2015年06月
2015年06月07日
【セミナー】感情のケーススタディ
ご案内: 6月21日(日)開催
コミュニケーション講座 〜感情の取り扱いとケーススタディ〜
直近のお知らせですので、簡単にご案内します。
今回の講座では『感情』について理解を深めます。
客観的に感情を観察するだけでなく
自分の感情にも気づけるようにトレーニングします。
心理学的な知識としての感情だけではなく
実態として主観的に体験される感情を区別する。
そうすると、感情の種類から
「どんなことがあったのか?」
を想像することができるようになります。
つまり
どんな状況が、どの種類の感情を引き起こすか
が分かっていることで、
感情を手掛かりに、状況を想像しやすくなるわけです。
コミュニケーションであれば、相手の訴えの中心を
事前に大まかな形で予測しながら聞けますから、
話をブラさずに把握していくことが可能になります。
そのうえで、感情が解消されていく流れも理解していれば
コミュニケーションの最中に「何をすればいいか」も分かりやすいはずです。
相手が発したメッセージに含まれる感情の種類が早めに分かれば
関わり方の方向性が明確になる、ということです。
厄介なコミュニケーションほど、感情のもつれが関わりますから
感情の性質を理解して、対処の原則を知っておくだけでも
自体が悪化してしまうことを防げると考えられます。
このあたりのコミュニケーションを
・感情を把握する
・感情への対応を工夫する
という観点から
ケーススタディでトレーニングする予定です。
またケーススタディの進め方そのものを通しても
コミュニケーションのトレーニングを行います。
状況の把握、流れの理解、感情のやり取りなど
紹介されたケースを把握して、効果的に議論するには
それなりの質問の技術や言葉がけが必要になります。
そのあたりも併せてポイントを紹介しながら進めていくつもりです。
感情について全体を網羅した話はあまり見かけない気がします。
明確な出典を紹介するようなセミナーではありませんが
実用的に役立つ内容ではないかと考えています。
ご興味とご都合が合いましたら、お越しください。
◆録音/録画、再生機材に関しまして
感情を捉える実習には、録画できる機材があると役立つかと思います。
再生画面の大きさを考えますと、最近は
スマートフォンやタブレット端末などのほうが実用的かもしれません。
ご自身の様子を観察するのに、鏡をご持参いただいても結構です。
また、講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
【セミナーの詳細】
≪コミュニケーション講座 〜感情の取り扱いとケーススタディ〜≫
【日時】 6月21日(日)
9:30〜16:00
※開始時間にご注意ください
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 五反田文化センター 第一会議室
(JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
(東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
コミュニケーションと向き合い始めてから様々なトレーニングを受け
実践を重ねていく中で、重要なポイントは段々と絞り込まれてきたようです。
その中には技術としては紹介できない本質的な部分もありますが、
それ以外のところは感情の取り扱いが大部分を占めている印象を受けます。
確かに、考え方を変えるトレーニングや、リフレーミングなどの技法は有効です。
そこにも工夫するところは沢山あります。
しかしながら、考え方や物事の見方が変わるには
感情のわだかまりが取り除かれている必要がある。
逆にいえば、感情を解消できれば、それに伴って
考え方も自然と変わりやすいものなんです。
さらに感情の取り扱いを効果的に行うための意識の使い方そのものが
考え方を柔軟にするときの視点と共通しています。
感情の取り扱いを身につければ、物の見方を変えるのもスムーズになるんです。
何より、リフレーミングとして提供できる新たな物の見方は
関わる側が、相手に役立ちそうな新たなアイデアですから、
そのアイデアを思いつけるかどうかが最大のポイントとなります。
言葉を上手く工夫するのは、その次の段階なんです。
まずは柔軟な発想を思いつく必要がある。
そのために役立つのが、自分で多くの問題をリフレーミングしておくこと。
自分で様々な経験を柔軟に捉え直して、悩みを乗り越えておくことです。
そうすると、目の前の相手に対して効果的な発想が、自然と浮かんできます。
自分で自分の問題を解消しておくのが役立つんです。
そして、それにもやはり感情の取り扱いが求められます。
自分で感情を自覚して、自ら解消する。
それによって新たな着眼点が得られます。
ですから原則的に
・自分の感情を理解して、自ら解消する
・相手の感情を捉えて、解消のための方向性で関わる
というところに集約されるわけです。
観察力や共感力、質問の仕方なども
感情を捉えて関わっていくための要素だといえます。
コミュニケーションの中心は感情にある。
そういう理解が最も的確に、心の動きを整理できると感じます。
講座で取り扱う内容が、感情にまつわるものになるのも
その意味では当然のことなのかもしれません。
今回の講座が、心の取り扱いのヒントになれば幸いです。
コミュニケーション講座 〜感情の取り扱いとケーススタディ〜
直近のお知らせですので、簡単にご案内します。
今回の講座では『感情』について理解を深めます。
客観的に感情を観察するだけでなく
自分の感情にも気づけるようにトレーニングします。
心理学的な知識としての感情だけではなく
実態として主観的に体験される感情を区別する。
そうすると、感情の種類から
「どんなことがあったのか?」
を想像することができるようになります。
つまり
どんな状況が、どの種類の感情を引き起こすか
が分かっていることで、
感情を手掛かりに、状況を想像しやすくなるわけです。
コミュニケーションであれば、相手の訴えの中心を
事前に大まかな形で予測しながら聞けますから、
話をブラさずに把握していくことが可能になります。
そのうえで、感情が解消されていく流れも理解していれば
コミュニケーションの最中に「何をすればいいか」も分かりやすいはずです。
相手が発したメッセージに含まれる感情の種類が早めに分かれば
関わり方の方向性が明確になる、ということです。
厄介なコミュニケーションほど、感情のもつれが関わりますから
感情の性質を理解して、対処の原則を知っておくだけでも
自体が悪化してしまうことを防げると考えられます。
このあたりのコミュニケーションを
・感情を把握する
・感情への対応を工夫する
という観点から
ケーススタディでトレーニングする予定です。
またケーススタディの進め方そのものを通しても
コミュニケーションのトレーニングを行います。
状況の把握、流れの理解、感情のやり取りなど
紹介されたケースを把握して、効果的に議論するには
それなりの質問の技術や言葉がけが必要になります。
そのあたりも併せてポイントを紹介しながら進めていくつもりです。
感情について全体を網羅した話はあまり見かけない気がします。
明確な出典を紹介するようなセミナーではありませんが
実用的に役立つ内容ではないかと考えています。
ご興味とご都合が合いましたら、お越しください。
◆録音/録画、再生機材に関しまして
感情を捉える実習には、録画できる機材があると役立つかと思います。
再生画面の大きさを考えますと、最近は
スマートフォンやタブレット端末などのほうが実用的かもしれません。
ご自身の様子を観察するのに、鏡をご持参いただいても結構です。
また、講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
【セミナーの詳細】
≪コミュニケーション講座 〜感情の取り扱いとケーススタディ〜≫
【日時】 6月21日(日)
9:30〜16:00
※開始時間にご注意ください
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 五反田文化センター 第一会議室
(JR山手線・五反田駅より徒歩15分)
(東急目黒線・不動前駅より徒歩8分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
コミュニケーションと向き合い始めてから様々なトレーニングを受け
実践を重ねていく中で、重要なポイントは段々と絞り込まれてきたようです。
その中には技術としては紹介できない本質的な部分もありますが、
それ以外のところは感情の取り扱いが大部分を占めている印象を受けます。
確かに、考え方を変えるトレーニングや、リフレーミングなどの技法は有効です。
そこにも工夫するところは沢山あります。
しかしながら、考え方や物事の見方が変わるには
感情のわだかまりが取り除かれている必要がある。
逆にいえば、感情を解消できれば、それに伴って
考え方も自然と変わりやすいものなんです。
さらに感情の取り扱いを効果的に行うための意識の使い方そのものが
考え方を柔軟にするときの視点と共通しています。
感情の取り扱いを身につければ、物の見方を変えるのもスムーズになるんです。
何より、リフレーミングとして提供できる新たな物の見方は
関わる側が、相手に役立ちそうな新たなアイデアですから、
そのアイデアを思いつけるかどうかが最大のポイントとなります。
言葉を上手く工夫するのは、その次の段階なんです。
まずは柔軟な発想を思いつく必要がある。
そのために役立つのが、自分で多くの問題をリフレーミングしておくこと。
自分で様々な経験を柔軟に捉え直して、悩みを乗り越えておくことです。
そうすると、目の前の相手に対して効果的な発想が、自然と浮かんできます。
自分で自分の問題を解消しておくのが役立つんです。
そして、それにもやはり感情の取り扱いが求められます。
自分で感情を自覚して、自ら解消する。
それによって新たな着眼点が得られます。
ですから原則的に
・自分の感情を理解して、自ら解消する
・相手の感情を捉えて、解消のための方向性で関わる
というところに集約されるわけです。
観察力や共感力、質問の仕方なども
感情を捉えて関わっていくための要素だといえます。
コミュニケーションの中心は感情にある。
そういう理解が最も的確に、心の動きを整理できると感じます。
講座で取り扱う内容が、感情にまつわるものになるのも
その意味では当然のことなのかもしれません。
今回の講座が、心の取り扱いのヒントになれば幸いです。
2015年06月05日
「相手を信じる」の罠
誤解を恐れずに言ってしまえば、
「相手(クライアント)を100%信じる」
なんていう人は、
自ら何かをしようとはしないはずです。
自分が役に立つと思う手法や考え方を広めようとしたり、
カウンセリングやコーチングのセッションや
セミナーに「集客」しようとしたりもしないでしょう。
なぜなら「大丈夫だ」と100%信じているんですから。
「絶対大丈夫なんだから、自分が何かをする必要なんてない」
と思うほうが当然です。
自分が良いと思ったものを広めようとするのは
そのほうが良くなると感じているからに他なりません。
少なくとも
「何もしないよりは、これをやったほうがいい」
という思いがあるはずです。
相談にのることを仕事とするのも同様です。
「自分が関わったほうが上手くいく」
「一人で困っているよりも自分に相談してもらったほうがいい」
という思いがある。
そうでなければ、わざわざ自分から動こうとしないでしょう。
何も、そういう気持ちがあることが問題だというのではありません。
それは自然なことだと思います。
ただ
「相手(クライアント)を信じる」という耳触りの良い言葉を鵜呑みにして
自分の本心を自覚しにくくなる可能性を知っておくのも意味がある
という話です。
「相手(クライアント)を信じる」という『心構え』が役に立つのは
自分が相手(クライアント)を何とかしてやろうとしてしまう
傾向がある時期だといえます。
そんなに自分が頑張らなくても、相手は勝手に上手くやっていく。
そういう実感を持てると、関わり方が楽になるだけでなく
相手の自立も促しやすくなる、という現実的なメリットがあります。
「案外、大丈夫なもんだ」と思えるぐらいで充分な範囲かもしれません。
ところが
「相手(クライアント)を信じる」という言い回しを
金科玉条のように扱い始めてしまうと、
その考えに反する自分の気持ちに目を背けてしまいかねません。
素直に自分のやっていることを勧めにくい気持ちが出てきたり…。
逆に、あまりに美しいお題目として頼り始めると、
自分が本当は「相手(クライアント)を信じる」ことをしていないことに
気づかなくなってしまう可能性もあります。
つまり、「素晴らしいものなんだから広めたい!」という思いが過剰になり、
結果として「どうせ大丈夫だ」という信頼をどの程度もっているかを
気にしなくなってしまう、ということです。
一見すると素晴らしそうなフレーズだからこそ
頼り過ぎると盲点ができてしまう。
そのことを自覚しながら
自分の気持ちを丁寧に感じつつ自分の活動と向き合うのも、
自分の思いと世の中とのバランスを取るのに役立つ、と考えられます。
「本当に100%相手のことを信じていたら
わざわざ自分から他人に何かをしようとはしない。」
これを1つの極と考える。
そして対極に、
「自分が救わなければ他人はダメになってしまう」
を置く。
この両端を想定しながら、自分の立ち位置をモニターしておくと
丁度いいところを見つけやすいのではないでしょうか。
「相手(クライアント)を100%信じる」
なんていう人は、
自ら何かをしようとはしないはずです。
自分が役に立つと思う手法や考え方を広めようとしたり、
カウンセリングやコーチングのセッションや
セミナーに「集客」しようとしたりもしないでしょう。
なぜなら「大丈夫だ」と100%信じているんですから。
「絶対大丈夫なんだから、自分が何かをする必要なんてない」
と思うほうが当然です。
自分が良いと思ったものを広めようとするのは
そのほうが良くなると感じているからに他なりません。
少なくとも
「何もしないよりは、これをやったほうがいい」
という思いがあるはずです。
相談にのることを仕事とするのも同様です。
「自分が関わったほうが上手くいく」
「一人で困っているよりも自分に相談してもらったほうがいい」
という思いがある。
そうでなければ、わざわざ自分から動こうとしないでしょう。
何も、そういう気持ちがあることが問題だというのではありません。
それは自然なことだと思います。
ただ
「相手(クライアント)を信じる」という耳触りの良い言葉を鵜呑みにして
自分の本心を自覚しにくくなる可能性を知っておくのも意味がある
という話です。
「相手(クライアント)を信じる」という『心構え』が役に立つのは
自分が相手(クライアント)を何とかしてやろうとしてしまう
傾向がある時期だといえます。
そんなに自分が頑張らなくても、相手は勝手に上手くやっていく。
そういう実感を持てると、関わり方が楽になるだけでなく
相手の自立も促しやすくなる、という現実的なメリットがあります。
「案外、大丈夫なもんだ」と思えるぐらいで充分な範囲かもしれません。
ところが
「相手(クライアント)を信じる」という言い回しを
金科玉条のように扱い始めてしまうと、
その考えに反する自分の気持ちに目を背けてしまいかねません。
素直に自分のやっていることを勧めにくい気持ちが出てきたり…。
逆に、あまりに美しいお題目として頼り始めると、
自分が本当は「相手(クライアント)を信じる」ことをしていないことに
気づかなくなってしまう可能性もあります。
つまり、「素晴らしいものなんだから広めたい!」という思いが過剰になり、
結果として「どうせ大丈夫だ」という信頼をどの程度もっているかを
気にしなくなってしまう、ということです。
一見すると素晴らしそうなフレーズだからこそ
頼り過ぎると盲点ができてしまう。
そのことを自覚しながら
自分の気持ちを丁寧に感じつつ自分の活動と向き合うのも、
自分の思いと世の中とのバランスを取るのに役立つ、と考えられます。
「本当に100%相手のことを信じていたら
わざわざ自分から他人に何かをしようとはしない。」
これを1つの極と考える。
そして対極に、
「自分が救わなければ他人はダメになってしまう」
を置く。
この両端を想定しながら、自分の立ち位置をモニターしておくと
丁度いいところを見つけやすいのではないでしょうか。
2015年06月03日
細かいところが気になる
先日、山手線に乗っていたときのことです。
中学生男子らしき二人組が、何か棒のようなものを持って
電車で移動していました。
そして五反田駅につくと、二人は車内から走ってホームへ出ました。
僕も降りる予定だったのでホームへと出てみると、その中学生二人が
棒を駅ホームに設置されたスピーカーへと近づけていたんです。
一人の棒の先端には ICレコーダー。
もう一人の棒の先端はマイクになっていました。
(マイクの少年は、手元にマイクと配線されたレコーダーを保持)
どうやら駅のアナウンスを録音したかったようです。
しばらくして乗ってきた電車の発車アナウンスが流れると
少年たちは満面の笑みを浮かべつつ、
すごい集中力を発揮して放送に聞き入っていました。
そうやって一駅ずつ移動しては録音していたのでしょうか。
それとも五反田限定だったんでしょうか?
僕は想像もできませんが、駅のアナウンスが大好きな様子は見て取れました。
いわゆる筋金入りの「音鉄」になっていくのかもしれません。
大雑把にいえば、その二人の中学生は「電車好き」だということになりそうです。
電車が好きじゃなかったら、駅のアナウンスに興味を持たないでしょうから。
しかし彼ら自身は、自分を「電車好きなんです」とは言わない可能性があります。
他人が分かりやすいようにという配慮で
「電車が好きなんです」
と表現することがあったとしても、
自認するのは「駅ホームのアナウンス好き」
もしくは「電車関連の音好き」だと想像できます。
※それだけの強い趣味を持てる人が、
他人への伝わりやすさを配慮するかどうかは定かではないですし、
好きな音の種類のコダワリも分かりませんが…。
とても強く興味を持っていて、大好きだからこそ
「電車」という大枠のカテゴリーでは捉えないんです。
聞いたところによると、電車の写真が好きな人でも
JR限定とか、○○線限定とかがいるそうですし、
以前にテレビで見た人は、都バスのエンジン音限定でした。
そうはいっても、もちろん色々な電車に詳しいことでしょう。
都バスのエンジン音好きの人だって、バス全般への知識もあると思われます。
平均的な人と比べたら、です。
興味が高まると分類も細かくなっていくものだ、ということです。
その意味では
「趣味は人間観察です」
という表現だと、カテゴリーが大きいのかもしれません。
「電車が好きです」といっているぐらい。
もちろん
「特にすごく電車にコダワっているわけではないけれど、電車が好きです」
という人もいると思います。
「なんとなく、電車ってテンションあがりますよね!」
なんていう人。
そういうぐらいに「人間を観察するのが好き」なのでしょうか。
本当に人間への関心が高まれば、その注目の対象は
もっと細分化されていきます。
人間観察という単語が選ばれにくくなってくると思われます。
五反田駅の中学生二人組が駅ホームのアナウンスに注目したように
全身の筋肉の張力バランスに関心を持つ、とか
個別の表情筋と感情との関連に興味を持つ、とか
文化背景に共通する動作に注目する、とか
細分化した興味が出てくるものでしょう。
「人間観察」というけれど、いったい「人間の何」を見ているのか?、と。
「絵を見るのが好きなんです」
― 「へー、そうなんですか!いつぐらいの時代が好きですか?
一番好きな画家は?
どういう作風が好きとかあります?」
…これぐらいの会話は普通に起きるものだと思います。
僕も雑談で「最近、美術館に行ってきたんですよ」という話をしたら
絵画好きだった相手は、上記のような質問を返してきました。
興味が強まれば、違いに目が向きやすくなるものだ、ということの表れ。
その意味では、人間観察という単語は範囲が広いといえます。
観察力を磨きたいのであれば、「人間観察をする」といった捉え方よりも
「人間の○○を観察する」と細分化したほうが効果的だと考えられます。
観察力を上げたければ、の話ですが。
中学生男子らしき二人組が、何か棒のようなものを持って
電車で移動していました。
そして五反田駅につくと、二人は車内から走ってホームへ出ました。
僕も降りる予定だったのでホームへと出てみると、その中学生二人が
棒を駅ホームに設置されたスピーカーへと近づけていたんです。
一人の棒の先端には ICレコーダー。
もう一人の棒の先端はマイクになっていました。
(マイクの少年は、手元にマイクと配線されたレコーダーを保持)
どうやら駅のアナウンスを録音したかったようです。
しばらくして乗ってきた電車の発車アナウンスが流れると
少年たちは満面の笑みを浮かべつつ、
すごい集中力を発揮して放送に聞き入っていました。
そうやって一駅ずつ移動しては録音していたのでしょうか。
それとも五反田限定だったんでしょうか?
僕は想像もできませんが、駅のアナウンスが大好きな様子は見て取れました。
いわゆる筋金入りの「音鉄」になっていくのかもしれません。
大雑把にいえば、その二人の中学生は「電車好き」だということになりそうです。
電車が好きじゃなかったら、駅のアナウンスに興味を持たないでしょうから。
しかし彼ら自身は、自分を「電車好きなんです」とは言わない可能性があります。
他人が分かりやすいようにという配慮で
「電車が好きなんです」
と表現することがあったとしても、
自認するのは「駅ホームのアナウンス好き」
もしくは「電車関連の音好き」だと想像できます。
※それだけの強い趣味を持てる人が、
他人への伝わりやすさを配慮するかどうかは定かではないですし、
好きな音の種類のコダワリも分かりませんが…。
とても強く興味を持っていて、大好きだからこそ
「電車」という大枠のカテゴリーでは捉えないんです。
聞いたところによると、電車の写真が好きな人でも
JR限定とか、○○線限定とかがいるそうですし、
以前にテレビで見た人は、都バスのエンジン音限定でした。
そうはいっても、もちろん色々な電車に詳しいことでしょう。
都バスのエンジン音好きの人だって、バス全般への知識もあると思われます。
平均的な人と比べたら、です。
興味が高まると分類も細かくなっていくものだ、ということです。
その意味では
「趣味は人間観察です」
という表現だと、カテゴリーが大きいのかもしれません。
「電車が好きです」といっているぐらい。
もちろん
「特にすごく電車にコダワっているわけではないけれど、電車が好きです」
という人もいると思います。
「なんとなく、電車ってテンションあがりますよね!」
なんていう人。
そういうぐらいに「人間を観察するのが好き」なのでしょうか。
本当に人間への関心が高まれば、その注目の対象は
もっと細分化されていきます。
人間観察という単語が選ばれにくくなってくると思われます。
五反田駅の中学生二人組が駅ホームのアナウンスに注目したように
全身の筋肉の張力バランスに関心を持つ、とか
個別の表情筋と感情との関連に興味を持つ、とか
文化背景に共通する動作に注目する、とか
細分化した興味が出てくるものでしょう。
「人間観察」というけれど、いったい「人間の何」を見ているのか?、と。
「絵を見るのが好きなんです」
― 「へー、そうなんですか!いつぐらいの時代が好きですか?
一番好きな画家は?
どういう作風が好きとかあります?」
…これぐらいの会話は普通に起きるものだと思います。
僕も雑談で「最近、美術館に行ってきたんですよ」という話をしたら
絵画好きだった相手は、上記のような質問を返してきました。
興味が強まれば、違いに目が向きやすくなるものだ、ということの表れ。
その意味では、人間観察という単語は範囲が広いといえます。
観察力を磨きたいのであれば、「人間観察をする」といった捉え方よりも
「人間の○○を観察する」と細分化したほうが効果的だと考えられます。
観察力を上げたければ、の話ですが。
2015年06月01日
価値観が変わる
『価値観』を気にしておくと、人とかかわる上で役に立つことが多いものです。
相手の価値観を理解するように心がけ、それに合わせて対応すれば
円滑なコミュニケーションが期待できます。
相手を不快にすることなく、むしろ喜んでもらいやすいでしょう。
しかしながら、『価値観』というものを過剰に重要視する風潮も見て取れます。
自分の価値観を「自分らしさ」と直接的に結びつけ過ぎるのは
逆に可能性を狭めることもあるはずです。
結論からいえば、価値観なんて簡単に変わりますし
過去と全く違う「自分」を自分らしく感じることも多々あるからです。
むしろ、価値観に基づいた自分らしさは知らないうちに変わっていたりもします。
周りは自分の変化に気づいている。
けれども、自分は自分として変わっていないつもり。
価値観が変わっているのは周りから見て取れても、
自覚するには相応の作業が必要になる、ということです。
そして価値観を自覚していようがいなかろうが、
自分の振る舞いのパターンは意外と簡単に変わっている。
自分だけが「自分は変わっていない」と判断していることもよくあります。
「価値観が変わるから自分が変わる」のではなく、価値観とは
「どういう反応パターンがあるかを理解するための指標」に過ぎないんです。
ともすると
「○○という価値観だから、〜されると嬉しい」
のように、
価値観が反応を生みだしているかのような説明がなされやすいようです。
しかし実態を考えていくと、これは全くの逆。
反対です。
どういうときに嬉しく感じるか?
どういうときに嫌だと感じるか?
それらを総合的に振り返ったとき、共通のパターンが見えてくるんです。
その際の着眼点が価値観です。
「どうやら自分は○○を大切にしているらしい」という感じ。
例えば、「信頼」という価値観だとしたら
「自分には組織の中にいると仕事を他人に任せようとする傾向がある。
任せた仕事が期待通りに進むと嬉しいけれど、
この人は大丈夫だと思っていた人に裏切られるとガッカリする。
…ということは、自分は『信頼』を大切にしているんだ。
そうか、自分の価値観は『信頼』なんだ。」
という流れになります。
くれぐれも
「信頼を大切にしているから、組織の中では仕事を他人に任せるし
任せた仕事が期待通りだと嬉しいし、裏切られるとガッカリする」
という順番ではありません。
価値観は反応パターンを客観的な視点から振り返ったときに気づく
「どうも自分はこういうことを喜び、こういうことを嫌がるようだ」
という傾向につけた呼び名なんです。
そして、価値観は客観的だからこそ他人の理解に役立ちます。
他人の反応傾向を知り、それに合わせることがしやすい。
人間関係でのメリットが多いんです。
しかし、自分の価値観を知るということは、自分を客観的に捉え
他人との関わり方で工夫をするのと同様に
自分と関わろうとするスタンスだといえます。
いわば
「どうやら自分はこういうときに喜ぶらしい。
だったら自分には、こういう機会を多く与えられるようにしよう。
そうすれば自分は喜んでくれるだろうから。」
のような向き合い方です。
それは一時的に自分の幸福度を上げるのには役立つでしょうし、
それまで自分が好んできたことに沿って意志決定するのにも有効です。
ただし、それはあくまで昨日までの価値観、昨日までの自分らしさです。
変えたければ変えられます。
もっと違うことに喜びを感じられるようになることもできます。
昨日まで腹を立てていたことに腹を立てなくなることもできます。
反応パターンは変えられるんです。
それもかなり簡単に。
昨日までの自分らしさに沿って、一生を判断する必要は無いのではないでしょうか。
そもそも価値観とは反応パターンの総称です。
どういうことがあると喜び、どういうことにガッカリするかを
様々な場面を振り返って傾向として見出したものです。
言い換えれば、単なる好き嫌い。
「自分はカレーを食べているときは美味しいと感じるけれど
野菜炒めを食べているときは喜んでいない。
じゃあ、自分はカレーが好きで、野菜炒めは嫌いなんだ。」
という理解と同じです。
過去を振り返って、パターンを把握し、
そのパターンに基づいて行動を予測する。
前もカレーを食べたときに喜んでいたから、
きっと今回もカレーだったら喜べるだろう、と。
自覚せずに起きているプロセスは、そういうことです。
本当は、これから食べるカレーにガッカリするかもしれません。
本当は、食べたことのない美味しい野菜炒めがあるかもしれません。
でも好き嫌いとは、そういうものなんです。
あくまでパターンとして把握して、これまでの傾向から
喜べる確率の高いほうを選ぶ。
ただの慣れです。
より安心できるほうが選ばれるんです。
馴染みのないものは食べたくないんです。
当然、食わず嫌いということも多々あるでしょう。
実際、食べ物の好みなんて、幼少期から親しんできたかどうかだけ
というのが心理学でも語られるところですし。
日本の中だって蜂の子やイナゴなどを食べる地域があります。
馴染んでいない人からすると「そんなものを食べるなんて!」と感じられる。
世界中に目を向ければ、日本人からしたら理解しがたい食べ物は沢山あります。
ですが、その地域の人は喜んで食べている。
それが美味しい基準になっているんです。
その違いは何か?
慣れ。
いつも食べていて、それに親しんでいるから、美味しく感じられる。
食べ物の好みは、そういう類のものなんです。
逆にいえば、だからこそ我々は慣れることで好みも変えられるわけです。
子供の頃は苦くて嫌いだったコーヒーやピーマンが大人になると美味しく感じられる。
お酒の味だって慣れが必要でしょう。
もっとも味に対しては生物的な仕組みとして影響する要因もありますから
一般的に好まれやすい味の種類もあります。
ここで重要なのは、むしろ
そうした生物的な好みだけで美味しさが決まっていない
というほうです。
苦みや酸味など、生物的には嫌われやすい方向性も
慣れによって美味しさと認識されるようになる。
こちらのほうが意味が大きい。
それだけ人間の好みは慣れによって決まる度合いが大きいという話です。
価値観も同様です。
どういうときに喜ぶかは(=価値観)
「どういう状況で安心できるか」
という経験への慣れによって決まっています。
生物的に危険が伴うようなものは
一般的に嫌がられる傾向があるのは当然です。
それは甘さのほうが苦さよりも好まれやすいのと似ています。
ほどんどの人は承認によって安心感を求める。
ただし、何によって承認されたと感じるかに個人差がある。
そちらが慣れなんです。
「信頼」の例に戻るなら、
誰かと作業を分担したり、依頼したりする機会が多くて馴染みがあり、
かつ分担や依頼の後に、誰かから認められる機会も多かった
ということでしょう。
慣れているんです。
経験によって学習されたものなんです。
馴染みのある安心感と
これまでに承認を得られた経験が、
似たような状況を好意的に感じさせると考えられます。
ちょうど、毎日食べ続けている白米が空腹を満たしてくれることから
親しみのある美味しいものとして感じられてくるのと同様です。
暑い地域でスパイスの利いた食事が
慣れと健康の維持とを可能にしてくれることで、
スパイシーなものを美味しく感じられてくるのも同じ。
慣れゆえの親しみ。
いつも通りだからの安心感。
「信頼」があると満足して、「信頼」がないとガッカリするなど、
「信頼」というものに気分を大きく左右されるのは、
「信頼」に大きな親しみを感じるからだということです。
そして、気分を左右されることを客観的に振り返って
「信頼」が自分にとって大事なもの、つまり価値観だと判断されます。
『価値観』という好みは、慣れによって左右される親しみの度合いだといえます。
慣れによって決まるのですから、価値観は経験が変われば簡単に変わります。
繰り返し経験して、それが当然と感じられ、親しみを覚え始めれば
新たに好きな種類の体験が生まれ、新たな価値観ができあがってきます。
韓国料理を食べているうちに、唐辛子の辛さに慣れて
そこに美味しさを感じるようになるようなものです。
「信頼」を大切にして、分担してチームで仕事をするのに慣れていた人でも、
自分一人で仕事を最初から最後までやり遂げるのを繰り返していけば
自分の想定した通りにプロセスをコントロールできる状態に慣れていきます。
そして予定通りに進んだときに満足感が得られたり、
たまたま人に依頼した部分が滞って不快感を感じたりしていけば、
「思い通りに進める」、「コントロール」ということが大切に感じられてきます。
新たに「コントロール」や「自律」という価値観が培われるわけです。
それも本人が自覚しないうちに。
新たな体験への慣れが、新たな反応パターンを作る。
振り返ってみると、いつの間にか新たな価値観ができていることに気づく。
そうやって価値観は常々、移り変わっていくものです。
もちろん、その瞬間にその人が大切にしていること、つまり
その日の価値観は急激に変わりはしません。
その日、誰かとコミュニケーションを取る際には
相手の価値観に注目しながら関わるのは役に立つはずです。
しかしながら、一年後に同じ価値観が維持されているとは限りません。
自分の人生について考えるときにも同様です。
その先の期間を長い目で考えて、自分らしさを知ろうとするとき
昨日までの体験への慣れで作られた価値観は
その先にいくらでも変わり得るものなんです。
価値観を指標に意志決定することは有益でしょうが、
価値観が『自分』を決定する度合いは必ずしも高くはないということです。
価値観に基づいた『自分らしさ』に注目するなら
それは簡単に変えられるものでもあるわけです。
方法は簡単。
新たな体験に慣らしていけばいい。
自分にとっての価値観とはそれぐらい不確定なものですし、
自分らしさというのもまた、それぐらいのもののようです。
相手の価値観を理解するように心がけ、それに合わせて対応すれば
円滑なコミュニケーションが期待できます。
相手を不快にすることなく、むしろ喜んでもらいやすいでしょう。
しかしながら、『価値観』というものを過剰に重要視する風潮も見て取れます。
自分の価値観を「自分らしさ」と直接的に結びつけ過ぎるのは
逆に可能性を狭めることもあるはずです。
結論からいえば、価値観なんて簡単に変わりますし
過去と全く違う「自分」を自分らしく感じることも多々あるからです。
むしろ、価値観に基づいた自分らしさは知らないうちに変わっていたりもします。
周りは自分の変化に気づいている。
けれども、自分は自分として変わっていないつもり。
価値観が変わっているのは周りから見て取れても、
自覚するには相応の作業が必要になる、ということです。
そして価値観を自覚していようがいなかろうが、
自分の振る舞いのパターンは意外と簡単に変わっている。
自分だけが「自分は変わっていない」と判断していることもよくあります。
「価値観が変わるから自分が変わる」のではなく、価値観とは
「どういう反応パターンがあるかを理解するための指標」に過ぎないんです。
ともすると
「○○という価値観だから、〜されると嬉しい」
のように、
価値観が反応を生みだしているかのような説明がなされやすいようです。
しかし実態を考えていくと、これは全くの逆。
反対です。
どういうときに嬉しく感じるか?
どういうときに嫌だと感じるか?
それらを総合的に振り返ったとき、共通のパターンが見えてくるんです。
その際の着眼点が価値観です。
「どうやら自分は○○を大切にしているらしい」という感じ。
例えば、「信頼」という価値観だとしたら
「自分には組織の中にいると仕事を他人に任せようとする傾向がある。
任せた仕事が期待通りに進むと嬉しいけれど、
この人は大丈夫だと思っていた人に裏切られるとガッカリする。
…ということは、自分は『信頼』を大切にしているんだ。
そうか、自分の価値観は『信頼』なんだ。」
という流れになります。
くれぐれも
「信頼を大切にしているから、組織の中では仕事を他人に任せるし
任せた仕事が期待通りだと嬉しいし、裏切られるとガッカリする」
という順番ではありません。
価値観は反応パターンを客観的な視点から振り返ったときに気づく
「どうも自分はこういうことを喜び、こういうことを嫌がるようだ」
という傾向につけた呼び名なんです。
そして、価値観は客観的だからこそ他人の理解に役立ちます。
他人の反応傾向を知り、それに合わせることがしやすい。
人間関係でのメリットが多いんです。
しかし、自分の価値観を知るということは、自分を客観的に捉え
他人との関わり方で工夫をするのと同様に
自分と関わろうとするスタンスだといえます。
いわば
「どうやら自分はこういうときに喜ぶらしい。
だったら自分には、こういう機会を多く与えられるようにしよう。
そうすれば自分は喜んでくれるだろうから。」
のような向き合い方です。
それは一時的に自分の幸福度を上げるのには役立つでしょうし、
それまで自分が好んできたことに沿って意志決定するのにも有効です。
ただし、それはあくまで昨日までの価値観、昨日までの自分らしさです。
変えたければ変えられます。
もっと違うことに喜びを感じられるようになることもできます。
昨日まで腹を立てていたことに腹を立てなくなることもできます。
反応パターンは変えられるんです。
それもかなり簡単に。
昨日までの自分らしさに沿って、一生を判断する必要は無いのではないでしょうか。
そもそも価値観とは反応パターンの総称です。
どういうことがあると喜び、どういうことにガッカリするかを
様々な場面を振り返って傾向として見出したものです。
言い換えれば、単なる好き嫌い。
「自分はカレーを食べているときは美味しいと感じるけれど
野菜炒めを食べているときは喜んでいない。
じゃあ、自分はカレーが好きで、野菜炒めは嫌いなんだ。」
という理解と同じです。
過去を振り返って、パターンを把握し、
そのパターンに基づいて行動を予測する。
前もカレーを食べたときに喜んでいたから、
きっと今回もカレーだったら喜べるだろう、と。
自覚せずに起きているプロセスは、そういうことです。
本当は、これから食べるカレーにガッカリするかもしれません。
本当は、食べたことのない美味しい野菜炒めがあるかもしれません。
でも好き嫌いとは、そういうものなんです。
あくまでパターンとして把握して、これまでの傾向から
喜べる確率の高いほうを選ぶ。
ただの慣れです。
より安心できるほうが選ばれるんです。
馴染みのないものは食べたくないんです。
当然、食わず嫌いということも多々あるでしょう。
実際、食べ物の好みなんて、幼少期から親しんできたかどうかだけ
というのが心理学でも語られるところですし。
日本の中だって蜂の子やイナゴなどを食べる地域があります。
馴染んでいない人からすると「そんなものを食べるなんて!」と感じられる。
世界中に目を向ければ、日本人からしたら理解しがたい食べ物は沢山あります。
ですが、その地域の人は喜んで食べている。
それが美味しい基準になっているんです。
その違いは何か?
慣れ。
いつも食べていて、それに親しんでいるから、美味しく感じられる。
食べ物の好みは、そういう類のものなんです。
逆にいえば、だからこそ我々は慣れることで好みも変えられるわけです。
子供の頃は苦くて嫌いだったコーヒーやピーマンが大人になると美味しく感じられる。
お酒の味だって慣れが必要でしょう。
もっとも味に対しては生物的な仕組みとして影響する要因もありますから
一般的に好まれやすい味の種類もあります。
ここで重要なのは、むしろ
そうした生物的な好みだけで美味しさが決まっていない
というほうです。
苦みや酸味など、生物的には嫌われやすい方向性も
慣れによって美味しさと認識されるようになる。
こちらのほうが意味が大きい。
それだけ人間の好みは慣れによって決まる度合いが大きいという話です。
価値観も同様です。
どういうときに喜ぶかは(=価値観)
「どういう状況で安心できるか」
という経験への慣れによって決まっています。
生物的に危険が伴うようなものは
一般的に嫌がられる傾向があるのは当然です。
それは甘さのほうが苦さよりも好まれやすいのと似ています。
ほどんどの人は承認によって安心感を求める。
ただし、何によって承認されたと感じるかに個人差がある。
そちらが慣れなんです。
「信頼」の例に戻るなら、
誰かと作業を分担したり、依頼したりする機会が多くて馴染みがあり、
かつ分担や依頼の後に、誰かから認められる機会も多かった
ということでしょう。
慣れているんです。
経験によって学習されたものなんです。
馴染みのある安心感と
これまでに承認を得られた経験が、
似たような状況を好意的に感じさせると考えられます。
ちょうど、毎日食べ続けている白米が空腹を満たしてくれることから
親しみのある美味しいものとして感じられてくるのと同様です。
暑い地域でスパイスの利いた食事が
慣れと健康の維持とを可能にしてくれることで、
スパイシーなものを美味しく感じられてくるのも同じ。
慣れゆえの親しみ。
いつも通りだからの安心感。
「信頼」があると満足して、「信頼」がないとガッカリするなど、
「信頼」というものに気分を大きく左右されるのは、
「信頼」に大きな親しみを感じるからだということです。
そして、気分を左右されることを客観的に振り返って
「信頼」が自分にとって大事なもの、つまり価値観だと判断されます。
『価値観』という好みは、慣れによって左右される親しみの度合いだといえます。
慣れによって決まるのですから、価値観は経験が変われば簡単に変わります。
繰り返し経験して、それが当然と感じられ、親しみを覚え始めれば
新たに好きな種類の体験が生まれ、新たな価値観ができあがってきます。
韓国料理を食べているうちに、唐辛子の辛さに慣れて
そこに美味しさを感じるようになるようなものです。
「信頼」を大切にして、分担してチームで仕事をするのに慣れていた人でも、
自分一人で仕事を最初から最後までやり遂げるのを繰り返していけば
自分の想定した通りにプロセスをコントロールできる状態に慣れていきます。
そして予定通りに進んだときに満足感が得られたり、
たまたま人に依頼した部分が滞って不快感を感じたりしていけば、
「思い通りに進める」、「コントロール」ということが大切に感じられてきます。
新たに「コントロール」や「自律」という価値観が培われるわけです。
それも本人が自覚しないうちに。
新たな体験への慣れが、新たな反応パターンを作る。
振り返ってみると、いつの間にか新たな価値観ができていることに気づく。
そうやって価値観は常々、移り変わっていくものです。
もちろん、その瞬間にその人が大切にしていること、つまり
その日の価値観は急激に変わりはしません。
その日、誰かとコミュニケーションを取る際には
相手の価値観に注目しながら関わるのは役に立つはずです。
しかしながら、一年後に同じ価値観が維持されているとは限りません。
自分の人生について考えるときにも同様です。
その先の期間を長い目で考えて、自分らしさを知ろうとするとき
昨日までの体験への慣れで作られた価値観は
その先にいくらでも変わり得るものなんです。
価値観を指標に意志決定することは有益でしょうが、
価値観が『自分』を決定する度合いは必ずしも高くはないということです。
価値観に基づいた『自分らしさ』に注目するなら
それは簡単に変えられるものでもあるわけです。
方法は簡単。
新たな体験に慣らしていけばいい。
自分にとっての価値観とはそれぐらい不確定なものですし、
自分らしさというのもまた、それぐらいのもののようです。