2016年05月
2016年05月30日
ラーメンの巡り合わせ
つい先日、よく行くラーメン屋の店員が辞める前に、店へ行ってきました。
別に挨拶をしようというわけではありませんが、
1つの僕なりの敬意の示し方のつもりでもあった気がします。
その日もいつも通りに一生懸命な仕事ぶり。
普段よりバタバタした感じがしていたのは、おそらく
厨房内のアルバイト3人がベトナム人で
彼らだけの内輪の雰囲気を作っていたからでしょう。
客席側には系列店からの応援スタッフ(日本人)が一人いましたが
調理から運営までを仕切るはずの件の店員も
なんとなく孤立したような様子に見えました。
別に僕は人種や国籍で良し悪しを判断しようとは思いませんが、
結果的に外国人であることが与える影響はあるように見てとれます。
1つは育ってきた文化や生活習慣の違い。
価値基準として重視することのない環境で育てば
その価値に気づく着眼点そのものを持っていません。
例えば、僕がその店員の素養として注目していた丁寧さ。
些細なことが及ぼす全体への影響を知っていて、
その違いから生まれる味に妥協をしたくないコダワリがあるはずです。
もし文化として、そういう指向が重視されていなければ
その店員がどんなに見本を見せても、言葉で指導をしても、
着眼点がないために「何を心がければいいのか」が理解できない。
結果として、本人が重要だと思うことに一生懸命になりやすいでしょう。
僕から見ると、やはり作業に丁寧さがないように感じられます。
同じ作業をしているつもりでも、測りとる量が毎回違っていたり
スピーディーに1つの作業を終えて、次の作業を待つ時間が長かったり。
まぁ、この点に関してはベトナム文化を知りませんから
そのアルバイト本人の価値基準から起きている可能性もあります。
しかし、僕が観察する限り、
厨房でメインスタッフとして作業をしていたベトナム人店員は
料理自体には自信があるように見えるんです。
料理も好きなんでしょう。
ただし「料理の手際の良さ」に価値を置いているように見える。
東南アジアの屋台の雰囲気がイメージとして浮かんでくる感じです。
少し荒々しくても活気があって、テキパキとしていて
お客さんを待たせることなく、沢山の作業をガンガンこなしていける…
そういう姿にカッコよさを感じているような気がします。
もし彼の中にそういうイメージがあるのだとしたら、
それは育ってきた文化の影響ではないでしょうか。
一方、僕が注目していた店員は、むしろ和食の料亭のような雰囲気です。
ラーメンという食べ物にあっても、自己表現としての料理という芸術性があって、
自分が提供するものを通して客とコミュニケーションをするような
茶道的な側面さえも感じさせる。
当然、味付けに関しても慣れ親しんだ基準は残りやすいものなんでしょう。
残念ながら、ベトナム人店員が調理に加わった先日のラーメンは
かなり塩気が強かった…。
残り少ない日数ということで丁寧に仕込んでいたスープやタレだったみたいですが
途中の作業に別の人の手が加われば、出来上がりはコントロールしきれません。
求めるものがバラバラになった印象を受けました。
もちろん、その味も好みの範疇かもしれないし、店の許容範囲かもしれないし、
一定しない作業が生み出した「たまたま塩からい」一杯だったのかもしれません。
ただし料理が好きであるほど、自分が美味しいと思う味の基準に偏るのも自然。
とすると、店の味の基準から、店員の好みが反映されたものへと
少しずつシフトしていくものだろうと思われます。
実際、僕が気に入っていたのは、今度退店するその店員の好みが反映され、
それが僕の趣向と合っていたから、という部分も大きいはずです。
慣れ親しんだ美味しさの基準にしても、
料理という仕事に求める価値基準にしても、
文化の影響があるだろうという話です。
そしてもう1つ、それ以上に外国人であることの影響が出そうなのが
言語の壁です。
確かにどのアルバイト店員も日本語を話せます。
しかし流暢ではない。
なんとか日本語で会話を成立させていますが
日本語への苦手意識が抜けていないようです。
実際、厨房の中でベトナム人同士が指導や連絡をしていたりすると
ときどき日本語ではない言葉が飛び交います。
しかもバイトのシフトとして(おそらく知り合いの)ベトナム人が固まる。
内輪の雰囲気が出やすいわけです。
日本語に自信があって、
日本語で客とコミュニケーションをとることに積極的であれば、
もっと注意の方向が客に向いてくるでしょう。
しかし彼らは客のほうに目を向けない。
ずっと視線の方向が厨房内で、常に意識は「作業」そのものに集まります。
義務としての「いらっしゃいませー」ぐらいは言いますが、
「お客さんに対して何かをしている」という心構えが低く
「決められた作業を一生懸命にこなす」という姿勢が強いように見受けられます。
目の前の客が食べているときの表情も見ていないようです。
日本語という言語に自信が持てないから
客との交流を怖がるようなフシがある。
これが外国人ゆえに起きやすい影響だろうということです。
(日本語が流暢で、積極的に気持ちを向けられれば
外国人かどうかは無関係です。
実際、そういう意味で積極的に気配りのできる外国人店員がいる店も
僕は見たことがあります。
あくまで傾向として、言語の壁がある場合の話です。)
たしかに日本人でもコミュニケーションに苦手意識のある人はいるものですが、
言葉を使うことを避けようとして内輪に逃げ込むことは少ないと思います。
どうも僕の見る限り、今、そのラーメン屋には
言語の壁の影響が表れている印象なんです。
しかも、丁寧だった店員が辞めることが決まっている。
店長の味覚、ラーメンらしさを生み出すセンス、味の組み立ての構成力などは
素晴らしいのだろうと感じていますが、
店の責任者として人材を運営する技術とは無関係です。
正直なところ、ちょっと心配です。
この先も店の味はある程度、保たれていくでしょう。
店長の力がありますから。
しかし僕が、僕自身の価値観として丁寧さを求め、
それに響く部分がある店として足を運んでいたラーメン屋は、
もしかするともう無くなっていくのかもしれません。
悲しい話ですが。
別に丁寧さを売りにしていた店ではないのかもしれませんから
僕がそこに注文をつける筋合いもないですし。
たまたま一時期、ある一人の店員のおかげで
僕の好みと珍しく一致する方向に片寄ったラーメン屋になっていた。
そういうタイミングだっただけかもしれません。
人が関わる以上、必ず変化は訪れるものなんでしょう。
以前、近所の定食屋に、コミュニケーション能力がズバ抜けて高い
ホールマネージャーがいて、その人のおかげで足しげく通っていたものですが、
もうその定食屋には何年も行っていません。
僕は人で店を選ぶ傾向があるようです。
ひょっとしたらこれから先、ラーメン屋についても同じようなことが起きるのか?
そんなことを思うと、少し寂しい感じがします。
別に挨拶をしようというわけではありませんが、
1つの僕なりの敬意の示し方のつもりでもあった気がします。
その日もいつも通りに一生懸命な仕事ぶり。
普段よりバタバタした感じがしていたのは、おそらく
厨房内のアルバイト3人がベトナム人で
彼らだけの内輪の雰囲気を作っていたからでしょう。
客席側には系列店からの応援スタッフ(日本人)が一人いましたが
調理から運営までを仕切るはずの件の店員も
なんとなく孤立したような様子に見えました。
別に僕は人種や国籍で良し悪しを判断しようとは思いませんが、
結果的に外国人であることが与える影響はあるように見てとれます。
1つは育ってきた文化や生活習慣の違い。
価値基準として重視することのない環境で育てば
その価値に気づく着眼点そのものを持っていません。
例えば、僕がその店員の素養として注目していた丁寧さ。
些細なことが及ぼす全体への影響を知っていて、
その違いから生まれる味に妥協をしたくないコダワリがあるはずです。
もし文化として、そういう指向が重視されていなければ
その店員がどんなに見本を見せても、言葉で指導をしても、
着眼点がないために「何を心がければいいのか」が理解できない。
結果として、本人が重要だと思うことに一生懸命になりやすいでしょう。
僕から見ると、やはり作業に丁寧さがないように感じられます。
同じ作業をしているつもりでも、測りとる量が毎回違っていたり
スピーディーに1つの作業を終えて、次の作業を待つ時間が長かったり。
まぁ、この点に関してはベトナム文化を知りませんから
そのアルバイト本人の価値基準から起きている可能性もあります。
しかし、僕が観察する限り、
厨房でメインスタッフとして作業をしていたベトナム人店員は
料理自体には自信があるように見えるんです。
料理も好きなんでしょう。
ただし「料理の手際の良さ」に価値を置いているように見える。
東南アジアの屋台の雰囲気がイメージとして浮かんでくる感じです。
少し荒々しくても活気があって、テキパキとしていて
お客さんを待たせることなく、沢山の作業をガンガンこなしていける…
そういう姿にカッコよさを感じているような気がします。
もし彼の中にそういうイメージがあるのだとしたら、
それは育ってきた文化の影響ではないでしょうか。
一方、僕が注目していた店員は、むしろ和食の料亭のような雰囲気です。
ラーメンという食べ物にあっても、自己表現としての料理という芸術性があって、
自分が提供するものを通して客とコミュニケーションをするような
茶道的な側面さえも感じさせる。
当然、味付けに関しても慣れ親しんだ基準は残りやすいものなんでしょう。
残念ながら、ベトナム人店員が調理に加わった先日のラーメンは
かなり塩気が強かった…。
残り少ない日数ということで丁寧に仕込んでいたスープやタレだったみたいですが
途中の作業に別の人の手が加われば、出来上がりはコントロールしきれません。
求めるものがバラバラになった印象を受けました。
もちろん、その味も好みの範疇かもしれないし、店の許容範囲かもしれないし、
一定しない作業が生み出した「たまたま塩からい」一杯だったのかもしれません。
ただし料理が好きであるほど、自分が美味しいと思う味の基準に偏るのも自然。
とすると、店の味の基準から、店員の好みが反映されたものへと
少しずつシフトしていくものだろうと思われます。
実際、僕が気に入っていたのは、今度退店するその店員の好みが反映され、
それが僕の趣向と合っていたから、という部分も大きいはずです。
慣れ親しんだ美味しさの基準にしても、
料理という仕事に求める価値基準にしても、
文化の影響があるだろうという話です。
そしてもう1つ、それ以上に外国人であることの影響が出そうなのが
言語の壁です。
確かにどのアルバイト店員も日本語を話せます。
しかし流暢ではない。
なんとか日本語で会話を成立させていますが
日本語への苦手意識が抜けていないようです。
実際、厨房の中でベトナム人同士が指導や連絡をしていたりすると
ときどき日本語ではない言葉が飛び交います。
しかもバイトのシフトとして(おそらく知り合いの)ベトナム人が固まる。
内輪の雰囲気が出やすいわけです。
日本語に自信があって、
日本語で客とコミュニケーションをとることに積極的であれば、
もっと注意の方向が客に向いてくるでしょう。
しかし彼らは客のほうに目を向けない。
ずっと視線の方向が厨房内で、常に意識は「作業」そのものに集まります。
義務としての「いらっしゃいませー」ぐらいは言いますが、
「お客さんに対して何かをしている」という心構えが低く
「決められた作業を一生懸命にこなす」という姿勢が強いように見受けられます。
目の前の客が食べているときの表情も見ていないようです。
日本語という言語に自信が持てないから
客との交流を怖がるようなフシがある。
これが外国人ゆえに起きやすい影響だろうということです。
(日本語が流暢で、積極的に気持ちを向けられれば
外国人かどうかは無関係です。
実際、そういう意味で積極的に気配りのできる外国人店員がいる店も
僕は見たことがあります。
あくまで傾向として、言語の壁がある場合の話です。)
たしかに日本人でもコミュニケーションに苦手意識のある人はいるものですが、
言葉を使うことを避けようとして内輪に逃げ込むことは少ないと思います。
どうも僕の見る限り、今、そのラーメン屋には
言語の壁の影響が表れている印象なんです。
しかも、丁寧だった店員が辞めることが決まっている。
店長の味覚、ラーメンらしさを生み出すセンス、味の組み立ての構成力などは
素晴らしいのだろうと感じていますが、
店の責任者として人材を運営する技術とは無関係です。
正直なところ、ちょっと心配です。
この先も店の味はある程度、保たれていくでしょう。
店長の力がありますから。
しかし僕が、僕自身の価値観として丁寧さを求め、
それに響く部分がある店として足を運んでいたラーメン屋は、
もしかするともう無くなっていくのかもしれません。
悲しい話ですが。
別に丁寧さを売りにしていた店ではないのかもしれませんから
僕がそこに注文をつける筋合いもないですし。
たまたま一時期、ある一人の店員のおかげで
僕の好みと珍しく一致する方向に片寄ったラーメン屋になっていた。
そういうタイミングだっただけかもしれません。
人が関わる以上、必ず変化は訪れるものなんでしょう。
以前、近所の定食屋に、コミュニケーション能力がズバ抜けて高い
ホールマネージャーがいて、その人のおかげで足しげく通っていたものですが、
もうその定食屋には何年も行っていません。
僕は人で店を選ぶ傾向があるようです。
ひょっとしたらこれから先、ラーメン屋についても同じようなことが起きるのか?
そんなことを思うと、少し寂しい感じがします。
2016年05月28日
質問したいとき
最近、仕事とプライベートの区別が薄くなってきたというか
さまざまな場面で質問されることが増えてきたようです。
親きょうだいから何かを聞かれることも多かったり
僕が生徒として勉強にいっているところでも質問されたり…。
以前のほうが立場を明確にしていたような、言い換えると
ちょっと心を閉ざして隠れているような雰囲気があったのかもしれません。
前のほうがプロとして人に接するときと、個人として生活をしているときとで
他人への気持ちの配り方がハッキリと分かれていた気がします。
普段のほうが他人へ思いやりを向けないことが多かった感じです。
出会う全ての人のことを気にかけていたら疲れてしまうし、
自分のことも大事にする時間が必要だと考えていた記憶がありますし。
それが最近は、あまり区別を気にしなくなったようで
割とオープンにしやすくなったみたいです。
反面、僕の側から質問をする機会は随分と減っている印象です。
(だからこそ何かを教えてもらえるときは喜ばしいんですが)
たとえばフランス語を勉強しているときでも
いつの頃からか、質問の内容をコントロールするようになっていました。
答えられそうかどうかを判断して質問する。
もっと前、とにかく色々と学ぶのが楽しくて仕方なかったころは
自分が知りたいことは全部、質問するようなフシがあったものです。
もちろん時には期待していたような返答が得られず
お茶を濁されるというか、答えにならないときとかもあって
その度にガッカリしていました。
そういう体験が嫌で、自然と質問の度合いを気にしだしたのかもしれません。
最近も少しだけ”攻めた”質問をしてみたんです。
「答えられるかギリギリかなぁ」と思いながら
他からは答えが見つからなかったので
「もしかしたら…」という想いで聞いてみることにしました。
まぁ、案の定といいますか、答えは得られません。
より正確に言うと、質問の趣旨が理解してもらえない。
語学ですから、単純な言葉の使い分けの話だったんですが、
論理的な概念の違いが伝わらないかったんです。
伝わらないというか、先生の中では区別がされていないから
僕が気にしている使い分けが、「使い分け」として認識されないようでした。
丁寧にこちらから概念の定義を説明すれば
質問の意図は分かってもらえたと思いますが、それをしたら
こちらの講義になってしまいます。
語学の先生で、通訳もやっていて、ペラペラに使いこなすことができても
論理的に説明をするかどうかは別のところなんでしょう。
日本人だって日本語ペラペラですが、論理の理解度は人それぞれですから。
ただ、ヨーロッパ系の言語でよくある学習法方法では
意外と文法のルールを明確に整理して教えることが多いようなので、
かなり細かく知識を持っていそうな先生ですから答えられるかと思ったんです。
結果としては、それでも語学と論理とのギャップは大きかったわけですが。
それでも以前のようなガッカリはありませんでした。
むしろ感じられたのは、単純な寂しさ。
前は
純粋に好奇心から質問をして、教えてもらって納得する
喜びがあったわけです。
それが楽しくて沢山勉強していた時期もありました。
「もう、ああいう感じの”分かる”楽しさは無いのかなぁ…」と思うと
昔を思い出して寂しい気分になったようです。
以前に好きだったものを思い出して
それが今はもう無いと感じれば、
寂しくなるのも当然なんでしょう。
なんとも複雑なものです。
さまざまな場面で質問されることが増えてきたようです。
親きょうだいから何かを聞かれることも多かったり
僕が生徒として勉強にいっているところでも質問されたり…。
以前のほうが立場を明確にしていたような、言い換えると
ちょっと心を閉ざして隠れているような雰囲気があったのかもしれません。
前のほうがプロとして人に接するときと、個人として生活をしているときとで
他人への気持ちの配り方がハッキリと分かれていた気がします。
普段のほうが他人へ思いやりを向けないことが多かった感じです。
出会う全ての人のことを気にかけていたら疲れてしまうし、
自分のことも大事にする時間が必要だと考えていた記憶がありますし。
それが最近は、あまり区別を気にしなくなったようで
割とオープンにしやすくなったみたいです。
反面、僕の側から質問をする機会は随分と減っている印象です。
(だからこそ何かを教えてもらえるときは喜ばしいんですが)
たとえばフランス語を勉強しているときでも
いつの頃からか、質問の内容をコントロールするようになっていました。
答えられそうかどうかを判断して質問する。
もっと前、とにかく色々と学ぶのが楽しくて仕方なかったころは
自分が知りたいことは全部、質問するようなフシがあったものです。
もちろん時には期待していたような返答が得られず
お茶を濁されるというか、答えにならないときとかもあって
その度にガッカリしていました。
そういう体験が嫌で、自然と質問の度合いを気にしだしたのかもしれません。
最近も少しだけ”攻めた”質問をしてみたんです。
「答えられるかギリギリかなぁ」と思いながら
他からは答えが見つからなかったので
「もしかしたら…」という想いで聞いてみることにしました。
まぁ、案の定といいますか、答えは得られません。
より正確に言うと、質問の趣旨が理解してもらえない。
語学ですから、単純な言葉の使い分けの話だったんですが、
論理的な概念の違いが伝わらないかったんです。
伝わらないというか、先生の中では区別がされていないから
僕が気にしている使い分けが、「使い分け」として認識されないようでした。
丁寧にこちらから概念の定義を説明すれば
質問の意図は分かってもらえたと思いますが、それをしたら
こちらの講義になってしまいます。
語学の先生で、通訳もやっていて、ペラペラに使いこなすことができても
論理的に説明をするかどうかは別のところなんでしょう。
日本人だって日本語ペラペラですが、論理の理解度は人それぞれですから。
ただ、ヨーロッパ系の言語でよくある学習法方法では
意外と文法のルールを明確に整理して教えることが多いようなので、
かなり細かく知識を持っていそうな先生ですから答えられるかと思ったんです。
結果としては、それでも語学と論理とのギャップは大きかったわけですが。
それでも以前のようなガッカリはありませんでした。
むしろ感じられたのは、単純な寂しさ。
前は
純粋に好奇心から質問をして、教えてもらって納得する
喜びがあったわけです。
それが楽しくて沢山勉強していた時期もありました。
「もう、ああいう感じの”分かる”楽しさは無いのかなぁ…」と思うと
昔を思い出して寂しい気分になったようです。
以前に好きだったものを思い出して
それが今はもう無いと感じれば、
寂しくなるのも当然なんでしょう。
なんとも複雑なものです。
2016年05月25日
師匠と呼ばれる人、師匠になりたい人
世の中には教える立場の人が沢山います。
教育に関わる人や、専門技術を指導する人、
コンサルタントのようにアドバイスの形で教える人もいます。
教えるのが仕事ではなくても、先輩として指導するとか
同僚からパソコンの使い方を質問されて教えるとか、
とにかく教える機会は数え切れないほどあるものでしょう。
そうして教えるとき「どんな立場をとるか」というのが
結構、個人差の大きいところのような印象を受けます。
例えば、
教えることそのものが仕事なのか
という着眼点も、
教える際の立場を区別する1つの視点だといえます。
他にも
・言葉で説明するか、見本を見せるか
・教える側が説明をずっと続ける(情報発信的)か、相互交流的か
・一対一か、一対多数か
・論理的に説明するか、感情に働きかけるか
・講義型か体験型か
・詳しく説明して納得してもらうか、本人に気づいてもらうか
・先にポイントを説明するか、後からポイントをまとめるか
・決めた通りに進めるか、その場に応じて対応するか
…などと、性質を見ていけば相当な特徴が挙げられそうです。
そうした性質の1つで僕が気になるのが
「師匠になるかどうか」
です。
結果的に「師」と仰がれるかどうかではなく、
教える側が「弟子をとる」スタンスかどうかの話です。
例えば、心理療法やカウンセリング、NLPの分野でも
「○○に師事」などと書いてあるプロフィールを目撃することがありますが
本人が師と仰いでいるだけで、セミナーに参加しただけという場合もあるようです。
その指導者が「弟子」と呼べるような親密な教え方の方針をとっていなくて
ニュートラルにセミナーやトレーニングをやっているつもりであっても、
教わっている側が「師」と捉えることもありえるわけです。
ただし、この場合は”教わる側”からの目線であって、
”教える側”が「師匠になろうとしているか(弟子をとろうとしているか)
とは無関係です。
反対に、”教わる側”が「弟子入りしたい」と願っているかどうかとは関係なく、
”教える側”が生徒や受講生、クライアントを弟子のように捉えるケースもある。
例えば、何百人、何千人単位のセミナーをやっていながら
参加者を「自分の弟子」のように捉える、とかです。
別に言葉で「弟子」とは言わないかもしれませんが、
師匠として尊重される立場から教えたい傾向は見て取れるものでしょう。
「師匠的な立場で教える人だ」という印象を僕が感じとる人には
共通した言葉の傾向が見受けられます。
(※その言葉から「師匠的」だと判断するのではなく、
全体的な振る舞いから「師匠的」な雰囲気のある人に
共通する言葉がある、ということです)
その言葉が
「うち」
です。
一人称としての「ウチ」ではなく、
「うちの人」、「うちの受講生」、「うちに来る人」などの形で登場する「うち」。
「自分のところの」、「私のグループの」という趣旨で使われる言葉だと考えられます。
うちの会社、うちの家族、うちの両親、うちの上司、うちの新人、うちの犬…。
立場の上下とは無関係に、「自分の所属するグループの」という意味が含まれます。
「うちの受講生」、「うちの人たち」などには
そういった所属意識、仲間意識の強さが表れているのではないでしょうか。
教える立場の人が、所属意識や仲間意識を強く持っていると
生徒や受講生に対して、『自分の』グループという連帯感を持ちやすいようです。
親身になって指導をするし、心の距離が近くて一体感もある一方、
「うち」ではない人たちとの区別をハッキリさせ、
「うちの人たち」を自分の範囲に入れておくような認識もあると思われます。
責任感の強い指導と、介入的な教育との境目が曖昧になりやすいようだ、と。
もちろん世の中には、師弟関係をベースとした指導の形も定着しています。
日本の伝統的な指導スタイルは、師弟関係が多そうです。
僕は書道をやっていますが、実際、その世界にも「師匠筋」の意識が見られます。
僕が教わっている先生は、書道界の平均よりは師匠意識が低く、
生徒が他の先生のところにも通っていたとして、それを気にはしません。
反面、「○○さん(先生)のところの人」のような表現が多く使われることからも
グループ意識、所属意識が強い分野だというのはうかがえます。
特に先生の実力や評判が高いと、「○○先生に習いたい」という希望が高まります。
「近所でやっているから」ではなく、「○○先生だから」が動機になるわけです。
僕が通っている教室にも、遠方から何時間もかけて通う人が何人もいます。
そして書道の指導は原則的にマンツーマンです。
指導の様子は皆で見学できますが、個人指導を一人ずつにするスタイルなので
生徒一人と先生との関係も密なものになります。
セミナーのように参加するたびに受講料を払うのではなく、
月謝制になっているのも、関係を表しているでしょう。
その月に一度も教室に行けなくても、月謝は払う決まりごとです。
教室(会派)に所属していることに月謝が発生するわけです。
そういう意味では「師弟関係」という教え方にも納得ができます。
やはり、僕の書道の先生も「うち」という単語を使っていますし。
「うちの社中」、「うちからは何人」、「うちの入賞率」とかです。
ですが、師匠的に教えるスタンスを好むようになるのは
必ずしもその分野の伝統からだけではないようなんです。
僕が目にすることの多い、心理やコミュニケーションの分野でも
「うち」という言葉を使う人がいます。
この場合、月謝制ということではないと思います。
マンツーマンでもないでしょうし、グループ単位で活動するわけでもないでしょう。
他の先生のセミナーに参加するのだってザラですし、
他のグループの人と対抗戦をするわけでもありません。
教える側の好みなんだと思います。
ただ正直なところ、僕には師匠の立場をとりたい気持ちが分かりません。
想像しようとしても、今ひとつピンとこないんです。
僕も教える仕事をしていますが、そもそも僕は教育者にもなれません。
「これが良い」、「これが正しい」と信じられるものがないからです。
僕はいつも、質問に答えているだけです。
直接言葉で質問されなくても、目の前の人が質問したそうなことに答える。
伝えたいことがあるわけではありません。
おそらく僕の教えるスタンスは、師匠型の教え方と比べると
介入の度合いが低めなんだと思います。
そしてもう1つ、僕は継続を前提に教えようとは思っていません。
だから月謝制とか徒弟制度にはならない。
継続的に関わっているクライアントさんもいますし、
講座に長く参加してくださる方もいますが、
僕の側のスタンスは「これが最後かもしれない」という発想に基づきます。
「師匠型」ではなくて、「一期一会型」とでも言いましょうか。
「次はもう会えないかもしれない」と思っているわけですから、
当然「うちの人」という言葉遣いは出にくいみたいです。
こういうスタンスの違いがどこから生まれてくるのか?
…そんなことを考えてみるのも面白いかもしれません。
教育に関わる人や、専門技術を指導する人、
コンサルタントのようにアドバイスの形で教える人もいます。
教えるのが仕事ではなくても、先輩として指導するとか
同僚からパソコンの使い方を質問されて教えるとか、
とにかく教える機会は数え切れないほどあるものでしょう。
そうして教えるとき「どんな立場をとるか」というのが
結構、個人差の大きいところのような印象を受けます。
例えば、
教えることそのものが仕事なのか
という着眼点も、
教える際の立場を区別する1つの視点だといえます。
他にも
・言葉で説明するか、見本を見せるか
・教える側が説明をずっと続ける(情報発信的)か、相互交流的か
・一対一か、一対多数か
・論理的に説明するか、感情に働きかけるか
・講義型か体験型か
・詳しく説明して納得してもらうか、本人に気づいてもらうか
・先にポイントを説明するか、後からポイントをまとめるか
・決めた通りに進めるか、その場に応じて対応するか
…などと、性質を見ていけば相当な特徴が挙げられそうです。
そうした性質の1つで僕が気になるのが
「師匠になるかどうか」
です。
結果的に「師」と仰がれるかどうかではなく、
教える側が「弟子をとる」スタンスかどうかの話です。
例えば、心理療法やカウンセリング、NLPの分野でも
「○○に師事」などと書いてあるプロフィールを目撃することがありますが
本人が師と仰いでいるだけで、セミナーに参加しただけという場合もあるようです。
その指導者が「弟子」と呼べるような親密な教え方の方針をとっていなくて
ニュートラルにセミナーやトレーニングをやっているつもりであっても、
教わっている側が「師」と捉えることもありえるわけです。
ただし、この場合は”教わる側”からの目線であって、
”教える側”が「師匠になろうとしているか(弟子をとろうとしているか)
とは無関係です。
反対に、”教わる側”が「弟子入りしたい」と願っているかどうかとは関係なく、
”教える側”が生徒や受講生、クライアントを弟子のように捉えるケースもある。
例えば、何百人、何千人単位のセミナーをやっていながら
参加者を「自分の弟子」のように捉える、とかです。
別に言葉で「弟子」とは言わないかもしれませんが、
師匠として尊重される立場から教えたい傾向は見て取れるものでしょう。
「師匠的な立場で教える人だ」という印象を僕が感じとる人には
共通した言葉の傾向が見受けられます。
(※その言葉から「師匠的」だと判断するのではなく、
全体的な振る舞いから「師匠的」な雰囲気のある人に
共通する言葉がある、ということです)
その言葉が
「うち」
です。
一人称としての「ウチ」ではなく、
「うちの人」、「うちの受講生」、「うちに来る人」などの形で登場する「うち」。
「自分のところの」、「私のグループの」という趣旨で使われる言葉だと考えられます。
うちの会社、うちの家族、うちの両親、うちの上司、うちの新人、うちの犬…。
立場の上下とは無関係に、「自分の所属するグループの」という意味が含まれます。
「うちの受講生」、「うちの人たち」などには
そういった所属意識、仲間意識の強さが表れているのではないでしょうか。
教える立場の人が、所属意識や仲間意識を強く持っていると
生徒や受講生に対して、『自分の』グループという連帯感を持ちやすいようです。
親身になって指導をするし、心の距離が近くて一体感もある一方、
「うち」ではない人たちとの区別をハッキリさせ、
「うちの人たち」を自分の範囲に入れておくような認識もあると思われます。
責任感の強い指導と、介入的な教育との境目が曖昧になりやすいようだ、と。
もちろん世の中には、師弟関係をベースとした指導の形も定着しています。
日本の伝統的な指導スタイルは、師弟関係が多そうです。
僕は書道をやっていますが、実際、その世界にも「師匠筋」の意識が見られます。
僕が教わっている先生は、書道界の平均よりは師匠意識が低く、
生徒が他の先生のところにも通っていたとして、それを気にはしません。
反面、「○○さん(先生)のところの人」のような表現が多く使われることからも
グループ意識、所属意識が強い分野だというのはうかがえます。
特に先生の実力や評判が高いと、「○○先生に習いたい」という希望が高まります。
「近所でやっているから」ではなく、「○○先生だから」が動機になるわけです。
僕が通っている教室にも、遠方から何時間もかけて通う人が何人もいます。
そして書道の指導は原則的にマンツーマンです。
指導の様子は皆で見学できますが、個人指導を一人ずつにするスタイルなので
生徒一人と先生との関係も密なものになります。
セミナーのように参加するたびに受講料を払うのではなく、
月謝制になっているのも、関係を表しているでしょう。
その月に一度も教室に行けなくても、月謝は払う決まりごとです。
教室(会派)に所属していることに月謝が発生するわけです。
そういう意味では「師弟関係」という教え方にも納得ができます。
やはり、僕の書道の先生も「うち」という単語を使っていますし。
「うちの社中」、「うちからは何人」、「うちの入賞率」とかです。
ですが、師匠的に教えるスタンスを好むようになるのは
必ずしもその分野の伝統からだけではないようなんです。
僕が目にすることの多い、心理やコミュニケーションの分野でも
「うち」という言葉を使う人がいます。
この場合、月謝制ということではないと思います。
マンツーマンでもないでしょうし、グループ単位で活動するわけでもないでしょう。
他の先生のセミナーに参加するのだってザラですし、
他のグループの人と対抗戦をするわけでもありません。
教える側の好みなんだと思います。
ただ正直なところ、僕には師匠の立場をとりたい気持ちが分かりません。
想像しようとしても、今ひとつピンとこないんです。
僕も教える仕事をしていますが、そもそも僕は教育者にもなれません。
「これが良い」、「これが正しい」と信じられるものがないからです。
僕はいつも、質問に答えているだけです。
直接言葉で質問されなくても、目の前の人が質問したそうなことに答える。
伝えたいことがあるわけではありません。
おそらく僕の教えるスタンスは、師匠型の教え方と比べると
介入の度合いが低めなんだと思います。
そしてもう1つ、僕は継続を前提に教えようとは思っていません。
だから月謝制とか徒弟制度にはならない。
継続的に関わっているクライアントさんもいますし、
講座に長く参加してくださる方もいますが、
僕の側のスタンスは「これが最後かもしれない」という発想に基づきます。
「師匠型」ではなくて、「一期一会型」とでも言いましょうか。
「次はもう会えないかもしれない」と思っているわけですから、
当然「うちの人」という言葉遣いは出にくいみたいです。
こういうスタンスの違いがどこから生まれてくるのか?
…そんなことを考えてみるのも面白いかもしれません。
2016年05月21日
変わらないもの
近所のTSUTAYAは書店が入っているビルの3階にあります。
書店に足を運ぶ機会が多ければ、自然とTSUTAYAまで足が伸びます。
最近あまり僕がDVDをレンタルしていなかったということは
本屋に足を運ぶことも少なかったということでもあるようです。
いつの頃からか本屋に行く頻度が物凄く下がってしまいました。
そして慌ただしくなるとDVDを借りようとか映画を見ようという気にもならない。
ところが、その書店の2階の売り場1/3ぐらいが
文房具を扱っているんです。
おそらく近所では一番品揃えが良い。
100円ショップとは質の違うものが並びます。
最近ちょっとデスクワークが多くなっていたので
便利な文具を買いに行くことにしました。
で、ほぼ自動的に、書店にもTSUTAYAも見て回ることになりました。
ぐるりと本屋を一周すると、最近のトレンドなんかも見えてきて
トレンドの移り変わりからも時の流れが感じられたりします。
それ以上に時間経過を意識させられるのが、マンガのコーナーです。
以前に読んでいたマンガの単行本が、今、何巻まで出ているのか?
人気のマンガは2,3か月に一冊出ますから、
「もうこんなに出ているんだ」と感じるときに、
つい「どれだけの時間、気にしていなかったか」を考えてしまいます。
ブームや自分の生活における優先順位の移り変わりともいえますが
あんなに書店に足しげく通っていた頃は、
今と違って何をしていたんだろう?
という疑問も沸いてきます。
以前に書店へ通っていた時間、本を読んでいた時間、
今は代わりに何をしているのでしょうか?
少し不思議な気がします。
そんな中、僕が変わらずに心を動かされるものも意識します。
先日、TSUTAYAにまで足を伸ばしたときのこと、
ぐるりと店内を回っていたら、新作のコーナーに『スヌーピー』がありました。
映画になっていたのでしょうか、「I Love スヌーピー」というヤツです。
別にスヌーピーが好きなわけではありませんし、
どちらかというと内容もよく知らないほど読んだことも見たこともありません。
ただ小学校6年生のときからゴールデンレトリーバーを飼っていた僕にとって
スヌーピーは『犬』の典型的な姿形に見えるんです。
とくに大きさが大事。
スヌーピーはビーグルですから、本当はあまり多くないはずなんですが、
チャーリーブラウンが小さい子供の設定だからか、マンガだからか、
かなり大きい犬のように描かれていると感じます。
チャーリーブラウンの8割ぐらいのサイズでしょうか。
このサイズ比が、余計に僕の昔のイメージと一致します。
小学校高学年から中学生ぐらいまでを思い返すと
僕と飼い犬のサイズ比率もあんな感じだったんです。
だから妙に感情移入します。
DVDを借りようかとも思いました。
でも泣いてしまいそうなので遠慮しておきました。
たぶん、スヌーピーは泣くようなストーリーではないと思いますけれど。
ですから、実際の内容とは無関係に、僕の中にある犬との思い出は
相変わらず強く残っていて、ふとしたときに蘇ってくるようなんです。
以前に読んでいたのに止まっていたマンガを再開するのは少ない一方で
犬との思い出は関心が薄れることがないみたいです。
それだけ強く記憶に残っているのか、
それだけ関心を向けていたということなのか。
アニメのDVDの表紙だけのことながら、なかなか考えさせられます。
書店に足を運ぶ機会が多ければ、自然とTSUTAYAまで足が伸びます。
最近あまり僕がDVDをレンタルしていなかったということは
本屋に足を運ぶことも少なかったということでもあるようです。
いつの頃からか本屋に行く頻度が物凄く下がってしまいました。
そして慌ただしくなるとDVDを借りようとか映画を見ようという気にもならない。
ところが、その書店の2階の売り場1/3ぐらいが
文房具を扱っているんです。
おそらく近所では一番品揃えが良い。
100円ショップとは質の違うものが並びます。
最近ちょっとデスクワークが多くなっていたので
便利な文具を買いに行くことにしました。
で、ほぼ自動的に、書店にもTSUTAYAも見て回ることになりました。
ぐるりと本屋を一周すると、最近のトレンドなんかも見えてきて
トレンドの移り変わりからも時の流れが感じられたりします。
それ以上に時間経過を意識させられるのが、マンガのコーナーです。
以前に読んでいたマンガの単行本が、今、何巻まで出ているのか?
人気のマンガは2,3か月に一冊出ますから、
「もうこんなに出ているんだ」と感じるときに、
つい「どれだけの時間、気にしていなかったか」を考えてしまいます。
ブームや自分の生活における優先順位の移り変わりともいえますが
あんなに書店に足しげく通っていた頃は、
今と違って何をしていたんだろう?
という疑問も沸いてきます。
以前に書店へ通っていた時間、本を読んでいた時間、
今は代わりに何をしているのでしょうか?
少し不思議な気がします。
そんな中、僕が変わらずに心を動かされるものも意識します。
先日、TSUTAYAにまで足を伸ばしたときのこと、
ぐるりと店内を回っていたら、新作のコーナーに『スヌーピー』がありました。
映画になっていたのでしょうか、「I Love スヌーピー」というヤツです。
別にスヌーピーが好きなわけではありませんし、
どちらかというと内容もよく知らないほど読んだことも見たこともありません。
ただ小学校6年生のときからゴールデンレトリーバーを飼っていた僕にとって
スヌーピーは『犬』の典型的な姿形に見えるんです。
とくに大きさが大事。
スヌーピーはビーグルですから、本当はあまり多くないはずなんですが、
チャーリーブラウンが小さい子供の設定だからか、マンガだからか、
かなり大きい犬のように描かれていると感じます。
チャーリーブラウンの8割ぐらいのサイズでしょうか。
このサイズ比が、余計に僕の昔のイメージと一致します。
小学校高学年から中学生ぐらいまでを思い返すと
僕と飼い犬のサイズ比率もあんな感じだったんです。
だから妙に感情移入します。
DVDを借りようかとも思いました。
でも泣いてしまいそうなので遠慮しておきました。
たぶん、スヌーピーは泣くようなストーリーではないと思いますけれど。
ですから、実際の内容とは無関係に、僕の中にある犬との思い出は
相変わらず強く残っていて、ふとしたときに蘇ってくるようなんです。
以前に読んでいたのに止まっていたマンガを再開するのは少ない一方で
犬との思い出は関心が薄れることがないみたいです。
それだけ強く記憶に残っているのか、
それだけ関心を向けていたということなのか。
アニメのDVDの表紙だけのことながら、なかなか考えさせられます。
2016年05月18日
手を抜かない人
何度かブログに書いたことのある近所のラーメン屋。
アルバイトが一人、退職するらしいです。
まあ、アルバイトですから入れ替わりは当然あって、
それは特別なことではありませんし、
最近の特記事項は異常なベトナム人比率の高さでしょうか。
正確な雇用体系は分かりませんが、どうも系列店というか
グループ店舗のようなものがあって、グループ内では
スタッフが所属店舗とは違う店にも応援で派遣されるみたいです。
ですからおそらく、雇用はグループ単位、所属先が店舗単位、
採用も店舗単位、シフト管理や教育も店舗単位、
人手不足のときにグループに申請すると人材を工面してくれる…
といった感じじゃないかと思われます。
で、たまに派遣されてくるスタッフ(別店舗のTシャツを着ていることが多い)は
皆、日本人なんですが、どういうわけか僕の行く店舗は
アルバイトとしてベトナム人を多く雇っているようなんです。
店舗所属の厨房に入るアルバイトが4、5人入れ替わる中で
少なくとも3人はベトナム人だと思われます。
(ベトナム国籍は一人から確認済み。残り二人は知人のように見える)
どういう経緯や想いがあってベトナム人スタッフを雇うのか分かりませんが、
見ている限りでは、日本人で厨房に入っている人は
「働きながら修行をして、いずれは独立をする」というスタンスが多いのでしょう。
見るからに任される仕事の種類が違いますし、
働くときの姿勢も向上心が高くて主体的です。
そうした少数の独立志向のスタッフが、徐々に店を任されるようになって
店長が休みの日や休憩の時間帯を仕切るようになり、
最終的には退職(もしくは正社員のまま退店?)して
身につけたことを活かしながら自分の作りたいラーメンで
自分の店をやるようになっていく、という傾向のようです。
まさに今回、近いうちに一人の店員が辞めるのは、この
店を卒業して、自分の店をオープンさせる
ケースとのこと。
地元に店をオープンさせるんだとか。
それで、なぜ僕がそんなことについて書いていているかというと
この店員が他の店員とは一線を画すものを示していたからです。
非常に仕事が丁寧で、的確。
味覚のセンスも、調理のセンスも高い人だと思われます。
ともすると作業の丁寧さでは店長以上かもしれません。
だからといって必要以上に時間をかけるのでもない。
作業は店を運営するのに必要なスピードを充分に確保しています。
慣れない新人よりも速い。
ただし、注意が離れないんです。
1つの作業をやっている間は、最後の一瞬までそこに注意を集中できる。
その作業が完全に終わって初めて、次の作業に注意が移る。
すると今度はそっちの作業にまた注意が集中する。
器用に淡々とこなすほうですから、決して
周りが見えなくなるほどの集中力ではないでしょう。
1つの作業に見えることのなかに、おそらく沢山の気にかけるところがあって
それを同時に気にかけているから次の作業に注意を配る度合いが低いんです。
他のアルバイトだと、どうしても1つの作業を1つのこととしてやります。
「醤油ダレを入れる」は「醤油ダレを入れる」という1つの作業として認識され
そこに含まれるチェックポイントが少ないように見受けられます。
とりあえず店長からOKが出た範囲の自分のやり方を
特に意味を考えることなく繰り返す。
及第点の「正しい」ことをやっていますが、「より良い」ものを心がけてはいません。
一方、その店員は常にベストを心がけるような姿勢で作業をします。
「醤油ダレを入れる」が沢山の作業の組み合わせとして認識されているはずです。
もちろん次にやらないといけないことや、全体の状況なども意識しているでしょう。
だからといって、細分化された作業のうちのどれかを飛ばすことはありません。
結果として「醤油ダレを入れる」作業の最後の一瞬まで
気持ちが醤油ダレから離れないわけです。
武道でいう斬新の感じ。
醤油ダレの最後の一滴が落ちる瞬間を見ようが見なかろうが
時間の違いは1秒にも満たないでしょう。
それでも平均的なアルバイトは、醤油ダレが丼に9割方入ったあたりで
目線を醤油ダレから離すんです。
そして次の作業に注意が移っている。
このように注意を次の作業に先取りする形で進めて
早く作業の流れを進めようとするやり方では、
どう頑張っても数秒しか違わないと思います。
9割は同じなんですから。
最後の1割分を急いだところで短縮される時間は僅かしかない。
しかも、そうやって作業の最後を慌てようとするから
逆に1つの作業が一回で完結しないことさえあります。
例えば、具材のネギを乗せるときに、一回取って器に盛り付け、
足りないから、もう一回ネギを追加する動作が加わる、とか。
1つの作業への集中力を1割減らすことで、結果的に二度手間になり
せっかく削減した1割の時間(1秒未満)よりも長い時間をかけることになる。
ここで話題に挙げているその店員は、1つの作業に注意を集中させ続け
細心の気配りで丁寧に仕事をするからこそ、
1つ1つの作業でやり直しや修正を加えることが少ないんです。
無駄がない。
寿司の早握りでいうと、
慌てて忙しく手を動かしているのに無駄が多くて数がこなせない
のか
ゆったり落ち着いて見えるのに無駄な手数が少ないから数がこなせる
のか、
そんな違いに似ていると言えそうです。
丁寧に落ち着いてやりながらも、無駄がないからスピードも出るタイプです。
ラーメン屋の店員ですが、
しっかりした技術を持った寿司職人や天ぷら屋に通じる特徴がある。
そういう意味で、僕は注目をしていたわけです。
実際、彼が調理してくれると美味しいんです。
安心できます。
もちろん店長のときも美味しいんですが、
店長が入るときほど新人アルバイト率も上がります。
すると一部の作業を新人にやらせることになるので雑な仕事が混ざってくる。
でも、その店員は違いました。
誰よりも細心の注意を払って調理をしながら、誰よりも手を抜かない。
味がバラけないんです。
特筆すべきは、彼の塩分に対するコダワリじゃないでしょうか。
他の人が調理に携わったときと比べると、塩味が控えめなんです。
厳密にいえば、他の人が醤油ダレを入れるときには入れ過ぎなんでしょう。
濃縮されているうえに、加えられた材料で粘度が出ている液体です。
決まった分量を量りとる器具(小さいオタマのようなヤツ)を使っても、
外側に付着した分が丼に落ちてしまったら、予定よりも多く入ってしまいます。
その人の醤油ダレを入れる動きは真剣です。
一滴がどれだけ全体の味を左右するかを知っているんだと思います。
ラーメンは決して上品な食べ物として認識されていないのでしょうから、
一般的な客の好みからすると、少し濃いめの味付けで
インパクトを出しているものでなければ、物足りなく感じられがちだと想像できます。
定食やコースのように全体で完成させる料理とは違って
一杯で満足感を与える必要があるラーメンは、きっと
物足りない仕上がりになってしまうと致命的なんだと考えられます。
どのような形でも満足感が下がってしまえば、リピート率は下がるでしょう。
だからラーメンの塩分は高めに設定されやすいようですし、
実際、僕には大半のラーメンは塩辛過ぎます。
そもそもラーメンという食べ物を好きなわけでもない僕が
こうしてブログに書くわけですから、その店のラーメンは他と違う気がしますし、
その中でもこの店員は、さらに違うんです。
特に塩分へのコダワリが。
彼は塩味を抑えられます。
ギリギリまで。
これ以上薄いと物足りなくなる…っていうラインまで落とせる。
塩分を抑えることで、ダシの味わいを前面に押し出せる人です。
薄いほうがデメリットになりやすいところで
ギリギリまで塩分を抑える方向に努力できるのは、
味覚としても調理としても意気込みとしても、稀な才能ではないかと思うんです。
ということで、この店員が辞めてしまうのは僕にとって結構残念なんです。
と同時に、自分の進みたい方向に大きな一歩を踏み出すことへの祝福もあります。
僕は他の客に対して思い入れがあるわけではありませんから、
「その人が始める新しいラーメン屋で多くの人が美味しいラーメンを食べられる」
ことについては、それほど関心はありません。
もしかすると塩へのコダワリを「薄い!」と不満に感じる人さえいるかもしれませんし。
だから僕は、ただその人が
自分が作りたい、自分が食べたいラーメンを作ってくれたら良いなあ
と思っています。
どこに帰るんだか知りませんが、
一回ぐらいは食べに行ってみたいような気もします。
アルバイトが一人、退職するらしいです。
まあ、アルバイトですから入れ替わりは当然あって、
それは特別なことではありませんし、
最近の特記事項は異常なベトナム人比率の高さでしょうか。
正確な雇用体系は分かりませんが、どうも系列店というか
グループ店舗のようなものがあって、グループ内では
スタッフが所属店舗とは違う店にも応援で派遣されるみたいです。
ですからおそらく、雇用はグループ単位、所属先が店舗単位、
採用も店舗単位、シフト管理や教育も店舗単位、
人手不足のときにグループに申請すると人材を工面してくれる…
といった感じじゃないかと思われます。
で、たまに派遣されてくるスタッフ(別店舗のTシャツを着ていることが多い)は
皆、日本人なんですが、どういうわけか僕の行く店舗は
アルバイトとしてベトナム人を多く雇っているようなんです。
店舗所属の厨房に入るアルバイトが4、5人入れ替わる中で
少なくとも3人はベトナム人だと思われます。
(ベトナム国籍は一人から確認済み。残り二人は知人のように見える)
どういう経緯や想いがあってベトナム人スタッフを雇うのか分かりませんが、
見ている限りでは、日本人で厨房に入っている人は
「働きながら修行をして、いずれは独立をする」というスタンスが多いのでしょう。
見るからに任される仕事の種類が違いますし、
働くときの姿勢も向上心が高くて主体的です。
そうした少数の独立志向のスタッフが、徐々に店を任されるようになって
店長が休みの日や休憩の時間帯を仕切るようになり、
最終的には退職(もしくは正社員のまま退店?)して
身につけたことを活かしながら自分の作りたいラーメンで
自分の店をやるようになっていく、という傾向のようです。
まさに今回、近いうちに一人の店員が辞めるのは、この
店を卒業して、自分の店をオープンさせる
ケースとのこと。
地元に店をオープンさせるんだとか。
それで、なぜ僕がそんなことについて書いていているかというと
この店員が他の店員とは一線を画すものを示していたからです。
非常に仕事が丁寧で、的確。
味覚のセンスも、調理のセンスも高い人だと思われます。
ともすると作業の丁寧さでは店長以上かもしれません。
だからといって必要以上に時間をかけるのでもない。
作業は店を運営するのに必要なスピードを充分に確保しています。
慣れない新人よりも速い。
ただし、注意が離れないんです。
1つの作業をやっている間は、最後の一瞬までそこに注意を集中できる。
その作業が完全に終わって初めて、次の作業に注意が移る。
すると今度はそっちの作業にまた注意が集中する。
器用に淡々とこなすほうですから、決して
周りが見えなくなるほどの集中力ではないでしょう。
1つの作業に見えることのなかに、おそらく沢山の気にかけるところがあって
それを同時に気にかけているから次の作業に注意を配る度合いが低いんです。
他のアルバイトだと、どうしても1つの作業を1つのこととしてやります。
「醤油ダレを入れる」は「醤油ダレを入れる」という1つの作業として認識され
そこに含まれるチェックポイントが少ないように見受けられます。
とりあえず店長からOKが出た範囲の自分のやり方を
特に意味を考えることなく繰り返す。
及第点の「正しい」ことをやっていますが、「より良い」ものを心がけてはいません。
一方、その店員は常にベストを心がけるような姿勢で作業をします。
「醤油ダレを入れる」が沢山の作業の組み合わせとして認識されているはずです。
もちろん次にやらないといけないことや、全体の状況なども意識しているでしょう。
だからといって、細分化された作業のうちのどれかを飛ばすことはありません。
結果として「醤油ダレを入れる」作業の最後の一瞬まで
気持ちが醤油ダレから離れないわけです。
武道でいう斬新の感じ。
醤油ダレの最後の一滴が落ちる瞬間を見ようが見なかろうが
時間の違いは1秒にも満たないでしょう。
それでも平均的なアルバイトは、醤油ダレが丼に9割方入ったあたりで
目線を醤油ダレから離すんです。
そして次の作業に注意が移っている。
このように注意を次の作業に先取りする形で進めて
早く作業の流れを進めようとするやり方では、
どう頑張っても数秒しか違わないと思います。
9割は同じなんですから。
最後の1割分を急いだところで短縮される時間は僅かしかない。
しかも、そうやって作業の最後を慌てようとするから
逆に1つの作業が一回で完結しないことさえあります。
例えば、具材のネギを乗せるときに、一回取って器に盛り付け、
足りないから、もう一回ネギを追加する動作が加わる、とか。
1つの作業への集中力を1割減らすことで、結果的に二度手間になり
せっかく削減した1割の時間(1秒未満)よりも長い時間をかけることになる。
ここで話題に挙げているその店員は、1つの作業に注意を集中させ続け
細心の気配りで丁寧に仕事をするからこそ、
1つ1つの作業でやり直しや修正を加えることが少ないんです。
無駄がない。
寿司の早握りでいうと、
慌てて忙しく手を動かしているのに無駄が多くて数がこなせない
のか
ゆったり落ち着いて見えるのに無駄な手数が少ないから数がこなせる
のか、
そんな違いに似ていると言えそうです。
丁寧に落ち着いてやりながらも、無駄がないからスピードも出るタイプです。
ラーメン屋の店員ですが、
しっかりした技術を持った寿司職人や天ぷら屋に通じる特徴がある。
そういう意味で、僕は注目をしていたわけです。
実際、彼が調理してくれると美味しいんです。
安心できます。
もちろん店長のときも美味しいんですが、
店長が入るときほど新人アルバイト率も上がります。
すると一部の作業を新人にやらせることになるので雑な仕事が混ざってくる。
でも、その店員は違いました。
誰よりも細心の注意を払って調理をしながら、誰よりも手を抜かない。
味がバラけないんです。
特筆すべきは、彼の塩分に対するコダワリじゃないでしょうか。
他の人が調理に携わったときと比べると、塩味が控えめなんです。
厳密にいえば、他の人が醤油ダレを入れるときには入れ過ぎなんでしょう。
濃縮されているうえに、加えられた材料で粘度が出ている液体です。
決まった分量を量りとる器具(小さいオタマのようなヤツ)を使っても、
外側に付着した分が丼に落ちてしまったら、予定よりも多く入ってしまいます。
その人の醤油ダレを入れる動きは真剣です。
一滴がどれだけ全体の味を左右するかを知っているんだと思います。
ラーメンは決して上品な食べ物として認識されていないのでしょうから、
一般的な客の好みからすると、少し濃いめの味付けで
インパクトを出しているものでなければ、物足りなく感じられがちだと想像できます。
定食やコースのように全体で完成させる料理とは違って
一杯で満足感を与える必要があるラーメンは、きっと
物足りない仕上がりになってしまうと致命的なんだと考えられます。
どのような形でも満足感が下がってしまえば、リピート率は下がるでしょう。
だからラーメンの塩分は高めに設定されやすいようですし、
実際、僕には大半のラーメンは塩辛過ぎます。
そもそもラーメンという食べ物を好きなわけでもない僕が
こうしてブログに書くわけですから、その店のラーメンは他と違う気がしますし、
その中でもこの店員は、さらに違うんです。
特に塩分へのコダワリが。
彼は塩味を抑えられます。
ギリギリまで。
これ以上薄いと物足りなくなる…っていうラインまで落とせる。
塩分を抑えることで、ダシの味わいを前面に押し出せる人です。
薄いほうがデメリットになりやすいところで
ギリギリまで塩分を抑える方向に努力できるのは、
味覚としても調理としても意気込みとしても、稀な才能ではないかと思うんです。
ということで、この店員が辞めてしまうのは僕にとって結構残念なんです。
と同時に、自分の進みたい方向に大きな一歩を踏み出すことへの祝福もあります。
僕は他の客に対して思い入れがあるわけではありませんから、
「その人が始める新しいラーメン屋で多くの人が美味しいラーメンを食べられる」
ことについては、それほど関心はありません。
もしかすると塩へのコダワリを「薄い!」と不満に感じる人さえいるかもしれませんし。
だから僕は、ただその人が
自分が作りたい、自分が食べたいラーメンを作ってくれたら良いなあ
と思っています。
どこに帰るんだか知りませんが、
一回ぐらいは食べに行ってみたいような気もします。
2016年05月15日
声のトーンの癖
僕の住まいは集合住宅です。
アパートというか、マンションというか。
大きさからするとアパートの分類でしょうか。
前に住んでいたところは便利で日当たりも良かったんですが
裏を返すと窓の量が大きくて、周りの人通りが多いということ。
壁の薄さというよりは窓を通して外の話声が全て入ってくる感じでした。
それが嫌で静かな環境に引っ越したんです。
かなり前の話です。
ただ今の住まいは、外が比較的静かなものの
隣の音が微妙に聞こえてくるんです。
大きな音としてではありません。
壁の薄いホテルよりはマシなぐらい。
イビキは聞こえないけれど、大きな声を出すと聞こえる程度のようです。
咳をしたり、歌ったりすると聞こえてきます。
それでも救いは内容が分からないところです。
歌が聞こえるときになるのはメロディーとして極が認識されてしまうから。
意味のある物として認知できてしまうと注意が逸れてしまいます。
話し声が少し聞こえるぐらいでも気にならないのも同じような理由。
「声がするなぁ」程度であって、内容が分からないため
一応『ノイズ』という分類で処理できるみたいです。
気になるときは雑音として認知できるようなCDをかければ大丈夫です。
ところがつい先日、隣の部屋から大きな声が聞こえてきました。
ケンカです、多分。
最初は(住んでいるらしい)男性の声がメインで聞こえて
女性の声はかすかに届くぐらいでした。
それがやがて男性の声が間欠的に聞こえるようになったんです。
途中、静かなときがありましたから、どこかで女性が帰ったのかもしれません。
でも、うるさかったのは声が一人分になってから。
想像ですが、きっと電話で話していたんでしょう。
時折、声を”高める”男性の声が聞こえてきます。
「荒げる」ではありません。
「高める」です。
怒鳴る感じではなかったんです。
すごく抑揚が大きくて、声が大きくなる瞬間に音程も1オクターブぐらい上がる感じ。
言葉遣いは、いわゆる男性的なものでしたが
ドスを聞かせて威嚇するとか、大声で怒りをぶつけるとかではなく、
「…っんだよぉ…。…っだろぉぅ〜。」のように
周期的に声量と音程がグワッと上がるんです。
若い女性のキンキン声には多いパターンですが、
男性でここまで声が高くなる人は初めて聞いたような気がします。
典型的なイメージでいうと、駄々をこねている子供の話し方のような雰囲気です。
「ぃやだぁ〜。もおぅ…んなぁんでぇえ?ぉーねーがぁあいいいー。」
サイレンのように音が大きく高くなるときと、小さく低くなるときとが繰り返される。
あの感じです。
とはいえ、隣の部屋から壁越しに聞こえてくるので内容は分かりません。
それも当然です、ハッキリと聞こえるのは声が高く大きくなった部分だけですから。
言葉の内容として重要度の高い部分は小さい声なので隣までは届きません。
なので僕の耳には
「…ャアゥーぅ…、…ャアゥーぅ…」
みたいな声の高い部分だけが入ってきていたわけです。
非言語メッセージに込められた意味は
「分かってくれよぉ〜。なんで分かってくれないんだよぉ〜。」
といった感じでしょう。
分かって欲しい気持ちが目一杯あらわれていて、
なんだか聞くに堪えませんでした。
うるさくて作業にもなりませんでしたし。
ともあれ、大人の男性(30代前半ぐらい?)で
こういうコミュニケーションスタイルの人もいるんだなぁと
チョットした驚きを感じたものです。
人それぞれといえばそれまでですが、
どういう環境で育ってきたのかの影響は大きいのだろうと実感します。
そういうタイプの見本がどこかにいたのか、
あるいは子供の頃のやり方を修正する際に見本がいなかったのか、
そこまで強く分かって欲しい気持ちを表現することが青少年期になかったのか、
…いろいろな可能性が考えられます。
それが当たり前になるような成育歴があったということでしょう。
なお、僕の成育歴では、そういう声の出し方を聞いたときに
ただの雑音として無視する能力は身についていなかったようですから、
同じことが二度とないことを祈るばかりです。
アパートというか、マンションというか。
大きさからするとアパートの分類でしょうか。
前に住んでいたところは便利で日当たりも良かったんですが
裏を返すと窓の量が大きくて、周りの人通りが多いということ。
壁の薄さというよりは窓を通して外の話声が全て入ってくる感じでした。
それが嫌で静かな環境に引っ越したんです。
かなり前の話です。
ただ今の住まいは、外が比較的静かなものの
隣の音が微妙に聞こえてくるんです。
大きな音としてではありません。
壁の薄いホテルよりはマシなぐらい。
イビキは聞こえないけれど、大きな声を出すと聞こえる程度のようです。
咳をしたり、歌ったりすると聞こえてきます。
それでも救いは内容が分からないところです。
歌が聞こえるときになるのはメロディーとして極が認識されてしまうから。
意味のある物として認知できてしまうと注意が逸れてしまいます。
話し声が少し聞こえるぐらいでも気にならないのも同じような理由。
「声がするなぁ」程度であって、内容が分からないため
一応『ノイズ』という分類で処理できるみたいです。
気になるときは雑音として認知できるようなCDをかければ大丈夫です。
ところがつい先日、隣の部屋から大きな声が聞こえてきました。
ケンカです、多分。
最初は(住んでいるらしい)男性の声がメインで聞こえて
女性の声はかすかに届くぐらいでした。
それがやがて男性の声が間欠的に聞こえるようになったんです。
途中、静かなときがありましたから、どこかで女性が帰ったのかもしれません。
でも、うるさかったのは声が一人分になってから。
想像ですが、きっと電話で話していたんでしょう。
時折、声を”高める”男性の声が聞こえてきます。
「荒げる」ではありません。
「高める」です。
怒鳴る感じではなかったんです。
すごく抑揚が大きくて、声が大きくなる瞬間に音程も1オクターブぐらい上がる感じ。
言葉遣いは、いわゆる男性的なものでしたが
ドスを聞かせて威嚇するとか、大声で怒りをぶつけるとかではなく、
「…っんだよぉ…。…っだろぉぅ〜。」のように
周期的に声量と音程がグワッと上がるんです。
若い女性のキンキン声には多いパターンですが、
男性でここまで声が高くなる人は初めて聞いたような気がします。
典型的なイメージでいうと、駄々をこねている子供の話し方のような雰囲気です。
「ぃやだぁ〜。もおぅ…んなぁんでぇえ?ぉーねーがぁあいいいー。」
サイレンのように音が大きく高くなるときと、小さく低くなるときとが繰り返される。
あの感じです。
とはいえ、隣の部屋から壁越しに聞こえてくるので内容は分かりません。
それも当然です、ハッキリと聞こえるのは声が高く大きくなった部分だけですから。
言葉の内容として重要度の高い部分は小さい声なので隣までは届きません。
なので僕の耳には
「…ャアゥーぅ…、…ャアゥーぅ…」
みたいな声の高い部分だけが入ってきていたわけです。
非言語メッセージに込められた意味は
「分かってくれよぉ〜。なんで分かってくれないんだよぉ〜。」
といった感じでしょう。
分かって欲しい気持ちが目一杯あらわれていて、
なんだか聞くに堪えませんでした。
うるさくて作業にもなりませんでしたし。
ともあれ、大人の男性(30代前半ぐらい?)で
こういうコミュニケーションスタイルの人もいるんだなぁと
チョットした驚きを感じたものです。
人それぞれといえばそれまでですが、
どういう環境で育ってきたのかの影響は大きいのだろうと実感します。
そういうタイプの見本がどこかにいたのか、
あるいは子供の頃のやり方を修正する際に見本がいなかったのか、
そこまで強く分かって欲しい気持ちを表現することが青少年期になかったのか、
…いろいろな可能性が考えられます。
それが当たり前になるような成育歴があったということでしょう。
なお、僕の成育歴では、そういう声の出し方を聞いたときに
ただの雑音として無視する能力は身についていなかったようですから、
同じことが二度とないことを祈るばかりです。
2016年05月12日
デスクワークごとに
どうやら先日までやっていた翻訳は
最終的な形にまで持っていけたようです。
僕は観衆の人に渡すところまでの分担でしたが、
Facebook なんかを見ていると無事に進んだフシが見て取れました。
自分の手が入っていると思うと、なんだか不思議な愛着があるものですね。
自分が記事を書いた雑誌を見たときとは印象が違いました。
なんというか、陰から応援している感じに近いみたいです。
自分の仕事を外から眺めるときとは違って、むしろ
自分の知り合いが頑張っている報告を聞くような感じに近そうです。
プロスポーツ選手のサポートとかをしていたら
その選手が試合に出ている様子を見るときも
おそらくこんな感じに近いんだろうと想像されます。
これはこれで1つの喜びとして味わえています。
遠くから応援するというのも、なかなか味わい深い。
…と、そうこうしているうちに
また少し書き物の仕事が慌ただしくなってきました。
デスクワークが増えてきて気づくのは、一口に「デスクワーク」といっても
僕にとっては、いくつかの種類に分けられるようだ、ということです。
まず、翻訳のように、自分からアウトプットするのではなく
考えるよりも作業の比重が高いタイプのものがあります。
他の人から文章や資料、広告のチェックを頼まれることもあるんですが、
こちらも翻訳をしているときの感じに似ている気がします。
(負荷の大きさは量に依存するようです)
自分から何かを生み出すわけではないので
質問されたことに答える場合と近い頭の使い方になります。
スピーディーに答えが見つかって、あとはそれを文章に起こす。
答えが浮かんでくるよりも、それを文章に書き起こすほうが速度が遅くて
その速度のギャップがチョットもどかしいです。
同じように作業が中心で考えることが少ないのが
資料や文書に差しこむ図や絵柄を描く作業。
内容が決まっていてデザインを調整する感じになると
パソコンに向かっていても、地道な作業という印象になります。
これも意外と好きみたいです。
かなり黙々と作業を続けられます。
セミナーの資料作りや、プレゼンのスライド作りも
内容のアウトラインが決まった後は、この感じになります。
色やサイズ、位置や形などをチマチマと調整してバランスをとる作業。
絵を描くときとは少し違いますが、文章ではない作業なので
頭の中から内部対話(心の中の声)が減って、集中できる感じがあります。
言語的に頭を使わずに作業を続ける感じは
掃除とか修理、工作に似ていて楽しいんだと思われます。
子供の頃の、図工や技術・家庭科を思い出します。
一方、デスクワークの分類に入るものの
ダイレクトにパソコンを使わない段階もあります。
アイデア出しというか、構想段階というか。
紙に書いて構成を考えたり、細かいネタをスマホにメモしたりします。
あまり長時間続けることは少ないですが、
この段階で「これで後は書くだけ」と感じられていると
後のパソコン作業がスムーズになるようです。
ただ、この段階も頭の中で思考が進むだけですからスピードが速く、
いざパソコンに書きおこうとし始めたときの進みの遅さが少しもどかしい。
頭の中でエッセンスがまとまっていても、
それをいざ具体的な文章や図表に変換しようとすると
どうしても時間がかかってしまいます。
時間がかかることが予測されていると「大変そうだなぁ」と感じて
作業に取りかかるときに”気合”が必要になります。
頭の中のスピードを追いかけきれず忘れそうになるのが厄介な点です。
それから、いわゆるアウトプットがあります。
考えながら書く。
テーマが決まっているとしても、質問に答えるほど内容がハッキリしません。
自分で何を書くかを整理する必要があります。
どの切り口でまとめるかによって内容が変わりますから
構想が決まるまでにも労力が必要です。
そして書き始める。
これもなぜか集中力が長続きしません。
おそらく沢山のことが頭に浮かび過ぎていて
アウトプットが一本道で出てこない印象があるからでしょう。
内容が枝分かれしながら色々と出てきてしまうんです。
たくさん浮かんでいる考えの中から、アウトプットする部分だけを取り出して
それをパソコンに打ち込んでいくといった感じ。
色々なことを同時並行して進めるモードでもあるので
アウトプットの内容とは関係ないことまで一緒に同時並行になりがちです。
端的にいえば「気が散りやすい」ということ。
気が散る要因になりそうなものを減らせると作業効率が上がるので
こうしたアウトプットの作業は自宅以外でやることもあります。
時間の制約のある中でやると慌てるのか集中力が上がるみたいで、
仕事に出る前にやるとか、出張先のホテルで書くとか、
そういう工夫が必要になりがちです。
こうやって振り返ってみると、僕は図工の延長のような作業が好きなようです。
小学校のとき、作文に苦手意識があったわけではないですが
書き始めるまでの悶々とした時間には苦しんでいた記憶が蘇ります。
テストの問題を解くときとか、「〜を説明しろ」という課題とか、
「質問されたことに答える」種類は、文章にするのが苦ではありませんでした。
思いのほか、頭の使い方の傾向や、作業に集中するスタイルなどは
子供の頃から変わっていないものなのかもしれません。
個性を自覚した上でスムーズに進められる工夫を見つけるのが
作業効率を上げるだけでなく、内面的にも快適でいるコツのような気がします。
最終的な形にまで持っていけたようです。
僕は観衆の人に渡すところまでの分担でしたが、
Facebook なんかを見ていると無事に進んだフシが見て取れました。
自分の手が入っていると思うと、なんだか不思議な愛着があるものですね。
自分が記事を書いた雑誌を見たときとは印象が違いました。
なんというか、陰から応援している感じに近いみたいです。
自分の仕事を外から眺めるときとは違って、むしろ
自分の知り合いが頑張っている報告を聞くような感じに近そうです。
プロスポーツ選手のサポートとかをしていたら
その選手が試合に出ている様子を見るときも
おそらくこんな感じに近いんだろうと想像されます。
これはこれで1つの喜びとして味わえています。
遠くから応援するというのも、なかなか味わい深い。
…と、そうこうしているうちに
また少し書き物の仕事が慌ただしくなってきました。
デスクワークが増えてきて気づくのは、一口に「デスクワーク」といっても
僕にとっては、いくつかの種類に分けられるようだ、ということです。
まず、翻訳のように、自分からアウトプットするのではなく
考えるよりも作業の比重が高いタイプのものがあります。
他の人から文章や資料、広告のチェックを頼まれることもあるんですが、
こちらも翻訳をしているときの感じに似ている気がします。
(負荷の大きさは量に依存するようです)
自分から何かを生み出すわけではないので
質問されたことに答える場合と近い頭の使い方になります。
スピーディーに答えが見つかって、あとはそれを文章に起こす。
答えが浮かんでくるよりも、それを文章に書き起こすほうが速度が遅くて
その速度のギャップがチョットもどかしいです。
同じように作業が中心で考えることが少ないのが
資料や文書に差しこむ図や絵柄を描く作業。
内容が決まっていてデザインを調整する感じになると
パソコンに向かっていても、地道な作業という印象になります。
これも意外と好きみたいです。
かなり黙々と作業を続けられます。
セミナーの資料作りや、プレゼンのスライド作りも
内容のアウトラインが決まった後は、この感じになります。
色やサイズ、位置や形などをチマチマと調整してバランスをとる作業。
絵を描くときとは少し違いますが、文章ではない作業なので
頭の中から内部対話(心の中の声)が減って、集中できる感じがあります。
言語的に頭を使わずに作業を続ける感じは
掃除とか修理、工作に似ていて楽しいんだと思われます。
子供の頃の、図工や技術・家庭科を思い出します。
一方、デスクワークの分類に入るものの
ダイレクトにパソコンを使わない段階もあります。
アイデア出しというか、構想段階というか。
紙に書いて構成を考えたり、細かいネタをスマホにメモしたりします。
あまり長時間続けることは少ないですが、
この段階で「これで後は書くだけ」と感じられていると
後のパソコン作業がスムーズになるようです。
ただ、この段階も頭の中で思考が進むだけですからスピードが速く、
いざパソコンに書きおこうとし始めたときの進みの遅さが少しもどかしい。
頭の中でエッセンスがまとまっていても、
それをいざ具体的な文章や図表に変換しようとすると
どうしても時間がかかってしまいます。
時間がかかることが予測されていると「大変そうだなぁ」と感じて
作業に取りかかるときに”気合”が必要になります。
頭の中のスピードを追いかけきれず忘れそうになるのが厄介な点です。
それから、いわゆるアウトプットがあります。
考えながら書く。
テーマが決まっているとしても、質問に答えるほど内容がハッキリしません。
自分で何を書くかを整理する必要があります。
どの切り口でまとめるかによって内容が変わりますから
構想が決まるまでにも労力が必要です。
そして書き始める。
これもなぜか集中力が長続きしません。
おそらく沢山のことが頭に浮かび過ぎていて
アウトプットが一本道で出てこない印象があるからでしょう。
内容が枝分かれしながら色々と出てきてしまうんです。
たくさん浮かんでいる考えの中から、アウトプットする部分だけを取り出して
それをパソコンに打ち込んでいくといった感じ。
色々なことを同時並行して進めるモードでもあるので
アウトプットの内容とは関係ないことまで一緒に同時並行になりがちです。
端的にいえば「気が散りやすい」ということ。
気が散る要因になりそうなものを減らせると作業効率が上がるので
こうしたアウトプットの作業は自宅以外でやることもあります。
時間の制約のある中でやると慌てるのか集中力が上がるみたいで、
仕事に出る前にやるとか、出張先のホテルで書くとか、
そういう工夫が必要になりがちです。
こうやって振り返ってみると、僕は図工の延長のような作業が好きなようです。
小学校のとき、作文に苦手意識があったわけではないですが
書き始めるまでの悶々とした時間には苦しんでいた記憶が蘇ります。
テストの問題を解くときとか、「〜を説明しろ」という課題とか、
「質問されたことに答える」種類は、文章にするのが苦ではありませんでした。
思いのほか、頭の使い方の傾向や、作業に集中するスタイルなどは
子供の頃から変わっていないものなのかもしれません。
個性を自覚した上でスムーズに進められる工夫を見つけるのが
作業効率を上げるだけでなく、内面的にも快適でいるコツのような気がします。
2016年05月09日
夢で診断する
NLPには『優位表象システム』という考え方があります。
簡単にいうと、「五感のうち、どれを優先して使っているか?」
という傾向のことです。
『表象』は「内的表象」とも呼ばれることのあるものを表す言葉で、
人間が体験している内容は、現実そのものではなく
五感を通じてインプットした情報を頭の中で再構築して
自分の頭の中だけの世界を作りなおしている
といったニュアンスを含むようです。
人間が見える光の波長は赤から紫に対応する可視光のみで
紫外線や赤外線は感知できません。
紫外線を識別できる虫や鳥などには
人間とは違った模様が見えているといった話もあります。
また最近よく聞く単語として「モスキート音」というのがありますが、
これは加齢によって聞こえなくなる高音域の音のことだそうです。
つまり若い人と高齢者とでは、同じ場所にいても
物理的に聞こえる音に違いがあるわけです。
頭の中で認識されている世界は別物なんでしょう。
ということで、『表象』という頭の中で再構築される世界が
五感の性質に基づいていることから、NLP用語としては
五感(とくにNLPでは、視覚、聴覚、体感覚の3つ)を
「表象システム」と呼ぶことにしているんです。
このように五感の性質の違いだけでも主観的に体験される世界が違いますが、
どの五感を積極的に使うかによっても体験される世界が変わります。
目を大きく開けると取り込まれる光の量が増えますから
世界は明るく見えます。
目を大きく開けているということは、
目からの情報を増やそうという狙いを反映していると想像できます。
普段から目を大きく開ける人と、そうでない人とでは
視覚を積極的に使う度合いが異なっているわけです。
眼球がキョロキョロと動く人は、目で色々なものを追いかけているはずです。
動かない人は、体の外で起きていることをあまり目で追っていないということ。
目の動にも、外に注意を配っているかどうかが表れるわけです。
そして頭の中で再構築される世界は、
そうして注意が集まった情報を中心としています。
視覚を積極的に使い、体の外のものに注意を配っている人であれば
頭の中で作られる世界(表象)も、外から得られた視覚情報が中心となります。
ですから五感のどれを積極的に、優先して使っているかによって
体験される世界(頭の中で作られる表象)にも違いが出てくるといえます。
その意味で、優先的に使っている五感(表象システム)のことを
『優位表象システム』と呼ぶようです。
で、この優位表象システムですが、
色々な質問に答えながら、自分の五感の使い方の傾向を振り返って
自分が何を良く使っているかを調べる
というチェック法が主流です。
まぁ、五感の使い方の傾向なのですから、
自分の経験を振り返って調べる以外にはありません。
最終的にはチェックのための質問集に頼らなくても
自分の生活を一通り振り返って、自覚としての優位表象システムを
自ら見つけられるようになるようです。
ただ、僕が意外と効果的な調べ方だと思っているのは、
あまりチェックのための質問集には登場しない要素なんですが、
表象をダイレクトに調べられる方法として有効そうな方法です。
それは夢を調べるというもの。
夢の中で、どの五感が、どれぐらい鮮明に感じられているか?です。
人によっては夢が白黒の場合もあります。
痛みや筋肉の感じが分かる人もいるようです。
会話は多いでしょうから音は聞こえるのが一般的かもしれませんが、
それでも周りの雑音は実世界よりも少ないのではないでしょうか?
雑音までハッキリと夢の中で聞こえる人もいると思います。
ちなみに僕は夢の中でも味と匂いが鮮明に分かります。
夢の中で食べたものの味を思い出せることも多いようです。
僕の夢はカラーですが、筋肉の感じや内臓感覚としての感情は少ない。
話し声は本人のものを再現しているものの、雑音は少なめです。
そうすると、僕が日頃から積極的にインプットしている情報は
実のところ、視覚と味覚・嗅覚なのではないかと考えられます。
普段からよく使っている五感の情報は夢でも再現される、と。
主観的な自覚としては感情や筋肉の動きなども気にしているつもりですが
記憶される情報量としては、視覚や味覚・嗅覚には及ばないのかもしれません。
つまり、「よく使っているつもり」の五感と
実際に頼りにしている五感とでは差がある可能性もある、と。
その辺が夢をチェックすることで分かるように思います。
頭の中を覗く方法は多くありませんが、夢はその1つのような気がします。
簡単にいうと、「五感のうち、どれを優先して使っているか?」
という傾向のことです。
『表象』は「内的表象」とも呼ばれることのあるものを表す言葉で、
人間が体験している内容は、現実そのものではなく
五感を通じてインプットした情報を頭の中で再構築して
自分の頭の中だけの世界を作りなおしている
といったニュアンスを含むようです。
人間が見える光の波長は赤から紫に対応する可視光のみで
紫外線や赤外線は感知できません。
紫外線を識別できる虫や鳥などには
人間とは違った模様が見えているといった話もあります。
また最近よく聞く単語として「モスキート音」というのがありますが、
これは加齢によって聞こえなくなる高音域の音のことだそうです。
つまり若い人と高齢者とでは、同じ場所にいても
物理的に聞こえる音に違いがあるわけです。
頭の中で認識されている世界は別物なんでしょう。
ということで、『表象』という頭の中で再構築される世界が
五感の性質に基づいていることから、NLP用語としては
五感(とくにNLPでは、視覚、聴覚、体感覚の3つ)を
「表象システム」と呼ぶことにしているんです。
このように五感の性質の違いだけでも主観的に体験される世界が違いますが、
どの五感を積極的に使うかによっても体験される世界が変わります。
目を大きく開けると取り込まれる光の量が増えますから
世界は明るく見えます。
目を大きく開けているということは、
目からの情報を増やそうという狙いを反映していると想像できます。
普段から目を大きく開ける人と、そうでない人とでは
視覚を積極的に使う度合いが異なっているわけです。
眼球がキョロキョロと動く人は、目で色々なものを追いかけているはずです。
動かない人は、体の外で起きていることをあまり目で追っていないということ。
目の動にも、外に注意を配っているかどうかが表れるわけです。
そして頭の中で再構築される世界は、
そうして注意が集まった情報を中心としています。
視覚を積極的に使い、体の外のものに注意を配っている人であれば
頭の中で作られる世界(表象)も、外から得られた視覚情報が中心となります。
ですから五感のどれを積極的に、優先して使っているかによって
体験される世界(頭の中で作られる表象)にも違いが出てくるといえます。
その意味で、優先的に使っている五感(表象システム)のことを
『優位表象システム』と呼ぶようです。
で、この優位表象システムですが、
色々な質問に答えながら、自分の五感の使い方の傾向を振り返って
自分が何を良く使っているかを調べる
というチェック法が主流です。
まぁ、五感の使い方の傾向なのですから、
自分の経験を振り返って調べる以外にはありません。
最終的にはチェックのための質問集に頼らなくても
自分の生活を一通り振り返って、自覚としての優位表象システムを
自ら見つけられるようになるようです。
ただ、僕が意外と効果的な調べ方だと思っているのは、
あまりチェックのための質問集には登場しない要素なんですが、
表象をダイレクトに調べられる方法として有効そうな方法です。
それは夢を調べるというもの。
夢の中で、どの五感が、どれぐらい鮮明に感じられているか?です。
人によっては夢が白黒の場合もあります。
痛みや筋肉の感じが分かる人もいるようです。
会話は多いでしょうから音は聞こえるのが一般的かもしれませんが、
それでも周りの雑音は実世界よりも少ないのではないでしょうか?
雑音までハッキリと夢の中で聞こえる人もいると思います。
ちなみに僕は夢の中でも味と匂いが鮮明に分かります。
夢の中で食べたものの味を思い出せることも多いようです。
僕の夢はカラーですが、筋肉の感じや内臓感覚としての感情は少ない。
話し声は本人のものを再現しているものの、雑音は少なめです。
そうすると、僕が日頃から積極的にインプットしている情報は
実のところ、視覚と味覚・嗅覚なのではないかと考えられます。
普段からよく使っている五感の情報は夢でも再現される、と。
主観的な自覚としては感情や筋肉の動きなども気にしているつもりですが
記憶される情報量としては、視覚や味覚・嗅覚には及ばないのかもしれません。
つまり、「よく使っているつもり」の五感と
実際に頼りにしている五感とでは差がある可能性もある、と。
その辺が夢をチェックすることで分かるように思います。
頭の中を覗く方法は多くありませんが、夢はその1つのような気がします。
2016年05月06日
指導の技術、反省の技術
飲食店やコンビニの店員は、ほとんどがアルバイトのはずですが
店員が店長や責任者から注意される場面を目撃するのは
どうも飲食店が多いような気がします。
コンビニはマニュアルが比較的しっかりしているからなんでしょうか。
やるべきことが作業としてハッキリ決まっていると、ミスやトラブルは
・やるべきことのやり方を知らなくて止まる
・やるべきことをやり忘れる
・やるべきこととは違うことをしてしまう
のいずれかになりそうです。
やるべきことを知らなくて止まってしまっている新人に対しては
「ここはこうやって」という指示を出しやすかったり、
「このときはこういう風にやるの」と見本を示しやすかったりするように見えます。
また新人が自分から「知らない」、「分からない」と認識できれば
やるべきことを「教えてください」と自分から質問もしやすいようです。
ベテランに助けを求めに行く新人アルバイトの姿はよく見かけます。
やるべきことをやり忘れるケースは、もしかすると起きているのかもしれませんが、
これは接客の最中に起きるというよりも、裏方の決まりごとなどが多そうですから
コンビニを利用している最中に「やり忘れ」を注意される場面はあまり見ません。
やるべきこととは違うことをしてしまうミスも
”正しい”作業が細かく決まっていると起きにくそうに思えます。
「マニュアル通りにやらないければ!」、「ここはどうするんだっけ?」などと
何かをするときにはマニュアルに立ち返ろうとするスタンスが染みつきやすく、
本当はやるべきことを知らないか忘れているのときに
自分の判断や勘違いから”正しい”作業ではないことをやってしまう
ということも起きにくいのではないか、と。
コンビニの場合は本部が情報管理を一括化しているため、
店員のする作業がコンピューターの制御と連動しているのも
”正しい”やり方を思い返させやすいと考えられます。
レジやらバーコードやらの機械類が多くて
適当な個人の判断では対処できないことが多くなるため、
マニュアル通りのやり方に立ち返らざるを得ない、ということです。
一方、飲食店のアルバイトは、作業がもう少し日常的です。
接客で人と接するのも、洗い物や掃除をしたりするのも、
あるいは調理として作業の中にも、誰にでも身近なものが多いといえます。
新人のアルバイトであっても
「まったく知らないから、どうしたらいいか分からない」
という発想が出にくいと思うんです。
コンビニのレジ操作だったら戸惑ってしまうようなことでも
会話や掃除、調理などであれば日常でやっていることに”近い”ので
本人が自分の経験や知識を勝手に”応用”して
我流で対処できてしまいかねないわけです。
そもそも「知らない」という認識にならないため、困って止まることもないし
「知らない」内容を知ろうとして自分から質問することも起きにくい。
「やり忘れ」に関しても、コンビニのほうが
一人の客と関わる時間が短くてシンプルなため、
想定外の事態に対応している間に何かを忘れてしまうことも少ないでしょう。
コンビニは利用客数にも変動が小さいでしょうし、
在庫管理や売上のシステムがコンピューターで制御されているため
想定外の慌ただしさで対応しきれないというケースも少なそうです。
その点、飲食店のほうが予測不能なことが起きやすいでしょうし、
客一人当たりの滞在時間が長い分、店員の作業はコンビニのレジほど
シンプルな流れの繰り返しにはならないと思われます。
幅広い作業をこなす必要があって、しかもそのときどきで優先順位を工夫する。
そういう柔軟性が求められるところがあるのかもしれません。
そうすると慌ただしくなって作業の優先順位をあれこれと変更しているうちに
何かの作業をやり忘れてしまう…なんて事態も起きかねないと想像できます。
こうした中で起きるミスやトラブルには「大きさ」の違いが生まれます。
ただし、ミスの「大きさ」を判断するのは店の責任者側です。
アルバイト店員の側からは、ミスの重要度を判断できないんです。
そもそもの作業の優先順位にしても、責任者側では決まっています。
優先順位の高い”大事な”ことを間違えたり、忘れたりすると
責任者のほうからは「大きなミス」だと感じられます。
優先順位を知らないアルバイト側からだと、
(店としては大事なことなのに)「これぐらい大したことがないだろう」と思ったり、
逆に「大変なミスをした!」と感じていたのに店側からは重要でなかったり、
重要度の理解を共有できていないケースが多いように見受けられます。
店員の側からすると「大したことではない」と思えて抜かしてしまった作業や
「これでも大丈夫だろう」と柔軟に対処したつもりの作業が、
実は店の責任者側からすると非常に大きな違いになっている場合。
そういうときにアルバイトが注意される(怒られる)のでしょう。
ミスが起きてからではないと責任者側も重要度を自覚していないので
事前に指導することができないのも1つの理由かと思えます。
こういうときにどんな注意の仕方をすると効果的なのか?
その辺りのコミュニケーション方法は、かなり工夫の余地がありそうです。
叱る、注意する、客観的にフィードバックする、怒る…
色々なやり方がありますが、何かがベストということではないと考えられます。
なぜならこうしたやり取りは、注意する側とされる側のコミュニケーションの癖で
決まったパターンになりやすいからです。
注意する側の癖と、注意される側の癖との間に相性があるようなものです。
例えば、冷静に指摘された場合には「大して重要ではないのだろう」などと
非言語メッセージから重要度を判断する癖を持っている人がいます。
この人には感情的に怒るような対応が効果的かもしれません。
注意されたときに動いた自分の感情を元に学習するような人です。
一方、感情的に強く指摘されると、その非言語メッセージにショックを受け
やるべき作業を学習するという目的から離れて、
ただ落ち込んでしまうような癖をもった人もいます。
「落ち込めば、それ以上は怒られない」というパターンかもしれませんが、
落ち込んでいるためヤル気が下がったり、他のミスが出たり、悪影響があります。
あるいは”正しさ”を基準に論理的な注意をされると、
自分の正しさを守ろうとして反論をするような癖を持った人もいます。
ベストな指導法があるというよりは、
相手の受け取り方の癖を理解して対応を変えられる
というのが望ましいのではないでしょうか。
もちろん、アルバイト側と責任者側で重要さを共有できている作業なのに
アルバイト店員がうっかりミスをしてしまうというケースもあります。
このケースでも店員側、責任者側の癖が関係します。
ミスを自覚していながらも自分の立場を守るために否認したり弁解したり、
ことの重大さを深刻に受け止め過ぎて落ち込んでしまったり、
反省しているからこそ挽回しようと必死になったり。
ミスをした店員側にも様々なパターンが出ます。
そしてそれに対する責任者側も色々です。
弁解には聞く耳を持たず「やるべきこと」ばかりを繰り返すため
「分かってもらえない」と感じる店員から更に弁解が増え、
店員はなおさら「やるべきこと」に取りかからなくなる。
深刻に受け止め過ぎて落ち込んでいる店員をさらに注意して
余計に落ち込ませてしまったり、
落ち込んでいる店員を慰めるから学習せずに同じミスを繰り返させたり。
反省して挽回しようと頑張って行動に移す店員の姿を見て
「反省の色が見えない」と感じて感情的な態度に出る結果、
関係性を悪化させてしまう、なんてことも。
つまり、
ミスを減らすために指導する側と
ミスしないように学習していく側と、
両方に心の癖があるということです。
社会で生きていく上では、その環境で”正しい”、”望ましい”とされる行動を
的確に身につけるというのが重要です。
それによって環境に順応できます。
その意味では、
他者の学習を効率化する指導の方法と
自分の学習を効率化する反省の方法、
それぞれが大事になると思われます。
僕自身は世の中に対して啓蒙したいことがあるわけでもないですし、
生きていく上で欠かせない心構えや価値観を伝えたいわけでもありませんが、
『社会に適応する』という人間として求められる部分に関しては
共通して役立つものがあるとは思います。
学習は、まさにその代表です。
教育分野に熱い想いがあるわけではないものの、
『指導の仕方』と『反省の仕方』は効果的なものを使えたほうが
生きていくのが楽になるとは思うんです。
このあたり、方法論としてセミナーにしてみても良いかもしれません。
ちょっと考えてみようと思います。
店員が店長や責任者から注意される場面を目撃するのは
どうも飲食店が多いような気がします。
コンビニはマニュアルが比較的しっかりしているからなんでしょうか。
やるべきことが作業としてハッキリ決まっていると、ミスやトラブルは
・やるべきことのやり方を知らなくて止まる
・やるべきことをやり忘れる
・やるべきこととは違うことをしてしまう
のいずれかになりそうです。
やるべきことを知らなくて止まってしまっている新人に対しては
「ここはこうやって」という指示を出しやすかったり、
「このときはこういう風にやるの」と見本を示しやすかったりするように見えます。
また新人が自分から「知らない」、「分からない」と認識できれば
やるべきことを「教えてください」と自分から質問もしやすいようです。
ベテランに助けを求めに行く新人アルバイトの姿はよく見かけます。
やるべきことをやり忘れるケースは、もしかすると起きているのかもしれませんが、
これは接客の最中に起きるというよりも、裏方の決まりごとなどが多そうですから
コンビニを利用している最中に「やり忘れ」を注意される場面はあまり見ません。
やるべきこととは違うことをしてしまうミスも
”正しい”作業が細かく決まっていると起きにくそうに思えます。
「マニュアル通りにやらないければ!」、「ここはどうするんだっけ?」などと
何かをするときにはマニュアルに立ち返ろうとするスタンスが染みつきやすく、
本当はやるべきことを知らないか忘れているのときに
自分の判断や勘違いから”正しい”作業ではないことをやってしまう
ということも起きにくいのではないか、と。
コンビニの場合は本部が情報管理を一括化しているため、
店員のする作業がコンピューターの制御と連動しているのも
”正しい”やり方を思い返させやすいと考えられます。
レジやらバーコードやらの機械類が多くて
適当な個人の判断では対処できないことが多くなるため、
マニュアル通りのやり方に立ち返らざるを得ない、ということです。
一方、飲食店のアルバイトは、作業がもう少し日常的です。
接客で人と接するのも、洗い物や掃除をしたりするのも、
あるいは調理として作業の中にも、誰にでも身近なものが多いといえます。
新人のアルバイトであっても
「まったく知らないから、どうしたらいいか分からない」
という発想が出にくいと思うんです。
コンビニのレジ操作だったら戸惑ってしまうようなことでも
会話や掃除、調理などであれば日常でやっていることに”近い”ので
本人が自分の経験や知識を勝手に”応用”して
我流で対処できてしまいかねないわけです。
そもそも「知らない」という認識にならないため、困って止まることもないし
「知らない」内容を知ろうとして自分から質問することも起きにくい。
「やり忘れ」に関しても、コンビニのほうが
一人の客と関わる時間が短くてシンプルなため、
想定外の事態に対応している間に何かを忘れてしまうことも少ないでしょう。
コンビニは利用客数にも変動が小さいでしょうし、
在庫管理や売上のシステムがコンピューターで制御されているため
想定外の慌ただしさで対応しきれないというケースも少なそうです。
その点、飲食店のほうが予測不能なことが起きやすいでしょうし、
客一人当たりの滞在時間が長い分、店員の作業はコンビニのレジほど
シンプルな流れの繰り返しにはならないと思われます。
幅広い作業をこなす必要があって、しかもそのときどきで優先順位を工夫する。
そういう柔軟性が求められるところがあるのかもしれません。
そうすると慌ただしくなって作業の優先順位をあれこれと変更しているうちに
何かの作業をやり忘れてしまう…なんて事態も起きかねないと想像できます。
こうした中で起きるミスやトラブルには「大きさ」の違いが生まれます。
ただし、ミスの「大きさ」を判断するのは店の責任者側です。
アルバイト店員の側からは、ミスの重要度を判断できないんです。
そもそもの作業の優先順位にしても、責任者側では決まっています。
優先順位の高い”大事な”ことを間違えたり、忘れたりすると
責任者のほうからは「大きなミス」だと感じられます。
優先順位を知らないアルバイト側からだと、
(店としては大事なことなのに)「これぐらい大したことがないだろう」と思ったり、
逆に「大変なミスをした!」と感じていたのに店側からは重要でなかったり、
重要度の理解を共有できていないケースが多いように見受けられます。
店員の側からすると「大したことではない」と思えて抜かしてしまった作業や
「これでも大丈夫だろう」と柔軟に対処したつもりの作業が、
実は店の責任者側からすると非常に大きな違いになっている場合。
そういうときにアルバイトが注意される(怒られる)のでしょう。
ミスが起きてからではないと責任者側も重要度を自覚していないので
事前に指導することができないのも1つの理由かと思えます。
こういうときにどんな注意の仕方をすると効果的なのか?
その辺りのコミュニケーション方法は、かなり工夫の余地がありそうです。
叱る、注意する、客観的にフィードバックする、怒る…
色々なやり方がありますが、何かがベストということではないと考えられます。
なぜならこうしたやり取りは、注意する側とされる側のコミュニケーションの癖で
決まったパターンになりやすいからです。
注意する側の癖と、注意される側の癖との間に相性があるようなものです。
例えば、冷静に指摘された場合には「大して重要ではないのだろう」などと
非言語メッセージから重要度を判断する癖を持っている人がいます。
この人には感情的に怒るような対応が効果的かもしれません。
注意されたときに動いた自分の感情を元に学習するような人です。
一方、感情的に強く指摘されると、その非言語メッセージにショックを受け
やるべき作業を学習するという目的から離れて、
ただ落ち込んでしまうような癖をもった人もいます。
「落ち込めば、それ以上は怒られない」というパターンかもしれませんが、
落ち込んでいるためヤル気が下がったり、他のミスが出たり、悪影響があります。
あるいは”正しさ”を基準に論理的な注意をされると、
自分の正しさを守ろうとして反論をするような癖を持った人もいます。
ベストな指導法があるというよりは、
相手の受け取り方の癖を理解して対応を変えられる
というのが望ましいのではないでしょうか。
もちろん、アルバイト側と責任者側で重要さを共有できている作業なのに
アルバイト店員がうっかりミスをしてしまうというケースもあります。
このケースでも店員側、責任者側の癖が関係します。
ミスを自覚していながらも自分の立場を守るために否認したり弁解したり、
ことの重大さを深刻に受け止め過ぎて落ち込んでしまったり、
反省しているからこそ挽回しようと必死になったり。
ミスをした店員側にも様々なパターンが出ます。
そしてそれに対する責任者側も色々です。
弁解には聞く耳を持たず「やるべきこと」ばかりを繰り返すため
「分かってもらえない」と感じる店員から更に弁解が増え、
店員はなおさら「やるべきこと」に取りかからなくなる。
深刻に受け止め過ぎて落ち込んでいる店員をさらに注意して
余計に落ち込ませてしまったり、
落ち込んでいる店員を慰めるから学習せずに同じミスを繰り返させたり。
反省して挽回しようと頑張って行動に移す店員の姿を見て
「反省の色が見えない」と感じて感情的な態度に出る結果、
関係性を悪化させてしまう、なんてことも。
つまり、
ミスを減らすために指導する側と
ミスしないように学習していく側と、
両方に心の癖があるということです。
社会で生きていく上では、その環境で”正しい”、”望ましい”とされる行動を
的確に身につけるというのが重要です。
それによって環境に順応できます。
その意味では、
他者の学習を効率化する指導の方法と
自分の学習を効率化する反省の方法、
それぞれが大事になると思われます。
僕自身は世の中に対して啓蒙したいことがあるわけでもないですし、
生きていく上で欠かせない心構えや価値観を伝えたいわけでもありませんが、
『社会に適応する』という人間として求められる部分に関しては
共通して役立つものがあるとは思います。
学習は、まさにその代表です。
教育分野に熱い想いがあるわけではないものの、
『指導の仕方』と『反省の仕方』は効果的なものを使えたほうが
生きていくのが楽になるとは思うんです。
このあたり、方法論としてセミナーにしてみても良いかもしれません。
ちょっと考えてみようと思います。
2016年05月03日
グーかパーか
人間の手は、脱力した状態で少し丸くなるようです。
少し握ったような感じとでもいいましょうか。
ピンと指先を伸ばした形にはならない、ということです。
規律ある集団での行進、ダンス、マナーや作法、古典芸能などでは
指先の動きまでコントロールするみたいですから、そういう場合だと
手のひらから指先まで一直線に伸びた形に維持されています。
ただそのコントロールには積極的な注意を向ける必要があって、
手の甲側に引っ張るような力を入れることで、ようやくその形になるはずです。
力を入れない状態だと、指も手のひらも少し丸くなるのが自然なんでしょう。
グーでもパーでもない、両方の間ぐらいの形になるのがニュートラルだ、と。
ところが、グーとパーを両極として見たとき、
その間のどれぐらいの形がニュートラルなのかというのは
意外と個人差があるように見受けられます。
全員が同じような形にはなりません。
グーに近い人もいれば、パーに近い人もいる。
これがなかなか興味深いと思います。
どの筋肉が緊張していて、どこが伸びて、どこが曲がっているか。
筋肉の収縮や筋膜の固まりが生み出す張力のネットワークが、
おそらく、どれぐらい手を握りこむかを決めているのでしょう。
姿勢を変えるだけで手の握りこみ度合いが変わってくるのが実感できますから
何も心がけていない時の姿勢が、手の状態にも関係していると思われます。
「どのぐらいが自然か?」というのは答えが難しそうです。
もっとも自然体に見える赤ちゃんは、かなりグーに近い手の状態です。
ただし赤ちゃんは体全身が丸まっています。
姿勢も伸びてはいないし、直立歩行をするわけでもありません。
座るようになっても、背筋を伸ばしているとはいえないでしょう。
いわゆる胎児のときの丸まった姿勢の延長のような感じが続きます。
1つ言えそうなのは、姿勢が丸まっていると
手も丸まっている傾向があるということ。
これは大人でも共通する性質のように見えます。
そういえば猿の仲間も比較的グーに近い状態が多い気がしますし、
ゴリラなんかはグーを地面について歩くほどです。
もしかすると姿勢を伸ばし、直立歩行で運動能力を高めるという
人間らしい体の使い方は、意外と”不自然”なのかもしれません。
かといって丸まった姿勢で日常生活を送っているほうが
体の歪みや負荷は大きくなるようでもありますから、
そう考えると体の使い方が自然かどうかよりも
人間らしい生活そのものが”不自然”だということの影響が大きそうです。
人間らしい”不自然”な生活には、多少不自然でも
いわゆる”良い姿勢”とされる体のポジションで
全身の筋肉をバランスよく効率的に使っていく必要があるのでしょうか。
で、体の姿勢とも関係することの1つですが、
「ぽっちゃり」の人の手は、かなりグーに近い
という傾向があるようなんです。
「ぽっちゃり」の人が楽な姿勢を取ると、自然とグーに近づくともいえます。
また、自然とグーに近くなるような姿勢をしていると筋肉に注意が向かず
筋力からカロリー消費する度合いが下がったり、
筋肉よりも内臓に注意が向きやすくなって食べる量が増えたりして、
姿勢によって体重が増えやすくなる可能性もあり得そうです。
どっちが先と言えるものではないかもしれませんが、
この相関は見ていて気づきやすいところだと思います。
「手をパーにして生活するダイエット」なんていうのも
もしかしたら作れたりして。
少し握ったような感じとでもいいましょうか。
ピンと指先を伸ばした形にはならない、ということです。
規律ある集団での行進、ダンス、マナーや作法、古典芸能などでは
指先の動きまでコントロールするみたいですから、そういう場合だと
手のひらから指先まで一直線に伸びた形に維持されています。
ただそのコントロールには積極的な注意を向ける必要があって、
手の甲側に引っ張るような力を入れることで、ようやくその形になるはずです。
力を入れない状態だと、指も手のひらも少し丸くなるのが自然なんでしょう。
グーでもパーでもない、両方の間ぐらいの形になるのがニュートラルだ、と。
ところが、グーとパーを両極として見たとき、
その間のどれぐらいの形がニュートラルなのかというのは
意外と個人差があるように見受けられます。
全員が同じような形にはなりません。
グーに近い人もいれば、パーに近い人もいる。
これがなかなか興味深いと思います。
どの筋肉が緊張していて、どこが伸びて、どこが曲がっているか。
筋肉の収縮や筋膜の固まりが生み出す張力のネットワークが、
おそらく、どれぐらい手を握りこむかを決めているのでしょう。
姿勢を変えるだけで手の握りこみ度合いが変わってくるのが実感できますから
何も心がけていない時の姿勢が、手の状態にも関係していると思われます。
「どのぐらいが自然か?」というのは答えが難しそうです。
もっとも自然体に見える赤ちゃんは、かなりグーに近い手の状態です。
ただし赤ちゃんは体全身が丸まっています。
姿勢も伸びてはいないし、直立歩行をするわけでもありません。
座るようになっても、背筋を伸ばしているとはいえないでしょう。
いわゆる胎児のときの丸まった姿勢の延長のような感じが続きます。
1つ言えそうなのは、姿勢が丸まっていると
手も丸まっている傾向があるということ。
これは大人でも共通する性質のように見えます。
そういえば猿の仲間も比較的グーに近い状態が多い気がしますし、
ゴリラなんかはグーを地面について歩くほどです。
もしかすると姿勢を伸ばし、直立歩行で運動能力を高めるという
人間らしい体の使い方は、意外と”不自然”なのかもしれません。
かといって丸まった姿勢で日常生活を送っているほうが
体の歪みや負荷は大きくなるようでもありますから、
そう考えると体の使い方が自然かどうかよりも
人間らしい生活そのものが”不自然”だということの影響が大きそうです。
人間らしい”不自然”な生活には、多少不自然でも
いわゆる”良い姿勢”とされる体のポジションで
全身の筋肉をバランスよく効率的に使っていく必要があるのでしょうか。
で、体の姿勢とも関係することの1つですが、
「ぽっちゃり」の人の手は、かなりグーに近い
という傾向があるようなんです。
「ぽっちゃり」の人が楽な姿勢を取ると、自然とグーに近づくともいえます。
また、自然とグーに近くなるような姿勢をしていると筋肉に注意が向かず
筋力からカロリー消費する度合いが下がったり、
筋肉よりも内臓に注意が向きやすくなって食べる量が増えたりして、
姿勢によって体重が増えやすくなる可能性もあり得そうです。
どっちが先と言えるものではないかもしれませんが、
この相関は見ていて気づきやすいところだと思います。
「手をパーにして生活するダイエット」なんていうのも
もしかしたら作れたりして。