2013年02月
2013年02月06日
悔しさという感情
先日から、ロジャース派(精神力動的アプローチ?)のカウンセラーによる講座が
アドバンス・コースとして再開しました。
夏に取っていたベーシック・コースの続き。
英語でカウンセリングができるようになろうという想いから受講しています。
スタンスの違いが感じられるのは興味深いですが
僕としては色々な意味で”もどかしさ”を感じてしまいます。
それで、先日の講座中に、講師であるカウンセラーが
初めてデモンストレーションを見せてくれました。
クライアントに協力してくれたのはイギリス人男性(30代?)。
簡単にデモを、ということでしたが
本人にとって非常に重要なテーマと思われる話を
間接的に話し始めてくれました。
そして、開始から3分もしないうちに、
手に感情が色濃く見える瞬間がありました。
「瞬間」といっても、数十秒は続いていたと思いますが。
僕の目からすると、その感情は「悔しさ」と呼ぶものです。
デモを見ながら、ポイントをメモしていた僕は
そこですかさず「悔しさ」をメモしようとしたんです。
が、英単語が浮かばない。
仕方なく、日本語で「悔しい」とメモ。
休憩時間中に、講師に質問をしました。
「『悔しさ』っていうのは、英語で何て言いますか?」と。
ところが、回答は
「ないですね」
とのこと。
そこから会話が全員に広がり、日本語・英語、それぞれどちらが得意かは別にして
「悔しい」に対応する英語は何かという話になりました。
それでもやはり、適切な英単語は存在しないようでした。
「嫉妬」や「後悔」、「イライラ」など、いくつか挙がりましたが、
クライアント役の彼が示していたのは、どれとも違います。
実際、非言語に感情が表れてから10分後ぐらいに、
彼は色々と出来事を話し始めました。
そこには、
「元々、期待と自信があったのに、今、実際に目の前で起きているのは
想像していたのとは全く違う現実」
というストーリーがありました。
言葉にはしていませんでしたが、セリフをつけるなら
「こんなはずではないのに!」
「おかしい」
「こんなことになるなんて」
といった感じでしょう。
「もう、悔しい!」
だろうという推測は、僕の中でより確実性を高めていました。
こういう話であれば、「嫉妬」ではありません。
「嫉妬」は他の誰かに向けられる感情です。
「後悔」は自分に向いていますが、もっとエネルギーが低い感じでしょう。
どちらかというと「反省」に近く、過去の自分の行動や選択に対して
気持ちを向けている状態だといえます。
「イライラ」は少し近い気がしますが、「イライラ」は
「悔しい」に比べると感情のスピードが速いと思います。
「イライラ」が「あー、もうっ!」だとしたら、
「悔しい」は「うぅーーー…っ…」という感じ。
もしかすると、「悔しい」は「イライラ」と「後悔」がミックスした感じかもしれません。
とにかく、その感情を表す適切な一言が無いようなんです。
まぁ、考えてみると、日本語の感情表現と英語の感情表現では
言葉としての仕組みが違っていますから、
一対一の対応をつけること自体が難しいような気もします。
日本語で感情を表す言葉は、
「怒り」でも「悲しみ」でも、ほとんどが(思いつく限りは)
感情を味わっている本人の中に起きている『状態』を述べたものです。
一方、英語になると、事情が少し複雑になります。
「怒り」や「悲しみ」は、直接的な形容詞「 angry 」や「 sad 」から派生しますから
日本語と同様に、その人の『状態』を表しています。
ところが「イライラ」となると、形が変わります。
「 frustrated 」です。
「 frustrate 」という単語があって、「〜をイライラさせる」を意味する。
それが過去分詞になった「 frustrated 」が形容詞ですから、
「イライラさせられている」という雰囲気があるわけです。
そもそもの発想の起点が、
「○○が〜を…させる」という『作用』にあるんです。
1つの対象物の状態を記述することが多い日本語に対して、
英語では、2つの物(サブジェクトとオブジェクト)の間に働く作用を記述する。
そのせいかもしれません。
感情表現に対しても、「怒り」、「悲しみ」、「幸せ」など
”基本的”とされるものを除いた、複雑な気持ちになってくると
感情の向けられる方向性が関わってくるようです。
日本人の感じからすると、「悔しい」は単なる身体感覚として区別されますが
英語の感じからすると、「悔しい」を表現するには、かなり複雑なイメージが必要で
「過去の自分の行動に向けた後悔」
+「”期待していた今あるはずの仮定の自分”と
”現状の自分”との間のギャップに向けた不満」
+「その不満な結果を引き起こしてしまった自分の能力と行動に向けた責め」
+「”この後は、この状態を何とか打破したい”という未来の目標へ向けた意欲」
あたりが同時に表れる必要があるんじゃないかと想像します。
こんな複雑なことを一瞬でやるのは大変ですから
「悔しくさせられた」といった感じの単語は生まれにくいのかもしれません。
ちなみに、心理学で有名な感情の理論で
シャクターとシンガーが唱えた『二要因理論』というのがありますが、
これは
「生理的な状態」を「そのときの状況」に結びつけたとき、「感情」として解釈される
という発想です。
ですから、何らかの生理的に活性化されたものがあったとき(アドレナリンが多いとき)
周りに怒りを生むのに典型的な状況があれば、「怒り」を感じて
楽しさを生むのに典型的な状況があれば、「楽しさ」を感じるといった説明になります。
これも、英語における感情が『感情を向ける対象(=〜される対象)』に
方向性を持っているものだと考えると、少しは納得しやすくなります。
そんなに純粋に生理状態の違いを感じ取ろうとしない癖が
言語的に与えられているという可能性です。
日本人は、もっと生理状態そのものを感じ分けて
「感情」として区別している印象をうけます。
その意味では、『二要因理論』は日本人向きじゃないかもしれない、と。
僕の印象ですが、心理学者は言語の影響を軽く見ている気がします。
文化については比べようとするのに、言語には比較的関心が薄い。
もうちょっと、この辺の言語的な違いを踏まえて
人の振る舞いを見ていっても面白いと思うんですが。
アドバンス・コースとして再開しました。
夏に取っていたベーシック・コースの続き。
英語でカウンセリングができるようになろうという想いから受講しています。
スタンスの違いが感じられるのは興味深いですが
僕としては色々な意味で”もどかしさ”を感じてしまいます。
それで、先日の講座中に、講師であるカウンセラーが
初めてデモンストレーションを見せてくれました。
クライアントに協力してくれたのはイギリス人男性(30代?)。
簡単にデモを、ということでしたが
本人にとって非常に重要なテーマと思われる話を
間接的に話し始めてくれました。
そして、開始から3分もしないうちに、
手に感情が色濃く見える瞬間がありました。
「瞬間」といっても、数十秒は続いていたと思いますが。
僕の目からすると、その感情は「悔しさ」と呼ぶものです。
デモを見ながら、ポイントをメモしていた僕は
そこですかさず「悔しさ」をメモしようとしたんです。
が、英単語が浮かばない。
仕方なく、日本語で「悔しい」とメモ。
休憩時間中に、講師に質問をしました。
「『悔しさ』っていうのは、英語で何て言いますか?」と。
ところが、回答は
「ないですね」
とのこと。
そこから会話が全員に広がり、日本語・英語、それぞれどちらが得意かは別にして
「悔しい」に対応する英語は何かという話になりました。
それでもやはり、適切な英単語は存在しないようでした。
「嫉妬」や「後悔」、「イライラ」など、いくつか挙がりましたが、
クライアント役の彼が示していたのは、どれとも違います。
実際、非言語に感情が表れてから10分後ぐらいに、
彼は色々と出来事を話し始めました。
そこには、
「元々、期待と自信があったのに、今、実際に目の前で起きているのは
想像していたのとは全く違う現実」
というストーリーがありました。
言葉にはしていませんでしたが、セリフをつけるなら
「こんなはずではないのに!」
「おかしい」
「こんなことになるなんて」
といった感じでしょう。
「もう、悔しい!」
だろうという推測は、僕の中でより確実性を高めていました。
こういう話であれば、「嫉妬」ではありません。
「嫉妬」は他の誰かに向けられる感情です。
「後悔」は自分に向いていますが、もっとエネルギーが低い感じでしょう。
どちらかというと「反省」に近く、過去の自分の行動や選択に対して
気持ちを向けている状態だといえます。
「イライラ」は少し近い気がしますが、「イライラ」は
「悔しい」に比べると感情のスピードが速いと思います。
「イライラ」が「あー、もうっ!」だとしたら、
「悔しい」は「うぅーーー…っ…」という感じ。
もしかすると、「悔しい」は「イライラ」と「後悔」がミックスした感じかもしれません。
とにかく、その感情を表す適切な一言が無いようなんです。
まぁ、考えてみると、日本語の感情表現と英語の感情表現では
言葉としての仕組みが違っていますから、
一対一の対応をつけること自体が難しいような気もします。
日本語で感情を表す言葉は、
「怒り」でも「悲しみ」でも、ほとんどが(思いつく限りは)
感情を味わっている本人の中に起きている『状態』を述べたものです。
一方、英語になると、事情が少し複雑になります。
「怒り」や「悲しみ」は、直接的な形容詞「 angry 」や「 sad 」から派生しますから
日本語と同様に、その人の『状態』を表しています。
ところが「イライラ」となると、形が変わります。
「 frustrated 」です。
「 frustrate 」という単語があって、「〜をイライラさせる」を意味する。
それが過去分詞になった「 frustrated 」が形容詞ですから、
「イライラさせられている」という雰囲気があるわけです。
そもそもの発想の起点が、
「○○が〜を…させる」という『作用』にあるんです。
1つの対象物の状態を記述することが多い日本語に対して、
英語では、2つの物(サブジェクトとオブジェクト)の間に働く作用を記述する。
そのせいかもしれません。
感情表現に対しても、「怒り」、「悲しみ」、「幸せ」など
”基本的”とされるものを除いた、複雑な気持ちになってくると
感情の向けられる方向性が関わってくるようです。
日本人の感じからすると、「悔しい」は単なる身体感覚として区別されますが
英語の感じからすると、「悔しい」を表現するには、かなり複雑なイメージが必要で
「過去の自分の行動に向けた後悔」
+「”期待していた今あるはずの仮定の自分”と
”現状の自分”との間のギャップに向けた不満」
+「その不満な結果を引き起こしてしまった自分の能力と行動に向けた責め」
+「”この後は、この状態を何とか打破したい”という未来の目標へ向けた意欲」
あたりが同時に表れる必要があるんじゃないかと想像します。
こんな複雑なことを一瞬でやるのは大変ですから
「悔しくさせられた」といった感じの単語は生まれにくいのかもしれません。
ちなみに、心理学で有名な感情の理論で
シャクターとシンガーが唱えた『二要因理論』というのがありますが、
これは
「生理的な状態」を「そのときの状況」に結びつけたとき、「感情」として解釈される
という発想です。
ですから、何らかの生理的に活性化されたものがあったとき(アドレナリンが多いとき)
周りに怒りを生むのに典型的な状況があれば、「怒り」を感じて
楽しさを生むのに典型的な状況があれば、「楽しさ」を感じるといった説明になります。
これも、英語における感情が『感情を向ける対象(=〜される対象)』に
方向性を持っているものだと考えると、少しは納得しやすくなります。
そんなに純粋に生理状態の違いを感じ取ろうとしない癖が
言語的に与えられているという可能性です。
日本人は、もっと生理状態そのものを感じ分けて
「感情」として区別している印象をうけます。
その意味では、『二要因理論』は日本人向きじゃないかもしれない、と。
僕の印象ですが、心理学者は言語の影響を軽く見ている気がします。
文化については比べようとするのに、言語には比較的関心が薄い。
もうちょっと、この辺の言語的な違いを踏まえて
人の振る舞いを見ていっても面白いと思うんですが。
2013年02月04日
お知らせ
【カウンセリング講座(第二回分)補講のお知らせ】
《カウンセリング講座・補講 〜焦点化編〜 》
1月に開催したカウンセリング講座・第二回:「焦点化編」の
補講のご依頼がありました。
「日程の都合で第二回に参加できなかった…」という方、
「もう一度トレーニングして、しっかり基礎を身につけたい」という方、
ご都合が合いましたら、どうぞお越しください。
ご参加の方が変わると内容が変動する可能性がありますので
全く同じ構成にする自信はありません。
もちろん、中心になるトレーニングは確定していますが。
その点はご了承ください。
日時は以下の通りです。
ご参加を希望される方は、下記のフォームに入力いただくか
直接メールでご連絡ください。
【日時】 2月24日(日) 9:30〜16:30
【場所】 五反田駅周辺 (お申し込みの方にお知らせします)
【参加費】 15,000円
(★再受講の方は、10,000円となります)
→内容の詳細はこちらをご参考ください>>
※日時・会場は異なります!ご注意ください。
終了しました
最近、絵を描きました。
僕の頭の中にある「厳しい上司」の典型的なイメージです。
かすかにイメージを浮かべながら
紙の上に出してみて違和感を修正する…。
大雑把なストラテジーは、そんな感じ。
多分、こういうイメージに対する感度が上がっているんでしょう。
描いてみると文字通り「自画自賛」したい気分になります。
ワードやパワーポイントで図を作る作業はあっても
紙と鉛筆で絵を描く作業は少ないので、自由度の高さが楽しかったです。
一方で、もっと上手く描けそうな予感もあるんです。
手が追いついていないというか、
イメージできているものをもっと的確に表現できそうな印象が。
それには時間をかけて、丁寧に色を塗るような段階も必要そうなので
しっかりとした環境が求められそうなところ。
まだ今はチョット、優先順位を上げられませんが
いつかは油彩なんかもやりたいものです。

2013年02月02日
原典
ああだ、こうだと頭の中で考えを巡らせるのが好きな僕としては
何を勉強しても、そのまま”受け入れる”ということがありません。
鵜呑みにしないのを大切にしているというか、
それが癖になっているというか。
消化を良くするために、しっかり咀嚼しておく感じ。
吟味することでもあるし、関連づけることでもあるし、疑うことでもあります。
そうやって考えてきた過程で、
「なるほど、こういうことか!」と閃くときが多々ありました。
その一方で、「原点(=原典)から学ぶ」ということが
僕はあまり好きではありません。
「この説を誰が唱えていたか」という情報は、僕にとって重視されないようです。
ですから、あらゆる本を徹底的に調べるわけではないんです。
トレーナーとして何かを説明しているときに質問を受けることが良くありますが、
僕なんかよりも本を沢山読んでいて、知識の量が多い人が大勢います。
教わることもしばしば。
特に、物事の出発点に立ち返るところまで調べる人は
本当に沢山の本を読んでいますから、感心させられっぱなしです。
そうしていると、幸か不幸か、
知らないうちに僕も、昔の人と同じ見解に辿り着いていた
ということが何度も出てきました。
自分としては、本から沢山の情報を仕入れることをせずに
ただ実践から得られた知見を、周辺分野も含めて
もっとも辻褄が合うように整理をしているうちに導かれた結論。
それに気づいたときには「オッ!」と思って喜びもあるんですが、
なんのことはない。
実は、原点に近いところで主張していた人たちの本には
まさにそのことが、そのまま記載されていたりする。
僕が「こういう風に整理すると、辻褄が合う」と解説をしたときに、
「それって、○○の本の中で、〜が書いていましたね。」
というコメントを頂くことが度々あったんです。
そんなときは、
「あぁ、良かった。変なこと言ってなかった」と安心する気持ちが少し、
「なんだ、本に書いてあったのか…」とガッカリする気持ちが少し。
「しかも、30年以上前か…」と、さらに残念な気持ちになる場合も。
まぁ、実際に本を読んでいたとしても
それが同じ結論として理解できていたかどうかも分かりませんから、
僕としてはスタイルを変えるつもりは、さほどないんですが。
例えば、僕はNLPをやってきた中で
数多くの曖昧な説明を聞いてきました。
「人それぞれ、物事の受け取り方(=フレーム)があって、
それによって反応が変わる」
という説明もあれば、
「人には様々な種類のプログラム(=フィルター)がある」
という説明もあります。
全く統一感がない。
同じ人が、同じような概念を、別の用語で説明したりするわけです。
トレーナーとしても、どれを優先して解説すべきか、
どのタイミングで、どの説明のモデルを使うか、色々と迷ったものです。
それがコミュニケーションと関係してきたりした場合には、
さらに面倒くさい話になっていました。
(そういうときは、意図的に誤魔化して説明していましたが…)
さらに、多くの先人が、NLP以外のコンセプトを追加したようです。
それで用語が一層、混乱しやすくなってくる。
考えてみたら自然なことかもしれません。
ゼロからNLPだけを学んで、それだけを伝えるトレーナーは少ない。
最初から、ビジネスの研修やコーチング、セラピーなどの専門性を持った人が
新たにNLPというのを追加するように取り組むケースが多かったようです。
結果として、元々のニュアンスと違う内容が、
役に立つ「似たもの」として取り入れられる、と。
具体的に1つ取り上げるなら、
「フレーム」という概念は、ややこしい部類でしょう。
明らかに、NLPの技法として『リフレーミング』という名称のものがあって、
そこには前置きとして『フレーム』が設定されます。
ところが、プログラムやらフィルターやらの話になると、
”価値観”、”ビリーフ”、”メタプログラム”、”経験”…などと色々列挙されるのに
その中に『フレーム』は出てこない。
『リフレーミング』という技術の名称と、
『フレーム』という存在がリンクしていない印象だったんです。
そこへ、さらに近接業界の人が、「似たもの」を持ちこみます。
「プリフレーム」、「フレーミング」、「ディフレーミング」…。
フレーミングやプリフレームというのは、考えの方向性を導くために
重要なメッセージの前置きとして使われる言葉のようです。
ということは、ここでいう『フレーム』は
「考え方の枠組み」といった意味合いでしょう。
社会心理学でいう『スキーマ』に近いと思います。
では、なぜ、この意味合いでの『フレーム』は
『フィルター』や『プログラム』の中には登場しないんでしょうか?
この辺りを整理したくなって、色々と考えてみた結果、
僕の中では、
「フレームはサブモダリティ(五感の情報)の組み合わせである」
という結論に辿り着きました。
というよりも、それ以外に、NLPでやっている作業を
辻褄の合う形で説明できる方法が見つからなかったんです。
で、「よし、これでゴチャゴチャしているところが区別できるようになった」
とコッソリ喜んでいたんですが…。
ここでも、同じような体験がありました。
何十年も前に、オリジナルの人が、同じことを説明していたんです。
『フレーム』という概念は、”人工知能の父”とも呼ばれる認知科学者
マーヴィン・ミンスキーによって1975年に提唱されたものでした。
そして、その定義では、最初から「五感の情報を組み合わせて」
という内容が述べられていたんです。
実は、そもそもの定義のところから、そのままだったんです。
僕はただ、知らないうちに、ミンスキーの定義に戻っていただけ…。
NLPの初期の人たちが、ミンスキーから
『フレーム』という概念を取り入れたのかどうかは定かではありません。
NLPの初期に、『フレーム』を「五感の情報の組み合わせ」として
理解していたかも定かではありません。
少なくとも、僕がNLPを学ぶようになった頃の主流には
そのような説明はありませんでした。
僕はグルグル迂回して、結局、出発点に戻ったわけです。
1975年の情報に。
なんとも複雑な気分だったものです。
本からの勉強も大事ですね。
何を勉強しても、そのまま”受け入れる”ということがありません。
鵜呑みにしないのを大切にしているというか、
それが癖になっているというか。
消化を良くするために、しっかり咀嚼しておく感じ。
吟味することでもあるし、関連づけることでもあるし、疑うことでもあります。
そうやって考えてきた過程で、
「なるほど、こういうことか!」と閃くときが多々ありました。
その一方で、「原点(=原典)から学ぶ」ということが
僕はあまり好きではありません。
「この説を誰が唱えていたか」という情報は、僕にとって重視されないようです。
ですから、あらゆる本を徹底的に調べるわけではないんです。
トレーナーとして何かを説明しているときに質問を受けることが良くありますが、
僕なんかよりも本を沢山読んでいて、知識の量が多い人が大勢います。
教わることもしばしば。
特に、物事の出発点に立ち返るところまで調べる人は
本当に沢山の本を読んでいますから、感心させられっぱなしです。
そうしていると、幸か不幸か、
知らないうちに僕も、昔の人と同じ見解に辿り着いていた
ということが何度も出てきました。
自分としては、本から沢山の情報を仕入れることをせずに
ただ実践から得られた知見を、周辺分野も含めて
もっとも辻褄が合うように整理をしているうちに導かれた結論。
それに気づいたときには「オッ!」と思って喜びもあるんですが、
なんのことはない。
実は、原点に近いところで主張していた人たちの本には
まさにそのことが、そのまま記載されていたりする。
僕が「こういう風に整理すると、辻褄が合う」と解説をしたときに、
「それって、○○の本の中で、〜が書いていましたね。」
というコメントを頂くことが度々あったんです。
そんなときは、
「あぁ、良かった。変なこと言ってなかった」と安心する気持ちが少し、
「なんだ、本に書いてあったのか…」とガッカリする気持ちが少し。
「しかも、30年以上前か…」と、さらに残念な気持ちになる場合も。
まぁ、実際に本を読んでいたとしても
それが同じ結論として理解できていたかどうかも分かりませんから、
僕としてはスタイルを変えるつもりは、さほどないんですが。
例えば、僕はNLPをやってきた中で
数多くの曖昧な説明を聞いてきました。
「人それぞれ、物事の受け取り方(=フレーム)があって、
それによって反応が変わる」
という説明もあれば、
「人には様々な種類のプログラム(=フィルター)がある」
という説明もあります。
全く統一感がない。
同じ人が、同じような概念を、別の用語で説明したりするわけです。
トレーナーとしても、どれを優先して解説すべきか、
どのタイミングで、どの説明のモデルを使うか、色々と迷ったものです。
それがコミュニケーションと関係してきたりした場合には、
さらに面倒くさい話になっていました。
(そういうときは、意図的に誤魔化して説明していましたが…)
さらに、多くの先人が、NLP以外のコンセプトを追加したようです。
それで用語が一層、混乱しやすくなってくる。
考えてみたら自然なことかもしれません。
ゼロからNLPだけを学んで、それだけを伝えるトレーナーは少ない。
最初から、ビジネスの研修やコーチング、セラピーなどの専門性を持った人が
新たにNLPというのを追加するように取り組むケースが多かったようです。
結果として、元々のニュアンスと違う内容が、
役に立つ「似たもの」として取り入れられる、と。
具体的に1つ取り上げるなら、
「フレーム」という概念は、ややこしい部類でしょう。
明らかに、NLPの技法として『リフレーミング』という名称のものがあって、
そこには前置きとして『フレーム』が設定されます。
ところが、プログラムやらフィルターやらの話になると、
”価値観”、”ビリーフ”、”メタプログラム”、”経験”…などと色々列挙されるのに
その中に『フレーム』は出てこない。
『リフレーミング』という技術の名称と、
『フレーム』という存在がリンクしていない印象だったんです。
そこへ、さらに近接業界の人が、「似たもの」を持ちこみます。
「プリフレーム」、「フレーミング」、「ディフレーミング」…。
フレーミングやプリフレームというのは、考えの方向性を導くために
重要なメッセージの前置きとして使われる言葉のようです。
ということは、ここでいう『フレーム』は
「考え方の枠組み」といった意味合いでしょう。
社会心理学でいう『スキーマ』に近いと思います。
では、なぜ、この意味合いでの『フレーム』は
『フィルター』や『プログラム』の中には登場しないんでしょうか?
この辺りを整理したくなって、色々と考えてみた結果、
僕の中では、
「フレームはサブモダリティ(五感の情報)の組み合わせである」
という結論に辿り着きました。
というよりも、それ以外に、NLPでやっている作業を
辻褄の合う形で説明できる方法が見つからなかったんです。
で、「よし、これでゴチャゴチャしているところが区別できるようになった」
とコッソリ喜んでいたんですが…。
ここでも、同じような体験がありました。
何十年も前に、オリジナルの人が、同じことを説明していたんです。
『フレーム』という概念は、”人工知能の父”とも呼ばれる認知科学者
マーヴィン・ミンスキーによって1975年に提唱されたものでした。
そして、その定義では、最初から「五感の情報を組み合わせて」
という内容が述べられていたんです。
実は、そもそもの定義のところから、そのままだったんです。
僕はただ、知らないうちに、ミンスキーの定義に戻っていただけ…。
NLPの初期の人たちが、ミンスキーから
『フレーム』という概念を取り入れたのかどうかは定かではありません。
NLPの初期に、『フレーム』を「五感の情報の組み合わせ」として
理解していたかも定かではありません。
少なくとも、僕がNLPを学ぶようになった頃の主流には
そのような説明はありませんでした。
僕はグルグル迂回して、結局、出発点に戻ったわけです。
1975年の情報に。
なんとも複雑な気分だったものです。
本からの勉強も大事ですね。