2013年09月
2013年09月29日
ご相談に関して(2016年更新)
諸々のスケジュールの都合でなかなか日程がご用意できませんが
コンサルティング、スーパーバイズ、トレーニングなどのご要望があれば
こちらからお知らせください。
執筆のご依頼なども、以下のフォームからお願いいたします。
セミナーなどでは出し切っていないものもあると思います。
高度な技術などは、個別あるいは少人数のトレーニングで
お伝えできるかと思います。
人が関係する内容であれば、原則的に対応可能です。
対人援助技術に限らず、コミュニケーションや心に関するものは
何かしら工夫できるところがあるかもしれせん。
例えば人前でのパフォーマンスやプレゼンテーション、スポーツや競技など
自分の心の癖で実力を発揮しきれないような場合には
内面的な課題の取り組みや、自分と上手く対話するトレーニングが有効です。
自分の心を抑え込むような努力は、
自分の心の中に対戦相手を作るようなものです。
それでは目の前のパフォーマンスに力を注ぐ度合いが減ってしまうかもしれません。
自分の内面と上手く対話することで、自分の心の中に味方を作る。
自分の心と体の全てで目の前のことに向かえれば実力を発揮しやすいでしょう。
また、技術的な部分に関しても
他者への影響を考慮した非言語メッセージの使い方など
心の側面からのフィードバックが役立つこともあるかもしれません。
あるいは本人が上手くできているときと、上手くいかないときとの違いを比較して
上手くいくための方法を探すようなやり方もあります。
自分の技術を誰かに伝えていきたいような方であれば
自分自身が無自覚にできていることを意識化するお手伝いも可能です。
達人のやり方を伝達可能な手法に落とし込むような作業とでも言いましょうか。
ご期待に沿った内容をご提案できるかどうかは
お問い合わせでご確認ください。
もし、これから対人援助的なコミュニケーションの技術を学び始めようという場合は
まず一般向けに広くご案内している講座へお越しいただくことをお勧めします。
(こちらのリンクからどうぞ。)
ご自身の内面の課題に取り組み始める場合には
こちらで担当しているNLPの講座へのご参加もお勧めです。
(日本コミュニケーショントレーナー協会)
より高度なご研鑽をお考えの方は、以下のフォームからお問い合わせください。
(ある程度の土台をトレーニングしてからのほうが効果的だと考えられます)
【対応可能範囲】
・コミュニケーションやセラピーの手法のバリエーションを増やしたい
・カウンセリングやコミュニケーションの技術を向上させたい
・自分の専門分野でレベルアップしたい
・人前でのパフォーマンスを磨きたい
・大事な舞台で実力を発揮できるようにしたい
・ある分野について質問したい
・内面的な課題に取り組みたい
・自分のセミナーの構成について相談したい
・カウンセリングのスーパーバイズを受けたい
・自分の得意技を分析して教えられるようにしたい
・職場の達人のやり方を分析してオリジナルの研修を作りたい
・自分の魅力や強みを知りたい
…など、
知識、技術、内面について
何をするにしても、徹底的に観察しながら進めます。
観察の対象は大きく3つ。
「長期間変わることのない持ち味」
「これまでの経験で身につけてきた傾向」
「その瞬間に起きている様々な反応」
これらの観察結果を元にしますから
ご自身に合った方法になるはずです。
こちらの好みや得意・不得意で対応が変わるのではありません。
特定の理論に基づいた発想や手法を押しつけることもありません。
ニーズをうかがいながら、お手伝いの内容を絞り込み、
その上で実際のお手伝いへと進みます。
知識的にこちらの専門外となる分野でも、
ご本人が何をしているかの分析・フィードバックは可能です。
とりわけ、意識の使い方、注意の向け方、身体の使い方など
表面的なテクニックの土台となる部分を扱うことで
今までとは違ったレベルの作業ができるようになると期待されます。
内面的な課題の取り組みに対しても観察を元に進めます。
また、カウンセリングやセラピー、コーチングなどを受けた後で、
その方法について知識レベルの学習をすることも可能です(=教育セッション)。
まずは、お問い合わせフォームに
ご期待される内容をご記入ください。
可能な対応の範囲についてお返事いたします。
費用の目安は、1時間あたり ¥20,000 となります。
※スケジュールの都合で緊急の対応は難しい状況です。
カウンセリングのご依頼などでは、
信頼できるカウンセラーを紹介する場合もあります。
ご了承ください。
※執筆・講演などのご相談も、こちらのフォームからお問い合わせください。
通常、お問い合わせから24時間以内にお返事をしています。
1日過ぎても連絡がない場合には、送信エラーなどが考えられます。
お手数ですが、改めてお問い合わせをお願いいたします。
豊かな日々を祈っております。
コンサルティング、スーパーバイズ、トレーニングなどのご要望があれば
こちらからお知らせください。
執筆のご依頼なども、以下のフォームからお願いいたします。
セミナーなどでは出し切っていないものもあると思います。
高度な技術などは、個別あるいは少人数のトレーニングで
お伝えできるかと思います。
人が関係する内容であれば、原則的に対応可能です。
対人援助技術に限らず、コミュニケーションや心に関するものは
何かしら工夫できるところがあるかもしれせん。
例えば人前でのパフォーマンスやプレゼンテーション、スポーツや競技など
自分の心の癖で実力を発揮しきれないような場合には
内面的な課題の取り組みや、自分と上手く対話するトレーニングが有効です。
自分の心を抑え込むような努力は、
自分の心の中に対戦相手を作るようなものです。
それでは目の前のパフォーマンスに力を注ぐ度合いが減ってしまうかもしれません。
自分の内面と上手く対話することで、自分の心の中に味方を作る。
自分の心と体の全てで目の前のことに向かえれば実力を発揮しやすいでしょう。
また、技術的な部分に関しても
他者への影響を考慮した非言語メッセージの使い方など
心の側面からのフィードバックが役立つこともあるかもしれません。
あるいは本人が上手くできているときと、上手くいかないときとの違いを比較して
上手くいくための方法を探すようなやり方もあります。
自分の技術を誰かに伝えていきたいような方であれば
自分自身が無自覚にできていることを意識化するお手伝いも可能です。
達人のやり方を伝達可能な手法に落とし込むような作業とでも言いましょうか。
ご期待に沿った内容をご提案できるかどうかは
お問い合わせでご確認ください。
もし、これから対人援助的なコミュニケーションの技術を学び始めようという場合は
まず一般向けに広くご案内している講座へお越しいただくことをお勧めします。
(こちらのリンクからどうぞ。)
ご自身の内面の課題に取り組み始める場合には
こちらで担当しているNLPの講座へのご参加もお勧めです。
(日本コミュニケーショントレーナー協会)
より高度なご研鑽をお考えの方は、以下のフォームからお問い合わせください。
(ある程度の土台をトレーニングしてからのほうが効果的だと考えられます)
【対応可能範囲】
・コミュニケーションやセラピーの手法のバリエーションを増やしたい
・カウンセリングやコミュニケーションの技術を向上させたい
・自分の専門分野でレベルアップしたい
・人前でのパフォーマンスを磨きたい
・大事な舞台で実力を発揮できるようにしたい
・ある分野について質問したい
・内面的な課題に取り組みたい
・自分のセミナーの構成について相談したい
・カウンセリングのスーパーバイズを受けたい
・自分の得意技を分析して教えられるようにしたい
・職場の達人のやり方を分析してオリジナルの研修を作りたい
・自分の魅力や強みを知りたい
…など、
知識、技術、内面について
何をするにしても、徹底的に観察しながら進めます。
観察の対象は大きく3つ。
「長期間変わることのない持ち味」
「これまでの経験で身につけてきた傾向」
「その瞬間に起きている様々な反応」
これらの観察結果を元にしますから
ご自身に合った方法になるはずです。
こちらの好みや得意・不得意で対応が変わるのではありません。
特定の理論に基づいた発想や手法を押しつけることもありません。
ニーズをうかがいながら、お手伝いの内容を絞り込み、
その上で実際のお手伝いへと進みます。
知識的にこちらの専門外となる分野でも、
ご本人が何をしているかの分析・フィードバックは可能です。
とりわけ、意識の使い方、注意の向け方、身体の使い方など
表面的なテクニックの土台となる部分を扱うことで
今までとは違ったレベルの作業ができるようになると期待されます。
内面的な課題の取り組みに対しても観察を元に進めます。
また、カウンセリングやセラピー、コーチングなどを受けた後で、
その方法について知識レベルの学習をすることも可能です(=教育セッション)。
まずは、お問い合わせフォームに
ご期待される内容をご記入ください。
可能な対応の範囲についてお返事いたします。
費用の目安は、1時間あたり ¥20,000 となります。
※スケジュールの都合で緊急の対応は難しい状況です。
カウンセリングのご依頼などでは、
信頼できるカウンセラーを紹介する場合もあります。
ご了承ください。
※執筆・講演などのご相談も、こちらのフォームからお問い合わせください。
通常、お問い合わせから24時間以内にお返事をしています。
1日過ぎても連絡がない場合には、送信エラーなどが考えられます。
お手数ですが、改めてお問い合わせをお願いいたします。
豊かな日々を祈っております。
2013年09月26日
【セミナー】「分かりやすい伝え方」講座
ご案内: 10月13日(日)開催
「分かりやすい伝え方」講座
この講座に関しては、あまり詳しい中身を事前にお伝えできません。
漠然とした説明になってしまいますが、ご了承ください。
なぜかというと、
内容の理解がセミナーの半分ぐらいを占めるからです。
技術を習得するためのトレーニングだけでなく、
その”やり方”そのもの、考え方や着眼点などが
セミナーで重要な位置を占めます。
もちろん、個別にコツをお伝えすることは多々あるはずです。
でなければセミナーの形にする必要がありませんので。
メインは、「分かりやすい伝え方」。
”どういう情報を盛り込んだら、「分かりやすい」と言ってもらえるか”です。
当然、伝わりやすい方法だともいえます。
が、「伝わる」の場合、非言語メッセージのニュアンスが
大きな力を持つことがあります。
そちらも大事です。
しかし、「伝える」ための場面で、必ずしも
非言語メッセージが含まれるとは限りません。
文章として表現する場合もあります。
文字情報しか使えないなら「分かりやすい伝え方」は重要度を増すでしょう。
直接会ってコミュニケーションをする場合でも、
相手によっては話の内容を重視することがありえます。
話そのものを大切にする相手なら、内容に注意する必要があります。
どういう情報を入れるか。
何を説明するか。
この観点です。
ですから、「どのように」の部分には重点を置きません。
つまり”型”や”フォーマット”、”テンプレート”みたいなものは扱いません。
世の中には、
「まず、こういうことを話して、それからこっちを言って、その後で…」
みたいに、”効果的な伝え方の型”が存在します。
起承転結や、序破急なんてのもありますし、
英語の論理的なライティングにもオーソドックスな型があります。
新聞の記事だって型があるようです。
セールスレターなどにも”型通り”のものが見受けられます。
スピーチやプレゼンテーションでも型を使うことがあります。
そういうことではないんです。
「何を伝えるか」、「どんな情報を盛り込むか」、「何を言うか・書くか」です。
もし型を知っているなら、その型に適用することも可能です。
型の中に「どんな情報を入れるか」ということですから。
言ってみれば、
「1つの”考え”を構成する情報を整理する」
ということです。
それによって、型を使ったときにも、
その表現をより伝わりやすいものにしてくれるはずです。
共感を得たいのなら、その表現を豊かにできます。
あおりたいなら、そうすることも可能です。
説得力のあるプレゼンをしたいなら、それも可能です。
どういう情報を込めれば良いかが見えてくるでしょうから。
また、細かい”言い回し”のトレーニングでもありません。
気が利いたフレーズや、カッコいい言い回し、
”ツカミ”になるようなインパクトのあるコピー…
そういった伝え方のテクニックでもないんです。
デコレーションするには、元になる情報が必要です。
今回のセミナーで扱うのは、元になる情報のほう。
「何を伝えるか」。
「どのような種類の情報を含めると、伝わりやすいか」を中心とします。
”型”に応用したり、”言い回し”を工夫してカッコよくしたりするのは、
今回詳しく扱う内容ではありません。
そうした”型”や”言い回し”のコツをご存知の方は
それらと併用することができるはずです。
「何を伝えるか」が整理できていれば、
その情報を伝える順番を工夫することで”型”に当てはめられますし、
それぞれの言葉の内容を工夫すれば、”言い回し”を魅力的に変えられます。
いわば「パーツを整理する」ようなものです。
全てのパーツが分かっていない状態で、
並び換えだけやっても(=型を使う)、
パーツのデコレーションだけやっても(=言い回しを工夫する)、
効果を100%発揮することは難しいんじゃないでしょうか。
伝える作業のベースとして、全てのパーツを把握できるように練習するわけです。
つまり、自分の”考え”の根拠となる情報を
全て表現できるようにする方法を扱うということです。
大事なことを全部盛り込めるようにするんです。
「なんだ、それを言ってくれれば、もっと早く納得できたのに…」
といったことは日常でよくあることでしょう。
自分の考えの魅力、妥当性、有効性、説得力…
そういったものを表現しきるために、盛り込むべき情報の種類がある。
それを逃しているから伝わらない。
逃していた部分がポロっと出た瞬間に、
「なんだ、そういうことか」となったりするようです。
コンサルティングなどでは良くあるものです。
商品の魅力を伝えるような広告のアドバイスをもらう際、
コンサルタントの側には、広告で表現したい内容がある。
でも、クライアント側はコンサルタントが求めている情報を
自分の口で表現することができない。
コンサルタントの側も、質問によって知りたいことを
事前に明確な形で伝えていれば、欲しい情報を引き出しやすいでしょうが、
自分が求めている情報の種類を自覚していないので
色々と質問を変えながら手探りで情報を把握するといったことが起きます。
今回のセミナーの内容を元にすれば、例えば
コンサルタントとして的確な情報収集をしやすくなりますし、
良いクライアントとして自分の考えを全て表現できるようになるはずです。
そういったことが期待できます。
説明する仕事、アピールする仕事、聞き出す仕事…
などに役立つと考えられます。
もちろん、今回の目的は「伝わる」ところまでです。
その結果、相手がどういう判断をするかは分かりません。
「よく伝わった。けれども、考えは変わらない。」
という可能性もあります。
説得であれ、アピールであれ、
最終的な決断は「伝わったかどうか」だけでなされるわけではないですから。
しかし「伝われば」、少なくとも影響力は上がるでしょう。
「伝わる」ための情報を含めていないなら、
影響力を落としているかもしれません。
もしかすると、
「その情報を先に知っていれば、そっちを選んだのに…」
というケースだってあるかもしれない。
伝えきっていないというのは、
伝える側のメリットだけの話ではないともいえそうです。
伝えるべき大事なものをお持ちの方は
どうぞ、お越しください。
◆今回の講座で期待されること
●「伝わる」ために必要な情報の種類を把握できる
●説得力や共感性、影響力が上がる
●自分の”考え”の根拠を整理できる
●少なくとも納得してもらえる説明ができるようになる
●説明が論理的なものになる
●自分の大切にしていることを明確に表現できる
●相手の気持ちや考えを共有するために必要な情報が分かる
◆録音・録画に関しまして
ICレコーダーやビデオを用いた記録は
復習など、個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
特に、ご自身の説明を録音して聞き直すと
情報整理のポイントも掴みやすくなるかと思われます。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
【セミナーの詳細】
『分かりやすい伝え方』講座≫
【日時】 10月13日(日)
9:30〜16:00
※開始時間にご注意ください
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 五反田文化センター 第一会議室
(JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
(東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
日本には「相手の気持ちを汲み取る」という文化があります。
ハッキリと言葉にされていない内容も行間として読みとるわけです。
だからでしょうか。
伝え方に関する教育は多くなかった気がします。
コミュニケーションの手法も、聞く側の技術が中心です。
以前に「小論文」の授業を予備校で取ったことがありますが、
これなんかヒドイものでした。
意見の出し方を勉強するんです。
「こういう出題に対しては、こういう意見を書きましょう」と。
適切な意見を出すためのポイントを教わる授業なんです。
講師の好みに合った意見を書かないといけない。
採点されて返ってくる答案でも
「こういう視点が足りない」
といった意見内容の批評が大部分でした。
個人の考えが良いか悪いかで採点しているわけです。
「伝わりやすいかどうか」ではないんです。
小論文の授業と言いながら、伝え方のトレーニングではない。
「その意見を主張するなら、こういう情報が必要です」とか
「こういう情報が足りないから根拠が弱い」とか
「これとそれは別の論点だから一貫性がない」とか、
そういう議論ではありませんでした。
1つの考えを明確に伝えるためには、どういった情報が必要なのか?
これを学ぶ機会は、残念ながら、
一般的な教育では得られなかった気がします。
もっと別の観点が必要そうです。
1つのものとして、英語のディベートが挙げられるかもしれません。
競技として行われるディベートでは、いかに論理的かが競われて
意見の良し悪しは問題とされません。
もう1つは福祉系を中心とした「相談援助」の技術です。
「どういう情報を聞き出せば、ニーズを明確に把握できるか」を
徹底的に考えていく作業ですから。
さらにいえば、NLPでは”考え”というものも
1つのプログラムとして捉えることができます。
プログラムの仕組みと、プログラムが働く目的とを考えると
1つの”考え”を構成している情報の種類が見えてきます。
これらには、当然ですが、共通点があります。
このセミナーでは”プログラム”の着眼点が少し強調されますが
論理的に情報を伝える場合においても
相手の気持ちを把握するために情報収集する場合においても
求められる種類の情報は整理されると考えられます。
汲み取る側の能力を上げることにもなるわけです。
どこを汲み取るのかが見えてきますから。
もし汲み取り切れなかったら、質問すれば良い。
また、伝える側としては、相手の汲み取り方に依存せず
多くの人に分かりやすい形で、話を組み立てられるでしょう。
誤解が少ない伝え方にもなると思われます。
そして、考えの根拠になる情報が分かってくると
話の筋道も捉えやすくなります。
自分のものも、相手のものも。
これで会議や議論において、本筋と横道とが区別しやすくなります。
どのように議論を進めるかのコントロールも
自然とやりやすくなると予測されます。
”考え”や”気持ち”と呼ばれるもののの構造が掴めるでしょうから。
結局のところ、モデリングなんです。
プログラムの観点から整理できる全ての情報の構造を挙げて、
ディベートや相談援助における着眼点と対応させる。
それによって「”考え”や”気持ち”が伝わる」ときの
情報の種類が見えてきます。
コミュニケーション全体に影響を及ぼすわけです。
「伝わる」ために必要な情報を把握しておくことで
伝える側としても、受け取る側としても、
コミュニケーションを効果的に進めることができる。
闇雲ではなくなるんです。
どういう種類の情報があるかを把握していれば
何を伝えて、何を言わないでおくかを選択できますし、
相手から何が伝えられていないかを理解しながら質問ができます。
コミュニケーションにおける情報交換の土台として
様々な場面に役立てて下さい。
「分かりやすい伝え方」講座
この講座に関しては、あまり詳しい中身を事前にお伝えできません。
漠然とした説明になってしまいますが、ご了承ください。
なぜかというと、
内容の理解がセミナーの半分ぐらいを占めるからです。
技術を習得するためのトレーニングだけでなく、
その”やり方”そのもの、考え方や着眼点などが
セミナーで重要な位置を占めます。
もちろん、個別にコツをお伝えすることは多々あるはずです。
でなければセミナーの形にする必要がありませんので。
メインは、「分かりやすい伝え方」。
”どういう情報を盛り込んだら、「分かりやすい」と言ってもらえるか”です。
当然、伝わりやすい方法だともいえます。
が、「伝わる」の場合、非言語メッセージのニュアンスが
大きな力を持つことがあります。
そちらも大事です。
しかし、「伝える」ための場面で、必ずしも
非言語メッセージが含まれるとは限りません。
文章として表現する場合もあります。
文字情報しか使えないなら「分かりやすい伝え方」は重要度を増すでしょう。
直接会ってコミュニケーションをする場合でも、
相手によっては話の内容を重視することがありえます。
話そのものを大切にする相手なら、内容に注意する必要があります。
どういう情報を入れるか。
何を説明するか。
この観点です。
ですから、「どのように」の部分には重点を置きません。
つまり”型”や”フォーマット”、”テンプレート”みたいなものは扱いません。
世の中には、
「まず、こういうことを話して、それからこっちを言って、その後で…」
みたいに、”効果的な伝え方の型”が存在します。
起承転結や、序破急なんてのもありますし、
英語の論理的なライティングにもオーソドックスな型があります。
新聞の記事だって型があるようです。
セールスレターなどにも”型通り”のものが見受けられます。
スピーチやプレゼンテーションでも型を使うことがあります。
そういうことではないんです。
「何を伝えるか」、「どんな情報を盛り込むか」、「何を言うか・書くか」です。
もし型を知っているなら、その型に適用することも可能です。
型の中に「どんな情報を入れるか」ということですから。
言ってみれば、
「1つの”考え”を構成する情報を整理する」
ということです。
それによって、型を使ったときにも、
その表現をより伝わりやすいものにしてくれるはずです。
共感を得たいのなら、その表現を豊かにできます。
あおりたいなら、そうすることも可能です。
説得力のあるプレゼンをしたいなら、それも可能です。
どういう情報を込めれば良いかが見えてくるでしょうから。
また、細かい”言い回し”のトレーニングでもありません。
気が利いたフレーズや、カッコいい言い回し、
”ツカミ”になるようなインパクトのあるコピー…
そういった伝え方のテクニックでもないんです。
デコレーションするには、元になる情報が必要です。
今回のセミナーで扱うのは、元になる情報のほう。
「何を伝えるか」。
「どのような種類の情報を含めると、伝わりやすいか」を中心とします。
”型”に応用したり、”言い回し”を工夫してカッコよくしたりするのは、
今回詳しく扱う内容ではありません。
そうした”型”や”言い回し”のコツをご存知の方は
それらと併用することができるはずです。
「何を伝えるか」が整理できていれば、
その情報を伝える順番を工夫することで”型”に当てはめられますし、
それぞれの言葉の内容を工夫すれば、”言い回し”を魅力的に変えられます。
いわば「パーツを整理する」ようなものです。
全てのパーツが分かっていない状態で、
並び換えだけやっても(=型を使う)、
パーツのデコレーションだけやっても(=言い回しを工夫する)、
効果を100%発揮することは難しいんじゃないでしょうか。
伝える作業のベースとして、全てのパーツを把握できるように練習するわけです。
つまり、自分の”考え”の根拠となる情報を
全て表現できるようにする方法を扱うということです。
大事なことを全部盛り込めるようにするんです。
「なんだ、それを言ってくれれば、もっと早く納得できたのに…」
といったことは日常でよくあることでしょう。
自分の考えの魅力、妥当性、有効性、説得力…
そういったものを表現しきるために、盛り込むべき情報の種類がある。
それを逃しているから伝わらない。
逃していた部分がポロっと出た瞬間に、
「なんだ、そういうことか」となったりするようです。
コンサルティングなどでは良くあるものです。
商品の魅力を伝えるような広告のアドバイスをもらう際、
コンサルタントの側には、広告で表現したい内容がある。
でも、クライアント側はコンサルタントが求めている情報を
自分の口で表現することができない。
コンサルタントの側も、質問によって知りたいことを
事前に明確な形で伝えていれば、欲しい情報を引き出しやすいでしょうが、
自分が求めている情報の種類を自覚していないので
色々と質問を変えながら手探りで情報を把握するといったことが起きます。
今回のセミナーの内容を元にすれば、例えば
コンサルタントとして的確な情報収集をしやすくなりますし、
良いクライアントとして自分の考えを全て表現できるようになるはずです。
そういったことが期待できます。
説明する仕事、アピールする仕事、聞き出す仕事…
などに役立つと考えられます。
もちろん、今回の目的は「伝わる」ところまでです。
その結果、相手がどういう判断をするかは分かりません。
「よく伝わった。けれども、考えは変わらない。」
という可能性もあります。
説得であれ、アピールであれ、
最終的な決断は「伝わったかどうか」だけでなされるわけではないですから。
しかし「伝われば」、少なくとも影響力は上がるでしょう。
「伝わる」ための情報を含めていないなら、
影響力を落としているかもしれません。
もしかすると、
「その情報を先に知っていれば、そっちを選んだのに…」
というケースだってあるかもしれない。
伝えきっていないというのは、
伝える側のメリットだけの話ではないともいえそうです。
伝えるべき大事なものをお持ちの方は
どうぞ、お越しください。
◆今回の講座で期待されること
●「伝わる」ために必要な情報の種類を把握できる
●説得力や共感性、影響力が上がる
●自分の”考え”の根拠を整理できる
●少なくとも納得してもらえる説明ができるようになる
●説明が論理的なものになる
●自分の大切にしていることを明確に表現できる
●相手の気持ちや考えを共有するために必要な情報が分かる
◆録音・録画に関しまして
ICレコーダーやビデオを用いた記録は
復習など、個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
特に、ご自身の説明を録音して聞き直すと
情報整理のポイントも掴みやすくなるかと思われます。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
【セミナーの詳細】
『分かりやすい伝え方』講座≫
【日時】 10月13日(日)
9:30〜16:00
※開始時間にご注意ください
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 五反田文化センター 第一会議室
(JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
(東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
日本には「相手の気持ちを汲み取る」という文化があります。
ハッキリと言葉にされていない内容も行間として読みとるわけです。
だからでしょうか。
伝え方に関する教育は多くなかった気がします。
コミュニケーションの手法も、聞く側の技術が中心です。
以前に「小論文」の授業を予備校で取ったことがありますが、
これなんかヒドイものでした。
意見の出し方を勉強するんです。
「こういう出題に対しては、こういう意見を書きましょう」と。
適切な意見を出すためのポイントを教わる授業なんです。
講師の好みに合った意見を書かないといけない。
採点されて返ってくる答案でも
「こういう視点が足りない」
といった意見内容の批評が大部分でした。
個人の考えが良いか悪いかで採点しているわけです。
「伝わりやすいかどうか」ではないんです。
小論文の授業と言いながら、伝え方のトレーニングではない。
「その意見を主張するなら、こういう情報が必要です」とか
「こういう情報が足りないから根拠が弱い」とか
「これとそれは別の論点だから一貫性がない」とか、
そういう議論ではありませんでした。
1つの考えを明確に伝えるためには、どういった情報が必要なのか?
これを学ぶ機会は、残念ながら、
一般的な教育では得られなかった気がします。
もっと別の観点が必要そうです。
1つのものとして、英語のディベートが挙げられるかもしれません。
競技として行われるディベートでは、いかに論理的かが競われて
意見の良し悪しは問題とされません。
もう1つは福祉系を中心とした「相談援助」の技術です。
「どういう情報を聞き出せば、ニーズを明確に把握できるか」を
徹底的に考えていく作業ですから。
さらにいえば、NLPでは”考え”というものも
1つのプログラムとして捉えることができます。
プログラムの仕組みと、プログラムが働く目的とを考えると
1つの”考え”を構成している情報の種類が見えてきます。
これらには、当然ですが、共通点があります。
このセミナーでは”プログラム”の着眼点が少し強調されますが
論理的に情報を伝える場合においても
相手の気持ちを把握するために情報収集する場合においても
求められる種類の情報は整理されると考えられます。
汲み取る側の能力を上げることにもなるわけです。
どこを汲み取るのかが見えてきますから。
もし汲み取り切れなかったら、質問すれば良い。
また、伝える側としては、相手の汲み取り方に依存せず
多くの人に分かりやすい形で、話を組み立てられるでしょう。
誤解が少ない伝え方にもなると思われます。
そして、考えの根拠になる情報が分かってくると
話の筋道も捉えやすくなります。
自分のものも、相手のものも。
これで会議や議論において、本筋と横道とが区別しやすくなります。
どのように議論を進めるかのコントロールも
自然とやりやすくなると予測されます。
”考え”や”気持ち”と呼ばれるもののの構造が掴めるでしょうから。
結局のところ、モデリングなんです。
プログラムの観点から整理できる全ての情報の構造を挙げて、
ディベートや相談援助における着眼点と対応させる。
それによって「”考え”や”気持ち”が伝わる」ときの
情報の種類が見えてきます。
コミュニケーション全体に影響を及ぼすわけです。
「伝わる」ために必要な情報を把握しておくことで
伝える側としても、受け取る側としても、
コミュニケーションを効果的に進めることができる。
闇雲ではなくなるんです。
どういう種類の情報があるかを把握していれば
何を伝えて、何を言わないでおくかを選択できますし、
相手から何が伝えられていないかを理解しながら質問ができます。
コミュニケーションにおける情報交換の土台として
様々な場面に役立てて下さい。
2013年09月23日
好きだから見えなくなる
催眠療法家ミルトン・エリクソン。
縦横無尽なスタイルで圧倒的な成果を出したそのパフォーマンスは
伝説的に語り継がれ、多くのファンを持っているようです。
エリクソンから学ぼうとした人、今も学ぼうとしている人は
きっと沢山いることでしょう。
いったいエリクソンは何をやっていたのか?
直接エリクソンの生徒として学んだ人も、
エリクソンの手法を研究した人も、
ビデオや音声を調べている人も、
「エリクソンが何をやっているか?」を知ろうとする限り、
それを理解することはできないと思います。
多分、不可能です。
なぜか?
簡単な話です。
『エリクソンに興味を持ち過ぎているから』。
ミルトン・エリクソンという催眠療法家の最大の特徴が
柔軟なやり方で、他の誰も理解できないような不思議さを伴いながら
セラピーの結果を出していたということでしょう。
だから魔法のようだと評価される。
そして誰もが、その魔法の秘密に興味を持つ。
何をしているかを知ろうとするんです。
それでエリクソンの言語パターンを分析したり、
エリクソンの声の使い方や仕草の使い方を分析したり、
セラピーの構造を解析しようとしたりする。
沢山の事例を元に、エリクソンの特徴を調べようとするんでしょう。
だから見えなくなる。
クライアントが。
エリクソン自身がクライアントに合わせて対応を変えていたのは
エリクソンのことを崇拝する人だったら皆、知っているはずです。
柔軟に、様々なクライアントに対応していた、と。
もっといえば、その型にはまらない対応が
クライアントと見事に合っていたから、
魔法のようなパフォーマンスに見えたんじゃないでしょうか。
つまり、エリクソンがやっていたことは
クライアントに合わせて違っていた、ということ。
そう考えるなら、少なくともエリクソンのやり方を方法論として整理するには
クライアントの特徴を基準に調べていく必要があるでしょう。
でも、そういうスタンスの人は少なかったんだと思います。
もしいたとしたら、
「どのようにエリクソンは、クライアントを見立てていたか?」
という、セラピー技法以前の部分の論点が生まれていたと考えられます。
…もちろん、僕の知識が足りないだけで、いたのかもしれません。
いたとしても主流ではなかったのではないか、と。
自然なことでしょう。
だって、エリクソンに興味があるんですから。
エリクソンを尊敬していて、エリクソンを学びたいと思っているんですから。
エリクソンのセラピーに来た人たちの問題や
その人たちの心の内側に何が起きていたのか、
そもそも人の心とは、どのような仕組みになっているのか…
そういった観点への興味は、エリクソンへの興味を下回っていた。
だとしたら、クライアントに合わせようとしていたエリクソンのやり方を
どれだけ分析しても、断片的なものしか見つからないでしょう。
だからといって、
クライアントに合わせる
クライアントに寄り添う
その瞬間に起きていることを大切にする
といったポイントを説明したとしても、
心構えのレベルで終わってしまう。
「どのようにして、それをやるか?」がないんです。
どのようにクライアントに合わせたか、
どのようにクライアントに寄り添ったか、
どのように、その瞬間に起きていることを大切にしたか。
これらは、クライアントへ注目することなしに知りようがありません。
今となっては、エリクソンのクライアントについて情報を得ることも、
エリクソンの着眼点を知ることもできないのは残念なところ。
守秘義務があってクライアントの情報を議論できなかったとしても、
エリクソンの相手への合わせ方の原理であれば、
クライアント以外の人への対応を見て学べたはずです。
エリクソンを崇拝して、エリクソンに関心を持って、
その技術を学ぼうとする気持ちが強いほど、皮肉なことに、
クライアントへの興味が薄れてしまうんじゃないかと思えてなりません。
ミルトン・エリクソンの言語パターンだなんて、
目の前のクライアントに関心を向けていたエリクソンにとって
一体どれだけ大事なことだったんでしょうか?
そういう研究を耳にしたときのエリクソンの顔が見てみたい。
縦横無尽なスタイルで圧倒的な成果を出したそのパフォーマンスは
伝説的に語り継がれ、多くのファンを持っているようです。
エリクソンから学ぼうとした人、今も学ぼうとしている人は
きっと沢山いることでしょう。
いったいエリクソンは何をやっていたのか?
直接エリクソンの生徒として学んだ人も、
エリクソンの手法を研究した人も、
ビデオや音声を調べている人も、
「エリクソンが何をやっているか?」を知ろうとする限り、
それを理解することはできないと思います。
多分、不可能です。
なぜか?
簡単な話です。
『エリクソンに興味を持ち過ぎているから』。
ミルトン・エリクソンという催眠療法家の最大の特徴が
柔軟なやり方で、他の誰も理解できないような不思議さを伴いながら
セラピーの結果を出していたということでしょう。
だから魔法のようだと評価される。
そして誰もが、その魔法の秘密に興味を持つ。
何をしているかを知ろうとするんです。
それでエリクソンの言語パターンを分析したり、
エリクソンの声の使い方や仕草の使い方を分析したり、
セラピーの構造を解析しようとしたりする。
沢山の事例を元に、エリクソンの特徴を調べようとするんでしょう。
だから見えなくなる。
クライアントが。
エリクソン自身がクライアントに合わせて対応を変えていたのは
エリクソンのことを崇拝する人だったら皆、知っているはずです。
柔軟に、様々なクライアントに対応していた、と。
もっといえば、その型にはまらない対応が
クライアントと見事に合っていたから、
魔法のようなパフォーマンスに見えたんじゃないでしょうか。
つまり、エリクソンがやっていたことは
クライアントに合わせて違っていた、ということ。
そう考えるなら、少なくともエリクソンのやり方を方法論として整理するには
クライアントの特徴を基準に調べていく必要があるでしょう。
でも、そういうスタンスの人は少なかったんだと思います。
もしいたとしたら、
「どのようにエリクソンは、クライアントを見立てていたか?」
という、セラピー技法以前の部分の論点が生まれていたと考えられます。
…もちろん、僕の知識が足りないだけで、いたのかもしれません。
いたとしても主流ではなかったのではないか、と。
自然なことでしょう。
だって、エリクソンに興味があるんですから。
エリクソンを尊敬していて、エリクソンを学びたいと思っているんですから。
エリクソンのセラピーに来た人たちの問題や
その人たちの心の内側に何が起きていたのか、
そもそも人の心とは、どのような仕組みになっているのか…
そういった観点への興味は、エリクソンへの興味を下回っていた。
だとしたら、クライアントに合わせようとしていたエリクソンのやり方を
どれだけ分析しても、断片的なものしか見つからないでしょう。
だからといって、
クライアントに合わせる
クライアントに寄り添う
その瞬間に起きていることを大切にする
といったポイントを説明したとしても、
心構えのレベルで終わってしまう。
「どのようにして、それをやるか?」がないんです。
どのようにクライアントに合わせたか、
どのようにクライアントに寄り添ったか、
どのように、その瞬間に起きていることを大切にしたか。
これらは、クライアントへ注目することなしに知りようがありません。
今となっては、エリクソンのクライアントについて情報を得ることも、
エリクソンの着眼点を知ることもできないのは残念なところ。
守秘義務があってクライアントの情報を議論できなかったとしても、
エリクソンの相手への合わせ方の原理であれば、
クライアント以外の人への対応を見て学べたはずです。
エリクソンを崇拝して、エリクソンに関心を持って、
その技術を学ぼうとする気持ちが強いほど、皮肉なことに、
クライアントへの興味が薄れてしまうんじゃないかと思えてなりません。
ミルトン・エリクソンの言語パターンだなんて、
目の前のクライアントに関心を向けていたエリクソンにとって
一体どれだけ大事なことだったんでしょうか?
そういう研究を耳にしたときのエリクソンの顔が見てみたい。
2013年09月21日
意識を意識する
「〜を意識する」という言い方があります。
「〜へと意識を動かす」、「〜へ意識を向ける」とか。
これ、大きく分けると2通りの体験の仕方があるようです。
1つは、『意識の対象』を動かす。
もう1つは、『意識の中心』を動かす。
『意識の対象』が動くというのは、例えば
道を歩いているときに”信号を見る”状態から
”歩行者を見る”状態や、”車の音を聞く”状態へ
「関心を向けているターゲットが変わる」こと。
何かを考えるときに心の中で声を聞くのも
浮かんでくるイメージを眺めるのも
『意識の対象』の違いだといえます。
体の感覚でも同じことです。
肩が痛いとか、背中がかゆいとか、足先が冷たいとか、
注意を向ける先が動いている状態。
このときに、
「”どこから”意識しているか」
は、変わらないことが多いようです。
この「”どこから”意識しているか」が『意識の中心』。
多くの人は頭の中にあるみたいです。
そりゃそうです。
目も耳も、頭についていますから。
「どこから見ているか」と言われれば目からですし
「どこから聞いているか」と言われれば耳からになる。
考え事をするときに自分が話しているような身体感覚を伴う人も多いようですが、
それだって「どこで考えているか」と言われれば、
口元とか喉元ぐらいのものでしょう。
膝で考える人はいないはずです。
「どこから意識するか」の大部分は、頭周りになりやすい。
これは目を閉じているときでも変わらないようです。
僕が観察した感じだと、視覚障害をもった人たちでも、
聴覚を活用する度合いが高くなる分だけ耳への意識は高いものの
『意識の中心』ということになれば、やっぱり頭のあたりにあるみたいに見えます。
いたって自然なことなんでしょう。
空間を内的世界にマッピングするときに視覚情報と聴覚情報を使えば、
その世界は目と耳の位置を中心にして作られます。
頭のてっぺんに目がついているカエルのような見え方や、
頭の横に目がついているウマのような見え方を想像するだけでも大変じゃないでしょうか。
ですから、目を閉じてイメージしているときでも
その映像や音声は目を開けているときのものと
良く似ていることが多いんです。
「背中側にイメージが見えます」なんて人は滅多にいません。
『意識の中心』の場所は、体の構造上、頭のあたりに集まりやすいということです。
ところが、体感覚に注意を向けている度合いの高い人の中には、
体の『意識の中心』を動かせる人がいます。
意識の中心を動かしながら、その部分に注意を向ける感じ。
例えば、お腹に注意を向けるとき、
『意識の中心』がお腹に移動するんです。
「お腹から、お腹の体感覚を感じる」。
視覚・聴覚を使う度合いが高い場合、
『意識の中心』は頭にあって、
そこからお腹に注意を向ける感じがあります。
頭から「お腹はどうなっているかな?」と感じようとする。
目を開けて指先を見つめるのと同じように、
目を閉じた状態で、お腹の中を見つめるんです。
もちろん、身体感覚を感じますが、それを把握する中心は頭のほう。
つま先に注意を向ければ、
「どこから意識しているか」
というのは、もっと明確になると思います。
”頭から注意を向ける”とは、喩えるなら、
「体の中を探ってみましょう」ということになったとき
頭の中にあるカメラが角度と焦点距離を変えて
色々な部位を撮影していくようなものです。
体の『意識の中心』を動かせる人は、
そのカメラそのものが体の中を動いていって
その場所を直接感じ取るような体験になります。
また、稀にですが
視覚的なイメージを顔の前以外に浮かべる人がいます。
胸の前とか、お腹の前とか。
その場合、視覚の『意識の中心』が胸やお腹に移っている可能性があります。
このような各感覚意識の中心を変える体験を集約していくと、
『意識の中心』そのものを頭以外のところに集められるようになります。
頭ではなく、胸やお腹に『意識の中心』を動かす。
上丹田、中丹田、下丹田と言い換えても、
チャクラと呼んでも、
マインド・ハート・ボディのセンターと言い換えても、
好きな呼び名で構わないと思いますが、
「”どこから”意識するか」を動かす、ということです。
これができるようになると、身体性も上がっていきますし、
イメージの活用の仕方や、記憶を取り戻す効率も変わっていきます。
胸に意識の中心を動かし、
そこから広がるイメージをそこから眺め、
そのイメージの世界に溢れる音をそこで聞き、
その中心で感覚体験を味わう。
そんなやり方もあるんです。
色々と体験の幅が広がります。
大袈裟にいえば、複数の仮想体験と、目の前の現在の体験とを
同時並行で進められるような感じも可能でしょう。
誰かが勝手につけた呼び名ではなく、
その人がどういう内的な体験をしているかを調べると
少しは分かることもできるようになるんじゃないかと思います。
「〜へと意識を動かす」、「〜へ意識を向ける」とか。
これ、大きく分けると2通りの体験の仕方があるようです。
1つは、『意識の対象』を動かす。
もう1つは、『意識の中心』を動かす。
『意識の対象』が動くというのは、例えば
道を歩いているときに”信号を見る”状態から
”歩行者を見る”状態や、”車の音を聞く”状態へ
「関心を向けているターゲットが変わる」こと。
何かを考えるときに心の中で声を聞くのも
浮かんでくるイメージを眺めるのも
『意識の対象』の違いだといえます。
体の感覚でも同じことです。
肩が痛いとか、背中がかゆいとか、足先が冷たいとか、
注意を向ける先が動いている状態。
このときに、
「”どこから”意識しているか」
は、変わらないことが多いようです。
この「”どこから”意識しているか」が『意識の中心』。
多くの人は頭の中にあるみたいです。
そりゃそうです。
目も耳も、頭についていますから。
「どこから見ているか」と言われれば目からですし
「どこから聞いているか」と言われれば耳からになる。
考え事をするときに自分が話しているような身体感覚を伴う人も多いようですが、
それだって「どこで考えているか」と言われれば、
口元とか喉元ぐらいのものでしょう。
膝で考える人はいないはずです。
「どこから意識するか」の大部分は、頭周りになりやすい。
これは目を閉じているときでも変わらないようです。
僕が観察した感じだと、視覚障害をもった人たちでも、
聴覚を活用する度合いが高くなる分だけ耳への意識は高いものの
『意識の中心』ということになれば、やっぱり頭のあたりにあるみたいに見えます。
いたって自然なことなんでしょう。
空間を内的世界にマッピングするときに視覚情報と聴覚情報を使えば、
その世界は目と耳の位置を中心にして作られます。
頭のてっぺんに目がついているカエルのような見え方や、
頭の横に目がついているウマのような見え方を想像するだけでも大変じゃないでしょうか。
ですから、目を閉じてイメージしているときでも
その映像や音声は目を開けているときのものと
良く似ていることが多いんです。
「背中側にイメージが見えます」なんて人は滅多にいません。
『意識の中心』の場所は、体の構造上、頭のあたりに集まりやすいということです。
ところが、体感覚に注意を向けている度合いの高い人の中には、
体の『意識の中心』を動かせる人がいます。
意識の中心を動かしながら、その部分に注意を向ける感じ。
例えば、お腹に注意を向けるとき、
『意識の中心』がお腹に移動するんです。
「お腹から、お腹の体感覚を感じる」。
視覚・聴覚を使う度合いが高い場合、
『意識の中心』は頭にあって、
そこからお腹に注意を向ける感じがあります。
頭から「お腹はどうなっているかな?」と感じようとする。
目を開けて指先を見つめるのと同じように、
目を閉じた状態で、お腹の中を見つめるんです。
もちろん、身体感覚を感じますが、それを把握する中心は頭のほう。
つま先に注意を向ければ、
「どこから意識しているか」
というのは、もっと明確になると思います。
”頭から注意を向ける”とは、喩えるなら、
「体の中を探ってみましょう」ということになったとき
頭の中にあるカメラが角度と焦点距離を変えて
色々な部位を撮影していくようなものです。
体の『意識の中心』を動かせる人は、
そのカメラそのものが体の中を動いていって
その場所を直接感じ取るような体験になります。
また、稀にですが
視覚的なイメージを顔の前以外に浮かべる人がいます。
胸の前とか、お腹の前とか。
その場合、視覚の『意識の中心』が胸やお腹に移っている可能性があります。
このような各感覚意識の中心を変える体験を集約していくと、
『意識の中心』そのものを頭以外のところに集められるようになります。
頭ではなく、胸やお腹に『意識の中心』を動かす。
上丹田、中丹田、下丹田と言い換えても、
チャクラと呼んでも、
マインド・ハート・ボディのセンターと言い換えても、
好きな呼び名で構わないと思いますが、
「”どこから”意識するか」を動かす、ということです。
これができるようになると、身体性も上がっていきますし、
イメージの活用の仕方や、記憶を取り戻す効率も変わっていきます。
胸に意識の中心を動かし、
そこから広がるイメージをそこから眺め、
そのイメージの世界に溢れる音をそこで聞き、
その中心で感覚体験を味わう。
そんなやり方もあるんです。
色々と体験の幅が広がります。
大袈裟にいえば、複数の仮想体験と、目の前の現在の体験とを
同時並行で進められるような感じも可能でしょう。
誰かが勝手につけた呼び名ではなく、
その人がどういう内的な体験をしているかを調べると
少しは分かることもできるようになるんじゃないかと思います。
2013年09月19日
何と比べて?
いつの頃からか分かりませんが、
僕は物事を相対的に捉える傾向がかなり強くなったようです。
理系の教育も関係しているかもしれません。
何かを測定するのは、必ず相対的なものだ
という経験を積み重ねてきましたから。
「単位」そのものが、まさに相対化のための基準であって
単位を変換していくと、相互に規定し合っているのが見えてきます。
「メートル」や「グラム」だって、人が勝手に作った長さの単位に過ぎません。
化学の実験で電極を使ってpHを測定するときなどは
参照電極という基準になるものを使って相対化の度合いを揃えるものです。
物理になると相対的な話はもっと増えてくるようで
エネルギーとかポテンシャルとかは相対的なものだったと記憶しています。
基準点というのを設けないと話にならない感じ。
日常で目にする電池の「1.5V」とかの「ボルト」、
これだって電位の単位ですが、1.5Vは本来、「電位差」を表していて
「2つを比べてどっちの電位がどれだけ高いか」という
相対的な数値のことなんです。
電池の場合は、
「回路を作ったときに陽極側が1.5V高くなりますよ」
という話。
”流しそうめん”の片側を1.5メートル高くしておいたら
低いほうに向かって流れていくのと似たようなものでしょう。
でも、その”高さ”そのものは絶対的なものではないんです。
川辺のキャンプ場でやる”流しそうめん”と
山小屋でやる”流しそうめん”では、標高が違います。
川辺の流しそうめん台の高い側は、
山小屋の流しそうめん台の低い側よりも
標高でいえば、ずっと低い位置にあります。
それは基準の違いの問題。
流しそうめん台の両端の高さ同士を比べるか、
海水面からの高さで比べるか、という違いです。
そういった発想に多く触れてきたからか、
僕の中には「何と比べて?」という相対化の発想が
染みついているみたいなんです。
細かくいえば、
「相対化の発想が染みついている」
という表現をしているときにも
僕の中では相対化の尺度が動いているのを自覚します。
この場合は「誰と比べて、より”しっかりと”染みついているのか?」
といった感じの相対化です。
こういう明確な基準を持たないものを相対化する場合、
僕の頭の中には、統計的な分布図が浮かびます。
正規分布みたいな絵。
偏差値までは気にしませんが、「平均と比べて」という相対化は起きます。
そんな感じで相対化の癖を持っていると、
”形容詞”を使うときにも、自然と相対化のための比較をすることになります。
「大きい」とか「小さい」とか、「固い」とか「柔らかい」とか
”形容詞”を使うときには、常に基準との比較が含まれるんです。
ですから、英語で使われる「比較級」という発想が
僕にはピンときません。
「そもそも形容詞って比較級しかないんじゃないの?」
という印象ですから。
文法上、「AとBとを比較すると」という対象化がハッキリしたときに
「比較級+than 」を使うのは知っていますが、
僕の頭の中に浮かぶイメージは、そうしたルールとは無関係に
相対化のプロセスを取っているようなんです。
NLPでメタモデルと呼ばれる質問パターンの中には
”言語化されずに削除されている”情報を回復するためのものがありますが
その中に「比較対象の削除」を回復する質問というのがあります。
元々アメリカで生まれたNLPですから、英語の質問パターンです。
クライアントが比較級の表現をしたにもかかわらず、
比較対象を「 than 」で示さなかったときに
「何と比べてですか?」と質問するやり方です。
シンプルな情報回復の手法だといえます。
ですが、形容詞の持つ相対的な性質を考えると
別に比較級じゃなくたって「何と比べてですか?」と聞くことができます。
「あの人は背が高いんです」
―「誰と比べてですか?」
この場合、
「私と比べて、です」という答えもあり得れば
「日本人の平均と比べて、です」という答えも
「地球上の現代人の平均と比べて、です」という答えもあるでしょう。
「私が期待している最低基準の身長よりも、です」
という人もいるかもしれません。
形容詞や副詞など、程度を表す修飾語を使うとき、
そこには相対化するための基準があるはずだ、という話です。
そして、ここに注意点が生まれます。
相対的なものを求めると、なかなか達成できない。
何を基準にするかによって程度が変わってしまいますから。
多くの人は「幸せになりたい」と思っているようですが、
この”幸せ”さえ相対的な状態を表す言葉です。
他の誰かと比較してなのか、過去の自分と比較してなのか、
何かの基準を元に、幸せか不幸かを判断する。
その意味では、相対化しない傾向の人のほうが
気楽に幸せを味わえる可能性もあります。
(当然、逆の可能性もありますが)
幸せに関しては、相対化しない。
それも1つの方法でしょう。
もう1つは、幸せだろうが何だろうが、
相対的なことは気にしない
という方法。
その場合、相対化されないものを知っておくのが役立つ気がします。
「光速度一定」のように、相対化されないものを。
僕は物事を相対的に捉える傾向がかなり強くなったようです。
理系の教育も関係しているかもしれません。
何かを測定するのは、必ず相対的なものだ
という経験を積み重ねてきましたから。
「単位」そのものが、まさに相対化のための基準であって
単位を変換していくと、相互に規定し合っているのが見えてきます。
「メートル」や「グラム」だって、人が勝手に作った長さの単位に過ぎません。
化学の実験で電極を使ってpHを測定するときなどは
参照電極という基準になるものを使って相対化の度合いを揃えるものです。
物理になると相対的な話はもっと増えてくるようで
エネルギーとかポテンシャルとかは相対的なものだったと記憶しています。
基準点というのを設けないと話にならない感じ。
日常で目にする電池の「1.5V」とかの「ボルト」、
これだって電位の単位ですが、1.5Vは本来、「電位差」を表していて
「2つを比べてどっちの電位がどれだけ高いか」という
相対的な数値のことなんです。
電池の場合は、
「回路を作ったときに陽極側が1.5V高くなりますよ」
という話。
”流しそうめん”の片側を1.5メートル高くしておいたら
低いほうに向かって流れていくのと似たようなものでしょう。
でも、その”高さ”そのものは絶対的なものではないんです。
川辺のキャンプ場でやる”流しそうめん”と
山小屋でやる”流しそうめん”では、標高が違います。
川辺の流しそうめん台の高い側は、
山小屋の流しそうめん台の低い側よりも
標高でいえば、ずっと低い位置にあります。
それは基準の違いの問題。
流しそうめん台の両端の高さ同士を比べるか、
海水面からの高さで比べるか、という違いです。
そういった発想に多く触れてきたからか、
僕の中には「何と比べて?」という相対化の発想が
染みついているみたいなんです。
細かくいえば、
「相対化の発想が染みついている」
という表現をしているときにも
僕の中では相対化の尺度が動いているのを自覚します。
この場合は「誰と比べて、より”しっかりと”染みついているのか?」
といった感じの相対化です。
こういう明確な基準を持たないものを相対化する場合、
僕の頭の中には、統計的な分布図が浮かびます。
正規分布みたいな絵。
偏差値までは気にしませんが、「平均と比べて」という相対化は起きます。
そんな感じで相対化の癖を持っていると、
”形容詞”を使うときにも、自然と相対化のための比較をすることになります。
「大きい」とか「小さい」とか、「固い」とか「柔らかい」とか
”形容詞”を使うときには、常に基準との比較が含まれるんです。
ですから、英語で使われる「比較級」という発想が
僕にはピンときません。
「そもそも形容詞って比較級しかないんじゃないの?」
という印象ですから。
文法上、「AとBとを比較すると」という対象化がハッキリしたときに
「比較級+than 」を使うのは知っていますが、
僕の頭の中に浮かぶイメージは、そうしたルールとは無関係に
相対化のプロセスを取っているようなんです。
NLPでメタモデルと呼ばれる質問パターンの中には
”言語化されずに削除されている”情報を回復するためのものがありますが
その中に「比較対象の削除」を回復する質問というのがあります。
元々アメリカで生まれたNLPですから、英語の質問パターンです。
クライアントが比較級の表現をしたにもかかわらず、
比較対象を「 than 」で示さなかったときに
「何と比べてですか?」と質問するやり方です。
シンプルな情報回復の手法だといえます。
ですが、形容詞の持つ相対的な性質を考えると
別に比較級じゃなくたって「何と比べてですか?」と聞くことができます。
「あの人は背が高いんです」
―「誰と比べてですか?」
この場合、
「私と比べて、です」という答えもあり得れば
「日本人の平均と比べて、です」という答えも
「地球上の現代人の平均と比べて、です」という答えもあるでしょう。
「私が期待している最低基準の身長よりも、です」
という人もいるかもしれません。
形容詞や副詞など、程度を表す修飾語を使うとき、
そこには相対化するための基準があるはずだ、という話です。
そして、ここに注意点が生まれます。
相対的なものを求めると、なかなか達成できない。
何を基準にするかによって程度が変わってしまいますから。
多くの人は「幸せになりたい」と思っているようですが、
この”幸せ”さえ相対的な状態を表す言葉です。
他の誰かと比較してなのか、過去の自分と比較してなのか、
何かの基準を元に、幸せか不幸かを判断する。
その意味では、相対化しない傾向の人のほうが
気楽に幸せを味わえる可能性もあります。
(当然、逆の可能性もありますが)
幸せに関しては、相対化しない。
それも1つの方法でしょう。
もう1つは、幸せだろうが何だろうが、
相対的なことは気にしない
という方法。
その場合、相対化されないものを知っておくのが役立つ気がします。
「光速度一定」のように、相対化されないものを。
2013年09月17日
『身体意識』の本
やっぱりこの人の本はスゴイ。
こんな本の出版が許されていることが何よりスゴイ。
テーマは身体意識の分析。
体の使い方に関する”意識”の仕方が、
その人のパフォーマンスを大きく左右するというコンセプトです。
こういった身体意識が運動と関わるというだけなら
一般的にも分かりやすい感じがするかもしれません。
もちろん、そういう観点から書かれた本もあります。
ですが、この本は更にぶっ飛んだ内容になっている。
「偉人が、どうしてあれだけの活躍をできたのか?」
そのことを身体意識と絡めて解説しているんです。
著者本人は「研究した」とか「分析したところ」と書いていますが
題材に上がっている人物は、現存しない人ばかり。
当然、その偉人達に直接「どんな身体意識を持っているんですか?」
とインタビューすることなんてできません。
ビデオが残ってでもいれば、画像解析のようなことも可能かもしれませんが
この著者は、多分、そんなことはしていません。
なぜなら、チンギス・ハンとか葛飾北斎とか、
写真すら残っていない人たちの身体意識を
どういうわけか研究したり、分析したりできるんですから。
その人たちが自らの身体意識を文章に残していることだって考えにくいので
書物を紐解いて調査したということでもないはずです。
写真があれば写真を見て、
肖像画や自画像しか残っていなければ、その絵を見て、
どういう身体意識を持った人だったのかを考察したんだと思われます。
きっと、”注意深く見るだけで、なんとなく分かる”んでしょう。
ある意味では、極めて主観的です。
他の人が同じように「研究・分析」できるのかも定かではありません。
なんとなく感じられるものを個別の要素に分解しながら
図に起こしていくような作業をしているんだろうと想像されます。
著者には直感的に感じられてしまうものを
図に描き起こすことで意識化していくんじゃないでしょうか。
そうすると、著者本人さえも
「オーッ!こんな図になった!これはスゴイ!」
という、無自覚だった印象を意識化する際の”気づき”がある。
そのような流れを「研究」とか「分析」と呼んでいるんだと僕は”考察”します。
そして、そういう極めて主観的で直観的な印象を
偉人の身体意識という検証しようのないものに対して
大真面目に語れることが、なんといってもスゴイことだと思うんです。
誰も検証しようがありません。
正しいかどうかなんて分かりません。
でも、それでいい。
それが面白いんです。
そうやって堂々と持論を展開していけるのが只者ではないところでしょう。
このレベルになると誰もエビデンスがどうだとか口出しできないと思われます。
武道やスポーツ関係で活躍する人ですから、
根拠だなんだと言ってくるような分野でもないのかもしれません。
「高岡英夫がそういうんだから」と思わせてしまう説得力があるような気もします。
何より、実際に絵やら写真やらを見ながら解説を読んでいると
納得できるところばかりなんです。
身体意識として、「確かにそうだ」という感じがある。
少なくとも、僕はそれが納得できます。
僕自身は武道やスポーツの達人ではありませんが
きっと体の使い方をトレーニングしてきた人たちの中には
高岡英夫理論がシックリくる人も沢山いるんじゃないでしょうか。
おそらく僕は武道やスポーツではなく
非言語メッセージの観察やペーシングといった
コミュニケーション関係のトレーニングから得たものを土台にして
納得感を得ているんだろうと思います。
この著者に教えてもらいながら「身体意識の分析法(図解法)」を練習したら
僕も似たような作業ができるようになるんじゃないかと感じるぐらい、
解説を読んでいると「確かに…」ということが多いんです。
僕は個人的に楽しめる内容。
こういうことをしている人が有名になって持論を大きく展開できるというのも
身体意識といった”体”と結びついたテーマだからかもしれません。
同じことを”心”でやろうとすると、今はまだ厳しいような気がします。
”体”は達人のパフォーマンスが見て取りやすいですから。
”心”の達人だと、どうしても言葉とか技法とか、表面的なところに行きやすい。
コミュニケーションにも身体意識は大きく関わっているんですが…。
そんな多少のもどかしさを感じているからこそ、
この著者の身体意識論が清々しく思えるんでしょう。
机上の空論を重ねたような説明や
統計データを使って論理的考察を誤魔化した説明、
脳科学や量子力学の一部だけを引っ張り出して拡大解釈した説明など
”考える”ことを放棄したような話を目にすることが多い中、
あえて徹底的に”感じる”ほうに集中しているものは貴重だと思います。
偉人の選び方からして、僕の趣向とは合わない別世界の人のようでもありますが
この著者の存在は、僕の心の支えにもなっている気がします。
こんな本の出版が許されていることが何よりスゴイ。
テーマは身体意識の分析。
体の使い方に関する”意識”の仕方が、
その人のパフォーマンスを大きく左右するというコンセプトです。
こういった身体意識が運動と関わるというだけなら
一般的にも分かりやすい感じがするかもしれません。
もちろん、そういう観点から書かれた本もあります。
ですが、この本は更にぶっ飛んだ内容になっている。
「偉人が、どうしてあれだけの活躍をできたのか?」
そのことを身体意識と絡めて解説しているんです。
著者本人は「研究した」とか「分析したところ」と書いていますが
題材に上がっている人物は、現存しない人ばかり。
当然、その偉人達に直接「どんな身体意識を持っているんですか?」
とインタビューすることなんてできません。
ビデオが残ってでもいれば、画像解析のようなことも可能かもしれませんが
この著者は、多分、そんなことはしていません。
なぜなら、チンギス・ハンとか葛飾北斎とか、
写真すら残っていない人たちの身体意識を
どういうわけか研究したり、分析したりできるんですから。
その人たちが自らの身体意識を文章に残していることだって考えにくいので
書物を紐解いて調査したということでもないはずです。
写真があれば写真を見て、
肖像画や自画像しか残っていなければ、その絵を見て、
どういう身体意識を持った人だったのかを考察したんだと思われます。
きっと、”注意深く見るだけで、なんとなく分かる”んでしょう。
ある意味では、極めて主観的です。
他の人が同じように「研究・分析」できるのかも定かではありません。
なんとなく感じられるものを個別の要素に分解しながら
図に起こしていくような作業をしているんだろうと想像されます。
著者には直感的に感じられてしまうものを
図に描き起こすことで意識化していくんじゃないでしょうか。
そうすると、著者本人さえも
「オーッ!こんな図になった!これはスゴイ!」
という、無自覚だった印象を意識化する際の”気づき”がある。
そのような流れを「研究」とか「分析」と呼んでいるんだと僕は”考察”します。
そして、そういう極めて主観的で直観的な印象を
偉人の身体意識という検証しようのないものに対して
大真面目に語れることが、なんといってもスゴイことだと思うんです。
誰も検証しようがありません。
正しいかどうかなんて分かりません。
でも、それでいい。
それが面白いんです。
そうやって堂々と持論を展開していけるのが只者ではないところでしょう。
このレベルになると誰もエビデンスがどうだとか口出しできないと思われます。
武道やスポーツ関係で活躍する人ですから、
根拠だなんだと言ってくるような分野でもないのかもしれません。
「高岡英夫がそういうんだから」と思わせてしまう説得力があるような気もします。
何より、実際に絵やら写真やらを見ながら解説を読んでいると
納得できるところばかりなんです。
身体意識として、「確かにそうだ」という感じがある。
少なくとも、僕はそれが納得できます。
僕自身は武道やスポーツの達人ではありませんが
きっと体の使い方をトレーニングしてきた人たちの中には
高岡英夫理論がシックリくる人も沢山いるんじゃないでしょうか。
おそらく僕は武道やスポーツではなく
非言語メッセージの観察やペーシングといった
コミュニケーション関係のトレーニングから得たものを土台にして
納得感を得ているんだろうと思います。
この著者に教えてもらいながら「身体意識の分析法(図解法)」を練習したら
僕も似たような作業ができるようになるんじゃないかと感じるぐらい、
解説を読んでいると「確かに…」ということが多いんです。
僕は個人的に楽しめる内容。
こういうことをしている人が有名になって持論を大きく展開できるというのも
身体意識といった”体”と結びついたテーマだからかもしれません。
同じことを”心”でやろうとすると、今はまだ厳しいような気がします。
”体”は達人のパフォーマンスが見て取りやすいですから。
”心”の達人だと、どうしても言葉とか技法とか、表面的なところに行きやすい。
コミュニケーションにも身体意識は大きく関わっているんですが…。
そんな多少のもどかしさを感じているからこそ、
この著者の身体意識論が清々しく思えるんでしょう。
机上の空論を重ねたような説明や
統計データを使って論理的考察を誤魔化した説明、
脳科学や量子力学の一部だけを引っ張り出して拡大解釈した説明など
”考える”ことを放棄したような話を目にすることが多い中、
あえて徹底的に”感じる”ほうに集中しているものは貴重だと思います。
偉人の選び方からして、僕の趣向とは合わない別世界の人のようでもありますが
この著者の存在は、僕の心の支えにもなっている気がします。
2013年09月15日
10月のお知らせ
とりあえず簡単なご案内。
10月は13日(日)と20日(日)にセミナーをやる予定です。
1つは『直観力と直感力を鍛える』内容。
もう1つは『分かりやすい伝え方』の技術です。
伝え方のほうは「どういう情報を入れるか」が中心になりますから
いわゆる話し方教室やプレゼンテーションの講座とは違います。
「どのように」ではななく、「何を」伝えるか。
ここが掴めてくると、逆にいえば
「何を聞けば相手の伝えたいことを一通り把握できるか」
も分かりやすくなるはずです。
自分が伝えたいことを論理的にまとめることができると
相手の話を整理するときに質問することもスムーズになる。
特に日本人は「論理的」ということに慣れていません。
学校教育でやらないんだから当然ですが。
その辺を練習するような機会になればと考えています。
さて、先日、ある英語の教室に足を運んできました。
約2年ぶりに訪れたんです。
ちょっと質問したいことがあったので
体験セミナーにお邪魔して、その後で質問させてもらいました。
質問そのものは簡単なもの。
すぐに答えをもらってスッキリ。
専門家に聞けるというのは助かります。
ただ、それ以上に印象深かったのは
2年ぶりにその先生の授業に出てみて
その素晴らしさを改めて実感できたこと。
実際に授業を受けていたときだって、もちろん、
その内容の充実ぶりと、生徒一人ひとりに合わせたトレーニング、
全体を巻き込みながら力を伸ばしていく場作りの見事さを実感していました。
それらを楽しみながら身をゆだねて、自分でもトレーニングに集中する。
授業がいかに満足できるものであるかに気づいていて、
その質に納得しながらも、あまり気にかけないように置いておきながら
自分としては求める能力を上げるために作業への関心を高めていたんです。
納得して安心しているからこそ、自分のトレーニングに専念できる感じ。
おかげで、とても効果的な時間を過ごしていたものです。
そして今回は2年ぶりにトレーニング以外の目的で訪れたことで、
体験セミナーの内容以上に、その先生のスタイルを
以前よりも客観的に味わえた気がします。
「教える」ということへ真剣で、
自分のしていることが生徒の人生にどのように影響を与えるかを自覚している。
だから妥協が無いんです。
何より、1つの授業を「教えること」と「トレーニング」との両方に使う。
これが重要だと感じます。
「伝えるところまではやるけど、その後で勉強するかどうかは本人に任せる」
というスタンスが多いように見受けられるのに対して、
その先生は授業の場で濃密なトレーニングをするんです。
もちろん自習の方法も伝えてますし、
自習によって力が伸びることも強調していたものですが、
授業中のトレーニングで効果を高めるのが上手いんです。
そしてチョットだけ厳しい。
個人的に質問に行ったりすると腰の低い人なんですが、
全体に対する指導のときはハッパをかけるようなこともやる。
この辺からも熱意が感じられるんです。
適宜ポジティブなフィードバックも入れたりしますから
ヤル気のある人にとっては実りの大きい時間になっているはずです。
授業が目的で訪れたわけではないからこそ
そういったことを改めて感じられて、
いかに恵まれた時間を過ごせていたかを思い出せました。
2年前と変わらずに熱意あふれる先生のスタイルに触れて
一人コッソリと感動していたぐらいです。
本当に、こういう講師は少ないんです。
授業を受けるはずの自分が、
講師の意図を察して
知識と技術の範囲を把握して
質問と発言の内容を調節する
なんていうことばかりです。
諦めながら授業を受けないといけません。
というよりも、「もう諦めがついてしまった」感じでしょうか。
だから余計に、久しぶりに想いのある授業に触れたのが嬉しかった。
しかも、諦めがついてしまった僕とは違い、
その先生はずっと熱意にあふれているようでした。
「英語に限らず、基礎の重要性を強調しないで
テクニックだけ教えるなんていうのはサギだ」
とハッキリ言っていたぐらい。
無料の体験セミナーで言うんですから、結構な熱さでしょう。
同業者だけでなく、「教える」立場全体に対して
強い想いがあるんだろうと思われます。
そういう人だから続くのかもしれません。
絶えず入れ替わっていく多くの生徒の英語力を上げ続ける仕事。
それを常に熱意を持ってやっている人がいる。
そのことが心を打ちます。
希望の支えになってくれます。
もう自分が教わることはないとしても、
その先生が続けているのを知っているだけで充分です。
10月は13日(日)と20日(日)にセミナーをやる予定です。
1つは『直観力と直感力を鍛える』内容。
もう1つは『分かりやすい伝え方』の技術です。
伝え方のほうは「どういう情報を入れるか」が中心になりますから
いわゆる話し方教室やプレゼンテーションの講座とは違います。
「どのように」ではななく、「何を」伝えるか。
ここが掴めてくると、逆にいえば
「何を聞けば相手の伝えたいことを一通り把握できるか」
も分かりやすくなるはずです。
自分が伝えたいことを論理的にまとめることができると
相手の話を整理するときに質問することもスムーズになる。
特に日本人は「論理的」ということに慣れていません。
学校教育でやらないんだから当然ですが。
その辺を練習するような機会になればと考えています。
さて、先日、ある英語の教室に足を運んできました。
約2年ぶりに訪れたんです。
ちょっと質問したいことがあったので
体験セミナーにお邪魔して、その後で質問させてもらいました。
質問そのものは簡単なもの。
すぐに答えをもらってスッキリ。
専門家に聞けるというのは助かります。
ただ、それ以上に印象深かったのは
2年ぶりにその先生の授業に出てみて
その素晴らしさを改めて実感できたこと。
実際に授業を受けていたときだって、もちろん、
その内容の充実ぶりと、生徒一人ひとりに合わせたトレーニング、
全体を巻き込みながら力を伸ばしていく場作りの見事さを実感していました。
それらを楽しみながら身をゆだねて、自分でもトレーニングに集中する。
授業がいかに満足できるものであるかに気づいていて、
その質に納得しながらも、あまり気にかけないように置いておきながら
自分としては求める能力を上げるために作業への関心を高めていたんです。
納得して安心しているからこそ、自分のトレーニングに専念できる感じ。
おかげで、とても効果的な時間を過ごしていたものです。
そして今回は2年ぶりにトレーニング以外の目的で訪れたことで、
体験セミナーの内容以上に、その先生のスタイルを
以前よりも客観的に味わえた気がします。
「教える」ということへ真剣で、
自分のしていることが生徒の人生にどのように影響を与えるかを自覚している。
だから妥協が無いんです。
何より、1つの授業を「教えること」と「トレーニング」との両方に使う。
これが重要だと感じます。
「伝えるところまではやるけど、その後で勉強するかどうかは本人に任せる」
というスタンスが多いように見受けられるのに対して、
その先生は授業の場で濃密なトレーニングをするんです。
もちろん自習の方法も伝えてますし、
自習によって力が伸びることも強調していたものですが、
授業中のトレーニングで効果を高めるのが上手いんです。
そしてチョットだけ厳しい。
個人的に質問に行ったりすると腰の低い人なんですが、
全体に対する指導のときはハッパをかけるようなこともやる。
この辺からも熱意が感じられるんです。
適宜ポジティブなフィードバックも入れたりしますから
ヤル気のある人にとっては実りの大きい時間になっているはずです。
授業が目的で訪れたわけではないからこそ
そういったことを改めて感じられて、
いかに恵まれた時間を過ごせていたかを思い出せました。
2年前と変わらずに熱意あふれる先生のスタイルに触れて
一人コッソリと感動していたぐらいです。
本当に、こういう講師は少ないんです。
授業を受けるはずの自分が、
講師の意図を察して
知識と技術の範囲を把握して
質問と発言の内容を調節する
なんていうことばかりです。
諦めながら授業を受けないといけません。
というよりも、「もう諦めがついてしまった」感じでしょうか。
だから余計に、久しぶりに想いのある授業に触れたのが嬉しかった。
しかも、諦めがついてしまった僕とは違い、
その先生はずっと熱意にあふれているようでした。
「英語に限らず、基礎の重要性を強調しないで
テクニックだけ教えるなんていうのはサギだ」
とハッキリ言っていたぐらい。
無料の体験セミナーで言うんですから、結構な熱さでしょう。
同業者だけでなく、「教える」立場全体に対して
強い想いがあるんだろうと思われます。
そういう人だから続くのかもしれません。
絶えず入れ替わっていく多くの生徒の英語力を上げ続ける仕事。
それを常に熱意を持ってやっている人がいる。
そのことが心を打ちます。
希望の支えになってくれます。
もう自分が教わることはないとしても、
その先生が続けているのを知っているだけで充分です。
2013年09月13日
都会の街
少し前、久しぶりに六本木近辺に行きました。
毎年の書道の展覧会が六本木で開かれるので
六本木駅に行くこと自体は、それほど久しぶりでもなかったんですが、
六本木を歩いたのが久しぶりだったんです。
六本木ヒルズを通り過ぎ、西麻布とか六本木の交差点とか
テレビでよく聞くような地名のところを通り過ぎました。
なんとも不思議な雰囲気と場所だと感じます。
妙な景色。
おそらく、見た目上、いわゆる”繁華街”のケバケバしさが無いんでしょう。
むしろ静かそうな雰囲気が強調されているようでした。
銀座とはタイプの違う高級感とでも言いましょうか。
六本木のほうが気の抜けた、ゆったりした高級感なのかもしれません。
銀座のほうが引き締まった感じを受けます。
(まぁ、店に入ったことはないので分かりませんが…)
六本木は住宅地と一体になった様子も見受けられるんです。
多分、実際に住んでいる人もいるんだと思います。
大通りから少し路地に進むと、マンションなどが沢山あって
明りの少ない、いたって普通の住宅地のような景色が見えます。
多分、そういったマンションの一部を使った
芸能人行きつけの隠れた店なんかもあるんでしょう。
ひっそりとリラックスしながら過ごすには良い場所なんだろうと思いました。
この”住宅地っぽい”、落ち着いて気を抜ける雰囲気と
繁華街特有の、他人との距離を保つ感じとが合わさって
居心地の良さを生み出しているのかもしれません。
いかにも住宅地らしいコミュニティ感は無いんです。
でも、賑やかではない感じは住宅地っぽい。
都会の中心、繁華街にいながら、
同時に住宅地に帰ってきたような雰囲気もある。
この共存が微妙なバランスなんだろうと感じます。
多くの人が、その土地で夜通し過ごすのも
分からなくはありません。
「帰る」っていう発想が出にくい落ち着きと、
沢山の店がある繁華街の機能の両方があれば
そのまま夜の間中ずっと過ごしてしまいたくもなるかもしれません。
もしかしたら、朝を迎えたときにも
新宿の早朝のような閑散とした雰囲気がない可能性も想像できました。
面白いものです。
ちなみに、僕はその日、六本木から渋谷まで歩いて帰ったんですが
渋谷に近づくと雰囲気は一変します。
歩ける距離なのに、これほどの違いが出るというのも興味深い。
人が集まる場所には、特定の好みを持った人を集める特徴があるんでしょう。
毎年の書道の展覧会が六本木で開かれるので
六本木駅に行くこと自体は、それほど久しぶりでもなかったんですが、
六本木を歩いたのが久しぶりだったんです。
六本木ヒルズを通り過ぎ、西麻布とか六本木の交差点とか
テレビでよく聞くような地名のところを通り過ぎました。
なんとも不思議な雰囲気と場所だと感じます。
妙な景色。
おそらく、見た目上、いわゆる”繁華街”のケバケバしさが無いんでしょう。
むしろ静かそうな雰囲気が強調されているようでした。
銀座とはタイプの違う高級感とでも言いましょうか。
六本木のほうが気の抜けた、ゆったりした高級感なのかもしれません。
銀座のほうが引き締まった感じを受けます。
(まぁ、店に入ったことはないので分かりませんが…)
六本木は住宅地と一体になった様子も見受けられるんです。
多分、実際に住んでいる人もいるんだと思います。
大通りから少し路地に進むと、マンションなどが沢山あって
明りの少ない、いたって普通の住宅地のような景色が見えます。
多分、そういったマンションの一部を使った
芸能人行きつけの隠れた店なんかもあるんでしょう。
ひっそりとリラックスしながら過ごすには良い場所なんだろうと思いました。
この”住宅地っぽい”、落ち着いて気を抜ける雰囲気と
繁華街特有の、他人との距離を保つ感じとが合わさって
居心地の良さを生み出しているのかもしれません。
いかにも住宅地らしいコミュニティ感は無いんです。
でも、賑やかではない感じは住宅地っぽい。
都会の中心、繁華街にいながら、
同時に住宅地に帰ってきたような雰囲気もある。
この共存が微妙なバランスなんだろうと感じます。
多くの人が、その土地で夜通し過ごすのも
分からなくはありません。
「帰る」っていう発想が出にくい落ち着きと、
沢山の店がある繁華街の機能の両方があれば
そのまま夜の間中ずっと過ごしてしまいたくもなるかもしれません。
もしかしたら、朝を迎えたときにも
新宿の早朝のような閑散とした雰囲気がない可能性も想像できました。
面白いものです。
ちなみに、僕はその日、六本木から渋谷まで歩いて帰ったんですが
渋谷に近づくと雰囲気は一変します。
歩ける距離なのに、これほどの違いが出るというのも興味深い。
人が集まる場所には、特定の好みを持った人を集める特徴があるんでしょう。
2013年09月11日
賑やかな食事
日本に暮らす大半の人にとって、「食べる」という行為の目的は
生存のためだけではなくなっているようです。
僕にとっては「味わう」という意味が強いですが、
それすらも決して一般的なことではないのでしょう。
「味わう」は、味覚と嗅覚をメインにしていますから。
もっと一般的な意味では「楽しむ」のほうが近いんだと思います。
つまり、必ずしも味覚や嗅覚をメインにして「楽しむ」人ばかりではなく、
様々な体験を組み合わせながら食事を「楽しむ」人が多い、ということです。
味覚と嗅覚だけを取り上げても、
どれぐらい嗅覚を重視しているかとか、
どの種類の味を優先的に感じ取ろうとしているか、
どのような食感を好むかなど、
様々な食べ方があるんです。
口の動かし方や口腔の広げ方、食べている最中の呼吸の仕方などと
食べ物の好みには関係性が見受けられるぐらい。
そして、味覚・嗅覚から範囲を広げると、食事の楽しみ方には
さらにバリエーションが増えるように見受けられます。
分かりやすいところは、「会話を楽しみながら」といったところでしょうか。
この場合、味覚や嗅覚への注意の配分は下がっているはずです。
ですから「味わう」度合いが小さい。
それでも食事の「楽しみ」は大きいんでしょう。
また、人によっては体感覚を重視して食事を楽しむこともあるようです。
食べ物が胃に溜まっていくときの「お腹のあたりの暖かさ」が満足を生む。
あるいは、沢山ほおばった食べ物をグイッと飲み込むときの
「のどごし」が好きだというひともいるそうです。
もちろん、お箸やフォークなどを使わずに、手で食べるような食事にも
手触りという別の感覚刺激が加わって、楽しみを増すのでしょう。
「熱さ」、「冷たさ」だって食事の楽しみの一要素だろうと思えます。
さらには、聴覚で楽しむ人だっているみたいなんです。
蕎麦やラーメンに限ったことではありません。
とにかく、食事中に発生する”音”が「楽しみ」の1つになっている。
食器の中の食べ物をお箸でかき集める音、
汁物をすする音、
咀嚼する音、飲み込む音、
飲み込んだ後に出る「プハー」という吐息の音、
持ち上げた食器をテーブルに戻すときの音…。
とにかく音の量が多い。
そして、実にリズミカルなんです。
”品”とか”マナー”とかの話ではありません。
「楽しさ」の話です。
きっと、その人にとっては
そうやって様々な音を連続して奏でながら食事をするのが
「楽しい」ことなんでしょう。
多分、子供の頃から身につけてきた
その人なりの食事の楽しみ方なんだと思います。
いわゆる「文化の違い」の評価は
何をもって「正しい」あるいは「良い」とするか
の違いとして捉えられるようです。
何を体験しているのか、
何に「楽しみ」や「喜び」を見出しているのか、
といったところは”文化”として注目する部分ではないのでしょう。
「良し悪し」で捉えるだけではなく、
「喜び」を基準に捉えるのも、1つのやり方ではないでしょうか。
生存のためだけではなくなっているようです。
僕にとっては「味わう」という意味が強いですが、
それすらも決して一般的なことではないのでしょう。
「味わう」は、味覚と嗅覚をメインにしていますから。
もっと一般的な意味では「楽しむ」のほうが近いんだと思います。
つまり、必ずしも味覚や嗅覚をメインにして「楽しむ」人ばかりではなく、
様々な体験を組み合わせながら食事を「楽しむ」人が多い、ということです。
味覚と嗅覚だけを取り上げても、
どれぐらい嗅覚を重視しているかとか、
どの種類の味を優先的に感じ取ろうとしているか、
どのような食感を好むかなど、
様々な食べ方があるんです。
口の動かし方や口腔の広げ方、食べている最中の呼吸の仕方などと
食べ物の好みには関係性が見受けられるぐらい。
そして、味覚・嗅覚から範囲を広げると、食事の楽しみ方には
さらにバリエーションが増えるように見受けられます。
分かりやすいところは、「会話を楽しみながら」といったところでしょうか。
この場合、味覚や嗅覚への注意の配分は下がっているはずです。
ですから「味わう」度合いが小さい。
それでも食事の「楽しみ」は大きいんでしょう。
また、人によっては体感覚を重視して食事を楽しむこともあるようです。
食べ物が胃に溜まっていくときの「お腹のあたりの暖かさ」が満足を生む。
あるいは、沢山ほおばった食べ物をグイッと飲み込むときの
「のどごし」が好きだというひともいるそうです。
もちろん、お箸やフォークなどを使わずに、手で食べるような食事にも
手触りという別の感覚刺激が加わって、楽しみを増すのでしょう。
「熱さ」、「冷たさ」だって食事の楽しみの一要素だろうと思えます。
さらには、聴覚で楽しむ人だっているみたいなんです。
蕎麦やラーメンに限ったことではありません。
とにかく、食事中に発生する”音”が「楽しみ」の1つになっている。
食器の中の食べ物をお箸でかき集める音、
汁物をすする音、
咀嚼する音、飲み込む音、
飲み込んだ後に出る「プハー」という吐息の音、
持ち上げた食器をテーブルに戻すときの音…。
とにかく音の量が多い。
そして、実にリズミカルなんです。
”品”とか”マナー”とかの話ではありません。
「楽しさ」の話です。
きっと、その人にとっては
そうやって様々な音を連続して奏でながら食事をするのが
「楽しい」ことなんでしょう。
多分、子供の頃から身につけてきた
その人なりの食事の楽しみ方なんだと思います。
いわゆる「文化の違い」の評価は
何をもって「正しい」あるいは「良い」とするか
の違いとして捉えられるようです。
何を体験しているのか、
何に「楽しみ」や「喜び」を見出しているのか、
といったところは”文化”として注目する部分ではないのでしょう。
「良し悪し」で捉えるだけではなく、
「喜び」を基準に捉えるのも、1つのやり方ではないでしょうか。
2013年09月09日
【セミナー】催眠講座・トランス編&カウンセリング講座・実践練習
ご案内: 9月22日(日)開催
催眠講座・トランス編
催眠のトレーニングを緻密に行います。
最も本質的な部分にフォーカスした内容です。
多くのことを突き詰めたときに共通して見えてくるシンプルな部分。
色々とやってみた後で巡り合えば、それまでを統合してくれるかもしれません。
早いうちから身につけておけば”芯”になってくれると期待されます。
実態は至って普通のもの。
ただの『トランス』です。
トランス誘導のトレーニングです。
まさに基本です。
催眠を学ぶ出発点でもありますし、それこそが最重要ポイントでもある。
”基本”は”簡単”という意味ではないんです。
”土台”であり、”中核”なんです。
喩えるなら、
フランス料理にとってのオムレツ、
中華料理にとってのチャーハン、
絵画にとっての素描、
野球にとってのキャッチボール…
といった感じでしょうか。
最も違いが反映される、という部分。
催眠におけるトランスの学習は、その大半が
知らず知らずのうちに
行われるようです。
学んだ人、催眠を受けた人のやり方に影響を受けるんです。
分かりやすいところでは、言葉遣いや声のトーンなどがありますが、
影響を受ける部分は、そんな程度ではありません。
もっと重要なところで影響に違いが出ます。
それが『トランスの質』なんです。
どういうトランスを作り出すか。
どういう形でトランスに誘導していくか。
催眠者側の生み出す”トランス誘導の質”が
被験者の体験できるトランスを左右します。
トランスは、その定義上、
非日常的な状態になる
ことが起きれば、体験できたことになります。
その意味では、「全くトランスに入れませんでした」
ということはあり得ないんです。
ですから、トランス誘導そのものは誰にでもできるわけです。
そして、いくつかのコツを心がければ、
被験者側のトランスの実感は高まっていくでしょう。
さらに、「覚えていませんでした」といった状態が
望ましいトランス誘導の結果だとも言えないんです。
それは被験者側の疲労度などにもよりますから。
そういったこととは違う『トランスの質』があるんです。
これはトランスの持つ効果に関係があります。
トランスそのものが持つメリットの1つに
『自己調節機能(統合作用、記憶の再構成)の向上』
が挙げられます。
トランスを体験すること自体に効果があるということです。
もう1つの効果は
『無条件の受容』
です。
こちらは正確には、トランスの効果ではなく、
催眠というプロセスの効果です。
催眠者がいて、被験者が誘導してもらう、という関係で生まれます。
この2つの効果をどれだけ高められるかが違いを生む。
全く同じ手法を使っても、得られる効果に差があることは多々あります。
催眠に関していうと、このトランスの質が大きく関係します。
大半の人が抱える”問題”や”悩み”には
少なからず、この2つが影響しているからです。
「時間が解決してくれる」のを待つしかないような苦しみであっても
まさに時間が経つうちに自然と自己調節機能によって回復が進んだり、
日々の体験を少しずつ統合しながら日常の問題を乗り越えていったり、
何かしらの問題解決には、人の自然な自己調節機能(統合作用)が
役に立っているといえます。
催眠によって、その自己調節機能を高めることができれば
”時間をかけて少しずつ”というプロセスを早めることができるわけです。
問題が大き過ぎて、自己調節機能が追いつかないようなときにも
トランスの効果で、それをサポートすることができます。
また人間関係を伴った問題を中心に、多くの悩みには
『受容』の不足が関係しているものです。
こちらについても、催眠のプロセスそのものが大いに役立ちます。
催眠者が生み出すことのできる『トランスの質』によって
この2つの効果が違ってくるんです。
つまり、効果の高い『トランス』を生み出すことに価値がある、ということです。
付け加えるなら、これは催眠に限った話ではありません。
日常のコミュニケーションでも同様です。
究極的には、「ただ一緒にいるだけで癒される」といった雰囲気が
この『トランスの質』をトレーニングしていくゴールなのかもしれません。
だからこその『トランスの質』の講座なんです。
こればかりは”口伝”のようなもの。
体験を通して受け継がれるものです。
実際にトランスを体験して、その感じをやってみる。
自分の過去を振り返れば、それはただ、師匠に恵まれただけのこと。
ですが、もちろん、同じ人に習ったからといって
全員がソックリ同じになるわけではありません。
元々の個性が反映されますし、影響の受けやすさによっても違います。
相性のようなものもあります。
そこで、このトレーニングでは少し工夫をします。
『トランスの質』を磨くための工夫です。
こちらの工夫の内容もシンプル。
ただ「質の違いに気づき、練習する」だけ。
その意味では、この講座のメインの内容は
・トランスの質の違いに気づく着眼点を伝える
・様々な質のトランスを体験する
・自分の持ち味にあったトランスの質を見出す
といったことになります。
あとは練習。
一度自覚できれば、あとは風呂場でも練習できます。
このトレーニングは、同じ空間内での体験学習が前提です。
トランスそのものの持つ自己調節機能は、
自分でリラクゼーションをやっていても
催眠誘導のCDを聞いていても期待できますが、
『受容』の効果には、目の前に催眠者がいるという関係性が必要です。
こればかりは、物理的な距離の影響が出ます。
空間を共有するほうが良いんです。
録音やビデオ、電話などでは、”口伝”の効果が激減します。
そう考えると、稀代の催眠療法家とされるミルトン・エリクソンでさえも
彼のトランスの質を学ぶことは、残念ながら不可能に近いんです。
いくらエリクソンのビデオを見て研究しても
言語パターンや声のトーン、非言語メッセージの使い方などまでしか
学ぶことができません。
それは、モノマネ芸人が、どれだけソックリの歌を歌ったとしても
歌手本人のライブの感動が生まれないのと似ているでしょう。
空間を共有する中で、体験的にお伝えします。
トランスの場を体験しにきてください。
◆今回の講座で得られるもの
●催眠誘導のコツ
●トランスの質の違いを捉える着眼点
●催眠誘導の効果の向上
●自分の持ち味に合ったトランスの質の発見
●クライアントに合わせた催眠誘導の方法
●コミュニケーションにおける共感力の向上
◆録音・録画に関しまして
個人的なご使用でしたら、録音や録画はご自由にどうぞ。
復習にご利用いただくのも良いかと思います。
催眠の誘導は、その場で自然と生まれてくるものですが
バリエーションを増やすためには録音を聴き直すのも効果的です。
工夫してご活用ください。
トランスは決して特殊な体験ではありません。
体をリラックスさせながら、心身のバランスが整うような体験です。
睡眠に近い回復の効果もありますし、
普段聞いていない心の声を聞く時間でもあります。
日々の忙しさやストレスによって警戒と緊張を重ねている方には
リラックスと受容の体験だけでも有意義なものではないかと思います。
何より、心の触れ合いの一形態として、なかなか興味深いものです。
ある催眠療法家は「人は人によって癒される」と語っていました。
その本質はまさに、トランスそのものです。
他者への影響力としても、自分自身のケアとしても
得られるものがあるだろうと想像しています。
ご都合が合えば、是非、お越しください。
講座の詳細は以下の通りです。
【セミナーの詳細】
≪催眠講座・トランス編≫
(併設:『ホンネを引き出すカウンセリング』講座・実践練習)
【日時】 9月22日(日)
《日中:催眠講座・トランス編》 10:00〜17:00
《夜間:カウンセリング講座:実践練習》 18:30〜21:30
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
★申し込みフォームに、ご希望の時間帯(日中/夜間)をご記入ください。
【場所】 北とぴあ 801会議室
(JR京浜東北線・王子駅北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)
【参加費】
《日中:催眠講座・トランス編》 ・・・15,000円
《夜間:カウンセリング講座:実践練習》 ・・・5,000円
★日中の講座にご参加の方は、無料で夜間の実践練習へご参加頂けます
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
催眠の師匠のところで勉強していた頃の話です。
10日か、もうチョット長いぐらいの期間の講座でした。
同期の受講生の中に1人、長いこと皮膚病を患っている女性がいました。
講座の初日に見たときには、両手に白い布の手袋をしていて
その手袋には血がにじみ出ているような状態でした。
1時間おきぐらいに軟膏を塗り込んでいたものです。
それが、講座を重ねるうちに、途中から手袋をしないで来るようになり、
最終日を迎える頃には、肌荒れも分からないほどの手になっていたんです。
途中に何があったかは分かりません。
何かの生活習慣の違いが生まれたのかもしれないし、
薬が利いてきたのかもしれません。
ですが、話を聞く限りでは、どうも考えられるのは
その講座に参加していることぐらいじゃないか、と。
先生が言うには、催眠の講座では良くあることだ、とのことでした。
その女性は、特別にそのことをテーマとして
催眠療法を受けたわけではありません。
デモンストレーションに出てきて催眠を受けていた記憶もありません。
ただ受講しながら、練習を重ねつつ、
先生の生み出すトランスの場に身を置いていただけ。
それだけで何かがあったとしか思えないような出来事でした。
長年、催眠療法を続けてきた先生からすると
不思議でもなんでもないことだったようですが、
当時の自分には、なんとも興味深い場面でした。
今振り返れば、そこにトランスの質が関わっていたと思えます。
そこにいること自体が効果を生んでいたのでしょう。
もちろん、10回以上の体験、数か月の時間をかけたものです。
一日の講座で期待できるものではありません。
ただ、その質の違いは体験していただけるのではないかと考えています。
そして、おそらくそれは染み込みます。
トランスを介して人の心と触れあうのは、なかなか良いものだと思います。
どうぞ味わってみて下さい。
オススメします。
催眠講座・トランス編
催眠のトレーニングを緻密に行います。
最も本質的な部分にフォーカスした内容です。
多くのことを突き詰めたときに共通して見えてくるシンプルな部分。
色々とやってみた後で巡り合えば、それまでを統合してくれるかもしれません。
早いうちから身につけておけば”芯”になってくれると期待されます。
実態は至って普通のもの。
ただの『トランス』です。
トランス誘導のトレーニングです。
まさに基本です。
催眠を学ぶ出発点でもありますし、それこそが最重要ポイントでもある。
”基本”は”簡単”という意味ではないんです。
”土台”であり、”中核”なんです。
喩えるなら、
フランス料理にとってのオムレツ、
中華料理にとってのチャーハン、
絵画にとっての素描、
野球にとってのキャッチボール…
といった感じでしょうか。
最も違いが反映される、という部分。
催眠におけるトランスの学習は、その大半が
知らず知らずのうちに
行われるようです。
学んだ人、催眠を受けた人のやり方に影響を受けるんです。
分かりやすいところでは、言葉遣いや声のトーンなどがありますが、
影響を受ける部分は、そんな程度ではありません。
もっと重要なところで影響に違いが出ます。
それが『トランスの質』なんです。
どういうトランスを作り出すか。
どういう形でトランスに誘導していくか。
催眠者側の生み出す”トランス誘導の質”が
被験者の体験できるトランスを左右します。
トランスは、その定義上、
非日常的な状態になる
ことが起きれば、体験できたことになります。
その意味では、「全くトランスに入れませんでした」
ということはあり得ないんです。
ですから、トランス誘導そのものは誰にでもできるわけです。
そして、いくつかのコツを心がければ、
被験者側のトランスの実感は高まっていくでしょう。
さらに、「覚えていませんでした」といった状態が
望ましいトランス誘導の結果だとも言えないんです。
それは被験者側の疲労度などにもよりますから。
そういったこととは違う『トランスの質』があるんです。
これはトランスの持つ効果に関係があります。
トランスそのものが持つメリットの1つに
『自己調節機能(統合作用、記憶の再構成)の向上』
が挙げられます。
トランスを体験すること自体に効果があるということです。
もう1つの効果は
『無条件の受容』
です。
こちらは正確には、トランスの効果ではなく、
催眠というプロセスの効果です。
催眠者がいて、被験者が誘導してもらう、という関係で生まれます。
この2つの効果をどれだけ高められるかが違いを生む。
全く同じ手法を使っても、得られる効果に差があることは多々あります。
催眠に関していうと、このトランスの質が大きく関係します。
大半の人が抱える”問題”や”悩み”には
少なからず、この2つが影響しているからです。
「時間が解決してくれる」のを待つしかないような苦しみであっても
まさに時間が経つうちに自然と自己調節機能によって回復が進んだり、
日々の体験を少しずつ統合しながら日常の問題を乗り越えていったり、
何かしらの問題解決には、人の自然な自己調節機能(統合作用)が
役に立っているといえます。
催眠によって、その自己調節機能を高めることができれば
”時間をかけて少しずつ”というプロセスを早めることができるわけです。
問題が大き過ぎて、自己調節機能が追いつかないようなときにも
トランスの効果で、それをサポートすることができます。
また人間関係を伴った問題を中心に、多くの悩みには
『受容』の不足が関係しているものです。
こちらについても、催眠のプロセスそのものが大いに役立ちます。
催眠者が生み出すことのできる『トランスの質』によって
この2つの効果が違ってくるんです。
つまり、効果の高い『トランス』を生み出すことに価値がある、ということです。
付け加えるなら、これは催眠に限った話ではありません。
日常のコミュニケーションでも同様です。
究極的には、「ただ一緒にいるだけで癒される」といった雰囲気が
この『トランスの質』をトレーニングしていくゴールなのかもしれません。
だからこその『トランスの質』の講座なんです。
こればかりは”口伝”のようなもの。
体験を通して受け継がれるものです。
実際にトランスを体験して、その感じをやってみる。
自分の過去を振り返れば、それはただ、師匠に恵まれただけのこと。
ですが、もちろん、同じ人に習ったからといって
全員がソックリ同じになるわけではありません。
元々の個性が反映されますし、影響の受けやすさによっても違います。
相性のようなものもあります。
そこで、このトレーニングでは少し工夫をします。
『トランスの質』を磨くための工夫です。
こちらの工夫の内容もシンプル。
ただ「質の違いに気づき、練習する」だけ。
その意味では、この講座のメインの内容は
・トランスの質の違いに気づく着眼点を伝える
・様々な質のトランスを体験する
・自分の持ち味にあったトランスの質を見出す
といったことになります。
あとは練習。
一度自覚できれば、あとは風呂場でも練習できます。
このトレーニングは、同じ空間内での体験学習が前提です。
トランスそのものの持つ自己調節機能は、
自分でリラクゼーションをやっていても
催眠誘導のCDを聞いていても期待できますが、
『受容』の効果には、目の前に催眠者がいるという関係性が必要です。
こればかりは、物理的な距離の影響が出ます。
空間を共有するほうが良いんです。
録音やビデオ、電話などでは、”口伝”の効果が激減します。
そう考えると、稀代の催眠療法家とされるミルトン・エリクソンでさえも
彼のトランスの質を学ぶことは、残念ながら不可能に近いんです。
いくらエリクソンのビデオを見て研究しても
言語パターンや声のトーン、非言語メッセージの使い方などまでしか
学ぶことができません。
それは、モノマネ芸人が、どれだけソックリの歌を歌ったとしても
歌手本人のライブの感動が生まれないのと似ているでしょう。
空間を共有する中で、体験的にお伝えします。
トランスの場を体験しにきてください。
◆今回の講座で得られるもの
●催眠誘導のコツ
●トランスの質の違いを捉える着眼点
●催眠誘導の効果の向上
●自分の持ち味に合ったトランスの質の発見
●クライアントに合わせた催眠誘導の方法
●コミュニケーションにおける共感力の向上
◆録音・録画に関しまして
個人的なご使用でしたら、録音や録画はご自由にどうぞ。
復習にご利用いただくのも良いかと思います。
催眠の誘導は、その場で自然と生まれてくるものですが
バリエーションを増やすためには録音を聴き直すのも効果的です。
工夫してご活用ください。
トランスは決して特殊な体験ではありません。
体をリラックスさせながら、心身のバランスが整うような体験です。
睡眠に近い回復の効果もありますし、
普段聞いていない心の声を聞く時間でもあります。
日々の忙しさやストレスによって警戒と緊張を重ねている方には
リラックスと受容の体験だけでも有意義なものではないかと思います。
何より、心の触れ合いの一形態として、なかなか興味深いものです。
ある催眠療法家は「人は人によって癒される」と語っていました。
その本質はまさに、トランスそのものです。
他者への影響力としても、自分自身のケアとしても
得られるものがあるだろうと想像しています。
ご都合が合えば、是非、お越しください。
講座の詳細は以下の通りです。
【セミナーの詳細】
≪催眠講座・トランス編≫
(併設:『ホンネを引き出すカウンセリング』講座・実践練習)
【日時】 9月22日(日)
《日中:催眠講座・トランス編》 10:00〜17:00
《夜間:カウンセリング講座:実践練習》 18:30〜21:30
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
★申し込みフォームに、ご希望の時間帯(日中/夜間)をご記入ください。
【場所】 北とぴあ 801会議室
(JR京浜東北線・王子駅北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)
【参加費】
《日中:催眠講座・トランス編》 ・・・15,000円
《夜間:カウンセリング講座:実践練習》 ・・・5,000円
★日中の講座にご参加の方は、無料で夜間の実践練習へご参加頂けます
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
催眠の師匠のところで勉強していた頃の話です。
10日か、もうチョット長いぐらいの期間の講座でした。
同期の受講生の中に1人、長いこと皮膚病を患っている女性がいました。
講座の初日に見たときには、両手に白い布の手袋をしていて
その手袋には血がにじみ出ているような状態でした。
1時間おきぐらいに軟膏を塗り込んでいたものです。
それが、講座を重ねるうちに、途中から手袋をしないで来るようになり、
最終日を迎える頃には、肌荒れも分からないほどの手になっていたんです。
途中に何があったかは分かりません。
何かの生活習慣の違いが生まれたのかもしれないし、
薬が利いてきたのかもしれません。
ですが、話を聞く限りでは、どうも考えられるのは
その講座に参加していることぐらいじゃないか、と。
先生が言うには、催眠の講座では良くあることだ、とのことでした。
その女性は、特別にそのことをテーマとして
催眠療法を受けたわけではありません。
デモンストレーションに出てきて催眠を受けていた記憶もありません。
ただ受講しながら、練習を重ねつつ、
先生の生み出すトランスの場に身を置いていただけ。
それだけで何かがあったとしか思えないような出来事でした。
長年、催眠療法を続けてきた先生からすると
不思議でもなんでもないことだったようですが、
当時の自分には、なんとも興味深い場面でした。
今振り返れば、そこにトランスの質が関わっていたと思えます。
そこにいること自体が効果を生んでいたのでしょう。
もちろん、10回以上の体験、数か月の時間をかけたものです。
一日の講座で期待できるものではありません。
ただ、その質の違いは体験していただけるのではないかと考えています。
そして、おそらくそれは染み込みます。
トランスを介して人の心と触れあうのは、なかなか良いものだと思います。
どうぞ味わってみて下さい。
オススメします。