2014年06月
2014年06月29日
NLPとは?
学問の1つの特徴は、
用語の定義を明確にしておく
ということでしょう。
だからこそ、専門家同士では共通の言葉を使って話ができる。
例えば心理学者は「感覚」のような単語に対しても
非常にハッキリとした定義をしたうえで、議論をするわけです。
日常会話で「感覚」といったときには、
「五感を通じたインプット」のような意味とか
「身体の感じ」のような意味とか
「なんとなくの印象」とか
「直感的に上手くできる才能」とか
様々な意味で使われます。
それぞれのニュアンスの違いは、話の流れで判断するのが一般的でしょう。
ところが心理学における「感覚」は
「五感に代表される身体の感覚器官において
外部刺激によって反応が引き出され、
それが脳へ向けて伝達されるプロセス」
のように説明されます。
意味づけを含んでいないという点で、「知覚」と区別されるんです。
このように言葉の使い方をハッキリさせておくことで
共通認識に基づいて議論を進めていくことができ、
知見を集約させていけることが学問の特徴でもあるといえます。
一方NLPでは、NLPの専門用語に関しては定義がされていますし、
NLPの手法において使われる単語も、それなりに明確にされています。
しかし、例えば『メタモデル』という質問の言語パターンに関するあたりでは
「メタモデル」が質問のパターン集のことを示しているのか
それとも、言語の性質のことを示しているのか
曖昧にされたままのことが多いように見受けられます。
さらにメタモデルについては、質問のパターンを3つに分類していますが
その分類の仕方に関しても流派によって違いがあったりもします。
『価値観』、『ビリーフ』、『クライテリア』などの用語も使われ方に差があります。
『メタプログラム』については、この概念が提唱された最初の段階で
明確な定義が示されなかったことによって、
次から次に追加されてきた「メタプログラム」が当初考えられていた意図とは
随分と違った方向に進んでしまったような印象さえ受けてしまいます。
定義をハッキリさせないで、かつ
多くの人が新たなものを追加するように提唱できる状態にしておくと、
元々の意味とは違った解釈から生まれたものが
混ざりこんできてしまう可能性があるわけです。
特にNLPの場合には、その実践者の多くに
批判的であることに対して問題視するような風潮もあるようで、
「それは違うだろう」といった議論によって知見を洗練させていくことは
あまり起きてこなかったみたいです。
もちろん個人の好みとして、項目が沢山に増えていくのが楽しい人もいれば
より本質的なところだけが残るように減らして洗練させたい人もいます。
ただ残念ながら、減らす方向は、その情報を提案した人からすると
自分の考えを否定されたように感じられるのか、受け入れ難いのでしょう。
おそらく、そんな事情もあって、NLPは時間の経過とともに
盛りだくさんになっていきながら、同時に曖昧なものが増えてきたようです。
このように、
ハッキリと定義しないままで新たなアイデアを追加し続けた
という点で、NLPは学問とはならず、
当然ながら「心理学」と呼ばれるものでもない、といえます。
心理学は学問として「心理学」という言葉についても
ハッキリとした定義を与えているのに対して、
NLPでは「NLPとは何か?」をハッキリと説明できていないように見えます。
言葉にはされているのかもしれませんが、
その説明が共通認識として明確になっていないのでしょうか。
そもそもNLPとは何か?
それをハッキリとした形で示しておかないと、
新しいものを追加するたびに
その人が「これもNLPでしょう?」と個人的に考えた内容が
次から次へと組み込まれていくことになりかねません。
これまでは歴史の短さから、
創始者たちが提唱したものを全てNLPとしておく
ような流れで済んでいたのかもしれませんが、
この先はそうもいかなくなるんじゃないかという気がします。
用語を整理して、何がNLPなのかを明確にしておく。
そうでないと時間が経つほどに、混乱が大きくなりそうに思えてしまいます。
用語の定義を明確にしておく
ということでしょう。
だからこそ、専門家同士では共通の言葉を使って話ができる。
例えば心理学者は「感覚」のような単語に対しても
非常にハッキリとした定義をしたうえで、議論をするわけです。
日常会話で「感覚」といったときには、
「五感を通じたインプット」のような意味とか
「身体の感じ」のような意味とか
「なんとなくの印象」とか
「直感的に上手くできる才能」とか
様々な意味で使われます。
それぞれのニュアンスの違いは、話の流れで判断するのが一般的でしょう。
ところが心理学における「感覚」は
「五感に代表される身体の感覚器官において
外部刺激によって反応が引き出され、
それが脳へ向けて伝達されるプロセス」
のように説明されます。
意味づけを含んでいないという点で、「知覚」と区別されるんです。
このように言葉の使い方をハッキリさせておくことで
共通認識に基づいて議論を進めていくことができ、
知見を集約させていけることが学問の特徴でもあるといえます。
一方NLPでは、NLPの専門用語に関しては定義がされていますし、
NLPの手法において使われる単語も、それなりに明確にされています。
しかし、例えば『メタモデル』という質問の言語パターンに関するあたりでは
「メタモデル」が質問のパターン集のことを示しているのか
それとも、言語の性質のことを示しているのか
曖昧にされたままのことが多いように見受けられます。
さらにメタモデルについては、質問のパターンを3つに分類していますが
その分類の仕方に関しても流派によって違いがあったりもします。
『価値観』、『ビリーフ』、『クライテリア』などの用語も使われ方に差があります。
『メタプログラム』については、この概念が提唱された最初の段階で
明確な定義が示されなかったことによって、
次から次に追加されてきた「メタプログラム」が当初考えられていた意図とは
随分と違った方向に進んでしまったような印象さえ受けてしまいます。
定義をハッキリさせないで、かつ
多くの人が新たなものを追加するように提唱できる状態にしておくと、
元々の意味とは違った解釈から生まれたものが
混ざりこんできてしまう可能性があるわけです。
特にNLPの場合には、その実践者の多くに
批判的であることに対して問題視するような風潮もあるようで、
「それは違うだろう」といった議論によって知見を洗練させていくことは
あまり起きてこなかったみたいです。
もちろん個人の好みとして、項目が沢山に増えていくのが楽しい人もいれば
より本質的なところだけが残るように減らして洗練させたい人もいます。
ただ残念ながら、減らす方向は、その情報を提案した人からすると
自分の考えを否定されたように感じられるのか、受け入れ難いのでしょう。
おそらく、そんな事情もあって、NLPは時間の経過とともに
盛りだくさんになっていきながら、同時に曖昧なものが増えてきたようです。
このように、
ハッキリと定義しないままで新たなアイデアを追加し続けた
という点で、NLPは学問とはならず、
当然ながら「心理学」と呼ばれるものでもない、といえます。
心理学は学問として「心理学」という言葉についても
ハッキリとした定義を与えているのに対して、
NLPでは「NLPとは何か?」をハッキリと説明できていないように見えます。
言葉にはされているのかもしれませんが、
その説明が共通認識として明確になっていないのでしょうか。
そもそもNLPとは何か?
それをハッキリとした形で示しておかないと、
新しいものを追加するたびに
その人が「これもNLPでしょう?」と個人的に考えた内容が
次から次へと組み込まれていくことになりかねません。
これまでは歴史の短さから、
創始者たちが提唱したものを全てNLPとしておく
ような流れで済んでいたのかもしれませんが、
この先はそうもいかなくなるんじゃないかという気がします。
用語を整理して、何がNLPなのかを明確にしておく。
そうでないと時間が経つほどに、混乱が大きくなりそうに思えてしまいます。
2014年06月27日
【セミナー】心の動きを理解する技術
ご案内: 7月27日(日)開催
NLP実践講座 〜心の動きを理解する〜
(※NLPの概念を使って「心」を説明しますが、
NLPの資格講座の受講経験は必要ではありません。)
少し前に予告を出していた内容になりますが
「心の動きの理解」をテーマとした7月の講座のご案内です。
(※予告の内容はこちらをご覧ください。)
この講座では、NLPの考え方を取り入れて
「心」をプログラムとして理解する
ための着眼点を紹介します。
世間で紹介されるNLPの大部分は
プログラムを変えるところに焦点を当てています。
問題を解決するために、その問題を引き起こすプログラムを特定して
NLPの手法でプログラムを変える。
あるいは、目標達成に向けて望ましいプログラムを取り入れる。
自分自身に対してでも、コーチングやカウンセリングなど他者のサポートとしても
プログラムを変えることで問題解決・目標達成を目指すのが主流です。
この場合、注目すべきは1つのプログラムとなります。
問題として繰り返される感情・思考・行動のパターンをプログラムと捉え、
そのプログラムを変えるように取り組むわけです。
目標達成に役立つプログラムを新たに取り入れる場合でも、
役に立つ思考や行動がパターンとして自然と繰り返されるように働きかけます。
カギになるプログラムを絞り込んで、そのプログラムを変えるのが中心なんです。
ですから、扱うプログラムの数は1つが原則だといえます。
一方、人の「心」そのものは、そういうプログラムが数多く集まってできています。
あらゆる心の動きや振る舞い(思考、行動、感情)がプログラムなんです。
NLPではそのように考えます。
一瞬に注目しても、そこには沢山のプログラムが同時に動いているんです。
例えば、知人と同じペースで歩きながら会話をして、何を答えるかを考えて、
しかも他の通行人とぶつからないように注意を払いつつ、カバンから傘を取りだす
…なんていう作業を全て同時にこなせるのは、
それぞれのプログラムが別々かつ同時に動いているからです。
一般的な用語では「無意識にやっている」なんて言ったりもしますが、
その「無意識」こそがプログラムのなせる技なんです。
プログラムを意識しようが無意識のままだろうが、そんなこととは関係なく
必要な場面では自然とプログラムが動いている。
それも同時に複数のプログラムが並行しています。
もちろん感情にしたって、一種類だけが起きるわけではないんです。
例えば、電車の中で足を踏まれたら…、
瞬間的に「苛立ち」の反応が起きて、
すぐに「電車の中にいるんだった」という認識が生まれ、
それによって「苛立ちを抑えようとする」冷静な気持ちと、
「まぁ、電車の中は揺れるから仕方ない」という思考とが起きる。
それから「でも、踏んだのだから謝るべきだ」という思考が沸いてきて、
「公共の場なんだから人に迷惑をかけないようにするものだろう」と思考が続き、
それに引き続いて「フツフツとした怒り」が上がってくる。
その怒りの反応を自覚して「あー、やっぱりムカつく!」という考えが浮かび、
「くそー、やっぱり人が少ない隣の車両に行けば良かった」などと反省を考える。
…といった一連の流れが生まれます。
「足を踏まれた」という1つの出来事だけに対しても、ほんの数秒の内に
数多くのプログラムが繋がって作動しているといえます。
もちろん、これらの全てが意識に上がるわけではありません。
瞬間的な出来事であれば、自覚する間もなく1つの反応に集中したり
(例えば、「フツフツとした怒り」だけを感じ続ける、など)、
すぐに忘れて別の体験に集中したりします
(例えば、メールが届いて携帯電話を見る、など)。
本当に次から次へと、無数のプログラムが動き続けているのが人の生活なんです。
この講座で扱う「心の動き」とは、まさに
そうしたプログラムの移り変わりのことを言っています。
当然、全てのプログラムを自覚しながら生活していては大変です。
しかし、ある程度を意識に上げることで、自分の心の癖に気づけますし、
それを修正するチャンスも多くなります。
何より、自分の心の動きをプログラムとして眺められるようになると
穏やかで落ち着いた視点を維持できますから安定感も増してきます。
また、相手の心の動きを複雑なプログラムの移り変わりとして捉えられれば、
どのプログラムに対して関わっていくかを選ぶこともできるでしょう。
コミュニケーションにおいて言葉に表れているのは、
同時に沢山あらわれているプログラムのうちの1つだけです。
対応すべきプログラムは、言葉になったものだけではありません。
むしろ相手自身も自覚していないプログラムこそが大事なことも多いものです。
例えば、誰かが不満を言っている場面を考えたときにも
その不満の周りには様々なプログラムが関わっているといえます。
「一体どうなっているんだ?ちゃんと説明しろ!」という表面上の言葉の他にも
いつものような良い対応への期待や、ガッカリしたという感情など
注目に値するプログラムがたくさんあります。
本人が自覚していなくても本当に分かって欲しかったメッセージが
「いつものような良い対応への期待」のプログラムにあったとしたら、
そのプログラムに対して「今後はご期待に添えるように○○を工夫していきます」
などと返答したほうが納得してもらえるかもしれません。
言葉にあらわれた表面上のメッセージだけでなく、
表には出ていない様々なメッセージを捉えられるようになると、
コミュニケーションの可能性は大きく広がります。
相手を理解するにあたっても、多面的な見方ができるようになりますし
「一体、何を考えているのか?」といった疑問も減っていくことでしょう。
そのために、言葉として表に出ているメッセージだけでなく、奥に隠れた動きも
『どの瞬間に、どのようなプログラムが働いているか?』
という着眼点で並行して理解するわけです。
24時間の生活中ずっとプログラムを意識するまではしなくても
必要なときにプログラムの移り変わりに注目するのは役立つと考えられます。
この着眼点に慣れるには、まずプログラムの理解が求められます。
性質を知ったうえで、どこに注目するかを心がける。
それから、実際にプログラムを意識する練習が必要でしょう。
そのために講座中では、いくつかの実習を通じて体験学習をします。
着眼点のコツを体験的に身につけるような時間を取るわけです。
あとは実践的な練習です。
様々な題材を用いて、心の動きをプログラムとして理解する練習をします。
慣れてくるほど、心の動きを分割して捉えられるようになるはずです。
そして、この分割の作業がポイントです。
1つ1つのプログラムに分割して捉える作業とは、いわば
集団の中にいる一人一人の個人差に注目するようなものです。
「日本人は…」、「A型の人は…」、「男性は…」、「ゆとり世代は…」などと
集団としての傾向を見る捉え方もありますが、
目の前の一人と関わる場合には、個人差を気にしたいところではないでしょうか。
それと同様です。
一人の人という捉え方は、その人の中にある様々なプログラムをまとめて
集団として見ているようなものなんです。
プログラムに注目して、
「一人の中にも色々なプログラムがあるものだ」
のように理解しようとする姿勢が、
一人一人を別の人間として見て
「日本人といっても色々な人がいるものだ」
のように理解しようとする姿勢に通じるといえます。
外国に行って現地の人とたくさん出会って、それで初めて
「○○国の人にも色々いるんだなぁ。ひとまとめにはできないな。」
などと感じられるのと同様に、
一人の中のプログラムを細かく注目してみて初めて
「○○さんの中にも色々なプログラムがあるんだなぁ。
簡単にまとめるわけにはいかないな。」
などと思えるようになる。
そうすることで、一人の人を丁寧に理解しようとできるようです。
つまり、プログラムの移り変わりとして心の動きを理解しようとすると
今までよりもずっと多くの関心を向けるようになる、ということです。
相手に対しても、自分に対しても、です。
ほとんどの場合、人は関心を求めています。
関心を向けてもらうための行動がほとんどです。
だから関心を向けられるようになることが役立つんです。
「この人は関心を向けてくれる人だ」と感じてもらえる。
それだけで安心や信頼に繋がります。
コミュニケーションを教える人たちの中には
相手に『寄りそう』ことの大切さを強調する人がいます。
ですが、多くの場合、それは精神論なんです。
どうしたら「この人は自分に寄りそってくれている」と感じてもらえるのか?
最大のカギは『関心を向けること』ではないでしょうか。
関心を向け続けるためのコツは、細かく注目することです。
人の心の動きをプログラムとして細かく捉える。
そのこと自体が人間関係を望ましい方向に導いてくれると期待されます。
相手を理解したい、
他者とのコミュニケーションを良好にしたい、
グチャグチャになっている自分の内面を整理したい、
寛大で穏やかな内面を維持したい、
苦しんでいる人に寄りそいたい、
…様々な目的に役立つ土台の部分のはずです。
今までより少しでも「心」を理解できるようになるための練習をしましょう。
自分自身の気持ちにも、周りの人の気持ちにも
丁寧に関心を向ける時間をお過ごしいただけるよう願っています。
ご興味とご都合が合いましたら、是非お越しください。
◆録音/録画、再生機材に関しまして
講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
※プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
【セミナーの詳細】
≪NLP実践講座 〜心の動きを理解する〜≫
【日時】 7月27日(日)
10:00〜16:30
※開始時間にご注意ください
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 滝野川会館 304集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
詳しくは説明しませんが、脳の機能について調べていくと
「心」というのは実に複雑なものだと思えてきます。
様々な機能が別々に処理されていて、
最終的に辻褄が合うように上手く調整されているようです。
その観点からも、
複数のプログラムが並行して働いている
という考え方は理にかなっているように思えます。
何より、実際に人と深くかかわってみて、自分の心を探ってみて、
「心」は決して単純な傾向として説明できるものではないと感じられます。
確かに、心理学が目指すように
「多くの人には、こういう心の傾向がある」
といった調査をしていくのも価値のあることです。
大勢を相手にするときや、一般論として説明したいときには
多くの人に共通する傾向を知っておくのは役立つでしょう。
ビジネスの場合など、達成すべき課題があるときには
時間を節約しながら、最大の効率で成果を上げるのも求められます。
そのときにも、一般論としての傾向を利用して対処をすると
そこそこの成果を大部分の人に出せますから、
現実的には効率が良いといえます。
「一人一人が別の人間で、全く別の心の動きをしている」という発想は
ほとんどの人が納得してくれるでしょうし、個人差を尊重することこそ
個人の尊厳を大切にすることのように捉える人もいると思います。
そうはいっても多くの人は、一人一人を別々に理解するのは
あくまで理想であって現実的ではない、と感じるのかもしれません。
できることなら、楽に簡単に、1つのシンプルな方法で
全てを扱えてしまったほうが望ましい。
そういう風潮があるように見受けられます。
色々と忙しいし、ストレスも多いから、人間関係や自分の気持ちのことには
それほど時間と労力を使いたくない…ということなんでしょうか。
シンプルな原則や、「絶対にこうだ」と断言してくれる人など
分かりやすいほうが人気があるようです。
「細かく注目して、複雑な心の動きを丁寧に分解して理解しましょう」
なんていう方針は、世の中一般でいったら人気がないとは思います。
忙しい毎日で、たくさんの人と関わるのに
一人一人の心の動きを細かく理解しようなんて
そんな余裕はないかもしれません。
でも、そのほうが目の前の人のことをより深く把握できる。
より正確な理解に近づける。
より相手に沿った対応ができる。
より人の心というものを知ることができる。
より人のことを大切にできる。
大変だけど、そちらを優先しようという人もいると思います。
大変だけど、人の心にはそれだけの労力をかける価値がある
と感じる人もいるでしょう。
そういう人のための講座だといっても良さそうです。
労をいとわない方のお越しをお待ちしています。
NLP実践講座 〜心の動きを理解する〜
(※NLPの概念を使って「心」を説明しますが、
NLPの資格講座の受講経験は必要ではありません。)
少し前に予告を出していた内容になりますが
「心の動きの理解」をテーマとした7月の講座のご案内です。
(※予告の内容はこちらをご覧ください。)
この講座では、NLPの考え方を取り入れて
「心」をプログラムとして理解する
ための着眼点を紹介します。
世間で紹介されるNLPの大部分は
プログラムを変えるところに焦点を当てています。
問題を解決するために、その問題を引き起こすプログラムを特定して
NLPの手法でプログラムを変える。
あるいは、目標達成に向けて望ましいプログラムを取り入れる。
自分自身に対してでも、コーチングやカウンセリングなど他者のサポートとしても
プログラムを変えることで問題解決・目標達成を目指すのが主流です。
この場合、注目すべきは1つのプログラムとなります。
問題として繰り返される感情・思考・行動のパターンをプログラムと捉え、
そのプログラムを変えるように取り組むわけです。
目標達成に役立つプログラムを新たに取り入れる場合でも、
役に立つ思考や行動がパターンとして自然と繰り返されるように働きかけます。
カギになるプログラムを絞り込んで、そのプログラムを変えるのが中心なんです。
ですから、扱うプログラムの数は1つが原則だといえます。
一方、人の「心」そのものは、そういうプログラムが数多く集まってできています。
あらゆる心の動きや振る舞い(思考、行動、感情)がプログラムなんです。
NLPではそのように考えます。
一瞬に注目しても、そこには沢山のプログラムが同時に動いているんです。
例えば、知人と同じペースで歩きながら会話をして、何を答えるかを考えて、
しかも他の通行人とぶつからないように注意を払いつつ、カバンから傘を取りだす
…なんていう作業を全て同時にこなせるのは、
それぞれのプログラムが別々かつ同時に動いているからです。
一般的な用語では「無意識にやっている」なんて言ったりもしますが、
その「無意識」こそがプログラムのなせる技なんです。
プログラムを意識しようが無意識のままだろうが、そんなこととは関係なく
必要な場面では自然とプログラムが動いている。
それも同時に複数のプログラムが並行しています。
もちろん感情にしたって、一種類だけが起きるわけではないんです。
例えば、電車の中で足を踏まれたら…、
瞬間的に「苛立ち」の反応が起きて、
すぐに「電車の中にいるんだった」という認識が生まれ、
それによって「苛立ちを抑えようとする」冷静な気持ちと、
「まぁ、電車の中は揺れるから仕方ない」という思考とが起きる。
それから「でも、踏んだのだから謝るべきだ」という思考が沸いてきて、
「公共の場なんだから人に迷惑をかけないようにするものだろう」と思考が続き、
それに引き続いて「フツフツとした怒り」が上がってくる。
その怒りの反応を自覚して「あー、やっぱりムカつく!」という考えが浮かび、
「くそー、やっぱり人が少ない隣の車両に行けば良かった」などと反省を考える。
…といった一連の流れが生まれます。
「足を踏まれた」という1つの出来事だけに対しても、ほんの数秒の内に
数多くのプログラムが繋がって作動しているといえます。
もちろん、これらの全てが意識に上がるわけではありません。
瞬間的な出来事であれば、自覚する間もなく1つの反応に集中したり
(例えば、「フツフツとした怒り」だけを感じ続ける、など)、
すぐに忘れて別の体験に集中したりします
(例えば、メールが届いて携帯電話を見る、など)。
本当に次から次へと、無数のプログラムが動き続けているのが人の生活なんです。
この講座で扱う「心の動き」とは、まさに
そうしたプログラムの移り変わりのことを言っています。
当然、全てのプログラムを自覚しながら生活していては大変です。
しかし、ある程度を意識に上げることで、自分の心の癖に気づけますし、
それを修正するチャンスも多くなります。
何より、自分の心の動きをプログラムとして眺められるようになると
穏やかで落ち着いた視点を維持できますから安定感も増してきます。
また、相手の心の動きを複雑なプログラムの移り変わりとして捉えられれば、
どのプログラムに対して関わっていくかを選ぶこともできるでしょう。
コミュニケーションにおいて言葉に表れているのは、
同時に沢山あらわれているプログラムのうちの1つだけです。
対応すべきプログラムは、言葉になったものだけではありません。
むしろ相手自身も自覚していないプログラムこそが大事なことも多いものです。
例えば、誰かが不満を言っている場面を考えたときにも
その不満の周りには様々なプログラムが関わっているといえます。
「一体どうなっているんだ?ちゃんと説明しろ!」という表面上の言葉の他にも
いつものような良い対応への期待や、ガッカリしたという感情など
注目に値するプログラムがたくさんあります。
本人が自覚していなくても本当に分かって欲しかったメッセージが
「いつものような良い対応への期待」のプログラムにあったとしたら、
そのプログラムに対して「今後はご期待に添えるように○○を工夫していきます」
などと返答したほうが納得してもらえるかもしれません。
言葉にあらわれた表面上のメッセージだけでなく、
表には出ていない様々なメッセージを捉えられるようになると、
コミュニケーションの可能性は大きく広がります。
相手を理解するにあたっても、多面的な見方ができるようになりますし
「一体、何を考えているのか?」といった疑問も減っていくことでしょう。
そのために、言葉として表に出ているメッセージだけでなく、奥に隠れた動きも
『どの瞬間に、どのようなプログラムが働いているか?』
という着眼点で並行して理解するわけです。
24時間の生活中ずっとプログラムを意識するまではしなくても
必要なときにプログラムの移り変わりに注目するのは役立つと考えられます。
この着眼点に慣れるには、まずプログラムの理解が求められます。
性質を知ったうえで、どこに注目するかを心がける。
それから、実際にプログラムを意識する練習が必要でしょう。
そのために講座中では、いくつかの実習を通じて体験学習をします。
着眼点のコツを体験的に身につけるような時間を取るわけです。
あとは実践的な練習です。
様々な題材を用いて、心の動きをプログラムとして理解する練習をします。
慣れてくるほど、心の動きを分割して捉えられるようになるはずです。
そして、この分割の作業がポイントです。
1つ1つのプログラムに分割して捉える作業とは、いわば
集団の中にいる一人一人の個人差に注目するようなものです。
「日本人は…」、「A型の人は…」、「男性は…」、「ゆとり世代は…」などと
集団としての傾向を見る捉え方もありますが、
目の前の一人と関わる場合には、個人差を気にしたいところではないでしょうか。
それと同様です。
一人の人という捉え方は、その人の中にある様々なプログラムをまとめて
集団として見ているようなものなんです。
プログラムに注目して、
「一人の中にも色々なプログラムがあるものだ」
のように理解しようとする姿勢が、
一人一人を別の人間として見て
「日本人といっても色々な人がいるものだ」
のように理解しようとする姿勢に通じるといえます。
外国に行って現地の人とたくさん出会って、それで初めて
「○○国の人にも色々いるんだなぁ。ひとまとめにはできないな。」
などと感じられるのと同様に、
一人の中のプログラムを細かく注目してみて初めて
「○○さんの中にも色々なプログラムがあるんだなぁ。
簡単にまとめるわけにはいかないな。」
などと思えるようになる。
そうすることで、一人の人を丁寧に理解しようとできるようです。
つまり、プログラムの移り変わりとして心の動きを理解しようとすると
今までよりもずっと多くの関心を向けるようになる、ということです。
相手に対しても、自分に対しても、です。
ほとんどの場合、人は関心を求めています。
関心を向けてもらうための行動がほとんどです。
だから関心を向けられるようになることが役立つんです。
「この人は関心を向けてくれる人だ」と感じてもらえる。
それだけで安心や信頼に繋がります。
コミュニケーションを教える人たちの中には
相手に『寄りそう』ことの大切さを強調する人がいます。
ですが、多くの場合、それは精神論なんです。
どうしたら「この人は自分に寄りそってくれている」と感じてもらえるのか?
最大のカギは『関心を向けること』ではないでしょうか。
関心を向け続けるためのコツは、細かく注目することです。
人の心の動きをプログラムとして細かく捉える。
そのこと自体が人間関係を望ましい方向に導いてくれると期待されます。
相手を理解したい、
他者とのコミュニケーションを良好にしたい、
グチャグチャになっている自分の内面を整理したい、
寛大で穏やかな内面を維持したい、
苦しんでいる人に寄りそいたい、
…様々な目的に役立つ土台の部分のはずです。
今までより少しでも「心」を理解できるようになるための練習をしましょう。
自分自身の気持ちにも、周りの人の気持ちにも
丁寧に関心を向ける時間をお過ごしいただけるよう願っています。
ご興味とご都合が合いましたら、是非お越しください。
◆録音/録画、再生機材に関しまして
講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
※プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
【セミナーの詳細】
≪NLP実践講座 〜心の動きを理解する〜≫
【日時】 7月27日(日)
10:00〜16:30
※開始時間にご注意ください
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 滝野川会館 304集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
詳しくは説明しませんが、脳の機能について調べていくと
「心」というのは実に複雑なものだと思えてきます。
様々な機能が別々に処理されていて、
最終的に辻褄が合うように上手く調整されているようです。
その観点からも、
複数のプログラムが並行して働いている
という考え方は理にかなっているように思えます。
何より、実際に人と深くかかわってみて、自分の心を探ってみて、
「心」は決して単純な傾向として説明できるものではないと感じられます。
確かに、心理学が目指すように
「多くの人には、こういう心の傾向がある」
といった調査をしていくのも価値のあることです。
大勢を相手にするときや、一般論として説明したいときには
多くの人に共通する傾向を知っておくのは役立つでしょう。
ビジネスの場合など、達成すべき課題があるときには
時間を節約しながら、最大の効率で成果を上げるのも求められます。
そのときにも、一般論としての傾向を利用して対処をすると
そこそこの成果を大部分の人に出せますから、
現実的には効率が良いといえます。
「一人一人が別の人間で、全く別の心の動きをしている」という発想は
ほとんどの人が納得してくれるでしょうし、個人差を尊重することこそ
個人の尊厳を大切にすることのように捉える人もいると思います。
そうはいっても多くの人は、一人一人を別々に理解するのは
あくまで理想であって現実的ではない、と感じるのかもしれません。
できることなら、楽に簡単に、1つのシンプルな方法で
全てを扱えてしまったほうが望ましい。
そういう風潮があるように見受けられます。
色々と忙しいし、ストレスも多いから、人間関係や自分の気持ちのことには
それほど時間と労力を使いたくない…ということなんでしょうか。
シンプルな原則や、「絶対にこうだ」と断言してくれる人など
分かりやすいほうが人気があるようです。
「細かく注目して、複雑な心の動きを丁寧に分解して理解しましょう」
なんていう方針は、世の中一般でいったら人気がないとは思います。
忙しい毎日で、たくさんの人と関わるのに
一人一人の心の動きを細かく理解しようなんて
そんな余裕はないかもしれません。
でも、そのほうが目の前の人のことをより深く把握できる。
より正確な理解に近づける。
より相手に沿った対応ができる。
より人の心というものを知ることができる。
より人のことを大切にできる。
大変だけど、そちらを優先しようという人もいると思います。
大変だけど、人の心にはそれだけの労力をかける価値がある
と感じる人もいるでしょう。
そういう人のための講座だといっても良さそうです。
労をいとわない方のお越しをお待ちしています。
2014年06月24日
映画のはなし
『トランセンデンス』という映画が話題になっているようです。
ジョニー・デップが主演ということも大きいとは思いますが、
「ある科学者の意識(心)がコンピューターに移されて
ネットの世界に拡大して暴走する…」
といったストーリーが、最先端な印象も出しているのかもしれません。
仮に、スーパーコンピューターの性能が上がって、
人間の脳の働きを再現するように情報を移植できたとしたら、
その人が考えたりするのと同じようなことがコンピューター内で起きる
ということもありえそうだ。
…そんな想定があると思えます。
これは、高性能のコンピューターに人工知能を持たせると
コンピューターが自意識を持って勝手に動き始めるような話にも似ています。
しかし、最初からコンピューター内で知能を生み出して、
自ら環境への新しい対処を作り出せるようにプログラムするのと、
人間の意識をコンピューターに移植するのは意味が違います。
こういうことが現実にあり得たとしたら、多分
そのコンピューターには意志決定ができないんじゃないでしょうか。
というのは、人間の意識決定はほとんど全て感情を利用しているからです。
そして感情は、脳以外の体の部分(身体)で表現され、
その身体反応が脳にフィードバックされることでモニターされています。
論理的にだけ考えれば、何かの選択を迫られる意志決定の瞬間には、
複数の選択肢が想定され、それぞれに対して選択の結果が予測されて
全ての選択の結果を並べて評価したときにどれが望ましいかを検討して、
最も望ましい結果に結びつく選択肢が採用される、といえそうです。
しかしながら実際には、
それぞれの予測において関わってくる要因が多すぎるんです。
全ての可能性を検討する、というのが大変。
もしかするとスーパーコンピューターに移植されていれば
全ての条件を検討することも不可能ではないのかもしれないとはいえ、
一瞬一瞬の選択を全て膨大な計算のもとにやるのは困難でしょう。
そりゃあもう、ものスゴイ性能が求められそうです。
その代わり、人間はパターン化された予測を利用します。
過去の記憶に頼るんです。
「こういうときはこうなるだろう」と。
そしてその予測の結果の評価に感情を用いる。
Aの選択肢で予想される結果には、こんな感情が沸く。
Bの場合には、こんな感情。
Cの場合には、こんな感情…。
そういう作業をやって、身体反応としての感情をモニターして
どれが一番「シックリくるか」によって決定がなされる。
いわゆる『ソマティック・マーカー仮説』と呼ばれるものです。
これは実際に、脳の損傷によって感情を自覚できなくなった患者が
日常的で簡単な意志決定に支障をきたしたことから提唱された理論です。
これを考慮すると、
身体を持たずに意識・心だけをコンピューターに移植しても、
今までの意志決定で使っていた身体反応としての感情的な印象が使えないため
何かを選択して実行に移すというのは厳しいように想像されます。
人間の心は脳だけに依存していないんです。
身体がとても大切。
身体とのフィードバックの相互関係が
人の心の性質と密接に関わっているはずです。
身体に起きる感情を抜きにして、心だけを移植するというのは
あまり起きそうにない想定じゃないかと思います。
まぁ、映画を批判したいわけではありませんし、
映画の想定は現実的かどうかとは関係なく楽しめますから別に構わないんですが。
ジョニー・デップが主演ということも大きいとは思いますが、
「ある科学者の意識(心)がコンピューターに移されて
ネットの世界に拡大して暴走する…」
といったストーリーが、最先端な印象も出しているのかもしれません。
仮に、スーパーコンピューターの性能が上がって、
人間の脳の働きを再現するように情報を移植できたとしたら、
その人が考えたりするのと同じようなことがコンピューター内で起きる
ということもありえそうだ。
…そんな想定があると思えます。
これは、高性能のコンピューターに人工知能を持たせると
コンピューターが自意識を持って勝手に動き始めるような話にも似ています。
しかし、最初からコンピューター内で知能を生み出して、
自ら環境への新しい対処を作り出せるようにプログラムするのと、
人間の意識をコンピューターに移植するのは意味が違います。
こういうことが現実にあり得たとしたら、多分
そのコンピューターには意志決定ができないんじゃないでしょうか。
というのは、人間の意識決定はほとんど全て感情を利用しているからです。
そして感情は、脳以外の体の部分(身体)で表現され、
その身体反応が脳にフィードバックされることでモニターされています。
論理的にだけ考えれば、何かの選択を迫られる意志決定の瞬間には、
複数の選択肢が想定され、それぞれに対して選択の結果が予測されて
全ての選択の結果を並べて評価したときにどれが望ましいかを検討して、
最も望ましい結果に結びつく選択肢が採用される、といえそうです。
しかしながら実際には、
それぞれの予測において関わってくる要因が多すぎるんです。
全ての可能性を検討する、というのが大変。
もしかするとスーパーコンピューターに移植されていれば
全ての条件を検討することも不可能ではないのかもしれないとはいえ、
一瞬一瞬の選択を全て膨大な計算のもとにやるのは困難でしょう。
そりゃあもう、ものスゴイ性能が求められそうです。
その代わり、人間はパターン化された予測を利用します。
過去の記憶に頼るんです。
「こういうときはこうなるだろう」と。
そしてその予測の結果の評価に感情を用いる。
Aの選択肢で予想される結果には、こんな感情が沸く。
Bの場合には、こんな感情。
Cの場合には、こんな感情…。
そういう作業をやって、身体反応としての感情をモニターして
どれが一番「シックリくるか」によって決定がなされる。
いわゆる『ソマティック・マーカー仮説』と呼ばれるものです。
これは実際に、脳の損傷によって感情を自覚できなくなった患者が
日常的で簡単な意志決定に支障をきたしたことから提唱された理論です。
これを考慮すると、
身体を持たずに意識・心だけをコンピューターに移植しても、
今までの意志決定で使っていた身体反応としての感情的な印象が使えないため
何かを選択して実行に移すというのは厳しいように想像されます。
人間の心は脳だけに依存していないんです。
身体がとても大切。
身体とのフィードバックの相互関係が
人の心の性質と密接に関わっているはずです。
身体に起きる感情を抜きにして、心だけを移植するというのは
あまり起きそうにない想定じゃないかと思います。
まぁ、映画を批判したいわけではありませんし、
映画の想定は現実的かどうかとは関係なく楽しめますから別に構わないんですが。
2014年06月22日
自分で探してみる
久しぶりに首を寝違えました。
久しぶりというか、前回の寝違えをもう思い出せないので
かなり少ない体験だと思うんですが、
「あぁ、寝違えるってこういう感じだったっけ」といった印象です。
もしかすると以前よりも体力が衰えてきているのかもしれません。
首という場所も関係して、どういう風にするのが望ましいのか
対処法が分かっていないというのは厄介なものですね。
動かしたほうがいいのか、安静がいいのか。
温めたほうがいいのか、冷やしたほうがいいのか。
なんとなく、温めて周りから全身をストレッチするのが良さそうに感じますが
やはり大事なのは、『実際に試してみて効果をチェックする』ことなんでしょう。
首に負担をかけずに自然と可動域が大きくなっていくよう
色々と対処法を試してみました。
僕は体のケアに関しては専門ではないので
すぐに「こうすればいい」と効果的なやり方を見つけられません。
1つのスタンスとしては自分で調べてみるというのがあると思います。
ネットで「寝違え」などと検索してみたり、本を読んでみたり。
すぐに答えが見つかりますが、意見がバラけるのが難しいところのようです。
もう1つは専門家に相談してみるという対応。
これは賢明だと感じます。
ただし専門家にも色々いるので、誰を選ぶかがポイントになるはずです。
変な医者に当たってしまったら、逆効果という可能性さえ否定できません。
薬剤師に相談して痛み止めを使うのも1つかもしれませんが、
それが本当に望ましい対応なのかどうかは定かではないのも難しいところ。
どの分野の専門家に相談するか?
その専門家は信頼できるか?
結局、選ぶ本人の見る目が求められると思われます。
しかしながら、最終的には「効果があったかどうか」の判別は
自分ですることになるものなのではないでしょうか。
自分で調べたことでも、専門家の助けを得たものでも、
効果を感じ分けられるのは自分になるわけですから。
ダイエットとか、ビジネスとかであれば、
客観的に数字で判定できる要素もありますが、
体の痛みとなると、それを感じ分けているのは自分です。
効果を自分で感じてみて判断するのが自然な流れでしょう。
これは心のことについても同じだと感じます。
そして、自分で判断できる感性が高まっていけば、
少しずつ安全そうな範囲で自分なりにやってみて
結果を自分で判断しながら効果のある方法を探すこともできるはずです。
おそらく今回の僕のケースは、
よく考えずに今までの習慣に沿って取った行動が
あまり体にとっては望ましいものでなかった
ということだろうと感じています。
セミナーが終わって疲れた。
疲労があって頭もボーっとして眠いから仮眠をとる。
ここに「寝れば良くなる」という素人考えがあったのかもしれません。
『休む』と一口に言っても、様々な休ませ方があるんだと感じます。
あえて運動で体を疲れさせることでスッキリすることもあれば、
ゆっくりお風呂に浸かって疲労が抜けることもあるのでしょう。
静かに瞑想するのが効果的な休憩ということもありますし、
一人でゆっくりと散歩するのが良いこともあると考えられます。
寝るにしても自宅だけに限ったことではないわけです。
豪華にホテルで一泊…が良いのかもしれないし、
漫画喫茶で一人の時間を過ごしながら寝るのが良いのかもしれません。
日々の疲れにしても同様です。
自分なりに色々なことをやってみて、
心と体の両方が楽になるのを探すのが役に立つと考えられます。
予想もしていなかった方法や、一見すると逆説的なやり方が
実は自分にとって非常に効果的なケアになっている
ということだってありえますから。
とりあえず僕の場合「疲れたときに、すぐ寝る」というのは
あまり得策ではないみたいです。
久しぶりというか、前回の寝違えをもう思い出せないので
かなり少ない体験だと思うんですが、
「あぁ、寝違えるってこういう感じだったっけ」といった印象です。
もしかすると以前よりも体力が衰えてきているのかもしれません。
首という場所も関係して、どういう風にするのが望ましいのか
対処法が分かっていないというのは厄介なものですね。
動かしたほうがいいのか、安静がいいのか。
温めたほうがいいのか、冷やしたほうがいいのか。
なんとなく、温めて周りから全身をストレッチするのが良さそうに感じますが
やはり大事なのは、『実際に試してみて効果をチェックする』ことなんでしょう。
首に負担をかけずに自然と可動域が大きくなっていくよう
色々と対処法を試してみました。
僕は体のケアに関しては専門ではないので
すぐに「こうすればいい」と効果的なやり方を見つけられません。
1つのスタンスとしては自分で調べてみるというのがあると思います。
ネットで「寝違え」などと検索してみたり、本を読んでみたり。
すぐに答えが見つかりますが、意見がバラけるのが難しいところのようです。
もう1つは専門家に相談してみるという対応。
これは賢明だと感じます。
ただし専門家にも色々いるので、誰を選ぶかがポイントになるはずです。
変な医者に当たってしまったら、逆効果という可能性さえ否定できません。
薬剤師に相談して痛み止めを使うのも1つかもしれませんが、
それが本当に望ましい対応なのかどうかは定かではないのも難しいところ。
どの分野の専門家に相談するか?
その専門家は信頼できるか?
結局、選ぶ本人の見る目が求められると思われます。
しかしながら、最終的には「効果があったかどうか」の判別は
自分ですることになるものなのではないでしょうか。
自分で調べたことでも、専門家の助けを得たものでも、
効果を感じ分けられるのは自分になるわけですから。
ダイエットとか、ビジネスとかであれば、
客観的に数字で判定できる要素もありますが、
体の痛みとなると、それを感じ分けているのは自分です。
効果を自分で感じてみて判断するのが自然な流れでしょう。
これは心のことについても同じだと感じます。
そして、自分で判断できる感性が高まっていけば、
少しずつ安全そうな範囲で自分なりにやってみて
結果を自分で判断しながら効果のある方法を探すこともできるはずです。
おそらく今回の僕のケースは、
よく考えずに今までの習慣に沿って取った行動が
あまり体にとっては望ましいものでなかった
ということだろうと感じています。
セミナーが終わって疲れた。
疲労があって頭もボーっとして眠いから仮眠をとる。
ここに「寝れば良くなる」という素人考えがあったのかもしれません。
『休む』と一口に言っても、様々な休ませ方があるんだと感じます。
あえて運動で体を疲れさせることでスッキリすることもあれば、
ゆっくりお風呂に浸かって疲労が抜けることもあるのでしょう。
静かに瞑想するのが効果的な休憩ということもありますし、
一人でゆっくりと散歩するのが良いこともあると考えられます。
寝るにしても自宅だけに限ったことではないわけです。
豪華にホテルで一泊…が良いのかもしれないし、
漫画喫茶で一人の時間を過ごしながら寝るのが良いのかもしれません。
日々の疲れにしても同様です。
自分なりに色々なことをやってみて、
心と体の両方が楽になるのを探すのが役に立つと考えられます。
予想もしていなかった方法や、一見すると逆説的なやり方が
実は自分にとって非常に効果的なケアになっている
ということだってありえますから。
とりあえず僕の場合「疲れたときに、すぐ寝る」というのは
あまり得策ではないみたいです。
2014年06月20日
いつもの夢
夢に関しては様々な説明の仕方があります。
が、どれも確実なことは言えません。
示す方法がないというのが実情ではないでしょうか。
色々な説を見ても、どれも「もっともらしい」印象さえ薄いところ。
仮定として面白いものはいくつかあっても、
そもそも夢以外の意識活動について分からないことが多すぎますから
夢だけを個別に説明するのも難しいものなのかもしれません。
個人的に気になるのは、何度も繰り返して見るタイプの夢があることです。
「タイプ」といったのは、正確に同じ夢ではないからです。
同じような出来事が含まれる、ということです。
ただし、「空を飛ぶ夢」とか「何かから落ちる夢」というほど大まかではなく、
ある程度の共通する場面設定とイベントがあるんです。
そこに登場する人物が違うとか、景色の詳細が違うとか
そういったバリエーションはありますが、かなり似た構造をしているようです。
僕の場合、よく見るタイプの夢が何種類かありますが
1つを挙げるなら「テスト直前に勉強が追いついていない」話があります。
これはかなり頻繁に見ます。
ストーリーの始まりは、なぜか決まってテストの前日か当日。
24時間以内のタイミングです。
それでテスト範囲とか、やらないといけないことが分かっているのに
全然終わっていない状態なんです。
で、焦る。
そして何故か、テストの場面になることなく、その夢は終わります。
目が覚めることもあれば、別の話に変わってしまうことも。
そのテスト勉強の場面が一人だったり、他の人と一緒だったり、
テストの科目が違っていたり、部屋の景色が少し違っていたり…
そのあたりのバリエーションはあるんですが、
・学校のテストだということ
・複数の科目があるということ
・24時間以内であるということ
・作業の量が追いつかない見込みだということ
・それでも必死で何とかしようとしていること
・時間が過ぎていって焦りが高まっていくこと
などが共通します。
では、そういう体験がどこから来るのかというと、
全く心当たりが無いんです。
テスト前にそういう体験をしたことは一度もありません。
もっといえば、最近、そんな風に焦るようなテストを受けてもいないし、
テストが間近に迫ってストレスを感じているところもない。
日常生活と照らし合わせて関連することも見つかりませんし、
いわゆる夢のワークをやっても、これに関しては何もピンとこない。
ただただ、繰り返し何度も、ずーっと見続けてきている夢なんです。
一体なんなのか?
何がこの夢を見させているのか?
もしかすると他にも繰り返し見ている夢があるかもしれないのに
何種類かだけ印象に残っているのは何が関わっているのか?
分からないことばかりです。
まあ、悪夢ってほどでないのは助かりますが。
が、どれも確実なことは言えません。
示す方法がないというのが実情ではないでしょうか。
色々な説を見ても、どれも「もっともらしい」印象さえ薄いところ。
仮定として面白いものはいくつかあっても、
そもそも夢以外の意識活動について分からないことが多すぎますから
夢だけを個別に説明するのも難しいものなのかもしれません。
個人的に気になるのは、何度も繰り返して見るタイプの夢があることです。
「タイプ」といったのは、正確に同じ夢ではないからです。
同じような出来事が含まれる、ということです。
ただし、「空を飛ぶ夢」とか「何かから落ちる夢」というほど大まかではなく、
ある程度の共通する場面設定とイベントがあるんです。
そこに登場する人物が違うとか、景色の詳細が違うとか
そういったバリエーションはありますが、かなり似た構造をしているようです。
僕の場合、よく見るタイプの夢が何種類かありますが
1つを挙げるなら「テスト直前に勉強が追いついていない」話があります。
これはかなり頻繁に見ます。
ストーリーの始まりは、なぜか決まってテストの前日か当日。
24時間以内のタイミングです。
それでテスト範囲とか、やらないといけないことが分かっているのに
全然終わっていない状態なんです。
で、焦る。
そして何故か、テストの場面になることなく、その夢は終わります。
目が覚めることもあれば、別の話に変わってしまうことも。
そのテスト勉強の場面が一人だったり、他の人と一緒だったり、
テストの科目が違っていたり、部屋の景色が少し違っていたり…
そのあたりのバリエーションはあるんですが、
・学校のテストだということ
・複数の科目があるということ
・24時間以内であるということ
・作業の量が追いつかない見込みだということ
・それでも必死で何とかしようとしていること
・時間が過ぎていって焦りが高まっていくこと
などが共通します。
では、そういう体験がどこから来るのかというと、
全く心当たりが無いんです。
テスト前にそういう体験をしたことは一度もありません。
もっといえば、最近、そんな風に焦るようなテストを受けてもいないし、
テストが間近に迫ってストレスを感じているところもない。
日常生活と照らし合わせて関連することも見つかりませんし、
いわゆる夢のワークをやっても、これに関しては何もピンとこない。
ただただ、繰り返し何度も、ずーっと見続けてきている夢なんです。
一体なんなのか?
何がこの夢を見させているのか?
もしかすると他にも繰り返し見ている夢があるかもしれないのに
何種類かだけ印象に残っているのは何が関わっているのか?
分からないことばかりです。
まあ、悪夢ってほどでないのは助かりますが。
2014年06月18日
デジタル派?アナログ派?
僕の部屋におかれている時計は、ほとんどがデジタルです。
アナログ(長針と短針が回っているヤツ)は1つだけ。
腕時計は滅多に使わないものの、何かのテストを受けるときに
「携帯電話やスマートフォンは持ち込み不可。シンプルな時計なら可。」
ということがあったので、1つだけ腕時計を持っているんですが、
やっぱりそれもデジタルです。
普段から時間を携帯電話やパソコンの時間表示で確認することが多いのも
デジタルに慣れてきている理由の1つかもしれません。
でも、セミナー会場は大体の場合、アナログ時計が置かれているので
セミナーの時間を把握するにはアナログに頼ることが多いようです。
となると、僕はどういう時間感覚なのでしょうか?
デジタル派、アナログ派と聞かれると、とても答えにくいんです。
ただ、僕がデジタルを活用したいのは、ほぼ必ず
「残り時間あと何分?」というのが気になる時です。
ですから、1時間よりも短い時間を気にするときには、
デジタルが都合が良いんでしょう。
その意味では、僕の時間感覚は『引き算』で成り立っているのかもしれません。
デジタルの数字を見て、「残り時間はあと○○分」と計算するわけです。
例えば、自宅から駅までの所要時間を分単位で把握していて
出発前には電車の時刻表をネットで調べていますから、
僕が家を出る時間は分単位で設定されているんです。
その時間までの残りもやはり分単位で計算されますから
デジタル時計で「あと何分」と見ながら出発時間まで過ごすことになります。
これはどうやら、学生時代からテストの残り時間をどう使うかとか、
実験の測定時間が分刻みになっていたとか、
そういった経験で「あと何分?」の感じが身についたように思えます。
僕の中では、この「残り何分」の感じが表れるタイミングと、
そうでないときとが両方あるみたいで、
残り時間を気にせずに過ごしている「あいまいな時間」と
「あと何分?」が意識に上がる「ハッキリした時間」とが感じられます。
仮に、どこかへ向かうということであれば、
起きる時間は睡眠から目覚めという「あいまいな時間」で設定されるので、
目覚まし時計はタイミングをずらしながら3つぐらい使って
一番スッキリ起きられる目覚ましで布団から出てきます。
しかし一度起きたら、その後は「出発予定時間まであと○○分」を意識して
ハッキリとしたデジタルの時間感覚で過ごします。
そして自宅を出て、駅までの時間はすでに所要時間が設定されているので
時間を気にせずに、あいまいな時間感覚で歩きます。
駅のホームに近づくと電車の発車案内の電光掲示板を見て
そこに書かれたデジタルの出発予定時間を元に、再び「あと何分」と感じます。
ホームで電車の到着を告げる音声が聞こえたら、また
あいまいな時間に戻って、電車を待ち、乗り込みます。
電車の所要時間もすでに設定されているので、ここでもやはり
あいまいな時間感覚で時計を気にせずに過ごすことになります。
電車が目的の駅に到着した後も、
そこから目的地までの所要時間を知っていれば時間を気にせず移動。
ですが、初めての場所だったりすると、「あと何分で〜へ」という考えが起きて
デジタルで「残り何分」と引き算しながら移動をしているようです。
こんな具合に、
「あと何分」の予定が気になるタイミングでだけ時計を見る
習慣ができていて、
それ以外のときにはあまり時計を見ないから
僕はデジタルの時計を利用することが多いのかもしれません。
一方、セミナーはもっと大まかな時間単位で流れを把握しているため
アナログ時計で、「針がこの辺にくるまでに、これをやる」ぐらいが
どうやら丁度いいんだろうと思えます。
反面、終了時間はピッタリにはならないんですが。
ちなみに、僕がデジタルの時間感覚で「残り何分」を気にして過ごすときは
テストの終了直前のラストスパートの状態と近い感じになるので
情報処理速度が上がっている感じになります。
そんな状態でセミナーをやったら、情報量が多くなりすぎて
とてもではないでしょうが、忙し過ぎるセミナーになってしまうと思います。
常に時間に追われながら一日のセミナーを過ごすなんて
それだけでもストレスがかかりそうです。
どちらかというと、
時間のことなんて忘れてリゾート気分でゆったり…
に近い「あいまいな時間」感覚で過ごすのも
日頃のストレスを解消する意味のある時間のような気もします。
そう考えると、セミナー会場の時計はアナログが丁度いいのかもしれません。
アナログ(長針と短針が回っているヤツ)は1つだけ。
腕時計は滅多に使わないものの、何かのテストを受けるときに
「携帯電話やスマートフォンは持ち込み不可。シンプルな時計なら可。」
ということがあったので、1つだけ腕時計を持っているんですが、
やっぱりそれもデジタルです。
普段から時間を携帯電話やパソコンの時間表示で確認することが多いのも
デジタルに慣れてきている理由の1つかもしれません。
でも、セミナー会場は大体の場合、アナログ時計が置かれているので
セミナーの時間を把握するにはアナログに頼ることが多いようです。
となると、僕はどういう時間感覚なのでしょうか?
デジタル派、アナログ派と聞かれると、とても答えにくいんです。
ただ、僕がデジタルを活用したいのは、ほぼ必ず
「残り時間あと何分?」というのが気になる時です。
ですから、1時間よりも短い時間を気にするときには、
デジタルが都合が良いんでしょう。
その意味では、僕の時間感覚は『引き算』で成り立っているのかもしれません。
デジタルの数字を見て、「残り時間はあと○○分」と計算するわけです。
例えば、自宅から駅までの所要時間を分単位で把握していて
出発前には電車の時刻表をネットで調べていますから、
僕が家を出る時間は分単位で設定されているんです。
その時間までの残りもやはり分単位で計算されますから
デジタル時計で「あと何分」と見ながら出発時間まで過ごすことになります。
これはどうやら、学生時代からテストの残り時間をどう使うかとか、
実験の測定時間が分刻みになっていたとか、
そういった経験で「あと何分?」の感じが身についたように思えます。
僕の中では、この「残り何分」の感じが表れるタイミングと、
そうでないときとが両方あるみたいで、
残り時間を気にせずに過ごしている「あいまいな時間」と
「あと何分?」が意識に上がる「ハッキリした時間」とが感じられます。
仮に、どこかへ向かうということであれば、
起きる時間は睡眠から目覚めという「あいまいな時間」で設定されるので、
目覚まし時計はタイミングをずらしながら3つぐらい使って
一番スッキリ起きられる目覚ましで布団から出てきます。
しかし一度起きたら、その後は「出発予定時間まであと○○分」を意識して
ハッキリとしたデジタルの時間感覚で過ごします。
そして自宅を出て、駅までの時間はすでに所要時間が設定されているので
時間を気にせずに、あいまいな時間感覚で歩きます。
駅のホームに近づくと電車の発車案内の電光掲示板を見て
そこに書かれたデジタルの出発予定時間を元に、再び「あと何分」と感じます。
ホームで電車の到着を告げる音声が聞こえたら、また
あいまいな時間に戻って、電車を待ち、乗り込みます。
電車の所要時間もすでに設定されているので、ここでもやはり
あいまいな時間感覚で時計を気にせずに過ごすことになります。
電車が目的の駅に到着した後も、
そこから目的地までの所要時間を知っていれば時間を気にせず移動。
ですが、初めての場所だったりすると、「あと何分で〜へ」という考えが起きて
デジタルで「残り何分」と引き算しながら移動をしているようです。
こんな具合に、
「あと何分」の予定が気になるタイミングでだけ時計を見る
習慣ができていて、
それ以外のときにはあまり時計を見ないから
僕はデジタルの時計を利用することが多いのかもしれません。
一方、セミナーはもっと大まかな時間単位で流れを把握しているため
アナログ時計で、「針がこの辺にくるまでに、これをやる」ぐらいが
どうやら丁度いいんだろうと思えます。
反面、終了時間はピッタリにはならないんですが。
ちなみに、僕がデジタルの時間感覚で「残り何分」を気にして過ごすときは
テストの終了直前のラストスパートの状態と近い感じになるので
情報処理速度が上がっている感じになります。
そんな状態でセミナーをやったら、情報量が多くなりすぎて
とてもではないでしょうが、忙し過ぎるセミナーになってしまうと思います。
常に時間に追われながら一日のセミナーを過ごすなんて
それだけでもストレスがかかりそうです。
どちらかというと、
時間のことなんて忘れてリゾート気分でゆったり…
に近い「あいまいな時間」感覚で過ごすのも
日頃のストレスを解消する意味のある時間のような気もします。
そう考えると、セミナー会場の時計はアナログが丁度いいのかもしれません。
2014年06月16日
調べるのが難しい時代
分からないことがあったとき、僕は結構すぐに調べるほうです。
考えてから調べることもありますが、
調べないままにすることは少ないみたいです。
特に、携帯電話やスマートフォンで調べやすくなってからは
気になったことを放っておかないことが増えたように感じます。
世間一般を見ても、インターネットから様々な情報を入手することが
増えてきているような印象を受けます。
「あれ、これって何だっけ?
分からない。
じゃあ、ちょっと調べてみよう。」
といった感じ。
ただ、この『調べる』の場合、情報源が重要になります。
どういう根拠の情報なのか、と。
この情報源に関しても、大別すると
・個人の見解に由来するもの
・全体としての知識体系と一部となるもの
があるはずです。
この区別は必ずしも学問的かどうかの話ではありません。
言いだしっぺが特定できるかどうかでもありません。
「その情報は、これまでの他の知見と辻褄が合うか?」です。
例えば、フロイトの防衛機制や、マズローの自己実現理論は
心理学という学問の範囲内で語られますが、
その理論と関連づけられる他の科学の知見はありません。
統計を使って説明される心理学の発見も、
その観察結果が確からしいことを示すまでであって、
他の知見と結びつけることは困難です。
一方、化学や物理などのサイエンス分野では、
注目する現象の大きさをズームインしたりズームアウトしたりすると
相互に密接な繋がりが見えてきます。
一言でいえば、エネルギーの相互作用という観点に集約する。
数学は説明するための言語の1つといったところでしょうか。
測定データを元に、英語や日本語で説明をするのと同様に
数式そのもので議論を進めるやり方があるということです。
このように、
「物事がどのように相互作用しているか」を
専門的に定義された言語を使って説明して、
得られている知見が全て辻褄の合うように知識を集約する
というのが、サイエンスの基本的なスタンスだと思われます。
それには全ての知見を集約させるためのルールが必要です。
そのルールの元で語られた情報が集約されて、
一人の人間では到底把握しきれないだけの膨大な知識となっている。
(だからルールに則らずに発表されたものは、どんなに斬新でも
それはサイエンスには組み込まれず、
ただの個人的見解として受け取られることになるわけですが…)
これまでサイエンスで調べられてきたその膨大な知識へ追加するように
1つの「分からなかった」現象を説明していくことで、
新たに1つ「分かる」ことが増えるといえる。
そういうスタンスで「分かる」を増やしていく方向性があります。
こっちは個人の見解ではなくて、人類の知識の集結なんです。
なお最近では心理学の知見も、脳機能と関連づけることで
脳という物質レベルの相互作用として説明されつつあって、
心のメカニズムをサイエンスに含めようとする流れも見られます。
ということで、
・個人的見解として語られる情報
・全体としての知識体系の一部となる情報
とがある、といった話です。
で、分からないことがあったときにインターネットやら本やらで調べると
この両方の種類の情報が、あまり区別されずに見つかってしまうんです。
学術論文の体裁をとっていても、必ずしも
1つの大きな知識体系の一部とはなっておらず、
個人の見解が発表されていることはよくあるものです。
特に、日本でいわゆる文系として扱われる分野の学術論文では
「○○がこう言った。それに対して△△はこう言った。
両者には〜の視点が欠けている。
私は〜を元に、…だと考える。」
といった論じ方が多いんです。
過去の見解に対する反論や付け加えで議論が進む。
これはこれで議論として面白いものでしょう。
ただ、サイエンスが1つの集合知識を作ろうとする方向性とは違う気がします。
人それぞれ意見があって、皆で意見を戦わせながら
議論の歴史を重ねていく感じに見えます。
もちろん、歴史的な資料が発見されて説得力が上がる意見もあるでしょうが、
『事実』というものが厳密に調べられない以上、
個人の見解に影響を受けることは避けられないと考えられます。
現実的には、そうした意見を数多く引用して、自分の経験と結びつけて
自分の生活や仕事に役立つ発想を利用できれば望ましいわけです。
ですから、誰の見解を採用しようが個人の自由だといえますし、
「最終的に自分に役だった」、「自分が納得できた」
ということが重要なんだと思います。
良し悪しではなく、サイエンスとは取り組みの方向性が違うだけのことです。
学術的であっても、学術的でなくても、個人の意見に由来する情報がある。
「私はこう思う」と言っているものでも、
「○○はこう言った」と説明しているものでも、
「〜の教えでは伝統的にこのように言われている」と伝授してくれるものでも、
出発点が個人的見解となっている。
サイエンスの方向性とは別の情報がある、と。
この区別をしているのは、調べた後の結果に違いが生まれるからです。
サイエンスとして1つの集合知識から調べた場合、
どこまで調べるかは詳しさの程度によって決まります。
言い換えると、周辺分野の情報をどれだけ必要とするか、ということです。
例えば、遺伝子が耳の形にどのように影響するかを調べたとしたら、
「〜という遺伝子が関係しています」で済ますのか、
「その遺伝子は何番染色体のどの部位にあるか」まで調べるのか、
「その遺伝子が発現するタンパク質が発生段階にどのように作用して
耳の形を決定するか」まで調べるのか…、
色々なレベルで情報を集められます。
「そもそもDNAって何だ?」とか
「塩基同士の水素結合ってどういうこと?」とか
「分子が電気的に偏るって?」とか
「炭素の原子軌道って?」とか
1つの物事を詳しく説明するためのレベルには際限がありません。
遺伝子と耳の形の話であれば、
化学でも物理でも、様々な前提知識まで広げていけるわけです。
あとは、調べる本人がどこまで知りたいか、でしょう。
関連知識の詳しさによって調べる範囲も変わるはずです。
調べる情報量と関係するのは、
「どれだけ詳細な理解をするか」
だといえます。
一方、個人的見解に由来する情報の場合、
調べる情報量と関係するのは
「そのテーマについて、どれだけ見解のバリエーションを求めるか」
になるでしょう。
例えば、
「耳の形について、江戸時代の○○は〜といっている」
「東洋医学では耳の形には…との関係性が説明されている」
「〜の国では、…のような耳が美しいとされている」
などと、
情報の出所を広げていく形になります。
こちらも調べればキリがありません。
そして調べるほどに知見は広がっていきますが、
それぞれの見解同士が矛盾することがあるのも特徴でしょう。
だからこそ「○○は〜といった。私は…だと思う。」という議論が起きる。
調べながら意見の違いを比べたり、共通点を探したりして
情報量を増やしていくんだと思います。
もちろん、沢山の情報を集めて
「なるほど、色々な意見があるんだなぁ」
と感じて調べ物が終わることもあるはずですが、
人によっては、
「だとすると、自分の経験からしても、この意見に賛同するなぁ」
なんて結論に辿り着くこともあるようです。
こうした情報の種類の違いは、以上のように調べる量を増やすほどに
顕著な傾向として見えてくると考えられます。
詳しく専門的な情報が増えてくるのか、
発言者によって様々な意見の違いが見えてくるのか。
この傾向の違いで、調べた結果として得られるものが変わってくるわけです。
いわば、
仕組みを詳しく知っていく方向性
と
様々な意見を数多く知っていく方向性
がある、
ということです。
だからこそ、詳しく調べなかった場合に起きることも
違った結果となりがちです。
集合的知識として全体で辻褄があった情報の場合(サイエンス寄り)
調べる程度は「仕組みの詳しさ」ですから、
詳しく調べなかった場合には分かりやすくするための「ごまかし」によって
誤解をしてしまう可能性があります。
特に、詳しく調べていない知識を、他の現象の説明に利用しようとすると
矛盾が起きていることに気づかない、という結果が起きがちです。
一方、個人的見解を調べていく場合には
調べる方向性が「意見の種類」になりますから、
詳しく調べなかった場合には「見つかる意見の偏り」によって
入手できる見解が片寄ってしまう可能性があります。
政治的な話、文化・歴史的な話などは特に影響が出やすそうです。
視点によって引っ張り出す情報源も違ってくるでしょうから
様々な視点からの意見を均等に捉えるのは簡単ではないかもしれません。
ここにインターネットという媒体が加わりますから、
さらに事態はややこしくなる気がします。
検索したときに上位に出てくる情報が見られやすくなって
それがまるで正しいかのように思えてしまうこともあるでしょう。
分かりやすくするための大雑把な説明や、1つの視点からだけの意見が
インターネットの検索で上位を占めてしまえば、
調べものの結果として「勘違い」や「偏見」を抱く可能性さえ否定できない。
調べやすくなったからこそ、難しいところだと思われます。
考えてから調べることもありますが、
調べないままにすることは少ないみたいです。
特に、携帯電話やスマートフォンで調べやすくなってからは
気になったことを放っておかないことが増えたように感じます。
世間一般を見ても、インターネットから様々な情報を入手することが
増えてきているような印象を受けます。
「あれ、これって何だっけ?
分からない。
じゃあ、ちょっと調べてみよう。」
といった感じ。
ただ、この『調べる』の場合、情報源が重要になります。
どういう根拠の情報なのか、と。
この情報源に関しても、大別すると
・個人の見解に由来するもの
・全体としての知識体系と一部となるもの
があるはずです。
この区別は必ずしも学問的かどうかの話ではありません。
言いだしっぺが特定できるかどうかでもありません。
「その情報は、これまでの他の知見と辻褄が合うか?」です。
例えば、フロイトの防衛機制や、マズローの自己実現理論は
心理学という学問の範囲内で語られますが、
その理論と関連づけられる他の科学の知見はありません。
統計を使って説明される心理学の発見も、
その観察結果が確からしいことを示すまでであって、
他の知見と結びつけることは困難です。
一方、化学や物理などのサイエンス分野では、
注目する現象の大きさをズームインしたりズームアウトしたりすると
相互に密接な繋がりが見えてきます。
一言でいえば、エネルギーの相互作用という観点に集約する。
数学は説明するための言語の1つといったところでしょうか。
測定データを元に、英語や日本語で説明をするのと同様に
数式そのもので議論を進めるやり方があるということです。
このように、
「物事がどのように相互作用しているか」を
専門的に定義された言語を使って説明して、
得られている知見が全て辻褄の合うように知識を集約する
というのが、サイエンスの基本的なスタンスだと思われます。
それには全ての知見を集約させるためのルールが必要です。
そのルールの元で語られた情報が集約されて、
一人の人間では到底把握しきれないだけの膨大な知識となっている。
(だからルールに則らずに発表されたものは、どんなに斬新でも
それはサイエンスには組み込まれず、
ただの個人的見解として受け取られることになるわけですが…)
これまでサイエンスで調べられてきたその膨大な知識へ追加するように
1つの「分からなかった」現象を説明していくことで、
新たに1つ「分かる」ことが増えるといえる。
そういうスタンスで「分かる」を増やしていく方向性があります。
こっちは個人の見解ではなくて、人類の知識の集結なんです。
なお最近では心理学の知見も、脳機能と関連づけることで
脳という物質レベルの相互作用として説明されつつあって、
心のメカニズムをサイエンスに含めようとする流れも見られます。
ということで、
・個人的見解として語られる情報
・全体としての知識体系の一部となる情報
とがある、といった話です。
で、分からないことがあったときにインターネットやら本やらで調べると
この両方の種類の情報が、あまり区別されずに見つかってしまうんです。
学術論文の体裁をとっていても、必ずしも
1つの大きな知識体系の一部とはなっておらず、
個人の見解が発表されていることはよくあるものです。
特に、日本でいわゆる文系として扱われる分野の学術論文では
「○○がこう言った。それに対して△△はこう言った。
両者には〜の視点が欠けている。
私は〜を元に、…だと考える。」
といった論じ方が多いんです。
過去の見解に対する反論や付け加えで議論が進む。
これはこれで議論として面白いものでしょう。
ただ、サイエンスが1つの集合知識を作ろうとする方向性とは違う気がします。
人それぞれ意見があって、皆で意見を戦わせながら
議論の歴史を重ねていく感じに見えます。
もちろん、歴史的な資料が発見されて説得力が上がる意見もあるでしょうが、
『事実』というものが厳密に調べられない以上、
個人の見解に影響を受けることは避けられないと考えられます。
現実的には、そうした意見を数多く引用して、自分の経験と結びつけて
自分の生活や仕事に役立つ発想を利用できれば望ましいわけです。
ですから、誰の見解を採用しようが個人の自由だといえますし、
「最終的に自分に役だった」、「自分が納得できた」
ということが重要なんだと思います。
良し悪しではなく、サイエンスとは取り組みの方向性が違うだけのことです。
学術的であっても、学術的でなくても、個人の意見に由来する情報がある。
「私はこう思う」と言っているものでも、
「○○はこう言った」と説明しているものでも、
「〜の教えでは伝統的にこのように言われている」と伝授してくれるものでも、
出発点が個人的見解となっている。
サイエンスの方向性とは別の情報がある、と。
この区別をしているのは、調べた後の結果に違いが生まれるからです。
サイエンスとして1つの集合知識から調べた場合、
どこまで調べるかは詳しさの程度によって決まります。
言い換えると、周辺分野の情報をどれだけ必要とするか、ということです。
例えば、遺伝子が耳の形にどのように影響するかを調べたとしたら、
「〜という遺伝子が関係しています」で済ますのか、
「その遺伝子は何番染色体のどの部位にあるか」まで調べるのか、
「その遺伝子が発現するタンパク質が発生段階にどのように作用して
耳の形を決定するか」まで調べるのか…、
色々なレベルで情報を集められます。
「そもそもDNAって何だ?」とか
「塩基同士の水素結合ってどういうこと?」とか
「分子が電気的に偏るって?」とか
「炭素の原子軌道って?」とか
1つの物事を詳しく説明するためのレベルには際限がありません。
遺伝子と耳の形の話であれば、
化学でも物理でも、様々な前提知識まで広げていけるわけです。
あとは、調べる本人がどこまで知りたいか、でしょう。
関連知識の詳しさによって調べる範囲も変わるはずです。
調べる情報量と関係するのは、
「どれだけ詳細な理解をするか」
だといえます。
一方、個人的見解に由来する情報の場合、
調べる情報量と関係するのは
「そのテーマについて、どれだけ見解のバリエーションを求めるか」
になるでしょう。
例えば、
「耳の形について、江戸時代の○○は〜といっている」
「東洋医学では耳の形には…との関係性が説明されている」
「〜の国では、…のような耳が美しいとされている」
などと、
情報の出所を広げていく形になります。
こちらも調べればキリがありません。
そして調べるほどに知見は広がっていきますが、
それぞれの見解同士が矛盾することがあるのも特徴でしょう。
だからこそ「○○は〜といった。私は…だと思う。」という議論が起きる。
調べながら意見の違いを比べたり、共通点を探したりして
情報量を増やしていくんだと思います。
もちろん、沢山の情報を集めて
「なるほど、色々な意見があるんだなぁ」
と感じて調べ物が終わることもあるはずですが、
人によっては、
「だとすると、自分の経験からしても、この意見に賛同するなぁ」
なんて結論に辿り着くこともあるようです。
こうした情報の種類の違いは、以上のように調べる量を増やすほどに
顕著な傾向として見えてくると考えられます。
詳しく専門的な情報が増えてくるのか、
発言者によって様々な意見の違いが見えてくるのか。
この傾向の違いで、調べた結果として得られるものが変わってくるわけです。
いわば、
仕組みを詳しく知っていく方向性
と
様々な意見を数多く知っていく方向性
がある、
ということです。
だからこそ、詳しく調べなかった場合に起きることも
違った結果となりがちです。
集合的知識として全体で辻褄があった情報の場合(サイエンス寄り)
調べる程度は「仕組みの詳しさ」ですから、
詳しく調べなかった場合には分かりやすくするための「ごまかし」によって
誤解をしてしまう可能性があります。
特に、詳しく調べていない知識を、他の現象の説明に利用しようとすると
矛盾が起きていることに気づかない、という結果が起きがちです。
一方、個人的見解を調べていく場合には
調べる方向性が「意見の種類」になりますから、
詳しく調べなかった場合には「見つかる意見の偏り」によって
入手できる見解が片寄ってしまう可能性があります。
政治的な話、文化・歴史的な話などは特に影響が出やすそうです。
視点によって引っ張り出す情報源も違ってくるでしょうから
様々な視点からの意見を均等に捉えるのは簡単ではないかもしれません。
ここにインターネットという媒体が加わりますから、
さらに事態はややこしくなる気がします。
検索したときに上位に出てくる情報が見られやすくなって
それがまるで正しいかのように思えてしまうこともあるでしょう。
分かりやすくするための大雑把な説明や、1つの視点からだけの意見が
インターネットの検索で上位を占めてしまえば、
調べものの結果として「勘違い」や「偏見」を抱く可能性さえ否定できない。
調べやすくなったからこそ、難しいところだと思われます。
2014年06月14日
英語の相づち
前回に引き続き、相槌の話題で。
今度は英語の相槌の話です。
どうやら英語のコミュニケーションでは、日本語よりも
はるかに相づちのバリエーションが多いようです。
正確には「相づち」と呼ぶかどうか分かりませんが、
一言、二言のフレーズで返答するという点、
相手の話の内容そのものを返答の中に含まないという点では
日本語の相づちと共通するところがあると思われます。
英語文化でのコミュニケーションでは、相手の話の内容をしっかりと聞いて
それに対して的確な返答ができることが「話を聞いてくれている」ものとして
望ましいとされるそうで、日本人ほど頻繁には反応しないみたいです。
ですから、日本人よりもずっと、うなずく頻度が低い。
日本人は積極的にうなずきながら、「うん、…うん、…あー」などと
話を促すような関わり方をする傾向にありますが、
これが英語圏では静かに相手を直視して話を聞き続け
(もちろん、うなずきますし「 Uh-huh 」などと話の続きを促しますが)
適度なタイミングで『話の内容を参考にした返答』をするように見受けられます。
ときとしてそれは、関連する話題であったり、持論の展開であったり、
賛同を示したり、反論を示したりと色々ですが、
相手の話の内容に込められた意見・主張に対して反応する
ということに共通点がありそうです。
そのため、相づちとして使われる一言、二言の返答であっても
・I see.
・I got it.
・That make sense.
・Sure.
・Of course.
・Right.
・True.
・Exactly (Precisely).
・Definitely., Absolutely.
・I agree.
・Maybe., Probably.
・Not necessarily.
・I don't think so.
・Good.
・Excellent.
…などと様々ですし、
日本人が初めて聞いたら何のニュアンスか掴めないようなものもあります。
まぁ、日本語でも自覚せずにバリエーションを駆使しているかもしれませんが
僕は個人的に、感情に対して返答しようとする分、
いわゆる「相づち」のようなものは比較的単調にしている気がします。
(その間に、返答の仕方を探る感じでしょうか)
で、英語の相づちですが、上のようにメジャーなところを並べてみても
話の内容や主張の方向性に対して立場を示すものが多い印象を受けます。
内容をあまり評価しない感じなのは
・I see.
・I got it.
・That make sense.
あたりの「話の意味が分かった」というニュアンスのものでしょうか。
「あなたはそういう考えなんですね」
「あなたの言っていることが分かりました」
といった感じの方向性。
日本語の相づちでいえば
「そうですか」
「あー、そういうことですか」
に近いでしょうか。
それに比べると
・Sure.
・Of course.
・Right.
・True.
あたりは、相手の話の内容を「当然だ、正しい」と判断する感じを受けます。
客観的な視点も含みながら、
「そうですよね」
「本当ですね」
「その通りですね」
と納得感を示しているのでしょう。
個人的な見解として同意見だと言っているというよりは
もっと一般的、客観的傾向として「その通りだ」といった印象。
この「その通り」をもっと強めると
・Exactly (Precisely).
・Definitely., Absolutely.
あたりになるようです。
客観性としての確率が高まる感じでしょうか。
「まさに」
「おっしゃる通り」
に近いかもしれません。
一方、もっと意見が含まれるのが
・I agree.
・Maybe., Probably.
・Not necessarily.
・I don't think so.
などです。
こちらは
・賛成です
・多分、そうかもしれません
・必ずしもそうではないけど
・私はそうは思いません
のように訳されます。
意見の方向性が程度とともに示されています。
特に
「 I agree. (賛成です)」
は、個人的な意見が強調される気がします。
「他の人は知らないけど、私は賛成です」といった主観を感じます。
「そうではない」という反対の方向性を含むニュアンスは
あまり一方的に「それは間違っている」と言ってしまうよりも、
もう少しマイルドな雰囲気を込めるのが大人の対応なのかもしれません。
「かもしれませんね」
とか
「まぁ、必ずしもそうではないかもしれませんが…」
とか
「私は個人的には、そうではないと思いますけど」
などと、
日本語でも配慮を込めることがありますが、それに近い印象を受けます。
また、相手の話に対してもっと評価的な立場をとると
・Good.
・Excellent.
などになるようです。
この辺は、先生の立場の人や、上司、親などが使う傾向がある気がします。
「いいですね」
「素晴らしい」
といった感じ。
と、ここまで例に挙げたものを見ると
客観的であれ、主観的であれ、
相手の考えに同意するかどうかが含まれる印象があります。
「 Good 」や「 Excellent 」などは評価の立場でもある。
「そうですか」、「そういうことですか」のような文脈でも使われる
「 I see. 」であっても、どこかやはり
「分かりました」
「分かります」
の意味合いが含まれるように感じられます。
「 I know. 」になると「お気持ち、私にも分かります。」の雰囲気が出ますし。
ということで、相手の意見や話の内容に踏み込まず
相手の気持ちに沿いながら、
それでいて「分かります」と自分の側に話をもってこないのは
やや難しい感じを受けるんです。
ところが、最近、僕が受けている講座のインストラクターの多用する相づちが
どうも便利なニュアンスで使われていることに気づきました。
それは
「 Indeed. 」
です。
直訳すると「実に、いかにも」となります。
ですから、内容に対する賛同のニュアンスが含まれるはずなんですが、
彼の使い方はチョット違います。
内容を「その通り」と捉えるときには「 Exactly. 」になって
期待通りの答えに対しては「 Excellent. 」となるのに対して、
「 Indeed 」は別の使われ方になっています。
生徒が一生懸命、個人の見解を主観的な体験を込めて話したとき、
つまり思い入れのある雰囲気が表れているとき、
でも、その答えが講師側の期待するものとズレていると
「 Indeed. 」
と言うんです。
内容としてはポイントがズレているし、学問的な知見とも違う。
だからといって個人の意見には「間違い」なんてことはない。
そのため「正しい、その通り」とも言えないし、「素晴らしい」とも言えなないし
かといって「そうじゃないですね」とも言えない。
そういうときに、「本人にとって大事な意見を述べてくれた」
という気持ちの部分に対して言葉をかけるようにして
「 Indeed. 」
という、と。
日本語でいえば
「なるほど」、「ごもっとも」
なんでしょうが、
そこに非言語的な気持ちを込めるわけです。
もちろん、軽く探るような感じで発言された内容が、期待されるものでなければ
「 OK. I see where you're going. 」などと受け止めてから
趣旨に沿った方向に誘導するような質問をするようです。
発言者の主観として大事なもの、
でも話の流れとしては講師(聞き手)の見解と違う場合、
「なるほど…」の意味で、「 Indeed. 」が役立つみたいです。
声のトーンとしても「 Indeed. 」は低く落ち着いた感じで言いやすいですから
共感的なニュアンスを非言語に込めやすいのかもしれません。
意見や考えに賛同することなく、相手の主張を大事なこととして受け止める。
そういう相づちは、英語でも役に立つようです。
今度は英語の相槌の話です。
どうやら英語のコミュニケーションでは、日本語よりも
はるかに相づちのバリエーションが多いようです。
正確には「相づち」と呼ぶかどうか分かりませんが、
一言、二言のフレーズで返答するという点、
相手の話の内容そのものを返答の中に含まないという点では
日本語の相づちと共通するところがあると思われます。
英語文化でのコミュニケーションでは、相手の話の内容をしっかりと聞いて
それに対して的確な返答ができることが「話を聞いてくれている」ものとして
望ましいとされるそうで、日本人ほど頻繁には反応しないみたいです。
ですから、日本人よりもずっと、うなずく頻度が低い。
日本人は積極的にうなずきながら、「うん、…うん、…あー」などと
話を促すような関わり方をする傾向にありますが、
これが英語圏では静かに相手を直視して話を聞き続け
(もちろん、うなずきますし「 Uh-huh 」などと話の続きを促しますが)
適度なタイミングで『話の内容を参考にした返答』をするように見受けられます。
ときとしてそれは、関連する話題であったり、持論の展開であったり、
賛同を示したり、反論を示したりと色々ですが、
相手の話の内容に込められた意見・主張に対して反応する
ということに共通点がありそうです。
そのため、相づちとして使われる一言、二言の返答であっても
・I see.
・I got it.
・That make sense.
・Sure.
・Of course.
・Right.
・True.
・Exactly (Precisely).
・Definitely., Absolutely.
・I agree.
・Maybe., Probably.
・Not necessarily.
・I don't think so.
・Good.
・Excellent.
…などと様々ですし、
日本人が初めて聞いたら何のニュアンスか掴めないようなものもあります。
まぁ、日本語でも自覚せずにバリエーションを駆使しているかもしれませんが
僕は個人的に、感情に対して返答しようとする分、
いわゆる「相づち」のようなものは比較的単調にしている気がします。
(その間に、返答の仕方を探る感じでしょうか)
で、英語の相づちですが、上のようにメジャーなところを並べてみても
話の内容や主張の方向性に対して立場を示すものが多い印象を受けます。
内容をあまり評価しない感じなのは
・I see.
・I got it.
・That make sense.
あたりの「話の意味が分かった」というニュアンスのものでしょうか。
「あなたはそういう考えなんですね」
「あなたの言っていることが分かりました」
といった感じの方向性。
日本語の相づちでいえば
「そうですか」
「あー、そういうことですか」
に近いでしょうか。
それに比べると
・Sure.
・Of course.
・Right.
・True.
あたりは、相手の話の内容を「当然だ、正しい」と判断する感じを受けます。
客観的な視点も含みながら、
「そうですよね」
「本当ですね」
「その通りですね」
と納得感を示しているのでしょう。
個人的な見解として同意見だと言っているというよりは
もっと一般的、客観的傾向として「その通りだ」といった印象。
この「その通り」をもっと強めると
・Exactly (Precisely).
・Definitely., Absolutely.
あたりになるようです。
客観性としての確率が高まる感じでしょうか。
「まさに」
「おっしゃる通り」
に近いかもしれません。
一方、もっと意見が含まれるのが
・I agree.
・Maybe., Probably.
・Not necessarily.
・I don't think so.
などです。
こちらは
・賛成です
・多分、そうかもしれません
・必ずしもそうではないけど
・私はそうは思いません
のように訳されます。
意見の方向性が程度とともに示されています。
特に
「 I agree. (賛成です)」
は、個人的な意見が強調される気がします。
「他の人は知らないけど、私は賛成です」といった主観を感じます。
「そうではない」という反対の方向性を含むニュアンスは
あまり一方的に「それは間違っている」と言ってしまうよりも、
もう少しマイルドな雰囲気を込めるのが大人の対応なのかもしれません。
「かもしれませんね」
とか
「まぁ、必ずしもそうではないかもしれませんが…」
とか
「私は個人的には、そうではないと思いますけど」
などと、
日本語でも配慮を込めることがありますが、それに近い印象を受けます。
また、相手の話に対してもっと評価的な立場をとると
・Good.
・Excellent.
などになるようです。
この辺は、先生の立場の人や、上司、親などが使う傾向がある気がします。
「いいですね」
「素晴らしい」
といった感じ。
と、ここまで例に挙げたものを見ると
客観的であれ、主観的であれ、
相手の考えに同意するかどうかが含まれる印象があります。
「 Good 」や「 Excellent 」などは評価の立場でもある。
「そうですか」、「そういうことですか」のような文脈でも使われる
「 I see. 」であっても、どこかやはり
「分かりました」
「分かります」
の意味合いが含まれるように感じられます。
「 I know. 」になると「お気持ち、私にも分かります。」の雰囲気が出ますし。
ということで、相手の意見や話の内容に踏み込まず
相手の気持ちに沿いながら、
それでいて「分かります」と自分の側に話をもってこないのは
やや難しい感じを受けるんです。
ところが、最近、僕が受けている講座のインストラクターの多用する相づちが
どうも便利なニュアンスで使われていることに気づきました。
それは
「 Indeed. 」
です。
直訳すると「実に、いかにも」となります。
ですから、内容に対する賛同のニュアンスが含まれるはずなんですが、
彼の使い方はチョット違います。
内容を「その通り」と捉えるときには「 Exactly. 」になって
期待通りの答えに対しては「 Excellent. 」となるのに対して、
「 Indeed 」は別の使われ方になっています。
生徒が一生懸命、個人の見解を主観的な体験を込めて話したとき、
つまり思い入れのある雰囲気が表れているとき、
でも、その答えが講師側の期待するものとズレていると
「 Indeed. 」
と言うんです。
内容としてはポイントがズレているし、学問的な知見とも違う。
だからといって個人の意見には「間違い」なんてことはない。
そのため「正しい、その通り」とも言えないし、「素晴らしい」とも言えなないし
かといって「そうじゃないですね」とも言えない。
そういうときに、「本人にとって大事な意見を述べてくれた」
という気持ちの部分に対して言葉をかけるようにして
「 Indeed. 」
という、と。
日本語でいえば
「なるほど」、「ごもっとも」
なんでしょうが、
そこに非言語的な気持ちを込めるわけです。
もちろん、軽く探るような感じで発言された内容が、期待されるものでなければ
「 OK. I see where you're going. 」などと受け止めてから
趣旨に沿った方向に誘導するような質問をするようです。
発言者の主観として大事なもの、
でも話の流れとしては講師(聞き手)の見解と違う場合、
「なるほど…」の意味で、「 Indeed. 」が役立つみたいです。
声のトーンとしても「 Indeed. 」は低く落ち着いた感じで言いやすいですから
共感的なニュアンスを非言語に込めやすいのかもしれません。
意見や考えに賛同することなく、相手の主張を大事なこととして受け止める。
そういう相づちは、英語でも役に立つようです。
2014年06月13日
便利な相槌
インターネットのニュースか何かで
『イラッとする相づち』というのがランキングされていました。
それによると第一位は
「はいはい」
だそうです。
おそらく「はい、…はい」と間があかないもののことなんでしょう。
「あー、それね、はいはい」といった雰囲気のもの。
「はい」をすぐに二回繰り返すやり方のようです。
僕の中で「はいはい」は相槌のカテゴリーに入っていなかったので
アンケート結果を見る前に「うーん、なんだろう?」と想像したときには
まったく思い浮かびもしないものでした。
個人的には
「分かります!」
とか
「わかりました」
とかが上位かと思っていたんですが。
その記事によると
「そうですよね」
と同意するのが重要なんだとか。
たしかに、そのように同意するのが効果的な場面もあるでしょうが
同意することで内容を肯定するのが問題となるケースもあるはずです。
意見が同じだったら「そうですよね」と同意を示しても問題ではないでしょう。
ところが、本心では意見に賛同していないのに
会話の流れとして相手の意見を受け止める場合には、
「そうですよね」と同意してしまうと後から会話が厄介になる可能性もあります。
たとえば
「あんなヤツ、上司失格だ!」
とか言っている人に対して
「そうですよね」
と応えてしまったら、「自分も、その人を上司失格だと思っている」と
認めてしまうことになりかねません。
だからといって
「まぁ、まぁ」
などと、なだめようとすれば相手は反論されたと取るかもしれませんし、
「へー、そうなんですね」
のような相槌を打つと、相手は放っておかれたように感じるかもしれません。
もし、その相手と良い関係を維持したいという意図があって、
なおかつ、相手の意見には同意を示しにくいとしたら、
『感情に対して共感を示す』ような相槌が便利でしょう。
同じ例でいえば、
「あー、相当ムカついているようですね」
などでしょうか。
より現実的には
「相当ムカついているみたいですけど、何かあったんですか?」
と怒りの感情を解消できる方向に話を促すのが有効だと考えられます。
ポイントになるのは、『相手の気持ちに沿った対応』ということです。
「まぁ、まぁ」は相手と反対の立場ですし、
「へー、そうなんですね」では、相手との間に距離があります。
かといって「そうですよね」だと意見まで同じだと示してしまう。
ですから、内容や意見に対しては触れないでおいて
相手の気持ち・感情に対してだけ距離を縮めるわけです。
怒りの場合には、
個別の出来事に対して腹を立てたことに共感しつつ
その怒りの対象となる人物全体への評価には賛同しない
というスタンスが賢明でしょう。
つまり、
「相当ムカついているみたいですけど、何かあったんですか?」
と具体的な出来事を聞いて、
その話の内容に対して
「うわー、それはムカつきますよねー」
と共感を示す。
この形だと「その人はヒドイ」という観点には同意せずに
出来事の苦しさにだけ共感を表現することができるはずです。
悲しみなど、嘆いてる相手に対しては、もちろん、もっとストレートに
「それは辛かったですね」
と返答できます。
ここでもやはり、話の内容に賛同することなく
気持ちだけに対して同意を示すのがポイント。
そうはいっても、感情を読み取って
共感的な言葉を考えるのは、少し大変なこともあります。
普通に相槌を打つぐらいしか余裕がないかもしれません。
その場合に重要なのは、何を言うかよりも、むしろ
声のトーンと表情でしょう。
「あー…」とか
「うーん、、、、」とか
「はぁー」とか
「…なるほど」とか。
内容に賛同しない種類の相槌を
真剣な雰囲気の声で発する。
声のトーンで共感の度合いを示すわけです。
ここでも、「そうですよね」と言ってしまっては
相手の考えに同意したことになってしまいますから、
内容や意見に対しては触れないでおいて
相手の気持ち・感情に対してだけ距離を縮める、ということになります。
『イラッとする相づち』の中身に目を向けてみると、
その理由は『気持ちに沿ってくれていない』ところにあるはずです。
話の内容や意見に賛同するような相づちは
相手の考えに沿うための方法という意味では有効なんでしょう。
「へー」なんて無関心に言われるよりも望ましく感じられるんだと思います。
ただし、意見を全面的に認められない場合には使いにくい。
だから気持ち・感情に沿う形での相づちが役立つんです。
『イラッとする相づち』というのがランキングされていました。
それによると第一位は
「はいはい」
だそうです。
おそらく「はい、…はい」と間があかないもののことなんでしょう。
「あー、それね、はいはい」といった雰囲気のもの。
「はい」をすぐに二回繰り返すやり方のようです。
僕の中で「はいはい」は相槌のカテゴリーに入っていなかったので
アンケート結果を見る前に「うーん、なんだろう?」と想像したときには
まったく思い浮かびもしないものでした。
個人的には
「分かります!」
とか
「わかりました」
とかが上位かと思っていたんですが。
その記事によると
「そうですよね」
と同意するのが重要なんだとか。
たしかに、そのように同意するのが効果的な場面もあるでしょうが
同意することで内容を肯定するのが問題となるケースもあるはずです。
意見が同じだったら「そうですよね」と同意を示しても問題ではないでしょう。
ところが、本心では意見に賛同していないのに
会話の流れとして相手の意見を受け止める場合には、
「そうですよね」と同意してしまうと後から会話が厄介になる可能性もあります。
たとえば
「あんなヤツ、上司失格だ!」
とか言っている人に対して
「そうですよね」
と応えてしまったら、「自分も、その人を上司失格だと思っている」と
認めてしまうことになりかねません。
だからといって
「まぁ、まぁ」
などと、なだめようとすれば相手は反論されたと取るかもしれませんし、
「へー、そうなんですね」
のような相槌を打つと、相手は放っておかれたように感じるかもしれません。
もし、その相手と良い関係を維持したいという意図があって、
なおかつ、相手の意見には同意を示しにくいとしたら、
『感情に対して共感を示す』ような相槌が便利でしょう。
同じ例でいえば、
「あー、相当ムカついているようですね」
などでしょうか。
より現実的には
「相当ムカついているみたいですけど、何かあったんですか?」
と怒りの感情を解消できる方向に話を促すのが有効だと考えられます。
ポイントになるのは、『相手の気持ちに沿った対応』ということです。
「まぁ、まぁ」は相手と反対の立場ですし、
「へー、そうなんですね」では、相手との間に距離があります。
かといって「そうですよね」だと意見まで同じだと示してしまう。
ですから、内容や意見に対しては触れないでおいて
相手の気持ち・感情に対してだけ距離を縮めるわけです。
怒りの場合には、
個別の出来事に対して腹を立てたことに共感しつつ
その怒りの対象となる人物全体への評価には賛同しない
というスタンスが賢明でしょう。
つまり、
「相当ムカついているみたいですけど、何かあったんですか?」
と具体的な出来事を聞いて、
その話の内容に対して
「うわー、それはムカつきますよねー」
と共感を示す。
この形だと「その人はヒドイ」という観点には同意せずに
出来事の苦しさにだけ共感を表現することができるはずです。
悲しみなど、嘆いてる相手に対しては、もちろん、もっとストレートに
「それは辛かったですね」
と返答できます。
ここでもやはり、話の内容に賛同することなく
気持ちだけに対して同意を示すのがポイント。
そうはいっても、感情を読み取って
共感的な言葉を考えるのは、少し大変なこともあります。
普通に相槌を打つぐらいしか余裕がないかもしれません。
その場合に重要なのは、何を言うかよりも、むしろ
声のトーンと表情でしょう。
「あー…」とか
「うーん、、、、」とか
「はぁー」とか
「…なるほど」とか。
内容に賛同しない種類の相槌を
真剣な雰囲気の声で発する。
声のトーンで共感の度合いを示すわけです。
ここでも、「そうですよね」と言ってしまっては
相手の考えに同意したことになってしまいますから、
内容や意見に対しては触れないでおいて
相手の気持ち・感情に対してだけ距離を縮める、ということになります。
『イラッとする相づち』の中身に目を向けてみると、
その理由は『気持ちに沿ってくれていない』ところにあるはずです。
話の内容や意見に賛同するような相づちは
相手の考えに沿うための方法という意味では有効なんでしょう。
「へー」なんて無関心に言われるよりも望ましく感じられるんだと思います。
ただし、意見を全面的に認められない場合には使いにくい。
だから気持ち・感情に沿う形での相づちが役立つんです。
2014年06月11日
感謝の気持ち
先日、久しぶりに心理テストのようなものを受けました。
実際には「強み」を判定するテストです。
120個の質問に答えると、24種類の個性について
順位を出して強みを示してくれるものでした。
内容は一般向けに作られていますから、
僕のようにチョット変わった考え方をする場合には
あまり適切な判断が出ないような印象。
答え方によって強みを判断する目的だと思われますが
質問が誘導的になっているため、そこで引っかかるんです。
例えば、
「自分の信念に沿って自分の道を切り拓いていく」
のような文章があったとしたら、
まぁ、「好き勝手にやっています」という意味では「当てはまる」に近いですが
「信念」なんてものを重要視していないので「全く当てはまらない」とも言えてしまう。
そのため、結果として「どちらでもない」を選ぶことになったり。
どうもスムーズに取り組めないところが多かったんです。
で、その中でも印象的だったのが「感謝」に関する項目でした。
そのテストにおいては、日々の中で感謝の気持ちをもてることが
幸せに生きるための1つの強みだと考えられているわけです。
たしかに感謝の気持ちを意識に上げるようにするのは
日々の幸せを感じるうえで効果的な方法でしょう。
その点では、感謝の頻度が高いのは強みだといえそうです。
ただ、この感謝の観点が片寄っているんです。
自分以外の存在に対して向けられる感謝しか考慮されていません。
もちろん、一般的に「感謝」といえば
自分以外の誰かに対して感じるものとされるとは思います。
誰かが親切にしてくれた。
「ありがとう」
そうやって感謝の気持ちを向ける。
あるいは、様々な出来事の巡りあわせが上手くいったときに
その縁や世の中全体に対して感謝を感じる、というのもあるでしょう。
「〜のおかげで」といったスタンスがあるんです。
その「〜のおかげ」が自分以外の対象となるということです。
つまり、「自分のおかげ」とは考えない、と。
「自分が頑張ったからだ」と考えるとしたら、
そこには感謝が無さそうに感じられるかもしれません。
何でもかんでも「自分でやった」、「全ては自分の成果だ」と捉えるとしたら
傲慢さが表れることもあるとは思います。
一方、何でもかんでも「〜のおかげ」と捉えて感謝するのは
謙虚さの表れとして美徳とされることもあるでしょうが、
同時に、自分を卑下したり過小評価することに繋がりかねません。
自分以外の存在への感謝が過剰になると、結果的に
自分を尊重しない方向に進んでしまうこともあるはずです。
ここが注意しておきたいポイントじゃないでしょうか。
「感謝」、「感謝」と思えるのは強みでもあるものの、
その奥には
「私みたいなものが、こんな幸せだなんて…、ありがとうございます」
のように自尊心が減ってしまう可能性も秘めていると考えられます。
「自分が頑張ってきたことが報われた」といった具合に、
自分の努力と、周りの人の協力や巡りあわせ…
その両方を認められると、感謝の方向性にも違いが出そうな気がします。
いわば「自分にも感謝する」感じです。
あの頃の自分が頑張ったから、今こうして望ましいことを体験できている。
「今日までの自分、ありがとう!」
そんな感謝の仕方も有効ではないでしょうか。
自分以外の存在にも、自分自身に対しても、同じように感謝するという話です。
特に、自分自身への感謝が深まってくると、
さらに自分以外への存在への感謝も自然と高まってくるはずです。
「自分がこうしているのは〜のおかげだ」と思えるからです。
ここには自分を卑下したり、謙遜したりする要素は含まれません。
自分を大事に思えるからこそ、
その自分を育んできた周りの人々や環境にも、しみじみと感謝できる。
自分への感謝を心がけてみるのには、そういう好循環も期待できると思われます。
実際には「強み」を判定するテストです。
120個の質問に答えると、24種類の個性について
順位を出して強みを示してくれるものでした。
内容は一般向けに作られていますから、
僕のようにチョット変わった考え方をする場合には
あまり適切な判断が出ないような印象。
答え方によって強みを判断する目的だと思われますが
質問が誘導的になっているため、そこで引っかかるんです。
例えば、
「自分の信念に沿って自分の道を切り拓いていく」
のような文章があったとしたら、
まぁ、「好き勝手にやっています」という意味では「当てはまる」に近いですが
「信念」なんてものを重要視していないので「全く当てはまらない」とも言えてしまう。
そのため、結果として「どちらでもない」を選ぶことになったり。
どうもスムーズに取り組めないところが多かったんです。
で、その中でも印象的だったのが「感謝」に関する項目でした。
そのテストにおいては、日々の中で感謝の気持ちをもてることが
幸せに生きるための1つの強みだと考えられているわけです。
たしかに感謝の気持ちを意識に上げるようにするのは
日々の幸せを感じるうえで効果的な方法でしょう。
その点では、感謝の頻度が高いのは強みだといえそうです。
ただ、この感謝の観点が片寄っているんです。
自分以外の存在に対して向けられる感謝しか考慮されていません。
もちろん、一般的に「感謝」といえば
自分以外の誰かに対して感じるものとされるとは思います。
誰かが親切にしてくれた。
「ありがとう」
そうやって感謝の気持ちを向ける。
あるいは、様々な出来事の巡りあわせが上手くいったときに
その縁や世の中全体に対して感謝を感じる、というのもあるでしょう。
「〜のおかげで」といったスタンスがあるんです。
その「〜のおかげ」が自分以外の対象となるということです。
つまり、「自分のおかげ」とは考えない、と。
「自分が頑張ったからだ」と考えるとしたら、
そこには感謝が無さそうに感じられるかもしれません。
何でもかんでも「自分でやった」、「全ては自分の成果だ」と捉えるとしたら
傲慢さが表れることもあるとは思います。
一方、何でもかんでも「〜のおかげ」と捉えて感謝するのは
謙虚さの表れとして美徳とされることもあるでしょうが、
同時に、自分を卑下したり過小評価することに繋がりかねません。
自分以外の存在への感謝が過剰になると、結果的に
自分を尊重しない方向に進んでしまうこともあるはずです。
ここが注意しておきたいポイントじゃないでしょうか。
「感謝」、「感謝」と思えるのは強みでもあるものの、
その奥には
「私みたいなものが、こんな幸せだなんて…、ありがとうございます」
のように自尊心が減ってしまう可能性も秘めていると考えられます。
「自分が頑張ってきたことが報われた」といった具合に、
自分の努力と、周りの人の協力や巡りあわせ…
その両方を認められると、感謝の方向性にも違いが出そうな気がします。
いわば「自分にも感謝する」感じです。
あの頃の自分が頑張ったから、今こうして望ましいことを体験できている。
「今日までの自分、ありがとう!」
そんな感謝の仕方も有効ではないでしょうか。
自分以外の存在にも、自分自身に対しても、同じように感謝するという話です。
特に、自分自身への感謝が深まってくると、
さらに自分以外への存在への感謝も自然と高まってくるはずです。
「自分がこうしているのは〜のおかげだ」と思えるからです。
ここには自分を卑下したり、謙遜したりする要素は含まれません。
自分を大事に思えるからこそ、
その自分を育んできた周りの人々や環境にも、しみじみと感謝できる。
自分への感謝を心がけてみるのには、そういう好循環も期待できると思われます。