2015年03月
2015年03月11日
右と左
僕は右利きです。
左手でもできる作業はありますが、
かなり右サイドに片寄っています。
大学生の頃、草野球が流行っていて
その時には左打席のほうが得意になるまで練習しましたし、
左投げにも挑戦して(グローブも買って)いました。
それでもやっぱり右利きなんです。
実際、左打席のほうが得意だったのは
ピッチャーに近い側に右半身を置いておいたほうが
何かと都合が良かったからだろうと思われます。
つまり、僕にとって「右利き」とは
「右手で作業する」とか、
世間で「右○○」と設定されているものの通りにやるとか、
そういったことではなく、
「意識を体の右半身に集めている」
という意味なんです。
僕はかなり右目に片寄って見ています。
左目は意識にあがっていない感じ。
(いや、「右目で見ていました」のほうが正確でしょうか)
真正面を見るにしても、右目が体の中心に来るようにしますから
少し顔を左に傾けたり、左側(反時計回り)にひねったりしていました。
座るときも右半身に重さをかけ、体の右サイドを縮めるようにする。
右目−みぞおち−右股関節 のラインが一直線になるようにセットして
そこを基準にコントロールするようなスタイル、といった感じです。
書道をやるときには、
右目−右肩−右ひじ−右股関節 が上下に揃うようにして
それで体を安定させながら動きを作る傾向があります。
野球の左打席にしても、
右目がピッチャー側にあるため、とにかく見やすいですし
右目でボールを追いかけると距離感も掴みやすかったのでしょう。
また、右目を中心に体の右サイドへ意識を集めて右側を安定させるため
右目から対角線に覗き込むような見方が好きなようです。
そのため、二人で話をするときには
相手が左側にいるように座ることが多く、
スクール形式で座る場合には、教壇に向かって右側に座ります。
そういう体の使い方、目の使い方、意識の使い方なんです。
で、僕はずっと、そのことを気にもせずにいましたが
体のケアをするようになって左右バランスに注意が向き始めました。
ただ、どうもこの左右の偏りは
単なる体だけの話ではなかったようです。
意識が体の右半身に片寄っているということは、なんとなくの印象として
自分というアイデンティティが体の右側だけになっている
ような感じだったんです。
それが最近、体の左サイドにもアイデンティティというか
心の動きが表れ始めているような印象なんです。
今までの自分にはなかった気分や関心の向け方をする
新たな内面の動きが意識にあがります。
結果的に、左サイドに体重をかける機会が増えてきたり
気づいたら左目側から見ていることがあったりもしています。
体の左半分に意識が埋まってきたら、それに伴って
体の使い方としても左サイドが積極的になってきた、ということでしょうか。
なんとも不思議な印象ですが、徐々にバランスが取れてきているようです。
左手でもできる作業はありますが、
かなり右サイドに片寄っています。
大学生の頃、草野球が流行っていて
その時には左打席のほうが得意になるまで練習しましたし、
左投げにも挑戦して(グローブも買って)いました。
それでもやっぱり右利きなんです。
実際、左打席のほうが得意だったのは
ピッチャーに近い側に右半身を置いておいたほうが
何かと都合が良かったからだろうと思われます。
つまり、僕にとって「右利き」とは
「右手で作業する」とか、
世間で「右○○」と設定されているものの通りにやるとか、
そういったことではなく、
「意識を体の右半身に集めている」
という意味なんです。
僕はかなり右目に片寄って見ています。
左目は意識にあがっていない感じ。
(いや、「右目で見ていました」のほうが正確でしょうか)
真正面を見るにしても、右目が体の中心に来るようにしますから
少し顔を左に傾けたり、左側(反時計回り)にひねったりしていました。
座るときも右半身に重さをかけ、体の右サイドを縮めるようにする。
右目−みぞおち−右股関節 のラインが一直線になるようにセットして
そこを基準にコントロールするようなスタイル、といった感じです。
書道をやるときには、
右目−右肩−右ひじ−右股関節 が上下に揃うようにして
それで体を安定させながら動きを作る傾向があります。
野球の左打席にしても、
右目がピッチャー側にあるため、とにかく見やすいですし
右目でボールを追いかけると距離感も掴みやすかったのでしょう。
また、右目を中心に体の右サイドへ意識を集めて右側を安定させるため
右目から対角線に覗き込むような見方が好きなようです。
そのため、二人で話をするときには
相手が左側にいるように座ることが多く、
スクール形式で座る場合には、教壇に向かって右側に座ります。
そういう体の使い方、目の使い方、意識の使い方なんです。
で、僕はずっと、そのことを気にもせずにいましたが
体のケアをするようになって左右バランスに注意が向き始めました。
ただ、どうもこの左右の偏りは
単なる体だけの話ではなかったようです。
意識が体の右半身に片寄っているということは、なんとなくの印象として
自分というアイデンティティが体の右側だけになっている
ような感じだったんです。
それが最近、体の左サイドにもアイデンティティというか
心の動きが表れ始めているような印象なんです。
今までの自分にはなかった気分や関心の向け方をする
新たな内面の動きが意識にあがります。
結果的に、左サイドに体重をかける機会が増えてきたり
気づいたら左目側から見ていることがあったりもしています。
体の左半分に意識が埋まってきたら、それに伴って
体の使い方としても左サイドが積極的になってきた、ということでしょうか。
なんとも不思議な印象ですが、徐々にバランスが取れてきているようです。
2015年03月09日
鉄は熱いうちに
アウトプットには適切な時期があるようです。
文章を書くことを通じて、そしてセミナーで伝えることを通じて
自分がアウトプットする内容の変化を実感してきましたし、
内容に対する自分自身の納得感も変わっていくものだと感じてきました。
以前は自信を持ってオススメしていたことが
素直には言葉にできなくなったり、
むしろ本質的ではないように思えたりする場合もあります。
だからといって、過去にアウトプットしていたことを
恥ずかしく感じることはありません。
それはそういう時期だったわけですし、
そのアウトプット内容が役に立っていたとも思えますから。
実際、紙面として残るようなものについては
矛盾の内容に心がけながら書いていたり、
役に立つ視点や手法を強調しながら書いていたりしますから、
その内容はいつでも役立つものだと考えています。
「役に立つ」という発想だとアウトプットしやすいのは
それが「大切なこと」ではないからです。
ハッキリとした目的がある場合に、その目的に沿っているか、
…それが「役に立つ」かどうかの判断基準となります。
例えば、人の感情を読み取るという目的があれば、
体の部分を細かく分けて捉える とか、
相手の体の動きを正確に真似してみる とか、
部位ごとに別々の感情が表れているものとして全てを列挙する
とかいった方法や着眼点は、
目的に沿った「役に立つ」方法だといえます。
また、カウンセリングのコミュニケーションにおいては
クライアントの感情を読み取るということも役に立ちます。
感情的なわだかまりを解消することで悩みが楽になる場合が多いからです。
しかし、全てのコミュニケーションにおいて
感情を読み取ることが役に立つかというと、そうではありません。
大群衆の前で演説をして、自分の思いの丈を存分に語る場合だとしたら
一人一人の聴衆の感情を読み取るのは必要ではないでしょう。
むしろ聴衆とは関係なく、自分の思いを全身で表現するほうが役立ちます。
ですから「役に立つ」かどうかという観点は、
目的を明確にした場合にはアウトプットしやすい方法なんです。
同様に、何かの仕組みを客観的に説明するのもアウトプットしやすい。
これは、あくまで「そういうものだ」という話であって
「こういう風にしましょう」という提案ではないからです。
「役に立つ」方法は提案の内容ですが
目的をハッキリさせておけばブレることが少なく、
「〜とは、こういうもの」という仕組みの説明は提案ではないので
矛盾のないようにしておく限り、内容がコロコロ変わることはない。
そういう意味で、役に立つ方法と仕組みの説明は
アウトプットしやすい内容だと感じます。
それに対して、「〜が大切だ」という意見(価値観)や、
価値観に基づいた「だから、こうしたほうがいい」という提案は
僕にとって普遍的なものではありません。
特に、「価値観に従って生きる」といった価値観や
「幸せになる」とか「生きがいを感じる」とかいった価値観は
世間一般では重視されているように見えますが、
そこから離れてしまった僕にとっては、
それらの価値観は納得感のあるものではないんです。
つまり「こういう人生が望ましい」という発想がハッキリしないとしたら
「その目的のためには、これが役立ちます」という提案も
やりずらくなってしまう、ということです。
そのため、「もし幸せになりたいのであれば」とか
「生きがいというものを設定して日々を過ごしたいのであれば」といった
条件節がくっついた形で、
「もしそうなら、こういうのも役立つでしょう」と示唆するのが精一杯になる。
言い方を変えると、「役に立つ」方法の提案の前提となる目的
(例えば、「カウンセリングにおいてクライアントに楽になってもらう」とか
「生きがいを感じられる生活をする」とか)
に対して、
様々な結果を予想してしまって、良いとも悪いともいえなくなってしまう
という感じです。
「こうしたらいいですよ」と素直に提案できないんです。
「こうすると、こういう感情を味わいながら日々を過ごすことになりますよ」と
予測を示すところまでなんです。
目の前の人が「こうなりたい」という目的意識をもって
そのための方法を尋ねてくれる場合にはスムーズです。
相手に合わせて、その人の求めるものに応じてアウトプットを調整できますから。
しかし自分主体で「こういう良い方法がありますよ」、
「こうやるのが大事ですよ」と主張する形のアウトプットとなると、
もう自分の中に信じるべき拠り所がありません。
アウトプットの内容に対して「良い」という評価をしていないんです。
「良い」と思っていないから素直にアウトプットできない。
「良い」と思っていないから「伝えたい!」という熱意もない。
仕組みの説明は「間違っていない」から素直に言えます。
特定の目的のために役立つ方法は
その目的を共有する相手に対してのみのアウトプットなので
相手に合わせたものとして、良し悪しとは無関係に伝えられます。
が、何かを「良い」と思ってアウトプットするのは
もう今の自分には矛盾が出てきてしまいます。
過去を振り返れば、僕も「良い」と思って素直に伝えていた時期があります。
だから「この素晴らしい考え方や方法を多くの人に伝えたい」と思っていました。
そういう想いは必ずしも不変ではありません。
いつ変わるか分からない。
そして、そのような想いを求めている人たちもまた、どこかにいるようです。
ですから、想いは溢れているうちにアウトプットしておくのも
世の中の流れとしては役に立つことなのかもしれません。
あとで振り返って、「あの頃の自分はこんなことを言っていたなぁ」などと
懐かしく感じることもありえるでしょうけれど…。
少なくとも、素直に「良い」と思ってアウトプットできる時期は限られている。
これは実感として強く思う部分です。
もう僕は素直に「これ、良いよ!」とは言いにくくなっています。
素直に自信を持ってオススメして欲しい人には合わないんじゃないかと思います。
申し訳ないですが、そういうものなのではないでしょうか。
文章を書くことを通じて、そしてセミナーで伝えることを通じて
自分がアウトプットする内容の変化を実感してきましたし、
内容に対する自分自身の納得感も変わっていくものだと感じてきました。
以前は自信を持ってオススメしていたことが
素直には言葉にできなくなったり、
むしろ本質的ではないように思えたりする場合もあります。
だからといって、過去にアウトプットしていたことを
恥ずかしく感じることはありません。
それはそういう時期だったわけですし、
そのアウトプット内容が役に立っていたとも思えますから。
実際、紙面として残るようなものについては
矛盾の内容に心がけながら書いていたり、
役に立つ視点や手法を強調しながら書いていたりしますから、
その内容はいつでも役立つものだと考えています。
「役に立つ」という発想だとアウトプットしやすいのは
それが「大切なこと」ではないからです。
ハッキリとした目的がある場合に、その目的に沿っているか、
…それが「役に立つ」かどうかの判断基準となります。
例えば、人の感情を読み取るという目的があれば、
体の部分を細かく分けて捉える とか、
相手の体の動きを正確に真似してみる とか、
部位ごとに別々の感情が表れているものとして全てを列挙する
とかいった方法や着眼点は、
目的に沿った「役に立つ」方法だといえます。
また、カウンセリングのコミュニケーションにおいては
クライアントの感情を読み取るということも役に立ちます。
感情的なわだかまりを解消することで悩みが楽になる場合が多いからです。
しかし、全てのコミュニケーションにおいて
感情を読み取ることが役に立つかというと、そうではありません。
大群衆の前で演説をして、自分の思いの丈を存分に語る場合だとしたら
一人一人の聴衆の感情を読み取るのは必要ではないでしょう。
むしろ聴衆とは関係なく、自分の思いを全身で表現するほうが役立ちます。
ですから「役に立つ」かどうかという観点は、
目的を明確にした場合にはアウトプットしやすい方法なんです。
同様に、何かの仕組みを客観的に説明するのもアウトプットしやすい。
これは、あくまで「そういうものだ」という話であって
「こういう風にしましょう」という提案ではないからです。
「役に立つ」方法は提案の内容ですが
目的をハッキリさせておけばブレることが少なく、
「〜とは、こういうもの」という仕組みの説明は提案ではないので
矛盾のないようにしておく限り、内容がコロコロ変わることはない。
そういう意味で、役に立つ方法と仕組みの説明は
アウトプットしやすい内容だと感じます。
それに対して、「〜が大切だ」という意見(価値観)や、
価値観に基づいた「だから、こうしたほうがいい」という提案は
僕にとって普遍的なものではありません。
特に、「価値観に従って生きる」といった価値観や
「幸せになる」とか「生きがいを感じる」とかいった価値観は
世間一般では重視されているように見えますが、
そこから離れてしまった僕にとっては、
それらの価値観は納得感のあるものではないんです。
つまり「こういう人生が望ましい」という発想がハッキリしないとしたら
「その目的のためには、これが役立ちます」という提案も
やりずらくなってしまう、ということです。
そのため、「もし幸せになりたいのであれば」とか
「生きがいというものを設定して日々を過ごしたいのであれば」といった
条件節がくっついた形で、
「もしそうなら、こういうのも役立つでしょう」と示唆するのが精一杯になる。
言い方を変えると、「役に立つ」方法の提案の前提となる目的
(例えば、「カウンセリングにおいてクライアントに楽になってもらう」とか
「生きがいを感じられる生活をする」とか)
に対して、
様々な結果を予想してしまって、良いとも悪いともいえなくなってしまう
という感じです。
「こうしたらいいですよ」と素直に提案できないんです。
「こうすると、こういう感情を味わいながら日々を過ごすことになりますよ」と
予測を示すところまでなんです。
目の前の人が「こうなりたい」という目的意識をもって
そのための方法を尋ねてくれる場合にはスムーズです。
相手に合わせて、その人の求めるものに応じてアウトプットを調整できますから。
しかし自分主体で「こういう良い方法がありますよ」、
「こうやるのが大事ですよ」と主張する形のアウトプットとなると、
もう自分の中に信じるべき拠り所がありません。
アウトプットの内容に対して「良い」という評価をしていないんです。
「良い」と思っていないから素直にアウトプットできない。
「良い」と思っていないから「伝えたい!」という熱意もない。
仕組みの説明は「間違っていない」から素直に言えます。
特定の目的のために役立つ方法は
その目的を共有する相手に対してのみのアウトプットなので
相手に合わせたものとして、良し悪しとは無関係に伝えられます。
が、何かを「良い」と思ってアウトプットするのは
もう今の自分には矛盾が出てきてしまいます。
過去を振り返れば、僕も「良い」と思って素直に伝えていた時期があります。
だから「この素晴らしい考え方や方法を多くの人に伝えたい」と思っていました。
そういう想いは必ずしも不変ではありません。
いつ変わるか分からない。
そして、そのような想いを求めている人たちもまた、どこかにいるようです。
ですから、想いは溢れているうちにアウトプットしておくのも
世の中の流れとしては役に立つことなのかもしれません。
あとで振り返って、「あの頃の自分はこんなことを言っていたなぁ」などと
懐かしく感じることもありえるでしょうけれど…。
少なくとも、素直に「良い」と思ってアウトプットできる時期は限られている。
これは実感として強く思う部分です。
もう僕は素直に「これ、良いよ!」とは言いにくくなっています。
素直に自信を持ってオススメして欲しい人には合わないんじゃないかと思います。
申し訳ないですが、そういうものなのではないでしょうか。
2015年03月07日
NLP団体いろいろ
NLPのことで質問を受けるケースは多々ありますが、
たまにNLPの団体について聞かれたりもします。
NLPはそれなりに広く普及していて
だからこそ流派のようなものがあるようです。
つまり代表、元締め、総帥、会長…
どんな呼び名がいいかわかりませんが、
とにかく各流派に主宰者がいるわけです。
NLPというのは登録商標であっても
ある程度は一般名詞のように使われるのが現状です。
喩えていうなら、空手にあたるのがNLPで
○○会館、○○流空手のようなものがNLPの各派にあたる感じでしょうか。
歴史的な経緯を見ると、元々NLPというものが開発されていた当初、
そこには様々な人たちが集まっていました。
そのグループの中から、それぞれが独自色を出し始めて
自分でトレーニング団体を主宰するようになっていったそうです。
一人でやったり、誰かとコンビを組んだり、と。
そこから、それぞれの主宰者が
NLPの資格発行をする大元としての団体を運営しつつ、
トレーニングも行っているような状況に至っているみたいです。
世界中に目を向ければ、そうした資格発行の大元は色々あるようですが
日本で耳にすることのある団体は限られていると思います。
公平に全てを挙げることはできませんので
質問されることのある団体、主宰者について
個人的な見解を述べてみます。
直接会ったことのある人は限られていますし
「会った」といっても密接な関わりではありませんから、
本や動画、セミナーの様子などから僕が受けた印象に過ぎません。
世間一般で認知されるものとも違う可能性がありますし
ファンの人はご気分を害される場合もあるかもしれませんが、
あくまで個人的な感想としてご了承ください。
まずはNLP共同創始者の一人、リチャード・バンドラーから。
おそらく日本でNLPの資格発行セミナーを開催しているトレーナーが
一番多いのは、このリチャード・バンドラー系ではないでしょうか。
NLPの土台を作った創始者で、様々な手法は
バンドラーがセラピーの達人たちをモデリングして作ったと言われます。
自由で型破りなスタイルは、ときにワガママとか横柄と見られることもある一方
それこそが「〜しなければならない」というルールに縛られないための
『自由』の見本を示しているとも受け取れそうです。
とにかく「上手い」人だと感じます。
手法も開発しますが、どちらかというと「使う」ほうの人。
圧倒的な技量でNLPを使いこなす達人なのかもしれません。
一方、言葉で何かを詳しく解説するようなことは少なく、
受講生の技術の水準などはコントロールしようとしていない印象です。
見本を示し、体験させて、受講者の人生に大きな好影響を及ぼすほうが
重きを置かれているように見えます。
同じくNLP共同創始者の一人、ジョン・グリンダーは
バンドラーとは雰囲気もスタイルも大きく違うようです。
こちらは紳士的な印象を受けます。
バンドラーがモデリングによって出来るようになった技術を
言語的に解説したのがグリンダーだというような説明は、よく耳にします。
ある時期から「ニューコードNLP」という名称で
バンドラーのNLPとは一線を画したものを伝えています。
NLPという定義を非常に大切にしていて
「これこそNLPだ」、「それはNLPではない」といった区別を元に
NLPのテクノロジーらしさを強調して手法の開発を進めたように見えます。
ニューコードと呼ばれる部分についても、
NLPとしての視点で人が変化するのに必要な要素を組み入れて
手法そのものが持っている効果を高めていると感じます。
バンドラーとグリンダーは、その方針の違いから別々の活動を始めました。
そしてバンドラー側で、NLPを詳しく解説するのに貢献したといわれるのが
クリスティーナ・ホールです。
最終的にバンドラーとも分かれて独自路線となったものの
団体の名称として使われる「米国NLP協会(The Society of NLP)」は
バンドラーと共有して使われているようです。
(実際には源流はクリスティーナ・ホール側だと聞きます)
古くからNLPの開発に携わっていたこともあり
「NLPらしさ」のようなものを至るところに感じさせる印象を受けます。
スウィッシュなどの有名な手法も開発した人だそうですが、
伝え方やトレーニングの構造といったところに
思い入れの強さがあるように見受けられます。
少しでも学習の効果が高まるように、
少しでも多くの参加者が覚えられるように、
少しでも多くの気づきが得られるように、
…様々な工夫を妥協なく取り入れていくスタイルだと感じます。
書籍などを見る限り、NLP開発当時に取り入れた背景知識や
心に対する理解の仕方を、そのまま忠実に使っているようにも思えます。
バンドラーは仕組みを言葉で説明しようとしない傾向があるせいか、
次から次へと効果のある方法を開発していますし、それゆえに
常に「最先端の効果的なもの」を目指しているように見えるのに対して、
クリスティーナ・ホールは伝統や土台の部分を大切にするのかもしれません。
個人的には、「伝統的で、いかにもNLPらしい」印象を感じる人です。
またNLP共同開発者と呼ばれることのあるロバート・ディルツは
バンドラーとグリンダーが組織していたNLPの研究グループに参加して
NLPの初期段階から関わっていた中心人物と言われます。
ディルツは数多くのNLPの手法を開発していますし、
過去の天才と呼ばれた人たちをモデリングして
「○○モデル」、「○○ストラテジー」と呼ばれるものを作ってもいます。
グリンダーがNLPの定義に厳密だったのに対して
ディルツは広く新しい『概念』をNLPに持ち込んだ人かもしれません。
つまり「心のモデル」を導入したんです。
「人の心というのは、こういう性質だろう」という見立てを元に
一般論としての着眼点、整理の仕方を提案しています。
(マズローの欲求段階説とか、エリク・エリクソンの発達段階モデルのように
シンプルな図で人の心の特徴を示した、ということ)
ニューロ・ロジカル・レベルは、その典型例です。
誰かの心を説明するときに当てはめて理解できるという点で
多くの人に分かりやすい印象を与えるようで、人気があります。
他にもビリーフと価値観のモデルや、
スライト・オブ・マウスと呼ばれる言語パターンを開発したりと、
汎用的な手法に興味があるようです。
個別の問題解決に役立つ方法というよりも、
「人の心とはこういうもの」、「人の考えを変える言語パターンとはこういうもの」
という具合に、全体的な構造を示すのが好きなように感じられます。
同じくNLPの開発期から研究グループに属していたといわれる
スティーブ・アンドレアス、コニリー・アンドレアス夫妻も
NLPの手法の発展に大きく関わっています。
日本では直接的に資格取得コースへの参加は難しいようですが
DVDの講座か何かがあったと思います。
ディルツが全体的な構造のモデルを作る傾向があったのに対して
アンドレアス夫妻は、とにかく個別の手法を沢山作っています。
とりわけサブモダリティを利用した方法に特徴があります。
例えば、
喪失感を伴う体験があったときに
それを乗り越えた人と、そうでない人はどう違うか
とか
自分を傷つけた人を赦せる人と、そうでない人はどう違うか
とか、
何かを「できる」場合と「できない」場合とを比較して
そのプログラムの違いを調べるようなアプローチが多いようです。
個人の心の中で、内的表象として実際に起こっていることを調べ
その個人の内的表象のパターンに変化を起こす手法ですから、
「プログラムを書き換える」という趣旨に忠実だといえそうです。
細かくいうと、スティーブのほうが
サブモダリティで内的表象を調べて扱う
という傾向が強く、
コニリーのほうがセラピー寄りのアプローチになる傾向が見えます。
日本でも有名なコア・トランスフォーメーションという手法は
コニリー・アンドレアスが開発したセラピー的な方法です。
NLPの視点で人のプログラムを理解して
人のプログラムが変化するための方法を編み出す
というNLPの研究者たちが開発期にやろうとしていたことを地道に続けて
その知見と技法を蓄積してきた人たちのように思えます。
アンドレアス夫妻の主宰する団体のトレーニングは
受講生本人がNLPを使いこなせるようになるところに主眼があるようで
他者を援助する立場よりも、本人の変化・体験が重視されるように見えます。
それに対して、タッド・ジェームスの主宰団体では
NLPを使って他者の変容に関わるという立場が強調される印象を受けます。
タッド・ジェームスはNLPの開発メンバーというよりも
最初にNLPを受講して、マスタートレーナーになった人だと聞いたことがあります。
タイムライン・セラピーという手法を開発したり、
催眠の協会もやっていたりと、広く活動をしているトレーナーです。
個人的に印象的なのは、受講生がプロとして活動することを想定して
その人たちの実生活のために役立つことまで考慮して
非常に現実的なトレーニングを行っている、というところでしょうか。
アメリカは訴訟の多い社会ですから、訴えられない工夫はとても重要です。
ですから、NLPの手法の手順においても、注意事項の説明や
「これから体の一部に触れますが、よろしいですか?」などと
許可をとっていくプロセスのように、
NLPの実践者がプロとしてワークをするときの立場を安全にしているようです。
またセッションの組み立て方や、クライアントとの契約面などまで考慮して
受講者がプロとして活動するための方法も盛り込まれている印象です。
トレーナーの育成ともなれば、講座の運営の仕方、質問の受け方など
とても緻密に計算された注意点を沢山教えてくれるみたいです。
これはある意味で、とても受講生に対して親切で
全ての受講生が講座を修了したときには
一定レベルの品質が保証されるような仕組みだと考えられます。
NLPの実践者たちが安定した高品質となれるように
現実的で緻密なトレーニングを提供している、
というのが大きな特徴かもしれません。
色々なスタンスがあると思いますが、日本で講座を受ける場合には
さらに日本人のトレーナー、日本の団体の個性も出てくるものですから、
自分に合った感じのするところで受講するのが良いのかもしれません。
繰り返しますが、あくまで主観的な印象ですので
ご意見の違うところもあるかと思いますが、そこはご了承ください。
たまにNLPの団体について聞かれたりもします。
NLPはそれなりに広く普及していて
だからこそ流派のようなものがあるようです。
つまり代表、元締め、総帥、会長…
どんな呼び名がいいかわかりませんが、
とにかく各流派に主宰者がいるわけです。
NLPというのは登録商標であっても
ある程度は一般名詞のように使われるのが現状です。
喩えていうなら、空手にあたるのがNLPで
○○会館、○○流空手のようなものがNLPの各派にあたる感じでしょうか。
歴史的な経緯を見ると、元々NLPというものが開発されていた当初、
そこには様々な人たちが集まっていました。
そのグループの中から、それぞれが独自色を出し始めて
自分でトレーニング団体を主宰するようになっていったそうです。
一人でやったり、誰かとコンビを組んだり、と。
そこから、それぞれの主宰者が
NLPの資格発行をする大元としての団体を運営しつつ、
トレーニングも行っているような状況に至っているみたいです。
世界中に目を向ければ、そうした資格発行の大元は色々あるようですが
日本で耳にすることのある団体は限られていると思います。
公平に全てを挙げることはできませんので
質問されることのある団体、主宰者について
個人的な見解を述べてみます。
直接会ったことのある人は限られていますし
「会った」といっても密接な関わりではありませんから、
本や動画、セミナーの様子などから僕が受けた印象に過ぎません。
世間一般で認知されるものとも違う可能性がありますし
ファンの人はご気分を害される場合もあるかもしれませんが、
あくまで個人的な感想としてご了承ください。
まずはNLP共同創始者の一人、リチャード・バンドラーから。
おそらく日本でNLPの資格発行セミナーを開催しているトレーナーが
一番多いのは、このリチャード・バンドラー系ではないでしょうか。
NLPの土台を作った創始者で、様々な手法は
バンドラーがセラピーの達人たちをモデリングして作ったと言われます。
自由で型破りなスタイルは、ときにワガママとか横柄と見られることもある一方
それこそが「〜しなければならない」というルールに縛られないための
『自由』の見本を示しているとも受け取れそうです。
とにかく「上手い」人だと感じます。
手法も開発しますが、どちらかというと「使う」ほうの人。
圧倒的な技量でNLPを使いこなす達人なのかもしれません。
一方、言葉で何かを詳しく解説するようなことは少なく、
受講生の技術の水準などはコントロールしようとしていない印象です。
見本を示し、体験させて、受講者の人生に大きな好影響を及ぼすほうが
重きを置かれているように見えます。
同じくNLP共同創始者の一人、ジョン・グリンダーは
バンドラーとは雰囲気もスタイルも大きく違うようです。
こちらは紳士的な印象を受けます。
バンドラーがモデリングによって出来るようになった技術を
言語的に解説したのがグリンダーだというような説明は、よく耳にします。
ある時期から「ニューコードNLP」という名称で
バンドラーのNLPとは一線を画したものを伝えています。
NLPという定義を非常に大切にしていて
「これこそNLPだ」、「それはNLPではない」といった区別を元に
NLPのテクノロジーらしさを強調して手法の開発を進めたように見えます。
ニューコードと呼ばれる部分についても、
NLPとしての視点で人が変化するのに必要な要素を組み入れて
手法そのものが持っている効果を高めていると感じます。
バンドラーとグリンダーは、その方針の違いから別々の活動を始めました。
そしてバンドラー側で、NLPを詳しく解説するのに貢献したといわれるのが
クリスティーナ・ホールです。
最終的にバンドラーとも分かれて独自路線となったものの
団体の名称として使われる「米国NLP協会(The Society of NLP)」は
バンドラーと共有して使われているようです。
(実際には源流はクリスティーナ・ホール側だと聞きます)
古くからNLPの開発に携わっていたこともあり
「NLPらしさ」のようなものを至るところに感じさせる印象を受けます。
スウィッシュなどの有名な手法も開発した人だそうですが、
伝え方やトレーニングの構造といったところに
思い入れの強さがあるように見受けられます。
少しでも学習の効果が高まるように、
少しでも多くの参加者が覚えられるように、
少しでも多くの気づきが得られるように、
…様々な工夫を妥協なく取り入れていくスタイルだと感じます。
書籍などを見る限り、NLP開発当時に取り入れた背景知識や
心に対する理解の仕方を、そのまま忠実に使っているようにも思えます。
バンドラーは仕組みを言葉で説明しようとしない傾向があるせいか、
次から次へと効果のある方法を開発していますし、それゆえに
常に「最先端の効果的なもの」を目指しているように見えるのに対して、
クリスティーナ・ホールは伝統や土台の部分を大切にするのかもしれません。
個人的には、「伝統的で、いかにもNLPらしい」印象を感じる人です。
またNLP共同開発者と呼ばれることのあるロバート・ディルツは
バンドラーとグリンダーが組織していたNLPの研究グループに参加して
NLPの初期段階から関わっていた中心人物と言われます。
ディルツは数多くのNLPの手法を開発していますし、
過去の天才と呼ばれた人たちをモデリングして
「○○モデル」、「○○ストラテジー」と呼ばれるものを作ってもいます。
グリンダーがNLPの定義に厳密だったのに対して
ディルツは広く新しい『概念』をNLPに持ち込んだ人かもしれません。
つまり「心のモデル」を導入したんです。
「人の心というのは、こういう性質だろう」という見立てを元に
一般論としての着眼点、整理の仕方を提案しています。
(マズローの欲求段階説とか、エリク・エリクソンの発達段階モデルのように
シンプルな図で人の心の特徴を示した、ということ)
ニューロ・ロジカル・レベルは、その典型例です。
誰かの心を説明するときに当てはめて理解できるという点で
多くの人に分かりやすい印象を与えるようで、人気があります。
他にもビリーフと価値観のモデルや、
スライト・オブ・マウスと呼ばれる言語パターンを開発したりと、
汎用的な手法に興味があるようです。
個別の問題解決に役立つ方法というよりも、
「人の心とはこういうもの」、「人の考えを変える言語パターンとはこういうもの」
という具合に、全体的な構造を示すのが好きなように感じられます。
同じくNLPの開発期から研究グループに属していたといわれる
スティーブ・アンドレアス、コニリー・アンドレアス夫妻も
NLPの手法の発展に大きく関わっています。
日本では直接的に資格取得コースへの参加は難しいようですが
DVDの講座か何かがあったと思います。
ディルツが全体的な構造のモデルを作る傾向があったのに対して
アンドレアス夫妻は、とにかく個別の手法を沢山作っています。
とりわけサブモダリティを利用した方法に特徴があります。
例えば、
喪失感を伴う体験があったときに
それを乗り越えた人と、そうでない人はどう違うか
とか
自分を傷つけた人を赦せる人と、そうでない人はどう違うか
とか、
何かを「できる」場合と「できない」場合とを比較して
そのプログラムの違いを調べるようなアプローチが多いようです。
個人の心の中で、内的表象として実際に起こっていることを調べ
その個人の内的表象のパターンに変化を起こす手法ですから、
「プログラムを書き換える」という趣旨に忠実だといえそうです。
細かくいうと、スティーブのほうが
サブモダリティで内的表象を調べて扱う
という傾向が強く、
コニリーのほうがセラピー寄りのアプローチになる傾向が見えます。
日本でも有名なコア・トランスフォーメーションという手法は
コニリー・アンドレアスが開発したセラピー的な方法です。
NLPの視点で人のプログラムを理解して
人のプログラムが変化するための方法を編み出す
というNLPの研究者たちが開発期にやろうとしていたことを地道に続けて
その知見と技法を蓄積してきた人たちのように思えます。
アンドレアス夫妻の主宰する団体のトレーニングは
受講生本人がNLPを使いこなせるようになるところに主眼があるようで
他者を援助する立場よりも、本人の変化・体験が重視されるように見えます。
それに対して、タッド・ジェームスの主宰団体では
NLPを使って他者の変容に関わるという立場が強調される印象を受けます。
タッド・ジェームスはNLPの開発メンバーというよりも
最初にNLPを受講して、マスタートレーナーになった人だと聞いたことがあります。
タイムライン・セラピーという手法を開発したり、
催眠の協会もやっていたりと、広く活動をしているトレーナーです。
個人的に印象的なのは、受講生がプロとして活動することを想定して
その人たちの実生活のために役立つことまで考慮して
非常に現実的なトレーニングを行っている、というところでしょうか。
アメリカは訴訟の多い社会ですから、訴えられない工夫はとても重要です。
ですから、NLPの手法の手順においても、注意事項の説明や
「これから体の一部に触れますが、よろしいですか?」などと
許可をとっていくプロセスのように、
NLPの実践者がプロとしてワークをするときの立場を安全にしているようです。
またセッションの組み立て方や、クライアントとの契約面などまで考慮して
受講者がプロとして活動するための方法も盛り込まれている印象です。
トレーナーの育成ともなれば、講座の運営の仕方、質問の受け方など
とても緻密に計算された注意点を沢山教えてくれるみたいです。
これはある意味で、とても受講生に対して親切で
全ての受講生が講座を修了したときには
一定レベルの品質が保証されるような仕組みだと考えられます。
NLPの実践者たちが安定した高品質となれるように
現実的で緻密なトレーニングを提供している、
というのが大きな特徴かもしれません。
色々なスタンスがあると思いますが、日本で講座を受ける場合には
さらに日本人のトレーナー、日本の団体の個性も出てくるものですから、
自分に合った感じのするところで受講するのが良いのかもしれません。
繰り返しますが、あくまで主観的な印象ですので
ご意見の違うところもあるかと思いますが、そこはご了承ください。
2015年03月05日
人間らしさ
人間の基本的な能力として
出来事を一連の流れとして振り返って、因果関係を見出す
というパターン認識があります。
これは「一連の出来事を記憶の中に留めておく」という機能と
「出来事の中から典型的なパターンを取りだす」という一般化の能力と
両方によって可能になっていると考えられます。
どんな動物でも「〜すると、…になる」という因果のパターンは学習できますから
例えば「お手をすると、オヤツがもらえる」のような行動は記憶されますが、
人間以外の動物は、ある程度の長さの出来事の流れを記憶として保持するのは
できないと言われています。
何かが引き金(トリガー)になって、パターンとして記憶された因果が
そのトリガーと結びつけられた結果(反応)を呼び起こす。
…これをNLPではアンカーと呼びますが、
つまり全ての動物はアンカーを使っていることになります。
例えば、アンカーによって
「お手」という言葉を聞いたときに
「オヤツをもらったときの満足感」が蘇ってくる
という反応パターンが作られている、と。
ただし、この反応パターンが起こるのは
トリガーとなるものを体験したときに限定されます。
「お手」という言葉を聞いて初めて「オヤツ」のことが思い出されるわけです。
人間でも例えば、どこか懐かしい場所を訪れたら、急に
当時の思い出がよみがえってくる…なんていうことがありますが、
この思い出は、その場所を訪れるまでは全く思い出されていなかったものです。
懐かしい場所というトリガーがあって初めて記憶が連想された、ということ。
このようなアンカーに基づいた連想は全ての動物に共通しているといえます。
そして、環境中にどういうもの(トリガー)があると危険にさらされて
どういうものがあると安全でいられるか、といった学習もなされるはずです。
動くものが視野に入ったら、体の反応として逃げる準備が始まるとか
そういった危機回避の方法が学習されたり、
逆に、こういう景色の場所では警戒を解いても大丈夫だとも学習されたり。
そのようにして行動の仕方や、警戒/安心といった反応の仕方が作られる
ということです。
一方、ある程度の長さの時間分、出来事の流れを記憶して
それを頭の中で再生するということは、どうも人間だけの能力らしいんです。
多分これには言語活動が関わっていると僕は考えていますが
(言語活動の最中に、それに見合った内的表象が再構成される)
とにかく人間特有の能力として、出来事の流れを覚えておく機能があるようだ、と。
そしておそらく、この頭の中で再生される出来事の流れに対しても
パターンを認識して因果関係を抽出する機能が使われるのでしょう。
結果として、過去の出来事を「なぜこうなったか」と捉えるようになる。
解釈が生まれる瞬間です。
詳しくいうと、この一連の流れに対するパターン認識が、
ちょうど動物が環境に対して警戒/安心の反応を引き出すのと同様に、
「こういう状況が続いたら、警戒/安心の反応を出す」
といった形で体の中に自律神経系の働きを引きだして、
どういう状況が続くかによって快・不快の状態が決まるわけです。
そして、その状態が言語的に表現されます。
「こういう状況が続いたら、警戒の反応を出す」という体の状態が
言語的には「こういう状況が続いているのは問題だ」と呼ばれ、
「こういう状況が続いていたら、安心の反応(リラックス)を出す」という状態が
言語的には「こういう状況が続いているのは幸せだ」と呼ばれる
という具合に。
ですから、幸せとか問題というのは
今その場で引き起こされたアンカーによる反応ではなく、
記憶された一連の出来事に対して引き起こされる評価だといえます。
幸せも問題も、今のことについてのものではないんです。
最近の状況として続いている一連のことを記憶から参照して
(少なくとも数秒以上は前の)過去のことに対して
幸せや悩みの気持ちが生まれるんです。
同様に、不安や心配も記憶に対する感情です。
これから起きるであろうことを一連の出来事として予測する。
予測には過去に起きた出来事のパターンを利用します。
そして、まだ起きていない警戒すべき状況が頭の中に作られて
警戒の反応(ストレス応答)が起こる。
その生理状態が「不安」や「心配」といった感情と呼ばれます。
つまり、幸せも悩みも問題も不安も心配も
今その場の体験に基づく感情ではない、ということです。
いってみれば、幸せや悩みは二次的な感情なんです。
そして、幸せや悩みの源泉が記憶された出来事の流れにあるため、
幸せや悩みは人間特有のものだともいえます。
悩むのも幸せを感じるのも、実に人間らしいことのようです。
…まぁ、実生活では感情の呼び名が曖昧ですから
例えば「美味しいものを食べている瞬間に感じる喜び」を
「美味しくて幸せ」と呼ぶ人もいるかもしれません。
ですが細かくいうと、それは
人生が幸せかどうかとは別の種類の感情と考えられます。
「美味しいものを食べられるなんて幸せ」という感情は
一連の状況の流れをもとに生まれていますが、
「美味しい」という喜びそのものは、純粋な体験ですから。
今この瞬間に体験される『喜び』を意識にあげるのと、
記憶された一連の流れに対する評価としての『幸せ』を感じるのは
本質的に全く別のことなんです。
喜びを一次的な感情、幸せを二次的な感情と区別できれば、
今この瞬間の体験として喜びを感じているのか、
一連の状況を思い出して記憶された内容に幸せを感じているのかも
区別ができるようになるはずです。
別に幸せを求めて生きるのなら、そんな区別はいらないかもしれません。
人間らしく幸せを大切にするのも1つのスタンスでしょう。
その一方で、別のスタンスとして
記憶によって引き起こされる悩みや幸せとは無関係に
今この瞬間の喜びを味わい続けていくこともできるようです。
両方のスタンスが無関係だとしたら、
共存することもありえるのかもしれません。
とにかく、幸せも悩みも人間特有のものだという話です。
それをどのように受け止めるかは人それぞれだと思います。
出来事を一連の流れとして振り返って、因果関係を見出す
というパターン認識があります。
これは「一連の出来事を記憶の中に留めておく」という機能と
「出来事の中から典型的なパターンを取りだす」という一般化の能力と
両方によって可能になっていると考えられます。
どんな動物でも「〜すると、…になる」という因果のパターンは学習できますから
例えば「お手をすると、オヤツがもらえる」のような行動は記憶されますが、
人間以外の動物は、ある程度の長さの出来事の流れを記憶として保持するのは
できないと言われています。
何かが引き金(トリガー)になって、パターンとして記憶された因果が
そのトリガーと結びつけられた結果(反応)を呼び起こす。
…これをNLPではアンカーと呼びますが、
つまり全ての動物はアンカーを使っていることになります。
例えば、アンカーによって
「お手」という言葉を聞いたときに
「オヤツをもらったときの満足感」が蘇ってくる
という反応パターンが作られている、と。
ただし、この反応パターンが起こるのは
トリガーとなるものを体験したときに限定されます。
「お手」という言葉を聞いて初めて「オヤツ」のことが思い出されるわけです。
人間でも例えば、どこか懐かしい場所を訪れたら、急に
当時の思い出がよみがえってくる…なんていうことがありますが、
この思い出は、その場所を訪れるまでは全く思い出されていなかったものです。
懐かしい場所というトリガーがあって初めて記憶が連想された、ということ。
このようなアンカーに基づいた連想は全ての動物に共通しているといえます。
そして、環境中にどういうもの(トリガー)があると危険にさらされて
どういうものがあると安全でいられるか、といった学習もなされるはずです。
動くものが視野に入ったら、体の反応として逃げる準備が始まるとか
そういった危機回避の方法が学習されたり、
逆に、こういう景色の場所では警戒を解いても大丈夫だとも学習されたり。
そのようにして行動の仕方や、警戒/安心といった反応の仕方が作られる
ということです。
一方、ある程度の長さの時間分、出来事の流れを記憶して
それを頭の中で再生するということは、どうも人間だけの能力らしいんです。
多分これには言語活動が関わっていると僕は考えていますが
(言語活動の最中に、それに見合った内的表象が再構成される)
とにかく人間特有の能力として、出来事の流れを覚えておく機能があるようだ、と。
そしておそらく、この頭の中で再生される出来事の流れに対しても
パターンを認識して因果関係を抽出する機能が使われるのでしょう。
結果として、過去の出来事を「なぜこうなったか」と捉えるようになる。
解釈が生まれる瞬間です。
詳しくいうと、この一連の流れに対するパターン認識が、
ちょうど動物が環境に対して警戒/安心の反応を引き出すのと同様に、
「こういう状況が続いたら、警戒/安心の反応を出す」
といった形で体の中に自律神経系の働きを引きだして、
どういう状況が続くかによって快・不快の状態が決まるわけです。
そして、その状態が言語的に表現されます。
「こういう状況が続いたら、警戒の反応を出す」という体の状態が
言語的には「こういう状況が続いているのは問題だ」と呼ばれ、
「こういう状況が続いていたら、安心の反応(リラックス)を出す」という状態が
言語的には「こういう状況が続いているのは幸せだ」と呼ばれる
という具合に。
ですから、幸せとか問題というのは
今その場で引き起こされたアンカーによる反応ではなく、
記憶された一連の出来事に対して引き起こされる評価だといえます。
幸せも問題も、今のことについてのものではないんです。
最近の状況として続いている一連のことを記憶から参照して
(少なくとも数秒以上は前の)過去のことに対して
幸せや悩みの気持ちが生まれるんです。
同様に、不安や心配も記憶に対する感情です。
これから起きるであろうことを一連の出来事として予測する。
予測には過去に起きた出来事のパターンを利用します。
そして、まだ起きていない警戒すべき状況が頭の中に作られて
警戒の反応(ストレス応答)が起こる。
その生理状態が「不安」や「心配」といった感情と呼ばれます。
つまり、幸せも悩みも問題も不安も心配も
今その場の体験に基づく感情ではない、ということです。
いってみれば、幸せや悩みは二次的な感情なんです。
そして、幸せや悩みの源泉が記憶された出来事の流れにあるため、
幸せや悩みは人間特有のものだともいえます。
悩むのも幸せを感じるのも、実に人間らしいことのようです。
…まぁ、実生活では感情の呼び名が曖昧ですから
例えば「美味しいものを食べている瞬間に感じる喜び」を
「美味しくて幸せ」と呼ぶ人もいるかもしれません。
ですが細かくいうと、それは
人生が幸せかどうかとは別の種類の感情と考えられます。
「美味しいものを食べられるなんて幸せ」という感情は
一連の状況の流れをもとに生まれていますが、
「美味しい」という喜びそのものは、純粋な体験ですから。
今この瞬間に体験される『喜び』を意識にあげるのと、
記憶された一連の流れに対する評価としての『幸せ』を感じるのは
本質的に全く別のことなんです。
喜びを一次的な感情、幸せを二次的な感情と区別できれば、
今この瞬間の体験として喜びを感じているのか、
一連の状況を思い出して記憶された内容に幸せを感じているのかも
区別ができるようになるはずです。
別に幸せを求めて生きるのなら、そんな区別はいらないかもしれません。
人間らしく幸せを大切にするのも1つのスタンスでしょう。
その一方で、別のスタンスとして
記憶によって引き起こされる悩みや幸せとは無関係に
今この瞬間の喜びを味わい続けていくこともできるようです。
両方のスタンスが無関係だとしたら、
共存することもありえるのかもしれません。
とにかく、幸せも悩みも人間特有のものだという話です。
それをどのように受け止めるかは人それぞれだと思います。
2015年03月02日
オススメのセミナーです
一般財団法人 日本コミュニケーショントレーナー協会で
プレゼンのセミナーが開催されます。
とりあえず一回目は元受講生の方を対象にしているようです。
セミナーの詳細はこちら>>。
講師の神トレーナーは、プレゼンに関して一切の妥協をしない人です。
プレゼンテーションの見本として最高のものを1日中見られます。
もちろんトレーニングも効果的でしょうが、
実際にはトレーナーから影響を受けてしまうものです。
つまり、なんとなく似てしまう、ということ。
だからプレゼンのセミナーではトレーナーが大切なんです。
トレーナー自身がプレゼンテーションを最高のパフォーマンスで
1日中やり続けてくれるからこそ、受講するだけで自然と吸収できる。
技術を練習したい、方法を知りたいというだけであれば
世の中のプレゼンのセミナーは、どれでも役に立つでしょう。
知らない方法を知ることができれば、自分の幅は広がります。
神さんの講座でも技術を練習できますし、
他では教えてくれない手法も沢山紹介されるはずです。
すぐにできるように練習方法を工夫してくれているのもウリの1つだと思います。
ただ、それ以上にお勧めしたい理由が
トレーナー自身が最高のプレゼンをしてくれる
ということなんです。
物凄くこだわってプレゼンをするトレーナーです。
一挙手一投足に意味があります。
無理矢理に作ったような不自然さがありません。
本人の内面を抑え込みながら表面だけ技術で対応するといった
不一致なところもありません。
そして歌手をやっていた経験とも関連していると思われますが、
プレゼンにリズムがあります。
だから、トレーナーの変な癖が移ってしまったり
不自然に大袈裟なことをやるようになってしまったりすることなく、
人それぞれの自然な想いを表現できるようになりやすいんです。
しかもリズムを活かしながら。
そのような点で、とても貴重なセミナーです。
残念ながら今回は受講の条件が限定されているようですが
今後はもっと広い範囲の方が対象になるかもしれません。
ご興味があれば、是非、ご都合をつけてみていただきたいと思います。
お申し込みはこちらからどうぞ。
プレゼンのセミナーが開催されます。
とりあえず一回目は元受講生の方を対象にしているようです。
セミナーの詳細はこちら>>。
講師の神トレーナーは、プレゼンに関して一切の妥協をしない人です。
プレゼンテーションの見本として最高のものを1日中見られます。
もちろんトレーニングも効果的でしょうが、
実際にはトレーナーから影響を受けてしまうものです。
つまり、なんとなく似てしまう、ということ。
だからプレゼンのセミナーではトレーナーが大切なんです。
トレーナー自身がプレゼンテーションを最高のパフォーマンスで
1日中やり続けてくれるからこそ、受講するだけで自然と吸収できる。
技術を練習したい、方法を知りたいというだけであれば
世の中のプレゼンのセミナーは、どれでも役に立つでしょう。
知らない方法を知ることができれば、自分の幅は広がります。
神さんの講座でも技術を練習できますし、
他では教えてくれない手法も沢山紹介されるはずです。
すぐにできるように練習方法を工夫してくれているのもウリの1つだと思います。
ただ、それ以上にお勧めしたい理由が
トレーナー自身が最高のプレゼンをしてくれる
ということなんです。
物凄くこだわってプレゼンをするトレーナーです。
一挙手一投足に意味があります。
無理矢理に作ったような不自然さがありません。
本人の内面を抑え込みながら表面だけ技術で対応するといった
不一致なところもありません。
そして歌手をやっていた経験とも関連していると思われますが、
プレゼンにリズムがあります。
だから、トレーナーの変な癖が移ってしまったり
不自然に大袈裟なことをやるようになってしまったりすることなく、
人それぞれの自然な想いを表現できるようになりやすいんです。
しかもリズムを活かしながら。
そのような点で、とても貴重なセミナーです。
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