2011年12月
2011年12月29日
運動の効果
ペイン・マネジメントとかペイン・コントロールとか呼ばれる分野があります。
痛みに対して研究をする領域です。
痛みは、実際に発生している体の部位からのメッセージを
脳が受け取って判断していますから、脳における反応の仕方も
痛みの『感じ方』のレベルで大きな意味を持つわけです。
年末になると格闘技が放送されたりしますが、
格闘技の選手が試合中に感じる痛みは随分と押さえられていて
こちらはアドレナリンによるものとして説明されます。
一方、脳内での機能として重要になるのがエンドルフィン。
医療ではターミナル・ケアにおいて、痛みを抑えるためにモルヒネが使われます。
エンドルフィンは「脳内モルヒネ」などと呼ばれるように、
その作用の仕方としてモルヒネのように痛みを抑えてくれるわけです。
そもそも「エンドルフィン」という名前は、「エンド・モルフィン」の略でつけられ、
「エンド」が「内在の」という意味、「モルフィン」は「モルヒネ」のことですから、
「体内のモルヒネ」として「エンドルフィン」と名付けられたようです。
まぁ、正確には脳内の神経伝達物質としてエンドルフィンが使われていて、
類似の化合物が植物によって作られ、それがモルヒネと呼ばれたわけなので
順番としては逆になってしまっているようですが。
で、その「脳内モルヒネ」こと「エンドルフィン」が痛みのコントロールにも重要で、
エンドルフィンが沢山作られ、それが脳内で作用すると
モルヒネを投与したような状態になることができる。
その観点では、エンドルフィンの生産が落ちてしまったりすると
痛みを強く感じやすくなってしまうと説明できます。
ペイン・コントロールの分野では、その研究結果から
運動が効果的だとされています。
運動をすると、エンドルフィンの生産が上がるという報告があるんです。
体を動かしているほうが痛みは減りやすい、と。
しかし、皮肉なことに痛みがある人のほうが痛みを避けようとして
運動をしないで安静にしようとする場合もある。
それによって、逆に痛みが増してしまう可能性もあるという話です。
痛いから運動しない。
運動しないからエンドルフィン生産が落ちる。
痛みを強く感じるようになる。
…そういう悪循環が考えられます。
逆に、運動が好きな人は、それによって快適でいられますから
日々、体を動かすようになる。
だから痛みを感じることも少なく、運動自体も不快感なくできる。
おそらく高齢になるほど、この差は大きく出てくると想像できます。
2012年は、僕も運動をして
エンドルフィンのコントロールをしたほうが良いような気がしています。
痛みに対して研究をする領域です。
痛みは、実際に発生している体の部位からのメッセージを
脳が受け取って判断していますから、脳における反応の仕方も
痛みの『感じ方』のレベルで大きな意味を持つわけです。
年末になると格闘技が放送されたりしますが、
格闘技の選手が試合中に感じる痛みは随分と押さえられていて
こちらはアドレナリンによるものとして説明されます。
一方、脳内での機能として重要になるのがエンドルフィン。
医療ではターミナル・ケアにおいて、痛みを抑えるためにモルヒネが使われます。
エンドルフィンは「脳内モルヒネ」などと呼ばれるように、
その作用の仕方としてモルヒネのように痛みを抑えてくれるわけです。
そもそも「エンドルフィン」という名前は、「エンド・モルフィン」の略でつけられ、
「エンド」が「内在の」という意味、「モルフィン」は「モルヒネ」のことですから、
「体内のモルヒネ」として「エンドルフィン」と名付けられたようです。
まぁ、正確には脳内の神経伝達物質としてエンドルフィンが使われていて、
類似の化合物が植物によって作られ、それがモルヒネと呼ばれたわけなので
順番としては逆になってしまっているようですが。
で、その「脳内モルヒネ」こと「エンドルフィン」が痛みのコントロールにも重要で、
エンドルフィンが沢山作られ、それが脳内で作用すると
モルヒネを投与したような状態になることができる。
その観点では、エンドルフィンの生産が落ちてしまったりすると
痛みを強く感じやすくなってしまうと説明できます。
ペイン・コントロールの分野では、その研究結果から
運動が効果的だとされています。
運動をすると、エンドルフィンの生産が上がるという報告があるんです。
体を動かしているほうが痛みは減りやすい、と。
しかし、皮肉なことに痛みがある人のほうが痛みを避けようとして
運動をしないで安静にしようとする場合もある。
それによって、逆に痛みが増してしまう可能性もあるという話です。
痛いから運動しない。
運動しないからエンドルフィン生産が落ちる。
痛みを強く感じるようになる。
…そういう悪循環が考えられます。
逆に、運動が好きな人は、それによって快適でいられますから
日々、体を動かすようになる。
だから痛みを感じることも少なく、運動自体も不快感なくできる。
おそらく高齢になるほど、この差は大きく出てくると想像できます。
2012年は、僕も運動をして
エンドルフィンのコントロールをしたほうが良いような気がしています。
2011年12月27日
上達のプロセス
提出していた書道展の審査結果が返ってきました。
昨年と同じく『秀作』。
それなりの評価を頂いているとは思うんですが、
贅沢なことに僕の中では少し期待外れに感じてしまいました。
昨年よりも自分としては上達していた実感があったからだと思います。
それも、自覚して「去年より上手くなった」と感じていたわけなので
前年度よりも良い評価をもらえるんじゃないかと勝手に想像していました。
どうやら甘かったみたいです。
もちろん、評価の基準も分かりませんし
どういうのが審査員に好まれるかというのも分かれるところ。
おそらく、昨年は似たような臨書作品が少なかった中での評価だったせいで
高めの評価をもらいやすかったんだろうと推測します。
一方、今年は人気のある古典を臨書して作品としたため
印象にも残りにくいところがあったんじゃないでしょうか。
まぁ、その意味では今年のほうが正当に評価をされたのかもしれません。
それに同じ評価であっても、該当者は沢山いるわけなので
1つ上の段階の評価に近い場合も、1つ下の評価に近い場合もあるはずです。
多分、去年のは運よくギリギリで『秀作』に入れてもらっていて、
きっと今年はそれよりも良い評価として同じ賞をもらっているんだ…
と自分を納得させています。
客観的な評価として自信があったわけではなく、
自分で自分の腕前を一年前と比べたときに「上手くなった」と感じられていた
という部分が僕の中で大きかったはずです。
自分で「上達した」と実感できるレベルは、一般的に言えば
かなりの変化と考えて良いように思います。
その意味では、自分で上達したと自信をもって感じられていたことが
何よりも大きな成果だったと言っても良いような気がします。
そして、今の自分には理解できないレベルで
遥かに高度な芸術の世界を扱っている人たちがいるということでしょう。
もしかすると来年の今ぐらいの時期、自分で一年間の上達度合いを振り返ると
「2011年は、まだまだだったなぁ」なんて思うのかもしれません。
2010年と2011年、さらに2012年を比べ
より客観的に上達度合いを評価できるのは間違いないでしょう。
2つを比べるときは、基準点なしに双方の違いに注目するのが自然ですから。
「2010年よりも2011年のほうが上手くなった」と、
『違う』ことが感じられても、『どれぐらいの違いか』は評価できないわけです。
それが3つで比べるようになると、より『程度の差』が判別しやすくなると考えられます。
「2010年と、2011の違い」と「2011年と、2012年の違い」の両方を見て
「どちらの差が大きいか」を比べられるようになるからです。
2つを比べるときには、「差」しか見えませんが、
3つを比べると、「差どうしの差」が見えるということです。
今年の僕は、自分の上達の実感を「主観的に」味わっている。
それに対して、来年の僕は上達度合いをより「客観的に」判断しているように想像します。
そうして考えてみると、自分で自分の上達を主観的に喜んでいられる時期が
最も楽しく取り組めている時期なのかもしれません。
勘違いとも言える過大な自己評価も、その期待ゆえのガッカリ感も
今の時期にしか味わえない楽しみだと思えてきました。
一年目は、何が何だか分からない闇雲な頑張り。
二年目には、上達が実感できる喜びがあった。
三年目では、見えてくるものが増えるからこそ、先が遠く感じられる。
四年目ともなると、安定感さえ感じ始めて…。
そんな具合に感じ入るものも違うのかもしれません。
なんだか、コミュニケーションを学び始め、成長の実感に溢れていた頃を思い出しました。
その後、技術の上達が停滞しているように感じていた時期もありました。
振り返って思うと、あの時期に技術の研鑽を積んでいたことが
今の自分の土台を形作っていたようです。
トレーニングを積み、上達していく。
その過程には、どこかしら共通した部分があるのかもしれません。
多分、今の僕の書道は上達が実感できて楽しい時期なんでしょう。
こういうときこそ、素直に貪欲に、楽しみを追求するのが良かった気がします。
1月から展覧会では、前年度よりも名作の価値も分かるはず。
そして、それが自分に活かせる。
そんな時期だと捉えれば、また展覧会の楽しみも増しそうです。
昨年と同じく『秀作』。
それなりの評価を頂いているとは思うんですが、
贅沢なことに僕の中では少し期待外れに感じてしまいました。
昨年よりも自分としては上達していた実感があったからだと思います。
それも、自覚して「去年より上手くなった」と感じていたわけなので
前年度よりも良い評価をもらえるんじゃないかと勝手に想像していました。
どうやら甘かったみたいです。
もちろん、評価の基準も分かりませんし
どういうのが審査員に好まれるかというのも分かれるところ。
おそらく、昨年は似たような臨書作品が少なかった中での評価だったせいで
高めの評価をもらいやすかったんだろうと推測します。
一方、今年は人気のある古典を臨書して作品としたため
印象にも残りにくいところがあったんじゃないでしょうか。
まぁ、その意味では今年のほうが正当に評価をされたのかもしれません。
それに同じ評価であっても、該当者は沢山いるわけなので
1つ上の段階の評価に近い場合も、1つ下の評価に近い場合もあるはずです。
多分、去年のは運よくギリギリで『秀作』に入れてもらっていて、
きっと今年はそれよりも良い評価として同じ賞をもらっているんだ…
と自分を納得させています。
客観的な評価として自信があったわけではなく、
自分で自分の腕前を一年前と比べたときに「上手くなった」と感じられていた
という部分が僕の中で大きかったはずです。
自分で「上達した」と実感できるレベルは、一般的に言えば
かなりの変化と考えて良いように思います。
その意味では、自分で上達したと自信をもって感じられていたことが
何よりも大きな成果だったと言っても良いような気がします。
そして、今の自分には理解できないレベルで
遥かに高度な芸術の世界を扱っている人たちがいるということでしょう。
もしかすると来年の今ぐらいの時期、自分で一年間の上達度合いを振り返ると
「2011年は、まだまだだったなぁ」なんて思うのかもしれません。
2010年と2011年、さらに2012年を比べ
より客観的に上達度合いを評価できるのは間違いないでしょう。
2つを比べるときは、基準点なしに双方の違いに注目するのが自然ですから。
「2010年よりも2011年のほうが上手くなった」と、
『違う』ことが感じられても、『どれぐらいの違いか』は評価できないわけです。
それが3つで比べるようになると、より『程度の差』が判別しやすくなると考えられます。
「2010年と、2011の違い」と「2011年と、2012年の違い」の両方を見て
「どちらの差が大きいか」を比べられるようになるからです。
2つを比べるときには、「差」しか見えませんが、
3つを比べると、「差どうしの差」が見えるということです。
今年の僕は、自分の上達の実感を「主観的に」味わっている。
それに対して、来年の僕は上達度合いをより「客観的に」判断しているように想像します。
そうして考えてみると、自分で自分の上達を主観的に喜んでいられる時期が
最も楽しく取り組めている時期なのかもしれません。
勘違いとも言える過大な自己評価も、その期待ゆえのガッカリ感も
今の時期にしか味わえない楽しみだと思えてきました。
一年目は、何が何だか分からない闇雲な頑張り。
二年目には、上達が実感できる喜びがあった。
三年目では、見えてくるものが増えるからこそ、先が遠く感じられる。
四年目ともなると、安定感さえ感じ始めて…。
そんな具合に感じ入るものも違うのかもしれません。
なんだか、コミュニケーションを学び始め、成長の実感に溢れていた頃を思い出しました。
その後、技術の上達が停滞しているように感じていた時期もありました。
振り返って思うと、あの時期に技術の研鑽を積んでいたことが
今の自分の土台を形作っていたようです。
トレーニングを積み、上達していく。
その過程には、どこかしら共通した部分があるのかもしれません。
多分、今の僕の書道は上達が実感できて楽しい時期なんでしょう。
こういうときこそ、素直に貪欲に、楽しみを追求するのが良かった気がします。
1月から展覧会では、前年度よりも名作の価値も分かるはず。
そして、それが自分に活かせる。
そんな時期だと捉えれば、また展覧会の楽しみも増しそうです。
2011年12月25日
水回りの汚れを落とす
年末、大掃除のシーズンのようです。
近所のドラッグストアの棚から掃除関連グッズが激減しています。
そして僕も水回りの大掃除をしました。
カルキ汚れや石鹸カス、石のように固まっている水汚れなど
日頃の掃除では、普通の洗剤で擦っても落ちなかったものを
なんとかして落としてやりました。
それなりに効果があったのは、お酢とクエン酸。
どちらも、頑固な汚れ部分にキッチンペーパーを貼りつけ、
溶液を染み込ませて放置する形で対応しました。
乾かないようにラップで覆って一晩。
それでも頑固な部分は落ちませんでしたが、綺麗になる範囲は広かった。
特に、石鹸カスはアルカリ成分なので、酸で簡単に溶けます。
KINCHOの「ティンクル」は石鹸カスに対して強力です。
クエン酸は、酸として石のようになったカルシウムを溶かすのと同時に
そのキレート作用でカルシウムイオンを捉えますから
原理的には効果があると言える類の成分です。
なのでポットの洗浄剤などで、カルキ汚れを溶かすのにも使われます。
学生時代は、研究室の大掃除のとき、実験室からクエン酸の試薬を取ってきて
オフィス側のポットの中にドバドバ入れてポットを洗浄したものです。
しかし、これは思いのほか落ちません。
頑固にこびりついた石のようなカルシウム化合物は固いんです。
一般に、カルシウムを含んだ化合物は非常に水に溶けにくい。
石膏は「硫酸カルシウム」のことですが、もう化学的には処分が困難なレベルです。
処理費用を考えると埋めるのが現実的だと聞いたことがあります。
同様に、「〜カルシウム」と呼ばれるような化合物は溶けにくいものが多いんです。
すでにカルシウムイオンとして水に溶けているときには
そこにクエン酸を加えることでキレート作用によって
カルシウムが結晶化するのを防ぐことができます。
※キレート作用というのは、イオンを他の分子が取り囲むことです。
結果として他の分子と反応しにくくなることがあります。
しかし、一度、結晶として石のように固まってしまったカルシウム化合物は
もう水に溶けていませんから、イオンの形をしていないので
キレート作用で溶けることは期待しにくいんです。
つまり、
クエン酸を入れておくと、カルシウムは結晶化しにくくなる。
が、すでに結晶化したカルシウムに対しては効果が弱い。
ということです。
とはいえ、常にクエン酸を水に溶かしておくと
ハイターやカビキラーを使ったときに「混ぜるな、危険!」を冒すので
それも難しい。
クエン酸は手軽に、手に入る酸の中で『安全』という点で重要ですが、
その洗浄効果に関しては、決して高い部類ではないわけです。
その点、カルシウム化合物の中では比較的、
塩化カルシウムが溶けやすい部類に入ります。
微生物の培養で、カルシウムイオンを加えるときには
塩化カルシウムとして試薬を加えるぐらい。
ということは、「塩化物イオン」を加えてやると固まったカルシウムの類も
「塩化カルシウム」として溶かしだすことができることになります。
で、「塩化物イオン」そのものを使った酸が「塩酸」なので、
塩酸をかけてやれば、カルシウム化合物の石のような結晶も
それなりに溶かしてやることができる、ということです。
おなじみの「サンポール」は、その塩酸を使った製品。
塩酸濃度は9.5%だそうです。
一般的な試薬として使われる塩酸濃度が35%ぐらいなので
大体1/3ぐらいの濃さ。
経験的に言えば、まあまあの効果でカルシウム化合物を溶かせる濃度でしょう。
微生物の培養をするときにカルシウムを入れます。
最初は塩化カルシウムで入れますから溶けた状態。
でも他にも、硫酸アンモニウムや、硫酸マグネシウム、リン酸カリウムなど
色々なものを追加します。
培養が進むにつれてアンモニアが使われ、硫酸イオンが残るせいで
硫酸カルシウムを中心とした石のような結晶が出てくるんです。
なので、ガラスの三角フラスコや培養装置の壁面には
どうしても白い石のような結晶が残ってしまいやすい。
これを洗浄するために、僕は塩酸を使っていました。
急ぐ時は、ほぼ原液のままドバドバ入れるんです。
塩酸の原液は煙が出て、目や鼻がツーンとしみるほどですが
まぁ、気にしない。
で、ものの数分も置けば、カルシウム化合物の結晶も柔らかくなり
ちょっと擦っただけで簡単に落ちてくれました。
サンポールの濃度は、その塩酸濃度の1/3ですが
原液を紙に染み込ませて放置すれば効果は期待できると思います。
ただし、金属は腐食する可能性のある濃度なので
配管やシンクでは避けたほうが無難でしょう。
ステンレスの種類によっては強いものもありますが、
光沢を出しているタイプのものは白っぽくなる可能性があります。
ということで、理論的にも経験的にも
石状に固まったカルシウム化合物の頑固な汚れには
サンポールは有効だろうというわけです。
が、そんなのは当たり前の話。
古くから使われている製品でしょうし。
実は、僕が一番ラクをしたいときに使っていたのは塩酸じゃないんです。
『乳酸』。
乳酸カルシウムの溶解度は非常に高い。
水によく溶けます。
なので、石のようにカチカチに固まった大きなカルシウム化合物でも
乳酸の試薬を、チョットかけるだけで溶けてしまいます。
シュワシュワと泡を出しながら、みるみる溶けていくんです。
こすらなくても良いぐらい。
ただ、乳酸のほうが高額ですし、洗い物のために使う試薬ではないので
そんなに使っていたわけではありませんが。
それにしても乳酸のカルシウム溶解力は非常に高い。
なので、乳酸を配合した洗浄剤を使えば掃除もラクチンだろうと思っていました。
しかし業者用というのを見ても乳酸は入っていませんでした。
…と思っていたら、あったんです。
KINCHOの「サピカ サンポールスプレー」!
これは薄いですが、主成分は乳酸と中性洗剤。
理論的には効果が高いはずです。
まぁ、濃度が薄いので長時間染み込ませるか、繰り返し使うか、
別の工夫が必要だとは思いますが。
個人的には興味津津の製品です。
残念なのは、サピカの存在を知る前に、全てのトイレ掃除を
力技で終えてしまったということ。
目の細かい耐水サンドペーパー(1500番)で擦り落としました。
傷をつけずに綺麗サッパリ。
新品同然にピカピカに輝いていますから、乳酸入り洗浄剤の効果を試せるのは
また随分と先の話になりそうです。
近所のドラッグストアの棚から掃除関連グッズが激減しています。
そして僕も水回りの大掃除をしました。
カルキ汚れや石鹸カス、石のように固まっている水汚れなど
日頃の掃除では、普通の洗剤で擦っても落ちなかったものを
なんとかして落としてやりました。
それなりに効果があったのは、お酢とクエン酸。
どちらも、頑固な汚れ部分にキッチンペーパーを貼りつけ、
溶液を染み込ませて放置する形で対応しました。
乾かないようにラップで覆って一晩。
それでも頑固な部分は落ちませんでしたが、綺麗になる範囲は広かった。
特に、石鹸カスはアルカリ成分なので、酸で簡単に溶けます。
KINCHOの「ティンクル」は石鹸カスに対して強力です。
クエン酸は、酸として石のようになったカルシウムを溶かすのと同時に
そのキレート作用でカルシウムイオンを捉えますから
原理的には効果があると言える類の成分です。
なのでポットの洗浄剤などで、カルキ汚れを溶かすのにも使われます。
学生時代は、研究室の大掃除のとき、実験室からクエン酸の試薬を取ってきて
オフィス側のポットの中にドバドバ入れてポットを洗浄したものです。
しかし、これは思いのほか落ちません。
頑固にこびりついた石のようなカルシウム化合物は固いんです。
一般に、カルシウムを含んだ化合物は非常に水に溶けにくい。
石膏は「硫酸カルシウム」のことですが、もう化学的には処分が困難なレベルです。
処理費用を考えると埋めるのが現実的だと聞いたことがあります。
同様に、「〜カルシウム」と呼ばれるような化合物は溶けにくいものが多いんです。
すでにカルシウムイオンとして水に溶けているときには
そこにクエン酸を加えることでキレート作用によって
カルシウムが結晶化するのを防ぐことができます。
※キレート作用というのは、イオンを他の分子が取り囲むことです。
結果として他の分子と反応しにくくなることがあります。
しかし、一度、結晶として石のように固まってしまったカルシウム化合物は
もう水に溶けていませんから、イオンの形をしていないので
キレート作用で溶けることは期待しにくいんです。
つまり、
クエン酸を入れておくと、カルシウムは結晶化しにくくなる。
が、すでに結晶化したカルシウムに対しては効果が弱い。
ということです。
とはいえ、常にクエン酸を水に溶かしておくと
ハイターやカビキラーを使ったときに「混ぜるな、危険!」を冒すので
それも難しい。
クエン酸は手軽に、手に入る酸の中で『安全』という点で重要ですが、
その洗浄効果に関しては、決して高い部類ではないわけです。
その点、カルシウム化合物の中では比較的、
塩化カルシウムが溶けやすい部類に入ります。
微生物の培養で、カルシウムイオンを加えるときには
塩化カルシウムとして試薬を加えるぐらい。
ということは、「塩化物イオン」を加えてやると固まったカルシウムの類も
「塩化カルシウム」として溶かしだすことができることになります。
で、「塩化物イオン」そのものを使った酸が「塩酸」なので、
塩酸をかけてやれば、カルシウム化合物の石のような結晶も
それなりに溶かしてやることができる、ということです。
おなじみの「サンポール」は、その塩酸を使った製品。
塩酸濃度は9.5%だそうです。
一般的な試薬として使われる塩酸濃度が35%ぐらいなので
大体1/3ぐらいの濃さ。
経験的に言えば、まあまあの効果でカルシウム化合物を溶かせる濃度でしょう。
微生物の培養をするときにカルシウムを入れます。
最初は塩化カルシウムで入れますから溶けた状態。
でも他にも、硫酸アンモニウムや、硫酸マグネシウム、リン酸カリウムなど
色々なものを追加します。
培養が進むにつれてアンモニアが使われ、硫酸イオンが残るせいで
硫酸カルシウムを中心とした石のような結晶が出てくるんです。
なので、ガラスの三角フラスコや培養装置の壁面には
どうしても白い石のような結晶が残ってしまいやすい。
これを洗浄するために、僕は塩酸を使っていました。
急ぐ時は、ほぼ原液のままドバドバ入れるんです。
塩酸の原液は煙が出て、目や鼻がツーンとしみるほどですが
まぁ、気にしない。
で、ものの数分も置けば、カルシウム化合物の結晶も柔らかくなり
ちょっと擦っただけで簡単に落ちてくれました。
サンポールの濃度は、その塩酸濃度の1/3ですが
原液を紙に染み込ませて放置すれば効果は期待できると思います。
ただし、金属は腐食する可能性のある濃度なので
配管やシンクでは避けたほうが無難でしょう。
ステンレスの種類によっては強いものもありますが、
光沢を出しているタイプのものは白っぽくなる可能性があります。
ということで、理論的にも経験的にも
石状に固まったカルシウム化合物の頑固な汚れには
サンポールは有効だろうというわけです。
が、そんなのは当たり前の話。
古くから使われている製品でしょうし。
実は、僕が一番ラクをしたいときに使っていたのは塩酸じゃないんです。
『乳酸』。
乳酸カルシウムの溶解度は非常に高い。
水によく溶けます。
なので、石のようにカチカチに固まった大きなカルシウム化合物でも
乳酸の試薬を、チョットかけるだけで溶けてしまいます。
シュワシュワと泡を出しながら、みるみる溶けていくんです。
こすらなくても良いぐらい。
ただ、乳酸のほうが高額ですし、洗い物のために使う試薬ではないので
そんなに使っていたわけではありませんが。
それにしても乳酸のカルシウム溶解力は非常に高い。
なので、乳酸を配合した洗浄剤を使えば掃除もラクチンだろうと思っていました。
しかし業者用というのを見ても乳酸は入っていませんでした。
…と思っていたら、あったんです。
KINCHOの「サピカ サンポールスプレー」!
これは薄いですが、主成分は乳酸と中性洗剤。
理論的には効果が高いはずです。
まぁ、濃度が薄いので長時間染み込ませるか、繰り返し使うか、
別の工夫が必要だとは思いますが。
個人的には興味津津の製品です。
残念なのは、サピカの存在を知る前に、全てのトイレ掃除を
力技で終えてしまったということ。
目の細かい耐水サンドペーパー(1500番)で擦り落としました。
傷をつけずに綺麗サッパリ。
新品同然にピカピカに輝いていますから、乳酸入り洗浄剤の効果を試せるのは
また随分と先の話になりそうです。
2011年12月23日
高層マンションと幼稚園
僕の住まいの近辺は、東京23区内でも端のほうにあるので
交通の便が非常に良いにもかかわらず少し地価が安めなようです。
そのため、僕が移り住んでから開発がスゴイ。
駅前のビルは色々と建て変わっていますし、居酒屋の数もウナギ登り。
そして最近では、古い大型スーパーマーケットの跡地や団地、駐車場や
自動車ディーラーなどの大型店舗の跡地などが高層マンションに変わっています。
とにかく人口を集めようという様子が伺えます。
30階から40階ぐらいありそうな高層マンションは、数百戸あるだろう部屋が
あっという間に完売したという話でした。
そのマンションはもうすぐ完成して、入居者がくるような段階。
入口は大きなロビーがあるとはいえ、自動ドアの大きさは少し大きい程度です。
はたして、どうやって全入居者が引っ越しをするのかと興味津津なところ。
で、そのマンション予定地の真正面が幼稚園なんです。
マンションは大型スーパーの跡地に建っていますから
元々は商店街から少し離れただけのところにある
決して恵まれた環境の幼稚園とは言えない様相でした。
ところが。
今は、そのスーパーが高層マンションになろうとしています。
マンションの目の前にある幼稚園。
そのマンションに入居した人にとっては最高の立地でしょう。
そして、マンションの建設が進んでいる最中、
その幼稚園の敷地内にプレハブの建物が作られました。
気づくと、そちらのプレハブを仮施設として、これまでの校舎を壊している様子。
どうやら建て替えだったようです。
かなり古い建物に見えましたから、最初は老朽化程度のことかと思っていました。
それが最近になって気づいたのは、その新校舎が格段にデカイということ。
古い建物の2倍以上の敷地を使っています。
おかげで校庭(園庭?)の面積は激減し、砂場の一部まで建物に侵入されています。
現時点ではプレハブも建っていますから、園児の走り回れるスペースは相当に狭い。
新しい建物は、高さも上がっているように見えます。
もしかすると1フロア分増えたのかもしれません。
少なくとも、敷地が2倍以上は確実に見えますから、
明らかに教室数を増やそうという魂胆でしょう。
「○○組」などと考えるのも大変そうですが、
格段に大所帯の幼稚園を狙っているようにしか僕には思えません。
新築の高層マンションを購入する時点で、年齢層は決して上ではないでしょう。
いわゆる働き盛りのサラリーマンが、ローンを組んで…ということだと思います。
当然、どの家庭も近い世代になるはず。
小学生ぐらいの子供がいる家庭もあるかもしれませんが、
まさにこれから幼稚園という家庭も少なくないでしょう。
新たに子供ができて、ということにでもなれば
その高層マンションの入居者から、相当な幼稚園のニーズがあると想像されます。
それを見越しての改築なんだろうなぁと、眺めているところです。
幼稚園だってビジネスでしょうから。
ただ、いかにも信仰の厚そうな幼稚園の名前や施設からすると、
「たまたま同じタイミングで改築しただけ」かもしれませんが、
違和感のあるぐらい戦略的な改装に見えてしまいます。
高層マンションが一気に複数建つようになると、
その街の人口や、年齢別の構成比率などは大きく変わると考えられます。
1,2年前ぐらいに中学校が廃校になったばかりだというのに、
そのペースだと10年としないうちに、一気に
小・中学校の良ニーズが高まるんだろうと思われます。
そしてまた、一気にピークが過ぎて学校のニーズが落ちる。
きっと街の開発というのも簡単ではないのでしょうね。
交通の便が非常に良いにもかかわらず少し地価が安めなようです。
そのため、僕が移り住んでから開発がスゴイ。
駅前のビルは色々と建て変わっていますし、居酒屋の数もウナギ登り。
そして最近では、古い大型スーパーマーケットの跡地や団地、駐車場や
自動車ディーラーなどの大型店舗の跡地などが高層マンションに変わっています。
とにかく人口を集めようという様子が伺えます。
30階から40階ぐらいありそうな高層マンションは、数百戸あるだろう部屋が
あっという間に完売したという話でした。
そのマンションはもうすぐ完成して、入居者がくるような段階。
入口は大きなロビーがあるとはいえ、自動ドアの大きさは少し大きい程度です。
はたして、どうやって全入居者が引っ越しをするのかと興味津津なところ。
で、そのマンション予定地の真正面が幼稚園なんです。
マンションは大型スーパーの跡地に建っていますから
元々は商店街から少し離れただけのところにある
決して恵まれた環境の幼稚園とは言えない様相でした。
ところが。
今は、そのスーパーが高層マンションになろうとしています。
マンションの目の前にある幼稚園。
そのマンションに入居した人にとっては最高の立地でしょう。
そして、マンションの建設が進んでいる最中、
その幼稚園の敷地内にプレハブの建物が作られました。
気づくと、そちらのプレハブを仮施設として、これまでの校舎を壊している様子。
どうやら建て替えだったようです。
かなり古い建物に見えましたから、最初は老朽化程度のことかと思っていました。
それが最近になって気づいたのは、その新校舎が格段にデカイということ。
古い建物の2倍以上の敷地を使っています。
おかげで校庭(園庭?)の面積は激減し、砂場の一部まで建物に侵入されています。
現時点ではプレハブも建っていますから、園児の走り回れるスペースは相当に狭い。
新しい建物は、高さも上がっているように見えます。
もしかすると1フロア分増えたのかもしれません。
少なくとも、敷地が2倍以上は確実に見えますから、
明らかに教室数を増やそうという魂胆でしょう。
「○○組」などと考えるのも大変そうですが、
格段に大所帯の幼稚園を狙っているようにしか僕には思えません。
新築の高層マンションを購入する時点で、年齢層は決して上ではないでしょう。
いわゆる働き盛りのサラリーマンが、ローンを組んで…ということだと思います。
当然、どの家庭も近い世代になるはず。
小学生ぐらいの子供がいる家庭もあるかもしれませんが、
まさにこれから幼稚園という家庭も少なくないでしょう。
新たに子供ができて、ということにでもなれば
その高層マンションの入居者から、相当な幼稚園のニーズがあると想像されます。
それを見越しての改築なんだろうなぁと、眺めているところです。
幼稚園だってビジネスでしょうから。
ただ、いかにも信仰の厚そうな幼稚園の名前や施設からすると、
「たまたま同じタイミングで改築しただけ」かもしれませんが、
違和感のあるぐらい戦略的な改装に見えてしまいます。
高層マンションが一気に複数建つようになると、
その街の人口や、年齢別の構成比率などは大きく変わると考えられます。
1,2年前ぐらいに中学校が廃校になったばかりだというのに、
そのペースだと10年としないうちに、一気に
小・中学校の良ニーズが高まるんだろうと思われます。
そしてまた、一気にピークが過ぎて学校のニーズが落ちる。
きっと街の開発というのも簡単ではないのでしょうね。
2011年12月20日
完璧な「アイドル」
今まで僕の中にあった価値観として、かなり重要で
高い位置を占めていたものでありながら、気づきにくかったことがありました。
それは「自然体」というものです。
決して「わざとらしくならず」、「さりげなく」、「違和感がない」感じ。
このことは、僕が何か他人のためを思ってやるときに
あまり気づかれないようにコッソリやろうとすることと関係する気がします。
自分にとっては、意識的に「何かをする」ということと
意識的に「何かをしない」ことでは大きな差はありません。
行動や振る舞いに気を配っている点では、同じなわけです。
例えば、相手が不快に思うような言葉遣いはしないようにする、など。
それを自覚なくやっていたら別ですが、
問題となる言葉遣いをしないように注意するときに、「言葉を選ぶ」ことをします。
それは、相手が心地よく捉えてくれそうな「言葉を選ぶ」ときと
やっていることは本質的に同じだということです。
ところが、相手からすると、この2つには大きな差があるはずです。
なぜなら「何かをしてもらった」結果としては、相手が気づくことができるのに対して、
「何かをしなかった」結果に対しては、相手は気づきにくいからです。
自分にとって嫌なことを「しないでいてくれた」とき、
自分にとっては何も起きていなかったように感じることが多いでしょう。
嫌なことをされたときに、初めてそれが意識に上がる。
本当は、不快にしないように気を使って振る舞っているかもしれないけれど
嫌なことが一切起きなければ、その部分は意識に上がらないと考えられます。
むしろ、不快にさせないように10個も気を遣ってくれていたのに、
些細な1つの振る舞いに不快感を覚えてしまったりもする。
すると、印象に残るのは「嫌なことをされた」というほうです。
人が不快に思うことを「しないようにする」というのは、相当に難しいわけです。
1つのミスが目立ってしまう上に、上手く「しない」ようにできたことは目立たない。
その意味で、相手が喜ぶことをするように心がけたほうが効率的だと言えそうです。
不快な部分があっても、それを上回る1つの嬉しい対応で満足できることがありますから。
これは、クレーム対応で、1つのミスなく不満を解消するようにするよりも、
そのお客さんの期待を上回る対応でファンにするように努力したほうが
結果的に上手くいきやすい場合があるのと同様です。
で、僕の中には、できるだけ相手に不快感を与えないように
「何かをしない」努力を大切にする傾向があるんです。
例えば、日本人に対して「日本語が上手いですね」とは言わないものですが、
外国人と判断したときには「日本語、上手いですね」と伝えることがあります。
同様に、いかにも日本人という人が、日本で英語を使ったときに
英語圏から来た人から「英語が上手いですね」と言われることがあります。
日本人が観光客としてアメリカに行ったとして、
現地で『それなり』の英語を使ったときに「上手いですね」と言われるかもしれません。
しかし、完璧にネイティブ並みの英語を使ったときには
現地の人は「英語が上手いですね」とは言わないはずです。
なぜなら、日本人のようなアジア系の見た目でも
アメリカで生まれ育った「アメリカ人」がネイティブとして英語を使う場合があるからです。
見た目が日本人ぽくても、ネイティブなアメリカ人であれば
英語が上手いのは当然なので、「上手いですね」とは意識しないんです。
それが少し変なところがあるのに気づきつつ、かつ自然に話していると
「英語が上手いですね」と意識するようになる。
つまり、全く違和感ないほどに、ベストなクオリティで条件をこなせたときには、
「当たり前」のこととして意識されずに処理されてしまう、ということです。
少しでも違和感があるようだと、意識されてしまう。
問題があっても「問題がある」と意識されるし、
問題はなくても、少し不自然なところがあれば「頑張ってますね」と意識されるわけです。
だからこそ、相手が不快になる「何かをしない」ためには
『ミスが許されない』だけでなく、不自然な頑張りとして受け取られないためにも
『自然体』で振る舞う必要があると思うんです。
コミュニケーションの技術は、普段の自分が使わないような言い方を
意識的に使ってみる場面が多々あります。
中には、一生懸命考えて作り出した「気の利いたセリフ」や
メタファーのように普段とは違った話の伝え方などもある。
コールドリーディングなんて、
いかに「占い師」っぽく堂々と振る舞えるか
という態度のほうが重要になることが沢山あるものです。
いくら使い慣れないからとはいえ、それを不自然に言ってしまっては
その言葉を聞く相手は、言葉以外のメッセージも同時に受け取ってしまいます。
一生懸命に考えたけれども、自分の内面と一致していないリフレーミングより、
リフレーミングですらない単なる気休めを、堂々と確信をもって言い切ってもらったほうが
言われた側としては心に響く…なんていうこともザラにあるんです。
なので、コミュニケーションでは「自然体」でメッセージを発することが
とても重要になるというわけです。
相手を不快にする対応を「しない」ための注意点としても、
相手の心に届くメッセージを伝えるための注意点としても、
「自然体」であることが重要なんです。
ただ僕の中で、「自然体」であることの大切さまで自然に捉えてしまっていたみたいで、
最近までその重要性を意識していませんでした。
思い返せば結構、気にしていたときもあったんですが
あまりハッキリと重視している自覚がなかったんです。
ところが、それを最近になって強く自覚しました。
そのキッカケは『K−POP』です。
昨今の『K−POP』ブームで、韓国出身のアイドルが沢山テレビに出ています。
出ているのは知っていましたが、僕には区別もつきませんし
(多分、韓国文化におけるアイドルの基準顔に、全員が近すぎるんだと思います)
あまり興味もなかったので、彼らの出るテレビ番組を見ることがありませんでした。
ところが、先日、家に帰ってきてテレビをつけた瞬間に歌番組が映り、
K−POPアイドルが歌っている場面を目にする機会があったんです。
そこで、僕は強烈に意識しました。
自分が「自然体」という価値を重視していることを。
彼らの徹底的に作り込まれたアイドル像が、僕には不自然に思えて
受け入れられなかったようです。
もちろん、「アイドル」という言葉が元々「偶像崇拝」の「偶像」から来ているように
K−POPアイドルは、アイドルとして理想的なんだろうとは思います。
しかし、「自然体」を求める僕にとって
徹底したプロフェッショナルの姿勢として作り込まれた完璧なアイドル像は
好みに反してしまうみたいです。
まぁ、テレビの世界に「自然体」を求めること自体に無理があるんだとは思いますが。
それにしても、プロフェッショナルな完璧さが人気となっている
今の日本の風潮はどういうことなのか…というのも気になるところです。
高い位置を占めていたものでありながら、気づきにくかったことがありました。
それは「自然体」というものです。
決して「わざとらしくならず」、「さりげなく」、「違和感がない」感じ。
このことは、僕が何か他人のためを思ってやるときに
あまり気づかれないようにコッソリやろうとすることと関係する気がします。
自分にとっては、意識的に「何かをする」ということと
意識的に「何かをしない」ことでは大きな差はありません。
行動や振る舞いに気を配っている点では、同じなわけです。
例えば、相手が不快に思うような言葉遣いはしないようにする、など。
それを自覚なくやっていたら別ですが、
問題となる言葉遣いをしないように注意するときに、「言葉を選ぶ」ことをします。
それは、相手が心地よく捉えてくれそうな「言葉を選ぶ」ときと
やっていることは本質的に同じだということです。
ところが、相手からすると、この2つには大きな差があるはずです。
なぜなら「何かをしてもらった」結果としては、相手が気づくことができるのに対して、
「何かをしなかった」結果に対しては、相手は気づきにくいからです。
自分にとって嫌なことを「しないでいてくれた」とき、
自分にとっては何も起きていなかったように感じることが多いでしょう。
嫌なことをされたときに、初めてそれが意識に上がる。
本当は、不快にしないように気を使って振る舞っているかもしれないけれど
嫌なことが一切起きなければ、その部分は意識に上がらないと考えられます。
むしろ、不快にさせないように10個も気を遣ってくれていたのに、
些細な1つの振る舞いに不快感を覚えてしまったりもする。
すると、印象に残るのは「嫌なことをされた」というほうです。
人が不快に思うことを「しないようにする」というのは、相当に難しいわけです。
1つのミスが目立ってしまう上に、上手く「しない」ようにできたことは目立たない。
その意味で、相手が喜ぶことをするように心がけたほうが効率的だと言えそうです。
不快な部分があっても、それを上回る1つの嬉しい対応で満足できることがありますから。
これは、クレーム対応で、1つのミスなく不満を解消するようにするよりも、
そのお客さんの期待を上回る対応でファンにするように努力したほうが
結果的に上手くいきやすい場合があるのと同様です。
で、僕の中には、できるだけ相手に不快感を与えないように
「何かをしない」努力を大切にする傾向があるんです。
例えば、日本人に対して「日本語が上手いですね」とは言わないものですが、
外国人と判断したときには「日本語、上手いですね」と伝えることがあります。
同様に、いかにも日本人という人が、日本で英語を使ったときに
英語圏から来た人から「英語が上手いですね」と言われることがあります。
日本人が観光客としてアメリカに行ったとして、
現地で『それなり』の英語を使ったときに「上手いですね」と言われるかもしれません。
しかし、完璧にネイティブ並みの英語を使ったときには
現地の人は「英語が上手いですね」とは言わないはずです。
なぜなら、日本人のようなアジア系の見た目でも
アメリカで生まれ育った「アメリカ人」がネイティブとして英語を使う場合があるからです。
見た目が日本人ぽくても、ネイティブなアメリカ人であれば
英語が上手いのは当然なので、「上手いですね」とは意識しないんです。
それが少し変なところがあるのに気づきつつ、かつ自然に話していると
「英語が上手いですね」と意識するようになる。
つまり、全く違和感ないほどに、ベストなクオリティで条件をこなせたときには、
「当たり前」のこととして意識されずに処理されてしまう、ということです。
少しでも違和感があるようだと、意識されてしまう。
問題があっても「問題がある」と意識されるし、
問題はなくても、少し不自然なところがあれば「頑張ってますね」と意識されるわけです。
だからこそ、相手が不快になる「何かをしない」ためには
『ミスが許されない』だけでなく、不自然な頑張りとして受け取られないためにも
『自然体』で振る舞う必要があると思うんです。
コミュニケーションの技術は、普段の自分が使わないような言い方を
意識的に使ってみる場面が多々あります。
中には、一生懸命考えて作り出した「気の利いたセリフ」や
メタファーのように普段とは違った話の伝え方などもある。
コールドリーディングなんて、
いかに「占い師」っぽく堂々と振る舞えるか
という態度のほうが重要になることが沢山あるものです。
いくら使い慣れないからとはいえ、それを不自然に言ってしまっては
その言葉を聞く相手は、言葉以外のメッセージも同時に受け取ってしまいます。
一生懸命に考えたけれども、自分の内面と一致していないリフレーミングより、
リフレーミングですらない単なる気休めを、堂々と確信をもって言い切ってもらったほうが
言われた側としては心に響く…なんていうこともザラにあるんです。
なので、コミュニケーションでは「自然体」でメッセージを発することが
とても重要になるというわけです。
相手を不快にする対応を「しない」ための注意点としても、
相手の心に届くメッセージを伝えるための注意点としても、
「自然体」であることが重要なんです。
ただ僕の中で、「自然体」であることの大切さまで自然に捉えてしまっていたみたいで、
最近までその重要性を意識していませんでした。
思い返せば結構、気にしていたときもあったんですが
あまりハッキリと重視している自覚がなかったんです。
ところが、それを最近になって強く自覚しました。
そのキッカケは『K−POP』です。
昨今の『K−POP』ブームで、韓国出身のアイドルが沢山テレビに出ています。
出ているのは知っていましたが、僕には区別もつきませんし
(多分、韓国文化におけるアイドルの基準顔に、全員が近すぎるんだと思います)
あまり興味もなかったので、彼らの出るテレビ番組を見ることがありませんでした。
ところが、先日、家に帰ってきてテレビをつけた瞬間に歌番組が映り、
K−POPアイドルが歌っている場面を目にする機会があったんです。
そこで、僕は強烈に意識しました。
自分が「自然体」という価値を重視していることを。
彼らの徹底的に作り込まれたアイドル像が、僕には不自然に思えて
受け入れられなかったようです。
もちろん、「アイドル」という言葉が元々「偶像崇拝」の「偶像」から来ているように
K−POPアイドルは、アイドルとして理想的なんだろうとは思います。
しかし、「自然体」を求める僕にとって
徹底したプロフェッショナルの姿勢として作り込まれた完璧なアイドル像は
好みに反してしまうみたいです。
まぁ、テレビの世界に「自然体」を求めること自体に無理があるんだとは思いますが。
それにしても、プロフェッショナルな完璧さが人気となっている
今の日本の風潮はどういうことなのか…というのも気になるところです。
2011年12月18日
応援のメッセージとして
以前にも講演の様子として紹介しましたが、ティナ・シーリグは本も面白かったです。
ベストセラーになった本だそうです。
ビジネスの事例や有名人の経歴、それに授業で扱う課題の内容など
具体的なエピソードが多いのも楽しいところじゃないでしょうか。
What I Wish I Knew When I Was 20
クチコミを見る
20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義
クチコミを見る
スタンフォード大のアントプレナー・センターのエグゼクティブ・ディレクターという肩書。
しかし、学生時代の専門は「 Neuroscience (脳科学)」だったんだとか。
それも大学院を中退して、カリフォルニアのサンタクルーズあたりで自分探しをして
それからスタンフォードの研究室でバイトを始める。
その後、博士課程に進むことを決意して、Neuroscience で博士号をとったそうです。
でも、今は学生相手に企業家精神を育むための教育者として活躍中。
本には、彼女自身が示してきた心意気が溢れています。
授業の様子に関する内容や、本に描かれたエピソードなどからしても
まさに企業家として必要なチャレンジ・スピリットや冒険心などを
後押ししてくれる方向性が趣旨なんだろうと思われます。
失敗を恐れない。
問題の大きさがチャンスの大きさ。
他の人と逆を考える。
失敗こそ財産。
自分の人生を他人に決めさせない。
…。
とにかく、様々なエピソードを交えながら、
「自らが、やりたい何かを起こす」
ということを応援してくれます。
不安や恐れを上回る勇気をくれようということなんでしょう。
その意味では、これから何かを始めようかという意気込みを持った人や
今ひとつ、一歩が踏み出せない人には力づけになる本だろうと想像されます。
本のタイトルからしても、大学生ぐらいの若者に
挑戦を勧める意図が含まれていると考えるのが自然だと思います。
しかし、僕がむしろオススメしたいのは、
すでに色々な形で自分の人生と向き合い、頑張っている人に対してです。
自分の責任で、自分の行動を受け止め、
もがいたり、何かを変えるために取り組んできた人たちにとっては、
この本の内容は「自分のやってきたことは間違っていなかった」と
自らの選択を肯定してもらったような印象があるんじゃないかと思うんです。
新しく考え方を学んだり、熱意に触発されたりするだけでなく、
これまでのやり方が真剣に挑んできた結果だったと裏づけしてもらえる。
そういう意味もあるような気がします。
いくぶん「アメリカン・ドリーム」的な雰囲気も前提にはあるのかもしれませんが、
「自分の人生のハンドルは、自分で握る」といった観点からも
色々な応援メッセージが見つかるんじゃないでしょうか。
ベストセラーになった本だそうです。
ビジネスの事例や有名人の経歴、それに授業で扱う課題の内容など
具体的なエピソードが多いのも楽しいところじゃないでしょうか。
What I Wish I Knew When I Was 20
クチコミを見る
20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義
クチコミを見る
スタンフォード大のアントプレナー・センターのエグゼクティブ・ディレクターという肩書。
しかし、学生時代の専門は「 Neuroscience (脳科学)」だったんだとか。
それも大学院を中退して、カリフォルニアのサンタクルーズあたりで自分探しをして
それからスタンフォードの研究室でバイトを始める。
その後、博士課程に進むことを決意して、Neuroscience で博士号をとったそうです。
でも、今は学生相手に企業家精神を育むための教育者として活躍中。
本には、彼女自身が示してきた心意気が溢れています。
授業の様子に関する内容や、本に描かれたエピソードなどからしても
まさに企業家として必要なチャレンジ・スピリットや冒険心などを
後押ししてくれる方向性が趣旨なんだろうと思われます。
失敗を恐れない。
問題の大きさがチャンスの大きさ。
他の人と逆を考える。
失敗こそ財産。
自分の人生を他人に決めさせない。
…。
とにかく、様々なエピソードを交えながら、
「自らが、やりたい何かを起こす」
ということを応援してくれます。
不安や恐れを上回る勇気をくれようということなんでしょう。
その意味では、これから何かを始めようかという意気込みを持った人や
今ひとつ、一歩が踏み出せない人には力づけになる本だろうと想像されます。
本のタイトルからしても、大学生ぐらいの若者に
挑戦を勧める意図が含まれていると考えるのが自然だと思います。
しかし、僕がむしろオススメしたいのは、
すでに色々な形で自分の人生と向き合い、頑張っている人に対してです。
自分の責任で、自分の行動を受け止め、
もがいたり、何かを変えるために取り組んできた人たちにとっては、
この本の内容は「自分のやってきたことは間違っていなかった」と
自らの選択を肯定してもらったような印象があるんじゃないかと思うんです。
新しく考え方を学んだり、熱意に触発されたりするだけでなく、
これまでのやり方が真剣に挑んできた結果だったと裏づけしてもらえる。
そういう意味もあるような気がします。
いくぶん「アメリカン・ドリーム」的な雰囲気も前提にはあるのかもしれませんが、
「自分の人生のハンドルは、自分で握る」といった観点からも
色々な応援メッセージが見つかるんじゃないでしょうか。
2011年12月16日
変化が見て取れます
この動画が興味深いです。
NLPの初期から関わっていたスティーブ・アンドレアスが
2009年のセミナーでデモをやったもの。
ワークの内容は、この動画の範囲では、一般的な「サブモダリティ・チェンジ」で
内部対話として聞こえる嫌な声のテンポを変えているだけです。
クライアントは「自分は愛されるに値しない」と考えるようになったと言います。
両親が相手にしてれなかった。
愛してくれなかった。
それで、そう考えるようにした、と。
で、頭の中に「お前は愛されるに値しない!」と言われるような声が聞こえるようです。
声の主は父親のよう。
それに対して、スティーブがクライアントに指示を出します。
「おまえは愛されるに値しない」という声のテンポを変えるように。
それだけ。
決して複雑な手法を使っているわけではありません。
興味深いので見て頂きたいと思う部分はクライアントの女性です。
ワークの前と、ワーク後の違いが如実に見て取れます。
8分8秒ぐらいから始まるシーンが、ワークの2か月後の模様。
顔色も、目つきも、眉間のシワも、口元の下がりも、頬の筋肉も変わっています。
全体に血色が良くなって明るい印象になっているのは
化粧や撮影のライトのせいだけではないでしょう。
手にも違いが表れていますから。
生理的なレベルでの健康状態や快適さも変わっていると思います。
スティーブを見るときの顔の角度も上がっています。
顎が上がって、より相手の顔をストレートに見るようになっている。
以前は、上目づかいな傾向があります。
自信が高まり、好意的に人と接していると推測されます。
口が全体に引き上げられ、頬の肉付きも良くなっているのが見て取れますし、
声質にも少し違いが出ていると思います。
声が前へ積極的に出る度合いが高まり、質感も少しツヤが出ている(かすれが減った)。
発話の時に口の奥側の筋肉をより強く使うようになっているんでしょう。
悲しみや絶望感が減って、活力が高まった印象です。
力を入れられるようになったというのは、単純にエネルギーが上がったとも言えますが
「そうやって自分を外の世界に発信しても良い」と感じられる自信とも関係するでしょう。
また、以前はセッション中、終始指先を重ねたり、握ったり、さすったりしていたのが
2か月後のインタビューでは、手を広げて置いたり、腕自体を肘かけに置いたりと
自然な手のポジションが変わっているのにも気づけます。
これは姿勢の変化とも関係しているはずです。
肩が少し開き気味になって、腕の内旋(肘を外に向ける動き)が減っています。
胸は元々開いているほうなので、肩から腕、手にかけての変化に表れているんでしょう。
内省的な度合いが減り、人と接することへの安心感も上がっていると考えられます。
全体に重心が上がっているのも、軽快な印象を与えると思います。
ジェスチャーに注目すると、動作の最後で、力が抜けなくなっています。
以前は、フッと力を抜いて動作が途中で終わる雰囲気がありました。
唐突で衝動的な力感の変化があります。
しかし、2か月後では、常に指先まで力が注がれた動きになって、唐突な動作がない。
体全体にエネルギーがあり、絶望感が減り、外への意識が高まっているんでしょう。
解釈を含めた全体的な印象で言えば、自信が高まっていて、
以前よりも「自分の話を聞いてもらいたい」という意欲も上がっているようです。
自分自身への価値を高めたことが想像できます。
始めて動画を見たとき、僕は一瞬「別の人か?」と感じたぐらい
その変化の大きさに驚きました。
その1つのワークだけが効果を発揮したのかどうかは分かりません。
何かのワークショップの一部でしょうから、他の時間も含めて
効果が高まった可能性も考えられます。
とはいえ、その人にとって重要な部分にアプローチすることで
シンプルな手法であっても劇的な効果を上げられるというのは
見逃せないポイントじゃないでしょうか。
NLPの初期から関わっていたスティーブ・アンドレアスが
2009年のセミナーでデモをやったもの。
ワークの内容は、この動画の範囲では、一般的な「サブモダリティ・チェンジ」で
内部対話として聞こえる嫌な声のテンポを変えているだけです。
クライアントは「自分は愛されるに値しない」と考えるようになったと言います。
両親が相手にしてれなかった。
愛してくれなかった。
それで、そう考えるようにした、と。
で、頭の中に「お前は愛されるに値しない!」と言われるような声が聞こえるようです。
声の主は父親のよう。
それに対して、スティーブがクライアントに指示を出します。
「おまえは愛されるに値しない」という声のテンポを変えるように。
それだけ。
決して複雑な手法を使っているわけではありません。
興味深いので見て頂きたいと思う部分はクライアントの女性です。
ワークの前と、ワーク後の違いが如実に見て取れます。
8分8秒ぐらいから始まるシーンが、ワークの2か月後の模様。
顔色も、目つきも、眉間のシワも、口元の下がりも、頬の筋肉も変わっています。
全体に血色が良くなって明るい印象になっているのは
化粧や撮影のライトのせいだけではないでしょう。
手にも違いが表れていますから。
生理的なレベルでの健康状態や快適さも変わっていると思います。
スティーブを見るときの顔の角度も上がっています。
顎が上がって、より相手の顔をストレートに見るようになっている。
以前は、上目づかいな傾向があります。
自信が高まり、好意的に人と接していると推測されます。
口が全体に引き上げられ、頬の肉付きも良くなっているのが見て取れますし、
声質にも少し違いが出ていると思います。
声が前へ積極的に出る度合いが高まり、質感も少しツヤが出ている(かすれが減った)。
発話の時に口の奥側の筋肉をより強く使うようになっているんでしょう。
悲しみや絶望感が減って、活力が高まった印象です。
力を入れられるようになったというのは、単純にエネルギーが上がったとも言えますが
「そうやって自分を外の世界に発信しても良い」と感じられる自信とも関係するでしょう。
また、以前はセッション中、終始指先を重ねたり、握ったり、さすったりしていたのが
2か月後のインタビューでは、手を広げて置いたり、腕自体を肘かけに置いたりと
自然な手のポジションが変わっているのにも気づけます。
これは姿勢の変化とも関係しているはずです。
肩が少し開き気味になって、腕の内旋(肘を外に向ける動き)が減っています。
胸は元々開いているほうなので、肩から腕、手にかけての変化に表れているんでしょう。
内省的な度合いが減り、人と接することへの安心感も上がっていると考えられます。
全体に重心が上がっているのも、軽快な印象を与えると思います。
ジェスチャーに注目すると、動作の最後で、力が抜けなくなっています。
以前は、フッと力を抜いて動作が途中で終わる雰囲気がありました。
唐突で衝動的な力感の変化があります。
しかし、2か月後では、常に指先まで力が注がれた動きになって、唐突な動作がない。
体全体にエネルギーがあり、絶望感が減り、外への意識が高まっているんでしょう。
解釈を含めた全体的な印象で言えば、自信が高まっていて、
以前よりも「自分の話を聞いてもらいたい」という意欲も上がっているようです。
自分自身への価値を高めたことが想像できます。
始めて動画を見たとき、僕は一瞬「別の人か?」と感じたぐらい
その変化の大きさに驚きました。
その1つのワークだけが効果を発揮したのかどうかは分かりません。
何かのワークショップの一部でしょうから、他の時間も含めて
効果が高まった可能性も考えられます。
とはいえ、その人にとって重要な部分にアプローチすることで
シンプルな手法であっても劇的な効果を上げられるというのは
見逃せないポイントじゃないでしょうか。
2011年12月14日
試しに聞いてみた
先日、英会話教室に行ったとき、イギリス出身の先生(男性)の
左手の薬指につけられていた指輪が気になりました。
「前から指輪をしていただろうか?」
という考えが頭に浮かびます。
違和感として察知しているので、以前と違っている可能性が高いと判断しました。
会話をしながら観察してみると、指輪が非常に綺麗なことに気づきます。
輝き以上に使い古された感じが無い。
肌の色から際立っているピンクゴールドの光沢感も
以前には無かったもののように感じさせます。
そして、指の根元にも長年にわたって指輪をつけていた「跡」もありません。
多分、前回には無かったはずだと推測しました。
そして、会話を続けていくとサラリと決定的なキーワードが。
「 my wife 」という単語が出てきました。
前は「 girl friend 」か「 fiancee(フィアンセ) 」と言っていた記憶があります。
この時点で確信度合いは90%を超えていますから、
会話の切れ目で聞いてみました。
「聞いてみた」というと、こちらの好奇心がありそうですが
もう僕の中では一応の確認作業としての意味合いが大きくなっています。
そして、それよりも僕の中にあった意図で大きかったのは
「多分、ハッピーな話だから話したいんじゃないだろうか?」という推測と
「 Congraturation ! 」と伝えること。
で、確認したわけです。
最近、結婚したのかどうか、と。
2日前に入籍したという話でした。
そこからは、まぁ話すこと、話すこと。
20,30分は聞いていたと思います。
日本在住ですし、日本語を話せないと言っていたので
それほど友人も多くないのかもしれません。
自分から積極的に言いたがる感じの先生でもありませんでしたし、
そこのスクールは、あまり先生同士で会話をする時間も無いようで。
言いたい気持ちがあっても、言う相手がいない…
そんな状況だったのでしょうか。
役所での書類が面倒くさかったような話をしながらも
なんだかとても楽しそうに話をしていたのが印象的です。
ただ、僕の英会話のレッスンとしては、また相当な時間が減ってしまいました。
どれぐらい話そうとするかに興味があったので、
その意味では目的を果たしているんですが。
自分に役立てることを考えると、僕にとって必要なのは
スピーチを聞いてくれる人なのかもしれません。
左手の薬指につけられていた指輪が気になりました。
「前から指輪をしていただろうか?」
という考えが頭に浮かびます。
違和感として察知しているので、以前と違っている可能性が高いと判断しました。
会話をしながら観察してみると、指輪が非常に綺麗なことに気づきます。
輝き以上に使い古された感じが無い。
肌の色から際立っているピンクゴールドの光沢感も
以前には無かったもののように感じさせます。
そして、指の根元にも長年にわたって指輪をつけていた「跡」もありません。
多分、前回には無かったはずだと推測しました。
そして、会話を続けていくとサラリと決定的なキーワードが。
「 my wife 」という単語が出てきました。
前は「 girl friend 」か「 fiancee(フィアンセ) 」と言っていた記憶があります。
この時点で確信度合いは90%を超えていますから、
会話の切れ目で聞いてみました。
「聞いてみた」というと、こちらの好奇心がありそうですが
もう僕の中では一応の確認作業としての意味合いが大きくなっています。
そして、それよりも僕の中にあった意図で大きかったのは
「多分、ハッピーな話だから話したいんじゃないだろうか?」という推測と
「 Congraturation ! 」と伝えること。
で、確認したわけです。
最近、結婚したのかどうか、と。
2日前に入籍したという話でした。
そこからは、まぁ話すこと、話すこと。
20,30分は聞いていたと思います。
日本在住ですし、日本語を話せないと言っていたので
それほど友人も多くないのかもしれません。
自分から積極的に言いたがる感じの先生でもありませんでしたし、
そこのスクールは、あまり先生同士で会話をする時間も無いようで。
言いたい気持ちがあっても、言う相手がいない…
そんな状況だったのでしょうか。
役所での書類が面倒くさかったような話をしながらも
なんだかとても楽しそうに話をしていたのが印象的です。
ただ、僕の英会話のレッスンとしては、また相当な時間が減ってしまいました。
どれぐらい話そうとするかに興味があったので、
その意味では目的を果たしているんですが。
自分に役立てることを考えると、僕にとって必要なのは
スピーチを聞いてくれる人なのかもしれません。
2011年12月12日
画面の文字の読みやすさ
パソコンの画面で文章を読むのが苦手という方は少なくないと思います。
僕は最近でこそ慣れてきましたが、印刷されたものと画面の文章とでは
読みやすさが違うと、常々感じていました。
画面の文字は活字と少し違うことがあります。
文字の大きさも違う。
明るい画面を背景にしていると目が疲れるという人もいます。
しかし、画面の文章を読むのが難しい理由には
もっと大きなものがあると考えられます。
僕が初めてパソコンを使い始めたときは「Windows95」が出たぐらいで
MacもWindowsも、デスクトップ型が主流だったものです。
ノートパソコンのほうが高かった記憶があります。
デスクトップの場合、モニターはブラウン管式の大きいヤツ。
17インチということもありましたが、14インチのこともあった気がします。
大体の場合、横置きのパソコン本体の上にモニターが置かれていました。
それでも17インチあると、文字の小ささは気にならなかったと思います。
で、画面は目線から少し上ぐらいに設定されていても変ではなかった気がします。
多分、その頃のパソコンの使用目的は、今ほど情報のインプットに使われず
アウトプットや情報整理のためが主流だったはずです。
ワープロソフトで文章を作成するにしても、
表計算で複雑な計算をするにしても、
CADで製図をするにしても、
画像の加工をするにしても、
画面の上に表れる情報は、使い手の頭の中から出てくるものがメイン。
モニターは作業スペースだったわけです。
設計の人がCADを使って製図をするときは、
まさに製図用の平行移動できる定規がくっついた大きな図面台の代わりが
モニターの上に写し出されていたと言えます。
画像を編集するときには、
画家がキャンバスを目の前に立てて絵を描くような状態に近かったはずです。
つまり、顔の正面に大きめの画面を立てて、
広い視野で全体を眺めるような視点が効果的だったと考えられます。
一方、インターネットが発達してきた頃から
パソコンの使われ方に変化が起きました。
最初はメールのやりとりぐらいが中心だったでしょう。
文章の量は決して多くはないわけです。
それが、徐々に複雑な文書やファイルが送受信されるようになる。
会社などの場合には、そういうことも多かったはずです。
僕の会社員時代を思い返しても、誰もが長い文章になると
一度プリントアウトしてから読んでいたものです。
そして、インターネット上で直接情報を調べることが増えてくる。
画面上から情報を読みとっていく作業です。
モニターを作業スペースとして使って、
自分の頭の中にある情報を出して整理するアウトプット目的から、
他人が書いた文字情報を画面に写し出して
それを読んで取り込んでいくというインプット目的に、
方向性がシフトしたわけです。
僕にとって印象的なのは、論文をPDFでダウンロードして読むケース。
確実に、印刷してから読んでいました。
皆、そのほうが楽だと言っていました。
しかし、正確にいえば、見やすさだけでなく
理解のしやすさにも差があったはずです。
インプットするには、パソコンの画面上の文字を読むよりも
印刷した紙媒体から行ったほうが効率的な人が多いと考えられます。
元々、作業スペースとしてアウトプット目的に適した形で
配置されていたパソコンのモニターの位置と画面の大きさは、
そこからそのまま文字情報をインプットするには不向きな可能性があります。
インプットのツールとしてパソコンを見た時には
画面の大きさや位置に工夫が必要だと思います。
もちろん、現在でもアウトプット目的でパソコンを使う人もいますし、
インプットの時には印刷するという人もいると思います。
それで目的が叶うのであれば、それに適したパソコンのモニターを選ぶと良いでしょう。
大きめの画面で、視野を広く使って、頭の中の作業スペースを広げるような感じです。
多くのことを眺めながら比較したり、バランスをとったりして整理をする。
しかし、その視野の使い方、姿勢の使い方ではインプットには適さないはずです。
なぜなら、多くの人が文章を読むときの自然な状態と違うからです。
その状態が、「人間とは、そういう風にできているから」なのか
「幼少期からの習慣でそうなっている」のかは分かりません。
ただ、誰もが本や文章を読む時には、比較的小さい文字のものを
目線よりも下に置いて、あまり遠すぎない距離に置いているはずです。
視野の大部分が文字の範囲だけになっているのがポイントです。
文字と目の距離には個人差がありますが、
文字を眺めるときの視野の狭さには共通点があると思います。
本や資料を読むときには、その本や資料の範囲が注意の大部分になっているでしょう。
景色全体の中に、文字の書かれた紙の部分があるわけではないと思います。
しかも、目線よりも下に置く。
読んでいるときの距離感や、文章の中に入り込んでいく感覚など
人によって意識の仕方に違いがあったとしても、
読んで理解するときの姿勢と視野の使い方があるものなんです。
その使い方がインプット用なんです。
その状態になるためには、印刷したものを読むほうが自分の体を調整しやすいんです。
大きな画面を、視野の真正面で離したところに置いて
全体が自然と目に入るような位置関係で眺めていたら、
そのインプット用の状態が作りにくい可能性が高い。
だから読みにくいんです。
読んでも理解しにくいんだと考えられます。
その点では、まだノートパソコンのほうがマシでしょう。
視野の下側に置いて、視野の大きさも調整がしやすいですから。
iPad とかは便利かもしれません。
一度、パソコンから情報を iPad に移して、
本を読むような姿勢で情報をインプットできます。
インプット用の姿勢や視野の使い方と
アウトプット用の使い方では、違いがあるということです。
文章からのインプットには、
視野を文字の範囲だけに狭めて(一文字ではなく、文章の書かれた範囲)
顔の正面よりも低い位置を見降ろすようにする。
アウトプットや整理のためには、
大きな画面を顔の正面ぐらいで少し遠目に置いて
全体を眺める感じで作業を進めていく。
こういう工夫は、意外とパフォーマンスに差を生むものです。
多分、あまり「スマートフォンの画面が小さすぎて使いにくい」と聞かないのは
能動的にインプットしにいく目的においては、画面との距離や視野の使い方で
パフォーマンスをコントロールできているからじゃないかという気もします。
「文章が読みやすいパソコン」というだけでも使いたい人はいるかもしれません。
僕は最近でこそ慣れてきましたが、印刷されたものと画面の文章とでは
読みやすさが違うと、常々感じていました。
画面の文字は活字と少し違うことがあります。
文字の大きさも違う。
明るい画面を背景にしていると目が疲れるという人もいます。
しかし、画面の文章を読むのが難しい理由には
もっと大きなものがあると考えられます。
僕が初めてパソコンを使い始めたときは「Windows95」が出たぐらいで
MacもWindowsも、デスクトップ型が主流だったものです。
ノートパソコンのほうが高かった記憶があります。
デスクトップの場合、モニターはブラウン管式の大きいヤツ。
17インチということもありましたが、14インチのこともあった気がします。
大体の場合、横置きのパソコン本体の上にモニターが置かれていました。
それでも17インチあると、文字の小ささは気にならなかったと思います。
で、画面は目線から少し上ぐらいに設定されていても変ではなかった気がします。
多分、その頃のパソコンの使用目的は、今ほど情報のインプットに使われず
アウトプットや情報整理のためが主流だったはずです。
ワープロソフトで文章を作成するにしても、
表計算で複雑な計算をするにしても、
CADで製図をするにしても、
画像の加工をするにしても、
画面の上に表れる情報は、使い手の頭の中から出てくるものがメイン。
モニターは作業スペースだったわけです。
設計の人がCADを使って製図をするときは、
まさに製図用の平行移動できる定規がくっついた大きな図面台の代わりが
モニターの上に写し出されていたと言えます。
画像を編集するときには、
画家がキャンバスを目の前に立てて絵を描くような状態に近かったはずです。
つまり、顔の正面に大きめの画面を立てて、
広い視野で全体を眺めるような視点が効果的だったと考えられます。
一方、インターネットが発達してきた頃から
パソコンの使われ方に変化が起きました。
最初はメールのやりとりぐらいが中心だったでしょう。
文章の量は決して多くはないわけです。
それが、徐々に複雑な文書やファイルが送受信されるようになる。
会社などの場合には、そういうことも多かったはずです。
僕の会社員時代を思い返しても、誰もが長い文章になると
一度プリントアウトしてから読んでいたものです。
そして、インターネット上で直接情報を調べることが増えてくる。
画面上から情報を読みとっていく作業です。
モニターを作業スペースとして使って、
自分の頭の中にある情報を出して整理するアウトプット目的から、
他人が書いた文字情報を画面に写し出して
それを読んで取り込んでいくというインプット目的に、
方向性がシフトしたわけです。
僕にとって印象的なのは、論文をPDFでダウンロードして読むケース。
確実に、印刷してから読んでいました。
皆、そのほうが楽だと言っていました。
しかし、正確にいえば、見やすさだけでなく
理解のしやすさにも差があったはずです。
インプットするには、パソコンの画面上の文字を読むよりも
印刷した紙媒体から行ったほうが効率的な人が多いと考えられます。
元々、作業スペースとしてアウトプット目的に適した形で
配置されていたパソコンのモニターの位置と画面の大きさは、
そこからそのまま文字情報をインプットするには不向きな可能性があります。
インプットのツールとしてパソコンを見た時には
画面の大きさや位置に工夫が必要だと思います。
もちろん、現在でもアウトプット目的でパソコンを使う人もいますし、
インプットの時には印刷するという人もいると思います。
それで目的が叶うのであれば、それに適したパソコンのモニターを選ぶと良いでしょう。
大きめの画面で、視野を広く使って、頭の中の作業スペースを広げるような感じです。
多くのことを眺めながら比較したり、バランスをとったりして整理をする。
しかし、その視野の使い方、姿勢の使い方ではインプットには適さないはずです。
なぜなら、多くの人が文章を読むときの自然な状態と違うからです。
その状態が、「人間とは、そういう風にできているから」なのか
「幼少期からの習慣でそうなっている」のかは分かりません。
ただ、誰もが本や文章を読む時には、比較的小さい文字のものを
目線よりも下に置いて、あまり遠すぎない距離に置いているはずです。
視野の大部分が文字の範囲だけになっているのがポイントです。
文字と目の距離には個人差がありますが、
文字を眺めるときの視野の狭さには共通点があると思います。
本や資料を読むときには、その本や資料の範囲が注意の大部分になっているでしょう。
景色全体の中に、文字の書かれた紙の部分があるわけではないと思います。
しかも、目線よりも下に置く。
読んでいるときの距離感や、文章の中に入り込んでいく感覚など
人によって意識の仕方に違いがあったとしても、
読んで理解するときの姿勢と視野の使い方があるものなんです。
その使い方がインプット用なんです。
その状態になるためには、印刷したものを読むほうが自分の体を調整しやすいんです。
大きな画面を、視野の真正面で離したところに置いて
全体が自然と目に入るような位置関係で眺めていたら、
そのインプット用の状態が作りにくい可能性が高い。
だから読みにくいんです。
読んでも理解しにくいんだと考えられます。
その点では、まだノートパソコンのほうがマシでしょう。
視野の下側に置いて、視野の大きさも調整がしやすいですから。
iPad とかは便利かもしれません。
一度、パソコンから情報を iPad に移して、
本を読むような姿勢で情報をインプットできます。
インプット用の姿勢や視野の使い方と
アウトプット用の使い方では、違いがあるということです。
文章からのインプットには、
視野を文字の範囲だけに狭めて(一文字ではなく、文章の書かれた範囲)
顔の正面よりも低い位置を見降ろすようにする。
アウトプットや整理のためには、
大きな画面を顔の正面ぐらいで少し遠目に置いて
全体を眺める感じで作業を進めていく。
こういう工夫は、意外とパフォーマンスに差を生むものです。
多分、あまり「スマートフォンの画面が小さすぎて使いにくい」と聞かないのは
能動的にインプットしにいく目的においては、画面との距離や視野の使い方で
パフォーマンスをコントロールできているからじゃないかという気もします。
「文章が読みやすいパソコン」というだけでも使いたい人はいるかもしれません。
2011年12月10日
ストレートな会話
久しぶりに、とても良い気分になれるコミュニケーションに遭遇しました。
食事をしていた隣の席に来た二人組。
一人は70前ぐらいの男性、もう一人は若い女性。
女性のほうは、いわゆる「ギャル」の感じでした。
親子よりは離れているけれど、孫までは離れていないかも…
と思っていたら、会話の内容から「孫と祖父」だと判明しました。
しかも女の子のほうは16歳。
高校生には見えませんでした。
いかにもイマドキの女の子という感じで
店に入るなり携帯を操作して、お祖父さんには面倒くさそうな雰囲気。
男性のほうも、決して「頑固爺」とまではいかないまでも
口数少なく、古風な印象に見えました。
が、会話が始まると、なんとも言えない
優しさに溢れたコミュニケーションが繰り広げられたんです。
男性がメニューを広げ、選び始めます。
女の子は携帯をいじり続ける。
なので、男性のほうが言いました。
「オイ、先に注文、決めちゃえよ」
「えぇ?うん」
そんな感じで渋々メニューを見ると、女の子はすぐに決めました。
「エミ、これにする」
テレビで見かけるイマドキの女子高生ギャルにも
一人称が名前になっているケースを見かけます。
が、声の雰囲気は、もっと可愛げがありました。
子供っぽい感じ。
すると男性、
「なんだ、またそれか。
この間も同じだったじゃないか。
ジイジもそれにしようかと思ってたのに、同じじゃつまんねぇな。」
ジイジです。
男性は孫に対して、一人称を『ジイジ』と言っていました。
小さい頃から可愛がっていたんでしょうね。
『ジイジ』という言い方とは不釣り合いな「べらんめぇ」口調が印象的。
そして、『ジイジ』が言いました。
「なぁ、別のにしろよ。
ジイジが食いてぇからさ。」
「やだよ」
「なんだよ、たまには譲れよ」
「うるせぇよ。
お前が譲れよ。」
そんな感じで仕方なく『ジイジ』は別のを注文することにしたようです。
で、店員を呼び、注文が済んだあたりで『ジイジ』が一言。
「エミは払わなくていいぞ。」
すると女の子。
「いいよ、エミが払うよ。」
「いいって。ジイジが払っとくから。」
「なんだよ、エミが払うって。
ジイジ、金ねぇんだろ?」
「大丈夫だよ。」
「じゃあ、千円だけでもさ。
いいじゃん。」
16歳のギャル風の女の子でしたが、アルバイトでもしているんでしょう。
お祖父ちゃんに対する優しさが、口の悪さとは裏腹に溢れていました。
ぶっきらぼうな会話の中だからこそ、余計に
「エミ」と「ジイジ」という呼び方が際立って聞こえました。
少し古風な男性と、イマドキの女の子という異質な組み合わせが放つ
奇妙なコミュニケーションの奥にある暖かな繋がり。
祖父は孫娘が可愛くて、孫もお祖父ちゃんが好きなんでしょう。
二人の間で確立された、一風変わったオープンな心の交流が
近くにいて、とても心地良いものに感じられました。
街中では、ほとんどのコミュニケーションが、本音としての欲求や意図を歪めて
ひねくれた方法で伝えあっているのを目にします。
自分が相手に期待していることを間接的に要求している。
意図が隠れているケースがほとんどだと思います。
一方、そのジイジと孫娘の会話は、相手のことを思っているだけの会話。
相手を思いやる気持ちが、多少汚い言葉づかいでストレートに伝えられていました。
素直でストレートな関わりというのは、見ていても良いものですね。
希少な場面に遭遇したような気がします。
食事をしていた隣の席に来た二人組。
一人は70前ぐらいの男性、もう一人は若い女性。
女性のほうは、いわゆる「ギャル」の感じでした。
親子よりは離れているけれど、孫までは離れていないかも…
と思っていたら、会話の内容から「孫と祖父」だと判明しました。
しかも女の子のほうは16歳。
高校生には見えませんでした。
いかにもイマドキの女の子という感じで
店に入るなり携帯を操作して、お祖父さんには面倒くさそうな雰囲気。
男性のほうも、決して「頑固爺」とまではいかないまでも
口数少なく、古風な印象に見えました。
が、会話が始まると、なんとも言えない
優しさに溢れたコミュニケーションが繰り広げられたんです。
男性がメニューを広げ、選び始めます。
女の子は携帯をいじり続ける。
なので、男性のほうが言いました。
「オイ、先に注文、決めちゃえよ」
「えぇ?うん」
そんな感じで渋々メニューを見ると、女の子はすぐに決めました。
「エミ、これにする」
テレビで見かけるイマドキの女子高生ギャルにも
一人称が名前になっているケースを見かけます。
が、声の雰囲気は、もっと可愛げがありました。
子供っぽい感じ。
すると男性、
「なんだ、またそれか。
この間も同じだったじゃないか。
ジイジもそれにしようかと思ってたのに、同じじゃつまんねぇな。」
ジイジです。
男性は孫に対して、一人称を『ジイジ』と言っていました。
小さい頃から可愛がっていたんでしょうね。
『ジイジ』という言い方とは不釣り合いな「べらんめぇ」口調が印象的。
そして、『ジイジ』が言いました。
「なぁ、別のにしろよ。
ジイジが食いてぇからさ。」
「やだよ」
「なんだよ、たまには譲れよ」
「うるせぇよ。
お前が譲れよ。」
そんな感じで仕方なく『ジイジ』は別のを注文することにしたようです。
で、店員を呼び、注文が済んだあたりで『ジイジ』が一言。
「エミは払わなくていいぞ。」
すると女の子。
「いいよ、エミが払うよ。」
「いいって。ジイジが払っとくから。」
「なんだよ、エミが払うって。
ジイジ、金ねぇんだろ?」
「大丈夫だよ。」
「じゃあ、千円だけでもさ。
いいじゃん。」
16歳のギャル風の女の子でしたが、アルバイトでもしているんでしょう。
お祖父ちゃんに対する優しさが、口の悪さとは裏腹に溢れていました。
ぶっきらぼうな会話の中だからこそ、余計に
「エミ」と「ジイジ」という呼び方が際立って聞こえました。
少し古風な男性と、イマドキの女の子という異質な組み合わせが放つ
奇妙なコミュニケーションの奥にある暖かな繋がり。
祖父は孫娘が可愛くて、孫もお祖父ちゃんが好きなんでしょう。
二人の間で確立された、一風変わったオープンな心の交流が
近くにいて、とても心地良いものに感じられました。
街中では、ほとんどのコミュニケーションが、本音としての欲求や意図を歪めて
ひねくれた方法で伝えあっているのを目にします。
自分が相手に期待していることを間接的に要求している。
意図が隠れているケースがほとんどだと思います。
一方、そのジイジと孫娘の会話は、相手のことを思っているだけの会話。
相手を思いやる気持ちが、多少汚い言葉づかいでストレートに伝えられていました。
素直でストレートな関わりというのは、見ていても良いものですね。
希少な場面に遭遇したような気がします。