2016年04月
2016年04月30日
最新作を見てみた
セミナーが重なると、僕はDVDを借りる頻度が下がるみたいです。
レンタル店に入らなくなるんです。
時間のことを気にするのか、ただボーっとしたいのか
とにかく足が向きません。
その時期は映画館に行くこともないですから
テレビのコマーシャルやニュースなどで話題の映画のはなしになったりすると
「見てみようかな」と思いながらも、そこまでの気分にはならないようです。
で、最近セミナーのピークが過ぎたのでレンタル店に入ってみました。
少し前、気になりながらも見に行かなかった映画が
もうDVDになってレンタルされていました。
最近は映画がDVD化されるタイミングも速い気がします。
なかには既に「準新作」などと書かれているものも。
そうすると話題作が沢山レンタルできる状態になっていて
見てみたい気持ちが少し高まってきます。
今回は話題性を重視して、『スターウォーズ』の最新作を借りてみました。
内容に触れるつもりはあまりないんですが、
最初の作品が作られた当時からすると、おそらく
アメリカ社会や分化の変化が表れているのではないかとも感じました。
スターウォーズといえば、
ジョセフ・キャンベルのヒーローズ・ジャーニーを参考に作られたという
典型的な英雄の冒険から始まっています。
最新作も、新たな英雄が旅立ち始めるプロセスを
1作目(エピソード4)を追いかけるような形で展開しているように思えました。
ただ大きな違いは主人公が女性だということ。
そしてパートナー的な立場の中心人物がアフリカ系アメリカ人だということ。
僕自身は日本在住の一視聴者として、女性が主役のヒーローものにも
様々な人種が登場する映画にも慣れていますから、
そのことについては特別な気持ちが動くわけではありません。
世界に目を拡げれば、女性が国や組織の最高責任者になっている例も多く
性別や肌の色が判断材料の1つに入ることも
あまり僕の中では起きていないように自覚しています。
ことさら意識しないので気にならないし、注目もしない。
そうではない部分…たとえば政治家なら政策に、
映画ならストーリーや演技に、自然と大部分の注意が向くみたいです。
その一方で僕は、アメリカの大学の授業を単科受講していたとき
アメリカの歴史についても勉強する機会があったんです。
そこでの知識に照らし合わせ、客観的で分析的な見方をすると
差別の歴史が強かったアメリカ社会において、
アメリカを代表する映画としての『スターウォーズ』で
そうした主人公の変化は何か意味があるようにも感じられました。
…まぁ、単純にこれまでとパターンを変えて
新しさを出したかったのかもしれませんが。
ちなみに僕自身の関心が一番強く向いたのは
イギリス英語の多さです。
主人公はイギリス出身の女優で、映画の中でもイギリス英語全開です。
敵の軍団の重役もほとんどイギリス英語で話していました。
悪役をイギリス英語にするのは最近のハリウッド映画では良くある話。
(昔はロシア訛りが多かった)
どういう趣旨で主人公にイギリス英語をそのまま話させたのか?
そもそも、どういう経緯で主人公に抜擢されたのか?
僕には想像もできませんが、なかなか興味深い部分です。
それも結局、僕が最近、英語の発音の違いに関心があるからだと言えますが。
そして主人公を演じたイギリス出身の女優(デイジー・リドリー)には
いかにもイギリス人らしい口元の特徴があります。
口角に縦に入るシワ。
アメリカ人は上唇が前に上がるように出て、
上唇の横だけに斜めのシワが入る傾向があります。
(メグ・ライアンとかアン・ハサウェイが典型的)
これは日本人でもアメリカ育ちだと見受けられる口元です(河北麻友子など)。
上唇がめくれ上がる感じとでもいいましょうか。
アメリカ英語だと、「 r 」の音を出すときや、「 wu 」の音を出すとき、
アゴの位置を固定したまま唇をグッと前に突き出す動きをします。
さらに「 ae 」の音( cap など)では口角を横に引っ張ります。
そういう動きに伴って筋肉が鍛えられ、
口角上側に斜めのシワが入ると考えられます。
それに対してイギリス英語には、口角を上げる動きが少ないんです。
呼気とともに音を強く前に出すため、「 i (イ)」の音のときも
口角を後ろに引くようなにして横に広げます。
「 wu 」のときも口を小さくすぼめますが、唇を突き出すよりも
アゴを下げつつ、唇の前のほうを強く閉じる感じになります。
唇を頬の筋肉で横から挟み込むような筋肉の使い方が多い。
アメリカ英語のように上唇に力が入ることはなく、むしろ
下唇と下あごの緊張で音をコントロールする感じです。
ニュートラルな場所よりも下あごが少し前に出るぐらいに力が入ります。
このようにして鍛えられた筋肉が、口角の脇に
(上下とも、ほうれい線より内側にあることが多い)
縦のラインとしてのシワを作ると考えられるわけです。
これはヒュー・グラント、キーラ・ナイトレイ、エマ・ワトソンなど
イギリスの俳優には顕著に見受けられる特徴です。
もちろんスターウォーズ最新作の主役、デイジー・リドリーにも。
実際、デイジー・リドリーが笑ったときの口元は
キーラ・ナイトレイと良く似ています。
そういう意味で、今回のスターウォーズの主役は
いかにもイギリス人という感じが前面に出ていたように見えます。
正直なところ、僕はそのイギリスな感じが
ストーリー以上に気になってしまっていたんですが。
レンタル店に入らなくなるんです。
時間のことを気にするのか、ただボーっとしたいのか
とにかく足が向きません。
その時期は映画館に行くこともないですから
テレビのコマーシャルやニュースなどで話題の映画のはなしになったりすると
「見てみようかな」と思いながらも、そこまでの気分にはならないようです。
で、最近セミナーのピークが過ぎたのでレンタル店に入ってみました。
少し前、気になりながらも見に行かなかった映画が
もうDVDになってレンタルされていました。
最近は映画がDVD化されるタイミングも速い気がします。
なかには既に「準新作」などと書かれているものも。
そうすると話題作が沢山レンタルできる状態になっていて
見てみたい気持ちが少し高まってきます。
今回は話題性を重視して、『スターウォーズ』の最新作を借りてみました。
内容に触れるつもりはあまりないんですが、
最初の作品が作られた当時からすると、おそらく
アメリカ社会や分化の変化が表れているのではないかとも感じました。
スターウォーズといえば、
ジョセフ・キャンベルのヒーローズ・ジャーニーを参考に作られたという
典型的な英雄の冒険から始まっています。
最新作も、新たな英雄が旅立ち始めるプロセスを
1作目(エピソード4)を追いかけるような形で展開しているように思えました。
ただ大きな違いは主人公が女性だということ。
そしてパートナー的な立場の中心人物がアフリカ系アメリカ人だということ。
僕自身は日本在住の一視聴者として、女性が主役のヒーローものにも
様々な人種が登場する映画にも慣れていますから、
そのことについては特別な気持ちが動くわけではありません。
世界に目を拡げれば、女性が国や組織の最高責任者になっている例も多く
性別や肌の色が判断材料の1つに入ることも
あまり僕の中では起きていないように自覚しています。
ことさら意識しないので気にならないし、注目もしない。
そうではない部分…たとえば政治家なら政策に、
映画ならストーリーや演技に、自然と大部分の注意が向くみたいです。
その一方で僕は、アメリカの大学の授業を単科受講していたとき
アメリカの歴史についても勉強する機会があったんです。
そこでの知識に照らし合わせ、客観的で分析的な見方をすると
差別の歴史が強かったアメリカ社会において、
アメリカを代表する映画としての『スターウォーズ』で
そうした主人公の変化は何か意味があるようにも感じられました。
…まぁ、単純にこれまでとパターンを変えて
新しさを出したかったのかもしれませんが。
ちなみに僕自身の関心が一番強く向いたのは
イギリス英語の多さです。
主人公はイギリス出身の女優で、映画の中でもイギリス英語全開です。
敵の軍団の重役もほとんどイギリス英語で話していました。
悪役をイギリス英語にするのは最近のハリウッド映画では良くある話。
(昔はロシア訛りが多かった)
どういう趣旨で主人公にイギリス英語をそのまま話させたのか?
そもそも、どういう経緯で主人公に抜擢されたのか?
僕には想像もできませんが、なかなか興味深い部分です。
それも結局、僕が最近、英語の発音の違いに関心があるからだと言えますが。
そして主人公を演じたイギリス出身の女優(デイジー・リドリー)には
いかにもイギリス人らしい口元の特徴があります。
口角に縦に入るシワ。
アメリカ人は上唇が前に上がるように出て、
上唇の横だけに斜めのシワが入る傾向があります。
(メグ・ライアンとかアン・ハサウェイが典型的)
これは日本人でもアメリカ育ちだと見受けられる口元です(河北麻友子など)。
上唇がめくれ上がる感じとでもいいましょうか。
アメリカ英語だと、「 r 」の音を出すときや、「 wu 」の音を出すとき、
アゴの位置を固定したまま唇をグッと前に突き出す動きをします。
さらに「 ae 」の音( cap など)では口角を横に引っ張ります。
そういう動きに伴って筋肉が鍛えられ、
口角上側に斜めのシワが入ると考えられます。
それに対してイギリス英語には、口角を上げる動きが少ないんです。
呼気とともに音を強く前に出すため、「 i (イ)」の音のときも
口角を後ろに引くようなにして横に広げます。
「 wu 」のときも口を小さくすぼめますが、唇を突き出すよりも
アゴを下げつつ、唇の前のほうを強く閉じる感じになります。
唇を頬の筋肉で横から挟み込むような筋肉の使い方が多い。
アメリカ英語のように上唇に力が入ることはなく、むしろ
下唇と下あごの緊張で音をコントロールする感じです。
ニュートラルな場所よりも下あごが少し前に出るぐらいに力が入ります。
このようにして鍛えられた筋肉が、口角の脇に
(上下とも、ほうれい線より内側にあることが多い)
縦のラインとしてのシワを作ると考えられるわけです。
これはヒュー・グラント、キーラ・ナイトレイ、エマ・ワトソンなど
イギリスの俳優には顕著に見受けられる特徴です。
もちろんスターウォーズ最新作の主役、デイジー・リドリーにも。
実際、デイジー・リドリーが笑ったときの口元は
キーラ・ナイトレイと良く似ています。
そういう意味で、今回のスターウォーズの主役は
いかにもイギリス人という感じが前面に出ていたように見えます。
正直なところ、僕はそのイギリスな感じが
ストーリー以上に気になってしまっていたんですが。
2016年04月28日
久しぶりに更新です
随分とブログを放ったらかしにしていましたが
ようやく日常に戻ってきたので、ブログも時々更新してみます。
ここ最近、依頼があって、ずっと翻訳に集中していました。
なかなかタイトなスケジュールだったので専念したかったんです。
途中、セミナーが重なる日もありましたから
その間は移動中の新幹線でも、ホテルの部屋でも、セミナーの昼休みにも
コツコツと訳の作業を続ける状態でした。
当初、出先では紙に印刷したものを用意して
手書きで訳を書きこみ、後からパソコンに入力する
という流れを想定していたんです。
が、やってみると実際には、翻訳として考える時間は大して無い。
手書きの日本語をパソコンに書き起こすのと
英語を見ながら日本語訳をパソコンに書くのと
それほどの時間差がないようだったのでパソコンを優先していました。
自宅での翻訳作業には3画面体制。
外づけのモニターに元原稿を映し出し、
そっちを見ながら翻訳したものをノートパソコンに書きだす。
別のパソコンでは辞書の機能と、知らない内容をネット検索する目的。
なんだか『デスクワーク』というイメージにピッタリの作業でした。
出先でも自宅でも地道な作業の繰り返しに
いかにも『仕事』の気分を味わっていたものです。
資料作りや文章を書くときに、パソコンの前に長時間座るのは
別に珍しいことではないにもかかわらず、自分の印象としては
かなり普段とは違った作業のように感じられたものです。
きっと自分から積極的に考える状態が少ないからでしょう。
普段、僕がパソコンを使って何かを書くときは
基本的にアウトプットの作業だったんだと実感します。
翻訳はパソコンにアウトプットしているようですが、
情報としては目からインプットしたものをそのまま出している感じ。
内側からアウトプットする印象は弱いようです。
どちらかというと、自分が体験していることはインプットなんです。
本を丁寧に読んでいるような体験でした。
実際、本を読むというインプットの行為を重ねると
知らず知らずのうちに、自分が影響を受けていたりするものです。
文体とかリズムとか、言葉の選び方とか文章の切り方とか。
影響を受けたと思われる人が何人か思い浮かびます。
文学作品を書くような人は、やはり本人も文学が好きで
名作とされるものを数多く読んでいるはずなんです。
そこで文学のパターンをインプットしている。
そうやって身につけているわけです。
僕の知り合いで本を沢山読む人がいますが、
その大部分が洋書の日本語訳のようなんです。
もともと哲学とか経済とかの本も色々と読んできた人らしく
英語を日本語に直した本から多くを学んだみたいです。
だからこそ今でも洋書の訳本を苦もなく読めるんでしょう。
ただそれ以上に、本人の書く文章もどことなく英語の日本語訳っぽい。
そうなるんだと思います。
読むというインプットを通じて、自分が影響を受ける。
僕が翻訳の作業をしていて「インプット」だと感じたのは、まさにそこです。
翻訳をしているうちに自分の言葉が影響を受けていくのが実感されました。
英語、日本語ともに、です。
上がった翻訳原稿をメールでやり取りしていたとき
自分の日本語がいつもと違う感じが気になっていました。
今、こうしてブログを書いていても、その感じが残っています。
自分の日本語活動が他から影響を受けた印象です。
先日、翻訳作業が一区切りして英会話に行ったときにも
自分の話す英語が変わっているのを自覚しました。
特に訳していた題材が大学の先生のものだったからか
一文が長くなったり、関係代名詞が増えたり、説明的になったり…
話し言葉にしては複雑な感じになっていたんです。
これは明らかに翻訳作業の影響だろう、と。
以前、ある人が
「文章のトレーニングとして書き起こす」
という話をしてくれたことがあります。
本を読みながら、同じ文章を自分でも書いてみる。
そうすると、その文体や文章力が身につく、と。
ただ読むだけでも影響を受けるものでしょうけれど、
その人の場合は積極的に影響を受けることで
それを学習しようとしていたと考えられます。
そのためには普段の自分が書かない文章を書いてしまうのが良い。
そういう説明だったんです。
僕自身はそこまで身につけたい文章があったわけではないですし、
本を読んで理解するプロセスも、そこまで丁寧ではありません。
しかしながら今回の翻訳作業には、
この「文章を書き起こす」要素が混ざっていたと言えそうです。
英語でインプットして、それを日本語に変換して書きだす。
英語と日本語、両方に対してインプットとしての影響があったんでしょう。
どちらにも違和感が残ったのは、そのせいが強いような気がします。
裏を返すと、「読んだものを自分でも書いてみる」という作業に
かなり強力なインプットの効果があるらしい、ということになります。
普段とは違った読み方になりますから、理解度も上がるかもしれません。
語学をやりたいときにも、読んで自分でも書いてみる
なんていう方法が役に立ちそうです。
そんなことに気づかされた作業の日々でした。
ようやく日常に戻ってきたので、ブログも時々更新してみます。
ここ最近、依頼があって、ずっと翻訳に集中していました。
なかなかタイトなスケジュールだったので専念したかったんです。
途中、セミナーが重なる日もありましたから
その間は移動中の新幹線でも、ホテルの部屋でも、セミナーの昼休みにも
コツコツと訳の作業を続ける状態でした。
当初、出先では紙に印刷したものを用意して
手書きで訳を書きこみ、後からパソコンに入力する
という流れを想定していたんです。
が、やってみると実際には、翻訳として考える時間は大して無い。
手書きの日本語をパソコンに書き起こすのと
英語を見ながら日本語訳をパソコンに書くのと
それほどの時間差がないようだったのでパソコンを優先していました。
自宅での翻訳作業には3画面体制。
外づけのモニターに元原稿を映し出し、
そっちを見ながら翻訳したものをノートパソコンに書きだす。
別のパソコンでは辞書の機能と、知らない内容をネット検索する目的。
なんだか『デスクワーク』というイメージにピッタリの作業でした。
出先でも自宅でも地道な作業の繰り返しに
いかにも『仕事』の気分を味わっていたものです。
資料作りや文章を書くときに、パソコンの前に長時間座るのは
別に珍しいことではないにもかかわらず、自分の印象としては
かなり普段とは違った作業のように感じられたものです。
きっと自分から積極的に考える状態が少ないからでしょう。
普段、僕がパソコンを使って何かを書くときは
基本的にアウトプットの作業だったんだと実感します。
翻訳はパソコンにアウトプットしているようですが、
情報としては目からインプットしたものをそのまま出している感じ。
内側からアウトプットする印象は弱いようです。
どちらかというと、自分が体験していることはインプットなんです。
本を丁寧に読んでいるような体験でした。
実際、本を読むというインプットの行為を重ねると
知らず知らずのうちに、自分が影響を受けていたりするものです。
文体とかリズムとか、言葉の選び方とか文章の切り方とか。
影響を受けたと思われる人が何人か思い浮かびます。
文学作品を書くような人は、やはり本人も文学が好きで
名作とされるものを数多く読んでいるはずなんです。
そこで文学のパターンをインプットしている。
そうやって身につけているわけです。
僕の知り合いで本を沢山読む人がいますが、
その大部分が洋書の日本語訳のようなんです。
もともと哲学とか経済とかの本も色々と読んできた人らしく
英語を日本語に直した本から多くを学んだみたいです。
だからこそ今でも洋書の訳本を苦もなく読めるんでしょう。
ただそれ以上に、本人の書く文章もどことなく英語の日本語訳っぽい。
そうなるんだと思います。
読むというインプットを通じて、自分が影響を受ける。
僕が翻訳の作業をしていて「インプット」だと感じたのは、まさにそこです。
翻訳をしているうちに自分の言葉が影響を受けていくのが実感されました。
英語、日本語ともに、です。
上がった翻訳原稿をメールでやり取りしていたとき
自分の日本語がいつもと違う感じが気になっていました。
今、こうしてブログを書いていても、その感じが残っています。
自分の日本語活動が他から影響を受けた印象です。
先日、翻訳作業が一区切りして英会話に行ったときにも
自分の話す英語が変わっているのを自覚しました。
特に訳していた題材が大学の先生のものだったからか
一文が長くなったり、関係代名詞が増えたり、説明的になったり…
話し言葉にしては複雑な感じになっていたんです。
これは明らかに翻訳作業の影響だろう、と。
以前、ある人が
「文章のトレーニングとして書き起こす」
という話をしてくれたことがあります。
本を読みながら、同じ文章を自分でも書いてみる。
そうすると、その文体や文章力が身につく、と。
ただ読むだけでも影響を受けるものでしょうけれど、
その人の場合は積極的に影響を受けることで
それを学習しようとしていたと考えられます。
そのためには普段の自分が書かない文章を書いてしまうのが良い。
そういう説明だったんです。
僕自身はそこまで身につけたい文章があったわけではないですし、
本を読んで理解するプロセスも、そこまで丁寧ではありません。
しかしながら今回の翻訳作業には、
この「文章を書き起こす」要素が混ざっていたと言えそうです。
英語でインプットして、それを日本語に変換して書きだす。
英語と日本語、両方に対してインプットとしての影響があったんでしょう。
どちらにも違和感が残ったのは、そのせいが強いような気がします。
裏を返すと、「読んだものを自分でも書いてみる」という作業に
かなり強力なインプットの効果があるらしい、ということになります。
普段とは違った読み方になりますから、理解度も上がるかもしれません。
語学をやりたいときにも、読んで自分でも書いてみる
なんていう方法が役に立ちそうです。
そんなことに気づかされた作業の日々でした。
2016年04月14日
2016年04月10日
アスリート気質
どうも僕の場合、セミナーのスケジュールが集中しやすい傾向が見受けられます。
そのかわり年末年始のあたり、12月から1月ぐらいは空きやすい。
「シーズン中」と「オフシーズン」の区別がハッキリしているようなイメージです。
以前は自分の身体について意識を向ける程度が低かったので
あまり気にしていなかったんですが、「シーズン」が続いてくると
徐々に疲労が溜まってくる感じがあります。
記憶を頼りにすれば、オフシーズンとは身体の状態が違うと感じます。
セミナー終わりでアフターケアをして次に向かうというのは
時間と体力の都合で難しいところがあって、
仕方なく当日の朝に身体の準備をするようになりました。
ストレッチをしたりマッサージをしたり。
スポーツ選手ではないのでケガ予防ではありませんが、
パフォーマンスを維持するためのウォームアップといったイメージでしょうか。
感覚器官が敏感になって、意識が広く行き届きやすくなるようです。
身体が資本ということが少しずつ実感できてきたような気もしますし、
シーズンにオンとオフがあるところからも、
なんだかアスリートになったような気分を味わっています。
子供の頃からスポーツに苦手意識があった僕にとっては
なんだか新鮮なセルフイメージです。
そしてアスリート気分で自分の状態を振り返ると
日頃からもっと身体を鍛えておく必要がありそうな気もしてきます。
シーズンを通して体力が持たないのであれば
オフシーズンにトレーニングをしておくほうが良いんじゃないか?と。
キャンプを張るまではやらなくても、冬の間に自主トレをしておくとか。
そうしないとシーズン通してパフォーマンスを維持できないと思えてきました。
気になるところが変わると、それにつれて考え方も変わっていくようです。
そのかわり年末年始のあたり、12月から1月ぐらいは空きやすい。
「シーズン中」と「オフシーズン」の区別がハッキリしているようなイメージです。
以前は自分の身体について意識を向ける程度が低かったので
あまり気にしていなかったんですが、「シーズン」が続いてくると
徐々に疲労が溜まってくる感じがあります。
記憶を頼りにすれば、オフシーズンとは身体の状態が違うと感じます。
セミナー終わりでアフターケアをして次に向かうというのは
時間と体力の都合で難しいところがあって、
仕方なく当日の朝に身体の準備をするようになりました。
ストレッチをしたりマッサージをしたり。
スポーツ選手ではないのでケガ予防ではありませんが、
パフォーマンスを維持するためのウォームアップといったイメージでしょうか。
感覚器官が敏感になって、意識が広く行き届きやすくなるようです。
身体が資本ということが少しずつ実感できてきたような気もしますし、
シーズンにオンとオフがあるところからも、
なんだかアスリートになったような気分を味わっています。
子供の頃からスポーツに苦手意識があった僕にとっては
なんだか新鮮なセルフイメージです。
そしてアスリート気分で自分の状態を振り返ると
日頃からもっと身体を鍛えておく必要がありそうな気もしてきます。
シーズンを通して体力が持たないのであれば
オフシーズンにトレーニングをしておくほうが良いんじゃないか?と。
キャンプを張るまではやらなくても、冬の間に自主トレをしておくとか。
そうしないとシーズン通してパフォーマンスを維持できないと思えてきました。
気になるところが変わると、それにつれて考え方も変わっていくようです。
2016年04月07日
医者の不養生
研究者と実践者が違うのは、当然のことのようです。
以前に参加した英語音声学会の講演会では、
列席の大学教授の中に発音のキレイな人はほとんどいなくて
むしろカタカナ英語そのままのような人までもいたりしました。
先日会って話をしたお坊さんも
「仏教学者は経典の研究をしているのであって
経典の教えに沿って修行しているわけではない」
と言っていました。
研究は
外部から客観的に物事を眺めて分析する
ものであって、
その内容を自分に適用するとは限らないわけです。
むしろ外から見ているからこそ、主観的な印象を切り離して
誰もが納得できるような客観的な説明を組み立てられるとも言えそうです。
本を読み、文献を紐解き、人から話を聞き、多くの情報を集める…、
そうすれば「よく知っている」ことにはなるでしょうが、
「よく分かっている」こととは違うわけです。
そしてまた、援助者と実践者もイコールではありません。
「援助」には様々な形がありますが、どのような形での援助であれ
その援助をする人自身が、援助内容を実践しているかというと
必ずしもそうではないように見受けられます。
分かりやすいのは、いわゆる「医者の不養生」でしょう。
医療分野においても、医学の研究者もいれば、治療に当たる医師もいます。
しかしながら、自らの身体から病気をなくすために
医療の成果を実践している人は滅多にいないみたいです。
カウンセリングやセラピーについても同様です。
自分の悩みや、自らの心の奥深くの問題を扱おうとする人は多くありません。
「教える」という形でも、「教えられる」ということと
「本人ができる」ということは直結しないようです。
語学の先生なんかは分かりやすい例でしょう。
英語の先生をしている人よりも英語が達者な別職種の人だって沢山います。
また、身体のケアをする人たちが姿勢について話しているのをよく聞きますが
だからといって、その人自身の姿勢や動作が良いかというとそうでもない。
近所のストレッチ専門店でチラシを配っているスタッフは
のきなみ姿勢がボロボロです。
看板に描かれている「良い姿勢、悪い姿勢」の絵の近くで
堂々と「悪い姿勢」ソックリの立ち方をしている援助者がチラシを配っています。
「援助は他者に対してのものだから、自分の実践とは関係がない」
という考え方もあるのかもしれませんが、一方では
「自分が誰よりも実践しているから他者についても分かる」
という考え方もあると思います。
実際、東洋の思想に基づいたものだと
援助と実践がセットになっていることもあるみたいですし。
研究にせよ、援助にせよ、対象を自分の外側に捉えている時点で
自分の内側で主観的に取り組もうとする心がけは生まれにくいのかもしれません。
「主観的な印象は自分のものであって、他人のもではない」という見方もありますが、
他者の体験を他者目線の主観で捉えることもあるわけです。
自分の主観は一人称。
客観的な分析は三人称。
それに加えて、相手目線の主観としての二人称があるだろう、と。
何かを理解したり援助したりする上では
三人称だけでなく、二人称も役に立つはずです。
相手目線の主観という二人称の視点を身につけるためには、その土台として
自分目線の主観という一人称の視点からの体験が必要ではないでしょうか。
自ら実践することには、そういう意味もあると思います。
以前に参加した英語音声学会の講演会では、
列席の大学教授の中に発音のキレイな人はほとんどいなくて
むしろカタカナ英語そのままのような人までもいたりしました。
先日会って話をしたお坊さんも
「仏教学者は経典の研究をしているのであって
経典の教えに沿って修行しているわけではない」
と言っていました。
研究は
外部から客観的に物事を眺めて分析する
ものであって、
その内容を自分に適用するとは限らないわけです。
むしろ外から見ているからこそ、主観的な印象を切り離して
誰もが納得できるような客観的な説明を組み立てられるとも言えそうです。
本を読み、文献を紐解き、人から話を聞き、多くの情報を集める…、
そうすれば「よく知っている」ことにはなるでしょうが、
「よく分かっている」こととは違うわけです。
そしてまた、援助者と実践者もイコールではありません。
「援助」には様々な形がありますが、どのような形での援助であれ
その援助をする人自身が、援助内容を実践しているかというと
必ずしもそうではないように見受けられます。
分かりやすいのは、いわゆる「医者の不養生」でしょう。
医療分野においても、医学の研究者もいれば、治療に当たる医師もいます。
しかしながら、自らの身体から病気をなくすために
医療の成果を実践している人は滅多にいないみたいです。
カウンセリングやセラピーについても同様です。
自分の悩みや、自らの心の奥深くの問題を扱おうとする人は多くありません。
「教える」という形でも、「教えられる」ということと
「本人ができる」ということは直結しないようです。
語学の先生なんかは分かりやすい例でしょう。
英語の先生をしている人よりも英語が達者な別職種の人だって沢山います。
また、身体のケアをする人たちが姿勢について話しているのをよく聞きますが
だからといって、その人自身の姿勢や動作が良いかというとそうでもない。
近所のストレッチ専門店でチラシを配っているスタッフは
のきなみ姿勢がボロボロです。
看板に描かれている「良い姿勢、悪い姿勢」の絵の近くで
堂々と「悪い姿勢」ソックリの立ち方をしている援助者がチラシを配っています。
「援助は他者に対してのものだから、自分の実践とは関係がない」
という考え方もあるのかもしれませんが、一方では
「自分が誰よりも実践しているから他者についても分かる」
という考え方もあると思います。
実際、東洋の思想に基づいたものだと
援助と実践がセットになっていることもあるみたいですし。
研究にせよ、援助にせよ、対象を自分の外側に捉えている時点で
自分の内側で主観的に取り組もうとする心がけは生まれにくいのかもしれません。
「主観的な印象は自分のものであって、他人のもではない」という見方もありますが、
他者の体験を他者目線の主観で捉えることもあるわけです。
自分の主観は一人称。
客観的な分析は三人称。
それに加えて、相手目線の主観としての二人称があるだろう、と。
何かを理解したり援助したりする上では
三人称だけでなく、二人称も役に立つはずです。
相手目線の主観という二人称の視点を身につけるためには、その土台として
自分目線の主観という一人称の視点からの体験が必要ではないでしょうか。
自ら実践することには、そういう意味もあると思います。
2016年04月05日
懐かしのファミコン
YouTube の動画を1つ開いて、関連動画を2つ、3つ進めると
かなり元とは違ったジャンルに移っていくことがあります。
最近、YouTube のトップページでオススメされている動画から
さらにリンク先を少し進めていったところ、
古いテレビゲームのプレイ動画が見つかりました。
昔の、文字通り「ファミコン」のゲームを攻略している動画です。
昔のゲームですから画質は粗く、ゲームの質も大雑把です。
大雑把にしか設定できない技術的な制約がある中で
単調になり過ぎず難度も上げられるように工夫すると
どうしたって無理が出てきていたのでしょう。
異常に難しくて全然進めないようなゲームもあったような記憶があります。
YouYube に出ている動画は、そうした難しいゲームでさえも
達人的な技術でクリアしてしまうような内容が多いみたいです。
有名でクリアしやすかったゲームの場合には、
さらに制約をかけたりスピードを競ったりしているようです。
中には僕自身が子供のころにやっていたゲームもありました。
そして気づいたんです。
僕は子供の頃、ファミコンをやっても
ほとんどのゲームをクリアしたことがない、と。
中には「こんなに先が長かったのか!」と驚くようなものも。
本当に最初のところで躓いて、あまり上達することなく遊んでいたんでしょう。
しかし、それでも僕はファミコンが楽しかったんです。
上手くなくても、全然進めなくても、やっていることが楽しかったんだと思います。
もしかするとゲーム開発者が想定した「クリアする」というゲームの目的とは別に
自分なりの楽しみ方を見つけて繰り返し遊んでいたのかもしれません。
決められたゴールに辿りつかなくても楽しみ方はある。
同じゲームをやっても、人それぞれの楽しみ方がある。
人生と似ているなぁと感じました。
意外と小さい頃のほうが、自分なりの楽しみ方を見つけやすかったのかもしれません。
かなり元とは違ったジャンルに移っていくことがあります。
最近、YouTube のトップページでオススメされている動画から
さらにリンク先を少し進めていったところ、
古いテレビゲームのプレイ動画が見つかりました。
昔の、文字通り「ファミコン」のゲームを攻略している動画です。
昔のゲームですから画質は粗く、ゲームの質も大雑把です。
大雑把にしか設定できない技術的な制約がある中で
単調になり過ぎず難度も上げられるように工夫すると
どうしたって無理が出てきていたのでしょう。
異常に難しくて全然進めないようなゲームもあったような記憶があります。
YouYube に出ている動画は、そうした難しいゲームでさえも
達人的な技術でクリアしてしまうような内容が多いみたいです。
有名でクリアしやすかったゲームの場合には、
さらに制約をかけたりスピードを競ったりしているようです。
中には僕自身が子供のころにやっていたゲームもありました。
そして気づいたんです。
僕は子供の頃、ファミコンをやっても
ほとんどのゲームをクリアしたことがない、と。
中には「こんなに先が長かったのか!」と驚くようなものも。
本当に最初のところで躓いて、あまり上達することなく遊んでいたんでしょう。
しかし、それでも僕はファミコンが楽しかったんです。
上手くなくても、全然進めなくても、やっていることが楽しかったんだと思います。
もしかするとゲーム開発者が想定した「クリアする」というゲームの目的とは別に
自分なりの楽しみ方を見つけて繰り返し遊んでいたのかもしれません。
決められたゴールに辿りつかなくても楽しみ方はある。
同じゲームをやっても、人それぞれの楽しみ方がある。
人生と似ているなぁと感じました。
意外と小さい頃のほうが、自分なりの楽しみ方を見つけやすかったのかもしれません。
2016年04月02日
真似るために見るのではない
NLPには『モデリング』という考え方があります。
型を抜き出す。
エッセンスを取り出すということです。
モデリングのためのアプローチの1つは
達人のやり方を分析して形式化する
といったもの。
たとえばNLPの中にも「メタモデルの質問」や「ミルトンモデル」など
セラピストの言葉の使い方をパターンとして抽出したものがあります。
これは達人として知られていたセラピストのやり方を分析して作られたといえます。
もう1つのアプローチは、身体で真似をすることを通じて
達人が何をやっているかを感じとり、そこからエッセンスを抽出するもの。
エッセンスを取り出すための分析として真似を使います。
いずれもエッセンスを抽出する、つまり型を取り出すところでは共通しますが、
その取り出すプロセスに違いがあるわけです。
客観的に調べて分析し、エッセンスを見つけるのか。
主観的に体験して得られた気づきを元に、エッセンスを見出すのか。
それぞれに違ったメリットがあると思われますが、
真似をするほうには副次的な効果があります。
それは「よく観察できる」ということです。
真似をしようという姿勢で見本になる人を見ると
普段何気なく見ているときよりも、ずっと細かく丁寧に見るようになるんです。
とくに身体の動きを細かく真似しようとした場合、
注目の仕方がニュートラルになります。
意味のあるところだけを見るのではなく、ただ身体の動きとしてだけ注目できる。
客観的な分析をした場合には、そもそも分析者自身が重要だと思うところに
自然と目がいくようになりますから、注目の仕方がニュートラルではないんです。
分析者が重視していないところは見過ごされやすい。
ところが身体の動きとして似ているかどうかの視点で注目すると
「どこが大事か?」とか「どんな意味があるか?」といった考えとは無関係に
とにかく動きそのものを見ようとすることができます。
真似しようと思ったときに初めてニュートラルに観察ができるようになる、と。
関心を向けられる量が増えるんです。
つまり、真似をしてエッセンスを抜き出すことだけが目的ではなく、
関心を向けることそのものができるようになる効果がある、という話です。
実のところ、興味のないものに関心を向けるのは難しいんです。
関心が向かないことを「興味がない」と呼ぶほうが適切でしょうか。
人は見ているつもりで見ていないし、
多くのものに関心を向けていません。
尊敬する人、憧れる人だと思っていても
それほど関心を向けていないものです。
真似をしようと思って注目したとき、やっと
その相手に関心を向ける度合いが増える。
それだけでも真似を通じたモデリングには意義があると思われます。
「真似るために見る」のではなく、「見るために真似る」。
そういう側面もあるようです。
型を抜き出す。
エッセンスを取り出すということです。
モデリングのためのアプローチの1つは
達人のやり方を分析して形式化する
といったもの。
たとえばNLPの中にも「メタモデルの質問」や「ミルトンモデル」など
セラピストの言葉の使い方をパターンとして抽出したものがあります。
これは達人として知られていたセラピストのやり方を分析して作られたといえます。
もう1つのアプローチは、身体で真似をすることを通じて
達人が何をやっているかを感じとり、そこからエッセンスを抽出するもの。
エッセンスを取り出すための分析として真似を使います。
いずれもエッセンスを抽出する、つまり型を取り出すところでは共通しますが、
その取り出すプロセスに違いがあるわけです。
客観的に調べて分析し、エッセンスを見つけるのか。
主観的に体験して得られた気づきを元に、エッセンスを見出すのか。
それぞれに違ったメリットがあると思われますが、
真似をするほうには副次的な効果があります。
それは「よく観察できる」ということです。
真似をしようという姿勢で見本になる人を見ると
普段何気なく見ているときよりも、ずっと細かく丁寧に見るようになるんです。
とくに身体の動きを細かく真似しようとした場合、
注目の仕方がニュートラルになります。
意味のあるところだけを見るのではなく、ただ身体の動きとしてだけ注目できる。
客観的な分析をした場合には、そもそも分析者自身が重要だと思うところに
自然と目がいくようになりますから、注目の仕方がニュートラルではないんです。
分析者が重視していないところは見過ごされやすい。
ところが身体の動きとして似ているかどうかの視点で注目すると
「どこが大事か?」とか「どんな意味があるか?」といった考えとは無関係に
とにかく動きそのものを見ようとすることができます。
真似しようと思ったときに初めてニュートラルに観察ができるようになる、と。
関心を向けられる量が増えるんです。
つまり、真似をしてエッセンスを抜き出すことだけが目的ではなく、
関心を向けることそのものができるようになる効果がある、という話です。
実のところ、興味のないものに関心を向けるのは難しいんです。
関心が向かないことを「興味がない」と呼ぶほうが適切でしょうか。
人は見ているつもりで見ていないし、
多くのものに関心を向けていません。
尊敬する人、憧れる人だと思っていても
それほど関心を向けていないものです。
真似をしようと思って注目したとき、やっと
その相手に関心を向ける度合いが増える。
それだけでも真似を通じたモデリングには意義があると思われます。
「真似るために見る」のではなく、「見るために真似る」。
そういう側面もあるようです。