2013年08月
2013年08月31日
言葉遣いに気をつけて
僕は”無意識”という言葉を安易に使わないようにしています。
それは世間一般で使われる”無意識”という単語が
指し示しているものが非常に曖昧だからです。
”潜在意識”といった場合には、さらに曖昧さが上がる気もします。
”無意識”が曖昧なんですから、当然、”意識”という言葉もいい加減。
心理学では”意識”と”注意”と”知覚”は明確に定義されていますが
一般的に使われる”意識”という単語は、遥かに幅広い意味のようです。
ただ、そうは言っても心理学では、そもそもの”心”の定義に限界がある。
一方、僕は催眠もやったとはいえ、
安易に”無意識”という便利な機能に逃げるのが嫌だったので
NLPが提唱する”プログラム”という発想を重視してきました。
まぁ実際には、NLPでも平気で”無意識”という言葉を使って説明して
細かい心の内側のプロセスを誤魔化すケースは多いようなんですが。
それに対して、徹底的に”プログラム”の観点で心の仕組みを捉えると
”無意識”という一言でひっくるめて示されている内容にも
明確な違いがあることが見えてきます。
実際に何が起きているか、といったプロセスは
”無意識”と呼ばれている範疇でも様々なんです。
それは説明の仕方としても、理解の仕方としても曖昧だと思います。
テレビのデジタル放送とアナログ放送の両方をひっくるめて
”テレビの電波”と呼んでしまっている感じ。
別に支障はないと思うかもしれませんが、世間には、喩えていうなら
「テレビは電波を受信すれば見れますから、アンテナを立てて下さい」
と言いながら、地デジアンテナとアナログ放送用のアンテナを
本人も違いを理解しないまま、無作為に売っているような人もいるんです。
それでアナログ用のアンテナを買ってしまった人から
「すみません、テレビ映らないんですけど」
と言われたら
「あぁ、人は皆違います。上手くいかないこともあります。
大事なのは、”上手くいかなかったら、違うやり方をすることです。
こちらのアンテナを試してみましょう。」
なんていって、また無作為に別のアンテナを試したりする。
それで運よく地デジ用のアンテナが相手の手に渡ったとき
「ほら、テレビは結局、電波を受信するかどうかなんです」
なんて結論に達して。
そんな感じの現実的な不都合が起きている可能性があるわけです。
色々なことを全て”無意識”の一言で片づけることによって。
もちろん、細かく考えるのが嫌いな人もいますし、
「何回か試してみて、上手くいくまでやり直せばいい」
といった発想を受け入れる人もいるでしょう。
ただの好き好きの問題として、僕はそういうスタンスが嫌なんです。
ちゃんと区別して理解したい。
実際に心の中で起きているプロセスが違っているのに
色々な物をまとめて1つの呼び方にしてしまうのは
理解しているように感じられないんです。
専門家って、そういうものじゃないでしょうか?
分かっているほど、細かな違いを気にするように思います。
リンゴ農家の人なら、リンゴの種類の違いを気にするでしょう。
僕は心を専門に見たいので、心の仕組みの違いが気になるんです。
ということで、僕は”無意識”という言葉を使わない形で
心の仕組みを説明するように気をつけてきました。
その結果、反対のプロセスとして”意識”が理解できてくる。
世間一般の常識だと
”意識”のほうが身近で、良く知ったもので
”無意識”は不思議で良く分からないもの
といった印象があるかもしれません。
セミナーをやっていて
「無意識って何なんでしょうね?」
といった質問は受けたことがありますが
「意識って何なんでしょうね?」
と聞かれたことはありませんから。
多くの人は、”意識”を当たり前のことと勘違いしています。
一般的な”無意識”という用語がザックリと言い表しているものを
「何が起きているか」という観点から見ていくと、
むしろ”無意識”のほうが標準であるように思えてきます。
つまり”意識”のほうが特殊な状態であって、
”意識”を説明するほうが、はるかに大変だ、と。
それでも、プログラムの観点をベースに
プログラムでは説明できない『人の内面に起こる現象』を眺めると
世間一般で”意識”と呼んでいるものも、
ある程度は区別できるようになってきます。
”無意識”の中身と”意識”の中身の両方が
徐々に見えてくるわけです。
そうして、おぼろげな全体像が浮かび上がってくる。
その全体像は、僕が以前に”心”として捉えていたものとは
全くの別物でした。
衝撃的なぐらい違っていました。
僕は割りと世間の常識的な発想にも注意を向けているつもりですから
一般常識として共有されている”心”の定義も
なんとなく把握していると思っています。
そして、その常識的な”心”の定義は、
僕の以前のイメージと大差ないと思います。
ですから、徹底的に”心”とは何かをプログラムの観点で見ていったら
かなり非常識な結論が導かれてしまったということです。
ただ、僕個人の中では、その理解の仕方はかなり説得力があるようです。
ふとした瞬間に、自分がこんなにも
その捉え方を評価しているのかと気づいたりします。
それは自分の書く文章や話の中で
説明に使う言葉の選び方に表れていました。
”無意識”や”意識”という言葉を安易に使わないようにしてきたのと同様に、
それ以前から僕は、”心”という単語を安易に使わないようにしていました。
自分の中で納得いくほど分かっていませんでしたから。
”心”っていう単語が指し示すものが分かっていない以上、
安易に”心”という言葉を使わないようにしようとしていたんです。
ところが最近、知らないうちに自分の中から
”心”という単語が出てきていることに気づきます。
自分の中で、「”心”とは何か」が整理されてきているんでしょう。
これはチョットした驚きでした。
それは世間一般で使われる”無意識”という単語が
指し示しているものが非常に曖昧だからです。
”潜在意識”といった場合には、さらに曖昧さが上がる気もします。
”無意識”が曖昧なんですから、当然、”意識”という言葉もいい加減。
心理学では”意識”と”注意”と”知覚”は明確に定義されていますが
一般的に使われる”意識”という単語は、遥かに幅広い意味のようです。
ただ、そうは言っても心理学では、そもそもの”心”の定義に限界がある。
一方、僕は催眠もやったとはいえ、
安易に”無意識”という便利な機能に逃げるのが嫌だったので
NLPが提唱する”プログラム”という発想を重視してきました。
まぁ実際には、NLPでも平気で”無意識”という言葉を使って説明して
細かい心の内側のプロセスを誤魔化すケースは多いようなんですが。
それに対して、徹底的に”プログラム”の観点で心の仕組みを捉えると
”無意識”という一言でひっくるめて示されている内容にも
明確な違いがあることが見えてきます。
実際に何が起きているか、といったプロセスは
”無意識”と呼ばれている範疇でも様々なんです。
それは説明の仕方としても、理解の仕方としても曖昧だと思います。
テレビのデジタル放送とアナログ放送の両方をひっくるめて
”テレビの電波”と呼んでしまっている感じ。
別に支障はないと思うかもしれませんが、世間には、喩えていうなら
「テレビは電波を受信すれば見れますから、アンテナを立てて下さい」
と言いながら、地デジアンテナとアナログ放送用のアンテナを
本人も違いを理解しないまま、無作為に売っているような人もいるんです。
それでアナログ用のアンテナを買ってしまった人から
「すみません、テレビ映らないんですけど」
と言われたら
「あぁ、人は皆違います。上手くいかないこともあります。
大事なのは、”上手くいかなかったら、違うやり方をすることです。
こちらのアンテナを試してみましょう。」
なんていって、また無作為に別のアンテナを試したりする。
それで運よく地デジ用のアンテナが相手の手に渡ったとき
「ほら、テレビは結局、電波を受信するかどうかなんです」
なんて結論に達して。
そんな感じの現実的な不都合が起きている可能性があるわけです。
色々なことを全て”無意識”の一言で片づけることによって。
もちろん、細かく考えるのが嫌いな人もいますし、
「何回か試してみて、上手くいくまでやり直せばいい」
といった発想を受け入れる人もいるでしょう。
ただの好き好きの問題として、僕はそういうスタンスが嫌なんです。
ちゃんと区別して理解したい。
実際に心の中で起きているプロセスが違っているのに
色々な物をまとめて1つの呼び方にしてしまうのは
理解しているように感じられないんです。
専門家って、そういうものじゃないでしょうか?
分かっているほど、細かな違いを気にするように思います。
リンゴ農家の人なら、リンゴの種類の違いを気にするでしょう。
僕は心を専門に見たいので、心の仕組みの違いが気になるんです。
ということで、僕は”無意識”という言葉を使わない形で
心の仕組みを説明するように気をつけてきました。
その結果、反対のプロセスとして”意識”が理解できてくる。
世間一般の常識だと
”意識”のほうが身近で、良く知ったもので
”無意識”は不思議で良く分からないもの
といった印象があるかもしれません。
セミナーをやっていて
「無意識って何なんでしょうね?」
といった質問は受けたことがありますが
「意識って何なんでしょうね?」
と聞かれたことはありませんから。
多くの人は、”意識”を当たり前のことと勘違いしています。
一般的な”無意識”という用語がザックリと言い表しているものを
「何が起きているか」という観点から見ていくと、
むしろ”無意識”のほうが標準であるように思えてきます。
つまり”意識”のほうが特殊な状態であって、
”意識”を説明するほうが、はるかに大変だ、と。
それでも、プログラムの観点をベースに
プログラムでは説明できない『人の内面に起こる現象』を眺めると
世間一般で”意識”と呼んでいるものも、
ある程度は区別できるようになってきます。
”無意識”の中身と”意識”の中身の両方が
徐々に見えてくるわけです。
そうして、おぼろげな全体像が浮かび上がってくる。
その全体像は、僕が以前に”心”として捉えていたものとは
全くの別物でした。
衝撃的なぐらい違っていました。
僕は割りと世間の常識的な発想にも注意を向けているつもりですから
一般常識として共有されている”心”の定義も
なんとなく把握していると思っています。
そして、その常識的な”心”の定義は、
僕の以前のイメージと大差ないと思います。
ですから、徹底的に”心”とは何かをプログラムの観点で見ていったら
かなり非常識な結論が導かれてしまったということです。
ただ、僕個人の中では、その理解の仕方はかなり説得力があるようです。
ふとした瞬間に、自分がこんなにも
その捉え方を評価しているのかと気づいたりします。
それは自分の書く文章や話の中で
説明に使う言葉の選び方に表れていました。
”無意識”や”意識”という言葉を安易に使わないようにしてきたのと同様に、
それ以前から僕は、”心”という単語を安易に使わないようにしていました。
自分の中で納得いくほど分かっていませんでしたから。
”心”っていう単語が指し示すものが分かっていない以上、
安易に”心”という言葉を使わないようにしようとしていたんです。
ところが最近、知らないうちに自分の中から
”心”という単語が出てきていることに気づきます。
自分の中で、「”心”とは何か」が整理されてきているんでしょう。
これはチョットした驚きでした。
2013年08月29日
あるうちが花
怒りや不満が沸いてくるのは、
期待に沿わない結果が起きているときだといえます。
大きく分けると
・「こうあるべきだ」というルールに従っていないとき
・結果が価値観に合わないとき
といった感じ。
厳密には、「こうあるべきだ」というルールに従わない結果に対して
怒りや不満が表れる奥には「ルールを守る」という価値観がある
とも解釈できます。
もしくは
「自分がルールを守っているんだから、他人もルールを守るべき」
という考えの奥にある「公平性」といった価値観があるかもしれません。
いずれにせよ、不満や怒りが沸くのは
そこに自分の価値観が反映されているからだということです。
というよりも、
「基準に合うと満足して、基準に合わないと不満になる
物事の評価の仕方」
を『価値観』と呼んでいる、といったほうが正確でしょうか。
価値観というもの自体が、そういう性質のこととして捉えられているわけです。
ですから、不満や怒りが沸いてくるときは、
それが本人にとって大切なことの場合だけなんです。
どうでもよかったら何も感じないだけ。
気になりません。
となると、不満や怒りが沸いてくる環境は
自分にとって大切なことと関係している場面だ、ということになります。
もちろん、その不満がなくなり、喜びが得られるように
その環境が変わってくれれば望ましいでしょうし、
そうなるように努力することも充実したことだと思います。
そのように、より価値観とマッチした状況になるように
「なんとかしたい」という原動力を生むのが、
怒りや不満のエネルギーでもあるんです。
夢や目標や問題を生み出すのは、
その価値観をもっと満たしたいという欲求か
その価値観が完全に満たされていない不満か、
どちらに目を向けるかの違いはあれど
同じ源泉だということです。
その意味では、不満や怒りが沸いてくることそのものは
悪いことではないはずです。
むしろ、以前は沸いていた怒りや不満が
沸かなくなってくることのほうが、はるかに寂しいものです。
それは「どうでもよくなった」からです。
不満を感じていた以前のようには
そのことへ価値を見出せなくなった、と。
ある意味では、
勝つ喜びと負ける悔しさに心を激しく揺さぶられていた
スポーツ選手が、怪我で引退することになった
ような、そんな喪失感さえあるかもしれません。
そういう人に「人生には他にも沢山、楽しいことがあるよ」
と言っても響かないのと同様に、
”諦め”や”虚無感”を伴った『怒りや不満の喪失』は
そう簡単に受容されるものではないものでしょう。
まさにそれは、エリザベス・キュブラー=ロスが提唱する
グリーフ・ワークのモデルにあるように
否認、怒り、取引、抑うつ、受容
といった流れで、じっくりと取り組まれるもののように思えます。
なかなか大変なプロセスでしょう。
価値観そのものの喪失体験というのは。
自分らしさを失うわけですから。
それなら、不満を感じられるほうが
ずっと自然で幸せなことじゃないでしょうか。
期待に沿わない結果が起きているときだといえます。
大きく分けると
・「こうあるべきだ」というルールに従っていないとき
・結果が価値観に合わないとき
といった感じ。
厳密には、「こうあるべきだ」というルールに従わない結果に対して
怒りや不満が表れる奥には「ルールを守る」という価値観がある
とも解釈できます。
もしくは
「自分がルールを守っているんだから、他人もルールを守るべき」
という考えの奥にある「公平性」といった価値観があるかもしれません。
いずれにせよ、不満や怒りが沸くのは
そこに自分の価値観が反映されているからだということです。
というよりも、
「基準に合うと満足して、基準に合わないと不満になる
物事の評価の仕方」
を『価値観』と呼んでいる、といったほうが正確でしょうか。
価値観というもの自体が、そういう性質のこととして捉えられているわけです。
ですから、不満や怒りが沸いてくるときは、
それが本人にとって大切なことの場合だけなんです。
どうでもよかったら何も感じないだけ。
気になりません。
となると、不満や怒りが沸いてくる環境は
自分にとって大切なことと関係している場面だ、ということになります。
もちろん、その不満がなくなり、喜びが得られるように
その環境が変わってくれれば望ましいでしょうし、
そうなるように努力することも充実したことだと思います。
そのように、より価値観とマッチした状況になるように
「なんとかしたい」という原動力を生むのが、
怒りや不満のエネルギーでもあるんです。
夢や目標や問題を生み出すのは、
その価値観をもっと満たしたいという欲求か
その価値観が完全に満たされていない不満か、
どちらに目を向けるかの違いはあれど
同じ源泉だということです。
その意味では、不満や怒りが沸いてくることそのものは
悪いことではないはずです。
むしろ、以前は沸いていた怒りや不満が
沸かなくなってくることのほうが、はるかに寂しいものです。
それは「どうでもよくなった」からです。
不満を感じていた以前のようには
そのことへ価値を見出せなくなった、と。
ある意味では、
勝つ喜びと負ける悔しさに心を激しく揺さぶられていた
スポーツ選手が、怪我で引退することになった
ような、そんな喪失感さえあるかもしれません。
そういう人に「人生には他にも沢山、楽しいことがあるよ」
と言っても響かないのと同様に、
”諦め”や”虚無感”を伴った『怒りや不満の喪失』は
そう簡単に受容されるものではないものでしょう。
まさにそれは、エリザベス・キュブラー=ロスが提唱する
グリーフ・ワークのモデルにあるように
否認、怒り、取引、抑うつ、受容
といった流れで、じっくりと取り組まれるもののように思えます。
なかなか大変なプロセスでしょう。
価値観そのものの喪失体験というのは。
自分らしさを失うわけですから。
それなら、不満を感じられるほうが
ずっと自然で幸せなことじゃないでしょうか。
2013年08月26日
【セミナー】催眠講座・理論編
ご案内: 9月8日(日)開催
催眠講座 理論編
9月中に2回開催する催眠の講座。
その一回目のご案内です。
日程と大まかなコンセプトは少し前にもブログでお知らせしていましたが
一回目は催眠の”理屈”を詳しく扱います。
催眠は流派によって、それぞれの”理論”があります。
日本語で”理論”というと、
何かシッカリとした疑いようのないものみたいに感じるかもしれません。
ですが本来、”理論”には何の根拠もありません。
理論はその正しさを決して検証できないものなんです。
英語で”理論”は” theory ”に当たり、
サイエンスにおける theory は、ある人が提唱した説明モデルのことです。
そして、その理論から仮説が立てられます。
「この理論が正しければ、こういう結果が得られるはずだ」
という、実験的・観察的に検証可能なものが仮説( hypothesis )。
仮説は実験的に検証できるとはいえ、
その仮説が正しかったとしても、理論の正しさには結びつきません。
仮説そのものは、別の理論だって説明できる可能性があるからです。
分かりやすいところで、「天動説」と「地動説」でいうなら
どちらの説も”理論”と呼ばれます。
そして、どちらの説でも、ある程度の天体の観測結果が
理論と一致するデータとして得られていました。
だから「天動説」が受け入れられていたわけです。
太陽や星の動きを観察していると、確かに
地球の周りを太陽や星、月が周っているように見えるものです。
その観測結果と、「天動説」つまり「地球の周りを星が周っている」
という理論とは一致するように思えた。
ですが、同じ太陽や星の観測結果は
「地球が太陽の周りを回っていて、地球自体も自転している」
という理論(=「地動説」)でも説明ができるんです。
そして、より細かな観測結果の中には
天動説とは矛盾して、地動説なら説明可能なデータが出てきた。
それで地動説が主流になった、ということでしょう。
理論はあくまで、観測結果を上手く説明するためのモデルに過ぎないんです。
一見すると説明ができているようでも、実際に起きていることは
その理論とは違っている場合もあるわけです。
矛盾する結果が増えてきたのなら、
より説得力のある理論にシフトするのが自然なんです。
現状として催眠は、確固たる理論を持っていません。
各流派の人たちは、自分たちの催眠理論を信じているようですが
それが正しい説明になっているのかは不明瞭です。
というよりも、かなり無理があるように思えます。
当然のことです。
催眠の前提となっている「無意識」という存在自体が
しっかりと説明できていないんですから。
何より、心というものも分かっていない。
得られている知見は本来
「こういうことをしたら、こういう風になりました」
という現象の積み重ねに過ぎません。
そこに、トランスだとか暗示だとか、便利な説明が加えられています。
この”暗示”が厄介なんです。
これが催眠の理論の中核とも言えますが
”暗示”という言葉を安易に使い過ぎることで
複雑なプロセスを簡単にまとめてしまっていると考えられます。
ですから、この催眠講座(理論編)では
『催眠の現象が、どういうプロセスによって起きるか』
を細かく紐解いていきます。
”暗示”と呼ばれるものが、どういう仕組みで効果を発揮しているかを
矛盾の少ない形で整理します。
ただし、催眠の歴史や、個別流派の技法を扱ったりはしません。
ミルトンモデルのような言語パターンも扱いません。
古典や、エリクソニアン、現代催眠と呼ばれるものなど
幅広い催眠の技法が
実際にどのような現象を引き起こし
どういうプロセスで効果を発揮するのか
を中心に説明します。
ですから、それぞれの技法に対してメリットとデメリット、
どういう場面で、どういう目的に効果的なのか、
といった観点から整理することになるはずです。
もちろん、理論だけを説明して終わりではありませんので
いくつかの技法を目的別に整理して練習する予定です。
幅広い技法を組み合わせて使っていきたい方には
使い分けの方法の参考になると思われますし、
個別の技法の注意点も明確になってくると期待されます。
ただし、特定の流派に思い入れが強い場合は
その流派の理論を否定されているように感じる可能性もあります。
それが嫌な方は、ご遠慮ください。
特に、この講座の大きな特徴となるのは
『トランスに誘導して、何をするか?』
を把握できるところでしょう。
トランス誘導までを扱う機会は多いように見受けられますが、
トランスに誘導した後に何をするかは意外と不明瞭なものです。
自分の参加した講座を振り返っても、
トランス誘導の手法は何パターンも練習するわりに
誘導した後は決まった暗示文を読むだけ
といったものがありました。
トランスに誘導するのは重要です。
そこの練習も欠かせません。
この催眠講座も二回目(22日)はトランス誘導を練習します。
が、トランス状態で何をするかを扱う機会は少ないようです。
トランス状態で何をするかは、何を目的に催眠を使うかと関係します。
催眠の技法の目的と効果を把握している上で、
クライアントのニーズに合わせる形で、何をするかが選ばれるもののはずです。
本質的に言えば、「催眠」とは1つの特殊なコミュニケーション形態です。
そのプロセスに、他では得られない特徴があるんです。
その特徴を活かすのが催眠を選ぶ目的といっても良いでしょう。
同じ作業をするのに、催眠ではなくて、別のイメージワークを使うこともできます。
コーチング的な質問で扱うことだって可能です。
ですから、催眠で
セラピーをするのか、
エンターテインメントのショーをやるのか、
自己啓発をするのか、
コーチングをするのか、
といった様々な方向性が存在するものなんです。
現状は、「催眠」という枠組みだけで混同されていることも多いようですが。
別に催眠でやらなくても良いものもあるし、催眠でやるメリットもあります。
「なぜ催眠を選ぶのか?」
それが説明できるようになるために
催眠の理論を詳しく説明します。
ある程度の知識があるほうが効果は大きいかもしれませんが、
トランス誘導の体験があるとか、NLPで少しやったことがあるとか
何かしら体験したことのある方であれば楽しんでいただけると思います。
「催眠?えー、なんか怖ーい…」といった方に合わせた説明は
あまり予定していませんので、ご了承ください。
◆今回の講座の概要
●催眠技法の特徴と目的
●催眠で期待される効果
●トランスの特徴
●催眠の理論の統合的理解
●目的に応じた技法の使い分け
●トランスに誘導した後に「何をするか?」
◆録音・録画に関しまして
ICレコーダーやビデオを用いた記録は
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
復習に効果的だと思います。
とりわけ、催眠技法の部分は
録音したものを繰り返し聴くことで
自然と技術を染み込ませることができるようです。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
自分にとっての恩師の一人は
超一流の催眠療法家でした。
心やコミュニケーションの取り扱い全般に関しては
他の先生の影響が大きいと自覚していますが、
こと催眠に関しては、あのセラピストは達人だったと思います。
もう亡くなっているので会えませんが、
もし今、会えたら、もっと沢山のことを学べただろうと感じます。
その恩師が語っていた催眠の1つの特徴が『催眠の優しさ』です。
催眠は気づかなくても良い。
気づかなくても効果が出る。
見るのが苦しい、気づくのが苦しいようなことも
催眠なら知らず知らずのうちに楽になってもらえる。
セラピーとしての催眠の側面には
そういう部分もあるんです。
それを自覚して催眠をやっている人が
今の世の中に何人いるんだか知る由もありませんが。
少なくとも、その局面は強調しておきたいのが個人的な想いです。
おそらく、それは歴史上の催眠の大家とも違う発想でしょう。
ただ僕の好みに合うんです。
そのあたりが、どれぐらい前面に出るかは分かりませんが
催眠の様々な側面を一度に整理する機会にはなると思います。
興味のある方は是非、お越しください。
【セミナーの詳細】
催眠講座・理論編≫
【日時】 9月8日(日)
9:30〜16:00
※開始時間にご注意ください
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 五反田文化センター 第一会議室
(JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
(東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
そういえば、縁があって催眠のトレーナーの資格を取りましたから
やろうと思えば催眠の資格取得コースも開催できるんです。
決まった内容に沿って、”その流派の理論”で
それだけをやっていれば資格を発行することも可能です。
が、やるつもりはありません。
資格が欲しい方には知り合いを紹介します。
催眠には、もっと大事な側面があると思っています。
人の心の性質を理解するうえでも重要な現象でしょう。
「心とは何か」といったことを突き詰めるほど
既存の”理論”の枠には収まらなくなっていきました。
そうじゃなければ説明がつかないんです。
意識や無意識といった区別の仕方から考え直す必要があると考えます。
…この講座では、そこまで深入りしませんが。
ただ、催眠やらNLPやらコミュニケーションやらを扱う人たちは
もっと「無意識」という用語に対して注意深くあっても良いはずです。
催眠の流れでは、効果を出すための方便として
「無意識」という言葉が有効です。
しかし、それを方便として使うのか
実態のある心の一部として信じ込んでしまっているのかでは
天と地ほどの差があるでしょう。
少なくとも、恩師は
「無意識は単なるメタファーです」
と断言していました。
催眠を突き詰めた人には
意識や無意識といったありきたりな区別よりも、
はるかに真に迫った実態としての心の機能が見えてきたのでしょう。
催眠を統合的に理解していくことには、
意識や無意識といった概念を含めて
心の仕組みを把握する効果もあるようです。
その意味では、この催眠講座の中にも
催眠への理解を通じて、心の仕組みに迫っていく
ところが含まれるといえます。
「心とは何か?」に興味のある方にも
楽しんでいただける内容じゃないかと思っています。
多くの側面で「ダイジェスト」です。
後戻りできない人には特にオススメします。
催眠講座 理論編
9月中に2回開催する催眠の講座。
その一回目のご案内です。
日程と大まかなコンセプトは少し前にもブログでお知らせしていましたが
一回目は催眠の”理屈”を詳しく扱います。
催眠は流派によって、それぞれの”理論”があります。
日本語で”理論”というと、
何かシッカリとした疑いようのないものみたいに感じるかもしれません。
ですが本来、”理論”には何の根拠もありません。
理論はその正しさを決して検証できないものなんです。
英語で”理論”は” theory ”に当たり、
サイエンスにおける theory は、ある人が提唱した説明モデルのことです。
そして、その理論から仮説が立てられます。
「この理論が正しければ、こういう結果が得られるはずだ」
という、実験的・観察的に検証可能なものが仮説( hypothesis )。
仮説は実験的に検証できるとはいえ、
その仮説が正しかったとしても、理論の正しさには結びつきません。
仮説そのものは、別の理論だって説明できる可能性があるからです。
分かりやすいところで、「天動説」と「地動説」でいうなら
どちらの説も”理論”と呼ばれます。
そして、どちらの説でも、ある程度の天体の観測結果が
理論と一致するデータとして得られていました。
だから「天動説」が受け入れられていたわけです。
太陽や星の動きを観察していると、確かに
地球の周りを太陽や星、月が周っているように見えるものです。
その観測結果と、「天動説」つまり「地球の周りを星が周っている」
という理論とは一致するように思えた。
ですが、同じ太陽や星の観測結果は
「地球が太陽の周りを回っていて、地球自体も自転している」
という理論(=「地動説」)でも説明ができるんです。
そして、より細かな観測結果の中には
天動説とは矛盾して、地動説なら説明可能なデータが出てきた。
それで地動説が主流になった、ということでしょう。
理論はあくまで、観測結果を上手く説明するためのモデルに過ぎないんです。
一見すると説明ができているようでも、実際に起きていることは
その理論とは違っている場合もあるわけです。
矛盾する結果が増えてきたのなら、
より説得力のある理論にシフトするのが自然なんです。
現状として催眠は、確固たる理論を持っていません。
各流派の人たちは、自分たちの催眠理論を信じているようですが
それが正しい説明になっているのかは不明瞭です。
というよりも、かなり無理があるように思えます。
当然のことです。
催眠の前提となっている「無意識」という存在自体が
しっかりと説明できていないんですから。
何より、心というものも分かっていない。
得られている知見は本来
「こういうことをしたら、こういう風になりました」
という現象の積み重ねに過ぎません。
そこに、トランスだとか暗示だとか、便利な説明が加えられています。
この”暗示”が厄介なんです。
これが催眠の理論の中核とも言えますが
”暗示”という言葉を安易に使い過ぎることで
複雑なプロセスを簡単にまとめてしまっていると考えられます。
ですから、この催眠講座(理論編)では
『催眠の現象が、どういうプロセスによって起きるか』
を細かく紐解いていきます。
”暗示”と呼ばれるものが、どういう仕組みで効果を発揮しているかを
矛盾の少ない形で整理します。
ただし、催眠の歴史や、個別流派の技法を扱ったりはしません。
ミルトンモデルのような言語パターンも扱いません。
古典や、エリクソニアン、現代催眠と呼ばれるものなど
幅広い催眠の技法が
実際にどのような現象を引き起こし
どういうプロセスで効果を発揮するのか
を中心に説明します。
ですから、それぞれの技法に対してメリットとデメリット、
どういう場面で、どういう目的に効果的なのか、
といった観点から整理することになるはずです。
もちろん、理論だけを説明して終わりではありませんので
いくつかの技法を目的別に整理して練習する予定です。
幅広い技法を組み合わせて使っていきたい方には
使い分けの方法の参考になると思われますし、
個別の技法の注意点も明確になってくると期待されます。
ただし、特定の流派に思い入れが強い場合は
その流派の理論を否定されているように感じる可能性もあります。
それが嫌な方は、ご遠慮ください。
特に、この講座の大きな特徴となるのは
『トランスに誘導して、何をするか?』
を把握できるところでしょう。
トランス誘導までを扱う機会は多いように見受けられますが、
トランスに誘導した後に何をするかは意外と不明瞭なものです。
自分の参加した講座を振り返っても、
トランス誘導の手法は何パターンも練習するわりに
誘導した後は決まった暗示文を読むだけ
といったものがありました。
トランスに誘導するのは重要です。
そこの練習も欠かせません。
この催眠講座も二回目(22日)はトランス誘導を練習します。
が、トランス状態で何をするかを扱う機会は少ないようです。
トランス状態で何をするかは、何を目的に催眠を使うかと関係します。
催眠の技法の目的と効果を把握している上で、
クライアントのニーズに合わせる形で、何をするかが選ばれるもののはずです。
本質的に言えば、「催眠」とは1つの特殊なコミュニケーション形態です。
そのプロセスに、他では得られない特徴があるんです。
その特徴を活かすのが催眠を選ぶ目的といっても良いでしょう。
同じ作業をするのに、催眠ではなくて、別のイメージワークを使うこともできます。
コーチング的な質問で扱うことだって可能です。
ですから、催眠で
セラピーをするのか、
エンターテインメントのショーをやるのか、
自己啓発をするのか、
コーチングをするのか、
といった様々な方向性が存在するものなんです。
現状は、「催眠」という枠組みだけで混同されていることも多いようですが。
別に催眠でやらなくても良いものもあるし、催眠でやるメリットもあります。
「なぜ催眠を選ぶのか?」
それが説明できるようになるために
催眠の理論を詳しく説明します。
ある程度の知識があるほうが効果は大きいかもしれませんが、
トランス誘導の体験があるとか、NLPで少しやったことがあるとか
何かしら体験したことのある方であれば楽しんでいただけると思います。
「催眠?えー、なんか怖ーい…」といった方に合わせた説明は
あまり予定していませんので、ご了承ください。
◆今回の講座の概要
●催眠技法の特徴と目的
●催眠で期待される効果
●トランスの特徴
●催眠の理論の統合的理解
●目的に応じた技法の使い分け
●トランスに誘導した後に「何をするか?」
◆録音・録画に関しまして
ICレコーダーやビデオを用いた記録は
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
復習に効果的だと思います。
とりわけ、催眠技法の部分は
録音したものを繰り返し聴くことで
自然と技術を染み込ませることができるようです。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
自分にとっての恩師の一人は
超一流の催眠療法家でした。
心やコミュニケーションの取り扱い全般に関しては
他の先生の影響が大きいと自覚していますが、
こと催眠に関しては、あのセラピストは達人だったと思います。
もう亡くなっているので会えませんが、
もし今、会えたら、もっと沢山のことを学べただろうと感じます。
その恩師が語っていた催眠の1つの特徴が『催眠の優しさ』です。
催眠は気づかなくても良い。
気づかなくても効果が出る。
見るのが苦しい、気づくのが苦しいようなことも
催眠なら知らず知らずのうちに楽になってもらえる。
セラピーとしての催眠の側面には
そういう部分もあるんです。
それを自覚して催眠をやっている人が
今の世の中に何人いるんだか知る由もありませんが。
少なくとも、その局面は強調しておきたいのが個人的な想いです。
おそらく、それは歴史上の催眠の大家とも違う発想でしょう。
ただ僕の好みに合うんです。
そのあたりが、どれぐらい前面に出るかは分かりませんが
催眠の様々な側面を一度に整理する機会にはなると思います。
興味のある方は是非、お越しください。
【セミナーの詳細】
催眠講座・理論編≫
【日時】 9月8日(日)
9:30〜16:00
※開始時間にご注意ください
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 五反田文化センター 第一会議室
(JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
(東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
そういえば、縁があって催眠のトレーナーの資格を取りましたから
やろうと思えば催眠の資格取得コースも開催できるんです。
決まった内容に沿って、”その流派の理論”で
それだけをやっていれば資格を発行することも可能です。
が、やるつもりはありません。
資格が欲しい方には知り合いを紹介します。
催眠には、もっと大事な側面があると思っています。
人の心の性質を理解するうえでも重要な現象でしょう。
「心とは何か」といったことを突き詰めるほど
既存の”理論”の枠には収まらなくなっていきました。
そうじゃなければ説明がつかないんです。
意識や無意識といった区別の仕方から考え直す必要があると考えます。
…この講座では、そこまで深入りしませんが。
ただ、催眠やらNLPやらコミュニケーションやらを扱う人たちは
もっと「無意識」という用語に対して注意深くあっても良いはずです。
催眠の流れでは、効果を出すための方便として
「無意識」という言葉が有効です。
しかし、それを方便として使うのか
実態のある心の一部として信じ込んでしまっているのかでは
天と地ほどの差があるでしょう。
少なくとも、恩師は
「無意識は単なるメタファーです」
と断言していました。
催眠を突き詰めた人には
意識や無意識といったありきたりな区別よりも、
はるかに真に迫った実態としての心の機能が見えてきたのでしょう。
催眠を統合的に理解していくことには、
意識や無意識といった概念を含めて
心の仕組みを把握する効果もあるようです。
その意味では、この催眠講座の中にも
催眠への理解を通じて、心の仕組みに迫っていく
ところが含まれるといえます。
「心とは何か?」に興味のある方にも
楽しんでいただける内容じゃないかと思っています。
多くの側面で「ダイジェスト」です。
後戻りできない人には特にオススメします。
2013年08月24日
覚え方
中学校の頃、僕は塾に通っていました。
英語、数学、国語の3教科。
確か、中3あたりから理科・社会もやった気がしますが
ずっとメインは3教科でした。
宿題もやるのが当然だと思っていましたし、
授業中にも沢山の問題を解く時間がありました。
(あくまで、当時の印象ですが)
ですから、そこそこ「問題練習」をやっていたんです。
英語は覚えるものもありましたが、”暗記”という感じの自覚はなく
むしろ練習問題を解いているうちに覚えていった感じでした。
そして国語と数学は、さらに問題を解くだけといった印象があります。
とにかく練習。
その頃は「練習」や「訓練」だとは思っておらず
「やらないといけないこと」だと捉えていたので
一切疑わずに淡々と課題をこなしていました。
そのおかげで学校の勉強は楽だったような気がします。
中間テストや期末テストの前に、
数学や国語、英語の”テスト勉強”をした覚えはありません。
国語の漢字ぐらいは復習したかもしれません。
他にもやっていた可能性はゼロではないですが
思い出せる範囲ではないんです。
むしろ、テスト勉強といえば他の科目が中心でした。
理科と社会です。
とくに社会は”暗記”が多かったので。
中学の頃の理科も暗記科目と位置づけていたと思います。
テスト一週間か、もうちょっと前ぐらいから
暗記の作業を続けていました。
プリントや教科書のキーワードをピンクの色鉛筆で書いて
赤い下敷きで隠してチェックする。
あるいは、
赤いペンでキーワードにマークして(塗りつぶすように)
緑色のシートをかぶせて隠す(黒くなって見えなくなる)
…といったことをやって、見て覚えていました。
(「チェックペン」とかいう商品だったかも)
その他の「技術・家庭」、「音楽」、「保健体育」、「美術」は
文字通り”一夜漬け”だったように記憶しています。
まぁ、せいぜい2日前ぐらいから勉強スタートでした。
理科、社会のほうが、美術や保健体育などよりも
ずっと覚える量が多かったとは思います。
試験範囲が広かった。
だから、美術や保健体育は一夜漬けで対応できて
理科、社会は一週間をかけていたんでしょう。
でも、今から振り返ると、それ以外の要素もありそうに思えます。
理科と社会は”暗記グッズ”を作って、見て覚えていた。
美術や保健体育は、教科書を見ながら書いて覚えていた。
その違いもありそうです。
そして高校に進学。
今度は塾に通いませんでした。
水曜日と日曜日以外は部活があって、
帰宅後は英語の予習に追われる毎日でした。
付属校だったこともあって大学受験を意識していないカリキュラムのため
なぜか英語への力の入れ方が大きかったんです。
ルール上、「ニュー・ホライズン」か何かを買わされましたが、
3年間で一度も開いていません。
その他に毎年2冊の教科書(?)がありました。
確か、英語は3科目に分かれていて
1つは週一回のリスニングと発音の練習。
他の2つは読解でした。
それが週に5コマ。
毎日英語の授業があったんです。
そして週5は読解。
文学寄りの科目と、論述寄りの科目だったのかもしれません。
ペーパーバックのような英語の本を読むだけの授業。
一文ずつ読んで訳すだけのような感じだった気がします。
中学の英語からすると大きな差を感じていました。
知らない単語ばっかりが出てくる。
それでも単語の種類は制限されるように
書き直された本だったとは思います。
じゃないとシェイクスピアの4大悲劇なんて読めるはずがないので。
で、毎日家に帰ってすることといえば
ひたすら”教科書”扱いの本を翻訳すること。
1ページを拡大コピーしてノートの左半分に貼りつけ、
知らない単語にアンダーラインを引いて、別冊の単語ノートを作り
ノートの右半分に全訳を書く、という作業を繰り返しました。
それが予習だったんです。
そうしないと授業についていけませんでしたから。
それで授業で解説を聞いて、間違いを修正する、と。
なので、長文を読んで日本語に訳すことは
高校時代で随分慣れたと思います。
で、定期テスト。
中学時代の理科・社会の暗記とは打って変わり、
高校では、英単語の暗記が必須になりました。
単語ノートを片っ端から覚える。
このとき、「書いて覚える」方法が、僕の主流になったんです。
英単語そのものと意味を眺めながら、発音を呟きつつ、手を動かす…
知らないうちに五感をフル活用する方法を使っていたようです。
そして自然と、生物や地学などの暗記科目でも
教科書のポイントを眺めながら、書いて覚えるようになっていました。
ここで、僕の「覚える」作業の土台ができたようです。
この「書いて覚える」方法は、大学のテスト勉強まで使っていました。
大学で研究室に入ってから、会社で研究職として働いていた頃まで
論文を読む機会や、複数の論文を調査してまとめるような機会が
何かと多くなっていました。
自分の研究のための関連情報として、
専門分野の基礎知識として、
同僚に発表して教えるための内容として、
覚えておくべきことは沢山あったんです。
とはいえ、わざわざ書いて”暗記”するわけでもない。
テストがあるわけじゃないですから。
なので、この頃に「読んで覚える」という方法も身につけたようです。
周辺の情報と関連づけながら整理して読む。
そうやって整理したものを、発表したり教えたり、
実験結果の解釈の根拠に使ったり…
「読んで入手した情報を、実際に使う」ことで覚えていったんでしょう。
おそらく今では、こちらの「読んで覚える」のほうが
僕の記憶法のメインになっているんじゃないかと思えます。
情報同士の関連づけを増やして、引き出しやすくするスタイルです。
ところが。
やっぱり英単語を覚えるとなると、
高校時代にやっていた方法が好都合なようなんです。
最近は英単語のスペルのパターンのようなものを把握してきたようなので
発音と単語の意味さえ一致させられれば書けることが多い気がしますが、
それでも「手を動かす」ときの体感覚を使いながらのほうが覚えやすい。
体感覚から暗記モードが引き出されるのかもしれません。
そして、しばらく書いたら、こまめにテストを繰り返します。
覚えたかどうかをチェックする作業で
「あぁ、覚えていなかった…」という残念な感情を引き出して、
その感情を利用して再び暗記作業、という流れ。
「何度も繰り返して練習するだけよりも、
テストを繰り返したほうが学習効果が高い」
ということは心理学の実験で調べられていますが、
これも「どうやったら覚えられるか」を求めて勉強していた
高校時代から使い始めた方法でした。
どうも自分には合っているような気がします。
とはいえ、やっぱり英単語は日本語よりも大変な感じを受けます。
パッと見の字面が似通ってしまいますから。
日本語には漢字と仮名があって、便利だなぁと実感。
特に大人になると知らない言葉でも、
漢字の意味から言葉のニュアンスを推測できたりします。
これは実に便利。
たしかに英語でも、語根や接頭辞、接尾辞を見れば
意味を推測できるものもありますし、
単語同士の組み合わせで作られたものなんかもあります。
一方で、文語で使われるようなものや
文字数の少ないシンプルな単語になると、
パターンが想像できないので覚えるのが大変です。
ですから、ある程度は頑張って覚えて、
実際の文脈の中で出てきたときに
「あ、これ覚えたつもりだったけど、何だっけなぁ…」
と感じながら辞書で調べなおして、
「あぁ、そうそう!」
といった流れを繰り返していく必要があるのかもしれません。
書いて覚える作業で記憶として『保存』して、
実際の文章中で見かける経験を重ねるうちに関連づけを増やし、
『保存』されている記憶が『引き出され』やすくする。
ただ記憶の中に入れ込む作業と、
記憶から引っ張り出す作業と、
両方やるのが効果的なんじゃないか、と。
僕の場合、『保存』のほうは「書いて覚える」で、
『引っ張り出す』のほうは「読んで、実際に使って覚える」で、と
分けてやっているようなところがありそうです。
英語、数学、国語の3教科。
確か、中3あたりから理科・社会もやった気がしますが
ずっとメインは3教科でした。
宿題もやるのが当然だと思っていましたし、
授業中にも沢山の問題を解く時間がありました。
(あくまで、当時の印象ですが)
ですから、そこそこ「問題練習」をやっていたんです。
英語は覚えるものもありましたが、”暗記”という感じの自覚はなく
むしろ練習問題を解いているうちに覚えていった感じでした。
そして国語と数学は、さらに問題を解くだけといった印象があります。
とにかく練習。
その頃は「練習」や「訓練」だとは思っておらず
「やらないといけないこと」だと捉えていたので
一切疑わずに淡々と課題をこなしていました。
そのおかげで学校の勉強は楽だったような気がします。
中間テストや期末テストの前に、
数学や国語、英語の”テスト勉強”をした覚えはありません。
国語の漢字ぐらいは復習したかもしれません。
他にもやっていた可能性はゼロではないですが
思い出せる範囲ではないんです。
むしろ、テスト勉強といえば他の科目が中心でした。
理科と社会です。
とくに社会は”暗記”が多かったので。
中学の頃の理科も暗記科目と位置づけていたと思います。
テスト一週間か、もうちょっと前ぐらいから
暗記の作業を続けていました。
プリントや教科書のキーワードをピンクの色鉛筆で書いて
赤い下敷きで隠してチェックする。
あるいは、
赤いペンでキーワードにマークして(塗りつぶすように)
緑色のシートをかぶせて隠す(黒くなって見えなくなる)
…といったことをやって、見て覚えていました。
(「チェックペン」とかいう商品だったかも)
その他の「技術・家庭」、「音楽」、「保健体育」、「美術」は
文字通り”一夜漬け”だったように記憶しています。
まぁ、せいぜい2日前ぐらいから勉強スタートでした。
理科、社会のほうが、美術や保健体育などよりも
ずっと覚える量が多かったとは思います。
試験範囲が広かった。
だから、美術や保健体育は一夜漬けで対応できて
理科、社会は一週間をかけていたんでしょう。
でも、今から振り返ると、それ以外の要素もありそうに思えます。
理科と社会は”暗記グッズ”を作って、見て覚えていた。
美術や保健体育は、教科書を見ながら書いて覚えていた。
その違いもありそうです。
そして高校に進学。
今度は塾に通いませんでした。
水曜日と日曜日以外は部活があって、
帰宅後は英語の予習に追われる毎日でした。
付属校だったこともあって大学受験を意識していないカリキュラムのため
なぜか英語への力の入れ方が大きかったんです。
ルール上、「ニュー・ホライズン」か何かを買わされましたが、
3年間で一度も開いていません。
その他に毎年2冊の教科書(?)がありました。
確か、英語は3科目に分かれていて
1つは週一回のリスニングと発音の練習。
他の2つは読解でした。
それが週に5コマ。
毎日英語の授業があったんです。
そして週5は読解。
文学寄りの科目と、論述寄りの科目だったのかもしれません。
ペーパーバックのような英語の本を読むだけの授業。
一文ずつ読んで訳すだけのような感じだった気がします。
中学の英語からすると大きな差を感じていました。
知らない単語ばっかりが出てくる。
それでも単語の種類は制限されるように
書き直された本だったとは思います。
じゃないとシェイクスピアの4大悲劇なんて読めるはずがないので。
で、毎日家に帰ってすることといえば
ひたすら”教科書”扱いの本を翻訳すること。
1ページを拡大コピーしてノートの左半分に貼りつけ、
知らない単語にアンダーラインを引いて、別冊の単語ノートを作り
ノートの右半分に全訳を書く、という作業を繰り返しました。
それが予習だったんです。
そうしないと授業についていけませんでしたから。
それで授業で解説を聞いて、間違いを修正する、と。
なので、長文を読んで日本語に訳すことは
高校時代で随分慣れたと思います。
で、定期テスト。
中学時代の理科・社会の暗記とは打って変わり、
高校では、英単語の暗記が必須になりました。
単語ノートを片っ端から覚える。
このとき、「書いて覚える」方法が、僕の主流になったんです。
英単語そのものと意味を眺めながら、発音を呟きつつ、手を動かす…
知らないうちに五感をフル活用する方法を使っていたようです。
そして自然と、生物や地学などの暗記科目でも
教科書のポイントを眺めながら、書いて覚えるようになっていました。
ここで、僕の「覚える」作業の土台ができたようです。
この「書いて覚える」方法は、大学のテスト勉強まで使っていました。
大学で研究室に入ってから、会社で研究職として働いていた頃まで
論文を読む機会や、複数の論文を調査してまとめるような機会が
何かと多くなっていました。
自分の研究のための関連情報として、
専門分野の基礎知識として、
同僚に発表して教えるための内容として、
覚えておくべきことは沢山あったんです。
とはいえ、わざわざ書いて”暗記”するわけでもない。
テストがあるわけじゃないですから。
なので、この頃に「読んで覚える」という方法も身につけたようです。
周辺の情報と関連づけながら整理して読む。
そうやって整理したものを、発表したり教えたり、
実験結果の解釈の根拠に使ったり…
「読んで入手した情報を、実際に使う」ことで覚えていったんでしょう。
おそらく今では、こちらの「読んで覚える」のほうが
僕の記憶法のメインになっているんじゃないかと思えます。
情報同士の関連づけを増やして、引き出しやすくするスタイルです。
ところが。
やっぱり英単語を覚えるとなると、
高校時代にやっていた方法が好都合なようなんです。
最近は英単語のスペルのパターンのようなものを把握してきたようなので
発音と単語の意味さえ一致させられれば書けることが多い気がしますが、
それでも「手を動かす」ときの体感覚を使いながらのほうが覚えやすい。
体感覚から暗記モードが引き出されるのかもしれません。
そして、しばらく書いたら、こまめにテストを繰り返します。
覚えたかどうかをチェックする作業で
「あぁ、覚えていなかった…」という残念な感情を引き出して、
その感情を利用して再び暗記作業、という流れ。
「何度も繰り返して練習するだけよりも、
テストを繰り返したほうが学習効果が高い」
ということは心理学の実験で調べられていますが、
これも「どうやったら覚えられるか」を求めて勉強していた
高校時代から使い始めた方法でした。
どうも自分には合っているような気がします。
とはいえ、やっぱり英単語は日本語よりも大変な感じを受けます。
パッと見の字面が似通ってしまいますから。
日本語には漢字と仮名があって、便利だなぁと実感。
特に大人になると知らない言葉でも、
漢字の意味から言葉のニュアンスを推測できたりします。
これは実に便利。
たしかに英語でも、語根や接頭辞、接尾辞を見れば
意味を推測できるものもありますし、
単語同士の組み合わせで作られたものなんかもあります。
一方で、文語で使われるようなものや
文字数の少ないシンプルな単語になると、
パターンが想像できないので覚えるのが大変です。
ですから、ある程度は頑張って覚えて、
実際の文脈の中で出てきたときに
「あ、これ覚えたつもりだったけど、何だっけなぁ…」
と感じながら辞書で調べなおして、
「あぁ、そうそう!」
といった流れを繰り返していく必要があるのかもしれません。
書いて覚える作業で記憶として『保存』して、
実際の文章中で見かける経験を重ねるうちに関連づけを増やし、
『保存』されている記憶が『引き出され』やすくする。
ただ記憶の中に入れ込む作業と、
記憶から引っ張り出す作業と、
両方やるのが効果的なんじゃないか、と。
僕の場合、『保存』のほうは「書いて覚える」で、
『引っ張り出す』のほうは「読んで、実際に使って覚える」で、と
分けてやっているようなところがありそうです。
2013年08月22日
考え過ぎ
自分よりも大変な状況を生きてきた人たちを沢山知っていますし、
想像もできないほどの困難を生きている人もいることでしょう。
だから、僕には苦労自慢をする気がありませんでした。
でも、自慢できることもあります。
考え続けてきたことに関しては、かなりのものだと自負しています。
僕は人から何と言われても、考えることをやめませんでした。
他の人たちに「そんなこと考えても仕方ない」と言われても
「もう疲れたからやめましょう」と言われても、
一人でずっと考え続けていました。
休憩時間にトイレに行っても、食事に行っても
考えるのをやめたことはないと思います。
パソコンなら、マウスポインタが時計のマークになりっぱなしの感じ。
気分転換に本を読めば、また別の思考がインスパイアされます。
ボーっと空を眺めているようでも、
空と宇宙と知覚について考えが巡ります。
自然を見つめ始めると、言語化できないぐらいグルグルと
同時並行の考えがイメージで進んでいます。
水の流れなんて見ていたら、時間はあっという間に過ぎてしまいます。
研究職時代に上司から
「あんまり考えていると寝られんようになる」
と言われていたものですが、全くその通り。
考えがグルグルしていて寝つけないことなんて、しょっちゅうです。
そして半ば徹夜の状態で、目をランランとさせながら
翌日も考え続け、限界が来たら睡魔に身を任せる。
そんなパターンは良くあります。
そういえば、小さい頃から夜中に寝つけず
「寝られない…」と寝ている母親を起こしていたの記憶もあります。
とにかく頭の中は常にグルグルの感じ。
ですから何か話し合っているときに他の話題に変わったときなんかは
「あれ、さっきの話は?」と感じながら、一人だけ考え続けていますし、
ズバっと「この話はやめましょう」なんて言われたときには
自分だけ悶々と考え続ける状態に取り残されたものです。
コーチングで質問攻めにされたりすれば、
それまでの質問への答えを同時並行で考え続けて
大きなストレスを感じていました。
悩み事があるときには、考えることが裏目に出ます。
ずーっと「ああでもない、こうでもない…」となりますから。
「答えなんかでないんだから考えたって仕方ない」
と言われることもしばしば。
でも、「考えても意味がない」という”考え”ぐらい
僕の頭の中で考えていないわけがないんです。
それぐらい既に考え済みです。
それでもやっぱり考え続けている。
考えるのをやめれば楽になるという考えも浮かびますが、
頭の中から考えが消えることはありません。
パソコンだったらフリーズしているかも。
「考え過ぎじゃない?」と言われた経験は数知れません。
が、そういう人は分かっていないんです。
”考え”は、コントロールできるものではない。
私という意志で考えは制御できません。
制御しようとしている考えもまた、別の思考です。
考えは、ただ聞こえてくるだけのものなんです。
(映像的に処理されるものもありますが)
聞いているつもりがなくても、奥底で考えは進みっぱなしです。
僕はただ、そういう同時並行の考えを沢山聞き続けているだけ。
その量が多いんだと思います。
そして、他の考えが動き始めたとき、
それまでの考えが消えずに裏側で進み続ける。
この同時進行の時間が長いんでしょう。
だから余計なことを沢山考えてきたと思います。
気にしなくていいことばかり考えてきたと思います。
その量には、結構な自信があります。
「頭で考えないで、感じてください」
っていうのも無責任な発言だと僕は”考えます”。
思考がコントロールできるものではないことに
”考え”が行っていないんでしょう。
すでに考えが聞こえてしまっている人の中で何が起きているか。
それを”感じ”ようとすれば、考えが止まらないことにだって
気づけたかもしれないのに。
考えを止めるんじゃないんです。
聞こえている思考に注意が集まっている状態を
少しずつ、別の部分に移していくことが必要なんです。
それは感覚体験の注意の仕方の問題。
「こういう風に注意を向けて下さい」と伝えれば
注意の向け方を”思考”がコントロールしてくれます。
考えは大事なんです。
扱い方が難しいだけで。
考えに関しては、結構、詳しい自信があるんです。
想像もできないほどの困難を生きている人もいることでしょう。
だから、僕には苦労自慢をする気がありませんでした。
でも、自慢できることもあります。
考え続けてきたことに関しては、かなりのものだと自負しています。
僕は人から何と言われても、考えることをやめませんでした。
他の人たちに「そんなこと考えても仕方ない」と言われても
「もう疲れたからやめましょう」と言われても、
一人でずっと考え続けていました。
休憩時間にトイレに行っても、食事に行っても
考えるのをやめたことはないと思います。
パソコンなら、マウスポインタが時計のマークになりっぱなしの感じ。
気分転換に本を読めば、また別の思考がインスパイアされます。
ボーっと空を眺めているようでも、
空と宇宙と知覚について考えが巡ります。
自然を見つめ始めると、言語化できないぐらいグルグルと
同時並行の考えがイメージで進んでいます。
水の流れなんて見ていたら、時間はあっという間に過ぎてしまいます。
研究職時代に上司から
「あんまり考えていると寝られんようになる」
と言われていたものですが、全くその通り。
考えがグルグルしていて寝つけないことなんて、しょっちゅうです。
そして半ば徹夜の状態で、目をランランとさせながら
翌日も考え続け、限界が来たら睡魔に身を任せる。
そんなパターンは良くあります。
そういえば、小さい頃から夜中に寝つけず
「寝られない…」と寝ている母親を起こしていたの記憶もあります。
とにかく頭の中は常にグルグルの感じ。
ですから何か話し合っているときに他の話題に変わったときなんかは
「あれ、さっきの話は?」と感じながら、一人だけ考え続けていますし、
ズバっと「この話はやめましょう」なんて言われたときには
自分だけ悶々と考え続ける状態に取り残されたものです。
コーチングで質問攻めにされたりすれば、
それまでの質問への答えを同時並行で考え続けて
大きなストレスを感じていました。
悩み事があるときには、考えることが裏目に出ます。
ずーっと「ああでもない、こうでもない…」となりますから。
「答えなんかでないんだから考えたって仕方ない」
と言われることもしばしば。
でも、「考えても意味がない」という”考え”ぐらい
僕の頭の中で考えていないわけがないんです。
それぐらい既に考え済みです。
それでもやっぱり考え続けている。
考えるのをやめれば楽になるという考えも浮かびますが、
頭の中から考えが消えることはありません。
パソコンだったらフリーズしているかも。
「考え過ぎじゃない?」と言われた経験は数知れません。
が、そういう人は分かっていないんです。
”考え”は、コントロールできるものではない。
私という意志で考えは制御できません。
制御しようとしている考えもまた、別の思考です。
考えは、ただ聞こえてくるだけのものなんです。
(映像的に処理されるものもありますが)
聞いているつもりがなくても、奥底で考えは進みっぱなしです。
僕はただ、そういう同時並行の考えを沢山聞き続けているだけ。
その量が多いんだと思います。
そして、他の考えが動き始めたとき、
それまでの考えが消えずに裏側で進み続ける。
この同時進行の時間が長いんでしょう。
だから余計なことを沢山考えてきたと思います。
気にしなくていいことばかり考えてきたと思います。
その量には、結構な自信があります。
「頭で考えないで、感じてください」
っていうのも無責任な発言だと僕は”考えます”。
思考がコントロールできるものではないことに
”考え”が行っていないんでしょう。
すでに考えが聞こえてしまっている人の中で何が起きているか。
それを”感じ”ようとすれば、考えが止まらないことにだって
気づけたかもしれないのに。
考えを止めるんじゃないんです。
聞こえている思考に注意が集まっている状態を
少しずつ、別の部分に移していくことが必要なんです。
それは感覚体験の注意の仕方の問題。
「こういう風に注意を向けて下さい」と伝えれば
注意の向け方を”思考”がコントロールしてくれます。
考えは大事なんです。
扱い方が難しいだけで。
考えに関しては、結構、詳しい自信があるんです。
2013年08月19日
繋がり方
もし、チャネリングが得意な人がいて、
その人がこれまでに『自分』の本質とチャネリングした経験が少なかったら、
十分に『自分』とチャネリングすることをオススメしたいと思います。
同じ要領で、自分の”それ”にチャネリングするだけ。
役に立つ体験になる気がします。
まぁ、別に聞いてくれなくてもいい話なんですけど。
「チャネリングなんて良く分からない」という人は
様々な人にペーシングして、”その人らしさ”を感じ取るのが効果的でしょう。
色々な”その人らしさ”があります。
細かく感じ分けていけば、全く同じ人はいないはず。
他人の”その人らしさ”との比較によって自分の”らしさ”が見つかってきたら、
それを静かに味わってみる。
それに入り込むような感じ。
もしくは、それと一体になる感じ。
そこに大事なものがあります。
支えになるものが。
この作業が役に立つのは、
自分らしさを知ることができるだけでなく、
自分の内面に安定感をもたらすことができて
しなやかで自由な振る舞いが生まれるところにもあります。
そして、他の人の”その人らしさ”を感じるように人と接していくと、
そのコミュニケーション自体が人間関係の財産になっていきます。
人の心との触れ合いを体験できますから。
色々と楽になると思います。
先日のワークショップでは実習を交えながら
もう少し詳しく説明しましたが、かなりオススメです。
大事なところなので強調しておきました。
その人がこれまでに『自分』の本質とチャネリングした経験が少なかったら、
十分に『自分』とチャネリングすることをオススメしたいと思います。
同じ要領で、自分の”それ”にチャネリングするだけ。
役に立つ体験になる気がします。
まぁ、別に聞いてくれなくてもいい話なんですけど。
「チャネリングなんて良く分からない」という人は
様々な人にペーシングして、”その人らしさ”を感じ取るのが効果的でしょう。
色々な”その人らしさ”があります。
細かく感じ分けていけば、全く同じ人はいないはず。
他人の”その人らしさ”との比較によって自分の”らしさ”が見つかってきたら、
それを静かに味わってみる。
それに入り込むような感じ。
もしくは、それと一体になる感じ。
そこに大事なものがあります。
支えになるものが。
この作業が役に立つのは、
自分らしさを知ることができるだけでなく、
自分の内面に安定感をもたらすことができて
しなやかで自由な振る舞いが生まれるところにもあります。
そして、他の人の”その人らしさ”を感じるように人と接していくと、
そのコミュニケーション自体が人間関係の財産になっていきます。
人の心との触れ合いを体験できますから。
色々と楽になると思います。
先日のワークショップでは実習を交えながら
もう少し詳しく説明しましたが、かなりオススメです。
大事なところなので強調しておきました。
2013年08月17日
古くなる
2007年から始めたブログ。
もう6年以上になるようです。
記事の数も1000を超えます。
当然、6年前に考えていたことと
今とでは大きな違いがあるはずです。
ベースにあるものとして変わらないところがあったとしても
自分が振り返って眺めてみたら
「あの頃は未熟だったなぁ」
と感じるものも沢山あることでしょう。
幸い、ブログには日付けがついています。
だから50年後に振り返っても、いつのものかが分かる。
軌跡を読みとることも可能でしょう。
その意味でいうと、画家の作品のようなところがあるかもしれません。
初期の作品、晩年の作品…といった感じ。
そうやって捉えられれば、古い記事をインターネット上に残しておくのも
まぁ受け入れられる範囲になります。
ただ、その一部だけが一人歩きするとしたら…。
それはチョット嬉しくないかもしれません。
詩人(書家?)の”相田みつを”は、昔の気にいらなかった自分の作品を
購入者から自分で買い戻して燃やしていたそうです。
なんとなく、それも分からないでもない気がします。
例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチの場合、作品数が少ないこともあって
年代ごとに作品の移り変わりを見ていくと
どういう経験と学びを積み重ねたのかが想像できます。
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたという理由で
彼の全ての絵は、とてつもない金銭的価値を持っているようですが、
その完成度や、反映されている自然科学の知見、
世の中の本質への迫り方などを考察すれば
晩年のものほど凄味が出ているのは間違いないと感じられます。
でも僕は、相田みつをに関しては全然詳しくないので
どれを見ても、いつ頃の作品かは想像することもできませんし、
特にどれが素晴らしいなんて感じ分けることも困難です。
そうすると、仮に僕が”相田みつを作品”を偶然手に入れたとしても
相田みつを本人の想いには少しも迫れないと思うんです。
もちろん、僕がその作品に惚れ込んでいたとして、
いつのものだとか、作者本人にとっての自信作かどうかだとか、
世間的な評価や取引額が高いかどうかだとか、
そういったこととは無関係に、その作品に心打たれるのであれば
それはそれで意義のあることだとは思います。
僕のブログの記事が
レオナルド・ダ・ヴィンチや相田みつをの作品と並ぶとは考えませんが、
何かの形としてアウトプットされたものは全て、
本人と他者との間で、持つ意味に違いが生まれるものだ
という話です。
いわば、一人歩きする。
レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿にはスケッチや下描きだけでなく、
文章になった考察が沢山書かれています。
その文章もまた、翻訳されたりしながら
「レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉」として現代に残っているわけです。
いつ頃、どこにいて、どんな生活をして、誰と接しながら
何の絵を描いていた時期かといった背景は触れられずに。
アインシュタインの言葉をまとめた本も読んだことがありますが、
それだってテーマごとにまとめられていて、
アインシュタイン本人の変遷は全く考慮されていませんでした。
こうした”誰々の言葉”みたいなものは、パッと見た感じで含蓄があって
そこにネームバリューが加わっていますから
なんとなく「深い」印象を受けやすいんだと思います。
ただ、おそらく本人の想いとはかけ離れ、
ただの名言として一人歩きしているんじゃないでしょうか。
そうなったら、もう受け取り手である読者のためのものです。
そのときの自分に共鳴するものを味わっているだけ。
繰り返しますが、そのことにも意義はあるでしょう。
それで心が動く人がいるのですから。
何が、誰に、どんな影響を及ぼすかは予測できません。
そういう観点からすれば、全ての人のアウトプットには価値があります。
たまたまフェイスブックやツイッターで目にした言葉で
大きく影響を受ける場合だってあるかもしれません。
そちら側に目を向けると、
アウトプットしたものが残っているということは
それだけで意味のあることのような気もします。
”運よく”相田みつを本人に燃やされずに済んだおかげで
人の目に触れられることになった作品の1つが、
誰かの心の支えになっているかもしれない。
一方で、アウトプットする本人には
明らかにその時期特有の背景があって
そこから生まれたものだという自覚がありますから、
一人歩きすることへの怖さや恥ずかしさもあると思います。
2つの間には、せめぎ合いがあるものじゃないかと感じます。
特に、芸術家肌や職人気質の場合は。
世の中には、そんなことを全く気にする素振りもなく
じゃんじゃんアウトプットを続けられる人もいるみたいですけど。
もう6年以上になるようです。
記事の数も1000を超えます。
当然、6年前に考えていたことと
今とでは大きな違いがあるはずです。
ベースにあるものとして変わらないところがあったとしても
自分が振り返って眺めてみたら
「あの頃は未熟だったなぁ」
と感じるものも沢山あることでしょう。
幸い、ブログには日付けがついています。
だから50年後に振り返っても、いつのものかが分かる。
軌跡を読みとることも可能でしょう。
その意味でいうと、画家の作品のようなところがあるかもしれません。
初期の作品、晩年の作品…といった感じ。
そうやって捉えられれば、古い記事をインターネット上に残しておくのも
まぁ受け入れられる範囲になります。
ただ、その一部だけが一人歩きするとしたら…。
それはチョット嬉しくないかもしれません。
詩人(書家?)の”相田みつを”は、昔の気にいらなかった自分の作品を
購入者から自分で買い戻して燃やしていたそうです。
なんとなく、それも分からないでもない気がします。
例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチの場合、作品数が少ないこともあって
年代ごとに作品の移り変わりを見ていくと
どういう経験と学びを積み重ねたのかが想像できます。
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたという理由で
彼の全ての絵は、とてつもない金銭的価値を持っているようですが、
その完成度や、反映されている自然科学の知見、
世の中の本質への迫り方などを考察すれば
晩年のものほど凄味が出ているのは間違いないと感じられます。
でも僕は、相田みつをに関しては全然詳しくないので
どれを見ても、いつ頃の作品かは想像することもできませんし、
特にどれが素晴らしいなんて感じ分けることも困難です。
そうすると、仮に僕が”相田みつを作品”を偶然手に入れたとしても
相田みつを本人の想いには少しも迫れないと思うんです。
もちろん、僕がその作品に惚れ込んでいたとして、
いつのものだとか、作者本人にとっての自信作かどうかだとか、
世間的な評価や取引額が高いかどうかだとか、
そういったこととは無関係に、その作品に心打たれるのであれば
それはそれで意義のあることだとは思います。
僕のブログの記事が
レオナルド・ダ・ヴィンチや相田みつをの作品と並ぶとは考えませんが、
何かの形としてアウトプットされたものは全て、
本人と他者との間で、持つ意味に違いが生まれるものだ
という話です。
いわば、一人歩きする。
レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿にはスケッチや下描きだけでなく、
文章になった考察が沢山書かれています。
その文章もまた、翻訳されたりしながら
「レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉」として現代に残っているわけです。
いつ頃、どこにいて、どんな生活をして、誰と接しながら
何の絵を描いていた時期かといった背景は触れられずに。
アインシュタインの言葉をまとめた本も読んだことがありますが、
それだってテーマごとにまとめられていて、
アインシュタイン本人の変遷は全く考慮されていませんでした。
こうした”誰々の言葉”みたいなものは、パッと見た感じで含蓄があって
そこにネームバリューが加わっていますから
なんとなく「深い」印象を受けやすいんだと思います。
ただ、おそらく本人の想いとはかけ離れ、
ただの名言として一人歩きしているんじゃないでしょうか。
そうなったら、もう受け取り手である読者のためのものです。
そのときの自分に共鳴するものを味わっているだけ。
繰り返しますが、そのことにも意義はあるでしょう。
それで心が動く人がいるのですから。
何が、誰に、どんな影響を及ぼすかは予測できません。
そういう観点からすれば、全ての人のアウトプットには価値があります。
たまたまフェイスブックやツイッターで目にした言葉で
大きく影響を受ける場合だってあるかもしれません。
そちら側に目を向けると、
アウトプットしたものが残っているということは
それだけで意味のあることのような気もします。
”運よく”相田みつを本人に燃やされずに済んだおかげで
人の目に触れられることになった作品の1つが、
誰かの心の支えになっているかもしれない。
一方で、アウトプットする本人には
明らかにその時期特有の背景があって
そこから生まれたものだという自覚がありますから、
一人歩きすることへの怖さや恥ずかしさもあると思います。
2つの間には、せめぎ合いがあるものじゃないかと感じます。
特に、芸術家肌や職人気質の場合は。
世の中には、そんなことを全く気にする素振りもなく
じゃんじゃんアウトプットを続けられる人もいるみたいですけど。
2013年08月15日
催眠やります
ご質問いただいたので、とりあえずのお知らせです。
9月8日、22日のセミナーは、どちらも催眠がテーマです。
一般的な催眠のセミナーとは違う内容になると思います。
催眠を、催眠以外の理論で解説しますから。
催眠の分野の人たちは、催眠がどうやって効果を発揮するのかを
自分達の用語と理論で説明しています。
でも、それらはあくまで想定された理論です。
実証する方法はありません。
「その理論にそって実践すると効果がある」というのは
実証になりません。
理論に沿った方法に効果があることと、
理論が正しいかどうかは別問題です。
その方法が上手くいく理由は別にあるかもしれないので。
多少なりとも説得力を高めることができるとしたら、
他の分野の知見と整合性が取れるように説明することでしょう。
なので、催眠以外の考え方を用いて解説するつもりです。
それに伴って、ウサンクサイ部分は、そのように指摘すると思います。
そういうのが嫌な方は、あまり楽しくないかもしれません。
ご注意を。
さて。
こうして振り返ってみると、僕は催眠に関して
かなり良質なトレーニングを受けてきたと感じます。
それは資格うんぬんの話ではありません。
もっと体験的なレベルで、です。
言葉にはしにくいんですが、トレーナーや催眠療法家によって
作り出すトランスの雰囲気が違うんです。
もちろん、個人でもトランスへの入り方は千差万別ですし、
トランスの質には個性が表れます。
その一方で、催眠者側がどういうトランスに被験者を誘うかにも
それぞれの個性が出るようなんです。
その違いを色々と思い出せます。
真似するのは100%といかなくても、そこそこ使い分けられる気もします。
中には嫌なトランスもありましたから、
どういうトランス空間の生み出し方が、どんな効果を発揮するかも
ある程度、体験的に区別できているんじゃないかと思います。
そういったトランスの質は、学んでいる当時には自覚できていませんでしたが
その場を共有することで自然と受け継がれたもののように感じられます。
もちろん、受け継ぎの程度にも個人差があるようですから、
トランスの雰囲気を違いを使い分けるようにトレーニングするのも
有意義なことじゃないかと思うんです。
それによって効果的に受け継ぐことができるだろう、と。
特に、今は亡き先生から受け継いだトランスは、
多分僕が最も影響を受けたトランスでもあると思うこともあって
なんとなく誰かに伝えたいような気持ちもあります。
「こんなだったんですよ」って。
ですからセミナーでは、言葉や声のトーンの使い方とは別に、
トランスの雰囲気の違いもトレーニングするつもりでいます。
こうしたトランスの質の違いを色々と振り返ったときに
僕は自分が何をしてもらっていたかに気づけます。
人との関わり方のスタンスを学んでいた部分もあるかもしれません。
そして、トランスの空間そのものに
心身のバランスを整える効果があったんじゃないかと感じます。
さりげない形で、随分と助けてもらっていたみたいです。
そうした効果の高いトランスを何種類か体験できたことが
「良質なトレーニングだった」と思える根拠になっています。
こればっかりは、ビデオやCDじゃ伝えられない部分でしょう。
それもまた人間の面白さの1つじゃないでしょうか。
9月8日、22日のセミナーは、どちらも催眠がテーマです。
一般的な催眠のセミナーとは違う内容になると思います。
催眠を、催眠以外の理論で解説しますから。
催眠の分野の人たちは、催眠がどうやって効果を発揮するのかを
自分達の用語と理論で説明しています。
でも、それらはあくまで想定された理論です。
実証する方法はありません。
「その理論にそって実践すると効果がある」というのは
実証になりません。
理論に沿った方法に効果があることと、
理論が正しいかどうかは別問題です。
その方法が上手くいく理由は別にあるかもしれないので。
多少なりとも説得力を高めることができるとしたら、
他の分野の知見と整合性が取れるように説明することでしょう。
なので、催眠以外の考え方を用いて解説するつもりです。
それに伴って、ウサンクサイ部分は、そのように指摘すると思います。
そういうのが嫌な方は、あまり楽しくないかもしれません。
ご注意を。
さて。
こうして振り返ってみると、僕は催眠に関して
かなり良質なトレーニングを受けてきたと感じます。
それは資格うんぬんの話ではありません。
もっと体験的なレベルで、です。
言葉にはしにくいんですが、トレーナーや催眠療法家によって
作り出すトランスの雰囲気が違うんです。
もちろん、個人でもトランスへの入り方は千差万別ですし、
トランスの質には個性が表れます。
その一方で、催眠者側がどういうトランスに被験者を誘うかにも
それぞれの個性が出るようなんです。
その違いを色々と思い出せます。
真似するのは100%といかなくても、そこそこ使い分けられる気もします。
中には嫌なトランスもありましたから、
どういうトランス空間の生み出し方が、どんな効果を発揮するかも
ある程度、体験的に区別できているんじゃないかと思います。
そういったトランスの質は、学んでいる当時には自覚できていませんでしたが
その場を共有することで自然と受け継がれたもののように感じられます。
もちろん、受け継ぎの程度にも個人差があるようですから、
トランスの雰囲気を違いを使い分けるようにトレーニングするのも
有意義なことじゃないかと思うんです。
それによって効果的に受け継ぐことができるだろう、と。
特に、今は亡き先生から受け継いだトランスは、
多分僕が最も影響を受けたトランスでもあると思うこともあって
なんとなく誰かに伝えたいような気持ちもあります。
「こんなだったんですよ」って。
ですからセミナーでは、言葉や声のトーンの使い方とは別に、
トランスの雰囲気の違いもトレーニングするつもりでいます。
こうしたトランスの質の違いを色々と振り返ったときに
僕は自分が何をしてもらっていたかに気づけます。
人との関わり方のスタンスを学んでいた部分もあるかもしれません。
そして、トランスの空間そのものに
心身のバランスを整える効果があったんじゃないかと感じます。
さりげない形で、随分と助けてもらっていたみたいです。
そうした効果の高いトランスを何種類か体験できたことが
「良質なトレーニングだった」と思える根拠になっています。
こればっかりは、ビデオやCDじゃ伝えられない部分でしょう。
それもまた人間の面白さの1つじゃないでしょうか。
2013年08月12日
【セミナー】リフレーミング講座&カウンセリング講座(実践編)
ご案内: 8月25日(日)開催
リフレーミング講座
この講座では『リフレーミング』に特化したトレーニングをします。
『リフレーミング』とは、大まかに言うと
「物事の受け取り方を変える」ことを意味します。
分かりやすい例を挙げるなら、
「中学校の時の厳しかった先生が卒業式の時に泣いているのを見て
”なんだ、あの先生、実は良い人だったんだ…”と見方が変わる」
ようなこと。
それまでは厳しい先生と話をしようとするだけでビクビクしていたのが
卒業式の涙を見て以来、「厳しくて良い先生」という受け取り方に変わって
話をするときにも落ち着いていられるようになる、
…といった内面的な変化が起こるわけです。
こうした変化を「”リフレーム”された』と言います。
つまり、『リフレーム』は結果だということです。
「リフレーミングをしたつもりだけど上手くいきませんでした…」
といった場合、”リフレーミングの言葉がけ”をしたけれど、
相手の内面では”リフレームが起きなかった”ことになります。
逆の言い方をするなら、”リフレーミングの言葉がけ”をしなくても
結果的に、相手の内面で”リフレームされる”場合もある。
ここが重要です。
物事の受け取り方が変わるようなプロセスを内面的に体験すると
”リフレームされる”という仕組み。
「厳しい先生の涙を見たとき」と似たような内的なプロセスが起きれば
物事の受け取り方が変わって、今までと違った反応になると考えられます。
この辺りを詳しく解説したうえで、リフレームが起こるためのプロセスを
内面的に体験するトレーニングを進めます。
そのプロセスをNLPの用語を使って説明します。
「フレーム」と「サブモダリティ」が主役です。
単なる言葉がけの練習ではありません。
もっと「内面で何が起きているか」を積極的にイメージしながら
受け取り方が変わるために必要な内的体験を考えます。
そして、そのプロセスを引き出すような言葉がけを生み出す練習をします。
ですから、リフレーミングによって”問題が解決する”方向性を意図します。
比較のために”問題が気にならなくなる”方向性のリフレーミングも
実習の中に取り入れる予定ではいますが、
メインのトレーニングは”問題が解決する”リフレーミングになるでしょう。
必ず意図しながら取り組んでいただくことになるのは、
・”問題が気にならなくなる”のか
・”問題が解決するのか”
の違いです。
ここに注意を向けない限り、相手に起きる変化を予測できません。
予測しないということは、「ランダムにやってみる」ということです。
他人の人生の一部を変える作業を適当にやるのは、
いささか無責任ではないかと思います。
まぁ、現実的には多くの場合、そうしたランダムな取り組みは
「やってみたけど、相手の心には響かなかった」という結果で済みますが。
個人的にもクライアントとして体験したことがあります。
「もっと自分の体のメッセージを受け取れるようになりたい」と言ったら、
セラピストから
「体のメッセージの重要性を知っているということは、すでに
十分、体のメッセージを受け取っているんじゃないですか?」
と返されたことがあります。
技法としては、そういう返答もありえます。
ですが、その言葉を返されたときの気分は、とても残念だったものです。
こちらの要望を聞いてくれなかったわけですから。
方向性に注意しながらリフレーミングするのが重要だという話です。
特に、”問題が解決する”リフレーミングにおいては
サブモダリティへの理解を深めておくことが有効です。
この辺は、
「心が思い通りになる技術 NLP:神経言語プログラミング」(春秋社)
でも図解しています。
サブモダリティを変えることでリフレームを引き起こす、
といったところから体験学習していただく予定です。
本で解説した内容を元に、より詳しくトレーニングを行いますから
ご一読いただいた上でのご参加をオススメします。
(本を読むのが面倒臭いからセミナーで体験してしまう、
というスタンスも構いませんが。)
以上のように、
「物事の受け取り方が変わって、問題が解決する」ためのプロセスを
言葉がけだけで引き出す手法をトレーニングします。
途中、イメージを活用した実習もありますが
最終目標は言葉がけに繋げるところです。
大袈裟ではなく、この技術を身につければ
言葉だけで他者の問題解決のお手伝いができます。
その分、トレーニングが必要な技術かもしれませんが
自分自身に対して使うところから練習していただけるように
コツをお伝えできればと考えています。
心の課題を解決するお手伝いに興味のある方、
コミュニケーション技術やNLPへ関心のある方、
部下育成や教育に携わっている方などにオススメの内容です。
◆今回の講座で得られるもの
●リフレーミングの基礎知識
●フレームと心のプログラムの関係に対する理解
●心の中のイメージを共有する技術
●心の中のイメージを元に、問題を解決する手法
●イメージに影響を与える言葉の選び方
●意図を持ったリフレーミングの使い分け方
◆録音・録画に関しまして
個人的なご使用でしたら、録音や録画はご自由にどうぞ。
復習にご利用いただくのも良いかと思います。
実習中のクライアント役の発言内容を記録しておけば
その場で内容の不明瞭な部分を確認するのにも役立つかもしれません。
特に、今回の『リフレーミング』に関していえば
言葉の選び方や発想のバリエーションを広げておくのが有効なものです。
その意味では、他の参加者の使った言い回しなどを
録音を元に、書き起こしてみるのも良いのではないでしょうか。
物事の受け取り方が広がる瞬間というのは
何度体験しても心地良いものだと思います。
”フッと心が緩む”とでも言いますか、
まさに視野が広がる体験でしょう。
それは一瞬の出来事です。
少しずつ心が、しなやかになる。
自分自身の物の見方が広がっていくほど、
自然とリフレーミングの言葉がけにもバリエーションが生まれます。
そして何より、余裕が生まれてくるはずです。
自分に対しても、他人に対しても。
相手の話を聞きながら、自然と自分の中ではリフレームが起こるため
深刻に聞き過ぎることがなくなるんです。
それでも共感的なメッセージはかけられます。
むしろ、「一緒になって悩んでしまって巻き込まれる」
といったことがなくなりますから、落ち着いてメッセージを選べます。
この心の余裕が、相手の深刻さを軽減してくれます。
そうやって少し軽くなってくると、リフレーミングの効果も高まる。
そんな好循環が生まれるようです。
ですから、リフレーミング最大のコツは
自分で何度も体験してみるということだろうと思えるんです。
実習を通じて、日常生活を通じて
様々なリフレーミングを体験する。
これが役立ちます。
ただ、リフレーミングの発想には偏りが起きやすいみたいなんです。
人によって良く使うリフレーミングのパターンがある。
「物事の見方を変える」ことを心がけているときでさえ、
「”物事の見方を変える”ための着眼点」は、「変わらない」ということです。
そっちの着眼点も「広げたい」ところでしょう。
そこで、リフレーミングの仕組みを整理しておくことが役立ちます。
自分の着眼点や発想の癖に気づけます。
どういう視点の変え方が可能なのかも
他者から幅広く学べるようになります。
リフレーミングの仕組みを知った上で
体験を重ねるのが有効だということです。
自分がリフレーミングの言葉がけを生み出す体験、
自分が他者からリフレーミングしてもらう体験、
…その両方を、仕組みに照らし合わせながら整理するわけです。
それがこの講座の狙いです。
単なる言語パターンではない
本質的なリフレーミングの仕組みを扱います。
ご興味のある方は是非、お越しください。
講座の詳細は以下の通りです。
【セミナーの詳細】
≪リフレーミング講座≫
(併設:『ホンネを引き出すカウンセリング』講座・実践練習)
【日時】 8月25日(日)
《日中:リフレーミング講座》 10:00〜17:00
《夜間:カウンセリング講座:実践練習》 18:30〜21:30
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
★申し込みフォームに、ご希望の時間帯(日中/夜間)をご記入ください。
【場所】 滝野川会館 304集会室
(JR京浜東北線・上中里駅より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
【参加費】
《日中:リフレーミング講座》 ・・・15,000円
《夜間:カウンセリング講座:実践練習》 ・・・5,000円
★日中の講座にご参加の方は、無料で夜間の実践練習へご参加頂けます
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
リフレーミングは一瞬で起きて、しかも元には戻りません。
それは物事の受け取り方が変わるからです。
その受け取り方を身につけてしまったら、
「使わない」という選択肢は無いんです。
よく認知心理学などで題材に使われる図形が良い例でしょう。
例えば、「老婆と若い女性の2通りに見える絵」とか、
「ウサギとアヒルの2通りに見える絵」とか。
最初は一方しか気づかないものです。
あるとき、自ら気づいたり、教えてもらったりして
もう一方の捉え方が身につきます。
そうなったら、片方しか見えなかった状態には戻れないんです。
2通りの見方があるって知ってしまっていますから。
ただし、リフレーミングのメリットは
「そのように複数の見方に気づいた後に
どちらの見方をするかを選べる」
ところにあると考えられます。
老婆でも若い女性でも、見たいほうに注目すれば良いんです。
ウサギとアヒルの2通りがあるなら、好きなほうを見れば良い。
それも、いつも必ずではなく、
好きなときに、好きな見方をすれば良いんです。
選択肢が増やせるという意味では、
リフレーミングには安全性の高さがあります。
(もちろん、それでも細心の注意を払うんですが。)
一度、リフレーミングという発想を知った人にとっては
リフレーミングのトレーニングや実生活を通じて、
物事の受け取り方を広げていく体験が役立つと思います。
見方を広げ、柔軟性を上げるほど、楽になることが多いようです。
そう考えると、自分に対するリフレーミングは
かなり安全にオススメできるものと言えそうです。
そして、自分へのリフレーミングをオススメするもう1つの理由は、
自分の問題をリフレームするほどに、
リフレーミングの結果が予測できるようになる
ところにあります。
つまり、
「どんな言葉をかけたら、
相手にどんな影響が出るか?」
を想像できるようになるんです。
その結果、どういう言葉をかけるのが適切かを
自分で選択できるようになっていきます。
結果を予測できるから、選択できるようになるんです。
どうなるかを予測せずに言ってみるのは、ランダムです。
いくら安全だとはいえ、
リフレーミングは基本的に”おせっかい”なんです。
断言します。
リフレーミングは介入です。
どんなに親切や思いやりに動機づけられていても、
その性質上、必ず介入的なんです。
セラピーやカウンセリングの場面であれば
問題解決を目標として契約が成立していますから、
目標に向かうための介入であれば許される前提があります。
ですが、日常生活でリフレーミングするとしたら
その介入は”おせっかい”の範囲に含まれるはずです。
だから「やってはいけない」という話ではありません。
だから「結果を予測してから選択する」のが重要なんです。
相手にどういう影響があるかを予測して、
「自分がその結果を良いと信じられる」場合に
自分の責任でリフレーミングする。
そうでなければ、やみくもな
文字通りの”おせっかい”になってしまうでしょう。
道に迷っている様子の人に道案内を申し出れば親切かもしれませんが、
迷ってもいない人に道案内したら
”ありがた迷惑”というものじゃないでしょうか。
場面に応じて、結果を予測して関わる。
そのためにも、リフレーミングの結果を予測できる必要があります。
リフレーミングの練習、特に自分で体験してみるのが大切なのは
ここに理由があるんです。
優しさを”ありがた迷惑”や”余計なおせっかい”にせずに
”親切”として表現するためにも、練習が大事だと思います。
有意義な練習をしましょう。
お待ちしています。
リフレーミング講座
この講座では『リフレーミング』に特化したトレーニングをします。
『リフレーミング』とは、大まかに言うと
「物事の受け取り方を変える」ことを意味します。
分かりやすい例を挙げるなら、
「中学校の時の厳しかった先生が卒業式の時に泣いているのを見て
”なんだ、あの先生、実は良い人だったんだ…”と見方が変わる」
ようなこと。
それまでは厳しい先生と話をしようとするだけでビクビクしていたのが
卒業式の涙を見て以来、「厳しくて良い先生」という受け取り方に変わって
話をするときにも落ち着いていられるようになる、
…といった内面的な変化が起こるわけです。
こうした変化を「”リフレーム”された』と言います。
つまり、『リフレーム』は結果だということです。
「リフレーミングをしたつもりだけど上手くいきませんでした…」
といった場合、”リフレーミングの言葉がけ”をしたけれど、
相手の内面では”リフレームが起きなかった”ことになります。
逆の言い方をするなら、”リフレーミングの言葉がけ”をしなくても
結果的に、相手の内面で”リフレームされる”場合もある。
ここが重要です。
物事の受け取り方が変わるようなプロセスを内面的に体験すると
”リフレームされる”という仕組み。
「厳しい先生の涙を見たとき」と似たような内的なプロセスが起きれば
物事の受け取り方が変わって、今までと違った反応になると考えられます。
この辺りを詳しく解説したうえで、リフレームが起こるためのプロセスを
内面的に体験するトレーニングを進めます。
そのプロセスをNLPの用語を使って説明します。
「フレーム」と「サブモダリティ」が主役です。
単なる言葉がけの練習ではありません。
もっと「内面で何が起きているか」を積極的にイメージしながら
受け取り方が変わるために必要な内的体験を考えます。
そして、そのプロセスを引き出すような言葉がけを生み出す練習をします。
ですから、リフレーミングによって”問題が解決する”方向性を意図します。
比較のために”問題が気にならなくなる”方向性のリフレーミングも
実習の中に取り入れる予定ではいますが、
メインのトレーニングは”問題が解決する”リフレーミングになるでしょう。
必ず意図しながら取り組んでいただくことになるのは、
・”問題が気にならなくなる”のか
・”問題が解決するのか”
の違いです。
ここに注意を向けない限り、相手に起きる変化を予測できません。
予測しないということは、「ランダムにやってみる」ということです。
他人の人生の一部を変える作業を適当にやるのは、
いささか無責任ではないかと思います。
まぁ、現実的には多くの場合、そうしたランダムな取り組みは
「やってみたけど、相手の心には響かなかった」という結果で済みますが。
個人的にもクライアントとして体験したことがあります。
「もっと自分の体のメッセージを受け取れるようになりたい」と言ったら、
セラピストから
「体のメッセージの重要性を知っているということは、すでに
十分、体のメッセージを受け取っているんじゃないですか?」
と返されたことがあります。
技法としては、そういう返答もありえます。
ですが、その言葉を返されたときの気分は、とても残念だったものです。
こちらの要望を聞いてくれなかったわけですから。
方向性に注意しながらリフレーミングするのが重要だという話です。
特に、”問題が解決する”リフレーミングにおいては
サブモダリティへの理解を深めておくことが有効です。
この辺は、
「心が思い通りになる技術 NLP:神経言語プログラミング」(春秋社)
でも図解しています。
サブモダリティを変えることでリフレームを引き起こす、
といったところから体験学習していただく予定です。
本で解説した内容を元に、より詳しくトレーニングを行いますから
ご一読いただいた上でのご参加をオススメします。
(本を読むのが面倒臭いからセミナーで体験してしまう、
というスタンスも構いませんが。)
以上のように、
「物事の受け取り方が変わって、問題が解決する」ためのプロセスを
言葉がけだけで引き出す手法をトレーニングします。
途中、イメージを活用した実習もありますが
最終目標は言葉がけに繋げるところです。
大袈裟ではなく、この技術を身につければ
言葉だけで他者の問題解決のお手伝いができます。
その分、トレーニングが必要な技術かもしれませんが
自分自身に対して使うところから練習していただけるように
コツをお伝えできればと考えています。
心の課題を解決するお手伝いに興味のある方、
コミュニケーション技術やNLPへ関心のある方、
部下育成や教育に携わっている方などにオススメの内容です。
◆今回の講座で得られるもの
●リフレーミングの基礎知識
●フレームと心のプログラムの関係に対する理解
●心の中のイメージを共有する技術
●心の中のイメージを元に、問題を解決する手法
●イメージに影響を与える言葉の選び方
●意図を持ったリフレーミングの使い分け方
◆録音・録画に関しまして
個人的なご使用でしたら、録音や録画はご自由にどうぞ。
復習にご利用いただくのも良いかと思います。
実習中のクライアント役の発言内容を記録しておけば
その場で内容の不明瞭な部分を確認するのにも役立つかもしれません。
特に、今回の『リフレーミング』に関していえば
言葉の選び方や発想のバリエーションを広げておくのが有効なものです。
その意味では、他の参加者の使った言い回しなどを
録音を元に、書き起こしてみるのも良いのではないでしょうか。
物事の受け取り方が広がる瞬間というのは
何度体験しても心地良いものだと思います。
”フッと心が緩む”とでも言いますか、
まさに視野が広がる体験でしょう。
それは一瞬の出来事です。
少しずつ心が、しなやかになる。
自分自身の物の見方が広がっていくほど、
自然とリフレーミングの言葉がけにもバリエーションが生まれます。
そして何より、余裕が生まれてくるはずです。
自分に対しても、他人に対しても。
相手の話を聞きながら、自然と自分の中ではリフレームが起こるため
深刻に聞き過ぎることがなくなるんです。
それでも共感的なメッセージはかけられます。
むしろ、「一緒になって悩んでしまって巻き込まれる」
といったことがなくなりますから、落ち着いてメッセージを選べます。
この心の余裕が、相手の深刻さを軽減してくれます。
そうやって少し軽くなってくると、リフレーミングの効果も高まる。
そんな好循環が生まれるようです。
ですから、リフレーミング最大のコツは
自分で何度も体験してみるということだろうと思えるんです。
実習を通じて、日常生活を通じて
様々なリフレーミングを体験する。
これが役立ちます。
ただ、リフレーミングの発想には偏りが起きやすいみたいなんです。
人によって良く使うリフレーミングのパターンがある。
「物事の見方を変える」ことを心がけているときでさえ、
「”物事の見方を変える”ための着眼点」は、「変わらない」ということです。
そっちの着眼点も「広げたい」ところでしょう。
そこで、リフレーミングの仕組みを整理しておくことが役立ちます。
自分の着眼点や発想の癖に気づけます。
どういう視点の変え方が可能なのかも
他者から幅広く学べるようになります。
リフレーミングの仕組みを知った上で
体験を重ねるのが有効だということです。
自分がリフレーミングの言葉がけを生み出す体験、
自分が他者からリフレーミングしてもらう体験、
…その両方を、仕組みに照らし合わせながら整理するわけです。
それがこの講座の狙いです。
単なる言語パターンではない
本質的なリフレーミングの仕組みを扱います。
ご興味のある方は是非、お越しください。
講座の詳細は以下の通りです。
【セミナーの詳細】
≪リフレーミング講座≫
(併設:『ホンネを引き出すカウンセリング』講座・実践練習)
【日時】 8月25日(日)
《日中:リフレーミング講座》 10:00〜17:00
《夜間:カウンセリング講座:実践練習》 18:30〜21:30
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
★申し込みフォームに、ご希望の時間帯(日中/夜間)をご記入ください。
【場所】 滝野川会館 304集会室
(JR京浜東北線・上中里駅より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅より徒歩10分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
【参加費】
《日中:リフレーミング講座》 ・・・15,000円
《夜間:カウンセリング講座:実践練習》 ・・・5,000円
★日中の講座にご参加の方は、無料で夜間の実践練習へご参加頂けます
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
リフレーミングは一瞬で起きて、しかも元には戻りません。
それは物事の受け取り方が変わるからです。
その受け取り方を身につけてしまったら、
「使わない」という選択肢は無いんです。
よく認知心理学などで題材に使われる図形が良い例でしょう。
例えば、「老婆と若い女性の2通りに見える絵」とか、
「ウサギとアヒルの2通りに見える絵」とか。
最初は一方しか気づかないものです。
あるとき、自ら気づいたり、教えてもらったりして
もう一方の捉え方が身につきます。
そうなったら、片方しか見えなかった状態には戻れないんです。
2通りの見方があるって知ってしまっていますから。
ただし、リフレーミングのメリットは
「そのように複数の見方に気づいた後に
どちらの見方をするかを選べる」
ところにあると考えられます。
老婆でも若い女性でも、見たいほうに注目すれば良いんです。
ウサギとアヒルの2通りがあるなら、好きなほうを見れば良い。
それも、いつも必ずではなく、
好きなときに、好きな見方をすれば良いんです。
選択肢が増やせるという意味では、
リフレーミングには安全性の高さがあります。
(もちろん、それでも細心の注意を払うんですが。)
一度、リフレーミングという発想を知った人にとっては
リフレーミングのトレーニングや実生活を通じて、
物事の受け取り方を広げていく体験が役立つと思います。
見方を広げ、柔軟性を上げるほど、楽になることが多いようです。
そう考えると、自分に対するリフレーミングは
かなり安全にオススメできるものと言えそうです。
そして、自分へのリフレーミングをオススメするもう1つの理由は、
自分の問題をリフレームするほどに、
リフレーミングの結果が予測できるようになる
ところにあります。
つまり、
「どんな言葉をかけたら、
相手にどんな影響が出るか?」
を想像できるようになるんです。
その結果、どういう言葉をかけるのが適切かを
自分で選択できるようになっていきます。
結果を予測できるから、選択できるようになるんです。
どうなるかを予測せずに言ってみるのは、ランダムです。
いくら安全だとはいえ、
リフレーミングは基本的に”おせっかい”なんです。
断言します。
リフレーミングは介入です。
どんなに親切や思いやりに動機づけられていても、
その性質上、必ず介入的なんです。
セラピーやカウンセリングの場面であれば
問題解決を目標として契約が成立していますから、
目標に向かうための介入であれば許される前提があります。
ですが、日常生活でリフレーミングするとしたら
その介入は”おせっかい”の範囲に含まれるはずです。
だから「やってはいけない」という話ではありません。
だから「結果を予測してから選択する」のが重要なんです。
相手にどういう影響があるかを予測して、
「自分がその結果を良いと信じられる」場合に
自分の責任でリフレーミングする。
そうでなければ、やみくもな
文字通りの”おせっかい”になってしまうでしょう。
道に迷っている様子の人に道案内を申し出れば親切かもしれませんが、
迷ってもいない人に道案内したら
”ありがた迷惑”というものじゃないでしょうか。
場面に応じて、結果を予測して関わる。
そのためにも、リフレーミングの結果を予測できる必要があります。
リフレーミングの練習、特に自分で体験してみるのが大切なのは
ここに理由があるんです。
優しさを”ありがた迷惑”や”余計なおせっかい”にせずに
”親切”として表現するためにも、練習が大事だと思います。
有意義な練習をしましょう。
お待ちしています。