2015年05月
2015年05月30日
熟練するほど難しいもの
最近、スペイン語を始めたんですが
つくづく思うことがあります。
『自分が自然にやっていることを他人に指導するのは難しい』。
普段、自分がどうやっているか、全く意識にあげることなくしている作業の
最たるものといえるのが「母国語を話す」ことでしょう。
それを人に教えるのは難しいことなんだろうと思います。
講師は中南米出身の人で、スペイン語を母国語とします。
もちろん教科書は市販のものを使いますが、説明をする際の前提として
全くの初心者がどういう状態なのかを想像さえできないようです。
自分の母国語であるスペイン語を全く知らないというのは
一体どんな感じなのか?
ゼロの状態に戻って想像するのが大変なんだと思います。
どこかしら自分の学習過程を参考にしてしまうというか、
学校で母国語としてスペイン語を習ってきたときの経験が混ざる印象です。
現地の子供に国語としてのスペイン語を教えるような流れが
いろいろなところに見えてきてしまいます。
例えば、最初の段階ということで発音の原則からスタートするわけですが、
そこでもある程度の発話経験が想定されているように思えるんです。
スペイン語の単語のアクセントの位置には3種類あって、
非常に規則的なようです。
といっても、その規則は教科書と本で説明されていたものです。
その先生は、母国語学習者にとって分かりやすい形で整理しなおした様子。
3種類のアクセントの位置によって呼び名があり
(そんなのは初心者にはどうでもいい内容)、
単語の終わりのアルファベットと、アクセントの記号によって決まります。
例えば、最後のアルファベットが母音の場合には
原則的に最後から二番目の母音にアクセントがくる。
(例: flamenco (フラメンコ)、「me :メ」の音にアクセント)
その原則から外れる場合は、記号がついている位置にアクセントが来る。
(例: America (アメリカ)、最後から二番目ではなく「me :メ」の音にアクセント)
それだけのことなんです。
それが分かっていれば「単語が読める」。
大人になってから初学者にとって重要なのは、単語を読めることです。
なぜなら本を使って勉強するから。
文字とセットです。
一方、母国語として身につけるときには、
先に音で単語を知っていることが多いはずです。
「この単語は聞いたことがある。
でも文字に書くと、こういう形になる。
最後の文字が母音なんだから、アクセントは後ろから二番目のはずなのに。
後ろから三番目にアクセントをつけて発音している。
ということは、その位置にアクセント記号をつけて書かないといけないんだ。」
…といった形の理解になります。
音が先に頭の中にあるから、「書き方」のルールが役に立つわけです。
ここに母国語学習者と、外国語学習者の進み方の違いがあります。
母国語学習者は音が先にあるから「書き方」を知りたい。
外国語学習者は何も知らない中で本から学ぶから「読み方」を知りたい。
そのスタンスの違いは、無自覚に言葉を身につけてきた母国語話者には
想像しにくいところなのかもしれません。
(その講師がそういう人、という可能性もありますが…)
無自覚にできてしまっていることを自覚して
それをやったことのない人に伝え、
しくみを理解してもらい、
できるようにトレーニングをする。
…この流れを丁寧に進めるのは工夫が必要なようです。
きっと、日本人が急に日本語の先生になろうとしても大変なはずです。
何から始めていいかも分からないと思います。
適当に分かったつもりになってもらうとか、
少しずつ便利な表現を覚えてもらうだけにするとか、
自己紹介ができる程度を目標に文章を覚えてもらうとか、
中学校の英語でやったのを逆にして「これはペンです」から始めるとか、
そんな感じじゃないでしょうか。
そして結局は日本語を勉強したい外国人向けの教科書や
日本語講師になるための学校に通って教え方を勉強することになる。
伝統的に積み重ねられてきた「教え方」の研究結果を利用でもしないと
プランさえ立てられないぐらいに、日本語に対して無自覚なんです。
しかも、ただ無自覚にできているだけでなく、
「できている」内容が非常に高度なんです。
トレーニング量がとてつもなく多い。
日本人にとっての日本語は、毎日何時間も使うものですから当然です。
仮に一人で家にいて他人と話していない日であっても、
インターネットや本などの文字を通じて日本語が入ってきますし、
テレビをつければ日本語の音が聞こえてきます。
それらを遮断しても考えごとをする頭の中の声は日本語です。
生きている年数分、ずっと日本語のトレーニングを受けているようなものです。
それだけの経験によって高度なことが無自覚にできるようになった人が
経験ゼロの初学者に教えるというのは、差が非常に大きいわけです。
ここにも難しさがあるようです。
経験ゼロの状態を想像するのが難しくなってしまいます。
指導する側からすると、はるか昔の話ですから、思い出すのも大変。
何がどのようにできなかったのかを思い出すのが難しく、
「こうすればいい」という答えはすぐに見つかっても、
その答えが出てくるまでのプロセスは自動的ですから自覚しずらい。
「ああ、そういうときは○○っていうんです」
「その場合は、こうなります」
などと答えが浮かぶ。
それが『自然』だからです。
自然・一般的だと判断されるのは、経験している量が多いから。
経験に基づいて、ただ答えだけが浮かんでくるんです。
どういう仕組みで、どういう考え方のプロセスを通って
その答えに辿り着いたか?なんていう説明はないんです。
言い換えれば、「どうしたらできるようになるか?」の知識は持っていない。
だから膨大なトレーニング量で身につけた高度な技術(=日本語)を
初学者が身につけられるように指導する手段が分からないんだといえます。
日本では伝統的に「技術は見て盗む」なんていう話も耳にします。
師匠は懇切丁寧には教えず、弟子は師匠のやり方を自ら学ぶ。
盗み取るように学ぶしかない、と。
もちろん、それが伝統だったといえば、そういうことなのかもしれませんが
ここには「技術が高度過ぎて、初心者には教えにくい」
という側面も関わっていたのではないかと想像します。
つまり、日本の伝統技能で弟子を取るようになるタイミングが
かなり熟練してきた達人クラスになってからだった、という可能性です。
3年目とか5年目ぐらいの人に教わるわけではないんです。
その道何十年という人を師と仰ぎ、弟子入りする。
全くの素人として、です。
何十年の修行経験を持つ師匠、
経験は全くのゼロという弟子。
ギャップが大きい。
仮に
「自分は師匠に教えてもらえず、身につけるのに苦労した。
そんな必要はない。
もっと効率的に上達してもらったほうがいい。」
と感じて、教えようと思った人がいたとしても
師匠に教わっていないことも加わって、その経験量の差の大きさから
どうやって教えたらいいかが思いつかなかったのではないでしょうか。
教える側と教わる側の技術・経験の差が
効果的に指導できるかどうかにも影響する、という話です。
まとめるなら
・経験だけで自然にできるようになってしまったことを教えるのは難しい
・経験量が豊富で高度なことができるようになってしまった後では
経験量の差が大きい初学者に指導するのは難しい
ということがありそうだ、と。
そう考えると、例えば家庭教師や塾講師であれば、
一切の苦労なく、ろくに勉強もせずに東大に入り、
大学院で数学の研究をしている助手よりも
勉強の方法を工夫しながら膨大な受験勉強をして
苦労の末に志望校に合格した後、今も在学中の大学2年生のほうが
高校生には勉強を教えやすいだろうと思われます。
英語であれば、全くの初心者はアメリカ人に教わるよりも
苦労して英語を身につけた日本人に教わったほうが効果的かもしれません。
セミナーだとか、養成講座だとか、○○学校だとか、
世の中には教えてくれるとこが沢山あります。
目指すところと自分の現状とに合わせて
場所を選ぶのが効果的なのでしょう。
逆に捉えると、もし世間で大人気になることを目指すのだとしたら
必要なのは自らの技術の追求ではなく、
最も人口の多い初学者向けの内容を工夫するために
自分ができるようになったことを振り返って自覚できるようにし、
初学者にとって効果的な学習法を作り上げるほうだ、といえそうです。
つくづく思うことがあります。
『自分が自然にやっていることを他人に指導するのは難しい』。
普段、自分がどうやっているか、全く意識にあげることなくしている作業の
最たるものといえるのが「母国語を話す」ことでしょう。
それを人に教えるのは難しいことなんだろうと思います。
講師は中南米出身の人で、スペイン語を母国語とします。
もちろん教科書は市販のものを使いますが、説明をする際の前提として
全くの初心者がどういう状態なのかを想像さえできないようです。
自分の母国語であるスペイン語を全く知らないというのは
一体どんな感じなのか?
ゼロの状態に戻って想像するのが大変なんだと思います。
どこかしら自分の学習過程を参考にしてしまうというか、
学校で母国語としてスペイン語を習ってきたときの経験が混ざる印象です。
現地の子供に国語としてのスペイン語を教えるような流れが
いろいろなところに見えてきてしまいます。
例えば、最初の段階ということで発音の原則からスタートするわけですが、
そこでもある程度の発話経験が想定されているように思えるんです。
スペイン語の単語のアクセントの位置には3種類あって、
非常に規則的なようです。
といっても、その規則は教科書と本で説明されていたものです。
その先生は、母国語学習者にとって分かりやすい形で整理しなおした様子。
3種類のアクセントの位置によって呼び名があり
(そんなのは初心者にはどうでもいい内容)、
単語の終わりのアルファベットと、アクセントの記号によって決まります。
例えば、最後のアルファベットが母音の場合には
原則的に最後から二番目の母音にアクセントがくる。
(例: flamenco (フラメンコ)、「me :メ」の音にアクセント)
その原則から外れる場合は、記号がついている位置にアクセントが来る。
(例: America (アメリカ)、最後から二番目ではなく「me :メ」の音にアクセント)
それだけのことなんです。
それが分かっていれば「単語が読める」。
大人になってから初学者にとって重要なのは、単語を読めることです。
なぜなら本を使って勉強するから。
文字とセットです。
一方、母国語として身につけるときには、
先に音で単語を知っていることが多いはずです。
「この単語は聞いたことがある。
でも文字に書くと、こういう形になる。
最後の文字が母音なんだから、アクセントは後ろから二番目のはずなのに。
後ろから三番目にアクセントをつけて発音している。
ということは、その位置にアクセント記号をつけて書かないといけないんだ。」
…といった形の理解になります。
音が先に頭の中にあるから、「書き方」のルールが役に立つわけです。
ここに母国語学習者と、外国語学習者の進み方の違いがあります。
母国語学習者は音が先にあるから「書き方」を知りたい。
外国語学習者は何も知らない中で本から学ぶから「読み方」を知りたい。
そのスタンスの違いは、無自覚に言葉を身につけてきた母国語話者には
想像しにくいところなのかもしれません。
(その講師がそういう人、という可能性もありますが…)
無自覚にできてしまっていることを自覚して
それをやったことのない人に伝え、
しくみを理解してもらい、
できるようにトレーニングをする。
…この流れを丁寧に進めるのは工夫が必要なようです。
きっと、日本人が急に日本語の先生になろうとしても大変なはずです。
何から始めていいかも分からないと思います。
適当に分かったつもりになってもらうとか、
少しずつ便利な表現を覚えてもらうだけにするとか、
自己紹介ができる程度を目標に文章を覚えてもらうとか、
中学校の英語でやったのを逆にして「これはペンです」から始めるとか、
そんな感じじゃないでしょうか。
そして結局は日本語を勉強したい外国人向けの教科書や
日本語講師になるための学校に通って教え方を勉強することになる。
伝統的に積み重ねられてきた「教え方」の研究結果を利用でもしないと
プランさえ立てられないぐらいに、日本語に対して無自覚なんです。
しかも、ただ無自覚にできているだけでなく、
「できている」内容が非常に高度なんです。
トレーニング量がとてつもなく多い。
日本人にとっての日本語は、毎日何時間も使うものですから当然です。
仮に一人で家にいて他人と話していない日であっても、
インターネットや本などの文字を通じて日本語が入ってきますし、
テレビをつければ日本語の音が聞こえてきます。
それらを遮断しても考えごとをする頭の中の声は日本語です。
生きている年数分、ずっと日本語のトレーニングを受けているようなものです。
それだけの経験によって高度なことが無自覚にできるようになった人が
経験ゼロの初学者に教えるというのは、差が非常に大きいわけです。
ここにも難しさがあるようです。
経験ゼロの状態を想像するのが難しくなってしまいます。
指導する側からすると、はるか昔の話ですから、思い出すのも大変。
何がどのようにできなかったのかを思い出すのが難しく、
「こうすればいい」という答えはすぐに見つかっても、
その答えが出てくるまでのプロセスは自動的ですから自覚しずらい。
「ああ、そういうときは○○っていうんです」
「その場合は、こうなります」
などと答えが浮かぶ。
それが『自然』だからです。
自然・一般的だと判断されるのは、経験している量が多いから。
経験に基づいて、ただ答えだけが浮かんでくるんです。
どういう仕組みで、どういう考え方のプロセスを通って
その答えに辿り着いたか?なんていう説明はないんです。
言い換えれば、「どうしたらできるようになるか?」の知識は持っていない。
だから膨大なトレーニング量で身につけた高度な技術(=日本語)を
初学者が身につけられるように指導する手段が分からないんだといえます。
日本では伝統的に「技術は見て盗む」なんていう話も耳にします。
師匠は懇切丁寧には教えず、弟子は師匠のやり方を自ら学ぶ。
盗み取るように学ぶしかない、と。
もちろん、それが伝統だったといえば、そういうことなのかもしれませんが
ここには「技術が高度過ぎて、初心者には教えにくい」
という側面も関わっていたのではないかと想像します。
つまり、日本の伝統技能で弟子を取るようになるタイミングが
かなり熟練してきた達人クラスになってからだった、という可能性です。
3年目とか5年目ぐらいの人に教わるわけではないんです。
その道何十年という人を師と仰ぎ、弟子入りする。
全くの素人として、です。
何十年の修行経験を持つ師匠、
経験は全くのゼロという弟子。
ギャップが大きい。
仮に
「自分は師匠に教えてもらえず、身につけるのに苦労した。
そんな必要はない。
もっと効率的に上達してもらったほうがいい。」
と感じて、教えようと思った人がいたとしても
師匠に教わっていないことも加わって、その経験量の差の大きさから
どうやって教えたらいいかが思いつかなかったのではないでしょうか。
教える側と教わる側の技術・経験の差が
効果的に指導できるかどうかにも影響する、という話です。
まとめるなら
・経験だけで自然にできるようになってしまったことを教えるのは難しい
・経験量が豊富で高度なことができるようになってしまった後では
経験量の差が大きい初学者に指導するのは難しい
ということがありそうだ、と。
そう考えると、例えば家庭教師や塾講師であれば、
一切の苦労なく、ろくに勉強もせずに東大に入り、
大学院で数学の研究をしている助手よりも
勉強の方法を工夫しながら膨大な受験勉強をして
苦労の末に志望校に合格した後、今も在学中の大学2年生のほうが
高校生には勉強を教えやすいだろうと思われます。
英語であれば、全くの初心者はアメリカ人に教わるよりも
苦労して英語を身につけた日本人に教わったほうが効果的かもしれません。
セミナーだとか、養成講座だとか、○○学校だとか、
世の中には教えてくれるとこが沢山あります。
目指すところと自分の現状とに合わせて
場所を選ぶのが効果的なのでしょう。
逆に捉えると、もし世間で大人気になることを目指すのだとしたら
必要なのは自らの技術の追求ではなく、
最も人口の多い初学者向けの内容を工夫するために
自分ができるようになったことを振り返って自覚できるようにし、
初学者にとって効果的な学習法を作り上げるほうだ、といえそうです。
2015年05月27日
許可を取られても…
コーチングの一派を学んだ人に見受けられる質問のパターンに
「気づいたことがあるので、言ってもいいですか?」
という許可を求めるものがあります。
どういう趣旨で教えているのか分かりませんが、
いくらかの危険性を含んだ内容だと感じます。
許可を取るような形の質問をしていることで、「はい」と答えた人は
その内容を聞くことを受け入れた設定になります。
つまり、「いや、やっぱり聞きたくなかった」とは言いにくくなるんです。
「なんでそんなこと言うんですか?」
「なぜそんなことを言われないといけないんですか!」
という返答は許されない形になっている。
しかし、何を言われるか分からないのに
「言ってもいいですか」と許可を求められても
判断の材料が含まれていません。
日常的な礼儀の範囲として、多くの人はそう聞かれたら「はい」と応えます。
へりくだって許可を求められたら、その内容が余程でない限り
許容しようとするような習慣があるものでしょう。
「窓を開けてもいいですか?」
「エアコンの設定を高めにしてもいいですか?」
などと聞かれれば、自分の好みと違っていても
「はい」と答える人が多いはずです。
さらに、「気づいたことがあるので」と前置きをつけられれば
内容が気になって、より「はい」と答えやすくなるともいえます。
そもそも聞く意味が薄い質問だということです。
もしかするとコミュニケーションの流れとして
クライアントが一方的に話をして、コーチ・カウンセラーは傾聴するだけ
という関係性が長きにわたって前提として作られている場合、
その流れを変える意図があったのかもしれません。
あるいは、コーチは話を聞き、質問する人という立場が明確になり
暗黙の関係性として「コーチ側から何かを伝えることはない」ということが
流れの中に組み込まれてしまっている場合も同様です。
(今まではずっと話を聞いているだけでしたが)
「私の側からも発言させていただく流れに変えてもいいですか?」
(今まではずっと質問する人をやってきましたが)
「今だけ、気づいたことをフィードバックする役割に移ってもいいですか?」
そのように流れを変えることへの許可であれば
質問の意図も納得できます。
同様に、カウンセリングであれば最初の段階で
「この時間は完全にあなたのためのものですから、
私は何かを言うのではなく、ただあなたの話を聞きます」
などと趣旨を説明する場合もあります。
その前提で長らく話が進んできた段階で
カウンセラー側からフィードバックをするとなると
事前に説明した趣旨と異なることになりますから、
一言、流れを変えるために許可を取るということは意義があります。
そのような趣旨の質問だとしたら、
その意図が伝わりやすい形で言葉にするほうが明確です。
「ちょっと流れを中断して、この時間だけ
私の側から気づいたことをフィードバックする流れに移ってもいいでしょうか?
もちろん、このまま話を続けたければ、それでも構いません。」
というのであれば許可の意味が高まるでしょう。
仮に、気づいたことを言って相手への影響があることを懸念するなら
その趣旨を明確にしながら許可を取ればいいはずです。
「私の気づいたことをお伝えしようかと思いますが
若干ショッキングなところがあるかもしれません。
あまりショッキングなことは聞きたくないと思うのでしたら言いません。
表現をマイルドにして欲しければ、それも大丈夫です。
どういう形をご希望ですか?」
などでしょうか。
他にも、アイ・メッセージ(“ I ” メッセージ)を強調したい可能性も伺えます。
「あくまで私個人の気づいたことですよ。1つの見方ですよ。」という立場。
であれば、
「お話を聞いていて気づいたことがあります。
私の個人的な受け取り方が関わっていますから、
それが正しいということではありません。
あくまで私はこのような印象を受けた、という程度ですので
違うように感じられたら、そのようにおっしゃってください。
そのほうが私も想像で話を理解しなくて済みますから。」
などと前置きするほうが明確でしょう。
もっとシンプルにするなら
「あくまで聞いている立場として私が感じたことに過ぎませんが」
といってもいいかもしれません。
いずれにせよ、
自分の意図をハッキリさせて
その意図が相手へ明確に伝わるように工夫して表現する、
ということが重要ではないか、という話です。
個人的な経験からすると、
「気づいたことがあるので言ってもいいですか?」
と質問されるケースの多くは、
ストレートに気持ちを言語化するとしたら
「私はあなたの話を、あなたの考えとは違った形で理解しました。
私はそれを言いたいんです。」
といった感じに思えます。
自分の見解を表現したい気持ちが含まれている
という印象を受けることが多かったんです。
「私の意見を表現したい。
でも、コーチ・カウンセラーは自分の意見を押しつけてはいけない。」
そんな気持ちとルールのバランスの中から
便利な前置きとして使われるのが
「気づいたことがあるので言ってもいいですか?」
になるケースがありそうに感じます。
実際、僕はその質問に対して返答したことがあります。
「いやです。やめてください。聞きたくありません。」
と。
まぁ、そんな風に相手の意見を遮るぐらいの状態になるまでには
それ相応の前置きがあったわけですが。
逆にいえば、関係性や信頼が充分にできていれば
コーチ・カウンセラーの見解を聞きたくもなるものだと思います。
わざわざ「私の意見を言ってもいいですか?」という形での
「私も表現したいんです」という気持ちの表現は
前置きするまでもない内容になりえる気がします。
コーチ・カウンセラーは的確なフィードバックをする立場
という関係性や流れを最初から作っておけば、
わざわざ流れを変える許可を取る必要もないわけですから。
あとはフィードバックの際の距離感です。
「私の見方のほうが正しい」
「あなたのケースは、こういうことなのよ」
と意見を押しつける度合いが強くなるのか。
「こういう見方もありませんか?」
「ひょっとして、こんな可能性はありません?」
「こういう気持ちが起きていないか、自分で吟味してもらえません?」
と軽くチェックする程度なのか。
言葉の形として意見の押しつけを避ける言い回し
「〜てもいいですか?」
に頼るよりも、
より重要なのは
意見を押しつけない気持ちから自然と生まれてくる表現のほうでしょう。
言い回しに頼ると、自分が意見を表現したい気持ちにあることを
自覚しにくくなってしまうリスクも高まると思われます。
何のためのフレーズなのかに注意しながら言葉に出すのが
コミュニケーションのポイントの1つだと思うんです。
「気づいたことがあるので、言ってもいいですか?」
という許可を求めるものがあります。
どういう趣旨で教えているのか分かりませんが、
いくらかの危険性を含んだ内容だと感じます。
許可を取るような形の質問をしていることで、「はい」と答えた人は
その内容を聞くことを受け入れた設定になります。
つまり、「いや、やっぱり聞きたくなかった」とは言いにくくなるんです。
「なんでそんなこと言うんですか?」
「なぜそんなことを言われないといけないんですか!」
という返答は許されない形になっている。
しかし、何を言われるか分からないのに
「言ってもいいですか」と許可を求められても
判断の材料が含まれていません。
日常的な礼儀の範囲として、多くの人はそう聞かれたら「はい」と応えます。
へりくだって許可を求められたら、その内容が余程でない限り
許容しようとするような習慣があるものでしょう。
「窓を開けてもいいですか?」
「エアコンの設定を高めにしてもいいですか?」
などと聞かれれば、自分の好みと違っていても
「はい」と答える人が多いはずです。
さらに、「気づいたことがあるので」と前置きをつけられれば
内容が気になって、より「はい」と答えやすくなるともいえます。
そもそも聞く意味が薄い質問だということです。
もしかするとコミュニケーションの流れとして
クライアントが一方的に話をして、コーチ・カウンセラーは傾聴するだけ
という関係性が長きにわたって前提として作られている場合、
その流れを変える意図があったのかもしれません。
あるいは、コーチは話を聞き、質問する人という立場が明確になり
暗黙の関係性として「コーチ側から何かを伝えることはない」ということが
流れの中に組み込まれてしまっている場合も同様です。
(今まではずっと話を聞いているだけでしたが)
「私の側からも発言させていただく流れに変えてもいいですか?」
(今まではずっと質問する人をやってきましたが)
「今だけ、気づいたことをフィードバックする役割に移ってもいいですか?」
そのように流れを変えることへの許可であれば
質問の意図も納得できます。
同様に、カウンセリングであれば最初の段階で
「この時間は完全にあなたのためのものですから、
私は何かを言うのではなく、ただあなたの話を聞きます」
などと趣旨を説明する場合もあります。
その前提で長らく話が進んできた段階で
カウンセラー側からフィードバックをするとなると
事前に説明した趣旨と異なることになりますから、
一言、流れを変えるために許可を取るということは意義があります。
そのような趣旨の質問だとしたら、
その意図が伝わりやすい形で言葉にするほうが明確です。
「ちょっと流れを中断して、この時間だけ
私の側から気づいたことをフィードバックする流れに移ってもいいでしょうか?
もちろん、このまま話を続けたければ、それでも構いません。」
というのであれば許可の意味が高まるでしょう。
仮に、気づいたことを言って相手への影響があることを懸念するなら
その趣旨を明確にしながら許可を取ればいいはずです。
「私の気づいたことをお伝えしようかと思いますが
若干ショッキングなところがあるかもしれません。
あまりショッキングなことは聞きたくないと思うのでしたら言いません。
表現をマイルドにして欲しければ、それも大丈夫です。
どういう形をご希望ですか?」
などでしょうか。
他にも、アイ・メッセージ(“ I ” メッセージ)を強調したい可能性も伺えます。
「あくまで私個人の気づいたことですよ。1つの見方ですよ。」という立場。
であれば、
「お話を聞いていて気づいたことがあります。
私の個人的な受け取り方が関わっていますから、
それが正しいということではありません。
あくまで私はこのような印象を受けた、という程度ですので
違うように感じられたら、そのようにおっしゃってください。
そのほうが私も想像で話を理解しなくて済みますから。」
などと前置きするほうが明確でしょう。
もっとシンプルにするなら
「あくまで聞いている立場として私が感じたことに過ぎませんが」
といってもいいかもしれません。
いずれにせよ、
自分の意図をハッキリさせて
その意図が相手へ明確に伝わるように工夫して表現する、
ということが重要ではないか、という話です。
個人的な経験からすると、
「気づいたことがあるので言ってもいいですか?」
と質問されるケースの多くは、
ストレートに気持ちを言語化するとしたら
「私はあなたの話を、あなたの考えとは違った形で理解しました。
私はそれを言いたいんです。」
といった感じに思えます。
自分の見解を表現したい気持ちが含まれている
という印象を受けることが多かったんです。
「私の意見を表現したい。
でも、コーチ・カウンセラーは自分の意見を押しつけてはいけない。」
そんな気持ちとルールのバランスの中から
便利な前置きとして使われるのが
「気づいたことがあるので言ってもいいですか?」
になるケースがありそうに感じます。
実際、僕はその質問に対して返答したことがあります。
「いやです。やめてください。聞きたくありません。」
と。
まぁ、そんな風に相手の意見を遮るぐらいの状態になるまでには
それ相応の前置きがあったわけですが。
逆にいえば、関係性や信頼が充分にできていれば
コーチ・カウンセラーの見解を聞きたくもなるものだと思います。
わざわざ「私の意見を言ってもいいですか?」という形での
「私も表現したいんです」という気持ちの表現は
前置きするまでもない内容になりえる気がします。
コーチ・カウンセラーは的確なフィードバックをする立場
という関係性や流れを最初から作っておけば、
わざわざ流れを変える許可を取る必要もないわけですから。
あとはフィードバックの際の距離感です。
「私の見方のほうが正しい」
「あなたのケースは、こういうことなのよ」
と意見を押しつける度合いが強くなるのか。
「こういう見方もありませんか?」
「ひょっとして、こんな可能性はありません?」
「こういう気持ちが起きていないか、自分で吟味してもらえません?」
と軽くチェックする程度なのか。
言葉の形として意見の押しつけを避ける言い回し
「〜てもいいですか?」
に頼るよりも、
より重要なのは
意見を押しつけない気持ちから自然と生まれてくる表現のほうでしょう。
言い回しに頼ると、自分が意見を表現したい気持ちにあることを
自覚しにくくなってしまうリスクも高まると思われます。
何のためのフレーズなのかに注意しながら言葉に出すのが
コミュニケーションのポイントの1つだと思うんです。
2015年05月25日
歴史の難しさ
最近ふと、歴史に関する本を読んでみましたが
考えさせられることの多さに驚きました。
僕は大学が理系でしたので、歴史を勉強したのは高校生までです。
暗記科目として項目を覚えることに必死なだけで
ハッキリ言って、ほとんど何も頭に残っていません。
僕の歴史知識は中学校で止まっていると思います。
(そこから忘れていますから、きっと中学生には敵いません)
年号や人名、出来事の名前を覚えるのがやっとで
どういう内容の出来事だったのかとなると相当あやしかったものです。
まぁ、それでもテストの点数は取れるようにしてましたから、
裏を返せば、中学校レベルの歴史の勉強というもの自体が
人類史の「あらすじ」程度だということなのかもしれません。
仮に、世界で起きてきたことを一本の映画に喩えるとしたら
歴史というのは、語る人の着眼点によって物語となりそうです。
出来事は同じだったとしても、その物語をどのように切り取るかは
まさに同じようなテーマを描いた映画が色々あるようなものでしょう。
日本の中学校で勉強する歴史は1つの映画のダイジェスト
といったところのように思えます。
いや、ダイジェストにも満たない「予告編」ぐらいでしょうか。
ともあれ僕にとって歴史というのは、その程度の情報量しかないんです。
その理由のうち最も大きいのは、おそらく情報の処理力でしょう。
中学生が処理できる情報量は決して多くありません。
文章を読解する力もトレーニング中なわけですから
教科書は少ない文字数で幅広い期間を網羅しないといけないわけです。
当然、情報量は減ります。
予告編ぐらいになってしまうのも当然だと感じます。
そんな教科書を読み、内容を覚えるのが精一杯だったんだと思います。
そもそも情報量が少ないので、「いつ何が起きた」という話しかできない。
「誰に、どういう事情があって、それがどのように絡み合って
結果的にどのような経緯で、その出来事に至ったのか?」
というところまでは情報が追いつかないと考えられます。
もしかすると大学生ぐらいになって歴史を勉強すると
そういう詳しいところまで理解できるようになっているのかもしれません。
大学で歴史学を研究するような人たちは、少なくとも
当時の事情を様々な角度から調べて、1つの物語を紡ぐように
色々な編纂をしているのだろうと想像します。
高校生ぐらいだとどうなんでしょう?
僕は歴史に関心がなかったので、授業の内容は
全くといっていいほど記憶にありません。
覚えているのは先生の顔ぐらいです。
授業中にやっていたのは先生の似顔絵描きがメインでしたから
それも無理のないところ。
毎日いろいろな科目の勉強があって、負担の大きい科目とか
進みたい方向性と関係する科目とかを考慮したら、
中学校時点で興味を失った歴史には力を入れるはずもなかったんです。
つまり僕は中学時点で、歴史に関する知識を諦めてしまったわけです。
ところが最近、歴史に関する本を読み直してみたら
得られる情報の質に大きな違いを感じました。
そもそも詳しいんです。
様々な事情が述べられています。
当時の人たちの生活スタイルなども書かれているからこそ
その頃に人々が何を求めていたのかも想像しやすい。
どんなテクノロジーがあって、どんな生活が可能だったのか?
どんな生活の不安定さがあり、何を懸念していたのか?
今では当たり前のことが、昔は全く違っていたはずで、
その当時の事情を把握することなしに
出来事が積み重なって作られる物語としての歴史は
理解のしようもなかったんだと感じられます。
そして最近の僕が、歴史を物語としてイメージしやすかったのは、
理系として勉強したこと、研究者として勉強したことが前提となって、
そのうえに人の心を扱ってきたことや心理学の知識を勉強したことが
加わっているからだろうと思えました。
当時の状況から想像できる心情を思い描きながら読み解くことで
歴史の本が、初めてストーリーになったんです。
やっと出来事が物語になりました。
何があって、何があって…という出来事の羅列ではなく
「どのような気持ちが、その出来事へ向かわせたのか?」
という動機をイメージしやすくなったんです。
同時に、当時の人々の常識や通念ともいえるような発想は知る由もなく、
それ無しに、気持ちを充分に想像することは困難でした。
その前の時代の背景も必要だろうと思えたんです。
いわば、出来事の歴史だけではなく、
人々の感情や考えの歴史も必要になる、という感じ。
ですから、僕が最近になってようやく感じられたのは、
歴史を勉強するには、膨大な周辺情報が必要だろう
ということなんです。
当時の事情を想像できなければならず、
人々の気持ちを想像できなければならない。
中学・高校の自分には、とてもそんな作業はできなかったと思います。
歴史は大人になってからでないと学べないものなのかもしれない
とさえ感じるほどです。
…とはいえ、そう言いきってしまうと
歴史を勉強し始められるタイミングが限定されてしまいます。
学問の世界で歴史をやる人は、早いうちから興味を持つわけですから
中学校で歴史をやるのも、「歴史学の歴史」を継続させるうえでは
必要不可欠なところだとも思えます。
ただ個人的に、歴史は非常に難しく感じられます。
目の前にいる人の気持ちを想像するのだって大変なのに、
全く知るよしもない過去の人を想像しないといけないのですから。
考えさせられることの多さに驚きました。
僕は大学が理系でしたので、歴史を勉強したのは高校生までです。
暗記科目として項目を覚えることに必死なだけで
ハッキリ言って、ほとんど何も頭に残っていません。
僕の歴史知識は中学校で止まっていると思います。
(そこから忘れていますから、きっと中学生には敵いません)
年号や人名、出来事の名前を覚えるのがやっとで
どういう内容の出来事だったのかとなると相当あやしかったものです。
まぁ、それでもテストの点数は取れるようにしてましたから、
裏を返せば、中学校レベルの歴史の勉強というもの自体が
人類史の「あらすじ」程度だということなのかもしれません。
仮に、世界で起きてきたことを一本の映画に喩えるとしたら
歴史というのは、語る人の着眼点によって物語となりそうです。
出来事は同じだったとしても、その物語をどのように切り取るかは
まさに同じようなテーマを描いた映画が色々あるようなものでしょう。
日本の中学校で勉強する歴史は1つの映画のダイジェスト
といったところのように思えます。
いや、ダイジェストにも満たない「予告編」ぐらいでしょうか。
ともあれ僕にとって歴史というのは、その程度の情報量しかないんです。
その理由のうち最も大きいのは、おそらく情報の処理力でしょう。
中学生が処理できる情報量は決して多くありません。
文章を読解する力もトレーニング中なわけですから
教科書は少ない文字数で幅広い期間を網羅しないといけないわけです。
当然、情報量は減ります。
予告編ぐらいになってしまうのも当然だと感じます。
そんな教科書を読み、内容を覚えるのが精一杯だったんだと思います。
そもそも情報量が少ないので、「いつ何が起きた」という話しかできない。
「誰に、どういう事情があって、それがどのように絡み合って
結果的にどのような経緯で、その出来事に至ったのか?」
というところまでは情報が追いつかないと考えられます。
もしかすると大学生ぐらいになって歴史を勉強すると
そういう詳しいところまで理解できるようになっているのかもしれません。
大学で歴史学を研究するような人たちは、少なくとも
当時の事情を様々な角度から調べて、1つの物語を紡ぐように
色々な編纂をしているのだろうと想像します。
高校生ぐらいだとどうなんでしょう?
僕は歴史に関心がなかったので、授業の内容は
全くといっていいほど記憶にありません。
覚えているのは先生の顔ぐらいです。
授業中にやっていたのは先生の似顔絵描きがメインでしたから
それも無理のないところ。
毎日いろいろな科目の勉強があって、負担の大きい科目とか
進みたい方向性と関係する科目とかを考慮したら、
中学校時点で興味を失った歴史には力を入れるはずもなかったんです。
つまり僕は中学時点で、歴史に関する知識を諦めてしまったわけです。
ところが最近、歴史に関する本を読み直してみたら
得られる情報の質に大きな違いを感じました。
そもそも詳しいんです。
様々な事情が述べられています。
当時の人たちの生活スタイルなども書かれているからこそ
その頃に人々が何を求めていたのかも想像しやすい。
どんなテクノロジーがあって、どんな生活が可能だったのか?
どんな生活の不安定さがあり、何を懸念していたのか?
今では当たり前のことが、昔は全く違っていたはずで、
その当時の事情を把握することなしに
出来事が積み重なって作られる物語としての歴史は
理解のしようもなかったんだと感じられます。
そして最近の僕が、歴史を物語としてイメージしやすかったのは、
理系として勉強したこと、研究者として勉強したことが前提となって、
そのうえに人の心を扱ってきたことや心理学の知識を勉強したことが
加わっているからだろうと思えました。
当時の状況から想像できる心情を思い描きながら読み解くことで
歴史の本が、初めてストーリーになったんです。
やっと出来事が物語になりました。
何があって、何があって…という出来事の羅列ではなく
「どのような気持ちが、その出来事へ向かわせたのか?」
という動機をイメージしやすくなったんです。
同時に、当時の人々の常識や通念ともいえるような発想は知る由もなく、
それ無しに、気持ちを充分に想像することは困難でした。
その前の時代の背景も必要だろうと思えたんです。
いわば、出来事の歴史だけではなく、
人々の感情や考えの歴史も必要になる、という感じ。
ですから、僕が最近になってようやく感じられたのは、
歴史を勉強するには、膨大な周辺情報が必要だろう
ということなんです。
当時の事情を想像できなければならず、
人々の気持ちを想像できなければならない。
中学・高校の自分には、とてもそんな作業はできなかったと思います。
歴史は大人になってからでないと学べないものなのかもしれない
とさえ感じるほどです。
…とはいえ、そう言いきってしまうと
歴史を勉強し始められるタイミングが限定されてしまいます。
学問の世界で歴史をやる人は、早いうちから興味を持つわけですから
中学校で歴史をやるのも、「歴史学の歴史」を継続させるうえでは
必要不可欠なところだとも思えます。
ただ個人的に、歴史は非常に難しく感じられます。
目の前にいる人の気持ちを想像するのだって大変なのに、
全く知るよしもない過去の人を想像しないといけないのですから。
2015年05月22日
大人気の講師になるには
ある考え方や状態に辿りついて、
それによって気持ちがとても楽になったとします。
「なんだ、こんなことだったんだ!」
「最初からこうやって考えていれば良かった」
そんな印象が生まれる感じ。
そして考えます。
「みんな、こういう風に考えれば楽になれるのに…」と。
それで、その考え方のコツのようなものを柱においた教えを広める。
メッセージとして発信したり、セミナーを開いたり。
しかし、自分の中に結論があったとしても
他の人がその結論に辿り着くかどうかは不明です。
当然、どういうプロセスでその結論に辿り着くかも不明です。
一般的には自分が結論に辿り着いたのと同じプロセスを推奨したり、
結論となる考え方を心がけるように指導したりすることが多いようですが、
その結論に至るタイミングやプロセスに個人差があるわけですから
教えに納得できるまでに要する時間にも差が出てきます。
場合によっては、その個人差の部分で納得ができず
教えに対して不満を感じる人もいるでしょう。
それで不満をキッカケにして離れていけば、どこか別の機会に
その人にあった手法や考え方に出会えるかもしれませんし、
あるいは、もうすっかり気にしなくなったところで、あの考え方が腑に落ちた…
なんていう場合もあるかもしれません。
そんな風に、求めた教えを離れられるだけの元気があれば
必要以上に苦しむこともないと思われます。
「合わない」とか「違う」などと感じたときに離れていけるのは
「自分に役立つものを利用しよう」という、ある意味でのワガママさというか
芯の強さというか、最終的には自分を拠り所にするだけの強さがあるんです。
ある程度の自信がある。
ところが、そもそも結論となる考え方を指導するスタイル
(「こうやって考えれば良いんです」、「こうしていれば大丈夫」といった教えなど)
には、その”答え”の明確さに惹かれる人がも集まりやすい傾向があります。
ハッキリと1つの結論を示してくれたほうが分かりやすいんです。
「それだけやっていれば大丈夫なんだ」と期待しやすいんです。
「これで自分も楽になれるかも…」と、その先に光を見出しやすいんです。
言い換えると、その教えに頼ったり、すがったりしたくなる。
そこだけが希望に見えやすくなる。
「1つの発想として取り入れてみよう」なんていうスタンスの人ではなく、
「そこに頼る以外にはもう他に何もない」といった深刻さや
自分を救ってくれそうな教えにすがりたい気持ちが強い状況の人もいるんです。
そういう状態にある人たちも、タイミングよく結論に納得できたり、
取り組み方が本人に合っていて上手く納得に至れたりすればラッキーでしょう。
また納得できなくても、答えを示してもらうことで希望が生まれ
それによって楽になれる人もいると思います。
それが運の悪いことに、タイミングではなく、取り組みのプロセスも合わず、
納得ができないままに心がけを変えようと取り組み続けている…
といったことが重なると、苦しさばかりが募る可能性があります。
しかも、自信が低めなほうが頼りたい気持ちも強くなりがちなところ、
そういう風に1つの結論を示してくれるところは人気も出るので
他の人たちが「ありがとうございます!やっと気づきました!」などと
納得できて楽になれる様子を目にする機会も多くなるようです。
すると「他の人はあんなに楽になっているのに、なんで私は…?」のように
比較をして自信を更に下げてしまうケースも想像できます。
そもそもタイミングが良かっただけとか、
本人のこれまでの思考パターンと心がけの方向性とが良い相性だっただけとか、
そういう可能性が高いにもかかわらず、自信を下げる要因にしてしまう。
もっといえば、「納得した」、「楽になった」という『良い報告』は
上手くいった人だけがするのであって、
上手くいくまでは報告しない場合も多いわけですから
『良い報告』ばかりが目につくのも自然なことなんです。
しかしながら、すがりたい状況にある人にとっては
これらの『良い報告』の背景が目につきにくいみたいです。
結果として、すがりたいほどの状況の人ほど、
合わなかったときに余計に苦しい思いをする場合があるといえそうです。
1つの考え方や発想が、重要な結論になるのは無理のないことかもしれません。
それだけその人にとっては大きなターニングポイントだったのでしょう。
そして同じような苦しみ方をしてきた人たちにとっても
同様に重要なターニングポイントとなる可能性が高い。
実際に、自分の見出した結論によって楽になる人たちを沢山見てくれば
その内容を自らの教えの柱にすえていくようになるのは自然な流れだと思います。
実際、多くの人に効果があった、ということになりますから。
ただし、
「この結論に納得できたとき、すごく楽になります」
というタイプの教えは、
効果の実感できるタイミングも劇的なんです。
そのタイミングが来れば楽になる。
それまでは悶々とする時期を続けつつ、地道に心がけを続ける。
タイミングや相性には個人差がありますから一概に確率は言えませんが、
喩えるなら、「サイコロを投げて1の目が出たらアタリ」のような印象があります。
一回サイコロを投げただけでアタリが出る人もいれば
何度も投げ続けなくてはならない人もいます。
そして何度も投げ続けるのは根気が要ります。
もしかすると投げ続けているうちに、サイコロの目が変わって
1の目が三面、6の面が三面のように確率が上がっているのかもしれません。
それが日々の心がけの効果として起きている可能性はあります。
しかし、それでも「納得がいくかどうか」という2択で大きな転機を迎える以上、
「アタリ」が出るタイミングまでは、納得がいかないまま続けるしかないんです。
取り組んでみようと思う人は、
そういう性質だということを知っておいたほうが
取り組むプロセスでの苦しさは減らせるかもしれません。
スタンスは明確なんです。
「地道に心がけ続けて、納得するタイミングを待つ」。
なかなかタイミングが訪れずに不満が溜まってくる人もいることでしょう。
そして「私はダメなんでしょうか?」なんて質問したくなったり。
そこに希望を見つけて、すがるように取り組み始めたのに
なかなか楽にならない、というのであれば無理もありません。
そうした苦しい状況に対する教えも、やっぱり明確みたいです。
「考え方の癖がとても強いので、発想が変わるまでには時間がかかります。
諦めないで地道に取り組んでください。」と。
シンプルにいえば、「合わない」んです。
一気にターニングポイントを迎えて楽になるような種類の方針ではなく、
少しずつ楽になっていくような方針のトレーニングであれば
こういうもどかしさは起きにくいものですが、仕方ありません。
「結論となる考え方を先に伝えて、
それが納得いくまで心構えを変えるように取り組む」
というのが、その教えの根幹なんですから。
誰に対しても同じ。
ブレない。
シンプルで明確な方針を出すことによって
相性やタイミングの違いはあっても万人向けにすることができます。
多くの人に対して発信していくには必要なことなんでしょう。
相性とタイミングが合わない人は
「なかなか効果の出ない厄介な人」として見なされます。
合わせるのは、取り組む本人の責任ということです。
目の前のクライアントに合ったやり方で援助するスタンスとは反対なんです。
こちらは、取り組む本人に、カウンセラーが合わせるわけです。
クライアントに合わせるスタンスのカウンセラーであれば
「厄介なクライアント」といった捉えからはしません。
クライアントに合わせた対応が上手くできない自分の技量に注目するでしょう。
個人差に合わせないスタンスを保つからこそ『教え』になって、
教えの根幹となる結論を伝え続けられるんだという話です。
それが万人向けの教えに求められる要素だと感じます。
僕が見たり聞いたりしてきた、多くの人に人気の教えは
ほとんどが、シンプルで明確かつブレないスタンスを取っています。
(「ほとんど」と書きましたが、思いつく範囲では「全て」に思えます)
自覚して決めたスタンスだったのかは分かりませんが
多くの人への影響を考えた場合、ブレない結論が求められるのかもしれません。
それによって気持ちがとても楽になったとします。
「なんだ、こんなことだったんだ!」
「最初からこうやって考えていれば良かった」
そんな印象が生まれる感じ。
そして考えます。
「みんな、こういう風に考えれば楽になれるのに…」と。
それで、その考え方のコツのようなものを柱においた教えを広める。
メッセージとして発信したり、セミナーを開いたり。
しかし、自分の中に結論があったとしても
他の人がその結論に辿り着くかどうかは不明です。
当然、どういうプロセスでその結論に辿り着くかも不明です。
一般的には自分が結論に辿り着いたのと同じプロセスを推奨したり、
結論となる考え方を心がけるように指導したりすることが多いようですが、
その結論に至るタイミングやプロセスに個人差があるわけですから
教えに納得できるまでに要する時間にも差が出てきます。
場合によっては、その個人差の部分で納得ができず
教えに対して不満を感じる人もいるでしょう。
それで不満をキッカケにして離れていけば、どこか別の機会に
その人にあった手法や考え方に出会えるかもしれませんし、
あるいは、もうすっかり気にしなくなったところで、あの考え方が腑に落ちた…
なんていう場合もあるかもしれません。
そんな風に、求めた教えを離れられるだけの元気があれば
必要以上に苦しむこともないと思われます。
「合わない」とか「違う」などと感じたときに離れていけるのは
「自分に役立つものを利用しよう」という、ある意味でのワガママさというか
芯の強さというか、最終的には自分を拠り所にするだけの強さがあるんです。
ある程度の自信がある。
ところが、そもそも結論となる考え方を指導するスタイル
(「こうやって考えれば良いんです」、「こうしていれば大丈夫」といった教えなど)
には、その”答え”の明確さに惹かれる人がも集まりやすい傾向があります。
ハッキリと1つの結論を示してくれたほうが分かりやすいんです。
「それだけやっていれば大丈夫なんだ」と期待しやすいんです。
「これで自分も楽になれるかも…」と、その先に光を見出しやすいんです。
言い換えると、その教えに頼ったり、すがったりしたくなる。
そこだけが希望に見えやすくなる。
「1つの発想として取り入れてみよう」なんていうスタンスの人ではなく、
「そこに頼る以外にはもう他に何もない」といった深刻さや
自分を救ってくれそうな教えにすがりたい気持ちが強い状況の人もいるんです。
そういう状態にある人たちも、タイミングよく結論に納得できたり、
取り組み方が本人に合っていて上手く納得に至れたりすればラッキーでしょう。
また納得できなくても、答えを示してもらうことで希望が生まれ
それによって楽になれる人もいると思います。
それが運の悪いことに、タイミングではなく、取り組みのプロセスも合わず、
納得ができないままに心がけを変えようと取り組み続けている…
といったことが重なると、苦しさばかりが募る可能性があります。
しかも、自信が低めなほうが頼りたい気持ちも強くなりがちなところ、
そういう風に1つの結論を示してくれるところは人気も出るので
他の人たちが「ありがとうございます!やっと気づきました!」などと
納得できて楽になれる様子を目にする機会も多くなるようです。
すると「他の人はあんなに楽になっているのに、なんで私は…?」のように
比較をして自信を更に下げてしまうケースも想像できます。
そもそもタイミングが良かっただけとか、
本人のこれまでの思考パターンと心がけの方向性とが良い相性だっただけとか、
そういう可能性が高いにもかかわらず、自信を下げる要因にしてしまう。
もっといえば、「納得した」、「楽になった」という『良い報告』は
上手くいった人だけがするのであって、
上手くいくまでは報告しない場合も多いわけですから
『良い報告』ばかりが目につくのも自然なことなんです。
しかしながら、すがりたい状況にある人にとっては
これらの『良い報告』の背景が目につきにくいみたいです。
結果として、すがりたいほどの状況の人ほど、
合わなかったときに余計に苦しい思いをする場合があるといえそうです。
1つの考え方や発想が、重要な結論になるのは無理のないことかもしれません。
それだけその人にとっては大きなターニングポイントだったのでしょう。
そして同じような苦しみ方をしてきた人たちにとっても
同様に重要なターニングポイントとなる可能性が高い。
実際に、自分の見出した結論によって楽になる人たちを沢山見てくれば
その内容を自らの教えの柱にすえていくようになるのは自然な流れだと思います。
実際、多くの人に効果があった、ということになりますから。
ただし、
「この結論に納得できたとき、すごく楽になります」
というタイプの教えは、
効果の実感できるタイミングも劇的なんです。
そのタイミングが来れば楽になる。
それまでは悶々とする時期を続けつつ、地道に心がけを続ける。
タイミングや相性には個人差がありますから一概に確率は言えませんが、
喩えるなら、「サイコロを投げて1の目が出たらアタリ」のような印象があります。
一回サイコロを投げただけでアタリが出る人もいれば
何度も投げ続けなくてはならない人もいます。
そして何度も投げ続けるのは根気が要ります。
もしかすると投げ続けているうちに、サイコロの目が変わって
1の目が三面、6の面が三面のように確率が上がっているのかもしれません。
それが日々の心がけの効果として起きている可能性はあります。
しかし、それでも「納得がいくかどうか」という2択で大きな転機を迎える以上、
「アタリ」が出るタイミングまでは、納得がいかないまま続けるしかないんです。
取り組んでみようと思う人は、
そういう性質だということを知っておいたほうが
取り組むプロセスでの苦しさは減らせるかもしれません。
スタンスは明確なんです。
「地道に心がけ続けて、納得するタイミングを待つ」。
なかなかタイミングが訪れずに不満が溜まってくる人もいることでしょう。
そして「私はダメなんでしょうか?」なんて質問したくなったり。
そこに希望を見つけて、すがるように取り組み始めたのに
なかなか楽にならない、というのであれば無理もありません。
そうした苦しい状況に対する教えも、やっぱり明確みたいです。
「考え方の癖がとても強いので、発想が変わるまでには時間がかかります。
諦めないで地道に取り組んでください。」と。
シンプルにいえば、「合わない」んです。
一気にターニングポイントを迎えて楽になるような種類の方針ではなく、
少しずつ楽になっていくような方針のトレーニングであれば
こういうもどかしさは起きにくいものですが、仕方ありません。
「結論となる考え方を先に伝えて、
それが納得いくまで心構えを変えるように取り組む」
というのが、その教えの根幹なんですから。
誰に対しても同じ。
ブレない。
シンプルで明確な方針を出すことによって
相性やタイミングの違いはあっても万人向けにすることができます。
多くの人に対して発信していくには必要なことなんでしょう。
相性とタイミングが合わない人は
「なかなか効果の出ない厄介な人」として見なされます。
合わせるのは、取り組む本人の責任ということです。
目の前のクライアントに合ったやり方で援助するスタンスとは反対なんです。
こちらは、取り組む本人に、カウンセラーが合わせるわけです。
クライアントに合わせるスタンスのカウンセラーであれば
「厄介なクライアント」といった捉えからはしません。
クライアントに合わせた対応が上手くできない自分の技量に注目するでしょう。
個人差に合わせないスタンスを保つからこそ『教え』になって、
教えの根幹となる結論を伝え続けられるんだという話です。
それが万人向けの教えに求められる要素だと感じます。
僕が見たり聞いたりしてきた、多くの人に人気の教えは
ほとんどが、シンプルで明確かつブレないスタンスを取っています。
(「ほとんど」と書きましたが、思いつく範囲では「全て」に思えます)
自覚して決めたスタンスだったのかは分かりませんが
多くの人への影響を考えた場合、ブレない結論が求められるのかもしれません。
2015年05月20日
学習プロセスの狙いを区別する
世の中には『学習』に関して色々な説明があります。
学習を専門に研究をする人もいますし、
学習の仕方についての勉強会などもあるようです。
ただ、その大部分は客観的なように感じられます。
第三者的に学習のプロセスを色々と自分たちで試しながら探究したり
自分の提案する学習方法を他の人たちに試してみたり。
どちらかというと『教育』的な観点から学習を研究している印象でしょうか。
「こういう工夫をすると、学習者の学習効果が上がります」
といったスタンスのように見受けられ、
学習のしくみの工夫や伝え方、トレーニングの仕方の工夫に
主眼が置かれているように思えるんです。
もちろん、それは学習を考える上で重要だと思いますし、
その探究によって得られるメリットも大きいことでしょう。
その一方で、学習者自身の工夫についても
色々と考えられる部分があるような気がします。
中には記憶法の工夫など、学習者側が意図して行うものもありますが
学習者が「どういうことに注意を向けながら取り組むか?」という部分にも
かなり余地があるように思うんです。
例えば、小学生にどのように勉強させるかという一般論だけではなく、
その子供が内面で何をやっているのかによって
努力の仕方にも差があって自然なことではないでしょうか。
とりわけ僕が重要だと思うのは、子供か大人かにかかわらず
「今、自分が学習しているものは、何を狙ったものなのか?」
という自覚です。
今のこの作業、この取り組みは、どういう効果を意図したもので
そのためには何を心がければいいのか?
…このあたりのことを区別できると作業の効率が上がります。
例えば、本来は、繰り返しの練習で少しずつ技術を上達させる狙いのところを
知識として記憶するようなスタンスで取り組んでしまうと、
「そのケースはできるけれども応用力はない」という事態になりかねません。
数学の問題の解法と答えを丸暗記してしまって、
少し数字が変わったり、形が変わったりするだけで分からなくなってしまう、とか。
練習と知識定着は違うんです。
そういった観点で分けてみると、
・技術習得や自己変革のためのトレーニング(練習・行動)
・一般化された知識の暗記
・知識同士の関係性やしくみの理解
あたりの区別は重要でしょう。
これらは、もちろん、さらに細分化されます。
例えば1つ目の項目(トレーニング)については、とにかく練習ということですが
実践形式で経験を積むスタイルもあれば、
技術の一部分を切り出して反復練習を行うドリルのようなもの、
多くの場面に共通して求められる能力を上げるための基礎トレーニング、
…など色々です。
いずれにせよ、自分の中に新たな行動パターン、思考パターンを作るとか、
今までのパターンを変えるとか、そういった趣旨がトレーニングには含まれます。
2つ目の項目(知識の暗記)が、いわゆる「勉強」のイメージに近いかもしれません。
知識には理解も伴いますから、理解と完全に切り分けるのは難しいですが
文法や公式、用語やボキャブラリー、出来事など
とにかく先に丸覚えしてしまったほうが効率的なものもあります。
最後の項目(関係性やしくみの理解)は、学習者本人が納得する部分です。
「そうか」、「なるほど」という感じを伴う。
繋がりがあるほうが覚えやすくもなるものの、作業としては暗記と切り分け
あくまで「納得できるかどうか」を基準とします。
数学的に説明するものもあれば、言葉で説明されるもの、図示されるもの、
経験と結びつけて説明するものなど、納得のプロセスは様々です。
色々と研究されている効果的な学習法も、
この「なるほど」という納得感を高める工夫を含むことが多いようです。
体験学習やディスカッションなどを交えた実習は、
そのプロセスを通じて気づきをもたらし、
それによって体験と知識・理論を結びつけやすくなり
納得感を伴った理解を促すわけです。
知識や理解を提供されないままに体験型の実習だけをして
その後で自ら体験に意味づけをするという種類の理解もありますし、
メタファーによって理解を深める種類の学び方もあります。
知識同士の関係であれ、知識と体験の関係であれ、
体験から導かれる個人的な経験則であれ、
とにかく関連づけを効果的にするのを意図したものだといえます。
これら
・トレーニング
・知識
・理解
の区別を
学習する側が気にしておくと、効果的に学習しやすくなると思われます。
この区別を指導者のほうが自覚していて、
どれを意図した指導内容なのかを言葉にして教えてくれていれば
当然、学習する側も心がけやすくなりますが、
区別してから指導してくれる人は多くないような印象があります。
ただし、純粋に切り分けられないこともありますし、
色々な効果を同時に狙った指導というのもありますから
指導側が明確にするのは難しい場合もあるでしょう。
特に、複数を同時に相手とする場合、
ある人に対しては気づきを通じて理解を深めるようなアプローチをして
ある人には知識だけを提供し、ある人にはその場でトレーニングをする…
なんていう状況も考えられます。
その意味で、学習する側が自ら、その指導内容を区別して
意図をハッキリさせながら学んでいくのも求められるはずです。
例えば、ヨガ教室に行ったとしたら…。
ポーズの種類、形を教わるのは「知識」としてです。
そのポーズを型通りになるよう修正してもらったり、
実際にポーズから得られる状態を実感するのが「トレーニング」。
それぞれのポーズが持つ意味とか、効果とか、理論的な背景を説明してもらい
納得感を持って取り組めるようになるのが「理解」、といったところでしょうか。
実際のヨガのポーズをとっている間にも「トレーニング」効果がありますが、
このヨガ教室が週に一回だとしたら、家に帰って実践することもあるでしょう。
とすると、教室でポーズを習うのは「知識」であって
「トレーニング」は家でする形になるともいえます。
つまり、ヨガ教室でポーズをとって上手くできなくても、
理想の型を知識(頭と体の感覚との両方で)として持って帰れれば、
日々の実践という「トレーニング」を通じて上達したり、
健康度を高めていったりすることは可能なわけです。
必ずしもヨガ教室にいるときに理想的なポーズを取れなくても問題はなく、
教室で上手くできないことにガッカリするとか、
上級者と比較して未熟さにヤル気を失うとか、
そんな必要は全くないんだと気持ちを整理しやすくなるかもしれません。
むしろ、上手くやろうと必死になって、一通りのポーズを覚えきれないよりは
とりあえず知識として一通り持ち帰って、トレーニングは自宅で行うよう
徹底するぐらいのほうが効果は早く実感できることもあるでしょう。
一方、ジムに通って体を鍛える場合であれば
「トレーニング」そのものはジムにいる間が中心になると思われます。
器具の細かい使い方とか、器具の名前とか、筋肉の名前とか
そういった知識はトレーナーに頼れば良いわけですから
知識の比率は低いのではないでしょうか。
逆に、
トレーニングの最中に何を心がけたら効果が上がるのかを「理解」するのは
限られた環境でしかトレーニングできないのですから重要なはずです。
このトレーニング中の心がけを理解したあと
それを「知識」として暗記するのは、メインの意図ではないかもしれません。
理解しながら繰り返しトレーニングをしていれば知識として定着するでしょうが、
それは自然な結果であって、その場でのトレーニング効果を上げるほうが
意図としての優先度は高いだろうと考えられます。
同様に、学校の勉強だって区別が役立ちます。
主に学校の授業中は「理解」が優先されます。
「理解」は、事例や背景、他の知識との関係性で説明されますが
その説明の全てを「知識」として覚えるまでは求められません。
学習には進行度があるので、
その時点で押さえておきたい「知識」が想定されるんです。
ですから理解を元にして重要な部分が「知識」として覚えるポイントになります。
公式であったり、話の要点であったり、名称であったり、手順であったり…。
しかしながら、この「知識」は暗記する必要がありますから
通常は一回の授業を聞いただけでは覚えきるのが困難でしょう。
だから自宅で復習をしたり、予習をしておいて授業を復習代わりに使ったり、
あるいはテスト前に暗記のための時間をとったり、
重要項目の記憶どあいをチェックするための練習問題をやったりして、
反復によって「知識」を定着させていく必要があります。
授業中には、さらに「理解」を深めるための工夫として
重要な「知識」を理解してもらった後に、練習問題や応用問題をやります。
実験や社会見学、調査レポート、実習なども、そのための方法といえます。
知識と経験を結びつけて「理解」を深める。
結果的に知識としての定着も促進されると期待されます。
自分で調べてレポートを書いてくるとか
実験をした後でレポートにまとめるとか、そういった宿題は
「理解」を深める意図を含んでいるということです。
同時に、全ての宿題は「トレーニング」の意図も持ちます。
算数・数学などの問題を解くタイプは典型的なトレーニングです。
これは技術として習得するために、量のトレーニングが求めらます。
解き方を「理解」した時点で、同じような問題を何度もやるのは退屈でしたが
実際のところ、この繰り返し作業によって、問題を解く力が磨かれます。
一問やって解法を理解しただけでは不十分なんです。
算数・数学や、物理・化学の計算問題は、トレーニングが必要なんです。
レポートを書く作業も、文章力、論理力、考察力、情報を整理してまとめる力…
などを身につけるための効果的なトレーニングになっています。
宿題によって「理解」が深まり、重要な「知識」が定着しやすくなるのと同時に、
基礎的な力をつけるためのトレーニングも行っている、と。
ですから、授業中にせよ、家での勉強時間にせよ
様々な狙いの作業が混在していることになります。
これらの意図に優先度を設定しながら取り組むと、
学習効果は高まりやすいと考えられます。
同じ宿題でも、
「理解」を中心に取り組むのか、
「記憶」を促進するためのものなのか、
力をつけるための「トレーニング」なのか、
区別しながら取り組むのが効果的でしょう。
こうした区別が特に重要になるのは、
指導内容が受け継がれていく場合です。
つまり、指導を受けた人が、次に別の誰かに指導する側になるケースです。
このとき、指導を受けた人が指導内容の意図を区別していないと
自分が指導する立場になったときに
元とは違った意図で伝えることになってしまいかねません。
「理解」を目的に指導したメタファーが「知識」として受け取られ、
いつの間にか「知識」として引き継がれていってしまったり。
いつか役に立つかもしれない「知識」として伝えておいたものが
日々心がけるべき重要な行動指針として「トレーニング」に使われたり。
伝統的な教えほど、
そうした意図の混乱が含まれている可能性も高まると想像できます。
例えば…、
体験として「理解」されるはずだった『一体感(ワンネス)』が
「知識」として広まった、とか
ある大事なことを「理解」するための伝達手段だった『瞑想』が
修行や心がけのための「トレーニング」手段になった、とか
同じ道を進む者への道案内や予告として語られた「知識」としての『今ここ』が
望ましい生き方をするための心構えという「トレーニング」に使われだした、とか
そんなこともあったかもしれません。
今となっては最初の教えに触れることもできませんから分かりようもないですが、
意図を自覚しないままに情報だけを引き継いだ時点が含まれていたとしたら
元々の指導内容とは狙いが変わってしまいかねないんです。
学習する側が自ら指導内容の意図を汲み取りなおす。
そして区別しながら役立てていく。
意図を質問することもできない場合には
学習者自身が気にかける必要のある部分のような気がします。
学習を専門に研究をする人もいますし、
学習の仕方についての勉強会などもあるようです。
ただ、その大部分は客観的なように感じられます。
第三者的に学習のプロセスを色々と自分たちで試しながら探究したり
自分の提案する学習方法を他の人たちに試してみたり。
どちらかというと『教育』的な観点から学習を研究している印象でしょうか。
「こういう工夫をすると、学習者の学習効果が上がります」
といったスタンスのように見受けられ、
学習のしくみの工夫や伝え方、トレーニングの仕方の工夫に
主眼が置かれているように思えるんです。
もちろん、それは学習を考える上で重要だと思いますし、
その探究によって得られるメリットも大きいことでしょう。
その一方で、学習者自身の工夫についても
色々と考えられる部分があるような気がします。
中には記憶法の工夫など、学習者側が意図して行うものもありますが
学習者が「どういうことに注意を向けながら取り組むか?」という部分にも
かなり余地があるように思うんです。
例えば、小学生にどのように勉強させるかという一般論だけではなく、
その子供が内面で何をやっているのかによって
努力の仕方にも差があって自然なことではないでしょうか。
とりわけ僕が重要だと思うのは、子供か大人かにかかわらず
「今、自分が学習しているものは、何を狙ったものなのか?」
という自覚です。
今のこの作業、この取り組みは、どういう効果を意図したもので
そのためには何を心がければいいのか?
…このあたりのことを区別できると作業の効率が上がります。
例えば、本来は、繰り返しの練習で少しずつ技術を上達させる狙いのところを
知識として記憶するようなスタンスで取り組んでしまうと、
「そのケースはできるけれども応用力はない」という事態になりかねません。
数学の問題の解法と答えを丸暗記してしまって、
少し数字が変わったり、形が変わったりするだけで分からなくなってしまう、とか。
練習と知識定着は違うんです。
そういった観点で分けてみると、
・技術習得や自己変革のためのトレーニング(練習・行動)
・一般化された知識の暗記
・知識同士の関係性やしくみの理解
あたりの区別は重要でしょう。
これらは、もちろん、さらに細分化されます。
例えば1つ目の項目(トレーニング)については、とにかく練習ということですが
実践形式で経験を積むスタイルもあれば、
技術の一部分を切り出して反復練習を行うドリルのようなもの、
多くの場面に共通して求められる能力を上げるための基礎トレーニング、
…など色々です。
いずれにせよ、自分の中に新たな行動パターン、思考パターンを作るとか、
今までのパターンを変えるとか、そういった趣旨がトレーニングには含まれます。
2つ目の項目(知識の暗記)が、いわゆる「勉強」のイメージに近いかもしれません。
知識には理解も伴いますから、理解と完全に切り分けるのは難しいですが
文法や公式、用語やボキャブラリー、出来事など
とにかく先に丸覚えしてしまったほうが効率的なものもあります。
最後の項目(関係性やしくみの理解)は、学習者本人が納得する部分です。
「そうか」、「なるほど」という感じを伴う。
繋がりがあるほうが覚えやすくもなるものの、作業としては暗記と切り分け
あくまで「納得できるかどうか」を基準とします。
数学的に説明するものもあれば、言葉で説明されるもの、図示されるもの、
経験と結びつけて説明するものなど、納得のプロセスは様々です。
色々と研究されている効果的な学習法も、
この「なるほど」という納得感を高める工夫を含むことが多いようです。
体験学習やディスカッションなどを交えた実習は、
そのプロセスを通じて気づきをもたらし、
それによって体験と知識・理論を結びつけやすくなり
納得感を伴った理解を促すわけです。
知識や理解を提供されないままに体験型の実習だけをして
その後で自ら体験に意味づけをするという種類の理解もありますし、
メタファーによって理解を深める種類の学び方もあります。
知識同士の関係であれ、知識と体験の関係であれ、
体験から導かれる個人的な経験則であれ、
とにかく関連づけを効果的にするのを意図したものだといえます。
これら
・トレーニング
・知識
・理解
の区別を
学習する側が気にしておくと、効果的に学習しやすくなると思われます。
この区別を指導者のほうが自覚していて、
どれを意図した指導内容なのかを言葉にして教えてくれていれば
当然、学習する側も心がけやすくなりますが、
区別してから指導してくれる人は多くないような印象があります。
ただし、純粋に切り分けられないこともありますし、
色々な効果を同時に狙った指導というのもありますから
指導側が明確にするのは難しい場合もあるでしょう。
特に、複数を同時に相手とする場合、
ある人に対しては気づきを通じて理解を深めるようなアプローチをして
ある人には知識だけを提供し、ある人にはその場でトレーニングをする…
なんていう状況も考えられます。
その意味で、学習する側が自ら、その指導内容を区別して
意図をハッキリさせながら学んでいくのも求められるはずです。
例えば、ヨガ教室に行ったとしたら…。
ポーズの種類、形を教わるのは「知識」としてです。
そのポーズを型通りになるよう修正してもらったり、
実際にポーズから得られる状態を実感するのが「トレーニング」。
それぞれのポーズが持つ意味とか、効果とか、理論的な背景を説明してもらい
納得感を持って取り組めるようになるのが「理解」、といったところでしょうか。
実際のヨガのポーズをとっている間にも「トレーニング」効果がありますが、
このヨガ教室が週に一回だとしたら、家に帰って実践することもあるでしょう。
とすると、教室でポーズを習うのは「知識」であって
「トレーニング」は家でする形になるともいえます。
つまり、ヨガ教室でポーズをとって上手くできなくても、
理想の型を知識(頭と体の感覚との両方で)として持って帰れれば、
日々の実践という「トレーニング」を通じて上達したり、
健康度を高めていったりすることは可能なわけです。
必ずしもヨガ教室にいるときに理想的なポーズを取れなくても問題はなく、
教室で上手くできないことにガッカリするとか、
上級者と比較して未熟さにヤル気を失うとか、
そんな必要は全くないんだと気持ちを整理しやすくなるかもしれません。
むしろ、上手くやろうと必死になって、一通りのポーズを覚えきれないよりは
とりあえず知識として一通り持ち帰って、トレーニングは自宅で行うよう
徹底するぐらいのほうが効果は早く実感できることもあるでしょう。
一方、ジムに通って体を鍛える場合であれば
「トレーニング」そのものはジムにいる間が中心になると思われます。
器具の細かい使い方とか、器具の名前とか、筋肉の名前とか
そういった知識はトレーナーに頼れば良いわけですから
知識の比率は低いのではないでしょうか。
逆に、
トレーニングの最中に何を心がけたら効果が上がるのかを「理解」するのは
限られた環境でしかトレーニングできないのですから重要なはずです。
このトレーニング中の心がけを理解したあと
それを「知識」として暗記するのは、メインの意図ではないかもしれません。
理解しながら繰り返しトレーニングをしていれば知識として定着するでしょうが、
それは自然な結果であって、その場でのトレーニング効果を上げるほうが
意図としての優先度は高いだろうと考えられます。
同様に、学校の勉強だって区別が役立ちます。
主に学校の授業中は「理解」が優先されます。
「理解」は、事例や背景、他の知識との関係性で説明されますが
その説明の全てを「知識」として覚えるまでは求められません。
学習には進行度があるので、
その時点で押さえておきたい「知識」が想定されるんです。
ですから理解を元にして重要な部分が「知識」として覚えるポイントになります。
公式であったり、話の要点であったり、名称であったり、手順であったり…。
しかしながら、この「知識」は暗記する必要がありますから
通常は一回の授業を聞いただけでは覚えきるのが困難でしょう。
だから自宅で復習をしたり、予習をしておいて授業を復習代わりに使ったり、
あるいはテスト前に暗記のための時間をとったり、
重要項目の記憶どあいをチェックするための練習問題をやったりして、
反復によって「知識」を定着させていく必要があります。
授業中には、さらに「理解」を深めるための工夫として
重要な「知識」を理解してもらった後に、練習問題や応用問題をやります。
実験や社会見学、調査レポート、実習なども、そのための方法といえます。
知識と経験を結びつけて「理解」を深める。
結果的に知識としての定着も促進されると期待されます。
自分で調べてレポートを書いてくるとか
実験をした後でレポートにまとめるとか、そういった宿題は
「理解」を深める意図を含んでいるということです。
同時に、全ての宿題は「トレーニング」の意図も持ちます。
算数・数学などの問題を解くタイプは典型的なトレーニングです。
これは技術として習得するために、量のトレーニングが求めらます。
解き方を「理解」した時点で、同じような問題を何度もやるのは退屈でしたが
実際のところ、この繰り返し作業によって、問題を解く力が磨かれます。
一問やって解法を理解しただけでは不十分なんです。
算数・数学や、物理・化学の計算問題は、トレーニングが必要なんです。
レポートを書く作業も、文章力、論理力、考察力、情報を整理してまとめる力…
などを身につけるための効果的なトレーニングになっています。
宿題によって「理解」が深まり、重要な「知識」が定着しやすくなるのと同時に、
基礎的な力をつけるためのトレーニングも行っている、と。
ですから、授業中にせよ、家での勉強時間にせよ
様々な狙いの作業が混在していることになります。
これらの意図に優先度を設定しながら取り組むと、
学習効果は高まりやすいと考えられます。
同じ宿題でも、
「理解」を中心に取り組むのか、
「記憶」を促進するためのものなのか、
力をつけるための「トレーニング」なのか、
区別しながら取り組むのが効果的でしょう。
こうした区別が特に重要になるのは、
指導内容が受け継がれていく場合です。
つまり、指導を受けた人が、次に別の誰かに指導する側になるケースです。
このとき、指導を受けた人が指導内容の意図を区別していないと
自分が指導する立場になったときに
元とは違った意図で伝えることになってしまいかねません。
「理解」を目的に指導したメタファーが「知識」として受け取られ、
いつの間にか「知識」として引き継がれていってしまったり。
いつか役に立つかもしれない「知識」として伝えておいたものが
日々心がけるべき重要な行動指針として「トレーニング」に使われたり。
伝統的な教えほど、
そうした意図の混乱が含まれている可能性も高まると想像できます。
例えば…、
体験として「理解」されるはずだった『一体感(ワンネス)』が
「知識」として広まった、とか
ある大事なことを「理解」するための伝達手段だった『瞑想』が
修行や心がけのための「トレーニング」手段になった、とか
同じ道を進む者への道案内や予告として語られた「知識」としての『今ここ』が
望ましい生き方をするための心構えという「トレーニング」に使われだした、とか
そんなこともあったかもしれません。
今となっては最初の教えに触れることもできませんから分かりようもないですが、
意図を自覚しないままに情報だけを引き継いだ時点が含まれていたとしたら
元々の指導内容とは狙いが変わってしまいかねないんです。
学習する側が自ら指導内容の意図を汲み取りなおす。
そして区別しながら役立てていく。
意図を質問することもできない場合には
学習者自身が気にかける必要のある部分のような気がします。
2015年05月18日
「このブログを読むだけで…!」
世間には様々なCMがあります。
その多くは、とても消費者にとって都合の良いメッセージを含みます。
「〜するだけで…になれる!」とか
「わずか〜で…になれる!」とか。
少ない労力、
小さな精神的負担、
短い時間。
…このあたりがカギになるようです。
語学であれば、
「聞き流すだけで英語が話せるようになる」
といったものや
「一日わずか○○分のトレーニングを△△か月続けるだけで
英語がペラペラになる」
といったもの。
ダイエットであれば
「一日一食分を○○に替えるだけで痩せられる」とか
「一日たった○○分のトレーニングで△△か月後には平均〜kg減」とか
「これを食事の前に取るだけで、カロリーの吸収を抑えてダイエット効果」とか。
健康面だと
「たったこれだけの体操で肩こりが治る」、
「腰痛は○○をほぐすだけで治る」、
「○○を食べるだけで病気にならない」、
…などでしょうか。
どうやら、
自分の好きなものを我慢することもなく、
きついトレーニングをするでもなく、
そのために時間をかけるでもなく、
ほんのチョット、普段の生活に追加するだけで効果が出る
という趣旨のものが多いようです。
こうした謳い文句に反応する消費者が多いからこそ
これらを広告に使った商品・サービスが沢山あると思われますが、
一方で、こういうメッセージに反発を覚える人たちもいます。
「たったそれだけのことで、そんな効果が出るわけがない」
「それだけで大丈夫だなんて言えるほど一般化はできない」
「結局、自分でどれだけ変えられるかが大事」
のように感じて、大袈裟で都合の良すぎる広告に不快感が起きる。
「本当は〜なのに!」という残念さ、
広告を真に受けて効果が出なかった場合を心配する気持ち
などがあると見受けられます。
こうした思いを抱くのは専門性の高い人が多く、
自らの専門技術を磨くことへのこだわりが大きくて
技術の到達点としても、サービスの効果としても
高いところを基準としている傾向があるようです。
業界の平均よりも分かっているから見えてしまう。
業界の平均よりも高い基準のものを目指すため
比べてガッカリしてしまう、ということでしょう。
しかしながら、こうした広告や謳い文句は実に効果的なのも実態。
広告を目にして興味を持ち、サービスや商品を購入してみる人たちが
どういう人たちなのかと考えてみると、それは少し納得できる気がします。
まず、広告の範囲が広いほど
あまりその分野に詳しくなく、初めてそれを知ることになるか
あるいは聞いたことはあって少しだけ興味があったぐらいの人たちが
対象になることが関係します。
もし、少しは詳しいとか、以前から少しやっていた(利用していた)とか
前から興味があって知識がそれなりにあるとか
そういった人たちだとしたら、そういう広告をあまり必要としないでしょう。
知識や経験がある人たちは、受け身で広告に反応するケースだけでなく
インターネットや本を通じて自ら情報収集すると考えられます。
ですから、元々興味や知識のある「少し分かっている人たち」を対象とするなら
広告の仕方としては、そうした人たちの目につきやすい手段となるはずです。
関係のある分野の雑誌広告に乗せるとか、
ネット検索の対応をするとか、でしょうか。
わざわざ大々的にテレビCMを流すとしたら、それは対象がそもそも
その分野について詳しくない人たちの目に触れるためだといえます。
かなり入門的な人たちに向けて、大きな広告は作られやすいということです。
ここの「入門的」という部分には、
「本当に初めて」という人が含まれるのはもちろん、
「以前に少しやってみたけど最近は離れてしまっている」人たちも含まれます。
特に、世間的な認知度がすでに高まっていて
世間的には重要だと設定されているもの(例えば、健康や英会話、ダイエットなど)
では、大事らしいことを知識として知っている人が多くいます。
「どうやら(皆が言うから)大事らしい」とは思っているし
興味が全くないわけではないけれど、どうも一歩が踏み出せない。
試しにやってみたこともあるけれど続かなかった。
…そんな人たちが多い分野もあります。
この場合、広告はとりわけ大袈裟になりやすいようです。
つまり、
存在は知っているし興味がないわけでもないけれど踏み出さない人たちに
やってみるための動機づけをする必要があるので、
より興味を引きやすいような工夫をしがちになる、と。
「これまでのものとは違う」
「効果が出やすい」
「負担が少ない」
そのあたりがアピールされやすいのは、
少し興味があるけれど踏み出すのに抵抗のある人たちに
「それだったらやってみようかな」と思ってもらうための工夫だと考えられます。
以前に少しやってみたことがあれば、ことさら
「以前のものとは違う」ことが重要になるでしょうし、
続けられずに断念した人たちや、大変そうだからやらなかった人たちには
「効果が出やすく」「負担が少ない」ことが大きなアピールポイントになります。
「〜するだけで」とか「たった○○で」といった大袈裟な表現は
そのような一歩を踏み出すための動機づけメッセージだということです。
ここのポイントは、そうやって「負担がなく」「短期間で」というアピールが
一歩を踏み出しきれない人の後押しをしている、という部分。
言い換えるなら
「そうでもしなければ、そこまで求めていない」
といった対象なんです。
世間的な認知度が高いものでは特に
「皆が大事だって言うから」という考えが興味を持たせていて
切実な思いで必要性を感じているわけではないケースが大半です。
そんなに必要性がないのですから、
動機がなく、それほど求めていないわけです。
元々それほど求めていない人たちに向けて商品やサービスを提供する。
そのためには大袈裟なアピールが求められる。
そうでもしないと一歩を踏み出さないから、です。
元々それだけ求めていないわけですから
効果としても、それほど切実な期待はないわけです。
ダイエットであれば、まぁ1、2キロでも痩せれば充分。
効果がなかったとしても、「今回もダメだった」となるだけ。
健康面であれば、「病気にならないよう健康に良いことをしている」という
何かをやっていることそのものが重要な場合だってあります。
体の負担であれば、完全に健康的で快適な状態を期待するのではなく
この辛い状態が少しでも戻ってくれれば…ぐらいの想定。
英会話なら、海外旅行で少し使えるぐらいなどでしょうか。
切実な必要性がない状況では、当然、目標とする到達点も不明瞭です。
より正確に表現すれば、到達点を想像することさえできないんです。
健康とは、そもそもどんな状態なのか?
英語がペラペラとは、どういう状態なのか?
予想もついていないものです。
実際には、切実に必要性を感じている人たちでも
到達点の予想はついていないのが自然です。
進んでいくうちに先が見えてきて、現状とのギャップが感じられ始める。
自分がいかに分かっていなかったかを痛感し出すのは、始めてからの話です。
その意味では、目標設定ということ自体が難しいんです。
目標設定で動機づけることがしずらいんです。
一方、切実な必要性を感じている人は、到達目標に動機づけられるのではなく
現状で困っている部分に動機づけられています。
「今のままじゃダメだ」と感じるからこそ切実になる。
切実な必要性がない人(別にそれほど困っていない人)は
おぼろげな良い感じのイメージや憧れの姿だけを頼りな上に、
その曖昧な目標さえも設定基準が低いことになります。
必要性がないということは、
求める基準も低く
その基準のことも想像できていない
状態だといえるんです。
そういう人たちを対象としてサービスや商品を提供していくとしたら
その期待の程度に合わせる必要性があるわけです。
期待を大幅に上回るような基準のサービスや商品は求められておらず、
むしろ「そこまでは別にいいんです…」と言われかねないほどでしょう。
その基準に沿った商品やサービスがあれば、満足できるんだと思われます。
体が少し楽になれば充分。
英会話のフレーズをいくつか覚えられれば充分。
知らなかった知識が増えて、「なるほど!」と思えれば充分。
前よりも少し上手くなれたら充分。
別に、専門家やエキスパート、プロになりたいわけじゃないんです。
プラスアルファの楽しみとか趣味のような形でやりたい人も大勢います。
それほど時間や頻度、負担や労力を費やすつもりはない。
切実ではないのですから、人生全般においての重要度も低いわけです。
そんなに一生懸命に取り組むつもりがないんです。
楽をしたいともいえそうです。
楽をして効果が出るならやる。
効果を出すのが大変なら別に必要ではない。
それぐらいの求め方なんです。
そして、そういう人たちが多い。
そちらが大部分です。
当然、そういう人たちを対象として商品・サービスを提供する人たちも多くなります。
バランスは取れているんでしょう。
「〜するだけで」とか「わずか〜で」などの大袈裟な広告は
そうした大部分の「あまり必要としていない」人たち向けなんだといえます。
このような広告に不快感を覚える人たちは、逆に
必要性を感じて、高い基準を求めている人たちへ
高い基準のサービスを提供したい側だろうと想像できます。
そのような広告に反応する人たちとは、期待している基準が異なっているはずです。
むしろチャンスだってあるのかもしれません。
ある程度の必要性を感じていたけれど、そこまでの動機はなかったという人が
一歩を踏み出してみて、「他のところにも行ってみようかな?」と思い始める…。
そうしたら、もっと違った基準の質でサービスを提供しているところに
目を向け始める可能性があります。
大袈裟な広告に反応して、やっぱり必要ではないから遠ざかる人もいます。
一歩を踏み出してみて、その基準で満足して楽しみ続ける人もいます。
一歩を踏み出してみて、それでは満足できず、他を求め始める人もいます。
一歩を踏み出すための広告は、随分と長く歩いてきた人からすると
不快に思えるものだろうとは思います。
しかし、そんな大袈裟な広告も
一歩を踏み出すキッカケの1つにはなる可能性はあります。
どういう動機の人たちに、どのように関わっていくか。
そのあたりの設定が重要なのかもしれません。
その多くは、とても消費者にとって都合の良いメッセージを含みます。
「〜するだけで…になれる!」とか
「わずか〜で…になれる!」とか。
少ない労力、
小さな精神的負担、
短い時間。
…このあたりがカギになるようです。
語学であれば、
「聞き流すだけで英語が話せるようになる」
といったものや
「一日わずか○○分のトレーニングを△△か月続けるだけで
英語がペラペラになる」
といったもの。
ダイエットであれば
「一日一食分を○○に替えるだけで痩せられる」とか
「一日たった○○分のトレーニングで△△か月後には平均〜kg減」とか
「これを食事の前に取るだけで、カロリーの吸収を抑えてダイエット効果」とか。
健康面だと
「たったこれだけの体操で肩こりが治る」、
「腰痛は○○をほぐすだけで治る」、
「○○を食べるだけで病気にならない」、
…などでしょうか。
どうやら、
自分の好きなものを我慢することもなく、
きついトレーニングをするでもなく、
そのために時間をかけるでもなく、
ほんのチョット、普段の生活に追加するだけで効果が出る
という趣旨のものが多いようです。
こうした謳い文句に反応する消費者が多いからこそ
これらを広告に使った商品・サービスが沢山あると思われますが、
一方で、こういうメッセージに反発を覚える人たちもいます。
「たったそれだけのことで、そんな効果が出るわけがない」
「それだけで大丈夫だなんて言えるほど一般化はできない」
「結局、自分でどれだけ変えられるかが大事」
のように感じて、大袈裟で都合の良すぎる広告に不快感が起きる。
「本当は〜なのに!」という残念さ、
広告を真に受けて効果が出なかった場合を心配する気持ち
などがあると見受けられます。
こうした思いを抱くのは専門性の高い人が多く、
自らの専門技術を磨くことへのこだわりが大きくて
技術の到達点としても、サービスの効果としても
高いところを基準としている傾向があるようです。
業界の平均よりも分かっているから見えてしまう。
業界の平均よりも高い基準のものを目指すため
比べてガッカリしてしまう、ということでしょう。
しかしながら、こうした広告や謳い文句は実に効果的なのも実態。
広告を目にして興味を持ち、サービスや商品を購入してみる人たちが
どういう人たちなのかと考えてみると、それは少し納得できる気がします。
まず、広告の範囲が広いほど
あまりその分野に詳しくなく、初めてそれを知ることになるか
あるいは聞いたことはあって少しだけ興味があったぐらいの人たちが
対象になることが関係します。
もし、少しは詳しいとか、以前から少しやっていた(利用していた)とか
前から興味があって知識がそれなりにあるとか
そういった人たちだとしたら、そういう広告をあまり必要としないでしょう。
知識や経験がある人たちは、受け身で広告に反応するケースだけでなく
インターネットや本を通じて自ら情報収集すると考えられます。
ですから、元々興味や知識のある「少し分かっている人たち」を対象とするなら
広告の仕方としては、そうした人たちの目につきやすい手段となるはずです。
関係のある分野の雑誌広告に乗せるとか、
ネット検索の対応をするとか、でしょうか。
わざわざ大々的にテレビCMを流すとしたら、それは対象がそもそも
その分野について詳しくない人たちの目に触れるためだといえます。
かなり入門的な人たちに向けて、大きな広告は作られやすいということです。
ここの「入門的」という部分には、
「本当に初めて」という人が含まれるのはもちろん、
「以前に少しやってみたけど最近は離れてしまっている」人たちも含まれます。
特に、世間的な認知度がすでに高まっていて
世間的には重要だと設定されているもの(例えば、健康や英会話、ダイエットなど)
では、大事らしいことを知識として知っている人が多くいます。
「どうやら(皆が言うから)大事らしい」とは思っているし
興味が全くないわけではないけれど、どうも一歩が踏み出せない。
試しにやってみたこともあるけれど続かなかった。
…そんな人たちが多い分野もあります。
この場合、広告はとりわけ大袈裟になりやすいようです。
つまり、
存在は知っているし興味がないわけでもないけれど踏み出さない人たちに
やってみるための動機づけをする必要があるので、
より興味を引きやすいような工夫をしがちになる、と。
「これまでのものとは違う」
「効果が出やすい」
「負担が少ない」
そのあたりがアピールされやすいのは、
少し興味があるけれど踏み出すのに抵抗のある人たちに
「それだったらやってみようかな」と思ってもらうための工夫だと考えられます。
以前に少しやってみたことがあれば、ことさら
「以前のものとは違う」ことが重要になるでしょうし、
続けられずに断念した人たちや、大変そうだからやらなかった人たちには
「効果が出やすく」「負担が少ない」ことが大きなアピールポイントになります。
「〜するだけで」とか「たった○○で」といった大袈裟な表現は
そのような一歩を踏み出すための動機づけメッセージだということです。
ここのポイントは、そうやって「負担がなく」「短期間で」というアピールが
一歩を踏み出しきれない人の後押しをしている、という部分。
言い換えるなら
「そうでもしなければ、そこまで求めていない」
といった対象なんです。
世間的な認知度が高いものでは特に
「皆が大事だって言うから」という考えが興味を持たせていて
切実な思いで必要性を感じているわけではないケースが大半です。
そんなに必要性がないのですから、
動機がなく、それほど求めていないわけです。
元々それほど求めていない人たちに向けて商品やサービスを提供する。
そのためには大袈裟なアピールが求められる。
そうでもしないと一歩を踏み出さないから、です。
元々それだけ求めていないわけですから
効果としても、それほど切実な期待はないわけです。
ダイエットであれば、まぁ1、2キロでも痩せれば充分。
効果がなかったとしても、「今回もダメだった」となるだけ。
健康面であれば、「病気にならないよう健康に良いことをしている」という
何かをやっていることそのものが重要な場合だってあります。
体の負担であれば、完全に健康的で快適な状態を期待するのではなく
この辛い状態が少しでも戻ってくれれば…ぐらいの想定。
英会話なら、海外旅行で少し使えるぐらいなどでしょうか。
切実な必要性がない状況では、当然、目標とする到達点も不明瞭です。
より正確に表現すれば、到達点を想像することさえできないんです。
健康とは、そもそもどんな状態なのか?
英語がペラペラとは、どういう状態なのか?
予想もついていないものです。
実際には、切実に必要性を感じている人たちでも
到達点の予想はついていないのが自然です。
進んでいくうちに先が見えてきて、現状とのギャップが感じられ始める。
自分がいかに分かっていなかったかを痛感し出すのは、始めてからの話です。
その意味では、目標設定ということ自体が難しいんです。
目標設定で動機づけることがしずらいんです。
一方、切実な必要性を感じている人は、到達目標に動機づけられるのではなく
現状で困っている部分に動機づけられています。
「今のままじゃダメだ」と感じるからこそ切実になる。
切実な必要性がない人(別にそれほど困っていない人)は
おぼろげな良い感じのイメージや憧れの姿だけを頼りな上に、
その曖昧な目標さえも設定基準が低いことになります。
必要性がないということは、
求める基準も低く
その基準のことも想像できていない
状態だといえるんです。
そういう人たちを対象としてサービスや商品を提供していくとしたら
その期待の程度に合わせる必要性があるわけです。
期待を大幅に上回るような基準のサービスや商品は求められておらず、
むしろ「そこまでは別にいいんです…」と言われかねないほどでしょう。
その基準に沿った商品やサービスがあれば、満足できるんだと思われます。
体が少し楽になれば充分。
英会話のフレーズをいくつか覚えられれば充分。
知らなかった知識が増えて、「なるほど!」と思えれば充分。
前よりも少し上手くなれたら充分。
別に、専門家やエキスパート、プロになりたいわけじゃないんです。
プラスアルファの楽しみとか趣味のような形でやりたい人も大勢います。
それほど時間や頻度、負担や労力を費やすつもりはない。
切実ではないのですから、人生全般においての重要度も低いわけです。
そんなに一生懸命に取り組むつもりがないんです。
楽をしたいともいえそうです。
楽をして効果が出るならやる。
効果を出すのが大変なら別に必要ではない。
それぐらいの求め方なんです。
そして、そういう人たちが多い。
そちらが大部分です。
当然、そういう人たちを対象として商品・サービスを提供する人たちも多くなります。
バランスは取れているんでしょう。
「〜するだけで」とか「わずか〜で」などの大袈裟な広告は
そうした大部分の「あまり必要としていない」人たち向けなんだといえます。
このような広告に不快感を覚える人たちは、逆に
必要性を感じて、高い基準を求めている人たちへ
高い基準のサービスを提供したい側だろうと想像できます。
そのような広告に反応する人たちとは、期待している基準が異なっているはずです。
むしろチャンスだってあるのかもしれません。
ある程度の必要性を感じていたけれど、そこまでの動機はなかったという人が
一歩を踏み出してみて、「他のところにも行ってみようかな?」と思い始める…。
そうしたら、もっと違った基準の質でサービスを提供しているところに
目を向け始める可能性があります。
大袈裟な広告に反応して、やっぱり必要ではないから遠ざかる人もいます。
一歩を踏み出してみて、その基準で満足して楽しみ続ける人もいます。
一歩を踏み出してみて、それでは満足できず、他を求め始める人もいます。
一歩を踏み出すための広告は、随分と長く歩いてきた人からすると
不快に思えるものだろうとは思います。
しかし、そんな大袈裟な広告も
一歩を踏み出すキッカケの1つにはなる可能性はあります。
どういう動機の人たちに、どのように関わっていくか。
そのあたりの設定が重要なのかもしれません。
2015年05月15日
満足させてもらいたい人
怒りは、自分が暗黙のうちに期待していた通りの展開とならなかったとき…
しかもその状況を何とか思い通りに戻せるかもしれないと判断されたときに、
生理反応として体に起こってくるものだといえます。
それに対して、期待通りにならず、かつ
どうにもできないと認識された場合には、悲しみが生まれます。
ですから、怒りが沸いている時点で、
期待した状況を取り戻したいという願望が強まっている
とも捉えられます。
例えば、人間関係の中で怒りが沸く状況を想定してみると、
クレーム対応の仕方によって二次クレームに発展することが多いのも
期待が一層高まっているためだと考えると分かりやすいと思います。
怒りをクレームの形で表現している人の中では
「不満な状況をなんとかして期待通りに取り戻したい」
という思いが強まっているために、期待がさらに大きくなっている。
期待が強まっている分、相手の対応の仕方についても
もっと良い対応をして欲しい
という想定が高まっている、と考えられます。
だから求めるものに見合わない対応と判断しやすくなって
クレーム対応の仕方に対してもクレームをいうようになる、と。
怒りが起きていなければ許容範囲になるような相手の対応も
怒っていて期待も大きくなってしまうからこそ
受け入れ難い対応の仕方として感じられてしまう、というわけです。
この「怒りによって期待が高まり、許容範囲が小さくなる」状態は
ことさら他者との関係性の中で起こりやすくなります。
もちろん、人が関わらない状況…例えば、
天気や交通の状況、機械類の不具合などにも苛立ちやすくなりますし、
場合によっては、自分でタンスに足をぶつけたのにタンスに腹を立てる
などように、思い通りにならないことであれば
何でも怒りが沸きやすくなるものです。
生理状態として考えると、イライラが体の中に溜まっているため
チョットした不満に対しても怒りの反応が強まって表れる
という風にも説明できます。
とにかく、期待通りに進まないことに対して許容範囲が下がり
不満を感じやすくなっている、ということです。
人間関係でこの不満が起きやすくなるのは、
他人が、自分の「当然だ」と思う通りに動かない
というケースが多々あるからです。
「こうなるもんだ」
「こうなるのが普通だ」
「これが当然だ」
という暗黙の期待が自分の中にあるけれど、
それとは違う形で他人が行動することがある。
思い通りにならないんです。
期待外れになる。
結果として人間関係では
怒りがある状態ほど他者への期待が高まり、
許容範囲が小さくなってイライラすることが更に増える
ということに繋がりやすいわけです。
特に、他者への期待の中でも
「自分に対しては、このように対応してもらいたい」
という種類のものは、大きな怒りを生みやすいようです。
一方、第三者的に他人の行動を見ていて
「そういうときは、こうするもんだろう!
まったく何やってんだ」
と期待外れの出来事が目にとまった場合であれば
ただのイライラする状況ぐらいに感じられるかもしれません。
それが、自分を当事者とするような期待外れとなると、
「こうしてくれるのが当然だろう!」
といった形で、大きな不満を感じやすくなる、ということです。
怒りが起きていることによって、
思い通りにならない状況を何とか取り戻したい願望が強まる。
こんなにも怒らなければならなくなった自分、
こんなにも不満を感じている自分を
元の満たされた状態に戻したくなっている、と。
つまり、不満を解消して、満足したい状況だといえます。
「不満を解消して満足したい」という暗黙の期待が高まっているものの
多くの場合、自分が不満を解消して満足したがっていることは自覚しません。
(だからこそ「暗黙の期待が高まっている」と表現できるわけですが)
自覚できていれば、自分で不満を解消するためのストレス発散をしたり
満足感が高まる気分転換をしたりして対処できるでしょう。
しかし自覚できていない暗黙の期待として
「不満を解消して、満足した状態に戻りたい」
と願っているわけですから、その期待は
気づかないうちに周りの状況に対して向けられてしまいやすい。
「こういう状況になってくれたらなぁ」といった感じ。
それが人間関係で起きるのですから、他人に対して
「こういう風に接してくれたらなぁ」
と期待するようになると考えられます。
もっとストレートにいえば
「自分を満足させてくれたらなぁ」
という期待です。
この思いが自覚されずに他者へ向けられる結果、
「もっと私のことを満足させてよ」
というメッセージを間接的に伝えるコミュニケーションが増えます。
成果、頑張り、大変さのアピールです。
「スゴイね」
「よく頑張ってますね」
「大変ですね」
と言ってもらいたいのを、自覚していないために
回りくどい形で伝えるわけです。
怒りが強まっているほど、このアピールは強さを増します。
先ほども述べたとおり、
怒りは期待通りに進んでいない状況を取り戻そうとする状態
といえますから、
怒りが強いときほど、「自分を満足させて欲しい」という期待が
他者に対して強く向けられるようになります。
他者の行動をコントロールしようとする度合いが高まるんです。
期待がアピールの形どころか、むしろ命令に近い形で表現される。
いわば「もっと私を満足させなさいよ!」といった感じ。
文句やクレーム、怒鳴りつけなどの
直接的に怒りを相手にぶつけるコミュニケーションでは
この「もっと私を満足させなさい!」の期待が起きているといえます。
「もっと私を満足させなさい!」の期待を相手にかける。
ここで期待通りに満足させてくれれば怒りは鎮まりますが、
そうじゃないことも多々あるものです。
それも当然です。
「もっと私を満足させなさい!」という思いを
何か別のことに対する文句やクレームとして伝えるんですから。
聞いている相手は文句の内容に返答してしまいやすく、
満足させるための対応は思いつきにくいものです。
そして「もっと私を満足させなさい!」の期待が外れたため、
そのことに対して更に怒りが強まります。
ここでの期待外れは、言葉にして表すなら
「私は大切にされなかった」
という状態です。
「私を満足させてくれなかった。
私は大切にされていない。」…と。
「私は大切にされなかった」という状態で沸いてくる怒りは
「大切にされる」状況を取り戻そうとするエネルギーといえますから、
次に表現される怒りのメッセージは
「私を大切に扱いなさい!」
へと進みます。
クレーム対応の仕方に腹を立てて二次クレームに発展する例は、まさに
「私が伝えた不満(一次クレーム)への対応で、私は大切にされなかった」
という期待外れが生み出した
「私を大切に扱いなさい!」
という命令だと解釈できます。
言葉にして怒りをぶちまけている人たちは、原則的に
「私を大切に扱いなさい!」
と伝えようとしているんです。
そういう風に解釈しておくと、対応にも工夫がしやすくなると思います。
ちなみに、「思い通りに物事が進んで、満足したい」という願望は
誰しもが持っているもののようです。
そしてその願望が自覚されていないと
周りの状況や他人との関係に対しての期待となります。
皆、満足させてもらいたいんです。
誰もが承認欲求を持っている、とか
人は自己重要感を味わいたい、などと言い換えてもいいでしょう。
その中で、お互いに
「もっと私のことを満足させてよ」
「私を大切に扱いなさい」
という期待をかけあっているわけです。
『大切に扱ってもらう合戦』です。
色々なコミュニケーションを通じて
相手から大切にされようとする。
しかし、相手だって大切に扱われたいのですから、
別の誰かのことを快く大切しようとはしないものです。
悔しいんです。
「自分だって大切にされたいのに、なんで自分が折れて
あなたを大切にしてあげないといけないのか?」と。
自分が折れて相手を大切にするのは、
『大切に扱ってもらう合戦』では負けを意味するようです。
だから「大切に扱いなさい」という思いは、期待外れに終わりやすい。
そこで手っ取り早い対処法は、
あえて自分から『負けてあげる』ことでしょう。
自分から相手を大切に扱う。
自分から相手に満足してもらうよう関わる。
自分から相手の不満を解消しようとする。
すると相手が満たされて、
「大切にされたい」という期待が下がります。
相手からの要求水準が下がるんです。
「スゴイね」と言って欲しいがゆえの自慢も
「よく頑張ってますね」と言って欲しいがゆえの大変さアピールも
「大変ですね」と言って欲しいがゆえの苦労話も
あまり必要としなくなってくるかもしれません。
「大切に扱いなさい」というメッセージが出されてからではなく、
自分から何の前触れもなく大切にしていることを伝えるんです。
ねぎらいとか感謝とかポジティブなフィードバックとか。
「大切に扱いなさい」のメッセージに対して上手く対応することを続けると
その上手い対応が報酬になってしまいます。
例えば「大切に扱いなさい」メッセージとして愚痴をいったときに
効果的なねぎらいをするのを何度も繰り返していると、
「大切に扱って欲しいときに愚痴をいいにくる」という習慣ができてしまいます。
そうではなくて、自分から話しかけて、相手を大切にするメッセージを伝える。
すると相手からの「大切にされたい」メッセージが減る可能性がありますし、
相手の内面の状態も、不満が解消された穏やかなものになりやすいはずです。
そして相手の気分が良くなると、相手からのコミュニケーションもまた
好意的なメッセージが増えてくると考えられます。
結果的に自分の内面でも満足度が上がりやすいでしょう。
期待のもとにあった「不満を解消したい、満足したい」という欲求が
間接的に少しずつ満たされていくわけです。
もちろん、相手からも感謝の言葉が返ってきたりすれば
「自分を大切にしてもらった」という状況を体験できます。
それ以上に、自分の不満の種が減ったり
気持ちが満たされたりする体験が増えていけば、
不満、苛立ち、怒りといった感情が減っていきます。
怒りの感情によって高まっていた他者への期待…
つまり「大切に扱いなさい!」という気持ちも減っていくんです。
「大切にされているかどうか」の評価基準が下がっていって
相手の対応への許容範囲も広がります。
期待が下がるから寛容になり、
「大切にされているかどうか」の判断基準が甘くなるから
ちょっとしたことでも満足できるようになる。
そういう好循環が起きるはずです。
裏を返せば、
怒りがある状態では「私を大切にしなさい!」の期待が上がって
満たされにくくなるから更に怒りが高まり、
『大切に扱ってもらう』合戦がエスカレートしていく
という悪循環が起きている、とも言えるわけです。
だからこそ、悪循環を断ち切り、好循環に入るために
自分から積極的に相手を大切にする。
それが効果的なんです。
逆説的ですが、大切にしてもらえず怒りが大きいほど
フリでも良いので、自分から相手を大切に扱う
というのが役に立つのではないでしょうか。
しかもその状況を何とか思い通りに戻せるかもしれないと判断されたときに、
生理反応として体に起こってくるものだといえます。
それに対して、期待通りにならず、かつ
どうにもできないと認識された場合には、悲しみが生まれます。
ですから、怒りが沸いている時点で、
期待した状況を取り戻したいという願望が強まっている
とも捉えられます。
例えば、人間関係の中で怒りが沸く状況を想定してみると、
クレーム対応の仕方によって二次クレームに発展することが多いのも
期待が一層高まっているためだと考えると分かりやすいと思います。
怒りをクレームの形で表現している人の中では
「不満な状況をなんとかして期待通りに取り戻したい」
という思いが強まっているために、期待がさらに大きくなっている。
期待が強まっている分、相手の対応の仕方についても
もっと良い対応をして欲しい
という想定が高まっている、と考えられます。
だから求めるものに見合わない対応と判断しやすくなって
クレーム対応の仕方に対してもクレームをいうようになる、と。
怒りが起きていなければ許容範囲になるような相手の対応も
怒っていて期待も大きくなってしまうからこそ
受け入れ難い対応の仕方として感じられてしまう、というわけです。
この「怒りによって期待が高まり、許容範囲が小さくなる」状態は
ことさら他者との関係性の中で起こりやすくなります。
もちろん、人が関わらない状況…例えば、
天気や交通の状況、機械類の不具合などにも苛立ちやすくなりますし、
場合によっては、自分でタンスに足をぶつけたのにタンスに腹を立てる
などように、思い通りにならないことであれば
何でも怒りが沸きやすくなるものです。
生理状態として考えると、イライラが体の中に溜まっているため
チョットした不満に対しても怒りの反応が強まって表れる
という風にも説明できます。
とにかく、期待通りに進まないことに対して許容範囲が下がり
不満を感じやすくなっている、ということです。
人間関係でこの不満が起きやすくなるのは、
他人が、自分の「当然だ」と思う通りに動かない
というケースが多々あるからです。
「こうなるもんだ」
「こうなるのが普通だ」
「これが当然だ」
という暗黙の期待が自分の中にあるけれど、
それとは違う形で他人が行動することがある。
思い通りにならないんです。
期待外れになる。
結果として人間関係では
怒りがある状態ほど他者への期待が高まり、
許容範囲が小さくなってイライラすることが更に増える
ということに繋がりやすいわけです。
特に、他者への期待の中でも
「自分に対しては、このように対応してもらいたい」
という種類のものは、大きな怒りを生みやすいようです。
一方、第三者的に他人の行動を見ていて
「そういうときは、こうするもんだろう!
まったく何やってんだ」
と期待外れの出来事が目にとまった場合であれば
ただのイライラする状況ぐらいに感じられるかもしれません。
それが、自分を当事者とするような期待外れとなると、
「こうしてくれるのが当然だろう!」
といった形で、大きな不満を感じやすくなる、ということです。
怒りが起きていることによって、
思い通りにならない状況を何とか取り戻したい願望が強まる。
こんなにも怒らなければならなくなった自分、
こんなにも不満を感じている自分を
元の満たされた状態に戻したくなっている、と。
つまり、不満を解消して、満足したい状況だといえます。
「不満を解消して満足したい」という暗黙の期待が高まっているものの
多くの場合、自分が不満を解消して満足したがっていることは自覚しません。
(だからこそ「暗黙の期待が高まっている」と表現できるわけですが)
自覚できていれば、自分で不満を解消するためのストレス発散をしたり
満足感が高まる気分転換をしたりして対処できるでしょう。
しかし自覚できていない暗黙の期待として
「不満を解消して、満足した状態に戻りたい」
と願っているわけですから、その期待は
気づかないうちに周りの状況に対して向けられてしまいやすい。
「こういう状況になってくれたらなぁ」といった感じ。
それが人間関係で起きるのですから、他人に対して
「こういう風に接してくれたらなぁ」
と期待するようになると考えられます。
もっとストレートにいえば
「自分を満足させてくれたらなぁ」
という期待です。
この思いが自覚されずに他者へ向けられる結果、
「もっと私のことを満足させてよ」
というメッセージを間接的に伝えるコミュニケーションが増えます。
成果、頑張り、大変さのアピールです。
「スゴイね」
「よく頑張ってますね」
「大変ですね」
と言ってもらいたいのを、自覚していないために
回りくどい形で伝えるわけです。
怒りが強まっているほど、このアピールは強さを増します。
先ほども述べたとおり、
怒りは期待通りに進んでいない状況を取り戻そうとする状態
といえますから、
怒りが強いときほど、「自分を満足させて欲しい」という期待が
他者に対して強く向けられるようになります。
他者の行動をコントロールしようとする度合いが高まるんです。
期待がアピールの形どころか、むしろ命令に近い形で表現される。
いわば「もっと私を満足させなさいよ!」といった感じ。
文句やクレーム、怒鳴りつけなどの
直接的に怒りを相手にぶつけるコミュニケーションでは
この「もっと私を満足させなさい!」の期待が起きているといえます。
「もっと私を満足させなさい!」の期待を相手にかける。
ここで期待通りに満足させてくれれば怒りは鎮まりますが、
そうじゃないことも多々あるものです。
それも当然です。
「もっと私を満足させなさい!」という思いを
何か別のことに対する文句やクレームとして伝えるんですから。
聞いている相手は文句の内容に返答してしまいやすく、
満足させるための対応は思いつきにくいものです。
そして「もっと私を満足させなさい!」の期待が外れたため、
そのことに対して更に怒りが強まります。
ここでの期待外れは、言葉にして表すなら
「私は大切にされなかった」
という状態です。
「私を満足させてくれなかった。
私は大切にされていない。」…と。
「私は大切にされなかった」という状態で沸いてくる怒りは
「大切にされる」状況を取り戻そうとするエネルギーといえますから、
次に表現される怒りのメッセージは
「私を大切に扱いなさい!」
へと進みます。
クレーム対応の仕方に腹を立てて二次クレームに発展する例は、まさに
「私が伝えた不満(一次クレーム)への対応で、私は大切にされなかった」
という期待外れが生み出した
「私を大切に扱いなさい!」
という命令だと解釈できます。
言葉にして怒りをぶちまけている人たちは、原則的に
「私を大切に扱いなさい!」
と伝えようとしているんです。
そういう風に解釈しておくと、対応にも工夫がしやすくなると思います。
ちなみに、「思い通りに物事が進んで、満足したい」という願望は
誰しもが持っているもののようです。
そしてその願望が自覚されていないと
周りの状況や他人との関係に対しての期待となります。
皆、満足させてもらいたいんです。
誰もが承認欲求を持っている、とか
人は自己重要感を味わいたい、などと言い換えてもいいでしょう。
その中で、お互いに
「もっと私のことを満足させてよ」
「私を大切に扱いなさい」
という期待をかけあっているわけです。
『大切に扱ってもらう合戦』です。
色々なコミュニケーションを通じて
相手から大切にされようとする。
しかし、相手だって大切に扱われたいのですから、
別の誰かのことを快く大切しようとはしないものです。
悔しいんです。
「自分だって大切にされたいのに、なんで自分が折れて
あなたを大切にしてあげないといけないのか?」と。
自分が折れて相手を大切にするのは、
『大切に扱ってもらう合戦』では負けを意味するようです。
だから「大切に扱いなさい」という思いは、期待外れに終わりやすい。
そこで手っ取り早い対処法は、
あえて自分から『負けてあげる』ことでしょう。
自分から相手を大切に扱う。
自分から相手に満足してもらうよう関わる。
自分から相手の不満を解消しようとする。
すると相手が満たされて、
「大切にされたい」という期待が下がります。
相手からの要求水準が下がるんです。
「スゴイね」と言って欲しいがゆえの自慢も
「よく頑張ってますね」と言って欲しいがゆえの大変さアピールも
「大変ですね」と言って欲しいがゆえの苦労話も
あまり必要としなくなってくるかもしれません。
「大切に扱いなさい」というメッセージが出されてからではなく、
自分から何の前触れもなく大切にしていることを伝えるんです。
ねぎらいとか感謝とかポジティブなフィードバックとか。
「大切に扱いなさい」のメッセージに対して上手く対応することを続けると
その上手い対応が報酬になってしまいます。
例えば「大切に扱いなさい」メッセージとして愚痴をいったときに
効果的なねぎらいをするのを何度も繰り返していると、
「大切に扱って欲しいときに愚痴をいいにくる」という習慣ができてしまいます。
そうではなくて、自分から話しかけて、相手を大切にするメッセージを伝える。
すると相手からの「大切にされたい」メッセージが減る可能性がありますし、
相手の内面の状態も、不満が解消された穏やかなものになりやすいはずです。
そして相手の気分が良くなると、相手からのコミュニケーションもまた
好意的なメッセージが増えてくると考えられます。
結果的に自分の内面でも満足度が上がりやすいでしょう。
期待のもとにあった「不満を解消したい、満足したい」という欲求が
間接的に少しずつ満たされていくわけです。
もちろん、相手からも感謝の言葉が返ってきたりすれば
「自分を大切にしてもらった」という状況を体験できます。
それ以上に、自分の不満の種が減ったり
気持ちが満たされたりする体験が増えていけば、
不満、苛立ち、怒りといった感情が減っていきます。
怒りの感情によって高まっていた他者への期待…
つまり「大切に扱いなさい!」という気持ちも減っていくんです。
「大切にされているかどうか」の評価基準が下がっていって
相手の対応への許容範囲も広がります。
期待が下がるから寛容になり、
「大切にされているかどうか」の判断基準が甘くなるから
ちょっとしたことでも満足できるようになる。
そういう好循環が起きるはずです。
裏を返せば、
怒りがある状態では「私を大切にしなさい!」の期待が上がって
満たされにくくなるから更に怒りが高まり、
『大切に扱ってもらう』合戦がエスカレートしていく
という悪循環が起きている、とも言えるわけです。
だからこそ、悪循環を断ち切り、好循環に入るために
自分から積極的に相手を大切にする。
それが効果的なんです。
逆説的ですが、大切にしてもらえず怒りが大きいほど
フリでも良いので、自分から相手を大切に扱う
というのが役に立つのではないでしょうか。
2015年05月13日
文句を言われないように
世の中には、
怒りを他人にぶつけるタイプのコミュニケーションをする人がいます。
先日もスターバックスでそういう女性を見かけました。
60〜70歳ぐらいでしょうか。
スナックを経営している人に多い声と風貌をしていました。
叫んでいた内容からすると、どうやら
頼んでいた飲み物を忘れられていた
ということのようです。
「『お席までお持ちします』と言ったのに、
全然持ってこないじゃない!」
「ちょっと!忘れていたの!?
何やってんのよ!」
「『レシートを見せてください』じゃないわよ!
いい加減にしなさいよ!」
…と、カウンターを叩きながら怒鳴っていました。
途中にあったであろう店員の返答は聞こえません。
僕の席からは遠かったですから。
ただ、その女性の声は店中に響き渡り、注目を集めていました。
そして、しばらくその不満の声は続いていました。
ひとしきり怒りを表したかと思うと、大きな足音を立てて席に戻る。
それでも怒りは収まっていなかったようで、
店員が飲み物を運んできたときにも叫び声が再発していました。
引き続き、一緒に来ていたスーツ姿の男性もまた
今度は上司が部下を叱りつけるような言い方で不満を述べる。
まるで「教育してあげている」とでも言わんばかりの様子でした。
「注文を忘れるなんて聞いたことないぞ」と言っていましたが、
そんなことはありません。
注文忘れなんて良くあることでしょう。
そもそもスターバックスの商品提供方法だと
ドリンクの注文から渡すところまでのプロセスで
人的なエラーを避けられない形だといえます。
レジに注文が殺到すれば、どこかで伝え漏れが起きやすくなるでしょう。
マクドナルドのようにレジに入力した内容がキッチン側に表示されるなら
仕組みとしてはエラーが起きにくいと思われますが、
そんなマクドナルドだって商品提供でミスが起きるんです。
システムではなく店員の頑張りで対応しようという方針だとしたら
ある程度の頻度でミスが起きてしまうのは避けられないと考えられます。
このように商品提供忘れのようなミスが起きたときには
それがクレームのような騒動になるか
店員の笑顔とプラスアルファのサービスで許してもらえるか
の違いがあるぐらいではないでしょうか。
今回は運悪く、声を荒げて不満を表現するコミュニケーションスタイルの人に
ミスが当たってしまったということだろうと思われます。
もちろんクレーム対応の仕方として考えることもできるケースでしょうが、
より注意をしたほうがいい相手を判断できるようにしておくのも
1つの対応なのかもしれません。
状況に応じて、人に応じて、注意のレベルを上げる、と。
どの時点で対処を工夫するのかが様々ある中で、
最高の対応を目指したり、ミスのない完璧な対応を目指すだけでなく、
最悪の事態にだけはならないようにする
という工夫も役に立つような気がします。
怒りを他人にぶつけるタイプのコミュニケーションをする人がいます。
先日もスターバックスでそういう女性を見かけました。
60〜70歳ぐらいでしょうか。
スナックを経営している人に多い声と風貌をしていました。
叫んでいた内容からすると、どうやら
頼んでいた飲み物を忘れられていた
ということのようです。
「『お席までお持ちします』と言ったのに、
全然持ってこないじゃない!」
「ちょっと!忘れていたの!?
何やってんのよ!」
「『レシートを見せてください』じゃないわよ!
いい加減にしなさいよ!」
…と、カウンターを叩きながら怒鳴っていました。
途中にあったであろう店員の返答は聞こえません。
僕の席からは遠かったですから。
ただ、その女性の声は店中に響き渡り、注目を集めていました。
そして、しばらくその不満の声は続いていました。
ひとしきり怒りを表したかと思うと、大きな足音を立てて席に戻る。
それでも怒りは収まっていなかったようで、
店員が飲み物を運んできたときにも叫び声が再発していました。
引き続き、一緒に来ていたスーツ姿の男性もまた
今度は上司が部下を叱りつけるような言い方で不満を述べる。
まるで「教育してあげている」とでも言わんばかりの様子でした。
「注文を忘れるなんて聞いたことないぞ」と言っていましたが、
そんなことはありません。
注文忘れなんて良くあることでしょう。
そもそもスターバックスの商品提供方法だと
ドリンクの注文から渡すところまでのプロセスで
人的なエラーを避けられない形だといえます。
レジに注文が殺到すれば、どこかで伝え漏れが起きやすくなるでしょう。
マクドナルドのようにレジに入力した内容がキッチン側に表示されるなら
仕組みとしてはエラーが起きにくいと思われますが、
そんなマクドナルドだって商品提供でミスが起きるんです。
システムではなく店員の頑張りで対応しようという方針だとしたら
ある程度の頻度でミスが起きてしまうのは避けられないと考えられます。
このように商品提供忘れのようなミスが起きたときには
それがクレームのような騒動になるか
店員の笑顔とプラスアルファのサービスで許してもらえるか
の違いがあるぐらいではないでしょうか。
今回は運悪く、声を荒げて不満を表現するコミュニケーションスタイルの人に
ミスが当たってしまったということだろうと思われます。
もちろんクレーム対応の仕方として考えることもできるケースでしょうが、
より注意をしたほうがいい相手を判断できるようにしておくのも
1つの対応なのかもしれません。
状況に応じて、人に応じて、注意のレベルを上げる、と。
どの時点で対処を工夫するのかが様々ある中で、
最高の対応を目指したり、ミスのない完璧な対応を目指すだけでなく、
最悪の事態にだけはならないようにする
という工夫も役に立つような気がします。
2015年05月10日
期待を上回り過ぎない
どうも僕の知り合いには、高い技術を持ちながら
それに見合うだけの活躍の場に恵まれていない人が多い気がします。
もちろん、それぞれの場所では、飛び抜けた技能も活かし
その場で期待される以上の力を発揮しているでしょう。
ただ、その環境が表面的に期待する範囲では評価できない種類の質なのか、
その環境の人たちには理解できないほどのクオリティになっているのか…、
活躍の度合いが技能と合っていない印象を受けるんです。
一般的に見たら充分な活躍のようでも
もっと分かりやすい成果が出てもおかしくない。
逆にいうと、
目立つ成果をあげている人達と比較したとき
技能の面では遥かに効果的なことができるにもかかわらず、
目立つ人達とは活躍の仕方が大きく異なっている
ということです。
社会的に目立つ活躍をしている人たちは
「社会的に目立つ」ための努力を沢山しているのかもしれません。
専門性や技術を追求するほうに労力をかければ、自然と
目立つための作業に労力を注ぐことは難しくなるとも考えられます。
何より、社会的に目立つための作業や
それを効果的にするための技術を磨くことに
気持ちが向かないような人のように感じられることもあります。
そういう作業が好きではなかったり、楽しめなかったり。
しかし、それ以上に活躍の場と強く結びついていると思われるのが
『期待をどれぐらい上回るか?』という部分です。
コミュニケーション用語を使えば「ペーシング」です。
社会的に活躍とみなされる環境にいる人たちが期待していることに
ただ「ペーシング」をするだけ。
「期待にペーシング」するということです。
もう少し正確に表現すると
「期待を丁度よく上回る」
といったところでしょうか。
期待を下回っては見向きもされません。
サービスとして価値がないと判断されてしまいます。
ピッタリ期待通りであれば、満足は得られるでしょうし、
順調にリピートも望めるのかもしれませんが、
活躍の仕方としては平均的なところに落ち着きそうです。
多くの場合、様々な業界には先駆者たちがいますから
期待通りの範囲では、大勢の中の一人として埋もれてしまう。
同じような期待への応え方だとしたら、すでに馴染みのある先駆者たちが
優先して活躍の機会を与えられることになると考えられます。
期待通りでは、業界の中で大活躍する立場を
取って代わるまではいきにくいだろう、と。
そして期待を上回ったとき、驚きや感動を提供できます。
平均よりも大きな成果が評判を生み、
他と一線を画す形で、大きな活躍の場に進むようです。
ところが、期待を大きく上回り過ぎると、それはもう
理解の範疇を超えてしまうんです。
あるいは、
もはや、その業界の一部としては見なしてもらえなくなることもある。
そこまで求めていない。
そこまでやるつもりはない。
どういうことか想像もつかない。
説明されてもピンとこない。
…というように、関心を持ってももらえないわけです。
世間的に大活躍と捉えられるような成果を出している人は
この「ちょうどよく期待を上回る」ことができていると考えられます。
例えば、キュビズムで描かれた晩年のピカソの絵は
写真のように正確な肖像画を期待している人には受け入れられないはずです。
しかし世の中がピカソの芸術を受け入れ始めたとき、
ピカソの絵は期待をちょうどよく上回るものとなったのでしょう。
そして一度キュビズムというジャンルが確立してからは、多くの人から
受け入れられる範囲の芸術として期待してもらえるようになった、と思われます。
その分野、その業界で期待されている範囲というのがあるんです。
そこをちょうどよく上回る人が活躍の機会を得る。
どうもそういう傾向があるみたいに見えます。
大活躍とみなされる人たちは…、
意図的に期待を少し上回る程度に調節しているのか、
それとも無自覚にちょうどいい程度の技能になっているのか、
どちらかは分かりませんが…、とにかく
ちょうどいい範囲で活動しているようなんです。
よく言われる
「出る杭は打たれる」
というのは、
期待とピッタリ合った範囲から少し出て
現状維持を崩そうとしたときに起きるといえます。
期待と合ったものがバランスよく供給されていて順調に進んでいる。
そこで全体のバランスを崩してでも飛びぬけようとすると
現状を維持しようとするシステムの力に阻害される。
そんなことなんでしょう。
また、「出る杭は打たれる」を元にして
「出過ぎた杭は打たれない」などと言われることもあります。
これはまさに、「ちょうどよく期待を上回った」状態と考えられます。
その分野から理解可能な範囲で、良い意味で予測を裏切る。
「あぁ、そうきたか!」
「そういうのがあったか!」
「そんなことができたとは!」
といった驚きがある場合でしょう。
気持ちが大きく動かされます。
スゴイものとして認識するんです。
その流れでいうなら
「もっと出過ぎた杭は、杭として認識されない」
なんてこともあるはずです。
「柱に見えてしまう」とか「その土地から抜け出てしまう」とか。
キョトンとされる。
ポカンとされる。
サラッと流される。
目に留まらない。
関心の範囲に入らない。
…そんな具合に、理解可能な範囲ではなくなってしまう場合です。
期待を上回り過ぎるために、逆に活躍の機会に恵まれない
ということがあるのではないか、という話です。
期待を少し上回るぐらいにペースを合わせられれば
高い技術を持った人が活躍するのも増えるような気がします。
あるいは期待値を上げるように働きかけるか。
世間からの期待が技能に追いついてくれるときを待つのも1つかもしれませんが…。
それに見合うだけの活躍の場に恵まれていない人が多い気がします。
もちろん、それぞれの場所では、飛び抜けた技能も活かし
その場で期待される以上の力を発揮しているでしょう。
ただ、その環境が表面的に期待する範囲では評価できない種類の質なのか、
その環境の人たちには理解できないほどのクオリティになっているのか…、
活躍の度合いが技能と合っていない印象を受けるんです。
一般的に見たら充分な活躍のようでも
もっと分かりやすい成果が出てもおかしくない。
逆にいうと、
目立つ成果をあげている人達と比較したとき
技能の面では遥かに効果的なことができるにもかかわらず、
目立つ人達とは活躍の仕方が大きく異なっている
ということです。
社会的に目立つ活躍をしている人たちは
「社会的に目立つ」ための努力を沢山しているのかもしれません。
専門性や技術を追求するほうに労力をかければ、自然と
目立つための作業に労力を注ぐことは難しくなるとも考えられます。
何より、社会的に目立つための作業や
それを効果的にするための技術を磨くことに
気持ちが向かないような人のように感じられることもあります。
そういう作業が好きではなかったり、楽しめなかったり。
しかし、それ以上に活躍の場と強く結びついていると思われるのが
『期待をどれぐらい上回るか?』という部分です。
コミュニケーション用語を使えば「ペーシング」です。
社会的に活躍とみなされる環境にいる人たちが期待していることに
ただ「ペーシング」をするだけ。
「期待にペーシング」するということです。
もう少し正確に表現すると
「期待を丁度よく上回る」
といったところでしょうか。
期待を下回っては見向きもされません。
サービスとして価値がないと判断されてしまいます。
ピッタリ期待通りであれば、満足は得られるでしょうし、
順調にリピートも望めるのかもしれませんが、
活躍の仕方としては平均的なところに落ち着きそうです。
多くの場合、様々な業界には先駆者たちがいますから
期待通りの範囲では、大勢の中の一人として埋もれてしまう。
同じような期待への応え方だとしたら、すでに馴染みのある先駆者たちが
優先して活躍の機会を与えられることになると考えられます。
期待通りでは、業界の中で大活躍する立場を
取って代わるまではいきにくいだろう、と。
そして期待を上回ったとき、驚きや感動を提供できます。
平均よりも大きな成果が評判を生み、
他と一線を画す形で、大きな活躍の場に進むようです。
ところが、期待を大きく上回り過ぎると、それはもう
理解の範疇を超えてしまうんです。
あるいは、
もはや、その業界の一部としては見なしてもらえなくなることもある。
そこまで求めていない。
そこまでやるつもりはない。
どういうことか想像もつかない。
説明されてもピンとこない。
…というように、関心を持ってももらえないわけです。
世間的に大活躍と捉えられるような成果を出している人は
この「ちょうどよく期待を上回る」ことができていると考えられます。
例えば、キュビズムで描かれた晩年のピカソの絵は
写真のように正確な肖像画を期待している人には受け入れられないはずです。
しかし世の中がピカソの芸術を受け入れ始めたとき、
ピカソの絵は期待をちょうどよく上回るものとなったのでしょう。
そして一度キュビズムというジャンルが確立してからは、多くの人から
受け入れられる範囲の芸術として期待してもらえるようになった、と思われます。
その分野、その業界で期待されている範囲というのがあるんです。
そこをちょうどよく上回る人が活躍の機会を得る。
どうもそういう傾向があるみたいに見えます。
大活躍とみなされる人たちは…、
意図的に期待を少し上回る程度に調節しているのか、
それとも無自覚にちょうどいい程度の技能になっているのか、
どちらかは分かりませんが…、とにかく
ちょうどいい範囲で活動しているようなんです。
よく言われる
「出る杭は打たれる」
というのは、
期待とピッタリ合った範囲から少し出て
現状維持を崩そうとしたときに起きるといえます。
期待と合ったものがバランスよく供給されていて順調に進んでいる。
そこで全体のバランスを崩してでも飛びぬけようとすると
現状を維持しようとするシステムの力に阻害される。
そんなことなんでしょう。
また、「出る杭は打たれる」を元にして
「出過ぎた杭は打たれない」などと言われることもあります。
これはまさに、「ちょうどよく期待を上回った」状態と考えられます。
その分野から理解可能な範囲で、良い意味で予測を裏切る。
「あぁ、そうきたか!」
「そういうのがあったか!」
「そんなことができたとは!」
といった驚きがある場合でしょう。
気持ちが大きく動かされます。
スゴイものとして認識するんです。
その流れでいうなら
「もっと出過ぎた杭は、杭として認識されない」
なんてこともあるはずです。
「柱に見えてしまう」とか「その土地から抜け出てしまう」とか。
キョトンとされる。
ポカンとされる。
サラッと流される。
目に留まらない。
関心の範囲に入らない。
…そんな具合に、理解可能な範囲ではなくなってしまう場合です。
期待を上回り過ぎるために、逆に活躍の機会に恵まれない
ということがあるのではないか、という話です。
期待を少し上回るぐらいにペースを合わせられれば
高い技術を持った人が活躍するのも増えるような気がします。
あるいは期待値を上げるように働きかけるか。
世間からの期待が技能に追いついてくれるときを待つのも1つかもしれませんが…。
2015年05月08日
「どんな気持ち?」
ある種のカウンセリングの流派では
クライアントに気持ちや感情を言語化させようとします。
「どう感じたんですか?」
「そのとき、どんな気持ちでしたか?」
「どのような思いをしたんですか?」
「そのことについて、どのような気持ちですか?」
といった具合。
その意図を明確にして質問しているのかどうかは定かではないですが、
カウンセラー側がクライアントの気持ち・感情を理解するために
質問して明確にしようとする場合も多いようです。
その場合、
「そのとき、どんな気持ちでしたか?」
−「悲しかったです」
「そうですか、悲しかったんですね」
といった流れになります。
傾聴のスタンスとして、オウム返しをしながら
クライアントの思いを受け止める、といったことなんでしょう。
これについては、カウンセラー側に観察力、共感力があれば
全く必要のない質問だといえます。
読みとれば分かる話ですから。
人によっては「見て取れることは単なる推測であって事実ではない」と考え
質問して言語化してもらうことで確信しようとすることがあるようです。
しかし、クライアントが言葉にして伝えてくれたからといって
その内容が本心のままだという保証は相変わらずありません。
カウンセラーへ気を遣って、もっともらしいことを言葉にすることもあれば
信頼関係の度合いによっては、本心を隠すことだってあるはずです。
本当は深い悲しみを感じているのに、それを言葉にせず
「うーん、特には何も感じません。冷静な感じです。」
などと返答するかもしれません。
クライアントの言葉が正直なものであるかどうかを判断しようと思ったら
結局、クライアントの様子を観察して、正直さの度合いを推測する段階へ
再び戻ってしまうわけです。
クライアントの本当の気持ちは、いつまで経っても推測しかできないんです。
であれば、直接的に読みとれるようになってしまったほうが
クライアントの気持ちを捉えられる度合いは大きくなるでしょう。
クライアントの気持ちを理解するために質問するとしたら
言葉でのコミュニケーションに偏っている可能性が伺えます。
また仮に、
「言葉で本心を伝えられる関係性になることそのものが
クライアントの支えになる」
というスタンスだとしても、
その本心を伝えられる度合いは互いの信頼関係に基づきます。
クライアント側が
「この人は信頼できる」
「分かってくれる」
「本気で分かろうとしてくれている」
「自分のために本気になってくれている」
と実感できた度合いに応じて、思いを隠すことなく言語化するようになる。
その判断をするのはクライアント側です。
クライアントが「この人は信頼できる」「分かってくれる」と感じる根拠は、
結局、言葉だけのコミュニケーションではなく、非言語メッセージを含めた
カウンセラーの接し方すべてとなります。
それだけの根拠を最大限、クライアントに対して示していくことが
「クライアントの支えになる関係性」を築くカギとなると考えられます。
あとは時間の問題です。
ジックリ時間をかけて関係性を築けばいいと考えるなら
言葉でのコミュニケーションに注力しながら、
ただクライアントへ気持ちを向けて関わり続けてもいいでしょう。
その気持ちの向け方に応じた非言語メッセージの変化をクライアントは捉え
「この人は本気だ。自分を分かろうとしてくれている。」と判断して
少しずつ思いを隠さずに言語化するようになってききます。
一方、できるだけ短時間でそうした関係性を築こうとするのであれば、
気持ちを言葉にしてもらうような質問をするよりも
観察に基づいた共感的な言葉がけによって
「分かってくれる」「分かろうとしてくれている」ということを
クライアントに分かりやすい形で示すこともできます。
つまり、例えばクライアントが深い悲しみを抱えているとしたら、
「それについて、どのように感じていますか?」と質問して
「悲しいです」と応えてもらい、
「そうですか、悲しんですね」と返す。
それを繰り返して時間をかけて関係性を築いていくこともできるし、
クライアントの表情や姿勢から感情を読み取って
「とても深い悲しみを奥に秘めているように見えます。
その思いを打ち明けることなく、乗り越えるための努力を
ずっと一人でなさってきたのではないですか?」
と、分かってくれる存在であることを伝えて
速やかに関係性を築くこともできる、…ということです。
どちらを取るかはスタンスの違いだともいえますが、
プロとしてカウンセリングをするのであれば料金も発生するわけですし、
相談に来るまでに苦しんできた経緯もあるでしょうから、
短時間で楽になってもらったほうがメリットは大きそうな気はします。
また、気持ちや感情を質問することの別の意図として、
『気づきをもたらす』というものも考えられます。
クライアントが自分の気持ちに自覚するためのステップとして質問する。
人は自分の感情を全て自覚しているわけではありません。
鏡を見て初めて自分が腹を立てていることを発見したり、
人から指摘されて初めて自分の悲しさに気づいたりすることがあります。
これは
ハッキリとは感情を自覚してはいないけれど、
その感情はすぐに気づける状態にある
というときです。
このときに
「どんな気持ちですか?」
と質問されると、
クライアントは自分の内面に注意を向け、何を感じてるかを探り始めます。
そして自分の自覚していなかった感情に気づき、ハッとします。
「そうか、自分はこんなにも腹を立てていたんだ!」という具合に。
ここでポイントは、
クライアントが自分で気づくために
内面と向き合うプロセスに入る
ことです。
質問されて即答できるようなら、それはただ
自覚していた感情を言語化していなかっただけのことです。
カウンセラー側は感情を教えてもらうという点で情報収集ができますが、
これは前述のように、観察できていれば必ずしも必要のない作業となります。
クライアント自身が自覚していない感情に気づいたとき
そこに付随して様々な意味づけが起こります。
これがカウンセリングのプロセスとして重要なんです。
仮に、怒りを自覚していなかったとしたら、怒りに気づいたとき
怒りの対象にも気づきやすくなります。
「何にそんなに腹を立てていたんだろう?
…そうか、あのことが凄く嫌だったんだ!
本当は、もっとこうであって欲しいと願っていたんだ。」
といった感じです。
自覚していなかった感情に気づくと
その感情を生み出していた部分にも気づきやすくなる。
人間関係の場合、そこには大抵、相手への期待が含まれています。
「こうあって欲しかった」、「本当はこういうのを望んでいた」という内容です。
その期待を自覚できるようになると、実際の人間関係に戻ったとき
自分が相手へ期待している内容、つまり要望を、
ハッキリと分かりやすい言葉で相手へ伝えやすくなります。
するとクライアントの関わっている相手もクライアントの意図を掴めますから
それに応じた対応を取りやすくなる。
ただの感情レベルの応酬ではなく、分かりやすく要望を話しあえるわけです。
そして親密な関係であるほど、その要望は両方にとってのメリットを含むものです。
例えば、「一緒に楽しい時間を過ごしたい」とか
「最も信頼する相手にだから賛同して欲しかった」とか。
そうしたレベルの要望を伝えられた側も、多くの場合
親しい間柄であるからこそ、要望に答えたい気持ちを持っているものです。
だからこそお互いを思い遣る関係性にシフトできる。
絆の深まりと、状況改善への双方の努力が起き始めるんです。
これが『クライアントが自覚していない感情に気づく』ことの大きな意味です。
そしてこの『気づきをもたらす』方法として、色々なやり方がある。
流派の違いです。
その1つがシンプルな質問。
「どう感じたんですか?」
「それについて、どのように思いますか?」
「そのとき、どんな気持ちだったんですか?」
…といった聞き方。
あるいは、ゲシュタルト療法などで使われるものとして
「こう言ってみてください」
というのもあります。
おそらくクライアントが感じているであろう気持ちをセリフに変えて
それをクライアントに発話させるように指示する方法です。
クライアントはそのセリフを口にしたとき、
言葉と気持ちが一致する感じを体験します。
言語は体験の記憶と結びついていますから、
実際に抱えていたであろう気持ちを無理やり言葉として口にしたとき、
その気持ちを伴った体験があれば、連動して意識に上がりやすくなります。
結果として、セリフを口に出したときに気づきが起こる。
「あぁ、そうだ!確かに自分はそんな気持ちを感じていた。そうだ!」と。
自覚してはいないけれど意識に上がりやすい状態にあった気持ちであれば、
そんな風に『言葉を言ってみる』作業を通じて気づけるわけです。
このやり方では、逆に当てはまらないセリフを口にすることで
「そうじゃない!そんな気持ちじゃない。本当はこうなんだ。」
と自覚していなかった別の気持ちに気づく場合もあります。
ちなみに、このときカウンセラー側が、
わざと当てはまらないことを言わせたのか
それとも
当てはまるつもりで言わせたのに予測が外れて
結果としてクライアントが別の大事な気持ちに気づくことになったのか
の違いは、カウンセラー本人にしか知る由もありません。
まぁ、「とりあえず思いついたセリフを言ってもらって
クライアントに何かの気づきが起きれば良い」
というスタンスもあるのかもしれませんが。
とにかく、『セリフを言ってもらう』方法には
真逆の2つの効果のうち一方を生む可能性がある、ということです。
そして、質問でも『セリフを言ってもらう』でもない方法として
「気持ちを汲み取って代弁するように言葉をかける」やり方があります。
「本当はこういう気持ちもあったのではないですか?」
「お気づきかどうか分かりませんが、○○な様子が見て取れます。
何か思い当たるところはありませんか?」
といった感じ。
クライアント本人が自覚できていない感情であっても
表情や姿勢、声のトーンなどから客観的に読みとれる場合がありますから、
それをカウンセラー側が伝え返して、注意を向けてもらうわけです。
するとクライアントは内面に注意を向けて、
指摘に当てはまる気持ちがあるかどうかを探し始めます。
結果として
「あぁ、確かに。言われてみれば、そういう気持ちがあります。」
となる。
そこから期待していたことにまで気づきを広げていく…という流れは同様です。
ですから、
・「どんな気持ちですか?」と質問する
・「こんな風に言ってみてください」とセリフを指示する
・「○○なように見えます」と指摘する
のいずれの方法でも、
クライアント本人の自覚していなかった感情へ気づくキッカケを与えられるんです。
そして、そこを隠れていた”わだかまり”の解消の糸口にできる。
そういう方向性もあるんです。
まとめると、
クライアントの感情をカウンセリングの話題に上げるのには2通りの意図がある
ということになります。
1つは、クライアントの気持ちをカウンセラー側が把握すること。
こちらには、
その気持ちを理解するプロセスを通じて、カウンセラーが
クライアントから「分かってもらえる」、「分かろうとしてくれる」相手として認識され、
信頼関係と安心できる関係性を築く
という効果も伴います。
そして「分かってもらえる」、「分かろうとしてくれる」相手であることを
クライアントへ伝えるためのメッセージとして、
・「どんな気持ちですか?」と質問する
・感情を読み取って、共感的な言葉をかける
といった方法がある。
もう1つの意図が、
クライアント本人が自覚できていない感情に気づいてもらう
です。
こちらには
隠れていた感情的わだかまりを解消するための糸口を発見する
という効果があります。
そして自覚していない感情に気づいてもらうための方法として
・「どんな気持ちですか?」と質問する
・「こんな風に言ってみてください」とセリフを指示する
・「○○なように見えます」と指摘する
といったものが挙げられます。
この2つの意図を区別しておくと、カウンセラーとして
「その場面で自分が何をしようとしているのか?」
「どんな方向性に進めようとしているのか?」
と明確にするのに役立ちます。
カウンセリングのプロセスからも無駄を省きやすくなるでしょう。
「どんな気持ちですか?」という質問であっても
「○○なように見えます」というフィードバックであっても、
両方の意図で共通して使える方法なんです。
しかし同じ形をしていても、意図が異なる可能性がある。
区別して使い分けると良いのではないでしょうか。
他の人のカウンセリングのやり方を見て参考にする場合でも同じです。
同じフレーズを別の意図で使っているかもしれません。
どちらの意図なのかを察しながら観察すると、
カウンセリングの流れを検討する上で、とても有効でしょう。
クライアントに気持ちや感情を言語化させようとします。
「どう感じたんですか?」
「そのとき、どんな気持ちでしたか?」
「どのような思いをしたんですか?」
「そのことについて、どのような気持ちですか?」
といった具合。
その意図を明確にして質問しているのかどうかは定かではないですが、
カウンセラー側がクライアントの気持ち・感情を理解するために
質問して明確にしようとする場合も多いようです。
その場合、
「そのとき、どんな気持ちでしたか?」
−「悲しかったです」
「そうですか、悲しかったんですね」
といった流れになります。
傾聴のスタンスとして、オウム返しをしながら
クライアントの思いを受け止める、といったことなんでしょう。
これについては、カウンセラー側に観察力、共感力があれば
全く必要のない質問だといえます。
読みとれば分かる話ですから。
人によっては「見て取れることは単なる推測であって事実ではない」と考え
質問して言語化してもらうことで確信しようとすることがあるようです。
しかし、クライアントが言葉にして伝えてくれたからといって
その内容が本心のままだという保証は相変わらずありません。
カウンセラーへ気を遣って、もっともらしいことを言葉にすることもあれば
信頼関係の度合いによっては、本心を隠すことだってあるはずです。
本当は深い悲しみを感じているのに、それを言葉にせず
「うーん、特には何も感じません。冷静な感じです。」
などと返答するかもしれません。
クライアントの言葉が正直なものであるかどうかを判断しようと思ったら
結局、クライアントの様子を観察して、正直さの度合いを推測する段階へ
再び戻ってしまうわけです。
クライアントの本当の気持ちは、いつまで経っても推測しかできないんです。
であれば、直接的に読みとれるようになってしまったほうが
クライアントの気持ちを捉えられる度合いは大きくなるでしょう。
クライアントの気持ちを理解するために質問するとしたら
言葉でのコミュニケーションに偏っている可能性が伺えます。
また仮に、
「言葉で本心を伝えられる関係性になることそのものが
クライアントの支えになる」
というスタンスだとしても、
その本心を伝えられる度合いは互いの信頼関係に基づきます。
クライアント側が
「この人は信頼できる」
「分かってくれる」
「本気で分かろうとしてくれている」
「自分のために本気になってくれている」
と実感できた度合いに応じて、思いを隠すことなく言語化するようになる。
その判断をするのはクライアント側です。
クライアントが「この人は信頼できる」「分かってくれる」と感じる根拠は、
結局、言葉だけのコミュニケーションではなく、非言語メッセージを含めた
カウンセラーの接し方すべてとなります。
それだけの根拠を最大限、クライアントに対して示していくことが
「クライアントの支えになる関係性」を築くカギとなると考えられます。
あとは時間の問題です。
ジックリ時間をかけて関係性を築けばいいと考えるなら
言葉でのコミュニケーションに注力しながら、
ただクライアントへ気持ちを向けて関わり続けてもいいでしょう。
その気持ちの向け方に応じた非言語メッセージの変化をクライアントは捉え
「この人は本気だ。自分を分かろうとしてくれている。」と判断して
少しずつ思いを隠さずに言語化するようになってききます。
一方、できるだけ短時間でそうした関係性を築こうとするのであれば、
気持ちを言葉にしてもらうような質問をするよりも
観察に基づいた共感的な言葉がけによって
「分かってくれる」「分かろうとしてくれている」ということを
クライアントに分かりやすい形で示すこともできます。
つまり、例えばクライアントが深い悲しみを抱えているとしたら、
「それについて、どのように感じていますか?」と質問して
「悲しいです」と応えてもらい、
「そうですか、悲しんですね」と返す。
それを繰り返して時間をかけて関係性を築いていくこともできるし、
クライアントの表情や姿勢から感情を読み取って
「とても深い悲しみを奥に秘めているように見えます。
その思いを打ち明けることなく、乗り越えるための努力を
ずっと一人でなさってきたのではないですか?」
と、分かってくれる存在であることを伝えて
速やかに関係性を築くこともできる、…ということです。
どちらを取るかはスタンスの違いだともいえますが、
プロとしてカウンセリングをするのであれば料金も発生するわけですし、
相談に来るまでに苦しんできた経緯もあるでしょうから、
短時間で楽になってもらったほうがメリットは大きそうな気はします。
また、気持ちや感情を質問することの別の意図として、
『気づきをもたらす』というものも考えられます。
クライアントが自分の気持ちに自覚するためのステップとして質問する。
人は自分の感情を全て自覚しているわけではありません。
鏡を見て初めて自分が腹を立てていることを発見したり、
人から指摘されて初めて自分の悲しさに気づいたりすることがあります。
これは
ハッキリとは感情を自覚してはいないけれど、
その感情はすぐに気づける状態にある
というときです。
このときに
「どんな気持ちですか?」
と質問されると、
クライアントは自分の内面に注意を向け、何を感じてるかを探り始めます。
そして自分の自覚していなかった感情に気づき、ハッとします。
「そうか、自分はこんなにも腹を立てていたんだ!」という具合に。
ここでポイントは、
クライアントが自分で気づくために
内面と向き合うプロセスに入る
ことです。
質問されて即答できるようなら、それはただ
自覚していた感情を言語化していなかっただけのことです。
カウンセラー側は感情を教えてもらうという点で情報収集ができますが、
これは前述のように、観察できていれば必ずしも必要のない作業となります。
クライアント自身が自覚していない感情に気づいたとき
そこに付随して様々な意味づけが起こります。
これがカウンセリングのプロセスとして重要なんです。
仮に、怒りを自覚していなかったとしたら、怒りに気づいたとき
怒りの対象にも気づきやすくなります。
「何にそんなに腹を立てていたんだろう?
…そうか、あのことが凄く嫌だったんだ!
本当は、もっとこうであって欲しいと願っていたんだ。」
といった感じです。
自覚していなかった感情に気づくと
その感情を生み出していた部分にも気づきやすくなる。
人間関係の場合、そこには大抵、相手への期待が含まれています。
「こうあって欲しかった」、「本当はこういうのを望んでいた」という内容です。
その期待を自覚できるようになると、実際の人間関係に戻ったとき
自分が相手へ期待している内容、つまり要望を、
ハッキリと分かりやすい言葉で相手へ伝えやすくなります。
するとクライアントの関わっている相手もクライアントの意図を掴めますから
それに応じた対応を取りやすくなる。
ただの感情レベルの応酬ではなく、分かりやすく要望を話しあえるわけです。
そして親密な関係であるほど、その要望は両方にとってのメリットを含むものです。
例えば、「一緒に楽しい時間を過ごしたい」とか
「最も信頼する相手にだから賛同して欲しかった」とか。
そうしたレベルの要望を伝えられた側も、多くの場合
親しい間柄であるからこそ、要望に答えたい気持ちを持っているものです。
だからこそお互いを思い遣る関係性にシフトできる。
絆の深まりと、状況改善への双方の努力が起き始めるんです。
これが『クライアントが自覚していない感情に気づく』ことの大きな意味です。
そしてこの『気づきをもたらす』方法として、色々なやり方がある。
流派の違いです。
その1つがシンプルな質問。
「どう感じたんですか?」
「それについて、どのように思いますか?」
「そのとき、どんな気持ちだったんですか?」
…といった聞き方。
あるいは、ゲシュタルト療法などで使われるものとして
「こう言ってみてください」
というのもあります。
おそらくクライアントが感じているであろう気持ちをセリフに変えて
それをクライアントに発話させるように指示する方法です。
クライアントはそのセリフを口にしたとき、
言葉と気持ちが一致する感じを体験します。
言語は体験の記憶と結びついていますから、
実際に抱えていたであろう気持ちを無理やり言葉として口にしたとき、
その気持ちを伴った体験があれば、連動して意識に上がりやすくなります。
結果として、セリフを口に出したときに気づきが起こる。
「あぁ、そうだ!確かに自分はそんな気持ちを感じていた。そうだ!」と。
自覚してはいないけれど意識に上がりやすい状態にあった気持ちであれば、
そんな風に『言葉を言ってみる』作業を通じて気づけるわけです。
このやり方では、逆に当てはまらないセリフを口にすることで
「そうじゃない!そんな気持ちじゃない。本当はこうなんだ。」
と自覚していなかった別の気持ちに気づく場合もあります。
ちなみに、このときカウンセラー側が、
わざと当てはまらないことを言わせたのか
それとも
当てはまるつもりで言わせたのに予測が外れて
結果としてクライアントが別の大事な気持ちに気づくことになったのか
の違いは、カウンセラー本人にしか知る由もありません。
まぁ、「とりあえず思いついたセリフを言ってもらって
クライアントに何かの気づきが起きれば良い」
というスタンスもあるのかもしれませんが。
とにかく、『セリフを言ってもらう』方法には
真逆の2つの効果のうち一方を生む可能性がある、ということです。
そして、質問でも『セリフを言ってもらう』でもない方法として
「気持ちを汲み取って代弁するように言葉をかける」やり方があります。
「本当はこういう気持ちもあったのではないですか?」
「お気づきかどうか分かりませんが、○○な様子が見て取れます。
何か思い当たるところはありませんか?」
といった感じ。
クライアント本人が自覚できていない感情であっても
表情や姿勢、声のトーンなどから客観的に読みとれる場合がありますから、
それをカウンセラー側が伝え返して、注意を向けてもらうわけです。
するとクライアントは内面に注意を向けて、
指摘に当てはまる気持ちがあるかどうかを探し始めます。
結果として
「あぁ、確かに。言われてみれば、そういう気持ちがあります。」
となる。
そこから期待していたことにまで気づきを広げていく…という流れは同様です。
ですから、
・「どんな気持ちですか?」と質問する
・「こんな風に言ってみてください」とセリフを指示する
・「○○なように見えます」と指摘する
のいずれの方法でも、
クライアント本人の自覚していなかった感情へ気づくキッカケを与えられるんです。
そして、そこを隠れていた”わだかまり”の解消の糸口にできる。
そういう方向性もあるんです。
まとめると、
クライアントの感情をカウンセリングの話題に上げるのには2通りの意図がある
ということになります。
1つは、クライアントの気持ちをカウンセラー側が把握すること。
こちらには、
その気持ちを理解するプロセスを通じて、カウンセラーが
クライアントから「分かってもらえる」、「分かろうとしてくれる」相手として認識され、
信頼関係と安心できる関係性を築く
という効果も伴います。
そして「分かってもらえる」、「分かろうとしてくれる」相手であることを
クライアントへ伝えるためのメッセージとして、
・「どんな気持ちですか?」と質問する
・感情を読み取って、共感的な言葉をかける
といった方法がある。
もう1つの意図が、
クライアント本人が自覚できていない感情に気づいてもらう
です。
こちらには
隠れていた感情的わだかまりを解消するための糸口を発見する
という効果があります。
そして自覚していない感情に気づいてもらうための方法として
・「どんな気持ちですか?」と質問する
・「こんな風に言ってみてください」とセリフを指示する
・「○○なように見えます」と指摘する
といったものが挙げられます。
この2つの意図を区別しておくと、カウンセラーとして
「その場面で自分が何をしようとしているのか?」
「どんな方向性に進めようとしているのか?」
と明確にするのに役立ちます。
カウンセリングのプロセスからも無駄を省きやすくなるでしょう。
「どんな気持ちですか?」という質問であっても
「○○なように見えます」というフィードバックであっても、
両方の意図で共通して使える方法なんです。
しかし同じ形をしていても、意図が異なる可能性がある。
区別して使い分けると良いのではないでしょうか。
他の人のカウンセリングのやり方を見て参考にする場合でも同じです。
同じフレーズを別の意図で使っているかもしれません。
どちらの意図なのかを察しながら観察すると、
カウンセリングの流れを検討する上で、とても有効でしょう。