2014年12月
2014年12月30日
1月25日の講座
2015年最初の講座は
1月25日(日)
です。
内容としては
『才能』を調べ、引っ張り出し、磨きをかける
といったことを考えています。
人にはある程度、能力の基本形のようなものがあるのではないか?
ユングのいう元型のようなものが類型化できないか?
そんな発想で一人一人の個性を眺めます。
そして、あまり発揮されていない能力であれば
それを引っぱり出して使えるようにする。
普段から使っているものであれば、より洗練する。
そんなことをやってみようかという構想です。
才能の元のようなものは誰でも共通であって
そのうちの発揮されているものに個人差があって
それが個性を作り出している
…といった想定です。
あまり発揮されていないものを引き出せば
今まで使っていなかった才能を使えるようになるのではないでしょうか。
1月25日(日)
です。
内容としては
『才能』を調べ、引っ張り出し、磨きをかける
といったことを考えています。
人にはある程度、能力の基本形のようなものがあるのではないか?
ユングのいう元型のようなものが類型化できないか?
そんな発想で一人一人の個性を眺めます。
そして、あまり発揮されていない能力であれば
それを引っぱり出して使えるようにする。
普段から使っているものであれば、より洗練する。
そんなことをやってみようかという構想です。
才能の元のようなものは誰でも共通であって
そのうちの発揮されているものに個人差があって
それが個性を作り出している
…といった想定です。
あまり発揮されていないものを引き出せば
今まで使っていなかった才能を使えるようになるのではないでしょうか。
2014年12月29日
年末の決まりごと
毎年11月になると、海外ドラマ『メンタリスト』のDVDボックスが発売になります。
英語版より一年遅れのタイミングで、1シーズン分がまとめてリリースされるんです。
個人的な予定として11月ぐらいはスケジュールが埋まっていたり
作業が沢山あったりして余裕がない傾向があって、
時間的な余裕が出てくるのが12月の中頃以降になりがちです。
そのため僕は毎年、12月の中頃になると『メンタリスト』の最新シーズンの
DVDボックスを購入しています。
そしてセミナーの量が減ってきた頃からDVDをまとめて見る。
なんとなく、ここ数年の習慣になったような気がします。
12月の中頃になるとレンタルも全巻そろっていますから
借りて見ても構わないんですが、僕の中には英語の勉強のニュアンスもあるので
二回ぐらいは見直すようなつもりで購入することにしているんです。
(実際はそれほど見直しませんが…)
ですから、娯楽として見るのももちろんのこと
それに加えて英語の勉強という意図も含んでいるんです。
そして、その英語の勉強の観点からすると
年末の決まった時期に発売されるというのが実に都合がいい。
一年間、多少は英語を使うように心がけながら
それなりに英語のトレーニングをしているつもりですが、
なかなかその効果というのは実感しずらいんです。
特に、リスニングに関しては、聞けるようになっているのか
それとも後退しているのか、その区別もつかないほど。
これは1つに、
聞ける部分が増えてくると、聞けていないところが際立って
前よりも聞きとれていないような印象になる
ということが関係しそうです。
そのことを知っていますから内心は
「まぁ、少しは聞けるようになっていっているんだろう」
などと言い聞かせながらも、どこかでは
「いや、実は量が足りなくてリスニング力が落ちているのではないだろうか?」
という疑念も沸くものです。
そこでチェックに使えるのが、年に一度のメンタリスト期間なんです。
出演者は皆、同じように話をしますから、どれぐらい聞きとれるかを気にしたとき
「去年よりは多少はマシになっているようだ」
と確かめられるわけです。
もしかすると多くの日本人に共通ではないかと想像していますが、
僕は女性の英語の発音のほうが聞きやすいようです。
アナウンサーだったりすれば男性でもハッキリしているものの
男性の低くて籠った発音で早口にされると聞きとりが困難になります。
日本語では聞き慣れない声の低さだからというのもあるかもしれませんし、
単純に僕の頭の中の基準となる音声が高めの声で設定されているのかもしれません。
現状、僕にとって大きな課題は、「早口で単調な男性の発音を聞き取ること」。
『メンタリスト』のレギュラーメンバーでいえば
リズボンが一番聞きとりやすく、その次がジェーン、
それからヴァンペルト、リグズビーときて、
ダントツで聞きとれないのがチョウ、
という順番です。
ヴァンペルトは女性ですけどジェーンよりも早口な(繋げて音を出す)ので
男性であるジェーンよりも聞きとれていないんだと思います。
しかし興味深いのは、DVDに収録されている出演者のインタビューを見ると
チョウ役のティム・カンの英語はもっと聞きやすいんです。
普段の会話のほうが抑揚が大きいんでしょう。
淡々としたチョウの役柄に合わせて、演技として抑揚のない
単調な早口で話しているんだと思われます。
自分もそれぐらいの早口で話せるように練習すれば
理解もしやすくはなるんだろうと考えられますが、
日本語では自分よりも早口の人だって聞きとれているわけですから
きっとそれ以外にも聞けるようになる手段があるのではないかと想像しています。
何かコツを見つけたいところです。
ちなみに、出演者のインタビューを見ていると
登場人物としての役柄の雰囲気と、実際の俳優の雰囲気とで
随分と違いがあることに気づきます。
この辺は、海外の役者が自分の範囲外を演じられることと関係するんでしょう。
日本の俳優・女優は何の役をやっても違わない人が多いようですから。
主人公のジェーン役を演じているサイモン・ベイカーは
インタビューになると、もう少し素朴な雰囲気が出てきます。
ジェーンには洗練されたコミュニケーションの達人の感じがあるので
その辺りの対比も面白いところ。
そしてインタビューに応えるサイモン・ベイカーは
オーストラリアの英語を話しています。
出身がオーストラリアなので当然といえば当然ですが、逆にいうと
演技のときには標準的なアメリカ英語を話せるのですから
そのあたりの使い分けも見事なものだと感じます。
まぁ、日本語でいえば
大阪出身の俳優が演技のときに標準語で話す
というようなものでしょうから
できなくはないことなのかもしれませんが。
僕には方言と標準語を使い分けるという習慣がないので
その区別ができる人が頭の中でやっていることにも興味があります。
言葉の修正の仕方は、習得とも違った工夫があるのかもしれません。
来年は英語を基礎からトレーニングしてみようかと思っています。
英語版より一年遅れのタイミングで、1シーズン分がまとめてリリースされるんです。
個人的な予定として11月ぐらいはスケジュールが埋まっていたり
作業が沢山あったりして余裕がない傾向があって、
時間的な余裕が出てくるのが12月の中頃以降になりがちです。
そのため僕は毎年、12月の中頃になると『メンタリスト』の最新シーズンの
DVDボックスを購入しています。
そしてセミナーの量が減ってきた頃からDVDをまとめて見る。
なんとなく、ここ数年の習慣になったような気がします。
12月の中頃になるとレンタルも全巻そろっていますから
借りて見ても構わないんですが、僕の中には英語の勉強のニュアンスもあるので
二回ぐらいは見直すようなつもりで購入することにしているんです。
(実際はそれほど見直しませんが…)
ですから、娯楽として見るのももちろんのこと
それに加えて英語の勉強という意図も含んでいるんです。
そして、その英語の勉強の観点からすると
年末の決まった時期に発売されるというのが実に都合がいい。
一年間、多少は英語を使うように心がけながら
それなりに英語のトレーニングをしているつもりですが、
なかなかその効果というのは実感しずらいんです。
特に、リスニングに関しては、聞けるようになっているのか
それとも後退しているのか、その区別もつかないほど。
これは1つに、
聞ける部分が増えてくると、聞けていないところが際立って
前よりも聞きとれていないような印象になる
ということが関係しそうです。
そのことを知っていますから内心は
「まぁ、少しは聞けるようになっていっているんだろう」
などと言い聞かせながらも、どこかでは
「いや、実は量が足りなくてリスニング力が落ちているのではないだろうか?」
という疑念も沸くものです。
そこでチェックに使えるのが、年に一度のメンタリスト期間なんです。
出演者は皆、同じように話をしますから、どれぐらい聞きとれるかを気にしたとき
「去年よりは多少はマシになっているようだ」
と確かめられるわけです。
もしかすると多くの日本人に共通ではないかと想像していますが、
僕は女性の英語の発音のほうが聞きやすいようです。
アナウンサーだったりすれば男性でもハッキリしているものの
男性の低くて籠った発音で早口にされると聞きとりが困難になります。
日本語では聞き慣れない声の低さだからというのもあるかもしれませんし、
単純に僕の頭の中の基準となる音声が高めの声で設定されているのかもしれません。
現状、僕にとって大きな課題は、「早口で単調な男性の発音を聞き取ること」。
『メンタリスト』のレギュラーメンバーでいえば
リズボンが一番聞きとりやすく、その次がジェーン、
それからヴァンペルト、リグズビーときて、
ダントツで聞きとれないのがチョウ、
という順番です。
ヴァンペルトは女性ですけどジェーンよりも早口な(繋げて音を出す)ので
男性であるジェーンよりも聞きとれていないんだと思います。
しかし興味深いのは、DVDに収録されている出演者のインタビューを見ると
チョウ役のティム・カンの英語はもっと聞きやすいんです。
普段の会話のほうが抑揚が大きいんでしょう。
淡々としたチョウの役柄に合わせて、演技として抑揚のない
単調な早口で話しているんだと思われます。
自分もそれぐらいの早口で話せるように練習すれば
理解もしやすくはなるんだろうと考えられますが、
日本語では自分よりも早口の人だって聞きとれているわけですから
きっとそれ以外にも聞けるようになる手段があるのではないかと想像しています。
何かコツを見つけたいところです。
ちなみに、出演者のインタビューを見ていると
登場人物としての役柄の雰囲気と、実際の俳優の雰囲気とで
随分と違いがあることに気づきます。
この辺は、海外の役者が自分の範囲外を演じられることと関係するんでしょう。
日本の俳優・女優は何の役をやっても違わない人が多いようですから。
主人公のジェーン役を演じているサイモン・ベイカーは
インタビューになると、もう少し素朴な雰囲気が出てきます。
ジェーンには洗練されたコミュニケーションの達人の感じがあるので
その辺りの対比も面白いところ。
そしてインタビューに応えるサイモン・ベイカーは
オーストラリアの英語を話しています。
出身がオーストラリアなので当然といえば当然ですが、逆にいうと
演技のときには標準的なアメリカ英語を話せるのですから
そのあたりの使い分けも見事なものだと感じます。
まぁ、日本語でいえば
大阪出身の俳優が演技のときに標準語で話す
というようなものでしょうから
できなくはないことなのかもしれませんが。
僕には方言と標準語を使い分けるという習慣がないので
その区別ができる人が頭の中でやっていることにも興味があります。
言葉の修正の仕方は、習得とも違った工夫があるのかもしれません。
来年は英語を基礎からトレーニングしてみようかと思っています。
2014年12月25日
トータルリコール
少し前にリメイクされた映画『トータルリコール』をDVDで見ました。
アーノルド・シュワルツネッガー主演の物とは少し違うストーリーですが
随所に前作を彷彿とさせるシーンがあって
前作のファンにも楽しめる作りになっていると感じました。
前作のほうがもう25年近く前の作品ですから、
僕はストーリーをしっかりと理解することなく
単なるアクション映画として見ていたような気がします。
改めてリメイク版を見てみて、『トータルリコール』というタイトルの持つ意味や
主人公に起きている体験の恐ろしさなどが強く感じられました。
「自分とは何か?」を考えさせられる話だと思います。
『トータルリコール』、日本語にすれば「全部思い出すこと」です。
主人公は記憶を書きかえられたスパイ。
名前も成育歴も全ての記憶を書きかえられているんです。
自分は別人だと思い込んでいる。
あるキッカケで自分の素姓が判明し始めますが、
それでも自分では自分の記憶が偽物だとは信じていません。
結婚生活だと思っていた記憶さえも作り物で、
奥さんだと思っていた相手はスパイとしての監視役にすぎない。
しかもその人から命を狙われる。
(この辺は前作と共通するストーリー)
そして過去の別人だった頃の自分が残した手掛かりを辿って
導かれるようにストーリーは展開していきます。
で、前作に描かれていなかった、より印象的な部分は
主人公の元へ、そこへいないはずの親友がやってきて
「お前が今体験しているのは幻想だ」
という場面です。
確かに、主人公は「記憶を売ってくれる」店に立ち寄っているんです。
そこでスパイのストーリーを(仮想?)体験しようとする。
客観的には作られた情報ですから仮想体験ですが
脳に直接記憶として埋め込むため、主観的には実体験に感じられるはず。
そういう装置を体験しに行っています。
物語のうえでは、その装置を使った体験のプロセスを完全に始める前に
アクシデントがあって中断されているように描かれています。
しかし、
もしかすると、その中断のあたりから実は仮想体験が始まっていて
その延長の今、自分は仮想体験の中にいるのかもしれない
という可能性は否定できません。
実際、そのいないはずの親友は、
「仮想体験から呼び戻すためにやってきた」
ということを主張し、色々な角度でそれが現実ではないと示そうとします。
そういわれると主人公には「今の体験が現実だ」と信じる根拠がないんです。
一体、現実の体験とは何なのか?
自分についても世界についても信じられなくなる様子が描かれています。
この映画の中においては、その作られた記憶を消し去れば
どうやら過去の記憶を「全部思い出す(トータルリコール)」できるようです。
しかしそれは、その作られた記憶としての自分が消滅することを意味します。
一般的に「思い出す」といえば、今の『自分』の記憶に
忘れていた記憶が追加されることに当たるはずです。
ですが「トータルリコール」ということは、『自分』という記憶ごと思い出し
それと同時に、もう1つの自分の概念は消え去ってしまうわけです。
作られた今の自分に、過去の元の自分が追加されるわけではないんです。
まぁ、あまりにも違う『自分像』が記憶として2つ混在した場合、
それをどのように統合できるのかは想像もつきませんが、
おそらくそこにも自分の中で対立が起きるのではないでしょうか。
(いわゆる多重人格のような)
過去の自分を取り戻せば、今の自分は消え去る。
しかし、今の自分は作り物だという証拠ばかりが周りには溢れている。
そこで主人公はどういう決断を取るのか?
このあたりのストーリー展開がまた考えさせられる部分でした。
自我や記憶、意識といったものについて、興味深い形で描かれた映画だと思います。
アーノルド・シュワルツネッガー主演の物とは少し違うストーリーですが
随所に前作を彷彿とさせるシーンがあって
前作のファンにも楽しめる作りになっていると感じました。
前作のほうがもう25年近く前の作品ですから、
僕はストーリーをしっかりと理解することなく
単なるアクション映画として見ていたような気がします。
改めてリメイク版を見てみて、『トータルリコール』というタイトルの持つ意味や
主人公に起きている体験の恐ろしさなどが強く感じられました。
「自分とは何か?」を考えさせられる話だと思います。
『トータルリコール』、日本語にすれば「全部思い出すこと」です。
主人公は記憶を書きかえられたスパイ。
名前も成育歴も全ての記憶を書きかえられているんです。
自分は別人だと思い込んでいる。
あるキッカケで自分の素姓が判明し始めますが、
それでも自分では自分の記憶が偽物だとは信じていません。
結婚生活だと思っていた記憶さえも作り物で、
奥さんだと思っていた相手はスパイとしての監視役にすぎない。
しかもその人から命を狙われる。
(この辺は前作と共通するストーリー)
そして過去の別人だった頃の自分が残した手掛かりを辿って
導かれるようにストーリーは展開していきます。
で、前作に描かれていなかった、より印象的な部分は
主人公の元へ、そこへいないはずの親友がやってきて
「お前が今体験しているのは幻想だ」
という場面です。
確かに、主人公は「記憶を売ってくれる」店に立ち寄っているんです。
そこでスパイのストーリーを(仮想?)体験しようとする。
客観的には作られた情報ですから仮想体験ですが
脳に直接記憶として埋め込むため、主観的には実体験に感じられるはず。
そういう装置を体験しに行っています。
物語のうえでは、その装置を使った体験のプロセスを完全に始める前に
アクシデントがあって中断されているように描かれています。
しかし、
もしかすると、その中断のあたりから実は仮想体験が始まっていて
その延長の今、自分は仮想体験の中にいるのかもしれない
という可能性は否定できません。
実際、そのいないはずの親友は、
「仮想体験から呼び戻すためにやってきた」
ということを主張し、色々な角度でそれが現実ではないと示そうとします。
そういわれると主人公には「今の体験が現実だ」と信じる根拠がないんです。
一体、現実の体験とは何なのか?
自分についても世界についても信じられなくなる様子が描かれています。
この映画の中においては、その作られた記憶を消し去れば
どうやら過去の記憶を「全部思い出す(トータルリコール)」できるようです。
しかしそれは、その作られた記憶としての自分が消滅することを意味します。
一般的に「思い出す」といえば、今の『自分』の記憶に
忘れていた記憶が追加されることに当たるはずです。
ですが「トータルリコール」ということは、『自分』という記憶ごと思い出し
それと同時に、もう1つの自分の概念は消え去ってしまうわけです。
作られた今の自分に、過去の元の自分が追加されるわけではないんです。
まぁ、あまりにも違う『自分像』が記憶として2つ混在した場合、
それをどのように統合できるのかは想像もつきませんが、
おそらくそこにも自分の中で対立が起きるのではないでしょうか。
(いわゆる多重人格のような)
過去の自分を取り戻せば、今の自分は消え去る。
しかし、今の自分は作り物だという証拠ばかりが周りには溢れている。
そこで主人公はどういう決断を取るのか?
このあたりのストーリー展開がまた考えさせられる部分でした。
自我や記憶、意識といったものについて、興味深い形で描かれた映画だと思います。
2014年12月23日
カウンセリングやコーチングをどう学ぶか
カウンセリングやコーチングを学んだり
自分でやろうと思ったりする理由としては
こんなようなことが挙げられるかと思います。
○コミュニケーションが苦手なので勉強したい(コミュニケーション能力向上)
○教育や部下の指導、子育てに役立てたい(育成)
○困っている人を助けたい(人助け)
○自分が体験して良かったから伝えたい(共有・伝道)
○営業で顧客の要望を聞き出せるようになりたい(ニーズ把握)
○人から相談を受けることがあるため上手く聞けるようになりたい(必要性)
○人の心を理解したい(興味)
このうち最も直接的に役立ちそうなのは、当然ですが
人から相談を受けるから上手く聞けるようになりたい
というものでしょう。
カウンセリング・コーチングともに、クライアントからの相談という形で依頼され
それに対して技術を駆使しながら会話を進めるというものです。
スタート地点は相手側にあるわけです。
そういう関係性においては、相談者と聞き役との役割がハッキリしますから
専門的な技術をもって「相談にのる」というプロセスが自然なものとなります。
カウンセリング・コーチングが前提としている状況設定ができているんです。
だから技術として学んだことをそのまま使いやすい。
練習した通りの流れで進められますから効果も出やすいでしょうし、
何より、相談を持ちかける側に「なんとかしたい」というヤル気があります。
取り組む準備ができた人を、カウンセリング・コーチングという型の中で
練習してきたとおりの流れでやれるということは
そもそもの技術が想定している通りのプロセスだといえますし、
だからこそその手法が期待している程度の効果は充分に得やすいんです。
ちなみに、プロとして相談を受けるときは当然この形になりますから
相談の依頼を受ける仕組みが求められることになります。
カウンセリング・コーチングを勉強する場合、一般的には
こうした「相談者(クライアント)−聞き役(コーチ/カウンセラー)」の関係性を作り
その役割分担の中でトレーニングが行われます。
そのため、この関係性を当然のことと想定してしまって
そもそも「クライアント−コーチ/カウンセラー」の関係性は特殊なもの
ということが意識されなくなってしまう場合が見受けられます。
そして「クライアント−コーチ/カウンセラー」の関係性だから成立することを
日常の人間関係でも期待してしまい、結果として期待外れに終わりがちです。
例えば、上司が部下の育成でコーチングの型をそのまま使おうとすると、
部下はクライアントとして自ら希望して相談を持ちかけたわけではありませんし、
「指示を出す側−指示に従う側」の関係性や
「評価者−非評価者」の関係性、「目上−目下」の関係性などを持ちこむため
コーチングやカウンセリングが想定するニュートラルな立場にはなりません。
上司が部下をコーチングしようとしても
正直に話さないとか、「無理矢理やらされた」という印象を持つとか、
本来のコーチングが想定していない不都合な要因が混ざってきてしまいます。
親が子供をコーチングしたりカウンセリングしたりするのも
しつけや教育といった強制的な部分を置き去りにしてしまう可能性があります。
何よりも、「クライアント−コーチ/カウンセラー」の関係性で子供に接すれば
親への愛着や「親を頼りにする」経験を通じた自然な結びつきが阻害されて
「親に受け入れてもらえる」という精神的土台を育みにくくなるかもしれません。
親へ依存することで自然と身につけるはずの他者への基本的信頼が
子供をクライアント扱いすることで身につかなくなる恐れもあると考えられます。
クライアントとの関係性は自立した存在を尊重するものですが、
自立するだけの土台を築く前に早すぎる自立を促すのは危険だということです。
そういう意味で、教育などの場面にカウンセリング/コーチングが想定している
「クライアント−カウンセラー/コーチ」という関係性を持ちこむのは不自然で、
場合によっては逆効果にさえなりかねないわけです。
実際、世間では「コーチングは組織では役に立たない」などという意見も聞きます。
「家庭でのコミュニケーションにカウンセリングは使えない」というのも耳にします。
その多くは、おそらくこの「クライアント−コーチ/カウンセラー」の関係性を
そのまま日常の場面に持ち込もうとした結果、
本来の技術として想定していない阻害要因が働いてしまって
努力が空回りしたり、裏目に出てしまったりした…ということなのでしょう。
カウンセリング・コーチングという特殊な状況設定を
日常生活のコミュニケーションにそのまま持ち込む場合、
上手くいかないことが起きやすいわけです。
一方、「カウンセリングやコーチングは役に立つ」と主張する人も大勢います。
きっとその人たちは、カウンセリングやコーチングを「関係性」として捉えず
その中で使われるコミュニケーション技術として見ていると想像できます。
つまり、
「カウンセリングで教わった傾聴の仕方を取り入れて
子供の話を丁寧に聞くようにしたら子育てが上手くいきだした」
とか
「コーチングで練習した質問の仕方を駆使して部下の意見を聞いたら
積極的に仕事をしてくれるようになった」
とか、
カウンセリング・コーチングで使われる数多くの技法の中から
ある特定の技法が何かの場面で役に立った
という話だろうということです。
もちろん、傾聴ばかりで子供に必要なことを伝えなくなれば
ただのワガママになってしまうかもしれませんし、
夫婦の会話で自分ばかり傾聴をしていれば我慢をすることになるかもしれません。
新しい職場に移った人に仕事を覚えてもらうとき、質問ばかりしていたら
作業を把握するまでに時間がかかり過ぎてしまうでしょうし、
マニュアルのある仕事であれば質問をするよりも伝えることが重要でしょう。
このようにカウンセリング・コーチングの技術の中には
場面によっては役に立たないことがザラにあるものなんです。
しかし、「役に立たないところでは使わなければいい」という発想を持っていて
何かの技術が役に立つ場面を経験したことがあれば、その人は
「コーチングや仕事に役立つ」とか「カウンセリングは家庭生活に役立つ」とか
ポジティブな評価をするようになると考えられます。
あるいはコーチングやカウンセリングで学んだ「寄り添う姿勢」とか
「相手を信じる」とか「共感しようとする」とか「批判しない」とかいった
『心構え』の部分であれば、当然、日常生活でも効果を発揮することでしょう。
確かに、コーチングやカウンセリングの中で使われる技法や心構えは
日常生活の他の場面でも大いに役立つことがあるはずです。
その一方、コーチング・カウンセリングが想定している
「クライアント−コーチ/カウンセラー」という関係性の中で行われる
決まったコミュニケーションの流れとしてのコーチングのセッション、
カウンセリングのセッションは、日常生活にそのまま持ち込めるものではないんです。
どちらの側面に注目するかによって「使える/使えない」の評価は逆転します。
だからこそ、
カウンセリング・コーチングには数多くのコミュニケーション技法が含まれていて
同時に特殊な関係性を想定して流れや型が作られている
ということを気に留めておくのは重要だといえます。
このことを考慮すると、
「自分がカウンセリング・コーチングを学ぶ際に求めているものは
クライアント−コーチ/カウンセラーという関係性を前提としているか?」
を考えてみるのは有用だろうと思われます。
人助けにおいては「思いやり」と「おせっかい」との線引きが難しいでしょう。
相手が「助けて欲しい」と望んでいるのかどうか。
そうでなければどんな技術も自分勝手なものになってしまいます。
「自分がやって良かったから他の人にも体験してもらいたい」という要望は
相手がクライアントになることを望んでいない限り、押しつけになってしまいます。
「コーチング良いよ。やってみない?」と勧めてみて、
それで乗り気でないようなら、その人はクライアントの立場にはならないはずです。
その関係性で使った技術は、自己満足に終わってしまいます。
営業でもクライアントの立場になってもらうまでが大変でしょう。
興味を持ってくれたお客さんが話しかけてくれたのであれば簡単です。
ニーズを聞き出す技術はそのまま役に立ちます。
ですが、興味を持っていない人に話しかけ、その人に興味を持ってもらうのは
クライアント以前の関係性ですから、使える技術は限定されるはずです。
相手の気持ちを知りたくてカウンセリングやコーチングの技法を使っても
相手がクライアントとして心を開く関係性になっていなければ
大半は充分な情報を得るまでには至らないものです。
ちなみに、本当に人の心を理解したければ
観察力を磨くのと、心の仕組みを学ぶとの両方をやったほうが賢明です。
そうすれば相手が心を閉ざしているつもりでも多くのことを読み取れます。
…いずれも大部分のカウンセリング・コーチングのセミナーでは学べませんが。
カウンセリング・コーチングを学ぶ最大のメリットは、もしかしたら
間接的にコミュニケーションの苦手意識が減ることかもしれません。
実際に日常のコミュニケーションに役立つ技法を色々と身につけられもしますが、
それ以上に「自分はカウンセリング/コーチングを学んだ」という自信が
コミュニケーションをするうえでの安心感を高めてくれます。
苦手意識のある人は自信が低いんです。
その自身の低さが戸惑いを生み、過度な緊張感や空回りを生む。
技術的な観点からすると、学んだところで
日常のコミュニケーションの質は変わっていなくても、
心の余裕として苦手意識が減れば役に立つことはあるものです。
その反面、学んだ技術の使いどころまで身につけることなく、
また関係性を考えることを学ぶことなく自信だけを高めてしまうと、
使いどころのズレたコミュニケーション技術を堂々と使いまくって
周りの人に苦い思いをさせる結果になってしまう…
なんていうケースもあるみたいです。
本人からすると自信満々ですし、周りの人が煙たがっていても
その反応に気づくだけのコミュニケーション能力はトレーニングされておらず、
まったくもって気の毒な状態のようです。
まぁ、本人は自覚していないわけですし、それも通過点かもしれませんから
暖かく見守っていきたいものだとは思いますが、
そうした教え方をする団体やトレーナーに関しては、同業者として
手放しで歓迎できるものではないのが正直なところです。
自分でやろうと思ったりする理由としては
こんなようなことが挙げられるかと思います。
○コミュニケーションが苦手なので勉強したい(コミュニケーション能力向上)
○教育や部下の指導、子育てに役立てたい(育成)
○困っている人を助けたい(人助け)
○自分が体験して良かったから伝えたい(共有・伝道)
○営業で顧客の要望を聞き出せるようになりたい(ニーズ把握)
○人から相談を受けることがあるため上手く聞けるようになりたい(必要性)
○人の心を理解したい(興味)
このうち最も直接的に役立ちそうなのは、当然ですが
人から相談を受けるから上手く聞けるようになりたい
というものでしょう。
カウンセリング・コーチングともに、クライアントからの相談という形で依頼され
それに対して技術を駆使しながら会話を進めるというものです。
スタート地点は相手側にあるわけです。
そういう関係性においては、相談者と聞き役との役割がハッキリしますから
専門的な技術をもって「相談にのる」というプロセスが自然なものとなります。
カウンセリング・コーチングが前提としている状況設定ができているんです。
だから技術として学んだことをそのまま使いやすい。
練習した通りの流れで進められますから効果も出やすいでしょうし、
何より、相談を持ちかける側に「なんとかしたい」というヤル気があります。
取り組む準備ができた人を、カウンセリング・コーチングという型の中で
練習してきたとおりの流れでやれるということは
そもそもの技術が想定している通りのプロセスだといえますし、
だからこそその手法が期待している程度の効果は充分に得やすいんです。
ちなみに、プロとして相談を受けるときは当然この形になりますから
相談の依頼を受ける仕組みが求められることになります。
カウンセリング・コーチングを勉強する場合、一般的には
こうした「相談者(クライアント)−聞き役(コーチ/カウンセラー)」の関係性を作り
その役割分担の中でトレーニングが行われます。
そのため、この関係性を当然のことと想定してしまって
そもそも「クライアント−コーチ/カウンセラー」の関係性は特殊なもの
ということが意識されなくなってしまう場合が見受けられます。
そして「クライアント−コーチ/カウンセラー」の関係性だから成立することを
日常の人間関係でも期待してしまい、結果として期待外れに終わりがちです。
例えば、上司が部下の育成でコーチングの型をそのまま使おうとすると、
部下はクライアントとして自ら希望して相談を持ちかけたわけではありませんし、
「指示を出す側−指示に従う側」の関係性や
「評価者−非評価者」の関係性、「目上−目下」の関係性などを持ちこむため
コーチングやカウンセリングが想定するニュートラルな立場にはなりません。
上司が部下をコーチングしようとしても
正直に話さないとか、「無理矢理やらされた」という印象を持つとか、
本来のコーチングが想定していない不都合な要因が混ざってきてしまいます。
親が子供をコーチングしたりカウンセリングしたりするのも
しつけや教育といった強制的な部分を置き去りにしてしまう可能性があります。
何よりも、「クライアント−コーチ/カウンセラー」の関係性で子供に接すれば
親への愛着や「親を頼りにする」経験を通じた自然な結びつきが阻害されて
「親に受け入れてもらえる」という精神的土台を育みにくくなるかもしれません。
親へ依存することで自然と身につけるはずの他者への基本的信頼が
子供をクライアント扱いすることで身につかなくなる恐れもあると考えられます。
クライアントとの関係性は自立した存在を尊重するものですが、
自立するだけの土台を築く前に早すぎる自立を促すのは危険だということです。
そういう意味で、教育などの場面にカウンセリング/コーチングが想定している
「クライアント−カウンセラー/コーチ」という関係性を持ちこむのは不自然で、
場合によっては逆効果にさえなりかねないわけです。
実際、世間では「コーチングは組織では役に立たない」などという意見も聞きます。
「家庭でのコミュニケーションにカウンセリングは使えない」というのも耳にします。
その多くは、おそらくこの「クライアント−コーチ/カウンセラー」の関係性を
そのまま日常の場面に持ち込もうとした結果、
本来の技術として想定していない阻害要因が働いてしまって
努力が空回りしたり、裏目に出てしまったりした…ということなのでしょう。
カウンセリング・コーチングという特殊な状況設定を
日常生活のコミュニケーションにそのまま持ち込む場合、
上手くいかないことが起きやすいわけです。
一方、「カウンセリングやコーチングは役に立つ」と主張する人も大勢います。
きっとその人たちは、カウンセリングやコーチングを「関係性」として捉えず
その中で使われるコミュニケーション技術として見ていると想像できます。
つまり、
「カウンセリングで教わった傾聴の仕方を取り入れて
子供の話を丁寧に聞くようにしたら子育てが上手くいきだした」
とか
「コーチングで練習した質問の仕方を駆使して部下の意見を聞いたら
積極的に仕事をしてくれるようになった」
とか、
カウンセリング・コーチングで使われる数多くの技法の中から
ある特定の技法が何かの場面で役に立った
という話だろうということです。
もちろん、傾聴ばかりで子供に必要なことを伝えなくなれば
ただのワガママになってしまうかもしれませんし、
夫婦の会話で自分ばかり傾聴をしていれば我慢をすることになるかもしれません。
新しい職場に移った人に仕事を覚えてもらうとき、質問ばかりしていたら
作業を把握するまでに時間がかかり過ぎてしまうでしょうし、
マニュアルのある仕事であれば質問をするよりも伝えることが重要でしょう。
このようにカウンセリング・コーチングの技術の中には
場面によっては役に立たないことがザラにあるものなんです。
しかし、「役に立たないところでは使わなければいい」という発想を持っていて
何かの技術が役に立つ場面を経験したことがあれば、その人は
「コーチングや仕事に役立つ」とか「カウンセリングは家庭生活に役立つ」とか
ポジティブな評価をするようになると考えられます。
あるいはコーチングやカウンセリングで学んだ「寄り添う姿勢」とか
「相手を信じる」とか「共感しようとする」とか「批判しない」とかいった
『心構え』の部分であれば、当然、日常生活でも効果を発揮することでしょう。
確かに、コーチングやカウンセリングの中で使われる技法や心構えは
日常生活の他の場面でも大いに役立つことがあるはずです。
その一方、コーチング・カウンセリングが想定している
「クライアント−コーチ/カウンセラー」という関係性の中で行われる
決まったコミュニケーションの流れとしてのコーチングのセッション、
カウンセリングのセッションは、日常生活にそのまま持ち込めるものではないんです。
どちらの側面に注目するかによって「使える/使えない」の評価は逆転します。
だからこそ、
カウンセリング・コーチングには数多くのコミュニケーション技法が含まれていて
同時に特殊な関係性を想定して流れや型が作られている
ということを気に留めておくのは重要だといえます。
このことを考慮すると、
「自分がカウンセリング・コーチングを学ぶ際に求めているものは
クライアント−コーチ/カウンセラーという関係性を前提としているか?」
を考えてみるのは有用だろうと思われます。
人助けにおいては「思いやり」と「おせっかい」との線引きが難しいでしょう。
相手が「助けて欲しい」と望んでいるのかどうか。
そうでなければどんな技術も自分勝手なものになってしまいます。
「自分がやって良かったから他の人にも体験してもらいたい」という要望は
相手がクライアントになることを望んでいない限り、押しつけになってしまいます。
「コーチング良いよ。やってみない?」と勧めてみて、
それで乗り気でないようなら、その人はクライアントの立場にはならないはずです。
その関係性で使った技術は、自己満足に終わってしまいます。
営業でもクライアントの立場になってもらうまでが大変でしょう。
興味を持ってくれたお客さんが話しかけてくれたのであれば簡単です。
ニーズを聞き出す技術はそのまま役に立ちます。
ですが、興味を持っていない人に話しかけ、その人に興味を持ってもらうのは
クライアント以前の関係性ですから、使える技術は限定されるはずです。
相手の気持ちを知りたくてカウンセリングやコーチングの技法を使っても
相手がクライアントとして心を開く関係性になっていなければ
大半は充分な情報を得るまでには至らないものです。
ちなみに、本当に人の心を理解したければ
観察力を磨くのと、心の仕組みを学ぶとの両方をやったほうが賢明です。
そうすれば相手が心を閉ざしているつもりでも多くのことを読み取れます。
…いずれも大部分のカウンセリング・コーチングのセミナーでは学べませんが。
カウンセリング・コーチングを学ぶ最大のメリットは、もしかしたら
間接的にコミュニケーションの苦手意識が減ることかもしれません。
実際に日常のコミュニケーションに役立つ技法を色々と身につけられもしますが、
それ以上に「自分はカウンセリング/コーチングを学んだ」という自信が
コミュニケーションをするうえでの安心感を高めてくれます。
苦手意識のある人は自信が低いんです。
その自身の低さが戸惑いを生み、過度な緊張感や空回りを生む。
技術的な観点からすると、学んだところで
日常のコミュニケーションの質は変わっていなくても、
心の余裕として苦手意識が減れば役に立つことはあるものです。
その反面、学んだ技術の使いどころまで身につけることなく、
また関係性を考えることを学ぶことなく自信だけを高めてしまうと、
使いどころのズレたコミュニケーション技術を堂々と使いまくって
周りの人に苦い思いをさせる結果になってしまう…
なんていうケースもあるみたいです。
本人からすると自信満々ですし、周りの人が煙たがっていても
その反応に気づくだけのコミュニケーション能力はトレーニングされておらず、
まったくもって気の毒な状態のようです。
まぁ、本人は自覚していないわけですし、それも通過点かもしれませんから
暖かく見守っていきたいものだとは思いますが、
そうした教え方をする団体やトレーナーに関しては、同業者として
手放しで歓迎できるものではないのが正直なところです。
2014年12月21日
頑張り屋
頑張ることは誰しもがやることだと思いますが
意外と多くの人が「頑張ることを頑張ろうとする」傾向にあるようです。
頑張っている自分が好きなのか、
頑張っていないと不安なのか、
とにかく何かに駆り立てられるように
頑張っている状態を維持しようとして頑張る
という感じ。
喩えるなら
車を運転しているときに、アクセルを全開まで踏んで
それ以上アクセルを踏んでもペダルは動かないのに
なおそのアクセルべダルを力いっぱい踏みつける
みたいなことでしょうか。
あるいは、
電車に乗って、車両の中を全力疾走している
といったものにも似ているかもしれません。
電車が遅れて遅刻しそうなとき
電車の中で焦る気持ちになることはあるでしょうが、
そこで急いだって電車の到着時間は変わらないんです。
もっと力を抜いて自然体で頑張っても
結果は変わらないということもあるような気がします。
どこまでが自分の頑張れる範囲なのか?
今の時点で頑張れないことまで気持ちを向けて
他のことまで同時に頑張ろうとしていないか?
そんなことを気にしてみるのも良いかもしれません。
意外と多くの人が「頑張ることを頑張ろうとする」傾向にあるようです。
頑張っている自分が好きなのか、
頑張っていないと不安なのか、
とにかく何かに駆り立てられるように
頑張っている状態を維持しようとして頑張る
という感じ。
喩えるなら
車を運転しているときに、アクセルを全開まで踏んで
それ以上アクセルを踏んでもペダルは動かないのに
なおそのアクセルべダルを力いっぱい踏みつける
みたいなことでしょうか。
あるいは、
電車に乗って、車両の中を全力疾走している
といったものにも似ているかもしれません。
電車が遅れて遅刻しそうなとき
電車の中で焦る気持ちになることはあるでしょうが、
そこで急いだって電車の到着時間は変わらないんです。
もっと力を抜いて自然体で頑張っても
結果は変わらないということもあるような気がします。
どこまでが自分の頑張れる範囲なのか?
今の時点で頑張れないことまで気持ちを向けて
他のことまで同時に頑張ろうとしていないか?
そんなことを気にしてみるのも良いかもしれません。
2014年12月18日
尊敬と崇拝
例えば、英会話を身につけようとして
英語の先生からレッスンを受けるとします。
その場合、英語を教えてくれる先生を尊敬することはあっても
「こんなに英語を話せるなんて、なんと素晴らしい方なんだ!」
と崇拝することは多くないでしょう。
おそらく
「この人はこうやって英語を身につけたのだから、
そのトレーニングを続けていけば、自分だって話せるようになるはずだ」
と参考にさせてもらうとか、
自分と同じ道の先を歩いている人として目標にするとか
そういった捉え方になるのではないでしょうか。
ましてそれがネイティブやバイリンガルの先生だとしたら
「この人は英語が普通に話せる人だから英語を教えてもらえる」
ぐらいに思って、その人が英語を話せることに対して
特別な見方をすることはないだろうと思われます。
場合によっては、
「この人は英語を話せるけど、日本語だったら自分のほうが上手い」
とか、
「この人は英語を教える専門家だから英語を話せて当然だけど
自分の仕事に関してなら、この人とは比べ物にならない」
などと
1つの技能だけに注目して自分と比較するようなことはしないかもしれません。
だからといって横柄な態度でその先生と接することもないでしょうが、
「専門分野を教えてくれる先生」ということで尊敬をするとしても
その英語の先生を偉人や聖者のように崇拝したりはしないと思うんです。
ところが、心の分野となってくると
そこで専門家として活動する人に対しては
何か「スゴイ人」であるかのような印象をもつ人が少なくないようです。
○○先生!などと崇めたてまつるような場合さえ見受けられます。
技能を求めて先生を見た場合には、英語の先生に対してと同様に
尊敬こそしても崇拝まではしないもののように感じます。
先生と自分の技能の差は課題や目標として意識されることでしょう。
一方、崇拝や憧れには、そこへ近づきたいという向上心とともに
その人のようになることで自信を高めたいという願望があるのかもしれません。
ところが皮肉なことに、崇拝するほどに自分との比較は強まって
「先生には及ばない自分」を意識してしまうことがあります。
厳しい言い方をすると
自信を求めて崇拝し、その人とお近づきになることで自信がついたつもりになって
「○○先生に教わった自分」というラベルで自分の価値を高めようとする
…といったことが起きる、と。
そういう時期があるのも自然なことかと思います。
ただ、崇拝を続けるがゆえに、自分を低く見積もり続けてしまう場合もあるようです。
偉大な人を外に見て、その人を崇拝する代わりに、
自分の内側に偉大さを見つけようとするのも
自身を高めるためには効果的なものです。
少なくとも自信を求めているところがあるのなら
自分の価値を見直してみるのも意義のあることではないでしょうか。
英語の先生からレッスンを受けるとします。
その場合、英語を教えてくれる先生を尊敬することはあっても
「こんなに英語を話せるなんて、なんと素晴らしい方なんだ!」
と崇拝することは多くないでしょう。
おそらく
「この人はこうやって英語を身につけたのだから、
そのトレーニングを続けていけば、自分だって話せるようになるはずだ」
と参考にさせてもらうとか、
自分と同じ道の先を歩いている人として目標にするとか
そういった捉え方になるのではないでしょうか。
ましてそれがネイティブやバイリンガルの先生だとしたら
「この人は英語が普通に話せる人だから英語を教えてもらえる」
ぐらいに思って、その人が英語を話せることに対して
特別な見方をすることはないだろうと思われます。
場合によっては、
「この人は英語を話せるけど、日本語だったら自分のほうが上手い」
とか、
「この人は英語を教える専門家だから英語を話せて当然だけど
自分の仕事に関してなら、この人とは比べ物にならない」
などと
1つの技能だけに注目して自分と比較するようなことはしないかもしれません。
だからといって横柄な態度でその先生と接することもないでしょうが、
「専門分野を教えてくれる先生」ということで尊敬をするとしても
その英語の先生を偉人や聖者のように崇拝したりはしないと思うんです。
ところが、心の分野となってくると
そこで専門家として活動する人に対しては
何か「スゴイ人」であるかのような印象をもつ人が少なくないようです。
○○先生!などと崇めたてまつるような場合さえ見受けられます。
技能を求めて先生を見た場合には、英語の先生に対してと同様に
尊敬こそしても崇拝まではしないもののように感じます。
先生と自分の技能の差は課題や目標として意識されることでしょう。
一方、崇拝や憧れには、そこへ近づきたいという向上心とともに
その人のようになることで自信を高めたいという願望があるのかもしれません。
ところが皮肉なことに、崇拝するほどに自分との比較は強まって
「先生には及ばない自分」を意識してしまうことがあります。
厳しい言い方をすると
自信を求めて崇拝し、その人とお近づきになることで自信がついたつもりになって
「○○先生に教わった自分」というラベルで自分の価値を高めようとする
…といったことが起きる、と。
そういう時期があるのも自然なことかと思います。
ただ、崇拝を続けるがゆえに、自分を低く見積もり続けてしまう場合もあるようです。
偉大な人を外に見て、その人を崇拝する代わりに、
自分の内側に偉大さを見つけようとするのも
自身を高めるためには効果的なものです。
少なくとも自信を求めているところがあるのなら
自分の価値を見直してみるのも意義のあることではないでしょうか。
2014年12月16日
おかしな中学英語
この本は勉強になりました。
日本の大学で英作文の添削をしていた経験を元に
日本人の英語の癖を指摘してくれています。
そしてもちろん、文法的にもネイティブの自然な感覚としても
模範的な表現に修正してくれていますからポイントが分かりやすいんですが、
それ以上に興味深いのは、日本の中学校の英語教育との対比の部分。
大学生が頻繁にやってしまう英語の間違いは、実のところ
中学校で習う英語に忠実な「正解」だったらしく、
中学英語を覚えてしっかりと使っているほど
ありえない英語を書いてしまうことになる…といった指摘は驚きでした。
もう中学校の頃に何を習っていたかなんて記憶には残っていませんが
英語教育のスタートラインで叩きこまれた土台は、意識から外れていった後にも
意外なほど大きな影響を与えるものとして染みついているのでしょう。
中学校の英語の教科書といえば、
「 This is a pen. 」とか「 Is this a pen? -- No. It is a desk. 」のような
使われることのない会話内容に焦点が当たりがちなので、
それ以外の不自然な部分が逆に見過ごされてしまうのかもしれません。
「分かりやすく気になる部分を作っておくと、細かい違和感が見過ごされやすくなる」
なんてことは、マジックにおいてトリックをバレにくくするための原則ですが、
それと同じような現象が図らずも起きてしまっているように思えます。
文法的にも、論理構造としても、文章の表現方法としても
英語では使われないようなものが教科書には溢れかえっているんだとか。
そこには指導方針の制約によって無理が生じている部分もあるようですし、
教科書がどれだけいい加減な方法によって作られているか
というのも本の中で指摘されています。
文法として「この項目は何年生までは教えてはいけない」と制約されるため
それまでの学年の教科書では使ってはいけない表現がある。
そこで無理やりに、おかしな表現に変換した文章を教科書に載せる。
…そういうパターンが中学校の英語の教科書にはあるそうです。
著者の言い分としては、
だったら最初からそんな無理な内容を含まない文章を書けばいい
ということのようですが、
実際には何かの英文の一部を取ってきて、
その中に使ってはいけない文法が含まれた文章があったら
それを習った範囲の表現に書き換えて載せられているんだとか。
結果として、文法的にも内容的にも変なものになってしまって
それを一生懸命に覚えた中学生ほど、将来に英語を使おうとしたとき
自分の伝えたいことと全く別の意味になってしまう文章を作ることになる。
もう最初からそんなおかしな文章は削除してしまうほうが良い
と著者は述べていますし、何よりも文章の内容も幼稚過ぎると言います。
数学や理科で習うレベルを考えれば、もっと高度なことでも大丈夫なはず、と。
文法の項目に指導基準があるのなら、その範囲でも
工夫して自然な英語の文章を作れるのかもしれません。
日本の英語教育が語学のトレーニング方法として問題視されることは多いですが、
その前の段階として、教科書に載っていることがそもそも
英語として間違った表現になってしまっている、という指摘は新鮮で
考えさせられるところが多い本でした。
英語学習といえば、「どうやって身につけるか」という方向に関心が向きやすく
「すでに身につけてしまったものが正しかったか」を考えることは少ないと感じます。
仮に、中学・高校で勉強したことが英語の習得と関係がなかったとしても
それはあくまでゼロから身につけようという場合の話でしょう。
中学・高校で気づかないままに染みつかせてしまった間違いがあるとしたら
それはマイナスからのスタートとさえ言えるのかもしれません。
そんなネガティブな影響が含まれている可能性があるのなら
中学・高校レベルの英語を丁寧に振り返って、勘違いを訂正しておく
というスタンスも、大人の英語トレーニングには大事なように思えました。
日本の大学で英作文の添削をしていた経験を元に
日本人の英語の癖を指摘してくれています。
そしてもちろん、文法的にもネイティブの自然な感覚としても
模範的な表現に修正してくれていますからポイントが分かりやすいんですが、
それ以上に興味深いのは、日本の中学校の英語教育との対比の部分。
大学生が頻繁にやってしまう英語の間違いは、実のところ
中学校で習う英語に忠実な「正解」だったらしく、
中学英語を覚えてしっかりと使っているほど
ありえない英語を書いてしまうことになる…といった指摘は驚きでした。
もう中学校の頃に何を習っていたかなんて記憶には残っていませんが
英語教育のスタートラインで叩きこまれた土台は、意識から外れていった後にも
意外なほど大きな影響を与えるものとして染みついているのでしょう。
中学校の英語の教科書といえば、
「 This is a pen. 」とか「 Is this a pen? -- No. It is a desk. 」のような
使われることのない会話内容に焦点が当たりがちなので、
それ以外の不自然な部分が逆に見過ごされてしまうのかもしれません。
「分かりやすく気になる部分を作っておくと、細かい違和感が見過ごされやすくなる」
なんてことは、マジックにおいてトリックをバレにくくするための原則ですが、
それと同じような現象が図らずも起きてしまっているように思えます。
文法的にも、論理構造としても、文章の表現方法としても
英語では使われないようなものが教科書には溢れかえっているんだとか。
そこには指導方針の制約によって無理が生じている部分もあるようですし、
教科書がどれだけいい加減な方法によって作られているか
というのも本の中で指摘されています。
文法として「この項目は何年生までは教えてはいけない」と制約されるため
それまでの学年の教科書では使ってはいけない表現がある。
そこで無理やりに、おかしな表現に変換した文章を教科書に載せる。
…そういうパターンが中学校の英語の教科書にはあるそうです。
著者の言い分としては、
だったら最初からそんな無理な内容を含まない文章を書けばいい
ということのようですが、
実際には何かの英文の一部を取ってきて、
その中に使ってはいけない文法が含まれた文章があったら
それを習った範囲の表現に書き換えて載せられているんだとか。
結果として、文法的にも内容的にも変なものになってしまって
それを一生懸命に覚えた中学生ほど、将来に英語を使おうとしたとき
自分の伝えたいことと全く別の意味になってしまう文章を作ることになる。
もう最初からそんなおかしな文章は削除してしまうほうが良い
と著者は述べていますし、何よりも文章の内容も幼稚過ぎると言います。
数学や理科で習うレベルを考えれば、もっと高度なことでも大丈夫なはず、と。
文法の項目に指導基準があるのなら、その範囲でも
工夫して自然な英語の文章を作れるのかもしれません。
日本の英語教育が語学のトレーニング方法として問題視されることは多いですが、
その前の段階として、教科書に載っていることがそもそも
英語として間違った表現になってしまっている、という指摘は新鮮で
考えさせられるところが多い本でした。
英語学習といえば、「どうやって身につけるか」という方向に関心が向きやすく
「すでに身につけてしまったものが正しかったか」を考えることは少ないと感じます。
仮に、中学・高校で勉強したことが英語の習得と関係がなかったとしても
それはあくまでゼロから身につけようという場合の話でしょう。
中学・高校で気づかないままに染みつかせてしまった間違いがあるとしたら
それはマイナスからのスタートとさえ言えるのかもしれません。
そんなネガティブな影響が含まれている可能性があるのなら
中学・高校レベルの英語を丁寧に振り返って、勘違いを訂正しておく
というスタンスも、大人の英語トレーニングには大事なように思えました。
2014年12月14日
怒りの感情
調べても出所がハッキリしないのですが、
コミュニケーションの話題の中で
「怒りは二次感情」
という説明があるようです。
少なくとも、メジャーな心理学の研究としては
普通に語られるものではないと思われます。
だいたいの話としては
「怒りを感じるときには、その奥に不安や心配、悲しみや絶望などがあり
怒りを出したあとから振り返ってみると、これらの別の感情に気づける。
だから怒りは二次的なものであって、怒りを通じて本当に表現したい感情
つまり一次感情は、不安や心配、悲しみなどのほうだ。」
といった説明。
コンセプトとしては、「怒っているときには別の感情が奥にある」ということで、
一次感情を自覚すればコミュニケーションの仕方が変わる
という部分が話のポイントになるのでしょう。
相手に怒りをぶつけるのではなく、本当に相手に対して伝えるべきは
「自分は不安だった」、「心配していた」、「本当は悲しかった」
などのほうだ、と。
確かにこの発想で自分のコミュニケーションを振り返ると
おそらく子育てが思うようにいかずイライラしている人や
部下の教育で悩んでいるような人には役に立つところもあると思われます。
例えば「なんでこんなこともできないんだ!」と怒り散らしたり、
「いったい何時だと思っているんだ!?」と怒鳴りつけたり、
「いい加減にしなさい!」と怒って伝えたりするのではなく、
落ち着いた声のトーンで
「できると思って頼んだのにやってもらえなくて残念だ」とか
「帰りが遅いから心配んしていたんだ。遅くなることを連絡して欲しかった」とか
「そうやっていうことを聞いてくれないと悲しい」とか
他の気持ちを伝えるようにする、といったやり方です。
こうすると、まず普段と違う様子に真剣さが伝わりやすくなります。
怒りの感情をぶつけられれば、お互いに感情を強くぶつけあいやすいため
怒り以外の形でメッセージを伝えるだけでも受け取りやすさが上がります。
ただ怒りを発散しているときと違って
言葉の内容にも注意が向きやすくなりますから、内容も理解されやすいでしょう。
またこれは「I(アイ)メッセージ」にもなっています。
相手を操作しようという度合いが減って、相手に自ら考える範囲を与えられ
押しつけられた感じがない状態で受け取ってもらいやすいと考えられます。
以上のようなメリットは、コミュニケーションの結果として期待されるところであって
「怒りは二次感情」という説明の仕方と合っているかどうかは無関係です。
観察可能な現象としては、
「人は怒りを感じるとき、他にも表現していない感情や考えがある」
という部分までなんです。
そして実際のコミュニケーションの工夫として
「怒り以外の形で他の感情や考えを伝えると上手くいきやすい
というところも実感しやすいでしょう。
ですが、この観察結果と、実際の工夫の効果とを考慮したとしても
それを説明する「理由づけ」の部分は定かではありません。
きっとどこかの誰かが
「人は怒りを感じるとき、他に表現していないものがある」
「その表現していないものを怒り以外の形で伝えると上手くいく」
という発見をして、
その発見を分かりやすく説明するための『理論』として
「怒りは二次感情」
という考えに至ったのでしょう。
日常のコミュニケーションでは役に立つ発想だとはいえますが、
その理論には根拠はないはずです。
心理学などの社会科学で『理論』といったときには
それはあくまで「仮定」に過ぎないというのが原則です。
物理で「超ひも理論」なんていったときの「理論」も仮定ですが、
物理の場合は、「その理論が正しいとすればこうなるはずだ」という予測を元に
実験をして予測通りの観測結果が得られるかどうかで理論が検証されていきます。
正確には、理論を元に仮説を立てて
仮説を検証することで理論の正しさをサポートする
といった流れです。
仮説は実験的に検証可能なものを言うのに対して
理論は検証のしようがないんです。
理論に基づく仮説の正しさが数多く示されるほど
その理論のもっともらしさが高まっていくに過ぎません。
日本語のイメージでいうと、理論( theory )と呼ばれるものほど
よっぽど「仮の説」だといってもいいかもしれません。
とにかく、あらゆる理論は仮定の話なんです。
そういう意味では、「怒りは二次感情」というのは1つの心の理論であって
それが役に立つかと、実際の現象を上手く説明できるかは別問題です。
また、1つの理論は、別の理論とは矛盾することが多いものです。
ですから複数の理論のイイトコどりなんてのは原則的に不可能なんです。
そのため、NLPの考え方と「怒りは二次感情」という理論は相容れません。
NLPでは感情的な反応が沸くのはプログラムによるものと考えます。
そしてプログラムには肯定的意図があると考えます。
プログラムの肯定的意図は、「本当に期待している結果」だといえますから
「こうあって欲しかった」、「少なくともこういう状態にだけはなれる」
などの期待や妥協を含んでいます。
例えば怒りの場合であれば、
「相手には、こういうことをして欲しいと期待していた」とか
「最終的には自分の心が穏やかでいられるのを期待していた」とか
「一刻も早くこの状態を抜け出して、楽な状態に戻りたかった」とか
そういう肯定的意図が潜んでいる、というわけです。
これは感情ではなく、認知(考え)の部分です。
1つの場面に対して無自覚なままでしてしまう予測や期待です。
無自覚なままで大切にしようとしていることがあるんです。
それが期待通りにならず、大切にできなかったとき
怒りの形で反応が沸いてくると考えられます。
ですから、NLPにおいては一次感情とか二次感情といった区別はなく
全ての感情は場面によってプログラムされた反応だと考えます。
そして怒りは(感情的な)反応に過ぎず、反応の奥には
(認知レベルで)肯定的意図があるとするんです。
この肯定的意図は、期待に近いものですから
ある意味では「一次感情」として扱われているものに近いかもしれません。
そしてNLPではプログラムは無数にあって、それぞれが別の存在と考えます。
ですから、怒りを生むプログラムと、悲しみを生むプログラム、
絶望を感じさせるプログラム、心配するプログラムは別の機能と捉えます。
心配していたとか、期待が外れてガッカリしたとかいう反応は
状況が思い通りにならなくて怒りが沸いてくる反応とは別のプログラムなんです。
つまり、
NLPでは「怒り」は様々な反応を生み出すプログラムのうちの1つと考え、
怒りが沸く場面でも他に複数のプログラムが同時に働いている
と解釈します。
怒るプログラムもあるし、悲しむプログラムもある。
ガッカリのプログラムもあるし、心配のプログラムもある。
どうしたらいいか分からず混乱するプログラムもあるし、
今後のやり方で不安になるプログラムもある。
全て別のプログラムが同時に働いているというわけです。
ですからNLPでは「怒りは二次感情」などというものではなく
1つのプログラムと反応と捉え、
「二次感情の理論」では「一次感情」と呼んでいるものは
他のプログラムによる別の感情的反応として並列に捉えます。
怒りの奥に別の感情があるのではなく、
怒りとは別に同時に表れる複数の感情がある、と。
怒りは一次感情を覆い隠す二次的なものとは考えないんです。
おそらく、多くの人は怒りの反応に対して振り回されやすいのでしょう。
怒りの状態は強く自覚されやすい。
だから、そのほかにも存在している別の複数の感情については
怒りよりも自覚しにくく、それが「奥底」にあるように思えるのかもしれません。
ですが、NLPではプログラムが同時並行で動いていると考えます。
別に心は1つのものだとはしていないんです。
むしろ心は複数のプログラムの集合体とします。
ですから、様々な感情が同時に表れたって当然のことなんです。
一次とか二次とか区別するのではなく、全ての感情を均等に
「自分の中には怒りと悲しみと不安とガッカリがある」
と捉えるようにするんです。
一方で、怒りのプログラムの奥にある肯定的意図は重視します。
ですが意図は期待のような認知的働きであって、感情的反応ではありません。
ですから、期待を一次感情とは呼ばない。
まとめると、
「怒りは二次感情」と捉える理論において「一次感情」とされるものは、NLPでは
・怒りの反応を生むプログラム以外が生み出した別の(感情的)反応
・怒りの反応のプログラムに伴った肯定的意図
の両方を含んでいる
ということになります。
NLPでは「一次感情」、「二次感情」とは呼ばずに、
「反応」と「肯定的意図」として区別をしているんです。
感情的反応においては、怒りだろうが他の感情だろうが、
プログラムが生み出す反応という意味において差はありません。
「怒りは二次感情」という理論は
NLPのプログラムの説明とは相容れません。
二次感情の理論では、
怒りは表面的・二次的なもので、その奥に一次的な感情がある
という説明になるのに対して
NLPでは
怒りとは別に他の感情を生み出すプログラムも同時に働いている
という説明になる。
二次感情の理論では、怒り以外の自覚されていなかったものを
ひっくるめて「一次感情」と呼んでいるようですが、
NLPではそれらを「別の感情反応のプログラム」なのか「肯定的意図」なのか
と区別をしています。
こうした違いは、心の反応として体験される現象を
どのような着眼点で説明しているかによって生まれるものです。
それが理論の違いです。
異なる理論は相容れないことが多いのも、
同じ現象を違う仕組みのものとして説明するからです。
繰り返しになりますが、この話は役に立つかどうかとは無関係です。
怒りを二次感情と呼んで、それ以外の気持ちを伝えるようにする
という方法そのものはコミュニケーションで有効なことも多いでしょう。
ただ、NLPでは
自分の中にある複数のプログラムの反応を自覚して
その肯定的意図に基づいて、どういう反応の仕方で相手と関わるかを選択する
というのが基本的な流れとなります。
結果的には「I(アイ)メッセージ」で肯定的意図を表現したり、
自分の感情を「悲しい」などと言語化して伝えたりすることで
同じようなコミュニケーションの仕方になるかもしれません。
なので、役に立つかどうか、正しいかどうかという話ではないわけです。
ただ理論の違いがあって、NLPには他の理論を混ぜられない
といった趣旨のことです。
その意味では、どの理論を信じたって構わないんですが、
それでも僕がNLPの考え方を使うことが多いのは
NLPの説明は、僕が知る限り、脳の研究成果と辻褄が合いやすいからです。
一次感情、二次感情という分け方は心の理論としては構わないでしょうが
自然科学と結びつけて理解するには筋が通らないことが多い気がします。
人の心は1つではない。
一次とか二次とかいった順番でシンプルにカタをつけるよりも
同時並行で色々なことが起きている複雑なものとして捉えたほうが
生物的な機能として上手く説明ができるようです。
日常生活に役立つかどうかの話ではなく、
心という仕組みを自然科学として説明するときの話としては
プログラムという発想は上手くいきやすいと思います。
コミュニケーションの話題の中で
「怒りは二次感情」
という説明があるようです。
少なくとも、メジャーな心理学の研究としては
普通に語られるものではないと思われます。
だいたいの話としては
「怒りを感じるときには、その奥に不安や心配、悲しみや絶望などがあり
怒りを出したあとから振り返ってみると、これらの別の感情に気づける。
だから怒りは二次的なものであって、怒りを通じて本当に表現したい感情
つまり一次感情は、不安や心配、悲しみなどのほうだ。」
といった説明。
コンセプトとしては、「怒っているときには別の感情が奥にある」ということで、
一次感情を自覚すればコミュニケーションの仕方が変わる
という部分が話のポイントになるのでしょう。
相手に怒りをぶつけるのではなく、本当に相手に対して伝えるべきは
「自分は不安だった」、「心配していた」、「本当は悲しかった」
などのほうだ、と。
確かにこの発想で自分のコミュニケーションを振り返ると
おそらく子育てが思うようにいかずイライラしている人や
部下の教育で悩んでいるような人には役に立つところもあると思われます。
例えば「なんでこんなこともできないんだ!」と怒り散らしたり、
「いったい何時だと思っているんだ!?」と怒鳴りつけたり、
「いい加減にしなさい!」と怒って伝えたりするのではなく、
落ち着いた声のトーンで
「できると思って頼んだのにやってもらえなくて残念だ」とか
「帰りが遅いから心配んしていたんだ。遅くなることを連絡して欲しかった」とか
「そうやっていうことを聞いてくれないと悲しい」とか
他の気持ちを伝えるようにする、といったやり方です。
こうすると、まず普段と違う様子に真剣さが伝わりやすくなります。
怒りの感情をぶつけられれば、お互いに感情を強くぶつけあいやすいため
怒り以外の形でメッセージを伝えるだけでも受け取りやすさが上がります。
ただ怒りを発散しているときと違って
言葉の内容にも注意が向きやすくなりますから、内容も理解されやすいでしょう。
またこれは「I(アイ)メッセージ」にもなっています。
相手を操作しようという度合いが減って、相手に自ら考える範囲を与えられ
押しつけられた感じがない状態で受け取ってもらいやすいと考えられます。
以上のようなメリットは、コミュニケーションの結果として期待されるところであって
「怒りは二次感情」という説明の仕方と合っているかどうかは無関係です。
観察可能な現象としては、
「人は怒りを感じるとき、他にも表現していない感情や考えがある」
という部分までなんです。
そして実際のコミュニケーションの工夫として
「怒り以外の形で他の感情や考えを伝えると上手くいきやすい
というところも実感しやすいでしょう。
ですが、この観察結果と、実際の工夫の効果とを考慮したとしても
それを説明する「理由づけ」の部分は定かではありません。
きっとどこかの誰かが
「人は怒りを感じるとき、他に表現していないものがある」
「その表現していないものを怒り以外の形で伝えると上手くいく」
という発見をして、
その発見を分かりやすく説明するための『理論』として
「怒りは二次感情」
という考えに至ったのでしょう。
日常のコミュニケーションでは役に立つ発想だとはいえますが、
その理論には根拠はないはずです。
心理学などの社会科学で『理論』といったときには
それはあくまで「仮定」に過ぎないというのが原則です。
物理で「超ひも理論」なんていったときの「理論」も仮定ですが、
物理の場合は、「その理論が正しいとすればこうなるはずだ」という予測を元に
実験をして予測通りの観測結果が得られるかどうかで理論が検証されていきます。
正確には、理論を元に仮説を立てて
仮説を検証することで理論の正しさをサポートする
といった流れです。
仮説は実験的に検証可能なものを言うのに対して
理論は検証のしようがないんです。
理論に基づく仮説の正しさが数多く示されるほど
その理論のもっともらしさが高まっていくに過ぎません。
日本語のイメージでいうと、理論( theory )と呼ばれるものほど
よっぽど「仮の説」だといってもいいかもしれません。
とにかく、あらゆる理論は仮定の話なんです。
そういう意味では、「怒りは二次感情」というのは1つの心の理論であって
それが役に立つかと、実際の現象を上手く説明できるかは別問題です。
また、1つの理論は、別の理論とは矛盾することが多いものです。
ですから複数の理論のイイトコどりなんてのは原則的に不可能なんです。
そのため、NLPの考え方と「怒りは二次感情」という理論は相容れません。
NLPでは感情的な反応が沸くのはプログラムによるものと考えます。
そしてプログラムには肯定的意図があると考えます。
プログラムの肯定的意図は、「本当に期待している結果」だといえますから
「こうあって欲しかった」、「少なくともこういう状態にだけはなれる」
などの期待や妥協を含んでいます。
例えば怒りの場合であれば、
「相手には、こういうことをして欲しいと期待していた」とか
「最終的には自分の心が穏やかでいられるのを期待していた」とか
「一刻も早くこの状態を抜け出して、楽な状態に戻りたかった」とか
そういう肯定的意図が潜んでいる、というわけです。
これは感情ではなく、認知(考え)の部分です。
1つの場面に対して無自覚なままでしてしまう予測や期待です。
無自覚なままで大切にしようとしていることがあるんです。
それが期待通りにならず、大切にできなかったとき
怒りの形で反応が沸いてくると考えられます。
ですから、NLPにおいては一次感情とか二次感情といった区別はなく
全ての感情は場面によってプログラムされた反応だと考えます。
そして怒りは(感情的な)反応に過ぎず、反応の奥には
(認知レベルで)肯定的意図があるとするんです。
この肯定的意図は、期待に近いものですから
ある意味では「一次感情」として扱われているものに近いかもしれません。
そしてNLPではプログラムは無数にあって、それぞれが別の存在と考えます。
ですから、怒りを生むプログラムと、悲しみを生むプログラム、
絶望を感じさせるプログラム、心配するプログラムは別の機能と捉えます。
心配していたとか、期待が外れてガッカリしたとかいう反応は
状況が思い通りにならなくて怒りが沸いてくる反応とは別のプログラムなんです。
つまり、
NLPでは「怒り」は様々な反応を生み出すプログラムのうちの1つと考え、
怒りが沸く場面でも他に複数のプログラムが同時に働いている
と解釈します。
怒るプログラムもあるし、悲しむプログラムもある。
ガッカリのプログラムもあるし、心配のプログラムもある。
どうしたらいいか分からず混乱するプログラムもあるし、
今後のやり方で不安になるプログラムもある。
全て別のプログラムが同時に働いているというわけです。
ですからNLPでは「怒りは二次感情」などというものではなく
1つのプログラムと反応と捉え、
「二次感情の理論」では「一次感情」と呼んでいるものは
他のプログラムによる別の感情的反応として並列に捉えます。
怒りの奥に別の感情があるのではなく、
怒りとは別に同時に表れる複数の感情がある、と。
怒りは一次感情を覆い隠す二次的なものとは考えないんです。
おそらく、多くの人は怒りの反応に対して振り回されやすいのでしょう。
怒りの状態は強く自覚されやすい。
だから、そのほかにも存在している別の複数の感情については
怒りよりも自覚しにくく、それが「奥底」にあるように思えるのかもしれません。
ですが、NLPではプログラムが同時並行で動いていると考えます。
別に心は1つのものだとはしていないんです。
むしろ心は複数のプログラムの集合体とします。
ですから、様々な感情が同時に表れたって当然のことなんです。
一次とか二次とか区別するのではなく、全ての感情を均等に
「自分の中には怒りと悲しみと不安とガッカリがある」
と捉えるようにするんです。
一方で、怒りのプログラムの奥にある肯定的意図は重視します。
ですが意図は期待のような認知的働きであって、感情的反応ではありません。
ですから、期待を一次感情とは呼ばない。
まとめると、
「怒りは二次感情」と捉える理論において「一次感情」とされるものは、NLPでは
・怒りの反応を生むプログラム以外が生み出した別の(感情的)反応
・怒りの反応のプログラムに伴った肯定的意図
の両方を含んでいる
ということになります。
NLPでは「一次感情」、「二次感情」とは呼ばずに、
「反応」と「肯定的意図」として区別をしているんです。
感情的反応においては、怒りだろうが他の感情だろうが、
プログラムが生み出す反応という意味において差はありません。
「怒りは二次感情」という理論は
NLPのプログラムの説明とは相容れません。
二次感情の理論では、
怒りは表面的・二次的なもので、その奥に一次的な感情がある
という説明になるのに対して
NLPでは
怒りとは別に他の感情を生み出すプログラムも同時に働いている
という説明になる。
二次感情の理論では、怒り以外の自覚されていなかったものを
ひっくるめて「一次感情」と呼んでいるようですが、
NLPではそれらを「別の感情反応のプログラム」なのか「肯定的意図」なのか
と区別をしています。
こうした違いは、心の反応として体験される現象を
どのような着眼点で説明しているかによって生まれるものです。
それが理論の違いです。
異なる理論は相容れないことが多いのも、
同じ現象を違う仕組みのものとして説明するからです。
繰り返しになりますが、この話は役に立つかどうかとは無関係です。
怒りを二次感情と呼んで、それ以外の気持ちを伝えるようにする
という方法そのものはコミュニケーションで有効なことも多いでしょう。
ただ、NLPでは
自分の中にある複数のプログラムの反応を自覚して
その肯定的意図に基づいて、どういう反応の仕方で相手と関わるかを選択する
というのが基本的な流れとなります。
結果的には「I(アイ)メッセージ」で肯定的意図を表現したり、
自分の感情を「悲しい」などと言語化して伝えたりすることで
同じようなコミュニケーションの仕方になるかもしれません。
なので、役に立つかどうか、正しいかどうかという話ではないわけです。
ただ理論の違いがあって、NLPには他の理論を混ぜられない
といった趣旨のことです。
その意味では、どの理論を信じたって構わないんですが、
それでも僕がNLPの考え方を使うことが多いのは
NLPの説明は、僕が知る限り、脳の研究成果と辻褄が合いやすいからです。
一次感情、二次感情という分け方は心の理論としては構わないでしょうが
自然科学と結びつけて理解するには筋が通らないことが多い気がします。
人の心は1つではない。
一次とか二次とかいった順番でシンプルにカタをつけるよりも
同時並行で色々なことが起きている複雑なものとして捉えたほうが
生物的な機能として上手く説明ができるようです。
日常生活に役立つかどうかの話ではなく、
心という仕組みを自然科学として説明するときの話としては
プログラムという発想は上手くいきやすいと思います。
2014年12月11日
フォアグラの笑顔
何かのキッカケで、他の人の集合写真を目にすることがあります。
セミナーか何かの最後の記念撮影だったり、
セミナー中に皆がガッツポーズをしながら叫んでいる場面だったり…。
どちらかというと、「みんな揃って」の感じが多いようです。
もちろん、表層的なラベルで呼べば「笑顔」や「元気いっぱい」など
全員が「一体となって」同じ様子に分類されるのかもしれません。
しかし、ちゃんと非言語メッセージを細かく観察すれば
一人一人の中には状態の違いがハッキリと見て取れます。
言い換えれば、
全力で笑うようにしている
とか
力いっぱい叫ぶようにしている
という姿であって、
そうでない感情も同時に数多く表れているわけです。
場合によっては、大雑把な分類上は「笑顔」でいっぱいの写真のようでも
写っている誰もが大袈裟な作り笑いをしているだけで
実際の内面的な状態と示されている表情筋の動きの大きさとの間には
激しいギャップがあることも見うけられます。
口を大きく開いて、頬で口角を引き上げ、目を見開き
ガッツポーズのようなジェスチャーをしながらも、
あらゆる筋肉の位置が自然な笑顔のものではない。
逆に顔をクシャッとさせるように
目を細め、歯を噛みしめたまま口を横に開き
「イーッ」と歯を見せるタイプの作り笑顔も、何度も目にしたことがあります。
それどころか、目が笑っていないケースさえある。
そして、そういう作り笑いの多い集合写真ほど
全員が画一的に同じタイプの作り笑いをするみたいです。
別にそういう笑い方をルールとして強制したわけではないでしょうから
もっと暗黙の形として不自然に笑顔を作るプレッシャーがあったと思われます。
たとえば「最高の笑顔」のような言い回しぐらいはあったかもしれません。
人の喜びの感情に「最高」だとか「イマイチ」だとか評価をつけるのも
僕の体験からは生まれてこない発想ですが、
そうした形でのアピールがビジネス的に必要だった可能性もありますし
そうやって笑うフリをして人間関係を乗り切ってきた可能性もあるのでしょう。
そういう笑いをする人たちには事情があったと想像できるとはいえ、
その種の作り笑いを必要としない受講生が受けているセミナーで
大袈裟な作り笑いの風習を広めていくのは、
いったいどのような意図をもってのことなのかと疑問に感じます。
無自覚に講師側の癖や思い込みに受講生を巻き込んでしまっているのか
それとも、意図的に心を覆い隠すための表面的な振る舞いを教えているのか?
そのレベルの推測は難しいところです。
「笑う」のか「笑いが出てくる」のかの違いは大きいものではないでしょうか。
いくら
「作り笑いをするだけで、
楽しかったときの状態が引き出されて気分が変わる」
という現象があるといっても、
そのことと
大きな作り笑いで元気でハッピーなフリをする
のとは別物だと思います。
不一致な非言語メッセージに慣れて自分の内面へ気づくにくくなる
という可能性が非常に高い。
ただし、その方向性を望ましいこととと捉えるのだとしたら
そのスタンスに対して賛同するかどうかだけの話になってしまいます。
細かな感情の機微に目をつぶり、自分で「最高の笑顔」などを作り出し
「最高の状態」を維持しようとする…
そんなライフスタイルもきっと1つの魅力なんでしょう。
それは喩えるなら、僕にはフォアグラのように見えます。
高級食材ですし、三大珍味ですし、美食の1つ。
しかしフォアグラは、ガチョウに無理やり食べ物を詰め込み
過剰に脂肪を溜めこんで肥大した肝臓です。
いわば脂肪肝。
労力もかかっているし、餌代もかかるし、とろけるような美味しさの高級品です。
ですが、世の中にはもっと自然で繊細な食材もあります。
同じ肝ならアンコウだって美味しいものです。
何より、アンコウはその白身も、エンガワも、皮も、みんな美味しい。
それぞれの部位に違った美味しさがあります。
人の感情に複雑な機微があるのと似ていると思います。
静かな微笑みだって、はにかんだような笑いだって、
涙をたたえた目だって、感謝にひたった鼻のまわりだって、
深い想いを味わっている喉元だって
どれも皆、感動的な感情表出のはずです。
そんな繊細な感情の味わいが切り取られた写真も
素敵なものじゃないかと思うんです。
セミナーか何かの最後の記念撮影だったり、
セミナー中に皆がガッツポーズをしながら叫んでいる場面だったり…。
どちらかというと、「みんな揃って」の感じが多いようです。
もちろん、表層的なラベルで呼べば「笑顔」や「元気いっぱい」など
全員が「一体となって」同じ様子に分類されるのかもしれません。
しかし、ちゃんと非言語メッセージを細かく観察すれば
一人一人の中には状態の違いがハッキリと見て取れます。
言い換えれば、
全力で笑うようにしている
とか
力いっぱい叫ぶようにしている
という姿であって、
そうでない感情も同時に数多く表れているわけです。
場合によっては、大雑把な分類上は「笑顔」でいっぱいの写真のようでも
写っている誰もが大袈裟な作り笑いをしているだけで
実際の内面的な状態と示されている表情筋の動きの大きさとの間には
激しいギャップがあることも見うけられます。
口を大きく開いて、頬で口角を引き上げ、目を見開き
ガッツポーズのようなジェスチャーをしながらも、
あらゆる筋肉の位置が自然な笑顔のものではない。
逆に顔をクシャッとさせるように
目を細め、歯を噛みしめたまま口を横に開き
「イーッ」と歯を見せるタイプの作り笑顔も、何度も目にしたことがあります。
それどころか、目が笑っていないケースさえある。
そして、そういう作り笑いの多い集合写真ほど
全員が画一的に同じタイプの作り笑いをするみたいです。
別にそういう笑い方をルールとして強制したわけではないでしょうから
もっと暗黙の形として不自然に笑顔を作るプレッシャーがあったと思われます。
たとえば「最高の笑顔」のような言い回しぐらいはあったかもしれません。
人の喜びの感情に「最高」だとか「イマイチ」だとか評価をつけるのも
僕の体験からは生まれてこない発想ですが、
そうした形でのアピールがビジネス的に必要だった可能性もありますし
そうやって笑うフリをして人間関係を乗り切ってきた可能性もあるのでしょう。
そういう笑いをする人たちには事情があったと想像できるとはいえ、
その種の作り笑いを必要としない受講生が受けているセミナーで
大袈裟な作り笑いの風習を広めていくのは、
いったいどのような意図をもってのことなのかと疑問に感じます。
無自覚に講師側の癖や思い込みに受講生を巻き込んでしまっているのか
それとも、意図的に心を覆い隠すための表面的な振る舞いを教えているのか?
そのレベルの推測は難しいところです。
「笑う」のか「笑いが出てくる」のかの違いは大きいものではないでしょうか。
いくら
「作り笑いをするだけで、
楽しかったときの状態が引き出されて気分が変わる」
という現象があるといっても、
そのことと
大きな作り笑いで元気でハッピーなフリをする
のとは別物だと思います。
不一致な非言語メッセージに慣れて自分の内面へ気づくにくくなる
という可能性が非常に高い。
ただし、その方向性を望ましいこととと捉えるのだとしたら
そのスタンスに対して賛同するかどうかだけの話になってしまいます。
細かな感情の機微に目をつぶり、自分で「最高の笑顔」などを作り出し
「最高の状態」を維持しようとする…
そんなライフスタイルもきっと1つの魅力なんでしょう。
それは喩えるなら、僕にはフォアグラのように見えます。
高級食材ですし、三大珍味ですし、美食の1つ。
しかしフォアグラは、ガチョウに無理やり食べ物を詰め込み
過剰に脂肪を溜めこんで肥大した肝臓です。
いわば脂肪肝。
労力もかかっているし、餌代もかかるし、とろけるような美味しさの高級品です。
ですが、世の中にはもっと自然で繊細な食材もあります。
同じ肝ならアンコウだって美味しいものです。
何より、アンコウはその白身も、エンガワも、皮も、みんな美味しい。
それぞれの部位に違った美味しさがあります。
人の感情に複雑な機微があるのと似ていると思います。
静かな微笑みだって、はにかんだような笑いだって、
涙をたたえた目だって、感謝にひたった鼻のまわりだって、
深い想いを味わっている喉元だって
どれも皆、感動的な感情表出のはずです。
そんな繊細な感情の味わいが切り取られた写真も
素敵なものじゃないかと思うんです。