2012年03月
2012年03月31日
発見
「 Being ・Doing ・ Having 」という言い方が使われる場合があります。
「存在・行動・所有」と訳されることもあります。
考え方としては、特に、人のニーズに関して理解するときに役立つようです。
「 Having 」は「所有」ですから、”何かを手に入れたい”という欲求。
「 Doing 」は「行動」なので、”何かをしたい・できるようになりたい”という欲求。
「 Being 」は「存在」ということで、”こうありたい”という欲求。
実際には、” Being ”のレベルだと自覚がしにくく、曖昧な形の不満として
欲求が感じられることがあるようです。
一般には、存在価値のようなところと繋がりますから、
自尊心などと関係してくるところでしょう。
例えば、会社組織の中を例にとると、
「 Having 」レベルの問題としては「収入が少ない」という不満、
「 Doing 」レベルの問題としては「クレーム対応が苦手」という思い、
「 Being 」レベルの問題としては「頑張っているのに誰も気づいてくれない」という気持ち
などが挙げられます。
どのレベルに対する問題かによって、対応が変わってくるという話です。
で、こういう言い方自体は、それなりに色々なところで耳にするのですが、
どこから出てきた説明なのかが良く分かりませんでした。
別に、たまたま僕が参加したセミナーの講師が、その用語を使っていたとして
その講師自身が便利だから作った発想だとしても良いんですが、
どうも出所がありそうな印象のまま、分からない状態だったんです。
それで、先日、以前に買った本を読んでいたら
日本語訳の形で、このモデルが登場しました。
どうやら「 Being ・Doing ・ Having 」という分類の仕方のモデルは
ラバーテ( L'abate )という家族を専門とする心理学者が提案したもののようです。
直接「 Being ・Doing ・ Having 」という言葉は出てきませんが
「存在、行動、所有」という単語が登場するモデルがあって、
そのタイトルが「 HDB モデル」となっていました。
「 Having ・ Doing ・ Being 」の頭文字で「 HDB モデル」なんでしょう。
おそらく、ここが出所じゃないか、と。
アメリカ文化では、どうしても「 Having 」と「 Doing 」に注目した考えになりやすく、
もっと人間としての存在価値のようなものに目を向けようと
ラバーテが「 Being 」の重要性を説明していたようです。
ラバーテのモデルは色々とあるようですが
直観的に理解しやすいこの発想が、使われやすかったのでしょうね。
「存在・行動・所有」と訳されることもあります。
考え方としては、特に、人のニーズに関して理解するときに役立つようです。
「 Having 」は「所有」ですから、”何かを手に入れたい”という欲求。
「 Doing 」は「行動」なので、”何かをしたい・できるようになりたい”という欲求。
「 Being 」は「存在」ということで、”こうありたい”という欲求。
実際には、” Being ”のレベルだと自覚がしにくく、曖昧な形の不満として
欲求が感じられることがあるようです。
一般には、存在価値のようなところと繋がりますから、
自尊心などと関係してくるところでしょう。
例えば、会社組織の中を例にとると、
「 Having 」レベルの問題としては「収入が少ない」という不満、
「 Doing 」レベルの問題としては「クレーム対応が苦手」という思い、
「 Being 」レベルの問題としては「頑張っているのに誰も気づいてくれない」という気持ち
などが挙げられます。
どのレベルに対する問題かによって、対応が変わってくるという話です。
で、こういう言い方自体は、それなりに色々なところで耳にするのですが、
どこから出てきた説明なのかが良く分かりませんでした。
別に、たまたま僕が参加したセミナーの講師が、その用語を使っていたとして
その講師自身が便利だから作った発想だとしても良いんですが、
どうも出所がありそうな印象のまま、分からない状態だったんです。
それで、先日、以前に買った本を読んでいたら
日本語訳の形で、このモデルが登場しました。
どうやら「 Being ・Doing ・ Having 」という分類の仕方のモデルは
ラバーテ( L'abate )という家族を専門とする心理学者が提案したもののようです。
直接「 Being ・Doing ・ Having 」という言葉は出てきませんが
「存在、行動、所有」という単語が登場するモデルがあって、
そのタイトルが「 HDB モデル」となっていました。
「 Having ・ Doing ・ Being 」の頭文字で「 HDB モデル」なんでしょう。
おそらく、ここが出所じゃないか、と。
アメリカ文化では、どうしても「 Having 」と「 Doing 」に注目した考えになりやすく、
もっと人間としての存在価値のようなものに目を向けようと
ラバーテが「 Being 」の重要性を説明していたようです。
ラバーテのモデルは色々とあるようですが
直観的に理解しやすいこの発想が、使われやすかったのでしょうね。
2012年03月30日
久しぶりの読書で
引っ越しに伴って自然と本の整理をする流れになりました。
なので、今、僕の部屋の中では本がジャンルごとに集まっています。
「並んでいる」と言わないのは、本棚に入っているわけではないから。
とはいえ、バラバラのタイミングで買い集めた本が色々と整理されたことで、
随分と前に買っていた本が手に届きやすい場所にやってきました。
結果として、何年も読んでいなかった本を再び手に取ることも出てきます。
特に僕が心理療法の勉強を始めたときに買った多くの本の中には
専門的な内容のものも沢山あるので、
改めて読んでみると役立つことが見つかる感じがあります。
そういう意味では、「分かりやすい」本よりも
「難しい」本のほうが、持っていて価値があるような気がしてしまいます。
内容が人間的成長に対する見方を伴っていたり、
多くの人に共通する人生のテーマを含んでいたりすると、
自分自身の経験を伴って実感できる内容が増えてくるので
単なる技術的な側面を理解するのとは違う味わいもあったりして。
勉強を始めた頃には知識として入れようとしただけの内容だった家族療法も
多くの人生と接してきてから読み直してみると実感する深みが違うようです。
そこには理解や納得とは別に、なんとも、しみじみとした悲哀や不条理、
それと同時に現実的で受容的な”あきらめ”と、根底にある楽観的な希望、
そして全てを達観して含んだ「…だが、それがいい」という感じがあります。
なんというか、著者が長年かけて追及してきた大切なものの一端を
一緒に体験させてもらっているような感じでしょうか。
読みながら
「あぁー、そうだよなぁ…」
と染み入るような本。
決して「人を感動させるような良い話をしてやろう」という部分はなく
ただセラピストとして向き合ってきた人生の量が醸し出す味わい。
そんな部分に触れられるのは、すごくありがたいことだと思いました。
家族療法の面白いところの1つは、
もちろん、そのセラピストのスタンスにも寄りますが、
「必ずしも問題解決そのものが理想的ではない」
というところじゃないかと思います。
「〜で上手くいかないんです」
「うちの子供が〜で困っているんです」
などと特定の問題があったとして、
セラピーを通じて問題を解決することが全てではありません。
僕が共鳴するのは、
その家族の人生全体を通して取り組んでいく
という部分です。
誰かに苦しみがあるなら、家族が一緒に苦しめるようになる。
そのほうが、苦しみを解決できることよりも大事な場合があります。
場合によっては、
「じゃあ、これから一緒に皆で頑張っていこう」
といって手を取り合えるような関係になることのほうが
短期的な問題よりも重要なことがある、と。
一人の人間が成長していくように
家族という単位でも成長していく。
そのために必要なのは、必ずしも問題解決ではないかもしれません。
「セラピストが問題を解決するのではなく、本人が問題を解決する」
…そんな発想は、多くのセラピストやカウンセラー、コーチが持っているかもしれません。
ですが、”家族の問題があったときにセラピストやコーチのところに相談に来る”
という事情に対して、同じように「家族自体が問題を解決する」という発想が
どれほどの援助者の中にあるのでしょうか?
家族の中で困ったことがあるときに、
その相談に来た本人の援助をしたくなることが多い気がします。
その本人の援助プロセス自体は、本人が解決していくように手伝っていたとしても、
その援助行為そのものが、家族自体で問題を解決するという側面に対して
入り込み過ぎてしまうんじゃないかということです。
家族のことで困っているのなら、
その問題を家族の中で話し合って取り組んでいけるように援助するほうが、
もっと「本人=家族そのもの」が問題を解決する方向に近いと思います。
つまり
「その話を本当に分かって欲しい相手は誰ですか?」
と突き放せるスタンスがあるような。
もちろん、人生に対する個人の考え方や好みが関わるところですから
必ずしも家族という単位が最優先されるところではないとは思います。
しかし、個人と他者との繋がりを視野に入れることで
より多く目の前の相手のことを理解できるようにはなるかもしれません。
そういう視野の広げ方に、もう一度目を向けるキッカケになった気がします。
なので、今、僕の部屋の中では本がジャンルごとに集まっています。
「並んでいる」と言わないのは、本棚に入っているわけではないから。
とはいえ、バラバラのタイミングで買い集めた本が色々と整理されたことで、
随分と前に買っていた本が手に届きやすい場所にやってきました。
結果として、何年も読んでいなかった本を再び手に取ることも出てきます。
特に僕が心理療法の勉強を始めたときに買った多くの本の中には
専門的な内容のものも沢山あるので、
改めて読んでみると役立つことが見つかる感じがあります。
そういう意味では、「分かりやすい」本よりも
「難しい」本のほうが、持っていて価値があるような気がしてしまいます。
内容が人間的成長に対する見方を伴っていたり、
多くの人に共通する人生のテーマを含んでいたりすると、
自分自身の経験を伴って実感できる内容が増えてくるので
単なる技術的な側面を理解するのとは違う味わいもあったりして。
勉強を始めた頃には知識として入れようとしただけの内容だった家族療法も
多くの人生と接してきてから読み直してみると実感する深みが違うようです。
そこには理解や納得とは別に、なんとも、しみじみとした悲哀や不条理、
それと同時に現実的で受容的な”あきらめ”と、根底にある楽観的な希望、
そして全てを達観して含んだ「…だが、それがいい」という感じがあります。
なんというか、著者が長年かけて追及してきた大切なものの一端を
一緒に体験させてもらっているような感じでしょうか。
読みながら
「あぁー、そうだよなぁ…」
と染み入るような本。
決して「人を感動させるような良い話をしてやろう」という部分はなく
ただセラピストとして向き合ってきた人生の量が醸し出す味わい。
そんな部分に触れられるのは、すごくありがたいことだと思いました。
家族療法の面白いところの1つは、
もちろん、そのセラピストのスタンスにも寄りますが、
「必ずしも問題解決そのものが理想的ではない」
というところじゃないかと思います。
「〜で上手くいかないんです」
「うちの子供が〜で困っているんです」
などと特定の問題があったとして、
セラピーを通じて問題を解決することが全てではありません。
僕が共鳴するのは、
その家族の人生全体を通して取り組んでいく
という部分です。
誰かに苦しみがあるなら、家族が一緒に苦しめるようになる。
そのほうが、苦しみを解決できることよりも大事な場合があります。
場合によっては、
「じゃあ、これから一緒に皆で頑張っていこう」
といって手を取り合えるような関係になることのほうが
短期的な問題よりも重要なことがある、と。
一人の人間が成長していくように
家族という単位でも成長していく。
そのために必要なのは、必ずしも問題解決ではないかもしれません。
「セラピストが問題を解決するのではなく、本人が問題を解決する」
…そんな発想は、多くのセラピストやカウンセラー、コーチが持っているかもしれません。
ですが、”家族の問題があったときにセラピストやコーチのところに相談に来る”
という事情に対して、同じように「家族自体が問題を解決する」という発想が
どれほどの援助者の中にあるのでしょうか?
家族の中で困ったことがあるときに、
その相談に来た本人の援助をしたくなることが多い気がします。
その本人の援助プロセス自体は、本人が解決していくように手伝っていたとしても、
その援助行為そのものが、家族自体で問題を解決するという側面に対して
入り込み過ぎてしまうんじゃないかということです。
家族のことで困っているのなら、
その問題を家族の中で話し合って取り組んでいけるように援助するほうが、
もっと「本人=家族そのもの」が問題を解決する方向に近いと思います。
つまり
「その話を本当に分かって欲しい相手は誰ですか?」
と突き放せるスタンスがあるような。
もちろん、人生に対する個人の考え方や好みが関わるところですから
必ずしも家族という単位が最優先されるところではないとは思います。
しかし、個人と他者との繋がりを視野に入れることで
より多く目の前の相手のことを理解できるようにはなるかもしれません。
そういう視野の広げ方に、もう一度目を向けるキッカケになった気がします。
2012年03月28日
リーダーの先導性
インターネットで人気の面白い動画です。
一人の男性が上半身裸で踊っています。
公園のようなところでしょうか。
この状態では、変わった人が一人で奇妙な踊りを踊っているだけ。
しばらくすると、一人の別の男性が参加してきます。
その男性は参加を受け入れ、一緒に踊るようになります。
すると、この参加した男性は友人を呼びます。
(実際に友人が参加したのかは定かではありません)
それで二人が踊っている状態がしばらく続くと、
もう一人が参加してきます。
これで合計三人。
もちろん、一人目のフォロワーがいなければ事は進みませんが、
重要な転機を迎えるのは、むしろ2人目のフォロワーが表れるとき。
これによって「グループ」として認められるようになります。
自由に参加できるグループがある状態。
動画の解説者が言うには、それ以降に参加してくる人たちは
最初の一人を真似するのではなく、集団に参加した人を真似るようになるんだ、と。
「皆が参加するんなら大丈夫だろう」という状態だということでしょう。
この後は劇的です。
まさに、この2人のフォロワーがターニングポイントだったと分かるほど。
すぐに二人、また三人と追加してきて、あとは我先に人が増えていきます。
最後のほうには乗り遅れてしまって、参加する前に踊りが終わってしまう人も出ますが。
もちろん、動画自体で見て取れる群集心理と呼ばれるようなものや
その光景自体のコミカルな感じも面白いとは思います。
それ以上に、このような動きが典型的に「ムーブメント」の中にあるのが意識できます。
何かが流行るとか、新商品が売れるまでの動きとか、人気店の行列のでき方とか、
そういった現象の縮図のようなものが、ここにあるように思えます。
逆に実験してみたくなりますね。
最初から三人で人の集まるところに行って、まず一人が踊り始める。
その一人が注目を集めて、大勢に認知されてきた辺りで
もう一人のメンバーが他人のフリをして参加する。
最初は少し、ぎこちなく。
徐々に息を合わせて、楽しそうにコラボレーションする。
そこへ三人目が登場。
三人のグループで踊りが成立したあたりで
他の人たちが参加するようになるのか?
グループは巨大化していくんだろうか?と。
おそらくポイントになるのは、そのムーブメントの魅力でしょう。
「楽しそう」「気になる」などの魅力が感じられて、
同時に「恥ずかしい」というストッパーがある。
その場合だと、「皆がやっている」状況がストッパーを解除してくれるはずです。
なので、「どうしよう…、行こうかな、やめようかな…」
という躊躇している段階で、ある程度の時間を引っ張る必要があると思われます。
その後で、飛び込んでいく理由を用意する、と。
つまり2人目のフォロワーに参加してもらうわけです。
そんなことをして、どうやったら確実に動きを生み出せるのか?
なんて見てみたくなるところじゃないでしょうか。
街中の実演販売などでも、こうした流れに沿って二人ぐらいのサクラが
「私、買います」、「私も買います!」なんてやったら、
あとは自動的に拍車がかかっていくことが想像できそうです。
なお、この動画自体は「リーダーシップ」の説明として解説がついていますが、
この最初に踊っていた人物をリーダーとして捉えるのは、限られた状況の話でしょう。
このケースでは、リーダーは最初からリーダーなわけではありませんから。
最初は一人なんです。
あくまでパイオニアであって、そこに追いかけてきた人がいたという構図。
最初に始めた人が先にあって、それからグループが出来上がっていくわけです。
一方、社会における大部分の組織として求められるリーダーにおいては、
先に組織が決まっていて、それからリーダーの立場が求められるという順番でしょう。
つまり、組織においてのリーダーシップが発生する状況は
この動画のような形とは違っていることのほうが多いということです。
「自ら率先して、勇気を持って行動を始めてみる」という素養は、
組織におけるリーダーシップとして最優先のものではだろうと思われます。
社会活動や運動を率いるリーダーは最初に始めた人になるのが自然なのでしょうが、
先に組織が設定されてからリーダーが決まる場合には、
この動画のようなケースとは違って、他の多くの素養が求められるでしょう。
また、この動画であれば目的が「ダンスを一緒に踊って楽しむこと」と明確ですし、
社会運動や活動においても、全員の心が一つになるほど目的を共有しやすいはずです。
それに対して、組織におけるリーダーシップは、他にも求められる目的が多々あります。
当然、それぞれの目的に応じて、リーダーに求められる素養も変わってくる。
ですから、この動画で解説しているように
「真っ先に自分で行動を始めて、周囲から異質なものとなる勇気がある」
という姿だけがリーダーに求められるというわけではないと思うんです。
それでも世間一般のリーダーのイメージは、勇気や行動力などが伴いそうです。
現実には、創業経営者が解雇されるような事態だってあるにも関わらず。
実社会で体験的に知っているリーダーの素養と
典型的なイメージとしてのリーダー像との間には
隔たりがあることが多いのかもしれません。
もしかすると、そういう典型的なリーダーとしてのカリスマを
心のどこかで求めたい人が増えているのかも。
そんなことを思ってみました。
一人の男性が上半身裸で踊っています。
公園のようなところでしょうか。
この状態では、変わった人が一人で奇妙な踊りを踊っているだけ。
しばらくすると、一人の別の男性が参加してきます。
その男性は参加を受け入れ、一緒に踊るようになります。
すると、この参加した男性は友人を呼びます。
(実際に友人が参加したのかは定かではありません)
それで二人が踊っている状態がしばらく続くと、
もう一人が参加してきます。
これで合計三人。
もちろん、一人目のフォロワーがいなければ事は進みませんが、
重要な転機を迎えるのは、むしろ2人目のフォロワーが表れるとき。
これによって「グループ」として認められるようになります。
自由に参加できるグループがある状態。
動画の解説者が言うには、それ以降に参加してくる人たちは
最初の一人を真似するのではなく、集団に参加した人を真似るようになるんだ、と。
「皆が参加するんなら大丈夫だろう」という状態だということでしょう。
この後は劇的です。
まさに、この2人のフォロワーがターニングポイントだったと分かるほど。
すぐに二人、また三人と追加してきて、あとは我先に人が増えていきます。
最後のほうには乗り遅れてしまって、参加する前に踊りが終わってしまう人も出ますが。
もちろん、動画自体で見て取れる群集心理と呼ばれるようなものや
その光景自体のコミカルな感じも面白いとは思います。
それ以上に、このような動きが典型的に「ムーブメント」の中にあるのが意識できます。
何かが流行るとか、新商品が売れるまでの動きとか、人気店の行列のでき方とか、
そういった現象の縮図のようなものが、ここにあるように思えます。
逆に実験してみたくなりますね。
最初から三人で人の集まるところに行って、まず一人が踊り始める。
その一人が注目を集めて、大勢に認知されてきた辺りで
もう一人のメンバーが他人のフリをして参加する。
最初は少し、ぎこちなく。
徐々に息を合わせて、楽しそうにコラボレーションする。
そこへ三人目が登場。
三人のグループで踊りが成立したあたりで
他の人たちが参加するようになるのか?
グループは巨大化していくんだろうか?と。
おそらくポイントになるのは、そのムーブメントの魅力でしょう。
「楽しそう」「気になる」などの魅力が感じられて、
同時に「恥ずかしい」というストッパーがある。
その場合だと、「皆がやっている」状況がストッパーを解除してくれるはずです。
なので、「どうしよう…、行こうかな、やめようかな…」
という躊躇している段階で、ある程度の時間を引っ張る必要があると思われます。
その後で、飛び込んでいく理由を用意する、と。
つまり2人目のフォロワーに参加してもらうわけです。
そんなことをして、どうやったら確実に動きを生み出せるのか?
なんて見てみたくなるところじゃないでしょうか。
街中の実演販売などでも、こうした流れに沿って二人ぐらいのサクラが
「私、買います」、「私も買います!」なんてやったら、
あとは自動的に拍車がかかっていくことが想像できそうです。
なお、この動画自体は「リーダーシップ」の説明として解説がついていますが、
この最初に踊っていた人物をリーダーとして捉えるのは、限られた状況の話でしょう。
このケースでは、リーダーは最初からリーダーなわけではありませんから。
最初は一人なんです。
あくまでパイオニアであって、そこに追いかけてきた人がいたという構図。
最初に始めた人が先にあって、それからグループが出来上がっていくわけです。
一方、社会における大部分の組織として求められるリーダーにおいては、
先に組織が決まっていて、それからリーダーの立場が求められるという順番でしょう。
つまり、組織においてのリーダーシップが発生する状況は
この動画のような形とは違っていることのほうが多いということです。
「自ら率先して、勇気を持って行動を始めてみる」という素養は、
組織におけるリーダーシップとして最優先のものではだろうと思われます。
社会活動や運動を率いるリーダーは最初に始めた人になるのが自然なのでしょうが、
先に組織が設定されてからリーダーが決まる場合には、
この動画のようなケースとは違って、他の多くの素養が求められるでしょう。
また、この動画であれば目的が「ダンスを一緒に踊って楽しむこと」と明確ですし、
社会運動や活動においても、全員の心が一つになるほど目的を共有しやすいはずです。
それに対して、組織におけるリーダーシップは、他にも求められる目的が多々あります。
当然、それぞれの目的に応じて、リーダーに求められる素養も変わってくる。
ですから、この動画で解説しているように
「真っ先に自分で行動を始めて、周囲から異質なものとなる勇気がある」
という姿だけがリーダーに求められるというわけではないと思うんです。
それでも世間一般のリーダーのイメージは、勇気や行動力などが伴いそうです。
現実には、創業経営者が解雇されるような事態だってあるにも関わらず。
実社会で体験的に知っているリーダーの素養と
典型的なイメージとしてのリーダー像との間には
隔たりがあることが多いのかもしれません。
もしかすると、そういう典型的なリーダーとしてのカリスマを
心のどこかで求めたい人が増えているのかも。
そんなことを思ってみました。
2012年03月26日
神経言語でプログラミング
これまで、このブログでは900件を超える記事を書いてきたようです。
1つ1つの長さを考えると、なかなかの文字量でしょう。
まぁ、文字の量はさておき、
1000件が見えてくると少しだけ数を意識したりします。
プロ野球選手が1000本安打を目の前にした時の意識とは違うでしょうが。
で、このブログのカテゴリでいうと
「NLP」のカテゴリの投稿数が一番多いんです。
コミュニケーションかNLPか、どちらかに関する話題が多い、と。
にもかかわらず、「NLPとは何か?」という話は一度もしたことがなかった気がします。
なので、今回はNLPの話。
NLPは「 Neuro-Linguistic Programming 」の頭文字をとったもので
日本語では「神経言語プログラミング」と訳されます。
最近は、どの入門書を見ても「NLP」としか書かれていませんから
「神経言語プログラミング」という用語を目にする機会は減った印象があります。
その単語を口にする人も少ないと思いますし。
「じゃあ、”NLP”って、何?」
と聞かれると、これがなかなか難しい。
良くなされるのは、NLPの成り立ちを語る方法。
「元々は心理療法の分析から始まっています…」という感じのものです。
そういう話はウィキペディアにも、どのNLPに関するホームページにも
出ているでしょうから、ここでは触れないことにします。
そして、もう1つ多いのがNLPの3文字に対応する概念を説明するもの。
「”N”は” Neuro ”で『神経』すなわち五感と脳からなる神経系統。
人間は五感を通して、世界を認知している。
”L”は” Linguistic ”で『言語』。
人間は、言葉とノンバーバル・メッセージからなる言語で
コミュニケーションをしている。
”P”は” Programming ”で『プログラム』。
五感を通じたインプットによって体験した内容からプログラムを作り、
そのプログラムから生まれる反応が言語となってアウトプットされる。」
…とか、そんな感じの説明が主流でしょうか。
これは欧米の主要なNLPの団体でも、同様の形でも見受けられるものです。
しかし、NLPの成り立ちは、あくまで”歴史”であって、
N・L・Pの三文字を説明するのは、中心のアイデアを解説しているのであって
「 Neuro-Linguistic Programming 」とは何かを説明はしていません。
「神経言語プログラミング」という名前がついているのですから、
その名前そのものに、もっと直接的な意味合いがあるほうが自然じゃないでしょうか。
そして、日本のNLP関連のホームページだと見逃されることもありますが、
重要なポイントとして「 Neuro-Linguistic Programming 」として
”ハイフン”が入っていることが挙げられます。
「 Neuro and Linguistic Programming 」ではないんです。
この言葉の意味を直接的に想像すると
「神経のプログラミングと言語のプログラミング」になるでしょう。
(自然な訳は「神経と言語のプログラミング」だと思いますが)
「 Neuro 」も「 Linguistic 」も形容詞ですから
「 and 」で繋がれた2つの形容詞が同じ名詞にかかる。
なので「神経と言語でプログラミング」とはチョット違う気がします。
「神経的であって、言語的でもあるプログラミング」という感じでしょう。
また「 Neurology, Linguisitics, and Programming 」でもありません。
「神経と言語とプログラミング」のように3つが並列でもないんです。
NLPは「 Neuro-Linguistic Programming 」。
「 Neuro-Linguistic 」で一単語扱いなんです。
「 neuro-linguistic 」という形容詞を想定しているわけです。
なので「神経言語のプログラミング」もしくは「神経言語学的プログラミング」でしょう。
そこから察するに、NLPとは
「”神経言語”というもので行う”プログラミング”」だ、と言えると思うんです。
つまり、NLPというコンセプトが作られた当時は
「神経言語」というものを想定して、それでプログラムを書く
という発想があったんじゃないだろうか、と。
NLPが作られた1970年代ごろでは
きっとコンピューターは最先端でカッコよかったんでしょう。
実際、NLPの中にはコンピューター用語がたくさん取り入れられています。
なので、脳をコンピューターのように捉え
(この発想は計算科学寄りの認知科学で主流ですが)、
その脳というコンピューターの使うプログラミング言語を「神経言語」としたんでしょう。
コンピューターのプログラミングに使う言語は、会話で使う自然言語ではありません。
C言語とかPerlとかJavaとかLISPとか、そういうのと同様に、
人間の脳にプログラムを書くときの言語を
「 neuro-linguistics (神経言語)」と呼ぶことにしたと考えられます。
実際、古い本をたどっていくと「神経言語」という単語が出てきますから。
そういうコンセプトを設定していたはずなんです。
しかし、NLPに関わっていた人の多くは心理療法や心理学をやっていたり
自己啓発の流れをくんでいたりしますから、
そちらの用語も入ってきやすかったことが想像できます。
結果として、「プログラムの中には価値観や信念、習慣などがある」
という説明が主流になっていったんだろうと思われます。
ただ、よくよく考えてみると「価値観」や「信念」という発想は
日常生活でさえ使われる自然言語の単語です。
人同士が会話でコミュニケーションをするときに使われる単語であって、
その単語を使って脳にプログラムを書いているわけではないはずです。
なぜなら、人間は生まれたての赤ちゃんの時から学習を始めていきますが
その頃には言語活動がまだ伴っていないのですから。
つまり、言語でインプットしたものであろうが、
五感を通じて体験的にインプットしたものであろうが、
頭の中に記述されるときには別のプログラミング言語
すなわち「神経言語」が使われていると考える。
それが「神経言語プログラミング」という言葉そのもののニュアンスだと思うんです。
残念ながら、”神経言語”そのものを明確化しようとした人が少なかったのか、
”神経言語”を用いたプログラム記述のルールまでは
実際のところ、明確に説明されていないのが現状という気がします。
現実的には、根底にある神経言語が分かっていなくても
表面的な方法として「スキル」さえ知っていれば
プログラムを書き換えて、変化を引き起こすことが可能ですから。
喩えていうと、プログラミング言語を使ってホームページを作れる専門家に対して、
ホームページビルダーのようなソフトを使ってもホームページが作れる、
といったところでしょうか。
たしかに、「ホームページを作りたいんです!」という人には
「じゃあ、このソフトを使ってやってみてください。ソフトの使い方は…」
という説明のほうが好まれるのかもしれません。
ですが、NLPが根底に含んでいる概念は、
「人間の振る舞いは、学習によって作られたプログラムによるもので
そのプログラムを理解し、プログラムを変えたり、書けるようになれば
問題解決も能力開発も、様々なことが可能になる」
というところだと思うんです。
そのためには、神経言語そのものを理解するのが重要じゃないでしょうか。
そして神経言語における単語は全て”サブモダリティ”の組み合わせで表され、
文法は”アンカー”と”チャンク”で表せるはずなんです。
そのプログラムを書き込むための方法として
”チェイニング”や”繰り返し”、”トランス”が使われる。
そのあたりの原則が分かっていると
自在に「神経言語でプログラミング」することが可能になりますから、
沢山のスキルの手順を覚えている必要なんてなくなるわけです。
目的に応じてプログラムを書けば良いだけの話ですから。
そういうスタンスのほうが、より
「神経言語プログラミング」のニュアンスに近いように思います。
1つ1つの長さを考えると、なかなかの文字量でしょう。
まぁ、文字の量はさておき、
1000件が見えてくると少しだけ数を意識したりします。
プロ野球選手が1000本安打を目の前にした時の意識とは違うでしょうが。
で、このブログのカテゴリでいうと
「NLP」のカテゴリの投稿数が一番多いんです。
コミュニケーションかNLPか、どちらかに関する話題が多い、と。
にもかかわらず、「NLPとは何か?」という話は一度もしたことがなかった気がします。
なので、今回はNLPの話。
NLPは「 Neuro-Linguistic Programming 」の頭文字をとったもので
日本語では「神経言語プログラミング」と訳されます。
最近は、どの入門書を見ても「NLP」としか書かれていませんから
「神経言語プログラミング」という用語を目にする機会は減った印象があります。
その単語を口にする人も少ないと思いますし。
「じゃあ、”NLP”って、何?」
と聞かれると、これがなかなか難しい。
良くなされるのは、NLPの成り立ちを語る方法。
「元々は心理療法の分析から始まっています…」という感じのものです。
そういう話はウィキペディアにも、どのNLPに関するホームページにも
出ているでしょうから、ここでは触れないことにします。
そして、もう1つ多いのがNLPの3文字に対応する概念を説明するもの。
「”N”は” Neuro ”で『神経』すなわち五感と脳からなる神経系統。
人間は五感を通して、世界を認知している。
”L”は” Linguistic ”で『言語』。
人間は、言葉とノンバーバル・メッセージからなる言語で
コミュニケーションをしている。
”P”は” Programming ”で『プログラム』。
五感を通じたインプットによって体験した内容からプログラムを作り、
そのプログラムから生まれる反応が言語となってアウトプットされる。」
…とか、そんな感じの説明が主流でしょうか。
これは欧米の主要なNLPの団体でも、同様の形でも見受けられるものです。
しかし、NLPの成り立ちは、あくまで”歴史”であって、
N・L・Pの三文字を説明するのは、中心のアイデアを解説しているのであって
「 Neuro-Linguistic Programming 」とは何かを説明はしていません。
「神経言語プログラミング」という名前がついているのですから、
その名前そのものに、もっと直接的な意味合いがあるほうが自然じゃないでしょうか。
そして、日本のNLP関連のホームページだと見逃されることもありますが、
重要なポイントとして「 Neuro-Linguistic Programming 」として
”ハイフン”が入っていることが挙げられます。
「 Neuro and Linguistic Programming 」ではないんです。
この言葉の意味を直接的に想像すると
「神経のプログラミングと言語のプログラミング」になるでしょう。
(自然な訳は「神経と言語のプログラミング」だと思いますが)
「 Neuro 」も「 Linguistic 」も形容詞ですから
「 and 」で繋がれた2つの形容詞が同じ名詞にかかる。
なので「神経と言語でプログラミング」とはチョット違う気がします。
「神経的であって、言語的でもあるプログラミング」という感じでしょう。
また「 Neurology, Linguisitics, and Programming 」でもありません。
「神経と言語とプログラミング」のように3つが並列でもないんです。
NLPは「 Neuro-Linguistic Programming 」。
「 Neuro-Linguistic 」で一単語扱いなんです。
「 neuro-linguistic 」という形容詞を想定しているわけです。
なので「神経言語のプログラミング」もしくは「神経言語学的プログラミング」でしょう。
そこから察するに、NLPとは
「”神経言語”というもので行う”プログラミング”」だ、と言えると思うんです。
つまり、NLPというコンセプトが作られた当時は
「神経言語」というものを想定して、それでプログラムを書く
という発想があったんじゃないだろうか、と。
NLPが作られた1970年代ごろでは
きっとコンピューターは最先端でカッコよかったんでしょう。
実際、NLPの中にはコンピューター用語がたくさん取り入れられています。
なので、脳をコンピューターのように捉え
(この発想は計算科学寄りの認知科学で主流ですが)、
その脳というコンピューターの使うプログラミング言語を「神経言語」としたんでしょう。
コンピューターのプログラミングに使う言語は、会話で使う自然言語ではありません。
C言語とかPerlとかJavaとかLISPとか、そういうのと同様に、
人間の脳にプログラムを書くときの言語を
「 neuro-linguistics (神経言語)」と呼ぶことにしたと考えられます。
実際、古い本をたどっていくと「神経言語」という単語が出てきますから。
そういうコンセプトを設定していたはずなんです。
しかし、NLPに関わっていた人の多くは心理療法や心理学をやっていたり
自己啓発の流れをくんでいたりしますから、
そちらの用語も入ってきやすかったことが想像できます。
結果として、「プログラムの中には価値観や信念、習慣などがある」
という説明が主流になっていったんだろうと思われます。
ただ、よくよく考えてみると「価値観」や「信念」という発想は
日常生活でさえ使われる自然言語の単語です。
人同士が会話でコミュニケーションをするときに使われる単語であって、
その単語を使って脳にプログラムを書いているわけではないはずです。
なぜなら、人間は生まれたての赤ちゃんの時から学習を始めていきますが
その頃には言語活動がまだ伴っていないのですから。
つまり、言語でインプットしたものであろうが、
五感を通じて体験的にインプットしたものであろうが、
頭の中に記述されるときには別のプログラミング言語
すなわち「神経言語」が使われていると考える。
それが「神経言語プログラミング」という言葉そのもののニュアンスだと思うんです。
残念ながら、”神経言語”そのものを明確化しようとした人が少なかったのか、
”神経言語”を用いたプログラム記述のルールまでは
実際のところ、明確に説明されていないのが現状という気がします。
現実的には、根底にある神経言語が分かっていなくても
表面的な方法として「スキル」さえ知っていれば
プログラムを書き換えて、変化を引き起こすことが可能ですから。
喩えていうと、プログラミング言語を使ってホームページを作れる専門家に対して、
ホームページビルダーのようなソフトを使ってもホームページが作れる、
といったところでしょうか。
たしかに、「ホームページを作りたいんです!」という人には
「じゃあ、このソフトを使ってやってみてください。ソフトの使い方は…」
という説明のほうが好まれるのかもしれません。
ですが、NLPが根底に含んでいる概念は、
「人間の振る舞いは、学習によって作られたプログラムによるもので
そのプログラムを理解し、プログラムを変えたり、書けるようになれば
問題解決も能力開発も、様々なことが可能になる」
というところだと思うんです。
そのためには、神経言語そのものを理解するのが重要じゃないでしょうか。
そして神経言語における単語は全て”サブモダリティ”の組み合わせで表され、
文法は”アンカー”と”チャンク”で表せるはずなんです。
そのプログラムを書き込むための方法として
”チェイニング”や”繰り返し”、”トランス”が使われる。
そのあたりの原則が分かっていると
自在に「神経言語でプログラミング」することが可能になりますから、
沢山のスキルの手順を覚えている必要なんてなくなるわけです。
目的に応じてプログラムを書けば良いだけの話ですから。
そういうスタンスのほうが、より
「神経言語プログラミング」のニュアンスに近いように思います。
2012年03月23日
過激な実験の解釈
心理学では有名な、かなり過激な話。
スタンフォード大で実施された「監獄の実験」です。
Zimbardo によって考案されました。
学生から参加者を募って、シミュレーションをしたという内容で
参加者は事前のテストにて「普通」と判断された学生のみ。
抽選で「監守」役と「囚人」役とに分かれて、
指示は「監守」がやってはいけない内容を決めただけだそうです。
監獄のセットを作り、その中で「監守」役と「囚人」役とに好きなように振る舞わせる。
その結果、「監守」の「囚人」に対する仕打ちがエスカレートして酷いものとなり、
予定していた期間よりも早く実験を打ち切ったそうです。
詳しい内容はウィキペディアにも出ていますが、
そのインタビューの Youtube 動画がこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=Z0jYx8nwjFQ
(ショックが大きい人もいるかもしれないのでリンクだけにしました)
この実験をもとにつくられた映画が「 es (エス)」。
実験の悲惨さを、映画化という結果が物語っている気がします。
ちなみに、全ての被験者たちはカウンセリングを受けて
特に後遺症もないとのこと。
実験の結果としては、
「状況を設定するだけで、人は、それらしい振る舞いをするようになる」
という結論のようです。
そして、どんな人であっても
「状況が設定されると、普段では許されないような行為も平気で出来てしまう」
と。
そういうところから戦場などの極限状態の人の振る舞いにも
理論を展開しようとする立場もあるようです。
確かに、監獄を舞台にしたシミュレーションは危険でしょうから
こうした結論を衝撃的なものとして受け止めておくことは大切だと思いますが、
実際に起きていたプロセスは、そんなにシンプルな結論で語れないと僕は感じます。
まず、実験に参加した人が、シミュレーションに興味を持っていた可能性があります。
募集で集まったわけですから。
「何も刑務所のことは知りません」という人はいなかったでしょう。
むしろ、積極的に応募してきたわけですから
映画やテレビ、小説などのイメージを持っていたと考えられます。
そして「普通」とテストで判断されたわけですから
刑務所にいた実体験も無い人たちだったと考えるほうが妥当でしょう。
つまり、被験者たちの演じた刑務所の中の振る舞いは実際のものとは異なり、
むしろ偏見によって誇張されたものだったのではないでしょうか。
最初の設定の段階で、「囚人」はストレスフルな対応を受けたと想像されますが、
この時点では、それほど問題視するような行動は少なかったのではないでしょうか。
「囚人」に不満が溜まり始めるところから事態がスタートしていると考えられます。
「普通の人が普段ならしないような酷い行為をできてしまう」という
実験の結論となる事態には発展していないでしょう。
何の理由も無く、状況設定の偏見だけから、いきなり酷いことはしないと思います。
ただ、そうしたストレスの大きな偏見に満ちた態度を重ねられると
「囚人」の側に不満が溜まってくると思われます。
すると感情的高まりを行動に繋げる人が出てくるはずです。
文句を言うとか、ヤツ当たりするとか。
それに対して、「監守」の中でも特に攻撃的に感情を発散しやすい人物が
自動的な反応として「不満をぶつけられたことに対する不満」を示すでしょう。
ここに交流の要素があるはずなんです。
おそらく、「囚人」の誰かが悲しそうに「もう勘弁してよ!やりすぎだって!」と言ったとして
人によっては「あぁ、そうだ。いくら実験でも酷かった。ごめんなさい。」
と罪悪感を感じて、対応を変えた人もいたんじゃないでしょうか。
ところが、「監守」の中に、そうしたタイプの不満の示し方に対して
”逆ギレ”する癖のある人が混ざっていたら、攻撃的な反応が返ります。
「囚人」のほうも攻撃されると、さらに攻撃し返す場合があるでしょう。
すると、ケンカのような応酬がエスカレートするはずです。
「囚人」が最初から不満を攻撃的に示す癖を持っていれば
感情的なやり取りは、さらにエスカレートしやすいと考えられます。
そこへ、実験として許されている権利が力を貸します。
「監守」にはパワーがあるわけです。
売り言葉に買い言葉のような感情的な応酬の中で、
圧倒的なパワー差を使う人が出てくるだろう、と。
それは例えば、父親が「うるさい!口応えするな!今日は晩飯ぬきだ!」
というような家庭で育って、そうした対応を学習していた人などは
「監守」が許されている行為を利用して「囚人」をやりこめようとする、などの場合です。
もちろん、そこでの対応もテレビや本で仕入れた偏見タップリの仕打ちになるはずです。
ここで初めて問題となる対応が生まれるんじゃないか、と思うんです。
つまり、テレビや本などから刑務所に対して強い偏見を持った被験者が
感情的な交流を重ね、パワーの行使に発展する、
…そんな流れがありそうだということです。
そして、感情的な応酬の雰囲気は、全員を巻き込んでいきます。
普段だったら攻撃的な対応にはならない人であっても、
その不満の連鎖に巻き込まれれば、不満発散の方法を見て学習することで
自らもパワーを行使しだすと想像できます。
最初は抵抗を感じながらパワーで「囚人」を抑えつけた「監守」も、
その行動によって思い通りに不満を解消できることを学習すれば
徐々に自動反応的に学習した交流の仕方をするようになるでしょう。
雰囲気の伝播や、学習のプロセスも関与していると考えられます。
「状況」と言っている中身として、
・実験初期から存在する不満要因
・「監守」に与えられたパワー行使の権利
・実情を知らない偏見を伴った対応のイメージ
などがある。
それに加えて、
・不満を感情的に発散する行為の応酬(交流)
・環境を共有することによる感情的同調
・攻撃的な仕打ちによる不満解消の方法の学習
が関係して、全員が感情を爆発させやすい状態を作っている。
そういう組み合わせがあるんじゃないかと思います。
しかも、アメリカ人は文化的に、生理反応を感情として受け止める前に
衝動的に行動へつなげる割り合いが高いように見受けられます。
カーッとなってやってしまう。
そういう傾向の高さも手伝っているかもしれません。
つまり、この実験結果には、かなり文化的な要因が大きいんじゃないかと思うわけです。
もちろん、一人が過激な対応を始めれば、
そこから連鎖的にエスカレートする可能性は、どこでも共通だと考えますが、
そのエスカレートの仕方や、連鎖が発生していくタイミングには文化差がある気がします。
しかし、そもそも刑務所に対して過激なイメージを持っていなかったら
思いつかないような仕打ちだってあるでしょう。
感情に対する処理の仕方でも、交流の起き方は違うと思われます。
場合によっては、「監守」のほうから、「囚人」を守ろうとする人も出るかもしれません。
自発的にシミュレーションへ応募した時点で、それは難しい可能性もありますが。
また、ビデオに登場するインタビューは実験から2カ月後のものですが、
登場する「監守」役にも、個人差があるように見受けられます。
一人は強く罪悪感を表し、苦しんでいるように見えますが、
別の一人は罪悪感を示さないどころか、楽しんでやっていたフシを
正当化しようとしているようにさえ見えます。
この辺で、全体を率先する人物の影響力が強く関係しているはずです。
そういうことを考えると、この実験から言えるのは
「状況は、偏見を伴ってパワーの行使の仕方に影響を与える」
「ストレスの高い環境を生み出すと、そこに関わる人物間に
不満をベースとした感情的な交流が生まれて、エスカレートする」
ということじゃないでしょうか。
偏見が小さかったり、冷静さをコントロールできるようなものがあれば
そこまでエスカレートするかどうかは不明な気がします。
少なくとも、人間同士の交流を無視して、
状況だけで人は”いかにも”な振る舞いをする
というのは、言い過ぎだと思います。
ましてや、これを人間性の善悪と関連させるのは…。
人は自分勝手なものですが、
結構、良いものだと僕は思っています。
スタンフォード大で実施された「監獄の実験」です。
Zimbardo によって考案されました。
学生から参加者を募って、シミュレーションをしたという内容で
参加者は事前のテストにて「普通」と判断された学生のみ。
抽選で「監守」役と「囚人」役とに分かれて、
指示は「監守」がやってはいけない内容を決めただけだそうです。
監獄のセットを作り、その中で「監守」役と「囚人」役とに好きなように振る舞わせる。
その結果、「監守」の「囚人」に対する仕打ちがエスカレートして酷いものとなり、
予定していた期間よりも早く実験を打ち切ったそうです。
詳しい内容はウィキペディアにも出ていますが、
そのインタビューの Youtube 動画がこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=Z0jYx8nwjFQ
(ショックが大きい人もいるかもしれないのでリンクだけにしました)
この実験をもとにつくられた映画が「 es (エス)」。
実験の悲惨さを、映画化という結果が物語っている気がします。
ちなみに、全ての被験者たちはカウンセリングを受けて
特に後遺症もないとのこと。
実験の結果としては、
「状況を設定するだけで、人は、それらしい振る舞いをするようになる」
という結論のようです。
そして、どんな人であっても
「状況が設定されると、普段では許されないような行為も平気で出来てしまう」
と。
そういうところから戦場などの極限状態の人の振る舞いにも
理論を展開しようとする立場もあるようです。
確かに、監獄を舞台にしたシミュレーションは危険でしょうから
こうした結論を衝撃的なものとして受け止めておくことは大切だと思いますが、
実際に起きていたプロセスは、そんなにシンプルな結論で語れないと僕は感じます。
まず、実験に参加した人が、シミュレーションに興味を持っていた可能性があります。
募集で集まったわけですから。
「何も刑務所のことは知りません」という人はいなかったでしょう。
むしろ、積極的に応募してきたわけですから
映画やテレビ、小説などのイメージを持っていたと考えられます。
そして「普通」とテストで判断されたわけですから
刑務所にいた実体験も無い人たちだったと考えるほうが妥当でしょう。
つまり、被験者たちの演じた刑務所の中の振る舞いは実際のものとは異なり、
むしろ偏見によって誇張されたものだったのではないでしょうか。
最初の設定の段階で、「囚人」はストレスフルな対応を受けたと想像されますが、
この時点では、それほど問題視するような行動は少なかったのではないでしょうか。
「囚人」に不満が溜まり始めるところから事態がスタートしていると考えられます。
「普通の人が普段ならしないような酷い行為をできてしまう」という
実験の結論となる事態には発展していないでしょう。
何の理由も無く、状況設定の偏見だけから、いきなり酷いことはしないと思います。
ただ、そうしたストレスの大きな偏見に満ちた態度を重ねられると
「囚人」の側に不満が溜まってくると思われます。
すると感情的高まりを行動に繋げる人が出てくるはずです。
文句を言うとか、ヤツ当たりするとか。
それに対して、「監守」の中でも特に攻撃的に感情を発散しやすい人物が
自動的な反応として「不満をぶつけられたことに対する不満」を示すでしょう。
ここに交流の要素があるはずなんです。
おそらく、「囚人」の誰かが悲しそうに「もう勘弁してよ!やりすぎだって!」と言ったとして
人によっては「あぁ、そうだ。いくら実験でも酷かった。ごめんなさい。」
と罪悪感を感じて、対応を変えた人もいたんじゃないでしょうか。
ところが、「監守」の中に、そうしたタイプの不満の示し方に対して
”逆ギレ”する癖のある人が混ざっていたら、攻撃的な反応が返ります。
「囚人」のほうも攻撃されると、さらに攻撃し返す場合があるでしょう。
すると、ケンカのような応酬がエスカレートするはずです。
「囚人」が最初から不満を攻撃的に示す癖を持っていれば
感情的なやり取りは、さらにエスカレートしやすいと考えられます。
そこへ、実験として許されている権利が力を貸します。
「監守」にはパワーがあるわけです。
売り言葉に買い言葉のような感情的な応酬の中で、
圧倒的なパワー差を使う人が出てくるだろう、と。
それは例えば、父親が「うるさい!口応えするな!今日は晩飯ぬきだ!」
というような家庭で育って、そうした対応を学習していた人などは
「監守」が許されている行為を利用して「囚人」をやりこめようとする、などの場合です。
もちろん、そこでの対応もテレビや本で仕入れた偏見タップリの仕打ちになるはずです。
ここで初めて問題となる対応が生まれるんじゃないか、と思うんです。
つまり、テレビや本などから刑務所に対して強い偏見を持った被験者が
感情的な交流を重ね、パワーの行使に発展する、
…そんな流れがありそうだということです。
そして、感情的な応酬の雰囲気は、全員を巻き込んでいきます。
普段だったら攻撃的な対応にはならない人であっても、
その不満の連鎖に巻き込まれれば、不満発散の方法を見て学習することで
自らもパワーを行使しだすと想像できます。
最初は抵抗を感じながらパワーで「囚人」を抑えつけた「監守」も、
その行動によって思い通りに不満を解消できることを学習すれば
徐々に自動反応的に学習した交流の仕方をするようになるでしょう。
雰囲気の伝播や、学習のプロセスも関与していると考えられます。
「状況」と言っている中身として、
・実験初期から存在する不満要因
・「監守」に与えられたパワー行使の権利
・実情を知らない偏見を伴った対応のイメージ
などがある。
それに加えて、
・不満を感情的に発散する行為の応酬(交流)
・環境を共有することによる感情的同調
・攻撃的な仕打ちによる不満解消の方法の学習
が関係して、全員が感情を爆発させやすい状態を作っている。
そういう組み合わせがあるんじゃないかと思います。
しかも、アメリカ人は文化的に、生理反応を感情として受け止める前に
衝動的に行動へつなげる割り合いが高いように見受けられます。
カーッとなってやってしまう。
そういう傾向の高さも手伝っているかもしれません。
つまり、この実験結果には、かなり文化的な要因が大きいんじゃないかと思うわけです。
もちろん、一人が過激な対応を始めれば、
そこから連鎖的にエスカレートする可能性は、どこでも共通だと考えますが、
そのエスカレートの仕方や、連鎖が発生していくタイミングには文化差がある気がします。
しかし、そもそも刑務所に対して過激なイメージを持っていなかったら
思いつかないような仕打ちだってあるでしょう。
感情に対する処理の仕方でも、交流の起き方は違うと思われます。
場合によっては、「監守」のほうから、「囚人」を守ろうとする人も出るかもしれません。
自発的にシミュレーションへ応募した時点で、それは難しい可能性もありますが。
また、ビデオに登場するインタビューは実験から2カ月後のものですが、
登場する「監守」役にも、個人差があるように見受けられます。
一人は強く罪悪感を表し、苦しんでいるように見えますが、
別の一人は罪悪感を示さないどころか、楽しんでやっていたフシを
正当化しようとしているようにさえ見えます。
この辺で、全体を率先する人物の影響力が強く関係しているはずです。
そういうことを考えると、この実験から言えるのは
「状況は、偏見を伴ってパワーの行使の仕方に影響を与える」
「ストレスの高い環境を生み出すと、そこに関わる人物間に
不満をベースとした感情的な交流が生まれて、エスカレートする」
ということじゃないでしょうか。
偏見が小さかったり、冷静さをコントロールできるようなものがあれば
そこまでエスカレートするかどうかは不明な気がします。
少なくとも、人間同士の交流を無視して、
状況だけで人は”いかにも”な振る舞いをする
というのは、言い過ぎだと思います。
ましてや、これを人間性の善悪と関連させるのは…。
人は自分勝手なものですが、
結構、良いものだと僕は思っています。
2012年03月21日
ノンアルコール飲料
ずっと気になっていたものを、やっと発見しました。
早速購入して試飲。
ノンアルコール焼酎です。
「カロリーゼロ、糖質ゼロ」って当たり前ですね。
焼酎は蒸留酒ですから、大部分はエタノール(アルコール)と水です。
蒸留の過程で、アルコールより沸点の低い香り成分も一緒に蒸発して
アルコールと一緒に濃縮されて液体に戻るから
原材料の香りが混ざったアルコールの原液が得られるわけです。
で、それに水を足して濃度調整をしたものが焼酎と。
もともと焼酎が、糖質由来のカロリーがゼロのはずなんです。
…実際にはエタノールがカロリーとして計算されると思いますが。
そんな焼酎と同じようなものをノンアルコールで作ろうとすれば
当然、ほとんど糖分を入れないでしょうし、糖質も入りません。
つまり、水に香料を足しただけのような物になると想像するのが妥当なんです。
実際はというと。
想像通りです。
芋の香りがする、ほんのり甘く、うっすら苦い水。
アルコール成分がないわけですから当たり前です。
もうちょっと辛味を出すようにすると雰囲気が近づくんじゃないかとも思いますが
努力したと予想されるわりに、焼酎だと感じる人は滅多にいない気がします。
一体、どういう人が飲むと想像してのことなのか疑問が残ります。
僕がインタビューした結果では、
焼酎の好きな人に多い意識の向け方は
「喉元から胸の中を通るカーッと熱い感覚を楽しむ」
という傾向があるようです。
とくに「お湯割り」を好む場合は、熱い飲み物全般も好きな傾向がありそうでした。
その意味でいうと、ノンアルコール焼酎には大事な要素が欠けているかもしれません。
もしかすると、お湯割りにすると雰囲気が出るのかも。
まぁ、いずれにせよ、僕は体質的にノンアルコール派なので
完全に興味本位で買ってみただけの話なんですが。
早速購入して試飲。
ノンアルコール焼酎です。
「カロリーゼロ、糖質ゼロ」って当たり前ですね。
焼酎は蒸留酒ですから、大部分はエタノール(アルコール)と水です。
蒸留の過程で、アルコールより沸点の低い香り成分も一緒に蒸発して
アルコールと一緒に濃縮されて液体に戻るから
原材料の香りが混ざったアルコールの原液が得られるわけです。
で、それに水を足して濃度調整をしたものが焼酎と。
もともと焼酎が、糖質由来のカロリーがゼロのはずなんです。
…実際にはエタノールがカロリーとして計算されると思いますが。
そんな焼酎と同じようなものをノンアルコールで作ろうとすれば
当然、ほとんど糖分を入れないでしょうし、糖質も入りません。
つまり、水に香料を足しただけのような物になると想像するのが妥当なんです。
実際はというと。
想像通りです。
芋の香りがする、ほんのり甘く、うっすら苦い水。
アルコール成分がないわけですから当たり前です。
もうちょっと辛味を出すようにすると雰囲気が近づくんじゃないかとも思いますが
努力したと予想されるわりに、焼酎だと感じる人は滅多にいない気がします。
一体、どういう人が飲むと想像してのことなのか疑問が残ります。
僕がインタビューした結果では、
焼酎の好きな人に多い意識の向け方は
「喉元から胸の中を通るカーッと熱い感覚を楽しむ」
という傾向があるようです。
とくに「お湯割り」を好む場合は、熱い飲み物全般も好きな傾向がありそうでした。
その意味でいうと、ノンアルコール焼酎には大事な要素が欠けているかもしれません。
もしかすると、お湯割りにすると雰囲気が出るのかも。
まぁ、いずれにせよ、僕は体質的にノンアルコール派なので
完全に興味本位で買ってみただけの話なんですが。
2012年03月19日
学校で学ぶもの
ビジネスの現場で活躍している人の中にも
コンサルタントとしてビジネスのお手伝いをしている人の中にも、
大学院でMBAを取ることなく、効果的な対応ができている人がいます。
場合によっては、MBAで習うような一般論ではなく
そのビジネス現場特有の問題などに対しては、MBAで勉強した人よりも
遥かに的確な判断ができる人もいることでしょう。
また、大企業のビジネスと、中小企業のビジネスでは重視するところも違うでしょうから
MBAで学んだことが役に立つ場合も、そうでない場合もあるかもしれません。
ちなみに、ピーター・スキルマンという人がチームビルディングの研究として
『マシュマロ・チャレンジ』という実習を使った結果では、
この実習に対してMBAの学生は成績が悪かったそうです。
『マシュマロ・チャレンジ』は、
・20本のスパゲティの乾麺
・90cmのテープ
・90cmの紐
・1つのマシュマロ
を使ったゲーム。
この3つだけを使って、できるだけ高いタワーを作るのが課題です。
ただし、「頂上にはマシュマロが乗っている」必要があって、
何十秒間か自立していなければいけないという条件があります。
制限時間内であれば何回でも挑戦できます。
多くの人は、まずチーム内で課題の確認や主導権争いなどをして、
それから作戦を練り、計画を立てるそうです。
それから大部分の時間を、
「スパゲティとテープだけで、どれだけ高くできるか」
の検討に費やす。
で、最後の少ない時間でマシュマロを乗せようとする、と。
その結果、大体がマシュマロの重みでバランスを崩し、崩壊してしまうんだとか。
こういう風に計画優先で進め、最後の場面で失敗してしまうのが
ビジネススクールの生徒だったというのが彼の話です。
一方、一番良い成績を残すのが幼稚園児。
ビジネススクールの生徒が最適な計画を立てるようトレーニングされているのに対し、
幼稚園児は、とにかく試していく。
マシュマロを持って、マシュマロを乗せた構造物を立てることを繰り返します。
思考錯誤と実際の試作品の数が多いわけです。
「とにかくやってみてから考える」というスタンスが
役に立つケースも沢山あるということです。
中小企業のマーケティングなどでは
こうした試行錯誤の繰り返しを重視する手法がありますが、
このあたりは、おそらくMBA的な発想とは違うんじゃないかという気がします。
気軽にやってみて試しながら…、なんてできない場面では
的確に状況分析をして、計画を立てていくという手法のほうが役立つでしょう。
言い換えると、一般論で学ぶ方法が役に立つ時もあれば、
個別のケースに対しては役に立たない場合もある、という話です。
学校で学ぶビジネスは、どんなにケーススタディをやっても
それは一般論としての理論を学ぶための具体例にすぎず、
抽象度の高いパターンを学習するのが目的になっていると推測されます。
同じように、心理学として学校で勉強することも
人間の振る舞いを一般的なパターンとして知るためのものなんでしょう。
実社会で様々な人間関係を積んでいけば経験的に掴めてくる法則。
それを一般的な傾向として学んでおこう、というのが心理学のように思います。
まさに、大学を卒業して、そのままビジネススクールに行ってMBAを取り、
それから就職してビジネスの現場に踏み出していくような手順です。
実際の現場としての人間関係で、多くの人の振る舞いと向き合い、
そこと濃密に関わってくれば、経験的に掴めてくるパターンがあるわけです。
それを学校にいる間に知識として仕入れることができるのが
心理学の1つの大きなメリットでしょう。
もちろん、MBAを取っていなくても、ビジネスマンや
コンサルタントとして活躍する人がいるのと同様に、
心理学を大学で勉強しなくても、人の心や振る舞いを的確に理解できる人もいるはずです。
その一方で、MBAを勉強したからビジネスマンやコンサルタントとして活躍できる人もいて、
同様に、心理学を勉強したからこそ、人の行動や気持ちを理解して
関われるようになった人も沢山いることでしょう。
まぁ、ビジネススクールで学ぶ知識と、営業成績が直結しないのと同じように、
心理学で学んだことと、コミュニケーション能力も直結しないわけですが。
学校で学べることは、一人の人生では体験できない情報量を
凝縮した知識に変換されたものじゃないかと思います。
実際の企業では何十年もかけて出世しながら経験を積んで学んでいく経営の方法を
多くの先人がパターンとして効率化した知識の形で学べるのがビジネススクール。
実社会のコミュニケーションを通じて、長年かけて人の心や振る舞いを理解するものを
研究結果から一般化されたパターンとして学べるのが心理学。
社会に出てからでもビジネススクールに入ってMBAを取る人がいるのは、
大きな会社の中で過ごした10年ぐらいでは、ビジネスの全体像には迫らないからでしょう。
ビジネスの実体験もある人が理論を学ぶのは面白いだろうとも想像します。
同じく、社会に出てから心理学を勉強し直すとしたら
自分の知らない分野をやるのが良いんだろうと思いました。
今まで接したことのなかった人を研究対象としたような分野。
それであれば、僕も楽しめるような気がします。
ただ、全体的にいえば、僕は順番が違うんだろうなぁとは思いますが。
それと、もう1つ気になるのが
ビジネススクールは最終的にビジネスへの応用されることが前提になっているのに対して、
心理学は必ずしも役立てようとしていないところです。
自分が経験したことのない分野、出会ったことのない人たち…
そこに対する研究を、実社会に役立てようとしている発想が感じられれば、
僕はその心理学の分野を楽しめるんじゃないかと期待しています。
コンサルタントとしてビジネスのお手伝いをしている人の中にも、
大学院でMBAを取ることなく、効果的な対応ができている人がいます。
場合によっては、MBAで習うような一般論ではなく
そのビジネス現場特有の問題などに対しては、MBAで勉強した人よりも
遥かに的確な判断ができる人もいることでしょう。
また、大企業のビジネスと、中小企業のビジネスでは重視するところも違うでしょうから
MBAで学んだことが役に立つ場合も、そうでない場合もあるかもしれません。
ちなみに、ピーター・スキルマンという人がチームビルディングの研究として
『マシュマロ・チャレンジ』という実習を使った結果では、
この実習に対してMBAの学生は成績が悪かったそうです。
『マシュマロ・チャレンジ』は、
・20本のスパゲティの乾麺
・90cmのテープ
・90cmの紐
・1つのマシュマロ
を使ったゲーム。
この3つだけを使って、できるだけ高いタワーを作るのが課題です。
ただし、「頂上にはマシュマロが乗っている」必要があって、
何十秒間か自立していなければいけないという条件があります。
制限時間内であれば何回でも挑戦できます。
多くの人は、まずチーム内で課題の確認や主導権争いなどをして、
それから作戦を練り、計画を立てるそうです。
それから大部分の時間を、
「スパゲティとテープだけで、どれだけ高くできるか」
の検討に費やす。
で、最後の少ない時間でマシュマロを乗せようとする、と。
その結果、大体がマシュマロの重みでバランスを崩し、崩壊してしまうんだとか。
こういう風に計画優先で進め、最後の場面で失敗してしまうのが
ビジネススクールの生徒だったというのが彼の話です。
一方、一番良い成績を残すのが幼稚園児。
ビジネススクールの生徒が最適な計画を立てるようトレーニングされているのに対し、
幼稚園児は、とにかく試していく。
マシュマロを持って、マシュマロを乗せた構造物を立てることを繰り返します。
思考錯誤と実際の試作品の数が多いわけです。
「とにかくやってみてから考える」というスタンスが
役に立つケースも沢山あるということです。
中小企業のマーケティングなどでは
こうした試行錯誤の繰り返しを重視する手法がありますが、
このあたりは、おそらくMBA的な発想とは違うんじゃないかという気がします。
気軽にやってみて試しながら…、なんてできない場面では
的確に状況分析をして、計画を立てていくという手法のほうが役立つでしょう。
言い換えると、一般論で学ぶ方法が役に立つ時もあれば、
個別のケースに対しては役に立たない場合もある、という話です。
学校で学ぶビジネスは、どんなにケーススタディをやっても
それは一般論としての理論を学ぶための具体例にすぎず、
抽象度の高いパターンを学習するのが目的になっていると推測されます。
同じように、心理学として学校で勉強することも
人間の振る舞いを一般的なパターンとして知るためのものなんでしょう。
実社会で様々な人間関係を積んでいけば経験的に掴めてくる法則。
それを一般的な傾向として学んでおこう、というのが心理学のように思います。
まさに、大学を卒業して、そのままビジネススクールに行ってMBAを取り、
それから就職してビジネスの現場に踏み出していくような手順です。
実際の現場としての人間関係で、多くの人の振る舞いと向き合い、
そこと濃密に関わってくれば、経験的に掴めてくるパターンがあるわけです。
それを学校にいる間に知識として仕入れることができるのが
心理学の1つの大きなメリットでしょう。
もちろん、MBAを取っていなくても、ビジネスマンや
コンサルタントとして活躍する人がいるのと同様に、
心理学を大学で勉強しなくても、人の心や振る舞いを的確に理解できる人もいるはずです。
その一方で、MBAを勉強したからビジネスマンやコンサルタントとして活躍できる人もいて、
同様に、心理学を勉強したからこそ、人の行動や気持ちを理解して
関われるようになった人も沢山いることでしょう。
まぁ、ビジネススクールで学ぶ知識と、営業成績が直結しないのと同じように、
心理学で学んだことと、コミュニケーション能力も直結しないわけですが。
学校で学べることは、一人の人生では体験できない情報量を
凝縮した知識に変換されたものじゃないかと思います。
実際の企業では何十年もかけて出世しながら経験を積んで学んでいく経営の方法を
多くの先人がパターンとして効率化した知識の形で学べるのがビジネススクール。
実社会のコミュニケーションを通じて、長年かけて人の心や振る舞いを理解するものを
研究結果から一般化されたパターンとして学べるのが心理学。
社会に出てからでもビジネススクールに入ってMBAを取る人がいるのは、
大きな会社の中で過ごした10年ぐらいでは、ビジネスの全体像には迫らないからでしょう。
ビジネスの実体験もある人が理論を学ぶのは面白いだろうとも想像します。
同じく、社会に出てから心理学を勉強し直すとしたら
自分の知らない分野をやるのが良いんだろうと思いました。
今まで接したことのなかった人を研究対象としたような分野。
それであれば、僕も楽しめるような気がします。
ただ、全体的にいえば、僕は順番が違うんだろうなぁとは思いますが。
それと、もう1つ気になるのが
ビジネススクールは最終的にビジネスへの応用されることが前提になっているのに対して、
心理学は必ずしも役立てようとしていないところです。
自分が経験したことのない分野、出会ったことのない人たち…
そこに対する研究を、実社会に役立てようとしている発想が感じられれば、
僕はその心理学の分野を楽しめるんじゃないかと期待しています。
2012年03月17日
初対面で人を判断する
最近、面接というかオーディションというか、
そういった人材選抜の作業の仕事をしました。
とはいえ、僕の一存で、僕が必要とする人材を選ぶ作業ではなく、
あるプロジェクトのために求められる人を選抜するプロセスに携わった
といったほうがいいかもしれません。
率直な感想として、面白いものでした。
こういう作業を手伝う仕事も良いかなぁと思うぐらい。
かなり、お役にたてる気がします。
今回は自分の中に選抜の意図が含まれていましたから判断がしやすいですが、
どこかの組織を手伝うということになると、方法が少し変わると思いました。
何より、事前打ち合わせで、その集団の求める人材像を明確化する必要がありますし。
場合によっては、家族療法的な視点で組織を把握しながらカウンセリングをして、
必要に応じてコンサルティングの要素も入れながら人材像を決定、
それから人材採用のプロセスに進むような形になるでしょう。
まぁ、それはさておき、やりながら自分のしていることに気づいたのは
かなり色々な技術を同時に使い分けていたことでした。
かなり膨大な情報を処理する感じです。
特に今回は、専門性の高い人材に協力を依頼しようという趣旨でしたから
その専門技術を判別するところが中心ではあります。
一方で、人間関係として見ていく部分もあり
技術面以外の特性にも注目するところが多々ありました。
実際の仕事の場面で、どういった関係性が作られるか。
実際の仕事に対して、どういった取り組み方が予測されるか。
とりわけ実際の場面で想定される困難な状況に対する反応を予測するのは重要でしょう。
…というよりも、自分がそこを知らず知らずのうちに重視していたのに気づいたので
リスクマネジメントの観点からの重要性は見逃せないと思ったんですが。
最も優先したい、必要としている能力に目を向けるのと同時に、
最も避けたい事態を招く可能性がないかどうかに目を向けるのも
同じぐらい重要なことだろうと考えられます。
プライド、素直さ、自信、柔軟性、粘り強さ。
注目していた部分を言語化すると、このぐらいの要素でしょうか。
ただ、僕の場合、「人材を選ぶ」作業をするときに邪魔になるものもあります。
それは一言でいうと「その人の人生を考えてしまう」というところです。
持ち味としての向き不向き。
これまでの経緯と、これから先の展開。
それほど強く感情移入することはありませんが、
せっかくだから応援したいぐらいの気持ちにはなります。
厳しく言えば、この専門性で将来も活躍していく姿まではイメージできないものの、
この方向に希望を持って頑張ってきたのであれば、この先も苦節を繰り返す前に
ここで少しぐらい報われておいても良いんじゃないだろうか…
なんていう余計なお世話も沸いてしまいます。
逆に、この人は放っておいても、この道でいずれ活躍していくだろうから
今回は別の人にチャンスが回るように我慢してもらうか…と思うことも。
同時に、選抜の作業で悔しい思いをする人が沢山いることを想像するのも
実は少しやりにくいところではあります。
こちらの都合でドライに選ぶという立場にはなりきれません。
一日かけて30人弱とのオーディションでしたが
今もまだ、ほぼ全員の顔と特徴を思い出せます。
今回の結果が、その人にとってどんな体験となり、
どういう意味を持ち、どう今後に繋がっていくのかと思い浮かんでしまったものが
まだまだ胸の中から離れていないようです。
せめてもの想いとして、今回選ぶことにならなかった人たちに
それぞれ”色々な道で自分なりの”幸せを味わってもらいたいと願うばかりです。
こんな感じ方をしていては、人材採用には向かないのかもしれませんが…。
そういった人材選抜の作業の仕事をしました。
とはいえ、僕の一存で、僕が必要とする人材を選ぶ作業ではなく、
あるプロジェクトのために求められる人を選抜するプロセスに携わった
といったほうがいいかもしれません。
率直な感想として、面白いものでした。
こういう作業を手伝う仕事も良いかなぁと思うぐらい。
かなり、お役にたてる気がします。
今回は自分の中に選抜の意図が含まれていましたから判断がしやすいですが、
どこかの組織を手伝うということになると、方法が少し変わると思いました。
何より、事前打ち合わせで、その集団の求める人材像を明確化する必要がありますし。
場合によっては、家族療法的な視点で組織を把握しながらカウンセリングをして、
必要に応じてコンサルティングの要素も入れながら人材像を決定、
それから人材採用のプロセスに進むような形になるでしょう。
まぁ、それはさておき、やりながら自分のしていることに気づいたのは
かなり色々な技術を同時に使い分けていたことでした。
かなり膨大な情報を処理する感じです。
特に今回は、専門性の高い人材に協力を依頼しようという趣旨でしたから
その専門技術を判別するところが中心ではあります。
一方で、人間関係として見ていく部分もあり
技術面以外の特性にも注目するところが多々ありました。
実際の仕事の場面で、どういった関係性が作られるか。
実際の仕事に対して、どういった取り組み方が予測されるか。
とりわけ実際の場面で想定される困難な状況に対する反応を予測するのは重要でしょう。
…というよりも、自分がそこを知らず知らずのうちに重視していたのに気づいたので
リスクマネジメントの観点からの重要性は見逃せないと思ったんですが。
最も優先したい、必要としている能力に目を向けるのと同時に、
最も避けたい事態を招く可能性がないかどうかに目を向けるのも
同じぐらい重要なことだろうと考えられます。
プライド、素直さ、自信、柔軟性、粘り強さ。
注目していた部分を言語化すると、このぐらいの要素でしょうか。
ただ、僕の場合、「人材を選ぶ」作業をするときに邪魔になるものもあります。
それは一言でいうと「その人の人生を考えてしまう」というところです。
持ち味としての向き不向き。
これまでの経緯と、これから先の展開。
それほど強く感情移入することはありませんが、
せっかくだから応援したいぐらいの気持ちにはなります。
厳しく言えば、この専門性で将来も活躍していく姿まではイメージできないものの、
この方向に希望を持って頑張ってきたのであれば、この先も苦節を繰り返す前に
ここで少しぐらい報われておいても良いんじゃないだろうか…
なんていう余計なお世話も沸いてしまいます。
逆に、この人は放っておいても、この道でいずれ活躍していくだろうから
今回は別の人にチャンスが回るように我慢してもらうか…と思うことも。
同時に、選抜の作業で悔しい思いをする人が沢山いることを想像するのも
実は少しやりにくいところではあります。
こちらの都合でドライに選ぶという立場にはなりきれません。
一日かけて30人弱とのオーディションでしたが
今もまだ、ほぼ全員の顔と特徴を思い出せます。
今回の結果が、その人にとってどんな体験となり、
どういう意味を持ち、どう今後に繋がっていくのかと思い浮かんでしまったものが
まだまだ胸の中から離れていないようです。
せめてもの想いとして、今回選ぶことにならなかった人たちに
それぞれ”色々な道で自分なりの”幸せを味わってもらいたいと願うばかりです。
こんな感じ方をしていては、人材採用には向かないのかもしれませんが…。
2012年03月15日
遺伝と進化の話
進化に対しては、分子生物学的に見ると
「有利な突然変異は存在しない」
という『分子進化の中立説』が主流になりつつあるようです。
この説を提唱したのは日本人の木村資生氏。
ダーウィン的な考え方をすると
生存に有利な進化をしたものが残ってくることになりますが、
遺伝子レベルで見ると進化とは、もっと中立なものだという考え方です。
例えば、人間がビタミンを必要とするのは、
それが全ての生物にとって必須な成分なのに
人間は体内でビタミンを作り出せなくなっているからです。
他の生物は作れる。
だから、わざわざ食物から取らなくても生存できる。
人間は自分で作れないから、必須な栄養素として摂取しないと生きられないわけです。
その意味では、人間にとってのビタミンと猫にとってのビタミンは違うんです。
人間はビタミンを作れない遺伝子の変異を持っていると言えます。
しかし、その変異が起きたときにも、食物から十分な量のビタミンを取ることができた。
それで、ビタミンを作れなくなる突然変異を持っていても生き残ることができた、
という風に説明ができます。
つまり、環境要因が不利に働かない限り、どんな遺伝子の変異も問題なく起こり得て、
それが沢山蓄積しているのが、今、地上にいる生物だと考える、ということです。
生存に有利な突然変異が起きて進化が進むわけではなく、
全ての変異は中立に、意味などなく、たまたま起こっていて、
大部分は「突然変異が起きても問題なく生存できたから進化の過程で残ってきた」
と考えるのが最近の主流だ、と。
もちろん、一部の遺伝子の突然変異は、たまたまその環境で有利に働くこともあって、
例えば、その変異のおかげで伝染病に感染しにくいとかがあれば
大部分の人が、その変異を子孫に残していくことになります。
で、このように進化を分子レベルで考えようとまではしない人たちが
進化というものを「有利なものが生き残る」という漠然としたアイデアで捉えて、
拡大解釈なんじゃないか?と思うほどの理論を展開する場合があります。
例えば、「人間には基本となる5つの性格要素がある」とする考え方を
「その要素を持っていると生存競争に有利だったから」とサポートしようとする、とかです。
1つの要素を挙げると、「協調性」は、群れの中で上手くやっていくために必要な能力として
それを持っているほうが有利でいられたために、その性格が残ってきた、と言うんです。
協調性に関する遺伝子はあるでしょうが、単独であるとは考えにくいので
そんなにシンプルに生存競争をベースには考えられないでしょう。
それに協調性が高い人もいれば、低い人もいるというバリエーションがあるのも
本当に有利で生き残ってきたのだとしたら、説明ができなくなってしまいます。
その説を証明する方法があるとしたら、
1万年前の人類の平均的な協調性のレベルと、
今の人類の平均的な協調性のレベルを比べて、
今のほうが協調性が上がっている、と示すぐらいなものです。
…やるのは限りなく難しいと思いますが。
こうした説に全体として感じられる印象は
「進化の目的に沿っているから」
という発想を持っているところでしょう。
「進化のためには、このほうが有利だから」と考えがちな気がします。
僕は分子レベルから考える傾向があるので、そういう発想を受け入れ難いようです。
ちょっと変わった話として、臭いに対する研究があります。
好意を感じる相手には、その匂いも好意的に判断する。
それを示すために、男性が何日間か着たTシャツをビニール袋に入れて
その匂いを女性の被験者に評価させるような実験があります。
で、実際の評価と比較をしてみる、と。
この結果を
「遺伝子的に相性のいい人は、良い匂いに感じる」
と説明する。
僕は逆じゃないかと思うんです。
「遺伝子的に良い匂いに感じる相手がいて、だから一緒にいても不快じゃない」
1つの好みの判断材料として、匂いの好みが遺伝子的に決まっているというだけ。
遺伝子的に相性が良いとまで解釈を広げるのは過激じゃないかと思います。
そこから、さらに発展して、
「同じ遺伝子を持っていると嫌な臭いとして感じる」
という見方をする場合もあるようです。
だから娘は父親の匂いを嫌うんだ、と。
もう、僕には違和感が沸きまくりです。
匂いの元を作る遺伝子と、匂いを感じる器官を作る遺伝子は別です。
仮に娘が父親と近い遺伝子を持っていることが関係しているなら
娘は自分の匂いだって嫌でしょうし、父親も自分の匂いが嫌でしょう。
しかも、母親は、父親の匂いを好意的に捉えていたはずじゃなかったんですか?
母親は相手の男性の匂いを、良い匂いに感じるという話はどこに行ったのか?
母親の遺伝子だって、一部を娘が引き継ぐわけです。
それだったら娘も父親の匂いを好意的に感じても良いでしょう。
人は自分の匂いに鈍感ですから、仮に父親が自分の匂いを感じないとしたら、
・母親は父親(夫)の匂いが好き
・父親は父親(自分)の匂いを感じない
・娘は父親の匂いが嫌い
というところから、大袈裟にいえば
母:好き + 父:感じない → 娘:嫌い
なんて奇妙な変化が起きていることになってしまいます。
実際は、もっと複雑なことを考えないといけませんが
しっかりと遺伝子的に説明しようとしても難しい話なんじゃないかと感じます。
相性を考える上で、匂いは非常に重要な要素だと思いますが、
それと進化を結びつけて考えるのは飛躍し過ぎの気がするんです。
遺伝子は、相性に大きな影響を与えている可能性があります。
でも、それが人類全体の進化に有利だからかどうかは分かりません。
むしろ、もっとランダムなものじゃないかと僕は考えています。
どうやら僕の中には
「それと、これとは、別」
を違和感として感じ取る傾向が強くあるようです。
その傾向があるのは進化に有利だったから?
多分たまたまでしょう。
「有利な突然変異は存在しない」
という『分子進化の中立説』が主流になりつつあるようです。
この説を提唱したのは日本人の木村資生氏。
ダーウィン的な考え方をすると
生存に有利な進化をしたものが残ってくることになりますが、
遺伝子レベルで見ると進化とは、もっと中立なものだという考え方です。
例えば、人間がビタミンを必要とするのは、
それが全ての生物にとって必須な成分なのに
人間は体内でビタミンを作り出せなくなっているからです。
他の生物は作れる。
だから、わざわざ食物から取らなくても生存できる。
人間は自分で作れないから、必須な栄養素として摂取しないと生きられないわけです。
その意味では、人間にとってのビタミンと猫にとってのビタミンは違うんです。
人間はビタミンを作れない遺伝子の変異を持っていると言えます。
しかし、その変異が起きたときにも、食物から十分な量のビタミンを取ることができた。
それで、ビタミンを作れなくなる突然変異を持っていても生き残ることができた、
という風に説明ができます。
つまり、環境要因が不利に働かない限り、どんな遺伝子の変異も問題なく起こり得て、
それが沢山蓄積しているのが、今、地上にいる生物だと考える、ということです。
生存に有利な突然変異が起きて進化が進むわけではなく、
全ての変異は中立に、意味などなく、たまたま起こっていて、
大部分は「突然変異が起きても問題なく生存できたから進化の過程で残ってきた」
と考えるのが最近の主流だ、と。
もちろん、一部の遺伝子の突然変異は、たまたまその環境で有利に働くこともあって、
例えば、その変異のおかげで伝染病に感染しにくいとかがあれば
大部分の人が、その変異を子孫に残していくことになります。
で、このように進化を分子レベルで考えようとまではしない人たちが
進化というものを「有利なものが生き残る」という漠然としたアイデアで捉えて、
拡大解釈なんじゃないか?と思うほどの理論を展開する場合があります。
例えば、「人間には基本となる5つの性格要素がある」とする考え方を
「その要素を持っていると生存競争に有利だったから」とサポートしようとする、とかです。
1つの要素を挙げると、「協調性」は、群れの中で上手くやっていくために必要な能力として
それを持っているほうが有利でいられたために、その性格が残ってきた、と言うんです。
協調性に関する遺伝子はあるでしょうが、単独であるとは考えにくいので
そんなにシンプルに生存競争をベースには考えられないでしょう。
それに協調性が高い人もいれば、低い人もいるというバリエーションがあるのも
本当に有利で生き残ってきたのだとしたら、説明ができなくなってしまいます。
その説を証明する方法があるとしたら、
1万年前の人類の平均的な協調性のレベルと、
今の人類の平均的な協調性のレベルを比べて、
今のほうが協調性が上がっている、と示すぐらいなものです。
…やるのは限りなく難しいと思いますが。
こうした説に全体として感じられる印象は
「進化の目的に沿っているから」
という発想を持っているところでしょう。
「進化のためには、このほうが有利だから」と考えがちな気がします。
僕は分子レベルから考える傾向があるので、そういう発想を受け入れ難いようです。
ちょっと変わった話として、臭いに対する研究があります。
好意を感じる相手には、その匂いも好意的に判断する。
それを示すために、男性が何日間か着たTシャツをビニール袋に入れて
その匂いを女性の被験者に評価させるような実験があります。
で、実際の評価と比較をしてみる、と。
この結果を
「遺伝子的に相性のいい人は、良い匂いに感じる」
と説明する。
僕は逆じゃないかと思うんです。
「遺伝子的に良い匂いに感じる相手がいて、だから一緒にいても不快じゃない」
1つの好みの判断材料として、匂いの好みが遺伝子的に決まっているというだけ。
遺伝子的に相性が良いとまで解釈を広げるのは過激じゃないかと思います。
そこから、さらに発展して、
「同じ遺伝子を持っていると嫌な臭いとして感じる」
という見方をする場合もあるようです。
だから娘は父親の匂いを嫌うんだ、と。
もう、僕には違和感が沸きまくりです。
匂いの元を作る遺伝子と、匂いを感じる器官を作る遺伝子は別です。
仮に娘が父親と近い遺伝子を持っていることが関係しているなら
娘は自分の匂いだって嫌でしょうし、父親も自分の匂いが嫌でしょう。
しかも、母親は、父親の匂いを好意的に捉えていたはずじゃなかったんですか?
母親は相手の男性の匂いを、良い匂いに感じるという話はどこに行ったのか?
母親の遺伝子だって、一部を娘が引き継ぐわけです。
それだったら娘も父親の匂いを好意的に感じても良いでしょう。
人は自分の匂いに鈍感ですから、仮に父親が自分の匂いを感じないとしたら、
・母親は父親(夫)の匂いが好き
・父親は父親(自分)の匂いを感じない
・娘は父親の匂いが嫌い
というところから、大袈裟にいえば
母:好き + 父:感じない → 娘:嫌い
なんて奇妙な変化が起きていることになってしまいます。
実際は、もっと複雑なことを考えないといけませんが
しっかりと遺伝子的に説明しようとしても難しい話なんじゃないかと感じます。
相性を考える上で、匂いは非常に重要な要素だと思いますが、
それと進化を結びつけて考えるのは飛躍し過ぎの気がするんです。
遺伝子は、相性に大きな影響を与えている可能性があります。
でも、それが人類全体の進化に有利だからかどうかは分かりません。
むしろ、もっとランダムなものじゃないかと僕は考えています。
どうやら僕の中には
「それと、これとは、別」
を違和感として感じ取る傾向が強くあるようです。
その傾向があるのは進化に有利だったから?
多分たまたまでしょう。
2012年03月13日
偏見とステレオタイプ
”ステレオタイプ”という考え方があります。
ある集団の人たちに対する典型的なイメージのようなもの。
例えば、日本人は勤勉だとか、イタリア人は情熱的だとか。
「男ってヤツは…」、「女っていうのは…」などなど。
とにかく一般化して、そのカテゴリーに分類されるものなら
その典型的なイメージで判断するということのようです。
人が典型的なイメージに当てはめて物事を理解するというのは
ごくごく自然なことで、それは人間に限ったことではないでしょう。
山の中にいる鹿だって、熊や猪を見れば逃げるはずです。
別に、それは「熊は襲ってくる」とか「猪は真っ直ぐに向かってくる」とか
そういうステレオタイプで解釈しているわけではないと考えるほうが自然です。
もちろん、熊とか猪とか名前を付けて判断しているわけでもなく、
単純に「あのモジャモジャして黒っぽいデカイの」とか
「白い尖ったのが飛び出た、ずんぐりした茶色のヤツ」とか
そんな風に姿かたちで識別していると思いますが。
そこで、生物の生態からすると「熊は身を守るためにしか襲わない」としても
(クマの生態は詳しくないので、どういう理由で襲うかは知りませんが…)
襲われたことのある鹿にとっては無関係だと思われます。
たまたま子育て中の熊と遭遇して襲われただけだったとしても
熊は襲ってくるものとして学習してしまったほうが生存に有利にはなるでしょう。
実際に、一度の強烈な体験があれば、危機回避のための学習は一瞬で完了します。
本当に熊が襲ってくるかどうかとは無関係に、熊を恐れるのは
体験が一般化された学習の結果だと言えます。
同じようなことは人間でも起きているはずで、例えば
「犬にかまれてから犬が恐くなった」というような人の場合は
一度の体験だけで、全ての犬を怖がるようになることがあります。
一般的にいえば、飼い犬の大半は、人を噛むことはないでしょうし
問題になるほど本気で噛みついてくる犬は滅多に出くわさないはずです。
しかし、そんな知識レベルのこととは無関係に
一度の強烈な体験があれば「犬は噛むものだ」という学習は
十分に成立してしまうわけです。
不正確な一般化だと捉えれば、犬好きからすると
「犬が噛むものだなんて偏見だ。噛むのもいるけど、ほとんどは人懐っこいんだ」
と反論したくなるかもしれません。
ですが、こういった犬嫌いの人の持っている犬への印象のことは
ステレオタイプとは言わないと思います。
つまり、ステレオタイプというのは本質的に
本人の体験の一般化によって学習された印象ではなくて、
誰かから植えつけられた典型的なイメージだと考えられます。
言い換えると、ステレオタイプは個人の中に存在するものではなく、
文化の中に存在している、と。
ある文化の中で共有されている、特定の何かに対する典型的なイメージ。
それがステレオタイプであって、文化が変われば同じものに対しても
別のステレオタイプが与えられている可能性もあると思われます。
ステレオタイプは本人の学習の結果というよりも
誰かから与えられたイメージであって、
実体験の量が少ない場合に起こりやすいものだと考えられるわけです。
もしくは、誰かから情報として得たものを忠実に自分の中に取り込んで、
その理解に当てはめて実体験を認識していく傾向が強い場合にも
ステレオタイプは強く働くと考えられます。
人間の学習は大きく分けると2つの方向性があって、
1つは動物がするのと同じように実体験を一般化していくタイプのもの。
もう1つは、言語情報などの抽象的な概念を、
「思考」と呼ばれる抽象的な操作によって、他の概念との関係性で理解して
情報を整理するタイプのものです。
前者は体験的に分かりやすいと思いますが、
後者の例は、「インフレ」などの経済的な知識を理解するプロセスなどです。
実際の体験としてインフレを実感していなくても、どういうことが起きるかを
頭の中で想像できるようになって、デフレやスタグフレーションとの違いが分かる。
その結果、どこかの国の経済状況を物価の観点で見たときに
誰から説明されなくても「あぁ、インフレが起きているんだ」と理解できる形です。
一般的な理解として、その概念に当てはまるかどうかの基準だけを持っていて、
その基準と照らし合わせて物事を理解していけるようにする学習法です。
「新しく何かを学ぶ」という場合には、当然、後者のパターンが中心になりますが、
あくまでもそれは一般論であって、例外的なケースへの対処や
複雑な情報の組み合わせから判断をする場合には
前者のように実体験したことを一般化していく方向の学びも重要になります。
ある概念を学習するには、言語などの抽象的な理解と
それに結びつく実体験の結びつきが不可欠なわけです。
余談ですが、僕がセミナーをやるときには
抽象的なモデルの解説で概念を整理していく学習の方向と、
それと実体験を結びつけるための体験学習とを両方取り入れて、
学習を促進したいという思いがあります。
話をステレオタイプに戻すと、
ステレオタイプというのは、インフレを知識として学ぶのと同様な
抽象的な情報から学習していくパターンだと僕は思うんです。
少なくとも、そのように外部から取り入れた情報が
本人の中で重要な判断の基準となっている状態です。
もちろん、本当にそういう体験もしているからこそ
「やっぱりそうなんだ」とステレオタイプ的な理解を強めるケースもあるでしょう。
ただ、度合いとしていえば、実際の目の前の体験を自ら理解しようとするよりも
自分の中に既に存在しているイメージに当てはめて体験する傾向が強いんです。
いずれにせよ、ステレオタイプのイメージに合わない体験を重ねていけば
どんな人であっても、そのイメージが弱まっていくことは間違いないでしょう。
それは体験が一般化されるタイプの学習の進む結果、
ステレオタイプとは合わない概念が自然と生まれてくるからです。
だからこそ、ステレオタイプは他人から与えられたものだということなんです。
体験的な知識が乏しい時に起こりやすい典型的なイメージなんです。
そこにはテレビから与えられる印象操作の影響が強いでしょう。
テレビで目にする回数が多ければ、実体験がなくても
典型的なイメージが作られていきます。
そのときに流される情報が、既にある傾向を持っていたとしたら
それが大勢の中に伝わっていって、ステレオタイプを作るわけです。
ハリウッド映画が全世界で放送されるということは、
アメリカ人が持っている典型的なイメージが、世界中に流れているという意味です。
実際に体験したことのないものを映画だけのイメージで理解していく。
映画そのものが典型的な場面を描くわけですから、
知らない側からするとステレオタイプを作るのに丁度いいはずです。
例えば、日本人の多くはラテンアメリカに対する情報が少ないと思います。
すると、ハリウッド映画で描かれるラテンアメリカの情報だけが
数少ない情報源となってしまう。
アメリカ人が典型的なラテンアメリカだと捉えているステレオタイプを
我々は知らないうちに、またステレオタイプとしてインプットしてしまう、ということです。
僕が重要だと思うのは、
ステレオタイプは経験が少ない内容に対して生まれる
という部分です。
体験的に学習された概念でなく、学習後の体験の量も少ないときに起こる。
…そういう風に考えておくのが大切じゃないだろうか、と。
偏見や先入観が含まれているからといって
それが体験に基づく場合(「犬は噛むものだ」のように)もあれば、
他人から与えられたステレオタイプに基づく場合もあるはずなんです。
それを区別せずに、「人間は偏見を持ちやすい」と考えてしまうのは
随分と危ないやり方ではないかと感じます。
苦々しい実体験が印象が強く、他の人とは違うイメージで捉えてしまうものだって
人によってはあるかもしれないわけです。
それを「あぁ、ステレオタイプで偏見を持ってしまっているんだな」と解釈したら
そちらのほうが、よっぽど偏見に満ちた物の見方じゃないかと思います。
知り合いに中国で長く働いていた人がいます。
その人は、中国人が信号を守らないのが嫌で仕方なかったと言っていました。
それが理由で、日本に帰ってきてからも、絶対に信号無視はしなくなった、と。
その人が持っている「中国人はルールを守らない」というイメージと、
僕がニュースの映像だけから入手した「ルールを守らない」イメージには
実態に大きな差があるだろう、ということです。
僕が見たのは、上海万博の行列で堂々と割り込みをするニュース映像と
最新家電やアミューズメントパークが盗作されているニュース映像。
それから会社にいたときに聞かされた
「中国で微生物を使って生産活動を行うと、廃液から微生物を盗まれる」
という話ぐらいなものです。
僕の中にある中国のイメージは、知らないうちに
ステレオタイプで満たされているかもしれません。
ですが、その知人は実体験として中国人が信号を守らないのが嫌だったんです。
「別に全員じゃないでしょう?守る人だっているんじゃないですか?」
と言ってしまったら、その人がどんな思いをしてきたかを無視してしまう気がします。
ステレオタイプで偏見を持って人と関わるのは良くないと考える人もいるようですが、
ステレオタイプに近いイメージを実体験から学んできた人すらも
ステレオタイプであるかのように扱うのも、同じようなものじゃないかと思います。
ある集団の人たちに対する典型的なイメージのようなもの。
例えば、日本人は勤勉だとか、イタリア人は情熱的だとか。
「男ってヤツは…」、「女っていうのは…」などなど。
とにかく一般化して、そのカテゴリーに分類されるものなら
その典型的なイメージで判断するということのようです。
人が典型的なイメージに当てはめて物事を理解するというのは
ごくごく自然なことで、それは人間に限ったことではないでしょう。
山の中にいる鹿だって、熊や猪を見れば逃げるはずです。
別に、それは「熊は襲ってくる」とか「猪は真っ直ぐに向かってくる」とか
そういうステレオタイプで解釈しているわけではないと考えるほうが自然です。
もちろん、熊とか猪とか名前を付けて判断しているわけでもなく、
単純に「あのモジャモジャして黒っぽいデカイの」とか
「白い尖ったのが飛び出た、ずんぐりした茶色のヤツ」とか
そんな風に姿かたちで識別していると思いますが。
そこで、生物の生態からすると「熊は身を守るためにしか襲わない」としても
(クマの生態は詳しくないので、どういう理由で襲うかは知りませんが…)
襲われたことのある鹿にとっては無関係だと思われます。
たまたま子育て中の熊と遭遇して襲われただけだったとしても
熊は襲ってくるものとして学習してしまったほうが生存に有利にはなるでしょう。
実際に、一度の強烈な体験があれば、危機回避のための学習は一瞬で完了します。
本当に熊が襲ってくるかどうかとは無関係に、熊を恐れるのは
体験が一般化された学習の結果だと言えます。
同じようなことは人間でも起きているはずで、例えば
「犬にかまれてから犬が恐くなった」というような人の場合は
一度の体験だけで、全ての犬を怖がるようになることがあります。
一般的にいえば、飼い犬の大半は、人を噛むことはないでしょうし
問題になるほど本気で噛みついてくる犬は滅多に出くわさないはずです。
しかし、そんな知識レベルのこととは無関係に
一度の強烈な体験があれば「犬は噛むものだ」という学習は
十分に成立してしまうわけです。
不正確な一般化だと捉えれば、犬好きからすると
「犬が噛むものだなんて偏見だ。噛むのもいるけど、ほとんどは人懐っこいんだ」
と反論したくなるかもしれません。
ですが、こういった犬嫌いの人の持っている犬への印象のことは
ステレオタイプとは言わないと思います。
つまり、ステレオタイプというのは本質的に
本人の体験の一般化によって学習された印象ではなくて、
誰かから植えつけられた典型的なイメージだと考えられます。
言い換えると、ステレオタイプは個人の中に存在するものではなく、
文化の中に存在している、と。
ある文化の中で共有されている、特定の何かに対する典型的なイメージ。
それがステレオタイプであって、文化が変われば同じものに対しても
別のステレオタイプが与えられている可能性もあると思われます。
ステレオタイプは本人の学習の結果というよりも
誰かから与えられたイメージであって、
実体験の量が少ない場合に起こりやすいものだと考えられるわけです。
もしくは、誰かから情報として得たものを忠実に自分の中に取り込んで、
その理解に当てはめて実体験を認識していく傾向が強い場合にも
ステレオタイプは強く働くと考えられます。
人間の学習は大きく分けると2つの方向性があって、
1つは動物がするのと同じように実体験を一般化していくタイプのもの。
もう1つは、言語情報などの抽象的な概念を、
「思考」と呼ばれる抽象的な操作によって、他の概念との関係性で理解して
情報を整理するタイプのものです。
前者は体験的に分かりやすいと思いますが、
後者の例は、「インフレ」などの経済的な知識を理解するプロセスなどです。
実際の体験としてインフレを実感していなくても、どういうことが起きるかを
頭の中で想像できるようになって、デフレやスタグフレーションとの違いが分かる。
その結果、どこかの国の経済状況を物価の観点で見たときに
誰から説明されなくても「あぁ、インフレが起きているんだ」と理解できる形です。
一般的な理解として、その概念に当てはまるかどうかの基準だけを持っていて、
その基準と照らし合わせて物事を理解していけるようにする学習法です。
「新しく何かを学ぶ」という場合には、当然、後者のパターンが中心になりますが、
あくまでもそれは一般論であって、例外的なケースへの対処や
複雑な情報の組み合わせから判断をする場合には
前者のように実体験したことを一般化していく方向の学びも重要になります。
ある概念を学習するには、言語などの抽象的な理解と
それに結びつく実体験の結びつきが不可欠なわけです。
余談ですが、僕がセミナーをやるときには
抽象的なモデルの解説で概念を整理していく学習の方向と、
それと実体験を結びつけるための体験学習とを両方取り入れて、
学習を促進したいという思いがあります。
話をステレオタイプに戻すと、
ステレオタイプというのは、インフレを知識として学ぶのと同様な
抽象的な情報から学習していくパターンだと僕は思うんです。
少なくとも、そのように外部から取り入れた情報が
本人の中で重要な判断の基準となっている状態です。
もちろん、本当にそういう体験もしているからこそ
「やっぱりそうなんだ」とステレオタイプ的な理解を強めるケースもあるでしょう。
ただ、度合いとしていえば、実際の目の前の体験を自ら理解しようとするよりも
自分の中に既に存在しているイメージに当てはめて体験する傾向が強いんです。
いずれにせよ、ステレオタイプのイメージに合わない体験を重ねていけば
どんな人であっても、そのイメージが弱まっていくことは間違いないでしょう。
それは体験が一般化されるタイプの学習の進む結果、
ステレオタイプとは合わない概念が自然と生まれてくるからです。
だからこそ、ステレオタイプは他人から与えられたものだということなんです。
体験的な知識が乏しい時に起こりやすい典型的なイメージなんです。
そこにはテレビから与えられる印象操作の影響が強いでしょう。
テレビで目にする回数が多ければ、実体験がなくても
典型的なイメージが作られていきます。
そのときに流される情報が、既にある傾向を持っていたとしたら
それが大勢の中に伝わっていって、ステレオタイプを作るわけです。
ハリウッド映画が全世界で放送されるということは、
アメリカ人が持っている典型的なイメージが、世界中に流れているという意味です。
実際に体験したことのないものを映画だけのイメージで理解していく。
映画そのものが典型的な場面を描くわけですから、
知らない側からするとステレオタイプを作るのに丁度いいはずです。
例えば、日本人の多くはラテンアメリカに対する情報が少ないと思います。
すると、ハリウッド映画で描かれるラテンアメリカの情報だけが
数少ない情報源となってしまう。
アメリカ人が典型的なラテンアメリカだと捉えているステレオタイプを
我々は知らないうちに、またステレオタイプとしてインプットしてしまう、ということです。
僕が重要だと思うのは、
ステレオタイプは経験が少ない内容に対して生まれる
という部分です。
体験的に学習された概念でなく、学習後の体験の量も少ないときに起こる。
…そういう風に考えておくのが大切じゃないだろうか、と。
偏見や先入観が含まれているからといって
それが体験に基づく場合(「犬は噛むものだ」のように)もあれば、
他人から与えられたステレオタイプに基づく場合もあるはずなんです。
それを区別せずに、「人間は偏見を持ちやすい」と考えてしまうのは
随分と危ないやり方ではないかと感じます。
苦々しい実体験が印象が強く、他の人とは違うイメージで捉えてしまうものだって
人によってはあるかもしれないわけです。
それを「あぁ、ステレオタイプで偏見を持ってしまっているんだな」と解釈したら
そちらのほうが、よっぽど偏見に満ちた物の見方じゃないかと思います。
知り合いに中国で長く働いていた人がいます。
その人は、中国人が信号を守らないのが嫌で仕方なかったと言っていました。
それが理由で、日本に帰ってきてからも、絶対に信号無視はしなくなった、と。
その人が持っている「中国人はルールを守らない」というイメージと、
僕がニュースの映像だけから入手した「ルールを守らない」イメージには
実態に大きな差があるだろう、ということです。
僕が見たのは、上海万博の行列で堂々と割り込みをするニュース映像と
最新家電やアミューズメントパークが盗作されているニュース映像。
それから会社にいたときに聞かされた
「中国で微生物を使って生産活動を行うと、廃液から微生物を盗まれる」
という話ぐらいなものです。
僕の中にある中国のイメージは、知らないうちに
ステレオタイプで満たされているかもしれません。
ですが、その知人は実体験として中国人が信号を守らないのが嫌だったんです。
「別に全員じゃないでしょう?守る人だっているんじゃないですか?」
と言ってしまったら、その人がどんな思いをしてきたかを無視してしまう気がします。
ステレオタイプで偏見を持って人と関わるのは良くないと考える人もいるようですが、
ステレオタイプに近いイメージを実体験から学んできた人すらも
ステレオタイプであるかのように扱うのも、同じようなものじゃないかと思います。