2012年09月

2012年09月07日

9月の勉強会

9月の勉強会のお知らせ

片隅に日時のご案内だけ出していましたが、
9月の勉強会のお知らせです。

今月は22日の土曜日。
午前・午後(10:00〜16:30)での開催です。

形式は一応、午前中を『勉強会』スタイル、午後を『実践トレーニング』とします。
(ゼミ形式の進みが遅れています。ご関心をお持ちの方、申し訳ありません。)

とはいえ、今回もビデオを持ちこむ予定なので
勉強会でもトレーニングが主体になるはずです。
ただテーマを設定して行うだけの話です。

一方、午後は『実践トレーニング』なので、
内容はコミュニケーションと関われば何でも大丈夫です。

ですから、午後は何でも良いから色々とトレーニングを重ねて
気づきと技術の向上を目的にしましょう、ということです。

午後の部にご参加の方は、ご希望のトレーニング分野を考えて頂くと
実りある時間が過ごせるのではないかと思います。

おそらく、それぞれの方のご要望に合うようにトレーニング内容をアレンジしますから
全員が同じ作業をすることはないかもしれませんが、
できる限り時間当たりのトレーニング効果を高められればと考えています。

ということで、ビデオを使ってフィードバックをしながら
様々なトレーニングをするのが、午後の『実践トレーニング』です。


午前中の『勉強会』では、テーマを『ねぎらい』とします。

実際には『ねぎらい』というテーマを何度もこれまでにやっていますから
一部内容が重複する部分もあるかと思いますが、
違いは「ビデオを使える」というところにあります。

つまり、話の内容を振り返ることも、感情の表れ方に注目することも
ビデオを見ながら詳細に吟味することができるわけです。

その意味では、『感情を読みとる観察力』のトレーニングともいえるでしょう。

人は複数の感情を同時に体験しているものです。

世の中には「人はリラックスと不安を同時に感じられない」
なんて説明する人がいますが、これは良く考えていない説明だと思います。

リラックスというのは、ほぼ完全にリラックスしていないと
「リラックス」と言いません。

少しでも不安が混ざっていれば、「不安だ」と呼ぶんです。
程度が大きな不安から、小さな不安まで、”不安”の幅は広い。

それに対して、”リラックス”の範囲は狭いんです。

リラックスのほうがニュートラルに近い分、感じにくいだけのことです。

感情の種類が生理的にアクティブなものになってくると
いくらでも入り混じったような状態が作られます。

正確にいえば、複数が入り混じっていると「1つの感情」として整理できないので
”なんともいえない感じ”とか、一番強く表れている状態だけに注目しやすいんです。

ですが、心の動きとして理解しようとしたときには、
そのように複数の感情が入り乱れていることにこそ重要な点があります。

入り混じったものを見分けて、「どのように混ざっているのか」を理解する。

「本当は少し悔しい感じもあるのだけれど、喜びを示している」とか
「冷静に落ち着きを表現しながら、奥底に失望が残っている」とか。

そういった複雑な心の機微が生まれる理由に、”その人らしさ”があるからです。

悔しい気持ちもあるのに、それを出さないようにしているのは何のためか?
失望を感じながらも冷静さを保たなければいけない事情は何なのか?
…そういったところに、その人の”頑張り”があるわけです。

ここを捉える練習をするには、ビデオを使うのは有効です。
見逃していた部分をジックリとチェックできます。

詳しくは勉強会で解説しますが、『ねぎらい』には色々な種類があります。
特に、”頑張り”に対してコメントをするときには、
こうした複数の感情への注目が欠かせないでしょう。

感情を捉え、背景を想像して、心に響く言葉がけを考える。
それが勉強会のメインの内容です。

以前に勉強会で『ねぎらい』を扱ったのは、しばらく前になるはずです。
前回にご参加の方も、この間の経験が積み重なっています。
そこでトレーニングをした方も、実生活で色々な体験をした方も、
必ず財産になるような経験をしてきていると思います。

それを整理しなおして、より実践的に使いやすい形に変えていく。
これは単なる復習とは違ったレベルのものでしょう。

「5年前に読んだ本を読み直してみたら、前とは全く違った学びがあった」
なんていう体験に近いかもしれません。

まぁ、今回は”同じ本”ではなくて、”ビデオつき”なわけですが。

もちろん、前回に参加されていない方にも体験しやすいように
トレーニングの方法を工夫していきます。

個人的なオススメは、『ねぎらい』をしてもらう側を体験するということです。
そのときの気持ちを実感しておくと、
『ねぎらい』をしようという動機が生まれやすくなりますから。


効果的に『ねぎらい』ができるかどうかで
コミュニケーションの流れが変わることは頻繁です。

本当に大切な技術だと思います。
少し意図的にやるだけでも効果が実感できる技術です。

だからこそ、吟味することの大切さも強調しておきたいんです。

褒められて嫌な気持ちがする人は多くないでしょうが、
言われて特に嬉しい褒め言葉というのもあるものでしょう。

同様に、たった一言で、一気に安らぎが訪れるような『ねぎらい』もあるんです。

そうした言葉がけを目指すには、ジックリと吟味しながら
トレーニングをするのが大切だろうと思われます。

しっかりと気持ちを捉えるように観察する。
その背後にある事情を察する。
そして、心に響く言葉を紡ぎだす。

それぐらい誠実に、相手へ気持ちを向ける時間そのものも
とても貴重なものではないかと思います。

ご都合のつく方は、是非お越し下さい。



<ご参加に際しての注意事項>

※NLPの専門用語の説明などは省略するつもりですので、
 NLPなどに対する知識と経験のある方、もしくは
 過去に勉強会でトレーニングを積まれた方
のご参加をお薦めします。

 ☆気がかりがありましたら、お問い合わせください。

※内容が広範囲にわたりますので、資料での補足が難しい可能性があります。
 ご希望の内容がある場合には、お申込みの際に「ご意見など」の欄にご記入ください。



  定員を超える場合には先着順での受付とさせて頂きますのでご了承下さい。

  ※勉強会全般の趣旨に関しましては、こちら(勉強会070725)をご覧下さい。


詳細は以下のとおりです。




【勉強会の詳細】

≪定期勉強会≫&≪実践トレーニング≫
【日時】 9月22日(土) 

      ◆午前の部:10:00〜12:30
      ◆午後の部:13:30〜16:30

         ★午前・午後いずれかのご参加も可能です。
         ※申込フォームの『参加時間帯』の欄に、「午前」、「午後」、「両方」の区分でご記入ください。


【場所】 滝野川会館 304集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)


【参加費】 当日、会場にてお支払いください。

      ◆午前の部・・・4,000円
      ◆午後の部・・・5,000円
      ◆午前・午後両方・・・7,000円



【テーマ】 コミュニケーションを客観的にチェックする
      ◆午前の部≪勉強会≫:『ねぎらい』の技術を吟味する
      ◆午後の部≪実践トレーニング≫

 *多くの方にご興味を抱いて頂けるようになってきましたので、
  学びの密度を考えて、一定数で募集を打ち切らせていただくことがあります。
  ご了承ください。




実をいうと、自分自身、『ねぎらい』が得意ではありませんでした。

いや、『ねぎらい』というものを知らなかった、といったほうが正確かもしれません。

リフレーミングや質問、オウム返しなどは本を読めば出てくるし
セミナーでも教わりました。

なので、どういう質問やリフレーミングが効果的なのかを見る着眼点があったんです。
達人と呼ばれる人たちが、どんなリフレーミングや質問をしているかに注目できました。

ですが、『ねぎらい』という技術そのものを教わったことがなく、
何が『ねぎらい』なのかも分かっていなかったときには
達人がどんな『ねぎらい』を使っているかにも注目できませんでした。


一方で、今振り返ってみても、実際にその人たちも
頻繁には『ねぎらい』を使っていなかったような気がします。
少なくとも、分かりやすい『ねぎらい』は多くなかった。

使いどころがあるからだとも言えますし、
必要な人と必要でない人がいるからだとも言えます。

僕が接する機会が少なかったのかもしれません。

それから面接(カウンセリング)のトレーニングを集中的に受けるようになって
個別に録画した面接をビデオでスーパーバイズしてもらう中で、
そのスーパーバイザーが教えてくれる”気の利いた言葉”が目についたんです。

それは、言われてみると納得できるけれども、なかなか思いつかない
といった種類の言葉がけでした。

相手の中にある心の”わだかまり”を一瞬で取り払い、
前に進む準備をするための言葉になっていたように感じます。

そのスーパーバイザーは、それ以前のトレーニングでは『ねぎらい』を使わず、
面接のトレーニングで初めて『ねぎらい』の指導を始めたわけです。
(そのときは自分の中で『ねぎらい』として整理はできていませんでしたが)

理由は説明されていませんが、考えてみるとシンプルなものだと想像できます。

そのスーパーバイザーのワークショップに参加をすると
メインの内容はワークになります。
全員がワークをしてもらう側になる。

最終的にワークを通じて必要なプロセスを全て起こしていきますし、
『ねぎらい』に関しても、参加者同士で自然に行われる流れがありました。
ですから、分かりやすく使われる機会が少なかったのかもしれません。

一方、面接の技術のトレーニングにおいては、
そのようなワークをすることが目的となっていません。

話を通じて問題を絞り込み、その問題を解決するための課題を考える。
原則的には、そんな進み方を学びます。
それが実際のカウンセリングや上司部下の面談で使えるからです。

ワークをやることが前提になっていない以上、
ワークを使わずに成し遂げなければいけない作業が増えるんです。

その1つが「感情の”わだかまり”をケアすること」であって、
そのための技術が『ねぎらい』だったわけです。


そこを理解するのには結構な時間がかかりました。

そして一度『ねぎらい』というコンセプトが整理されたら
今まで見えていなかった多くの関わり方が『ねぎらい』の効果を持っていた
と気づいたんです。

分かりやすい『ねぎらい』の言葉がなくても
相手にとっては最大の『ねぎらい』となる接し方がある。
そういうのも色々と見えてきました。

自分の心を支えてくれていた周りの人からの『ねぎらい』は
その大部分が、分かりやすい”言葉がけ”ではなかったようです。

褒められたり、叱られたりすることはあっても、
『ねぎらい』の言葉をかけてもらった記憶が思い当たっていませんでした。

だから余計に、『ねぎらい』という発想が分からなかったのでしょう。

今思えば、自分の中にも『ねぎらい』を求めて発信していたメッセージが
沢山あったような気がします。

が、自分の生活環境では、そこに対する分かりやすい『ねぎらい』の言葉は少なかった。

おそらく、多くの人がそうだと思います。
世の中のコミュニケーションを見ていると、そう感じます。
『ねぎらい』をする人は非常に少ない。

当然、自分も『ねぎらい』という発想を持たないまま人の話を聞いていました。

そのため、『ねぎらい』を求める人たちに、”冷たく”当たったことが多かったはずです。

沢山の”間違い”をしていたことに気づきます。

『ねぎらい』だけで結果が変わったコミュニケーションが沢山あったと思います。

それが嫌だったんです。
人の気持ちを理解できるようになりたかったんです。

その意味でも、『ねぎらい』のトレーニングには
結構なコダワリがあるんです。

苦手分野だと思っていましたから。

練習の重要性を強く実感している分野です。
とても役立つ技術なので、練習して頂きたいものなんです。

人の心の奥深さを感じてもらえたら何よりです。

終了しました

トレーニングには色々あります。
無意識にアプローチする手法であれば、一度の取り組みで効果が出る場合も多々あります。
一方、話術や聞く技術のように、地道なトレーニングによって効果を発揮するものもあります。
この勉強会では地道なトレーニングが主体と考えていただいて良いかもしれません。


是非、お互いの頭を上手く利用し合いましょう。

今後、参加者のご様子を伺いながら、徐々にクローズドな会合にしていく方針です。
ご興味がおありの方は、お早めに一度ご参加下さいますことをお勧めいたします。


また、お気軽にお友達やお知り合いをお誘いいただけると喜ばしいです。
学びの幅が広がるとともに、勉強会が新たな学びの機会となっていただけることを
心から願っているためです。


【その他のご連絡事項】
ご自分の学びのアウトプットとして、勉強会で発表したいことがある方は
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。
お時間などの相談をさせていただきます。


勉強会の最中には、質問をお気軽にドンドンして下さい。
話題を遮っていただいて構いません。

その時によって、どんな情報が関連して出てくるかは分かりません。
質問に答える側としても、その時間は非常に有意義なものです。

また、テーマに関して事前にご関心の強い点がありましたら
申し込みフォームの「ご意見など」の欄にご記入ください。

調査して勉強会にあたります。



それでは当日お会いできることを楽しみにしています。

2012年09月05日

「なんとなく」の度合い

僕の使っている最寄駅は、乗降客が結構多いところです。
当然、駅前も人が多い。

元々、地元の人なのか、しばらく前に出てきた人なのか分かりませんが
高齢者の割合も高いです。

そして、住民ではなさそうですが、いくつかの大学が近くの駅にあるせいか
大学生と思われる集団も駅前には結構集まります。

さらに最近は、駅前が賑やかになってきたこともあり、
多くの高層マンションが立ち並んできていますから、
そこを買った40歳前後の所帯の人口も増えてきています。

なので、ある程度かたまった世代が、いくつか集まっている感じなんです。

多分、中学生は凄く少なくて、50〜60歳ぐらいの世代も少ないでしょう。

なんとなく人のグループ分けが自然に見えてくるような印象があるので
余計に世代間の違いというのが目に付いてしまうのかもしれません。

もちろん、それぞれの世代が影響を受けてきた社会的・歴史的背景が違いますから
単純には比較できませんが、「こうやって人は年を重ねていくのか…」と
典型的な人の変化を見ているかのような気分になります。

それもおそらくは、共通点があるからだと思います。

例えば、この世代間に渋谷のギャル集団を追加したり、
広尾や白金あたりのハイソサエティな雰囲気の奥さまを追加したり、
六本木ヒルズに住むような若い”富裕層”を追加したり、
休日はセミナーに参加してビジネスに活かそうとしている人たちを追加したりすると、
随分と違った印象になってしまうはずです。

何かしらの生活感というか、典型的な人生設計というか、
生活のリズム感というか、ライフスタイルというか、
そうしたものが街として、まとまっているように見えるんです。

例に挙げたような人たちは、その「街の雰囲気」に合わないイメージだということです。


その共通点を言葉にするのは難しいんですが
「大らか」というか「無頓着」というか「自然体」というか「自覚の度合いが低い」というか…。

「気を張っていない」が近いかもしれません。
周りに対しても、自分に対しても、気を遣っていない印象。
ノビノビしているともいえるし、安定しているともいえるし。

単に、僕が色々なことに気を配り過ぎているだけという可能性は高いでしょう。
比較の問題として。

ですが、比較という点でいえば、他の地域と比較しても
街としての人の雰囲気に何かしらの特徴がありそうに感じるわけです。

仮に、麻布や白金、広尾あたりだったりすると、
エレガントな方向に自分を見せるような振る舞いの人たちが多いんです。

周りの環境に影響されて、そういう振る舞いになる可能性もあります。
しかし、自分の立ち居振る舞いに気を配っている度合いは高いはずです。

「どう見られるか」ということに関して注意が向いているといえます。
少なくとも、一時期はそこに気を配った頃があったはずで、
その結果として今の振る舞いが癖になって自然なものとなっているかもしれません。

それが銀座あたりになると、スピード感が上がります。
キビキビしてくる。
見られている意識も高いと思いますが、見せる自分もシャープな感じ。

「オホホ」と笑うか、「ウフフ」と笑うか、「ガハハ」と笑うか…そんな違いですね。

多くの自然な振る舞いは、周りを見て学んで身につけるところが大きいようです。
特にアジア人の場合はそうです。
アメリカ人は、僕の見た感じ、アジア人よりも個人差がありそうに感じます。

ただし、幼いころから見て、真似をして、同じようなことを「当然」として身につけるにも
それぞれの振る舞いで「やりやすさ」が違います。
それが子供となると、余計に「やりにくい」振る舞いがあるはずなんです。

基本的に、幼少期は体の使い方が上手くありません。
不器用というのではなくて、練習不足といったほうが良いでしょう。
小さいころに字が汚いのは、無理がないということです。

歩き方1つとっても、小さい子供はヨチヨチと危なっかしいものですし、
1つ1つの動作が関節の動作方向に沿って、シンプルで大雑把になっています。

幼稚園児で”かけっこ”が速いとしても、その走るフォームは理想的とは程遠いはずです。

細かくコントロールして、「望ましい」とされる動作に近づけていくのは
経験がモノをいうところで、それには年齢的な成長が欠かせません。

その意味で、”エレガント”な振る舞いは、子供にとって簡単な動作ではありません。
手を口に添えて「オホホ…」なんて笑うには、相当なコントロールが必要です。

”上品”とされるマナーで食事をするのも、
”美しい”と見られることになっている仕草をするのも
”できる人”っぽい歩き方をするのも、
意図的な練習が求められるわけです。

「周りからどう見られるか」という気の遣い方と
「自分自身がどうありたいか」という気の遣い方があって、
自分の振る舞いをコントロールする方向の努力ができるようになります。

仮に、厳しくしつけられたとしても、それに従うためには努力が必要ですし。

つまり、振る舞いにコントロールをするための努力を注いだかどうかは
幼少期に自然な振る舞いとの違いに表れる、ということです。

その視点で見たときに、僕の住む街の人たちは平均的に
「自覚が低く」、「無頓着」で、「自然体」だと感じられる。
そういう話です。


そうした「自覚したコントロール」は、色々なところにあります。
というよりも極論すれば、人の全ての行動・思考・感情的反応は
やろうと思えば自覚してコントロールできるものです。

チョット複雑になりますが、
 「やろうと思って」コントロールするようにしたか、
 「周りに影響されて」コントロールするようにしたか、
は本来、別物だといえます。

ただここでは、あくまでコントロールしようとした度合いだけにフォーカスしています。

例えば、渋谷のギャル集団なんていうのは、周りの影響を強く受けているでしょう。
ギャルっぽく振る舞うための暗黙のルールがあるはずです。
仕草や発声法だって決まっていますし、歩き方や言葉遣いもある。
仲間に入るために、それをコントロールしたはずなんです、ある程度は。

ビジネスで成功を収めるために仕事の仕方やライフスタイルを
自覚して変えた人もいるでしょう。
セミナーや本で勉強して、考え方を自覚して変える人もいます。

スポーツをやる人は分かりやすく、自分の動作を自覚して変える経験をしています。

このように、自分の行動・思考・感情的反応という全ての振る舞いの中から
「どの部分を、どれぐらい自覚して、コントロールしているか(してきたか)」
というのが人の雰囲気の違いを生み出す1つの要因になっているわけです。

その意味で、僕の住む町の人たちは、「自然体」の度合いが高そうに感じられる、と。

自覚してコントロールしたほうが良いのか、自然体のほうが良いのか?
どちらが良いのかは分かりません。

ただ僕は、割と多くのことを自覚して、違ったやり方を試してみるほうです。
自覚していないままの自然体の部分を探すのは難しいですが
(自覚していないから気づくのも難しいわけです)、
例えば、「カユイときに、どうやってかくか」というのは無頓着です。

いや、「でした」というべきでしょうね、今見つけた瞬間に自覚したので
今後はそこにコントロールの度合いが含まれてしまいますから。

過去を振り返ると、自転車の乗り方は、まあまあ無頓着だと思います。
ペダルに足を置く位置や、力の入れ方、サドルの座り方など
色々と変えて試した時期はありますが、それでも自覚の程度は低いでしょう。

走るのもそうですね。
苦手意識がありましたから、割りと放置したままになっています。
大学の時に毎晩走っていた時期があって、
そのときに多少は自覚の度合いを上げてコントロールしていましたが、
「走る」という行為に含まれる動作を細かく見ていけば、かなり無自覚です。

あ、1つ見つかりました。
自動車の運転です。

これは免許を取って、山口県にいたときに乗っていた頃から
何も手を入れていません。

当時は、何かを自覚するという発想が少なかったですから。
そしてそのままペーパードライバーになっているので
当時のまま手つかずで残っています。

なので、自動車の運転は僕にとって無頓着で自然体な作業です。

最近は寝るときの姿勢なんかも自覚したりしているので
神経を遣いすぎているような気もしますが。


それでも僕は、自覚してコントロールできるようにするのには
大切な意味があると思うんです。

それは沢山のことを体験できるということ。

「こんな感じ方もあったのか!」
「他の人は、こんな風に体を使っているのか!」
「こういうやり方をすると効率的なのか!」
…と、色々な発見があります。

それは気づきが得られる喜びなんていうことではなく、
世界が広がる感じです。

旅行に行って知らない世界を見たときに感じるものと似ているはずです。

一生で体験に使える時間は限られています。
ですが、その1つ1つを丁寧に体験していくと、
同じ時間でも体験の量を増やせると思うんです。

自分の振る舞いを自覚すると、違うやり方の可能性を知ることができます。
そして、自分と違うやり方で体験してみたとき、違った世界が味わえます。

先日、80歳ぐらいの男性が、5歳児のような食事の仕方をしているのを見ました。
箸の持ち方とか、そういう作法の話ではなくて、アゴの動かし方です。

この人は5歳ぐらいのときに定着したこの食べ方を
70年以上ずっと続けてきたんだろうなぁ…と、しみじみ感じました。

一般的に言えば、ごく当たり前のことなのかもしれません。

でも、少し違った口の動かし方をしたら、
食べ物の味が違って感じられた可能性もあります。
どうでもいいと思っていた食べ物が、本当は凄く美味しかった可能性も。

そんなのは一生のうちのホンの一部だとは思いますが
もし食べるのが大好きな人だったとしたら、勿体ない部分もあるような気がします。

自分にとって大事なものなら、丁寧に体験して、存分に味わい尽くしたい、
そういう発想もあるんじゃないかと僕は思います。



ということで、9月の勉強会の内容も
 コミュニケーションに対する自覚の度合いを上げよう
というコンセプトでいきます。

一応、ビデオも持ちこみます。

詳細は近々ご案内の予定です。

cozyharada at 23:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | セミナー情報

2012年09月03日

本の表紙

ちょっとした追加情報といいますか、
「 Pshochopathology (精神病理学)」の教科書がこちらです。

表紙のインパクトが相当なものです。

Abnormal Psychology: An Integrative Approach
Abnormal Psychology: An Integrative Approach
クチコミを見る


このアマゾンの写真だとチョット物足りないのが本音。
実物はもっと全体にセピアっぽい色で、サイズもA4より一回り大きい(レターサイズ)ので
視野に入るだけで「ウッ…」と胸が詰まるような印象があります。

そういうサブモダリティになっているわけです。

タイトルも「アブノーマル・サイコロジー」ですし。

先日、駅前のスターバックスで、この本を読んでいたときに
以前に習っていた英会話の先生とバッタリ遭遇しました。

よく来るらしく、今までに3回ぐらい出くわしたことがあります。

そのときは、ちょうど集中して読んでいたところでした。
彼は僕の肩を叩いた後、本の表紙を見て、ギョッとした表情を浮かべていました。

タイトルと表紙だけから、何か奇異なものを見るような様子になったんです。
それぐらいインパクトのある本だという話です。


A4よりも大きいサイズでフルカラーの光沢紙印刷、
それで600ページぐらいですから、かなり重たいんです。

ただし、いわゆるペーパーバックで表紙も固くありません。
なので、棚に入れて立てて置くのが難しい。
クタッと曲がってしまうんです。

頻繁に読まなければいけないこともあって、机の近くにおいておくと
どうしても平置きになります。

すぐに視野に入るんです、表紙の顔が。

かなり目に焼き付いています。

寝るときは別の本を重ねて、暗闇で視野に入らないようにしているぐらいです。

表紙のデザインなどにも、文化の差が出るようです。


ちなみに、同じシリーズだと表紙はこんな感じ。

Abnormal Psychology: An Integrative Approach, With Infotrac
Abnormal Psychology: An Integrative Approach, With Infotrac
クチコミを見る


Abnormal Psychology: An Integrative Approach
Abnormal Psychology: An Integrative Approach
クチコミを見る


個人的には、今使っているヤツが一番強烈に感じます。

それからアマゾンで検索していたら、こんな表紙も見つかりました。
同じく、アブノーマル・サイコロジーというタイトル。

Abnormal Psychology Modern [VHS]
Abnormal Psychology Modern [VHS]
クチコミを見る


これは…。
きっと有名なミュージシャンの人でしょうね。
似ているだけでしょうか?

そういうイラストの使い方も大丈夫なようです。

興味深いところ。

cozyharada at 23:37|Permalinkclip!心理学 | NLP

2012年09月01日

心理学の授業

大学の秋学期が始まりました。
今期は2科目を履修。

「 Psychopathology (精神病理学)」と
「 Behavioral Neuroscience (行動神経科学)」です。

どういう事情かは分かりませんが、やっぱり内容には少なからず不満があります。
専門科目とはいえ、初歩的な内容なんでしょうか。

結局のところ、教科書として使っている本が良くないように感じます。
簡略化しようとするときに、内容がバラバラになっています。

詳しい人が自分の知識を全部書きだしたような印象。
統一感がないんです。
全体像がない。

まぁ、アカデミックな専門家は専門分野を掘り下げるのが仕事ですから
誰も統一的に理解しようとはしないのかもしれませんが。


もしかすると、これはアメリカの心理学のスタンスなのかもしれませんが、
色々な心理学の本に共通していて、僕が気に食わないのが、
「心理は複数の原因によって決まっている」という発想。

「 multiple cuase 」という表現が頻出します。
だから一概に言えないんです、と。

僕には、考えるのを放棄しているようにしか思えません。

英語文化には、いくらか、「原因と結果」という発想が根づいているような気もします。
「AだからB」といった直線因果律の発想です。

AだからBにもなるし、CでもBになるし、DでもBになるし…
となれば、確かに「複数の原因がある」ように思えるのかもしれません。

が、実際にはAもCもDも、全てがBに関係しているとしたら
「複数の”原因”がある」のではなくて、
「複数の”変数”によって決められるメカニズムがある」というほうが正確でしょう。

例えば、「お盆の時期には、渋滞が増える」という現象があるとしたら、
その理由は”複数”あるとは言わないんじゃないかと思います。

・車の台数が多ければ渋滞は発生しやすい。
・自然と車の速度が低下する場所を先頭にして渋滞が発生しやすい。
・事故が起きれば渋滞が起きやすい。
・ブレーキランプを見ると、後ろのドライバーは強めにブレーキを踏んで
 徐々に減速の度合いが強まりながら後続車に続いていく。

良く言われるのは、最後のブレーキに関する現象が中心になっていて、
どんな出来事によってでも、速度が低下すると車間距離が縮むため
誰かがブレーキを踏むようになるのが、後続車に渋滞を引き起こす、
というメカニズムのようです。

ですから、車の台数が多いほど、スムーズに流れていても
車間距離が短くなりやすいですから、ブレーキが踏まれやすくなりますし、
ブレーキを踏んだ影響も後続車に伝わっていきやすいといえます。
(ブレーキを踏んでも車間距離があれば後続車はブレーキを踏まない)

トンネルでは自然とスピードが落ちてしまう人が多いようですし、
ゆるやかな上り勾配でも自然と減速しやすくなります。
合流や車線の数が変わるあたりでも、減速しやすくなるでしょう。

前の車が減速すれば車間距離が縮まって、ブレーキを踏みたくなる。
そして、そこから渋滞のキッカケが生まれる。

こういうメカニズムだったとしたとき、
「渋滞の原因は、”車の台数”と”上り勾配やトンネル、合流などの減速地点”、
 ”ドライバーがどれぐらいブレーキを踏むか”という複数が関係している」
という表現はしない気がします。

複数の”要因”が関係していて、それぞれを結びつけるメカニズムがある。
そしてまた、それぞれの要因に影響する別の種類の要因もある。
そういう発想こそが、渋滞を理解するためのものじゃないかと思います。

それを、こんな風には説明しないと思うんです。
 「渋滞は、車の台数が変わっても、減速地点があっても、ブレーキの踏まれ方でも
  色々な原因によって生まれます。
  だから、どれが原因とは一概に言えません。
  実際、車の台数が減れば渋滞は起きにくくなります。
  減速しやすい場所に渋滞が多発するというデータもあります。
  渋滞発生の場面を上空から撮影すると、徐々に後続車が強めに減速していって
  最終的には止まる車が出てくることも観察できます。
  色々なデータがあるんです。」

少し考えれば、全てのデータを関連させたストーリーを1つ作れるはずです。

サイエンスは、本来、そういうスタンスだと思うんです。

例えば、『万有引力の法則』であれば、
 「2つの物体があったとき、それぞれの質量mとM、
  それぞれの間の距離rとの間には、
   F=(G×m×M)/(r×r)  ※G:万有引力定数
  という関係が成り立つ」
という風に説明します。

「万有引力の強さは、それぞれの物体の質量によっても違うし、
 それぞれの間の距離によっても違います。
 質量と距離という複数の原因があるんです。」
とは言わないわけです。

なのに心理学の教科書では
 「この傾向には、脳のこの部分が関係しているとも示されているし、
  一卵性双生児では同じ傾向になりやすいことも示されている。
  また、生育歴が関係しているというデータもあるし、
  ストレスに影響されるという理論もある。」
なんていうわけです。

現象を違うレベルで説明しているのに、それらを全て同じように”原因”と捉えて
「複数の原因がある」というのは、いかがなものかと思えてなりません。


多分、僕は微生物を使ってアミノ酸生産とかを研究していたこともあって、
膨大な変数が関与しているメカニズムを、全体像として把握して
ストーリーとして組み立てることに慣れているんだと思います。

化学にも、わりと近い発想が求められる印象があります。
1つのレベルで現象を理解しようとしない。
様々な要因を、異なった抽象度で同時にイメージしていく感じです。

それには、ミクロなレベルにズームインして理解することと、
マクロな現象へズームアウトして、工学的に理解することの両方が必要です。
両方というか、自在に視点を変えられるというか。

僕は、そういう発想が好きでもあったんでしょうし、
それをトレーニングしてきたんだというのが、振り返って実感されます。

ところが、心理学は”エビデンス”です。
統計だとかいって、数を数えるだけ。

その習慣が、複数の”要因”が絡み合ったメカニズムの全体像を
理解しようとする発想を妨げているような気もします。

何より、僕の印象からすると、知識の偏りも大きいように感じられます。

僕が一番ヒドイと思ったのは、使っている教科書に
間違った情報が大量に載っていることです。

心理学だから、遺伝や分子生物学の内容は雑で良いんでしょうか?
さすがに、定義として間違ったものを伝えるのは問題があると思うんですが。

教科書の著者も専門外なんでしょう。
その教科書を選んだ教授チームも専門外なんでしょう。
講師は教科書の内容以上には、調べていないんでしょう。

知らないんなら教えなければ良いのに…。
そんな不満を感じながら授業を聞く状態です。


そういえば、テストのときは悩みますね。
もし出たら、教科書通りじゃないと不正解になりそうですし。

どこまで妥協するか、模索しながらやっていきます。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《コミュニケーション講座》
 〜人を育てる指導力〜

【日時】 
  2019年6月16日(日)
   10:00〜16:30


【場所】 
  北とぴあ 601会議室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細はこちら>>


《瞑想講座》

【日時】 
  2019年6月22日(土)

  午後の部 13:30〜16:30
  夜間の部 18:00〜21:00

【場所】 
  北とぴあ 第2和室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細はこちら>>


《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
次回未定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



 ◆ お問い合わせ 
  技術向上、
  コンサルティング、
  スーパーバイズ、
  執筆・講演…

  諸々のお問い合わせはこちらへ>>



ホームページ
バナー1


プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
Archives
最近のコメント
QRコード
QRコード