2012年04月

2012年04月30日

リフレーミング辞典

今度の勉強会のテーマが『リフレーミングの発想のコツ』だから
というわけではありませんが、
少し前に『リフレーミング』に関する情報を知ったので、その話。

なんでもiPhoneだかのアプリで
『ネガポ辞典』
なるものがあるらしいです。

「”ネガティブ→ポジティブ”辞典」という意味なんでしょう。

好ましくない表現のフレーズをインプットしてやると、
それを”ポジティブ”に言い換えたフレーズが出てくる、という仕組み。

なんでも女子高生が考えたアプリらしいです。

よくNLPの入門的なセミナーで扱われる
「一言リフレーミング」の例が沢山でてくるわけですね。

また、どこかの小学校で『リフレーミング・カード』というのを
使っていると聞いたこともあります。

カードの表裏に、”ポジティブ”な表現と、”ネガティブ”な表現が書いてあって、
悪口を言われたり、「自分はダメだ」と思ってしまう子供が
そのカードの当てはまるフレーズを引いて、裏を見ると
それを”ポジティブ”な言い回しに言い換えてもらえる、と。

他にも、同様の「一言リフレーミング」集が乗っているサイトなどもありました。

『ネガポ辞典』は、それをスマートフォンのアプリでやれるようです。

どうも、女子高生が考えたことで、そこに検索できるフレーズには
かなり厳しい若者言葉なんかも入っているみたいです。


まぁ、こういう「一言リフレーミング」は、リフレーミングの技術においては、
ほんの一端の表面的なところに過ぎませんが
その考え方で救われる人がいるのも事実ですから重要なことではあります。

ただ、こうした一面的な手法や発想は、弊害を生みやすいものです。

例えば、
「テストで点数が悪かった」ということに対して…
・「大丈夫、次に頑張れば良いんだよ」
・「どこができないかが分かったね」
・「どこは正解していたの?」
・「他に沢山良いところがあるじゃないか」
・「よく正直に話してくれたね」
などと、色々な言い方が考えられると思います。

「次に頑張れば良い」と言ったって、
それで事態を深刻に受け止めなかったら、変わらないかもしれません。

「どこができていないか分かった」って
「どうして、できていないか」が分からなければ、
対処の仕方が分からないかもしれません。

「どこは正解していたの?」と聞いたって
本人が点数の悪かったことにショックを受けているんだとしたら
気休めにはならないでしょう。
逆に、できたところに目を向けて、それで良いと思えば
それ以上は努力をしないかもしれません。

もちろん、勉強やテストの点数が必ず大事なわけではありません。
ですから、「他に沢山良いところがあるじゃないか」というのは大事な視点でしょう。
しかし、本人が勉強を大事にしたいんだとしたら、余計なお世話にすらなりかねません。
点数を上げるのが仕事の塾の先生なら、言ってはいけない一言かもしれません。

「よく正直に話してくれたね」というのも、常に使える言い方ではありません。

その子供が、いつも良い点数を取ってきて、たまたま点数が低くて
親が厳しいことを知っていて、「怒られるんじゃないか…」と想像しながら
ビクビクして「テストで点数が悪かった」と報告したんだとしたら、
それは”正直に話してくれたこと”に目を向けるのは重要です。

本人にとって一番苦しい、当面の問題意識に言葉をかけているからです。

これがもし、伝えることには抵抗があるわけではなくて、
「低い点数を取ってしまってショックだ…、どうしよう…」
といって落ち込んでいるのだとしたら、
「正直に話してくれた」なんていうのは見当違いなコメントなわけです。

つまり、状況によって、目的によって、
効果的なリフレーミングの言葉は変わってくるものだということです。

一般的には、本人の気持ちをベースにして言葉を選ぶのが望ましいでしょう。

ただし、親や教師、上司などの教育的な立場からは
「こうなって欲しい」という指導の方向性があります。
その場合は、リフレーミングの言葉にも、その方向性が関わってきます。

「とにかく健康に、のびのびと自由に育ってほしい」という立場なら
「テストの点数なんて気にしなくていい、他に素晴らしいところが沢山あるじゃないか」
というスタンスで良いと言えます。

しかし、「学校の勉強は大事だ」という立場なら、
そのリフレーミングは使いたくないでしょうし、
使わないほうが望ましい可能性も高いわけです。

何を目的にするかによって、リフレーミングは変わってくるんです。


リフレーミングの言葉がけ全般において重要なのは、
 『それが極端な考えではないかどうか』
という視点です。

これは、あらゆるリフレーミングに当てはまると思います。

「一言リフレーミング」は、問題が解決するわけではなく、
むしろ”問題を気にしなくなって、問題と思わなくなる”方向の言葉がけですが、
これを使う場合も、その考え方が極端なときだと役立ちやすいと考えられます。

また、問題が解決するようなリフレーミングでも、この視点は重要です。

問題が解決するということは、その問題の行動や発想が変わります。
変わってしまうことで悪影響が出る可能性もあるからこそ、
「問題を解決してしまって大丈夫か?」というチェックが重要になります。

その意味で、問題が極端な場合には、
問題が解決した後のほうが、社会生活において”一般的”なほうに近づくわけです。

なので、極端な場合なら、リフレーミングが役立つことが多いということです。

例えば、「子供が部屋を汚すので、毎日5時間は掃除をしています」という人の場合、
”毎日5時間、掃除をする”部分が極端だと判断できます。(※掃除が仕事で無い場合)

24時間のうち、5時間掃除をするのが時間の無駄だと思っているのに
でも、やっぱり掃除をしてしまう、と。
だから困っている。

そんな場合に、「キレイ好きなんですね」とリフレーミングをしても効果が薄いんです。
なぜなら、極端なのは、”5時間掃除をしてしまう”というところだからです。

そういうときは、その極端さが減る方向にリフレーミングできると望ましいでしょう。

「あなたが過去を振り返ったとき、色々な思い出を感じる場所がありますよね。
 何かを目にしたときに、ふと懐かしい記憶が蘇ってきたり…。
 少しずつ自然に残っていく生活の跡というのは、後から振り返ったときに
 懐かしい気持ちを蘇らせてくれる思い出の印でもあるんじゃないでしょうか?
 あなたのお子さんが将来、その壁の汚れを見て、子供のころを思い出せるとしたら
 今、あなたが毎日していることを、どのように思いますか?」

…そんな感じでしょうか。
こういうリフレーミングで、5時間の掃除が1時間に減れば、
それは”極端さ”が減ったということなので、安全な方向の変化だと考えられます。

逆に、周りから見て「潔癖症」と呼ぶには程遠い、あくまで一般的な範囲ながら
「どうも自分は、掃除せずにはいられない」と言っている人がいたとしたら、
「キレイ好きなんですね」とリフレーミングするほうが良いかもしれません。

この場合で”極端”なのは、自分自身の行動を「潔癖症」と判断している基準だからです。
その基準が厳し過ぎるんです。

自分に対する評価が”極端に”厳しい。
であれば、その極端さが減るようにリフレーミングして
「まぁ、それぐらい、良いんじゃないですか?」
という方向に進めるのが安全だ、という話です。


リフレーミングは重要な考え方ですし、
それによって救われることが沢山あり得ます。

その一方で、どういう効果があるのかを意識せずに使うのは
相手への影響を考えた場合には危険なこともあります。

噂の「ネガポ辞典」だって、使い過ぎれば
”ネガティブ”な意味と、”ポジティブ”な意味を、
簡単に行き来できるようになり過ぎるリスクだってあるわけです。

元々、自分自身を否定的に捉える傾向のある人であれば、
それを使い過ぎたがために、褒め言葉さえ”ネガティブ”にリフレーミングして
悪く解釈してしまうことだって起きるかもしれません。

もしブームにでもなろうものなら、歪曲した悪口として
”ポジティブ”な言葉が使われ始めてしまう可能性だってある気がします。

どんなに良いとされる技術や考え方も、
その使い方に注意をするのが大切だと思うんです。

2012年04月28日

5月の勉強会

5月の勉強会のお知らせ

5月は夜間の開催となります。
5月13日(日)の夜です。

時間が短めになりますが、
・全体としては、ご参加の方へ個別のカスタマイズをしたトレーニング
・紹介する内容は『リフレーミング』
という形で予定しています。


直近でのご案内なので、ご都合の合う方には検討して頂ければと思います。

カスタマイズに関しては、過去の勉強会のご案内で詳しく説明したつもりですし、
リフレーミングについても、あまり詳しく書くと当日の内容と重なってしまうので、
簡単な説明だけとさせていただきます。


トレーニング自体は、お一人ずつのご要望に応えつつ、
こちらで見立てた技術的な癖に対して、できることが広がるように
実習の内容を考えていくスタイルです。

ですから、冒頭で
「こういうことが苦手だ」
「こんな場面で困っている」
「もっとこういう技術を身につけたい」
「こんな内容のトレーニングをしたい」
といった要望を聞きます。

で、それを元に実習の内容を組み立てたり、
全体として取り組む実習の中で、意識的に取り組む課題を設定したりして、
こちらからトレーニング内容をお伝えすることになります。


今回は夜の3時間ですから、紹介する内容は多くありませんが、
リフレーミングに関して、発想のコツをお伝えできると思います。

相手のフレームを理解して、それを広げるように働きかける。
そのときに使える発想です。

特に、会話のやり取りだけで問題を『解決』していくときには
根本となる発想の1つだと思いますので、
トレーニングを通じて、発想の向け方を練習しておくのは有効でしょう。

また、「リフレーミング」といっていますが、この発想を元にすれば
自分からリフレーミングとして”気の利いた言葉”を作らなくても、
相手に質問をしながら、相手自身がリフレーミングするようにガイドすることも可能です。

言ってみれば、セラピーの手法やNLPのワークで体験的に扱うところを
頭の中でやれるように質問でガイドしていく、という感じです。


ちなみに、家族療法家のヴァージニア・サティアのセラピーの模様を見ていると、
最終的に問題解決に辿り着くのは、このリフレーミングの部分であることが多いようです。

サティアは、NLPの『メタモデル』という質問のパターンの元になった人物ですから
質問で明確にしていったり、気づきを促したりするイメージを持たれがちですが、
実際には、問題が解決するためにリフレーミングを起こしているんです。

ただ、リフレーミングをするために、
質問で導いていくスタイルを取っていた、というわけです。

質問を通じて、
 「じゃあ、どうしたら解決できそうですか?」
 「実際に何をしますか?」
などとセッションを通じて、努力目標を設定していくというよりも、
それならずっと速いはずです。

一回のセッションでリフレーミングを起こして、
問題に対して自然と対応の仕方が変わるようにサポートしているんですから。

もちろん、こうしたリフレーミングの方向が必ずしも最善ではありません。

ですが、それができるとサポートできる範囲が広いのも確かでしょう。

あとは技術の問題です。
そのためにはコツになる発想の仕方がある、と。

今回は、そこを扱う予定です。

あとは、会話でアプローチするときに特に起こりやすい事態があって、
そこがリフレーミングを進みにくくさせるときがありますから、
その取り扱い方も練習してみたいと思っています。

良く言われる「抵抗を回避する」といったところです。
実際には「無視してはいけない部分に配慮する」だけなんですが。

それに加えて、フューチャー・ペースを交えるとスムーズになります。
ここは理論的に一言で済んでしまうので書いてしまいましたが、
当日は練習の中に組み込んでいきたいところです。


ということで、今回は「『リフレーミング』のコツ」を発想法としてトレーニングします。

意識的にやってみると、意外と使い勝手のいい発想の視点だと思います。

日曜日の夜の時間帯になりますが、ご都合が合えば是非、お越し下さい。



<ご参加に際しての注意事項>

※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
 NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
 過去に勉強会でトレーニングを積まれた方
のご参加をお薦めします。

 ☆気がかりがありましたら、お問い合わせください。

※内容が広範囲にわたりますので、資料での補足が難しい可能性があります。
 ご希望の内容がある場合には、お申込みの際に「ご意見など」の欄にご記入ください。




  定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。

  ※勉強会全般の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。


詳細は以下のとおりです。




【勉強会の詳細】

≪定期勉強会≫
【日時】 5月13日(日) 18:30〜21:30
         ★今回は夜間の開催となります。

【場所】  北とぴあ 806会議室
    (JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
    (東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)

【参加費】 ・・・5,000円
       当日、会場にてお支払いください。

【テーマ】 『リフレーミング』の発想のコツ
      〜会話を通じてリフレーミングへ導く〜


 *多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
  学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
  ご了承ください。




最近、ある人と話をしていて改めて自覚したことがあります。

それは、僕のコミュニケーション技術に対するポリシーというか、
コミュニケーションそのものにおける価値観というか、
トレーニングを組み立てる上で、重視している部分です。

別に、これが正しいというものではなく、
色々な方法のトレーニングがあっても構わないと思いますし、
人それぞれ好みがあって当然だと思いますし、
トレーニングにおいて重視するところも、効果として期待するものも
それぞれ違いがあって良いと思っています。

ただ、僕の信じていることが、ここに関わっているんです。

その人の好みのトレーニングスタイルは、
「ゲーム感覚で楽しみながらやっていく」
というものでした。

新しいことを学ぶには、そのほうが受け入れやすいメリットもあると思います。
堅苦しい”お勉強”モードよりも、自然に吸収しやすい可能性もあります。
いつの間にか身について、自然と使えるようになっている可能性もあります。
楽しみながらやることで、気づきが起こりやすいというのもあるでしょう。

ですが、僕は通常、そっちの方法は選ばないようです。

『変化』を意図した場合には、ゲームのような方法も使いますが、
技術を習得する場合には、地道なトレーニングを選びます。

「とにかく実践形式で、数をこなしてもらう」
なんていう方法も選びません。

実践形式でやるのは、実際の流れを把握してもらう目的がある場合か、
実践レベルで求められる技術をトレーニングしていく場合か、
実際の場面でしか起こらない詳細な対応方法を学ぶ場合か、
全体として”結果オーライ”にする「まとめあげ」の技術をトレーニングする場合か、
そういった目的があるときです。

コミュニケーションの技術を、個別の技術としてトレーニングするときには、
ある1つの趣旨をもって、意識的な練習を行っています。


その裏にある意図は、
『技術は意図的に選択して、使い分けられるようになっているに越したことがない』
というものです。

もっと拡げていえば、技術だけに限らず、
『コミュニケーションにおいてすることの全てが
 意図的に自分で選択してできるほうが望ましい』
となります。

ここには、「”意図的に方法を選択する”ことを、するか、しないかも選択する」
というニュアンスが含まれます。

自分が何をするかを自覚してできるに越したことはないが、
そればかりだと日々が大変なものになってしまうので、
「やりたくなければ、やらない」ということも選択できて良い、というわけです。

なお、ここで重要なのは、「意図的に選択する」という言葉の奥には
 自分がこの選択肢を選んだら、どういう結果になるかを予測して
 起こりうる結果の中で最悪の事態となる場合も覚悟をして、
 選択の結果として何が起きても後悔はしない

といった意味があるところです。

なぜなら、どんな方法を選択するとしても
上手くいかない可能性があるからです。

自分とは違う相手が関わっていることですから。

その意味で、コミュニケーションにおいて、
絶対的に”望ましい”技術は存在しないはずなんです。

状況によって上手くいくときもあれば、そうでないときもある。

それを分かって、自分の責任でやる。
そこが重要だと思うんです。

コミュニケーションにおける、自分のとったあらゆる選択は
必ず相手に影響を与えるんです。

その結果、自分がそんなつもりでなくても
相手の人生が大きく狂ってしまう可能性だってあるんです。

もっと専門的な範囲で話をすれば、セラピーにおいてだって
なんでもかんでも問題を解決するのが良いかは分からないわけです。
そのことによって、クライアントの人生に様々な影響が出るからです。

知らないほうが楽なことだって沢山あるんです。

知ったら、知る前には戻れないんです。
気づいたら、気づく前には戻れないんです。

その影響まで考えると、何をするのが最善かは言えないはずです。

世の中で、多くの人が「こうすると上手くいく」と教えているのは、
”その本人が、そのやり方をして上手くいった”という経験談か、
”その分野の傾向からすると、この方法が上手くいきやすい”という確率論か、
そのどちらかでしょう。

ですが、コミュニケーションを真剣に考えていくと、
目の前の一人との関わりは、一瞬一瞬が独自のものであって
一概に言えないところに行きついてしまいます。

その意味で、コミュニケーションは”迷い”の連続になるのが自然なんです。

その瞬間に、意図を持って、「これをやろう」と選択するんです。

その選択の基準は、ただ1つ。
自分が本当に、しっかりと気持ちと向き合った上で、心底「それが良い」と思えるか。

そのレベルの選択ができるようになるには、
自分がコミュニケーションでやっていることを自覚できる必要があります。

選択するためには、選択肢を複数持っている必要もあります。

そして、癖になって、自動的になってしまっているなら、
そこで幅を広げて方法を選べる状態を作り出す必要があります。

僕の扱っているトレーニングの中核は、その部分にあると思います。

選べない状態は不自由なんです。

選べる状態になって、意図を持って、覚悟をして、後悔せずに選択できるなら、
その選択は自由なんです。

いわば、技術を”自由に”使えるようになるためのトレーニング、です。

ですから、地道で、意識的で、意図をもって実習をします。

楽なものではないですが。


しかしながら、本当に好きなものというのは
楽かどうかなんて関係なく、真剣に取り組めるものじゃないかという気がします。

楽じゃなくても真剣に取り組む。
上手くいくときも、いかないときもある。
でも、そのプロセスそのものが”楽しい”。

そういうものじゃないでしょうか。

ですから、コミュニケーションが”好き”になってきた方には
この勉強会はオススメしたいんです。

終了しました

トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。


是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。

今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。


また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。


【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。


勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。

その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。

また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。

調査して勉強会にあたります。



それでは当日お会いできることを楽しみにしています。

cozyharada at 05:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!セミナー情報 | NLP

2012年04月26日

”心を操る”の後の話

この間、”相手の心を操る”技術について書きました。
それには大きく2通りがある、と。

1つは、相手自身が意図を持って、重要な決断をする場面。

こちらでは、元々相手が優先していた選択肢ではないほうの選択肢を
「やっぱり、こっちのほうが重要だ」と感じるように働きかけて、
実際に、そちらの決断を下すようにしていくことになります。

もう1つは、相手にとって”どれを選んでも差がない”選択肢の中から
「(適当に)好きなものを選んだつもり」が、実は”選ばされていた”というケース。

”どうでもいい”、”どちらも重要ではない”か、あるいは
”どちらを選んでも自分にとって望ましい結果に繋がる”場合です。

言い換えると、意思決定に対して悩む必要がないケースだ、と。

で、2つのケースに対して使う技術が異なっていて、
だからこそ、その場面に適さない技術を使っても効果を期待しにくいわけです。

前の記事では、2つ目の方法、つまり
 相手にとって”どれを選んでも差がない”選択肢の中から
 こちらの意図したものを選ぶように影響を及ぼしていく流れ
について説明しました。

この技術が役に立ちそうな実際の場面なんかも触れたつもりです。

しかし、この方法では、相手が「重要な決断をする」場面には効果が低いと考えられます。

ということで、ここから先は、
 「相手自身が意図を持って、重要な決断をする」場面に対して、
  相手の選択に影響を及ぼす方法
を説明します。


「重要な決断をする」場面では、相手の価値観がポイントです。

価値観とは、その人が大切にしていることで、
『特定の状況で、何に注目して、何を重視するか』と言えます。

ですから、「どっちが良いか・どっちが好きか」の判断を下すときに
価値観が関わってきます。

正確には、その判断を下すときに注目する部分を価値観と呼ぶので
「価値観にそって判断を下す」という言い方は順番が逆だと言えます。

経験から学んできたこととして大事にしたい部分が一般化されていて
その部分が含まれているところに対してポジティブな印象が生まれる。
結果として、ポジティブな印象があるほうを「良い」と判断する。
…こうした一連の自動的な反応に対して、後から振り返ったときに
 注目していた部分に気づくことができて、
 その要素に名前をつけたものが「価値観」なんです。

仕事において、短い時間で求められる結果を出したときに満足感がある人は
振り返ってその傾向に気づいたときに「自分はスピードを重視しているなぁ」と思い、
そこで「自分の仕事における価値観は”スピード”なんだ」と意識できるわけです。

一方、細かいところまで一切の漏れがなく仕上がったときに満足感が生まれる人は
「品質」という価値観を持っていると自己分析するでしょう。

人には、そのように「何が良いか・どれが好きか」の判断をするとき、
自然と注目しやすい部分がある、ということがポイントです。
それを「価値観」と呼ぶ、と。

つまり、何か重要な決断をする場面では、それぞれの選択肢に対して
どれが自分の価値観と合っていて、どれを選ぶと満足するかを予想するわけです。

ここでは、ハッキリと自分の内面に注意を向けて
どれを選んだら最も満足しそうかを感じながら比較をすることになります。

その場面では、些細な影響を意識できないレベルで与えたとしても
価値観が満たされるかどうかの判断の前には、効果が小さすぎます。

なので、重要な決断をする場面で、選択に影響を及ぼすには、
相手がしている「どれを選ぶと、価値観を最も満たせるか」の予想に対して、
予想の内容が変わってくるような情報提供をするんです。

例えば、パソコン用のプリンターを買いに行くとします。
プリンターのどの要素を重視するかに、人それぞれの違いがある。
そこが価値観の違いです。

印刷スピード、印刷の美しさ、ランニングコスト、操作の簡単さ、デザイン…。
色々な基準があって、人それぞれ優先したい部分が違う、と。

 (プリンター自体の価格は、価値を総合したものとのバランスで判断されますから
  価値観からは除外しておいたほうが分かりやすいと思います。
  むしろ、”お金”は価値の象徴だと言えます。)

Aのプリンターは、印刷のスピードが速くて、ランニングコストが低いのがウリ。
Bのプリンターは、遅いけれど印刷が美しく、商品のデザインもカッコイイ、としましょう。

で、お客さんは印刷の美しさを重視する人で、商品デザインは全く気にせず
ランニングコストは低いほうが良いけれど、それほど重視していない、と。

この場合、普通に考えればBのプリンターを買いたくなるところです。

そこでAのプリンターを選ぶように仕向けたかったら、
「実は工夫して使えばAのほうが遥かに美しい印刷が可能だ」
といった情報をアピールすれば良いわけです。

例えば、印刷設定をどうするとか、紙をどうするとか、そんな感じ。
「印刷の美しさ」を最優先していて、そこが理由でBを選んでいたなら、
Aのほうが実は「印刷が美しい」とアピールできれば、選択に影響が出るという話です。

逆いえば、それ以外のところをアピールしても無駄になるかもしれませんし、
むしろ逆効果に働く可能性もあります。

もちろん、この場合、「仕上がりの美しさ」を大切にしていることを掴む必要があります。

それは話の中で聞いてしまっても良いですが、
観察力を磨いていけば、振る舞いや持ち物からでも、それが理解できます。

「仕上がりの美しさ」を重視していることが理解できたら、他にも
Aの商品の説明をするときにだけ「仕上がり」とか
「美しい」、「キレイ」、「細部にまで」、「キッチリ」などといった単語を
”ちりばめる”のも効果的でしょう。

「Aの商品のほうが、『細部にまでコダワって、キッチリと仕上げられている』ので
長く使っていても『美しさ』が長続きしやすくて、いつまでも『キレイに』動いてくれます」
なんて言ってみるとか。

他にも、価値観の優先順位を変えるように仕向けていくことも可能です。
こうなると、「いや、やっぱり印刷の美しさよりもスピードのほうが重要だ」とか
「今まで考えてなかったけど、操作のカンタンさが一番大切な気がしてきた」とか
そういった方向に考えを動かしていくこともできてしまいます。

こういった技術を使えば、全く欲しくもなかったものを
買いたい気持ちにさせてしまうことだってできるわけです。


しかし、もっと重要なのは、一時的に相手の意思決定に影響を与えて
その場で選択を変えさせてしまえたとしても、
相手が日常に戻ったら価値判断のポイントは元に戻っていくことです。

しばらくしてみたら、「なんで、こんなの買ったんだろう?」なんて
後悔する可能性だってあるんです。

いや、むしろ操作した度合いが高いほど、いずれ後悔する可能性も上がるはずです。

はたして、それで良いのか?と。

一回だけ、何か高額な商品を買ってもらえば十分なのだとしたら、
そうした操作的なやり方でも”自分には”メリットがあるでしょう。

ですが、継続的に相手と関わっていくことを考えたら
相手の価値判断に影響を与えて、決断を操作したとすると
逆に望ましくない結果に繋がっていく可能性のほうが高いと思います。

もしかすると、その相手を一生の間、24時間ずっと操作しっぱなしにすれば
その相手も後悔することもないし、継続的に
自分の思い通りの結果が得られるかもしれません。

そこに何の喜びがあるのかは分かりませんが。

全てが思い通りになったとき、そこには何の”ありがたみ”も感じられないでしょう。
思い通りにするためにばかり努力をして、満足感があるのでしょうか?

そもそも、思い通りにならないことが分かっているからこそ
「思い通りにならない」ときの苦しみと
「期待したとおりになった」ときの喜びがあるんじゃないでしょうか。

だから、「期待したとおりになった」ときの喜びを味わいたいから
「思い通りに操りたい」という欲求が出てくるんじゃないでしょうか。

その裏側には、
「相手の人は、自分の思い通りにはならない」
という実感が前提としてあって、
その前提こそが人と関わるときの喜びを生み出していてくれると思うんです。

何でも言うことをきくロボットが相手では得られないものがあるんです。

「思い通りに操れた」喜びは、
「思い通りにならない、 だから素晴らしい」の裏返しだということです。

2012年04月24日

”心を操る”ことはできるのか

心理とかコミュニケーションとかに関心がある人の場合、ある時期に
「他人をコントロールする」ことへ興味を持つことが多いようです。

僕も興味を持って色々と調べたり実験してみた時期があります。


相手に影響を与えて、”相手の心を操る”ような作業には
大きく分けると2通りがあります。

1つは、相手自身が意図を持って、重要な決断をする場面。

こちらでは、元々優先していた選択肢ではないほうの選択肢を
「やっぱり、こっちのほうが重要だ」と感じるように働きかけて、
実際に、そちらの決断を下すようにしていきます。

もう1つは、相手にとって”どれを選んでも差がない”選択肢の中から
「(適当に)好きなものを選んだつもり」が、実は”選ばされていた”というケース。

こっちでは、相手が気軽に、理由なく選べるような選択肢になっています。
つまり、どちらを選んでも支障が無い場合。
逆に、どちらを選んでも同じようにメリットがある場合も、このケースに当たります。

言い換えると、意思決定に対して悩む必要がない場合です。

2つのケースで、行われる作業が変わってきますし、
例えば、後者の「気軽な選択に影響を及ぼす」タイプの技術では
前者のような「重要な決断」の場面には対応できないわけです。

ここを区別しておくと目的によって心がけるべき部分が変わってきますし、
効果が得られにくい方法で努力を空回りさせる可能性も減らせます。

もちろん、「効果があるかどうかわからないけれど
その可能性があるなら何でもやっておいたほうがいい」
というスタンスであれば、できることを全て盛り込むのも1つの方針だとは思います。


で、今回は「どれを選んでも差がない」ケースについて。

まず考えておく必要があるのは、日常生活において
「どれを選んでも差がない」選択肢から何かを選ぶ場面は少ない、ということです。

多くの場合、自分で選択をしている気持ちを自覚できるときは、
「どっちが良いか」を、自分の気持ちを探ったり、メリットを考えたりしているものでしょう。

自分で選択していることを自覚するのは、逆に言うと
そうしたプロセスをやっている状態を意識するからです。

選択肢を吟味するような選択しか、印象に残っていない
といっても良いかもしれません。

こうして自分の気持ちを探ったり、メリットを考えたりしているということは
「自分にとって、どちらが良いか」を気にしているわけですから、
その選択は”どうでもいい”ものでは無いはずです。

「どれを選んでも差がない」のであれば、選ぶときに自分の中で吟味した印象が
記憶として残らないでしょうから、「どれを選んでも差がない」選択は
日常生活の中で、ほとんど覚えていないぐらいだと考えられます。


それでも、「どれを選んでも差がない」ぐらいの選択は常に起こっています。

個人的には、このレベルのものを”選択”という言葉では呼びませんが…。
 (”選択”というのは、もっと意志をもって、結果を覚悟しながら選ぶ感じがあります)

「どれを選んでも差がない」選択の例としては、
・商店街を歩いていて、今日は、道のどっち側を歩いているか
・駅の自動改札で、どの列に入っていくか
・スーパーで陳列棚にたくさん並んでいる同じ種類のミネラルウォーターの
 ペットボトルの中から、どれを手に取るか
などがあります。

もちろん、後から振り返れば「なぜ、それを選んだのか?」の説明はできます。
しかし、実際には、その多くの理由が後づけのものになり得るんです。
ここが面白いところです。

例えば、駅の自動改札であれば、
「”どこが一番近くて、早く通れるか”を考えて、この通路を選んだ」
なんていう答えが返ってくると思われます。

正面のところは2人いたけど、1つ右側は1人だったから、とか
急に自分の前の人が自動改札で止まってしまったから、
空いている右側に移動した、とか。

当然、瞬間瞬間に、人はそういった判断もしています。
同時に、意識はしていないけれども影響している要因もあるんです。

 例えば、そのとき右手に持っていた荷物が重かったから
 右方向に向きを変えて進むほうが楽だったとか。

 そのとき歩行中についていた足の状態と移動スピード、重心位置などから
 右に行くほうが方向転換がしやすかったとか。

 実は統計的に数えてみると圧倒的に、とっさに自分は右を選びやすいとか。


他にも、電車の中で何をするか、なんていうのも”どうでもいい選択”に入るでしょう。
携帯をいじるか、本を読むか、音楽を聴くか、ボーっとしているか。

どれぐらい実際の数と合っているか自信はありませんが
きっと多くの人が同じような印象を持っているだろうと思うのは、
”1つの車両の中で、かなり多くの人が携帯を操作しているときもあれば
 全く携帯を操作している人がいなくて、本を読んでいる人ばかりのときもある”
ということです。

どうも、「誰かが携帯を操作していると、自分もつられて操作してしまう」
っていうことが起きているんじゃないか、と。

もちろん、その人たちに「なぜ携帯を使っていたんですか?」と質問すれば
「なんとなく、メールをチェックしようと思ったから」とか
「ちょっと検索したいものがあったから」とか
そういう答えが返ってくるでしょう。

きっと誰も「皆が携帯を使っていたから、自分も使いたくなった」とは言わないはずです。

ですが、他の人が携帯を使っているのを見て
「あ、そういえばメールチェックしていなかったな」
というのを思い出すキッカケにしていた可能性はあると考えられます。

ここでカギになるのは、『その気持ちの小さな変化を意識に上げていない』ことです。

なんとなく沸き起こる気持ちの変化や、それに伴うアクションには、
その重要度が高くないほど、自覚しなくなるものです。

本当は、色々な要因を同時に処理して、1つの行動を決めているはずなんです。
ただ、それを意識に上げていないだけ。

そこに加わっている”色々な要因”というのが、本当に沢山あるんです。

そして、元々その選択自体が”どれを選んでも差がない”ものだから
色々な要因が加わることで、簡単に影響を受けて、行動が変わるわけです。


この例は、飲食店でも見受けられます。

店に入るまでは「天ぷら蕎麦にしようかな、天丼にしようかな?」と思っていたのに
結局、注文したのは”カレーうどん”だった。
…そんなケースです。

ちなみに、テレビで実験していたのを見た記憶がありますが
カレーうどんの影響力は強いらしいです。
匂いが関係しているんでしょう。

ここで、当初は”天ぷら蕎麦”の気分だった人が”カレーうどん”に気持ちを変えたとき
誰かほかの人が食べていた”カレーうどん”が影響を与える要因だったのは明らかです。

それまでは頭の中に浮かんでいなかった”カレーうどん”が、
視野の片隅にカレーうどんを見たときか、カレーの匂いを感じたときに、
急に頭の中に表れるわけです。

それ以前の”天ぷら蕎麦”が、”どれを選んでも差がない”レベルの選択肢であれば、
新たに頭の中に浮かんできた”カレーうどん”が支配的になる可能性は高いようです。

これがもし、「今日は絶対に天ぷらが食べたい気分!蕎麦かなぁ、丼ぶりかなぁ」
という人であれば、”カレーうどん”が頭に浮かんでも、
「あ、”カレーうどん”もあるのか…、でも今日は、天ぷらだな」となって
しっかりと意識化されたプロセスで選択が行われることになります。

つまり、重要度が低い選択だからこそ、簡単に外部からの影響を受ける、と。

そして重要度が低い選択だから、選択にいたるプロセスも自覚が低く、
そこに色々な要因が関わっていたことにも無自覚になりやすいんです。

なので、「どうして今日は、”カレーうどん”にしたんですか?」と聞かれれば
「なんかカレーうどんが食べたくなったから」とか
「今日は、そんな気分だった」とか
「最近、カレーうどんを食べてなかったから」とか
そんな理由が返ってきやすいでしょう。

もう少し意識的に迷って決めた人は
「カレーうどんを食べている人がいて、美味しそうだったから」
「店に入ったらカレーの良い匂いがして、食べたくなったから」
などと答えるかもしれません。

この辺りの自覚のレベルが、本人にとって
「どれだけ重要な選択か」というのを反映しているとも言えます。


で、このように「どれを選んでも差がない」、”重要ではない”選択の場合、
複数の重要度の低い要因が総合的に影響していますから、
そこに、それよりも少し強い要因が加わると、その影響が色濃く出ることになります。

それが、蕎麦屋の”カレーうどん”だったり、
電車の中での”携帯操作”だったりするわけです。

そう考えると、
スーパーで同じミネラルウォーターのペットボトルの列から、どれを選ぶか
といった場合には、より影響が出やすくなると言えます。

「どれを選んでも差がない」という意味で、非常に差が小さいからです。

自然に考えれば、腰を曲げて取る下の段や、高く腕を上げる上の段は選びにくく、
目線の高さに近いところから選ぶことになります。

後は、文字通り”横並び”です。

ズラッと同じ高さの棚に並んだ同じ商品。
賞味期限を気にするものでもないでしょう。

となると、本当に些細なことが関わります。

立ち止った場所から近いもの。
買い物カゴを左手に持っているなら、右手側にあるもの。

もしかすると、1本だけ他よりも前に出ているものがあれば
それを手に取りやすくなるかもしれません。


マジックなんかは、完全にこのレベルなんです。

どのカードを選んでも全く差がありません。
どのペンを選んでも、選ぶ人にとって意味がないんです。

だからこそ、些細な影響を与えられると、その影響を受けて選びやすくなる。

選んだ本人は”かすかなカレーうどんの匂い”のように
その要因を自覚することがなく、「なんとなく好きに選んだ」と感じるでしょうが、
その”なんとなく”を決める複数の要因の中に、
マジシャン側が影響力の強いものを混ぜこませているわけです。

例えば、4つぐらい並んだ物の中から1つを手に取る、
なんていう作業をマジシャン側から依頼された場合、
どれを選んでも全く差が無い状態です。

その状態で、本人はさらに「これから何をしたら良いか」が分からない。
次に何をしたら良いんだろう?
そんな気分でマジックに参加します。

マジシャンは当然、1つ1つしか指示を出していかない上に
普段と違う雰囲気を出しますし、権威を感じさせるようにも振る舞います。

「では、こうして下さい。次に、こうして下さい。それができたら、こうです。
 あ、まだ、それはやらないで下さい。私が○○と言ったら、一緒にやって下さい。
 それでは、これから…、あ!くれぐれも自分の意思で選んで下さいね…」
などなど。

マジシャン側の指示に従いやすい流れまで作っておくんです。

それで
「じゃあ、こんな風に利き手と反対の手を上に挙げて下さい。
 そうしたら、そのまま1つを手に取って下さい。」
なんてやる、と。

ここまでマジシャン側の指示に従っていますし
「こんな風に腕を挙げて…」と言われて、同じ形を作ったら、
次の動作でもマジシャンと同じ動きをしやすくなります。

マジシャンが見本として手を動かす角度が、
強く影響を及ぼす要因となっているケースでしょう。

ですから、マジックで人の心に影響を及ぼすような場合は、
その状況設定自体が非常に特殊で、影響を与えやすい状態になっている
ということなんです。


まとめると、「どれを選んでも差がない」、”重要ではない”選択の場合には、
人は様々な要因によって影響を受けていて、
その要因をコントロールすれば影響を及ぼすことも可能だ、となります。

”相手の心を操る”といっても、このようにして些細な要因を加えることで
相手の選択に影響を与えられるのは、
その選択が相手にとって「どれを選んでも差がない」場合に限られるんです。

こういうやり方で、相手にとって重要な選択までコントロールするのは
かなり難しいと考えたほうが自然でしょう。

飲食店で「どのメニュー頼んでも、美味しければ”差がない”と思う」お客さんに
オススメのメニューを注文してもらうぐらいなら、こういう方法も使えます。

「どのビールでも気にしないから”差がない”」お客さんに、
何種類かあるビールの中から、どれか1つを選んでもらうのも可能だと思います。

ですが、見積もりを取って購入を検討するような商品やサービスだったり、
人生の方向が決まるような選択の場面だったり、
深く人と関わっていくかどうかの選択たったりすると、
それは「どれを選んでも差がない」ものではありません。

選ぶ結果によって大きな差がある場合には、
些細な要因で影響を及ぼすようなやり方では、
それほど”相手の心を操る”ことはできないだろうと考えられます。

そのところは区別して理解しておいたほうが良いと思います。

2012年04月22日

情報提供の仕方で

僕が習いに行っている書道教室は渋谷にあります。
渋谷駅西口から歩いて10分ぐらい。

で、渋谷駅西口には、いつも献血の案内をしている人が立っています。

看板を持ち、大きな声で、アピールしています。

西口から少し行ったところに、日赤の献血センターがあるからでしょう。
僕も行ったことがありますが、献血後に意識障害が出たので
献血は控えたほうが良い体質だと理解して、それ以降は遠慮していますが。


おそらく、あの献血の看板の人たちはアルバイトだろうと想像しているんですが
あまり良い情報提供をしていないと思います。

ああいうアピールをしろと指導されているんでしょうか?

「血が足りません!」
「何型の血液が不足しています!」
「皆さんの助けが必要です!」
…そんな感じだった気がします。

それで動く人もいるとは思いますが、
もうちょっと詳しく教えてくれたら、献血しようという人も増えるかもしれません。

少なくとも、
「別に自分がしなくても、他にも沢山いるだろう…」
といった思いで、献血に行く気すらしたことがない人は
情報を得ることで気持ちが変わる可能性があると思うんです。

つまり、「良く知らないから、別に大丈夫だろう」と
思っているところがあるんじゃないか、と。


実際、僕は無知だったので、献血をする気がありませんでした。
それで、情報を知って「自分もしておこうか」と思ったところがあります。

会社にいたときは、定期的に献血のバスがやってきて
社内で就業時間中に献血をやっていました。

それなりの人がやっていましたし、いつもやる人は決まっていました。

当時の僕は、一日に何回か仮眠を取りながら、
夜の睡眠時間を2時間ぐらいにして色々なことをやっていたものです。

なので慢性的な疲労感もあって、わざわざ血を抜くつもりはありませんでした。

何より、あれだけ他の人がやっているんだから大丈夫だろう、と。

会社を辞めた後も、最寄駅の前には頻繁に献血車が止まっていて
献血の光景自体をよく目にしていましたし、たまに入っていく人などを見ていたので
「そんなに足りてないってことは無いだろう」とタカをくくっていたんです。

今でも、どれだけ実際に足りないのかは知りません。

ですが、献血の重要性は情報として知りました。


まず、献血は一人の人が頻繁にできるものではない、ということ。

抜いた分の血液が十分に作られて元通りに回復するのを考慮して
安全のために間隔を開けることになっているようです。

たしか、実際には2,3ヶ月は間隔が必要だったと思います。

にもかかわらず、採決した血液自体が、それほど長く保存できないものなんです。

僕はそのことを知りませんでした。
凍らせてでもおけば、長持ちするだろうと思っていたんです。

それが赤血球、血漿、血小板という具合に、成分によって保存期間が違います。

血漿は凍結で一年間の保存がきくようですが、
赤血球なら冷蔵保存で3週間、
血小板になると常温で3日間しかもちません。

それぞれ目的が違うわけですが、いつでも存分にストックしておけるものではなく
定期的に集めていかないと、いざというときに足りなくなってしまう可能性があるようです。


渋谷駅前のような人通りの多いところでも
全員がその日に献血できる状態にあるとは限らないし、
数日から数週間後に起きるかもしれない将来の危機のために
定期的にストックを作り替えていかないといけない。

そう考えると、
「これだけ人がいるんだから大丈夫だろう」
と余裕をもって見ているのに不安が出てきました。

できるときにはしておいたほうが良いんじゃないか、と。

まぁ、僕は次に行っても断られそうな気がしますけど…。

少なくとも、僕はこの情報を自分で勉強している過程で知ったので、
学校教育の中では聞いた記憶がありません。

小中学校ぐらいから、健康に関する啓蒙は色々と受けた覚えがありますから
その一環として「献血の頻度の重要性」を入れておいても良いような気がします。

病院でも最近はパンフレットやポスターが色々とあるのが普通のようですので、
そのあたりも啓蒙の場として使っても良いんじゃないでしょうか。
もしかすると、もうやっているかもしれませんが。


渋谷の駅前で献血の案内をしている人の声が聞こえる中で
いったいどれだけの人が、その重要性を低く見積もっているだろうかと思うと、
結構な人が情報不足なんじゃないかと僕は想像します。

どういう案内をするのが一番効果的なのかは分かりませんが、
情報を得ることで重要性に気づいて献血をしようと思い始める人は
決して少なくないんじゃないかと思うんです。

渋谷駅前を通るたびに、
 アピールの仕方を工夫したら良いのになぁと
常々感じています。

2012年04月20日

催眠の有利・不利

本を借りたので読んでいます。
催眠に関する本。

デーブ・エルマンという人が書いたもので
自称「 Master Hypnotist 」の人です。

Hypnotherapy
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なんだか図書館にありそうな装丁の本です。

デーブ・エルマンは父親が催眠術師で、自分も催眠をやりながら
医師や歯科医を相手に催眠を教えていたという人物。

アメリカでは学位が重視されると言いますから
その意味ではドクターたちが”ミスター”エルマンの話を聞くというのは
相当スゴイことだと思われます。


デーブ・エルマンが、どれほどスゴイ催眠家だとしても
その説明は、やはり催眠をやっている人の理論の範囲を出ないと僕は感じます。

そこには大半の催眠の世界で共通する
「無意識に暗示が入れば、その通りになる」
という前提があるようです。

基本的に、僕はこの考え方には反対で、
これがあるから、催眠療法が上手くいったり、いかなかったりするんだと考えています。

前提になってしまっているから疑うことすらしない。

なので、上手くいかない理由を別のところに探しに行くんです。
それがクライアントの抵抗だったり、クライアントの暗示への拒否だったり。

催眠とかトランスとか、そういった状態で
実際に何が起きているのかを吟味しようとすれば、
もうちょっと違った発想が生まれるんじゃないかと思います。

僕が催眠療法を習った先生は、日本のエリクソニアンの大家でありながら、
「無意識」という言葉を便宜的なものとしてしか考えていない人でした。

実際に「無意識」が存在するかどうかは放っておいて、
そういう言い方をするとセラピーが上手くいくから使っている、という立場。

さらには、
「エリクソンは無意識を信頼し過ぎで、意識を軽視している」
と、独自の見解を示してくれていました。

どんなに偉大な人の言葉でも、
自分が実感として納得できないものは受け入れない。

その姿勢の裏には、
 そのほうがクライアントの役に立つから
という徹底した優しさがあった気がします。


ところで、アメリカ人の催眠家の本を読んでいて感じるのは
「アメリカ人は催眠にかかりやすい」ということです。

少なくとも、日本人と比べると、いわゆる催眠術で使われるような暗示には
かなり反応しやすいだろうと考えられます。

1つの理由は、英語の論理構造と、文化的背景の影響です。

文化的に Yes/No をハッキリさせる傾向は、日本よりも強いでしょう。
そこには善悪や正義などを重視する倫理観が関係している気がします。

日本文化のほうが、正しいかどうかよりも、「丸く収める」ほうを重視しやすい。

Yes/No をハッキリさせるということは、
自分が「 Yes 」だと思うことに対しては「 No 」の要素を無視するということです。

どんなことだって、100%「 Yes 」と言い切れることなんて無いはずです。

そのことは分かった上で、彼らはディベートを競技としてやっています。
だから賛成・反対は入れ替わっても問題ないんです。

それでも、自分が賛成の立場を取るからには
賛成となる根拠を探して、その主張をサポートする必要があります。

「 Yes/No 」で自分の立場を示したら、
それに対して、当てはまる理由を探して述べる訓練をしているんです。

ですから、ひとたび自分の考えをセットしたら
それに当てはまることを探す癖がついていると言えます。

一方、日本人は色々なことを同時に頭の中に思い浮かべる傾向が強そうです。
「良い面もあるし、悪い面もあるし…。どちらとも言えないなぁ…」
そんな曖昧な発想になるのは、先に結論を決める訓練をしていないからでしょう。

先に関連する出来事へ、同時に、たくさん目を向ける。
そこから一般的に言える結論を見出そうとしても、
単純に「 Yes/No 」では割り切れないところへ行きやすいわけです。

で、この英語の論理構造と文化的影響が、
「考えに当てはまるものを探す」
という傾向を強めている、と。

だから、アメリカ人のほうがビリーフを変える効果が大きいんです。
新しいビリーフを持ったと思い込めば、それに当てはまる体験を探すようになります。
日々、ビリーフの根拠になる体験に目をやっていけば
そのビリーフに沿った体験の仕方をして、生活に変化が起きやすいと考えられます。

同様にアファメーションも、この理由でアメリカ人のほうが効果的でしょう。
強く思い込んだ考えに対して、根拠になる体験を探して味わうことになりますから。

そうすると、催眠で暗示を与えられたときにも、暗示を受け入れたら
その暗示の内容に当てはまるところを探そうとする、と言えます。

「目が開かない」という暗示を受けると、
「目が開かない」という考えをサポートする根拠としての体験を探そうとする。

その結果、「言われてみると、目を開けにくい感じがする。ホントだ!Wow!」
と、なりやすいだろうということです。

それが日本人の場合、
「目が開かない?今、どんな感じかな?
 確かに、開けにくい感じもあるなぁ。
 でも、開けようと思えば開けられそうな感じもするし…。
 うーん…。」
と感じてしまいやすい。

少なくとも、その割合は日本人のほうが高いと考えられます。


また、もう1つの理由は、アメリカ人のほうが感情に集中しやすい、ということ。

感情と行動が直結しやすいというか、
感情の動きをそのままアクションに繋げて表現する傾向がある、ということです。

サプライズを受けた人が「 Oh, my God !!! 」を連発して、はしゃいでみたり、
感動して涙を流してみたり、物凄いテンションで喜んだり…。
そんな場面がテレビから良く流れてきます。

逆にケンカの迫力が違います。
怒りが高ぶると、それがアクションに繋がります。
怒鳴るし、殴りかかるし…。

瞬間的な感情体験に集中しやすい傾向が、日本人よりも強いはずです。

嬉しいんだけど、一歩引いて「嬉しい自分」を眺めている自分もいて、
社会的な振る舞いとして適切な感謝の示し方を意識したりできる。
…そんな傾向が強いのは、日本人のほうでしょう。

この「一歩引いた感じ」があると、催眠の暗示に対しても
自分の中に起きている変化を観察してしまいやすいですから、
その状態そのものの中にドップリとは浸らないことになります。

それが、そうした状態変化に対して集中する傾向が強いと、
暗示の結果にも入り込んでいきやすいわけです。

すると、「目が開かない」という暗示を受ければ
「目が開かない」感覚に意識を集中させることができる。

「ホントだ、開かない!Wow!」という驚きまで感じたなら、
今度は、その驚きに集中していきますから、
次に例えば「つねられても痛くない」と暗示されると
痛みの感覚には注意がほとんど向いていないことになります。

そうすれば、「何も感じない!Wow!」となる。


このように、そもそも自分の考えに当てはまる体験を探す傾向と、
自分が注意を向けた体験に意識を集中させる傾向が、
暗示に対する反応性を高めていると考えられるんです。

だから、アメリカ人のほうが催眠には向いているんじゃないか、と。

特に、デーブ・エルマンが関わっていた相手は、医師・歯科医ですから、
痛みのコントロールや麻酔効果のコントロールなどが主目的だったわけです。

そうした感覚のコントロールは、特に、これらの理由と直結します。

催眠の大家として成功できた背景には、
そんな条件の重なりもあったんじゃないかと思います。


ちなみに僕は、現実に起きていることを同時に色々と感じようとしますし、
その感覚刺激の程度を測定するように感じる癖があるので、
こういう暗示には滅法かかりにくいわけです。

cozyharada at 23:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2012年04月18日

色々と観察力が謳われますが…

人を観察して読みとることができるものには色々な種類があります。

表情分析や”しぐさ”の心理学みたいなものは
ある特定の瞬間に表れる1つの側面しか捉えていません。

ですが人の気持ちは、はるかにもっと複雑です。

同時に色々な気持ちが表れますし、
強く前面に出ているからといって、それが重要とも限りません。

どの気持ちが、どの出来事に結びついているか。
何を大切にしたくて生まれているのか。

入り乱れる様々な気持ちと、その人の置かれている状況とを加味して
初めて、相手との関係に「役に立つ」レベルの情報が得られると思います。


人を驚かせたり、誘導したりするのに必要な種類の情報も、
観察によって相手から読みとれるものの一部です。

それは、「その目的」のために必要な情報であって、
かなり特殊な状況でこそ意味をなす内容です。

例えば、手で隠しながら紙に書いた文字を
ペンが走る音と、ペンの末端部分の動きから読みとる
なんていうテクニックは、その目的でしか使わないものだと言えます。

マンガ『シティハンター』だったと思いますが、
主人公が地面に落ちたコインの総額を音だけで言い当てるシーンがありました。

何円硬貨が何枚落ちたかを聞き分ける、というのは
すごく鋭敏な能力があることの証明のように思えるかもしれませんが、
必ずしもそうではありません。

むしろトレーニングのほうが重要です。

特殊な種類の情報から、特定の目的に沿った情報を読みとる作業では、
「それ専用」の着眼点があるんです。
基準が決まっているわけです。

10円玉と50円玉の音の違いは、両者の基準を明確に分けているかで
捉えられる精度が変わってきます。

何度も10円と50円の違いを聞き分けていれば
その判断は瞬間的にできるように訓練されていくものです。

そんな訓練を全くしていないのに、過去に聞いたことのある記憶だけを頼りに
硬貨の種類と枚数を当てられるようであれば、
それは日常的な体験を繊細に、正確に記憶している、という意味にはなるでしょう。

ですが、特殊な目的のための、特殊な情報を識別できるかどうかは
基本的に、訓練次第で身についていく技能なんです。

ヒヨコの雄・雌を区別する職人みたいなものです。
ヒヨコで区別ができるからといって、犬や猫でできるとは限らないわけです。

コミュニケーションのセミナーで、観察力を鍛えるトレーニングと称して、
相手に色々な質問をして、「イイエ」で答えてもらって
ウソかホントかを当てるゲームをしたりすることがありますが、
それは、その場面だけで役に立つ技術のトレーニングだということです。

全ての質問に「イイエ」で答える、という特殊な状況を作っている前提があるんです。
内容的にも、感情が大きく動くような質問ではないんです。

こういうゲームの正解率が上がったとしても、
日常のコミュニケーションで相手のウソに気づけるかどうかとは別の話のはずです。

判断に用いる基準が違っているからです。


実際のコミュニケーションでは、多くの情報を同時に沢山受け取ります。

相手に特定の状況で、決まった種類の反応をしてもらうわけではありません。

ウソをついているかどうかを調べるためにした質問によって
相手が「ウソをついていると疑われた!」とショックを受けて
平常心とは違う反応の仕方をすることだってあり得るわけです。

仮に、ウソが見破れたとして、ウソを見抜くことだけが目的ではない気もします。

ウソをつく瞬間に、”後ろめたさ”が表れたのだとしたら、
ウソかホントかよりも重要な気持ちが裏にあるかもしれません。

明らかにウソをついているようなのに、毅然とした態度を貫いているとしたら、
そのウソの背後には、大事な信念や守りたい何かがあるかもしれません。

日常のコミュニケーションには目的があるんです。
自分にも相手にも、何らかの意図があってコミュニケーションを取る。

その目的のために有効な情報を読みとっていくことが重要だと思います。

コミュニケーションにおける観察のポイントは、
「ただ違いに気づくだけでは不十分」ということじゃないでしょうか。

2012年04月16日

『メンタリスト』について

ブログにはアクセス解析機能というのがついていて
何をキーワード検索して、ここにやってきたのかが分かるようになっています。

で、最近多いのが「メンタリスト」と「トリック」というワード。

おそらく、僕が以前に海外ドラマ『メンタリスト』について触れていて、
その中で主人公パトリック・ジェーンがメンタリズムを披露するシーンで、
どんな暗示的なメッセージを使っているかを書いたものがヒットしているんでしょう。

ですが、検索している人は、むしろ「メンタリスト DaiGo 」氏を調べていると思います。
それだけテレビへの露出が増えていますから。

僕もテレビをつけて、そのパフォーマンスをやっていたときには見るようにしていますが
結構、色々な工夫をしてやっているようには見えます。

まぁ、テレビの世界は色々とあるのでしょうから、
メンタリズムだけでやっているかは知る由もありませんが…。


ちなみに、「メンタリスト」という単語の元々の意味でいうと
多分、DaiGo 氏がやっているメンタル・マジックの分野こそ
「メンタリズム」の内容に即しているはずなので、
まさに「メンタリスト」だと言って良いんだと思います。

海外ドラマで有名な「 The Mentalist 」のメンタリストの主人公は
メンタリズムもやっていますが、コールド・リーディングの度合いも強いんです。

むしろ、ドラマでやっているのは
「コールド・リーダー6割、メンタリスト3割、催眠1割」
ぐらいかもしれません。(適当な印象ですが)

あ、あとチョット、ピッキングやスリが混ざっているので
それはカウントしていません。

まぁ、マジシャンの手先の器用さの応用ということなんでしょう。


話を戻すと、マジックの世界では以前から「メンタリズム」というジャンルはあって、
いわゆる”超能力”を演出するような、心を読んだり操ったり…というのを
得意とするマジシャンがいるようです。

実際、僕の知り合いのマジシャンが働いているマジックバーに皆で遊びにいったとき、
そこで DaiGo 氏がやっていたようなことを見せてもらった覚えがあります。

スプーン曲げやフォーク曲げは、もう同じような手順で進みますから
きっと、専門の分野では昔から積み上げられてきたものがあるんでしょう。

そして、僕も念のためにネットで「メンタリズム」、「トリック」などで検索してみましたが
しっかりと解説されているものが見つからないので、
知っている人は公開をしないスタンスを取っているんだろうと思われます。

マジックは種を明かしてしまっては台無しみたいなところもあるでしょうし。

何より、本人が仕組みを明かす範囲をコントロールしているのも重要だと思います。
売れっ子マジシャンと差別化をしなければいけない上に、
芸能活動としての寿命も考えないといけないでしょうから。

なので、僕の考察もトリックとは関係なさそうで、無難そうなところだけチョット。


鍵になるのは、人の記憶がカテゴリーを形成していて
そのカテゴリーの中で関連付けられているものは一緒に呼び起こされやすい
という部分です。

連想しやすい、とも言えます。

例えば、「インタ…」と書いてあるだけで、その後に続く単語が沢山うかぶはずですが、
このようなブログ上の文字を読んでいる範囲であれば、きっと
「インターネット」を真っ先に思い浮かべる人が多いんじゃないかと考えられます。

それは、文章を読んでいる状況自体が
「インターネット」を介していることにも関連するでしょう。

また、これまでの文章の中で「キーワード検索」「ネット」「検索」などを使っていますから
情報整理に使っている概念が「インターネット」に近い部分になっている可能性もあります。

何より、パソコン画面でブログを読んでいる人からすれば、視野のどこかに
「 Google 」や「 Yahoo JAPAN 」の文字が表示されている可能性も高いでしょうし、
ブラウザのステータスバーを表示していれば、「インターネット」の文字そのものが
視野に入っていることもあるでしょう。

ですから、そのことを意識に上げていなかったとしても、
すぐに注意が向きやすい位置に、「インターネット」という単語が来ている
ということが考えられます。

少なくとも、「インタ…」という頭文字から
「インターホン」や「インタビュー」、「インターチェンジ」は浮かびにくいと思います。

そもそも何も前置き情報が無いつもりでも、「インターネット」が真っ先に浮かぶとしたら
それだけ「インターネット」が常に意識されやすいところにある、ということですから。

しかし、この作業を例えば、車での旅行中にやっていて、
「どこかのサービスエリアに美味しいB級グルメがある」とか
「これからいくところって、何高速になるの?」とか
料金所だとか渋滞だとか、そういった話題ばかりをしている流れであれば、
もっと「インターチェンジ」が頭に浮かびやすくなると想像できます。

当たり前ですが、パッと頭に浮かぶものというのは、
その状況で浮かびやすい状態になっているものなんです。

その意味で、メンタリズムの中でも、そういった印象操作をしているはずです。

選ぶように誘導したいものが連想される形でメッセージを与え続け、
そのものが意識に上がりやすいところへ持っていく。

原理的にいえば、そういうことになるはずです。

まぁ、あとはそれを何を使って、どれぐらい巧みにやるか、という話ですが。

そこには技術が入ってきますから、そこは腕の見せ所なわけです。


実際に、何かで見て印象に残っているものとしては、例えば
『真ん中』にあるものを選ばせたいときに
 「こん中から取ってください」
と言いながら、
「こん中」のイントネーションを『真ん中』と同じにする
というのがありました。

普通は、”真ん中”のイントネーションと”こんなか”(「この中」の意味)では違います。
そこをあえて、「こん中から」と言いつつ、
イントネーションでは「真ん中」と聞いた状態を作り出している、と。

これなどは、似た音を聞くと、聞き間違いをしてしまうのと同じ状態でしょう。

イントネーションを無視すれば「こんなか」としか聞きとれないはずですが、
実際にはイントネーションの情報も使って聞いた音の分類をしているんです。

ですから、仮に、最初の部分を弱く発声して「ぉんなか」みたいに言ったとすると、
聞き取りが不正確だった子音部分よりも、イントネーションを重視して
「こんなか」なのか「まんなか」なのかを判断しようとするわけです。

人には、そういう聞き取り方ができるのですから、
同様にイントネーションを「真ん中」と同じようにしながら、少し曖昧な発音で
 「こん中から取ってください」
と言えば、「真ん中」を意識に近いところへ上げることができる、ということです。

…そういう些細なことを積み重ねている様子は伺えます。

ただ、実際には選ぶ直前や、気を抜いた瞬間にメッセージを与えるほうが
その後の行動に影響を直接的に与えやすいと考えられますから、
本当に重要な要素は、選ぶ直前にやっているものとして見てみると面白いと思います。


もう1つ、無難そうなところでいうと、ただ観察だけをベースに「当てる」技もあるようです。

これも同様に、気を抜く瞬間に注目して観察しているはずです。
だからこそ、あえて関係ない話をしたり、話を引き伸ばしたり、
別の人物に会話を振ったりしながら進めているんでしょう。

例えば、この間テレビでやっていたのは、
 相手に、行きたいデートスポットを紙に書かせて、
 他にもダミーとして3つのスポットを書かせ、
 4つの中から「行きたい」場所を当てる、
というものでした。

これは注意深く観察すると、結構、多くの人ができるんじゃないかと思います。

まず、最初から4つの場所を書いてもらうことは言わないのがポイントです。

「行きたいデートスポットを紙に書いて下さい」
という言い方。

しかも、その前に、色々とデートに関する話をして想像を膨らませるようにします。
そして紙に、その場所を書いてもらう、と。

まず、この時点で、多くの人は気持ちを込めて文字を書きます。

それから
「あと3つ、他に何でも良いから、それっぽい場所を書いて下さい」
というようなことを言って、ダミーを3つ書かせます。

ここで初めて、どういう形式で当てるのかが判明するわけです。
最初から「4つのうちで1つを選ぶ」としていないので、
無防備に「行きたいところ」と「ダミー」を書くことになります。

さらには「あと3つ書いて下さい」という指示が出れば
紙に文字を書く行為への注意は散漫になりやすくなります。

周りに大勢、人がいたりすれば、場の空気を考えて急ぐ人だっているでしょう。

待たせないように急いで考えたり、急いで書いたりする。
となれば、筆跡の丁寧さに違いが出やすいわけです。

気持ちを込めて、集中して書いた「行きたいデートスポット」と
ただ急いで3つ書かなければいけなかった「ダミーの場所」では
筆跡に違いが表れても自然なことです。

実際、テレビでやっていたものは、かなり差がありました。

一画、一画を丁寧に書いていた「行きたい場所」と
ところどころ繋げて書いた部分のある「ダミーの場所」。
それだけでも、相当な情報が得られます。

その上で、当てる段階でも情報を集めています。

4枚の紙を重ねて、裏を向けて置かせる。
そして、一枚を取って、自分で確認をしてから、メンタリストに見せる。

この流れですと、自分一人だけチラッと見た瞬間に
最も無防備に表情が変化しやすいわけです。

それから見せる段階でポーカーフェイスを作って紙を出しても
既に変化のタイミングは見られた後、ということ。

それをしやすくするためにも、紙のサイズは
スケッチブックぐらい大きいほうが良いんでしょう。

小さな紙だと並べて、事前に順番を考えたりできてしまいますから。

扱いにくい大きな紙を使うことで、次に自分が見せる文字の内容さえ
本人が分かっていない状態で覗き込む作業を強要できるわけです。

見にくいチラッと覗き込む。
そっちの作業に注意が向きやすくなって、表情の反応が無防備になる、と。

もちろん、気持ちを込めて書くように指示した「行きたいデートスポット」の文字には
そのときの状態もアンカーされていますから、瞬間的に
その状態も全身に呼び起こされやすいはずです。
全身の筋肉が緩む感じや、ポジティブな印象に伴う変化が出やすいでしょう。

重要なのは、観察そのものは当然のこと、
そうした「ポジティブな印象のもの」と「どうでもいいもの」の両者が
できるだけ異なった反応として表れやすいように工夫をしているところです。

違いが大きく、沢山表れるように工夫を重ねている。
そこが正解率を上げるポイントになっていると思われます。


そんな風な工夫を探していく観点で見てみると面白い気がします。

2012年04月14日

肩すかしな感じ

期末試験が終わって、学校が春休みになりました。

といっても、そんなに毎日通っていたわけではありませんから
大きな変化ではないような気がします。

特に、勉強していた内容に新鮮味がなかったので
「勉強が休みになる」という印象は一切ありません。

一番、僕にとって重要な変化になるのは、英語を使う頻度が下がること。

実際に会話として発する機会は多くないとしても
英語ばかりの環境に身を置いていると気づかずに慣れているところがあるようです。

その実感は、連続して学校に行くときに強まっていましたから。
3日ぐらい続けて英語の環境に身を置くと、ちょっとスムーズな感じがしてきます。

そういう実感があるからこそ、「春休み」をシッカリと取ってしまうと
その英語に対する慣れの部分でロスがありそうな気がします。


ということで、しばらく行っていなかった英会話スクールに
再び通い始めることにしました。

集中的に行くのは春休みだけのつもりですが。

それで、数か月ぶりにスクールに予約に行ったところ
随分と講師陣に変更が起きていたんです。

”変更”といえば聞こえがいいですが、退職が多いというのが実情。

特に残念なのは、僕が気に入って、良くレッスンを受けていた先生が
軒並み退職していたということです。

さらに、あと二週間ぐらいで、もう一人の先生も退職の予定とか。

あまり選ばないようにしていた先生ばかりが残っていく感じで…。

モチベーションが下がります。

一応、スタッフに確認したところ、一人は新しい先生を雇う予定らしいですが
どうなることか予測もつきませんし。

別のところを探してみたい気持ちが沸いてきています。


しかし、よくよく自分の気持ちを探ってみると
このことを残念に感じるのは、ただ今回の英会話の話だけではないようです。

なんというか、そもそも僕自身の経験上、
「素晴らしい先生と長く関われない」
という思い込みがある気がします。

おそらく自分にとって思い入れのあった、残念なことが強く印象に刻まれているんでしょう。

言い方を変えれば、
「もっとこの先生から勉強したかった」
という残念さが残っているんだと思います。

今回の英会話の先生たちは、僕にとって、実を言うと
そこまで素晴らしい先生とは感じていません。
失礼な言い方だとは思いますが。

前に一年以上ずっとレッスンを受けていたジョシュアが印象に残っていて
そこと比べてしまっていたからだとは思います。

英会話だけでさえ、そんな思いが刻まれているからこそ
今回の残念な結果から、過去の色々な気持ちが芋づる式に呼び出されるんでしょう。

多分、僕の中には「長年、○○先生の元で修業した」みたいなことが
憧れとして存在しているんだと思います。

もっといえば、今、何かを学ぶことに飢えているのかもしれません。


となると…。

古典ですかね。

うーん、エリクソンの論文でも読んでみますかねぇ。

2012年04月12日

催眠が不向きな人になりました

催眠を久しぶりに”練習”してみて気づいたのは、
以前と比べて、自分が暗示にかかりにくくなっているということでした。

用語として正確に使うと「暗示にかかりにくい」であって
「催眠にかかりにくい」ではありません。

”催眠”は、かけたり、かかったりするものではなく、
「催眠でトランスに導く」ものです。

”催眠”とはトランスに入っていくプロセスを示す言葉なんです。

催眠はトランスへ誘導するプロセスの1つですから、催眠自体には
多くの人がそうぞうする、いわゆる「催眠にかかった状態」を生み出す作用はありません。

催眠を使うと、暗示に対する反応性(被暗示性)が上がるとされますが、
人が何か特定の指示に従うような反応をするようになるのは、
「”暗示”にかかった状態」といったほうが用語としては正確なわけです。


で、僕はトランスに入るという意味での”催眠”に対しても、
”暗示”に対する反応に対しても、どちらも極端に反応しにくくなっていました。

こういった勉強を始めたばかりの頃は、かなり”かかりやすい”人だったんですが。

実際、居酒屋で「声が出なくなる」なんていう暗示を入れられて話せなくなったり、
「体が重くなる」暗示で、テーブルにベタっと伏せて立てなくなったり、
色々な経験をしたことがあります。

なのに、それがすっかり…。

レモンの味なんて、甘くなりません。

催眠誘導してもらっても、深いトランスに入るケースが少なくなったように思います。


端的に、かつ、催眠の人たちの用語を引用して説明すれば、
「意識の領域が増えて、無意識の領域が減った」せいじゃないかという気がします。

以前と比べて、遥かに多くのことを意識しながら生活するようになりました。

良く使われる説明として、この文字を読んでいるときには
自分の足の裏の感覚には意識を向けていないけれど、
そのことを言われると、急に意識が向くようになる、といった内容があります。

そういう観点では、常に多くの情報を意識に上げているようになったんです。

普段から沢山のことを同時に意識に上げています。

意識が集中するという体験が減った実感があります。

また、以前は受け取っていなかった情報もピックアップするようになりました。
意識可能な範囲も広がったと思います。

喩えて言うと、以前は10ぐらいしか一度に意識できなくて、
意識しようとして意識できる範囲も30ぐらい、
30の中から、10をどこに向けるかの違いをもって生活していた感じ。
それが集中すると一か所に3だけ向けるときもあった感じです。

それが今は、意識できる範囲が80ぐらいになって、
最大で50ぐらいを一度に意識するようになった感じ。
日常でも25ぐらいは絶えず意識に上げている気がします。

もちろん、過去の記憶とかにまで意識を向けていけば
まだまだ意識できる範囲が広がりますから、残りどれぐらいあるのかは知りません。

こんな風になったのは、色々と学んだせいでもあるでしょうが、それ以上に
何かをしながら別の何かを同時にする作業が求められてきたせいでしょう。
カウンセリングの時には、同時に沢山のことをしていますから。

なので、催眠のプロセスでも色々なことを同時に体験し過ぎていて
特定のイメージに没頭するようなトランスにも入りにくいですし、
意識のレベルが純粋に低下するようなトランスにも入りにくい感じがします。

10を3に集中させたり、10を1に低下させたりするのと、
30を3に集中させたり、30を1に低下させたりするのでは
大きな差があるようなものでしょう。

いわゆる「”暗示”にかかる」ケースでは
暗示のメッセージの内容に意識が集中することで
言われた通りの感覚体験をすることになります。

そもそも集中しにくくなっていたら、被暗示性は下がって当然だと思われます。

別に抵抗しているわけじゃないんですけどね。

やり方を工夫する必要が高まってしまったわけです。

仮に、僕の味覚をコントロールして、レモンを甘く感じさせようとしたら
甘さの感覚体験の記憶に、強く集中する必要があります。

例えば、具体的に甘いものを詳細に思い出させて、
甘さが舌のどのあたりで、どのような感覚として感じられているのか、
それがレモンに加わったら、どんな味になりそうなのか、
甘さにも色々な質がある中で、どんな質の甘さなのか…、
といったことを詳しく呼び起こすとかをしないと上手くいかないでしょう。

「今から、甘い食べ物を食べてもらいます」なんて大雑把な言い方では
僕の記憶のカテゴリーでは、集中した状態にはなりません。

目一杯、詳細な甘さの違いに注意を向けて、
どの甘さ体験のカテゴリーかを特定することができれば、
その部分に意識を集中することができる気がします。


もう1つ、暗示にかかりにくくなった理由として考えられるのは、
言語に対する理解の仕方の変化です。

例えば、「『ボール』と言われたときに、頭の中に何が浮かぶか」といった話です。

人によっては、野球のボールかもしれないし、テニスボールかもしれないし、
サッカーボールや、バスケットボールかもしれません。
ピンポン球が浮かぶ人もいれば、もしかすると
料理で使うステンレスの”ボール”が浮かぶ人もいるかもしれない。

ですが、コミュニケーションの観点から、聞き方のトレーニングをしてくると
相手の言った「ボール」が何を指示しているのかが分からない以上、
自分の頭の中で勝手に、具体的な種類の「ボール」を思い浮かべないほうが
役に立つことが体験的に理解できてくるんです。

一般的には、自分にとって馴染みのあるボールが浮かびやすいものです。
それで、後から良く聞いてみたら、違う種類のボールだった、なんてことになる。

修正のタイミングが遅れるんです。
場合によっては、思い込みのまま会話が進んで、誤解を生むこともあります。

だから、「ボール」と言われても、特定の種類のボールを浮かべるのではなく
「曖昧な球体」程度のイメージで頭の中で捉えるようにしておいて、
”明確化できていない部分”として覚えておくわけです。

そのほうがミス・コミュニケーションを減らせる可能性が高いからです。

で、そうやって聞く癖をつけていくと、
暗示で「目の前にボールが見えます」なんて言われても
「どのボールのことを言っているの?」となって、具体的な映像にはなりません。

イメージを喚起させるような内容の暗示に対しては、
僕が勝手に不足した情報を補うことをしない癖がついてきたため
具体的な仮想体験として実感しにくくなっているんでしょう。


そんなことを考えると、僕に暗示を入れるためには
相当、繊細な工夫をしてもらう必要がありそうです。

逆にいえば、今までの催眠術がやっていたことは
かなり雑な手法だったということになりますが。

暗示がかかりやすい人に、どこまでの暗示が入るかを試すのが
催眠で良くなされている方向性のような印象があります。

催眠術ショーなんていうのは、まさにその典型です。
一番かかる人を舞台に上げているわけですから。

むしろセラピーで求められるのは、
最も暗示にかかりにくい人へ、どうやって工夫をしていくか
のほうじゃないかと思います。

その意味では、僕は結構、良い練習台かもしれません。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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