2015年12月
2015年12月30日
年の瀬
ここ数年、年末が近づく頃に
『ザ・メンタリスト』のDVDボックスをかっていました。
そして年明け前に一通り見終わる。
そんな流れがあったんです。
ところが今年は少し購入のタイミングが遅れてしまいました。
そうしたらAmazonで在庫切れとのこと。
入荷時期も未定、と。
いくら見たいとはいえ、レンタルも大変なんです。
こちらもタイミングが合わないと貸し出されていますから。
で、仕方なくAmazonで注文して
到着を待つことにしました。
英語の勉強も兼ねているので、
何度か見返しますからレンタルは不向きというのもあります。
しかし一向に連絡がない。
見ようと思い始めてからだと
待ち時間として意識されるものですね。
僕がテーマ的にも、ストーリー的にも思い入れを持てる
数少ないドラマシリーズなので気持ちも動きやすいようです。
とりあえずは他の勉強で時間を繋ぐことにします。
『ザ・メンタリスト』のDVDボックスをかっていました。
そして年明け前に一通り見終わる。
そんな流れがあったんです。
ところが今年は少し購入のタイミングが遅れてしまいました。
そうしたらAmazonで在庫切れとのこと。
入荷時期も未定、と。
いくら見たいとはいえ、レンタルも大変なんです。
こちらもタイミングが合わないと貸し出されていますから。
で、仕方なくAmazonで注文して
到着を待つことにしました。
英語の勉強も兼ねているので、
何度か見返しますからレンタルは不向きというのもあります。
しかし一向に連絡がない。
見ようと思い始めてからだと
待ち時間として意識されるものですね。
僕がテーマ的にも、ストーリー的にも思い入れを持てる
数少ないドラマシリーズなので気持ちも動きやすいようです。
とりあえずは他の勉強で時間を繋ぐことにします。
2015年12月28日
受容と介入のバランスを鍛える
1月31日(日)の講座は、コミュニケーションにおける基礎の部分を
改めて丁寧にトレーニングしようかと考えています。
といっても「基礎的な内容」ではなく、
「礎の部分」という意味です。
土台を鍛えます。
手法や技術ではなく、大事にしたい相手と関わる上での土台。
いかにクライアントを信じ、受け入れ、それでいて支援をするか。
そのようなところを、関わる側としての自分自身の内面から追求する感じです。
懇切丁寧にサポートをするのは、時として
相手が自ら力を発揮するチャンスを奪ってしまいかねません。
相手はただサポートに従って、頑張らなくて良くなりますから。
逆に、何もしないとか、突き放すようにしてしまっては
何のためのサポートなのか分からなくなるでしょう。
相手の何を支え、何を信じて委ねるのか。
何に対して積極的に手を出して、何を積極的に見守っていくのか。
ひたすら根気強く受け入れるときもあれば、
相手の話を遮ってでも本題に切り込むときもある。
こういった関わり方のバランスをトレーニングしようという趣旨です。
興味があれば検討してみてください。
正式な案内は年明けに予定しています。
改めて丁寧にトレーニングしようかと考えています。
といっても「基礎的な内容」ではなく、
「礎の部分」という意味です。
土台を鍛えます。
手法や技術ではなく、大事にしたい相手と関わる上での土台。
いかにクライアントを信じ、受け入れ、それでいて支援をするか。
そのようなところを、関わる側としての自分自身の内面から追求する感じです。
懇切丁寧にサポートをするのは、時として
相手が自ら力を発揮するチャンスを奪ってしまいかねません。
相手はただサポートに従って、頑張らなくて良くなりますから。
逆に、何もしないとか、突き放すようにしてしまっては
何のためのサポートなのか分からなくなるでしょう。
相手の何を支え、何を信じて委ねるのか。
何に対して積極的に手を出して、何を積極的に見守っていくのか。
ひたすら根気強く受け入れるときもあれば、
相手の話を遮ってでも本題に切り込むときもある。
こういった関わり方のバランスをトレーニングしようという趣旨です。
興味があれば検討してみてください。
正式な案内は年明けに予定しています。
2015年12月25日
ニュートラルな両極
スターウォーズの最新作が公開されたこともあって
「フォース」という言葉を耳にする機会も増えた気がします。
同時に「フォースのダークサイド」というフレーズも。
光があり、闇がある。
陽があり、陰がある。
正があって、負がある。
ポジティブとネガティブだってそうです。
どうも人間は、こうした両極と「良い/悪い」を結びつけやすいようです。
というよりも、切り離すのが難しい。
光と闇があれば、「光が良くて、闇が悪い」ということでしょう。
生き物として仕方のないことかもしれません。
正義と悪の対立は社会が生み出すものかもしれませんが、
光と闇を考えたとき、人間という動物は光に依存するところが大きいものです。
光があるから視覚が働くわけですから、闇には得体のしれない恐怖があります。
光があるから植物が育ち、食物連鎖が始まります。
快の状態では瞳孔が開いて、世界は明るく見えます。
「光は良い、闇は悪い」という印象に繋がりやすい。
そのイメージを引きずるんでしょうか。
陽と陰、正と負においても、「良い/悪い」と関連させがちです。
物理や数学では、「陽極と陰極」、「正の数と負の数」のように
どちらかが良いわけではなく、ただの性質として
反対の特徴を述べているだけです。
磁石のN極とS極に良し悪しがないように
(磁力も実際はプラスとマイナスですが)、
陰陽も正負も、ただの対局を示しているものなのかもしれません。
しかし、どうしても
「陽が良い、陰が悪い」
「正(プラス)が良い、負(マイナス)が悪い」
と結びつけやすい。
ポジティブ・ネガティブという単語も、
プラスの性質のもの、マイナスの性質のものというだけでしょうから、
「ポジティブが良い、ネガティブが悪い」という話ではないんだと思われます。
ポジティブシンキング、ネガティブシンキングという話になると
どちらが良い悪いではない
という意見は出てきますが、
その発想の中にも前提として「ポジティブが良い、ネガティブが悪い」
の考えは含まれている気がします。
例えば、
ポジティブシンキングにもネガティブな部分はあるし、
ネガティブシンキングにもポジティブな意味がある、
などと。
元々はただの呼び名なんでしょう。
方向性の違い。
北と南を分けるぐらいの感じ。
そこからすると
「楽しさ、幸せ、満足などがポジティブな感情、
怒り、悲しみ、不安などがネガティブな感情」
といった呼び方は
なかなか理解が難しいと感じます。
一般的なイメージでは
楽しみ、幸せ、満足が良い
怒り、悲しみ、不安は悪い
という結びつけかもしれませんが、
感情の中身を掘り下げていけば、
良い/悪いで判断できなくなってくるものです。
かといって北と南のような方向性の違いとして
ポジティブな感情、ネガティブな感情と呼び分けていると考えても、
今度は何をもって方向性の基準にするのかが微妙になります。
"ポジティブな感情"は、『向かう』性質(求めて向かっていく)
"ネガティブな感情"は、『避ける』性質(起きないように避けようとする)
…という呼び分けもできそうですが、
詳しく感情の性質を見ていくと必ずしも当てはまらなくなります。
例えば「悲しみ」は、失われた愛着に『向かう』性質です。
とすると、やはり感情にポジティブ、ネガティブの分類をするのは
良し悪しの評価を伴った一般的なイメージからのように思えてきます。
ポジティブ、ネガティブから「良い/悪い」の判断を外して
ニュートラルに真逆の性質を説明する言葉として使うには
世の中の認識とは随分と違った発想をする必要がありそうです。
「フォース」という言葉を耳にする機会も増えた気がします。
同時に「フォースのダークサイド」というフレーズも。
光があり、闇がある。
陽があり、陰がある。
正があって、負がある。
ポジティブとネガティブだってそうです。
どうも人間は、こうした両極と「良い/悪い」を結びつけやすいようです。
というよりも、切り離すのが難しい。
光と闇があれば、「光が良くて、闇が悪い」ということでしょう。
生き物として仕方のないことかもしれません。
正義と悪の対立は社会が生み出すものかもしれませんが、
光と闇を考えたとき、人間という動物は光に依存するところが大きいものです。
光があるから視覚が働くわけですから、闇には得体のしれない恐怖があります。
光があるから植物が育ち、食物連鎖が始まります。
快の状態では瞳孔が開いて、世界は明るく見えます。
「光は良い、闇は悪い」という印象に繋がりやすい。
そのイメージを引きずるんでしょうか。
陽と陰、正と負においても、「良い/悪い」と関連させがちです。
物理や数学では、「陽極と陰極」、「正の数と負の数」のように
どちらかが良いわけではなく、ただの性質として
反対の特徴を述べているだけです。
磁石のN極とS極に良し悪しがないように
(磁力も実際はプラスとマイナスですが)、
陰陽も正負も、ただの対局を示しているものなのかもしれません。
しかし、どうしても
「陽が良い、陰が悪い」
「正(プラス)が良い、負(マイナス)が悪い」
と結びつけやすい。
ポジティブ・ネガティブという単語も、
プラスの性質のもの、マイナスの性質のものというだけでしょうから、
「ポジティブが良い、ネガティブが悪い」という話ではないんだと思われます。
ポジティブシンキング、ネガティブシンキングという話になると
どちらが良い悪いではない
という意見は出てきますが、
その発想の中にも前提として「ポジティブが良い、ネガティブが悪い」
の考えは含まれている気がします。
例えば、
ポジティブシンキングにもネガティブな部分はあるし、
ネガティブシンキングにもポジティブな意味がある、
などと。
元々はただの呼び名なんでしょう。
方向性の違い。
北と南を分けるぐらいの感じ。
そこからすると
「楽しさ、幸せ、満足などがポジティブな感情、
怒り、悲しみ、不安などがネガティブな感情」
といった呼び方は
なかなか理解が難しいと感じます。
一般的なイメージでは
楽しみ、幸せ、満足が良い
怒り、悲しみ、不安は悪い
という結びつけかもしれませんが、
感情の中身を掘り下げていけば、
良い/悪いで判断できなくなってくるものです。
かといって北と南のような方向性の違いとして
ポジティブな感情、ネガティブな感情と呼び分けていると考えても、
今度は何をもって方向性の基準にするのかが微妙になります。
"ポジティブな感情"は、『向かう』性質(求めて向かっていく)
"ネガティブな感情"は、『避ける』性質(起きないように避けようとする)
…という呼び分けもできそうですが、
詳しく感情の性質を見ていくと必ずしも当てはまらなくなります。
例えば「悲しみ」は、失われた愛着に『向かう』性質です。
とすると、やはり感情にポジティブ、ネガティブの分類をするのは
良し悪しの評価を伴った一般的なイメージからのように思えてきます。
ポジティブ、ネガティブから「良い/悪い」の判断を外して
ニュートラルに真逆の性質を説明する言葉として使うには
世の中の認識とは随分と違った発想をする必要がありそうです。
2015年12月23日
基礎からやり直し
コミュニケーション関係のセミナーをやっていると
何度も会ううちに技術が上達していく人たちを数多く目にします。
日本で育ち、日本語を母国語として使い、
日本文化の人間関係を生きてきたわけですから、
コミュニケーションも自然とできているといえます。
あとはどうやって目的に沿った形にできるか、でしょう。
当然、コミュニケーションをする目的には相手がいます。
となると相手の気持ちを理解する側面と
自分の気持ちを伝える側面との2つに分けられるはずです。
自分の気持ちを伝えるときには、そもそも
自分の気持ちを自覚できているのか?
というポイントがありますが、
それ以外にも
相手と自分の違いをどう埋めるか?
が重要となります。
自分の気持ちを的確に捉えて、相手に分かるように伝えようとする。
ところが自分と相手の間には、言葉の理解の仕方や価値観、
感情の感じ方など、さまざまな点で違いがあります。
ですから自分が精一杯分かりやすく伝えたつもりでも
相手が理解してくれるかどうかは定かではないわけです。
同様に、相手の気持ちを理解するときも
様々な個人差のベースの差が影響します。
ですから、コミュニケーションでいつまでも追及することになるのは
自分と他の人の違いを埋める訓練だと考えられます。
コミュニケーションにおいては、正しいやり方があるとはいえません。
目の前のある人と上手くいくやり方があるだけです。
上手くいくやり方は状況によって、相手によって違う、と。
自分が使っていない表現の仕方や感じ方があるんです。
そうすると理解が難しくなる。
あるいは、自分だけ世間一般の平均とは違ったやり方をしているかもしれない。
その辺りを自覚した上で、いかに色々な人と合わせられるかという話です。
『求められる基準を知り、
その基準に合わせられるようにする』
ともいえます。
これはコミュニケーションに限ったことではありません。
例えば書道の場合、名作とされる古典を勉強することが基礎となります。
名作のなかで繰り返し登場する筆遣いや形のバランスのとり方が
書道の分野における「美しさ」の基準なわけです。
それを習得することで、ようやく自分の表現に「美しさ」を入れられます。
いくら「書芸術」という観点で独創性を発揮しようとしても
暗黙のうちに共有されている基準に合わせることがなければ
ただの独りよがりと言われかねません。
作品を発表して人に見てもらう形は、一種のコミュニケーションです。
見てくれる人がいるのですから、見る側の基準に合わせる要素があります。
そしていくら古典として培われてきたものであっても
書道に詳しくない人から見たら「美しさ」が分かりにくいこともあり得ます。
だからこそ別の側面として、活字のバランスに合わせた綺麗な文字としての
「習字」や「書写」も存在しているのでしょう。
僕の書道の先生は、どちらかというと、こうした基礎を重視する人のようです。
自由な創作を指導してもらう機会は少ないんです。
僕個人としては古典の臨書のほうがノビノビと雰囲気を味わえるんですが、
同時に「習字」として活字に近い書き方を練習することもあります。
両方やっているからこそ、基礎をおろそかにしていない実感が味わえています。
ところが僕の語学は、意外と基礎をいい加減にしていました。
文法は体系的に勉強したというよりも、高校までで辛うじて覚えていた範囲に
あとは読解の過程で何となく経験的に身につけた感じです。
日本語でも人によって誤解があるものですから
経験的に学んだ言葉の使い方は、意外と世間で共有される標準から
外れてしまっていることも少なくないようです。
それなりに自然体で英語のコミュニケーションをするようになったからこそ
意外と基礎ができていないところがあるのに気づきます。
もちろん最初から基礎をしっかりしておけば良いのかもしれませんが、
全体的な上達のスピードからすると、基礎に抜けがあっても問題なく
そのまま進んで行けてしまうことも多いように感じます。
そのため、ある程度上達してきた実感のあるタイミングに
もう一度基礎を振り返るというのが効果的なのではないでしょうか。
実践的な経験が増えていることも、基礎の整理をさらに効果的にします。
知らないことを新たに覚えるのではなく、勘違いに気づいた形のほうが
それ以降はスムーズに修正しやすいでしょうから。
…ということで、僕はこのあたりの本を勉強しなおしてみることにしました。
どんな分野でも、ある程度上達してきた実感のあるころに
もう一度基礎をやり直してみるのは役に立つことじゃないかと思います。
何度も会ううちに技術が上達していく人たちを数多く目にします。
日本で育ち、日本語を母国語として使い、
日本文化の人間関係を生きてきたわけですから、
コミュニケーションも自然とできているといえます。
あとはどうやって目的に沿った形にできるか、でしょう。
当然、コミュニケーションをする目的には相手がいます。
となると相手の気持ちを理解する側面と
自分の気持ちを伝える側面との2つに分けられるはずです。
自分の気持ちを伝えるときには、そもそも
自分の気持ちを自覚できているのか?
というポイントがありますが、
それ以外にも
相手と自分の違いをどう埋めるか?
が重要となります。
自分の気持ちを的確に捉えて、相手に分かるように伝えようとする。
ところが自分と相手の間には、言葉の理解の仕方や価値観、
感情の感じ方など、さまざまな点で違いがあります。
ですから自分が精一杯分かりやすく伝えたつもりでも
相手が理解してくれるかどうかは定かではないわけです。
同様に、相手の気持ちを理解するときも
様々な個人差のベースの差が影響します。
ですから、コミュニケーションでいつまでも追及することになるのは
自分と他の人の違いを埋める訓練だと考えられます。
コミュニケーションにおいては、正しいやり方があるとはいえません。
目の前のある人と上手くいくやり方があるだけです。
上手くいくやり方は状況によって、相手によって違う、と。
自分が使っていない表現の仕方や感じ方があるんです。
そうすると理解が難しくなる。
あるいは、自分だけ世間一般の平均とは違ったやり方をしているかもしれない。
その辺りを自覚した上で、いかに色々な人と合わせられるかという話です。
『求められる基準を知り、
その基準に合わせられるようにする』
ともいえます。
これはコミュニケーションに限ったことではありません。
例えば書道の場合、名作とされる古典を勉強することが基礎となります。
名作のなかで繰り返し登場する筆遣いや形のバランスのとり方が
書道の分野における「美しさ」の基準なわけです。
それを習得することで、ようやく自分の表現に「美しさ」を入れられます。
いくら「書芸術」という観点で独創性を発揮しようとしても
暗黙のうちに共有されている基準に合わせることがなければ
ただの独りよがりと言われかねません。
作品を発表して人に見てもらう形は、一種のコミュニケーションです。
見てくれる人がいるのですから、見る側の基準に合わせる要素があります。
そしていくら古典として培われてきたものであっても
書道に詳しくない人から見たら「美しさ」が分かりにくいこともあり得ます。
だからこそ別の側面として、活字のバランスに合わせた綺麗な文字としての
「習字」や「書写」も存在しているのでしょう。
僕の書道の先生は、どちらかというと、こうした基礎を重視する人のようです。
自由な創作を指導してもらう機会は少ないんです。
僕個人としては古典の臨書のほうがノビノビと雰囲気を味わえるんですが、
同時に「習字」として活字に近い書き方を練習することもあります。
両方やっているからこそ、基礎をおろそかにしていない実感が味わえています。
ところが僕の語学は、意外と基礎をいい加減にしていました。
文法は体系的に勉強したというよりも、高校までで辛うじて覚えていた範囲に
あとは読解の過程で何となく経験的に身につけた感じです。
日本語でも人によって誤解があるものですから
経験的に学んだ言葉の使い方は、意外と世間で共有される標準から
外れてしまっていることも少なくないようです。
それなりに自然体で英語のコミュニケーションをするようになったからこそ
意外と基礎ができていないところがあるのに気づきます。
もちろん最初から基礎をしっかりしておけば良いのかもしれませんが、
全体的な上達のスピードからすると、基礎に抜けがあっても問題なく
そのまま進んで行けてしまうことも多いように感じます。
そのため、ある程度上達してきた実感のあるタイミングに
もう一度基礎を振り返るというのが効果的なのではないでしょうか。
実践的な経験が増えていることも、基礎の整理をさらに効果的にします。
知らないことを新たに覚えるのではなく、勘違いに気づいた形のほうが
それ以降はスムーズに修正しやすいでしょうから。
…ということで、僕はこのあたりの本を勉強しなおしてみることにしました。
どんな分野でも、ある程度上達してきた実感のあるころに
もう一度基礎をやり直してみるのは役に立つことじゃないかと思います。
2015年12月20日
2015年12月17日
【セミナー】過去を清算する技法
ご案内: 1月11日(月・祝)開催
カウンセリング講座 〜過去を清算する〜
1月は講座を開催できそうです。
直近のご案内ですが、都合がつく方は検討してみてください。
内容は『過去を清算する』。
1年が始まって間もない時期に、いきなり過去の話ですが
逆にいえば、これまでの過去を整理しておいて
2016年を前向きに進めるようにするともいえます。
過去から目を背け、前だけを見るということではありません。
過去を引きずりながら前に進んだり、
過去を振り返りながら前に進むのではなく、
前を向きながら過去を大切にするようにします。
後ろ髪ひかれるような姿勢ではなく、
過去の経験を堂々と受け入れながら前に進む。
そういう趣旨です。
後悔、反省、罪悪感、自責感、傷つき、悔しさ、執着、喪失感…。
こういった感情がカギになります。
すべて大切な思いを裏に秘めていますが、
大切にしたい気持ちが強いからこそ手放しにくいんです。
結果としていつまでも苦しみを抱えることになる。
苦しみたければ苦しんでもいいんです。
ただ、「苦しまなければいけない」わけではありません。
いつも苦しんでいる必要はないんです。
苦しみたいときは苦しめばいい。
苦しみたくないときは楽でいればいい。
このシンプルな発想を持てる状態が
「前を見て進んでいる」ということです。
そのために必要なのが
・過去に対する思い込みを変える (リフレーミング)
・過去の経験の整理の仕方を変える (感情の整理とイメージワーク)
の2点です。
このプロセスを体験型のワークを通じて行います。
わだかまりの種類によって取り組み方にパターンの違いがありますが、
その区別は感情の種類を特定することで決められます。
講座では、わだかまりの感情別の取り組み方を解説します。
過去の経験の整理には、NLP的な手法も使いますし
心理療法をベースにした手法も応用します。
ワークの効果として自分が楽になるのはもちろん、
そもそも「過去にわだかまりがある」、「過去を引きずっている」のと
「過去を清算した」、「過去を受け入れている」状態とが
内面的にどのように違っているのか?
を体験的に理解できます。
心の中での整理の仕方、内的な世界の違いを
NLPの観点から『使っているプログラムの違い』として区別するわけです。
自分自身の体験として「過去を清算する」プロセスを実感できれば
「清算できている」状態と「引きずっている」状態との違いが分かります。
方法として今後も自分のために役立てることが可能ですし、
他の人の話を聞いているときにも「清算できているか」が判別できるはずです。
他者のサポートの際には、実際にイメージワークをするかどうかは別にして
必要な心の動きをイメージできるでしょうから、
どのようにサポートしたらいいかも思い浮かびやすくなると期待されます。
責任感の強い人、一生懸命に生きようとする人、人生に対して誠実な人ほど
過去への想いも大きくなりやすいのかもしれません。
その想いを捨てる必要はありません。
それに加えて『大らかさ』や『寛容さ』も育む。
厳しさを捨てるのではなく、厳しさの中に柔軟性を混ぜ込むだけのことです。
必死にやってきたことを少し緩め、自然体になった途端に結果が出る…
そんなこともよくあります。
自分自身が楽になるためにも、
関わる方々のサポートのためにも、
わだかまりを手放して過去を清算するプロセスをオススメします。
タイミングが合いましたら、是非お越しください。
※もしかすると最少決行人数に届かない場合もあるかもしれません。
その際には改めてお知らせいたしますので、なにとぞ御了承ください。
◆録音/録画、再生機材に関しまして
講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
【セミナーの詳細】
≪カウンセリング講座 〜過去を清算する〜≫
【日時】 2016年 1月11日(月・祝)
10:00〜16:30
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 滝野川会館 401集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
目の前の状況は、対処法を工夫することで乗り越えられます。
目標を達成するには、必要な課題を工夫すればいいでしょう。
技術を身につけ、成果を出し、望ましい自分になる。
過去の寂しさを癒し、自分を承認して、自分を好きになる。
そうやって取り組んできても残る「過去のわだかまり」があります。
ある意味では、もうどうすることもできない過去の話です。
にもかかわらず、その過去の体験ゆえに苦しみが残り続けることもあるんです。
苦しみに浸り、しゃがみこんでいる時期も大切です。
重荷を背負って、少しずつだけ前に進む時期もあると思います。
それがやがて、前に進みたい気持ちになることもあるようです。
そういうときがきたら、過去を清算してもいいのではないでしょうか。
いつがそのときかは分かりませんが、
そのときのために必要な方法を知っておくのは役立つはずです。
まずは近い時期のわだかまりを清算して
2016年をスムーズに進めるようにしてみませんか?
カウンセリング講座 〜過去を清算する〜
1月は講座を開催できそうです。
直近のご案内ですが、都合がつく方は検討してみてください。
内容は『過去を清算する』。
1年が始まって間もない時期に、いきなり過去の話ですが
逆にいえば、これまでの過去を整理しておいて
2016年を前向きに進めるようにするともいえます。
過去から目を背け、前だけを見るということではありません。
過去を引きずりながら前に進んだり、
過去を振り返りながら前に進むのではなく、
前を向きながら過去を大切にするようにします。
後ろ髪ひかれるような姿勢ではなく、
過去の経験を堂々と受け入れながら前に進む。
そういう趣旨です。
後悔、反省、罪悪感、自責感、傷つき、悔しさ、執着、喪失感…。
こういった感情がカギになります。
すべて大切な思いを裏に秘めていますが、
大切にしたい気持ちが強いからこそ手放しにくいんです。
結果としていつまでも苦しみを抱えることになる。
苦しみたければ苦しんでもいいんです。
ただ、「苦しまなければいけない」わけではありません。
いつも苦しんでいる必要はないんです。
苦しみたいときは苦しめばいい。
苦しみたくないときは楽でいればいい。
このシンプルな発想を持てる状態が
「前を見て進んでいる」ということです。
そのために必要なのが
・過去に対する思い込みを変える (リフレーミング)
・過去の経験の整理の仕方を変える (感情の整理とイメージワーク)
の2点です。
このプロセスを体験型のワークを通じて行います。
わだかまりの種類によって取り組み方にパターンの違いがありますが、
その区別は感情の種類を特定することで決められます。
講座では、わだかまりの感情別の取り組み方を解説します。
過去の経験の整理には、NLP的な手法も使いますし
心理療法をベースにした手法も応用します。
ワークの効果として自分が楽になるのはもちろん、
そもそも「過去にわだかまりがある」、「過去を引きずっている」のと
「過去を清算した」、「過去を受け入れている」状態とが
内面的にどのように違っているのか?
を体験的に理解できます。
心の中での整理の仕方、内的な世界の違いを
NLPの観点から『使っているプログラムの違い』として区別するわけです。
自分自身の体験として「過去を清算する」プロセスを実感できれば
「清算できている」状態と「引きずっている」状態との違いが分かります。
方法として今後も自分のために役立てることが可能ですし、
他の人の話を聞いているときにも「清算できているか」が判別できるはずです。
他者のサポートの際には、実際にイメージワークをするかどうかは別にして
必要な心の動きをイメージできるでしょうから、
どのようにサポートしたらいいかも思い浮かびやすくなると期待されます。
責任感の強い人、一生懸命に生きようとする人、人生に対して誠実な人ほど
過去への想いも大きくなりやすいのかもしれません。
その想いを捨てる必要はありません。
それに加えて『大らかさ』や『寛容さ』も育む。
厳しさを捨てるのではなく、厳しさの中に柔軟性を混ぜ込むだけのことです。
必死にやってきたことを少し緩め、自然体になった途端に結果が出る…
そんなこともよくあります。
自分自身が楽になるためにも、
関わる方々のサポートのためにも、
わだかまりを手放して過去を清算するプロセスをオススメします。
タイミングが合いましたら、是非お越しください。
※もしかすると最少決行人数に届かない場合もあるかもしれません。
その際には改めてお知らせいたしますので、なにとぞ御了承ください。
◆録音/録画、再生機材に関しまして
講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
【セミナーの詳細】
≪カウンセリング講座 〜過去を清算する〜≫
【日時】 2016年 1月11日(月・祝)
10:00〜16:30
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 滝野川会館 401集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
目の前の状況は、対処法を工夫することで乗り越えられます。
目標を達成するには、必要な課題を工夫すればいいでしょう。
技術を身につけ、成果を出し、望ましい自分になる。
過去の寂しさを癒し、自分を承認して、自分を好きになる。
そうやって取り組んできても残る「過去のわだかまり」があります。
ある意味では、もうどうすることもできない過去の話です。
にもかかわらず、その過去の体験ゆえに苦しみが残り続けることもあるんです。
苦しみに浸り、しゃがみこんでいる時期も大切です。
重荷を背負って、少しずつだけ前に進む時期もあると思います。
それがやがて、前に進みたい気持ちになることもあるようです。
そういうときがきたら、過去を清算してもいいのではないでしょうか。
いつがそのときかは分かりませんが、
そのときのために必要な方法を知っておくのは役立つはずです。
まずは近い時期のわだかまりを清算して
2016年をスムーズに進めるようにしてみませんか?
2015年12月15日
なかなか見つかりません
イギリス英語の発音には以前から少しだけ興味がありましたが
それが一気に強まったのは確か、TOEICの模試だったと思います。
僕が受けたことのあったのはずっと前で、
その頃のTOEICのリスニングはアメリカ英語だけだった記憶があります。
ところが最近は、イギリス英語が混ざってきている。
その英語がさっぱり聞けなかったんです。
ろくに英語を勉強していなかった頃は
イギリス発音のパキパキした感じが聞きやすいなんて思っていたものなのに
実はそんなことはありませんでした。
英語に慣れてくると、母音を伸ばしながら発音してくれるアメリカ英語のほうが
ずっと聞きやすいようです。
気軽にやってみてTOEIC用のサンプル問題のようなものでさえ
イギリス人が問題文を読んでいると途端に難しく感じられました。
一般的に言われることとしても、自分自身の学習の経験からしても
発音できるようになったものは聞き取りやすいことが多いものですから、
だったらイギリス英語の発音を練習してしまおうと思ったんです。
それでイギリスのアクセントをトレーニングしてみようということにしました。
そうしたら運良く夏ごろに、イギリス英語の半日セミナーを見つけられました。
この本を書いた人です。
で、これが明快でポイントが分かりやすく、
おぼろげなイメージで仕方なかった「イギリス英語ってこんな感じ」
という頭の中のモデルをしっかり特徴づけることができました。
とはいえポイントだけ分かっていてもできるわけではない。
練習が必要です。
にもかかわらずイギリス英語発音のトレーニングは多くないようなんです。
どうしても子音、母音を単独でやるものが多い。
もちろんそれが基本でしょうし、それによって全体が決まるとは思うんですが
音の流れやリズム、イントネーション、発音のパターンを定めるルールなど
もっと全体を一気に抑える観点で教えてくれるところがあまり見当たりません。
それなら前に出たセミナーの先生に教われないものか、と講座を探して
スケジュールの合う範囲で、音読のトレーニングに参加してみました。
とても指導の上手い先生だったのものありましたし、
僕がNLPでモデリングをやっているのもあってか
イギリス人の録音を聞いて真似するだけだったら結構上達するようでした。
ところが、じゃあ見本なしでどれだけできるのか?という話になると
これまた難しいところがあります。
やっぱりもっと練習が必要ですし、決まった形の反復練習だけでなく
多くのサンプルの中からパターンを見出していけるように
実践的な練習が求められると感じました。
とくに僕の場合、ペース合わせをトレーニングしてきたせいか
話し相手から影響を受ける度合いが大きいみたいですから、
イギリス人と会話をしてしまうのが手っ取り早いだろうと考えられます。
それでイギリス発音をトレーニングできる環境として
イギリス人に発音を教わりながら会話の練習ができるようなところを
いろいろと探してみたんです。
しかし、これが見つからない…。
先日も、インターネット上で見つかった
イギリス英語を謳い文句にしたスクールに問い合わせをしてみました。
メールの返事が返ってこないので送信エラーかと思って
近くの駅に行った際に、直接訪れてみることにしたんですが、
どうもホームページに出ている場所に何も見当たらない。
その部屋らしき場所では改装工事をしていました。
仕方なくそこの人に聞いてみたら、そのスクールは3か月前に潰れたとのこと。
唯一といっていいほど直接的にニーズに合いそうなところだったので
なんとも残念な話です。
おかげで最近は、なんとかしてトレーニングの場を作れないかと
いろいろと模索をしている日々です。
イギリス英語の厄介なのは、アメリカ英語と比べて多様だということ。
狭い国土なのに、訛りが多いんです。
標準的なイギリス英語を話す人なんて数%らしいですから。
そうなるとイギリス人の先生なら誰でもいいわけではありません。
標準発音に近い人を探す必要があります。
イギリスの公的機関でブリティッシュ・カウンシルというのがあって
そこでも英会話スクールを併設しているので、
そちらにも受講相談に行ってみました。
さすがに先生はしっかりした教育を受けていて
全員が標準発音のようでしたが、
今度はこちらには適切なクラスが存在しないとのこと。
国の支援を受けている機関ですから、営業が消極的です。
正直に「ご期待に沿えるものは今のところありません」と言われました。
振り返ってみると、どうも僕にはこういう傾向があるみたいに思えてしまいます。
興味を持って一歩目を踏み出すと、最初に良い先生と巡り会える。
そしてある程度までトレーニングをしてもらえる。
「そろそろ次の段階に」となったあたりで探し始めると
途端に受け入れ先が見つからなくなる。
なんだか
ある程度まで行ったら自分でやれるでしょ?
とでも言われているかのような気分です。
それが一気に強まったのは確か、TOEICの模試だったと思います。
僕が受けたことのあったのはずっと前で、
その頃のTOEICのリスニングはアメリカ英語だけだった記憶があります。
ところが最近は、イギリス英語が混ざってきている。
その英語がさっぱり聞けなかったんです。
ろくに英語を勉強していなかった頃は
イギリス発音のパキパキした感じが聞きやすいなんて思っていたものなのに
実はそんなことはありませんでした。
英語に慣れてくると、母音を伸ばしながら発音してくれるアメリカ英語のほうが
ずっと聞きやすいようです。
気軽にやってみてTOEIC用のサンプル問題のようなものでさえ
イギリス人が問題文を読んでいると途端に難しく感じられました。
一般的に言われることとしても、自分自身の学習の経験からしても
発音できるようになったものは聞き取りやすいことが多いものですから、
だったらイギリス英語の発音を練習してしまおうと思ったんです。
それでイギリスのアクセントをトレーニングしてみようということにしました。
そうしたら運良く夏ごろに、イギリス英語の半日セミナーを見つけられました。
この本を書いた人です。
で、これが明快でポイントが分かりやすく、
おぼろげなイメージで仕方なかった「イギリス英語ってこんな感じ」
という頭の中のモデルをしっかり特徴づけることができました。
とはいえポイントだけ分かっていてもできるわけではない。
練習が必要です。
にもかかわらずイギリス英語発音のトレーニングは多くないようなんです。
どうしても子音、母音を単独でやるものが多い。
もちろんそれが基本でしょうし、それによって全体が決まるとは思うんですが
音の流れやリズム、イントネーション、発音のパターンを定めるルールなど
もっと全体を一気に抑える観点で教えてくれるところがあまり見当たりません。
それなら前に出たセミナーの先生に教われないものか、と講座を探して
スケジュールの合う範囲で、音読のトレーニングに参加してみました。
とても指導の上手い先生だったのものありましたし、
僕がNLPでモデリングをやっているのもあってか
イギリス人の録音を聞いて真似するだけだったら結構上達するようでした。
ところが、じゃあ見本なしでどれだけできるのか?という話になると
これまた難しいところがあります。
やっぱりもっと練習が必要ですし、決まった形の反復練習だけでなく
多くのサンプルの中からパターンを見出していけるように
実践的な練習が求められると感じました。
とくに僕の場合、ペース合わせをトレーニングしてきたせいか
話し相手から影響を受ける度合いが大きいみたいですから、
イギリス人と会話をしてしまうのが手っ取り早いだろうと考えられます。
それでイギリス発音をトレーニングできる環境として
イギリス人に発音を教わりながら会話の練習ができるようなところを
いろいろと探してみたんです。
しかし、これが見つからない…。
先日も、インターネット上で見つかった
イギリス英語を謳い文句にしたスクールに問い合わせをしてみました。
メールの返事が返ってこないので送信エラーかと思って
近くの駅に行った際に、直接訪れてみることにしたんですが、
どうもホームページに出ている場所に何も見当たらない。
その部屋らしき場所では改装工事をしていました。
仕方なくそこの人に聞いてみたら、そのスクールは3か月前に潰れたとのこと。
唯一といっていいほど直接的にニーズに合いそうなところだったので
なんとも残念な話です。
おかげで最近は、なんとかしてトレーニングの場を作れないかと
いろいろと模索をしている日々です。
イギリス英語の厄介なのは、アメリカ英語と比べて多様だということ。
狭い国土なのに、訛りが多いんです。
標準的なイギリス英語を話す人なんて数%らしいですから。
そうなるとイギリス人の先生なら誰でもいいわけではありません。
標準発音に近い人を探す必要があります。
イギリスの公的機関でブリティッシュ・カウンシルというのがあって
そこでも英会話スクールを併設しているので、
そちらにも受講相談に行ってみました。
さすがに先生はしっかりした教育を受けていて
全員が標準発音のようでしたが、
今度はこちらには適切なクラスが存在しないとのこと。
国の支援を受けている機関ですから、営業が消極的です。
正直に「ご期待に沿えるものは今のところありません」と言われました。
振り返ってみると、どうも僕にはこういう傾向があるみたいに思えてしまいます。
興味を持って一歩目を踏み出すと、最初に良い先生と巡り会える。
そしてある程度までトレーニングをしてもらえる。
「そろそろ次の段階に」となったあたりで探し始めると
途端に受け入れ先が見つからなくなる。
なんだか
ある程度まで行ったら自分でやれるでしょ?
とでも言われているかのような気分です。
2015年12月13日
学校の雰囲気
おそらく20年ぶりぐらいだったかと思いますが
早稲田大学の本部キャンパスに行ってきました。
僕は理工学部でしたから、
本部のほうにはサークル活動ぐらいでしか行ったことがありません。
当時は全く分からなかった雰囲気が
なんだかとても新鮮に感じられた気がしました。
昔はそれだけしか知らず、比較することもなかったんだと思います。
目の前のことで一杯で、客観的に様子を観察することもありませんでした。
人を理解する上でのデータベースも小さかったでしょうし。
今はだいぶ着眼点が増えているようですし、比較対象も増えています。
都内での行動範囲が広がると、
聞いたことのある大学の前を通ることも多くなりました。
当然、その学校の学生たちと遭遇します。
不思議なもので、学校固有の特徴というか
その大学の学生には共通点が見受けられます。
それぞれの学校が持つ文化や校風が影響するのか、
それともそういう人がその大学に集まるのか?
相互作用的なものかもしれませんが、雰囲気の違いは大きそうです。
そしてその雰囲気は、どことなくキャンパスにも反映されている感じがします。
僕は最近、フランス語を勉強する関係で上智大学に行っていますが
建物そのものの形にせよ、建物の配置にせよ
品良くきちんと並んでいる印象を受けます。
それに対して早稲田の本部キャンパスなんて乱雑です。
どこが入口かも分からないし、入り組んだ細い路地の先に門があったり、
キャンパス内にも薄暗い路地があったり、
校舎の配置も入り組んでいて、キャンパス内の道幅や繋がり方もバラバラ。
ところどころにある緑は、そこに植えたというよりも
「もともと森だったものを切り拓いた残り」といった印象さえあります。
その点、上智の木々は街路樹のようです。
メインの道路が2本、キャンパスの中央で交差していて
この時期はイルミネーションなんかも点灯しています。
逆に早稲田のキャンパスの夜は薄暗い。
学生にしても上智は帰国子女が多いせいか
ちょっとアメリカナイズされたような大人びた印象を受けますが、
早稲田はガヤガヤした感じがしました。
統計的には分かりませんが、なんとなく
上智は早稲田よりも女子学生が多いように見えます。
どちらも国際色は豊かであっても
早稲田のほうが東南アジアの色合いが濃く
上智は南北アメリカ大陸の傾向が強そうです。
何より海外出身と見受けられる学生が話す言葉が違っているようでした。
上智では当たり前に英語や地元の言葉で話しています。
早稲田で見た留学生は大部分が、頑張って日本語を使っていました。
東大のキャンパスは外から見る様子と
中に入った景色が随分と違います。
キャンパスの外周は外壁と木で覆われていて
東大の前を通る道から中の様子は伺えません。
赤門と呼ばれる象徴的な門を通って中に入ると、広い中庭があります。
緑が多く、ゆったりとして落ち着いた様子。
いわゆるキャンパスライフといった感じの遊び心というよりは
落ち着いてしっかり勉強ができそうな空間と感じました。
とくにキャンパス内外で世界が一変する感じや
外壁や門で区切られているところからしても、
文字通り「東大に入る(キャンパスに足を踏み入れる)」ことが
特別な行為であるかのようなメッセージ性を含んでいそうです。
大学という施設が作り出している雰囲気と
そこに集まる学生の雰囲気には
お互いに響き合うところがあるのでしょう。
受験のときに設定される「志望校」には
勉強の内容だけでなく、その人の個性が関係している気がします。
実際に学生を見ても、キャンパスの様子を見ても
大学ごとのイメージとして語られるものは
単なるステレオタイプだけではなく、
文化と価値観を反映したものなのかもしれません。
早稲田大学の本部キャンパスに行ってきました。
僕は理工学部でしたから、
本部のほうにはサークル活動ぐらいでしか行ったことがありません。
当時は全く分からなかった雰囲気が
なんだかとても新鮮に感じられた気がしました。
昔はそれだけしか知らず、比較することもなかったんだと思います。
目の前のことで一杯で、客観的に様子を観察することもありませんでした。
人を理解する上でのデータベースも小さかったでしょうし。
今はだいぶ着眼点が増えているようですし、比較対象も増えています。
都内での行動範囲が広がると、
聞いたことのある大学の前を通ることも多くなりました。
当然、その学校の学生たちと遭遇します。
不思議なもので、学校固有の特徴というか
その大学の学生には共通点が見受けられます。
それぞれの学校が持つ文化や校風が影響するのか、
それともそういう人がその大学に集まるのか?
相互作用的なものかもしれませんが、雰囲気の違いは大きそうです。
そしてその雰囲気は、どことなくキャンパスにも反映されている感じがします。
僕は最近、フランス語を勉強する関係で上智大学に行っていますが
建物そのものの形にせよ、建物の配置にせよ
品良くきちんと並んでいる印象を受けます。
それに対して早稲田の本部キャンパスなんて乱雑です。
どこが入口かも分からないし、入り組んだ細い路地の先に門があったり、
キャンパス内にも薄暗い路地があったり、
校舎の配置も入り組んでいて、キャンパス内の道幅や繋がり方もバラバラ。
ところどころにある緑は、そこに植えたというよりも
「もともと森だったものを切り拓いた残り」といった印象さえあります。
その点、上智の木々は街路樹のようです。
メインの道路が2本、キャンパスの中央で交差していて
この時期はイルミネーションなんかも点灯しています。
逆に早稲田のキャンパスの夜は薄暗い。
学生にしても上智は帰国子女が多いせいか
ちょっとアメリカナイズされたような大人びた印象を受けますが、
早稲田はガヤガヤした感じがしました。
統計的には分かりませんが、なんとなく
上智は早稲田よりも女子学生が多いように見えます。
どちらも国際色は豊かであっても
早稲田のほうが東南アジアの色合いが濃く
上智は南北アメリカ大陸の傾向が強そうです。
何より海外出身と見受けられる学生が話す言葉が違っているようでした。
上智では当たり前に英語や地元の言葉で話しています。
早稲田で見た留学生は大部分が、頑張って日本語を使っていました。
東大のキャンパスは外から見る様子と
中に入った景色が随分と違います。
キャンパスの外周は外壁と木で覆われていて
東大の前を通る道から中の様子は伺えません。
赤門と呼ばれる象徴的な門を通って中に入ると、広い中庭があります。
緑が多く、ゆったりとして落ち着いた様子。
いわゆるキャンパスライフといった感じの遊び心というよりは
落ち着いてしっかり勉強ができそうな空間と感じました。
とくにキャンパス内外で世界が一変する感じや
外壁や門で区切られているところからしても、
文字通り「東大に入る(キャンパスに足を踏み入れる)」ことが
特別な行為であるかのようなメッセージ性を含んでいそうです。
大学という施設が作り出している雰囲気と
そこに集まる学生の雰囲気には
お互いに響き合うところがあるのでしょう。
受験のときに設定される「志望校」には
勉強の内容だけでなく、その人の個性が関係している気がします。
実際に学生を見ても、キャンパスの様子を見ても
大学ごとのイメージとして語られるものは
単なるステレオタイプだけではなく、
文化と価値観を反映したものなのかもしれません。
2015年12月10日
発音研究者の発音
英語音声についての学会が開催する講演会に行ってみました。
ゲストスピーカーはイギリス人で
発音トレーニングを専門にしている人。
発音記号の無料オンライン辞書を作ったとのことで
そのプログラムの紹介やデモについての講演でした。
プログラムそのものは、単語のイギリス発音を調べられたり
共通するスペルを含む単語を調べられたり
それぞれの単語の使用頻度を調べられたりするもの。
単語の意味を調べる目的ではなく、
単語のスペルと発音の関係を調べるのが趣旨だといえます。
英語を教える人が教材を作るときに
適切なお題を探すうえで役に立つプログラムだと感じました。
同じ発音で違うスペルのもの。
似た発音になるもの。
同じスペルなのに違う発音になるパターン。
そうした比較をしながら発音トレーニングをすることは多々ありますが、
そのときに適切なお題を探すのが楽になりそうなツールでした。
僕自身が使うかどうかは抜きにして
専門家の間では面白いツールなんだろうと感じます。
ですが、内容以上に僕が興味を持ったのは
学会という場そのものです。
仲の良さそうな大学の先生方や、同窓生が集まって
挨拶をして、近況報告をして、狭い専門分野だけについて話をする。
英語関係で、しかも日本の学会ですから
余計に特殊なのかもしれません。
来ている人たちは英語を専門に研究する大学の先生か
その研究室の学生たち、あるいは
OBで英語関係の仕事を続けている人たちといった様子。
誰ひとりとして英語ネイティブはいませんでした。
日本人の英語の学会ですから。
英語に興味を持って、自分で英語を勉強している
もしくは勉強して英語を身につけ、仕事にしている人たち。
もっと英語が上手い日本人は沢山います。
専門が英語以外で英語が上手い人は多いんです。
ネイティブのバイリンガルだったり、
幼少期からある時期までの教育期間を海外で過ごしていたりすると
かなり日本語と近いレベルで英語を使えるようになるようです。
そういう人に数多く出会いましたし、
なかには英語のほうが日本語よりも得意な人たちも大勢いました。
ただ、日本の英語関係の学会に参加する人は
どうやら必ずしも英語がスムーズなわけではないようだったんです。
あくまで研究素材であって、自分が上手くなるのが第一の目的ではない。
学生や初級者向けの教育をしたりするうえで役に立てたり
日本人向けの情報発信に役立てたりする人が大半みたいでした。
もちろん見事に使いこなす人もいたはずです。
少なくとも一人は確認できました。
それでも英語音声に関する学会にもかかわらず
発音にこだわっている人が非常に少ない。
オーガナイザーらしき教授は完全なカタカナ英語だったぐらいです。
発音や音声について研究するのが目的であって
自分が使えることが目的ではないんでしょう。
学問というのはそんな世界なんだろうと感じました。
日本にいながら英語を研究して
日本人の学生を相手に英語教育をして毎日を過ごすのは、
英語圏の国で英語でコミュニケーションしながら
別の目的の活動をするのとは、英語の使用頻度が違います。
人によっては自然と発音やイントネーションが身につく場合もあるでしょう。
語学やコミュニケーション、経営や心理といった分野は
日常的にツールとして使われるものだからこそ、
それを教育したり研究したりする観点と
それを当たり前に使っていく観点とで
大きなギャップを生みやすいのかもしれません。
トレーニングか実践、いずれにしても経験の量と質が上達を決めるわけですが、
客観的になり過ぎると経験の量が減ってしまいかねないんだと思います。
研究するのか、教育するのか、実践するのか。
どの分野でも違いがあるものなんでしょう。
ゲストスピーカーはイギリス人で
発音トレーニングを専門にしている人。
発音記号の無料オンライン辞書を作ったとのことで
そのプログラムの紹介やデモについての講演でした。
プログラムそのものは、単語のイギリス発音を調べられたり
共通するスペルを含む単語を調べられたり
それぞれの単語の使用頻度を調べられたりするもの。
単語の意味を調べる目的ではなく、
単語のスペルと発音の関係を調べるのが趣旨だといえます。
英語を教える人が教材を作るときに
適切なお題を探すうえで役に立つプログラムだと感じました。
同じ発音で違うスペルのもの。
似た発音になるもの。
同じスペルなのに違う発音になるパターン。
そうした比較をしながら発音トレーニングをすることは多々ありますが、
そのときに適切なお題を探すのが楽になりそうなツールでした。
僕自身が使うかどうかは抜きにして
専門家の間では面白いツールなんだろうと感じます。
ですが、内容以上に僕が興味を持ったのは
学会という場そのものです。
仲の良さそうな大学の先生方や、同窓生が集まって
挨拶をして、近況報告をして、狭い専門分野だけについて話をする。
英語関係で、しかも日本の学会ですから
余計に特殊なのかもしれません。
来ている人たちは英語を専門に研究する大学の先生か
その研究室の学生たち、あるいは
OBで英語関係の仕事を続けている人たちといった様子。
誰ひとりとして英語ネイティブはいませんでした。
日本人の英語の学会ですから。
英語に興味を持って、自分で英語を勉強している
もしくは勉強して英語を身につけ、仕事にしている人たち。
もっと英語が上手い日本人は沢山います。
専門が英語以外で英語が上手い人は多いんです。
ネイティブのバイリンガルだったり、
幼少期からある時期までの教育期間を海外で過ごしていたりすると
かなり日本語と近いレベルで英語を使えるようになるようです。
そういう人に数多く出会いましたし、
なかには英語のほうが日本語よりも得意な人たちも大勢いました。
ただ、日本の英語関係の学会に参加する人は
どうやら必ずしも英語がスムーズなわけではないようだったんです。
あくまで研究素材であって、自分が上手くなるのが第一の目的ではない。
学生や初級者向けの教育をしたりするうえで役に立てたり
日本人向けの情報発信に役立てたりする人が大半みたいでした。
もちろん見事に使いこなす人もいたはずです。
少なくとも一人は確認できました。
それでも英語音声に関する学会にもかかわらず
発音にこだわっている人が非常に少ない。
オーガナイザーらしき教授は完全なカタカナ英語だったぐらいです。
発音や音声について研究するのが目的であって
自分が使えることが目的ではないんでしょう。
学問というのはそんな世界なんだろうと感じました。
日本にいながら英語を研究して
日本人の学生を相手に英語教育をして毎日を過ごすのは、
英語圏の国で英語でコミュニケーションしながら
別の目的の活動をするのとは、英語の使用頻度が違います。
人によっては自然と発音やイントネーションが身につく場合もあるでしょう。
語学やコミュニケーション、経営や心理といった分野は
日常的にツールとして使われるものだからこそ、
それを教育したり研究したりする観点と
それを当たり前に使っていく観点とで
大きなギャップを生みやすいのかもしれません。
トレーニングか実践、いずれにしても経験の量と質が上達を決めるわけですが、
客観的になり過ぎると経験の量が減ってしまいかねないんだと思います。
研究するのか、教育するのか、実践するのか。
どの分野でも違いがあるものなんでしょう。
2015年12月07日
残像が見えます
メガネ屋に行こうかと考えています。
数日前から左目の調子が少しおかしい気がします。
なんというか、左右の目で違うものを見ている感じ。
実感としては、かなり左目が使えてきているという印象なんです。
前は右目ばっかりを使っていたので。
左目で対角線に右視野を意識する度合いが高まっているようです。
体の左右バランスが良くなってきていることとも関係すると思います。
で、仕事の後、テレビを見ていて気づいたんです。
左目だけ残像が見えていて、テレビ画面がよく見えない。
光を長時間見ていたあと目の前に白い光のようなものが残りますが、
あのような感じで左目にだけ光が焼きついたみたいになるんです。
明るさのコントラストが強かったり、色のコントラストが強かったりすると
その部分が白くこびりついたようになります。
この間はセミナー中にホワイトボードに字を書いていたら
残像が見え始めてきて、とても見づらくて困りました。
休憩時間にトイレに行って鏡を見たところ
左右の目が見ている方向が若干違うように見えました。
左目が少し外を見ている状態。
網膜か視覚野の調整のせいで光のような残像が見えるんだと思いますが
問題は左目の運動のほうにあるような気がしています。
前はほとんど使っていなかった左目でも物を見るようになって
左目からインプットされる視覚情報の量が増えてきた。
反面、左目を使うことに慣れていないため
ピントを調整したり、目を動かしたりする筋肉が鍛えられていない。
結果として、左目ばかり同じものを見続けることになってしまって
残像ができてしまうのではないか、と。
とくにカウンセリングやセミナーの後では
左目の筋肉が疲れてさらに調整が効きにくくなって
夜中にテレビを見ようとすると画面がまともに見えない、
といったことが起きていると思われます。
僕は子供の頃からずっと右目に偏った見方をしていて
目が悪くなってきてからは左右の視力差が大きくなってしまいました。
ですから僕のメガネの度は左目のほうが強いんです。
左目を強めに補正している。
その状況で左目が使えてきていて、
もしかすると視力も回復してきているとなったら、
今は左目のほうが視力が良くなっているかもしれません。
だとしたら、使い慣れていない左目がハッキリ見え過ぎないように
少なくとも左右の視力バランスを調整するぐらいはしてもいい気がします。
そのためにメガネ屋にいって視力を検査してみようかということです。
眼科?
サードオピニオンぐらいで行くかもしれませんが
自信を持って答えられる状態なのかどうかで判断します。
数日前から左目の調子が少しおかしい気がします。
なんというか、左右の目で違うものを見ている感じ。
実感としては、かなり左目が使えてきているという印象なんです。
前は右目ばっかりを使っていたので。
左目で対角線に右視野を意識する度合いが高まっているようです。
体の左右バランスが良くなってきていることとも関係すると思います。
で、仕事の後、テレビを見ていて気づいたんです。
左目だけ残像が見えていて、テレビ画面がよく見えない。
光を長時間見ていたあと目の前に白い光のようなものが残りますが、
あのような感じで左目にだけ光が焼きついたみたいになるんです。
明るさのコントラストが強かったり、色のコントラストが強かったりすると
その部分が白くこびりついたようになります。
この間はセミナー中にホワイトボードに字を書いていたら
残像が見え始めてきて、とても見づらくて困りました。
休憩時間にトイレに行って鏡を見たところ
左右の目が見ている方向が若干違うように見えました。
左目が少し外を見ている状態。
網膜か視覚野の調整のせいで光のような残像が見えるんだと思いますが
問題は左目の運動のほうにあるような気がしています。
前はほとんど使っていなかった左目でも物を見るようになって
左目からインプットされる視覚情報の量が増えてきた。
反面、左目を使うことに慣れていないため
ピントを調整したり、目を動かしたりする筋肉が鍛えられていない。
結果として、左目ばかり同じものを見続けることになってしまって
残像ができてしまうのではないか、と。
とくにカウンセリングやセミナーの後では
左目の筋肉が疲れてさらに調整が効きにくくなって
夜中にテレビを見ようとすると画面がまともに見えない、
といったことが起きていると思われます。
僕は子供の頃からずっと右目に偏った見方をしていて
目が悪くなってきてからは左右の視力差が大きくなってしまいました。
ですから僕のメガネの度は左目のほうが強いんです。
左目を強めに補正している。
その状況で左目が使えてきていて、
もしかすると視力も回復してきているとなったら、
今は左目のほうが視力が良くなっているかもしれません。
だとしたら、使い慣れていない左目がハッキリ見え過ぎないように
少なくとも左右の視力バランスを調整するぐらいはしてもいい気がします。
そのためにメガネ屋にいって視力を検査してみようかということです。
眼科?
サードオピニオンぐらいで行くかもしれませんが
自信を持って答えられる状態なのかどうかで判断します。