2015年07月
2015年07月06日
マッサージチェアを使ってみた
先日出張で利用したホテルが少し広めの部屋で
なんと室内にマッサージチェアが置かれていました。
空港で10分200円などと書かれているようなタイプ。
家電量販店の一角を占め、サラリーマンやお年寄りが寝ているヤツです。
結構なお値段のする機械なんだと思います。
リクライニングも自動ですし、マッサージの仕方も色々でした。
もみ、たたき、ローラー、併用などのバリエーションがあって、
位置の調整も手元のリモコンで可能。
足についても、スネを包み込んで圧迫するようなタイプのマッサージがあって
足裏も軽く刺激してくれるような仕組みになっていました。
狭い飛行機の移動で体が固まっていましたし、
せっかくマッサージ機つきの部屋だったので
試しに使ってみることにしたんです。
個人的には、ああいう機械は使ったことがありませんでした。
整骨院のローラーベッドは体験したことがありましたが。
これがなかなかパワフル。
かなりの力で圧迫したり、ゴリゴリと押したり、叩いたりしてくれます。
なるほど、確かにマッサージしてもらっているような気持ちよさはありそうです。
僕にしてみると、ほぐしたい部分に揉み玉が当たってくれないのと
肩の上側や首のあたり、腰の下のほうをカバーしてくれないのが
少し残念でした。
それでも、一連の流れが終わってイスから立ち上がってみると
確かに背中の血行が良くなって軽くなった印象はありました。
この手のマッサージが好きな人には嬉しいサービスなんでしょう。
ですが、やはり機械の限界なのか、
機械を作る人がマッサージというものへの理解を深めていないのか、
ほぐし方が筋肉の表面部分になっている印象は避けられないようです。
結果、翌日の僕の背中は打撲のような痛みを伴っていました。
筋肉そのものに力が加わっていたんだと思われます。
まぁ、マッサージチェアを使っているときは気持ちが良い感じなので、
それでも価値はあるのかもしれません。
僕の求めるものは期待が高すぎたんだと思います。
体をほぐす効果でいうと、じっくりストレッチをやるほうが良さそうな気がします。
マッサージ自体も、自分でやったほうが効果を感じられる印象。
そんな風に自分でやるのが大変だとか、時間がないとか、
マッサージを受けながら眠りたいとか、そういった人にとっては
マッサージチェアというのは価値があるものなんでしょう。
何より実際のマッサージにおいては
人が人にマッサージをしてもらう
というコミュニケーションのプロセスにも
楽になるための重要な要素が含まれているんじゃないかと感じました。
もちろん、機械を設計した人たちの努力には感嘆します。
これまでにも数多くの改良を重ねてきたことが伺えます。
ただし、その工夫の方向性が
旅館や銭湯に置かれていた古いマッサージ機の延長線上にある。
その方向では物凄く努力がなされているんだろうと思えますが、
そもそも体の疲労を取り、体をほぐし、バランスを整える
という健康に戻す方向性については、あまり検討されていない印象でした。
マッサージチェアに座ってみて気持ちが良いかどうか?
その基準で開発が進められてきたのかもしれません。
たぶん開発者たちは、体をケアするための手法については
自分たちで体験してきたわけではないのではないでしょうか。
「マッサージの結果、体の具合が良くなる」という体験にしても
あまり実感したことがない可能性もありそうに感じます。
マッサージチェアを設計する仕事の人たちも
色々な種類の体のケアを受けてみて、
体がほぐれるという意味を体感してみるのも設計に役立ちそうです。
サービスを提供する側も、自らが同業を研究してみる。
この作業は思いの他、大切なものかもしれません。
なんと室内にマッサージチェアが置かれていました。
空港で10分200円などと書かれているようなタイプ。
家電量販店の一角を占め、サラリーマンやお年寄りが寝ているヤツです。
結構なお値段のする機械なんだと思います。
リクライニングも自動ですし、マッサージの仕方も色々でした。
もみ、たたき、ローラー、併用などのバリエーションがあって、
位置の調整も手元のリモコンで可能。
足についても、スネを包み込んで圧迫するようなタイプのマッサージがあって
足裏も軽く刺激してくれるような仕組みになっていました。
狭い飛行機の移動で体が固まっていましたし、
せっかくマッサージ機つきの部屋だったので
試しに使ってみることにしたんです。
個人的には、ああいう機械は使ったことがありませんでした。
整骨院のローラーベッドは体験したことがありましたが。
これがなかなかパワフル。
かなりの力で圧迫したり、ゴリゴリと押したり、叩いたりしてくれます。
なるほど、確かにマッサージしてもらっているような気持ちよさはありそうです。
僕にしてみると、ほぐしたい部分に揉み玉が当たってくれないのと
肩の上側や首のあたり、腰の下のほうをカバーしてくれないのが
少し残念でした。
それでも、一連の流れが終わってイスから立ち上がってみると
確かに背中の血行が良くなって軽くなった印象はありました。
この手のマッサージが好きな人には嬉しいサービスなんでしょう。
ですが、やはり機械の限界なのか、
機械を作る人がマッサージというものへの理解を深めていないのか、
ほぐし方が筋肉の表面部分になっている印象は避けられないようです。
結果、翌日の僕の背中は打撲のような痛みを伴っていました。
筋肉そのものに力が加わっていたんだと思われます。
まぁ、マッサージチェアを使っているときは気持ちが良い感じなので、
それでも価値はあるのかもしれません。
僕の求めるものは期待が高すぎたんだと思います。
体をほぐす効果でいうと、じっくりストレッチをやるほうが良さそうな気がします。
マッサージ自体も、自分でやったほうが効果を感じられる印象。
そんな風に自分でやるのが大変だとか、時間がないとか、
マッサージを受けながら眠りたいとか、そういった人にとっては
マッサージチェアというのは価値があるものなんでしょう。
何より実際のマッサージにおいては
人が人にマッサージをしてもらう
というコミュニケーションのプロセスにも
楽になるための重要な要素が含まれているんじゃないかと感じました。
もちろん、機械を設計した人たちの努力には感嘆します。
これまでにも数多くの改良を重ねてきたことが伺えます。
ただし、その工夫の方向性が
旅館や銭湯に置かれていた古いマッサージ機の延長線上にある。
その方向では物凄く努力がなされているんだろうと思えますが、
そもそも体の疲労を取り、体をほぐし、バランスを整える
という健康に戻す方向性については、あまり検討されていない印象でした。
マッサージチェアに座ってみて気持ちが良いかどうか?
その基準で開発が進められてきたのかもしれません。
たぶん開発者たちは、体をケアするための手法については
自分たちで体験してきたわけではないのではないでしょうか。
「マッサージの結果、体の具合が良くなる」という体験にしても
あまり実感したことがない可能性もありそうに感じます。
マッサージチェアを設計する仕事の人たちも
色々な種類の体のケアを受けてみて、
体がほぐれるという意味を体感してみるのも設計に役立ちそうです。
サービスを提供する側も、自らが同業を研究してみる。
この作業は思いの他、大切なものかもしれません。
2015年07月04日
どっちでもいい
生まれたときから考えると、最初
人には何もプログラムがないわけです。
そこから学習して色々な対応のパターンを身につけていく。
こういう場合には、こう反応する、という具合に。
その過程で重要なのが
ルールを作る
ことです。
それによってパターンが決めやすく
シンプルに少ない方法で効率的に対処ができるようになります。
幼少期ほど多くのパターンを身につける必要があって
初めて出会うような場面も多く、また技術や知識としても
とにかく沢山のことを学習していく時期だといえます。
そう考えると、複雑に細分化しながら学習していくよりは
シンプルに一般化したルールを作ってしまって、
だいたいの場合をそのルールに基づいたパターンで対処して済ませ、
新たに学習しないといけないことに集中したほうが効率的
ということになります。
次々に新しいことを学習していく時期には、
一般化されたパターンを一度身につけたら
それを状況別に細分化して場面ごとに使い分けるのではなく、
とりあえず1つのパターンを使い続けて
他の学習に労力を注ぎ、様々なタイプの学習を手広く進める
というスタンスが取られているんです。
それは幼少期に、それだけ多くのことを学ぶ必要があるということであって
逆にいえば、
1つ1つのことを注意深く考えながら対応を工夫するのは
知識的にも、経験の量としても、状況判断する力としても
まだ難しいということでもあります。
その意味では、幼い頃の教育が1つルールを教える形で行われているのは
効率的だともいえますし、状況にはマッチしていると考えられます。
社会的に標準とされる行動パターンを「正しい」ものと設定して
その基準が満たされるようにフィードバックがなされる。
本人が自分で考えて、状況にあった判断をして
うまく社会とマッチした行動をとっていけるのであれば構わないのでしょうが、
それでは負担が大きすぎます。
なかなか本人も自ら判断を工夫しようとはしないものですし、
自分で考えるためのトレーニングもなされません。
むしろ1つの「正しい」やり方が教えられる。
そうやって「正しさ」の基準を身につけながら
シンプルな対応のパターンを作り上げていくわけです。
例えば、
「赤信号だったら青に変わるまで待たなければいけない」
といった感じです。
実際の交通状況とか、本人の急いでいる度合いとか
そういった複雑な要因を考慮し始めると大変ですし、
判断を間違って危険な目にあって欲しくはないでしょうから、
幼少期の教育は1つのルールを教える方向になりやすいんです。
そうした学習の傾向は効率的ですし、
ゼロからプログラムを作っていく段階では
まず1つのパターンを確実にするのは有効でもあります。
実際、大人になってからのトレーニングでも、
一度に沢山の技術を練習するよりも
まずは基本の型を身につけて、それから応用に移っていく
といったスタイルはよく使われています。
大人になってからの学習は、
パターンが多いほうが、さまざまな場面で柔軟に対応できて望ましい
ということを知っているからか、
1つの基本を身につけた後は、パターンを増やす方向で
トレーニングが行われることは多々あるものです。
ところが幼少期に身につけたパターンは、意外と1つに固定されやすい。
それが「正しい」という発想が残りやすいんです。
子供の頃に教えられた「正しさ」から柔軟に外れていく数少ない例は
「信号を守る」というものでしょう。
大人になると状況によっては赤信号を無視する人は多いようです。
これは本人が自分の責任で安全を管理できるようになっていることや、
適切な状況判断をするための知恵と経験を身につけていることなどが
関係していると考えられます。
自分の渡ろうとしている歩行者側の信号は赤。
車道の見通しは良く、視野に入る範囲には車が来ていない。
その道の車のスピードは平均的に速くない。
道幅も広くないため、車が見えていないタイミングで渡り始めれば
車に轢かれることも、気づいた車に迷惑をかけることもなさそうだ。
…そんな判断をして渡ることができる、と。
この場合、
ルールを守る正しさを求めることもできるし、
自分の責任で安全と時間とを求めることもできる
という状態にあるといえます。
どちらにもメリットがあって、どちらも良いことだと受け入れているため
好きなほうをやることができるんです。
まさに「どっちでも良い」ということです。
このように「どちらを選んでも望ましい」という意味で
「どっちでも良い」のであれば気分は楽なものですが、
言葉として「どっちでもいい」と言われる場合には
意外と「良くない」ことが多いようなんです。
つまり、「どっちでもいい」と言いながら投げやりになっている感じ。
「好きにしたらいい」と言いながら放置する感じです。
責任を取りたくないから距離を置いたり、
諦めたり見捨てたりする雰囲気がある状態です。
本当に「どっちでも『良い』」とは思っていないのかもしれません。
どっちを選んでも望ましいことになるとは思っていない。
場合によっては、どっちを選んでも望ましくないと思っているのか、
片側を望ましいと思っているけれど、そっちになる可能性が低く思えて
「望ましい結果にならないんだったら、もう、どっちでも『同じ』だ」
と考えているのか、とにかく投げやりな感じです。
「どっちでも良い」のではなくて
「(それだったら)どっちだって同じ」という気持ち。
そんなときにも
「どっちでもいい」
という言葉が使われるようです。
自分に対しても、他人に対しても、です。
ですがこれは「どっちでも良い」わけではありません。
「両方とも良い」とは思っていない状態でしょう。
この状態だと気持ちは楽ではないんです。
諦めや恐れを伴います。
気持ちが楽になるのは
Aになっても、Bになっても、どっちでも望ましい
と実感できている状態から出てくる
「どっちでも良い」
の言葉です。
カレーも好き、ハンバーグも好き。
そんな子供が
「夕飯はカレーがいい?それともハンバーグがいい?」
と聞かれたとき、
両方とも好きだから選びきれない。
そんな雰囲気から出てくる「どっちでも良い」は苦しくないんです。
多くの人は幼少期から学んできた1つのパターンの「正しさ」を使い続け、
「どっちでも良い」と思うことなく、1つのやり方を続けがちです。
そして、その「正しさ」からズレるときに苦しさを感じる。
ときには「正しい」ほうに進めないなら諦めて
「じゃあ、もう、どっちでもいいよ(同じだ)」と考えることもあるようです。
正しさの基準に当てはまらなくても
別の選択肢にだって何かしらのメリットはあるものです。
ちょうど赤信号を守るのと、無視して渡るときの違いのように。
行動パターンを増やして、それぞれの対応のメリットが実感できてくると
「どっちでも良い」状態も増えてくると思われます。
それだけで楽になれることが多いんです。
「どっちも良い」と思えるように、
それぞれのメリットを考えてみるのも役に立つのではないでしょうか。
人には何もプログラムがないわけです。
そこから学習して色々な対応のパターンを身につけていく。
こういう場合には、こう反応する、という具合に。
その過程で重要なのが
ルールを作る
ことです。
それによってパターンが決めやすく
シンプルに少ない方法で効率的に対処ができるようになります。
幼少期ほど多くのパターンを身につける必要があって
初めて出会うような場面も多く、また技術や知識としても
とにかく沢山のことを学習していく時期だといえます。
そう考えると、複雑に細分化しながら学習していくよりは
シンプルに一般化したルールを作ってしまって、
だいたいの場合をそのルールに基づいたパターンで対処して済ませ、
新たに学習しないといけないことに集中したほうが効率的
ということになります。
次々に新しいことを学習していく時期には、
一般化されたパターンを一度身につけたら
それを状況別に細分化して場面ごとに使い分けるのではなく、
とりあえず1つのパターンを使い続けて
他の学習に労力を注ぎ、様々なタイプの学習を手広く進める
というスタンスが取られているんです。
それは幼少期に、それだけ多くのことを学ぶ必要があるということであって
逆にいえば、
1つ1つのことを注意深く考えながら対応を工夫するのは
知識的にも、経験の量としても、状況判断する力としても
まだ難しいということでもあります。
その意味では、幼い頃の教育が1つルールを教える形で行われているのは
効率的だともいえますし、状況にはマッチしていると考えられます。
社会的に標準とされる行動パターンを「正しい」ものと設定して
その基準が満たされるようにフィードバックがなされる。
本人が自分で考えて、状況にあった判断をして
うまく社会とマッチした行動をとっていけるのであれば構わないのでしょうが、
それでは負担が大きすぎます。
なかなか本人も自ら判断を工夫しようとはしないものですし、
自分で考えるためのトレーニングもなされません。
むしろ1つの「正しい」やり方が教えられる。
そうやって「正しさ」の基準を身につけながら
シンプルな対応のパターンを作り上げていくわけです。
例えば、
「赤信号だったら青に変わるまで待たなければいけない」
といった感じです。
実際の交通状況とか、本人の急いでいる度合いとか
そういった複雑な要因を考慮し始めると大変ですし、
判断を間違って危険な目にあって欲しくはないでしょうから、
幼少期の教育は1つのルールを教える方向になりやすいんです。
そうした学習の傾向は効率的ですし、
ゼロからプログラムを作っていく段階では
まず1つのパターンを確実にするのは有効でもあります。
実際、大人になってからのトレーニングでも、
一度に沢山の技術を練習するよりも
まずは基本の型を身につけて、それから応用に移っていく
といったスタイルはよく使われています。
大人になってからの学習は、
パターンが多いほうが、さまざまな場面で柔軟に対応できて望ましい
ということを知っているからか、
1つの基本を身につけた後は、パターンを増やす方向で
トレーニングが行われることは多々あるものです。
ところが幼少期に身につけたパターンは、意外と1つに固定されやすい。
それが「正しい」という発想が残りやすいんです。
子供の頃に教えられた「正しさ」から柔軟に外れていく数少ない例は
「信号を守る」というものでしょう。
大人になると状況によっては赤信号を無視する人は多いようです。
これは本人が自分の責任で安全を管理できるようになっていることや、
適切な状況判断をするための知恵と経験を身につけていることなどが
関係していると考えられます。
自分の渡ろうとしている歩行者側の信号は赤。
車道の見通しは良く、視野に入る範囲には車が来ていない。
その道の車のスピードは平均的に速くない。
道幅も広くないため、車が見えていないタイミングで渡り始めれば
車に轢かれることも、気づいた車に迷惑をかけることもなさそうだ。
…そんな判断をして渡ることができる、と。
この場合、
ルールを守る正しさを求めることもできるし、
自分の責任で安全と時間とを求めることもできる
という状態にあるといえます。
どちらにもメリットがあって、どちらも良いことだと受け入れているため
好きなほうをやることができるんです。
まさに「どっちでも良い」ということです。
このように「どちらを選んでも望ましい」という意味で
「どっちでも良い」のであれば気分は楽なものですが、
言葉として「どっちでもいい」と言われる場合には
意外と「良くない」ことが多いようなんです。
つまり、「どっちでもいい」と言いながら投げやりになっている感じ。
「好きにしたらいい」と言いながら放置する感じです。
責任を取りたくないから距離を置いたり、
諦めたり見捨てたりする雰囲気がある状態です。
本当に「どっちでも『良い』」とは思っていないのかもしれません。
どっちを選んでも望ましいことになるとは思っていない。
場合によっては、どっちを選んでも望ましくないと思っているのか、
片側を望ましいと思っているけれど、そっちになる可能性が低く思えて
「望ましい結果にならないんだったら、もう、どっちでも『同じ』だ」
と考えているのか、とにかく投げやりな感じです。
「どっちでも良い」のではなくて
「(それだったら)どっちだって同じ」という気持ち。
そんなときにも
「どっちでもいい」
という言葉が使われるようです。
自分に対しても、他人に対しても、です。
ですがこれは「どっちでも良い」わけではありません。
「両方とも良い」とは思っていない状態でしょう。
この状態だと気持ちは楽ではないんです。
諦めや恐れを伴います。
気持ちが楽になるのは
Aになっても、Bになっても、どっちでも望ましい
と実感できている状態から出てくる
「どっちでも良い」
の言葉です。
カレーも好き、ハンバーグも好き。
そんな子供が
「夕飯はカレーがいい?それともハンバーグがいい?」
と聞かれたとき、
両方とも好きだから選びきれない。
そんな雰囲気から出てくる「どっちでも良い」は苦しくないんです。
多くの人は幼少期から学んできた1つのパターンの「正しさ」を使い続け、
「どっちでも良い」と思うことなく、1つのやり方を続けがちです。
そして、その「正しさ」からズレるときに苦しさを感じる。
ときには「正しい」ほうに進めないなら諦めて
「じゃあ、もう、どっちでもいいよ(同じだ)」と考えることもあるようです。
正しさの基準に当てはまらなくても
別の選択肢にだって何かしらのメリットはあるものです。
ちょうど赤信号を守るのと、無視して渡るときの違いのように。
行動パターンを増やして、それぞれの対応のメリットが実感できてくると
「どっちでも良い」状態も増えてくると思われます。
それだけで楽になれることが多いんです。
「どっちも良い」と思えるように、
それぞれのメリットを考えてみるのも役に立つのではないでしょうか。
2015年07月02日
「〜にならない」という目標
目標設定するときには「肯定文」で表現する
というルールが教えられることがあります。
これは「到達点」の話です。
手に入れたいもの、「こういう状況にいたい」という結果のことです。
セルフイメージや性格、思考・感情・行動のパターンについて
「変えたい」という気持ちがある場合、必ずしも
「こういう風になりたい」と肯定文にする必要はないと考えられます。
ここの区別をつけないまま「目標は肯定文で」という教えになりやすいのは
そもそも区別をすること自体が簡単ではないからかもしれません。
区別をする上でのポイントは
特定の一場面、一瞬の出来事として目指すものなのか
それとも
様々な場面を通じて繰り返される自分の振る舞いパターンを変えたいのか
ということです。
特定の一場面、一瞬の出来事とは、達成の瞬間が限定されているものです。
分かりやすいところでいうと、スポーツの大会で優勝したいとか
何かのテストに合格したいとか、収入をいくらにしたいとか、
1000人の前で講演をしたいとか、海外に学校を作りたいとか。
自分の体の周りに起きている出来事、自分以外の状況を含めて
自分の望むものが「ある」ということです。
1つの結果であり、『成果』なんです。
どこかに向かって進んでいって、そこに辿りつくようなイメージです。
一方、様々な場面で繰り返される自分の振る舞いのパターンを変える、とは
「この瞬間に達成」という明確な場面がないものです。
何度も繰り返される自分自身の体験の中で、
望ましい行動を『繰り返せている』ことに気づいたとき
「あぁ、やっと目指していた自分になれたなぁ」と実感される。
例えば、人前で落ち着いて話せるようになるのを目指していたとしたら、
典型的な場面として、会議のプレゼンでリラックスしながら話している瞬間を
変化の象徴としてイメージすることは可能です。
しかし、その会議のプレゼンの場面は限定されていません。
一回だけだったら偶然と判断する人もいるかもしれませんし、
一気に劇的な変化を体験して満足するというよりも
徐々にできるようになっていって、振りかえって変化の量を実感する
という形が一般的ではないでしょうか。
「ああ、随分と変わったなぁ」、「こんなにできるようになったなぁ」と
『成長』の形で自覚されるといえます。
特定の一場面に達成される『成果』を目指すのは
いわば、目的地を決めた旅に出て、目的地に到着しようとするようなもの。
ゴールは文字通り、目的地に着いた瞬間なんです。
逆に、繰り返される振る舞いのパターンを変えて、
セルフイメージや性格、行動や考え方などを望ましくするのは、
同様の喩えでいうと、とにかく旅に出て、歩いてきた道のりを振り返り
「随分と遠くまでやってきたなぁ」と違いを振り返るようなものでしょう。
ある瞬間にゴール地点に辿り着くのではなく、旅そのものが目的といえます。
振る舞いのパターンを変えるほうは
「今の自分を変えて、望ましい自分に変わる」
という趣旨です。
旅の喩えでいえば、それで目的地を設定しておいても構わないんです。
例えば「人前で落ち着いて話せる」ようになりたいとして、
「どれぐらいの声の大きさで、どういう風に目線を配って、どんな姿勢で、
どんな体の状態で、何を心がけながら、どんな対応ができる状態か?」
と設定してもいい。
ただ、実際には最初にイメージしていたのとは違うけれど
「だいぶ落ち着いて話せるようになったなぁ」と
感じられるときはくる可能性があります。
むしろ最初に設定していたイメージ通りの行動を体験した瞬間に
「できるようになった」と実感することのほうが少ないかもしれません。
取り組み始める前に想像できる範囲のことは
実際にやってみたら現実的ではない絵空事という可能性もありますし、
誰か見本になる人を思い浮かべて憧れていただけで
もっと自分らしい形の望ましいやり方が見つかる可能性もありますから。
目標を立てた時点では理想をイメージしていたけれど、実際には
そこまで辿りつかなくても充分に満足できた、という場合もありえます。
到達地点そのものがゴールとなる目標設定もあれば、
前に進めた体験が望ましい体験となる場合もあるわけです。
自分を変えたいというのは繰り返されるパターンや傾向の話ですから、
前に進める体験のほうが重要になるケースです。
必ずしも行き先が明確に定まっている必要はないんです。
とりあえず一歩を踏み出す理由づけとして
仮の目的地を決めておくのは有効な方法の1つです。
そこへ向けて進むためのアクションを考えて、それを実行すれば
とにかく今の自分のパターンから抜け出すことにはなります。
同時に、「とにかく今のままでは嫌だ」と抜け出したい気持ちが強いのであれば
無理に仮の目的地を設定しなくても、一歩を踏み出すことは充分にできます。
そして今の自分のパターンから変わるための行動も
目的地が決まっていない分、自由に沢山のアイデアを出すこともできます。
変わるための方法が沢山あるんです。
現状から変わりたい気持ちさえ強ければ、
思いつく方法を片っ端から取り組んでみる方法も使えます。
ゴールを設定しなくても望ましい自分にはなれるんです。
この場合なら、ゴールを肯定文で「〜になりたい」と表現する必要性もありません。
目標設定の方法1つとっても、
その目標の種類や、本人の現状によって
「これが正しい」というものを決めるのは難しいと思うんです。
というルールが教えられることがあります。
これは「到達点」の話です。
手に入れたいもの、「こういう状況にいたい」という結果のことです。
セルフイメージや性格、思考・感情・行動のパターンについて
「変えたい」という気持ちがある場合、必ずしも
「こういう風になりたい」と肯定文にする必要はないと考えられます。
ここの区別をつけないまま「目標は肯定文で」という教えになりやすいのは
そもそも区別をすること自体が簡単ではないからかもしれません。
区別をする上でのポイントは
特定の一場面、一瞬の出来事として目指すものなのか
それとも
様々な場面を通じて繰り返される自分の振る舞いパターンを変えたいのか
ということです。
特定の一場面、一瞬の出来事とは、達成の瞬間が限定されているものです。
分かりやすいところでいうと、スポーツの大会で優勝したいとか
何かのテストに合格したいとか、収入をいくらにしたいとか、
1000人の前で講演をしたいとか、海外に学校を作りたいとか。
自分の体の周りに起きている出来事、自分以外の状況を含めて
自分の望むものが「ある」ということです。
1つの結果であり、『成果』なんです。
どこかに向かって進んでいって、そこに辿りつくようなイメージです。
一方、様々な場面で繰り返される自分の振る舞いのパターンを変える、とは
「この瞬間に達成」という明確な場面がないものです。
何度も繰り返される自分自身の体験の中で、
望ましい行動を『繰り返せている』ことに気づいたとき
「あぁ、やっと目指していた自分になれたなぁ」と実感される。
例えば、人前で落ち着いて話せるようになるのを目指していたとしたら、
典型的な場面として、会議のプレゼンでリラックスしながら話している瞬間を
変化の象徴としてイメージすることは可能です。
しかし、その会議のプレゼンの場面は限定されていません。
一回だけだったら偶然と判断する人もいるかもしれませんし、
一気に劇的な変化を体験して満足するというよりも
徐々にできるようになっていって、振りかえって変化の量を実感する
という形が一般的ではないでしょうか。
「ああ、随分と変わったなぁ」、「こんなにできるようになったなぁ」と
『成長』の形で自覚されるといえます。
特定の一場面に達成される『成果』を目指すのは
いわば、目的地を決めた旅に出て、目的地に到着しようとするようなもの。
ゴールは文字通り、目的地に着いた瞬間なんです。
逆に、繰り返される振る舞いのパターンを変えて、
セルフイメージや性格、行動や考え方などを望ましくするのは、
同様の喩えでいうと、とにかく旅に出て、歩いてきた道のりを振り返り
「随分と遠くまでやってきたなぁ」と違いを振り返るようなものでしょう。
ある瞬間にゴール地点に辿り着くのではなく、旅そのものが目的といえます。
振る舞いのパターンを変えるほうは
「今の自分を変えて、望ましい自分に変わる」
という趣旨です。
旅の喩えでいえば、それで目的地を設定しておいても構わないんです。
例えば「人前で落ち着いて話せる」ようになりたいとして、
「どれぐらいの声の大きさで、どういう風に目線を配って、どんな姿勢で、
どんな体の状態で、何を心がけながら、どんな対応ができる状態か?」
と設定してもいい。
ただ、実際には最初にイメージしていたのとは違うけれど
「だいぶ落ち着いて話せるようになったなぁ」と
感じられるときはくる可能性があります。
むしろ最初に設定していたイメージ通りの行動を体験した瞬間に
「できるようになった」と実感することのほうが少ないかもしれません。
取り組み始める前に想像できる範囲のことは
実際にやってみたら現実的ではない絵空事という可能性もありますし、
誰か見本になる人を思い浮かべて憧れていただけで
もっと自分らしい形の望ましいやり方が見つかる可能性もありますから。
目標を立てた時点では理想をイメージしていたけれど、実際には
そこまで辿りつかなくても充分に満足できた、という場合もありえます。
到達地点そのものがゴールとなる目標設定もあれば、
前に進めた体験が望ましい体験となる場合もあるわけです。
自分を変えたいというのは繰り返されるパターンや傾向の話ですから、
前に進める体験のほうが重要になるケースです。
必ずしも行き先が明確に定まっている必要はないんです。
とりあえず一歩を踏み出す理由づけとして
仮の目的地を決めておくのは有効な方法の1つです。
そこへ向けて進むためのアクションを考えて、それを実行すれば
とにかく今の自分のパターンから抜け出すことにはなります。
同時に、「とにかく今のままでは嫌だ」と抜け出したい気持ちが強いのであれば
無理に仮の目的地を設定しなくても、一歩を踏み出すことは充分にできます。
そして今の自分のパターンから変わるための行動も
目的地が決まっていない分、自由に沢山のアイデアを出すこともできます。
変わるための方法が沢山あるんです。
現状から変わりたい気持ちさえ強ければ、
思いつく方法を片っ端から取り組んでみる方法も使えます。
ゴールを設定しなくても望ましい自分にはなれるんです。
この場合なら、ゴールを肯定文で「〜になりたい」と表現する必要性もありません。
目標設定の方法1つとっても、
その目標の種類や、本人の現状によって
「これが正しい」というものを決めるのは難しいと思うんです。