関しては
なかなか教えてもらえるところが少ないと感じます。
色々と聞いてみても、結局のところ得られる答えは
「沢山やっていれば慣れる」というもの。
この「慣れればできるようになる」という説明は
無意識なままで出来るようになった人たちの言葉でしょう。
多分、僕自身も「どうやったら日本語を話せるようになるか」
と聞かれたとき、現時点では的確に説明ができないと思います。
無意識のうちに身につけた能力は、
上手く出来ているかどうかの判断ができたとしても
「どうすれば出来るようになるか」を説明するのが困難なものだと実感しています。
そういう観点からすると、自然に身につけたバイリンガルも同等なんです。
母国語を身につけた人が、意識的に外国語を身につける。
このプロセスを通った人からこそ、学べるものが多いはずです。
そんな方から色々と話が聞けると得られるものがあると思います。
そして、新しいものを学ぶプロセスを意識化できるようにしたいんです。
それができれば、きっと、もっと多くのことを効果的に
身につけられるようになるんじゃないでしょうか。
言語やコミュニケーションは、人にとって避けられないものです。
同時に、当たり前に思えるものでもあり、それ自体が目的にはなりにくい。
人生で何かを成し遂げるための媒体になりやすいでしょう。
ただ、学習の方法というのは、言語やコミュニケーションよりも
さらに抽象的で、人生全般に活用できる範囲のものだと思います。
効果的な学習の方法を学べれば、
言語やコミュニケーションでさえ、より速やかに向上できる。
最近は、そのあたりに関心が移ってきている気がします。
無意識を意識化するといっても良いかもしれません。
「別に、無意識にできてさえいれば、意識化できなくても構わない」
という考え方もあるとは思います。
しかし、無意識にやっていることというのは自覚がないわけなので
本当にできているかどうかに対しても気づきようがありません。
できているかどうかの判断は、その過程ではなくて結果のみで判断される。
結果は状況によっても変わりますし、偶然の要素に左右されることもあります。
だからこそ、結果だけを頼りに「できる」かどうかを判断して
プロセスを自覚せずにやっていくというのは危険を伴うと思うんです。
「できている」つもりのことの中にも、できていない部分があるかもしれません。
問題を含んでいる可能性や、さらに向上できる余地があっても
自覚せずに取り組んでいると、そこに気づきにくいでしょう。
その意味で、無意識にできている人というのは
好・不調の波が大きいと想像できます。
典型的な例は、メジャーリーグの野球選手たち。
イチロー選手いわく、彼らは天才だそうです。
本人も良く分かっていないけれどホームランが打てるから。
イチロー選手はヒットを打つために、どれだけ意識的に作業をしているか
ということを物語っているようです。
実際、メジャーの選手たちは波が大きいと感じます。
一時期は日本でも驚くほど取り上げられた選手が
いつの間にか調子を崩して、知らないうちに引退していたりする。
今年は残念な結果に終わりましたが、イチロー選手の10年連続200本安打は
自覚してヒットを打てることが、どれだけ成績を高く安定させるかを
示しているのではないでしょうか。
本人にとってどうでもいいことなら、わざわざ自覚しなくても良いでしょう。
ただ、その内容が大事なことなら、意識的にできるようになったほうが
そのクオリティは上がっていくと思うんです。
多くの人が無意識的にやっていることの1つがコミュニケーションだと思います。
自然に身につけて、自分なりのやり方で、何が正しいでもなく
生きてきた過程で気づかないうちに学んだものです。
また、そのやり方を自覚することもなく日々を過ごしていくことも多いでしょう。
そして、それは意識的にしていくことによって変えられる可能性を秘めています。
問題を自覚できれば、変えることができるわけです。
望ましい結果を出すために、方法を変えられるんです。
コミュニケーションの場合、気づいていないことも多いですが、
自分なりのやり方がある以上、他のやり方をしていないことが沢山あります。
同じ状況で、他の人は別の対応をしている。
そういうことがザラにある。
なので、自分がやったことのなかったコミュニケーション方法を
新しい技術として学ぶこともできるということです。
今までのやり方は十分に身についていますから、
一度それから離れて、新しい方法だけを意識的にやるようにする。
トレーニングの機会では、結果を出すことを求めて取り組むよりも
今までやったことのなかった方法を使うことを心がけたほうが
技術的な伸び幅を大きくできると言えます。
上手くやろうとすると、今までのやり方を使いたくなるものです。
上手くなりたいなら、新しいやり方だけに専念したほうがメリットが大きいでしょう。
まず別物として新しく取り入れる。
自分のものと組み合わせるのは、次の実践段階からで十分だと思います。
僕はコミュニケーションの方法を意識化することを心がけてきました。
今まで知らずにやって効果的だった部分も意識化するようにしましたし、
逆に、新しく学ぶ方法に関しても意識的に整理してきたつもりです。
しかし、その多くは、ある土台の上に積み重ねるタイプのものでした。
新しく何かをトレーニングするとしても、その人の得意な能力を利用して
できるだけ効率的に身に着くようにと考えてきたんです。
すでに持っている技術や能力で応用できるものは使っていく。
これが大人が何かを学ぶときのコツだと思います。
ところが、裏を返すと、応用できるものが少ない状態で
トレーニングをした経験というのは滅多になかったんです。
大人になってから身につけるものは、大抵、何かの技術や能力が利用できます。
例えば、スキーをやったことのない人が新しく始めたとしても
そこには歩いているときにバランスを取るといった自然に身につけた能力が
利用できているはずなんです。
歩くときに目線を一定にすることでバランスを取る人は、それを利用すれば良いし、
膝の柔軟性で体を安定させる人は、それを利用すれば良い。
体幹部を使ってバランスを取る人は、その意識が役に立つでしょう。
何かしら関連させられる能力があるケースが多いんです。
多分、今までに全くやったことのない経験というと
スカイダイビングとか、トランポリンや体操の宙返りとかでしょうか。
普通に地上で生活をしてきた人にとって、空中の姿勢をコントロールしたり
上下方向に激しく回転する感覚は身についていないと思います。
他は、パッと思いつきません。
つまり、自然に地上で、日本の社会で生活して身につけたことは
無意識のままで、色々なことに応用できる土台になっているということです。
だからこそ、新しい言語の習得というのは大変なんだと感じます。
少なくとも、自分が母国語でできることと同じところまで
外国語を使えるようになるのは、相当大変なことのはずです。
それは、母国語そのものが、ほとんど全ての生活の土台になっているからです。
日本語の土台を活かして外国語を学ぶ限り、母国語には追いつかないでしょう。
だからといって、もう一度、母国語を身につけたときと同じようにして
外国語を習得できるかというと、それも大変な気がします。
外国語学習の理論には色々なものがありますが、いずれも方法論であって、
「どうしてそれで身につくのか」を理由づけできるものではないように思います。
人によっては、母国語として身につけられる年齢には制限があると言いますし、
「言語から隔離された環境で大人になってしまうと言葉が使えるようにはならない」
といった話も聞いたことがあります。(オオカミに育てられたら…みたいな話とか)
条件によっては厳しいこともあるとは思いますが、
1つの言語を自然に獲得した人なら、可能性はあると信じています。
それが困難な大きな理由は、おそらく
「無意識なままで身につけてしまった複雑な技能を
『どうやって身につけてきたか』として説明できる人がいない」
からじゃないでしょうか。
「どういう過程を経てきたか」ぐらいは言えるんです。
そこだけに注目すると、
最初は聞くところだけから始まっているから
とにかく沢山聞けば英語は身に着く!
といった過激な発想に繋がる。
小さな子供が沢山の言葉を聞いていたときと
大人になってから沢山の言葉を聞いたときと
同じ聞き方をしているんでしょうか?
そこが違ったら、同じことをしているとは言えません。
表面的に見て同じような行動をしても、処理されている中身が違えば
得られる結果は違うはずです。
むしろ明確にすべきなのは、言葉を話せない子供が
沢山の音を聞いているときに、頭の中でどんな作業をしているか、です。
まず最初に何に注目しているのか。
まず最初に、何ができるようになっているのか。
それから、そのできるようになった能力を使って
次に何ができるようになっていくのか。
幼稚園ぐらいで、言語を使って何ができるようになっていて
小学校ぐらいでどうなって、中学校でどうなって…。
そのあたりの詳しいプロセスを追いかけられれば
言語習得の方法論も変わってくると思います。
特に、大人の場合は既に母国語でできていることがあるわけなので
それを応用すべきところと、新しく別に身につけるべきところを
分けてトレーニングすることができると考えられます。
外国語を学ぼうとしていることで、
自分が日本語を無意識に身につけてきたことを再認識しました。
そして、どうやって日本語を使っているかにも無自覚だ、と。
このプロセスは、通常では大人になってから再体験できません。
ごく稀に、病気が理由で、大人になってから
今まで無意識にしていたことを、意識的に再び身につける人がいます。
思い浮かぶのは、ミルトン・エリクソンでしょう。
彼はポリオのために、一度全身が動かせなくなっています。
そこから、どうしたら体が動くのかを発見し、
どうやって歩くのかを学び、普通の生活まで回復した人です。
一般的には、どうやって歩くかというのも完全に無意識でしょう。
母国語を使いこなせているのと同様に、無意識の領域です。
エリクソンは、それを意識化した人なんです。
人がどうやって行動しているかを意識的にやり直したんです。
他の人にとって無意識のことが、彼にとっては意識的なんです。
エリクソンが良く言っていたという
「無意識を信頼する」
という言葉も、
エリクソン自身が無意識を意識化していたことを考えれば
受け取る意味が変わってくるはずです。
意識してできるように努力してきていないことは
いくら無意識を信頼したところで出来るとは思えません。
頑張って取り組んできたものなら、無意識を信頼することで
その努力の過程を最大限に発揮できる可能性はあるでしょう。
エリクソンが誰よりも無意識を信頼できたのは
誰よりも無意識を意識化する努力をしたからではないでしょうか。
最近、僕は外国語習得を目指す過程で、それまで以上に、
無意識にやってきたことを意識化しようとしている気がします。
大人になってから意識的なプロセスで、新しく言語を身につける。
その過程を通して、無意識を意識化することを
より効果的にできるようになるという期待があるからかもしれません。
その目的に対しては、ネイティブの人からは多くが学べないようです。
トレーニングの相手として、ペーシングで感覚を分けてもらう相手として
ネイティブスピーカーには助けてもらえていますが、
どうしたら外国語を習得できるかという話に関しては
なかなか教えてもらえるところが少ないと感じます。
色々と聞いてみても、結局のところ得られる答えは
「沢山やっていれば慣れる」というもの。
この「慣れればできるようになる」という説明は
無意識なままで出来るようになった人たちの言葉でしょう。
多分、僕自身も「どうやったら日本語を話せるようになるか」
と聞かれたとき、現時点では的確に説明ができないと思います。
無意識のうちに身につけた能力は、
上手く出来ているかどうかの判断ができたとしても
「どうすれば出来るようになるか」を説明するのが困難なものだと実感しています。
そういう観点からすると、自然に身につけたバイリンガルも同等なんです。
母国語を身につけた人が、意識的に外国語を身につける。
このプロセスを通った人からこそ、学べるものが多いはずです。
そんな方から色々と話が聞けると得られるものがあると思います。
そして、新しいものを学ぶプロセスを意識化できるようにしたいんです。
それができれば、きっと、もっと多くのことを効果的に
身につけられるようになるんじゃないでしょうか。
言語やコミュニケーションは、人にとって避けられないものです。
同時に、当たり前に思えるものでもあり、それ自体が目的にはなりにくい。
人生で何かを成し遂げるための媒体になりやすいでしょう。
ただ、学習の方法というのは、言語やコミュニケーションよりも
さらに抽象的で、人生全般に活用できる範囲のものだと思います。
効果的な学習の方法を学べれば、
言語やコミュニケーションでさえ、より速やかに向上できる。
最近は、そのあたりに関心が移ってきている気がします。
2011年11月17日
魅力的なプレゼン
youtubeってスゴイですね。
色々な勉強ができます。
海外の有名大学の授業なんかも動画で見れてしまう。
もちろん内容も興味深いですが、
日本の学校教育に慣れている側からすると
人気のある教授のプレゼン能力の高さに驚かされます。
僕の記憶の中にある学校の先生の一部は
催眠誘導をしているかのようだったものですが、
海外の教授にはエンターテイナーが沢山いる気がします。
スピード感があって、笑いを取りながら、熱意をこめて
話を面白くする工夫に満ちているようです。
こういうのを見ていると、自分がアメリカに
トレーナーコースを受けに行った時点を思い出します。
その頃は、人前で話をするということの楽しさを知って
それに熱中しかけていた時期でしたし、
バンドラーやアンソニー・ロビンスなどのプレゼンを聞いて
『魅力的なプレゼン』というのに意識が向いていたものです。
なので、トレーナーコースで体験してきたプレゼンの練習も楽しく
いかに影響力のあるプレゼンをするかというのを心がけて
一生懸命に頑張っていたんです。
ただ、当時はプレゼンの表面的な型の部分に目が向いていましたから
それなりに大げさな見せ方というのを意識していた気がします。
しかしながら、そのやり方は、いかにもアメリカ文化の中で成り立つもので
一般的な日本の環境においては異質でワザとらしい感じもしました。
その辺から、徐々に日本の中で自然な感じになるようにスタイルが変わり始め
表面的な見せ方ではない本質の部分へと、心がける内容が移って行きました。
今、改めて当時に憧れていたタイプのカッコいいプレゼンを見ると
もう少し違った形でそれを取り入れられそうな印象も受けます。
日本語でも自然に、かつ影響力を持ち合わせながら。
そんな可能性を感じながら動画を見ていると、様々な角度から勉強になりそうです。
こちらの動画は、スタンフォード大のティナ・シーリグによる講義です。
http://www.youtube.com/watch?v=v_w7b419pxw&feature=related(字幕付き)
躍動感やリズム、声のトーンの使い方の素晴らしさに加えて
内容の展開の仕方も興味深く構成されています。
6分そこらですが、たったこれだけで「なるほど!」と感じてしまいました。
内容は聞いてみれば当たり前と思えるほどシンプルで本質的ですが、
それを伝え方で学びの大きなものに変えているように思えます。
ビジネスやってみようかな?という気にさえなりましたから。
色々な勉強ができます。
海外の有名大学の授業なんかも動画で見れてしまう。
もちろん内容も興味深いですが、
日本の学校教育に慣れている側からすると
人気のある教授のプレゼン能力の高さに驚かされます。
僕の記憶の中にある学校の先生の一部は
催眠誘導をしているかのようだったものですが、
海外の教授にはエンターテイナーが沢山いる気がします。
スピード感があって、笑いを取りながら、熱意をこめて
話を面白くする工夫に満ちているようです。
こういうのを見ていると、自分がアメリカに
トレーナーコースを受けに行った時点を思い出します。
その頃は、人前で話をするということの楽しさを知って
それに熱中しかけていた時期でしたし、
バンドラーやアンソニー・ロビンスなどのプレゼンを聞いて
『魅力的なプレゼン』というのに意識が向いていたものです。
なので、トレーナーコースで体験してきたプレゼンの練習も楽しく
いかに影響力のあるプレゼンをするかというのを心がけて
一生懸命に頑張っていたんです。
ただ、当時はプレゼンの表面的な型の部分に目が向いていましたから
それなりに大げさな見せ方というのを意識していた気がします。
しかしながら、そのやり方は、いかにもアメリカ文化の中で成り立つもので
一般的な日本の環境においては異質でワザとらしい感じもしました。
その辺から、徐々に日本の中で自然な感じになるようにスタイルが変わり始め
表面的な見せ方ではない本質の部分へと、心がける内容が移って行きました。
今、改めて当時に憧れていたタイプのカッコいいプレゼンを見ると
もう少し違った形でそれを取り入れられそうな印象も受けます。
日本語でも自然に、かつ影響力を持ち合わせながら。
そんな可能性を感じながら動画を見ていると、様々な角度から勉強になりそうです。
こちらの動画は、スタンフォード大のティナ・シーリグによる講義です。
http://www.youtube.com/watch?v=v_w7b419pxw&feature=related(字幕付き)
躍動感やリズム、声のトーンの使い方の素晴らしさに加えて
内容の展開の仕方も興味深く構成されています。
6分そこらですが、たったこれだけで「なるほど!」と感じてしまいました。
内容は聞いてみれば当たり前と思えるほどシンプルで本質的ですが、
それを伝え方で学びの大きなものに変えているように思えます。
ビジネスやってみようかな?という気にさえなりましたから。
2011年11月15日
飲んで効く
肩コリや首のコリに飲んで効くという薬がありますが、
どのようにして、それが効くのかが想像ができません。
中身を見ると、色々なビタミンが混ざっている感じ。
疲労回復にビタミン剤を飲んだりするぐらいですから
なんらかの代謝に影響を与えて改善しようということなのかもしれません。
だとしても、「〜の痛みに」と商品ラインナップを変えられるほど
飲み薬で対応できる症状がコントロールできるものなのでしょうか。
色々と成分を見てみると、多くに含まれるのがビタミンB1の類です。
ビタミンB1は吸収効率が悪く、体内に保持されにくい性質なので
日々、摂取していることが大事だと言われます。
水溶性なので過剰摂取の問題点は、あまり指摘されないようです。
ビタミンB1が使われるのは糖を代謝するときの最後の過程で
ピルビン酸という物質の利用に関わっています。
他にもビタミンB1を利用する酵素はありますが、
多分、ここが生理的に注目されやすく重要度も高いのでしょう。
ピルビン酸は、酸素が十分にあるときにはアセチルCoAに変換されます。
このときにビタミンB1が必須になる。
で、アセチルCoAが酸素呼吸を伴って利用されるときにエネルギーが出る、と。
一方、酸素不足になると、ピルビン酸は乳酸に変換されます。
「乳酸がたまると疲労を感じる」とよく言われますが、正確には
「乳酸がたまっている状態では疲労も感じている」という感じじゃないかと思います。
相関はあったとしても、因果として、どちらが先なのかを僕は知りません。
ただ、乳酸を再利用してピルビン酸に戻し、
アセチルCoAを介して二酸化炭素まで完全に消費できれば
エネルギーの効率は上がるのは間違いないでしょう。
仮に、ビタミンB1不足で、ピルビン酸からアセチルCoAの変換が低下するとしたら
ビタミンB1の摂取でエネルギーが上がって「元気になる」のは想像ができます。
しかし、ピルビン酸を乳酸に変換する酵素は全身の筋肉中にありますが
乳酸をピルビン酸に戻す酵素は肝臓にしか存在しません。
そう考えると、コリと呼ばれる疲労部位で血行が悪くなって疲労が蓄積しているとしたら
まず、その部位から血流に乗せて乳酸を肝臓まで運ばなければいけません。
そのためには、疲労の蓄積している部位の血行を上げる必要が出てくる。
となると、マッサージが運動によって筋肉を動かし、
その部位の静脈のポンピングを高めたほうが効果的に思えてきます。
肝臓に戻った乳酸をピルビン酸に再変換し、それを呼吸を伴って利用するには
結局のところ酸素が必要になるわけなので、
筋肉を動かすことも考慮すると、有酸素運動とストレッチが大事となりそうです。
その上で、全身のエネルギー生産が損なわれないように
十分なビタミンB1を取っておいて、ピルビン酸からの代謝を上げるようにする、と。
結局のところ、いたって当たり前の話ですが
しっかりとビタミンを含む栄養分をとって、
適度な有酸素運動とストレッチをするのが大事ということでしょうか。
ただ、飲み薬で部位別に痛みを改善できる理由は分かりません。
全身の疲労を改善する過程で、痛みのある部位も楽になるというのが
実際のところのように思えてしまいます。
おそらく、データを取った試験においても
「目と肩と首と腰が痛いです」という人を集めて
「どの薬を飲んだら、どの部位が一番楽になったか」
を調べたわけではないと思いますから。
まぁ、薬が売れて、買った人が効果を感じられれば
双方にメリットがあるので十分に役立っているんですが。
僕のような考え方をすると、プラセボの効果が下がるので
損をしているところもあるのかもしれません。
どのようにして、それが効くのかが想像ができません。
中身を見ると、色々なビタミンが混ざっている感じ。
疲労回復にビタミン剤を飲んだりするぐらいですから
なんらかの代謝に影響を与えて改善しようということなのかもしれません。
だとしても、「〜の痛みに」と商品ラインナップを変えられるほど
飲み薬で対応できる症状がコントロールできるものなのでしょうか。
色々と成分を見てみると、多くに含まれるのがビタミンB1の類です。
ビタミンB1は吸収効率が悪く、体内に保持されにくい性質なので
日々、摂取していることが大事だと言われます。
水溶性なので過剰摂取の問題点は、あまり指摘されないようです。
ビタミンB1が使われるのは糖を代謝するときの最後の過程で
ピルビン酸という物質の利用に関わっています。
他にもビタミンB1を利用する酵素はありますが、
多分、ここが生理的に注目されやすく重要度も高いのでしょう。
ピルビン酸は、酸素が十分にあるときにはアセチルCoAに変換されます。
このときにビタミンB1が必須になる。
で、アセチルCoAが酸素呼吸を伴って利用されるときにエネルギーが出る、と。
一方、酸素不足になると、ピルビン酸は乳酸に変換されます。
「乳酸がたまると疲労を感じる」とよく言われますが、正確には
「乳酸がたまっている状態では疲労も感じている」という感じじゃないかと思います。
相関はあったとしても、因果として、どちらが先なのかを僕は知りません。
ただ、乳酸を再利用してピルビン酸に戻し、
アセチルCoAを介して二酸化炭素まで完全に消費できれば
エネルギーの効率は上がるのは間違いないでしょう。
仮に、ビタミンB1不足で、ピルビン酸からアセチルCoAの変換が低下するとしたら
ビタミンB1の摂取でエネルギーが上がって「元気になる」のは想像ができます。
しかし、ピルビン酸を乳酸に変換する酵素は全身の筋肉中にありますが
乳酸をピルビン酸に戻す酵素は肝臓にしか存在しません。
そう考えると、コリと呼ばれる疲労部位で血行が悪くなって疲労が蓄積しているとしたら
まず、その部位から血流に乗せて乳酸を肝臓まで運ばなければいけません。
そのためには、疲労の蓄積している部位の血行を上げる必要が出てくる。
となると、マッサージが運動によって筋肉を動かし、
その部位の静脈のポンピングを高めたほうが効果的に思えてきます。
肝臓に戻った乳酸をピルビン酸に再変換し、それを呼吸を伴って利用するには
結局のところ酸素が必要になるわけなので、
筋肉を動かすことも考慮すると、有酸素運動とストレッチが大事となりそうです。
その上で、全身のエネルギー生産が損なわれないように
十分なビタミンB1を取っておいて、ピルビン酸からの代謝を上げるようにする、と。
結局のところ、いたって当たり前の話ですが
しっかりとビタミンを含む栄養分をとって、
適度な有酸素運動とストレッチをするのが大事ということでしょうか。
ただ、飲み薬で部位別に痛みを改善できる理由は分かりません。
全身の疲労を改善する過程で、痛みのある部位も楽になるというのが
実際のところのように思えてしまいます。
おそらく、データを取った試験においても
「目と肩と首と腰が痛いです」という人を集めて
「どの薬を飲んだら、どの部位が一番楽になったか」
を調べたわけではないと思いますから。
まぁ、薬が売れて、買った人が効果を感じられれば
双方にメリットがあるので十分に役立っているんですが。
僕のような考え方をすると、プラセボの効果が下がるので
損をしているところもあるのかもしれません。
2011年11月13日
逃げていたもの
誰しも好き嫌いがあるのは当然ですが、
「なぜ、それが好きか」
「なぜ、それが嫌いか」
というのはハッキリ答えにくいものだと思います。
環境要因で影響を受けることは多々あるでしょうが、
同じ環境にいても、それを好きにならない人だっているかもしれません。
例えば、僕の場合、祖父が害虫駆除の研究をしていたので
一時期、それなりに虫を取るのが好きだったことがあります。
同じく、祖父は切手集めを趣味にしていたので、
僕も切手に興味を持ったことがありました。
それには、当時の小学生の多くが興味を持った対象だった、という
別の環境要因も関係していると思います。
一方、同級生には電車が好きだった子も沢山いましたが
僕は全くと言っていいほど興味がありませんでした。
この辺りの違いは、その対象に触れる時間の差に関係しそうです。
祖父との関わりのおかげで、虫や切手は身近にあったけれども
我が家では電車との接点が少なかったということでしょう。
しかしながら、切手集めも昆虫採集も、僕にとって
長続きする興味の対象ではなかったようです。
環境要因だけでは、強い思い入れまでは結びつかないんだろうと思います。
実際、僕の父はカメラマンですから、我が家では写真が日常的でした。
母が書道の先生をしていた時期もあるので、墨の匂いも日常的。
しかし、僕の個人的な趣向に合ったのは、書道のほうだったようです。
今でも、写真よりは絵画のほうが好きですし、小さい頃から絵を描くのは好きでした。
これなどは、環境要因だけでは説明がつかないところでしょう。
なんとなく好きになるものや、嫌いになるものというのがある。
それが素養とか個性とか才能とか、
そういった個人的な生まれつきの特徴だとも考えられそうです。
思えば、環境的にはマンガに触れる機会は少なかったはずなのに
僕は今でもマンガは好きなほうだと思います。
理由は分からないけれども好きなもの。
ここに、その人らしさが強く表れているはずです。
で、個人的に最近感じ始めているのは、
嫌いなものにも何らかの個性が関係していそうだということです。
もちろん、嫌いな理由が「価値観に反するから」というケースも多々あります。
僕の場合は、社会問題を専門にするジャーナリストに嫌悪感を覚えることが多く、
その理由は、
「外野から問題を指摘するだけで、解決策を提案することも行動することもない」
という無責任な批判の姿勢が、僕の価値観に反するからだと思われます。
ここでは、ハッキリと理由があるんです。
人によっては理由があるか、ないかを自覚するのが難しいと思うかもしれませんが
「何かが大切にされていない」感じを伴った「嫌い」には、
自分自身の価値観が関係しているはずです。
その一方で、「なんとなく好き」に近い雰囲気で「なんとなく嫌い」というのもあります。
これが興味深いんです。
世の中には沢山の物事があります。
大半は、特定の個人にとって「どうでもいい」ことでしょう。
好きでも嫌いでもない。
僕にとってサッカーのワールドカップは興味ありませんし、
株や為替にも興味がありません。
ダンスにも興味がないし、小説にも興味がない。
写真も「好き」でも「嫌い」でもありません。
写真に関しては、幼少期から外出するたびに撮られていた上に
なんだかんだと撮影に注文が多かったために、
写真を撮られることは今でも苦手意識があります。
どうやら僕は、体質として一般よりも強い光に弱いらしく
まぶしいところで目を開けるのが非常に苦手なんです。
にもかかわらず、小さいころから写真撮影は太陽のほうを向いて
まぶしさを我慢しなければいけない苦痛の体験でした。
逆光で撮るなんてのは、我が家の記念撮影ではあり得なかったんです。
そういう苦い思いがあって、撮られるほうには苦手意識があっても
決して「嫌い」にはなっていません。
依然として、興味がないままです。
(ちなみに、興味がないことを列挙するのは大変ですね。
普段、意識をしていないだけに思いつきません。)
これらは決して嫌いなわけではないんです。
「好きでも嫌いでも、どちらでもない」ものです。
最近、ニュースになった「人間の脳の神経細胞は遺伝子改変されている」
という話題は、僕にとっては興味がありますが、
興味のない人にとっては意識にも上がらない話だったかもしれません。
世の中の大半は、興味を持つことすらないものだということです。
なのに、なぜか「嫌い」なものがある。
少なくとも、意識に上がるものだということです。
なぜか「嫌い」だということは、注意が向くものなわけです。
ここ最近、自分の過去を振り返ってみて、
以前は「嫌い」だったり、避けようとしていたものを
後になってから積極的に取り組む時期があった
ということを実感しています。
結構、そういうことが多いんです。
最近で一番顕著なのは英語です。
学校の授業として苦手だったわけではありません。
しかし、研究のために論文を読んだり、論文を書いたりするのに英語を使うのは
自分の中で大きな抵抗のある部分でした。
英語の学会に出席して発表を聞くことはあっても、
自分が英語で学会発表するというのは避けようとしていました。
うすうす「必要かも…」とは感じながらも、やらないようにしていた。
それに向き合うことを避けていたんです。
嫌いだったんです。
しかし、今、かなり力を入れて取り組もうとしています。
もう少し軽いところでも、幼稚園から小学校の頃に嫌いだったものを
自分から集中してやった時期があります。
小さい頃、僕はスイミングスクールに通わされていて、これが本当に嫌いでした。
泣きながら行くぐらい嫌いだったようです。
なのに、大学のある時期、毎日のようにプールで泳いだことがあります。
小学校、中学校、高校と、長距離走が大嫌いでした。
マラソン大会なんて地獄のようだったものです。
それが、大学のある時期から、毎晩走るようになりました。
スピードは速くなかったものの、絶対に嫌がっていた時間を走っていたんです。
小・中学校で嫌いだった音楽の授業も
社会人になってからピアノを買って練習したりするようになりました。
(苦手ではなかったんですが嫌いでした)
中学で嫌々やっていた野球も、大学の研究室でやったときは
楽しみで仕方ないほどに熱中していました。
毎晩マスコットバットを振って、スニーカーの靴底に穴が開いたぐらいです。
もっと大事なところでは、
人前で目立つことをするのが泣くほど嫌いだったのに
今ではセミナー講師の仕事をしていたり、
人と深く関わりたくなくて友達の少ない高校時代を送ったのに
今ではカウンセリングで人の人生に深く関与するようになったりもしています。
避けようとするほど嫌いだったものを、後になって自分からやっているみたいです。
これは僕だけの個人的な傾向かもしれません。
何かの準備ができたり、時期が来たりすると、向きあい始めるような感じがします。
しかも、避けようとしたり、嫌いだった度合いの高いものほど真剣さが高くなるようで。
音楽や野球は、嫌いの度合いが小さかったんですが、熱中した時期も短かった。
英語は徹底的に避けようとしていましたから、その分
今の動機づけは切実になっているように感じられます。
その意味で言うと、水泳は嫌いな度合いと、向きあった時期のバランスが悪い。
おそらく、またいつか、集中的に取り組む時がくるんじゃないかと予想しています。
また、常日頃から親に勧められていた格闘技は避けていたものの代表的な1つです。
中学校の柔道も、高校の剣道も、本当に嫌いでした。
そして、その後は二度としていません。
なのに、僕の晩年には格闘技をやりそうな予感がしています。
人間のことが色々と分かってきた頃に、心身の鍛練としてやりそうな雰囲気でしょうか。
なんていうことを考えていると、今、僕が避けようとしていることの中には
将来的に向き合う時が来るものもあるんじゃないかという気がしてきます。
ビジネス的な方向に進むときも来るかもしれません。
もしかすると、政治と関わるときも…。
法律や特許、会計などには興味がないのに、政治は嫌いなんです。
だからこそ、ひょっとすると…なんて。
まぁ、政治が嫌いなところには価値観が関わっている感じもあるので
その辺は定かではありませんが。
それにしても、嫌いだったことに面白さを見つけられるようになる経験そのものは
なかなか楽しいものじゃないでしょうか。
「なぜ、それが好きか」
「なぜ、それが嫌いか」
というのはハッキリ答えにくいものだと思います。
環境要因で影響を受けることは多々あるでしょうが、
同じ環境にいても、それを好きにならない人だっているかもしれません。
例えば、僕の場合、祖父が害虫駆除の研究をしていたので
一時期、それなりに虫を取るのが好きだったことがあります。
同じく、祖父は切手集めを趣味にしていたので、
僕も切手に興味を持ったことがありました。
それには、当時の小学生の多くが興味を持った対象だった、という
別の環境要因も関係していると思います。
一方、同級生には電車が好きだった子も沢山いましたが
僕は全くと言っていいほど興味がありませんでした。
この辺りの違いは、その対象に触れる時間の差に関係しそうです。
祖父との関わりのおかげで、虫や切手は身近にあったけれども
我が家では電車との接点が少なかったということでしょう。
しかしながら、切手集めも昆虫採集も、僕にとって
長続きする興味の対象ではなかったようです。
環境要因だけでは、強い思い入れまでは結びつかないんだろうと思います。
実際、僕の父はカメラマンですから、我が家では写真が日常的でした。
母が書道の先生をしていた時期もあるので、墨の匂いも日常的。
しかし、僕の個人的な趣向に合ったのは、書道のほうだったようです。
今でも、写真よりは絵画のほうが好きですし、小さい頃から絵を描くのは好きでした。
これなどは、環境要因だけでは説明がつかないところでしょう。
なんとなく好きになるものや、嫌いになるものというのがある。
それが素養とか個性とか才能とか、
そういった個人的な生まれつきの特徴だとも考えられそうです。
思えば、環境的にはマンガに触れる機会は少なかったはずなのに
僕は今でもマンガは好きなほうだと思います。
理由は分からないけれども好きなもの。
ここに、その人らしさが強く表れているはずです。
で、個人的に最近感じ始めているのは、
嫌いなものにも何らかの個性が関係していそうだということです。
もちろん、嫌いな理由が「価値観に反するから」というケースも多々あります。
僕の場合は、社会問題を専門にするジャーナリストに嫌悪感を覚えることが多く、
その理由は、
「外野から問題を指摘するだけで、解決策を提案することも行動することもない」
という無責任な批判の姿勢が、僕の価値観に反するからだと思われます。
ここでは、ハッキリと理由があるんです。
人によっては理由があるか、ないかを自覚するのが難しいと思うかもしれませんが
「何かが大切にされていない」感じを伴った「嫌い」には、
自分自身の価値観が関係しているはずです。
その一方で、「なんとなく好き」に近い雰囲気で「なんとなく嫌い」というのもあります。
これが興味深いんです。
世の中には沢山の物事があります。
大半は、特定の個人にとって「どうでもいい」ことでしょう。
好きでも嫌いでもない。
僕にとってサッカーのワールドカップは興味ありませんし、
株や為替にも興味がありません。
ダンスにも興味がないし、小説にも興味がない。
写真も「好き」でも「嫌い」でもありません。
写真に関しては、幼少期から外出するたびに撮られていた上に
なんだかんだと撮影に注文が多かったために、
写真を撮られることは今でも苦手意識があります。
どうやら僕は、体質として一般よりも強い光に弱いらしく
まぶしいところで目を開けるのが非常に苦手なんです。
にもかかわらず、小さいころから写真撮影は太陽のほうを向いて
まぶしさを我慢しなければいけない苦痛の体験でした。
逆光で撮るなんてのは、我が家の記念撮影ではあり得なかったんです。
そういう苦い思いがあって、撮られるほうには苦手意識があっても
決して「嫌い」にはなっていません。
依然として、興味がないままです。
(ちなみに、興味がないことを列挙するのは大変ですね。
普段、意識をしていないだけに思いつきません。)
これらは決して嫌いなわけではないんです。
「好きでも嫌いでも、どちらでもない」ものです。
最近、ニュースになった「人間の脳の神経細胞は遺伝子改変されている」
という話題は、僕にとっては興味がありますが、
興味のない人にとっては意識にも上がらない話だったかもしれません。
世の中の大半は、興味を持つことすらないものだということです。
なのに、なぜか「嫌い」なものがある。
少なくとも、意識に上がるものだということです。
なぜか「嫌い」だということは、注意が向くものなわけです。
ここ最近、自分の過去を振り返ってみて、
以前は「嫌い」だったり、避けようとしていたものを
後になってから積極的に取り組む時期があった
ということを実感しています。
結構、そういうことが多いんです。
最近で一番顕著なのは英語です。
学校の授業として苦手だったわけではありません。
しかし、研究のために論文を読んだり、論文を書いたりするのに英語を使うのは
自分の中で大きな抵抗のある部分でした。
英語の学会に出席して発表を聞くことはあっても、
自分が英語で学会発表するというのは避けようとしていました。
うすうす「必要かも…」とは感じながらも、やらないようにしていた。
それに向き合うことを避けていたんです。
嫌いだったんです。
しかし、今、かなり力を入れて取り組もうとしています。
もう少し軽いところでも、幼稚園から小学校の頃に嫌いだったものを
自分から集中してやった時期があります。
小さい頃、僕はスイミングスクールに通わされていて、これが本当に嫌いでした。
泣きながら行くぐらい嫌いだったようです。
なのに、大学のある時期、毎日のようにプールで泳いだことがあります。
小学校、中学校、高校と、長距離走が大嫌いでした。
マラソン大会なんて地獄のようだったものです。
それが、大学のある時期から、毎晩走るようになりました。
スピードは速くなかったものの、絶対に嫌がっていた時間を走っていたんです。
小・中学校で嫌いだった音楽の授業も
社会人になってからピアノを買って練習したりするようになりました。
(苦手ではなかったんですが嫌いでした)
中学で嫌々やっていた野球も、大学の研究室でやったときは
楽しみで仕方ないほどに熱中していました。
毎晩マスコットバットを振って、スニーカーの靴底に穴が開いたぐらいです。
もっと大事なところでは、
人前で目立つことをするのが泣くほど嫌いだったのに
今ではセミナー講師の仕事をしていたり、
人と深く関わりたくなくて友達の少ない高校時代を送ったのに
今ではカウンセリングで人の人生に深く関与するようになったりもしています。
避けようとするほど嫌いだったものを、後になって自分からやっているみたいです。
これは僕だけの個人的な傾向かもしれません。
何かの準備ができたり、時期が来たりすると、向きあい始めるような感じがします。
しかも、避けようとしたり、嫌いだった度合いの高いものほど真剣さが高くなるようで。
音楽や野球は、嫌いの度合いが小さかったんですが、熱中した時期も短かった。
英語は徹底的に避けようとしていましたから、その分
今の動機づけは切実になっているように感じられます。
その意味で言うと、水泳は嫌いな度合いと、向きあった時期のバランスが悪い。
おそらく、またいつか、集中的に取り組む時がくるんじゃないかと予想しています。
また、常日頃から親に勧められていた格闘技は避けていたものの代表的な1つです。
中学校の柔道も、高校の剣道も、本当に嫌いでした。
そして、その後は二度としていません。
なのに、僕の晩年には格闘技をやりそうな予感がしています。
人間のことが色々と分かってきた頃に、心身の鍛練としてやりそうな雰囲気でしょうか。
なんていうことを考えていると、今、僕が避けようとしていることの中には
将来的に向き合う時が来るものもあるんじゃないかという気がしてきます。
ビジネス的な方向に進むときも来るかもしれません。
もしかすると、政治と関わるときも…。
法律や特許、会計などには興味がないのに、政治は嫌いなんです。
だからこそ、ひょっとすると…なんて。
まぁ、政治が嫌いなところには価値観が関わっている感じもあるので
その辺は定かではありませんが。
それにしても、嫌いだったことに面白さを見つけられるようになる経験そのものは
なかなか楽しいものじゃないでしょうか。
2011年11月11日
頭の中に情報を保持できる量
中学校や高校の英語の授業のときだったか、
何かの本で読んだのかは思い出せませんが、
「英語は結論が先に来て、日本語は結論が後に来る」
というような話を耳にしたことがあります。
文章の構造の話です。
英語では、主語と動詞を先に言ってしまって、後から情報が加わっていく。
日本語では、動詞が最後にやってきて、最後まで意味が分からない、と。
なんとなく、そんな感じかと思っていましたが、
伝えたいメッセージの順番に関していえば、
話し手が意識を向けているものが文頭に出てくるはずですし、
後から出てくる内容を付け加えることで意味を確実にしていくという点では
どちらも似たところがあると思います。
確かに、否定文なのか肯定文なのか、疑問文なのかというのは
日本語では文末まで分かりません。
英語では文頭で示されます。
この違いは大きそうです。
本質的には、どちらにおいても
「先に聞いた情報を頭の中に保持しておかなければならない」
という点で共通しています。
先に聞いた部分が抜けていってしまうと、完全な文章として残らないので
文章が長くなるほど理解が難しくなっていくことになります。
文章の構造が複雑なほど(それに伴って自然と長くなりますが)
理解力や読解力が問われるようになるということでしょう。
一般に外国語学習においては、文章の構造が複雑なほど
いわゆるリーディングの力が要求されるそうです。
実際、英語のテスト問題などで出題されるのは
複雑な構造の文章の意味を説明するような内容になっています。
この点は、国語力と関係しているようで、外国語の習得度とは少し離れます。
翻訳や通訳の仕事ができるような、海外経験が長くて外国語ペラペラの人でも
複雑な構文の文章を整理する能力は、別問題として残るようです。
通訳の場合は、通常、覚えられる範囲の短いフレーズで区切りながら
意味を逐次的に変換していきますから、文章の構造的な理解は二の次です。
文章が長くなってきたときに、その意味と構造を頭の中に留めておくのが
国語力の1つとして要求されるようです。
この能力には年齢に伴った発達段階が関係するようですから、
頭の中に情報を留めておく能力は年齢とともに発達すると言えそうです。
「アメリカ人なら子供だって英語が話せる」という意見もありますが、
小学生の話している英語と政治家の話している英語は質が違うわけです。
ただ、日本語と英語では、その留めておく方法に違いがあるんです。
日本語は、説明されている内容を『付け足していく』感じ。
説明を聞くほどに、頭の中で情報が組み立てられていって、
文章の最後の段階で、全てをキッチリとまとめ上げるイメージでしょうか。
話し手にしてみれば、頭の中に浮かんでくる順番に沿って言葉にしますから
話して、話して、話して…、とやっていって、最後の最後で全体をまとめれば良いんです。
正確な文章として残しておくためには、途中経過を全て保持しておく必要がありますが、
まぁ、日常会話では一文として完成していなくても伝わる内容には差が小さいでしょう。
よく結婚式のスピーチや朝礼の挨拶などで、
「〜ですが、〜になりますが、〜なのですが、…」などと
「が」という逆接の接続詞で文章を長々と続けて話す人がいます。
もう、その場合、逆接ではないんです。
前置きを話すときに「〜ですが」という使い方もするので、
それが続いていってしまっている、といえます。
一文としては正確な構造をしていないのに、
文章の中身として、意味が付け加えられていくために
聞いているほうとしては内容が掴めるわけです。
日本語では、聞いた内容を付け足していって
詳しくなってきた情報から意味を抽出する作業が行われるのが
自然な流れだということです。
その意味では、本当に伝えたいメッセージを1つの文章として発しなくても
思いついた順番に話していって、ニュアンスが伝われば良いことになります。
浮かんでくる順番に沿って言語化し、ただ情報を付け加えていく。
聞いているほうも、出てきた内容を付け加えて中身を詳しくしていくスタイル。
当然、思考の流れも、この形に沿ったものになるはずです。
一文単位で理解するときでも情報を付け加えていく形式なんですから
文章が組み合わさったときにも、同様の理解のされ方をするのが自然です。
同じ意味合いを伝えるのに、1つの文章になるか、複数の文章になるかは
その話し手が、どのタイミングで文章を切るかの問題ですから。
浮かんでくるものを、ただ口にしていけば良いという点では
日本語のコミュニケーションは、『話し手にとって』楽なんです。
ビジネスの場面になると「結論から先に」なんて言われるのは、
この楽な話し方では聞き手に負担がかかることと関係するのでしょう。
一方、英語の場合は、この順序が変わります。
英語のネイティブであっても、頭に浮かんだ内容から口にするのは同じに見えます。
しかし、それをやってしまうと、英語の文章構造では伝えるのが難しいようです。
英語では、先に文章の構造が示されます。
まず、肯定文なのか、否定文なのか、疑問文なのか、からでしょうか。
実際には、あとから否定の意味に変えるフレーズもありますが、
まぁ、一般的には文章の展開を先に伝えておくようです。
ここが英語全般に共通する重要な性質だと思われます。
『予測させる』ということです。
まず、「このあと話す内容は否定文ですよ」と言っておく。
関係代名詞を使って、「この後続くフレーズは前の単語の補足ですよ」、
前置詞を使って、「この後に出てくる単語で意味を追加しますよ」などと
文章構造上で聞き手に予測をさせる形になっています。
ネイティブの感覚では、この予測が重要だそうです。
比較級の形容詞が出てきたら、あとで比較対象が出てくるだろう、と。
「 give 」と聞いたら、「〜を…に」という2つの目的語が入ってくるだろう、と
次の展開を予測しながら聞いているはずです。
話す側としては、思いつくままに言葉に出してしまいたいけれども
聞き手は予測をすることで理解する準備をしていますから、
話し手側が言語化の段階で工夫をする必要があるんです。
つまり、聞く側が予測しやすいように話す必要があるということです。
長い文章を聞いて理解するためには、
この予測の感覚を保持しておかなければいけません。
予測するために保持しておかなければいけない情報が多いほど
聞き手には負担がかかってくることになります。
なので、英語の分かりやすい話し方として説明されるのが
「先に結論を伝えておく」という形になるんでしょう。
「私の主張は〜です。
その理由は…です。
それを3つの例で説明します。
1つ目の例は○○です。
2つ目の例は、……」
と、あまりにも決まり切った形に思える説明が英語で好まれるのは
聞き手側が予測を続けるために保持しておくための
負担を減らせるからだと考えられます。
ここが、英語が『話者に依存する言語』と呼ばれる理由でしょう。
聞き手は、絶えず予測しなければいけないので
話す側が説明を完結させられるようにする義務があるんだそうです。
この作業は、一般的に頭に浮かんでくる順番とは異なるはずです。
日常会話であれば、思いついたことから口を出てくるのが当然だと思います。
その範囲で、聞き手の負担を減らし、話し手自身も聞き手への配慮を減らして
楽をしてコミュニケーションするためには、一文は短いほうが良い。
なので、ネイティブの日常会話は、比較的1つの文章が短めになるんでしょう。
長い文章を保持しながら聞いて理解するのも、
長い文章の構造を意識しながら発話するのも負担が大きいはずですから。
日本人は、思いついたことを続けて口にしていくだけで
長い文章が作れてしまいます。
その感覚で英語の説明をしようとすると、かなり複雑な構造を作る必要が出てきて
保持させておく情報量が増えてしまうため、大変な思いをするようです。
日本語でなら1文で言えてしまうことも、英語の時は複数の文章に分けるようにする。
それが英語を話すコツだと説明するものにも出会ったことがあります。
逆に言えば、ネイティブの高度な英語を理解するためには、発音を聞きとれるだけでなく
日本語とは違う形で内容を保持していく能力が求められるということです。
実は、日本人は英語教育の中で、文章を読む場合には
この作業ができるように訓練された人もいるはずなんです。
しかし、文章の場合は、保持できていなくても前の部分を見に戻ることができます。
視野の中に入れておくこともできます。
それに比べ、聞いて理解する場合は戻れないので、保持していなければいけない。
ここは結構大きな壁だと思いますが、この訓練法について見たことはありません。
英語の教育法では、求められる能力ごとのトレーニングが不完全な印象を受けます。
いかに効率的に『慣れていく』かを工夫しているものは多いようですが。
体系立てられたら面白いと思います。
そんなことも視野に入れながらトレーニング法も工夫してみるつもりです。
何かの本で読んだのかは思い出せませんが、
「英語は結論が先に来て、日本語は結論が後に来る」
というような話を耳にしたことがあります。
文章の構造の話です。
英語では、主語と動詞を先に言ってしまって、後から情報が加わっていく。
日本語では、動詞が最後にやってきて、最後まで意味が分からない、と。
なんとなく、そんな感じかと思っていましたが、
伝えたいメッセージの順番に関していえば、
話し手が意識を向けているものが文頭に出てくるはずですし、
後から出てくる内容を付け加えることで意味を確実にしていくという点では
どちらも似たところがあると思います。
確かに、否定文なのか肯定文なのか、疑問文なのかというのは
日本語では文末まで分かりません。
英語では文頭で示されます。
この違いは大きそうです。
本質的には、どちらにおいても
「先に聞いた情報を頭の中に保持しておかなければならない」
という点で共通しています。
先に聞いた部分が抜けていってしまうと、完全な文章として残らないので
文章が長くなるほど理解が難しくなっていくことになります。
文章の構造が複雑なほど(それに伴って自然と長くなりますが)
理解力や読解力が問われるようになるということでしょう。
一般に外国語学習においては、文章の構造が複雑なほど
いわゆるリーディングの力が要求されるそうです。
実際、英語のテスト問題などで出題されるのは
複雑な構造の文章の意味を説明するような内容になっています。
この点は、国語力と関係しているようで、外国語の習得度とは少し離れます。
翻訳や通訳の仕事ができるような、海外経験が長くて外国語ペラペラの人でも
複雑な構文の文章を整理する能力は、別問題として残るようです。
通訳の場合は、通常、覚えられる範囲の短いフレーズで区切りながら
意味を逐次的に変換していきますから、文章の構造的な理解は二の次です。
文章が長くなってきたときに、その意味と構造を頭の中に留めておくのが
国語力の1つとして要求されるようです。
この能力には年齢に伴った発達段階が関係するようですから、
頭の中に情報を留めておく能力は年齢とともに発達すると言えそうです。
「アメリカ人なら子供だって英語が話せる」という意見もありますが、
小学生の話している英語と政治家の話している英語は質が違うわけです。
ただ、日本語と英語では、その留めておく方法に違いがあるんです。
日本語は、説明されている内容を『付け足していく』感じ。
説明を聞くほどに、頭の中で情報が組み立てられていって、
文章の最後の段階で、全てをキッチリとまとめ上げるイメージでしょうか。
話し手にしてみれば、頭の中に浮かんでくる順番に沿って言葉にしますから
話して、話して、話して…、とやっていって、最後の最後で全体をまとめれば良いんです。
正確な文章として残しておくためには、途中経過を全て保持しておく必要がありますが、
まぁ、日常会話では一文として完成していなくても伝わる内容には差が小さいでしょう。
よく結婚式のスピーチや朝礼の挨拶などで、
「〜ですが、〜になりますが、〜なのですが、…」などと
「が」という逆接の接続詞で文章を長々と続けて話す人がいます。
もう、その場合、逆接ではないんです。
前置きを話すときに「〜ですが」という使い方もするので、
それが続いていってしまっている、といえます。
一文としては正確な構造をしていないのに、
文章の中身として、意味が付け加えられていくために
聞いているほうとしては内容が掴めるわけです。
日本語では、聞いた内容を付け足していって
詳しくなってきた情報から意味を抽出する作業が行われるのが
自然な流れだということです。
その意味では、本当に伝えたいメッセージを1つの文章として発しなくても
思いついた順番に話していって、ニュアンスが伝われば良いことになります。
浮かんでくる順番に沿って言語化し、ただ情報を付け加えていく。
聞いているほうも、出てきた内容を付け加えて中身を詳しくしていくスタイル。
当然、思考の流れも、この形に沿ったものになるはずです。
一文単位で理解するときでも情報を付け加えていく形式なんですから
文章が組み合わさったときにも、同様の理解のされ方をするのが自然です。
同じ意味合いを伝えるのに、1つの文章になるか、複数の文章になるかは
その話し手が、どのタイミングで文章を切るかの問題ですから。
浮かんでくるものを、ただ口にしていけば良いという点では
日本語のコミュニケーションは、『話し手にとって』楽なんです。
ビジネスの場面になると「結論から先に」なんて言われるのは、
この楽な話し方では聞き手に負担がかかることと関係するのでしょう。
一方、英語の場合は、この順序が変わります。
英語のネイティブであっても、頭に浮かんだ内容から口にするのは同じに見えます。
しかし、それをやってしまうと、英語の文章構造では伝えるのが難しいようです。
英語では、先に文章の構造が示されます。
まず、肯定文なのか、否定文なのか、疑問文なのか、からでしょうか。
実際には、あとから否定の意味に変えるフレーズもありますが、
まぁ、一般的には文章の展開を先に伝えておくようです。
ここが英語全般に共通する重要な性質だと思われます。
『予測させる』ということです。
まず、「このあと話す内容は否定文ですよ」と言っておく。
関係代名詞を使って、「この後続くフレーズは前の単語の補足ですよ」、
前置詞を使って、「この後に出てくる単語で意味を追加しますよ」などと
文章構造上で聞き手に予測をさせる形になっています。
ネイティブの感覚では、この予測が重要だそうです。
比較級の形容詞が出てきたら、あとで比較対象が出てくるだろう、と。
「 give 」と聞いたら、「〜を…に」という2つの目的語が入ってくるだろう、と
次の展開を予測しながら聞いているはずです。
話す側としては、思いつくままに言葉に出してしまいたいけれども
聞き手は予測をすることで理解する準備をしていますから、
話し手側が言語化の段階で工夫をする必要があるんです。
つまり、聞く側が予測しやすいように話す必要があるということです。
長い文章を聞いて理解するためには、
この予測の感覚を保持しておかなければいけません。
予測するために保持しておかなければいけない情報が多いほど
聞き手には負担がかかってくることになります。
なので、英語の分かりやすい話し方として説明されるのが
「先に結論を伝えておく」という形になるんでしょう。
「私の主張は〜です。
その理由は…です。
それを3つの例で説明します。
1つ目の例は○○です。
2つ目の例は、……」
と、あまりにも決まり切った形に思える説明が英語で好まれるのは
聞き手側が予測を続けるために保持しておくための
負担を減らせるからだと考えられます。
ここが、英語が『話者に依存する言語』と呼ばれる理由でしょう。
聞き手は、絶えず予測しなければいけないので
話す側が説明を完結させられるようにする義務があるんだそうです。
この作業は、一般的に頭に浮かんでくる順番とは異なるはずです。
日常会話であれば、思いついたことから口を出てくるのが当然だと思います。
その範囲で、聞き手の負担を減らし、話し手自身も聞き手への配慮を減らして
楽をしてコミュニケーションするためには、一文は短いほうが良い。
なので、ネイティブの日常会話は、比較的1つの文章が短めになるんでしょう。
長い文章を保持しながら聞いて理解するのも、
長い文章の構造を意識しながら発話するのも負担が大きいはずですから。
日本人は、思いついたことを続けて口にしていくだけで
長い文章が作れてしまいます。
その感覚で英語の説明をしようとすると、かなり複雑な構造を作る必要が出てきて
保持させておく情報量が増えてしまうため、大変な思いをするようです。
日本語でなら1文で言えてしまうことも、英語の時は複数の文章に分けるようにする。
それが英語を話すコツだと説明するものにも出会ったことがあります。
逆に言えば、ネイティブの高度な英語を理解するためには、発音を聞きとれるだけでなく
日本語とは違う形で内容を保持していく能力が求められるということです。
実は、日本人は英語教育の中で、文章を読む場合には
この作業ができるように訓練された人もいるはずなんです。
しかし、文章の場合は、保持できていなくても前の部分を見に戻ることができます。
視野の中に入れておくこともできます。
それに比べ、聞いて理解する場合は戻れないので、保持していなければいけない。
ここは結構大きな壁だと思いますが、この訓練法について見たことはありません。
英語の教育法では、求められる能力ごとのトレーニングが不完全な印象を受けます。
いかに効率的に『慣れていく』かを工夫しているものは多いようですが。
体系立てられたら面白いと思います。
そんなことも視野に入れながらトレーニング法も工夫してみるつもりです。