2016年10月

2016年10月29日

好みがわかってくるまで

出張が増えたせいもあって、随分と
ホテルに滞在することに馴染んできました。

「馴染む」といっても「快適にいられる」という意味ではありません。

快適にいられる環境であれば、ホテルの部屋で仕事をするなんていうのも
意外と効率がいいものなのかもしれませんが、
僕の場合、どうしてもセミナー目的の滞在ですから疲労回復が最優先です。

地域によっては同じホテルを利用することもありますし、
毎回のように別のホテルに泊まることもあります。

色々と泊まってみると、自分の好みというか
自分にとっての重要度も見つかってくる感じがします。


どうやら僕の場合、
・隣の部屋の音が聞こえるかどうか
・部屋が広いかどうか
・バスルームの浴槽に余裕があるか
あたりが重要なようです。

この3要素のうち順位があるわけではなさそうです。
それぞれ許容範囲もあるし、どれか1つで全てが台無しになるほどでもない。

強いていうと隣の音は重要度が高い気がします。
僕の場合、隣の音の大きさが寝られるかどうかと直結するみたいなので。

特に会話が聞こえてくるとダメです。
イビキも厳しい。

会話は内容や感情が耳から入ってくる感じが、
イビキは自分のリズムをかき乱される感じが不快なようです。

その点、ホテルの外から聞こえてくる騒音は比較的大丈夫。
車の音とか電車の音とか、内容が聞き取れない範囲であれば
人の話し声でガヤガヤしているのも大丈夫な感じ。

背景音として捉えられれば騒音があってもノイズでしかないんでしょう。
その点、隣の部屋の話し声やイビキは背景ではなく、関心の中心になってしまう。
ここが厄介なところだと思われます。

部屋の広さに関しては、なんとなく広いほうが好きという程度。
3つの中では一番我慢ができるところでしょうか。

広いとゆったりできるし、気分も楽な感じになります。

そして僕にとって意外と大事なのがバスルーム。
綺麗さよりも、シャワーカーテンが気になります。

シャワーを浴びている最中にカーテンが触れるのが嫌いなんです。

どんなにバスルーム全体が広々としていても
浴槽側のサイズやカーテンレールの配置でシャワーカーテンが近いと
ものすごくストレスを感じます。


逆にアメニティとか内装とかはオマケ程度。
僕にとっては重要ではないみたいです。

多少、掃除が行き届いていなくてもウルサイよりはマシですし、
ベッドの大きさや硬さなどもあまり気になりません。
(体の大きい人は大変でしょうけれど)

どちらかというと
部屋の大きさの割に無理やり大きいベッドが入っているぐらいなら
小さいベッドでスペースに余裕があるほうが好きなほど。

どうも感覚体験として聴覚や触覚に不快感が加わるのが嫌なようです。

そちらの不満が少ないことの優先度が高く、
満足度を上げるような要素についてはオマケ程度に感じられる、と。


僕の場合はそんな好みになっていますが
きっと世の中には別の基準で選ぶ人もたくさんいるのでしょう。

レジャーで使っていたら僕の好みも変わるかもしれません。

とはいえ、ホテルの条件は泊まってみないことには判断できないので
なかなか好みを見つけるのは難しいように感じられます。

何より、自分の好みの基準に気づくまでにさえ
色々な経験をしてみる必要があるわけですから、
自分の好みという身近なものでも、意外と分かっていないものなんでしょう。

cozyharada at 23:34|Permalinkclip!NLP | 心理学

2016年10月26日

分解する癖

自分がこんなにも発音に興味を持つようになったのも
どうやら細かいところに目がいく性分と関係しているようです。


そもそも化学が好きだったのは、
物資を構成要素に分解して理解するというところ。

元素の組み合わせで物質が説明できて
その組み合わせを変えるための化学反応がある。
そして元素の組み合わせが変われば別の物質になる。

こういう仕組みが面白かったんだと思います。

数式でどうこう説明するのでもなく、
傾向やパターンをただ覚えるのでもなく、
要素で仕組みを説明するスタイルが好みだったんでしょう。

それで応用化学を専攻したように記憶しています。


微生物を使った研究をしていたときも同様です。
細胞の内側にどんな成分があって、どんなことが起きているか?
培養槽という入れ物の中で、どんな要素がどんな変化を生み出しているか?

そんな風に1つ細かいレベルの要素に分解して理解する視点がありました。

研究職からコミュニケーションとか心理とかに移ったとき、
NLPに興味を持ち続け、そこを中心に”心”の理解を進めてきたのも似ています。

NLPは他の心理分野とは違い、心の構成要素を調べる視点を持っています。
サブモダリティと呼ばれるものです。

心の中で体験されていることがサブモダリティの組み合わせとして説明ができる。
その人が何を大切にしているか?
何に対して過剰に注目して歪んだ認知をしてしまうか?
どうすれば悩みの元になる物の見方を変えられるか?
その辺を上手く説明できたわけです。

要素の分解することで理解がスムーズになるのが好きなんでしょう。


語学で発音に興味を持ったのにも、その着眼点が含まれるみたいです。

発音においても最小要素は「音素」と呼ばれるそうです。
元素と同じく、要素の「素」が使われています。

音素の組合せで音の流れが生まれ、単語単位の発音になる。
それが組み合わさって文章になると、元の音素にも変化が生まれる。

そんなパターンが面白く感じられます。

言語を身につけるという観点からしたら必要のない細かさかもしれませんが、
話せるかどうか、聞きとれるかどうかとは別の次元で
言語特有の発音や、どういう風にして発声するかなどは興味深いんです。

ネイティブの人たちがどんな身体の使い方をしているかも関係するので
モデリングの観点からも興味が湧くのかもしれません。


色々と興味の幅が広がっているように見えて
意外と同じことしか繰り返していないみたいです。

着眼点の癖は変わりにくいものだと実感します。

中心になる個性といえば、それまでかもしれませんが。

cozyharada at 23:23|Permalinkclip!NLP | 心理学

2016年10月23日

モチベーショナルスピーチ

先日、打ち合わせで話している中で
『ペップトーク』が話題上がりました。

ペップトークとはスポーツの試合を前に
監督が選手のヤル気を高めるような語りかけを言うようです。

こちらなんかが代表的なイメージでしょうか。
字幕が出無しですが、後半部分の声のトーンや、全体の盛り上がり方は
いかにもモチベーションを上げている様子を示していると思います。




確かにこういうのはカッコイイと感じます。
チームの一体感も出るし、気合も高まるでしょう。

ただ、僕自身の経験として、
こういう話ができる日本人は見たことがありません。

怒鳴るように大声を出すことはあっても
日本で見るヤツは声を出す方が目的になっていて
内面の昂りは伴っていない印象を受けます。

内面と非言語的な表現とが一致するしにくいようです。

こうしたモチベーショナルスピーチがアメリカだと機能するのは
1つ日本で文化的な背景があるんでしょう。

小さい頃から動画にあるような形で一体感を高め、一致団結して
敵に立ち向かうスタイルが根づいているのかもしれません。

歴史的に見ても一人のパワフルな演説で集団が動かされ
大きな変化に繋がったことも多いみたいですし。

ハリウッド映画でも「これから大勝負」という場面で
リーダーが演説をするシーンはよくあります。

「インディペンデンスデイ」に出てきたこちらのシーンは代表的。
(こちらは字幕つき)



こういうカッコイイ演説に心を震わせ
皆で心を1つにして取りかかるのが
文化の中に含まれているんじゃないかと思われます。

もしかすると多人種からなる移民が団結するには、
歴史や常識、同族意識から勝手に生まれる繋がりが少ないため
「アメリカ」という標語など、言葉やメッセージの元に
心を1つにする必要があったのかもしれません。


しかも、こうした演説のカッコ良さには
英語特有のリズムとか抑揚が関係しているはずです。

日本語の平板なイントネーションや単調なリズムでは
どんなに内容をカッコ良くしても作れない雰囲気がある。

フランス語でもスペイン語でも中国語でも難しい気がします。

そして発話に使う肺活量。
アメリカ英語は特に声を胸から腹で響かせつつ
空気を沢山出しながら話します。

口先だけでモゴモゴ話せてしまう日本語やフランス語では
気持ちを載せて腹から声を出す感じは表れにくいでしょう。

言語としてもアメリカらしさが表れたスタイルだと感じます。


そういうことを考えると
日本で聴衆の心を揺さぶる演説が出にくいのも、
もしくは、あったとしてもスタイルが異なってくるのも、
自然なことのような気がします。

裏を返せば、アメリカ由来のペップトークは
アメリカ文化に合わせたモチベーションの高め方であって、
日本でやるにはアレンジが求められるのではないか?
ということです。

個人的に好きなタイプのスピーチスタイルですが、
僕がやる機会は、まぁ、ないでしょう。

cozyharada at 23:49|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2016年10月20日

勉強は何のためにするのか?

何をもって「勉強」と呼ぶのか僕には分かりませんが
多くの勉強の実態は「トレーニング」ではないでしょうか。

繰り返しの練習によって慣れる。
同じパターンへスムーズに対処できるようにする。

例えば、高校か大学初歩までの数学は練習問題が重要なようです。
受験勉強として塾でやっていたことは、今振り返ればトレーニングでした。

そしてトレーニングの量が減ってから、僕の数学は停滞しました。
トレーニングを続けていたら数学寄りの学問もできたかもしれません。

語学もそうです。
仕組みを知ったら、あとはパターン学習です。

聞きとりも読解も、パターン認識に依存する部分が大きいと考えられます。

ボキャブラリーでは積極的にすると暗記パターン認識の効率が上がりますが、
覚えた語句を無自覚的に使いこなせるようになるには慣れが必要です。

繰り返しのインプットとアウトプットで定着します。
頻度が下がれば忘れてしまいます。


僕の知り合いのイギリス人は、学校の歴史の授業でも
日本でよくあるような機械的な暗記はなかったと言っていました。

イギリスの歴史資料を渡されて、テーマごとにまとめ上げ
歴史的に記録されている”事実”を調べるプロジェクトばかりだったそうです。

歴史学者になるためのトレーニングのようなことが歴史の授業の大半で
日本でやるような年代と事柄の暗記はなかった、とのこと。
資料の読み方、まとめ方を訓練していたわけです。

一方、僕がアメリカの大学のアメリカ史を受けたときは、どちらかというと
クリティカル・リーディングのようなトレーニングだと感じました。

教科書をベースに出来事の流れを追いかけていくわけですが、
参考資料として色々な角度から書かれた見解を読まされました。

「いつ、どこで、誰が関わって、何が起きた」という出来事を学ぶだけでなく、
「どういう背景で、何が要因となって、関係者のどんな思惑によって起きたのか」
を議論するようなことが多かった印象があります。

多くの要因が絡み合う中から、因果関係を分析して
重要度の高い要因を見つけていくような練習だといえそうです。


そういうのと比べると、日本の小・中学校(場合によっては大学ぐらいまで?)では
与えられた情報をそのまま覚えるだけの科目も多かった気がします。

数学については小学校の算数の頃からトレーニング中心でしょうが、
中学ぐらいまでの理科は暗記の度合いのほうが高かった記憶があります。
高校で物理と化学が表れて、数学的なトレーニングが増えました。

社会科の類は、テストのために覚えるばっかりだった感じがします。
本当は社会科見学のようなプロジェクトワーク的なものもあったんでしょうが、
その比重が極端に低くて、ただの息抜きぐらいのイメージに留まっています。

国語も本質的には、読解や記述のためのトレーニング要素があるはずなのに
その部分は相当に曖昧なまま進んでいたように思います。
(むしろ何をやっていたかなんて覚えていないぐらいですが…)

僕の国語力は高校受験の時、入試の過去問をひたすら解いていて上がりました。
これに関してはトレーニングの側面が効果を発揮したのを強く実感しています。
文章から論理や気持ちの表現方法をパターン認識できるようになったんです。

社会のプロジェクトワークにしても、国語の授業にしても
そういうパターン認識の部分のトレーニングとして扱えば
もっと効果的なトレーニング方法がいろいろと思いつきます。

語学も日本の学校教育(特に中学校)ではトレーニングの側面が弱いので
言語として使えるようになるための効果は薄いようです。

幸い、僕の通っていた高校は独特の英語教育があって
読解に関してのみ、やたらとトレーニングを強制する仕組みがありました。

ひたすらリーディング。
ただし単語と文法は複雑過ぎない。

中学レベルからの飛躍があったので戸惑いましたが
多読とボキャブラリー増強の目的では役立ったようです。

学校の授業におけるトレーニングの重要性をひしひしと感じます。

だからこそ逆に、今フランス語を勉強していて
そのトレーニング効率が悪い先生に当たると不満を覚えてしまうんですが…。


そして学校教育に含まれるトレーニングの部分は、
高度な理解を可能にするための土台づくりのようです。

例えば英語の読解のトレーニングをすることによって
英語で論じられた説明を理解できるようになる。

数学のトレーニングを積むことで、数式を追いかけながら論理を理解できる。
古文のトレーニングが充分だったら、日本の古い文献を読んで理解できる。

説明の論理展開を追って納得できることが「分かる」という意味でしょう。

そして納得した法則や傾向を利用して
具体的な事例と照らし合わせながら確認する。
同じようなケースであれば、どんな展開になるかが予測できるわけです。

多くの学問は、そのように法則やパターンを探しだして、
その法則によって結果を予測できるようにするところが主目的です。

電気の配線だったら、法則を組み合わせて必要な回路や電力を計算する。
計算結果はあくまで予測ですから、実際に回路を組んでみたときに
予測通り問題なく事が運ぶかどうかをチェックする。

理論を元に予測をして、予測される通りになるか実験をする、と。
実験結果が予測通りなら理論の正しさが実証できるし、
大規模な設備を使って実社会に応用することもできる。

宇宙開発で人工衛星を飛ばしたり、
電波を使った通信を行ったり、
飛行機や車など交通手段の設計をしたり、
建物や橋などを安全に作ったり、
薬効を生み出す化学物質を合成したり、
経済の流れをもとに取引や政策を決めたり、
人の心の仕組みを想定して悩みを解決したり、
購買意欲の変化を予測して営業や宣伝をしたり、
大衆の感情を動かす伝え方を工夫して小説や映画を生み出したり…。

いずれも「〜(した)ときには、…になる」という法則を見つけ、
その法則の確実性を検証し、応用して実社会に使われているといえます。

なんとなく法則に気づくだけだったら
学校教育的なトレーニングは、それほど必要がないのかもしれません。

その法則を説得力のある形で他人に説明する段階で
論理展開のルールと、情報伝達のための共通言語が必要になります。

自分の見つけた法則が正しいと言えるだけの説明の仕方がある。
その説明の仕方を身につけるのにトレーニングが必要なんです。

ルールと共通言語は、各分野の専門性によって異なります。
数学も化学式も英語も古文も、説明の手段だと言い換えられます。

そして説明の仕方をトレーニングによって身につけていると
その分野の情報を他人に伝えられます。
シェアできます。

一人の知恵を人類全体の財産として共有する。
そのために共通した説明の仕方が求められるわけです。

自分が見つけたものを他の誰かに伝えて役立ててもらうにしても、
他の誰かが見つけたものを自分で利用するにしても、
説明の仕方を理解している必要があります。

そのためにトレーニングが重要なんでしょう。

学校教育の過程では、昔の人が見つけた法則を知って
自分で応用してみるような部分も含まれています。

小学校の算数で習う基本的な計算は
大人になっても買い物ぐらいで役立つはずです。

地理も旅行などで役立つかもしれません。
家庭科は、先人の知恵として料理や裁縫を教わって
自分でもできるようにするわけですから、もっとも実用的な部類かもしれません。

しかし、学校教育の大部分はトレーニングのように思えます。

他の人と知恵を共有するための方法をトレーニングしている。
誰かの発見を応用したり、自分の発見を伝えたりするのに
共通のルールとして身につけておくべきものがある。

外国語が話せるほうが情報伝達し合える相手が増えるように、
数学でも古文でも物理でも化学でも
トレーニングをするほどに知恵を共有し合える範囲が広がるようです。

スポーツにしたって、過去にトレーニングを充分にした経験があるほど
新しい運動を身につけやすかったり、コツを指導しやすかったりする。

残念ながら、
こうした共有のためのトレーニングを活かすタイミングがやってくるのは、
学校の中であれば大学の後半になってから、
学校の外であれば仕事をするようになってから、
といったところではないでしょうか。

そのタイミングは、自分から
・「○○について知りたい」
・「△△について伝えたい」
と感じ始めたときのように思えます。

もちろん、それからトレーニングを再開しても充分なわけですが、
学校で過ごす時間は知恵を共有するためのトレーニングなんだと知っていれば
もっと身を入れて取り組んでいたものもあったのではないかと感じられます。

僕にとってのそれは数学です。

いわゆる情報化社会となって情報共有がしやすくなってきた現代だからこそ
「知恵の共有のためのトレーニング」としての教育の側面を
もう少し強調しても良いような気がします。

cozyharada at 23:00|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2016年10月17日

中道でバランスをとる

上手くいかなくなったら逆のアプローチをしてみる。
それによって解決されることは非常に多いようです。

とても本質的な話なのかもしれません。


実際、悩みが生まれるときの大部分は、
その人の強みが空回りし出したときです。

例えば、一人で切り抜ける力強さを持った人が頑張って成果を出してくると
人が周りに集まってきて規模が大きくなってきたりします。

すると一人では対応しきれなくなり、他の人に一部を任せる必要が出てくる。

そのときに「一人で切り抜ける」という、それまでに培ってきた強みが裏目に出て
他人を信頼して委ねるとか、人に期待をかけて育てるといったことが難しくなる、と。

そこで求められるのは、一人で切り抜ける力強さよりも、むしろ真逆な
他人の個性を尊敬しながら協力して取り組む強調性となります。

あるいは、他人に気を配って優しくするという親切心が強いと
皆を支えながら円満な関係を作るのが得意でしょう。

しかし、いつでも円満で穏やかな関係性に慣れてしまうあまり、
身近に苦しそうにしている人がいることに耐えられなくなります。

気の毒で放っておけない。
親切にして、なんとか円満な状態を取り戻そうと必死になるわけです。

親切心が過干渉を生み、おせっかいとして嫌がられてしまう。
結果として自ら人間関係を壊してしまったりしがちです。

そこで必要なのは、
一人一人が自分の人生を必死で生きていることを尊重する独立心や
その人本人の力を信頼して見守る勇気のほうかもしれません。

相手を気にかけている、心配している、大切に想っているということを示しながら
本人が自ら立ち上がるときを信じて待つ。
必要なときに必要なだけの手助けができる準備をするのが最善かもしれません。

そしてそういう真逆のスタンスが身についてくると
対応の幅が大きく広がります。
両方の対応ができれば、今後似たようなケースで悩むことは少なくなるでしょう。


セラピーについても共通点があります。

「大きな心の傷を抱えていて前に進めない」
「自分が好きになれず、こんな自分を生きているのが辛い」
…そういうケースでセラピーを受けたり、セミナーに行ったりする人がいます。

この状態で気分が楽になれるのは、「そういう自分を認める」方向性でしょう。

「今のままで良いんです」
「ありのままの自分を受け入れましょう」
「あなたは既に素晴らしい」
「過去の傷を労わりましょう」
といった感じ。

この方向性のアプローチも大切だと思います。
疲れたら休むのは有意義なことと言えます。

これで楽になれて問題が解決する人がいるのも実態ですし、
そういう人がいるから、この方向性のアプローチが広まり続けると考えられます。

しかし、それでいつまでも悩みが解決しないのだとしたら
逆の方向性をやってみたほうが役立つ可能性があります。

今の自分を受け入れるのではなく、
自分が受け入れられるような「より良い」自分になるアプローチです。

少しでも前に進めるようにチョットずつ努力してみる。
コツコツと努力を重ね、「できる」自信を高めていく。

すると過去への囚われが薄れ、自信の無さゆえの苦しさも減り
社会で生きていくことが楽になってくるという流れです。

心の痛みを身体の痛みのようにイメージしてみると分かりやすい気がします。

怪我をして痛いところがある。
切り傷のようなものだとしたら、傷口がふさがるには時間がかかります。

とりあえず消毒をして絆創膏や包帯を巻いたら
(≒苦しかった気持ちを誰かに話して少し楽になる、とか)、
あとは傷口がふさがるまでは放置すると思います。

何度も絆創膏をはがして傷口を確認したり、
血が出ているところを撫でたりはしないでしょう。
かさぶたを気にして無理やり剥がしたら治りは遅くなります。

ある程度の対応をしたら、あとは普通の生活に戻るんじゃないでしょうか。

もちろん、無理な行動をして傷口に負荷をかければ
傷口が再び開いてしまうこともあるでしょう。
傷の深さによっては安静にする時期も必要です。

一方で、傷がふさがってきているのに寝たきりでいる必要もありません。

むしろ寝たきりで動かないことで全身の筋力が衰え身体は固まり、
全身に様々な不具合が出てきてしまうこともあります。

だから適度なタイミングでリハビリをするんです。
(≒小さな目標をコツコツ達成して自信を高めていくアプローチ)

そして日常を取り戻し、傷口が完全にふさがった頃が、
その部分の強張りに目を向ける時期かもしれません。

傷跡が気になるとか、抜糸が必要だとか、
動かさなかった部分のリハビリが必要だとか。

痛い場所だけを安静にしていれば、そこに歪みが残ることがあります。
傷そのものは治ったとしても後遺症のようなものが残っている。

そんなときにするのがセラピーだというイメージかと思います。

もう痛みは忘れているし、傷も治っている。
でも思い切って何かをしようとすると、その場所をかばう癖があって
縮こまってしまうために全力が出せない。

そこで全身の自然な機能のバランスを取り戻すために
傷口あたりの強張りを取るようなアプローチをする、と。

つまり、
・セラピーは傷が治ってきてリハビリができる時期になってからする、
・傷が生々しくて動けなければ安静にする、
・傷口がふさがってきたら無理のない範囲で出来ることをする、
といった方針が有効だろうという話です。

あとは本人がその傷の程度を把握できるかどうかです。
把握を誤れば、効果的でないアプローチをしてしまうかもしれません。

そういうときこそ、違う方向性を考えてみると良いようです。


すべてを均等にやることがバランスの良さではなく、
真逆と思えることをも上手くこなせるのが「真ん中」なのではないでしょうか。

どっちでもないから真ん中なのではなく、
どっちもできるから真ん中でバランスが取れる。

しかもヤジロベエのように、両端に重りがあるほど
その安定感は高まるような気がします。

cozyharada at 23:44|Permalinkclip!NLP | 心理学

2016年10月14日

次は2月あたり

1月ぐらいまで割とタイトな予定が続いています。

次回の講座は2017年の2月ぐらいでしょうか。
2月12日(日)あたりかと思います。

まだ定かではありませんので、決まったら改めて告知します。

テーマは『リフレーミング』あたりを考えています。
言葉の使い方として整理しても良いかなぁと。

最終的にリフレーミングを思いつけるかどうかは
自分自身がどれだけ広い視野を持てているかに関係するようですから、
自己トレーニングとしての側面に取り組んでみるのも良いかもしれません。

cozyharada at 23:56|Permalinkclip!セミナー情報 | NLP

2016年10月10日

読まずにいられない

当たり前の話かもしれませんが、僕の部屋に置いてある物には
日本語で文字が書かれています。

本とか書類とか資料とか手紙の住所とか。
洋書だとか、英語で書かれた資料などもありますが
そんなにパッと目に留まる場所に置かれているわけではありません。

英語の文字を目にすることが多いのは、
インターネットで検索したときか、SNSに勝手に表示されたときでしょうか。

普段はあまり意識していませんが、目に飛び込んだときの印象には
随分と大きな違いがあることを感じます。


英語の文章だって読めば理解できます。
理解しようと思って読むと、まぁそれなりに読み進められる。

ただし、目に入った段階では「英語の文章」という全体的な認識が先だって、
個別の単語や文章まで認識しようとはしていないようです。
つまり読んでいるわけではない、と。

一方、日本語の文字情報を目にしたときは「読もう」としなくても
勝手に頭の中に、読んでいる声が浮かんできたり
その単語の意味に関連する経験が連想されたりしているのに気づきます。

読もうとしなくても、日本語だったら自然と読んでしまう、と。
むしろ読まないことのほうができません。

日本語の文字には「日本語だ」という全体的な認識が起こらず、
単語の意味や文章としての認識が起きてしまうようです。

読むということが、もう癖になっているんでしょう。


これはちょうど、
日本人が内容を気にせずに英語の文字が書かれたTシャツを着ていたり、
あるいは
欧米人が意味も分からずに漢字のタトゥーを入れていたり…
というのと関連しそうです。

全体のデザインとして見ることができるか、
それとも全体を構成する要素としての単語に注目してしまうか。
その違いによって文字情報の内容を理解しようとするかが決まるんでしょう。
(実際には、文字内容を理解しようとする癖が単語に注目させるのかもしれません)

このような注目のサイズの違いは、どの単位で認識するかと関係します。

例えば花を見たとき、1つの「花」として見る人は
その形のパターンや全体としての色の配置などを捉えます。
全体としてカワイイ姿をしているとか、美しい色合いをしているとか、
そういう印象を持つわけです。

一方、花を見たときに細部に注目する人もいます。
おしべの形だとか、葉っぱの葉脈や皺だとか、表面の毛だとか、粒々の集合だとか
そんな「部分」に注目すれば、「花」という全体の認識はあまり起こらず
むしろ部分ごとの形態の特徴が強く認識されることになります。
そうして見れば、花もなかなかグロテスクな作りをしているようにも見えるようです。

このことは、どのように蚊に注目するかでも分かると思います。

飛んでいる蚊を見たときには、蚊の造形を意識するよりは
むしろ黒い点が不規則に飛び回っているような認識になりやすいでしょう。
そうすると空間に目ざわりなものがあるような印象が生まれがちです。

ところが昆虫図鑑で蚊の写真を見たりすれば、細部の形が分かってきて
なかなかグロテスクな造形物だというのが感じられたりもします。

どの範囲に注目して、どれだけの意味のまとまりとして認識するか?
ここに個人の癖が大きく影響しているということです。


やはり母国語の文字に関しては、
全体として「日本語の文章」という1つの認識をするのではなく、
内容を理解する必要性によって作られた癖から
部分ごとの単語や並び方のルールに注目して
その意味情報を認識する癖がついているのでしょう。

外国語だと、パッと目にした段階では
全体として、例えば「英語の文章」のように一まとまりで認識してしまう。
部分の構造に注目して意味を取るような認識が起きにくい、と。

もちろんトレーニングによって外国語でも意味への注目度は上がりますが
それには、どれだけ外国語の文章を読んだかが関わるはずです。

裏を返せば、
母国語であれば、そんなに頑張って読もうとしなくても
文章が目に入った瞬間に、頭の中では内容を捉えようとする働きが始まり
一字一句を理解しようとしなくても大まかな意味が掴めている
とも言えそうです。

パッと見ただけで、どれだけの単語を認識できるか…という部分については
読書量は目の使い方としての経験量が必要になると思われますが、
一字一句を丁寧に読もうとしなくても、それなりに意味は浮かんでしまっている
という性質は興味深いものじゃないかと感じます。

外国語の文章を認識するときと比較すれば、
 いかに母国語の文章を「読まない」ままで
 「あ、日本語の文章だ」とだけ認識することが難しいか
が実感できるでしょう。

心のどこかでは母国語は読んでしまっている癖があるようです。

速読ができる理由も納得です。

もしかすると我々は、小学校や中学校の頃に
文字から内容を理解する作業に慣れていなかった段階で
「読むというのは、こういうこと」と決めつけてしまった読み方を持っていて、
そこから離れた読み方だと「読んでいる」気がしないだけなのかもしれません。

目にしただけで自然と文字を読んでしまう癖を利用すれば
その人なりの速さで読書効率を上げていけるような気がします。

cozyharada at 23:12|Permalinkclip!NLP | 心理学

2016年10月08日

練習と実践

毎年恒例の書道作品制作の時期になりました。

毎日筆を握るわけではないですが
頻度はかなり上がります。

元々、趣味として毎日やるほどではないので
週一回だったのが、三回ぐらい増える程度でしょうか。

それでも計算してみれば、
三ヶ月程度の間、三倍の頻度で練習するのは
残り九ヶ月分に相当する量ということ。

考え方によっては、約半分は作品制作に当てているようです。

本来なら、普段の練習で身につけたものを
作品制作で発揮するのが望ましいでしょうから
練習量が足りないんだろうと思います。

実際、長く続けている高齢のベテラン書家ほど
普段の練習量も多いようです。

本当に身につけようと思ったら、地道な練習が大事なんでしょう。


その一方で、実践的な機会である作品制作だからこそ
身につけられる要素も感じます。

この時期に上達しやすいのは、決して
集中して取り組むという時間の要因だけではない気がします。

練習とは違うスタンスで取り組める実践にこそ
ただの練習にはない効果がある。

この辺はスポーツでもコミュニケーションでも語学でも同じかもしれません。

一方、学生時代の勉強を振り返ると
実践という機会が何に当たるか思い出せません。

テスト勉強として集中的に取り組むことはありましたが、
テストそのものに大きな成果があった気もしない…。

できる・できないのチェックそのものは
2つの勉強と同じですから。

もしかしたら、いわゆる勉強に関しても
実践の機会を工夫することで
学習効率が上がったりするのかもしれません。

そんなことを思うほど、
学習は大人のほうがスムーズなようにも感じます。

cozyharada at 23:55|Permalinkclip!NLP | 全般

2016年10月05日

スケジュールが覚えられません

同じような生活を繰り返していると変化には気づきにくいものでしょうが、
たまに予想外のことがあると、過去を振り返るキッカケとなって
自分の変化を実感したりもするようです。

僕にとっての大きな違いの1つが、時間に対する注意の向け方。

ずっと僕は、時間を長さとして捉える傾向が強く
だいたい前後一カ月ぐらいのスケジュールが
頭の中に入っているような過ごし方をしていたんです。

ですから手帳を持っていませんでしたし、
念のため仕事の予定だけは記入をしていたような状態でした。

その傾向は研究職のときが顕著だったと思います。

実験の進み方が一週間単位だったりしていたことに加え
研究以外にすることがなかったですから、
全ての関心を実験の予定に充てて、全体を把握していた気がします。

だから僕は、あまりノートを詳細にメモしないほうだったんです。
…それが研究職としては良くなかったんですが。

大まかな流れが常に頭の中にあって、詳細な一日の予定は、
「まずどこに行って、それから何をして…」というように場所と行動内容とを
出勤中に自転車に乗りながら一日分シミュレーションしていたものです。


それが今は随分と違っています。

予定が頭の中に入っていなくなってしまいました。
その日に思いつきで行動するような感じ。

それを強く実感したのが、先日のことでした。

フランス語の勉強で大学の公開講座を取っているんですが、
今までに通っていたところのクラスを一通りとってしまったので
別の大学で違うレベルのものを探したんです。

そして申し込みをして、最初の授業の日。

…すっかり忘れてしまっていました。

夜にカレンダーで日付を見て、
「あれ、そういえばフランス語、今日からじゃなかったっけ?」
と気づいた始末。

10月の一週目という記憶はあったんです。

でも、その日の日付を意識していませんでした。
完全にすっぽかした状態です。

まぁ、大学の公開講座ですから、会社帰りに寄る人が多くて
予定が合わずに欠席という話は珍しくもないでしょう。

少しもったいない気もしますが、全体で10回以上ありますし、
内容も継続的なものではなさそうだったので
それほどショックは受けずに済んでいます。

初回を抜かしてしまうのは若干心細いぐらいなものです。

むしろ、こんな風に予定を忘れてしまうことのほうが驚き。
以前はそんなことはありませんでしたから。


最近はiPhoneのカレンダーに予定を記入して
こまめに確認することが増えています。

フランス語の講座は毎週決まった時間だったので
わざわざ書きこむほどもないだろうと高をくくっていたんです。

しかし、以前だったら忘れようのないほど把握しやすい予定さえも
スケジュール帳に残しておかないと忘れてしまうようになっていました。

記憶力が落ちたとも言えるのかもしれませんが
記憶力において重要な要素は、覚えるときの集中力だそうです。

一生懸命に意識を集めて、重要なこととして覚えようとすると
記憶に残りやすい、と。

その意味では、そんな風に一生懸命な注意の向け方をしていないんでしょう。

明らかに頭の中にスケジュールが浮かんでいません。
一週間ほども入っていない気がします。

良く言えば気楽な生き方になったということでしょうし
その瞬間に気持ちが集まってきているとも捉えられそうですから、
わざわざ前のような時間意識に戻すつもりもありません。

ただシンプルに、予定を忘れてしまったのがショッキングだったんです。

随分と変わったものだと実感します。

cozyharada at 23:32|Permalinkclip!NLP | 心理学

2016年10月02日

オススメの健康本

僕がお世話になっている整体の先生が本を出版しました。

厳密には「筋膜マッサージ」というロルフィングから派生した手法だそうで
書籍の中では「筋膜コンディショニング」という呼び名で紹介されています。
(法的には「あん摩マッサージ指圧師」の国家資格だとか)

筋膜とは、コラーゲン線維からなる筋肉を包む膜。
お肉を食べるときのスジは、たぶん筋膜です。

大トロの白い線とか、ポークソテーのときのスジ切りとかですね。
あのスジが固い肉もあれば、スジを感じさせない上等な肉もあります。

筋肉を包んでいる膜が固くなっていれば筋肉の動きも悪くなるでしょうし、
さらに筋膜は全身にネットワークのように張り巡らされるため
そこが固まってくれば全身に歪みが出るという仕組み。

このあたりの体の不調の仕組みを
図解入りでシンプルに分かりやすく説明してくれている本です。

言われてみないと分からないけれど、言われてみれば確かに納得…
といった感じの「へーっ!」が多いと感じます。

もちろん自分でできるコンディショニングの方法も載っています。

僕は両親に一冊プレゼントしました。
オススメです。



cozyharada at 23:11|Permalinkclip!全般 | NLP
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 ◆ セミナー情報 

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《コミュニケーション講座》
 〜人を育てる指導力〜

【日時】 
  2019年6月16日(日)
   10:00〜16:30


【場所】 
  北とぴあ 601会議室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

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《瞑想講座》

【日時】 
  2019年6月22日(土)

  午後の部 13:30〜16:30
  夜間の部 18:00〜21:00

【場所】 
  北とぴあ 第2和室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

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《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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