2012年07月
2012年07月31日
やっぱり観察力
英語で受けいていたカウンセリング講座が終わりました。
最終日はカウンセリングのセッションをして、その技能を評価する形。
点数は講師がつけているとのことでしたが、中身を知ることはできません。
終わった後のフィードバックでは
「観察力が優れていて、クライアントの感情や背後にあるものを読みとっている」
とのコメントをもらいました。
多少は慣れてきたとはいえ、英語でカウンセリングをするのは大変ですし、
傾聴中心で質問をするわけではありませんから
要約をしたりするのが大変でもあるわけです。
それもあって、自然と感情よりの言葉がけが多くなるんだと思います。
しかし、とりたててコールドリーディングみたいなことはしていませんし、
読みとっている感情も上手く言語化できていないつもりでしたから、
そんなに観察に力を入れていたとは思っていませんでした。
それでも結局、講師からフィードバックされるのは観察力について。
自覚している以上に技術の偏りがあるのかもしれません。
それが強みなんだとも言えますが、アピールする方法が難しい。
ちょっとした悩みどころです。
一通り、カウンセリングの初級講座を終えてみると、
基本的な言語能力を高めながら、トレーニングしたいところが沢山出てきます。
内容が傾聴に絞ったトレーニングだったからこそ、
様々な技術を同時に駆使するタイプのトレーニングとは違った
コダワリの側面にも目が向きやすかったのかもしれません。
傾聴の本質は、表面的にオウム返しをしたり、話を要約することではなく
相手と良い関係を作るところにあるのでしょう。
ただ、その相手との関係づくりだけを目的としたコミュニケーションをするとしたら
そのトレーニングは意外と中身の濃いものになるんだと感じます。
1つの技術の側面に思えるものでも、それを集中的に
コダワリをもって訓練していくと、課題は色々と見つかってくるようです。
僕の場合、目下は言語能力を上げつつ、自由に言葉が出せるようになるのが目標。
やっぱり、実際のセッションのビデオなどを元に
言語的な勉強をするのが効果的な気がしました。
そして覚えたフレーズを使ってみる。
そうでないと定着しないでしょうから。
なかなかそうした機会は多くないので工夫が必要そうです。
最終日はカウンセリングのセッションをして、その技能を評価する形。
点数は講師がつけているとのことでしたが、中身を知ることはできません。
終わった後のフィードバックでは
「観察力が優れていて、クライアントの感情や背後にあるものを読みとっている」
とのコメントをもらいました。
多少は慣れてきたとはいえ、英語でカウンセリングをするのは大変ですし、
傾聴中心で質問をするわけではありませんから
要約をしたりするのが大変でもあるわけです。
それもあって、自然と感情よりの言葉がけが多くなるんだと思います。
しかし、とりたててコールドリーディングみたいなことはしていませんし、
読みとっている感情も上手く言語化できていないつもりでしたから、
そんなに観察に力を入れていたとは思っていませんでした。
それでも結局、講師からフィードバックされるのは観察力について。
自覚している以上に技術の偏りがあるのかもしれません。
それが強みなんだとも言えますが、アピールする方法が難しい。
ちょっとした悩みどころです。
一通り、カウンセリングの初級講座を終えてみると、
基本的な言語能力を高めながら、トレーニングしたいところが沢山出てきます。
内容が傾聴に絞ったトレーニングだったからこそ、
様々な技術を同時に駆使するタイプのトレーニングとは違った
コダワリの側面にも目が向きやすかったのかもしれません。
傾聴の本質は、表面的にオウム返しをしたり、話を要約することではなく
相手と良い関係を作るところにあるのでしょう。
ただ、その相手との関係づくりだけを目的としたコミュニケーションをするとしたら
そのトレーニングは意外と中身の濃いものになるんだと感じます。
1つの技術の側面に思えるものでも、それを集中的に
コダワリをもって訓練していくと、課題は色々と見つかってくるようです。
僕の場合、目下は言語能力を上げつつ、自由に言葉が出せるようになるのが目標。
やっぱり、実際のセッションのビデオなどを元に
言語的な勉強をするのが効果的な気がしました。
そして覚えたフレーズを使ってみる。
そうでないと定着しないでしょうから。
なかなかそうした機会は多くないので工夫が必要そうです。
2012年07月28日
意識と意思
心理学的に『意識』という単語の意味は
「内的・外的な体験に対して気づいていること」
となります。
五感を通じた外的世界の感覚体験に対する自覚、
体の内側の身体反応や運動に関する感覚体験に対する自覚、
自己という存在に対する自覚、
自分の頭の中で思考が進んでいることへの自覚(メタレベルの自覚)
などが意識の内容とされます。
つまり、「意識」は「意図」や「意志」、「随意」とは違います。
アイデンティティの意味で使われる「自我」は含まれるかもしれませんが
全てが意識の内容とも言えないでしょう。
自覚している範囲が『意識』というのが基本的な考え方。
その意味では、『意識』は形容詞として
『意識している』という使い方がベースになるものなわけです。
当然、『無意識』というのも「 unconscious 」ですから
『意識していない』という使い方が基本のはずです。
ただ、フロイトのニュアンスに近づけると
「意識できない」
という使い方になってきて、
また、それと関連する状態として、
「意識していないときもあるけど、意識するときもあって、
意識しようとすればできる」
レベルのものとして『前意識』というのがあります。
ですから、フロイト以来
『意識』や『無意識』というのは、本人が体験する状態であって
心の機能ではないはずなんです。
「意識している状態」、「無意識の状態」…そんなニュアンス。
ところが、特に日本語では使われ方が曖昧になりやすくて
さらに『潜在意識』なんていう言葉が追加されると
その辺の用語の使い方はグチャグチャになります。
『潜在意識』といったときには、『顕在意識』という”心の部分”があって
その対義語として、「顕在意識以外の”心の部分”」の意味で使われるようです。
その言い方だと、さらにユングの集合無意識まで含まれることもあって、
「顕在意識」以外の心の部分には、個人の心の部分を超えたものも含まれて、
とにかく、物凄く大きな領域の”心の部分”といった意味が出たりもします。
おそらく、その意味合いの影響もあるからでしょう。
日本語で『無意識』というと、本来の心理学的な「 unconsciousness 」、
つまり「意識している状態ではないこと」の意味から離れて、何か
「自分の知らないところで勝手に進んでいる”心の機能”や、その”心の部分”」
といった感じが出ているようです。
催眠、自己啓発、NLP、一部の心理療法、ある種のコーチングなどでは
明らかに『意識』や『無意識』は”状態”ではなく、”心の機能”の意味になっている。
「意識でコントロールする」
「無意識に〜してしまう」
「無意識を信頼する」
といった表現は、そうした使い方の例です。
例えば、
「無意識に食べてしまう」
「無意識で怒りが沸いてくる」
と言ったとしたら、それは心理学の意味からするとズレているわけです。
食べていることは自覚していますし、
怒りが沸いてきているのも自覚していますから、
そのことを「意識はしている」はずなんです。
一方、「無意識に笑っていた」とか「無意識に頭をかいていた」なら
他人から指摘されて初めて「それを意識している状態」になりますから、
その場合の使い方はありえなくもないでしょう。
つまり、
気づいているか/気づいていないか
自覚しているか/自覚していないか
が『意識』か『無意識』かの境目であって、
自分が意図的にそうしたか/意図せずにしていたのか
随意的な動作か/不随意の動作か
自分がやろうと思ってやったか/勝手にやっていたか
は、『意識』や『無意識』とは関係ない、ということです。
実際、エリクソンは「 conscious mind 」や「 unconscious mind 」と呼んでいて
僕の催眠の先生もきちんと、「意識の心」、「無意識の心」と呼んでいました。
自分が意識している心の部分と、意識していない心の部分がある。
そんなニュアンス。
フロイトは、そうした意思決定に関わるような部分、
自分の行動をコントロールしていく”心の機能”に関しては、
「 ego 」、「 super-ego 」、「 id 」と呼びました。
(ちなみに、フロイトはドイツ語なので、これはラテン語訳を取り入れた英語です。)
日本語だと、「自我」、「超自我」、「イド」に対応します。
(「イド」は、ドイツ語のまま「エス」と呼ばれることもあります。)
(「自我」はアイデンティティの意味で使われることもあるので注意が必要ですが…。)
いずれの言い方にせよ、
・「 ego (自我)」は、自分の現実的な生活のメリットをベースに意思決定をして
自分の振る舞いをコントロールするもの
・「 super-ego (超自我)」は、社会的なルールを取り入れて
自分の振る舞いをコントロールするもの
・「イド(エス)」は、人間の根源的な欲望や衝動、本能的・短期的な欲求
という内容です。
ここで、「自我」は『意識』から『前意識』までにわたっていて、
「超自我」は『意識』から『無意識』まで全てにわたっている。
「イド(エス)」は、全て『無意識』の範囲のもの。
そういう関係性になります。
つまり、フロイトは、自分の本能的な欲求や衝動は
自覚していない(無意識の)ものであって、
それをコントロールするために、「自我」と「超自我」を使っている、
と考えたようなんです。
そして、「自我」による「イド」のコントロールは自覚できるもの
つまり意識しているか、前意識の状態のものであって、
「超自我」というルールによるコントロールには
意識しているものから、意識していないものまで色々ある、と。
自分の振る舞いをコントロールする機能は
『意識』かどうかとは無関係だという発想だったわけです。
心理学では、「意思決定」や「随意運動」が、自分の行動や振る舞いを
”自分”でコントロールしているときの用語として使われるんです。
フロイトは、それを「自我」とか「超自我」と言いましたが、
ポイントは、『意識』か『無意識』かとは無関係なところ。
ちなみに、「随意運動」は「不随意運動」の対義語として考えると
意識することもできて、意識しないこともできるといった点で
フロイト風に言うなら『前意識』の範囲のものだと考えられます。
その意味では、「自分で行動や振る舞いをコントロールする感じ」は
『意思』という日本語と一番近い気がします。
英語なら「 voluntary 」がシックリきますが、
これを日本語訳すると「意図的」となって「 intentional 」と混ざってしまいますから。
「意図」のほうが、背後に理由がありそうな意味合いで、
「意思」のほうが、なんとなく自分で決めた感じだけになりそうに思います。
そこも考慮して、『意思』が良いと考えているんです。
ですから、
「自分の”意思”でやったわけではない(随意的ではない、意図的ではない)行動」
にも、『意識的』なものと、『無意識的』なものがあることになります。
自分の”意思”でやったわけではない。
でも、その行動をしていることには気づいていた。
その意味では『意識的』ではあったといえる。
一方…
自分の”意思”でやったわけではない。
その行動をしていたことにも気づいていなかった。
その意味では『無意識的』だったといえる。
そんな区別があるはずなんです。
にもかかわらず、自己啓発や一部の催眠の流派、一部のコーチングやNLPだと
「自分の”意思”でやったわけではない行動」を全て
「『無意識』がやった」という表現にしてしまいます。
それはせめて、「『無意識の心』がやった」という比喩的・擬人的な言い方だと
自覚できているほうが、言葉遣いとしては正確になるはずです。
なぜ、ここにコダワリをもっているかというと、
用語の問題ではなくて、メカニズムとして何が起きているかが違うからです。
それによって、アプローチの仕方が変わるからです。
例えば、無意識の(自覚していない)行動であっても
意識する(自覚する)だけで、”意思”によって簡単にコントロールできる
というものも沢山あるわけです。
自分の歩き方や姿勢などは、意識せずに、無意識でやっていることでしょうが、
変えようと思えば、意識に上げることで簡単にコントロールできます。
ところが、意識しているとしても、
”意思”によってコントロールできないことが沢山あるんです。
いや、むしろ問題になるのは
「意識しているけれど、”意思”でコントロールできない」行動でしょう。
人前で緊張するのは、明らかに意識しているはずです。
ですが、自分の”意思”で緊張したわけではなく、
”意思”で緊張をやめるようにコントロールすることもできない。
だから困るんです。
”意思”でコントロールできるレベルの問題であれば
『気づき』を引き起こして、『意識』できるようにしてやるだけで
十分に問題を解決できるチャンスが生まれます。
思考法や「〜術」など、本やセミナーによって知識を学べば対処できます。
『意識』していれば、”意思”で、方法を変えられるからです。
逆に”意思”でコントロールできない問題になると
その本質は『意識』しているか、『無意識』なのかではありません。
その動作や振る舞いを変えるのには、知識を学ぶだけでは対処できません。
”意思”とは別の部分で、変えていく必要があります。
それこそがセラピーの中心部分のはずです。
こちらは『気づき』があっても、あまり関係ないんです。
気づいて、『意識』できることが増えたら、
”意思”でコントロールできるようになるのでしょうか?
マシになることはありますが、解決に必要なのは『気づき』ではありません。
”意思”とは無関係なプロセスを変える技術が求められるんです。
『気づき』が求められる変化と、そうでない変化がある、ということです。
『気づき』で解決されるような問題であれば、
『無意識』だったものを『意識』に上げることが役立ちます。
『気づき』で解決されない問題なのだとしたら、対処の仕方は別です。
理解のレベルで区別しておくことの意味は、
対処の仕方を区別できるようになるところにあると思います。
区別せずに理解していると、対処の方向性を間違えても
それに気づかない可能性があると思うんです。
それこそ『無意識』に間違いを繰り返してしまうリスクがある。
”無意識の心”を信頼したいのであれば、その前に、
信頼に値するだけの学習を『意識』できるようにするのが大切な気がします。
「内的・外的な体験に対して気づいていること」
となります。
五感を通じた外的世界の感覚体験に対する自覚、
体の内側の身体反応や運動に関する感覚体験に対する自覚、
自己という存在に対する自覚、
自分の頭の中で思考が進んでいることへの自覚(メタレベルの自覚)
などが意識の内容とされます。
つまり、「意識」は「意図」や「意志」、「随意」とは違います。
アイデンティティの意味で使われる「自我」は含まれるかもしれませんが
全てが意識の内容とも言えないでしょう。
自覚している範囲が『意識』というのが基本的な考え方。
その意味では、『意識』は形容詞として
『意識している』という使い方がベースになるものなわけです。
当然、『無意識』というのも「 unconscious 」ですから
『意識していない』という使い方が基本のはずです。
ただ、フロイトのニュアンスに近づけると
「意識できない」
という使い方になってきて、
また、それと関連する状態として、
「意識していないときもあるけど、意識するときもあって、
意識しようとすればできる」
レベルのものとして『前意識』というのがあります。
ですから、フロイト以来
『意識』や『無意識』というのは、本人が体験する状態であって
心の機能ではないはずなんです。
「意識している状態」、「無意識の状態」…そんなニュアンス。
ところが、特に日本語では使われ方が曖昧になりやすくて
さらに『潜在意識』なんていう言葉が追加されると
その辺の用語の使い方はグチャグチャになります。
『潜在意識』といったときには、『顕在意識』という”心の部分”があって
その対義語として、「顕在意識以外の”心の部分”」の意味で使われるようです。
その言い方だと、さらにユングの集合無意識まで含まれることもあって、
「顕在意識」以外の心の部分には、個人の心の部分を超えたものも含まれて、
とにかく、物凄く大きな領域の”心の部分”といった意味が出たりもします。
おそらく、その意味合いの影響もあるからでしょう。
日本語で『無意識』というと、本来の心理学的な「 unconsciousness 」、
つまり「意識している状態ではないこと」の意味から離れて、何か
「自分の知らないところで勝手に進んでいる”心の機能”や、その”心の部分”」
といった感じが出ているようです。
催眠、自己啓発、NLP、一部の心理療法、ある種のコーチングなどでは
明らかに『意識』や『無意識』は”状態”ではなく、”心の機能”の意味になっている。
「意識でコントロールする」
「無意識に〜してしまう」
「無意識を信頼する」
といった表現は、そうした使い方の例です。
例えば、
「無意識に食べてしまう」
「無意識で怒りが沸いてくる」
と言ったとしたら、それは心理学の意味からするとズレているわけです。
食べていることは自覚していますし、
怒りが沸いてきているのも自覚していますから、
そのことを「意識はしている」はずなんです。
一方、「無意識に笑っていた」とか「無意識に頭をかいていた」なら
他人から指摘されて初めて「それを意識している状態」になりますから、
その場合の使い方はありえなくもないでしょう。
つまり、
気づいているか/気づいていないか
自覚しているか/自覚していないか
が『意識』か『無意識』かの境目であって、
自分が意図的にそうしたか/意図せずにしていたのか
随意的な動作か/不随意の動作か
自分がやろうと思ってやったか/勝手にやっていたか
は、『意識』や『無意識』とは関係ない、ということです。
実際、エリクソンは「 conscious mind 」や「 unconscious mind 」と呼んでいて
僕の催眠の先生もきちんと、「意識の心」、「無意識の心」と呼んでいました。
自分が意識している心の部分と、意識していない心の部分がある。
そんなニュアンス。
フロイトは、そうした意思決定に関わるような部分、
自分の行動をコントロールしていく”心の機能”に関しては、
「 ego 」、「 super-ego 」、「 id 」と呼びました。
(ちなみに、フロイトはドイツ語なので、これはラテン語訳を取り入れた英語です。)
日本語だと、「自我」、「超自我」、「イド」に対応します。
(「イド」は、ドイツ語のまま「エス」と呼ばれることもあります。)
(「自我」はアイデンティティの意味で使われることもあるので注意が必要ですが…。)
いずれの言い方にせよ、
・「 ego (自我)」は、自分の現実的な生活のメリットをベースに意思決定をして
自分の振る舞いをコントロールするもの
・「 super-ego (超自我)」は、社会的なルールを取り入れて
自分の振る舞いをコントロールするもの
・「イド(エス)」は、人間の根源的な欲望や衝動、本能的・短期的な欲求
という内容です。
ここで、「自我」は『意識』から『前意識』までにわたっていて、
「超自我」は『意識』から『無意識』まで全てにわたっている。
「イド(エス)」は、全て『無意識』の範囲のもの。
そういう関係性になります。
つまり、フロイトは、自分の本能的な欲求や衝動は
自覚していない(無意識の)ものであって、
それをコントロールするために、「自我」と「超自我」を使っている、
と考えたようなんです。
そして、「自我」による「イド」のコントロールは自覚できるもの
つまり意識しているか、前意識の状態のものであって、
「超自我」というルールによるコントロールには
意識しているものから、意識していないものまで色々ある、と。
自分の振る舞いをコントロールする機能は
『意識』かどうかとは無関係だという発想だったわけです。
心理学では、「意思決定」や「随意運動」が、自分の行動や振る舞いを
”自分”でコントロールしているときの用語として使われるんです。
フロイトは、それを「自我」とか「超自我」と言いましたが、
ポイントは、『意識』か『無意識』かとは無関係なところ。
ちなみに、「随意運動」は「不随意運動」の対義語として考えると
意識することもできて、意識しないこともできるといった点で
フロイト風に言うなら『前意識』の範囲のものだと考えられます。
その意味では、「自分で行動や振る舞いをコントロールする感じ」は
『意思』という日本語と一番近い気がします。
英語なら「 voluntary 」がシックリきますが、
これを日本語訳すると「意図的」となって「 intentional 」と混ざってしまいますから。
「意図」のほうが、背後に理由がありそうな意味合いで、
「意思」のほうが、なんとなく自分で決めた感じだけになりそうに思います。
そこも考慮して、『意思』が良いと考えているんです。
ですから、
「自分の”意思”でやったわけではない(随意的ではない、意図的ではない)行動」
にも、『意識的』なものと、『無意識的』なものがあることになります。
自分の”意思”でやったわけではない。
でも、その行動をしていることには気づいていた。
その意味では『意識的』ではあったといえる。
一方…
自分の”意思”でやったわけではない。
その行動をしていたことにも気づいていなかった。
その意味では『無意識的』だったといえる。
そんな区別があるはずなんです。
にもかかわらず、自己啓発や一部の催眠の流派、一部のコーチングやNLPだと
「自分の”意思”でやったわけではない行動」を全て
「『無意識』がやった」という表現にしてしまいます。
それはせめて、「『無意識の心』がやった」という比喩的・擬人的な言い方だと
自覚できているほうが、言葉遣いとしては正確になるはずです。
なぜ、ここにコダワリをもっているかというと、
用語の問題ではなくて、メカニズムとして何が起きているかが違うからです。
それによって、アプローチの仕方が変わるからです。
例えば、無意識の(自覚していない)行動であっても
意識する(自覚する)だけで、”意思”によって簡単にコントロールできる
というものも沢山あるわけです。
自分の歩き方や姿勢などは、意識せずに、無意識でやっていることでしょうが、
変えようと思えば、意識に上げることで簡単にコントロールできます。
ところが、意識しているとしても、
”意思”によってコントロールできないことが沢山あるんです。
いや、むしろ問題になるのは
「意識しているけれど、”意思”でコントロールできない」行動でしょう。
人前で緊張するのは、明らかに意識しているはずです。
ですが、自分の”意思”で緊張したわけではなく、
”意思”で緊張をやめるようにコントロールすることもできない。
だから困るんです。
”意思”でコントロールできるレベルの問題であれば
『気づき』を引き起こして、『意識』できるようにしてやるだけで
十分に問題を解決できるチャンスが生まれます。
思考法や「〜術」など、本やセミナーによって知識を学べば対処できます。
『意識』していれば、”意思”で、方法を変えられるからです。
逆に”意思”でコントロールできない問題になると
その本質は『意識』しているか、『無意識』なのかではありません。
その動作や振る舞いを変えるのには、知識を学ぶだけでは対処できません。
”意思”とは別の部分で、変えていく必要があります。
それこそがセラピーの中心部分のはずです。
こちらは『気づき』があっても、あまり関係ないんです。
気づいて、『意識』できることが増えたら、
”意思”でコントロールできるようになるのでしょうか?
マシになることはありますが、解決に必要なのは『気づき』ではありません。
”意思”とは無関係なプロセスを変える技術が求められるんです。
『気づき』が求められる変化と、そうでない変化がある、ということです。
『気づき』で解決されるような問題であれば、
『無意識』だったものを『意識』に上げることが役立ちます。
『気づき』で解決されない問題なのだとしたら、対処の仕方は別です。
理解のレベルで区別しておくことの意味は、
対処の仕方を区別できるようになるところにあると思います。
区別せずに理解していると、対処の方向性を間違えても
それに気づかない可能性があると思うんです。
それこそ『無意識』に間違いを繰り返してしまうリスクがある。
”無意識の心”を信頼したいのであれば、その前に、
信頼に値するだけの学習を『意識』できるようにするのが大切な気がします。
2012年07月26日
答えを聞きました
前に「 think about nothing 」のニュアンスについて書きました。
(そのときの内容はこちら>>)
瞑想とは何か?と聞かれたネイティブの一人が
「 to think about nothing 」と答えた、という話です。
それで
「 to think about nothing 」と
「 not to think about anything 」
とは同じか?という疑問です。
僕のイメージでは
「 to think about nothing 」だと「考える」作業をやっている感じ。
ただ、考えている中身が無い。
一方、「 not to think about anything 」の場合
「どんなことについて考えることもしない」というイメージが浮かびます。
つまり「考える」という作業をしていない状態です。
僕にとっては、2つの言い方が違う内容に思えたんです。
それでネイティブ・スピーカーに質問してみました。
ネイティブも僕のイメージしたのと同じニュアンスを感じるそうです。
「何も考えない」というのであれば
「 not to think about anything 」
のほうが近いようです。
文法的にも、「 not to think about anything 」のほうが普通だろう、と。
「 think about nothing 」は何か矛盾した感じがすると言っていました。
ただし、瞑想を「 to think about nothing 」と答えた彼のイメージが
意図的に「考える作業はしているんだけど、その中身が空っぽ」
というニュアンスで答えていた可能性もあります。
そして、
「考える作業をしているけど、中身が空っぽ」と
「何も考える作業をしてない」
のと、どちらが瞑想に近いのかは、また別の話になります。
「 not to think about anything (何も考える作業をしない)」だと
何か別の作業をしている可能性も想像されますし、
そこまで踏まえて「 to think about nothing 」だったのかもしれません。
それはともかく、「 not 」のつく位置でニュアンスが変わるというのは
言語としては自然なことのようです。
ちなみに、沢山のネイティブに確認したわけではありませんから
全員がそう感じるかは分かりませんが。
(そのときの内容はこちら>>)
瞑想とは何か?と聞かれたネイティブの一人が
「 to think about nothing 」と答えた、という話です。
それで
「 to think about nothing 」と
「 not to think about anything 」
とは同じか?という疑問です。
僕のイメージでは
「 to think about nothing 」だと「考える」作業をやっている感じ。
ただ、考えている中身が無い。
一方、「 not to think about anything 」の場合
「どんなことについて考えることもしない」というイメージが浮かびます。
つまり「考える」という作業をしていない状態です。
僕にとっては、2つの言い方が違う内容に思えたんです。
それでネイティブ・スピーカーに質問してみました。
ネイティブも僕のイメージしたのと同じニュアンスを感じるそうです。
「何も考えない」というのであれば
「 not to think about anything 」
のほうが近いようです。
文法的にも、「 not to think about anything 」のほうが普通だろう、と。
「 think about nothing 」は何か矛盾した感じがすると言っていました。
ただし、瞑想を「 to think about nothing 」と答えた彼のイメージが
意図的に「考える作業はしているんだけど、その中身が空っぽ」
というニュアンスで答えていた可能性もあります。
そして、
「考える作業をしているけど、中身が空っぽ」と
「何も考える作業をしてない」
のと、どちらが瞑想に近いのかは、また別の話になります。
「 not to think about anything (何も考える作業をしない)」だと
何か別の作業をしている可能性も想像されますし、
そこまで踏まえて「 to think about nothing 」だったのかもしれません。
それはともかく、「 not 」のつく位置でニュアンスが変わるというのは
言語としては自然なことのようです。
ちなみに、沢山のネイティブに確認したわけではありませんから
全員がそう感じるかは分かりませんが。
2012年07月24日
効果的にトレーニングをするために
夏学期が終わりました。
期末試験の翌日には、もう成績が発表されるシステム。
ネットを活用して個人情報が管理されるからこそ
色々なことが便利になってスピードも上がっているんでしょう。
夏学期は2ヶ月ちょっとで終わります。
ただ、授業の内容と単位数は他の学期と同じですから
授業時間も詰め込まれている感じになります。
大体1.5倍ぐらい。
それと週一回のカウンセリング講座を取って
仕事も重なっていたので、結構忙しい感じの生活になっていました。
授業は少人数のクラスだったこともあって質問がしやすく
教授自体からも教育に対する想いが感じられて楽しく受けられました。
宿題の量が多く、テストも頻繁にありましたから
その点は大変だったものの、それとて採点が甘かったですから
救済処置として取られていたように感じられます。
…といっても、他の学生には厳しいコースだったみたいですが。
内容的には心理学の基礎の部分なので知っていることも多く
情報を整理しながら記憶をキッチリさせたという印象でしょうか。
それからテストが選択式の問題に加えて、
短い書き問題を含んでいたので、良いトレーニングになった気がします。
思えば、大学生のときはこうやってテストを中心に勉強をして
その単純作業の繰り返しによって、多くの能力をトレーニングしていたのでしょう。
当時は何のことか分からずに、とにかく「やらなければいけないこと」を
言われるがままにやっていただけですが、大きな意味があったんだと実感します。
間違いなく、僕の日本語力と物事を考える力は、学生時代に訓練されていました。
僕の所属していた学科は、理工学部の中でも1,2を争うぐらい忙しいと噂され
(自分の学科が一番大変だと思いたい学生は、「一番大変だ」と言っていましたが)
実際に、実験とレポートの数は他よりも多かったみたいです。
本当にレポートばっかり書いていました。
実験の前にはプレ・レポートのように下調べをしておく必要がありましたから
実験関係でのみ予習をしていた記憶があります。
ですが、他の科目では予習も復習もしていなかったと思います。
たまに小テストがある授業で、テスト前に勉強するぐらい。
場合によっては、つまらない授業の最中に、他の科目のレポートを書いていたり
当然、寝てばっかりで聞いていなかった授業なんかもありました。
聞いていても分からない授業もいくつかありましたが…。
数学を多用されるとパンクしそうになっていたものです。
それだって、その前の数学の基本知識を練習していなかったせいで
数式を感覚的にイメージできるレベルになっていなかっただけのこと。
必要なトレーニングを飛ばしていたもので大変な思いをしていたか、
そもそも授業を聞きたいとも思っていなかったから寝ていたか、
どちらかだったような気がします。
物理や数学なんて、やり直してみると面白い気づきがあったりしましたから。
今の自分の中に、どれだけ「効果的な学習法」が身についているか、
ということが感じられます。
振り返ると、勿体ない事をしていたなぁ、と。
のんきにサークルに顔を出していた日もありましたし、
高校の同級生と遊びに行ったり、家庭教師のバイトをしたり
ゴルフ練習場でバイトをしたり、お笑いのライブを見に行ったり…。
世間一般の大学生のイメージよりは、課題をやらされて
”勉強”っぽいことにも時間をかけていたとは思いますが、
こうして比較してみると、それでも日本の大学はヌルいのが実感できました。
もちろん、遊びたい盛りに遊ぶのも結構なことだと思います。
何に価値を置いて生きるかは、人それぞれですし。
ただ僕は、”効果的な学び方”を学んで、それを自分なりに考えてきましたから
そのベースで新たに学びの環境に身を置くと、感じ方が違ってくる
…そういう話なだけだと思います。
それに、自分の学生時代を振り返って、「あのときに、もっとこうしていれば…」
なんて考えてみても、結果が上手くいくことを想像するほど、虚しくなります。
おそらく、ストイックに頑張って、効率的に取り組んで、
結果も出るようになるでしょうし、面白さも感じながらやれるんでしょう。
そして、その結果が大して意味を持たないことも分かってしまう。
そこも含めて考えると、やっぱり学校というのは
そこで学ぶ内容そのものよりも、繰り返しのトレーニングの場として
重要な機能が沢山あったんだろうという印象が強まります。
そして僕は、おかげさまで良いトレーニングを積ませてもらったようです。
こうやって以前にやっていたことと近いプロセスを繰り返すと、
比較しながら少し高い視点で体験を理解することができるので
得られるものが大きいと実感しています。
同時に、だからこそ既存のやり方に改善点も沢山見えてくる。
当たり前といえば、当たり前ですね。
僕みたいに比較しながら調べる人は滅多にいないでしょうから。
多くの人は、その道の専門家であって、専門の知識を重ねるばかり。
外から見たり、違った知識を元にゼロから見直し始めることで
気づけるようになるものも沢山あると感じます。
僕は生物化学系の研究職として働いていた時期があって、
生活面としては大企業の中のライフスタイルを知ることができましたし
東京から離れた地域密着型の職場環境を見ることもできました。
学会へもマメに参加することで、アカデミックな領域も身近に体験できました。
一方で、会社を辞めてからは、コミュニケーションや心理療法を学び、
そのトレーニングと実践を仕事にしてきました。
理系の研究職から、コミュニケーションのトレーナーへ。
それだけでも対極のイメージを持つ人は多いようです。
ですが、研究的な視点で学んだからこそ、
効率的に身につけられたものが沢山ありましたし、
その分野での常識に囚われない視点で理解してきたつもりでいます。
また、個人で仕事をする面では、大企業のサラリーマンとしての立場と
大きな違いを知ることができました。
経営者の知り合いも増え、ビジネス対する考え方も変わりました。
トレーナーとして様々な業種の人と接する機会がありましたし、
カウンセリングを通じて、色々な人生に触れました。
大きな組織で働く人が抱えるストレスも見てきましたし、
小規模なビジネスの中身も間近に体験してきました。
それは大学教授や専門性の高いアカデミックな世界とは
随分と違った種類のものだったと感じます。
大学を出て、そのままアカデミックな世界に身を置き
そこで専門性の高い分野の第一人者になる。
そういう生き方の人が体験していないものを
僕は社会との接点の中で見てこられたと思います。
そして今、自分の言語活動を日本語だけのものから
新たに英語を習得しようという流れの中にいます。
それは当然、日本語だけのときとは大きく違います。
文化の差も感じられるし、言語の仕組みの差も感じられる。
もっといえば、言語というものを客観的に理解するのにも役立っています。
これだって最初からバイリンガルだったら実感できなかったものでしょう。
大人になってから外国語を習得しようとしているからこそ
その習得のプロセスを分析することもできる気がします。
そこで見えてくるのも、英語教育で当たり前とされることへの疑問です。
僕に断言できるのは、
「今の僕には外国人相手の日本語教師は、絶対にできない」
ということです。
日本語の間違いを修正したり、ボキャブラリーを教えることはできます。
会話のトレーニングの相手をすることもできます。
文法を説明したり、文章の書き方を指導することもできるでしょう。
発音の修正もできます。
ですが、どうやったら日本語が身につくのかは分かりません。
もしかすると、「英語を身につけた」と言えるレベルになったときには
どういう風にすると日本語を習得できるかも教えられるかもしれませんが。
逆に、僕自身が、どうやったら英語を上達させられるかは
ネイティブの英語教師よりも分かっている自信があります。
間違いをチェックしてもらうことは重要ですが
間違いをチェックするだけで言語を習得できるわけではないと思います。
端的に言えば、効果的なトレーニングが必要なんです。
それは闇雲に会話をしていれば良いわけでもないし
新しい言い回しを覚えていくだけのことでもないでしょう。
チンパンジーやボノボでも簡単な手話を使ってコミュニケーションができたり、
入りくんだ文法構造の違いを理解できるという報告はあります。
手話を覚えたチンパンジー同士は、手話でコミュニケーションをすることもあるそうです。
しかし、それが本当に言語を運用しているかというと
そこには大きな疑問が残ります。
言語の重要な特徴の1つは、生成的であることです。
知らない文章も理解できるし、初めて使う文章も作れるようになるのが
言語を習得しているということです。
言い回しを増やしていくのも重要ですが、
言いたいことを自然に言えるようにすることも重要なわけです。
そのためのトレーニング法はネイティブには分からないでしょう。
僕は、「日本語で言いたいことを表現するには、どうしたらいいか?」と聞かれても
その方法を的確に説明できる自信がありません。
何より、僕の日本語は片寄っています。
僕は、僕の言いたいことを”大体”日本語で言えますが、
僕が使わない日本語の表現なんて無数にあります。
僕にとって必要な英語のレベルは、自分の日本語のレベルなんです。
もしかすると頑張れば英語を日本語以上にできる可能性もあるでしょう。
今、僕が受講しているカウンセリング講座の講師は、そのタイプです。
英語のほうが上手い。
言語能力なんて母国語でも個人差がありますし、
言葉の使い方にも人それぞれの特徴があるものです。
そこまで踏まえて外国語の能力を上げることを想定すると
外国語教育として効果的な手段にも色々な工夫ができると思うんです。
僕は大手の英会話教室にいくつか通ったことがありますが
共通して見受けられるスタイルがありました。
それはきっと言語教育のスタンダードなんでしょう。
すごく不満があります。
悪くないし、やって無駄にはならない。
でも効率的じゃないと思います。
そういう不満が沸いてくるのは、僕が英語教育の専門家ではないからでしょう。
自分の言語能力を、日本語の上達と比較しながら分析できる形で
大人になってからトレーニングしようとしているからだと考えられます。
英語をやるまで、自分がどうやって日本語を上達させたかなんて
考えたことがありませんでした。
ですが、違った種類の物に取り組むと、両方の特徴が見えてくるようです。
どうも僕にはそういう側面が多い気がします。
反対側からアプローチするというか。
反対側も知っておくことで、視野を広げようとするというか。
アウトサイダーなんでしょうかね。
今度は、外国人のための日本語学習の本でも読んでみることにします。
期末試験の翌日には、もう成績が発表されるシステム。
ネットを活用して個人情報が管理されるからこそ
色々なことが便利になってスピードも上がっているんでしょう。
夏学期は2ヶ月ちょっとで終わります。
ただ、授業の内容と単位数は他の学期と同じですから
授業時間も詰め込まれている感じになります。
大体1.5倍ぐらい。
それと週一回のカウンセリング講座を取って
仕事も重なっていたので、結構忙しい感じの生活になっていました。
授業は少人数のクラスだったこともあって質問がしやすく
教授自体からも教育に対する想いが感じられて楽しく受けられました。
宿題の量が多く、テストも頻繁にありましたから
その点は大変だったものの、それとて採点が甘かったですから
救済処置として取られていたように感じられます。
…といっても、他の学生には厳しいコースだったみたいですが。
内容的には心理学の基礎の部分なので知っていることも多く
情報を整理しながら記憶をキッチリさせたという印象でしょうか。
それからテストが選択式の問題に加えて、
短い書き問題を含んでいたので、良いトレーニングになった気がします。
思えば、大学生のときはこうやってテストを中心に勉強をして
その単純作業の繰り返しによって、多くの能力をトレーニングしていたのでしょう。
当時は何のことか分からずに、とにかく「やらなければいけないこと」を
言われるがままにやっていただけですが、大きな意味があったんだと実感します。
間違いなく、僕の日本語力と物事を考える力は、学生時代に訓練されていました。
僕の所属していた学科は、理工学部の中でも1,2を争うぐらい忙しいと噂され
(自分の学科が一番大変だと思いたい学生は、「一番大変だ」と言っていましたが)
実際に、実験とレポートの数は他よりも多かったみたいです。
本当にレポートばっかり書いていました。
実験の前にはプレ・レポートのように下調べをしておく必要がありましたから
実験関係でのみ予習をしていた記憶があります。
ですが、他の科目では予習も復習もしていなかったと思います。
たまに小テストがある授業で、テスト前に勉強するぐらい。
場合によっては、つまらない授業の最中に、他の科目のレポートを書いていたり
当然、寝てばっかりで聞いていなかった授業なんかもありました。
聞いていても分からない授業もいくつかありましたが…。
数学を多用されるとパンクしそうになっていたものです。
それだって、その前の数学の基本知識を練習していなかったせいで
数式を感覚的にイメージできるレベルになっていなかっただけのこと。
必要なトレーニングを飛ばしていたもので大変な思いをしていたか、
そもそも授業を聞きたいとも思っていなかったから寝ていたか、
どちらかだったような気がします。
物理や数学なんて、やり直してみると面白い気づきがあったりしましたから。
今の自分の中に、どれだけ「効果的な学習法」が身についているか、
ということが感じられます。
振り返ると、勿体ない事をしていたなぁ、と。
のんきにサークルに顔を出していた日もありましたし、
高校の同級生と遊びに行ったり、家庭教師のバイトをしたり
ゴルフ練習場でバイトをしたり、お笑いのライブを見に行ったり…。
世間一般の大学生のイメージよりは、課題をやらされて
”勉強”っぽいことにも時間をかけていたとは思いますが、
こうして比較してみると、それでも日本の大学はヌルいのが実感できました。
もちろん、遊びたい盛りに遊ぶのも結構なことだと思います。
何に価値を置いて生きるかは、人それぞれですし。
ただ僕は、”効果的な学び方”を学んで、それを自分なりに考えてきましたから
そのベースで新たに学びの環境に身を置くと、感じ方が違ってくる
…そういう話なだけだと思います。
それに、自分の学生時代を振り返って、「あのときに、もっとこうしていれば…」
なんて考えてみても、結果が上手くいくことを想像するほど、虚しくなります。
おそらく、ストイックに頑張って、効率的に取り組んで、
結果も出るようになるでしょうし、面白さも感じながらやれるんでしょう。
そして、その結果が大して意味を持たないことも分かってしまう。
そこも含めて考えると、やっぱり学校というのは
そこで学ぶ内容そのものよりも、繰り返しのトレーニングの場として
重要な機能が沢山あったんだろうという印象が強まります。
そして僕は、おかげさまで良いトレーニングを積ませてもらったようです。
こうやって以前にやっていたことと近いプロセスを繰り返すと、
比較しながら少し高い視点で体験を理解することができるので
得られるものが大きいと実感しています。
同時に、だからこそ既存のやり方に改善点も沢山見えてくる。
当たり前といえば、当たり前ですね。
僕みたいに比較しながら調べる人は滅多にいないでしょうから。
多くの人は、その道の専門家であって、専門の知識を重ねるばかり。
外から見たり、違った知識を元にゼロから見直し始めることで
気づけるようになるものも沢山あると感じます。
僕は生物化学系の研究職として働いていた時期があって、
生活面としては大企業の中のライフスタイルを知ることができましたし
東京から離れた地域密着型の職場環境を見ることもできました。
学会へもマメに参加することで、アカデミックな領域も身近に体験できました。
一方で、会社を辞めてからは、コミュニケーションや心理療法を学び、
そのトレーニングと実践を仕事にしてきました。
理系の研究職から、コミュニケーションのトレーナーへ。
それだけでも対極のイメージを持つ人は多いようです。
ですが、研究的な視点で学んだからこそ、
効率的に身につけられたものが沢山ありましたし、
その分野での常識に囚われない視点で理解してきたつもりでいます。
また、個人で仕事をする面では、大企業のサラリーマンとしての立場と
大きな違いを知ることができました。
経営者の知り合いも増え、ビジネス対する考え方も変わりました。
トレーナーとして様々な業種の人と接する機会がありましたし、
カウンセリングを通じて、色々な人生に触れました。
大きな組織で働く人が抱えるストレスも見てきましたし、
小規模なビジネスの中身も間近に体験してきました。
それは大学教授や専門性の高いアカデミックな世界とは
随分と違った種類のものだったと感じます。
大学を出て、そのままアカデミックな世界に身を置き
そこで専門性の高い分野の第一人者になる。
そういう生き方の人が体験していないものを
僕は社会との接点の中で見てこられたと思います。
そして今、自分の言語活動を日本語だけのものから
新たに英語を習得しようという流れの中にいます。
それは当然、日本語だけのときとは大きく違います。
文化の差も感じられるし、言語の仕組みの差も感じられる。
もっといえば、言語というものを客観的に理解するのにも役立っています。
これだって最初からバイリンガルだったら実感できなかったものでしょう。
大人になってから外国語を習得しようとしているからこそ
その習得のプロセスを分析することもできる気がします。
そこで見えてくるのも、英語教育で当たり前とされることへの疑問です。
僕に断言できるのは、
「今の僕には外国人相手の日本語教師は、絶対にできない」
ということです。
日本語の間違いを修正したり、ボキャブラリーを教えることはできます。
会話のトレーニングの相手をすることもできます。
文法を説明したり、文章の書き方を指導することもできるでしょう。
発音の修正もできます。
ですが、どうやったら日本語が身につくのかは分かりません。
もしかすると、「英語を身につけた」と言えるレベルになったときには
どういう風にすると日本語を習得できるかも教えられるかもしれませんが。
逆に、僕自身が、どうやったら英語を上達させられるかは
ネイティブの英語教師よりも分かっている自信があります。
間違いをチェックしてもらうことは重要ですが
間違いをチェックするだけで言語を習得できるわけではないと思います。
端的に言えば、効果的なトレーニングが必要なんです。
それは闇雲に会話をしていれば良いわけでもないし
新しい言い回しを覚えていくだけのことでもないでしょう。
チンパンジーやボノボでも簡単な手話を使ってコミュニケーションができたり、
入りくんだ文法構造の違いを理解できるという報告はあります。
手話を覚えたチンパンジー同士は、手話でコミュニケーションをすることもあるそうです。
しかし、それが本当に言語を運用しているかというと
そこには大きな疑問が残ります。
言語の重要な特徴の1つは、生成的であることです。
知らない文章も理解できるし、初めて使う文章も作れるようになるのが
言語を習得しているということです。
言い回しを増やしていくのも重要ですが、
言いたいことを自然に言えるようにすることも重要なわけです。
そのためのトレーニング法はネイティブには分からないでしょう。
僕は、「日本語で言いたいことを表現するには、どうしたらいいか?」と聞かれても
その方法を的確に説明できる自信がありません。
何より、僕の日本語は片寄っています。
僕は、僕の言いたいことを”大体”日本語で言えますが、
僕が使わない日本語の表現なんて無数にあります。
僕にとって必要な英語のレベルは、自分の日本語のレベルなんです。
もしかすると頑張れば英語を日本語以上にできる可能性もあるでしょう。
今、僕が受講しているカウンセリング講座の講師は、そのタイプです。
英語のほうが上手い。
言語能力なんて母国語でも個人差がありますし、
言葉の使い方にも人それぞれの特徴があるものです。
そこまで踏まえて外国語の能力を上げることを想定すると
外国語教育として効果的な手段にも色々な工夫ができると思うんです。
僕は大手の英会話教室にいくつか通ったことがありますが
共通して見受けられるスタイルがありました。
それはきっと言語教育のスタンダードなんでしょう。
すごく不満があります。
悪くないし、やって無駄にはならない。
でも効率的じゃないと思います。
そういう不満が沸いてくるのは、僕が英語教育の専門家ではないからでしょう。
自分の言語能力を、日本語の上達と比較しながら分析できる形で
大人になってからトレーニングしようとしているからだと考えられます。
英語をやるまで、自分がどうやって日本語を上達させたかなんて
考えたことがありませんでした。
ですが、違った種類の物に取り組むと、両方の特徴が見えてくるようです。
どうも僕にはそういう側面が多い気がします。
反対側からアプローチするというか。
反対側も知っておくことで、視野を広げようとするというか。
アウトサイダーなんでしょうかね。
今度は、外国人のための日本語学習の本でも読んでみることにします。
2012年07月22日
分からないこと
世の中には、色々と不思議なことがありますし、分からないことだらけです。
生きる意味を考えたり、自分の使命を探したりする人もいれば
宇宙の起源を説明しようとしたり、自然界の成り立ちを説明したい人もいる。
誰も見つけていない生き物や、過去の記録を調べたい人もいる。
宇宙人や神秘的な内容に興味を持つ人もいます。
でも、僕にとって一番の謎は、『意識』です。
『意識』とは何か。
言葉で定義することはできます。
それはただ、体験的に多くの人がどういう感じの状態を「意識」と呼ぶかという話。
当然、その説明には他の概念が必要になります。
確実に必要になるものの1つは、『注意』でしょう。
「注意」を主観的に体験することはできますし、誰もが知っている感覚のはずです。
ですが、『注意』のメカニズムは分かっていないと思います。
脳を中心とする人体の仕組みとして、さらには分子レベルの説明として、
「注意」は物質的な現象に変換できていないんじゃないか、と。
僕の知る限りでは、その話は分かりませんし、
僕が考えても結論が出ません。
僕のスタンスは個体としての生物が持つ仕組みをベースにしたいので、
生まれてから(正確には「受精」してから)、どのタイミングで
「注意」や「意識」が起き始めるのかといったことで説明をしたいんです。
おそらく「注意」が集まるのは、感覚情報の変化に対して
ベースラインからのズレ、つまりシグナルとして検出されるところが
出発点になっているんじゃないかと想像されます。
しかし、そのことと、「注意を向ける」こととは別物。
どうやって「コントロールするか」という話です。
「意識」や「注意」には、”主体”の感じがあるはずなんです。
それが『自分』という感じに繋がります。
…そうすると、言語か。
「私」という概念が、自己の体の感覚情報に対して
再帰性とメタレベルの注意を作り出す。
そう考えると、幼少期の一人称が、周りから呼ばれる名前になるのも
自然なプロセスには思えます。
また、概念の区別は言語的にラベルを先に与えられると
習得がスムーズになりますから、その意味でも言語活動の影響は大きいはず。
そう考えると言語活動なしでは『意識』や、コントロールの主体の感覚は
生まれないんじゃないかという気もしてきます。
その発想自体は僕にとって違和感がなくて
そうすると『意識』という感じは、歴史的にも発達的にも徐々に生まれそう。
もっといえば、『意識』には個人差もあることになる。
沢山意識している人もいれば、ほとんど意識していない人もいる。
意識を沢山使うときもあれば、あまり使わないときもある。
意識に上げたら意識、意識に上げなければ意識じゃない…?
それなら睡眠と覚醒とも違った概念になりそうですし…。
思考だろうが妄想だろうが、動作だろうが感覚体験だろうが
意識に上げなければコントロールはできないけれど、
コントロールしていなくても意識に上げることはできる。
そこからコントロールするときには何が起きるのだろうか?
『何が』コントロールしている主体なんだろう?
いや、そもそも人間は、何かをコントロールしているんだろうか?
ただ、モニターしているだけなんじゃないかという気もしないこともない。
物質的なレベルに還元していくと、意識っていうのは存在しないもしれない。
単なる幻想という可能性もある。
……
うーん、答えが出ません。
いやいや、それ以上に触れてはいけない領域のような印象も…。
ちょっと怖くなってきたので、考えるのをストップします。
生きる意味を考えたり、自分の使命を探したりする人もいれば
宇宙の起源を説明しようとしたり、自然界の成り立ちを説明したい人もいる。
誰も見つけていない生き物や、過去の記録を調べたい人もいる。
宇宙人や神秘的な内容に興味を持つ人もいます。
でも、僕にとって一番の謎は、『意識』です。
『意識』とは何か。
言葉で定義することはできます。
それはただ、体験的に多くの人がどういう感じの状態を「意識」と呼ぶかという話。
当然、その説明には他の概念が必要になります。
確実に必要になるものの1つは、『注意』でしょう。
「注意」を主観的に体験することはできますし、誰もが知っている感覚のはずです。
ですが、『注意』のメカニズムは分かっていないと思います。
脳を中心とする人体の仕組みとして、さらには分子レベルの説明として、
「注意」は物質的な現象に変換できていないんじゃないか、と。
僕の知る限りでは、その話は分かりませんし、
僕が考えても結論が出ません。
僕のスタンスは個体としての生物が持つ仕組みをベースにしたいので、
生まれてから(正確には「受精」してから)、どのタイミングで
「注意」や「意識」が起き始めるのかといったことで説明をしたいんです。
おそらく「注意」が集まるのは、感覚情報の変化に対して
ベースラインからのズレ、つまりシグナルとして検出されるところが
出発点になっているんじゃないかと想像されます。
しかし、そのことと、「注意を向ける」こととは別物。
どうやって「コントロールするか」という話です。
「意識」や「注意」には、”主体”の感じがあるはずなんです。
それが『自分』という感じに繋がります。
…そうすると、言語か。
「私」という概念が、自己の体の感覚情報に対して
再帰性とメタレベルの注意を作り出す。
そう考えると、幼少期の一人称が、周りから呼ばれる名前になるのも
自然なプロセスには思えます。
また、概念の区別は言語的にラベルを先に与えられると
習得がスムーズになりますから、その意味でも言語活動の影響は大きいはず。
そう考えると言語活動なしでは『意識』や、コントロールの主体の感覚は
生まれないんじゃないかという気もしてきます。
その発想自体は僕にとって違和感がなくて
そうすると『意識』という感じは、歴史的にも発達的にも徐々に生まれそう。
もっといえば、『意識』には個人差もあることになる。
沢山意識している人もいれば、ほとんど意識していない人もいる。
意識を沢山使うときもあれば、あまり使わないときもある。
意識に上げたら意識、意識に上げなければ意識じゃない…?
それなら睡眠と覚醒とも違った概念になりそうですし…。
思考だろうが妄想だろうが、動作だろうが感覚体験だろうが
意識に上げなければコントロールはできないけれど、
コントロールしていなくても意識に上げることはできる。
そこからコントロールするときには何が起きるのだろうか?
『何が』コントロールしている主体なんだろう?
いや、そもそも人間は、何かをコントロールしているんだろうか?
ただ、モニターしているだけなんじゃないかという気もしないこともない。
物質的なレベルに還元していくと、意識っていうのは存在しないもしれない。
単なる幻想という可能性もある。
……
うーん、答えが出ません。
いやいや、それ以上に触れてはいけない領域のような印象も…。
ちょっと怖くなってきたので、考えるのをストップします。
2012年07月20日
心を読んだり操ったり
どうも最近は『超能力』は好かれないみたいです。
どちらかというとスピリチュアルな方向に行くか
逆に多少なりとも科学的な匂いのする方向に行くか、
そんな傾向が流行りからは見て取れる気がします。
超能力っていうのは、もしかすると中途半端なのかもしれません。
いっそのこと科学には知る由もない世界に説明を求めるか
逆に科学に説明を求めるか。
とはいえ、マスメディアでアピールされる科学っぽいヤツは
科学の雰囲気を使って、「これは科学なんだ」という”妄想”に
多くの人を導こうとするような印象も否定できませんが。
僕は自分を結構、科学よりのほうだと思っているので
科学という知恵の集大成を人類の財産だと感じるところがあって、
だからこそ、できる限り科学的に説明をしたいという願望が生まれます。
また、科学の基本的なスタンスは「上手に疑う」ことだ考えていますから
僕は「信用するためにこそ疑う」立場を大切だと思いますし、
科学で説明でいないことは「分からない」と堂々と言いたいんです。
分からないことを適当な理論で無理やり説明するよりも
「上手く説明できないから、”まだ”分かりません」
と言い切れるほうが、よっぽど誠実だと思うんです。
ちなみにオンラインの辞書で「懐疑主義」を調べたら
「 healthy skepticism 」や「 sound skepticism 」(健全な懐疑主義)
「 sympathetic skepticism 」(共感的懐疑主義)
なんていう素敵な言葉が見つかりました。
それで、そのような発想を持っていると
テレビで見かける内容には、素直に楽しめないものが沢山あるんです。
特に、人の心が分かったり操れたりするのは
マジックを見ているようで楽しいですが、
それを大袈裟に解釈して放送されると途端に、僕の心の中へ
「健全な懐疑主義」が登場してきます。
もし、本当に人の心が分かるんだとしたら
テレビ業界の人たちの複雑な心の奥底が全て見えてしまって
そのストレスは計り知れないものじゃないでしょうか。
ショービジネスの世界の裏側や実態は分かりませんが、
あれだけ巨額の金銭が動く世界には、勝手に色々な事情を想像してしまいます。
また、ストレスから引退する人、病気になる人、代替手段を求める人…
そういったニュースを見ていても、大変な世界ではないかと感じます。
もちろん、そういうイメージに僕が振り回されていて
現実は、すごく居心地の良い、ストレスとは無縁の世界という可能性もあるでしょう。
ですが、平均的な会社組織や地域のコミュニティと比べたら
いくらかは複雑でストレスフルな世界なんじゃないかという印象は受けます。
だとすると、その世界の中で”本当に人の心が分かる”としたら
一体どれだけのことを知らなければいけなくなるのでしょう?
知りたくないことが、あまりにも膨大に流れ込んでくるんじゃないかと思います。
テレビ業界も平均的な会社組織と同程度のストレス度合いだったとしても
”本当に人の心が分かる”人には、十分に苦しいことでしょう。
もし”本当に心が読める”んだとしたら、
苦し過ぎてテレビになんて出られないんじゃないか?
…そんな疑問が、可能性の1つとして僕には浮かんでくるわけです。
もしくは、”読める”部分がホンの一部に過ぎなくて
大部分は分かっていないからストレスを感じないのか。
この可能性も否定できません。
あるいは、”他人の心は読める”けれど
「自分の心を感じ取るのは非常に苦手」で
自分が体験しているはずの苦しさに気づいていないのか。
また、”他人の心が分かって”
それでもなお、全ての人を平等に心の底から愛せるかもしれません。
全てが分かり、全てを許し、全てを受け入れている。
そういう”悟り”の境地のような人物だという可能性もあるでしょう。
まぁ、最後の可能性は低いような気がしますが…。
もし僕が人の心を読めたとしたら
そのことを伝える相手は、ほんの一部だと思います。
伝えたときに相手がどんな反応をするかも読めるわけですから、
心を読まれていることを知っていても気にせずに
オープンに素直に接してくれると分かった相手にだけ
そのことを伝えるんじゃないかという気がします。
少なくとも、心を読まれていることを知っていて
そのことに抵抗があったとしても、変わらず接しようと努力してくれる人でなければ
そのことを伝えようとはしないんじゃないでしょうか。
もしかすると、そういうのが相手を信頼するということかもしれません。
もし僕が人の心を操れたら
好きなだけチヤホヤしてもらえるように大勢を操って、
好きなだけお金が使えるように誰かを操って、
何もかも思い通りになる生活をして…
…それで数カ月後に嫌になって、自暴自棄になると思います。
他人の心は操れるのに、
自暴自棄になってしまった自分の心は、どうしようもない。
そして、きっとこう思うんでしょう。
「思い通りに”自分の心”が操れたら…」
って。
正確にいえば、僕にはそのことが予測できているから
そんなことは絶対にしませんし、したいとも思わないわけなんですが。
どちらかというとスピリチュアルな方向に行くか
逆に多少なりとも科学的な匂いのする方向に行くか、
そんな傾向が流行りからは見て取れる気がします。
超能力っていうのは、もしかすると中途半端なのかもしれません。
いっそのこと科学には知る由もない世界に説明を求めるか
逆に科学に説明を求めるか。
とはいえ、マスメディアでアピールされる科学っぽいヤツは
科学の雰囲気を使って、「これは科学なんだ」という”妄想”に
多くの人を導こうとするような印象も否定できませんが。
僕は自分を結構、科学よりのほうだと思っているので
科学という知恵の集大成を人類の財産だと感じるところがあって、
だからこそ、できる限り科学的に説明をしたいという願望が生まれます。
また、科学の基本的なスタンスは「上手に疑う」ことだ考えていますから
僕は「信用するためにこそ疑う」立場を大切だと思いますし、
科学で説明でいないことは「分からない」と堂々と言いたいんです。
分からないことを適当な理論で無理やり説明するよりも
「上手く説明できないから、”まだ”分かりません」
と言い切れるほうが、よっぽど誠実だと思うんです。
ちなみにオンラインの辞書で「懐疑主義」を調べたら
「 healthy skepticism 」や「 sound skepticism 」(健全な懐疑主義)
「 sympathetic skepticism 」(共感的懐疑主義)
なんていう素敵な言葉が見つかりました。
それで、そのような発想を持っていると
テレビで見かける内容には、素直に楽しめないものが沢山あるんです。
特に、人の心が分かったり操れたりするのは
マジックを見ているようで楽しいですが、
それを大袈裟に解釈して放送されると途端に、僕の心の中へ
「健全な懐疑主義」が登場してきます。
もし、本当に人の心が分かるんだとしたら
テレビ業界の人たちの複雑な心の奥底が全て見えてしまって
そのストレスは計り知れないものじゃないでしょうか。
ショービジネスの世界の裏側や実態は分かりませんが、
あれだけ巨額の金銭が動く世界には、勝手に色々な事情を想像してしまいます。
また、ストレスから引退する人、病気になる人、代替手段を求める人…
そういったニュースを見ていても、大変な世界ではないかと感じます。
もちろん、そういうイメージに僕が振り回されていて
現実は、すごく居心地の良い、ストレスとは無縁の世界という可能性もあるでしょう。
ですが、平均的な会社組織や地域のコミュニティと比べたら
いくらかは複雑でストレスフルな世界なんじゃないかという印象は受けます。
だとすると、その世界の中で”本当に人の心が分かる”としたら
一体どれだけのことを知らなければいけなくなるのでしょう?
知りたくないことが、あまりにも膨大に流れ込んでくるんじゃないかと思います。
テレビ業界も平均的な会社組織と同程度のストレス度合いだったとしても
”本当に人の心が分かる”人には、十分に苦しいことでしょう。
もし”本当に心が読める”んだとしたら、
苦し過ぎてテレビになんて出られないんじゃないか?
…そんな疑問が、可能性の1つとして僕には浮かんでくるわけです。
もしくは、”読める”部分がホンの一部に過ぎなくて
大部分は分かっていないからストレスを感じないのか。
この可能性も否定できません。
あるいは、”他人の心は読める”けれど
「自分の心を感じ取るのは非常に苦手」で
自分が体験しているはずの苦しさに気づいていないのか。
また、”他人の心が分かって”
それでもなお、全ての人を平等に心の底から愛せるかもしれません。
全てが分かり、全てを許し、全てを受け入れている。
そういう”悟り”の境地のような人物だという可能性もあるでしょう。
まぁ、最後の可能性は低いような気がしますが…。
もし僕が人の心を読めたとしたら
そのことを伝える相手は、ほんの一部だと思います。
伝えたときに相手がどんな反応をするかも読めるわけですから、
心を読まれていることを知っていても気にせずに
オープンに素直に接してくれると分かった相手にだけ
そのことを伝えるんじゃないかという気がします。
少なくとも、心を読まれていることを知っていて
そのことに抵抗があったとしても、変わらず接しようと努力してくれる人でなければ
そのことを伝えようとはしないんじゃないでしょうか。
もしかすると、そういうのが相手を信頼するということかもしれません。
もし僕が人の心を操れたら
好きなだけチヤホヤしてもらえるように大勢を操って、
好きなだけお金が使えるように誰かを操って、
何もかも思い通りになる生活をして…
…それで数カ月後に嫌になって、自暴自棄になると思います。
他人の心は操れるのに、
自暴自棄になってしまった自分の心は、どうしようもない。
そして、きっとこう思うんでしょう。
「思い通りに”自分の心”が操れたら…」
って。
正確にいえば、僕にはそのことが予測できているから
そんなことは絶対にしませんし、したいとも思わないわけなんですが。
2012年07月18日
歴史と集積
なんだか色々と重なっていて勉強会のお知らせができないでいます。
次は8月の予定で考えているところです。
決まったら、またブログでお知らせします。
ところで、ユングとフロイトの話が映画化されるらしいです。
史実に基づいているとか。
「危険なメソッド」というタイトル。
タイトルの中に、もう前提が感じられますが…、
”心理学”として見ていく場合には、それぞれの理論が
どういう歴史的・社会的背景から生まれてきたのかは
とても重要なポイントになるはずです。
どうやら、心理学という言葉が生まれてから
様々な理論が発展してくる中においても
歴史的な系譜を踏まえた理解は欠かせないように感じられます。
おそらくそれは、心理学をやってきた人たちの伝統的な発想の中に
「既存の物に対して自分の理論を位置付ける」という部分があるからでしょう。
「これまでに、誰々がこんな理論を出している。
しかし自分は、こう反論する。
だから、こっちの理論のほうが良い。」
…そういうのが繰り返されている背景が心理学にはあるようです。
それが伝統として染みついていれば、その後に心理学を学ぶ人にも
当然、同様の発想と主張の展開が生まれても自然なことという気がします。
そして、そこが僕とは大きく発想が違うところです。
シンプルに理系と文系で分けて良いとは思いませんが、
一般に理系とされる教育では、サイエンスの知識は
流れよりも、むしろ集積された1つの全体像を重視する印象があります。
つまり、化学であれば「誰が何を発見して、どういう経緯で発展したか」よりも、
「現在の化学として知られていること全て」を
「どういう順番で理解すると分かりやすいか」といった視点で教育される。
『科学史』なんていう授業もありますが、それは例外的で
「○○化学」という授業を沢山集めて、化学の全体像を掴む印象です。
まず化学の全てに共通する基礎知識を学びます。
これは本当に『基礎』なんです。
これがないと他の化学が理解できませんし、全てに使われる前提知識です。
世間では、『基礎』という言葉の意味が、
”簡単”、”初歩”、”入門”と同じように使われるケースが多いように思います。
中学校で『数学』の基礎として方程式の扱い方を勉強するのは、
その方法を知らないと、先の数学を理解することができないからでしょう。
その意味で『基礎』なんだと思うんです。
化学も『基礎』から学びます。
元素とか、イオンとか、化学式とか…。
そして化学の分野を狭めながら詳しいことを学んでいきます。
基礎の後で、化学で説明する全ての範囲の現象を分野に整理するわけです。
全ての化学が使っている土台のようなものがある。
その意味で、『基礎』なんです。
一方、僕の知る限り、心理学に『基礎』にあたるものは感じられません。
人間の振る舞いに関することを扱う、というのは前提でしょうが
あくまで、それは分野の話。
まぁ、統計の知識がないと相関のデータを実験的に解釈できませんから
そこは共通して求められるものかもしれませんが、
それでも統計は心理とは無関係です。
化学の説明をするのに日本語や英語を使わないとできないのと同様です。
説明の媒体として統計を使っているだけで、それは基礎とは違うと思います。
ですから、社会心理学だろうが、発達心理学だろうが、
それぞれの違いは、人間の行動をどの分野として注目するかの話。
両方を理解するために『基礎』として知っておく必要のある情報は
あまりハッキリしていないんじゃないかと感じるんです。
むしろ、それぞれの心理学の分野で調べられてきたことを
分かってきた順番通りに勉強していく。
同じことをやったら学問として意味が無くなってしまいますから
「これまでに、こういうことが分かっている」という知識は大事なんです。
だからこそ、歴史的に流れに沿って知識を増やす印象が出てくるんでしょう。
その中では、精力的に実験をしてデータをまとめた人とか
初期の頃に全体像をストーリーとして作り上げた人とかが、
重要人物として位置づけされることになります。
エリク・エリクソンがどうとか、ピアジェがどうとか、
そのような勉強の仕方になるのは、流れの初期に
情報量を一気に増やしてくれた人たちだからだろうと想像します。
それに対して、化学や物理の分野では
全員で1つの理論を作り上げていくイメージがあります。
常に最新版にアップデートされていく感じ。
確かに、有名で貢献度の大きい科学者もいますが、それも量の問題であって、
沢山貢献した人と、ちょっとだけ貢献した人…
全員が少しずつ蓄積してきたものが、1つの全体像を作っている。
皆が部品を少しずつ持ち寄って、全体を充実させていく感じです。
後から勉強する人は、その全体像を知って、
自分もそこに何かを追加できるようになることが目的なので、
どういう経緯でその全体像ができてきたかには関心が薄くなる…
そんなことが起きている気がします。
心理学は、道を伸ばしていく感じ。
大勢で道路工事をして、一本の道を少しずつ伸ばしていく。
出だしの道を切り開いた人は有名になるわけです。
心理学の分野の数だけ、道の数があるような印象を受けます。
それに対してサイエンスは、街を作っていく感じです。
大勢で少しずつ、街の一部を改修していく。
有名な建造物や、主要な構造を作った人は有名ですが
街全体は常にアップデートされて、いつも1つの街の形をしている。
そして、その街の中で育った人が、少しでも街を改修したり
未開拓だった土地を調査したりするイメージです。
サイエンスのそれぞれの分野は、街の中の区画のようなもの。
もしくは、心理学では有名な人が、ある景色を一枚の絵に描いて、
それから多くの人が自分なりに、同じ景色を自分の絵にしていく感じ。
誰々の描いた絵というのが、似たような景色に対して沢山集まっていく。
でも、依然として最初に描いた人の意味が大きい。
一方、化学や物理などのサイエンスは
皆で一枚の絵を描いていく感じ。
下書きをした人もいれば、広範囲に色を塗った人もいる。
一部を物凄く細かく絵にした人もいれば、
誰も手のつけていないキャンバスに描きこんだ人もいます。
中には上書きされて残っていない人もいるけれど
結局は全て、一枚の絵を描いているようなイメージです。
後世の人が自分も絵に少し描きこもうと思ったときには、
誰がどこを描いたかなんていうのは非常に分かりにくくなっていて、
「ここから、ここまでの下書きをしたのがニュートンなんですよ」
「えー!こんなに広い範囲を下書きしたんですか!」
という話はあっても、結局見るのは、その時点で完成している絵の全体。
そんな違いを僕は感じています。
この辺は、学問としての発展の歴史にも関係するでしょうし、
それをベースにした教育スタイルにも影響されていると思います。
気にしていませんでしたが、僕は、明らかに勉強するということを
街並みの全体像や、一枚の絵を見ることとしてイメージしていました。
一人ひとりがどんな絵を描いたかとか、どんな道のりなのかとかは
ほとんど興味がありませんでしたから。
そういう世界にいたんでしょうね。
良し悪しではなく、スタイルの違いだと思いますが、
現実的な応用のされ方には随分な差が生まれている気もします。
サイエンスのスタンスだと、一人の研究者が
自分だけで業界の常識を一変させるような発想は出にくいようです。
あくまで自分は全体の知識の一部を追加する立場ですから。
研究のスパンも長くなりやすい印象を受けます。
こういうのを積み重ねていけば、何十年か後には変わっているだろう、と。
そうやって少しずつ広げて、大勢の力で変わるのを期待する印象を受けます。
ところが心理学は一人のインパクトが大きいですから、
斬新な理論が人気を集めるとブームさえ生まれます。
その理論を応用する方向にも一気に変化が起きる。
業界が一変する可能性があるのは、こっちかもしれません。
学問として研究され、社会に応用されるものであったとしても
そこに携わる人たちの中にある暗黙の発想が
大きな影響力を持っているような気がするんです。
しかも、その分野だけで生きてきたときには
当然になり過ぎて自覚することさえ難しい。
だからといって、両方の外に出て、両方のスタンスに気づいてしまえば
両方から異端になってしまう可能性すらあります。
できるのは、どちらにも合わせられるように
両方のスタンスを使い分けられる”技術”を持っておくことでしょうか。
まず僕の場合、歴史の観点で心理学に注目することが求められそうです。
その意味でも、ユングとフロイトのお話は見ておきたいところです。
次は8月の予定で考えているところです。
決まったら、またブログでお知らせします。
ところで、ユングとフロイトの話が映画化されるらしいです。
史実に基づいているとか。
「危険なメソッド」というタイトル。
タイトルの中に、もう前提が感じられますが…、
”心理学”として見ていく場合には、それぞれの理論が
どういう歴史的・社会的背景から生まれてきたのかは
とても重要なポイントになるはずです。
どうやら、心理学という言葉が生まれてから
様々な理論が発展してくる中においても
歴史的な系譜を踏まえた理解は欠かせないように感じられます。
おそらくそれは、心理学をやってきた人たちの伝統的な発想の中に
「既存の物に対して自分の理論を位置付ける」という部分があるからでしょう。
「これまでに、誰々がこんな理論を出している。
しかし自分は、こう反論する。
だから、こっちの理論のほうが良い。」
…そういうのが繰り返されている背景が心理学にはあるようです。
それが伝統として染みついていれば、その後に心理学を学ぶ人にも
当然、同様の発想と主張の展開が生まれても自然なことという気がします。
そして、そこが僕とは大きく発想が違うところです。
シンプルに理系と文系で分けて良いとは思いませんが、
一般に理系とされる教育では、サイエンスの知識は
流れよりも、むしろ集積された1つの全体像を重視する印象があります。
つまり、化学であれば「誰が何を発見して、どういう経緯で発展したか」よりも、
「現在の化学として知られていること全て」を
「どういう順番で理解すると分かりやすいか」といった視点で教育される。
『科学史』なんていう授業もありますが、それは例外的で
「○○化学」という授業を沢山集めて、化学の全体像を掴む印象です。
まず化学の全てに共通する基礎知識を学びます。
これは本当に『基礎』なんです。
これがないと他の化学が理解できませんし、全てに使われる前提知識です。
世間では、『基礎』という言葉の意味が、
”簡単”、”初歩”、”入門”と同じように使われるケースが多いように思います。
中学校で『数学』の基礎として方程式の扱い方を勉強するのは、
その方法を知らないと、先の数学を理解することができないからでしょう。
その意味で『基礎』なんだと思うんです。
化学も『基礎』から学びます。
元素とか、イオンとか、化学式とか…。
そして化学の分野を狭めながら詳しいことを学んでいきます。
基礎の後で、化学で説明する全ての範囲の現象を分野に整理するわけです。
全ての化学が使っている土台のようなものがある。
その意味で、『基礎』なんです。
一方、僕の知る限り、心理学に『基礎』にあたるものは感じられません。
人間の振る舞いに関することを扱う、というのは前提でしょうが
あくまで、それは分野の話。
まぁ、統計の知識がないと相関のデータを実験的に解釈できませんから
そこは共通して求められるものかもしれませんが、
それでも統計は心理とは無関係です。
化学の説明をするのに日本語や英語を使わないとできないのと同様です。
説明の媒体として統計を使っているだけで、それは基礎とは違うと思います。
ですから、社会心理学だろうが、発達心理学だろうが、
それぞれの違いは、人間の行動をどの分野として注目するかの話。
両方を理解するために『基礎』として知っておく必要のある情報は
あまりハッキリしていないんじゃないかと感じるんです。
むしろ、それぞれの心理学の分野で調べられてきたことを
分かってきた順番通りに勉強していく。
同じことをやったら学問として意味が無くなってしまいますから
「これまでに、こういうことが分かっている」という知識は大事なんです。
だからこそ、歴史的に流れに沿って知識を増やす印象が出てくるんでしょう。
その中では、精力的に実験をしてデータをまとめた人とか
初期の頃に全体像をストーリーとして作り上げた人とかが、
重要人物として位置づけされることになります。
エリク・エリクソンがどうとか、ピアジェがどうとか、
そのような勉強の仕方になるのは、流れの初期に
情報量を一気に増やしてくれた人たちだからだろうと想像します。
それに対して、化学や物理の分野では
全員で1つの理論を作り上げていくイメージがあります。
常に最新版にアップデートされていく感じ。
確かに、有名で貢献度の大きい科学者もいますが、それも量の問題であって、
沢山貢献した人と、ちょっとだけ貢献した人…
全員が少しずつ蓄積してきたものが、1つの全体像を作っている。
皆が部品を少しずつ持ち寄って、全体を充実させていく感じです。
後から勉強する人は、その全体像を知って、
自分もそこに何かを追加できるようになることが目的なので、
どういう経緯でその全体像ができてきたかには関心が薄くなる…
そんなことが起きている気がします。
心理学は、道を伸ばしていく感じ。
大勢で道路工事をして、一本の道を少しずつ伸ばしていく。
出だしの道を切り開いた人は有名になるわけです。
心理学の分野の数だけ、道の数があるような印象を受けます。
それに対してサイエンスは、街を作っていく感じです。
大勢で少しずつ、街の一部を改修していく。
有名な建造物や、主要な構造を作った人は有名ですが
街全体は常にアップデートされて、いつも1つの街の形をしている。
そして、その街の中で育った人が、少しでも街を改修したり
未開拓だった土地を調査したりするイメージです。
サイエンスのそれぞれの分野は、街の中の区画のようなもの。
もしくは、心理学では有名な人が、ある景色を一枚の絵に描いて、
それから多くの人が自分なりに、同じ景色を自分の絵にしていく感じ。
誰々の描いた絵というのが、似たような景色に対して沢山集まっていく。
でも、依然として最初に描いた人の意味が大きい。
一方、化学や物理などのサイエンスは
皆で一枚の絵を描いていく感じ。
下書きをした人もいれば、広範囲に色を塗った人もいる。
一部を物凄く細かく絵にした人もいれば、
誰も手のつけていないキャンバスに描きこんだ人もいます。
中には上書きされて残っていない人もいるけれど
結局は全て、一枚の絵を描いているようなイメージです。
後世の人が自分も絵に少し描きこもうと思ったときには、
誰がどこを描いたかなんていうのは非常に分かりにくくなっていて、
「ここから、ここまでの下書きをしたのがニュートンなんですよ」
「えー!こんなに広い範囲を下書きしたんですか!」
という話はあっても、結局見るのは、その時点で完成している絵の全体。
そんな違いを僕は感じています。
この辺は、学問としての発展の歴史にも関係するでしょうし、
それをベースにした教育スタイルにも影響されていると思います。
気にしていませんでしたが、僕は、明らかに勉強するということを
街並みの全体像や、一枚の絵を見ることとしてイメージしていました。
一人ひとりがどんな絵を描いたかとか、どんな道のりなのかとかは
ほとんど興味がありませんでしたから。
そういう世界にいたんでしょうね。
良し悪しではなく、スタイルの違いだと思いますが、
現実的な応用のされ方には随分な差が生まれている気もします。
サイエンスのスタンスだと、一人の研究者が
自分だけで業界の常識を一変させるような発想は出にくいようです。
あくまで自分は全体の知識の一部を追加する立場ですから。
研究のスパンも長くなりやすい印象を受けます。
こういうのを積み重ねていけば、何十年か後には変わっているだろう、と。
そうやって少しずつ広げて、大勢の力で変わるのを期待する印象を受けます。
ところが心理学は一人のインパクトが大きいですから、
斬新な理論が人気を集めるとブームさえ生まれます。
その理論を応用する方向にも一気に変化が起きる。
業界が一変する可能性があるのは、こっちかもしれません。
学問として研究され、社会に応用されるものであったとしても
そこに携わる人たちの中にある暗黙の発想が
大きな影響力を持っているような気がするんです。
しかも、その分野だけで生きてきたときには
当然になり過ぎて自覚することさえ難しい。
だからといって、両方の外に出て、両方のスタンスに気づいてしまえば
両方から異端になってしまう可能性すらあります。
できるのは、どちらにも合わせられるように
両方のスタンスを使い分けられる”技術”を持っておくことでしょうか。
まず僕の場合、歴史の観点で心理学に注目することが求められそうです。
その意味でも、ユングとフロイトのお話は見ておきたいところです。
2012年07月15日
トラスト・フォール
この間、『トラスト・フォール』をやりました。
数人に支えてもらって、後ろ向きに倒れるヤツです。
今回はインストラクターが積極的だったので
椅子の上から倒れるバージョン。
一人が椅子の上に立つ。
背もたれの側に向いて立って、腕を胸の前で組む。
椅子の上の人が背中側に倒れてくるので
倒れて落ちてくる方向に4人が待っていて支えられるようにする。
4人が2人ずつペアになって、向かい合って立つ。
それぞれのペアが腕を前に伸ばし、お互いに相手の腕を握って
シッカリとした”橋”を作る。
最終的には4人の腕の上に、椅子の上の人が倒れてくる形になります。
やはり慣れていない人、やったことのない人、
自分で何でもこなすように自立心の強い人は
椅子の上から背中側に倒れていくのには抵抗を示すようです。
まぁ、怖いはずです。
やったとしても
膝を曲げて、お尻から先に降りていけるように倒れやすい傾向があります。
最終的に上半身が垂直に残ろうとするわけです。
僕はトラスト・フォール自体は初めてでしたが、
似たような方法で人を信頼することを体験的に実感していたので
スンナリと倒れることができました。
かなり体を一直線にしたまま、バタンと倒れ込んだはずです。
プールとかマットの上に倒れるよりも気楽なものです。
やはり体験的に実感したことというのは効果が深層部分に残る感じがあります。
表面的な変化として如実に分かるわけではないですが
じわじわと知らないうちに効果が出てくるような気がします。
そんなことを実感しました。
数人に支えてもらって、後ろ向きに倒れるヤツです。
今回はインストラクターが積極的だったので
椅子の上から倒れるバージョン。
一人が椅子の上に立つ。
背もたれの側に向いて立って、腕を胸の前で組む。
椅子の上の人が背中側に倒れてくるので
倒れて落ちてくる方向に4人が待っていて支えられるようにする。
4人が2人ずつペアになって、向かい合って立つ。
それぞれのペアが腕を前に伸ばし、お互いに相手の腕を握って
シッカリとした”橋”を作る。
最終的には4人の腕の上に、椅子の上の人が倒れてくる形になります。
やはり慣れていない人、やったことのない人、
自分で何でもこなすように自立心の強い人は
椅子の上から背中側に倒れていくのには抵抗を示すようです。
まぁ、怖いはずです。
やったとしても
膝を曲げて、お尻から先に降りていけるように倒れやすい傾向があります。
最終的に上半身が垂直に残ろうとするわけです。
僕はトラスト・フォール自体は初めてでしたが、
似たような方法で人を信頼することを体験的に実感していたので
スンナリと倒れることができました。
かなり体を一直線にしたまま、バタンと倒れ込んだはずです。
プールとかマットの上に倒れるよりも気楽なものです。
やはり体験的に実感したことというのは効果が深層部分に残る感じがあります。
表面的な変化として如実に分かるわけではないですが
じわじわと知らないうちに効果が出てくるような気がします。
そんなことを実感しました。
2012年07月13日
久しぶりの感じ
英語でプレゼンをしました。
といっても授業の一環なので、論文の内容を紹介する程度。
10分ぐらいなものです。
久しぶりに原稿を音読しました。
10年以上、原稿を作っていなかったことを思い出しました。
研究職のときのプレゼンはパワーポイントを使っていましたし
セミナーをするようになってからは、準備に対する発想自体が変わりましたから。
とても、もどかしい感じがしました。
自分が日本語でできることと比較してしまうんでしょうね。
高校の時、初めて生物の授業で前に出て発表をする機会があって
その次が大学で研究室に配属された一番最初の発表でした。
そのときは丁寧に原稿を作って、音読するだけだったようなものですが
その頃に戻ったような気分です。
まぁ、その頃よりはマシな部分が多かったとは思いますけど…。
あの頃から通ってきたプロセスを同じように過ごせば
今、日本語でできることと同じようにできるようになるんでしょうか。
当時の状態と比較できないので、何が英語力そのものの問題で、
何が自分の意識の向け方の問題なのかが区別できていません。
大学のときや研究職のときにやっていたように
スライドを見ながら話してしまえば、当時と近い状態にはなりそうです。
それは1つの手段だと思います。
そうしたプレゼンを何回やったんでしょうか。
学生時代で数十回、研究職時代は平均すると月に何回かありましたから、
内容だけを伝えるためのパワーポイントを使ったプレゼンでさえ、
結構な回数をやっていたみたいです。
慣れるはずです。
そのぐらいやれば英語でも、もうちょっとマシなプレゼンになるかもしれません。
一方で、パワーポイントを使った「説明」のプレゼンとは違う
「伝える」プレゼンを意識するようになった頃、
やはり最初は大変だった記憶があります。
当時を思い返すと、沢山のことを意識的にやろうとしていた気がします。
伝える内容を覚えておいて、工夫するところを覚えておいて、
「やる」という意識が沢山あった感じがあります。
一方、今は「やる」の部分が減っていて、
「やろう」と思えば、あとは自動的に振る舞いが出てきて
それを意識的にモニターしてコントロールする感じです。
その意味では、車の運転に近いかもしれません。
免許をとりたての頃は、全ての動作を「やる」方向で意識する。
慣れてくると、自然にできるようになる。
慣れでできるようになったことを吟味して意識化することで
精度を高める方向にコントロールしていく。
繰り返しによって自動化して、一方でさらに意識的な努力を繰り返す。
そうすることで自動的にできる量を増やしていく感じなんでしょう。
そうやって自動化したら、制御するための努力をしていく、と。
そんな流れがあったようです。
すると、今の状態は意識的にやろうとしていることが多過ぎるようですから、
全てを意識しようとするのをやめて、慣れさせていくだけのほうが良いんでしょう。
慣れてきて、淡々とできるようになってきた頃に
意識的な作業を追加していくようなプロセスが必要そうです。
セミナーを仕事でするようになって、何回ぐらいやったんでしょうか。
ずっと話しっぱなしではないものの朝から夕方までのセミナーを
多いときは一年で200日ぐらいやっていましたから。
研究発表のプレゼンの何倍もやっていたみたいです。
その中で色々と技術を追加してきて今の状態がある。
と考えると、今、日本語でできることと英語でできることを比べるのは
あまりに違いが大き過ぎるかもしれません。
同じ時間、同じ回数が必要だとは思いませんが、
同じ過程を通ってくるのは効果的な方法な気がしてきました。
あとは途中経過として自分のできることを自覚しておいて
課題を追加していけば良いわけですから。
そうすると英語でプレゼンできる場があると手っ取り早そうです。
といっても授業の一環なので、論文の内容を紹介する程度。
10分ぐらいなものです。
久しぶりに原稿を音読しました。
10年以上、原稿を作っていなかったことを思い出しました。
研究職のときのプレゼンはパワーポイントを使っていましたし
セミナーをするようになってからは、準備に対する発想自体が変わりましたから。
とても、もどかしい感じがしました。
自分が日本語でできることと比較してしまうんでしょうね。
高校の時、初めて生物の授業で前に出て発表をする機会があって
その次が大学で研究室に配属された一番最初の発表でした。
そのときは丁寧に原稿を作って、音読するだけだったようなものですが
その頃に戻ったような気分です。
まぁ、その頃よりはマシな部分が多かったとは思いますけど…。
あの頃から通ってきたプロセスを同じように過ごせば
今、日本語でできることと同じようにできるようになるんでしょうか。
当時の状態と比較できないので、何が英語力そのものの問題で、
何が自分の意識の向け方の問題なのかが区別できていません。
大学のときや研究職のときにやっていたように
スライドを見ながら話してしまえば、当時と近い状態にはなりそうです。
それは1つの手段だと思います。
そうしたプレゼンを何回やったんでしょうか。
学生時代で数十回、研究職時代は平均すると月に何回かありましたから、
内容だけを伝えるためのパワーポイントを使ったプレゼンでさえ、
結構な回数をやっていたみたいです。
慣れるはずです。
そのぐらいやれば英語でも、もうちょっとマシなプレゼンになるかもしれません。
一方で、パワーポイントを使った「説明」のプレゼンとは違う
「伝える」プレゼンを意識するようになった頃、
やはり最初は大変だった記憶があります。
当時を思い返すと、沢山のことを意識的にやろうとしていた気がします。
伝える内容を覚えておいて、工夫するところを覚えておいて、
「やる」という意識が沢山あった感じがあります。
一方、今は「やる」の部分が減っていて、
「やろう」と思えば、あとは自動的に振る舞いが出てきて
それを意識的にモニターしてコントロールする感じです。
その意味では、車の運転に近いかもしれません。
免許をとりたての頃は、全ての動作を「やる」方向で意識する。
慣れてくると、自然にできるようになる。
慣れでできるようになったことを吟味して意識化することで
精度を高める方向にコントロールしていく。
繰り返しによって自動化して、一方でさらに意識的な努力を繰り返す。
そうすることで自動的にできる量を増やしていく感じなんでしょう。
そうやって自動化したら、制御するための努力をしていく、と。
そんな流れがあったようです。
すると、今の状態は意識的にやろうとしていることが多過ぎるようですから、
全てを意識しようとするのをやめて、慣れさせていくだけのほうが良いんでしょう。
慣れてきて、淡々とできるようになってきた頃に
意識的な作業を追加していくようなプロセスが必要そうです。
セミナーを仕事でするようになって、何回ぐらいやったんでしょうか。
ずっと話しっぱなしではないものの朝から夕方までのセミナーを
多いときは一年で200日ぐらいやっていましたから。
研究発表のプレゼンの何倍もやっていたみたいです。
その中で色々と技術を追加してきて今の状態がある。
と考えると、今、日本語でできることと英語でできることを比べるのは
あまりに違いが大き過ぎるかもしれません。
同じ時間、同じ回数が必要だとは思いませんが、
同じ過程を通ってくるのは効果的な方法な気がしてきました。
あとは途中経過として自分のできることを自覚しておいて
課題を追加していけば良いわけですから。
そうすると英語でプレゼンできる場があると手っ取り早そうです。
2012年07月11日
JND
僕は、基本的にラーメンがそんなに好きではありません。
でも、たまに食べます。
最近、近所に有名な店の姉妹店みたいのができて
わりと人気があるようなんです。
とはいっても、最近はピークも過ぎて、行列はなくなりました。
平日なら昼時でも並ばずに食べられるぐらい。
混雑時を避ければ、スムーズに店内に入れます。
それで、僕がその店に行く理由は、あまりラーメンっぽくないからなんです。
味の組み立ては、明らかに昔ながらの醤油ラーメンの雰囲気ですが、
色々なコダワリが味と香りを重層的にしていて、
ちょっとした高級料理の風情があるんです。
なので、僕にとってはラーメンではなくて、別の食べ物の感じです。
良くできた1つの料理として、たまに食べに行っているわけです。
以前、昼間に食べに行ったとき、…多分、4回目ぐらいだったと思いますが…、
店長らしき人がいなくて、他の店員のお兄ちゃんが店を仕切っていました。
調理も他のバイトへの指示も、その人がやっていたんです。
食券を買って、店に入ってみたら店内の様子が少し違う。
そのときに気づいたぐらいです。
店長らしき人は、ピークを過ぎたから席をはずしているんだろう、と思っていました。
ところが。
でてきたラーメンを食べてビックリです。
いや、正確には運ばれてきた時点でビックリでした。
匂いがいつもと違う。
明らかに足りない成分があるんです。
スープの味も平べったくて、まぁ、本当に昔ながらのラーメンの感じでしょう。
好きな人は良いでしょうけど、僕はラーメンを食べに行っていなくて
その料理を期待していましたから、僕には全く別物に感じられました。
麺のゆで加減も甘くて、粉臭さが残っているし、
メンマにいたっては焦げていて、黒くなっている部分までありました。
多分、醤油か何かの入れ過ぎで焦げていて、苦いし塩辛いし…。
そこのメンマは香り成分を複雑にするために粗引きの黒コショウを使っていますが
その日は、黒コショウの粒さえ見えないぐらいでした。
麺のゆで加減は誤差が出ても仕方ないとして、
メンマは明らかに作り間違えているとしか思えなかったんです。
まぁ、全くの別物でした。
ピークを過ぎているとはいえ、店内は8割ぐらい埋まっていましたし、
僕と同じ(はず)のラーメンを食べている人も何人かいました。
なので、その人たちの前で、露骨に「失敗作だ」とは言えませんから
「最近、意図的に味を変えたんですか?」と聞きました。
すると
「いえ、そんなことはありません。同じですよ。」
というので、
「これで同じなんですか?」
と聞きました。
「はい、いつも通りです。」
とのことでしたから、
「そうですか。」
といって、大部分を残して帰ってきました。
気づかないなら、無駄だと思いますので。
別に不愉快ですらありませんでした。
もう一回、店長らしき人がいるのを確認して来てみよう。
それでダメなら、もう来なければいい。
そういう結論です。
ちなみに、こういうとき、僕の食べていたドンブリの上には
2本の箸がXの形に交差して置かれています。
「バツ!」というメッセージを、ささやかに提示しているんです。
せめてもの反発。
ちゃんと美味しいときは、西洋マナーと同じく、
お箸とレンゲがドンブリの右側に綺麗に並んでいますが。
どういうわけか、僕は小さいころから味の違いを細かく感じ分けていたようです。
善し悪しではなくて、違うかどうかを意識していたんです。
細かいのは味覚に始まったことではありませんが
自分が細かいことを気にしていると自覚したのは、味が最初でした。
同級生と味への感想が違ったからです。
今は、自分がどういう感覚への意識の向け方をしているから
そのような感じ方になっているかが言語的に説明できますが、
僕には基本的に細かい違いを気にする傾向があります。
幼少期から、ウチのおばあちゃんがいつも「美味しい、美味しい」と言っていたのを聞いて
「今日のは、この間のと味が全然違うのに、同じ感想なんだ…」と思っていたものです。
今、コミュニケーション技術の一環として観察力を磨くように努力をしてきて
以前よりも、きっと多くの違いを捉えるようになってきているはずです。
なお、同じような情報の中で、どれぐらいの違いが出たときに「違う」と感じるかを、
「JND」( just noticeable difference )と心理学では呼びます。
その意味では、僕はJNDを小さくするように努力してきていて、
ラーメンに対してもJNDが小さいために、「いつもと違う」と判断していたのでしょう。
思えば、僕はこのJNDの小ささとコダワリの強さのせいで
なかなか他の人から理解してもらえない習慣を持っていました。
僕は、好きなものは、とても大事にしたいんです。
想い入れが強いからこそ、我慢できないことが多くなるんです。
で、僕は「蕎麦」が好きです。
想い入れが強い。
ですから、蕎麦屋には行きません。
まず行きません。
よほど「美味しい」と思える蕎麦屋でないと、ガッカリするからです。
セミナーの昼休み、他のトレーナーや受講生の方と一緒に昼食へ行くことがありました。
外に昼ご飯を食べに行く機会が多かったんです。
それで当時、なぜか一緒にいた人の多くが蕎麦を食べたがっていたんです。
しょっちゅう「蕎麦に行きましょうよ!」と。
僕は協調性を優先するので、仕方なく蕎麦屋について行っていました。
ですが、内心は本当にガッカリしていて…。
結局、僕はその蕎麦屋で一度も蕎麦を注文しませんでした。
見た目で味が想像できますから。
いつもご飯物か、うどん。
「原田さんは、蕎麦よりも、うどんが好きなんですか?」なんて聞かれたりして。
本当は、蕎麦が大好きなんです。
でも、好き過ぎて、ほとんどの蕎麦は食べたくないんです。
ワガママの度が過ぎてしまっているんです。
うどんは、それほど好きな食べ物ではないので
あまりコダワリなく食べられます。
許容範囲が広いんです。
でも蕎麦は厳しいみたいです。
そう考えると、はたして自分は損をしているんじゃないか、という気がしたりもします。
細かいことが気にならなければ、もっと楽しめることがあるんじゃないか、と。
ワインのソムリエは、細かく味の違いを感じ取れるようです。
その人にとっては100万円のワインなんて、感動も尋常じゃないんでしょう。
ワインが好きじゃない人は、1000円のワインも、100万円のワインも
同じように楽しめるのかもしれません。
どっちがワインを楽しめると言えるんでしょうか?
どっちに喜びが大きいのでしょうか?
ちなみに、そのラーメン屋にはそれ以降、店長らしき人がいるのを確認してしか
店に入らないようにしています。
そのせいもあってか、比較的安定した品質で料理を堪能できています。
なるべく高品質を維持してもらいたいものです。
僕のワガママを満たしてくれるのは、ありがたいですから。
でも、たまに食べます。
最近、近所に有名な店の姉妹店みたいのができて
わりと人気があるようなんです。
とはいっても、最近はピークも過ぎて、行列はなくなりました。
平日なら昼時でも並ばずに食べられるぐらい。
混雑時を避ければ、スムーズに店内に入れます。
それで、僕がその店に行く理由は、あまりラーメンっぽくないからなんです。
味の組み立ては、明らかに昔ながらの醤油ラーメンの雰囲気ですが、
色々なコダワリが味と香りを重層的にしていて、
ちょっとした高級料理の風情があるんです。
なので、僕にとってはラーメンではなくて、別の食べ物の感じです。
良くできた1つの料理として、たまに食べに行っているわけです。
以前、昼間に食べに行ったとき、…多分、4回目ぐらいだったと思いますが…、
店長らしき人がいなくて、他の店員のお兄ちゃんが店を仕切っていました。
調理も他のバイトへの指示も、その人がやっていたんです。
食券を買って、店に入ってみたら店内の様子が少し違う。
そのときに気づいたぐらいです。
店長らしき人は、ピークを過ぎたから席をはずしているんだろう、と思っていました。
ところが。
でてきたラーメンを食べてビックリです。
いや、正確には運ばれてきた時点でビックリでした。
匂いがいつもと違う。
明らかに足りない成分があるんです。
スープの味も平べったくて、まぁ、本当に昔ながらのラーメンの感じでしょう。
好きな人は良いでしょうけど、僕はラーメンを食べに行っていなくて
その料理を期待していましたから、僕には全く別物に感じられました。
麺のゆで加減も甘くて、粉臭さが残っているし、
メンマにいたっては焦げていて、黒くなっている部分までありました。
多分、醤油か何かの入れ過ぎで焦げていて、苦いし塩辛いし…。
そこのメンマは香り成分を複雑にするために粗引きの黒コショウを使っていますが
その日は、黒コショウの粒さえ見えないぐらいでした。
麺のゆで加減は誤差が出ても仕方ないとして、
メンマは明らかに作り間違えているとしか思えなかったんです。
まぁ、全くの別物でした。
ピークを過ぎているとはいえ、店内は8割ぐらい埋まっていましたし、
僕と同じ(はず)のラーメンを食べている人も何人かいました。
なので、その人たちの前で、露骨に「失敗作だ」とは言えませんから
「最近、意図的に味を変えたんですか?」と聞きました。
すると
「いえ、そんなことはありません。同じですよ。」
というので、
「これで同じなんですか?」
と聞きました。
「はい、いつも通りです。」
とのことでしたから、
「そうですか。」
といって、大部分を残して帰ってきました。
気づかないなら、無駄だと思いますので。
別に不愉快ですらありませんでした。
もう一回、店長らしき人がいるのを確認して来てみよう。
それでダメなら、もう来なければいい。
そういう結論です。
ちなみに、こういうとき、僕の食べていたドンブリの上には
2本の箸がXの形に交差して置かれています。
「バツ!」というメッセージを、ささやかに提示しているんです。
せめてもの反発。
ちゃんと美味しいときは、西洋マナーと同じく、
お箸とレンゲがドンブリの右側に綺麗に並んでいますが。
どういうわけか、僕は小さいころから味の違いを細かく感じ分けていたようです。
善し悪しではなくて、違うかどうかを意識していたんです。
細かいのは味覚に始まったことではありませんが
自分が細かいことを気にしていると自覚したのは、味が最初でした。
同級生と味への感想が違ったからです。
今は、自分がどういう感覚への意識の向け方をしているから
そのような感じ方になっているかが言語的に説明できますが、
僕には基本的に細かい違いを気にする傾向があります。
幼少期から、ウチのおばあちゃんがいつも「美味しい、美味しい」と言っていたのを聞いて
「今日のは、この間のと味が全然違うのに、同じ感想なんだ…」と思っていたものです。
今、コミュニケーション技術の一環として観察力を磨くように努力をしてきて
以前よりも、きっと多くの違いを捉えるようになってきているはずです。
なお、同じような情報の中で、どれぐらいの違いが出たときに「違う」と感じるかを、
「JND」( just noticeable difference )と心理学では呼びます。
その意味では、僕はJNDを小さくするように努力してきていて、
ラーメンに対してもJNDが小さいために、「いつもと違う」と判断していたのでしょう。
思えば、僕はこのJNDの小ささとコダワリの強さのせいで
なかなか他の人から理解してもらえない習慣を持っていました。
僕は、好きなものは、とても大事にしたいんです。
想い入れが強いからこそ、我慢できないことが多くなるんです。
で、僕は「蕎麦」が好きです。
想い入れが強い。
ですから、蕎麦屋には行きません。
まず行きません。
よほど「美味しい」と思える蕎麦屋でないと、ガッカリするからです。
セミナーの昼休み、他のトレーナーや受講生の方と一緒に昼食へ行くことがありました。
外に昼ご飯を食べに行く機会が多かったんです。
それで当時、なぜか一緒にいた人の多くが蕎麦を食べたがっていたんです。
しょっちゅう「蕎麦に行きましょうよ!」と。
僕は協調性を優先するので、仕方なく蕎麦屋について行っていました。
ですが、内心は本当にガッカリしていて…。
結局、僕はその蕎麦屋で一度も蕎麦を注文しませんでした。
見た目で味が想像できますから。
いつもご飯物か、うどん。
「原田さんは、蕎麦よりも、うどんが好きなんですか?」なんて聞かれたりして。
本当は、蕎麦が大好きなんです。
でも、好き過ぎて、ほとんどの蕎麦は食べたくないんです。
ワガママの度が過ぎてしまっているんです。
うどんは、それほど好きな食べ物ではないので
あまりコダワリなく食べられます。
許容範囲が広いんです。
でも蕎麦は厳しいみたいです。
そう考えると、はたして自分は損をしているんじゃないか、という気がしたりもします。
細かいことが気にならなければ、もっと楽しめることがあるんじゃないか、と。
ワインのソムリエは、細かく味の違いを感じ取れるようです。
その人にとっては100万円のワインなんて、感動も尋常じゃないんでしょう。
ワインが好きじゃない人は、1000円のワインも、100万円のワインも
同じように楽しめるのかもしれません。
どっちがワインを楽しめると言えるんでしょうか?
どっちに喜びが大きいのでしょうか?
ちなみに、そのラーメン屋にはそれ以降、店長らしき人がいるのを確認してしか
店に入らないようにしています。
そのせいもあってか、比較的安定した品質で料理を堪能できています。
なるべく高品質を維持してもらいたいものです。
僕のワガママを満たしてくれるのは、ありがたいですから。