2014年09月
2014年09月29日
知識を増やすには
知識を得るというのは、シンプルにいえば
『分類の仕方を習得する』だけのことです。
その知識を身につけた後には、その分類法に沿って
物事を区別できるようになる。
それが知識の目的ともいえる性質でしょう。
オオカミのことを知らない人にとっては、
犬もオオカミも、どちらも犬に見えるはずです。
それは犬とオオカミに共通点が多いから。
犬と他の動物を区別するときに使っている特徴だけでは
犬とオオカミは区別できないんです。
顔や体の形とか大きさとか、遠吠えの仕方なんかも共通点ですから
犬とオオカミは、そこでは区別できませんが、
犬やオオカミの姿かたちや吠え方を知っていれば、
ネコや馬、熊、ライオン、猿…など大抵の動物とは区別ができるわけです。
つまり、「犬やオオカミが、他の動物とどう違うか」という特徴を知っていれば
とりあえずオオカミは知らなくても、犬を知っていることにはなる、と。
しかしながら、「犬とオオカミがどう違うか」の特徴を知らなければ
犬とオオカミは区別できない。
オオカミの存在を知らない場合には、どちらも犬に見えてしまうでしょう。
オオカミという知識は、
他の物との「違い」と「共通点」からなっている
ということです。
もう少し抽象的な説明をすると
「共通点が上位概念としてのカテゴリーを認識させ、
相違点がそのカテゴリー内での区別を可能にする」
という感じ。
犬とオオカミの共通点が「イヌ科イヌ属」というカテゴリーを認識させて
どちらも犬っぽく捉えられる。
しかし、同じ「イヌ科イヌ属」に含まれるもの同士を比較して
その違いに注目すると、犬とオオカミが区別されます。
もちろん、「犬」に分類されるものの中でも、さらに特徴の違いに注目すれば
犬種として、柴犬だとかチワワだとかシェパードだとかが区別されるわけです。
そして、そもそもの「犬っぽい」印象には「犬っぽくない」印象との違いが必要で、
同時に「犬っぽい」ものと「犬っぽくない」ものとの共通点から
さらに上のカテゴリーとして「哺乳類」や「動物」などが認識されています。
ですから犬とオオカミの区別ができる人は、
犬とオオカミの知識があるのはもちろんのこと
犬とオオカミの共通点から分類される「イヌ科イヌ属」の知識もある
といえるんです。
逆に犬とオオカミの区別がつかないということは、
犬を知っているつもりでもオオカミのことは知らないし、
犬とオオカミの違いを知らないという意味では
犬に対する知識も少ない(オオカミとの違いが分かる場合よりも)ことになり、
上位概念の「イヌ科イヌ属」にも気づかない
といえます。
このように大部分の知識は
分類の仕方のための「共通点」と「相違点」からなっている
と考えれば、
勉強するときには…
・新しい知識がどの分類に含まれるのか?
・その分類の中での共通点は何か?
(同じ分類の中で、新しい知識は他のものと何が共通しているか)
・同じ分類の中で、新しい知識は他のものと何が違うのか?
を覚えるのが効果的だということになるでしょう。
もちろん、世間で「勉強」と呼ばれるものの中には
出来事の記憶や、方法のトレーニングも含まれます。
「誰が何をした」といった出来事の情報も知識に含まれるでしょうが
それはただ出来事を覚えておいて、思い出せるようにしているだけであって、
それだけで「その知識を応用する」ことは不可能です。
その出来事を他の知識と関連づけて分類したときにやっと
別の出来事に知識を応用できるようになります。
「今回のこの出来事は、○○の出来事と〜なところが共通している。
だから、こういう風に理解すれば、おそらくこうなると予想される。」
という感じ。
また大学初等教育ぐらいまでの数学の大部分は
計算の進め方としてのパターン認識、つまり知識の部分と
そのパターン認識と計算の進め方をスムーズにできるようにするための
トレーニングの部分と、両方から成り立っていると考えられます。
知識として応用して理解できるようになっても
慣れていないと運用が難しいんです。
だからトレーニング的な側面が強いはずです。
まとめると、学習は記憶が作られるということですから、
よく言われる記憶の種類として
・意味記憶
・エピソード記憶
・手続き記憶
に関連させて整理できます。
出来事を暗記するだけの勉強は、「エピソード記憶」を増やしているということ。
それを応用するにはパターンを抽出して、知識として分類する必要があります。
分類には共通点と相違点の認識が必要で、それが「意味記憶」に対応します。
そして数学のようなケースであれば、計算をスムーズに進めるために
トレーニング必要で、トレーニングの結果として「手続き記憶」が作られます。
コミュニケーションについて考えれば、例えば
「ミルトン・エリクソンがどんな治療をしたか」
というのは、エピソード記憶です。
たくさん覚えているほど「よく知っている」とはいえるかもしれませんが
意味記憶として整理された、応用可能な「知識」になっているかは別問題。
エリクソンのコミュニケーションを分析して、
それぞれのやり方を共通点でカテゴリーに分類し、
そのカテゴリー内で相違点に注目して区別すれば、
それは応用可能な「知識」として整理されたことになります。
当然ここで、「エリクソン催眠」ということは知っていても
その中身の細かい分類が整理されていなければ、それは
「犬っぽい」のは知っているけれど犬とオオカミの区別はつかない
という状態と同じようなものだということです。
そしてエリクソンのやり方を細かく整理した知識を持っていても
その応用可能な知識を、実際に「上手く応用できる」とは限りません。
ここでトレーニングが必要になる、というわけです。
ですから、中心になるのは知識として分類・整理されるかどうか、でしょう。
そのためには「違い」と「共通点」に注目するのが効果的。
このことをもっとストレートに小学校ぐらいから教わっていれば
多くの人にとって勉強のスムーズさが違っていたかもしれません。
そして何よりも大きいのが、何か新しいものを学ぶときには
共通点と相違点に注目しないと、
すでに持っている知識と「同じ」
として判断しやすくなることです。
「○○さんも同じことを言っていた」というのは、正確には
「○○さんの言っていたことと、今ここで聞いた話とには△△という共通点がある」
という内容のはずなんです。
オオカミを初めて見たとき、「ああ、犬と同じですね」と考えるのか
「オオカミって犬と姿かたちに共通点がありますね」と考えるのか、と似ています。
今度は、共通点があるとしたら、どこが違うのだろうか?と
区別するためのポイントに目を向ける。
それで全く違いがないとしたら
「あぁ、呼び方が違うだけなんだ」と結論づけられるでしょうが、
共通点があるという印象から「同じだ」という判断を下してしまった後では
違いを見つけて区別をつけることが難しくなります。
「同じだ」と捉えてしまったら、
新しい知識を手に入れるチャンスを失っているかもしれないんです。
あくまで「似ている」ぐらいに言い換えてみて、
そこから共通点と相違点の整理をしてみるのも1つの手かもしれません。
確かに、「同じだ」と捉えるときには安心感があるものです。
新しく知ったはずのことが、自分の知識と「同じ」だとしたら
自分の考えや理解を保証してもらったような気分が得られやすいでしょう。
「良かった、自分は合っている」とか「よかった、かなり自分は知っている」とか
そういう形での保証を感じれば、安心感が高まります。
「同じだ」という印象には、そういうメリットもあるんです。
その反面として、新しい知識を入手し損ねている場合もあるということです。
『分類の仕方を習得する』だけのことです。
その知識を身につけた後には、その分類法に沿って
物事を区別できるようになる。
それが知識の目的ともいえる性質でしょう。
オオカミのことを知らない人にとっては、
犬もオオカミも、どちらも犬に見えるはずです。
それは犬とオオカミに共通点が多いから。
犬と他の動物を区別するときに使っている特徴だけでは
犬とオオカミは区別できないんです。
顔や体の形とか大きさとか、遠吠えの仕方なんかも共通点ですから
犬とオオカミは、そこでは区別できませんが、
犬やオオカミの姿かたちや吠え方を知っていれば、
ネコや馬、熊、ライオン、猿…など大抵の動物とは区別ができるわけです。
つまり、「犬やオオカミが、他の動物とどう違うか」という特徴を知っていれば
とりあえずオオカミは知らなくても、犬を知っていることにはなる、と。
しかしながら、「犬とオオカミがどう違うか」の特徴を知らなければ
犬とオオカミは区別できない。
オオカミの存在を知らない場合には、どちらも犬に見えてしまうでしょう。
オオカミという知識は、
他の物との「違い」と「共通点」からなっている
ということです。
もう少し抽象的な説明をすると
「共通点が上位概念としてのカテゴリーを認識させ、
相違点がそのカテゴリー内での区別を可能にする」
という感じ。
犬とオオカミの共通点が「イヌ科イヌ属」というカテゴリーを認識させて
どちらも犬っぽく捉えられる。
しかし、同じ「イヌ科イヌ属」に含まれるもの同士を比較して
その違いに注目すると、犬とオオカミが区別されます。
もちろん、「犬」に分類されるものの中でも、さらに特徴の違いに注目すれば
犬種として、柴犬だとかチワワだとかシェパードだとかが区別されるわけです。
そして、そもそもの「犬っぽい」印象には「犬っぽくない」印象との違いが必要で、
同時に「犬っぽい」ものと「犬っぽくない」ものとの共通点から
さらに上のカテゴリーとして「哺乳類」や「動物」などが認識されています。
ですから犬とオオカミの区別ができる人は、
犬とオオカミの知識があるのはもちろんのこと
犬とオオカミの共通点から分類される「イヌ科イヌ属」の知識もある
といえるんです。
逆に犬とオオカミの区別がつかないということは、
犬を知っているつもりでもオオカミのことは知らないし、
犬とオオカミの違いを知らないという意味では
犬に対する知識も少ない(オオカミとの違いが分かる場合よりも)ことになり、
上位概念の「イヌ科イヌ属」にも気づかない
といえます。
このように大部分の知識は
分類の仕方のための「共通点」と「相違点」からなっている
と考えれば、
勉強するときには…
・新しい知識がどの分類に含まれるのか?
・その分類の中での共通点は何か?
(同じ分類の中で、新しい知識は他のものと何が共通しているか)
・同じ分類の中で、新しい知識は他のものと何が違うのか?
を覚えるのが効果的だということになるでしょう。
もちろん、世間で「勉強」と呼ばれるものの中には
出来事の記憶や、方法のトレーニングも含まれます。
「誰が何をした」といった出来事の情報も知識に含まれるでしょうが
それはただ出来事を覚えておいて、思い出せるようにしているだけであって、
それだけで「その知識を応用する」ことは不可能です。
その出来事を他の知識と関連づけて分類したときにやっと
別の出来事に知識を応用できるようになります。
「今回のこの出来事は、○○の出来事と〜なところが共通している。
だから、こういう風に理解すれば、おそらくこうなると予想される。」
という感じ。
また大学初等教育ぐらいまでの数学の大部分は
計算の進め方としてのパターン認識、つまり知識の部分と
そのパターン認識と計算の進め方をスムーズにできるようにするための
トレーニングの部分と、両方から成り立っていると考えられます。
知識として応用して理解できるようになっても
慣れていないと運用が難しいんです。
だからトレーニング的な側面が強いはずです。
まとめると、学習は記憶が作られるということですから、
よく言われる記憶の種類として
・意味記憶
・エピソード記憶
・手続き記憶
に関連させて整理できます。
出来事を暗記するだけの勉強は、「エピソード記憶」を増やしているということ。
それを応用するにはパターンを抽出して、知識として分類する必要があります。
分類には共通点と相違点の認識が必要で、それが「意味記憶」に対応します。
そして数学のようなケースであれば、計算をスムーズに進めるために
トレーニング必要で、トレーニングの結果として「手続き記憶」が作られます。
コミュニケーションについて考えれば、例えば
「ミルトン・エリクソンがどんな治療をしたか」
というのは、エピソード記憶です。
たくさん覚えているほど「よく知っている」とはいえるかもしれませんが
意味記憶として整理された、応用可能な「知識」になっているかは別問題。
エリクソンのコミュニケーションを分析して、
それぞれのやり方を共通点でカテゴリーに分類し、
そのカテゴリー内で相違点に注目して区別すれば、
それは応用可能な「知識」として整理されたことになります。
当然ここで、「エリクソン催眠」ということは知っていても
その中身の細かい分類が整理されていなければ、それは
「犬っぽい」のは知っているけれど犬とオオカミの区別はつかない
という状態と同じようなものだということです。
そしてエリクソンのやり方を細かく整理した知識を持っていても
その応用可能な知識を、実際に「上手く応用できる」とは限りません。
ここでトレーニングが必要になる、というわけです。
ですから、中心になるのは知識として分類・整理されるかどうか、でしょう。
そのためには「違い」と「共通点」に注目するのが効果的。
このことをもっとストレートに小学校ぐらいから教わっていれば
多くの人にとって勉強のスムーズさが違っていたかもしれません。
そして何よりも大きいのが、何か新しいものを学ぶときには
共通点と相違点に注目しないと、
すでに持っている知識と「同じ」
として判断しやすくなることです。
「○○さんも同じことを言っていた」というのは、正確には
「○○さんの言っていたことと、今ここで聞いた話とには△△という共通点がある」
という内容のはずなんです。
オオカミを初めて見たとき、「ああ、犬と同じですね」と考えるのか
「オオカミって犬と姿かたちに共通点がありますね」と考えるのか、と似ています。
今度は、共通点があるとしたら、どこが違うのだろうか?と
区別するためのポイントに目を向ける。
それで全く違いがないとしたら
「あぁ、呼び方が違うだけなんだ」と結論づけられるでしょうが、
共通点があるという印象から「同じだ」という判断を下してしまった後では
違いを見つけて区別をつけることが難しくなります。
「同じだ」と捉えてしまったら、
新しい知識を手に入れるチャンスを失っているかもしれないんです。
あくまで「似ている」ぐらいに言い換えてみて、
そこから共通点と相違点の整理をしてみるのも1つの手かもしれません。
確かに、「同じだ」と捉えるときには安心感があるものです。
新しく知ったはずのことが、自分の知識と「同じ」だとしたら
自分の考えや理解を保証してもらったような気分が得られやすいでしょう。
「良かった、自分は合っている」とか「よかった、かなり自分は知っている」とか
そういう形での保証を感じれば、安心感が高まります。
「同じだ」という印象には、そういうメリットもあるんです。
その反面として、新しい知識を入手し損ねている場合もあるということです。
2014年09月26日
音で思い出す
先日、外で食事をしていたとき
店内に鳴り響く「ガシャーン!」という音を聞きました。
店員が食器を落として、かなり激しく割れたようでした。
それで思い出したことがあります。
僕が大学院にいた頃の話です。
僕のいた研究室では、
修士課程の二年生が学部四年生の研究をサポートする
という習慣がありました。
研究テーマもグループごとに違っていて、
あるグループでは「凍結乾燥菌体」というものを使って
酵素反応の実験を主にやっていました。
細菌を凍らせて、凍った状態を維持したまま乾燥させると
菌体の表面の膜に穴があいて、菌は生育できなくなり、
かつ酵素を乾燥状態で保存できるので保存が効くうえに
反応効率も上がるという手法です。
細菌を大量に培養するのは多少時間がかかりますし
実験のたびに毎回培養して、菌を集めて、乾燥させて…
とやっていると労力もなかなかのものです。
せっかく保存が効く手法ですから、そこのグループでは
いつも使う菌を大量に培養して、凍結乾燥させた状態で
−80℃の冷凍庫に入れて長期保存していたんです。
使うときに小分けにして、残りはまた保存するという形式。
グループ全員で共有した凍結乾燥菌体を使って各メンバーが実験をする
といった方針が取られていたということです。
当然、僕の同期もそのグループにいました。
ある日、その同期と僕が実験室で話をしていたところ、
そこのグループの学部4年生がやってきて報告したんです。
「すみません。Sさんが誤って凍結乾燥菌体の容器を割ってしまいました。」
同じく学部4年生の女子学生が、−80℃の冷凍庫からサンプルを取ろうとして
近くにあった凍結乾燥菌体のガラス容器を落としてしまったようでした。
床に散らばってしまった菌体はもう使えません。
かき集めても何が混入しているか分かりませんから
科学的には不確定な要素が含まれているものは実験に適さないんです。
手間をかけて作った凍結乾燥菌体のストックを失ったわけですから
そのグループにとっては少なからず厄介な事件だったといえます。
報告をしてきたのは学部4年生。
割ったのも4年生。
報告を受けたのは修士2年生で、グループではリーダーの立場でした。
そのグループリーダーも修士2年の学生として研究をしていますから
使う予定だったはずの菌体がなくなってしまっては予定が狂ってしまいます。
人によっては怒るところかもしれません。
「何やってるんだ!」とか
「安全な保管の仕方をしていないからだろう!」とか
「どうしてくれるんだ!発表に間に合わないぞ!」とか
…そんな対応の可能性もありました。
ですが、僕と同期のその彼は比較的温厚だったので
怒ったりはしませんでした。
その代わり、実験への影響を先に考えたようです。
後輩:「すみません。
Sさんが誤って凍結乾燥菌体の容器を割ってしまいました。」
先輩:「えー!?…それで、大丈夫だったのか?」
凍結乾燥菌体の保存容器は1つではなく、小分けにしてあったので
どれだけ落っこちて、どれだけ失われたのかが気になったんでしょう。
まぁ、複数あるうちの一個、二個であれば、実験を進めながらでも
並行してまた培養の作業からやり直せば対処できる範囲です。
ということで、「大丈夫だったのか?」には
被害として問題なく乗り切れる範囲だったのか
といった趣旨が含まれていたようです。
ところが、その後輩、学部4年生の彼はジェントルマンだったんです。
凍結乾燥菌体の容器を割ってしまったのが女子学生だったことで
その彼の注意の矛先は別のほうを向いていました。
後輩:「すみません。
Sさんが誤って凍結乾燥菌体の容器を割ってしまいました。」
先輩:「えー!?…それで、大丈夫だったのか?」
後輩:「はい。Sさんに怪我はありませんでした!」
…凍結乾燥菌体の入っていた容器がガラス製だったので
そのガラス容器が落ちて割れたときの破片が危険だったという判断です。
自分の実験に使う菌体が失われたことや
先輩に迷惑をかけることなどよりも、
トラブルに合った同期の友人の身が無事だったかどうかが気になった、と。
コミュニケーションとして話の文脈は合っていなかったといえますが、
技術や能力ではない「優しさ」や「配慮」を感じたものです。
「大丈夫」という言葉を聞いて、「怪我がない」ことと繋げるあたり
只者ではない着眼点かもしれません。
きっと世の中には、
自分の車を貸した友人が事故を起こしたとき
「大丈夫だった?」と車の安否を心配する人だっているでしょう。
とっさに注目してしまうところにも価値観が表れていて、しかも
とっさだからこそ自覚されていない価値観でもあるはずです。
アクシデントのときの対応には、本人も気づいていない価値観が
コッソリと、でも意味深く表れていると思われます。
飲食店で食器を割る音を聞いて、そんなことを思い出したんです。
ちなみに、その飲食店のバイトリーダーは、とても不機嫌そうな声で
食器を落としてしまったバイト店員に注意をしていました。
店内に鳴り響く「ガシャーン!」という音を聞きました。
店員が食器を落として、かなり激しく割れたようでした。
それで思い出したことがあります。
僕が大学院にいた頃の話です。
僕のいた研究室では、
修士課程の二年生が学部四年生の研究をサポートする
という習慣がありました。
研究テーマもグループごとに違っていて、
あるグループでは「凍結乾燥菌体」というものを使って
酵素反応の実験を主にやっていました。
細菌を凍らせて、凍った状態を維持したまま乾燥させると
菌体の表面の膜に穴があいて、菌は生育できなくなり、
かつ酵素を乾燥状態で保存できるので保存が効くうえに
反応効率も上がるという手法です。
細菌を大量に培養するのは多少時間がかかりますし
実験のたびに毎回培養して、菌を集めて、乾燥させて…
とやっていると労力もなかなかのものです。
せっかく保存が効く手法ですから、そこのグループでは
いつも使う菌を大量に培養して、凍結乾燥させた状態で
−80℃の冷凍庫に入れて長期保存していたんです。
使うときに小分けにして、残りはまた保存するという形式。
グループ全員で共有した凍結乾燥菌体を使って各メンバーが実験をする
といった方針が取られていたということです。
当然、僕の同期もそのグループにいました。
ある日、その同期と僕が実験室で話をしていたところ、
そこのグループの学部4年生がやってきて報告したんです。
「すみません。Sさんが誤って凍結乾燥菌体の容器を割ってしまいました。」
同じく学部4年生の女子学生が、−80℃の冷凍庫からサンプルを取ろうとして
近くにあった凍結乾燥菌体のガラス容器を落としてしまったようでした。
床に散らばってしまった菌体はもう使えません。
かき集めても何が混入しているか分かりませんから
科学的には不確定な要素が含まれているものは実験に適さないんです。
手間をかけて作った凍結乾燥菌体のストックを失ったわけですから
そのグループにとっては少なからず厄介な事件だったといえます。
報告をしてきたのは学部4年生。
割ったのも4年生。
報告を受けたのは修士2年生で、グループではリーダーの立場でした。
そのグループリーダーも修士2年の学生として研究をしていますから
使う予定だったはずの菌体がなくなってしまっては予定が狂ってしまいます。
人によっては怒るところかもしれません。
「何やってるんだ!」とか
「安全な保管の仕方をしていないからだろう!」とか
「どうしてくれるんだ!発表に間に合わないぞ!」とか
…そんな対応の可能性もありました。
ですが、僕と同期のその彼は比較的温厚だったので
怒ったりはしませんでした。
その代わり、実験への影響を先に考えたようです。
後輩:「すみません。
Sさんが誤って凍結乾燥菌体の容器を割ってしまいました。」
先輩:「えー!?…それで、大丈夫だったのか?」
凍結乾燥菌体の保存容器は1つではなく、小分けにしてあったので
どれだけ落っこちて、どれだけ失われたのかが気になったんでしょう。
まぁ、複数あるうちの一個、二個であれば、実験を進めながらでも
並行してまた培養の作業からやり直せば対処できる範囲です。
ということで、「大丈夫だったのか?」には
被害として問題なく乗り切れる範囲だったのか
といった趣旨が含まれていたようです。
ところが、その後輩、学部4年生の彼はジェントルマンだったんです。
凍結乾燥菌体の容器を割ってしまったのが女子学生だったことで
その彼の注意の矛先は別のほうを向いていました。
後輩:「すみません。
Sさんが誤って凍結乾燥菌体の容器を割ってしまいました。」
先輩:「えー!?…それで、大丈夫だったのか?」
後輩:「はい。Sさんに怪我はありませんでした!」
…凍結乾燥菌体の入っていた容器がガラス製だったので
そのガラス容器が落ちて割れたときの破片が危険だったという判断です。
自分の実験に使う菌体が失われたことや
先輩に迷惑をかけることなどよりも、
トラブルに合った同期の友人の身が無事だったかどうかが気になった、と。
コミュニケーションとして話の文脈は合っていなかったといえますが、
技術や能力ではない「優しさ」や「配慮」を感じたものです。
「大丈夫」という言葉を聞いて、「怪我がない」ことと繋げるあたり
只者ではない着眼点かもしれません。
きっと世の中には、
自分の車を貸した友人が事故を起こしたとき
「大丈夫だった?」と車の安否を心配する人だっているでしょう。
とっさに注目してしまうところにも価値観が表れていて、しかも
とっさだからこそ自覚されていない価値観でもあるはずです。
アクシデントのときの対応には、本人も気づいていない価値観が
コッソリと、でも意味深く表れていると思われます。
飲食店で食器を割る音を聞いて、そんなことを思い出したんです。
ちなみに、その飲食店のバイトリーダーは、とても不機嫌そうな声で
食器を落としてしまったバイト店員に注意をしていました。
2014年09月24日
【追記】マインドフルネス・トレーニング
マインドフルネスは瞑想と結びつけられたものが多いようですが、
この講座では、「マインドフルネスの母」と称される
ハーバード大のエレン・ランガーが提唱するような
瞑想を使わないタイプのマインドフルネスも扱います。
瞑想会を期待される方には異なった内容かと思います。
ご注意ください。
ある意味では、日常生活の全てをマインドフルに行えるように
様々なトレーニングを行うわけですから、より実生活にリンクすると思います。
瞑想の類の中には、「歩行禅」のように最終的には
歩きながらでも座禅をする(歩いているので「座」禅ではありませんが…)、
つまり行動をしているときにも瞑想のときのような状態を保てるように
取り組んでいくものもあるようです。
どちらかといえば、それに近いかもしれません。
しかしそれ以上に、日々の忙しさや、日常を当たり前に過ごすことで
心を失う(マインドレスになる)ことの多い現代人が
心豊かな体験をするためのトレーニングだと捉えていただくと
趣旨が近いように思います。
心の余裕と安定感を高め、何気ない日常に潜む魅力の数々を感じる、
…そんなトレーニングを色々と用意していきます。
この講座では、「マインドフルネスの母」と称される
ハーバード大のエレン・ランガーが提唱するような
瞑想を使わないタイプのマインドフルネスも扱います。
瞑想会を期待される方には異なった内容かと思います。
ご注意ください。
ある意味では、日常生活の全てをマインドフルに行えるように
様々なトレーニングを行うわけですから、より実生活にリンクすると思います。
瞑想の類の中には、「歩行禅」のように最終的には
歩きながらでも座禅をする(歩いているので「座」禅ではありませんが…)、
つまり行動をしているときにも瞑想のときのような状態を保てるように
取り組んでいくものもあるようです。
どちらかといえば、それに近いかもしれません。
しかしそれ以上に、日々の忙しさや、日常を当たり前に過ごすことで
心を失う(マインドレスになる)ことの多い現代人が
心豊かな体験をするためのトレーニングだと捉えていただくと
趣旨が近いように思います。
心の余裕と安定感を高め、何気ない日常に潜む魅力の数々を感じる、
…そんなトレーニングを色々と用意していきます。
2014年09月22日
【セミナー】マインドフルネス・トレーニング
ご案内: 10月5日(日)開催
マインドフルネス・トレーニング
10月の5日に『マインドフルネス』のトレーニングを行います。
マインドフルネスとは「(注意深く)気づいている状態」のことです。
色々なことを自覚しているか、という話。
特に重要な要素に「ジャッジをしない」ということを含みます。
良し悪しの判断を入れないようにする。
受容的な態度で体験をする。
そのため先入観や思い込みによって思い悩む度合いが減り、
また、その瞬間の出来事に振り回されることも少なくなります。
シンプルにいえば、安定感を高めるトレーニングといったところでしょうか。
世間一般で『マインドフルネス』というと、
「マインドフルネス瞑想」の結びつけて考えられることが多いようです。
心理学や精神医学の研究としてもマインドフルネスは扱われていて
マインドフルネスをベースとした、あるいは密接に関係した心理療法なども
色々と開発され、その効果が検証されています。
またマインドフルネスが、病気と関連した精神的ショックの緩和や
痛みの緩和ケアにも効果があることが示されています。
このように瞑想や、それに近い静的な状態でのマインドフルネスが
研究対象としても、紹介される対象としても多いように見受けられますが、
マインドフルネスを取り入れたコミュニケーションも有効です。
つまり、自分一人でジッとしているときにマインドフルな状態でいるだけでなく
他人と接することの多い日常のあらゆる場面、言い換えるなら動的な状態でも
マインドフルな状態でいることが効果的だというわけです。
人間関係におけるストレスや揉め事の多くは、
「良し悪しの判断(=ジャッジ)」によって生まれます。
マインドフルなコミュニケーションは、そのような衝突を取り除いてくれます。
またストレスの多い状況において、多くの人はメタ感情で苦しみます。
メタ感情とは、ある感情に対して沸いてくる別の感情のことです。
例えば、不安があることに対してウンザリする、とか
怒りがあることに対して罪悪感を覚える、とかです。
自分の内面に対するマインドフルネスは、そうした複雑な気持ちを
受容的なスタンスで捉えられるようになって、
感情的な苦しみの度合いを大きく軽減してくれます。
コミュニケーションの最中から、自分の中に沸いていた感情を捉え
その感情に対してマインドフルネスで接していれば、
会話をしながら感情を爆発させたり、自動的に反応してしまったりして
厄介な結果になってしまうことも無くなります。
他にも、マインドフルネスが意志決定の質を高めることが報告されています。
意志決定の材料となる情報を、思い込みや先入観のない形でインプットでき、
情報の取り残しがないかどうかにも注意深くなることが大きいのでしょう。
特に、「何かを決める」というのは体感覚としての納得感がベースになるため
その納得感と違和感との違いにマインドフルであれば的確な判断も下しやすくなる。
これが重要なポイントだといえます。
当然ですが、コミュニケーションの最中にマインドフルネスを心がけておくのは
カウンセリングなどの相談援助にも重要です。
1つ1つの発言や、自分の発するメッセージを自覚しておくことで
的確な関わり方をしやすくなります。
自分の癖を自覚しながら、意図のある言葉を発するのは
プロとして自分のやっている内容に意味を説明できるようにすることでもあります。
自分のやり方に裏づけを与えられて自信のある対応ができるようになりますし、
自分のやるべき範囲を明確にして安全性の高い関わりが可能にもなります。
もちろん、効果的な振り返りをしながら技術を向上させるにも
自分のやっていることを自覚しておく必要がありますから、
マインドフルなコミュニケーションは、そうした意味でも役に立つんです。
なおNLPでは、プログラムを変える手法を数多く紹介していますが、
その手法で実際にプログラムを変えることが役に立つのに加えて
プログラムを心がけるようになることそのものが大きな効果を発揮するものです。
それはプログラムという視点を取り入れ、プログラムを変える実習をすると、
自分のプログラムを自覚する練習を重ねるのと同じ効果が得られるためです。
「自分の問題となるプログラムは何か?」
「どんな瞬間にそのプログラムが作動するのか?」
そうした観点で自分の問題となる反応パターンを見ていくと、
実際にその問題が起こった瞬間を自覚することができるようになります。
「あぁ、あのプログラムが動いたな」と分かるわけです。
そしてNLPでは、そのプログラムの肯定的意図も探りますから
プログラムが動いたのを自覚した瞬間に、
「このプログラムが厄介な結果に繋がるんだなぁ」と思いながら、一方で
「まぁ、このプログラムがあるおかげで助かっていることもあるんだけど」と
受容的で寛容な態度になります。
実際にプログラムを変えるかどうかにかかわらず
NLPを重ねていくと、自分のプログラムに対してマインドフルになれる
という側面も考えられるんです。
その意味ではNLPとも関連した効果が実感できるといえます。
ただし、NLPでは主に問題となるプログラムに焦点を合わせますから
それが解消されて気にならなくなってくると、
またプログラムへの自覚が落ちてくることが多いようでもあります。
その点、マインドフルネスのトレーニングを積極的に起こった場合、
常に自分の中にあるプログラムにも自覚できますから
より自分自身に対して受容的な状態に近づいていけるでしょうし、
自分に対して優しい生き方ができるようにもなると期待されます。
ということで、色々と役に立つ『マインドフルネス』のトレーニングを行います。
あくまでもトレーニング方法の紹介です。
その場で数多くのトレーニングを体験していただきますが、
「マインドフルである」ということは常に自覚を必要とします。
「マインドフルネスのトレーニングを積んだから、
自動的にいつもマインドフルでいられる」ということではありません。
それは「マインドフルネスで体験をしているかどうか」に対して
マインドフルではなくなっている状態だからです。
トレーニングそのものはマインドフルな状態を実感して
今後の心がけの指標を作るためのものだといえます。
あとは日々、どのように過ごすかという話でしょう。
マインドフルネスは、「あるか/ないか」のものではありません。
「どのぐらいマインドフルか」という程度問題です。
マインドフルネスの程度を高めるための方法を練習して
どこまでマインドフルになるかはご自身で判断していただきます。
もしかするとマインドフルネスを心がけていると
疲れそうな気がする人もいるかもしれません。
そうではありません。
疲れていることにもマインドフルに気づけることが役に立つんです。
疲れることに対して気づいているからこそ、適度に休むこともできますし、
自分にとって向いているかどうかにも自覚ができるでしょう。
マインドフルでない場合のほうが、疲れを自覚することも
その疲れが何から来るのかも分からないまま
いつの間にか心身のバランスを崩すことに繋がりかねません。
その意味でも、マインドフルネスは心身ともに豊かな生き方に貢献するようです。
少なくとも、幸せを感じることは増えるでしょう。
とはいえ、「マインドフルな生き方が良い」とか
「マインドフルネスが人として正しい方向性だ」とか
「マインドフルネスを広めるべきだ」とか、
そういう話ではないんです。
良いか悪いかは分かりません。
効果的かどうかも、何かの目的があって初めて決まるものです。
健康や幸せ、効果的なコミュニケーション、仕事の成果など
ご自身の中に大事にしたいことがあれば「効果的」でしょう。
だからといって、皆がそうあるべきだとは言えないはずです。
ある意味では、マインドフルネスというのは
自分の人生に対して真剣な態度なんだろうと感じます。
好みというか、「自分の心に響くかどうか」で
取り組むかどうかを判断するものかもしれません。
あくまで「こういう生き方のスタンスがありますよ」という提案です。
やってみて嫌なら止めればいいでしょう。
すぐにマインドフルでない状態に戻れます。
簡単に戻ります。
色々気づいて大変だと感じている人は、むしろ
マインドフルネスを心がけるほうが楽になる可能性がありますが、
それさえも、やるかどうかはお好みです。
なんとなく興味が沸いた方は、どうぞご参加ください。
その場合には体験する価値があります。
◆録音/録画、再生機材に関しまして
講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いません。
あくまで個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
実習が中心ですから聞きなおして理解するものではないかもしれませんが
マインドフルネスの感覚を思い出すために、
録音したものを聞きなおすのは効果的かもしれません。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
【セミナーの詳細】
≪マインドフルネス・トレーニング≫
【日時】 10月5日(日)
9:30〜16:00
※開始時間にご注意ください
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 五反田文化センター 第6会議室
(JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
(東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
申し込みを締め切りました。
人はとかく自動的なものです。
学習された方法を自覚なく繰り返しているだけのことが多いんです。
コミュニケーションでも、それ以外のことでも、です。
厳しい言い方をすると、漫然と適当に過ごしているということ。
そんなものです。
話し方だって、言葉の選び方だって、思考のパターンだって
歩き方だって座り方だって、しぐさや表情だって、
見たり、聞いたり、感じたりするのだって、ほとんど自覚していません。
現実を見てなんていないんです。
ほとんど全て記憶に頼っています。
「今ここ」なんて簡単にいいますが、
それに近づけていくには途方もない努力が求められます。
これまでの経験に基づいて、自動的にするようになってきたこと。
その記憶を利用して、誰もが日常生活を送っています。
そして経験を重ねるほどに、現実を体験しなくなる。
新しいことを経験せずに、学習した記憶の中の方法で自動反応するんです。
その学習したパターンを自覚していないんです。
そのパターンによってどういうことが起きているのかを自覚しないのはもちろん、
そのパターンが動いていることさえ自覚していません。
それを自覚する。
そうすることで、パターンを使う以外の体験をする余地が生まれます。
ただ自分の中を流れていっていた経験の全てを
じっくりと味わうように体験するための状態になってきます。
堪能するんです。
一瞬一瞬を。
今までに経験していなかったものが意識に上がるようになって
過去の繰り返しではない新しい一瞬を体験するようになります。
そこに起きていることを体験できる度合いが上がっていきます。
それがマインドフルネスということ。
丁寧に体験するんです。
その瞬間を丁寧に体験するんです。
そのこと自体が感慨深いもののようです。
多くの人が忙しい時間を生きています。
その全てをマインドフルに体験しなくてもいいかもしれません。
ただ一日のどこかに、できるだけその瞬間を堪能する時間をとる。
それは豊かなことではないでしょうか。
マインドフルネス・トレーニング
10月の5日に『マインドフルネス』のトレーニングを行います。
マインドフルネスとは「(注意深く)気づいている状態」のことです。
色々なことを自覚しているか、という話。
特に重要な要素に「ジャッジをしない」ということを含みます。
良し悪しの判断を入れないようにする。
受容的な態度で体験をする。
そのため先入観や思い込みによって思い悩む度合いが減り、
また、その瞬間の出来事に振り回されることも少なくなります。
シンプルにいえば、安定感を高めるトレーニングといったところでしょうか。
世間一般で『マインドフルネス』というと、
「マインドフルネス瞑想」の結びつけて考えられることが多いようです。
心理学や精神医学の研究としてもマインドフルネスは扱われていて
マインドフルネスをベースとした、あるいは密接に関係した心理療法なども
色々と開発され、その効果が検証されています。
またマインドフルネスが、病気と関連した精神的ショックの緩和や
痛みの緩和ケアにも効果があることが示されています。
このように瞑想や、それに近い静的な状態でのマインドフルネスが
研究対象としても、紹介される対象としても多いように見受けられますが、
マインドフルネスを取り入れたコミュニケーションも有効です。
つまり、自分一人でジッとしているときにマインドフルな状態でいるだけでなく
他人と接することの多い日常のあらゆる場面、言い換えるなら動的な状態でも
マインドフルな状態でいることが効果的だというわけです。
人間関係におけるストレスや揉め事の多くは、
「良し悪しの判断(=ジャッジ)」によって生まれます。
マインドフルなコミュニケーションは、そのような衝突を取り除いてくれます。
またストレスの多い状況において、多くの人はメタ感情で苦しみます。
メタ感情とは、ある感情に対して沸いてくる別の感情のことです。
例えば、不安があることに対してウンザリする、とか
怒りがあることに対して罪悪感を覚える、とかです。
自分の内面に対するマインドフルネスは、そうした複雑な気持ちを
受容的なスタンスで捉えられるようになって、
感情的な苦しみの度合いを大きく軽減してくれます。
コミュニケーションの最中から、自分の中に沸いていた感情を捉え
その感情に対してマインドフルネスで接していれば、
会話をしながら感情を爆発させたり、自動的に反応してしまったりして
厄介な結果になってしまうことも無くなります。
他にも、マインドフルネスが意志決定の質を高めることが報告されています。
意志決定の材料となる情報を、思い込みや先入観のない形でインプットでき、
情報の取り残しがないかどうかにも注意深くなることが大きいのでしょう。
特に、「何かを決める」というのは体感覚としての納得感がベースになるため
その納得感と違和感との違いにマインドフルであれば的確な判断も下しやすくなる。
これが重要なポイントだといえます。
当然ですが、コミュニケーションの最中にマインドフルネスを心がけておくのは
カウンセリングなどの相談援助にも重要です。
1つ1つの発言や、自分の発するメッセージを自覚しておくことで
的確な関わり方をしやすくなります。
自分の癖を自覚しながら、意図のある言葉を発するのは
プロとして自分のやっている内容に意味を説明できるようにすることでもあります。
自分のやり方に裏づけを与えられて自信のある対応ができるようになりますし、
自分のやるべき範囲を明確にして安全性の高い関わりが可能にもなります。
もちろん、効果的な振り返りをしながら技術を向上させるにも
自分のやっていることを自覚しておく必要がありますから、
マインドフルなコミュニケーションは、そうした意味でも役に立つんです。
なおNLPでは、プログラムを変える手法を数多く紹介していますが、
その手法で実際にプログラムを変えることが役に立つのに加えて
プログラムを心がけるようになることそのものが大きな効果を発揮するものです。
それはプログラムという視点を取り入れ、プログラムを変える実習をすると、
自分のプログラムを自覚する練習を重ねるのと同じ効果が得られるためです。
「自分の問題となるプログラムは何か?」
「どんな瞬間にそのプログラムが作動するのか?」
そうした観点で自分の問題となる反応パターンを見ていくと、
実際にその問題が起こった瞬間を自覚することができるようになります。
「あぁ、あのプログラムが動いたな」と分かるわけです。
そしてNLPでは、そのプログラムの肯定的意図も探りますから
プログラムが動いたのを自覚した瞬間に、
「このプログラムが厄介な結果に繋がるんだなぁ」と思いながら、一方で
「まぁ、このプログラムがあるおかげで助かっていることもあるんだけど」と
受容的で寛容な態度になります。
実際にプログラムを変えるかどうかにかかわらず
NLPを重ねていくと、自分のプログラムに対してマインドフルになれる
という側面も考えられるんです。
その意味ではNLPとも関連した効果が実感できるといえます。
ただし、NLPでは主に問題となるプログラムに焦点を合わせますから
それが解消されて気にならなくなってくると、
またプログラムへの自覚が落ちてくることが多いようでもあります。
その点、マインドフルネスのトレーニングを積極的に起こった場合、
常に自分の中にあるプログラムにも自覚できますから
より自分自身に対して受容的な状態に近づいていけるでしょうし、
自分に対して優しい生き方ができるようにもなると期待されます。
ということで、色々と役に立つ『マインドフルネス』のトレーニングを行います。
あくまでもトレーニング方法の紹介です。
その場で数多くのトレーニングを体験していただきますが、
「マインドフルである」ということは常に自覚を必要とします。
「マインドフルネスのトレーニングを積んだから、
自動的にいつもマインドフルでいられる」ということではありません。
それは「マインドフルネスで体験をしているかどうか」に対して
マインドフルではなくなっている状態だからです。
トレーニングそのものはマインドフルな状態を実感して
今後の心がけの指標を作るためのものだといえます。
あとは日々、どのように過ごすかという話でしょう。
マインドフルネスは、「あるか/ないか」のものではありません。
「どのぐらいマインドフルか」という程度問題です。
マインドフルネスの程度を高めるための方法を練習して
どこまでマインドフルになるかはご自身で判断していただきます。
もしかするとマインドフルネスを心がけていると
疲れそうな気がする人もいるかもしれません。
そうではありません。
疲れていることにもマインドフルに気づけることが役に立つんです。
疲れることに対して気づいているからこそ、適度に休むこともできますし、
自分にとって向いているかどうかにも自覚ができるでしょう。
マインドフルでない場合のほうが、疲れを自覚することも
その疲れが何から来るのかも分からないまま
いつの間にか心身のバランスを崩すことに繋がりかねません。
その意味でも、マインドフルネスは心身ともに豊かな生き方に貢献するようです。
少なくとも、幸せを感じることは増えるでしょう。
とはいえ、「マインドフルな生き方が良い」とか
「マインドフルネスが人として正しい方向性だ」とか
「マインドフルネスを広めるべきだ」とか、
そういう話ではないんです。
良いか悪いかは分かりません。
効果的かどうかも、何かの目的があって初めて決まるものです。
健康や幸せ、効果的なコミュニケーション、仕事の成果など
ご自身の中に大事にしたいことがあれば「効果的」でしょう。
だからといって、皆がそうあるべきだとは言えないはずです。
ある意味では、マインドフルネスというのは
自分の人生に対して真剣な態度なんだろうと感じます。
好みというか、「自分の心に響くかどうか」で
取り組むかどうかを判断するものかもしれません。
あくまで「こういう生き方のスタンスがありますよ」という提案です。
やってみて嫌なら止めればいいでしょう。
すぐにマインドフルでない状態に戻れます。
簡単に戻ります。
色々気づいて大変だと感じている人は、むしろ
マインドフルネスを心がけるほうが楽になる可能性がありますが、
それさえも、やるかどうかはお好みです。
なんとなく興味が沸いた方は、どうぞご参加ください。
その場合には体験する価値があります。
◆録音/録画、再生機材に関しまして
講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いません。
あくまで個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
実習が中心ですから聞きなおして理解するものではないかもしれませんが
マインドフルネスの感覚を思い出すために、
録音したものを聞きなおすのは効果的かもしれません。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
【セミナーの詳細】
≪マインドフルネス・トレーニング≫
【日時】 10月5日(日)
9:30〜16:00
※開始時間にご注意ください
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 五反田文化センター 第6会議室
(JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
(東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
申し込みを締め切りました。
人はとかく自動的なものです。
学習された方法を自覚なく繰り返しているだけのことが多いんです。
コミュニケーションでも、それ以外のことでも、です。
厳しい言い方をすると、漫然と適当に過ごしているということ。
そんなものです。
話し方だって、言葉の選び方だって、思考のパターンだって
歩き方だって座り方だって、しぐさや表情だって、
見たり、聞いたり、感じたりするのだって、ほとんど自覚していません。
現実を見てなんていないんです。
ほとんど全て記憶に頼っています。
「今ここ」なんて簡単にいいますが、
それに近づけていくには途方もない努力が求められます。
これまでの経験に基づいて、自動的にするようになってきたこと。
その記憶を利用して、誰もが日常生活を送っています。
そして経験を重ねるほどに、現実を体験しなくなる。
新しいことを経験せずに、学習した記憶の中の方法で自動反応するんです。
その学習したパターンを自覚していないんです。
そのパターンによってどういうことが起きているのかを自覚しないのはもちろん、
そのパターンが動いていることさえ自覚していません。
それを自覚する。
そうすることで、パターンを使う以外の体験をする余地が生まれます。
ただ自分の中を流れていっていた経験の全てを
じっくりと味わうように体験するための状態になってきます。
堪能するんです。
一瞬一瞬を。
今までに経験していなかったものが意識に上がるようになって
過去の繰り返しではない新しい一瞬を体験するようになります。
そこに起きていることを体験できる度合いが上がっていきます。
それがマインドフルネスということ。
丁寧に体験するんです。
その瞬間を丁寧に体験するんです。
そのこと自体が感慨深いもののようです。
多くの人が忙しい時間を生きています。
その全てをマインドフルに体験しなくてもいいかもしれません。
ただ一日のどこかに、できるだけその瞬間を堪能する時間をとる。
それは豊かなことではないでしょうか。
2014年09月17日
未熟さを知る
書道をやっていると
「分かる」ことと「できる」ことの違い
を実感します。
一口に書道といっても、その中でやることには色々とあるようです。
最終的に多くの書家が行うのは「創作」と呼ばれる作業で
自分なりの表現で作品を書くことをいいます。
「自分なりの表現」といっても、それは決してデタラメではない。
ここが書道の難しいところでしょう。
書く側にも、見る側にも、ある程度の「見る力」が求められるんです。
「分かる」人同士が判断をするわけです。
これは音楽に喩えると分かりやすいかもしれません。
オリジナルの楽曲を演奏しようとしたとき
ランダムにガチャガチャとピアノの鍵盤を叩いたところで
音楽にはならないものでしょう。
少なくともメロディーは感じられないはずです。
センスのいい人なら、リズム感だけで何かを生み出せるかもしないですが
原則的にはピアノを弾ける人が、メロディーらしい特徴を含めることで
オリジナルの曲というものが生み出されるといえます。
メロディーには、それらしさがあるということです。
メロディーとして認識されるだけの特徴があるんです。
書道においても、書道作品として認識されるために
ある程度の「らしさ」があります。
見る側にも書く側にも、パターン認識として書道らしさが共有されていて
それがいわば「基本」のように扱われるようです。
ちなみに、リズム感のセンスだけで、デタラメなメロディーなのに
それなりに音楽を表現できてしまう人もいるものですが、
これを書道に喩えると、「書道を習ったことがないのに
筆を使って文字を書くと、味わい深いものになる」といったケースでしょう。
たまにそういう人もいるみたいですが、それでもその種の作品は
「書道をやっている」人たちからすると評価の対象にはならないようです。
書として共通されるはずの特徴がないからだと思われます。
ですから、書道をやる・書道教室に通うということは
その「書らしい」特徴を学ぶところに意味があると考えられます。
「書らしさ」には確かに文字の形も含まれますが、
書作品となると形を崩すケースが出てきますので
活字のような形を身につけることが書道の練習なわけではなさそうです。
むしろ重要なのは、線質と紙面における白黒のバランス。
書を絵と分けるのは、きっと
「一色で引かれる線である」ということなんじゃないでしょうか。
この線質と直結するのが筆使い。
古典と呼ばれる昔の名作を模倣(臨書)して
その文字を書くときの筆の動きを身につけるのが練習のようです。
もちろん文字の形や書体には、それなりの決まりごとがあって
その範囲をハミ出てしまうことは良しとされませんから、
そうした文字の基本的なルールを学ぶのも古典を臨書する1つの目的でしょう。
しかし最終的に、自らの表現で創作をおこなうことを考えると
全体の雰囲気と結びついた線質、そしてそのための筆使いとを学ぶのが
書道の練習のメインとして求められることだと思われます。
その意味では、古典の印刷物を見ながら
自分一人で練習したって構わないはずですが、
やはり「筆使いいを学ぶ」という点でいえば、
実際の筆の動きを見たほうが早いんです。
それに筆の動きだけでなく、筆を動かすときの体の使い方も見られます。
リズム感も見て取れますし、紙の上だけでなく、空中での動きも見える。
だから模倣がしやすくなります。
教室に通って、先生の書きぶりを見て学ぶのには
一人で古典の名作を見ながら真似しようとするのとは
全く別次元の効果があるわけです。
先生がお手本を書いてくれる様子を見て、その動きを再現するようにして
自分でも実際に書いてみるのが、まさに日々の練習なんです。
しかしながら、僕がやっている練習は、その模倣までの段階。
創作をするための練習はやっていません。
自分で表現を検討してみて、ああだこうだと考えるようなレベルには
まだまだ達していないということです。
(やっていないだけかもしれませんが)
一方、先生のお手本は、単なる古典のコピーではありません。
古典は全体で1つの作品です。
紙面や石碑全体として完成されていますから、
何文字かを抜き取って、それを真似しても部分でしかないんです。
なので、その部分だけを真似するのではなくて、
少ない文字数を紙に書くときには、その紙面の中に
古典全体の雰囲気が表れるように書く必要があるそうです。
例えば、とても優雅な書きぶりの古典を臨書するとしたら
一部分をそのまま真似しても、その優雅さが表れないので
全体としての優雅さが反映されるように表現を工夫するといいます。
先生のお手本は、そういう作業を含んでいる。
でも僕がやっているのは、その書かれたお手本を見て真似するだけ。
自分で古典の印刷物を見ながら、先生がやるのと同じように
古典全体の雰囲気を再現するように工夫して書けるかといえば
とてもではないですが、まだまだできる気がしません。
自分でやろうとしても、その雰囲気が出ていないことは分かるんです。
それは分かるようになってきたと思います。
先生の書いたものと、自分のとでは差があることが分かる。
形やバランス、特徴的な線質などでは共通点は増えてきています。
でも、醸し出す雰囲気が違う。
それはきっと線質の細かい部分に表れているんでしょう。
線のエッジや、微妙なカーブの角度、濃淡の表れ方…
様々な要素が組み合わさって、雰囲気の差を生んでいるはずです。
おそらく、書道をやる前の僕には、その違いは分からなかったと思われます。
違いが見て取れるようになってきたのは、練習の成果でしょう。
「分かる」・「分からない」の差があって、その先に
「分かる」のと「できる」のとの差がある。
このことを強く実感します。
自分でやってみて、「できていない」ことが「分かる」からこそ
できるようにするために、差を埋める努力ができるわけでもありますが。
こういうのは、色々な学びのプロセスに共通するものなのかもしれません。
「分かる」ことと「できる」ことの違い
を実感します。
一口に書道といっても、その中でやることには色々とあるようです。
最終的に多くの書家が行うのは「創作」と呼ばれる作業で
自分なりの表現で作品を書くことをいいます。
「自分なりの表現」といっても、それは決してデタラメではない。
ここが書道の難しいところでしょう。
書く側にも、見る側にも、ある程度の「見る力」が求められるんです。
「分かる」人同士が判断をするわけです。
これは音楽に喩えると分かりやすいかもしれません。
オリジナルの楽曲を演奏しようとしたとき
ランダムにガチャガチャとピアノの鍵盤を叩いたところで
音楽にはならないものでしょう。
少なくともメロディーは感じられないはずです。
センスのいい人なら、リズム感だけで何かを生み出せるかもしないですが
原則的にはピアノを弾ける人が、メロディーらしい特徴を含めることで
オリジナルの曲というものが生み出されるといえます。
メロディーには、それらしさがあるということです。
メロディーとして認識されるだけの特徴があるんです。
書道においても、書道作品として認識されるために
ある程度の「らしさ」があります。
見る側にも書く側にも、パターン認識として書道らしさが共有されていて
それがいわば「基本」のように扱われるようです。
ちなみに、リズム感のセンスだけで、デタラメなメロディーなのに
それなりに音楽を表現できてしまう人もいるものですが、
これを書道に喩えると、「書道を習ったことがないのに
筆を使って文字を書くと、味わい深いものになる」といったケースでしょう。
たまにそういう人もいるみたいですが、それでもその種の作品は
「書道をやっている」人たちからすると評価の対象にはならないようです。
書として共通されるはずの特徴がないからだと思われます。
ですから、書道をやる・書道教室に通うということは
その「書らしい」特徴を学ぶところに意味があると考えられます。
「書らしさ」には確かに文字の形も含まれますが、
書作品となると形を崩すケースが出てきますので
活字のような形を身につけることが書道の練習なわけではなさそうです。
むしろ重要なのは、線質と紙面における白黒のバランス。
書を絵と分けるのは、きっと
「一色で引かれる線である」ということなんじゃないでしょうか。
この線質と直結するのが筆使い。
古典と呼ばれる昔の名作を模倣(臨書)して
その文字を書くときの筆の動きを身につけるのが練習のようです。
もちろん文字の形や書体には、それなりの決まりごとがあって
その範囲をハミ出てしまうことは良しとされませんから、
そうした文字の基本的なルールを学ぶのも古典を臨書する1つの目的でしょう。
しかし最終的に、自らの表現で創作をおこなうことを考えると
全体の雰囲気と結びついた線質、そしてそのための筆使いとを学ぶのが
書道の練習のメインとして求められることだと思われます。
その意味では、古典の印刷物を見ながら
自分一人で練習したって構わないはずですが、
やはり「筆使いいを学ぶ」という点でいえば、
実際の筆の動きを見たほうが早いんです。
それに筆の動きだけでなく、筆を動かすときの体の使い方も見られます。
リズム感も見て取れますし、紙の上だけでなく、空中での動きも見える。
だから模倣がしやすくなります。
教室に通って、先生の書きぶりを見て学ぶのには
一人で古典の名作を見ながら真似しようとするのとは
全く別次元の効果があるわけです。
先生がお手本を書いてくれる様子を見て、その動きを再現するようにして
自分でも実際に書いてみるのが、まさに日々の練習なんです。
しかしながら、僕がやっている練習は、その模倣までの段階。
創作をするための練習はやっていません。
自分で表現を検討してみて、ああだこうだと考えるようなレベルには
まだまだ達していないということです。
(やっていないだけかもしれませんが)
一方、先生のお手本は、単なる古典のコピーではありません。
古典は全体で1つの作品です。
紙面や石碑全体として完成されていますから、
何文字かを抜き取って、それを真似しても部分でしかないんです。
なので、その部分だけを真似するのではなくて、
少ない文字数を紙に書くときには、その紙面の中に
古典全体の雰囲気が表れるように書く必要があるそうです。
例えば、とても優雅な書きぶりの古典を臨書するとしたら
一部分をそのまま真似しても、その優雅さが表れないので
全体としての優雅さが反映されるように表現を工夫するといいます。
先生のお手本は、そういう作業を含んでいる。
でも僕がやっているのは、その書かれたお手本を見て真似するだけ。
自分で古典の印刷物を見ながら、先生がやるのと同じように
古典全体の雰囲気を再現するように工夫して書けるかといえば
とてもではないですが、まだまだできる気がしません。
自分でやろうとしても、その雰囲気が出ていないことは分かるんです。
それは分かるようになってきたと思います。
先生の書いたものと、自分のとでは差があることが分かる。
形やバランス、特徴的な線質などでは共通点は増えてきています。
でも、醸し出す雰囲気が違う。
それはきっと線質の細かい部分に表れているんでしょう。
線のエッジや、微妙なカーブの角度、濃淡の表れ方…
様々な要素が組み合わさって、雰囲気の差を生んでいるはずです。
おそらく、書道をやる前の僕には、その違いは分からなかったと思われます。
違いが見て取れるようになってきたのは、練習の成果でしょう。
「分かる」・「分からない」の差があって、その先に
「分かる」のと「できる」のとの差がある。
このことを強く実感します。
自分でやってみて、「できていない」ことが「分かる」からこそ
できるようにするために、差を埋める努力ができるわけでもありますが。
こういうのは、色々な学びのプロセスに共通するものなのかもしれません。
2014年09月15日
問題を見ない
カウンセラー側がクライアントの問題を「問題」として見てしまうと
それはクライアントの問題意識を強化することになります。
「これは問題だ」という枠組みに加担するわけです。
カウンセラーもクライアントも「問題」を見つめ
どうしたら問題を解決できるかと考え始める。
じゃあ、まずはこれを試してみよう。
どうだろうか?
…。
うーん、あまり効果が出ませんでした。
そうか…。
そういうこともあるものさ。
大丈夫。
他にも沢山やりかたはありますから。
じゃあ、これだったらどうだろう。
うん、これは良さそうだ。
…。
…えーと、そうですね。
あれから少し良くなった気がするんですけど。
あぁ、そうですか。
でも、良くなったんだ。
問題は解決の方向へ進んでいるのだから、
この方向でやってみましょう。
その問題については、この方法が効果的だというエビデンスがあるんです。
…。
あの、この前の課題なんですけど
どうも上手くいかないというか…。
え?
まぁ、そういうこともあるかもしれませんね。
エビデンスというのは統計データのことですから、
効果の出る人もいれば、出ない人もいます。
大丈夫です。
こういう言葉があるんです。
「失敗はない。あるのはフィードバックだけだ。」
ですから、上手くいかないなら、他のことをすればいいだけです。
じゃあ、次の方法を試してみます。
なんていう感じで進むことがあるかもしれません。
お互いに「問題」という枠組みで見ていて、
問題解決のための手段を検討しているわけです。
問題解決努力という発想の中にも
「上手くいくこともあれば、上手くいかないこともある」
という含みがある可能性もあるでしょう。
カウンセラーもクライアントも一緒になって
問題の中に浸ってしまっている状態だといえます。
一方、カウンセラーが問題を「問題」とは捉えないと、
関係性の中に気楽さが生まれてきます。
「あぁ、大丈夫、大丈夫。
なんとでもなります。」
といった具合の態度が前提としてあると、取り組みに余裕が出てくるんです。
そしてこの余裕の雰囲気が安心感を生み、
問題に対する深刻さを弱め、なんとなかなりそうな気分へと繋がります。
問題が「問題」となるのは、クライアント本人が圧倒されているからです。
どうしようもない感じだから苦しむ。
希望が失われていることもあります。
だからカウンセラー側の安心感、気楽さが役立ちます。
「大丈夫ですよ」の一言で救われるケースも多々あることでしょう。
もちろん、これにはカウンセラー側が経験を積んで
「問題なんて結局、大丈夫なものだ」
「人はなんとでもなるし、乗り越えられるものだ」
「この問題のおかげで助かっている部分も沢山あるのだから、
人っていうのは本当に上手くできているものだ」
「きっとこの人は、これによって大切なことを経験するんだろう」
などの実感を掴んでいることが求められるはずです。
いわば人間というものへの信頼感です。
「どうせ大丈夫なんだから」という信頼。
なんなら「あぁ、そう。良かったねぇ。」という称賛さえ含んだ余裕。
クライアントの人生と現状の苦しみを、丸ごと素晴らしいものとして捉える感じです。
それがあることでカウンセラー側は安定感をもって関わることができますし
「問題」ではない枠組みからクライアントを見られるようになります。
つまり、
カウンセラー側がすでに「問題」をリフレーミングし終わっている
ということ。
その新たな枠組みにクライアントを招き入れられるため
クライアントは問題に苦しむ状態から抜け出ることができます。
まずは気が楽になる。
希望がわいてくる。
前に進む力が生まれてくるんです。
とはいえ、カウンセラー側が気楽に
「あぁ、そういうことですか。
大丈夫ですよ、それぐらい。
ハハハー。」
なんて態度で接してしまっては、クライアントは期待外れの印象をもつでしょう。
「この人は自分の苦しみを分かってくれない」とガッカリすると思われます。
ですからペーシングが必要なんです。
相手の「苦しみ」に焦点を合わせる。
そこに話題を向け、そこへ言葉をかけていく。
カウンセラー側の基本姿勢としては「問題」の枠組みから外れたまま
クライアントの「苦しみ」に注目して関わるということです。
くれぐれも「問題」に合わせるのではありません。
「問題」に目を向けて、問題解決を考えるスタンスそのものが
クライアントの持っている「問題」という枠組みを強化しますから。
クライアントが分かって欲しいのは問題ではないんはずです。
分かって欲しいのは、苦しみです。
気持ち・感情のほうを分かってもらいたい。
自分がいかに辛いのかを分かってもらいたいのであって、
どういう問題なのかを分かってもらいたいわけではないものです。
だから「問題」に注目して、問題について話を進めるのではなく、
クライアントの感情に注目して、気持ちに合わせるんです。
カウンセラーは「問題」ではなく、「苦しみ」という感情に目を向ける。
そして、苦しみから解放されるようなサポートをする。
なぜなら問題は「問題」ではないからです。
カウンセラー側の枠組みでは、別に問題だと捉えていない。
それは既にリフレーミング済みで、大丈夫なことになっている。
それでもクライアントが問題そのものを何とかしたいのであれば
そのための手助けもすることになるでしょうけれど、
クライアントの問題意識が弱まっていれば変化の効率も上がります。
本質的なサポートは「苦しみ」から抜け出るほうだ、という話です。
カウンセリングやセラピーを勉強すると、
「問題」に目を向けやすくなることがあるみたいです。
僕もそうでした。
本を読めば、「どうやって問題を解決するか」の話ばかりですから。
必然的に勉強するほど、クライアントの問題に目を向けるようになります。
そして、このケースだったら、こういう対応が良いだろうと考える。
だからクライアントの「問題」に耳を傾ける。
積極的に質問をして、話を聞き出して、問題の状況を理解しようとします。
問題のパターンを把握して、どういう行動傾向があるのか分析したり、
何が問題のパターンを生み出しているのかを考察したり。
そうやって話を聞くから、クライアントの「苦しみ」の感情から注意が逸れる。
ある意味では、クライアントにペーシングしているんです。
クライアントのスタンスに合わせているといえます。
クライアントが「問題だ」と捉えている発想に合わせているわけなので。
でも、クライアントの「苦しみ」には合わせていません。
カウンセラーが気持ちを向けるのは、むしろ
クライアントの「苦しみ」と結びついた感情のほうじゃないでしょうか。
そして問題そのものは自分の中でリフレーミングして
「クライアントのかけがえのない人生の一部」として捉えておく。
クライアントの人生の大切な要素を
赤の他人であるカウンセラーが勝手に解決しようするのではなく、
今のその「苦しみ」から楽になることに力を傾けるんです。
「問題」に目を向けるか「目標」に目を向けるか、
「原因論」か「目的論」か、
「目的志向型」か「問題回避型」か、
「原因指向」か「解決指向」か…。
いずれも『同じもの』を違う角度で見ているだけのことです。
同じレベルで違う方向から捉えているといえます。
クライアントと同じように「置かれている状況と行動」に注目しています。
そうではなくて、
「どうせ大丈夫。良かったね。かけがえのない経験ですね。」
という、両方の視点を超越した視座に立ちつつ、
今その瞬間のクライアントの「苦しみ」に目を向ける
…そのほうが効果的じゃないかと思われます。
いや、少なくとも経験上、「これまでずっと効果的だった」んです。
寄り添う対象は「問題」じゃない。
「苦しみ」でしょう。
クライアントの「人生」を信頼し、
クライアントの「苦しみ」に寄り添う。
それがポイントのような気がします。
それはクライアントの問題意識を強化することになります。
「これは問題だ」という枠組みに加担するわけです。
カウンセラーもクライアントも「問題」を見つめ
どうしたら問題を解決できるかと考え始める。
じゃあ、まずはこれを試してみよう。
どうだろうか?
…。
うーん、あまり効果が出ませんでした。
そうか…。
そういうこともあるものさ。
大丈夫。
他にも沢山やりかたはありますから。
じゃあ、これだったらどうだろう。
うん、これは良さそうだ。
…。
…えーと、そうですね。
あれから少し良くなった気がするんですけど。
あぁ、そうですか。
でも、良くなったんだ。
問題は解決の方向へ進んでいるのだから、
この方向でやってみましょう。
その問題については、この方法が効果的だというエビデンスがあるんです。
…。
あの、この前の課題なんですけど
どうも上手くいかないというか…。
え?
まぁ、そういうこともあるかもしれませんね。
エビデンスというのは統計データのことですから、
効果の出る人もいれば、出ない人もいます。
大丈夫です。
こういう言葉があるんです。
「失敗はない。あるのはフィードバックだけだ。」
ですから、上手くいかないなら、他のことをすればいいだけです。
じゃあ、次の方法を試してみます。
なんていう感じで進むことがあるかもしれません。
お互いに「問題」という枠組みで見ていて、
問題解決のための手段を検討しているわけです。
問題解決努力という発想の中にも
「上手くいくこともあれば、上手くいかないこともある」
という含みがある可能性もあるでしょう。
カウンセラーもクライアントも一緒になって
問題の中に浸ってしまっている状態だといえます。
一方、カウンセラーが問題を「問題」とは捉えないと、
関係性の中に気楽さが生まれてきます。
「あぁ、大丈夫、大丈夫。
なんとでもなります。」
といった具合の態度が前提としてあると、取り組みに余裕が出てくるんです。
そしてこの余裕の雰囲気が安心感を生み、
問題に対する深刻さを弱め、なんとなかなりそうな気分へと繋がります。
問題が「問題」となるのは、クライアント本人が圧倒されているからです。
どうしようもない感じだから苦しむ。
希望が失われていることもあります。
だからカウンセラー側の安心感、気楽さが役立ちます。
「大丈夫ですよ」の一言で救われるケースも多々あることでしょう。
もちろん、これにはカウンセラー側が経験を積んで
「問題なんて結局、大丈夫なものだ」
「人はなんとでもなるし、乗り越えられるものだ」
「この問題のおかげで助かっている部分も沢山あるのだから、
人っていうのは本当に上手くできているものだ」
「きっとこの人は、これによって大切なことを経験するんだろう」
などの実感を掴んでいることが求められるはずです。
いわば人間というものへの信頼感です。
「どうせ大丈夫なんだから」という信頼。
なんなら「あぁ、そう。良かったねぇ。」という称賛さえ含んだ余裕。
クライアントの人生と現状の苦しみを、丸ごと素晴らしいものとして捉える感じです。
それがあることでカウンセラー側は安定感をもって関わることができますし
「問題」ではない枠組みからクライアントを見られるようになります。
つまり、
カウンセラー側がすでに「問題」をリフレーミングし終わっている
ということ。
その新たな枠組みにクライアントを招き入れられるため
クライアントは問題に苦しむ状態から抜け出ることができます。
まずは気が楽になる。
希望がわいてくる。
前に進む力が生まれてくるんです。
とはいえ、カウンセラー側が気楽に
「あぁ、そういうことですか。
大丈夫ですよ、それぐらい。
ハハハー。」
なんて態度で接してしまっては、クライアントは期待外れの印象をもつでしょう。
「この人は自分の苦しみを分かってくれない」とガッカリすると思われます。
ですからペーシングが必要なんです。
相手の「苦しみ」に焦点を合わせる。
そこに話題を向け、そこへ言葉をかけていく。
カウンセラー側の基本姿勢としては「問題」の枠組みから外れたまま
クライアントの「苦しみ」に注目して関わるということです。
くれぐれも「問題」に合わせるのではありません。
「問題」に目を向けて、問題解決を考えるスタンスそのものが
クライアントの持っている「問題」という枠組みを強化しますから。
クライアントが分かって欲しいのは問題ではないんはずです。
分かって欲しいのは、苦しみです。
気持ち・感情のほうを分かってもらいたい。
自分がいかに辛いのかを分かってもらいたいのであって、
どういう問題なのかを分かってもらいたいわけではないものです。
だから「問題」に注目して、問題について話を進めるのではなく、
クライアントの感情に注目して、気持ちに合わせるんです。
カウンセラーは「問題」ではなく、「苦しみ」という感情に目を向ける。
そして、苦しみから解放されるようなサポートをする。
なぜなら問題は「問題」ではないからです。
カウンセラー側の枠組みでは、別に問題だと捉えていない。
それは既にリフレーミング済みで、大丈夫なことになっている。
それでもクライアントが問題そのものを何とかしたいのであれば
そのための手助けもすることになるでしょうけれど、
クライアントの問題意識が弱まっていれば変化の効率も上がります。
本質的なサポートは「苦しみ」から抜け出るほうだ、という話です。
カウンセリングやセラピーを勉強すると、
「問題」に目を向けやすくなることがあるみたいです。
僕もそうでした。
本を読めば、「どうやって問題を解決するか」の話ばかりですから。
必然的に勉強するほど、クライアントの問題に目を向けるようになります。
そして、このケースだったら、こういう対応が良いだろうと考える。
だからクライアントの「問題」に耳を傾ける。
積極的に質問をして、話を聞き出して、問題の状況を理解しようとします。
問題のパターンを把握して、どういう行動傾向があるのか分析したり、
何が問題のパターンを生み出しているのかを考察したり。
そうやって話を聞くから、クライアントの「苦しみ」の感情から注意が逸れる。
ある意味では、クライアントにペーシングしているんです。
クライアントのスタンスに合わせているといえます。
クライアントが「問題だ」と捉えている発想に合わせているわけなので。
でも、クライアントの「苦しみ」には合わせていません。
カウンセラーが気持ちを向けるのは、むしろ
クライアントの「苦しみ」と結びついた感情のほうじゃないでしょうか。
そして問題そのものは自分の中でリフレーミングして
「クライアントのかけがえのない人生の一部」として捉えておく。
クライアントの人生の大切な要素を
赤の他人であるカウンセラーが勝手に解決しようするのではなく、
今のその「苦しみ」から楽になることに力を傾けるんです。
「問題」に目を向けるか「目標」に目を向けるか、
「原因論」か「目的論」か、
「目的志向型」か「問題回避型」か、
「原因指向」か「解決指向」か…。
いずれも『同じもの』を違う角度で見ているだけのことです。
同じレベルで違う方向から捉えているといえます。
クライアントと同じように「置かれている状況と行動」に注目しています。
そうではなくて、
「どうせ大丈夫。良かったね。かけがえのない経験ですね。」
という、両方の視点を超越した視座に立ちつつ、
今その瞬間のクライアントの「苦しみ」に目を向ける
…そのほうが効果的じゃないかと思われます。
いや、少なくとも経験上、「これまでずっと効果的だった」んです。
寄り添う対象は「問題」じゃない。
「苦しみ」でしょう。
クライアントの「人生」を信頼し、
クライアントの「苦しみ」に寄り添う。
それがポイントのような気がします。
2014年09月13日
正しいやり方
カウンセリングだとか心理学だとかを勉強しようという人には
物事に対して真剣に取り組む傾向が高いように見受けられます。
内面のことや、自分の人生に起きていることを真剣に受け取るからこそ
そこに悩みや関心が生まれてくるのかもしれません。
きっと考えるのも好きなんでしょう。
ただし、ともすると「考え込む」になりやすいように見えます。
色々と視野を広げて可能性や繋がりを見ていく、というよりは
突き詰めて答えを探そうとするようにドップリ浸っていく感じ。
本を読み、あれこれと調べ、突き詰めていくことで
理論を知ろうとする場合も多いみたいです。
特に心理学は理論が多いんです。
しかも対立する理論が。
「〜はこう説明した。しかし私はこう考える」といった形で
新たな理論が展開される。
多くの人に当てはめる行動傾向を実験によって示そうとする学派なら
全員の集合知として心を理解しようという方向で取り組むようですが、
臨床心理寄りになってくると、「こういう手法が良い」と示そうとしますから
自動的にその手法が前提としている理論の正しさも主張されます。
心を理解しようという理論が沢山あるのですから、
心理学を勉強しようとすると、その沢山の理論を覚えることにもなります。
過去の見解をまず把握しておきましょう、と。
この勉強の仕方に「正解・不正解」が伴われます。
誰かのいった説についての知識となれば、
記憶している情報が元の情報と一致しているかどうか
という明確な「正解」の基準が生まれます。
ワトソンとスキナーを混同してしまったら、
「どれだけ覚えているか」を問われた時には「不正解」なんです。
それは「正しい」情報ではありません。
対立する理論を知識として覚えようとしたとき
そこにはどうしたって「正しく」記憶しているかどうか
という着眼点が養われてしまうといえます。
さらに、数多い理論化された手法の中から、1つが選ばれます。
大学院で勉強する場合には、教授の専門に取り組むことになります。
本やセミナーで勉強しようという場合には、好みのものに集中します。
いずれにせよ、その理論に基づいて取り組む以上、
特定の方法を選んだ時点で「正しい」やり方が存在することになります。
その手法としての「正しさ」があるんです。
○○療法をやるからには、正しい○○療法のやり方に従う必要が出てきます。
そのやり方と違うことをしてしまったら、正しくないんです。
つまり、正解を追い求めやすい人たちが集まって
「正しい」知識を覚えるように勉強して、
特定の理論に基づいた「正しい」方法のトレーニングを受ける、と。
「正しい」かどうかの視点が強くなりやすいと思われます。
しかしながら皮肉なことに、
そもそも人の悩みの多くは「正しさ」と結びついています。
「こうであるべき(こうであるのが正しい)のに、できていない」
といった形で、基準に合わないことを「問題」と捉えます。
「正しさ」への思いが強い人ほど葛藤が多いわけです。
そして社会生活をしていれば、ルールという正しさがあります。
他者から求められることや、しがらみの中で生きているんです。
正しくなければいけない環境の中で生活をして、
正しくない自分を自分自身で否定する。
「正しい」かどうかで捉えているからです。
ただでさえ日々の生活で「正しさ」に縛られて生きていて
「正しさ」を求めるがあまり悩みや苦しみ抱えている。
その「正しさ」と現状とのギャップが大きいほど悩み・苦しみも大きい。
そうした「正しさ」を求めるあまり苦しんでいる人たちが
クライアントとなってカウンセラーの元を訪れます。
そこで、流派の「正しい」やり方に則ったカウンセラーが
「正しく」問題解決の方法に取り組もうとします。
理論に沿って、クライアントの問題を「正しく」説明して、
問題を解決するための「正しい」方法を使う。
当然、クライアントも「正しい」やり方を「正しく」実行しようとする。
お互いに「正しさ」の枠組みを強化している状況です。
「正しさ」に縛られるあまり苦しんでいるクライアントを
新たな「正しさ」の枠組みに当てはめようとしているわけです。
それは楽になりにくいはずです。
カウンセラー側が「正しさ」の枠組みから離れ
「ゆるさ」をもって関われるかどうか。
この違いはとても大きいと思います。
物事に対して真剣に取り組む傾向が高いように見受けられます。
内面のことや、自分の人生に起きていることを真剣に受け取るからこそ
そこに悩みや関心が生まれてくるのかもしれません。
きっと考えるのも好きなんでしょう。
ただし、ともすると「考え込む」になりやすいように見えます。
色々と視野を広げて可能性や繋がりを見ていく、というよりは
突き詰めて答えを探そうとするようにドップリ浸っていく感じ。
本を読み、あれこれと調べ、突き詰めていくことで
理論を知ろうとする場合も多いみたいです。
特に心理学は理論が多いんです。
しかも対立する理論が。
「〜はこう説明した。しかし私はこう考える」といった形で
新たな理論が展開される。
多くの人に当てはめる行動傾向を実験によって示そうとする学派なら
全員の集合知として心を理解しようという方向で取り組むようですが、
臨床心理寄りになってくると、「こういう手法が良い」と示そうとしますから
自動的にその手法が前提としている理論の正しさも主張されます。
心を理解しようという理論が沢山あるのですから、
心理学を勉強しようとすると、その沢山の理論を覚えることにもなります。
過去の見解をまず把握しておきましょう、と。
この勉強の仕方に「正解・不正解」が伴われます。
誰かのいった説についての知識となれば、
記憶している情報が元の情報と一致しているかどうか
という明確な「正解」の基準が生まれます。
ワトソンとスキナーを混同してしまったら、
「どれだけ覚えているか」を問われた時には「不正解」なんです。
それは「正しい」情報ではありません。
対立する理論を知識として覚えようとしたとき
そこにはどうしたって「正しく」記憶しているかどうか
という着眼点が養われてしまうといえます。
さらに、数多い理論化された手法の中から、1つが選ばれます。
大学院で勉強する場合には、教授の専門に取り組むことになります。
本やセミナーで勉強しようという場合には、好みのものに集中します。
いずれにせよ、その理論に基づいて取り組む以上、
特定の方法を選んだ時点で「正しい」やり方が存在することになります。
その手法としての「正しさ」があるんです。
○○療法をやるからには、正しい○○療法のやり方に従う必要が出てきます。
そのやり方と違うことをしてしまったら、正しくないんです。
つまり、正解を追い求めやすい人たちが集まって
「正しい」知識を覚えるように勉強して、
特定の理論に基づいた「正しい」方法のトレーニングを受ける、と。
「正しい」かどうかの視点が強くなりやすいと思われます。
しかしながら皮肉なことに、
そもそも人の悩みの多くは「正しさ」と結びついています。
「こうであるべき(こうであるのが正しい)のに、できていない」
といった形で、基準に合わないことを「問題」と捉えます。
「正しさ」への思いが強い人ほど葛藤が多いわけです。
そして社会生活をしていれば、ルールという正しさがあります。
他者から求められることや、しがらみの中で生きているんです。
正しくなければいけない環境の中で生活をして、
正しくない自分を自分自身で否定する。
「正しい」かどうかで捉えているからです。
ただでさえ日々の生活で「正しさ」に縛られて生きていて
「正しさ」を求めるがあまり悩みや苦しみ抱えている。
その「正しさ」と現状とのギャップが大きいほど悩み・苦しみも大きい。
そうした「正しさ」を求めるあまり苦しんでいる人たちが
クライアントとなってカウンセラーの元を訪れます。
そこで、流派の「正しい」やり方に則ったカウンセラーが
「正しく」問題解決の方法に取り組もうとします。
理論に沿って、クライアントの問題を「正しく」説明して、
問題を解決するための「正しい」方法を使う。
当然、クライアントも「正しい」やり方を「正しく」実行しようとする。
お互いに「正しさ」の枠組みを強化している状況です。
「正しさ」に縛られるあまり苦しんでいるクライアントを
新たな「正しさ」の枠組みに当てはめようとしているわけです。
それは楽になりにくいはずです。
カウンセラー側が「正しさ」の枠組みから離れ
「ゆるさ」をもって関われるかどうか。
この違いはとても大きいと思います。
2014年09月11日
氷を食べると
なんでも「氷を食べて痩せる」ダイエットがあるそうです。
氷を溶かすときに必要な熱量を体から供給することで
体にカロリーを消費させるという考え方だとか。
1kgの氷を食べると、総量で160kcalを消費できる計算らしいです。
ただ、それ以上食べると体温が下がり過ぎるから危険なので
160kcal分をキャンセルできるだけということ。
別に味のない氷でなくてアイスクリームでも構わないので
同じカロリーのものなら、常温のお菓子よりもアイスのほうが
冷たい分だけダイエット向きだと考えるみたいです。
とはいえ、一般的なアイスクリームやアイスキャンディーは
100mlから150mlぐらいのものですから、
冷たさ分でキャンセルされるカロリーは20kcal程度のもの。
ガリガリ君だと含まれる糖分から換算される70kcalから
20kcalを引いて、賞味50kcalという計算になります。
しかし実際には、低カロリーのアイスの部類に入るガリガリ君でさえ
その程度の差し引き分ですから、大きな効果ではないように思えます。
少なくとも、典型的なアメリカのイメージにあるような
1リットルのアイスクリームを直接カレースプーンですくって食べる
というようなことをすれば、アイスの乳脂肪分と糖分の影響のほうが
はるかに大きいことになるのは言うまでもありません。
やるとしたら、セブンイレブンで売っているようなロックアイスでしょうか。
ちなみに原理的には口で溶かしても、噛み砕いて飲みこんでも
どちらも近いものがあるようですが、
溶かすのに体の熱量をどれだけ使うかという話で考えると
飲みこんでしまったほうが確実性は高いと考えられます。
口に入れておくと、外気や吸い込んだ息で溶ける影響が出てきますから。
もっとドライに考えれば、氷で体を冷やしたって同じなんです。
「溶かすのに熱量を使う」という表現だと
わざわざ体が熱を生み出して氷を溶かそうとする
かのように聞こえるかもしれませんが、体として起きるのは、
氷に触れた部分と氷との温度差で熱が氷に移って氷が溶け、その分、
氷に触れていた体の部位の温度が下がる…
だから体温を一定に保つために体の熱生産が上がって
熱量としてエネルギーを消費する
という流れです。
つまり、外から体温を下げてやって、寒くなった分
ホメオスタシスで熱量を発生させてカロリーを消費する
という作業なんです。
原理としていえば、寒いほうが痩せる、ということと変わりません。
それを氷を使ってやるだけのことです。
ただ、1日に1kg分の氷を体に当てて溶かしたとしたら
冷たくってやっていられないことでしょう。
氷を手に持って溶かすことを想像したら、どれだけ冷たい感じがするか、
どれだけ熱を奪われるかが感じられそうです。
しかし、胃は熱をあまり感じないんです。
ビールをたくさん飲む人なんかは、冷たいものをガバガバ飲んでいるのに
あまり気にならないと言います。
熱い食べ物も、飲み込んでしまえば熱さを感じなくなります。
ただ、冷たいものを食べれば体温が下がりますし、
熱いものを食べれば体温が上がります。
胃の中で熱交換は起こるからです。
1kg分の氷を体のどこかに押し当てて溶かすことを考えたら
相当な冷たさを感じそうですが、
胃の中で溶かしてしまえば、それを感じないというわけです。
だからやれてしまう。
1kg分の氷の融解熱を体から奪えるんです。
その奪われた分の熱量を体が無駄に産生する必要があって
それが160kcal分になるということだといえます。
当然、熱が奪われることの影響がありますから
どのぐらいの負担なのかは分かりません。
一般的な想像をすれば、「お腹を壊しそう」な気もします。
胃腸の働きも悪くなるでしょう。
いわゆる夏バテの要因の1つに、食欲がなくなって
冷たいものばかり食べることが言われるぐらいですから。
充分な栄養を取らずに、胃腸を冷やすことで働きが弱まり
消化吸収も悪くなって全体的なエネルギー効率が落ちる、と。
それと同じことをやると考えたら、影響は大きそうな気がします。
冷えやすさにも個人差があると思われますから、
一概に一日1kgの氷とはいえないところでしょう。
健康を損ねたら元も子もないですし。
それに、冷えっぱなしだと脂肪がつきそうな気もします。
世界的にみると寒い地域の人たちのほうが脂肪を蓄えやすそうですから。
ポイントは熱を奪って、いかに熱産生の無駄遣いをするかなので
氷を食べる以外にも熱を奪うことをすればいいんだと考えられます。
奪われる熱量よりも作る熱量が少ないと冷えてしまいますから、どうせなら
熱生産と熱発散の効率を上げるような努力をしたほうが確実かもしれません。
そう考えるとやっぱりプールですかね。
水は空気よりも熱伝導が良いので、低めの温度のプールで泳げば
運動でエネルギーも使いつつ、熱も奪ってもらえて一石二鳥。
唇が紫にならない程度に冷やせば、カロリー消費量は上げられそうです。
氷を溶かすときに必要な熱量を体から供給することで
体にカロリーを消費させるという考え方だとか。
1kgの氷を食べると、総量で160kcalを消費できる計算らしいです。
ただ、それ以上食べると体温が下がり過ぎるから危険なので
160kcal分をキャンセルできるだけということ。
別に味のない氷でなくてアイスクリームでも構わないので
同じカロリーのものなら、常温のお菓子よりもアイスのほうが
冷たい分だけダイエット向きだと考えるみたいです。
とはいえ、一般的なアイスクリームやアイスキャンディーは
100mlから150mlぐらいのものですから、
冷たさ分でキャンセルされるカロリーは20kcal程度のもの。
ガリガリ君だと含まれる糖分から換算される70kcalから
20kcalを引いて、賞味50kcalという計算になります。
しかし実際には、低カロリーのアイスの部類に入るガリガリ君でさえ
その程度の差し引き分ですから、大きな効果ではないように思えます。
少なくとも、典型的なアメリカのイメージにあるような
1リットルのアイスクリームを直接カレースプーンですくって食べる
というようなことをすれば、アイスの乳脂肪分と糖分の影響のほうが
はるかに大きいことになるのは言うまでもありません。
やるとしたら、セブンイレブンで売っているようなロックアイスでしょうか。
ちなみに原理的には口で溶かしても、噛み砕いて飲みこんでも
どちらも近いものがあるようですが、
溶かすのに体の熱量をどれだけ使うかという話で考えると
飲みこんでしまったほうが確実性は高いと考えられます。
口に入れておくと、外気や吸い込んだ息で溶ける影響が出てきますから。
もっとドライに考えれば、氷で体を冷やしたって同じなんです。
「溶かすのに熱量を使う」という表現だと
わざわざ体が熱を生み出して氷を溶かそうとする
かのように聞こえるかもしれませんが、体として起きるのは、
氷に触れた部分と氷との温度差で熱が氷に移って氷が溶け、その分、
氷に触れていた体の部位の温度が下がる…
だから体温を一定に保つために体の熱生産が上がって
熱量としてエネルギーを消費する
という流れです。
つまり、外から体温を下げてやって、寒くなった分
ホメオスタシスで熱量を発生させてカロリーを消費する
という作業なんです。
原理としていえば、寒いほうが痩せる、ということと変わりません。
それを氷を使ってやるだけのことです。
ただ、1日に1kg分の氷を体に当てて溶かしたとしたら
冷たくってやっていられないことでしょう。
氷を手に持って溶かすことを想像したら、どれだけ冷たい感じがするか、
どれだけ熱を奪われるかが感じられそうです。
しかし、胃は熱をあまり感じないんです。
ビールをたくさん飲む人なんかは、冷たいものをガバガバ飲んでいるのに
あまり気にならないと言います。
熱い食べ物も、飲み込んでしまえば熱さを感じなくなります。
ただ、冷たいものを食べれば体温が下がりますし、
熱いものを食べれば体温が上がります。
胃の中で熱交換は起こるからです。
1kg分の氷を体のどこかに押し当てて溶かすことを考えたら
相当な冷たさを感じそうですが、
胃の中で溶かしてしまえば、それを感じないというわけです。
だからやれてしまう。
1kg分の氷の融解熱を体から奪えるんです。
その奪われた分の熱量を体が無駄に産生する必要があって
それが160kcal分になるということだといえます。
当然、熱が奪われることの影響がありますから
どのぐらいの負担なのかは分かりません。
一般的な想像をすれば、「お腹を壊しそう」な気もします。
胃腸の働きも悪くなるでしょう。
いわゆる夏バテの要因の1つに、食欲がなくなって
冷たいものばかり食べることが言われるぐらいですから。
充分な栄養を取らずに、胃腸を冷やすことで働きが弱まり
消化吸収も悪くなって全体的なエネルギー効率が落ちる、と。
それと同じことをやると考えたら、影響は大きそうな気がします。
冷えやすさにも個人差があると思われますから、
一概に一日1kgの氷とはいえないところでしょう。
健康を損ねたら元も子もないですし。
それに、冷えっぱなしだと脂肪がつきそうな気もします。
世界的にみると寒い地域の人たちのほうが脂肪を蓄えやすそうですから。
ポイントは熱を奪って、いかに熱産生の無駄遣いをするかなので
氷を食べる以外にも熱を奪うことをすればいいんだと考えられます。
奪われる熱量よりも作る熱量が少ないと冷えてしまいますから、どうせなら
熱生産と熱発散の効率を上げるような努力をしたほうが確実かもしれません。
そう考えるとやっぱりプールですかね。
水は空気よりも熱伝導が良いので、低めの温度のプールで泳げば
運動でエネルギーも使いつつ、熱も奪ってもらえて一石二鳥。
唇が紫にならない程度に冷やせば、カロリー消費量は上げられそうです。
2014年09月09日
イスで手をふく人
先日、スターバックスでパソコンを使いながら
書き物をしていたときのことです。
たまたまパソコン使用率の高い日でした。
僕の右隣の人もパソコンを使っていたんです。
ホームページを作るような仕事のようでした。
30代後半ぐらいの男性でしょうか。
ときおり電話で話をしながら、パソコンで修正を加えていた模様です。
ですが、本題は仕事のほうではありません。
ドーナッツです。
その人はコーヒーを飲みながらパソコン作業をしていたわけですが、
そのコーヒーのお供に、ドーナッツを食べていたんです。
カタカタとパソコンに入力して、しばらくやったら
左手でドーナッツを取り、パクリとかぶりつく。
一口かじったら、ドーナッツをお皿の上に戻します。
そして次の瞬間、ドーナッツを触った左手をイスで拭きました。
一回ではありません。
ドーナッツを手にとって、一口食べてはお皿に戻し、その左手をイスで拭く。
完全にパターンになっていました。
もちろん、本人は無自覚でやっているんでしょう。
いわゆる「癖」」だと思われます。
「癖」といってしまうと、本人が自覚していることも多く
だからこそ「自分にはこんな癖がある」と感じるともいえますが、
この男性のように自覚していない癖も沢山あるものです。
いや、むしろ人の大部分の行動は「癖」であって
ほとんどの場合、自覚せずにその行動を繰り返しています。
座り方や歩き方、立ち方だって癖ですし、
言葉の選び方、発声の仕方、表情やしぐさだって癖の一部です。
ただ一般的には、平均から離れた振る舞いのパターンを
「癖」として認識することが多いだけのことでしょう。
ですから、その男性にとって、
「ドーナッツを食べては、左手をイスで拭く」
というのが無自覚で習慣になっていて、
いわば癖になっているということです。
おそらく子供のころから繰り返していたんでしょう。
家でオヤツを食べるとき、手についた粉や油をイスの布でふく。
テレビを見ながらご飯を食べているときにもそうだったかもしれません。
僕が高そうな可能性として想像しているのは、
ポテトチップスなどのスナック菓子を食べながらファミコンをやっていて
コントローラーから時折、手を離してはスナック菓子を口に運び、
そのまますぐに絨毯やイスの布地で指についた粉を拭く
という生活習慣です。
夢中でテレビ画面と向き合って、合間でお菓子を口へ運ぶ。
ステージとステージの間とかに食べていたんじゃないでしょうか。
そう感じる根拠の1つとして、
その男性が電話で受け応えをしているときの表情と
パソコン画面に向き合っているときの表情が
大きく違っていたことが挙げられます。
電話は年相応、30代のビジネスマンぐらいの様子なのに対して
パソコン画面に向き合っているときは少年のような無邪気さでした。
その無邪気な様子、少年のような雰囲気こそが
その人のプログラムが作られた時期を物語ります。
子供の頃、好きだったファミコンの延長で
パソコンを使ったホームページ作成の仕事をしている。
(世代的には文字通り「ファミコン」だと思います)
状態依存的に引き出される沢山のプログラムの中に
「作業をしながらお菓子を食べる」というのがあるのでしょう。
その「画面と向き合う作業中にお菓子を食べる」プログラムは
合間を見つけては左手でお菓子を手にとって口に運び、
画面を見続けたままで手を体の左横・イスの座面に移動させ
粉や油のついた指を拭きとる
という一連の流れを担当しているわけです。
その動作を見ないで行っていること、
動作のスピード、リズムが常に一定であることから、
それが無自覚にパターンとして繰り返されているのがうかがえます。
もしかすると、ドーナッツに派生したのは受験勉強をしていたときか
大学生の頃に宿題をやっていたときかもしれませんし、
インターネットに夢中になっていた頃かもしれません。
あるいは、ファミコンをやっていた頃からドーナッツだったかもしれません。
とにかく「画面に向かった作業をしながら、お菓子を食べる」という作業が
小学生のころに確立されて、それを流用しながら大人になり、
30代後半になった今も使われ続けている、という話です。
このようなプログラムの流用は意外と多いもので、
その振る舞いをしているときの表情や姿勢、テンションなどが
何歳ぐらいの雰囲気になっているかによって
いつ頃に作られたプログラムの流用なのかが想像できます。
そしてその人は、そのプログラムの存在にも無自覚ですし、
その動作が癖になっていることにも気づいていないはずです。
高級なフレンチで、パンを食べた後にイスで手を拭くかというと、
それは「画面に向き合う作業中」ではないので
やっていない可能性があります。
一人で黙々とやる作業の最中にお菓子を食べるときだけ
出てくるプログラムだとすると、
そのことについて指摘する人もなかなかいないでしょう。
場合によっては、そのプログラムが「手で食べる」行為全体に
一般化されている可能性もあります。
だとすると、食事中には常にそうしているかもしれません。
打ち合わせを兼ねた高級焼き肉店での食事会で
サンチュに巻いたカルビを食べてはイスで手を拭く…
なんてことがないのを祈るばかりです。
気にする人もいるかもしれませんから。
つくづく人は無自覚に行動しているものだと思います。
1つの振る舞いが他者へ与える影響を考える、というのは
面倒臭くてやっていられないのでしょう。
ちなみに僕は食事中にオシボリで手を拭くことが多いですが、
それは自覚してやっている作業です。
指先が濡れていたりヌルヌルしたりする触覚に敏感なんです。
僕の場合は単なるコダワリの強さから意図的にやっていることですね。
書き物をしていたときのことです。
たまたまパソコン使用率の高い日でした。
僕の右隣の人もパソコンを使っていたんです。
ホームページを作るような仕事のようでした。
30代後半ぐらいの男性でしょうか。
ときおり電話で話をしながら、パソコンで修正を加えていた模様です。
ですが、本題は仕事のほうではありません。
ドーナッツです。
その人はコーヒーを飲みながらパソコン作業をしていたわけですが、
そのコーヒーのお供に、ドーナッツを食べていたんです。
カタカタとパソコンに入力して、しばらくやったら
左手でドーナッツを取り、パクリとかぶりつく。
一口かじったら、ドーナッツをお皿の上に戻します。
そして次の瞬間、ドーナッツを触った左手をイスで拭きました。
一回ではありません。
ドーナッツを手にとって、一口食べてはお皿に戻し、その左手をイスで拭く。
完全にパターンになっていました。
もちろん、本人は無自覚でやっているんでしょう。
いわゆる「癖」」だと思われます。
「癖」といってしまうと、本人が自覚していることも多く
だからこそ「自分にはこんな癖がある」と感じるともいえますが、
この男性のように自覚していない癖も沢山あるものです。
いや、むしろ人の大部分の行動は「癖」であって
ほとんどの場合、自覚せずにその行動を繰り返しています。
座り方や歩き方、立ち方だって癖ですし、
言葉の選び方、発声の仕方、表情やしぐさだって癖の一部です。
ただ一般的には、平均から離れた振る舞いのパターンを
「癖」として認識することが多いだけのことでしょう。
ですから、その男性にとって、
「ドーナッツを食べては、左手をイスで拭く」
というのが無自覚で習慣になっていて、
いわば癖になっているということです。
おそらく子供のころから繰り返していたんでしょう。
家でオヤツを食べるとき、手についた粉や油をイスの布でふく。
テレビを見ながらご飯を食べているときにもそうだったかもしれません。
僕が高そうな可能性として想像しているのは、
ポテトチップスなどのスナック菓子を食べながらファミコンをやっていて
コントローラーから時折、手を離してはスナック菓子を口に運び、
そのまますぐに絨毯やイスの布地で指についた粉を拭く
という生活習慣です。
夢中でテレビ画面と向き合って、合間でお菓子を口へ運ぶ。
ステージとステージの間とかに食べていたんじゃないでしょうか。
そう感じる根拠の1つとして、
その男性が電話で受け応えをしているときの表情と
パソコン画面に向き合っているときの表情が
大きく違っていたことが挙げられます。
電話は年相応、30代のビジネスマンぐらいの様子なのに対して
パソコン画面に向き合っているときは少年のような無邪気さでした。
その無邪気な様子、少年のような雰囲気こそが
その人のプログラムが作られた時期を物語ります。
子供の頃、好きだったファミコンの延長で
パソコンを使ったホームページ作成の仕事をしている。
(世代的には文字通り「ファミコン」だと思います)
状態依存的に引き出される沢山のプログラムの中に
「作業をしながらお菓子を食べる」というのがあるのでしょう。
その「画面と向き合う作業中にお菓子を食べる」プログラムは
合間を見つけては左手でお菓子を手にとって口に運び、
画面を見続けたままで手を体の左横・イスの座面に移動させ
粉や油のついた指を拭きとる
という一連の流れを担当しているわけです。
その動作を見ないで行っていること、
動作のスピード、リズムが常に一定であることから、
それが無自覚にパターンとして繰り返されているのがうかがえます。
もしかすると、ドーナッツに派生したのは受験勉強をしていたときか
大学生の頃に宿題をやっていたときかもしれませんし、
インターネットに夢中になっていた頃かもしれません。
あるいは、ファミコンをやっていた頃からドーナッツだったかもしれません。
とにかく「画面に向かった作業をしながら、お菓子を食べる」という作業が
小学生のころに確立されて、それを流用しながら大人になり、
30代後半になった今も使われ続けている、という話です。
このようなプログラムの流用は意外と多いもので、
その振る舞いをしているときの表情や姿勢、テンションなどが
何歳ぐらいの雰囲気になっているかによって
いつ頃に作られたプログラムの流用なのかが想像できます。
そしてその人は、そのプログラムの存在にも無自覚ですし、
その動作が癖になっていることにも気づいていないはずです。
高級なフレンチで、パンを食べた後にイスで手を拭くかというと、
それは「画面に向き合う作業中」ではないので
やっていない可能性があります。
一人で黙々とやる作業の最中にお菓子を食べるときだけ
出てくるプログラムだとすると、
そのことについて指摘する人もなかなかいないでしょう。
場合によっては、そのプログラムが「手で食べる」行為全体に
一般化されている可能性もあります。
だとすると、食事中には常にそうしているかもしれません。
打ち合わせを兼ねた高級焼き肉店での食事会で
サンチュに巻いたカルビを食べてはイスで手を拭く…
なんてことがないのを祈るばかりです。
気にする人もいるかもしれませんから。
つくづく人は無自覚に行動しているものだと思います。
1つの振る舞いが他者へ与える影響を考える、というのは
面倒臭くてやっていられないのでしょう。
ちなみに僕は食事中にオシボリで手を拭くことが多いですが、
それは自覚してやっている作業です。
指先が濡れていたりヌルヌルしたりする触覚に敏感なんです。
僕の場合は単なるコダワリの強さから意図的にやっていることですね。