2013年10月
2013年10月30日
音の謎
前にも書いたかどうか、定かではないんですが
やっぱり気になるので…。
音の聞こえ方って、昼間と夜で違うものなんでしょうか?
今の住まいは駅から徒歩15分ぐらい。
線路沿いを歩いてくると相当な遠回りになりますから
おそらく、線路との直線距離でも徒歩10分以上はあるでしょう。
最寄りの大通りは徒歩5分程度。
こちらは両方向で2車線ずつです。
渋滞している様子は見たことがありませんが、
夜でもそこそこ車は通っています。
深夜でも信号無視はできないような交通量です。
住まいの近くは住宅街。
とりたてて賑やかなわけでもありません。
目の前の道で人が立ち話をしていたら聞こえてきますが、
その頻度も限られたものです。
うるさい廃品回収業者の車も滅多に来ないんです。
(これは引っ越してきて大正解だった部分)
騒音として感じられるのは
「隣の住人の定期的な歌声」と
「裏に住む幼児のウソ泣き」
ぐらいなものです。
とはいえ、両方とも時間は限られていますから
持続的なものではありません。
そんな音の環境なんです。
そこで、気になることです。
夜10時ごろを過ぎると、
玄関先でも電車の音が聞こえる。
もちろん、終電を過ぎたら聞こえません。
昼間も聞こえないんです。
電車の通る数そのものは同じようなものでしょう。
深夜と早朝は少なく、通勤時間帯は多いけれど、
夜10時ごろなら日中と同じ程度の電車の本数になっています。
なのに、昼間に聞こえない電車の音が夜になると聞こえるんです。
ちなみに僕の実家は最寄駅から徒歩5分ぐらいですが、
時間帯にかかわらず家の前で電車の音が聞こえたことは一度もありません。
何が関係しているんでしょう?
全体的な騒音のバックグラウンドが減って
相対的に電車の音が大きく聞こえるという感じではないんです。
明らかに、聞こえる電車の音が大きくなっているように思えます。
主観的なものかもしれませんが、ハッキリと聞こえます。
近くの大通りの車の音も聞こえるようになるんです。
車のタイヤが路面と触れるあの音です。
こちらに関しても、昼間には聞こえないのに夜にだけ聞こえる。
車の交通量でいったら昼間のほうが多いわけですから
昼にだって聞こえたって良さそうなものなんですが…。
それに、もし昼間は、車の騒音で電車の音がかき消されているとしたら
車の音のほうは聞こえたって良さそうなものです。
しかし、昼間はどちらも聞こえない。
電車と車以外に大きな音はありません。
人の話し声が邪魔をするほど、歩行者の話し声もないんです。
歩行者そのものの数だって昼間と夜で何倍も違うわけではないでしょうし…。
夜になると空気中のチリが地面に落ちてきて
音波を散乱させるものが減るから、遠くまで電車の音が届くとか?
うーん…。
一体、何がこの音の違いを生み出しているのでしょうか?
やっぱり気になるので…。
音の聞こえ方って、昼間と夜で違うものなんでしょうか?
今の住まいは駅から徒歩15分ぐらい。
線路沿いを歩いてくると相当な遠回りになりますから
おそらく、線路との直線距離でも徒歩10分以上はあるでしょう。
最寄りの大通りは徒歩5分程度。
こちらは両方向で2車線ずつです。
渋滞している様子は見たことがありませんが、
夜でもそこそこ車は通っています。
深夜でも信号無視はできないような交通量です。
住まいの近くは住宅街。
とりたてて賑やかなわけでもありません。
目の前の道で人が立ち話をしていたら聞こえてきますが、
その頻度も限られたものです。
うるさい廃品回収業者の車も滅多に来ないんです。
(これは引っ越してきて大正解だった部分)
騒音として感じられるのは
「隣の住人の定期的な歌声」と
「裏に住む幼児のウソ泣き」
ぐらいなものです。
とはいえ、両方とも時間は限られていますから
持続的なものではありません。
そんな音の環境なんです。
そこで、気になることです。
夜10時ごろを過ぎると、
玄関先でも電車の音が聞こえる。
もちろん、終電を過ぎたら聞こえません。
昼間も聞こえないんです。
電車の通る数そのものは同じようなものでしょう。
深夜と早朝は少なく、通勤時間帯は多いけれど、
夜10時ごろなら日中と同じ程度の電車の本数になっています。
なのに、昼間に聞こえない電車の音が夜になると聞こえるんです。
ちなみに僕の実家は最寄駅から徒歩5分ぐらいですが、
時間帯にかかわらず家の前で電車の音が聞こえたことは一度もありません。
何が関係しているんでしょう?
全体的な騒音のバックグラウンドが減って
相対的に電車の音が大きく聞こえるという感じではないんです。
明らかに、聞こえる電車の音が大きくなっているように思えます。
主観的なものかもしれませんが、ハッキリと聞こえます。
近くの大通りの車の音も聞こえるようになるんです。
車のタイヤが路面と触れるあの音です。
こちらに関しても、昼間には聞こえないのに夜にだけ聞こえる。
車の交通量でいったら昼間のほうが多いわけですから
昼にだって聞こえたって良さそうなものなんですが…。
それに、もし昼間は、車の騒音で電車の音がかき消されているとしたら
車の音のほうは聞こえたって良さそうなものです。
しかし、昼間はどちらも聞こえない。
電車と車以外に大きな音はありません。
人の話し声が邪魔をするほど、歩行者の話し声もないんです。
歩行者そのものの数だって昼間と夜で何倍も違うわけではないでしょうし…。
夜になると空気中のチリが地面に落ちてきて
音波を散乱させるものが減るから、遠くまで電車の音が届くとか?
うーん…。
一体、何がこの音の違いを生み出しているのでしょうか?
2013年10月28日
クリームシチュー味
新発売の「ガリガリ君 クレアおばさんのクリームシチュー味」。
食べてみました。
たまたま帰りがけに寄ったスーパーで
「本日発売です!」と言っていたので
面白半分で買ってみた次第です。
ベースは普通にミルク味のアイスでした。
少し濃いめの印象。
アミノ酸系の調味料が多めなのかもしれませんが、
まぁ、ミルク味のアイスにはある範囲だと思います。
特筆すべきはジャガイモ。
このジャガイモのポタージュを思い出させるこの風味が
ミルク味を途端にクリームシチューっぽく変えてくれます。
ときどき含まれる固形の乾燥ジャガイモは
それほど重要じゃない気がします。
コーンポタージュ味のときの乾燥コーンの粒と似たようなもの。
やっぱり乾燥しているのが調和しないところじゃないでしょうか。
とはいえ、ジャガイモ風味がこんなにもシチューを思い出させるとは…。
アンカーの観点からも新鮮な体験です。
どれぐらいシチューに近いかといえば
あくまで「アイスのクリームシチュー味」であって
ベースはミルクアイスだといえると思います。
ミルクアイスにジャガイモのポタージュスープの粉末を混ぜて食べたら
似たような雰囲気になるんじゃないかと想像できるぐらい。
コーンポタージュ味のときよりも、アイス寄りに仕上がっていると感じます。
こういう努力は面白いですね。
何度も食べるとは思いませんが、気になる存在でした。
赤城乳業のホームページでは「29日発売」となっていますが
僕はスーパーで27日に買いました。
コンビニだと正規日程として29日ぐらいからなんでしょうか?
まさか発売日前に買うことになるとは。
スマートフォンに換えたのも、Facebookを始めたのも遅れていたんですが…。
食べてみました。
たまたま帰りがけに寄ったスーパーで
「本日発売です!」と言っていたので
面白半分で買ってみた次第です。
ベースは普通にミルク味のアイスでした。
少し濃いめの印象。
アミノ酸系の調味料が多めなのかもしれませんが、
まぁ、ミルク味のアイスにはある範囲だと思います。
特筆すべきはジャガイモ。
このジャガイモのポタージュを思い出させるこの風味が
ミルク味を途端にクリームシチューっぽく変えてくれます。
ときどき含まれる固形の乾燥ジャガイモは
それほど重要じゃない気がします。
コーンポタージュ味のときの乾燥コーンの粒と似たようなもの。
やっぱり乾燥しているのが調和しないところじゃないでしょうか。
とはいえ、ジャガイモ風味がこんなにもシチューを思い出させるとは…。
アンカーの観点からも新鮮な体験です。
どれぐらいシチューに近いかといえば
あくまで「アイスのクリームシチュー味」であって
ベースはミルクアイスだといえると思います。
ミルクアイスにジャガイモのポタージュスープの粉末を混ぜて食べたら
似たような雰囲気になるんじゃないかと想像できるぐらい。
コーンポタージュ味のときよりも、アイス寄りに仕上がっていると感じます。
こういう努力は面白いですね。
何度も食べるとは思いませんが、気になる存在でした。
赤城乳業のホームページでは「29日発売」となっていますが
僕はスーパーで27日に買いました。
コンビニだと正規日程として29日ぐらいからなんでしょうか?
まさか発売日前に買うことになるとは。
スマートフォンに換えたのも、Facebookを始めたのも遅れていたんですが…。
2013年10月26日
色々なバランス
バランスを取ることの大切さは色々と語られるところです。
とはいえ、バランスの取り方にも種類があると考えられます。
1つは、おそらく最も一般的に捉えられやすい形。
「真ん中を目指す」というもの。
「どちらかに片寄り過ぎることなく
丁度良いところを目指しましょう」
といった観点です。
中庸、中道とでも言いましょうか。
あっちに行き過ぎてもダメ、こっちに行き過ぎてもダメ、と。
例えば、
あんまり人に気を遣っていたら疲れてしまうし、
かといって自分勝手にやり過ぎても関係性が保てないから、
”バランス良く”しましょう
などです。
ところが、個性や強みといったことを考慮すると、
片寄ったところは役に立つ可能性も多いにあるわけです。
もちろん過剰だと裏目に出ることはありますが
程度をコントロールできれば、その片寄りこそ長所として評価されます。
上の例でいえば、「人に気を遣える」という長所は
気づかない人にとっては簡単に身につけられるものではないでしょう。
気を遣い過ぎないようにしたら、その長所が失われる可能性もある。
「あの人、最近、どうしたのかしら?」なんて噂されるかもしれません。
そこで求められるのは、”場面に応じて”ということだと思われます。
必要なときには最大限の気遣いを発揮して、
必要じゃないと判断した場合にはキッパリと自分を優先する。
僕自身もセミナーの仕事が立て込んでいた時期には
どうやって、このバランスを取るかが重要でした。
パフォーマンスとしては受講生に対して気を配る量を下げたくない。
かといって、全部に気を遣っていたら耐えられない。
せめてもの対策として、休日はスイッチを切ったかのようにボーっとしたり、
極力、飲み会には参加しないようにしたりしていたものです。
言い換えると、”両方ができるようになる”というバランスの取り方です。
真ん中を目指すのではなく、強みと反対側の性質も身につける。
両極を自在に行ったり来たりできるようにするとバランスが取れるんだ、と。
そして、そこからさらに進めると
”両極を同時に発揮する”
というバランスの取り方もできそうです。
一見、矛盾しているように見えるかもしれませんが、
「それは一度に1つのことしか意識できない」
といったような思い込みのせいかもしれません。
人間は基本的に、無数のことを同時並行でやっているものです。
ある部分は片側に、別の部分は反対側に使う感じにできなくはありません。
例えば、気を遣う話でいうと
気を遣っているときに実際の行動をしている時間は限られます。
常に何かの動作で気遣いを示しているわけではないでしょう。
大部分の時間は、注意を配っているものだと思います。
「何かないか?」、「何か必要としていないか?」と目を向けて
実際の気配りの作業を行う機会を伺っている。
作業をする時間は注意が集中して、意識が高まるとしても、
周囲に気を配って様子を見ている時点では、
全力である必要はないといえます。
必要なサインを捉えて、それを意識に上げればいい。
注意を配るために全身をピリピリと緊張させている必要はないんです。
座り方だとか体の使い方だとか、話の聞き方とか、そういった部分では
自分勝手に、好きなようにリラックスして過ごすこともできる可能性があります。
他人からすると全く好き勝手にやっているように見えるのに、
何か必要なことが起きたときには気配りの行動を取ってくれる。
そんな具合に、
自分勝手と気遣いを両立させることも可能じゃないか
という話です。
もちろん、その場合の自分勝手の度合いは
完全に一人で自分の好きなように過ごしているときほどではありません。
全身で自分勝手になっているわけではありませんから。
しかし、気遣いの度合いを下げることなく、
同時に自分勝手さを上げることはできると考えられます。
真ん中を目指すバランスの取り方では、長所の程度が下がってしまう。
状況によって使い分けるバランスの取り方だと
長所は維持されても、場面が限定されてしまいます。
長所の対極にある特性を完全に発揮する場面を
リフレッシュのために用意するのは大切です。
それはそれで心がけると良いと思います。
その上で、両極を同時に”バランス良く”発揮する場面も可能でしょう。
信じながら疑う。
真剣でありながら適当にやる。
ゆっくりとスピーディーにやる。
…そんなバランスの取り方を工夫してみるのも面白いんじゃないでしょうか。
とはいえ、バランスの取り方にも種類があると考えられます。
1つは、おそらく最も一般的に捉えられやすい形。
「真ん中を目指す」というもの。
「どちらかに片寄り過ぎることなく
丁度良いところを目指しましょう」
といった観点です。
中庸、中道とでも言いましょうか。
あっちに行き過ぎてもダメ、こっちに行き過ぎてもダメ、と。
例えば、
あんまり人に気を遣っていたら疲れてしまうし、
かといって自分勝手にやり過ぎても関係性が保てないから、
”バランス良く”しましょう
などです。
ところが、個性や強みといったことを考慮すると、
片寄ったところは役に立つ可能性も多いにあるわけです。
もちろん過剰だと裏目に出ることはありますが
程度をコントロールできれば、その片寄りこそ長所として評価されます。
上の例でいえば、「人に気を遣える」という長所は
気づかない人にとっては簡単に身につけられるものではないでしょう。
気を遣い過ぎないようにしたら、その長所が失われる可能性もある。
「あの人、最近、どうしたのかしら?」なんて噂されるかもしれません。
そこで求められるのは、”場面に応じて”ということだと思われます。
必要なときには最大限の気遣いを発揮して、
必要じゃないと判断した場合にはキッパリと自分を優先する。
僕自身もセミナーの仕事が立て込んでいた時期には
どうやって、このバランスを取るかが重要でした。
パフォーマンスとしては受講生に対して気を配る量を下げたくない。
かといって、全部に気を遣っていたら耐えられない。
せめてもの対策として、休日はスイッチを切ったかのようにボーっとしたり、
極力、飲み会には参加しないようにしたりしていたものです。
言い換えると、”両方ができるようになる”というバランスの取り方です。
真ん中を目指すのではなく、強みと反対側の性質も身につける。
両極を自在に行ったり来たりできるようにするとバランスが取れるんだ、と。
そして、そこからさらに進めると
”両極を同時に発揮する”
というバランスの取り方もできそうです。
一見、矛盾しているように見えるかもしれませんが、
「それは一度に1つのことしか意識できない」
といったような思い込みのせいかもしれません。
人間は基本的に、無数のことを同時並行でやっているものです。
ある部分は片側に、別の部分は反対側に使う感じにできなくはありません。
例えば、気を遣う話でいうと
気を遣っているときに実際の行動をしている時間は限られます。
常に何かの動作で気遣いを示しているわけではないでしょう。
大部分の時間は、注意を配っているものだと思います。
「何かないか?」、「何か必要としていないか?」と目を向けて
実際の気配りの作業を行う機会を伺っている。
作業をする時間は注意が集中して、意識が高まるとしても、
周囲に気を配って様子を見ている時点では、
全力である必要はないといえます。
必要なサインを捉えて、それを意識に上げればいい。
注意を配るために全身をピリピリと緊張させている必要はないんです。
座り方だとか体の使い方だとか、話の聞き方とか、そういった部分では
自分勝手に、好きなようにリラックスして過ごすこともできる可能性があります。
他人からすると全く好き勝手にやっているように見えるのに、
何か必要なことが起きたときには気配りの行動を取ってくれる。
そんな具合に、
自分勝手と気遣いを両立させることも可能じゃないか
という話です。
もちろん、その場合の自分勝手の度合いは
完全に一人で自分の好きなように過ごしているときほどではありません。
全身で自分勝手になっているわけではありませんから。
しかし、気遣いの度合いを下げることなく、
同時に自分勝手さを上げることはできると考えられます。
真ん中を目指すバランスの取り方では、長所の程度が下がってしまう。
状況によって使い分けるバランスの取り方だと
長所は維持されても、場面が限定されてしまいます。
長所の対極にある特性を完全に発揮する場面を
リフレッシュのために用意するのは大切です。
それはそれで心がけると良いと思います。
その上で、両極を同時に”バランス良く”発揮する場面も可能でしょう。
信じながら疑う。
真剣でありながら適当にやる。
ゆっくりとスピーディーにやる。
…そんなバランスの取り方を工夫してみるのも面白いんじゃないでしょうか。
2013年10月24日
【セミナー】NLP実践講座〜セルフ・イメージ編〜
ご案内: 11月10日(日)開催
NLP実践講座〜セルフ・イメージ編〜
珍しくNLPっぽい内容の講座を開催します。
特定の手法を扱うわけでも、資格取得の内容でもありません。
NLPの考え方と技法を使って、1つの目的に応用します。
今回は特に、『セルフ・イメージ』が対象となります。
『セルフ・イメージ』というのは曖昧な概念ですが、
ここでは「自分って、こういう人」という全体像だと捉えてください。
それを一気にまとめて調整する方法を扱います。
ある意味では
「自分に関するビリーフを変えられるようになる」
とも言えますが、
もっと全体的な扱い方をすることになります。
ポイントになるのは、
セルフ・イメージの根拠を整理する
ということ。
その整理の仕方から扱っていきますから
かなりの柔軟性を発揮できるようになるはずです。
コミュニケーション関係の内容では紹介しない
NLPのテクニック面がテーマになります。
コミュニケーション・スキルは、直接的には磨かれません。
セラピーに応用しようと思えば不可能ではないですが、
クライアントに使うための手法となるほど簡略化されてもいません。
一日かけて少しずつ、自分のセルフ・イメージを探っていく。
そういう趣旨の講座です。
NLPの用語として沢山把握している必要もありません。
イメージワークが中心ですから、
ある程度は慣れているほうがやりやすいとは思いますが。
『心が思い通りになる技術―NLP:神経言語プログラミング(春秋社)』
は、少なくとも読んでおいていただきたいところです。
内面を探ったときのサブモダリティに注目します。
「イメージが全く浮かばないんです」という方は
ご参加いただいても苦労されるかもしれませんので、ご注意ください。
短期的な効果が出るタイプではないかと思いますが、
じっくりと持続的に効果が発揮されることは期待されます。
過度な期待を抱くことなく、
「ふーん、NLPでは、こんなこともやれるんだ」
という体験を目標としてお越しいただければ幸いです。
どれだけの効果が出るかは、むしろ、
今回の内容を「繰り返し使っていくかどうか」でしょう。
セルフ・イメージの整理の仕方と調整方法を扱いますから、
それに基づいて、「どのぐらい整理したいか」は個人差のあるところです。
整理そのものには、作業として時間がかかるわけです。
喩えていうなら、
整理術のセミナーに出て
実際に自分のカバンの中を整理しながら方法を体験してみる。
あとは家に帰って、部屋の中をどれだけ整理するかにかかっている。
…そんな感じです。
特定の悩みごとを解決するためのテクニックではなくて、
自分というものを深く知り、ブラッシュアップするための方法だといえます。
もしかすると大きな発見をする人も出てくるかもしれませんが、
それは偶然のものとして、あまり期待せずにお越しください。
あくまで「整理法」ですから。
こちらでフォローしきれる人数の都合で
ご参加について人数制限を設けさせていただきます。
ご了承ください。
あまり難しくもないと思いますし、すごく高度なわけでもありません。
ご興味がありましたら、お気軽にどうぞ。
◆今回の講座で期待されること
●自分について深く知ることができる
●セルフ・イメージの整理のされ方をNLP的に理解できる
●セルフ・イメージを変える方法を把握できる
●ビリーフ・チェンジの効果を高めるコツが分かる
●自分の個性を伸ばす方法が探れる
●NLPの応用可能性に触れられる
◆録音・録画に関しまして
ICレコーダーやビデオを用いた記録は
復習など、個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
【セミナーの詳細】
NLP実践講座〜セルフ・イメージ編〜≫
【日時】 11月10日(日)
9:30〜16:00
※開始時間にご注意ください
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 五反田文化センター 第六会議室
(JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
(東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
「NLPはモデルであって理論ではない」
…そんな考え方があるそうです。
しかし、そのモデルを構成するものを突き詰めていけば
全ての(大部分の)モデルに共通する『仕組み』は見えてきます。
つまり、その『仕組み』を把握していれば
新たなモデル(=方法論)を生み出すことができるんです。
NLPの手法の多くを開発したスティーブ・アンドレアスは
少なくとも、そうした『仕組み』を体験的に知っていると思われます。
彼の開発したものには全て共通する仕組みがある。
一方で、「全てのモデルに共通する…」と言い切れないのは
NLPを広めてきた人たちの中には、
『仕組み』に注目しなかった人もいるからです。
NLPのトレーナーになるためには、NLPの基本スキルを一通り習得します。
まぁ、そこまでは共通する『仕組み』があるといえるでしょう。
そしてトレーナーになった後、
NLPの応用テクニックを開発した人たちも沢山いたようです。
その中には『仕組み』から外れているものも一部あるんです。
「NLPのトレーナーが開発した方法だから
これもNLPに含まれます」
といった風潮があったのだろうと想像されます。
もちろん、「役に立つんだから良いじゃないか」
という考え方もあるでしょう。
ただ、それは「どこまでが寿司か?」という話と似ています。
「美味しければ良いじゃないか?」
ご飯と具材を一緒にして、一口サイズに固めたら”お寿司”?
酢飯を一口大に握ったものに水産物の具材を乗せたら”お寿司”?
範囲を限定するのが難しいわけです。
最初に定義ができていないからです。
とはいえ、ある程度の共通点は見いだせるでしょう。
さすがに、パンの上にハムが乗っていたら、
いくは一口大でも”お寿司”とは言い難いと思うんです。
にもかかわらず、お寿司屋さんで「パンとハムのお寿司です」と出されたら
多くの人は「こういうのもアリなのか」と納得してしまうかもしれません。
そのあたりの兼ね合いです。
NLPの話に戻すと、
基本スキルに共通する『仕組み』を忠実に原点としながら
新しい方法を開発していった人もいれば、
そこから大きく離れて有効性だけを追求した人もいる、
…ということになります。
NLPも開発初期の段階で定義が曖昧だったため
こうした事態になったのは仕方のないことなんでしょう。
そういう分野なんです。
今回紹介する『セルフ・イメージ』の扱い方は、その意味でいうと
『仕組み』に忠実な方法です。
スティーブ・アンドレアスの方法も紹介しますし、
それ以外の要素も付け加える予定です。
あまり日本では有名な方法ではありませんが、
「NLPを1つの観点に応用する」というスタンスを知るには
役に立つテーマだろうと感じています。
”原点に忠実なNLP”といったフレーズが響く方、
「もっと他にNLPの手法を知りたい!」と探索している方、
『セルフ・イメージ』という対象に興味のある方、
「自分って一体、何なんだろう?」と考えている方…。
色々な観点で楽しめるテーマだと思いますので、
ご興味と照らし合わせてみてください。
(チョットだけ捻った工夫も入れるつもりです)
お会いできるのを楽しみにしています。
NLP実践講座〜セルフ・イメージ編〜
珍しくNLPっぽい内容の講座を開催します。
特定の手法を扱うわけでも、資格取得の内容でもありません。
NLPの考え方と技法を使って、1つの目的に応用します。
今回は特に、『セルフ・イメージ』が対象となります。
『セルフ・イメージ』というのは曖昧な概念ですが、
ここでは「自分って、こういう人」という全体像だと捉えてください。
それを一気にまとめて調整する方法を扱います。
ある意味では
「自分に関するビリーフを変えられるようになる」
とも言えますが、
もっと全体的な扱い方をすることになります。
ポイントになるのは、
セルフ・イメージの根拠を整理する
ということ。
その整理の仕方から扱っていきますから
かなりの柔軟性を発揮できるようになるはずです。
コミュニケーション関係の内容では紹介しない
NLPのテクニック面がテーマになります。
コミュニケーション・スキルは、直接的には磨かれません。
セラピーに応用しようと思えば不可能ではないですが、
クライアントに使うための手法となるほど簡略化されてもいません。
一日かけて少しずつ、自分のセルフ・イメージを探っていく。
そういう趣旨の講座です。
NLPの用語として沢山把握している必要もありません。
イメージワークが中心ですから、
ある程度は慣れているほうがやりやすいとは思いますが。
『心が思い通りになる技術―NLP:神経言語プログラミング(春秋社)』
は、少なくとも読んでおいていただきたいところです。
内面を探ったときのサブモダリティに注目します。
「イメージが全く浮かばないんです」という方は
ご参加いただいても苦労されるかもしれませんので、ご注意ください。
短期的な効果が出るタイプではないかと思いますが、
じっくりと持続的に効果が発揮されることは期待されます。
過度な期待を抱くことなく、
「ふーん、NLPでは、こんなこともやれるんだ」
という体験を目標としてお越しいただければ幸いです。
どれだけの効果が出るかは、むしろ、
今回の内容を「繰り返し使っていくかどうか」でしょう。
セルフ・イメージの整理の仕方と調整方法を扱いますから、
それに基づいて、「どのぐらい整理したいか」は個人差のあるところです。
整理そのものには、作業として時間がかかるわけです。
喩えていうなら、
整理術のセミナーに出て
実際に自分のカバンの中を整理しながら方法を体験してみる。
あとは家に帰って、部屋の中をどれだけ整理するかにかかっている。
…そんな感じです。
特定の悩みごとを解決するためのテクニックではなくて、
自分というものを深く知り、ブラッシュアップするための方法だといえます。
もしかすると大きな発見をする人も出てくるかもしれませんが、
それは偶然のものとして、あまり期待せずにお越しください。
あくまで「整理法」ですから。
こちらでフォローしきれる人数の都合で
ご参加について人数制限を設けさせていただきます。
ご了承ください。
あまり難しくもないと思いますし、すごく高度なわけでもありません。
ご興味がありましたら、お気軽にどうぞ。
◆今回の講座で期待されること
●自分について深く知ることができる
●セルフ・イメージの整理のされ方をNLP的に理解できる
●セルフ・イメージを変える方法を把握できる
●ビリーフ・チェンジの効果を高めるコツが分かる
●自分の個性を伸ばす方法が探れる
●NLPの応用可能性に触れられる
◆録音・録画に関しまして
ICレコーダーやビデオを用いた記録は
復習など、個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
【セミナーの詳細】
NLP実践講座〜セルフ・イメージ編〜≫
【日時】 11月10日(日)
9:30〜16:00
※開始時間にご注意ください
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 五反田文化センター 第六会議室
(JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
(東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
「NLPはモデルであって理論ではない」
…そんな考え方があるそうです。
しかし、そのモデルを構成するものを突き詰めていけば
全ての(大部分の)モデルに共通する『仕組み』は見えてきます。
つまり、その『仕組み』を把握していれば
新たなモデル(=方法論)を生み出すことができるんです。
NLPの手法の多くを開発したスティーブ・アンドレアスは
少なくとも、そうした『仕組み』を体験的に知っていると思われます。
彼の開発したものには全て共通する仕組みがある。
一方で、「全てのモデルに共通する…」と言い切れないのは
NLPを広めてきた人たちの中には、
『仕組み』に注目しなかった人もいるからです。
NLPのトレーナーになるためには、NLPの基本スキルを一通り習得します。
まぁ、そこまでは共通する『仕組み』があるといえるでしょう。
そしてトレーナーになった後、
NLPの応用テクニックを開発した人たちも沢山いたようです。
その中には『仕組み』から外れているものも一部あるんです。
「NLPのトレーナーが開発した方法だから
これもNLPに含まれます」
といった風潮があったのだろうと想像されます。
もちろん、「役に立つんだから良いじゃないか」
という考え方もあるでしょう。
ただ、それは「どこまでが寿司か?」という話と似ています。
「美味しければ良いじゃないか?」
ご飯と具材を一緒にして、一口サイズに固めたら”お寿司”?
酢飯を一口大に握ったものに水産物の具材を乗せたら”お寿司”?
範囲を限定するのが難しいわけです。
最初に定義ができていないからです。
とはいえ、ある程度の共通点は見いだせるでしょう。
さすがに、パンの上にハムが乗っていたら、
いくは一口大でも”お寿司”とは言い難いと思うんです。
にもかかわらず、お寿司屋さんで「パンとハムのお寿司です」と出されたら
多くの人は「こういうのもアリなのか」と納得してしまうかもしれません。
そのあたりの兼ね合いです。
NLPの話に戻すと、
基本スキルに共通する『仕組み』を忠実に原点としながら
新しい方法を開発していった人もいれば、
そこから大きく離れて有効性だけを追求した人もいる、
…ということになります。
NLPも開発初期の段階で定義が曖昧だったため
こうした事態になったのは仕方のないことなんでしょう。
そういう分野なんです。
今回紹介する『セルフ・イメージ』の扱い方は、その意味でいうと
『仕組み』に忠実な方法です。
スティーブ・アンドレアスの方法も紹介しますし、
それ以外の要素も付け加える予定です。
あまり日本では有名な方法ではありませんが、
「NLPを1つの観点に応用する」というスタンスを知るには
役に立つテーマだろうと感じています。
”原点に忠実なNLP”といったフレーズが響く方、
「もっと他にNLPの手法を知りたい!」と探索している方、
『セルフ・イメージ』という対象に興味のある方、
「自分って一体、何なんだろう?」と考えている方…。
色々な観点で楽しめるテーマだと思いますので、
ご興味と照らし合わせてみてください。
(チョットだけ捻った工夫も入れるつもりです)
お会いできるのを楽しみにしています。
2013年10月22日
虫も殺せないほど
先日、外食していたとき、店内を飛び回るハエを発見しました。
大きさにして 8mmぐらい。
軽快に食卓の上空を移動していました。
1cmを超えるようなハエの種類で
ブリっと重くて堅そうなヤツがいますが、
あれではありません。
もうちょっとスリムで柔らかそうなヤツでした。
赤い目と黄色い胴体をしていて、ザラザラした感じの質感。
よく見ると愛嬌があるものです。
僕が食事を終えた頃、そのハエが近くの壁にとまったので
ペーパーナプキンをそっと近づけてみたところ、
ハエはナプキンに飛び乗ってきました。
そのまま食べ終わりの魚のあたりへ移動させると
ハエは骨に飛び移ってしばしジッとしています。
その後、ご飯茶わんのほうへ飛び移って
そこで手をこすり合わせていました。
ハエの手をする動作は面白い。
見ていて飽きません。
時折、後ろ足なんかも擦ってみたり、
頭の上に手を上げてみたりしていて、
あのせわしない感じが何とも目を惹きます。
タモリの往年の芸『ハエのモノマネ』を思い出して
一人でニタニタしてしまいました。
本当に良く似ているんです。
ハエを見るほどに、タモリの形態模写の精度に感服。
それで気づいたのは…、
食器の上にとまったハエを10分も凝視していると
店員は食器を下げにこない
ということ。
食べ終わってはいても、邪魔してはいけない雰囲気だったかもしれません。
ちなみに、
ハエをはじめとする虫の類が、元から好きだったわけではありません。
今も好きなわけではないですし。
かといって、「殺生してはいけない」とか
「一寸の虫にも五分の魂」とか、「生き物の命は全て尊い」とか、
そういう考えに基づいているわけでもないんです。
ほったらかしな感じなだけ。
人とすれ違うときに、急にやっつけようとは思わないのと似ています。
もちろん、人とハエが同じだというつもりもありません。
ただ、人とすれ違っても危害を加えない、
犬とすれ違っても、ノラ猫とすれ違っても危害を加えない、
ハトやスズメとすれ違っても、セミやチョウとすれ違っても危害を加えない…
っていうように考えていくと、
どこから邪魔者扱いしたらいいかが分からないだけのことです。
かといって、絶対に殺さないわけでもありません。
自分の部屋に出てきたら、自分の快適さに影響するので対処します。
これもまた、見ず知らずの人が僕の跡を着いてきて
僕の住まいの中へ一緒に上がり込もうとしたら
追い出そうとするのと同じようなものです。
外食の場であれば、ハエが飛んでいても、さほど気にしないという話です。
僕のご飯の上に乗っかろうとしてきたら追い払います。
それを譲るつもりはない。
そこが線引きになっているみたいです。
ハエが飢え死にしそうで困っていたとしたら…
食べ物を分けてあげるかもしれません。
まぁ、僕にはその判断ができませんけど。
大きさにして 8mmぐらい。
軽快に食卓の上空を移動していました。
1cmを超えるようなハエの種類で
ブリっと重くて堅そうなヤツがいますが、
あれではありません。
もうちょっとスリムで柔らかそうなヤツでした。
赤い目と黄色い胴体をしていて、ザラザラした感じの質感。
よく見ると愛嬌があるものです。
僕が食事を終えた頃、そのハエが近くの壁にとまったので
ペーパーナプキンをそっと近づけてみたところ、
ハエはナプキンに飛び乗ってきました。
そのまま食べ終わりの魚のあたりへ移動させると
ハエは骨に飛び移ってしばしジッとしています。
その後、ご飯茶わんのほうへ飛び移って
そこで手をこすり合わせていました。
ハエの手をする動作は面白い。
見ていて飽きません。
時折、後ろ足なんかも擦ってみたり、
頭の上に手を上げてみたりしていて、
あのせわしない感じが何とも目を惹きます。
タモリの往年の芸『ハエのモノマネ』を思い出して
一人でニタニタしてしまいました。
本当に良く似ているんです。
ハエを見るほどに、タモリの形態模写の精度に感服。
それで気づいたのは…、
食器の上にとまったハエを10分も凝視していると
店員は食器を下げにこない
ということ。
食べ終わってはいても、邪魔してはいけない雰囲気だったかもしれません。
ちなみに、
ハエをはじめとする虫の類が、元から好きだったわけではありません。
今も好きなわけではないですし。
かといって、「殺生してはいけない」とか
「一寸の虫にも五分の魂」とか、「生き物の命は全て尊い」とか、
そういう考えに基づいているわけでもないんです。
ほったらかしな感じなだけ。
人とすれ違うときに、急にやっつけようとは思わないのと似ています。
もちろん、人とハエが同じだというつもりもありません。
ただ、人とすれ違っても危害を加えない、
犬とすれ違っても、ノラ猫とすれ違っても危害を加えない、
ハトやスズメとすれ違っても、セミやチョウとすれ違っても危害を加えない…
っていうように考えていくと、
どこから邪魔者扱いしたらいいかが分からないだけのことです。
かといって、絶対に殺さないわけでもありません。
自分の部屋に出てきたら、自分の快適さに影響するので対処します。
これもまた、見ず知らずの人が僕の跡を着いてきて
僕の住まいの中へ一緒に上がり込もうとしたら
追い出そうとするのと同じようなものです。
外食の場であれば、ハエが飛んでいても、さほど気にしないという話です。
僕のご飯の上に乗っかろうとしてきたら追い払います。
それを譲るつもりはない。
そこが線引きになっているみたいです。
ハエが飢え死にしそうで困っていたとしたら…
食べ物を分けてあげるかもしれません。
まぁ、僕にはその判断ができませんけど。
2013年10月20日
最後の晩餐
雑誌やインターネットなどを見ていると、
「最後の晩餐に何を食べたいか?」
といったアンケートを目にすることがあります。
映画でも
「死ぬまでにしたい10のこと」
などがありました。
あるセミナーに参加したとき、僕も
「あと一カ月の命だったら何をしますか?」
という質問に答えるワークをしたことがあります。
いずれも、価値観に気づけるものでしょうし
色々と考えさせられるものだろうと思います。
が、共通しているのは
「何を?」
という問いです。
「どのように?」
ではないんです。
「何をしたいか?」や「何を食べたいか?」も大事なことでしょう。
「何の仕事をしたいか?」、「趣味で何をしたいか?」、
「何を生きがいとしたいか?」なども良く話題に挙がるテーマです。
でも、それだけが全ての観点ではありません。
「どのようにしたいか?」にも、その人にとって大切なものが表れます。
「最後の晩餐は、どのように食べたいか?」だとしたら…、
・ご飯が喉を通る感じを満喫するためにモリモリ食べたい
・食事の温度を体験するためにアツアツのまま素早く食べ切りたい
・苦しいぐらいの満腹感を味わっておきたいから沢山の量を食べたい
・食事中の会話を楽しみたいから、仲の良い人たちと一緒に食べたい
・1つ1つの味の違いを感じたいから、ゆっくり丁寧に食べたい
などと、色々な食べ方が考えられます。
僕だったら、
・白米の輝きを目に焼きつけながら茶碗の暖かさを手の平に感じ、
・味噌汁から立ち上る湯気の優雅さを眺めつつ
顔全体で水蒸気の温もりを受け止め、
・それぞれのおかずが生み出す味の細かな要素と調和が
一瞬一瞬移り変わっていく変化に心奪われる
…といった感じでしょうか。
僕は丁寧に食事そのものへ関心を向けると思います。
「どのように?」の問いが重要なのは、
今すぐに反映させやすいからです。
「何をしたいか?」だと、現実的な制約が生まれます。
僕がセミナーで「あと一カ月の命」を想定して考えた内容も
それは「残り一カ月」だからしようと思える内容であって、
じゃあ普段でも毎日そればかりやれるかといえば、そうではありません。
そのセミナー講師は、
「そんなに大事なことなら、どうしてやっていないんだ?
すぐにやればいいじゃないか。」
と語っていました。
当時は「今でしょ!?」が流行っていませんが、
もうそんなテンションでした。
でも、今できることと、そうじゃないことがあるじゃないですか。
いくら最後の晩餐は100グラム5万円のステーキを食べたいとしても
「じゃあ、今すぐ食べたらいいじゃないですか!?」
という話にはなりません。
まして、毎日食べるわけでもないでしょう。
一方、「どのように?」であれば、今すぐやることも可能なはずです。
もちろん毎日同じようにするわけではないでしょうが、
少なくとも、今までよりも注意を向ける程度は上げられると思われます。
つまり、「これが最後」、「残りわずか」という自覚が生まれたとしたら、
一瞬の体験に対する真剣さが変わってくるだろうという話です。
最後の晩餐は、普段よりも丁寧に、真剣に、
五感の刺激に注意を向けながら、
その行為そのものへの喜びを感じようとするんじゃないでしょうか。
それは「食べられるだけで幸せ」とか「生きているだけで幸せ」といった
比較に基づいた体験への評価ではありません。
ただその瞬間の体験に集中すること。
色が見えること、
音が聞こえること、
温度や手触りが感じられること、
痛みが感じられること、
悲しみや怒りを感じられること…
純粋な体験内容そのものに注意を向けるということです。
毎回の呼吸すら貴重な体験に思えるかもしれません。
「これが最後の晩餐だとしたら、どのように食べますか?」
という質問には、その瞬間の体験へ注意を向ける効果があると思います。
それは「何を食べたいですか?」では得られない効果です。
体験の内容ではなく、体験の質に関心を持ってみるのも
悪くないのではないでしょうか?
「最後の晩餐に何を食べたいか?」
といったアンケートを目にすることがあります。
映画でも
「死ぬまでにしたい10のこと」
などがありました。
あるセミナーに参加したとき、僕も
「あと一カ月の命だったら何をしますか?」
という質問に答えるワークをしたことがあります。
いずれも、価値観に気づけるものでしょうし
色々と考えさせられるものだろうと思います。
が、共通しているのは
「何を?」
という問いです。
「どのように?」
ではないんです。
「何をしたいか?」や「何を食べたいか?」も大事なことでしょう。
「何の仕事をしたいか?」、「趣味で何をしたいか?」、
「何を生きがいとしたいか?」なども良く話題に挙がるテーマです。
でも、それだけが全ての観点ではありません。
「どのようにしたいか?」にも、その人にとって大切なものが表れます。
「最後の晩餐は、どのように食べたいか?」だとしたら…、
・ご飯が喉を通る感じを満喫するためにモリモリ食べたい
・食事の温度を体験するためにアツアツのまま素早く食べ切りたい
・苦しいぐらいの満腹感を味わっておきたいから沢山の量を食べたい
・食事中の会話を楽しみたいから、仲の良い人たちと一緒に食べたい
・1つ1つの味の違いを感じたいから、ゆっくり丁寧に食べたい
などと、色々な食べ方が考えられます。
僕だったら、
・白米の輝きを目に焼きつけながら茶碗の暖かさを手の平に感じ、
・味噌汁から立ち上る湯気の優雅さを眺めつつ
顔全体で水蒸気の温もりを受け止め、
・それぞれのおかずが生み出す味の細かな要素と調和が
一瞬一瞬移り変わっていく変化に心奪われる
…といった感じでしょうか。
僕は丁寧に食事そのものへ関心を向けると思います。
「どのように?」の問いが重要なのは、
今すぐに反映させやすいからです。
「何をしたいか?」だと、現実的な制約が生まれます。
僕がセミナーで「あと一カ月の命」を想定して考えた内容も
それは「残り一カ月」だからしようと思える内容であって、
じゃあ普段でも毎日そればかりやれるかといえば、そうではありません。
そのセミナー講師は、
「そんなに大事なことなら、どうしてやっていないんだ?
すぐにやればいいじゃないか。」
と語っていました。
当時は「今でしょ!?」が流行っていませんが、
もうそんなテンションでした。
でも、今できることと、そうじゃないことがあるじゃないですか。
いくら最後の晩餐は100グラム5万円のステーキを食べたいとしても
「じゃあ、今すぐ食べたらいいじゃないですか!?」
という話にはなりません。
まして、毎日食べるわけでもないでしょう。
一方、「どのように?」であれば、今すぐやることも可能なはずです。
もちろん毎日同じようにするわけではないでしょうが、
少なくとも、今までよりも注意を向ける程度は上げられると思われます。
つまり、「これが最後」、「残りわずか」という自覚が生まれたとしたら、
一瞬の体験に対する真剣さが変わってくるだろうという話です。
最後の晩餐は、普段よりも丁寧に、真剣に、
五感の刺激に注意を向けながら、
その行為そのものへの喜びを感じようとするんじゃないでしょうか。
それは「食べられるだけで幸せ」とか「生きているだけで幸せ」といった
比較に基づいた体験への評価ではありません。
ただその瞬間の体験に集中すること。
色が見えること、
音が聞こえること、
温度や手触りが感じられること、
痛みが感じられること、
悲しみや怒りを感じられること…
純粋な体験内容そのものに注意を向けるということです。
毎回の呼吸すら貴重な体験に思えるかもしれません。
「これが最後の晩餐だとしたら、どのように食べますか?」
という質問には、その瞬間の体験へ注意を向ける効果があると思います。
それは「何を食べたいですか?」では得られない効果です。
体験の内容ではなく、体験の質に関心を持ってみるのも
悪くないのではないでしょうか?
2013年10月18日
空気の質
先日、茅場町の駅を利用しました。
そこから徒歩10分ぐらいのところに用事があったので。
東京メトロ東西線で、大手町・日本橋・茅場町という並びですから
東京駅あたりから2駅分の場所です。
なのに随分と雰囲気が違うものだと感じました。
街の雰囲気は、建物や道などの景色と
そこを歩く人々の影響で作られるような気もしますが、
「空気そのもの」の違いなんかも関係しているように思えます。
湿度や匂いが違うんです。
山手線からほんの2駅ですが、海に近い感じがありました。
水辺の空気。
もしかすると、いわゆる”下町”の雰囲気の中には
海や川に近い「水辺の空気」の感じも含まれているのかもしれません。
「ドライな人」、「ウェットな人間関係」といった言葉がありますが、
湿度と人間の振る舞いの傾向には意外な関係があったりして…。
よく都市伝説的に語られることとして、
引っ越しをするとき
山手線の東側で育った人は、引っ越し先を東側で探そうとして、
山手線の西側で育った人は西側で探そうとする
なんていう話を聞いたことがあります。
僕の生まれ育ちは練馬に近いところですから
山手線よりも西側のほうでした。
住まいを探すとき、確かに西側を中心にしていたと思います。
本当は千葉方面でも良かったんです。
新小岩あたりも見に行ったものです。
もちろん、交通の便としての馴染みも大きく関係しているでしょう。
起点となる駅は、今までに使っていたところに近いほうが気楽だから、と。
僕の場合、池袋や新宿あたりが都会の入り口でした。
上野・東京・品川となると距離を感じるところはあります。
とはいえ、それらの大きな駅を利用したことが無いわけではありません。
便利さでいえば、さほど違いを感じませんでした。
起点とするだけなら問題はなかったと思うんです。
むしろ僕にとって重要だったのは、
実際に街を歩いてみたときの雰囲気。
景色を重視している自覚はありましたが、
たぶん湿度とか匂いも、おぼろげに気にかけていたんだと思います。
自分の中に経験として染みついている
”当たり前の空気”の湿度や匂いが、
「居心地の良さ」の評価に影響を与えているような気がします。
そういうところにも注意を向けると
好きな旅行先にも共通点が見えてくるかもしれません。
そこから徒歩10分ぐらいのところに用事があったので。
東京メトロ東西線で、大手町・日本橋・茅場町という並びですから
東京駅あたりから2駅分の場所です。
なのに随分と雰囲気が違うものだと感じました。
街の雰囲気は、建物や道などの景色と
そこを歩く人々の影響で作られるような気もしますが、
「空気そのもの」の違いなんかも関係しているように思えます。
湿度や匂いが違うんです。
山手線からほんの2駅ですが、海に近い感じがありました。
水辺の空気。
もしかすると、いわゆる”下町”の雰囲気の中には
海や川に近い「水辺の空気」の感じも含まれているのかもしれません。
「ドライな人」、「ウェットな人間関係」といった言葉がありますが、
湿度と人間の振る舞いの傾向には意外な関係があったりして…。
よく都市伝説的に語られることとして、
引っ越しをするとき
山手線の東側で育った人は、引っ越し先を東側で探そうとして、
山手線の西側で育った人は西側で探そうとする
なんていう話を聞いたことがあります。
僕の生まれ育ちは練馬に近いところですから
山手線よりも西側のほうでした。
住まいを探すとき、確かに西側を中心にしていたと思います。
本当は千葉方面でも良かったんです。
新小岩あたりも見に行ったものです。
もちろん、交通の便としての馴染みも大きく関係しているでしょう。
起点となる駅は、今までに使っていたところに近いほうが気楽だから、と。
僕の場合、池袋や新宿あたりが都会の入り口でした。
上野・東京・品川となると距離を感じるところはあります。
とはいえ、それらの大きな駅を利用したことが無いわけではありません。
便利さでいえば、さほど違いを感じませんでした。
起点とするだけなら問題はなかったと思うんです。
むしろ僕にとって重要だったのは、
実際に街を歩いてみたときの雰囲気。
景色を重視している自覚はありましたが、
たぶん湿度とか匂いも、おぼろげに気にかけていたんだと思います。
自分の中に経験として染みついている
”当たり前の空気”の湿度や匂いが、
「居心地の良さ」の評価に影響を与えているような気がします。
そういうところにも注意を向けると
好きな旅行先にも共通点が見えてくるかもしれません。
2013年10月16日
寝ながら走る
ふと思い出したことがあります。
小学校だか、中学校の頃、
体育の授業でバスケットボールをやっていたんです。
体育館の映像が思い出されます。
人の顔や自分の姿は浮かんでこないですし、
その体育館の映像が小学校のものか中学校のものかを
覚えていないので、どちらか特定できない状態。
ですが、思い出されたのは体育館とは関係なく、
バスケットボールをやっていた最中のことなんです。
あの日、僕はバスケットボールをやりながら寝ていたと思います。
寝る寸前?ともいえるかもしれませんが、
何て言ったらいいか分かりません。
少なくとも、車を運転していて寝そうなときとは違いました。
ああいう「眠気をこらえる」辛さが無かったんです。
コックリコックリしてしまう感じでもなく、
白昼夢とでも呼べばいいんでしょうか。
体は動いていました。
走ってボールを追いかけ、適当にパスを回したりしていた。
(上手くなかったので積極的ではありませんでしたが)
立ったまま寝ているのとは違います。
バスケットボールをやっていたので。
でも頭は寝ているような感じ。
周りからはどのように見えていたんでしょう?
まぁ、皆、ボールを見ていたでしょうから、
僕のことなんて気にしていなかったかもしれません。
良く分かりませんが、
一番近い表現は、「寝ていた」の感じなんです。
夢遊病と呼ばれるような症状の人たちが
夜寝ている間に立ちあがって冷蔵庫を開けて何かを食べる
…なんていう話を聞きますが、あんな感じなんでしょうか。
その人たちは冷蔵庫を開けるし、食べているわけですから
目は開いていて、見えているはず。
ただ意識は眠ったまま、と。
その日の僕も、体育の授業中に目が開いていて
体も動かしていました。
ただ、ちょっと違うのは「記憶がある」ということ。
分類上は「トランス」と呼んで良いのでしょうが
そんな呼び方をしたところで何の参考にもなりません。
ヘンテコな状態でした。
子供の頃からトランスには親しみがあったのかもしれません。
大人になって催眠やらNLPやらをやるようになるのも
意外とそんな体験と関係があったりして。
小学校だか、中学校の頃、
体育の授業でバスケットボールをやっていたんです。
体育館の映像が思い出されます。
人の顔や自分の姿は浮かんでこないですし、
その体育館の映像が小学校のものか中学校のものかを
覚えていないので、どちらか特定できない状態。
ですが、思い出されたのは体育館とは関係なく、
バスケットボールをやっていた最中のことなんです。
あの日、僕はバスケットボールをやりながら寝ていたと思います。
寝る寸前?ともいえるかもしれませんが、
何て言ったらいいか分かりません。
少なくとも、車を運転していて寝そうなときとは違いました。
ああいう「眠気をこらえる」辛さが無かったんです。
コックリコックリしてしまう感じでもなく、
白昼夢とでも呼べばいいんでしょうか。
体は動いていました。
走ってボールを追いかけ、適当にパスを回したりしていた。
(上手くなかったので積極的ではありませんでしたが)
立ったまま寝ているのとは違います。
バスケットボールをやっていたので。
でも頭は寝ているような感じ。
周りからはどのように見えていたんでしょう?
まぁ、皆、ボールを見ていたでしょうから、
僕のことなんて気にしていなかったかもしれません。
良く分かりませんが、
一番近い表現は、「寝ていた」の感じなんです。
夢遊病と呼ばれるような症状の人たちが
夜寝ている間に立ちあがって冷蔵庫を開けて何かを食べる
…なんていう話を聞きますが、あんな感じなんでしょうか。
その人たちは冷蔵庫を開けるし、食べているわけですから
目は開いていて、見えているはず。
ただ意識は眠ったまま、と。
その日の僕も、体育の授業中に目が開いていて
体も動かしていました。
ただ、ちょっと違うのは「記憶がある」ということ。
分類上は「トランス」と呼んで良いのでしょうが
そんな呼び方をしたところで何の参考にもなりません。
ヘンテコな状態でした。
子供の頃からトランスには親しみがあったのかもしれません。
大人になって催眠やらNLPやらをやるようになるのも
意外とそんな体験と関係があったりして。
2013年10月14日
健全に疑うこと
全ての思考は偏っていますから、
絶対に正しいということはありえません。
相対的に「もっともらしい」ものはあります。
サイエンスの目線でいえば、説得力のある仮説だということです。
最も”もっともらしい”仮説の集合がサイエンスだ、と。
逆に、論理の飛躍を沢山含んでいるものは
相対的な”もっともらしさ”が低いことになります。
「必ずしもそうとはいえないでしょう」という感じ。
不十分なんです。
その上で、複数の思考を合わせて
1つの意見や理論を組み立てていく段階になると、
それぞれに矛盾が生じる場合があります。
猫の話をしていたはずなのに、犬のことを説明してしまっているようなこと。
猫であり、犬でもある。
それは、ありえません。
定義上、矛盾しているわけです。
これはハッキリと「間違っている」と言えます。
1つの思考に関しては論理的な説得力が相対的なものになっていて
「どの程度もっともらしいか」で判断がなされ、
複数の思考が組み合わさってきた際には
それぞれの思考の”もっともらしさ”とは無関係に
相互の関係性として「間違っている」可能性が出てくる。
サイエンスの説明は、その中に含まれる考えが相反しないように
矛盾なく取り込まれる形で全体が成り立っています。
そこに矛盾した話が出てくると、それは「間違っている」と呼ばれる。
その一方で、サイエンスのそれぞれの考え自体は、仮説に過ぎません。
間違ってはいないけれど、「正しいわけではない」んです。
「どの程度もっともらしいか」という観点と
「間違っているかどうか」という観点と、2つがあるわけです。
「間違っている」ものに関しては、最も”もっともらしい”考えと照らし合わせて
矛盾するかどうかで判断がなされるだけのことですから、
そういう理論と照らし合わせない限り「間違い」かどうかは議論できません。
その照らし合わせる対象は、本人が信じているものになる。
もちろん、信じている理論が矛盾を含んでいれば
その理論は「間違っている」ことになるわけですが、
そのことと信じるかどうかは無関係です。
サイエンスは矛盾を含まないように吟味されていることと、
それを元に実社会のテクノロジーが作られていることで、
人々から”高い信頼”を買っているといえます。
「もっともらしく」て、「矛盾が含まれず」、かつ「信じられている」。
世の中には、サイエンスと矛盾していても、
それ自体に矛盾が含まれず、信じられていることもあります。
とはいえ、それぞれの考えが依然として
”もっともらしい”かどうかの基準の上に成り立っていることは変わりません。
1つの思考として取り上げれば、どんなに”もっともらしく”ても
”正しい”わけではないんです。
あくまでも信じているだけ。
信じるのは好みの問題でもありますし、
生育過程で、そう信じるようになった経緯もあるんでしょう。
良し悪しではなく、ただそういう性質のもの。
信じたいなら信じればいい。
以前、僕は人から勧められて、いわゆる”スピリチュアル”な人たちが
沢山集まるセミナーに出たことがあります。
皆さん、色々と信じているものがありそうでした。
生まれ変わりとか、繋がりとか、一体感とか
そういう言葉が聞こえてくるような集まりだったんです。
あまり溶け込めず(溶け込まず?)に過ごしていたら、
そのセミナーの最中に一匹のゴキブリが登場しました。
通風孔らしきところから出てきて、
セミナールームの白い天井や壁をシャカシャカと歩きまわり、
かなりの頻度で、元気に飛び回ったりもしていました。
あんなに元気に活動するゴキブリは滅多にいません。
皆のスピリチュアルなパワーで、きっと元気になったんでしょう。
トランスの雰囲気もあったせいか、最初は皆さん気づかなかったようですが
飛び回るようになれば流石に気づき始めます。
女性が多いこともあってキャーキャーと小さな悲鳴が聞こえてきました。
トランスの最中だったので、気を遣って叫び声を抑えていたんでしょうが、
もう部屋の雰囲気は一変しました。
軽いパニックです。
そして何人もの受講生やスタッフが
そのゴキブリを始末しようと試み始めたんです。
”繋がり”やら”一体感”やらの対象には、ゴキブリは含まれないみたいです。
仕方ありません。
ゴキブリは怖い、汚い、…そうやって信じているんでしょう。
ところが、その講師はなかなかのものでした。
皆がゴキブリを殺そうとしているのを感じとって
「 Don't kill it ! (殺さないで!)」と言ったんです。
その人だけはゴキブリにも一体感があったのかもしれません。
まぁ、代名詞が「 it (それ)」だったのは若干の興ざめですが、
アメリカ人は犬猫でも「 it 」で呼ぶことがあるようなので仕方ありません。
ゴキブリを怖いと信じているか、
ゴキブリにも魂があると信じているか、
その違いが振る舞いにも表れるという話です。
どちらを信じても構わないでしょう。
僕も共同生活をするよりは、住み分けをしたいと思います。
「害は与えたくないから、出てこないでね」という感じ。
重要なのは、ある考えを信じるにあたって
それが「正しくない」ことを自覚したうえで信じるかどうか
ではないでしょうか。
反対の考え方もあり得る。
”もっともらしさ”の程度でいえば100%とはいえない。
違う可能性も1つの考えとして持っている。
けれども、こっちを信じる。
…そういうほうが安全じゃないだろうか、と思うんです
”夢を持ちましょう”
”目標を設定しましょう”
”幸せになりましょう”
”前向きに生きましょう”
などなど。
その反対の考え方が「もっともらしく役に立つ」可能性も
考えてみたほうが楽になれる場面が沢山あるような気がします。
もちろん、それとて1つの考えですから、そうじゃないこともあります。
”夢を持て!”と信じ込んで疑わない人のほうが
幸せだということは十分にありえる話です。
その人たちをとやかく言うつもりはありません。
その人たちから”夢を持て”と言われる側の人たちに
「信じるだけじゃなくて疑ってみるのも大事なものですよ」
という考えを示すのは有意義だろうと思うだけのことです。
ですから、僕は徹底的に反論します。
信じている人たちが自分のために信じているのであれば
その人たちに直接反論することはありませんが、
信じている人たちが教える立場にある場合には反論のターゲットになります。
「信じる者は救われる」
という話も疑っているわけです。
絶対に正しいということはありえません。
相対的に「もっともらしい」ものはあります。
サイエンスの目線でいえば、説得力のある仮説だということです。
最も”もっともらしい”仮説の集合がサイエンスだ、と。
逆に、論理の飛躍を沢山含んでいるものは
相対的な”もっともらしさ”が低いことになります。
「必ずしもそうとはいえないでしょう」という感じ。
不十分なんです。
その上で、複数の思考を合わせて
1つの意見や理論を組み立てていく段階になると、
それぞれに矛盾が生じる場合があります。
猫の話をしていたはずなのに、犬のことを説明してしまっているようなこと。
猫であり、犬でもある。
それは、ありえません。
定義上、矛盾しているわけです。
これはハッキリと「間違っている」と言えます。
1つの思考に関しては論理的な説得力が相対的なものになっていて
「どの程度もっともらしいか」で判断がなされ、
複数の思考が組み合わさってきた際には
それぞれの思考の”もっともらしさ”とは無関係に
相互の関係性として「間違っている」可能性が出てくる。
サイエンスの説明は、その中に含まれる考えが相反しないように
矛盾なく取り込まれる形で全体が成り立っています。
そこに矛盾した話が出てくると、それは「間違っている」と呼ばれる。
その一方で、サイエンスのそれぞれの考え自体は、仮説に過ぎません。
間違ってはいないけれど、「正しいわけではない」んです。
「どの程度もっともらしいか」という観点と
「間違っているかどうか」という観点と、2つがあるわけです。
「間違っている」ものに関しては、最も”もっともらしい”考えと照らし合わせて
矛盾するかどうかで判断がなされるだけのことですから、
そういう理論と照らし合わせない限り「間違い」かどうかは議論できません。
その照らし合わせる対象は、本人が信じているものになる。
もちろん、信じている理論が矛盾を含んでいれば
その理論は「間違っている」ことになるわけですが、
そのことと信じるかどうかは無関係です。
サイエンスは矛盾を含まないように吟味されていることと、
それを元に実社会のテクノロジーが作られていることで、
人々から”高い信頼”を買っているといえます。
「もっともらしく」て、「矛盾が含まれず」、かつ「信じられている」。
世の中には、サイエンスと矛盾していても、
それ自体に矛盾が含まれず、信じられていることもあります。
とはいえ、それぞれの考えが依然として
”もっともらしい”かどうかの基準の上に成り立っていることは変わりません。
1つの思考として取り上げれば、どんなに”もっともらしく”ても
”正しい”わけではないんです。
あくまでも信じているだけ。
信じるのは好みの問題でもありますし、
生育過程で、そう信じるようになった経緯もあるんでしょう。
良し悪しではなく、ただそういう性質のもの。
信じたいなら信じればいい。
以前、僕は人から勧められて、いわゆる”スピリチュアル”な人たちが
沢山集まるセミナーに出たことがあります。
皆さん、色々と信じているものがありそうでした。
生まれ変わりとか、繋がりとか、一体感とか
そういう言葉が聞こえてくるような集まりだったんです。
あまり溶け込めず(溶け込まず?)に過ごしていたら、
そのセミナーの最中に一匹のゴキブリが登場しました。
通風孔らしきところから出てきて、
セミナールームの白い天井や壁をシャカシャカと歩きまわり、
かなりの頻度で、元気に飛び回ったりもしていました。
あんなに元気に活動するゴキブリは滅多にいません。
皆のスピリチュアルなパワーで、きっと元気になったんでしょう。
トランスの雰囲気もあったせいか、最初は皆さん気づかなかったようですが
飛び回るようになれば流石に気づき始めます。
女性が多いこともあってキャーキャーと小さな悲鳴が聞こえてきました。
トランスの最中だったので、気を遣って叫び声を抑えていたんでしょうが、
もう部屋の雰囲気は一変しました。
軽いパニックです。
そして何人もの受講生やスタッフが
そのゴキブリを始末しようと試み始めたんです。
”繋がり”やら”一体感”やらの対象には、ゴキブリは含まれないみたいです。
仕方ありません。
ゴキブリは怖い、汚い、…そうやって信じているんでしょう。
ところが、その講師はなかなかのものでした。
皆がゴキブリを殺そうとしているのを感じとって
「 Don't kill it ! (殺さないで!)」と言ったんです。
その人だけはゴキブリにも一体感があったのかもしれません。
まぁ、代名詞が「 it (それ)」だったのは若干の興ざめですが、
アメリカ人は犬猫でも「 it 」で呼ぶことがあるようなので仕方ありません。
ゴキブリを怖いと信じているか、
ゴキブリにも魂があると信じているか、
その違いが振る舞いにも表れるという話です。
どちらを信じても構わないでしょう。
僕も共同生活をするよりは、住み分けをしたいと思います。
「害は与えたくないから、出てこないでね」という感じ。
重要なのは、ある考えを信じるにあたって
それが「正しくない」ことを自覚したうえで信じるかどうか
ではないでしょうか。
反対の考え方もあり得る。
”もっともらしさ”の程度でいえば100%とはいえない。
違う可能性も1つの考えとして持っている。
けれども、こっちを信じる。
…そういうほうが安全じゃないだろうか、と思うんです
”夢を持ちましょう”
”目標を設定しましょう”
”幸せになりましょう”
”前向きに生きましょう”
などなど。
その反対の考え方が「もっともらしく役に立つ」可能性も
考えてみたほうが楽になれる場面が沢山あるような気がします。
もちろん、それとて1つの考えですから、そうじゃないこともあります。
”夢を持て!”と信じ込んで疑わない人のほうが
幸せだということは十分にありえる話です。
その人たちをとやかく言うつもりはありません。
その人たちから”夢を持て”と言われる側の人たちに
「信じるだけじゃなくて疑ってみるのも大事なものですよ」
という考えを示すのは有意義だろうと思うだけのことです。
ですから、僕は徹底的に反論します。
信じている人たちが自分のために信じているのであれば
その人たちに直接反論することはありませんが、
信じている人たちが教える立場にある場合には反論のターゲットになります。
「信じる者は救われる」
という話も疑っているわけです。
2013年10月12日
手が伸びなくなった日
本屋に行きました。
が、何も手に取らずに帰ってきてしまいました。
興味を惹かれなかった感じです。
もっと大きな本屋に行けば違ったかもしれません。
3階建てぐらいの書店だったので品揃えが足りなかったのかも。
とはいえ、以前は何かに興味を持って、本を手に取り、
買わなかったとしても楽しい時間を過ごしていたんです。
その感じがありませんでした。
まるでコンビニの中を一周して、何も買わずに帰るときのような。
これはチョット参りました。
なんだか少し寂しい気分。
関心の方向性が変わってきているのかもしれません。
まだ僕の中に「勉強したい」という気持ちは残っているようです。
だからこそ余計に飢えているような気もしなくはない。
かといって、物理や数学をやるのはハードルが高いんです。
苦手意識がありますから。
あきらかに高校時代、大学一年生のときの練習不足だと思います。
中学のときは受験勉強として問題練習を沢山やりました。
それが大事だって知らなかったんです。
ただ塾でやらされていただけ。
社会に出てから、あの頃の地道な練習が役に立っていたことに気づきました。
高校や大学の数学も、練習として認識できていたら…。
もちろん、そうだったから僕は生化学のほうへ進み、
バイオ系の研究職になって、今に至っているわけですけれど。
あの頃のツケで、今も数学と物理には踏み出せません。
語学は楽しめそうな気もしているんです。
イタリア語とフランス語は良さそうなんじゃないかと。
一方で、語学には発見がないような予感もありまして。
結局のところ、日本語に追いつくぐらいまでと思えてしまうようです。
なのでトレーニングの感じで、「勉強」の雰囲気が少ない。
もしかしたら、言語教育の勉強だったら楽しめるかもしれません。
気が向いたら本でも買ってみようと思います。
が、何も手に取らずに帰ってきてしまいました。
興味を惹かれなかった感じです。
もっと大きな本屋に行けば違ったかもしれません。
3階建てぐらいの書店だったので品揃えが足りなかったのかも。
とはいえ、以前は何かに興味を持って、本を手に取り、
買わなかったとしても楽しい時間を過ごしていたんです。
その感じがありませんでした。
まるでコンビニの中を一周して、何も買わずに帰るときのような。
これはチョット参りました。
なんだか少し寂しい気分。
関心の方向性が変わってきているのかもしれません。
まだ僕の中に「勉強したい」という気持ちは残っているようです。
だからこそ余計に飢えているような気もしなくはない。
かといって、物理や数学をやるのはハードルが高いんです。
苦手意識がありますから。
あきらかに高校時代、大学一年生のときの練習不足だと思います。
中学のときは受験勉強として問題練習を沢山やりました。
それが大事だって知らなかったんです。
ただ塾でやらされていただけ。
社会に出てから、あの頃の地道な練習が役に立っていたことに気づきました。
高校や大学の数学も、練習として認識できていたら…。
もちろん、そうだったから僕は生化学のほうへ進み、
バイオ系の研究職になって、今に至っているわけですけれど。
あの頃のツケで、今も数学と物理には踏み出せません。
語学は楽しめそうな気もしているんです。
イタリア語とフランス語は良さそうなんじゃないかと。
一方で、語学には発見がないような予感もありまして。
結局のところ、日本語に追いつくぐらいまでと思えてしまうようです。
なのでトレーニングの感じで、「勉強」の雰囲気が少ない。
もしかしたら、言語教育の勉強だったら楽しめるかもしれません。
気が向いたら本でも買ってみようと思います。